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Japanese Text Initiative
Produced by the Japanese Text Initiative at the University of Virginia and the University of Pittsburgh.
Prepared for the University of Virginia Library Electronic Text Center.
世阿彌
作
さしも平家の忠臣として。屋島の合戦に功名をあらはしたる惡七兵衞景清は。平家 亡び源氏の代となりて後も。苦心して頼朝をねらひたる事度々なりしが。事成らず。遂 に捕はれて日向の宮崎に流され。老衰してあさましき有様なりし處に。息女人丸の訪ひ 來るといふ物語を。あはれに作りたる謠なり。
「消えぬ便も風 なれば。消えぬ便も風なれば。露の身いかになりぬらん。
「是は鎌倉龜が江が谷に。人丸と申す女にて候。さても我父惡七兵衞景清 は。平家の 味方たるにより。源氏に憎まれ。日向の 國宮崎とかやに流 されて。年月を送り給ふなる。い まだ習はぬ道 すがら。物うき事も旅のならひ。 また父ゆゑと心 づよく。
「思寢の 涙かたしく。草 の枕露をそへて。いと 滋き袂かな。
「相模の國を立ちいでて。相 模の國を立ちいでて。誰にゆくへを遠江。げに遠き江に旅舟の。三河にわたす八橋 の。雲井の都 いつかさて。假寢の夢に馴れて見ん。假寢の夢に馴れて見ん。
「やうやう御急 ぎ候ふほどに。 是は早日向の國 宮崎とかやに御着きにて候。ここにて父御の 御行方を御尋ねあら うずるにて候。
「松門獨り 閉ぢて年月を 送り。みづから清光 を見ざれば。時 の移るをも辨へ ず。暗々たる庵室に徒に眠り。衣寒暖に 與へざれば。膚 はぎょう骨と衰へたり。
「とても世を。 背くとならば墨にこそ。背くとならば墨にこそ。染むべき袖のあさましや。やつれはてたる有樣を。我だに憂しと思ふ身を。誰こそありて憐みの。憂きをとぶらふよしもなし。憂きをとぶらふよしもなし。
「ふしぎやな是なる草の庵ふりて。誰住むべくも見えざるに。聲めづらかに聞ゆるは。もし乞食のありかかと。軒端も遠くみえたるぞや。
シテ詞 「秋きぬと 目にはさやかに見えねども。風の音信いづちとも。
「知らぬ 迷ひのはかなさを。しばし休らふ宿もなし。
シテ詞 「げに三界は所なしただ一空のみ。誰とかさして事問はん。又いづちとか答ふべき。
「いかに此藁屋 の内へ物問 はう。
「そも以何な るものぞ。
「流され 人の行方や 知りてある。
「流され 人にとりても。名字 をば何と申 し候ふぞ。
「平家の 侍惡七兵衞景清と申 し候。
「げにさやうの人 をば承り及 びては候へども。本より盲目なれば 見る事な し。さもあさましき御有様うけたまはり。そぞろ にあはれを催すなり。くはしき事をばよそにて 御尋ね候へ。
「さては此あ たりにては御座なげに候。是より奧へ御出であつて 尋ね申され 候へ。
「ふしぎやな只 今の者をいかなる者ぞと存じて候へば。この盲目 なるものの子にて候 ふはいかに。我一年尾張の國熱田にて遊女 と相馴れ一人 の子をまうく。女子なれば何の 用に立つ べきぞと思ひ。鎌 倉龜が江が谷の長に預 けおきしが。馴れぬ親子を悲しみ。 父に向つ て言葉をかはす。