Title: Shinju ten no Amijima
Author: Chikamatsu, Monzaemon
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About the original source:
Title: Gidayu kyogenshu sewamono
Title: Nihon gikyoku zenshu, vol. 29
Author: Monzaemon Chikamatsu
Publisher: Tokyo: Shun'yodo, 1930



小はる治平衞
心中天網島




心中天網島

河庄の場

河庄の場

    役名==

  1. 紙屋治兵衞。


  2. 粉屋孫右衞門。


  3. 紙屋丁稚、三五郎。


  4. 江戸屋太兵衞。


  5. 五貫屋善六。


  6. 若い者、佐助。


  7. 廻し男、嘉助。


  8. 紀伊國屋小春。


  9. 伯人、小糸。


  10. 花車、お松。


  11. 仲居、お長。


  12. 同、お民。


本舞臺、三間の間、常足の二重、正面襖、上手障子屋體、下手惣格子、いつものところ門口、河庄といふ掛け行燈、すべて北の新地茶屋の體。爰に仲居お長、お民。佐助、廻し男の拵らへにて腰をかけ居る。この見得、騒ぎ唄にて幕明く。


てう

コレお民さん、今日は座敷淨瑠璃があるに依つて、お客も多からう、どうぞ氣を付けて下さんせ。



たみ

アイ/\、そりや合點でござんすわいなア。



てう

さうして、紀伊の國屋へ誰れぞ行たのかいなア。



佐助

そりや先刻呼びに行きました。



てう

それも急がねばならぬ。大儀ながら、佐助どん、急いて來て下さんせ。



佐助

ハイ/\、畏りました。ドリヤ、一走り行て來ようか。



[ト書]

ト唄になり、下手へ入る。この時奧より、小糸、白人の形にて出て



小糸

お長さん、小春さんはまだでござんすかいなア。



てう

アイ、佐助どんをやつたれば、もう來やしやんせうわいなア。



小糸

どうぞ早う來てくれたがよいになア。



[ト書]

ト唄になり、向うより嘉助、先に提灯を持ち、風呂敷包を抱へ、小春、後より白人の形にて舞臺へ來り



嘉助

ハイ、小春さんを送ります。



てう

オヽ、小春さん、いま呼びにやりましたが、最前から早う/\と内がやかましい、サア/\、ちやつとお上がり。



小春

サイナア、わたしも遲うなつたに依つて、氣が急くけれど、何やかや隙が入つて、やう/\今になつたわいなア。



小糸

小春さん、わたしはお前に逢はうばつかりに、最前から爰に待つて居た。よう來て下さんした。



小春

何の用ぢやぞいな。



小糸

ソレ、この間約束した芝居へ行かうと思うて。



小春

エヽ、わたしや、芝居機嫌ぢやないわいなア。



小糸

そりや又、紙治さんの事でかえ。



小春

サア、それでなア。



[ト書]

ト氣に濟まぬこなし。



小糸

この間も心中の仕損じをさしやんしたげな。滅多な事をしやんしやんすなえ。



小春

何を云はしやんすやら。



てう

コレ/\嘉助どん、よい次手ぢや、このお子を送つて上げて下さんせ。



嘉助

ハイ/\、畏まりました。サア、お出でなされませ。



[ト書]

ト捨ぜりふにて、嘉助先に、小春附いて下手へ入る。



てう

ヤレ嬉しや、これでよいといふもの。小春さんのお出ぢやと云うて、落ちつかさうか。



たみ

さうしやしやんせ。



てう

サア/\お出で。



[ト書]

りふにて奧へ入る。この時向うより丁稚三五郎、状を持ち出て、門口へ來て



三五

小母さん/\。



[ト書]

と招き、状を見せる。



小春

オヽ、どのお子かいなう。恟りした。治兵衞さまから文かえ。ドレ、早う見せて下さんせ。



三五

イエ/\、旦那からぢやない、お前へ初めて來た状ぢや。



小春

わたしへ初めて來た文とはえ。



[ト書]

ト取つて見る。



[小春]

紀伊の國屋小春さま、紙屋内より。



[ト書]

ト恟りしていろ/\思ひ入れ。



三五

コレ/\小母さん、お家樣がこの状を、お前へ持つて行き、必らず旦那に云ふなと云うてゞあつた。



小春

治兵衞さまの内方から、わたしへの文とは、どうやら氣の濟まぬ。



[ト書]

ト讀む思ひ入れ。



三五

小母さん、わたしや爰に居て、旦那樣に逢うたら、お家樣に叱られる。早う返事して下され。



[ト書]

ト小春、よく/\讀んで。



小春

よく/\切なさが餘つてのこの文。道理でござんす、尤もぢや。さぞ腹が立つたでござんせう。この文の樣子では、治兵衞さまの素振が。太兵衞づらに、身請けされては、片時も生きては居ぬこの身。



[ト書]

ト泣く。



三五

小母さん、お前なんで泣かんす。腹でも痛いかえ。但しひだるいか。コレ、ちやつと返事をして、こちや叱られん間に去にたいわいなう。



小春

成る程返事しませう。



[ト書]

ト硯、紙を出し、返事を書く。



[小春]

コレ、こりや大事の状ぢや程に、必らず誰れにも見せぬやう、ちやつと持つて去なしやんせ。



三五

アイ/\、ドリヤ、ちやつと去んで、お家樣に、賃を



[ト書]

ト行かうとして。



[三五]

コレ/\小母さん、肝腎の事忘れた。今の状を誰れにも云てくれな、と云うてゞあつたぞえ。



小春

そりや氣遣ひしやしやんすな。



[ト書]

ト懷より守り袋を出し。



[小春]

コレ、この守り袋は大事な物が入れてある。この中へ入れて、この通りにして置けば、氣遣ひはござんせぬ。とよう云うて下さんせ。



[ト書]

ト云ひ/\泣く。



三五

エヽ、また泣かんすかいなう。ドリヤ去んで賃を貰はう。小母さん、お前は旦那樣の使ひに來る時は、何やかや下さんすが、今日は何にもないかえ。



小春

ほんに何ぞ上げたいが。



[ト書]

ト思ひ入れあつて、莨入れの中より金を出し。



[小春]

サア、これを上げる程に、必らずこの文の事、わたしが返事した事を、誰れにも云ふ事はならぬぞえ。



三五

合點ぢや/\、斯ういふ好いものを下さるもの、人に云うてたまるものかい。そんなら小母さん。



小春

早う去なしやんせ。



三五

そんなら小母さん、去んで來るワ。



[ト書]

ト流行り唄になり、三五郎、向うへ入る、小春、思ひ入れあつて泣く。この時奧よりお杉、花車の形にて出て



すぎ

オヽ、小春さん、どうぢやいなア。太兵衞さまの伊丹へ行かしやつた事、又きつう揉めると聞いたが、マア、治兵衞さまの事はどうなつたえ。



小春

イヤモウ、何ぢやゝら、益體ぢやわいなア。いとしなげに紙治さま/\と、それ程にもない事を、あの太兵衞づらが浮名を立て、氣晴し同樣に五貫屋の善六づらまで粹がつて、わたしやモウ、腹が立つて/\ならぬわいなア。



[ト書]

ト此うち、善六太兵衞、酒に醉ひ、橋がゝりより出て、門口に立聞きして居る。



すぎ

ほんに、あの太兵衞さまは、可愛氣のないなめくさり。シタガ、大金持ちの太兵衞さま、請出されて行かしやんすは、お前の出世といふものぢやぞえ。



小春

何云はしやんすやら。あんな男と添はうより、牛にはぢかれた方がましぢやわいなア。



兩人

ハヽヽヽ。



[ト書]

トこれにて兩人ムツとして内へ入る。



太兵

コリヤ小春、あんまりぢやぞよ。なんぼう蔭で謗つても、やがてこの男が女房、あの小判の光で可愛がられて見せうわえ。ナア善六。



善六

オヽ、それ/\、大坂三郷に人も多いが、紙屋治兵衞は二人の子の親、女房は從弟同志、舅は伯母聟、その世話になる體で、十貫目餘の身請け金、何として/\。



太兵

其やうな男が矢ツ張り可愛うござりますか。イヤサお前は治兵衞どのが、それ程に可愛いか。おれは女房なければ舅なし、また伯父持たず、身すがらの太兵衞と名を取つた男。色男で僣上云ふ事は、治兵衞めに叶はねども、金持つたばかりは太兵衞が優つた。金の力で押したれば、ナウ善六。



善六

ナニ、勝たうも知れぬ。今宵の客も治兵衞めぢや。貰へ/\貰うた。



太兵

サアコレ花車、酒を出せ/\。



すぎ

何を云はしやんすやら。今宵のお客はお侍ひ衆で、追ツつけ爰へ見えませう。お前方は、どうぞ脇で遊んで下さんせいなア。



善六

ヤア、侍ひ客ぢや。侍ひなんぢやい。なんの、刀差すか差さぬかの違ひ。侍ひも町人も客は客ぢやわえ。



太兵

ハテ、なんぼさしても、五本も六本も差しはしよまい。ハヽヽヽヽ。



善六

ハテ、よう差して脇差で、たつた二本ぢやわえ、侍ひぐるめ貰うた。コリヤ、小春どの/\さま、なんぼう拔けつ隱れつなされても、縁あればこそ出會ひ申すワ。



すぎ

そりや、いたみでござんす。



太兵

ナニ、したみとは。



善六

アヽ、コリヤ、伊丹ぢや/\。



太兵

さうかいやい。サア、貴樣一杯やれ。時に花車、この頃仲居仲間の流行り文句。小春、よう聞きや、善六、覺えた通りやつて見い。



善六

そりや合點ぢやが、併しつるがあるか。



太兵

成る程、そりやおれがやらう。



[ト書]

ト箒を持ち出て、兩人こなしあつて



善六

結ぶの神の紙屑に、貧乏紙屋の治兵衞の女房、おさんに子があるドツコイ。その子は鼻たれお京と勘太郎、貧乏小春に命ちり紙の、紙屋姿ぞ藥袋紙。



太兵

もうよい/\。小春、なんと好い文句であらうがの。



[ト書]

トこの時孫右衞門、下手から出る。善六、門口を見て



善六

太兵衞さん/\、紙屑が來て居る/\。



太兵

ナニ紙屑が來た。



善六

表へ來てゐるワ。



太兵

それは好い所へ來をつた。サア、貰はうかえ。



善六

ムウ、貰へ/\。



[ト書]

ト兩人、表へ出て、孫右衞門を引ツ張り、いろ/\手を取つて。



太兵

サア治兵衞、われに貸した金、いま戻せ/\。



[ト書]

トいろ/\云ふ。



孫右

この大小が目にかゝらぬか。



[ト書]

トこれにて兩人恟りして、向うへ逃げて入る。



[孫右]

ハテサテ、慌てた奴ではあるわえ。



すぎ

オヽ、あなたは、旦那樣ではござりませぬか。



孫右

そちやお杉ぢやないか。



すぎ

好い所へお越し下されました。サア/\、お入りなされませ。



孫右

入つても苦しうないか。



すぎ

サア/\、こちらへお入り下さりませ。



孫右

然らば許しやれ。



[ト書]

ト捨ぜりふにて二重よきところへ住ふ。下手より以前の嘉助出て



嘉助

ハイ御免。小春さんの今晩のお客樣は、どなたでござりまする。見て來ぬと云うて、内でえらう叱られました。



すぎ

ハテ氣の惡い。今晩のお客樣は、藏屋敷のお侍ひ樣ぢやわいなア。



嘉助

左樣でござりませうが、ちよつとお顏をばお見せ下さりませ。ツイちよつとさへ拜見いたしますればよいのでござります。



すぎ

其やうに云はしやんするなれば、そこにお出でなさるお侍ひぢや程に、見やしやんせ。



嘉助

ヘイ/\、御免下さりませ。ちよつとお顏を。



[ト書]

ト孫右衞門の顏を提灯にて覗き



[嘉助]

ヘイ/\、よろしうござりまする。内が誠にやかましいので困つて居ります。よろしうござります。イヤモシ小春さん、あのお客樣なら、今夜はしつぽりとお勤めなされませ。イヤ申し、大きに御面倒いたしました。



[ト書]

ト門口へ出て。



[嘉助]

ドレ/\、これからもう一軒廻つて行かう。



[ト書]

ト下手へ入る。



孫右

なんぢや、今の男は身共の顏を、茶入れか茶碗のやうに目利して行き居つた。さうして、これがあの小春どのか。イヤ、てんと御器量。手前が屋敷は晝の出入りを堅く誡め、それゆゑ家來も連れず只一人にて參りしが、どうぞ一夜の情は受けられまいか。これはしたり小春どの、其やうに俯向いて居て、首筋は痛みはせぬか。物を云はつしやれ、小春どの。



小春

申しお侍ひ樣、同じ死ぬると云うても、首縊るのと自害するのは、どちらが苦しうござんすえ。



孫右

これは又迷惑な。手前とても首を縊つて見た事も、自害して見た事もないが、マア、小氣味の惡い女郎ぢやわえ。



すぎ

これはしたり小春さん、初對面からあんまりな御挨拶。こちの人も今夜は留守、幸ひ隣に座敷淨瑠璃の會がござります。それを肴に、奧で御酒に致しませう。奧へお出でなされませ。



孫右

オヽ、ナニサマ、酒よからう。小春どのも不機嫌なら、淨瑠璃なと承らう。



すぎ

それがよろしうござります。



孫右

然らば案内いたしておくりやれ。



すぎ

それをつツとお出でなされませ。



孫右

然らば斯う參るのか。



[ト書]

ト孫右衞門、刀を忘れて行かうとして、顏を見合せ



三人

ハヽヽヽ。



[ト書]

ト踊り地にて三人、上手へ入る。床の淨瑠璃になり


[唄]

天滿に年經る千早振る、神にはあらぬ紙樣と、世の鰐口にのるばかり、小春に深くあふぬさの、腐り合うたる御注連繩、今は結ぶの神無月、堰かれて逢はれぬ身となり果て、あはれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名殘の文の云ひ交し、毎夜々々の死覺悟、魂ひぬけて、とぼ/\うか/\身を焦す。



[ト書]

ト向うより治兵衞、着流し一本差し、頬冠にて出て來り、花道にて。



治兵

いま向うの煮賣屋で、高聲で小春が噂、侍ひ客で河庄方。どうぞ首尾して逢ひたいものぢやなア。


[唄]

覗く格子の奧の間に、客は頭巾の頤の、動くばかりに、聲聞えず。



[治兵]

アレ/\可愛や、小春が行燈に背けた顏の、あのマア痩せた事わいの。心の中は皆おれが事。


[唄]

爰に居ると吹込んで。



[治兵]

連れて退くなれ、梅田か北野。アヽ知らせたい、呼びたい。


[唄]

と心で招く氣は先へ、身は空蝉の脱殻の、格子に抱きつきあせり泣き、奧には客の聲として。



孫右

アヽ、思ひのある女郎衆にかゝつて、とんと氣が滅入る。表へ出て、行燈でも見て氣を晴らさう。サア、小春、おぢやれ。


[唄]

連れ立ち出れば南無三方、見付けられじと身を忍び、隱れて聞くとも内には知らず。



[ト書]

ト小春、孫右衞門出る。



[孫右]

宵からの素振りといひ、花車が話しの紙治とやらと、心中する心と見て取つた。死神の附いた耳へは、意見も道理も入るまいとは思へど、さりとは愚痴の至り。先の男の無分別は云はず、一家一門其方を恨み、萬人に死顏を晒す身の耻。サ、親はないかも知らねども、もしあれば不孝の罰。極樂へは愚か、地獄へも温かに、二人連れでは落ちられまい。一見なれども武士の情、見殺しになるまい。コレ、定めて金づくの事であらう。どうか五兩か十兩の事なら、用達つて命が助けたい。なんと死ぬる氣に相違あるまい。神八幡侍ひ冥利、他言は致さぬ。コレサ小春、心底殘らず打明きやれ、どうぢや/\。


[唄]

と囁けば、手を合はせ。



小春

アヽ忝ない。有り難う御座んす。


[唄]

馴染よしみもないわたし、御誓言での情のお詞、涙が滾れて、嬉しうござんす。



[小春]

思ひ内にあれば、色外に顯はるゝと、お前樣の御推量の通り、紙治さまとは死ぬる約束、元はと云へば身請けの張合ひ。南と爰とにまだ。


[唄]

五年ある年の内、人手に取られては。



[小春]

わたしは元より。


[唄]

主は、猶、一分立たず、いつそ死んでくれぬか。



[小春]

アイ。


[唄]

アイ死にましよと、引くに引かれぬ義理詰めに、ふつと云ひ交し、首尾を見合せ、合圖を定め。



[小春]

もう脱けて出よう/\と。


[唄]

いつ何時を、最期とも。



[小春]

その日暮らしの敢へない命。わたし一人を頼みの母さん、死んだ後では袖乞非人、餓死もなされうかと思へば、ほんの事は死にともない。わたしとても命は一つ、水臭い女と。


[唄]

思し召しも耻かしながら。



[小春]

その耻を捨てゝも、死にともないが第一。死なずに事の濟むやうに、どうぞお頼み申します。


[唄]

語ればうなづき思案顏、外には、はつと聞いて驚き、思ひがけなき男氣に、木から落ちたる如くにて。



治兵

そんなら死なうと云うたは、皆嘘か。三年この方誑しくさつた野狐め、いつその事踏ん込んで、面耻かゝせて腹癒よか。


[唄]

と齒切ぎり/\口惜し涙、内にも小春が喞ち泣き。



小春

此やうに云へば、卑怯なお頼みなれども、お侍ひ樣のお情にて、今年中、來春二三月の頃までも、わたしに逢うて下さんして、彼の人の來る度々に邪魔をして、期を延して下さんしたら、自ら手も切れる道理。それで向うも殺さず、わたしも命助かるといふもの。なんの因果で死ぬる約束した事ぞ、と思へば口惜しい、口惜しうござんすわいなア。


[唄]

口と心は裏表、絞る袂は雨露の、膝に凭れて泣き居たる。



孫右

表が近い、人や見る。


[唄]

格子の障子ばた/\と、立聞く治兵衞は氣も狂亂。



治兵

流石、賣り物、安物め。切らうか突かうか。


[唄]

どう障子にうつる、二人の横顏。



[治兵]

アレ/\、何を吐かすやら、うなづき合ひ、あのマア吠える態わいやい。もう料簡が。


[唄]

心も急きに關の孫六、一尺七寸拔放し、格子の間より小春が脇腹、爰ぞと見極め、ぐつと突くに、座は遠く、侍ひ透さず飛びかゝり、刀の下緒で手ばしかく、格子の柱こ括りつけ。



[ト書]

ト治兵衞、刀を拔き、格子の間へ突ツ込む。孫右衞門手を引入れ、下緒にて格子へ括りつける。此うち奧よりお杉出て見て、恟り、手を叩き



すぎ

アヽ、申し/\、誰れぞちやつと來て下さんせ。格子の間から、刃物を突ツ込む暴れ者。皆さん、ちよつと來て下さんせ。



孫右

アヽ、コレ/\騒ぐな。格子の間より刃物を突ツ込む程の暴れ者。身が腕を縛しめ置きたれば、氣遣ひはない。サア、小春、行て寢よう。



小春

アイ。


[唄]

あいとは云へど、見知りある脇差の、突かれぬ胸にはつと貫き。



[小春]

こりや慥かに治兵衞さん。イヤサ、慈悲といふ事を知らねば、人は難儀するげな。あんまり酒を飮み過して、斯ういふ事は色里にはある習ひ。もう大概なら、沙汰なしに、解いて去なして、上げさんした方が、よさゝうなものぢやぞえ。



すぎ

オヽ、それ/\、いつそわたしが解いて上げようわいなア。



孫右

アヽ、コリヤ/\、その繩解くな。仔細あつて身が縛しめた。身共に任して奧へ行きや。



小春

それぢやと云うて。



孫右

ハテサテ、行けといふに。


[唄]

と侍ひは、跡にも心置く露の、打連立つて、奧の間へ。



[ト書]

ト孫右衞門、小春、お杉を連れ、こなしあつて、奧へ入る。治兵衞、口惜しきこなしあつて



治兵

エヽ、四足を一思ひと思ひしに、仕損なうたが口惜しい口惜しい。ハアヽヽ。


[唄]

格子手枷に もがけば締り、身は煩惱に繋がるゝ、犬に劣つた生耻を、覺悟極めし血の涙、絞り泣くこそ不便なれ、ぞめき戻りの身すがら太兵衞、善六伴ひ立歸る。



[ト書]

ト善六、太兵衞、酒に醉うたる思ひ入れにて出て來り



善六

太兵衞さん/\、向うに誰れやら居るぜ/\。



太兵

また最前の侍ひぢやないか。



善六

イヤ/\、慥かに今度は治兵衞めぢや。



太兵

一體どこに居るのぢや。



善六

向うの格子の際に、ちよつくぼつて居る。



太兵

ありや犬ぢやないか。



善六

何を云ふぞい。



太兵

そんなら貴樣行て見てくれ。



善六

よし/\、おれが行て見て來よう。ちよつと爰に待つて居てくれ。



太兵

よし/\。もし侍ひなら、早う知らせてくれ。おりや先へ逃げる。



善六

何を云ふぞい。



[ト書]

ト舞臺へ來て、治兵衞を見て。



[善六]

オイ/\太兵衞さん、紙屑ぢや/\。



太兵

そんなら、ほんまに治兵衞めか。



善六

早う金を戻してもらへ/\。



[ト書]

ト兩人、舞臺へ來る。



太兵

サア治兵衞、二十兩の金いま戻せ/\。



治兵

なに、二十兩の金とは。



善六

コレ/\、呆けまい/\。



太兵

そんな事云はさん爲、待て/\。ソレ、慥かに證文が取つてあるわえ。エヽ、一つ、金二十兩なり、右は今日入用につき、難儀いたし候ふ處、お取替へ下され候ふ段、御慈悲の程忘れ申さず、有り難く存じ奉り候ふ、何時なりともこの手形を以て、キツと返濟申すべく候ふ。跡はお定まりぢや。江戸屋太兵衞どの、紙屋治兵衞、判。こりや、われが直筆ぢやぞよ。



[ト書]

ト證文を出して見せる。



治兵

そりやこの間石町の隱居樣に。



太兵

エヽ、何を吐かすのぢや。この證文が確な、證據ぢやわえ。



善六

太兵衞さん、そんな事云うて居ずと、代官所へ引ツ張つて行かう/\。



太兵

サア、きり/\うせい。



[ト書]

ト善六、太兵衞、手を縛られて居る治兵衞を引ツ張る。治兵衞、痛いといふ思ひ入れ。



治兵

アイタヽヽヽ。



善六

なんぢや、治兵衞が痛いと云うて居る。ちよつと待つてや。アヽ、治兵衞の手が、格子の間に括つてあるワ。



太兵

なんぢや、手が括つてある。アヽ知れた、大方治兵衞めは、こそを働きやると見える。



善六

オヽ、さうぢや/\。



治兵

どこでおれが盗人した。



太兵

何を吐かすのぢや。盗人せんものが、なんで手を格子の間へ括つてあるえ。



善六

アノな大騙りめ。



太兵

強盗め。



善六

紙屑がこそを働いた。盗人ぢや。生掏賊ぢや。皆來い皆來い。



[ト書]

ト治兵衞を蹴飛ばし、毆り廻し、大聲にて云ふ。橋がゝりより大勢棒を持ち出て。


[唄]

呼はり喚けば行きこふ人、あたり近所も駈け集まる、内より侍ひ飛んで出で、善六、太兵衞を突き飛し。



[ト書]

ト孫右衞門、奧より慌てゝ出て留める。善六、太兵衞を打ちにかゝる。トヾ善六を突き飛ばし、太兵衞内へ逃げて入る。門口を内より締めて、いろ/\あつて



孫右

ヤイ、この治兵衞が何を盗んだ。イヤサ、何を騙つた。その譯云へ。サヽ、早く申せ/\。



善六

サア、その盗んだは。



孫右

仔細あつて、某が縛め置いた、それをうぬらが土足に掛け、盗人呼はり。おのれ、何を以てこの狼藉、盗み騙りとは、なんぞ慥かな證據でもあるか。



善六

その證據と申しまするは。オイ/\、太兵衞きん太兵衞さん、どこに居るのぢや。太兵衞さん/\。



太兵

オイ/\、爰ぢや/\。



善六

太兵衞さん、早う來て證據を見せてんか。



太兵

よし/\。今見せる。



[ト書]

ト怖々外へ出て、孫右衞門と顏見合せ。



孫右

サア早く見せえ、



太兵

ヘエ、即ち證據はこれでござります。二十兩の證文。慥かな證據。この通りに書いたものがござります。



孫右

その證文、これへ見せい。



[ト書]

ト太兵衞の持つて居るのを、孫右衞門引取る。



太兵

なんと慥な證據でござりませうがな。



孫右

誠にこりや、慥かな證文ぢや。



[ト書]

ト云ひ/\引破る、太兵衞、恟なし。



太兵

エヽ滅相な。二十兩の證文、こりや、どうなるのぢや。



孫右

サアよいわい、いま金を戻すわえ。



太兵

金も出さずに、大切の證文を破るとは、あんまり無茶ぢやござりませぬか。



孫兵

ハテ、よいと申すに。ソレ二十兩受取れ。



[ト書]

ト二十兩包みを出し。



[孫右]

サア、キリ/\と持つてうせう。



[ト書]

ト投げる。兩人こなしあつて。



太兵

オヽ持つて行かいで、只貰ふのぢやあるまいし、おれが貸した金を取るのに、なんの遠慮があるものか。



[ト書]

ト取りにかゝり、孫右衞門と顏見合はせ、氣味惡きこなしあつて。



[太兵]

ナア善六、あの金ちよつと取つてんか。



善六

よし/\、かした金を取るのに、其やうに遠慮はいらぬ事。



[ト書]

ト行きかけて。



[善六]

ナア太兵衞さん、お前が貸した金ぢや。すりや、矢ツ張りお前が取りんかいなア。



太兵

そんな事云はずと。エヽ、なんぢや/\、おれの金をおれが取るのに、遠慮もへちまもあるものか。



[ト書]

ト云ひながら足にて取り。



[太兵]

取つた、サアお出で。



善六

オヽ、よう取つた。サア行かう/\。



[ト書]

ト捨ぜりふにて行きかゝるを、孫右衞門、思ひ入れあつて。



孫右

コリヤ、待て/\。



兩人

まだ用がござりますか。



孫右

後で小言のないやうに、一兩々々改めて行きやれ。



太兵

ヘイ/\、なんのお前さん、金改めるには及びませぬ。



孫右

さうでない。改めた上にて立歸れ。



太兵

なんのマア、よろしうござります。お侍ひ樣といふものは義の堅い。



[ト書]

ト行燈の傍にて改め見て。



[太兵]

ヘイヘイ、慥かに受取り申しました。



孫右

この治兵衞に云ひ分ないか。



太兵

なんの/\、金さへ受取りますれば、云ひ分はござりませぬ。



孫右

いよ/\これなる治兵衞に、申し分はないな。



兩人

ヘイ/\、ござりませぬ。



孫右

その方に云ひ分なくば、此方に申し分があるのぢや。



[ト書]

ト兩人の首筋を押へ。



[孫右]

場所が場所ゆゑ、今日はさし免す。以後はキツと愼み居らうぞ。



[ト書]

ト兩人を突き放す。ひやいなるこなしにて向うへ逃げ入る。後より大勢追ひ駈けて入る。孫右衞門向うを見て、


[唄]

人立ちすれば孫右衞門、立歸つて縛り目解き。



[孫右]

紙治とやら、さぞ窮屈であつたであらう。



治兵

これは/\、どなた樣かは存じませぬが、難儀の所をお救ひ下され、有り難うござります。



孫右

身が面體を、とつくりと見やれ。


[唄]

頭巾を取捨て。



治兵

大枚の金子をお立替へ下され。何れ近日の内に金子を調へ、急ぎお禮に上がります。さうしてあなた樣のお屋敷はどこで、お名前は何と仰しやりまする。



[ト書]

ト孫右衞門の顏を見て。



[治兵]

オヽお前は、兄者人ぢやないか。



孫右

治兵衞。



治兵

御免なされておくれなされ。



[ト書]

ト花道へ逃げようとするを



孫右

エヽ、動き居るまい。門中でみともない。



治兵

兄者人、どうぞ料簡して下さりませ。



[ト書]

トまた逃げかゝるを、引留め



孫右

云ふ事がある。みともない、内へ入れ。



[ト書]

ト治兵衞を内へ引入れ、孫右衞門、門口を締め、思ひ入れ。



治兵

アヽ、面目ない/\。


[唄]

小春は奧より走り出で。



小春

さては、兄御樣かいの。



治兵

エヽ、畜生め、狐め。太兵衞より先に、うぬを。


[唄]

足を上ぐれば孫右衞門。



[ト書]

ト治兵衞、小春を引付け、打擲し、足を上げて蹴ようとするを、孫右衞門よろしく留めて



孫右

ヤイ/\/\、其たわけから事が起る。マア待て待て。コリヤ、人を誑すは遊女の習ひ、それをおのれは今氣が付いたか。この孫右衞門は、たつた今一見なれど、逢うた女郎の心底を見拔いて居るわい。小春を蹴る脛でうろたへた、そのおのれが根性をなぜ踏まぬ。われに云つて聞かす事がある。マア待て。エヽ、キリ/\と待ち居らうぞ。



[ト書]

ト無理に坐らせ。



[孫右]

ハヽアしんど。



[ト書]

ト誂らへの合ひ方になる。



[孫右]

弟とは云ひながら、三十に押ツかゝり、勘太郎お末といふ六つと四つの子の親、六間々口の家を持ち、その身代の潰れるといふところへ、氣が付かぬか。兄の意見を請くる事か、舅は叔母聟、姑は叔母者人、親同然、女房おさんは其方が爲にも從弟同志。がんじがらみに結び合うた、重ね%\の縁者、親子仲。一家一門の參會にも、おのれが曾根崎通ひの悔みより、外に話しの出た事はありやせんわい。おいとしいは叔母者人、連合ひ五左衞門はにべもない昔氣質。女房の甥御にかゝつて、娘一人を棒に振つた、おさんを取返し、天滿中に耻かゝさんとのお腹立ちを、叔母者人一人が敵となり味方となり、病になる程心を苦しめ、おのれが耻を包まるゝ、それを思はぬ恩知らずめ。この罰たつた一つでも、碌な事はありやすまい。アヽ、所詮これぢやア家は立つまい、小春に逢うてとつくりと心底見屆け、その上での一思案と、爰の亭主に工面してもらうて、そちが病の源を、おりやよく見て置いた。成る程、女房子に見替へるだけあつて、天晴れな女郎ぢや。イヤサ、天晴れなお女郎さまぢやなア。アヽ、お手柄/\。マア結構な弟を持つて、人にも知られた粉屋の孫右衞門、祭りの練り衆か、氣狂ひか、ついに差さぬ大小ぼツこみ、藏屋敷の役人と。


[唄]

歌舞伎役者の眞似をして、馬鹿を盡したこの刀。



[孫右]

おりや。


[唄]

捨て所がないわいやい。



[孫右]

小腹が立つやら、をかしいやら、餘りの事で、エヽ、胸が痛いわい/\。


[唄]

胸が痛いと、齒ぎりし、泣顏隱す澁面に、小春は始終むせ返り、我が身の上は得も云はず、兄の意見と母親の、心遣ひを思ひやり、皆御道理とばかりにて、詞も涙に暮れにける。治兵衞涙を押拭ひ。



[ト書]

トよろしく思ひ入れあつて



治兵

アヽ、あやまつた/\、あやまりました兄者人。ナア申し兄さん、どうぞ堪忍して下され。どうぞ御料簡なされて下さりまし。



[ト書]

ト合ひ方になり



[治兵]

三年この方、あの古狸に魅されて、妻子は元より一家一門袖になし、身代の手縺れも、小春といふ屋尻切りに誑されて。アヽ、今といふ今目が覺めた。ナア申し、これえ。ほんまに今思ひ知りました。皆私しが惡うござりました。が、まだ迷ひまする。あんな顏はして居ますけれど、あれでも元來すわつた奴でござりますぜ。僅かあんた、五六遍、イヤサ、二度か三度行たら、モウちやんとこんな事云ひますのぢや。申し、治兵衞さん、わたしのやうな者でも贔屓にして、こないに呼んでもらふのは、誠に嬉しいけれど、なんぼうわたしが思うたところが、お前樣にはいとしいお子はあるし、美しいお家さんはあるし、所詮末の遂げぬ話ぢやに依つて、モウ辛氣で辛氣でならん、と云ふに依つて。ハヽ阿房らしい、なんのお前さへ、さういふ氣なら、あんな女房はとつとゝ暇やつてしまひ、さうしてお前と夫婦になつて、二人一緒に。イエ、そんな事、誰れが云うたえ。イヤサ、おれは云はぬが。この間は何と云うた。あのモウ嫌ひで/\ならん太兵衞や善六が、わたしを呼び出して、なんのかのと云ふに依つて、そんな事したら、治兵衞さんに濟みませぬと、ぽんと云うたら、サア腹を立て、そんならおれもあの治兵衞への面當てに、いつその事身請けして、女房にすると親方へ金の相談。もしそんな事があつた時には、お前さんも立たず、又わたしも生きて居る氣はない、と云ふに依つて、マア待て、そりやアお前、何を云ふのぢや、わしこそ義理は缺いてしまひ、世間へ顏出しはならず、死ぬる氣なら治兵衞さん、どうぞ一緒に死んで下さんせ、とはなぜ云うてくれぬ、そりやわが身水臭い、とてもの事に、此方も太兵衞への面當てに、派手に心中せうかと云うたら、そんなら派手に心中すると云うて、斯ういふ揃ひまで拵らへて、そんなら死んで下さんせ。イヤそんな事、いつ云うたえ。わしは云はぬが、われ云うたがな。よう今までは騙してくれた。狐め、狸め、今日といふ今日、思ひ切つた。オヽ、思ひ切つた。ナア申し、兄さん、今といふ今、ほんまに思ひ切りました。今までは大きに御心配をかけました。もうフツツリと思ひ切りました。モウ/\、こんな所へ、足向けする事ぢやござりません。どうぞ兄さん、料簡して下さりませ。



孫右

コリヤ治兵衞、そんならお前、何と云ふのぢや。今日と云ふ今日、フツツリと思ひ切つたに依つて、どうぞ堪忍してくれいと云ふのぢやな。あゝさうか、が、治兵衞、そりやお前、何遍云うた。イヤサ何遍云うた。モウ今度ばかりは、そんな事は聞きたうない。措いて下され。わしのやうな者ぢやといふて、あんまり何遍も/\騙してくれな。ようマアそんな事が云はれたものぢや。じやらじやらと阿房らしい。人を馬鹿にするも程がある。アタ、阿房らしい。



治兵

そりやマア、今までに二遍や、三遍の事やおまへんに依つて、そないに仰しやるは無理はおまへん、けれどナア、さうやというて、あんた、思ひ切つたと云ふより外に、なんにも云ふ事がありやしまへんがな。



[ト書]

ト云ひながら、懷を見て



[治兵]

よろしうおます。そんなら兄さん、ほんまに思ひ切つたといふ、わたしが證據を見せますワ。オヽ、證據を見せますワ。オヽ證據を。



[ト書]

ト小春に當てゝいふ。



孫右

なんぢや、證據を見せる。こりや面白い。サア、證據見ませう。



治兵

ほんまに思ひ切つたといふ、慥かな證據を見せませう。



孫右

オヽ、どんな證據ぢや。サア、早う見せいなア。



治兵

いま見せます。



孫右

サア/\、證據を早う見せい/\。



治兵

そないに、やかましう云ひなはんないなア。



孫右

證據を見せると云ふに依つて、早う見せと云ふのぢや。



治兵

いま見せます。忙しないお方ぢやなア。



[ト書]

ト云ひながら、守り袋より起請を前へ出して。



[治兵]

サア、見ておくれなされませ。



孫右

なんぢやいな、心の惡い。血のべと/\付いた、こんな物、證據の何のかのと、じやら/\とした、アタ心わるい。



治兵

モシ/\、勿體ない事、云ひなはんないなア。並大抵の事で、これが貰へるもんやと、思うて居なはるか。コリヤ、ナ申し、日本國の神々さまへ、誓ひをかけてナ、互ひの心變らぬやうと取交してナ、又もこの上に變らぬやうと、月頭に一枚づゝ取交しますのや。



孫右

なんぢや、まだあるのか。



治兵

エヽモウ、皆見せますワ。



孫右

オヽ、わたしの解るやうに云うて、皆見せておくれ。こんな物が、有り難いものやら結構なものやら、さつぱり譯が解らぬ。わしの腹へ入るやうに、聞かしておくれ。



治兵

ナア申し、兄さん、足掛け三年に、月頭に一枚づゝ取交して、三十枚おますのや。これをあんたに見せるのは、わしの潔白でおます。どうぞ、これをば、彼奴に歸しておくんなはれ。



孫右

アヽ、よし/\。



治兵

さうしてなア、兄さん、私の方からも、矢ツ張り彼奴に、こんだけ行ておますのや。それをば此方へ取返した跡は、燒くなりと破るなりと、どうなと勝手にしなはれ。



孫右

そんなら何か、これをば小春に返して、さうしてわが身の方から行てあるのを、此方へ取返してくれいと云ふのか。よし/\、さうわが身がやうに云やると、わしぢやて、兄の事ぢやもの、お前の引けの取るやうな事はしやせぬ。わしに任して置きや。



治兵

ハイ。



孫右

なんの、わが身の引けを取るやうな事、わしがせう。兄が附いて居る。ヂツとして居や。



治兵

ハイ。



[ト書]

ト孫右衞門こなしあつて



孫右

情ない、これを持つて行かんならんかいなア。



[ト書]

ト起請を持ち、小春の側へ行き、それを置き。



[孫右]

サア小春どの、いま聞いての通り、弟はわしが意見で、結構なお前の事はフツツリと、思ひ切つたと云うて居るに依つて、ナア小春だの、こりやアノ起證といふ物ぢやさうな。數改めて受け取つておくれ。さうしてあの弟からお前の方へも、こんだけ行てあるさうな、それをば此方へ貰ふのが、わしへの弟が潔白ぢや、と云うて居るに依つて、どうぞ、それを此方へ返しておくれ。



[ト書]

ト小春、否と云ふこなし。



[孫右]

コレ小春どの、それでは互ひに氣が殘つて、いかんに依つて、どうぞ此方へ返しておくれ。



治兵

申し/\兄さん、そんな優しい事で行きやしません。毆り倒して引ツたくりなされ。



孫右

サア/\、えゝと云つたら、わしに任して置かんかいなア。小春どの、弟があのやうに云うて居るに依つて、早う此方へ返しておくれ。わしの意見で、弟はお前の事を思ひ切つたと云うて居る。その思ひ切つた男の起證を、大事にかけて持つて居ても、どうも仕樣がないぢやないか。小春どの、三年が間、ようお前、あんな弟ぢやと思うて、よう付合うてやつておくれだなア。その禮はキツと云ひますぞや。イヤサその禮は、わしがキツと云ひます。モウ長い短いはいらんに依つて、それを此方へ返して。小春どの、お前出さぬと云ふと、懷へ手を入れても取るぞえ。小春どの、返してくだされ。



[ト書]

ト小春の懷へ手を入れ。



[孫右]

アヽ、これ程持つてゐながら、ごて/\云つて出さぬに依つて、懷へ手を入れたりせんならん。なんぢや、手紙、……紀伊國屋小春さま參る、紙屋内より。



[ト書]

ト孫右衞門讀むを、小春惡いといふこなし。治兵衞耳を立て



治兵

コレ兄さん、なんでおますのや。



孫右

なんでもあらせん/\。



治兵

手紙とはどこから來たのぢや。イヽイヤ、どこの客から來た手紙ぢや。ちよつと見せておくれなされまし。



孫右

イヤ、なんでもありやせん/\。



治兵

ちよつと見せておくんなはれなア。



孫右

なんぢやいなア。たつた今思ひ切つた女の手紙、どこから來やうと、彼處から來やうと、構ふ事ありやせん。ヂツとして居んか。わしに任して置きと云ふに。なんの文のと、アタしつこい、ごてごて/\/\。



[ト書]

ト云ひ/\手紙を讀んで。



[孫右]

そんなら、この手紙の客人へ、義理を立て。



小春

アモシ。



[ト書]

ト孫右衞門の袂を引く。



孫右

こりや見せともながる筈ぢや。小春どの、最前は侍ひ冥利、今は粉屋の孫右衞門商ひ冥利、女房子に限つて、わしや見せやせん。起證と共に火にくべる。てもマアお前は。勤めの中にもそれ程までに、眞實な。イヤサ、眞實のないは女郎の常。ナア、ちつとも知らず、うか/\と、あんまりの事、おりやをかしいわえ、ハヽヽヽヽ。ハヽヽヽヽ。ハヽヽヽヽ。


[唄]

笑ひに紛らす眞實は、口に云はれぬ心の禮。



小春

それで、わしも立ちますわいなア。


[唄]

また伏し沈めば。



治兵

なんぢやい、立つの立たぬのと、あんまり人間らしい事云ふない。申し兄さん、今の状、ちよつと見せて下されいなア。



孫右

なんぢやいなア。ひつこい。なんでもありやせんと云うたら、なんで、其やうにわしの云ふ事を聞かんのぢや。イヽヤイ、わしの云ふ事が、なんで聞かれぬのぢや。



[ト書]

ト氣を替へて云ふ。



治兵

そないに、ん/\云ふものやおまへん。惡いと思やこそ、あやまつて居るやおまへんか。それをば兄甲斐にぽん/\。



孫右

何もわしかて、ぽん/\云ひたい事はありやせんけれど、お前がひつこう云ふに依つて、ツイわしがて、ぽんぽん云ふのぢや。



治兵

ナア兄さん、わしも思ひ切つた女の所に居るのは、ふつ/\嫌やに依つて、もう去にませうか。



孫右

オヽ、さうぢや、去なう/\。



治兵

サア、去にませう/\。



[ト書]

ト孫右衞門の手を引ツ張る。



孫右

ちよつと待ち。羽織を着んならん。お前先へ出かけ。直ぐにわしは出る。



治兵

サア、早う行きませう。早うお出でなされいな。



孫右

よし/\。羽織さへ着たら、直ぐに出る。



治兵

わし、先へ出かけますぜ。



[ト書]

ト治兵衞、先へ出る。孫右衞門行かんとするを、小春、袂を控へる。治兵衞の事頼むと云ふこなし。孫右衞門、呑み込んで居るといふ思ひ入れ。治兵衞側へ行き



[治兵]

兄さん、早うお出でなはらんかいなア。



孫右

アヽ、よし/\。ナア弟や。わしの意見を聞いて、よう思ひ切りやつた。内へ去んで、この事、叔母者人に話しをしたら、定めてお喜びになるであらう、よう得心してたもつた。わしも誠に嬉しう思ひます。併し弟、わが身も今夜は、定めて氣がむしやくしやして居るであらう。斯うしや。これから去んで一杯つけてもらうて、さうして四方山の話しをして。さうぢや、今夜は、わが身の内で、わしや泊めてもらふ。



[ト書]

ト云ひながら治兵衞の脊中を撫でる。治兵衞、氣の濟まぬこなし。孫右衞門見て



[孫右]

治兵衞、今までは去なう/\とやかましう、云うて居て。治兵衞、どこぞ惡いのかえ。腹でも痛むといふやうな事ぢやないか。どうぞしたか。



治兵

イヤ、どうもしやしませぬけれど、ナア申し兄さん、一言、云ひ殘した事がありますのんやがな。これを云はんと、どうも胸がさばけませんのやがな。ちよつと云うたら惡うおますか。



孫右

そりやお前、さうお云ひぢやけれどな、今夜は、はなやひが惡い。どうぞ今夜は此まゝ去んでおくれ。その代りに、二三日したら、わしが連れて來る。その時に、お前、何なりと云ふがよい。



[ト書]

ト云ひながら、治兵衞の脊を撫でさする。治兵衞、孫右衞門を振り切る。孫右衞、思ひ入れあつて



[孫右]

そないに、お前のやうに云うたかて、どうも仕樣がありやんせがな。そないに思うて居る事を、云はさんのも惡い。そんなら、えゝ、ちつと位の事なら、云てお出で。やつて上げる。



治兵

そんなら、やつておくれなはるか。



[ト書]

ト治兵衞行きかゝるを。



孫右

オイ/\、ちよつと待ち。



治兵

なんでおます。



孫右

なんでおますやあらへんがな。ナアお前、最前あの小春を蹴つたり踏んだりしやつたが、あんな事おかんか。ひよつと目鼻でも舞うたら、お前どうしようと思うてや。あんな事しやんなや。



治兵

よろしうおますがな。わしも思ひ切つたと云うたら、思ひ切つたのでおます。



孫右

サア、ちよつと云ふだけならよいが、手荒い事はしなや。



治兵

どうもしやしませぬ。ちよつと云うたら直ぐに出ます。ちつとの間、そこに待つて居ておくれなはれ。



孫右

云ふだけならよいが、手荒い事すると、わしや案じるに依つて、それで云ふ事は云はんならん。



[ト書]

ト云ひながら、治兵衞の後を付いて行く。



治兵

モシ/\兄さん、あんた、おいなはつたら、何も云ふ事が云はれやしませぬが。



孫右

それでも、わしや案じるに依つて、ツイ付いて行くのぢや。



治兵

ちつとの間、そのに待つて居ておくれなはれ、と云うて居るのに。聞分けのない、茶屋の二階へ上がつた事のない人といふ者は、せうのない不粹な。ちつとの間位。待つておくれなされなア。おいなはんなや。



孫右

ハイ/\、行きやしませぬ。



[ト書]

ト云ひながら、治兵衞内へ入る。後より孫右衞門、門口にて見て居る。治兵衞、小春の胸をつかまへ



治兵

足掛け三年この方、戀し床しも、いとし可愛も、今といふ今、エヽ愛想が盡きた。



[ト書]

ト手を握り振り上げるを、孫右衞門見て



孫右

オイ/\、治兵衞々々々、そりやなんぢや。



治兵

なんでおますのや。



孫右

今、斯う振り上げた手は何ぢや。



治兵

なんにもしてやしませぬが。ちやんと膝に手を置いて居ますがな。



[ト書]

トいろ/\こなしあつて



[治兵]

今生の思ひ出に、たつた一つ。ヤイ赤狸め、たつたこの足一本の暇乞ひ。


[唄]

と額際を、ハツタと蹴て、わつと泣出す男氣を、思ひやる程堪え兼ねて。



小春

こりや、モウいつそ。



孫右

アヽコレ、蹴られうが叩かれうが、そこを、ヂツと辛抱せずば、この状の客へ義理が立つまい。立つまいがの、小春どの。



[ト書]

ト孫右衞門、小春、双方よろしくあつて


[唄]

孫右衞門に制せられ。



兩人

ハアヽ。


[唄]

はつとばかりに泣き別れ、歸る姿もいた/\しく、後を見送り聲を上げ、歎く小春も酷らしき、不心中か、心中か、誠の心は女房の、その一筆の奧深く、誰が文も見ぬ戀の道。



[ト書]

ト孫右衞門、治兵衞の姿を見て思ひ入れ、羽織を着せる。治兵衞いやといふ思ひ入れ。小春、莨入れより櫛を出し、孫右衞門に渡す。孫右衞門は治兵衞の髮を撫でつける。治兵衞その櫛を取り、小春へ投げようとするを、孫右衞門よろしく留めて、小春へこなし。小春もいろ/\あつて



小春

アヽモシ。


[唄]

別れてこそは。



[ト書]

ト双方よろしく思ひ入れあつて、三重にて。




炬燵の場

    役名==

  1. 紙屋治兵衞。


  2. 粉屋孫右衞門。


  3. 治兵衞忰、勘太郎。


  4. 丁稚、三五郎。


  5. 舅、五左衞門。


  6. 紀伊國屋才兵衞。


  7. 江戸屋太兵衞。


  8. 五貫屋善六。


  9. ちよんがれ坊主、 [1]傳梅。


  10. 治兵衞女房、おさん。


  11. 娘、お末。


  12. 紀伊國屋小春。


本舞臺、三間の二重、向う店戸棚、納戸口、暖簾、鼠壁、状差し、諸帳面の書割り、帳箱、上手折り廻して障子屋體、下手落間、後へ寄せて中庭口、爰に柿色の暖簾、紙屋と記しある。店戸棚にいろ/\の紙類積み重ねし書割り、すべて天滿紙屋店の體。通り神樂にて幕明く。


[ト書]

ト爰に三五郎、縞の着附け、紺前垂れ、丁稚の形にて人形廻して傳をしてゐる、箱にいろ/\の人形、風車など入れあり、側に勘太郎、人形を持ち、お末、折鶴を持つて遊び居る見得。



三五

コレ、坊さん泣かんすな。この間淨瑠璃で見て來た、三十三間堂棟木の由來、柳のお柳を一段語つて、人形を使うて見せるぞや。東西々々。この所にて相勤めまするは三十三間堂棟木の由來、平太郎住家の段、始まり左樣。



[ト書]

ト拍子木を鳴らす事あつて、口三味で。



[三五]

和歌の浦には名所がござる、一に權現、二に玉津島、三に下り松、四に鹽釜よ、ヨウイ/\ヨイヤサ。



[ト書]

ト人形を使ひ、淨瑠璃を語り居る。此うち下手より仕出し出て



仕出

ヘイ、御免なされませ/\。



[ト書]

トやかましく云ふ。三五郎、夢中になつて淨瑠璃を語り、人形を使ふ。



[仕出]

コレイナ申し、御免なされ。



三五

エヽ、誰れぢや。恟りするわい。



仕出

恟りするもないものぢや。最前からあれ程云うて居るに、えらい小僧さんぢやな。



三五

さうして、なんぢや。



仕出

半紙二折と、ついだ卷紙二本下され。



三五

エヽ、邪魔を云ふ人ぢやな。



仕出

お客樣を掴まへて、邪魔なとはなんぢや。



三五

今、柳のお柳の木遣音頭の性根場ぢや。アタ邪魔。



[ト書]

トぼやき/\、店戸棚のうちより、半紙二折、卷紙二本取り來り。



[三五]

サア/\半紙が四十八文、卷紙が二十四文ぢや。



[ト書]

ト仕出しを出し



仕出

オイ/\、四十八文に二十四文、〆めて七十二文。

錢を渡して、半紙と卷紙を受取る。


[仕出]

大きにお邪魔でござりました。



三五

邪魔は始めから解つて居るわい。



[ト書]

ト唄になり、仕出し下手へ入る。



三五

サア/\、これから今の續きぢや。コレ/\孃樣孃樣、お前樣は、マア、おとなしいお方ぢや。最前から押默つて、鶴を折つて居なさるが、おとなしいお子ぢやわい。その鶴が折れましたら、糸を引ツ張つて、鶴の宙釣りをして、お目にかけませうわい。



すゑ

この鶴が折れたら、この脊中へ秀之助を乘せて、芝居でもして見せて下されや。



三五

芝居事なら、何なりともお望み次第ぢや。



勘太

コレ、早う、坊に見せてや。



三五

オツと、承知々々。



[ト書]

ト人形を持ち、こなしあつて。



[三五]

いよ/\、この所、只今の續き、その爲口上左樣。



[ト書]

ト口三味線にて、人形を使ふ。



[三五]

母の柳を、都へ送る、ヨウイ/\ヨイヤサ。



[ト書]

ト淨瑠璃を語り、いろ/\と人形を使ふ。此うち下手より、ちよんがれ坊主傳海、破れ衣、小形の木魚二つ持ち出る。後より善六、尻からげ頬冠り、三味線彈きの體にて出て來り



傳海

歸命頂禮、やれ/\/\皆さん、聞いてもくれねえ、佛説阿房陀羅經。



善六

ノコ/\サイ/\。



[ト書]

ト善六三味線を彈き、傳海、木魚を叩き、やかましく云ふ。



三五

通れ/\。



傳海

オイ相棒、通れとやい。



善六

通れとあらば、通らうぢやあるまいか。



傳海

通れ/\。



[ト書]

ト兩人ズツと上手へ通り、よき所へ住ふ。



三五

ヤイ/\、薄汚い形をして、何處へ通るのぢや。キリキリと出さらぬかい。



傳海

そこな丁稚め、通れと吐かすゆゑ通つたのぢや。ハハアン解つた。内で阿房陀羅經云はして聞く氣ぢやな。



善六

さうであらう/\。お好きとあれば、さらば爰で、やらかし申す。オイ和尚、一調子はり上げてやり給へ。



傳海

オツと合默。エヘン、これはこの頃、町中は申すに及ばず、色里は專ら御評判の阿房陀羅經、新物の始まり始まり。



[ト書]

トこれにて善六、三味線を取上げ、傳海、木魚を叩く。



[傳海]

やれ/\/\、歸命頂禮、どら如來、やれ/\/\、皆さま聞いてもくんさい。花の浪花の新地の小春に、貧乏紙屋の地兵衞が馴染んで、惡性狂ひが杉原紙でナ、節季は斷わり、仕切は、延紙、得意は塵紙、内には小半紙、一束ならで、二束三文に負けてしまつた。着類着そげも茄子の淺漬、糠味噌くさい、内のお嬶に愛想もこつそり、盆も正月も小春の屋形へ、忍び紙とはうるさいこんだよ。



善六

ノコ/\サイ/\、野良サイ/\。



傳海

おやま狂ひに男は濡紙、小春は青土佐、内儀は結構な阿房の唐紙、これが天滿で噂の書置。



三五

ヤイ/\おのれ、そりや何を云ふのぢや。うぬら、誰れぞに頼まれて、内の旦那の治兵衞どのゝ惡口を吐かすのか。やかましうてならぬわい。



傳海

やかましいもないもんぢや。やかましう云ふのが惡けりや、なんで通れと云うたのぢや。



善六

さうぢや/\。又この文句は、誰れにも頼まれもせぬ、この節の流行り文句ぢやわい。



傳海

治兵衞と云うて、爰一軒ぢやあるまいし、この内の事やら、誰れが事やら知らぬが佛、阿房陀羅經。



善六

唄うて貰はにや喰はれぬ、此方の商賣。



傳海

この文句、さう唄うても惡いと、お上からお觸れもなければ、御法度といふお達しもなし。



善六

さうぢや/\。これだけ喋つて、一文も貰はずには去なれぬ。爰な旦那か、お家樣に逢うて錢貰ふまで、爰で一服しようぢやあるまいか。



傳海

それがいゝ/\。コレ素丁稚、莨盆なと貸して、咽喉も渇いた、茶を汲んで來い。



三五

エヽ、知らぬわい、勝手にさんせ。



[ト書]

ト善六、傳海、莨をのむ。誂らへの合ひ方になり、向うより太兵衞、羽織着流しにて出て、直ぐに本舞臺へ來り



太兵

治兵衞、内にゐるか。サア、金受取らう。こんな似せ金はいらぬ。正眞正銘の金返してもらはうかい。



三五

ヤイ/\、今日は怪體な日ぢやわい。旦那の惡口を云うて來る阿房陀羅經やら、旦那に金を返せと喚いてうせるやら、一體、おのれは何者ぢや。



[ト書]

ト太兵衞、ズツと内へ入り、傳海、善六と顏を見合せて思ひ入れ。



太兵

エヽ、おのれが何云ふぞい。コリヤ、治兵衞が内に居るなら、奧へ行て、太兵衞さまがお越しなされましたと云うて來い。



三五

否ぢやわい。用があるなら、このおれ樣に、事の次第を有やうに吐かせ。仕儀に依つたら取次いでくれるワ。



太兵

此奴、忌々しい素丁稚ぢやなア。この太兵衞さまが出て來た用と云ふは、この間治兵衞から受取つた廿兩は似せ金ぢや。今日問屋の仕切に遣つたれば、その尻が割れて、この太兵衞までが疑はれる。小春と腐りついたる二人の仲、揚代にせばまれて、ぎちかはして居るを氣の毒に思ひ、貸してやつた廿兩、似せ金を掴ませるとは太い奴ぢや。何かい、こりや侍ひめと云ひ合せて、この太兵衞をやつたのぢやな。その侍ひめも、先刻に道でチラリと見た。大方爰らにへちまうて居らう。合點の行かぬさぶめぢやと思うた。何ぢやゝら、人に背打ちを喰はしやアがつて、サア、その侍ひに逢はう。爰へ出され。似せ金師の大盗人め。ヤイ、權押しに騙りをひろぐか。



三五

えらさうにン/\云ひな。今日はナ、朝からお客樣があるに依つて、旦那樣もお家樣も奧に話してござるのぢや。そこでこの三五郎が店番をしてござるに、いろいろな奴めが出てうせてからに、こんな事云うて來て、何奴も此奴も怪體な奴等ぢや。待つてけつかれ。



[ト書]

ト云ひながら、勘太郎、お末を連れ奧へ入る、後に三人思ひ入れあつて莨をのむ。合ひ方になり、向うより紀伊國屋才兵衞、茶屋亭主の拵らへにて出る。



才兵

どうぞ、太兵衞さまに逢ひたいものぢやなア。



[ト書]

ト本舞臺に來り、



[才兵]

オヽ、太兵衞さま、爰にか。お前樣の在所を尋ねた事ぢやござりません。



[ト書]

ト内へ入る。



太兵

尋ねたとは、何の用ぢや。



才兵

何の用かも凄まじい。濟ました顏付きで、コレこの廿五兩は返しまする。ようマア小春に惡性根を附けて、駈落をさせてくれた。サア、臺詞は後に廻して置いて、マア、何より小春を出してもらひませう。



太兵

ヤイ/\才兵衞、手水を使うて來い。寢呆けて、何を寢言吐かすぞい。小春を駈落ちさせたの何ぞのと、そりやマア何の事ぢや。



才兵

何の事とは、てもさても、厚皮な物ぢや。ごて/\云はずと、小春を返してもらはうかい。



太兵

コリヤ、小春を返せの出せのと、この太兵衞が隱したやうな云ひ分。これには何ぞ、慥かな證據があるかい。



才兵

證據のない事云はうか。キツとした證據があるのぢや。



太兵

面白い。ならば見ようか。



才兵

見せいで。慥かな證據は、この書置。



[ト書]

ト懷中より書置を出し、



[才兵]

これ讀んで見さんせ。



[ト書]

ト太兵衞の前へ投げつける。太兵衞取つて見て



太兵

何ぢや、小春の書置ぢや。へゝゝ、書置と云や、爰の治兵衞の胸に堪へやうわい。さらば、これにて讀み上げてやらうわい。



[ト書]

ト書置を開き。



[太兵]

ナニ/\、耻かしながら書き殘し參らせ候ふ、これまで厚うお世話になり候ふ身に候へども、いとしい人の顏立ち申さず、是非なく駈落ち致し參らせ候ふ。



傳海

忌々しい衒妻ぢやなア。



善六

それから後は、なんと書いてあるな。



太兵

待つたり/\。何ぢや。今まで紙治さまと、深う云ひ交せしは。



傳海

どうやら、文句が合ひさうなぞよ。



太兵

今まで紙治さまと深う云ひ交せしは、みな嘘にて候ふ。ヤア/\。



善傳

ヤア/\。



太兵

これまでつれなう當りしは、眞實ある太兵衞さまに張を持たし、請出されてほん%\の女夫になつて、末永う添ひ通したき願ひにて、わざとつれなく致し參らせ候ふ。ヤア/\、こりや、大分風が變つて來たぞよ。



傳海

太兵衞さん、どうやら色事師のやうに見えて來たぞえ。



善六

小春の眞實が見えて來た。何やら甘くさい文句ぢやなア。



傳海

後が聞きたい、早う讀んで



善傳

聞かしたり/\。



[ト書]

トやかましく云ふ。此うち上手障子屋體の内には孫右衞門、納戸口よりは治兵衞、立聞きして居るこなし。治兵衞、だん/\腹の立つ思ひ入れ。太兵衞、嬉しきこなしにて讀み續ける。



太兵

ハテ、忙しない。どうやら胸がどき/\と、何ぢややら、勝手が違うたやうな。エヽなんぢや。今まで紙治さまに云うたは皆嘘、誠は主に添ひたい心、その太兵衞さまが親方樣へ廿五兩の手付け金、皆々よろしからぬお心にて候へば、所詮添はせては下さんすまい……なんの添はぬ事があるものか。添はいぢや/\。オヽ、可愛い奴なう……この身に飽き果て候ふゆゑ、私しばかり死ぬる心に極め參らせ候ふ。ヤア/\、そんならおれゆゑ、一人死ぬる氣かいやい。尤もぢや/\。エヽ、くれ%\酷いは太兵衞さま、身請さんすが眞實か、但しはわたしを騙すのか。なんの騙さうぞいやい/\。オヽ可愛や、可愛や。どうか心が濟み申さず候ふゆゑ、太兵衞さまの存じよりの方へ駈落ち致し、暫く忍び參らせ候ふ。オヽ可愛や/\。エヽ、もしも願ひが叶はずば、この文をとくと御覽下され、せめて御回向願ひ上げ參らせ候ふ。アア、南無阿彌陀佛々々々々々々。オヽ、可愛や/\。


[唄]

あゝ可愛やと大聲上げ、啜り上げ/\、赤子の時に泣いたまゝ、廿餘年の溜め涙。



傳海

オヽ、尤もぢや/\。



善六

オヽ、道理ぢや/\。


[唄]

側の二人も貰ひ泣き、身を揉む太兵衞が袂より、落つる状を孫右衞門、拾ひ取るとも知らばこそ。



[ト書]

ト此うち太兵衞、袂より状を落す。孫右衞門、三五郎を呼び、ソツと囁く。三五郎心得、落ちたる状を拾ひ孫右衞門へ渡す事あつて奧へ入る。



太兵

これ才兵衞、おりや小春の書置を見たので、癪が差込む。アイタヽヽヽ。コレ傳海、貴樣の世話にして下さつたも、元はこれから。



傳海

サヽ、さうぢや/\、太兵衞さま、こりや手延びになつたら、死ぬるぞえ、早う身請けをさんせい。



善六

今の書置に書いてあつた、お前の存じの處とは、心當りが



傳善

ござりますかな。



太兵

サア、この心當りは、これまで夢中の心意氣、存じの方とは、とんとないてや。ナア才兵衞。



才兵

イヽヤ、さうは拔けさせませぬ。この書置が慥かな證據。サア、代官所へ連れて行て、この議をするのぢや。



[ト書]

ト引立てにかゝる。



太兵

マア、待つてくれ/\。さう思ふのも尤もぢやが、アヽ、時に心當りとは、オヽ、兎にも角にも落ちついては居られぬ。コレ、傳海も善六も來てくれ。



傳海

早く、小春の命を



善六

取留めねば、



太兵

安心ならぬ。



傳善

サア、行きませう。



[ト書]

ト三人行きかゝる。孫右衞門、思ひ入れあつて、上手から出る。



孫右

太兵衞どの、待つた、二人の奴等も用がある。



太兵

なんぢや。



傳善

わしらに。



孫右

オヽ、用がある。性根を据ゑて、キリ/\そこへ出をらぬか。



太兵

ハヽア。



[ト書]

ト誂らへの合ひ方。三人顏見合せて、ハツと下に居る。孫右衞門こなしあつて、好きところへ來て住ふ。



孫右

コリヤ、坊主、われが名は傳海と云ふんぢやな。



傳海

ハイ、それがどうぞ致しましたか。



孫右

コリヤ、この間、坊主客になつて、石町の隱居と僞はり、宛名のない二十兩の證文を書かしたのはおのれぢやな。



傳海

エヽ。



孫右

太兵衞と一つ穴の賣僧坊主であらうがな。



傳海

イエ/\滅相な、太兵衞とやら、太郎兵衞とやら、ついに見た事もない。



孫右

その見た事もない太兵衞が、コレ傳海、貴樣の世話にして下さつたも、元はこれから、オヽさうぢや太兵衞さま、こりや手延びにしたら死ぬるぞえ、早う身請けをさんせとは。



太傳

ヤア。



孫右

なぜ吐かした。



兩人

サアそれは。



孫右

それはとは。まだ/\見せる物がある。



[ト書]

ト以前の状を出し開く。太兵衞見て、いろ/\こなし。



[孫右]

ちよつと申し上げ候ふ、この間浮無瀬にて賜はり候ふ拾兩、最早この頃の丁半に、なめられてしまひ候ふ、今日紙治方にて、彼の預かり手形の儀、首尾よく參り候はゞ、拾兩お貸し下さるべく候ふ。直に申すも如何と、お願ひ斯くの如くに御座候ふ。太兵衞さま、傳海より。なんとこれでも知らぬと云ふか。



兩人

サアそれは。



孫右

サア。



兩人

サア。



三人

サア/\/\。



孫右

なんと、動きは取れまいがな。



太兵

もう自棄ぢや。ソレ。



兩人

合點ぢや。



[ト書]

ト傳海、善六打つてかゝるを、孫右衞門引ツ外し、太兵衞が箒にて打つてかゝるを、引つたくり、三人を散散に打ち据ゑる。



孫右

騙りひろいだ白紙の僞筆、うぬ等が企みを有やうに、サア吐かせ。吐かさにや猶も箒の峰打ち。ドヾどうぢやえ。



傳海

マア/\、待つて下さりませや。吐かします/\。アイ/\、太兵衞さまに頼まれて、坊主客になつたは自分ぢやわいな。



孫右

オヽ、よう吐かした。サア善六、その時小春の身請けの客と吐かしたは、おのれであらうな。



善六

斯うなるからは、隱し立は致しません、お察しの通り。



孫右

ムウ、よし/\。そこな色事師どのも、手次手に。



太兵

ハイ/\、イヤモウ、その通りでござります。これまで小春が靡かなんだ色の意趣、ほんまにヤレ/\、アア、戀程切ないものはないわい。



孫右

うぬ等三人も、よい獄門道具ぢやわい。



善六

これはお見立、



三人

有り難う。



孫右

コリヤ、三人ども代官所へ引摺つて行く奴なれど、格別の情で何にも云はぬ。この上治兵衞に云ひ分はあるまいがな。



太兵

イヽエ勿體ない。なんのマア、申し分がござりませう。今では結局治兵衞から、わたしにお恨みはあらうけれど、イヤ申し紙治さま、小春がわしへの心中をお聞きなされて、ほんにヤレ/\。オヽ、さぞお腹が立ちませう。けれども、こりやもう惚れられたがわしの因果と、お諦らめ下されませや。



孫右

エヽ、ごて/\云ばずど、とつとゝ早う歸らぬかい。



[ト書]

ト三人を門口へ突き出す。三人、いろ/\こなしあつて外へ出る。才兵衞、ウロ/\する。



[孫右]

コレ、小春の親方、お前樣には云ひ分はない。心配せずと去んだ/\。



才兵

ハイ/\、初めて參じまして、えらくおやかましう存じまする。



[ト書]

ト云ひながら、下手へ行つて、門口へ出て三人と顏見合せこなし。



[才兵]

コレイナ太兵衞さま、身請けが遲いと、小春は死ぬるぞえ。さうなつたら下手人、其まゝでは濟まさぬぞや濟まさぬぞや。



太兵

オツと、それはよう合點して居るわいの。



才兵

キツと念を押しましたぞよ。



[ト書]

ト下手へ入る。



太兵

色ゆゑに酷い目に遭ふは、色事師のお仕着。役者で云うたら、二枚目の色立役ぢや。



傳海

その色事師のお相伴で



善六

どえらい箒の御馳走。



太兵

この見すぼらしい太兵衞の姿。



傳海

それも誰れゆゑ。



善六

元の起りは、



兩人

小春どの。



太兵

戀は切ないものぢやナア。


[唄]

何を云ふやら魂ひと、共に拔けたる腰の骨、互ひにいたはりいたはつて、跛ちが/\歸りける。後見送つて孫右衞門。



[ト書]

ト三人、をかしみのこなしにて向うへ入る。孫右衞門、思ひ入れあつて



孫右

コレ三五郎、治兵衞とおさんを呼んで來てくれ。



三五

ヘイ。旦那さん、お家樣、堂島の旦那が呼んでゞござりまする。



[ト書]

ト納戸の内にて



治兵

ハイ、只今それへ參りまする。


[唄]

納戸を出づる主の治兵衞、後におさんも附添うて、面目なげに立出づれば。



[ト書]

ト治兵衞出て來り、後よりおさん、好みの形にて出て來り、下手に住ふ。



孫右

コレ治兵衞、最前からの樣子、殘らず聞いたであらうな。



治兵

一間の内で、始終の樣子を聞きましてござりまする。



孫右

聞いたとあれば、改めて云ふには及ばぬ。あのやうに云うて去んだからは、小春の身請けは太兵衞がするに極つた。コレ治兵衞、あの小春の文を見て、よもや心は殘るまいがなう。



さん

ほんにわたしも聞いて居りました。あれではよもや、小春さんの事は思ひ切らしやんしたに違ひはあるまい。こればかりはこちの人に、微塵も嘘はござりますまい。その證據にはわたしが立ちまする。



孫右

それ聞いて、この兄も安心しましたが、親仁樣や阿母は、昔氣質の御氣性ゆゑ、つい口先ばかりでは、御得心はなさるまい。親仁樣の疑ひを晴らす爲、なんと誓紙を書いてはくれまいか。



治兵

何がさて、誓紙なれば、何枚なりとも。



孫右

さうなうてはならぬ筈。ソレ、おさん、硯箱を。



さん

ハイ/\。


[唄]

硯と紙を差出せば、比翼の誓紙に引替へて、今は天罰起請文、小春に縁切る、思ひ切る、僞はりならぬ文言は、紙や佛へ誓ひの一書、やう/\に書き終り。



[ト書]

ト治兵衞、起請文を認め、小刀にて指を切り、血判据ゑる。



治兵

これ御覽じて下されませや。



孫右

オヽ、これでよし/\。これも親仁樣や、阿母への心休めぢや。



さん

兄さんのお庇で、わたしも落ちつきました。子仲なして、ついに見ぬ固め事。これで二人の子供も仕合せといふものでござんすわいなア。



孫右

この氣になれば、商賣も繁昌しやう。得意大切、一家親族の喜び、此やうにやきもきと云ふも皆治兵衞が爲、家の爲、兄弟の子供が可愛さ。オヽ、子供の事で思ひ出した。誰れしも孫には目のないもの。この誓紙もわしが持つて去なうより、孫の手から、親仁樣の前へ出すが納まりがよい。お末を呼んで下され。



さん

アイ/\。



[ト書]

ト納戸へ向ひ、



[さん]

お末/\。



すゑ

アイ/\、母樣。呼んでかいなア。



[ト書]

ト納戸から出て來る。



さん

オヽ、其方は叔父樣と一緒に、祖父樣の所へ行ておぢや。



すゑ

アイ/\、そんなら叔父樣と一緒に、お祖父樣の内へ行くのかえ。



さん

さうぢやわいなう。



孫右

それぢや、お末を治兵衞の名代に、この誓紙を持たして、親仁樣へ詫び言さゝう。



[ト書]

トお末の手を引き下手へ行く。兩人見送るこなし。



治兵

それでは、もうお歸りでござりまするか。今日は何かと、いかうお世話をかけまして。



孫右

なんの、禮に及ぶ事。他人ではあるまいし、いつ何時、この孫右衞門が世話になるやら、明日の事は、知れぬで持つた憂き世の中。



治兵

變り易い人心。



さん

變らぬものは、親子の情愛。



孫右

夫婦仲を睦まじう、商賣大事にして下されや。



治兵

左樣なれば、兄者人。



孫右

治兵衞、おさん、おさらばでござるぞや。



兩人

ようお出でなされました。


[唄]

お末の手を引き立歸る。



[ト書]

ト孫右衞門、お末の手を引き向うへ入る。治兵衞、おさん思ひ入れあつて



治兵

アヽ、最前からのもやくやで、ほつくりと氣が盡きた。ドレ、一寢入りして來よう。


[唄]

濟まぬ心の納戸口、暖簾押しあけ、奧へ行く、折からひよこすか三五郎。



[ト書]

トこれにて、治兵衞、納戸口へ入る、ト三五郎、目をこすりながら中庭から出て來り



三五

お家樣/\、もう何時でござります。



さん

三五郎とした事が、夜夜中のやうに何事ぞ。日も暮れるに間もあるまい。いつものやうに店を締めて火を點し、神明へも燈明上げましや。



三五

オツと合點。承知仕つて畏まり候ふ。



さん

ても、詞數の多い子ではある。さうして勘太郎は。



三五

坊さんは奧の炬燵で、わしが添乳をして居て、いつの間にやら、ツイうと/\と寢て居るうち、道頓堀の芝居を見物に行た夢を見た。コレお家樣、明日は芝居を見にやつて下されませや。



さん

何を云やるやら。最前からのどさくさを知らずに、寢て居たのかや。



三五

なんぢや、どさくさぢや。鼠を猫が追ひ廻すより外に、どさくさと云ふ事は知らぬのぢや。



さん

てもマア困つた子ぢやなア。



[ト書]

ト唄になり、おさん、こなしあつて、納戸の内へ入る。



三五

何が困るのか、とんと合點が行かぬわい。



[ト書]

トあたりを見て、傳海が忘れて行つた木魚を見付けてこなし。



[三五]

こりや何ぢや。ヨウ、木魚が二つ。これは阿房陀羅經の持つてゐる木魚ぢや。成る程、いごらいごらと遊んでゐる者を阿房と云ふ。そこで阿房陀羅經。この間さらば、これからお經の文句にかヽらうか。



[ト書]

ト三五郎をかしみの見得よろしく、道具廻る。

本舞臺、平舞臺、向う小形の襖、上手折り廻し障子屋體。下手、塀、格子戸の嵌りし入口、こゝに紙屋勝手口と記せし表札、その側に用水桶、取合ひに板の塀、すべて紙屋内奧座敷の體。爰に炬燵に蒲團をかけ、丸行燈、莨盆、などよろしく、治兵衞、炬燵に寢て居る。側におさん、針箱を置き、針仕事の體。この見得よろしく幕明く。


[ト書]

ト直ぐ床の淨瑠璃になり


[唄]

門送りさへ、そこ/\に、治兵衞は側に有り合す、定木を枕、轉寐の、あたる炬燵の小春時、まだ曾根崎を忘れずかと、退ける蒲團の内さへも、涙に濕るその風情、おさんは呆れ、つく%\と、顏打まもり/\。



さん

これいな申し、治兵衞さん、よう誓紙を書いて下さんした。わたしもこれで落ちつきましたわいなア。



[ト書]

トおさん思ひ入れあつて、炬燵の蒲團をのける。治兵衞こなし。



[さん]

エヽ、あんまりぢやぞえ、治兵衞さん。それほど名殘が惜しいなら、誓紙書かぬがようござんす。なぜにお前は其やうに、わたしが憎うござんすえ。



[ト書]

トおさん泣く。治兵衞、起き上がつて思ひ入れ。



治兵

コレ/\、そりやマア何を云やるぞいなう。子までなした仲に。



さん

イエ/\、憎いさうな/\、憎ましやんすが、嘘かいなア。


[唄]

一昨年の十月、中の亥の子に、炬燵明けた祝儀とて、これ爰で枕並べてこの方は、女房の懷には、鬼が住むか蛇が住むか、それ程心殘りなら、泣かしやんせ/\、その涙が蜆川へ流れたら、小春が汲んで飮みやらうぞ、あんまり酷い治兵衙さん、なんばうお前がどのやうな、切ない義理があるとても。



[さん]

二人の子供は、お前、なんともないかいな。


[唄]

心の限り口説き立て、恨み嘆くぞ誠なる。



[ト書]

トおさんよろしく泣き落す。治兵衝、さうぢやないといふこなしあつて



治兵

オヽ、尤もぢや/\わいの。悲しい涙目より出で。無念な涙は耳からなりとも出るならば、云はずと心見すべきに、同じ目からこばるヽ涙、足掛け三年がその間


[唄]

露ほども悋氣せぬ、其方に云ふも恥かしながら。



[治兵]

マア聞いてたも。この間も曾根崎で殘らず聞いた、小春めが不心中。今といふ今夢も覺め、思ひ切つては居るけれど、ソレ、先刻にも話せし如く、あの太兵衞めが急に身請けをするとの事。退いて十日も立たぬうち、請け出さるゝ義理知らずの、小春めが事は心殘らねど。


[唄]

問屋中の付合ひにも、金の工面の盡きしゆゑ、小春を退いたのなんのと、得知らぬ奴の口の端にかゝる無念さ。



[治兵]

口惜しいと、思はず涙を流したわいなう。


[唄]

聞いて、おさんは摺寄つて。



[ト書]

トこれにておさん、思ひ入れあつて



さん

エヽ、そんなら、ほんまに小春さまは、お前に愛想つかしを云うて、太兵衞が處へ行く筈でござんすかいなう。



治兵

ハテ、きよと/\しい、その聲わいなう。



さん

オヽ、そんなら、小春さんは、生きて居る氣ぢやないわいな。死なしやんすわいなア。こりやどうせう。なんとせようぞいなア。


[唄]

と立ちつ居つ、騒ぐ女房、騒がぬ夫。



治兵

ハテサテ、なんぼう發明でも、流石は町の女房ぢや。あの不心中者が、なんの死なうぞ。



さん

イエ/\、さうぢやござんせぬ。小春さんに不心中は、芥子程もないけれど、いつぞやよりお前の素振り、何を云うてもうか/\と。


[唄]

悲しい目を見ようかと、案じ過して。



[さん]

小春さんへ、いとしいと思はしやんす、治兵衞どのゝ爲ぢや程に、思ひ切つて下さんせと、掻口説いてやつた文。


[唄]

退かれぬ義理と合點して、親にも替へぬ戀なれど、思ひ切るとの嬉しい返事。



[さん]

これ程の心で、なんの太兵衞の所へ行かしやんしよ。請け出されたら其まゝに、死ぬる覺悟に違ひはない。


[唄]

小春さんを殺しては、このさんが義理立たず。



[さん]

どうぞ命が助けたい、思案して下さんせ。


[唄]

初めて明かす女房の誠。



治兵

ムウ、そんなら、アノ不心中と見せたは、其方の頼みか。



さん

アイナア。


[唄]

聞いて恟り。



治兵

ムウ。そりや、矢ツ張りおれを大切から


[唄]

さうとは知らず、今までも。



[治兵]

義理知らずの、畜生のと、恨んだ心が恥かしい。



さん

アヽコレ、さう云ふ手間で、こなさん行つて、どうぞ殺さぬやうにして進ぜて下さんせいなア。


[唄]

と急き立つ女房。



治兵

と云うて、小春が命助けるは百五十兩、せめて半金なりとも手付けを渡し、取留むるより外はないが、何を云うても、金の工面に盡きたこの身。


[唄]

途方に暮るれば、おさんは摺寄り。



さん

ナウ仰山な。それで濟むなら、易い事ぢやわいなア。


[唄]

立つて箪笥の小抽出し、開けて取出す綯交ぜの、紐つき袱紗押開き。



[ト書]

ト此うち、おさん、向う見付けの小襖を開ける。中に白木の箪笥。おさん、抽出しより、袱紗に包みし五十兩を出し、治兵衞の前に置く。治兵衞の前に置く。治兵衞、恟りこなし。



治兵

ヤア、こりや五十兩。どうして、マア其方が。



さん

サア、この金の出所も、後で語れば知れる事。この晦日に、岩岡の仕切の金に、才覺はしたれども、それは兄御と談合して、商ひの尾は見せぬわなア。小春さんの方は急な事、その五十兩と、後の殘りは。


[唄]

と掻立つて、開けて取出す染小袖、兼ねて斯うとは白茶裏、黒羽二重も色變へぬ、淺紫の糸目結ひ、たつた鹿の子も惜氣なう、子供の物も掻き集め、内端に見ても二十兩。



[さん]

これだけあれば。


[唄]

よもや貸さぬと云ふ事は、ないものまでも有り顏に、夫の耻と我が義理を、一つに包む風呂敷の、内に情ぞ籠りける。



[さん]

わたしや子供は何着いでも、兎角男は世間が大事。小春さんを身請けして、あの太兵衞めに、一分立てゝ下さんせ。


[唄]

と云へど、いらへも涙聲、治兵衞思はず手を合せ。



[ト書]

トおさん、よろしくこなしあつて、治兵衞の着る物を出し、治兵衞、思ひ入れあつて着る。おさん手傳うて着せる。



治兵

オヽ、過分なぞや。シタガ、手付け渡して取留め、請出して圍うて置くか、内へ入れるにしてからが、マア、其方は、なんと。


[唄]

云ひさして打萎るれば。



さん

マヽ、なんのいなア、必ず案じて下さんすなえ。ハテ、モウ、子供の乳母か、飯炊か、面倒ながら眞實の妹、持つたと思うて下さんせいなア。


[唄]

云ふも胸まで突きかける、涙呑み込み/\て、夫に立てる貞節は、傍で見る目もいぢらしき。



治兵

何にも云はぬわいなう。コレおさん、親の罰、天の罰、神佛の罰は當らずとも、女房の罰が恐ろしい。


[唄]

免してくれとばかりにて、伏拜む手を。



[ト書]

ト治兵衞、手を合せて拜む。



さん

アヽ、コレ/\、勿體ないわいな/\/\。手足の爪を剥しても、皆夫への爲ぢやもの、後の間では詮ない事。サア/\/\早う。コレ、三五郎。



[ト書]

トおさん、治兵衞の手を取つて泣き落し、思ひ入れあつて急くこなし。三五郎を呼ぶ。



三五

お家さん、何ぢやな。



[ト書]

ト出て來る。



さん

其方、これを持つて、旦那樣のお供して行きや。



三五

旦那樣のお供なら、北の新地か。其奴は嬉しい/\。



治兵

コレ、無駄口云はずと、この風呂敷包みを脊負ふのぢや。


[唄]

渡す風呂敷、懷へ、金押入れて立出づる。



[ト書]

ト此うち治兵衞、金包みを懷中する。三五郎、風呂敷包みを脊負ふ。此うち五左衞門、親仁の拵らへにて出て來り、勝手口より入り、奧の間より出る。



五左

治兵衞どの、お宿にか。


[唄]

ずつと入れば、夫婦はうぢ/\。



[ト書]

トこれにて、治兵衞、おさん、恟りこなし。



治兵

これは舅どの。



さん

父さん、なんと思うて、惡い所へ。



五左

ヤア。



治兵

ようお出でなされましたなア。


[唄]

三五郎が脊負うたる、風呂敷見付けて。



五左

コリヤ阿房め、その包みを何處へ持つて行く。また質屋へうせるのか。此方へおこせ。


[唄]

引つたくられ、恟り拍子、拔參りの、宵に知れたる心地にて、一間の内へ入りにけり。



[ト書]

ト此うち、五左衞門、三五郎が脊負ひし風呂敷包みを無理に引下ろす。これはと寄るを五左衞門、睨めつける。三五郎、恟りして奧へ逃げて入る。



[五左]

大方斯うであらうと思うたわい。よう聞きさらせよ。着類着そげを質に入れて、お山狂ひに仕上げるのぢやなア。コリヤヤイ、女郎の誠とな、鬼瓦の笑顏とは無いものぢやぞよ。サア、手短かにおさんに暇やりや。女子の子は母へ付くのが世間の大法。お末は先刻に孫右衞門が連れて戻つた。その時に何ぢや。



[ト書]

ト懷より誓紙を出し。



[五左]

コレ、この誓紙を、ひけらかしておれに見せた。アヽ、えらいやうでも、何處か若い。こんなで行くのぢやないぞよ。誓紙の代りに去り状書け。誓紙は役に立たぬわい。


[唄]

引裂き/\、治兵衞が顏に打ちつけて、上へどつさり大臼形、おさんは聞き兼ね。



[ト書]

トこれにて、誓紙を引裂き捨て、キツとなる。おさん思ひ入れ。



さん

コレ父さん、そりやお前、聞えませぬわいな/\。此方の内の身代の衰へたのも、皆お前から起つた事。ないもせぬ銀山に掛つたと云うて、三十兩借り、五十兩借り、揚句にはその銀山が潰れたとやら、元も子もないやうにしてしまはしやんしたぞえ。男氣な治兵衞どの、舅の事なり、云ひ出せば此方の耻と、證文を殘らず戻し、濟ましやんしたその時には、コレ、その怖い顏に涙を滾して、おれが爲の氏神樣ぢや、と喜ばしやんした事を、お前、よもや忘れはさしやんすまいがなう。また主の惡所通ひも、元の起りは、こなさんから起つた事。歴と仕分けて貰うた身代、マア何にして金が減つたぞ、と本家の不審が立つた時、ハテ、舅どのに取られましたと、鼻毛らしう云はれもせす、口へこそ出して云ひこそさつしやらぬ、志しを推量して、初手の間の茶屋通ひは、世間への聞えでさつしやるかと、ほんにやれ/\、行かしやんす度々に、わたしや、コレ、うしろから拜んで居たわいな居たわいな。その大恩を打忘れ、阿房ぢやの、イヤたわけのと、假初めにも勿體ない。堪へて下され、こちの人。父樣、去んて下さんせ。


[唄]

宥めつ叱りつ、兩方へ、我が身一つの切なさ辛さ、思ひやられて道理なる、思ひは同じ憂き思ひ、身の云ひ譯に紀伊國屋、小春は爰へ來かゝりて、樣子ありげな内の體、逢うては如何と、用水の、蔭に隱れて聞き居たる、とは知らすして、治兵衞は手を突き。



[ト書]

トこれにて、向うより小春、好みの拵らへ、頭巾をかむり出て來り、勝手口にて内の樣子を窺ひ、思ひ入れあつて下手へ忍ぶ。治兵衞こなしあつて



治兵

御立腹の段は御尤も。シタガ、おさんが申すは皆無駄言。私しが心に存ぜぬ事。おさんとは、どうぞ此まゝ添はせて下さりませ。



[ト書]

ト云ひかけるを、押冠せて、五左衞門、捨ぜりふよろしくこなし。



五左

イヽヤ、ならぬわい、何にも云ふ事、聞く事ないわい。おさんを戻せば事は濟む。併し、拵らへおこせし道具衣裳、改めて封付けて置かうわい。



[ト書]

トずんと立つ。


[唄]

立上がれば、おさんは驚き。



さん

アヽコレ父樣、衣類道具も揃うてある。改めるには及ばぬわいな。


[唄]

駈け塞がれば、突き飛ばし、ぐつと引出し。



[ト書]

トこれにて治兵衞立ち上がらうとして、立ち惱むこなし。おさん立ち塞がるを、五左衞門突き退け、捨ぜりふにて箪笥の抽出しを明ける。



五左

ヤア、こりや、どうぢや。


[唄]

一重二重抽出しの、數もありたけ押入れまで、底を叩いて五左衞門、口あんぐりとあき入れ物、さすにもさゝれぬ詞さへ、暫し呆れて居たりける。治兵衞とつくと心を定め。



[ト書]

ト此うち五左衞門、箪笥の抽出し殘らず明け、中を見て恟り、呆れたるこなし。治兵衞キツと思ひ入れ。



治兵

コレ舅どの、この五十兩は、女房おさんが衣類諸道具の代り、不足にはあらうが、もつてござれ。



[ト書]

ト以前の金包みを差出す。五左衞門こなしあつて、金包みを取上げ



五左

持つて歸らいでか。イヤ、まだ何と云うても大身代ヂヤ。シタガ、あの體裁を見るからは、いよ/\娘は連れて去ぬ。サア/\立たう。


[唄]

と引立つれば。



さん

モシ、あゝ云ひ出しては聞かぬ父樣。わたしや、マア歸ります。云ふまでもないけれど、勘太郎が事頼みますぞえ。朝飯前に忘れずと、桑山の丸子、どうぞ服まして下さんせえ。



[ト書]

ト泣く。



治兵

オヽ、氣遣ひしやんな。思ひも寄らぬ今この仕儀。とんと心も落ちつかねど、そんなら暫く別れて居ませう。舅どのも、娘の事、まんざら酷うもさつしやるまい。つい戻るやうになろぞいなう。



[ト書]

ト治兵衞、よろしくこなしある。



さん

コレ、治兵衞さん、必らず短氣の出ぬやうに。



五左

エヽ、小面倒な暇乞ひ。キリ/\と行かぬかい。


[唄]

聲に目覺ます勘太郎。



勘太

母樣いなう/\。


[唄]

聞捨てに、後に見捨てる、子を捨てる、藪に夫婦の二股竹、長き別れと出でゝ行く。



[ト書]

トこれにて、炬燵に寢居りし勘太郎起きて、よろ/\縺れる。おさんが抱かうとするを、五左衞門、割つて入り、勘太を酷く突き飛ばす。治兵衞、これを抱き起し、おさんと顏を見合せて愁ひのこなし。おさん後へ引かゝるこなしにて、後へ戻らうとするを、五左衞門睨めつける。



五左

コリヤ、何をめそ/\泣く事がある。斯う縁切つたら赤の他人。例へ明日が日、何處で逢うても、女房などと云うたなら、聞く事ぢやないぞよ。


[唄]

口では云へど五左衞門、心残して出でゝ行く。



[ト書]

トこれにて五左衞門先に、おさん、奧へ入り、下手の勝手口より出て、泣く/\急き立てられて、向うへ入る。


[唄]

後影、見送り/\、としや遲しと駈け入る小春。



[ト書]

ト下手の用水桶の蔭より、小春、兩人を見送つてこなし。勝手口より駈け入り、奧より出る。



小春

治兵衞さん、逢ひたかつたわいなア。



治兵

其方は小春、爰へはどうして。



[ト書]

ト思ひ入れ。



勘太

母樣いなう。


[唄]

慕ふ子を、見るに二人は、いとゞ猶、思ひ崩折れ、抱きしめ、賺せばすやすや、幼な子を、いぶりながらも口説き事。



[ト書]

ト勘太郎泣くを、小春抱き上げていぶりつけ、炬燵の中へ寢かす。



小春

何から云はうぞ、治兵衞さんいつぞや曾根崎で、愛想づかしの悲しいお別れ。思ひ切つては居るけれど、太兵衞に身請けしられては、所詮生きては居ぬ覺悟。この世の名殘にたつた一目と、來る事は來ても、折惡しく立聞きした内の樣子。あれほど貞女なおさんさんに、あふぎの別れさせますも、皆わたしから起つた事、堪忍して下さんせいなア。



治兵

眞實な入譯を、聞けば聞く程、この身の誤まり。あのやうな女房が、三千世界にあらうかいなう。こん云ひ譯には、其方もわしも。



小春

そんならお前も。



治兵

おいの。



小春

嬉しうござんす。


[唄]

抱きしめたる泣じやくり、胸と胸とに云はせけり。



[ト書]

トこの時、奧にて三五郎謠ふ。



三五

高砂や、この金箱に餅入れて。


[唄]

片言まじり、阿房の三五郎、机に載せし三つ具足、兩手に抱へ、二人が眞中。



[ト書]

トこれにて、奧より、三五郎、經机の上に、佛壇の鶴龜の花瓶、供物臺に、白餅の供物載せしを、目八分に差上げ、片手に銚子を持ち出る。



[三五]

サア/\、けうといもんになつたぢやないかえ。あの先刻に、お家さんの云はんすには、コリヤ三五郎よ、おれが留守になつたら、大方小春さんがござんす程に、さうしたら旦那樣と祝言さすのぢや。われを頼むと云うて置かんしたわいな。そこでおれが思ひついて、花瓶の松に鶴龜、酒の取つたのがなかつたに依つて、水を銚子に入れて來た。仲人役はおれ樣ぢや。禮には好きな虎屋の饅頭。コレ、今から阿房と云はんすなえ。サア/\、早う飮まんせ/\。


[唄]

云へど二人はいらへさへ、死なねばならぬ知らせかと、覺悟ながらも今更に、目はうろうろとなりにける。



[三五]

ハア、こりや二人ながら泣かんすの。コレ、泣かんすないの/\。ハヽン、さては嬉し涙ぢやなア。



小春

サイナア、其方の云やる通り、嬉し涙がこぼれたわいなう。さりながら、治兵衞さんと祝言しては、どうも、おさん樣に。



三五

エヽ、なんの濟まぬ事はごんせぬわいの。お家さんは出し殻になつて、これ程甘い鰹節を、お前にやらんすこつちやもの。志しを無足にせずと、キリ/\飮んで献さんせいなう。



治兵

オヽ、こりや三五郎が云ふ通り、祝言ぢやと思や、無理もある。互ひに末期の永杯。



三五

オヽ、さらば、お酌を申さうかい。


[唄]

涙ながらに取上ぐる、酒と水とは土器の、土になるまで葬禮の、一本花や鶴龜の、蝋燭立も消ゆる身と、思へばいとゞ胸せまる。



[ト書]

ト此うち、三五郎、土器を取つて酌する。小春、治兵衞飮むこなし。



[三五]

サア/\、めでたうなつて來た。誰れぞマア、唄うたひが來いでな。


[唄]

見やる外面へ、七つ子の、墨の衣に草鞋がけ。



[ト書]

トこれにて、下手より、お末、白着附け、墨染の衣、網代笠を冠り出て、勝手口へ來る。



すゑ

安養寺尼寺、常念はつち。



[ト書]

ト大きな聲にて云ふ。



三五

ソリヤこそ來たり。


[唄]

と阿房は駈け出で、連れて入るを、顏見て恟り。



[ト書]

トこれにて三五郎、お末を連れて入る。皆々顏見て恟りこなし。



治兵

ヤア、お末ぢやないか。わが身一人戻つたか。さうしてマア、變つた形をして。



すゑ

アイ、祖父樣に、こんな美しいべゝ着せてもらうた。あまり此べゝは白いによつて、何やらたんと書いて下さつた。この書いたのを、父樣や小母樣に、ちよつと見せて來いと云うて、祖父樣が、そこまで連れて來て下さつたわいなう。



治兵

ナニ、書いたのを見てもらへとは、ドレ/\。


[唄]

あたふた脱がす墨染の、下には何か白無垢に、おさんが筆の散らし書。



[ト書]

ト小春、治兵衞立寄つて、お末の衣を脱がす。白無垢の着附けに、何か書いてあるを見て、兩人こなしある。治兵衞讀む。



[治兵]

ナニ/\、涙ながらに一筆しめし參らせ候ふ、先程、父樣と連立ち歸り候ふ節、小春さま御忍ばせの姿慥かに見受け候へども、御存じの譯合ゆゑ、お目もじもなり難く、書き殘し申し上げ參らせ候ふ。



小春

アヽコレ申し、治兵衞さん、わたしにも讀まして下さんせ下さんせいなア。エヽ、兎角連合ひの命が助けたさ、小春さまへ、わりなきお願ひ申し上げ候ひしに、お聞き屆け賜はる嬉しさ、海山にも替へまほしく、なんぼう忝なう存じ參らせ候ふ。



治兵

アヽ。この御恩を送り候ふには、末々お二人を御夫婦となし參らせ候ふより、外なく候ふ。



小春

その上、父樣の眞實を聞き、私し事は、これまでの縁と諦らめ參らせ候ふ。また、お末ことは、こなたの乳にて育て申すべく候ふ、勘太郎が事を小春さまへ、くれぐれも願ひ上げ參らせ候ふ。



[ト書]

トこなしある。



[小春]

エヽ、何の事ぢやぞいなう。こりやマア何の事ぢやぞいなう。そりや聞えませぬ。おさんさま、わしやお禮うける覺えはない。こりやわたしをば術ながらすのかいな。わたしやよう諦めて居る程になア。ちよつと戻つて下さんせいなあ。コレ治兵衞さん、呼び戻して下さんせいなア。


[唄]

立つて見、居て見、うろ/\と、譯も涙にくれ居たる、治兵衞は又も取上げて。



治兵

ナニ/\、舅五左衞門申し入れ候ふ、エヽなんの、アノ舅親仁の恩知らずめ。うぬが、なんの、碌な事を書上げるものぢや。エナニ/\、舅五左衞門申し入れ候ふ、六年以前、あたはぬ銀山にかゝり、御損失をかけ候ふ所ろ、聟舅の由縁を以て、證文殘らず返し下され、千萬忝なう存じ奉り候ふ。エエ、そりや知れたこつちやわい。エヽ、金子の減少、本家への聞えを思し召し、それゆゑの遊所通ひ、初めの嘘が實となるは、我れ人、若年の時を思ひ出し申し候ふ。ムウ。先頃、娘に右の入譯、委細に承知仕り候ふゆゑ、輕少ながら金子百五拾兩、先刻衣裝相改め候ふ節、箪笥の大抽出しへ差入れ置き申し候ふ。エヽ、すりや、金子を箪笥の抽出へ。オヽコレ、コレイノ、その箪笥の抽出を明けて見や。エヽ、その下の方ぢやわいなう。



[ト書]

ト治兵衞、小春へこなし。小春、うろ/\抽出を明けて、金包みを取出す。



小春

オヽ、爰にござんした。



治兵

オヽあつたか。エヽ、右の金子を以て、小春どのを請け出し、長くお添ひ下さるべく候ふ。



小春

そんなら、先刻の無慈悲な事も、みんな情でござんしたかいなア。



治兵

ナニ/\、娘さん事は、お末諸とも、今日尼に致し。オヽコレ、小春いなう/\、おさんが尼になつたといなア。



[ト書]

ト泣く。



小春

エヽ、おさんさまが尼にならしやんしたら、わたしや、何とせうぞいなア。



[ト書]

ト泣き沈む。



治兵

ても、おさんは尼になつたといなう/\。



[ト書]

ト泣く。



[治兵]

エヽ、娘さん事は、お末諸とも、今日尼に致し、貞玉、智月と法名つけ、天下茶屋尼寺、安養寺へ連れ行き、先刻下されし五十兩は、二人の者の飯料、即ち寺へ祠堂金に上げ申し候ふ。


[唄]

皆まで讀まず、兩人は、わつとばかりに聲を上げ。



治兵

そりや胴慾ぢや、コレおさん。そりやわしを術ながらすのぢや/\。所詮死なねばならぬこの身、子供の養育は誰れがする。聞えぬぞや、コレおさん。


[唄]

情が仇となるわいやいと、悔み嘆けば、阿房も涙、小春は涙にむせ返り。



小春

そりや胴慾な。


[唄]

おさんさま。



[小春]

これまで悋氣もなされずに、逢はしてたまはるその御恩、こま%\文のお頼みを、聞入れたのが枷になり。


[唄]

こんな事ならその時に、なぜさう云うて下さんせぬ。



[小春]

コレナア申し、治兵衞さん。


[唄]

おさんさまを呼び戻し、千年も萬年も、添へ遂げて下さんせ。



[小春]

その身ばかりか、此やうな。


[唄]

この子は可愛う、エヽマアないかいな、見れば見る程いたいけな、愛に溺るゝ幼な子の、乳房を離るゝいぢらしさ、孤子となしたるも、皆わたしから起つた事。



[小春]

堪忍して下さんせいなア。


[唄]

堪忍してとばかりにて、取亂したる詫び涙、晴れ間も分かず降りしきる。折からうそ/\善六、太兵衞。



[ト書]

ト小春こなしあつて泣き落す。治兵衞思ひ入れ。下手より太兵衞、善六出て來り、勝手口から捨ぜりふよろしく入り、奧より出て來て。



太兵

ヤイ、治兵衞め、大方こんな事であらうと思うた。おれが請け出して女房にする小春。うぬは又、なんで引込んだ。



善六

コレ太兵衞さん、細言云ふにや及ばぬ。これまで重重意趣ある治兵衞め、撲り殺して腹癒せなされませや。



太兵

オヽ、合點ぢや。


[唄]

双方より打つてかゝるを、いなたも爰ぞ一生懸命、さへぎる利腕、しつかと捕へ。



[ト書]

ト太兵衞、善六の兩人、脇差を拔いて切つてかゝる。治兵衞よろしくこなしあつて立廻つて、



治兵

コリヤ三五郎、お末、勘太郎を連れて、堂島の舅の所へ。



三五

それでも、わしが居ぬと、便りなからうがな。



治兵

エヽ、阿房云はずと、早う行け。



三五

合點ぢや。


[唄]

おつと心得、三五郎、手早く二人を伴うて、表の方へ出でゝ行く。



[ト書]

ト治兵衞、小春を庇うて、太兵衞、善六の兩人と立廻りのうち、三五郎、勘太郎を脊負ひ、お末の手を引いて、勝手口から出て、下手へ入る。



太兵

コレ善六。



善六

オツと心得た。


[唄]

云ふうち打込む善六太兵衞、折よく外せば、二人は同士打ち。



太兵

コリヤ治兵衞めが、切り居つた。


[唄]

云ふに恟り、氣も顛倒、日頃の意趣に滅多打ち、乘り掛つて止めの刀。



[ト書]

トよろしくごつちやの立廻りあつて、トヾ太兵衞、善六、同士打ちしてへたる。治兵衞、顫へながら止めをさす。小春、恟りこなし。



小春

アレ。



治兵

小春、怖い事は何にもない。ヂツとして居や。



[ト書]

ト小春、治兵衞に抱きつく。治兵衞思ひ入れ。



小春

ヤア、すりや、二人を。



治兵

アヽコレ。



[ト書]

ト合ひ方、メリヤスになる。



[治兵]

コレ小春、怖い事はない。もう斯うなる上は是非に及ばぬ。かねて云ひ合した通り、最期所は網島の大長寺。そんなら直ぐに。



小春

人なきうちに。



治兵

サア、おぢや。


[唄]

手を引き急ぐ惡縁の、末は涙の藻汐草、噂の種となりにけり。



[ト書]

ト治兵衞、小春の手を取つて、勝手口へ出る。この見得よろしく。

[1] In the following pages only 傳海, not 傳梅, appears.



心中天網島(をはり)