斜陽一朝、食堂でスウプを一さじ、すつと吸つてお母さまが、 「あ。」 と幽かな叫び聲をお擧げになつた。 「髮の毛?」 スウプに何か、イヤなものでも入つてゐたのかしら、と思つた。 「いいえ。」 お母さまは、何事も無かつたやうに、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顏を横に向け、お勝手の窓の、滿開の山櫻に視線を送り、さうしてお顏を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあひだに滑り込ませた。ヒラリ、といふ形容は、お母さまの場合、決して誇張ではない。婦人雜誌などに出てゐるお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違つていらつしやる。弟の直治がいつか、お酒を飮みながら、姉の私に向つてかう言つた事がある。 「爵位があるから、貴族だといふわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天爵といふものを持つてゐる立派な貴族のひともあるし、おれたちのやうに爵位だけは持つてゐても、貴族どころか、賤民にちかいのもゐる。岩島なんてのは(と直治の學友の伯爵のお名前を擧げて)あんなのは、まつたく、新宿の遊廓の客引き番頭よりも、もつとげびてる感じぢやねえか。こなひだも、柳井(と、やはり弟の學友で、子爵の次男のかたのお名前を擧げて)の兄貴の結婚式に、あんちきしよう、タキシイドなんか着て、なんだつてまた、タキシイドなんかを着て來る必要があるんだ、それはまあいいとして、テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルといふ不可思議な言葉をつかつたのには、げつとなつた。氣取るといふ事は、上品といふ事と、ぜんぜん無關係なあさましい虚勢だ。高等御下宿と書いてある看板が本郷あたりによくあつたものだけれども、じつさい華族なんてものの大部分は、高等御乞食とでもいつたやうなものなんだ。しんの貴族はあんな岩島みたいな下手な氣取りかたなんか、しやしないよ。おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらゐのものだらう。あれは、ほんものだよ。かなはねえところがある。」 スウプのいただきかたにしても、私たちならお皿の上にすこしうつむき、さうしてスプウンを横に持つてスウプを掬ひ、スプウンを横にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、お母さまは左手のお指を輕くテーブルの縁にかけて、上體をかがめる事も無く、お顏をしやんと擧げて、お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさつと掬つて、それから、燕のやうに、とでも形容したいくらゐに輕く鮮やかにスプウンをお口と直角になるやうに持ち運んで、スプウンの尖端から、スウプをお唇のあひだに流し込むのである。さうして、無心さうにあちこち傍見などなさりながら、ひらりひらりと、まるで小さな翼のやうにスプウンをあつかひ、スウプを一滴もおこぼしになる事も無いし、吸ふ音もお皿の音もちつともお立てにならぬのだ。それは所謂正式禮法にかなつたいただき方では無いかも知れないけれども、私の目には、とても可愛らしく、それこそほんものみたいに見える。また、事實、お飮物は、うつむいてスプウンの横から吸ふよりは、ゆつたり上半身を起して、スプウンの尖端からお口に流し込むやうにしていただいたはうが、不思議なくらいにおいしいものだ。けれども私は直治の言ふやうな高等御乞食なのだから、お母さまのやうにあんなに輕く無雜作にスプウンをあやつる事が出來ず、仕方なく、あきらめてお皿の上にうつむき、所謂正式禮法どほりの陰氣ないただき方をしてゐるのである。 スウプに限らず、お母さまのお食事のいただき方は、頗る禮法にはづれてゐる。お肉が出ると、ナイフとフオクで、さつさと全部小さく切りわけてしまつて、それからナイフを捨て、フオクを右手に持ちかへ、その一きれ一きれをフオクに刺してゆつくり樂しさうに召し上つていらつしやる。また、骨つきのチキンなど、私たちがお皿を鳴らさずに骨から肉を切りはなすのに苦心してゐる時、お母さまは、平氣でひよいと指先で骨のところをつまんで持ち上げ、お口で骨と肉をはなして澄ましていらつしやる。そんな野蠻な仕草も、お母さまが、なさると、可愛らしいばかりか、へんにエロチックにさへ見えるのだから、さすがにほんものは違つたものである。骨つきのチキンの場合だけでなく、お母さまは、ランチのお菜のハムやソセージなども、ひよいと指先でつまんで召し上る事さへ時たまある。 「おむすびが、どうしておいしいのだか、知つてゐますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ。」 とおつしやつた事もある。 本當に、手でたべたら、おいしいだらうな、と私も思ふ事があるけれど、私のやうな高等御乞食が、下手に眞似してそれをやつたら、それこそほんものの乞食の圖になつてしまひさうな氣もするので我慢してゐる。 弟の直治でさへ、ママにはかなはねえ、と言つてゐるが、つくづく私も、お母さまの眞似は困難で、絶望みたいなものをさへ感じる事がある。いつか、西片町のおうちの奧庭で、秋のはじめの月のいい夜であつたが、私はお母さまと二人でお池の端のあづまやで、お月見をして、狐の嫁入りと鼠の嫁入りとは、お嫁のお仕度がどうちがふか、など笑ひながら話合つてゐるうちに、お母さまは、つとお立ちになつて、あづまやの傍の萩のしげみの奧へおはひりになり、それから、萩の白い花のあひだから、もつとあざやかに白いお顏をお出しになつて、少し笑つて、 「かず子や、お母さまがいま何をなさつてゐるか、あててごらん。」 とおつしやつた。 「お花を折つていらつしやる。」 と申し上げたら、小さい聲を擧げてお笑ひになり、 「おしつこよ。」 とおつしやつた。 ちつともしやがんでいらつしやらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても眞似られない、しんから可愛らしい感じがあつた。 けさのスウプの事から、ずゐぶん脱線しちやつたけれど、こなひだ或る本で讀んで、ルヰ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の隅などで、平氣でおしつこをしてゐたといふ事を知り、その無心さが、本當に可愛らしく、私のお母さまなども、そのやうなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなからうかと考へた。 さて、けさは、スウプを一さじお吸ひになつて、あ、と小さい聲をお擧げになつたので、髮の毛? とおたづねすると、いいえ、とお答へになる。 「鹽辛かつたかしら。」 けさのスウプは、こなひだアメリカから配給になつた罐詰のグリンピイスを裏ごしして、私がポタージュみたいに作つたもので、もともとお料理には自信が無いので、お母さまに、いいえ、と言はれても、なほも、はらはらしてさうたづねた。 「お上手に出來ました。」 お母さまは、まじめにさう言ひ、スウプをすまして、それからお海苔で包んだおむすびを手でつまんでおあがりになつた。 私は小さい時から、朝ごはんがおいしくなく、十時頃にならなければ、おなかがすかないので、その時も、スウプだけはどうやらすましたけれども、食べるのがたいぎで、おむすびをお皿に載せて、それにお箸を突込み、ぐしやぐしやにこはして、それから、その一かけらをお箸でつまみ上げ、お母さまがスウプを召し上る時のスプウンみたいに、お箸をお口と直角にして、まるで小鳥に餌をやるやうな工合ひにお口に押し込み、のろのろといただいてゐるうちに、お母さまはもうお食事を全部すましてしまつて、そつとお立ちになり、朝日の當つてゐる壁にお背中をもたせかけ、しばらく默つて私のお食事の仕方を見ていらして、 「かず子は、まだ、駄目なのね。朝御飯が一番おいしくなるやうにならなければ。」 とおつしやつた。 「お母さまは? おいしの?」 「そりやもう、私はもう病人ぢやないもの」 「かず子だつて、病人ぢやないわ。」 「だめだめ。」 お母さまは、淋しさうに笑つて首を振つた。 私は五年前に、肺病といふ事になつて、寢込んだ事があつたけれども、あれは、わがまま病だつたといふ事を私は知つてゐる。けれども、お母さまのこなひだの御病氣は、あれこそ本當に心配な、哀しい御病氣だつた。だのに、お母さまは、私の事ばかり心配していらつしやる。 「あ。」 と私が言つた。 「なに?」 とこんどは、お母さまのはうでたづねる。 顏を見合せ、何か、すつかりわかり合つたものを感じて、うふふと私が笑ふとお母さまも、につこりお笑ひになつた。 何か、たまらない恥づかしい思ひに襲はれた時に、あの奇妙な、あ、といふ幽かな叫び聲が出るものなのだ。私の胸に、いま出し拔けにふうつと、六年前の私の離婚の時の事が色あざやかに思ひ浮んで來て、たまらなくなり、思はず、あ、と言つてしまつたのだが、お母さんの場合は、どうなのだらう。まさかお母さんに、私のやうな恥づかしい過去があるわけは無し、いや、それとも、何か。 「お母さまも、さつき、何かお思ひ出しになつたのでせう? どんな事?」 「忘れたわ。」 「私の事?」 「いいえ。」 「直治の事?」 「さう、」 と言ひかけて、首をかしげ、 「かも知れないわ。」 とおつしやつた。 弟の直治は大學の中途で召集され、南方の島へ行つたのだが、消息が絶えてしまつて、終戰になつても行先が不明で、お母さまは、もう直治には逢へないと覺悟してゐる、とおつしやつてゐるけれども、私は、そんな、「覺悟」なんかした事は一度もない。きつと逢へるとばかり思つてゐる。 「あきらめてしまつたつもりなんだけど、おいしいスウプをいただいて、直治を思つて、たまらなくなつた。もつと、直治に、よくしてやればよかつた。」 直治は高等學校にはひつた頃から、いやに文學にこつて、ほとんど不良少年みたいな生活をはじめて、どれだけお母さまに御苦勞をかけたか、わからないのだ。それだのにお母さまは、スウプを一さじ吸つては直治を思ひ、あ、とおつしやる。私はごはんを口に押し込み眼が熱くなつた。 「大丈夫よ。直治は、大丈夫よ。直治みたいな惡漢は、なかなか死ぬものぢやないわよ。死ぬひとは、きまつて、おとなしくて、綺麗で、やさしいものだわ。直治なんて、棒でたたいたつて、死にやしない。」 お母さまは笑つて、 「それぢや、かず子さんは早死にのほうかな。」 と私をからかふ。 「あら、どうして? 私なんか、惡漢のおデコさんですから、八十歳までは大丈夫よ。」 「さうなの? そんなら、お母さまは九十歳までは大丈夫ね。」 「ええ、」 と言ひかけて、少し困つた。惡漢は長生きする。綺麗なひとは早く死ぬ。お母さまは、お綺麗だ。けれども、長生きしてもらひたい。私は頗るまごついた。 「意地わるね!」 と言つたら、下唇がぷるぷる震へて來て、涙が眼からあふれて落ちた。 蛇の話をしようかしら。その四、五日前の午後に、近所の子供たちが、お庭の垣の竹藪から、蛇の卵を十ばかり見つけて來たのである。 子供たちは、 「蝮の卵だ。」 と言ひ張つた。私はあの竹藪に蝮が十匹も生れては、うつかりお庭にも降りられないと思つたので、 「燒いちやおう。」 と言ふと、子供たちはをどり上つて喜び、私のあとからついて來る。 竹藪の近くに、木の葉や柴を積み上げて、それを燃やし、その火の中に卵を一つづつ投げ入れた。卵は、なかなか燃えなかつた。子供たちが、更に木の葉や小枝を焔の上にかぶせて火勢を強くしても、卵は燃えさうもなかつた。 下の農家の娘さんが、垣根の外から、 「何をしていらつしやるのですか?」 と笑ひながらたづねた。 「蝮の卵を燃やしてゐるのです。蝮が出るとこはいんですもの。」 「大きさは、どれくらゐですか?」 「うづらの卵くらゐで、眞白なんです。」 「それぢや、ただの蛇の卵ですわ。蝮の卵ぢやないでせう。生の卵は、なかなか燃えませんよ。」 娘さんは、さも可笑しさうに笑つて、去つた。 三十分ばかり火を燃やしてゐたのだけれども、どうしても卵は燃えないので、子供たちに卵を火の中から拾はせて、梅の木の下に埋めさせ、私は小石を集めて墓標を作つてやつた。 「さあ、みんな、拜むのよ。」 私がしやがんで合掌すると、子供たちもおとなしく私のうしろにしやがんで合掌したやうであつた。さうして子供たちとわかれて、私ひとり石段をゆつくりのぼつて來ると、石段の上の、藤棚の蔭にお母さまが立つていらして、 「可哀さうな事をするひとね。」 とおつしやつた。 「蝮かと思つたら、ただの蛇だつたの。だけど、ちやんと埋葬してやつたから、大丈夫。」 とは言つたものの、こりやお母さまに見られて、まづかつたなと思つた。 お母さまは決して迷信家ではないけれども、十年前、お父上が西片町のお家で亡くなられてから、蛇をとても恐れていらつしやる。お父上の御臨終の直前に、お母さまが、お父上の枕元に細い黒い紐が落ちてゐるのを見て、何氣なく拾はうとなさつたら、それが蛇だつた。するすると逃げて、廊下に出てそれからどこへ行つたかわからなくなつたが、それを見たのは、お母さまと、和田の叔父さまとお二人きりでお二人は顏を見合せ、けれども御臨終のお座敷の騒ぎにならぬやう、こらへて默つていらしたといふ。私たちも、その場に居合せてゐたのだが、その蛇の事はだから、ちつとも知らなかつた。 けれども、そのお父上の亡くなられた日の夕方、お庭の池のはたの、木といふ木に蛇がのぼつてゐた事は、私も實際に見て知つてゐる。私は二十九のばあちやんだから、十年前のお父上の御逝去の時は、もう十九にもなつてゐたのだ。もう子供では無かつたのだから、十年經つてもその時の記憶はいまでもはつきりしてゐて、間違ひは無い筈だが、私がお供への花を剪りに、お庭のお池のはうに歩いて行つて、池の岸のつつじのところに立ちどまつて、ふと見ると、そのつつじの枝先に、小さい蛇がまきついてゐた。すこしおどろいて、つぎの山吹の花枝を折らうとすると、その枝にも、まきついてゐた。隣りの木犀にも、若楓にも、えにしだにも、藤にも、櫻にも、どこの木にも、どの木にも、蛇がまきついてゐたのである。けれども私には、そんなにこはく思はれなかつた。蛇も、私と同樣にお父上の逝去を悲しんで、穴から這ひ出てお父上の靈を拜んでゐるのであらうといふやうな氣がしただけであつた。さうして私は、そのお庭の蛇の事を、お母さまにそつとお知らせしたらお母さまは落ちついて、ちよつと首を傾けて何か考へるやうな御樣子をなさつたが、べつに何もおつしやりはしなかつた。 けれども、この二つの蛇の事件が、それ以來お母さまを、ひどい蛇ぎらひにさせたのは事實であつた。蛇ぎらひといふよりは、蛇をあがめ、おそれる、つまり畏怖の情をお持ちになつてしまつたやうだ。 蛇の卵を燒いたのをお母さまに見つけられ、お母さまはきつと何か不吉なものをお感じになつたに違ひないと思つたら、私も急に蛇の卵を燒いたのがたいへんなおそろしい事だつたやうな氣がして來て、この事がお母さまに或ひは惡い崇りをするのではあるまいかと、心配で心配で、あくる日も、またそのあくる日も忘れる事が出來ずにゐたのに、けさは食堂で、美しい人は早く死ぬ、などめつさうも無い事をつい口走つて、あとで、どうにも言ひつくろひが出來ず、泣いてしまつたのだが、朝食のあと片づけをしながら、何だか自分の胸の奧に、お母さまのお命をちぢめる氣味わるい小蛇が一匹はひり込んでゐるやうで、いやでいやで仕樣が無かつた。 さうして、その日、私はお庭で蛇を見た。その日はとてもなごやかないいお天氣だつたので、私はお臺所のお仕事をすませて、それからお庭の芝生の上に籐椅子をはこび、そこで編物を仕樣と思つて、籐椅子を持つてお庭に降りたら、庭石の笹のところに蛇がゐた。おお、いやだ。私はたださう思つただけで、それ以上深く考へる事もせず、籐椅子を持つて引返して縁側に椅子を置いてそれに腰かけて編物にとりかかつた。午後になつて、私はお庭の隅の御堂の奧にしまつてある藏書の中から、ローランサンの畫集を取り出して來ようと思つて、お庭へ降りたら、芝生の上を、蛇が、ゆつくりゆつくり這つてゐる。朝の蛇と同じだつた。ほつそりした、上品な蛇だつた。私は、女蛇だ、と思つた。彼女は芝生を靜かに横切つて、野ばらの蔭まで行くと、立ちどまつて首を上げ細い焔のやうな舌をふるはせた。さうしてあたりを眺めるやうな恰好をしたが、しばらくすると、首を垂れ、いかにも物憂げにうづくまつた。私はその時にも、ただ美しい蛇だ、といふ思ひばかりが強く、やがて御堂に行つて畫集を持ち出し、かへりにさつきの蛇のゐるところをそつと見たが、もうゐなかつた。 夕方ちかく、お母さまと支那間でお茶をいただきながら、お庭のはうを見てゐたら、石段の三段目の石のところに、けさの蛇がまたゆつくりとあらはれた。 お母さまもそれを見つけ、 「あの蛇は?」 とおつしやるなり私のはうに走り寄り、私の手をとつたまま立ちすくんでおしまひになつた。さう言はれて、私も、はつと思ひ當り、 「卵の母親?」 と口に出して言つてしまつた。 「さう、さうよ。」 お母さまのお聲は、かすれてゐた。 私たちは手をとり合つて、息をつめ、默つてその蛇を見護つた。石の上に、物憂げにうづくまつてゐた蛇は、よろめくやうにまた動きはじめ、さうして力弱さうに石段を横切り、かきつばたのはうに這つて行つた。 「けさから、お庭を歩きまはつてゐたのよ。」 と私が小聲で申し上げたら、お母さまは、溜息をついてくたりと椅子に坐り込んでおしまひになつて、 「さうでせう? 卵を搜してゐるのですよ。可哀さうに。」 と沈んだ聲でおつしやつた。 私は仕方なく、ふふと笑つた。 夕日がお母さまのお顏に當つて、お母さまのお眼が青いくらゐに光つて見えて、その幽かに怒りを帶びたやうなお顏は、飛びつきたいほどに美しかつた。さうして、私は、ああ、お母さまのお顏は、さつきのあの悲しい蛇にどこか似ていらつしやる、と思つた。さうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇を、いつか、食ひ殺してしまふのではなからうかと、なぜだか、なぜだか、そんな氣がした。 私はお母さまの軟らかなきやしやなお肩に手を置いて、理由のわからない身悶えをした。 私たちが、東京の西片町のお家を捨て、伊豆のこの、ちよつと支那ふうの山莊に引越して來たのは、日本が無條件降伏をしたとしの、十二月のはじめであつた。お父上がお亡くなりになつてから、私たちの家の經濟はお母さまの弟で、さうしていまではお母さまのたつた一人の肉親でいらつしやる和田の叔父さまが、全部お世話して下さつてゐたのだが、戰爭が終つて世の中が變り、和田の叔父さまが、もう默目だ、家を賣るより他は無い、女中にも皆ひまを出して、親子二人で、どこか田舎の小綺麗な家を買ひ、氣ままに暮したはうがいい、とお母さまにお言ひ渡しになつた樣子で、お母さまは、お金の事は子供よりも、もつと何もわからないお方だし、和田の叔父さまからさう言はれて、それではどうかよろしく、とお願ひしてしまつたやうである。 十一月の末に叔父さまから速達が來て、駿豆鐵道の沿線に河田子爵の別莊が賣り物に出てゐる、家は高臺で見晴しがよく、畑も百坪ばかりある、あのあたりは梅の名所で、冬暖かく夏涼しく、住めばきつと、お氣に召すところと思ふ、先方と直接お逢ひになつてお話をする必要もあると思はれるから、明日とにかく銀座の私の事務所までおいでを乞ふ、といふ文面で、 「お母さま、おいでなさる?」 と私がたづねると、 「だつて、お願ひしてゐたんだもの。」 と、とてもたまらなく淋しさうに笑つておつしやつた。 翌る日、もとの運轉手の松山さんにお伴をたのんで、お母さまはお晝すこし過ぎにおでかけになり、夜の八時頃、松山さんに送られてお歸りになつた。 「きめましたよ。」 かず子のお部屋へはいつて來て、かず子の机に手をついてそのまま崩れるやうにお坐りになり、さう一言おつしやつた。 「きめたつて、何を?」 「全部。」 「だつて、」 と私はおどろき、 「どんなお家だか、見もしないうちに、……」 お母さまは机の上に片肘を立て、額に輕くお手を當て、小さい溜息をおつきになり、 「和田の叔父さまが、いい所だとおつしやるのだもの。私は、このまま、眼をつぶつてそのお家へ移つて行つても、いいやうな氣がする。」 とおつしやつてお顏を擧げて、かすかにお笑ひになつた。そのお顏は、少しやつれて美しかつた。 「さうね。」 と私も、お母さまの和田の叔父さまに對する信頼心の美しさに負けて、合槌を打ち、 「それでは、かず子も眼をつぶるわ。」 二人で聲を立てて笑つたけれども、笑つたあとが、すごく淋しくなつた。 それから毎日、お家へ人夫が來て、引越しの荷ごしらへがはじまつた。和田の叔父さまも、やつて來られて、賣り拂ふものは賣り拂ふやうにそれぞれ手配をして下さつた。私は女中のお君と二人で、衣類の整理をしたり、がらくたを庭先で燃やしたりしていそがしい思ひをしてゐたが、お母さまは、少しも整理のお手傳ひも、お指圖もなさらず、毎日お部屋で、なんとなく、ぐづぐづしていらつしやるのである。 「どうなさつたの? 伊豆へ行きたくなくなつたの?」 と思ひ切つて、少しきつくお訊ねしても、 「いいえ。」 とぼんやりしたお顏でお答へになるだけであつた。 十日ばかりして、整理が出來上つた。私は、夕方お君と二人で、紙くづや藁を庭先で燃やしてゐると、お母さまも、お部屋から出ていらして、縁側にお立ちになつて默つて私たちの焚火を見ていらした。灰色みたいな寒い西風が吹いて、煙が低く地を這つてゐて、私は、ふとお母さまの顏を見上げ、お母さまのお顏色が、いままで見たこともなかつたくらゐに惡いのにびつくりして、 「お母さま、お顏色がお惡いわ。」 と叫ぶと、お母さまは薄くお笑ひになり、 「なんでもないの。」 とおつしやつて、そつとまたお部屋におはひりになつた。 その夜お蒲團はもう荷造りをすましてしまつたので、お君は二階の洋間のソフアに、お母さまと私は、お母さまのお部屋に、お隣りからお借りした一組のお蒲團をひいて、二人一緒にやすんだ。 お母さまは、おや? と思つたくらゐに老けた弱々しいお聲で、 「かず子がゐるから、かず子がゐてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がゐてくれるから。」 と意外な事をおつしやつた。 私はどきんとして、 「かず子がゐなかつたら?」 と思はずたずねた。 お母さまは、急にお泣きになつて、 「死んだはうがよいのです。お父さまの亡くなつたこの家で、お母さまも、死んでしまひたいのよ。」 と、とぎれとぎれにおつしやつて、いよいよはげしくお泣きになつた。 お母さまは、今まで私に向つて一度だつてこんな弱音をおつしやつた事がなかつたし、また、こんなに烈しくお泣きになつてゐるところを私に見せた事もなかつた。お父上がお亡くなりになつた時も、また私がお嫁に行く時も、そして赤ちやんをおなかにいれてお母さまの許へ歸つて來た時も、そして、赤ちやんが病院で死んで生れた時も、それから私が病氣になつて寢込んでしまつた時も、また、直治が惡い事をした時も、お母さまは決してこんなお弱い態度をお見せになりはしなかつた。お父上がお亡くなりになつて十年間、お母さまは、お父上の在世中と少しも變らない、のんきな、優しいお母さまだつた。さうして、私たちも、いい氣になつて甘えて育つて來たのだ。けれども、お母さまには、もうお金が無くなつてしまつた。みんな私たちのために、私と直治のために、みぢんも惜しまずにお使ひになつてしまつたのだ。さうしてもう、この永年住みなれたお家から出て行つて、伊豆の小さい山莊で私とたつた二人きりで、わびしい生活をはじめなければならなくなつた。もしお母さまが意地惡でケチケチして、私たちを叱つて、さうしてこつそりご自分だけのお金をふやす事を工夫なさるやうなお方であつたら、どんなに世の中が變つても、こんな、死にたくなるやうなお氣持におなりになるやうな事はなかつたらうに、ああ、お金が無くなるといふ事は、なんといふおそろしいみじめな、救ひの無い地獄だらう、と生れてはじめて氣がついた思ひで、胸が一ぱいになり、あまり苦しくて泣きたくても泣けず、人生の嚴肅とは、こんな時の感じを言ふのであらうか、身動き一つ出來ない氣持で、仰向に寢たまま、私は石のやうに凝つとしてゐた。 翌る日、お母さまは、やはりお顏色が惡く、なほ何やらぐづぐづして、少しでも永くこのお家にいらつしやりたい樣子であつたが、和田の叔父さまが見えられて、もう荷物はほとんど發送してしまつたし、けふ伊豆に出發と、お言ひつけになつたので、お母さまは、しぶしぶコートを着て、おわかれの挨拶を申し上げるお君や、出入のひとたちに無言でお會釋なさつて、叔父さまと私と三人、西片町のお家を出た。 汽車は割に空いてゐて、三人とも腰かけられた。汽車の中では、叔父さまは非常な上機嫌で、うたひなど唸つていらつしやつたが、お母さまはお顏色が惡く、うつむいて、とても寒さうにしていらした。三島で駿豆鐵道に乘りかへ、伊豆長岡で下車して、それからバスで十五分くらゐで降りてから山のはうに向つて、ゆるやかな坂道をのぼつて行くと、小さい部落があつて、その部落のはづれに支那ふうのちよつとこつた山莊があつた。 「お母さま、思つたよりもいい所ね。」 と私は息をはずませて言つた。 「さうね。」 とお母さまは山莊の玄關の前に立つて、一瞬うれしさうな眼つきをなさつた。 「だいいち、空氣がいい。清淨な空氣です。」 と叔父さまは、ご自慢なさつた。 「本當に、」 とお母さまは微笑まれて、 「おいしい。ここの空氣は、おいしい。」 とおつしやつた。 さうして、三人で笑つた。 玄關にはひつてみると、もう東京からのお荷物が着いてゐて、玄關からお部屋からお荷物で一ぱいになつてゐた。 「次には、 [1]お庭敷からの眺めがよい。」 叔父さまは浮かれて、私たちをお座敷に引つぱつて行つて坐らせた。 午後の三時頃で、冬の日が、お庭の芝生にやはらかく當つてゐて、芝生から石段を降りつくしたあたりに小さいお池があり、梅の木がたくさんあつて、お庭の下には蜜柑畑がひろがり、それから村道があつて、その向うは水田で、それからずつと向うに松林があつて、その松林の向うに海が見える。海は、かうしてお座敷に坐つてゐると、ちやうど私のお乳のさきに水平線がさはるくらゐの高さに見えた。 「やはらかな景色ねえ。」 とお母さまは、もの憂さうにおつしやつた。 「空氣のせゐかしら。陽の光が、まるで東京と違ふぢやないの。光線が絹ごしされてゐるみたい。 と私は、はしやいで言つた。 十疊間と六疊間と、それから支那式の應接間と、それからお玄關が、三疊、お風呂場のところにも三疊がついてゐて、それから食堂と、お勝手とそれからお二階に大きいベッドの附いた來客用の洋間が一間、それだけの間數だけれども、私たち二人、いや、直治が歸つて三人になつても、別に窮屈でないと思つた。 叔父さまは、この部落でたつた一軒だといふ宿屋へ、お食事を交渉に出かけ、やがてとどけられたお辨當を、お座敷にひろげて御持參のウヰスキイをお飮みになり、この山莊の以前の持主でいらした河田子爵と支那で遊んだ頃の失敗談など語つて、大陽氣であつたが、お母さまは、お辨當にもほんのちよつとお箸をおつけになつただけで、やがて、あたりが薄暗くなつて來た頃、 「すこし、このまま寢かして。」 と小さい聲でおつしやつた。 私がお荷物の中からお蒲團を出して、寢かせてあげ、何だかひどく氣がかりになつて來たので、お荷物から體温計を搜し出して、お熱を計つてみたら、三十九度あつた。 叔父さまもおどろいたご樣子で、とにかく下の村まで、お醫者を搜しに出かけられた。 「お母さま?」 とお呼びしても、ただ、うとうとしていらつしやる。 私はお母さまの小さいお手を握りしめて、すすり泣いた。お母さまがお可哀想でお可哀想で、いいえ、私たち二人が可哀想で可哀想で、いくら泣いても、とまらなかつた。泣きながら、ほんとにこのままお母さんと一緒に死にたいと思つた。もう私たちは、何も要らない。私たちの人生は、西片町のお家を出た時に、もう終つたのだと思つた。 二時間ほどして叔父さまが、村の先生を連れて來られた。村の先生は、もうだいぶおとし寄りのやうで、さうして仙臺平の袴を着け、白足袋をはいてをられた。 ご診察が終つて、 「肺炎になるかも知れませんでございます。けれども、肺炎になりましても、御心配はございません。」 と、何だかたより無い事をおつしやつて、注射をして下さつて歸られた。 翌る日になつても、お母さまのお熱は、さがらなかつた。和田の叔父さまは、私に二千圓お手渡しになつて、萬一、入院などしなければならぬやうになつたら、東京へ電報を打つやうに、と言ひ殘して、ひとまづその日に歸京なされた。 私はお荷物の中から最少限の必要な炊事道具を取り出し、おかゆを作つてお母さまにすすめた。お母さまは、おやすみのまま、三さじおあがりになつて、それから、首を振つた。 お晝すこし前に、下の村の先生がまた見えられた。こんどはお袴は着けてゐなかつたが、白足袋はやはりはいてをられた。 「入院したはうが、……」 と私が申し上げたら、 「いや、その必要は、ございませんでせう。けふは一つ、強いお注射をしてさし上げますから、お熱もさがる事でせう。」 と、相變らずたより無いやうなお返事で、さうして、所謂その強い注射をしてお歸りになられた。 けれども、その強い注射が奇効を奏したのか、その日のお晝すぎにお母さまのお顏が眞赤になつて、さうしてお汗がひどく出て、寢卷を着かへる時、お母さまは笑つて、 「名醫かも知れないわ。」 とおつしやつた。 熱は七度にさがつてゐた。私はうれしく、この村にたつた一軒の宿屋に走つて行き、そこのおかみさんに頼んで、鷄卵を十ばかりわけてもらひ、さつそく半熟にしてお母さまに差し上げた。お母さまは半熟を三つと、それからおかゆを茶碗に半分ほどいただいた。 あくる日、村の名醫が、また白足袋をはいてお見えになり、私が昨日の強い注射の御禮を申し上げたら、効くのは當然、といふやうなお顏で深くうなづき、ていねいに、ご診察なさつて、さうして私のはうに向き直り、 「大奧さまは、もはや御病氣ではございません。でございますから、これからは、何をおあがりになつても、何をなさつてもよろしうございます。」 と、やはり、へんな言ひかたをなさるので、私は噴き出したいのを怺へるのに骨が折れた。 先生を玄關までお送りして、お座敷に引返して見ると、お母さまは、お床の上にお坐りになつていらして、 「本當に名醫だわ。私は、もう、病氣ぢやない。」 と、とても樂しさうなお顏をして、うつとりひとりごとのやうにおつしやつた。 「お母さま、障子をあけませうか。雪が降つてゐるのよ。」 花びらのやうな大きい牡丹雪が、ふはりふはり降りはじめてゐたのだ。私は、障子をあけ、お母さまと並んで坐り、硝子戸越しに伊豆の雪を眺めた。 「もう病氣ぢやない。」 と、お母さまは、またひとりごとのやうにおつしやつて、 「かうして坐つてゐると、以前の事が、皆ゆめだつたやうな氣がする。私は本當は、引越し間際になつて、伊豆へ來るのが、どうしても、なんとしても、いやになつてしまつたの。西片町のあのお家に一日でも半日でも永くゐたかつたの。汽車に乘つた時には、半分死んでゐるやうな氣持で、ここに着いた時も、はじめちよつと樂しいやうな氣分がしたけど、薄暗くなつたら、もう東京がこひしくて、胸がこげるやうで、氣が遠くなつてしまつたの。普通の病氣ぢやないんです。神さまが私をいちどお殺しになつて、それから昨日までの私と違ふ私にして、よみがへらせて下さつたのだわ。」 それから、けふまで、私たち二人きりの山莊生活がまあ、どうやら事も無く、安穩につづいて來たのだ。部落の人たちも私たちに親切にしてくれた。ここへ引越して來たのは、去年の十二月、それから一月、二月、三月、四月のけふまで、私たちはお食事のお支度の他は、たいていお縁側で編物をしたり、支那間で本を讀んだり、お茶をいただいたり、ほとんど世の中と離れてしまつたやうな生活をしてゐたのである。二月には梅が咲き、この部落全體が梅の花で埋まつた。さうして三月になつても風のないおだやかな日が多かつたので、滿開の梅は少しも衰へず、三月の末まで美しく咲きつづけた。朝も晝も、夕方も、夜も、梅の花は、溜息の出るほど美しかつた。さうしてお縁側の硝子戸をあけると、いつでも花の匂ひがお部屋にすつと流れて來た。三月の終りには、夕方になると、きつと風が出て、私が夕暮の食堂でお茶碗を並べてゐると、窓から梅の花びらが吹き込んで來て、お茶碗の中にはひつて濡れた。四月になつて、私とお母さまが縁側で編物をしながら、二人の話題は、たいてい畑作りの計畫であつた。お母さまもお手傳ひしたいとおつしやる。ああ、かうして書いてみると、いかにも私たちは、いつかお母さまのおつしやつたやうに、いちど死んで、違ふ私たちになつてよみがへつたやうでもあるが、しかし、イエスさまのやうな復活は、所詮、人間には出來ないのであらうか。お母さまは、あんなふうにおつしやつたけれども、それでもやはり、スウプを一さじ吸つては、直治を思ひ、あ、とお叫びになる。さうして私の過去の傷痕も、實はちつともなほつてゐはしないのである。 ああ、何も一つも包みかくさず、はつきり書きたい。この山莊の安穩は、全部いつはりの、見せかけに過ぎないと、私はひそかに思ふ時さへあるのだ。これが私たち親子が神さまからいただいた短い休息の期間であつたとしても、もうすでにこの平和には、何か不吉な、暗い影が忍び寄つて來てゐるやうな氣がしてならない。お母さまは幸福をお裝ひになりながら、日に日に衰へ、さうして私の胸には蝮が宿り、お母さまを犧牲にしてまで太り、自分でおさへてもおさへても太り、ああ、これがただ季節のせゐだけのものであつてくれたらよい、私にはこの頃、こんな生活が、とてもたまらなくなる事があるのだ。蛇の卵を燒くなどといふはしたない事をしたのも、そのやうな私のいらいらした思ひのあらはれの一つだつたのに違ひないのだ。さうしてただ、お母さまの悲しみを深くさせ、衰弱させるばかりなのだ。 戀、と書いたら、あと、書けなくなつた。
二蛇の卵の事があつてから、十日ほど經ち、不吉な事がつづいて起り、いよいよお母さまの悲しみを深くさせ、そのお命を薄くさせた。 私が、火事を起しかけたのだ。 私が火事を起す。私の生涯にそんなおそろしい事があらうとは、幼い時から今まで、一度も夢にさへ考へた事が無かつたのに。 お火を粗末にすれば火事が起る、といふきはめて當然の事にも、氣づかないほどの私はあの所謂「おひめさま」だつたのだらうか。 夜中にお手洗ひに起きて、お玄關の衝立の傍まで行くと、お風呂場のほうが明るい。何氣なく覗いてみると、お風呂場の硝子戸が眞赤で、パチパチといふ音が聞える。小走りに走つて行つてお風呂場のくぐり戸をあけ、はだしで外に出てみたら、お風呂のかまどの傍に積み上げてあつた薪の山が、すごい火勢で燃えてゐる。 庭つづきの下の農家に飛んで行き、力一ぱいに戸を叩いて、 「中井さん! 起きて下さい、火事です!」 と叫んだ。 中井さんは、もう、寢ていらつしやつたらしかつたが、 「はい、直ぐに行きます。」 と返事して、私が、おねがひします、早くおねがひします、と言つてゐるうちに、浴衣の寢卷のままでお家から飛び出て來られた。 二人で火の傍に駈け戻り、バケツでお池の水を汲んでかけてゐると、お座敷の廊下のはうからお母さまの、ああつ、といふ叫びが聞えた。私はバケツを投げ捨て、お庭から廊下に上つて、 「お母さま、心配しないで、大丈夫、休んでいらして。」 と、倒れかかるお母さまを抱きとめ、お寢床に連れて行つて寢かせ、また火のところに飛んでかへつて、こんどはお風呂の水を汲んでは中井さんに手渡し、中井さんはそれを薪の山にかけたが火勢は強く、とてもそんな事では消えさうもなかつた。 「火事だ。火事だ。お別莊が火事だ。」 といふ聲が下のはうから聞えて、たちまち四五人の村の人たちが、垣根をこわして、飛び込んでいらした。さうして、垣根の下の、用水の水を、リレー式にバケツで運んで、二、三分のあひだに消しとめて下さつた。もう少しでお風呂場の屋根に燃え移らうとするところであつた。 よかつた、と思つたとたんに、私はこの火事の原因に氣づいてぎよつとした。本當に、私はその時はじめて、この火事騒ぎは、私が夕方、お風呂のかまどの燃え殘りの薪を、かまどから引き出して消したつもりで、薪の山の傍に置いた事から起つたのだ、といふ事に氣づいたのだ。さう氣づいて、泣き出したくなつて立ちつくしてゐたら、前のお家の西山さんのお嫁さんが垣根の外で、お風呂場が丸燒けだよ、かまどの火の不始末だよ、と聲高に話すのが聞えた。 村長の藤田さん、二宮巡査、警防團長の大内さんなどが、やつて來られて、藤田さんは、いつものお優しい笑顏で、 「おどろいたでせう。どうしたのですか?」 とおたづねになる。 「私が、いけなかつたのです。消したつもりの薪を、……」 と言ひかけて、自分があんまりみじめで、涙がわいて出て、それつきりうつむいて、默つた。警察に連れて行かれて、罪人になるのかも知れない、とそのとき思つた。はだしで、お寢卷のままの、取亂した自分の姿が急にはづかしくなり、つくづく、落ちぶれたと思つた。 「わかりました。お母さんは?」 と藤田さんは、いたはるやうな口調で、しづかにおつしやる。 「お座敷にやすませてをりますの。ひどくおどろいていらして、……」 「しかし、まあ。」 と若い二宮巡査も、 「家に火がつかなくて、よかつた。」 となぐさめるやうにおつしやる。 すると、そこへ下の農家の中井さんが、服裝を改めて出直して來られて、 「なにね、薪がちよつと燃えただけなんです。ボヤとまでも行きません。」 と息をはずませて言ひ、私のおろかな過失をかばつて下さる。 「さうですか。よくわかりました。」 と村長の藤田さんは二度も三度もうなづいて、それから二宮巡査と何か小聲で相談をなさつていらしたが、 「では、歸りますから、どうぞ、お母さんによろしく。」 とおつしやつてそのまま、警防團長の大内さんやその他の方たちと一緒にお歸りになる。 二宮巡査だけ、お殘りになつて、さうして私のすぐ前まで歩み寄つて來られて、呼吸だけのやうな低い聲で、 「それではね、今夜の事は、べつにとどけない事にしますから。」 とおつしやつた。 二宮巡査がお歸りになつたら、下の農家の中井さんが、 「二宮さんは、どう言はれました?」 と、實に心配さうな、緊張のお聲でたづねる。 「とどけないつて、おつしやいました。」 と私が答へると、垣根のはうにまだ近所のお方がいらして、その私の返事を聞きとつた樣子で、さうか、よかつた、よかつた、と言ひながら、そろそろ引上げて行かれた。 中井さんも、おやすみなさい、を言つてお歸りになり、あとには私ひとり、ぼんやり燒けた薪の山の傍に立ち、涙ぐんで空を見上げたら、もうそれは夜明けちかい空の氣配であつた。 風呂場で、手と足と顏を洗ひ、お母さまに逢ふのが何だかおつかなくつて、お風呂場の三疊間で髮を直したりしてぐづぐづして、それからお勝手に行き夜のまつたく明けはなれるまで、お勝手の食器の用も無い整理などしてゐた。 夜が明けて、お座敷のはうに、そつと足音をしのばせて行つて見ると、お母さまは、もうちやんとお着換へをすましてをられて、さうして支那間のお椅子に、疲れ切つたやうにして腰かけていらした。私を見て、につこりお笑ひになつたが、そのお顏は、びつくりするほど蒼かつた。 私は笑はず、默つて、お母さまのお椅子のうしろに立つた。 しばらくしてお母さまが、 「なんでもない事だつたのね。燃やすための薪だもの。」 とおつしやつた。 私は急に樂しくなつて、ふふんと笑つた。機にかなひて語る言は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し、といふ聖書の箴言を思ひ出し、こんな優しいお母さまを持つてゐる自分の幸福を、つくづく神さまに感謝した。ゆうべの事は、ゆうべの事。もうくよくよすまい、と思つて、私は支那間の硝子戸越しに、朝の伊豆の海を眺め、いつまでもお母さまのうしろに立つてゐて、おしまひにはお母さまのしづかな呼吸と私の呼吸がぴつたり合つてしまつた。 朝のお食事を輕くすましてから、私は、燒けた薪の山の整理にとりかかつてゐると、この村でたつた一軒の宿屋のおかみさんであるお咲さんが、 「どうしたのよ? どうしたのよ? いま、私、はじめて聞いて、まあ、ゆうべは、いつたい、どうしたのよ?」 と言ひながら庭の枝折戸から小走りに走つてやつて來られて、さうしてその眼には涙が光つてゐた。 「すみません。」 と私は小聲でわびた。 「すみませんも何も。それよりも、お孃さん、警察のはうは?」 「いいんですつて。」 「まあよかつた。」 と、しんから嬉しさうな顏をして下さつた。 私はお咲さんに、村の皆さんへどんな形で、お禮とお詫をしたらいいか、相談した。お咲さんは、やはりお金がいいんでせう、と言ひ、それを持つてお詫まはりをすべき家々を教へて下さつた。 「でも、お孃さんがおひとりで廻るのがおいやだつたら、私も一緒について行つてあげますよ。」 「ひとりで行つたはうが、いいのでせう?」 「ひとりで行ける? そりや、ひとりで行つたはうがいいの。」 「ひとりで行くわ。」 それからお咲さんは、燒跡の整理を少し手傳つて下さつた。 整理がすんでから、私はお母さまからお金をいただき、百圓紙幣を一枚づつ美濃紙に包んで、それぞれの包みに、おわび、と書いた。 まづ一ばんに役場へ行つた。村長の藤田さんはお留守だつたので、受附の娘さんに紙包を差し出し、 「昨夜は、申しわけない事を致しました。これから、氣をつけますから、どうぞおゆるし下さいまし。村長さんに、よろしく。」 とお詫を申し上げた。 それから、警防團長の大内さんのお家へ行き、大内さんがお玄關に出て來られて、私を見て默つて悲しさうに微笑んでいらして、私は、どうしてだか、急に泣きたくなり、 「ゆうべは、ごめんなさい。」 と言ふのが、やつとで、いそいでおいとまして、道々、涙があふれて來て、顏がだめになつたので、いつたんお家へ歸つて、洗面所で顏を洗ひ、お化粧をし直して、また出かけようとして玄關で靴をはいてゐると、お母さまが、出ていらして、 「まだ、どこかへ行くの?」 とおつしやる。 「ええ、これからよ。」 私は顏を擧げないで答へた。 「ご苦勞さまね。」 しんみりおつしやつた。 お母さまの愛情に力を得て、こんどは一度も泣かずに、全部をまはる事が出來た。 區長さんのお家に行つたら、區長さんはお留守で、息子さんのお嫁さんが出ていらしたが、私を見るなりかへつて向うで涙ぐんでおしまひになり、また、巡査のところでは、二宮巡査が、よかつた、よかつたとおつしやつてくれるし、みんなお優しいお方たちばかりで、それからご近所のお家を廻つて、やはり皆さまから、同情され、なぐさめられた。ただ、前の家の西山さんのお嫁さん、といつても、もう四十くらゐのをばさんだが、そのひとにだけは、びしびし叱られた。 「これからも氣をつけて下さいよ。宮樣だか何さまだか知らないけれども、私は前から、あんたたちのままごと遊びみたいな暮し方を、はらはらしながら見てゐたんです。子供が二人で暮してゐるみたいなんだから、いままで火事を起さなかつたのが不思議なくらゐのものだ。本當にこれからは氣をつけて下さいよ。ゆうべだつて、あんた、あれで風が強かつたら、この村全部が燃えたのですよ。」 この西山さんのお嫁さんは、下の農家の中井さんなどは村長さんや二宮巡査の前に飛んで出て、ボヤとまでも行きません、と言つてかばつて下さつたのに、垣根の外で、風呂場が丸燒けだよ、かまどの火の不始末だよ、と大きい聲で言つていらしたひとである。けれども、私は西山さんのお嫁さんのおこごとにも、眞實を感じた。本當にそのとほりだと思つた。少しも、西山さんのお嫁さんを恨む事は無い。お母さまは、燃やすための薪だもの、と冗談をおつしやつて私をなぐさめて下さつたが、しかし、あの時に風が強かつたら、西山さんのお嫁さんのおつしやるとほり、この村全體が燒けたのかも知れない。さうなつたら私は、死んでおわびしたつておつつかない。私が死んだら、お母さまも生きては、いらつしやらないだらうし、また亡くなつたお父上のお名前をけがしてしまふ事にもなる。いまはもう、宮樣も華族もあつたものではないけれども、しかし、どうせほろびるものなら、思ひ切つて華麗にほろびたい。火事を出してそのお詫に死ぬなんて、そんなみじめな死に方では、死んでも死に切れまい。とにかく、もつと、しつかりしなければならぬ。 私は翌日から、畑仕事に精を出した。下の農家の中井さんの娘さんが、時々お手傳ひして下さつた。火事を出すなどといふ醜態を演じてからは、私のからだの血が何だか少し赤黒くなつたやうな氣がして、その前には、私の胸に意地惡の蝮が住み、こんどは血の色まで少し變つたのだから、いよいよ野生の田舎娘になつて行くやうな氣分で、お母さまとお縁側で編物などをしてゐても、へんに窮屈で息苦しく、かへつて畑へ出て、土を掘り起したりしてゐるはうが氣樂なくらゐであつた。 筋肉勞働、といふのかしら。このやうな力仕事は、私にとつていまがはじめてではない。私は戰爭の時に徴用されて、ヨイトマケまでさせられた。いま畑にはいて出てゐる地下足袋も、その時、軍のはうから配給になつたものである。地下足袋といふものを、その時、それこそ生れてはじめてはいてみたのであるが、びつくりするほど、はき心地がよく、それをはいてお庭を歩いてみたら、鳥やけものが、はだしで地べたを歩いてゐる氣輕さが、自分にもよくわかつたやうな氣がして、とても、胸がうづくほど、うれしかつた。戰爭中の、たのしい記憶は、たつたそれ一つきり。思へば、戰爭なんて、つまらないものだつた。 昨年は、何も無かつた。 一昨年は、何も無かつた。 その前のとしも、何も無かつた。 そんな面白い詩が、終戰直後の或る新聞に載つてゐたが、本當に、いま思ひ出してみても、さまざまの事があつたやうな氣がしながら、やはり何も無かつたと同じ樣な氣もする。私は、戰爭の記憶は語るのも、聞くのも、いやだ。人がたくさん死んだのに、それでも陳腐で退屈だ。けれども、私は、やはり自分勝手なのであらうか。私が徴用されて地下足袋をはき、ヨイトマケをやらされた時の事だけは、そんなに陳腐だとも思へない。ずゐぶんいやな思ひもしたが、しかし、私はあのヨイトマケのおかげで、すつかりからだが丈夫になり、いまでも私は、いよいよ生活に困つたら、ヨイトマケをやつて生きて行かうと思ふ事があるくらゐなのだ。 戰局がそろそろ絶望になつて來た頃、軍服みたいなものを着た男が、西片町のお家へやつて來て、私に徴用の紙と、それから勞働の日割を書いた紙を渡した。日割の紙を見ると、私はその翌日から一日置きに立川の奧の山へかよはなければならなくなつてゐたので、思はず私の眼から涙があふれた。 「代人では、いけないのでせうか。」 涙がとまらず、すすり泣きになつてしまつた。 「軍から、あなたに徴用が來たのだから、必ず、本人でなければいけない。」 とその男は強く答へた。 私は行く決心をした。 その翌日は雨で、私たちは立川の山の麓に整列させられ、まづ將校のお説教があつた。 「戰爭には、必ず勝つ。」 と冒頭して、 「戰爭には必ず勝つが、しかし、皆さんが軍の命令通りに仕事をしなければ、作戰に支障を來し、沖繩のやうな結果になる。必ず、言はれただけの仕事は、やつてほしい。それから、この山にも、スパイが這入つてゐるかも知れないから、お互ひに注意すること。皆さんもこれからは、兵隊と同じに、陣地の中へ這入つて仕事をするのであるから、陣地の樣子は、絶對に、他言しないやうに、充分に注意してほしい。」 と言つた。 山には雨が煙り、男女とりまぜて五百ちかい隊員が、雨に濡れながら立つてその話を拜聽してゐるのだ。隊員の中には、國民學校の男生徒女生徒もまじつてゐて、みな寒さうな泣きべその顏をしてゐた。雨は私のレインコートをとほして、上衣にしみて來て、やがて肌着までぬらしたほどであつた。 その日は一日、モツコかつぎをして、歸りの電車の中で、涙が出て來て仕樣が無かつたが、その次の時には、ヨイトマケの綱引だつた。さうして、私にはその仕事が一ばん面白かつた。 二度、三度、山へ行くうちに、國民學校の男生徒たちが私の姿を、いやにじろじろ見るやうになつた。或る日私がモツコかつぎをしてゐると、男生徒が二三人、私とすれちがつて、それから、そのうちの一人が、 「あいつが、スパイか。」 と小聲で言つたのを聞き、私はびつくりしてしまつた。 「なぜ、あんな事を言ふのかしら。」 と私は、私と並んでモツコをかついで歩いてゐる若い娘さんにたづねた。 「外人みたいだから。」 若い娘さんは、まじめに答へた。 「あなたも、あたしをスパイだと思つていらつしやる?」 「いいえ。」 こんどは少し笑つて答へた。 「私、日本人ですわ。」 と言つて、その自分の言葉が、われながら馬鹿らしいナンセンスのやうに思はれて、ひとりでくすくす笑つた。 或るお天気のいい日に、私は朝から男の人たちと一緒に丸太はこびをしてゐると、監視當番の若い將校が顏をしかめて、私を指差し、 「おい、君。君は、こつちへ來給へ。」 と言つて、さつさと松林のはうへ歩いて行き、私が不安と恐怖で胸をどきどきさせながら、その後について行くと、林の奧に製材所から來たばかりの板が積んであつて、將校はその前まで行つて立ちどまり、くるりと私のはうに向き直つて、 「毎日、つらいでせう。けふは一つ、この材木の見張番をしてゐて下さい。」 と白い齒を出して笑つた。 「ここに、立つてゐるのですか?」 「ここは、涼しくて靜かだから、この板の上でお晝寢でもしてゐて下さい。もし、退屈だつたら、これは、お讀みかも知れないけど、」 と言つて、上衣のポケツトから小さい文庫本を取り出し、てれたやうに、板の上にはふり、 「こんなものでも、讀んでゐて下さい。」 文庫本には、「トロイカ」と記されてゐた。 私はその文庫本を取り上げ、 「ありがたうございます。うちにも、本のすきなのがゐまして、いま、南方に行つてゐますけど。」 と申し上げたら、聞き違ひしたらしく、 「ああ、さう。あなたの御主人なのですね。南方ぢやあ、たいへんだ。」 と首を振つてしんみり言ひ、 「とにかく、けふはここで見張番といふ事にして、あなたのお辨當は、あとで自分が持つて來てあげますから、ゆつくり、休んでいらつしやい。」 と言ひ捨て、急ぎ足で歸つて行かれた。 私は、材木に腰かけて、文庫本を讀み、半分ほど讀んだ頃、あの將校がこつこつと靴の音をさせてやつて來て、 「お辨當を持つて來ました。おひとりで、つまらないでせう。」 と言つて、お辨當を草原の上に置いて、また大急ぎで引返して行かれた。 私は、お辨當をすましてから、こんどは、材木の上に這ひ上つて、横になつて本を讀み、全部讀み終へてから、うとうとお晝寢をはじめた。 眼がさめたのは、午後の三時すぎだつた。私は、ふとあの若い將校を、前にどこかで見かけた事があるやうな氣がして來て、考へてみたが、思ひ出せなかつた。材木から降りて、髮を撫でつけてゐたら、また、こつこつと靴の音が聞えて來て、 「やあ、けふは御苦勞さまでした。もう、お歸りになつてよろしい。」 私は將校のはうに走り寄つて、さうして文庫本を差し出し、お禮を言はうと思つたが、言葉が出ず、默つて將校の顏を見上げ、二人の眼が合つた時、私の眼からぽろぽろ涙が出た。すると、その將校の眼にもきらりと涙が光つた。 そのまま默つておわかれしたが、その若い將校は、それつきりいちども、私たちの働いてゐるところに顏を見せず、私は、あの日に、たつた一日遊ぶ事が出來ただけで、それからは、やはり一日置きに立川の山で、苦しい作業をした。お母さまは私のからだを、しきりに心配して下さつたが、私はかへつて丈夫になり、いまではヨイトマケ商賣にもひそかに自信を持つてゐるし、また、畑仕事にも、べつに苦痛を感じない女になつた。 戰爭の事は、語るのも聞くのもいや、などと言ひながら、つい自分の「貴重なる體驗談」など語つてしまつたが、しかし、私の戰爭の追憶の中で、少しでも語りたいと思ふのは、ざつとこれくらゐの事で、あとはもう、いつかのあの詩のやうに、 昨年は、何も無かつた。 一昨年は、何も無かつた。 その前のとしも、何も無かつた。 とでも言ひたいくらゐで、ただ、ばかばかしく、わが身に殘つてゐるものは、この地下足袋いつそく、といふはかなさである。 地下足袋の事から、ついむだ話をはじめて脱線しちやつたけれど、私は、この、戰爭の唯一の記念品とでもいふべき地下足袋をはいて、毎日のやうに畑に出て、胸の奧のひそかな不安や焦躁をまぎらしてゐるのだけれども、お母さまは、この頃、目立つて日に日にお弱りになつていらつしやるやうに見える。 蛇の卵。 火事。 あの頃から、どうもお母さまは、めつきり御病人くさくおなりになつた。さうして私のはうではその反對に、だんだん粗野な下品な女になつて行くやうな氣もする。なんだかどうも私が、お母さまからどんどん生氣を吸ひとつて太つて行くやうな心地がしてならない。 火事の時だつて、お母さまは、燃やすための薪だもの、と御冗談を言つて、それつきり火事のことに就いては一言もおつしやらず、かへつて私をいたはるやうにしていらしたが、しかし、内心お母さまの受けられたショックは、私の十倍も強かつたのに違ひない。あの火事があつてから、お母さまは、夜中に時たま呻かれる事があるし、また、風の強い夜などは、お手洗ひにおいでになる振りをして、深夜いくどもお床から脱けて家中をお見廻りになるのである。そうしてお顏色はいつも冴えず、お歩きになるのさへやつとのやうに見える日もある。畑も手傳ひたいと、前にはおつしやつてゐたが、いちど私が、およしなさいと申し上げたのに、井戸から大きい手桶で畑に水を五、六ぱいお運びになり、翌日、いきの出來ないくらゐに肩がこる、とおつしやつて一日、寢たきりで、そんな事があつてからは流石に畑仕事はあきらめた御樣子で、時たま畑へ出て來られても、私の働き振りを、ただ、じつと見ていらつしやるだけである。 「夏の花が好きなひとは、夏に死ぬつていふけれども、本當かしら」 けふもお母さまは、私の畑仕事をじつと見ていらして、ふいとそんな事をおつしやつた。私は默つておナスに水をやつてゐた。ああ、さういへば、もう初夏だ。 「私は、ねむの花が好きなんだけれども、ここのお庭には、一本も無いのね。」 とお母さまは、また、しづかにおつしやる。 「夾竹桃がたくさんあるぢやないの。」 私はわざと、つつけんどんな口調で言つた。 「あれは、きらひなの。夏の花は、たいていすきだけど、あれは、おきやんすぎて。」 「私なら薔薇がいいな。だけど、あれは四季咲きだから、薔薇の好きなひとは、春に死んで、夏に死んで、秋に死んで、冬に死んで、四度も死に直さなければならないの。」 二人、笑つた。 「すこし、休まない?」 とお母さまは、なほお笑ひになりながら、 「けふは、ちよつとかず子さんと相談したい事があるの。」 「なあに? 死ぬお話なんかは、まつぴらよ。」 私はお母さまの後について行つて、藤棚の下のベンチに並んで腰をおろした。藤の花はもう終つて、やはらかな午後の日ざしが、その葉をとほして私たちの膝の上に落ち、私たちの膝をみどりいろに染めた。 「前から聞いていただきたいと思つてゐた事ですけどね、お互ひに氣分のいい時に話さうと思つて、けふまで機會を待つてゐたの。どうせ、いい話ぢやあ無いのよ。でも、けふは何だか私もすらすら話せるやうな氣がするものだから、また、あなたも、我慢しておしまひまで聞いて下さいね。實はね、直治は生きてゐるのです。」 私はからだを固くした。 「五、六日前に、和田の叔父さまからのおたよりがあつてね、叔父さまの會社に以前つとめていらしたお方で、さいきん南方から歸還して、叔父さまのところに挨拶にいらして、その時、よもやまの話の末に、そのお方が偶然にも直治と同じ部隊で、さうして直治は無事で、もうすぐ歸還するだらうといふ事がわかつたの。でも、ね、一ついやな事があるの。そのお方の話では、直治はかなりひどい阿片中毒になつてゐるらしいと……」 「また!」 私はにがいものを食べたみたいに、口をゆがめた。直治は、高等學校の頃に、或る小説家の眞似をして、麻藥中毒にかかり、そのために、藥屋からおそろしい金額の借りを作つて、お母さまは、その借りを藥屋に全部支拂ふのに二年もかかつたのである。 「さう。また、はじめたらしいの。けれども、それのなほらないうちは、歸還もゆるされないだらうから、きつとなほして來るだらうと、そのお方も言つていらしたさうです。叔父さまのお手紙では、なほして歸つて來たとしても、そんな心掛けの者では、すぐどこかへ勤めさせるといふわけにはいかぬ、いまのこの混亂の東京で働いては、まともの人間でさへ少し狂つたやうな氣分になる、中毒のなほつたばかりの半病人なら、すぐ發狂氣味になつて、何を仕出かすか、わかつたものでない、それで、直治が歸つて來たら、すぐこの伊豆の山莊に引取つて、どこへも出さずに、當分ここで靜養させたはうがよい、それが一つ。それから、ねえ、かず子、叔父さまがねえ、もう一つお言ひつけになつてゐるのだよ。叔父さまのお話では、もう私たちのお金がなんにも無くなつてしまつたんだつて、貯金の封鎖だの、財産税だので、もう叔父さまも、これまでのやうに私たちにお金を送つてよこす事がめんだうになつたのださうです。それでね、直治が歸つて來て、お母さまと、直治と、かず子と三人あそんで暮してゐては、叔父さまもその生活費を都合なさるのにたいへんな苦勞をしなければならぬから、いまのうちに、かず子のお嫁入りさきを搜すか、または、御奉公のお家を搜すか、どちらかになさい、といふ、まあ、お言ひつけなの。」 「御奉公つて、女中の事?」 「いいえ、叔父さまがね、ほら、あの、駒場の、」 と或る宮樣のお名樣を擧げて、 「あの宮樣なら、私たちとも血縁つづきだし、姫宮の家庭教師をかねて、御奉公にあがつても、かず子が、そんなに淋しく窮屈な思ひをせずにすむだらう、とおつしやつてゐるのです。」 「他に、つとめ口が無いものかしら。」 「他の職業は、かず子には、とても無理だらう、とおつしやつてゐました。」 「なぜ無理なの? ね、なぜ無理なの?」 お母さまは、淋しさうに微笑んでいらつしやるだけで、何ともお答へにならなかつた。 「いやだわ! 私、そんな話。」 自分でも、あらぬ事を口走つた、と思つた。が、とまらなかつた。 「私が、こんな地下足袋を、こんな地下足袋を、」 と言つたら、涙が出て來て、 [2]思はずわつと泣き出した、顏を擧げて、涙を手の甲で拂ひのけながら、お母さまに向つて、いけない、いけない、と思ひながら、言葉が無意識みたいに、肉體とまるで無關係に、つぎつぎと續いて出た。 「いつだか、おつしやつたぢやないの。かず子がゐるから、かず子がゐてくれるから、お母さまは伊豆へ行くのですよ、とおつしやつたぢやないの。かず子がゐないと、死んでしまふとおつしやつたぢやないの。だから、それだから、かず子は、どこへも行かずに、お母さまのお傍にゐて、かうして地下足袋をはいて、お母さまにおいしいお野菜をあげたいと、そればかり考へてゐるのに、直治が歸つて來るとお聞きになつたら、急に私を邪魔にして、宮樣の女中に行けなんて、あんまりだわ、あんまりだわ。」 自分でも、ひどい事を口走ると思ひながら、言葉が別の生き物のやうに、どうしてもとまらないのだ。 「貧乏になつて、お金が無くなつたら、私たちの着物を賣つたらいいぢやないの。このお家も、賣つてしまつたら、いいぢやないの、私には、何だつて出來るわよ。この村の役場の女事務員にだつて何にだつてなれるわよ。役場で使つて下さらなかつたら、ヨイトマケにだつてなれるわよ。貧乏なんて、なんでもない。お母さまさへ、私を可愛がつて下さつたら、私は一生お母さまのお傍にゐようとばかり考へてゐたのに、お母さまは、私よりも直治のはうが可愛いのね。出て行くわ。私は出て行く。どうせ私は、直治とは昔から性格が合はないのだから、三人一緒に暮してゐたら、お互ひに不幸よ。私はこれまで永いことお母さまと二人きりで暮したのだから、もう思ひ殘すことは無い。これから直治がお母さまとお二人で水いらずで暮して、さうして直治がたんとたんと親孝行をするといい。私はもう、いやになつた。これまでの性活が、いやになつた。出て行きます。けふこれから、すぐに出て行きます。私には、行くところがあるの。」 私は立つた。 「かず子!」 お母さまはきびしく言ひ、さうしてかつて私に見せた事の無かつたほど、威嚴に滿ちたお顏つきで、 [3]ずつとお立ちになり、私と向ひ合つて、さうして私よりも少しお背が高いくらゐに見えた。 私は、ごめんなさい、とすぐに言ひたいと思つたが、それが口にどうしても出ないで、かへつて別の言葉が出てしまつた。 「だましたのよ、お母さまは、私をおだましになつたのよ。直治が來るまで、私を利用していらつしやつたのよ。私は、お母さまの女中さん。用がすんだからこんどは宮樣のところに行けつて。」 わつと聲が出て、私は立つたまま、思ひきり泣いた。 「お前は、馬鹿だねえ。」 と低くおつしやつたお母さまのお聲は、怒りに震へてゐた。 私は顏を擧げ、 「さうよ、馬鹿よ。馬鹿だから、だまされたのよ。馬鹿だから、邪魔にされるのよ。ゐないはうがいいのでせう? 貧乏つて、どんな事? お金つて、なんの事? 私にはわからないわ。愛情を、お母さまの愛情を、それだけを私は信じて生きて來たのです。」 とまた、ばかな、あらぬ事を口走つた。 お母さまは、ふつとお顏をそむけた。泣いてをられるのだ。私は、ごめんなさいと言ひ、お母さまに抱きつきたいと思つたが、畑仕事で手がよごれてゐるのが、かすかに氣になりへんに白々しくなつて、 「私さへ、ゐなかつたらいいのでせう? 出て行きます。私には、行くところがあるの。」 と言ひ捨て、そのまま小走りに走つて、お風呂場に行き、泣きじやくりながら、顏と手足を洗ひ、それからお部屋へ行つて、洋服に着換へてゐるうちに、またわつと大きい聲が出て泣き崩れ、思ひのたけもつともつと泣いてみたくなつて二階の洋間に駈け上り、ベツドにからだを投げて、毛布を頭からかぶり、痩せるほどひどく泣いてそのうちに氣が遠くなるみたいになつて、だんだん、或るひとが戀ひしくて、戀ひしくて、お顏を見て、お聲を聞きたくてたまらなくなり、兩足の裏に熱いお灸を据ゑ、じつとこらへてゐるやうな、特殊な氣持になつて行つた。 夕方ちかく、お母さまはしづかに二階の洋間にはひつていらして、パチと電燈に灯をいれて、それからベツドのはうに近寄つて來られ、 「かず子。」 と、とてもお優しくお呼びになつた。 「はい。」 私は起きて、ベツドの上に坐り、兩手で髮を掻きあげ、お母さまのお顏を見て、ふふと笑つた。 お母さまも、幽かにお笑ひになり、それから、 [4]お窓の下にソフアに、深くからだを沈め、 「私は、生れてはじめて、和田の叔父さまのお言ひつけに、そむいた。……お母さまはね、いま叔父さまに御返事のお手紙を書いたの。私の子供たちの事は、私におまかせ下さい、と書いたの。かず子、着物を賣りませうよ。二人の着物をどんどん賣つて、思ひ切りむだ使ひして、ぜいたくな暮しをしませうよ。私はもう、あなたに畑仕事などさせたくない、高いお野菜を買つたつて、いいぢやないの。あんなに毎日の畑仕事は、あなたには無理です。」 實は私も、毎日の畑仕事が、少しつらくなりかけてゐたのだ。さつきあんなに、狂つたみたいに泣き騒いだのも、畑仕事の疲れと、悲しみがごつちやになつて、何もかも、うらめしく、いやになつたからなのだ。 私はベツドの上で、うつむいて黙つてゐた。 「かず子。」 「はい。」 「行くところがある、といふのは、どこ?」 私は自分が、首すぢまで赤くなつたのを意識した。 「細田さま?」 私は默つてゐた。 お母さまは、深い溜息をおつきになり、 「昔の事を言つてもいい?」 「どうぞ。」 と私は小聲で言つた。 「あなたが、山木さまのお家から出て、西片町のお家へ歸つて來た時、お母さまは何もあなたをとがめるやうな事は言はなかつたつもりだけど、でも、たつた一ことだけ、(お母さまはあなたに裏切られました)つて言つたわね。おぼえてゐる? そしたら、あなたは泣き出しちやつて、……私も裏切つたなんてひどい言葉を使つてわるかつたと思つたけど、……」 けれども、私はあの時、お母さまにさう言はれて、何だか有難くて、うれし泣きに泣いたのだ。 「お母さまがね、あの時、裏切られたつて言つたのは、あなたが山本さまのお家を出て來た事ぢやなかつたの。山本さまから、かず子は實は、細田と戀仲だつたのです。と言はれた時なの。さう言はれた時には、本當に、私は顏色が變る思ひでした。だつて、細田さまには、あのずつと前から、奧さまもお子さまもあつて、どんなにこちらがお慕ひしたつて、どうにもならぬ事だし、……」 「戀仲だなんて、ひどい事を。山木さまのはうで、たださう邪推なさつてゐただけなのよ。」 「さうかしら。あなたは、まさか、あの細田さまを、 [5]また思ひつづけてゐるのぢやないでせうね。行くところつて、どこ?」 「細田さまのところなんかぢやないわ。」 「さう? そんなら、どこ?」 「お母さま、私ね、こなひだ考へた事だけれども、人間が他の動物と、まるつきり違つてゐる點は、何だらう、言葉も智慧も、思考も、社會の秩序も、それぞれ程度の差はあつても、他の動物だつて皆持つてゐるでせう? 信仰も持つてゐるかも知れないわ。人間は、萬物の靈長だなんて威張つてゐるけど、ちつとも他の動物と本質的なちがひが無いみたいでせう? ところがね、お母さま、たつた一つあつたの。おわかりにならないでせう。他の生き物には絶對に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、といふものよ。いかが?」 お母さまは、ほんのりお顏を赤くなさつて美しくお笑ひになり、 「ああ、そのかず子のひめごとが、よい實を結んでくれたらいいけどねえ、お母さまは、毎朝、お父さまにかず子を幸福にして下さるやうにお祈りしてゐるのですよ。」 私の胸にふうつと、お父上と那須野をドライヴして、さうして途中で降りて、その時の秋の野のけしきが浮んで來た。萩、なでしこ、りんだう、女郎花などの秋の草花が咲いてゐた。野葡萄の實は、まだ青かつた。 それから、お父上と琵琶湖でモーターボートに乘り、私が水に飛び込み、藻に棲む小魚が私の脚にあたり、湖の底に、私の脚の影がくつきりと寫つてゐて、さうしてうごいてゐる、そのさまが前後と何の聯關も無く、ふつと胸に浮んで、消えた。 私はベツトから滑り降りて、お母さまのお膝に抱きつき、はじめて、 「お母さま、さつきはごめんなさい。」 と言ふ事が出來た。 思ふと、その日あたりが、私たちの幸福の最後の殘り火の光が輝いた頃で、それから、直治が南方から歸つて來て、私たちの本當の地獄がはじまつた。
三どうしても、もう、とても、生きてをられないやうな心細さ。これが、あの、不安、とかいふ感情なのであらうか、胸に苦しい浪が打ち寄せ、それはちやうど、夕立がすんだのちの空を、あわただしく白雲がつぎつぎと走つて走り過ぎて行くやうに、私の心臟をしめつけたり、ゆるめたり、私の脈は結滯して、呼吸が稀薄になり、眼のさきがもやもやと暗くなつて、全身の力が、手の指の先からふつと拔けてしまふ心地がして、編物をつづけてゆく事が出來なくなつた。 このごろは雨が陰氣に降りつづいて、何をするにも、もの憂くて、けふはお座敷の縁側に籐椅子を持ち出し、ことしの春にいちど編みかけてそのままにしてゐたセエタを、また編みつづけてみる氣になつたのである。淡い牡丹色のぼやけたやうな毛糸で、私はそれに、コバルトブルウの色を足して、セエタにするつもりなのだ。さうしてこの淡い牡丹色の毛糸は、いまからもう二十年も前、私がまだ初等科にかよつてゐた頃、お母さまがこれで私の頸卷を編んで下さつた毛糸だつた。その頸卷の端が頭巾になつてゐて、私はそれをかぶつて鏡を覗いてみたら、小鬼のやうであつた。それに、色が、他の學友の頸卷の色と、まるで違つてゐるので、私は、いやでいやで仕樣が無かつた。關西の多額納税の學友が、「いい頸卷してなはるな」と、おとなびた口調でほめて下さつたが、私はいよいよ恥づかしくなつて、もうそれからは、いちどもこの頸卷をした事が無く、永い事うち棄ててあつたのだ。それを、ことしの春、死藏品の復活とやらいふ意味で、ときほぐして私のセエタにしようと思つてとりかかつてみたのだが、どうも、このぼやけたやうな色合ひが氣に入らず、又打ちすて、けふはあまりに所在ないまま、ふと取り出して、のろのろと編みつづけてみたのだ。けれども、編んでゐるうちに、私は、この淡い牡丹色の毛糸と、灰色の雨空と、一つに溶け合つて、なんとも言へないくらゐ柔かくてマイルドな色調を作り出してゐる事に氣がついた。私は知らなかつたのだ。コスチウムは、空の色との調和を考へなければならぬものだといふ大事なことを知らなかつたのだ。調和つて、なんて美しくて素晴しい事なんだらうと、いささか驚き、呆然とした形だつた。灰色の雨空と、淡い牡丹色の毛糸と、その二つを組合はせると兩方が同時にいきいきして來るから不思議である。手に持つてゐる毛糸が急にほつかり暖かく、つめたい雨空もビロウドみたいに柔かく感ぜられる。さうして、モネーの霧の中の寺院の繪を思ひ出させる。私はこの毛糸の色に依つて、はじめて「グウ」といふものを知らされたやうな氣がした。よいこのみ、さうしてお母さまは、冬の雪空に、この淡い牡丹色が、どんなに美しく調和するかちやんと識つていらしてわざわざ選んで下さつたのに、私は馬鹿でいやがつて、けれども、それを子供の私に強制しようともなさらず、私のすきなやうにさせて置かれたお母さま、私がこの色の美しさを、本當にわかるまで、二十年間も、この色に就いて一言も説明なさらず、默つて、そしらぬ振りして待つていらしたお母さま。しみじみ、いいお母さまだと思ふと同時に、こんないいお母さまを、私と直治と二人でいぢめて、困らせ弱らせ、いまに死なせてしまふのではなからうかと、ふうつとたまらない恐怖と心配の雲が胸に湧いて、あれこれ思ひをめぐらせばめぐらすほど、前途にとてもおそろしい、惡い事ばかり豫想せられ、もう、とても、生きてをられないくらゐに不安になり、指先の力も拔けて、編棒を膝に置き、大きい溜息をついて、顏を仰向け眼をつぶつて、 「お母さま。」 と思はず言つた。 お母さまは、お座敷の隅の机によりかかつて、ご本を讀んでいらしたのだが、 「はい?」 と、不審さうに返事をなさつた。 私は、まごつき、それから、ことさらに大聲で、 「たうとう薔薇が咲きました。お母さま、ご存じだつた? 私は、いま氣がついた。たうとう咲いたわ。」 お座敷のお縁側のすぐ前の薔薇。それは、和田の叔父さまが、むかし、フランスだかイギリスだか、ちよつと忘れたけれど、とにかく遠いところからお持ち歸りになつた薔薇で、二、三箇月前に、叔父さまが、この山莊の庭に移し植ゑて下さつた薔薇である。けさそれが、やつと一つ咲いたのを、私はちやんと知つてゐたのだ。けれども、てれ隱しに、たつたいま氣づいたみたいに大げさに騒いで見せたのである。花は、濃い紫色で、りんとした傲りと強さがあつた。 「知つてゐました。」 とお母さまはしづかにおつしやつて、 「あなたには、そんな事が、とても重大らしいのね。」 「さうかも知れないわ。可哀さう?」 「いいえ、あなたには、さういふところがあるつて言つただけなの、お勝手のマツチ箱にルナアルの繪を貼つたり、お人形のハンカチイフを作つてみたり、さういふ事が好きなのね。それに、お庭の薔薇のことだつて、あなたの言ふことを聞いてゐると、生きてゐる人の事を言つてゐるみたい。」 「子供が無いからよ。」 自分でも全く思ひがけなかつた言葉が口から出た。言つてしまつて、はつとして、まの惡い思ひで膝の編物をいぢつてゐたら、 ――二十九だからなあ。 そうおつしやる男の人の聲が、電話で聞くやうなくすぐつたいバスで、はつきり聞えたやうな氣がして、私は恥づかしさで、頬が燒けるみたいに熱くなつた。 お母さまは、何もおつしやらず、また、ご本をお讀みになる。お母さまは、こなひだから [6]ガーゼのマスクおかけになつていらして、そのせゐか、このごろめつきり無口になつた。そのマスクは、直治の言ひつけに從つて、おかけになつてゐるのである。 直治は、十日ほど前に、南方の島から蒼黒い顏になつて還つて來たのだ。 何の前觸れも無く、夏の夕暮、裏の木戸から庭へはひつて來て、 「わあ、ひでえ。趣味のわるい家だ。來々軒。 [7]シユウマイあります、と、貼りふだしろよ。」 それが私とはじめて顏を合せた時の、直治の挨拶であつた。 その二、三日前からお母さまは、舌を病んで寢ていらした。舌の先が、外見はなんの變りも無いのに、うごかすと痛くてならぬとおつしやつて、お食事も、うすいおかゆだけで、お醫者さまに見ていただいたら? と言つても、首を振つて、 「笑はれます。」 と苦笑ひしながら、おつしやる。ルゴールを塗つてあげたけれども、少しもききめが無いやうで、私は妙にいらいらしてゐた。 そこへ、直治が歸還して來たのだ。 直治はお母さまの枕元に坐つて、ただいまと言つてお辭儀をし、すぐに立ち上つて、小さい家の中をあちこちと見て廻り、私がその後をついて歩いて、 「どう? お母さまは、變つた?」 「變つた、變つた。やつれてしまつた。早く死にやいいんだ。こんな世の中に、ママなんて、とても生きて行けやしねえんだ。あまりみじめで、見ちやをれねえ。」 「私は?」 「げびて來た。男が二、三人もあるやうな顏をしてゐやがる。酒は? 今夜は飮むぜ。」 私はこの部落でたつた一軒の宿屋へ行つて、おかみさんのお咲さんに、弟が歸還したから、お酒を少しわけて下さい、とたのんでみたけれども、お咲さんは、お酒はあいにく、いま切らしてゐます、といふので、歸つて直治にさう傳へたら、直治は、見た事も無い他人のやうな表情の顏になつて、ちえつ、交渉が下手だからさうなんだ、と言ひ、私から宿屋の在る場所を聞いて、庭下駄をつつかけて外に飛び出し、それつきり、いくら待つても家へ歸つて來なかつた。私は直治の好きだつた燒き林檎と、それから、卵のお料理などこしらへて、食堂の電球も明るいのと取りかへ、ずゐぶん待つて、そのうちに、お咲さんが、お勝手口からひよいと顏を出し、 「もし、もし。大丈夫でせうか。燒酎を召し上つてゐるのですけど。」 と、れいの鯉の眼のやうなまんまるい眼を、さらに強く見はつて、一大事のやうに、低い聲で言ふのである。 「燒酎つて、あの、メチル?」 「いいえ、メチルぢやありませんけど。」 「飮んでも、病氣にならないのでせう?」 「ええ、でも、……」 「飮ませてやつて下さい。」 お咲さんは、つばきを飮み込むやうにして頷いて歸つて行つた。 私はお母さまのところに行つて、 「お咲さんのところで、飮んでゐるんですつて。」 と申し上げたら、お母さまは、少しお口を曲げてお笑ひになつて、 「さう。阿片のはうは、よしたのかしら、あなたは、ごはんをすませなさい。それから今夜は、三人でこの部屋におやすみ。直治のお蒲團を、まんなかにして。」 私は、泣きたいやうな氣持になつた。 夜ふけて、直治は、荒い足音をさせて歸つて來た。私たちは、お座敷に三人、一つの蚊帳にはひつて寢た。 「南方のお話を、お母さまに聞かせてあげたら?」 と私が寢ながら言ふと、 「何も無い。何も無い。忘れてしまつた。日本に着いて汽車に乘つて、汽車の窓から、水田が、すばらしく綺麗に見えた。それだけだ。電氣を消せよ。眠られやしねえ。」 私は電燈を消した。夏の月光が洪水のやうに蚊帳の中に滿ちあふれた。 あくる朝、直治は寢床に腹這ひになつて煙草を吸ひながら、遠く海のはうを眺めて、 「舌が痛いんですつて?」 と、はじめてお母さまのお加減の惡いのに氣がついたみたいなふうの口のきき方をした。 お母さまは、ただ幽かにお笑ひになつた。 「そいつあ、きつと、 [8]心理的なものなんだ、夜、口をあいておやすみになるんでせう。だらしがない。マスクをなさい。ガーゼにリバノール液でもひたして、それをマスクの中にいれて置くといい。」 私はそれを聞いて噴き出し、 「それは、何療法つていふの?」 「美學療法つていふんだ。」 「でも、お母さまは、マスクなんか、きつとおきらひよ。」 お母さまは、マスクに限らず、眼帶でも、眼鏡でも、お顏にそんなものを附ける事は大きらひだつた筈である。 「ねえ、お母さま、マスクをなさる?」 と私がおたづねしたら、 「致します。」 とまじめに低くお答へになつたので、私は、はつとした。直治の言ふ事なら、なんでも信じて從はうと思つていらつしやるらしい。 私が朝食の後に、さつき直治が言つたとほりに、ガーゼにリバノール液をひたしなどして、マスクを作り、お母さまのところに持つて行つたら、お母さまは、默つて受け取り、おやすみになつたままで、マスクの紐を兩方のお耳に素直におかけになり、そのさまが、本當にもう幼い童女のやうで、私には悲しく思はれた。 お晝すぎに、直治は、東京のお友達や、文學のはうの師匠さんなどに逢はなければならぬと言つて背廣に着換へ、お母さまから、二千圓もらつて東京へ出かけて行つてしまつた。それつきり、もう十日ちかくなるのだけれども、直治は、歸つて來ないのだ。さうして、お母さまは、毎日マスクをなさつて、直治を待つていらつしやる。 「リバノールつて、いい藥なのね。このマスクをかけてゐると、舌の痛みが消えてしまふのですよ。」 と、笑ひながらおつしやつたけれども、私には、お母さまが嘘をついていらつしやるやうに思はれてならないのだ。もう大丈夫、とおつしやつて、いまは起きていらつしやるけれども、食欲はやつぱりあまり無い御樣子だし、口數もめつきり少く、とても私は氣がかりで、直治はまあ、東京で何をしてゐるのだらう、あの小説家の上原さんなんかと一緒に東京中を遊びまはつて、東京の狂氣の渦に卷き込まれてゐるのにちがひない、と思へば思ふほど、苦しくつらくなり、お母さまに、だしぬけに薔薇の事など報告して、さうして、子供が無いからよ、なんて自分にも思ひがけなかつたへんな事を口走つて、いよいよ、いけなくなるばかりで、 「あ。」 と言つて立ち上り、さて、どこへも行くところが無く、身一つをもてあまして、ふらふら階段をのぼつて行つて、二階の洋間にはひつてみた。 ここは、こんど直治の部屋になる筈で、四、五日前に私が、お母さまと相談して、下の農家の中井さんにお手傳ひをたのみ、直治の洋服箪笥や本箱、また、藏書やノートブックなど一ぱいつまつた木の箱五つ六つ、とにかく昔、西片町のお家の直治のお部屋にあつたもの全部を、ここに持ち運び、いまに直治が東京から歸つて來たら、直治の好きな位置に、箪笥本箱などそれぞれ据ゑる事にして、それまではただ雜然とここに置き放しにしてゐたはうがよささうに思はれたので、もう、足の踏み場も無いくらゐに、部屋一ぱい散らかしたままで、私は、何氣なく足もとの木の箱から、直治のノートブックを一册取りあげて見たら、そのノートブックの表紙には、 夕顏日誌 と書きしるされ、その中には、次のやうな事が一ぱい書き散らされてゐたのである。直治が、あの、麻藥中毒で苦しんでゐた頃の手記のやうであつた。 燒け死ぬる思ひ。苦しくとも、苦しと一言、半句、叫び得ぬ、古來未曾有、人の世はじまつて以來、前例も無き、底知れぬ地獄の氣配をごまかしなさんな。 思想? ウソだ。主義? ウソだ。理想? ウソだ。秩序? ウソだ。誠實? 眞理? 純粹? みなウソだ。牛島の藤は、樹齡千年、熊野の藤は數百年と稱へられ、その花穗の如きも、前者で最長九尺、後者で五尺餘と聞いて、ただその花穗にのみ、心がをどる。 アレモ人ノ子。生キテヰル。 論理は、所詮、論理への愛である。生きてゐる人間への愛では無い。 金と女。論理は、はにかみ、そそくさと歩み去る。 歴史、哲學、教育、宗教、法律、政治、經濟、社會、そんな學問なんかより、ひとりの處女の微笑が尊いといふフアウスト博士の勇敢なる實證。 學問とは、虚榮の別名である。人間が人間でなくならうとする努力である。 ゲエテにだつて誓つて言へる。僕は、どんなにでも巧く書けます。一篇の構成あやまたず、適度の滑稽、讀者の眼のうらを燒く悲哀、若しくは、肅然、所謂襟を正さしめ、完璧のお小説、朗々音讀すれば、これすなはち、スクリンの説明か、はづかしくつて、書けるかつていふんだ。どだいそんな、傑作意識が、ケチくさいといふんだ。小説を讀んで襟を正すなんて、狂人の所作である。そんなら、いつそ、羽織袴でせにやなるまい。よい作品ほど、取り澄ましてゐないやうに見えるのだがなあ。僕は友人の心からたのしさうな笑顏を見たいばかりに一篇の小説、わざとしくじつて、下手くそに書いて、尻餅ついて頭かきかき逃げて行く。ああ、その時の、友人のうれしさうな顏つたら! 文いたらず、人いたらぬ風情、おもちやのラッパを吹いてお聞かせ申し、ここに日本一の馬鹿がゐます、あなたはまだいいはうですよ、健在なれ! と願ふ愛情は、これはいつたい何でせう。 友人、したり顏にて、あれがあいつの惡い癖、惜しいものだ、と御述懷。愛されてゐる事を、ご存じ無い。 不良でない人間があるだらうか。 味氣ない思ひ。 金が欲しい。 さもなくば、 眠りながらの自然死! 藥屋に千圓ちかき借金あり。けふ、質屋の番頭をこつそり家へ連れて來て、僕の部屋へとほして、何かこの部屋に [9]目めぼしい質草ありや、あるなら持つて行け、火急に金が要る、と申せしに、番頭ろくに部屋の中を見もせず、およしなさい、あなたのお道具でもないのに、とぬかした。よろしい、それならば、僕がいままで、僕のお小遣ひ錢で買つた品物だけ持つて行け、と威勢よく言つて、かき集めたガラクタ、質草の資格あるしろもの一つも無し。 まづ、片手の石膏像。これは、ヴイナスの右手。ダリヤの花にも似た片手、まつしろい片手、これがただ臺上に載つてゐるのだ。けれども、これをよく見ると、これはヴイナスが、その全裸を、男に見られて、あなやの驚き、含羞旋風、裸身むざん、薄くれなゐ、殘りくまなき、かツかツのほてり、からだをよぢつてこの手つき、そのやうなヴイナスの息もとまるほどの裸身のはぢらひが、指先に指紋も無く、掌に一本の手筋もない純白のこのきやしやな右手に依つて、こちらの胸も苦しくなるくらゐに哀れに表情せられてゐるのが、わかる筈だ。けれども、これは、所詮、非實用のガラクタ。番頭、五十錢と値踏みせり。 その他、パリ近郊の大地圖、直徑一尺にちかきセルロイドの獨樂、糸よりも細く字の書ける特製のペン先、いづれも掘り出し物のつもりで買つた品物ばかりなのだが、番頭笑つて、もうおいとま致します、と言ふ。待て、と制止して、結局また、本を山ほど番頭に背負はせて、金五圓也を受け取る。僕の本棚の本は、ほとんど廉價の文庫本のみにして、しかも古本屋から仕入れしものなるに依つて、質の値もおのづからこのやうに安いのである。 千圓の借錢を解決せんとして、五圓也。世の中に於ける、僕の實力おほよそかくの如し。笑ひごとではない。 デカダン? しかし、かうでもしなけりや生きてをれないんだよ。そんな事を言つて、僕を非難する人よりは、死ね! と言つてくれる人のはうがありがたい。さつぱりする。けれども人は、めつたに、死ね! とは言はないものだ。ケチくさく、用心深い僞善者どもよ。 正義? 所謂階級鬪爭の本質は、そんなところにありはせぬ。人道? 冗談ぢやない。僕は知つてゐるよ。自分たちの幸福のために、相手を倒す事だ、殺す事だ。死ね! といふ宣告でなかつたら、何だ。ごまかしちやいけねえ。 しかし、僕たちの階級にも、ろくな奴がゐない。白痴、幽靈、守錢奴、狂犬、ほら吹き、ゴザイマスル、雲の上から小便。 死ね! といふ言葉を與へるのさへ、もつたいない。 戰爭。日本の戰爭は、ヤケクソだ。 ヤケクソに卷き込まれて死ぬのは、いや。いつそ、ひとりで死にたいわい。 人間は、嘘をつく時には、必ず、まじめな顏をしてゐるものである。この頃の、指導者たちの、あの、まじめさ。ぷ! 人から尊敬されようと 思はぬ人たちと遊びたい。 けれども、そんないい人たちは、僕と遊んでくれやしない。 僕が早熟を裝つて見せたら、人々は僕を、早熟だと噂した。僕が、なまけものの振りをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。僕が小説を書けない振りをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。僕が嘘つきの振りをしたら、人々は僕を、嘘つきだと噂した。僕が金持ちの振りをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。僕が冷淡を裝つて見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。けれども僕が本當に苦しくて、思はず呻いた時、人々は僕を、苦しい振りを裝つてゐると噂した。 どうも、くひちがふ。 結局、自殺するよりほか仕樣がないのぢやないか。 このやうに苦しんでも、ただ、自殺で終るだけなのだ、と思つたら聲を放つて泣いてしまつた。 春の朝、二、三輪の花の咲き綻びた梅の枝に朝日が當つて、その枝にハイデルベルヒの若い學生が、ほつそりと縊れて死んでゐたといふ。 「ママ! 僕を叱つて下さい!」 「どういふ工合ひに?」 「弱蟲! つて。」 「さう? 弱蟲。……もう、いいでせう?」 ママには無類のよさがある。ママを思ふと、泣きたくなる。ママへおわびのためにも、死ぬんだ。 オユルシ下サイ。イマ、イチドダケ、オユルシ下サイ。 年々や めしひのままに 鶴のひな 育ちゆくらし あはれ 太るも(元旦試作) モルヒネ アトロモール ナルコポン パントポン パビナアル パンオピン アトロピン プライドとは何だ、プライドとは。 人間は、いや、男は(おれはすぐれてゐる)(おれにはいいところがあるんだ)などと 思はずに、生きて行く事が出來ぬものか。 人をきらひ、人にきらはれる。 ちゑくらべ。 嚴肅=阿呆感 とにかくね、生きてゐのだからね、インチキをやつてゐるに違ひないのさ。 或る借錢申込みの手紙。 「御返事を。 御返事を下さい。 さうしてそれが 必ず快報であるやうに。 僕はさまざまの屈辱を思ひ設けて、ひとりで呻いてゐます。 芝居をしてゐるのではありません。 絶對にさうではありません。 お願ひいたします。 僕は恥づかしさのために死にさうです。 誇張ではないのです。 毎日毎日、御返事を待つて、夜も晝もがたがたふるへてゐるのです。 僕に砂を噛ませないで。 壁から忍び笑ひの聲が聞えて來て、深夜、床の中で輾轉してゐるのです。 僕を恥づかしい目に逢はせないで。 姉さん!」 そこまで讀んで私は、その夕顏日誌を閉ぢ、木の箱にかへして、それから窓のはうに歩いて行き、窓を一ぱいにひらいて、白い雨に煙つてゐるお庭を見下しながら、あの頃の事を考へた。 もう、あれから、六年になる。直治の、この麻藥中毒が、私の離婚の原因になつた、いいえ、さう言つてはいけない、私の離婚は、直治の麻藥中毒がなくつても、べつな何かのきつかけで、いつかは行はれてゐるやうに、そのやうに、私の生れた時から、さだまつてゐた事みたいな氣もする。直治は、藥屋への支拂ひに困つて、しばしば私にお金をねだつた。私は山木へ嫁いだばかりで、お金などそんなに自由になるわけは無し、また、嫁ぎ先のお金を、里の弟へこつそり融通してやるなど、たいへん工合ひの惡い事のやうにも思はれたので、里から私に附き添つて來たばあやのお關さんと相談して、私の腕輪や、頸飾りや、ドレスを賣つた。弟は私に、お金を下さい、といふ手紙を寄こして、さうして、いまは苦しくて恥づかしくて、姉上と顏を合せる事も、また電話で話する事さへ、とても出來ませんから、お金は、お關に言ひつけて、京橋の×町×丁目のカヤノアパートに住んでゐる、姉上も名前だけはご存じの筈の、小説家上原二郎さんのところに屆けさせるやう、上原さんは、惡徳のひとのやうに世の中から評判されてゐるが、決してそんな人ではないから、安心してお金を上原さんのところへ屆けてやつて下さい、さうすると、上原さんがすぐに僕に電話で知らせる事になつてゐるのですから、必ずそのやうにお願ひします、僕はこんどの中毒を、ママにだけは氣附かれたくないのです、ママの知らぬうちに、なんとかしてこの中毒をなほしてしまふつもりなのです、僕は、こんど姉上からお金をもらつたら、それでもつて藥屋への借りを全部支拂つて、それから鹽原の別莊へでも行つて、健康なからだになつて歸つて來るつもりなのです、本當です、藥屋の借りを全部すましたら、もう僕は、その日から麻藥を用ゐる事はぴつたりよすつもりです、神さまに誓ひます、信じて下さい、ママには内證に、お關をつかつてカヤノアパートの上原さんに、たのみます、といふやうな事が、その手紙に書かれてゐて、私はその指圖どほりに、お關さんに、お金を持たせて、こつそり上原さんのアパートにとどけさせたものだが、弟の手紙の誓ひは、いつも嘘で、鹽原の別莊にも行かず、藥品中毒はいよいよひどくなるばかりの樣子で、お金をねだる手紙の文章も、悲鳴に近い苦しげな調子で、こんどこそ藥をやめると、顏をそむけたいくらゐの哀切な誓ひをするので、また嘘かも知れぬと思ひながらも、ついまた、ブローチなどお關さんに賣らせて、そのお金を上原さんのアパートにとどけさせるのだつた。 「上原さんつて、どんな方?」 「小柄で顏色の惡い、ぶあいそな人でございます。」 とお關さんは答へる。 「でも、アパートにいらつしやる事は、めつたにございませぬです。たいてい、奧さんと、六つ七つの女のお子さんと、お二人がいらつしやるだけでございます。この奧さんは、そんなにお綺麗でもございませぬけれども、お優しくて、よく出來たお方のやうでございます。あの奧さんになら、安心してお金を預ける事が出來ます。」 その頃の私は、いまの私に較べて、いいえ、較べものにも何もならぬくらゐ、まるで違つた人みたいに、ぼんやりの、のんき者ではあつたが、それでも流石に、つぎつぎと續いてしかも次第に多額のお金をねだられて、たまらなく心配になり、一日、お能からの歸り、自動車を銀座でかへして、それからひとりで歩いて京橋のカヤノアパートを訪ねた。 上原さんは、お部屋でひとり、新聞を讀んでいらした。縞の袷に、紺緋のお羽織を召していらして、お年寄りのやうな、お若いやうな、いままで見た事もない奇獸のやうな、へんな初印象を私は受取つた。 「女房はいま、子供と、一緒に、配給物を取りに。」 すこし鼻聲で、とぎれとぎれにさうおつしやる。私を、奧さんのお友達とでも思ひちがひしたらしかつた。私が、直治の姉だと言ふ事を申し上げたら、上原さんは、ふん、と笑つた。私は、なぜだか、ひやりとした。 「出ませうか。」 さう言つて、もう二重廻しをひつかけ、下駄箱から新しい下駄を取り出しておはきになり、さつさとアパートの廊下を先に立つて歩かれた。 外は、初冬の夕暮。風が、つめたかつた。隅田川から吹いて來る川風のやうな感じであつた。上原さんは、その川風にさからふやうに、すこし右肩をあげて築地のはうに默つて歩いて行かれる。私は小走りに走りながら、その後を追つた。 東京劇場の裏手のビルの地下室にはひつた。四、五組の客が、二十疊くらゐの細長いお部屋で、それぞれ卓をはさんで、ひつそりお酒を飮んでゐた。 上原さんは、コツプでお酒をお飮みになつた。さうして、私にも別なコツプを取り寄せて下さつて、お酒をすすめた。私は、そのコツプで二杯飮んだけれども、なんともなかつた。 上原さんは、お酒を飮み、煙草を吸ひ、さうしていつまでも默つてゐた。私は、こんなところへ來たのは、生れてはじめての事であつたけれども、とても落ちつき、氣分がよかつた。 「お酒でも飮むといいんだけど。」 「え?」 「いいえ、弟さん。アルコールのはうに轉換するといいんですよ。僕も昔、麻藥中毒になつた事があつてね、あれは人が薄氣味わるがつてね、アルコールだつて同じ樣なものなんだが、アルコールのはうは、人は案外ゆるすんだ。弟さんを、酒飮みにしちやいませう。いいでせう?」 「私、いちど、お酒飮みを見た事がありますわ。新年に、私が出掛けようとした時、うちの運轉手の知合ひの者が、自動車の助手席で、鬼のやうな眞赤な顏をして、ぐうぐう大いびきで眠つてゐましたの。私がおどろいて叫んだら、運轉手が、これはお酒飮みで、仕樣が無いんです、と言つて、自動車からおろして肩にかついでどこかへ連れて行きましたの。骨が無いみたいにぐつたりして、何だかそれでも、ぶつぶつ言つてゐて、私あの時、はじめてお酒飮みつてものを見たのですけど、面白かつたわ。」 「僕だつて、酒飮みです。」 「あら、だつて、違ふんでせう?」 「あなただつて、酒飮みです。」 「そんな事は、ありませんわ。私は、お酒飮みを見た事があるんですもの。まるで違ひますわ。」 上原さんは、はじめて樂しさうにお笑ひになつて、 「それでは、弟さんも、酒飮みにはなれないかも知れませんが、とにかく、酒を飮む人になつたはうがいい。歸りませう。おそくなると、困るんでせう?」 「いいえ、かまはないんですの。」 「いや、實は、こつちが窮屈でいけねえんだ。ねえさん! 會計!」 「うんと高いのでせうか、少しなら、私持つてゐるんですけど。」 「さう。そんなら、會計は、あなただ。」 「足りないかも知れませんわ。」 私は、バツクの中を見て、お金がいくらあるかを上原さんに教へた。 「それだけあれば、もう二、三軒飮める。馬鹿にしてやがる。」 上原さんは顏をしかめておつしやつてそれから笑つた。 「どこかへ、また、飮みにおいでになりますか?」 と、おたづねしたら、まじめに首を振つて、 「いや、もうたくさん。タキシーを拾つてあげますから、お歸りなさい。」 私たちは、地下室の暗い階段をのぼつて行つた。一歩さきにのぼつて行く上原さんが、階段の中頃で、くるりとこちら向きになり、素早く私にキスをした。私は唇を固く閉ぢたまま、それを受けた。 べつに何も、上原さんをすきでなかつたのに、それでも、その時から私に、あの「ひめごと」が出來てしまつたのだ。かたかたかたと、上原さんは走つて階段を上つて行つて、私は不思議な透明な氣分で、ゆつくり上つて、外へ出たら、川風が頬にとても氣持よかつた。 上原さんに、タキシーを拾つていただいて、私たちは默つてわかれた。 車にゆられながら、私は世間が急に海のやうにひろくなつたやうな氣持がした。 「私には、戀人があるの。」 或る日、私は、夫からおこごとをいただいて淋しくなつて、ふつとさう言つた。 「知つてゐます。細田でせう? どうしても、思ひ切る事が出來ないのですか?」 私は默つてゐた。 その問題が、何か氣まづい事の起る度毎に、私たち夫婦の間に持ち出されるやうになつた。もうこれは、だめなんだ、と私は思つた。ドレスの生地を間違つて裁斷した時みたいに、もうその生地は縫ひ合せる事も出來ず、全部捨てて、また別の新しい生地の裁斷にとりかからなければならぬ。 「まさか、その、おなかの子は。」 と或る夜、夫に言はれた時には、私はあまりおそろしくて、がたがた震へた。いま思ふと、私も夫も、若かつたのだ。私は、戀も知らなかつた。愛さへ、わからなかつた。私は、細田さまのおかきになる繪に夢中になつて、あんなお方の奧さまになつたら、どんなに、まあ、美しい日常生活を營むことが出來るでせう、あんなよい趣味のお方と結婚するのでなければ、結婚なんて無意味だわ、と私は誰にでも言ひふらしてゐたので、そのために、みんなに誤解されて、それでも私は、戀も愛もわからず、平氣で細田さまを好きだといふ事を公言し、取消さうともしなかつたので、へんにもつれて、その頃、私のおなかで眠つてゐた小さい赤ちやんまで、夫の疑惑の的になつたりして、誰ひとり離婚などあらはに言ひ出したお方もゐなかつたのに、いつのまにやら周圍が白々しくなつていつて、私は附き添ひのお關さんと一緒に里のお母さまのところに歸つて、それから、赤ちやんが死んで生れて、私は病氣になつて寢込んで、もう、山木との間は、 [10]それつきりなつてしまつたのだ。 直治は、私が離婚になつたといふ事に、何か責任みたいなものを感じたのか、僕は死ぬよ、と言つて、わあわあ聲を擧げて、顏が腐つてしまふくらゐに泣いた。私は弟に、藥屋の借りがいくらになつてゐるのかたづねてみたら、それはおそろしいほどの金額であつた。しかも、それは弟が實際の金額を言へなくて、嘘をついてゐたのがあとでわかつた。あとで判明した實際の總額は、その時に弟が私に教へた金額の約三倍ちかくあつたのである。 「私、上原さんに逢つたわ。いいお方ね。これから、上原さんと一緒にお酒を飮んで遊んだらどう? お酒つて、とても安いものぢやないの、お酒のお金くらゐだつたら、私いつでもあなたにあげるわ。藥屋の拂ひの事も、心配しないで。どうにか、なるわよ。」 私が上原さんと逢つて、さうして上原さんをいいお方だと言つたのが、弟を何だかひどく喜ばせたやうで、弟は、その夜、私からお金をもらつて早速、上原さんのところに遊びに行つた。 中毒は、それこそ、精神の病氣なのかも知れない。私が上原さんをほめて、さうして弟から上原さんの著書を借りて讀んで、偉いお方ねえ、などと言ふと、弟は、姉さんなんかにはわかるもんか、と言つて、それでも、とてもうれしさうに、ぢやあこれを讀んでごらん、とまた別の上原さんの著書を私に讀ませ、そのうちに私も上原さんの小説を本氣に讀むやうになつて、二人であれこれ上原さんの噂などして、弟は毎晩のやうに上原さんのところに大威張りで遊びに行き、だんだん上原さんの御計畫どほりにアルコールのはうへ轉換していつたやうであつた。藥屋の支拂ひに就いて、私がお母さまにこつそり相談したら、お母さまは、片手でお顏を覆ひなさつて、しばらくじつとしていらつしやつたが、やがてお顏を擧げて淋しさうにお笑ひになり、考へたつて仕樣が無いわね、何年かかるかわからないけど、毎月すこしづつでもかへして行きませうよ、とおつしやつた。 あれから、もう六年になる。 夕顏。ああ、弟も苦しいのだらう。しかも、途がふさがつて、何をどうすればいいのか、いまだに何もわかつてゐないのだらう。ただ、毎日、死ぬ氣でお酒を飮んでゐるのだらう。 いつそ思ひ切つて、本職の不良になつてしまつたらどうだらう。さうすると、弟もかへつて樂になるのではあるまいか。 不良でない人間があるだらうか、とあのノートブックに書かれてゐたけれども、さう言はれてみると、私だつて不良、叔父さまも不良、お母さまだつて、不良みたいに思はれて來る。不良とは、優しさの事ではないかしら。
四お手紙、書かうか、どうしようか、ずゐぶん迷つてゐました。けれども、けさ、鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ、といふイエスの言葉をふと思ひ出し、奇妙に元氣が出て、お手紙を差し上げる事にしました。直治の姉でございます。お忘れかしら、お忘れだつたら、思ひ出して下さい。 直治が、こなひだまたお邪魔にあがつて、ずゐぶんごやつかいを、おかけしたやうで、相すみません。(でも、本當は、直治の事は、それは直治の勝手で、私が差し出ておわびをするなど、ナンセンスみたいな氣もするのです。)けふは、直治の事でなく、私の事で、お願ひがあるのです。京橋のアパートで罹災なさつて、それから今の御住所にお移りになつた事を直治から聞きまして、よつぽど東京の郊外のそのお宅にお伺ひしようかと思つたのですが、お母さまがこなひだからまた少しお加減が惡く、お母さまをほつといて上京する事は、どうしても出來ませぬので、それでお手紙で申し上げる事に致しました。 あなたに、御相談してみたい事があるのです。 私のこの相談は、これまでの「女大學」の立場から見ると、非常にずるくて、けがらはしくて、惡質の犯罪でさへあるかも知れませんが、けれども私は、いいえ、私たちは、いまのままでは、とても生きて行けさうもありませんので、弟の直治がこの世で一ばん尊敬してゐるらしいあなたに、私のいつはらぬ氣持を聞いていただき、お指圖をお願ひするつもりなのです。 私には、いまの生活が、たまらないのです。すき、きらひどころではなく、とても、このままでは私たち親子三人、生きて行けさうもないのです。 昨日も、くるしくて、からだも熱つぽく、息ぐるしくて、自分をもてあましてゐましたら、お晝すこしすぎ、雨の中を下の農家の娘さんが、お米を背負つて持つて來ました。さうして私のはうから、約束どほりの衣類を差し上げました。娘さんは、食堂で私と向ひ合つて腰かけてお茶を飮みながら、じつに、リアルな口調で、 「あなた、ものを賣つて、これから先、どのくらゐ生活して行けるの?」 と言ひました。 「半歳か、一年くらゐ。」 と私は答へました。さうして、右手で半分ばかり顏をかくして、 「眠いの。眠くて、仕方がないの。」 と言ひました。 「疲れてゐるのよ。眠くなる神經衰弱でせう。」 「さうでせうね。」 涙が出さうで、ふと私の胸の中に、リアリズムといふ言葉と、ロマンチシズムといふ言葉が浮んで來ました。私に、リアリズムは、ありません。こんな具合ひで、生きて行けるのかしら、と思つたら、全身に寒氣を感じました。お母さまは、半分御病人のやうで、寢たり起きたりですし、弟は、ご存じのやうに心の大病人で、こちらにゐる時は燒酎を飮みに、この近所の宿屋と料理屋とをかねた家へ御精勤で、三日にいちどは、私たちの衣類を賣つたお金を持つて東京方面へ御出張です。でも、くるしいのは、こんな事ではありません。私はただ私自身の生命が、こんな日常生活の中で、芭蕉の葉が散らないで腐つて行くやうに、立ちつくしたままおのづから腐つて行くのをありありと豫感せられるのが、おそろしいのです。とても、たまらないのです。だから私は、「女大學」にそむいても、いまの生活からのがれ出たいのです。それで、私、あなたに相談いたします。 私は、いま、お母さまや弟に、はつきり宣言したいのです。私が前から、或るお方に戀をしてゐて、私は將來、そのお方の愛人として暮すつもりだといふ事を、はつきり言つてしまひたいのです。そのお方は、あなたもたしかご存じの筈です。そのお方のお名前のイニシヤルは、M・Cでございます。私は前から、何か苦しい事が起ると、そのM・Cのところに飛んで行きたくて、こがれ死にをするやうな思ひをして來たのです。 M・Cには、あなたと同じ樣に、奧さまもお子さまもございます。また、私より、もつと綺麗で若い、女のお友達もあるやうです。けれども私は、M・Cのところへ行くより他に、私の生きる途が無い氣持なのです。M・Cの奧さまとは、私はまだ逢つた事がありませんけれども、とても優しくてよいお方のやうでございます。私は、その奧さまの事を考へると、自分をおそろしい女だと思ひます。けれども、私のいまの生活は、それ以上におそろしいもののやうな氣がして、M・Cにたよる事を止せないのです。鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧く、私は、私の戀をしとげたいと思ひます。でも、きつと、お母さまも、弟も、また世間の人たちも、誰ひとり私に賛成して下さらないでせう。あなたは、いかがです。私は結局、ひとりで考へて、ひとりで行動するより他は無いのだ、と思ふと、涙が出て來ます。生れて初めての、 ことなのですから、この、むづかしいことを、周圍のみんなから祝福されてしとげる法はないものかしら、とひどくややこしい代數の因數分解か何かの答案を考へるやうに、思ひをこらして、どこかに一箇所、ぱらぱらと綺麗に解きほぐれる絲口があるやうな氣持がして來て、急に陽氣になつたりなんかしてゐるのです。 けれども、かんじんのM・Cのはうで、私をどう思つていらつしやるか。それを考へると、しよげてしまひます。謂はば、私は、押しかけ、……なんといふのかしら、押しかけ女房といつてもいけないし、押しかけ愛人、とでもいはうかしら、そんなものなのですから、M・Cのはうでどうしても、いやだといつたら、それつきり。だから、あなたにお願ひします。どうか、あのお方に、あなたからきいてみて下さい。六年前の或る日、私の胸に幽かな淡い虹がかかつて、それは戀でも愛でもなかつたけれども、年月の經つほど、その虹はあざやかに色彩の濃さを増して來て、私はいままで一度も、それを見失つた事はございませんでした。夕立の晴れた空にかかる虹は、やがてはかなく消えてしまひますけど、ひとの胸にかかつた虹は、消えないやうでございます。どうぞ、あのお方に、きいてみて下さい、あのお方は、ほんとに、私を、どう思つていらつしやつたのでせう。それこそ、雨後の空の虹みたいに、思つていらつしやつたのでせうか。さうして、とつくに消えてしまつたものと? それなら、私も、私の虹を消してしまはなければなりません。けれども、私の生命をさきに消さなければ、私の胸の虹は消えさうもございません。 御返事を、祈つてゐます。 上原二郎樣(私のチエホフ。マイ、チエホフ。M・C) 私は、このごろ、少しづつ、太つて行きます。動物的な女になつてゆくといふよりは、ひとらしくなつたのだと思つてゐます。この夏は、ロレンスの小説を一つだけ讀みました。 御返事が無いので、もういちどお手紙を差し上げます。こなひだ差し上げた手紙は、とても、ずるい、蛇のやうな奸策に滿ち滿ちてゐたのを、いちいち見破つておしまひになつたのでせう。本當に、私はあの手紙の一行々々に狡智の限りを盡してみたのです。結局、私はあなたに、私の生活をたすけていただきたい、お金がほしいといふ意圖だけ、それだけの手紙だとお思ひになつた事でせう。さうして、私もそれを否定いたしませぬけれども、しかし、ただ私が自身のパトロンが欲しいのなら、失禮ながら、特にあなたを選んでお願ひ申しませぬ。他にたくさん、私を可愛がつて下さる老人のお金持などあるやうな氣がします。げんにこなひだも、妙な縁談みたいなものがあつたのです。そのお方のお名前は、あなたもご存じかも知れませんが、六十すぎた獨身のおぢいさんで、藝術院とかの會員だとか何だとか、さういふ大師匠のひとが、私をもらひにこの山莊にやつて來ました。この師匠さんは、私どもの西片町のお家の近所に住んでゐましたので、私たちも隣組のよしみで、時たま逢ふ事がありました。いつか、あれは秋の夕暮だつたと覺えてゐますが、私とお母さまと二人で、自動車でその師匠さんのお家の前を通り過ぎた時、そのお方がひとりでぼんやりお宅の門の傍に立つていらして、お母さまが自動車の窓からちよつと師匠さんにお會釋なさつたら、その師匠さんの氣むづかしさうな蒼黒いお顏が、ぱつと紅葉よりも赤くなりました。 「こひかしら。」 私は、はしやいで言ひました。 「お母さまを、すきなのね。」 けれども、お母さまは落ちついて、 「いいえ、偉いお方。」 とひとりごとのやうに、おつしやいました。藝術家を尊敬するのは、私どもの家の家風のやうでございます。 その師匠さんが、先年奧さまをなくなさつたとかで和田の叔父さまと謠曲のお天狗仲間の或る宮家のお方を介し、お母さまに申し入れをなさつて、お母さまはかず子から思つたとほりの御返事を師匠さんに直接さしあげたら? とおつしやるし、私は深く考へるまでもなく、いやなので、私にはいま結婚の意志がございません、といふ事を何でもなくスラスラと書けました。 「お斷りしてもいいのでせう?」 「そりやもう。……私も、無理な話だと思つてゐたわ。」 その頃、師匠さんは輕井澤の別莊のはうにいらしたので、そのお別莊へお斷りの御返事をさし上げたら、それから、二日目に、その手紙と行きちがひに、師匠さんご自身、伊豆の温泉へ仕事に來た途中でちよつと立ち寄らせていただきましたとおつしやつて、私の返事の事は何もご存じでなく、出し拔けに、この山莊にお見えになつたのです。藝術家といふものは、おいくつになつても、こんな子供みたいな氣ままな事をなさるものらしいのね。 お母さまは、お加減がわるいので、私が御相手に出て、支那間でお茶を差し上げ、 「あの、お斷りの手紙、いまごろ輕井澤のはうに着いてゐる事と存じます。私、よく考へましたのですけれど。」 と申し上げました。 「さうですか。」 とせかせかした調子でおつしやつて、汗をお拭きになり、 「でも、それは、もう一度、よくお考へになつてみて下さい。私は、あなたを、何と言つたらいいか、謂はば精神的には幸福を與へる事が出來ないかも知れないが、その代り、物質的にはどんなにでも幸福にしてあげる事が出來る。これだけは、はつきり言へます。まあ、ざつくばらんの話ですが。」 「お言葉の、その幸福といふのが、私にはよくわかりません。生意氣を申し上げるやうですけど、ごめんなさい。チエホフの妻への手紙に、子供を生んでおくれ、私たちの子供を生んでおくれ、つて書いてございましたわね。ニイチエだかのエツセイの中にも、子供を生ませたいと思ふ女、といふ言葉がございましたわ。私、子供がほしいのです。幸福なんて、そんなものは、どうだつていいのですの。お金もほしいけど、子供を育てて行けるだけのお金があつたら、それでたくさんですわ。」 師匠さんはへんな笑ひ方をなさつて、 「あなたは、珍らしい方ですね。誰にでも、思つたとほりを言へる方だ。あなたのやうな方と一緒にゐると、私の仕事にも新しい靈感が舞ひ下りて來るかも知れない。」 と、おとしに似合はず、ちよつと氣障みたいな事を言ひました。こんな偉い藝術家のお仕事を、もし本當に私の力で若返らせる事が出來たら、それも生き甲斐のある事に違ひない、とも思ひましたが、けれども、私は、その師匠に抱かれる自分の姿を、どうしても考へることが出來なかつたのです。 「私に、戀のこころが無くてもいいのでせうか?」 と私は少し笑つておたづねしたら、師匠さんはまじめに、 「女のかたは、それでいいんです。女のひとは、ぼんやりしてゐて、いいんですよ。」とおつしやいます。 「でも、私みたいな女は、やつぱり、戀のこころが無くては、結婚を考へられないのです。私、もう、大人なんですもの。來年は、もう、三十。」 と言つて、思はず口を覆ひたいやうな氣持がしました。 三十。女には、二十九までは乙女の匂ひが殘つてゐる。しかし、三十の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂ひが無い、といふむかし讀んだフランスの小説の中の言葉がふつと思ひ出されて、やりきれない淋しさに覆はれ、外を見ると、眞晝の光を浴びて海が、ガラスの破片のやうにどぎつく光つてゐました。あの小説を讀んだ時には、そりやさうだらうと輕く肯定して澄ましてゐた。三十歳迄で、女の生活は、おしまひになると平氣でさう思つてゐたあの頃がなつかしい。腕輪、頸飾り、ドレス、帶、ひとつひとつ私のからだの周圍から消えて無くなつて行くに從つて、私のからだの乙女の匂ひも次第に淡くうすれて行つたのでせう。まづしい、中年の女。おお、いやだ。でも、中年の女の生活にも、女の生活が、やつぱり、あるんですのね。このごろ、それがわかつて來ました。英人の女教師が、イギリスにお歸りの時、十九の私にかうおつしやつたのを覺えてゐます。 「あなたは、戀をなさつてはいけません。あなたは、戀をしたら、不幸になります。戀を、なさるなら、もつと、大きくなつてからになさい。三十になつてからになさい。」 けれども、さう言はれても私は、きよとんとしてゐました。三十になつてからの事など、その頃の私には、想像も何も出來ないことでした。 「このお別莊を、お賣りになるとかいふ噂を聞きましたが。」 師匠さんは、意地わるさうな表情で、ふいとさうおつしやいました。 私は笑ひました。 「ごめんなさい。櫻の園を思ひ出したのです。あなたが、お買ひになつて下さるのでせう?」 師匠さんは、さすがに敏感にお察しになつたやうで、怒つたやうに口をゆがめて默しました。 或る宮樣のお住居として、新圓五十萬圓でこの家を、どうかうといふ話があつたのも事實ですが、それは立ち消えになり、その噂でも師匠さんは聞き込んだのでせう。でも、櫻の園のロパーヒンみたいに私どもに思はれてゐるのではたまらないと、すつかりお機嫌を惡くした樣子で、あと、世間話を少ししてお歸りになつてしまひました。 私がいま、あなたに求めてゐるものは、ロパーヒンではございません。それは、はつきり言へるんです。ただ、中年の女の押しかけを、引受けて下さい。 私がはじめて、あなたとお逢ひしたのは、もう六年くらゐ昔の事でした。あの時には、私はあなたといふ人に就いて何も知りませんでした。ただ、弟の師匠さん、それもいくぶん惡い師匠さん、さう思つてゐただけでした。さうして、一緒にコップで、お酒を飮んで、それからあなたは、ちよつと輕いイタヅラをなさつたでせう。けれども、私は平氣でした。ただ、へんに身輕になつたくらゐの氣分でゐました。あなたを、すきでもきらひでもなんでもなかつたのです。そのうちに、弟のお機嫌をとるために、あなたの著書を弟から借りて讀み、面白かつたり面白くなかつたり、あまり熱心な讀者ではなかつたのですが、六年間、いつの頃からか、あなたの事が霧のやうに私の胸に滲み込んでゐたのです。あの夜、地下室の階段で、私たちのした事も、急にいきいきとあざやかに思ひ出されて來て、なんだかあれは、私の運命を決定するほどの重大なことだつたやうな氣がして、あなたがしたはしくて、これが、戀かも知れぬと思つたら、とても心細くたよりなく、ひとりでめそめそ泣きました。あなたは、他の男のひとと、まるで全然ちがつてゐます。私は、「かもめ」のニーナのやうに、作家に戀してゐるのではありません。私は、小説家などにあこがれてはゐないのです。文學少女、などとお思ひになつたら、こちらも、まごつきます。私は、あなたの赤ちやんがほしいのです。 もつとずつと前に、あなたがまだおひとりの時、さうして私もまだ山木へ行かない時に、お逢ひして、二人で結婚してゐたら、私もいまみたいに苦しまずにすんだのかも知れませんが、私はもうあなたとの結婚は出來ないものとあきらめてゐます。あなたの奧さまを押しのけるなど、それはあさましい暴力みたいで、私はいやなんです。私は、おメカケ、(この言葉、言ひたくなくて、たまらないのですけど、でも愛人、と言つてみたところで、俗に言へば、おメカケに違ひないのですから、はつきり、言ふわ。)それだつて、かまはないんです。でも、世間普通のお妾の生活つて、むづかしいものらしいのね。人の話では、お妾は普通、用が無くなると、捨てられるものですつて、六十ちかくなると、どんな男のかたでも、みんな、本妻の所へお戻りになるんですつて。ですから、お妾にだけはなるものぢやないつて、西片町のぢいやと乳母が話合つてゐるのを、聞いた事があるんです。でも、それは、世間普通のお妾のことで、私たちの場合は、ちがふやうな氣がします。あなたにとつて、一番、大事なのは、やはり、あなたのお仕事だと思ひます。さうして、あなたが、私をおすきだつたら、二人が仲よくする事が、お仕事のためにもいいでせう。すると、あなたの奧さまも、私たちの事を納得して下さいます。へんな、こじつけの理窟みたいだけど、でも、私の考へは、どこも間違つてゐないと思ふわ。 問題は、あなたの御返事だけです。私をすきなのか、きらひなのか、それとも、なんともないのか、その御返事、とてもおそろしいのだけれども、でも、伺はなければなりません。こなひだの手紙にも、私、押しかけ愛人、と書き、また、この手紙にも、中年の女の押しかけ、などと書きましたが、いまよく考へてみましたら、あなたからの御返事が無ければ、私、押しかけようにも、何も、手がかりが無く、ひとりでぼんやり痩せて行くだけでせう。やはりあなたの何かお言葉が無ければ、ダメだつたんです。 いまふつと思つた事でございますが、あなたは、小説ではずゐぶん戀の冒險みたいな事をお書きになり、世間からもひどい惡漢のやうに噂をされてゐながら、本當は、常識家なんでせう。私には、常識といふ事が、わからないんです。すきな事が出來さへすれば、それはいい生活だと思ひます。私は、あなたの赤ちやんを生みたいのです。他のひとの赤ちやんは、どんな事があつても、生みたくないんです。それで、私はあなたに相談をしてゐるのです。おわかりになりましたら、御返事を下さい。あなたのお氣持を、はつきり、お知らせ下さい。 雨があがつて、風が吹き出しました。いま午後三時です。これから一級酒(六合)の配給を貰ひに行きます。ラム酒の瓶を二本、袋にいれて、胸のポケットに、この手紙をいれて、もう十分ばかりしたら、下の村に出かけます。このお酒は、弟に飮ませません。かず子が飮みます。毎晩、コップで一ぱいづついただきます。お酒は、本當は、コップで飮むものですわね。 こちらに、いらつしやいません? M・C樣 けふも雨降りになりました。目に見えないやうな霧雨が降つてゐるのです。毎日毎日、外出もしないで御返事をお待ちしてゐるのに、たうとうけふまでおたよりがございませんでした。いつたいあなたは、何とお考へになつてゐるのでせう。こなひだの手紙で、あの大師匠さんの事など書いたのがいけなかつたのかしら。こんな縁談なんかを書いて、競争心をかき立てようとしてゐやがる、とでもお思ひになつたのでせうか。でも、あの縁談は、もうあれつきりだつたのです。さつきも、お母さまと、その話をして笑ひました。お母さまは、こなひだ舌の先が痛いとおつしやつて、直治にすすめられて、美學療法をして、その療法に依つて、舌の痛みもとれて、この頃はちよつとお元氣なのです。 さつき私がお縁側に立つて、渦を卷きつつ吹かれて行く霧雨を眺めながら、あなたのお氣持の事を考へてゐましたら、 「ミルクを沸したから、いらつしやい。」 とお母さまが食堂のはうからお呼びになりました。 「寒いから、うんと熱くしてみたの。」 私たちは、食堂で湯氣の立つてゐる熱いミルクをいただきながら、先日の師匠さんの事を話合ひました。 「あの方と、私とは、どだい何も似合ひませんでせう?」 お母さまは平氣で、 「似合はない。」とおつしやいました。 「私、こんなにわがままだし、それに藝術家といふものをきらひぢやないし、おまけに、あの方にはたくさんの収入があるらしいし、あんな方と結婚したら、そりやいいと思ふわ。だけど、ダメなの。」 お母さまは、お笑ひになつて、 「かず子は、いけない子ね。そんなに、ダメでゐながら、こなひだあの方と、ゆつくり何かとたのしさうにお話をしてゐたでせう。あなたの氣持が、わからない。」 「あら、だつて、 [11]面白かつたんですもの、もつと、いろいろ話をしてみたかつたわ。私、たしなみが無いのね。」 「いいえ、べつたりしてゐるのよ。かず子べつたり。」 お母さまは、けふは、とてもお元氣。 さうして、きのふはじめてアップにした私の髮をごらんになつて、 「アップはね、髮の毛の少いひとがするといいのよ。あなたのアップは立派すぎて、金の小さい冠でも載せてみたいくらゐ。失敗ね。」 「かず子がつかり。だつて、お母さまはいつだつたか、かず子は頸すぢが白くて綺麗だから、なるべく頸すぢを隱さないやうに、つておつしやつたぢやないの。」 「そんな事だけは、覺えてゐるのね。」 「少しでもほめられた事は、一生わすれません。覺えてゐたはうが、たのしいもの。」 「こなひだ、あの方からも、何かとほめられたのでせう。」 「さうよ。それで、べつたりになつちやつたの。私と一緒にゐると靈感が、ああ、たまらない。私、藝術家はきらひぢやないんですけど、あんな、人格者みたいに、もつたいぶつてるひとは、とてもダメなの。」 「直治の師匠さんは、どんなひとなの?」 私はひやりとしました。 「よくわからないけど、どうせ直治の師匠さんですもの、札つきの不良らしいわ。」 「札つき?」と、お母さまは、樂しさうな眼つきをなさつて呟き、 「面白い言葉ね。札つきなら、 [12]かへつて安全でいいぢやないの、鈴を首にさげてゐる小猫みたいで可愛らしいくらゐ。札のついてゐない不良が、こはいんです。」 「さうかしら。」 うれしくて、うれしくて、すうとからだが煙になつて空に吸はれて行くやうな氣持でした。おわかりになります? なぜ、私が、うれしかつたか。おわかりにならなかつたら、……毆るわよ。 いちど、本當に、こちらへ遊びにいらつしやいません? 私から直治に、あなたをお連れして來るやうに、つて言ひつけるのも、何だか不自然で、へんですから、あなたご自身の醉興から、ふつとここへ立寄つたといふ形にして、直治の案内でおいでになつてもいいけれども、でも、なるべくならおひとりで、さうして直治が東京に出張した留守においでになつて下さい。直治がゐると、あなたを直治にとられてしまつて、きつとあなたたちは、お咲さんのところへ燒酎なんかを飮みに出かけて行つて、それつきりになるにきまつてゐますから。私の家では、先祖代々、藝術家を好きだつたやうです。光琳という畫家も、むかし私どもの京都のお家に永く滯在して、襖に綺麗な繪をかいて下さつたのです。だから、お母さまも、あなたの御來訪を、きつと喜んで下さると思ひます。あなたは、たぶん、二階の洋間におやすみといふ事になるでせう。お忘れなく電燈を消して置いて下さい。私は小さい蝋燭を片手に持つて、暗い階段をのぼつて行つて、それは、だめ? 早すぎるわね。 私、不良が好きなの。それも、札つきの不良がすきなの。さうして私も札つきの不良になりたいの。さうするよりほかに、私の生きかたが、無いやうな氣がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でせう。さうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたをきたならしい、けがらはしい、と言つて、ひどく憎んで攻撃してゐるとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。あなたの事ですから、きつといろいろのアミをお持ちでせうけれども、いまにだんだん私ひとりをすきにおなりでせう。なぜだか、私にはさう思はれて仕方が無いんです。さうして、あなたは私と一緒に暮して、毎日たのしくお仕事が出來るでせう。小さい時から私は、よく人から、「あなたと一緒にゐると苦勞を忘れる」と言はれて來ました。私はいままで、人からきらはれた經驗が無いんです。みんなが私を、いい子だと言つて下さいました。だから、あなたも、私をおきらひの筈は、けつしてないと思ふのです。 逢へばいいのです。もう、いまは御返事も何も要りません。お逢ひしたうございます。私のはうから、東京のあなたのお宅へお伺ひすれば一ばん簡單におめにかかれるのでせうけれど、お母さまが、何せ半病人のやうで、私は附きつきりの看護婦兼お女中さんなのですから、どうしてもそれが出來ません。おねがひでございます。どうか、こちらへいらして下さい。ひとめお逢ひしたいのです。さうして、すべては、お逢ひすれば、わかること。私の口の兩側に出來た幽かな皺を見て下さい。世紀の悲しみの皺を見て下さい。私のどんな言葉より、私の顏が、私の思ひをはつきりあなたにお知らせする筈でございます。 さいしよに差し上げた手紙に、私の胸にかかつてゐる虹の事を書きましたが、その虹は螢の光みたいな、またお星さまの光みたいな、そんなお上品な美しいものではないのです。そんな淡い遠い思ひだつたら、私はこんなに苦しまず、次第にあなたを忘れて行く事が出來たでせう。私の胸の虹は、炎の橋です。胸が燒きこげるほどの思ひなのです。麻藥中毒者が、麻藥が切れて藥を求める時の氣持だつて、これほどつらくはないでせう。間違つてはゐない、よこしまではないと思ひながらも、ふつと、私、たいへんな、大馬鹿の事をしようとしてゐるのではないかしら、と思つて、ぞつとする事もあるんです。發狂してゐるんではないかしらと反省する、そんな氣持も、たくさんあるんです。でも、私だつて、冷靜に計畫してゐる事もあるんです。本當にこちらへいちどいらして下さい。いつ、いらして下さつても大丈夫。私はどこへも行かずに、いつもお待ちしてゐます。私を信じて下さい。 もう一度お逢ひして、その時、いやならハッキリ言つて下さい。私のこの胸の炎は、あなたが點火したのですから、あなたが消して行つて下さい。私ひとりの力では、とても消す事が出來ないのです。とにかく逢つたら、逢つたら、私が助かります。萬葉や源氏物語の頃だつたら、私の申し上げてゐるやうなこと、何でもない事でしたのに。私の望み。あなたの愛妾になつて、あなたの子供の母になる事。 このやうな手紙を、もし嘲笑するひとがあつたら、そのひとは女の生きて行く努力を嘲笑するひとです。女のいのちを嘲笑するひとです。私は港の息づまるやうな澱んだ空氣に堪へ切れなくて、港の外は嵐であつても、帆をあげたいのです。憇へる帆は、例外なく汚い。私を嘲笑する人たちは、きつとみな憇へる帆です。何も出來やしないんです。 困つた女。しかし、この問題で一ばん苦しんでゐるのは私なのです。この問題に就いて、何も、ちつとも苦しんでゐない傍觀者が、帆を醜くだらりと休ませながら、この問題を批判するのは、ナンセンスです。私を、いい加減に何々思想なんて言つてもらひたくないんです。私は無思想です。私は思想や哲學なんてもので行動した事は、いちどだつてないんです。 世間でよいと言はれ、尊敬されてゐるひとたちは、みな嘘つきで、にせものなのを、私は知つてゐるんです。私は世間を信用してゐないんです。札つきの不良だけが、私の味方なんです。札つきの不良。私はその十字架にだけは、かかつて死んでもいいと思つてゐます。萬人に非難せられても、それでも、私は言ひかへしてやれるんです。お前たちは、札のついてゐないもつと危險な不良ぢやないか、と。 おわかりになりまして? こひに理由はございません。すこし理窟みたいな事を言ひすぎました。弟の口眞似に過ぎなかつたやうな氣もします。おいでをお待ちしてゐるだけなのです。もう一度おめにかかりたいのです。それだけなのです。 待つ。ああ、人間の生活には、喜んだり怒つたり悲しんだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めてゐるだけの感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待つて暮してゐるのではないでせうか。幸福の足音が、廊下に聞えるのを今か今かと胸のつぶれる思ひで待つて、からつぽ。ああ、人間の生活つて、あんまりみじめ。生れて來ないはうがよかつたとみんなが考へてゐるこの現實。さうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待つてゐる。みじめすぎます。生れて來てよかつたと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみたうございます。 はばむ道徳を、押しのけられませんか? M・C(マイ、チエホフのイニシヤルではないんです。私は、作家にこひしてゐるのでございません。マイ、チヤイルド)
五私は、ことしの夏、或る男のひとに、三つの手紙を差し上げたが、ご返事は無かつた。どう考へても、私には、それより他に生き方が無いと思はれて、三つの手紙に、私のその胸のうちを書きしたため、岬の尖端から怒濤めがけて飛び下りる氣持で、投函したのに、いくら待つても、ご返事が無かつた。弟の直治に、それとなくそのひとの御樣子を聞いても、そのひとは何の變るところもなく、毎晩お酒を飮み歩き、いよいよ不道徳の作品ばかり書いて、世間のおとなたちに、ひんしゆくせられ、憎まれてゐるらしく、直治に出版業をはじめよ、などとすすめて、直治は大乘氣で、あのひとの他にも二、三、小説家のかたに顧問になつてもらひ、資本を出してくれるひともあるとかどうとか、直治の話を聞いてゐると、私の戀してゐるひとの身のまはりの雰圍氣に、私の匂ひがみぢんも滲み込んでゐないらしく、私は恥づかしいといふ思ひよりも、この世の中といふものが、私の考へてゐる世の中とは、まるでちがつた別の奇妙な生き物みたいな氣がして來て、自分ひとりだけ置き去りにされ、呼んでも叫んでも、何の手應への無いたそがれの秋の曠野に立たされてゐるやうな、これまで味はつた事のない悽愴の思ひに襲はれた。これが、失戀といふものであらうか。曠野にかうして、ただ立ちつくしてゐるうちに、日がとつぷり暮れて、夜露にこごえて死ぬより他は無いのだらうかと思へば、涙の出ない慟哭で、兩肩と胸が烈しく浪打ち、息も出來ない氣持になるのだ。 もうこの上は、何としても私が上京して、上原さんにお目にかからう。私の帆は既に擧げられて、港の外に出てしまつたのだもの、立ちつくしてゐるわけにゆかない、行くところまで行かなければならない、とひそかに上京の心支度をはじめたとたんに、お母さまの御樣子が、をかしくなつたのである。 一夜、ひどいお咳が出てお熱を計つてみたら、三十九度あつた。 「けふ、寒かつたからでせう。あすになれば、なほります。」 とお母さまは、咳き込みながら小聲でおつしやつたが、私には、どうも、ただのお咳でないやうに思はれて、あすはとにかく下の村のお醫者に來てもらはうと心にきめた。 翌る朝、お熱は三十七度にさがり、お咳もあまり出なくなつてゐたが、それでも私は、村の先生のところへ行つて、お母さまが、この頃にはかにお弱りになつたこと、ゆうべからまた熱が出て、お咳も、ただの風邪のお咳と違ふやうな氣がすること等を申し上げて、お診察をお願ひした。 先生は、ではのちほど伺ひませう、これは到來物でございますが、とおつしやつて應接間の隅の戸棚から梨を三つ取り出して私に下さつた。さうして、お晝すこし過ぎ、白絣に夏羽織をお召しになつて診察にいらした。れいの如く、ていねいに永い事、聽診や打診をなさつて、それから私のはうに眞正面に向き直り、 「御心配はございません。 [13]お藥を、お飮みになれば、なほります。」 とおつしやる。 私は妙に可笑しく、笑ひをこらへて、 「お注射は、いかがでせうか。」 とおたづねすると、まじめに、 「その必要はございませんでせう。おかぜでございますから、しづかにしていらつしやると、間もなくおかぜが拔けますでせう。」 とおつしやつた。 けれども、お母さまのお熱は、それから一週間經つても下らなかつた。咳はをさまつたけれども、お熱のはうは、朝は七度七分くらゐで、夕方になると九度になつた。お醫者は、あの翌日から、おなかをこはしたとかで休んでいらして、わたしがおくすりを頂きに行つて、お母さまのご容態の思はしくない事を看護婦さんに告げて、先生に傳へていただいても、普通のお風邪で心配はありません、といふ御返事で、水藥と散藥をくださる。 直治は相變らずの東京出張で、もう十日あまり歸らない。私ひとりで、心細さのあまり和田の叔父さまへ、お母さまの御樣子の變つた事を葉書にしたためて知らせてやつた。 發熱してかれこれ十日目に、村の先生が、やつと腰工合ひがよろしくなりましたと言つて、診察しにいらした。 先生は、お母さまのお胸を注意深さうな表情で打診なさりながら、 「わかりました、わかりました。」 とお叫びになり、それから、また私のはうに眞正面に向き直られて、 「お熱の原因が、わかりましてございます。左肺に浸潤を起してゐます。でもご心配は要りません。お熱は、當分つづくでせうけれども、おしづかにしていらつしやつたら、ご心配はございません。」 とおつしやる。 さうかしら? と思ひながらも、溺れる者の藁にすがる氣持もあつて、村の先生のその診斷に、私は少しほつとしたところもあつた。 お醫者がお歸りになつてから、 「よかつたわね、お母さま。ほんの少しの浸潤なんて、たいていのひとにあるものよ。お氣持を丈夫にお持ちになつてゐさへしたら、わけなくなほつてしまひますわ。ことしの夏の季候不順がいけなかつたのよ。夏はきらひ。かず子は、夏の花も、きらひ。」 お母さまはお眼をつぶりながらお笑ひになり、 「夏の花の好きなひとは、夏に死ぬと云ふから、私もことしの夏あたり死ぬのかと思つてゐたら、直治が歸つて來たので、秋まで生きてしまつた。」 あんな直治でも、やはりお母さまの生きるたのみの柱になつてゐるのか、と思つたら、つらかつた。 「それでは、もう夏がすぎてしまつたのですから、お母さまの危險期も峠を越したつてわけなのね。お母さま、お庭の萩が咲いてゐますわ。それから、女郎花、われもかう、桔梗、かるかや、芒。お庭がすつかり秋のお庭になりましたわ。十月になつたら、きつとお熱も下るでせう。」 私は、それを祈つてゐた。早くこの九月の、蒸暑い、謂はば、殘暑の季節が過ぎるといい。さうして、菊が咲いて、うららかな小春日和がつづくやうになると、きつとお母さまのお熱も下つてお丈夫になり、私もあのひとと逢へるやうになつて、私の計畫も大輪の菊のやうに見事に咲き誇る事が出來るかも知れないのだ。ああ、早く十月になつて、さうしてお母さまのお熱が下るとよい。 和田の叔父さまにお葉書を差し上げてから、一週間ばかりして、和田の叔父さまのお取計ひで、以前侍醫などしていらした三宅さまの老先生が看護婦さんを連れて東京から御診察にいらして下さつた。 老先生は私どもの亡くなつたお父上とも御交際のあつた方なので、お母さまは、たいへんお喜びの御樣子だつた。それに、老先生は昔からお行儀が惡く、言葉遣ひもぞんざいで、それがまたお母さまのお氣に召してゐるらしく、その日は御診察など、そつちのけで何かとお二人で打ち解けた世間話に興じていらつしやつた。私がお勝手で、プリンをこしらへて、それをお座敷に持つて行つたら、もうその間に御診察もおすみの樣子で、老先生は聽心器をだらしなく頸飾りみたいに肩にひつかけたまま、お座敷の廊下の籐椅子に腰をかけ、 「僕などもね、屋臺にはひつて、うどんの立食ひでさ。うまいも、まづいもありやしません。」 と、のんきさうに世間話をつづけていらつしやる。お母さまも、何氣ない表情で話を聞いていらつしやる。なんでも無かつたんだ、と私は、ほつとした。 「いかがでございました? この村の先生は、胸の左のはうに浸潤があるとかおつしやつてゐましたけど?」 と私も急に元氣が出て、三宅さまにおたづねしたら、老先生は、事もなげに、 「なに、大丈夫だ。」 と輕くおつしやる。 「まあ、よかつたわね、お母さま。」 と私は心から微笑して、お母さまに呼びかけ、 「大丈夫なんですつて。」 その時、三宅さまは籐椅子からつと立ち上つて支那間のはうへいらつしやつた。何か私に用事がありげに見えたので、私はそつとその後を追つた。 老先生は支那間の壁掛の蔭に行つて立ちどまつて、 「バリバリ音が聞えてゐるぞ。」 とおつしやつた。 「浸潤では、ございませんの?」 「違ふ。」 「氣管支カタルでは?」 私は、もはや涙ぐんでおたづねした。 「違ふ。」 結核! 私はそれだと思ひたくなかつた。肺炎や浸潤や氣管支カタルだつたら、必ず私の力でなほしてあげる。けれども、結核だつたら、ああ、もうだめかも知れない。私は足もとが、崩れて行くやうな思ひをした。 「音、とても惡いの? バリバリ聞えてるの?」 心細さに、私はすすり泣きになつた。 「右も左も全部だ。」 「だつて、お母さまは、まだお元氣なのよ。ごはんだつて、おいしいおいしいとおつしやつて、……」 「仕方がない。」 「うそだわ。ね、そんな事ないんでせう? バタやお卵や、牛乳をたくさん召し上つたら、なほるんでせう? おからだに抵抗力さへついたら、熱だつて下るんでせう?」 「うん、なんでも、たくさん食べる事だ。」 「ね? さうでせう? トマトも毎日、五つくらゐは召し上つてゐるのよ。」 「うん、トマトはいい。」 「ぢやあ、大丈夫ね? なほるわね?」 「しかし、こんどの病氣は命取りになるかも知れない。そのつもりでゐたはうがいい。」 人の力で、どうしても出來ない事が、この世の中にたくさんあるのだといふ絶望の壁の存在を、生れてはじめて知つたやうな氣がした。 「二年? 三年?」 私は震へながら小聲でたづねた。 「わからない。とにかくもう、手のつけやうが無い。」 さうして、三宅さまは、その日は伊豆の長岡温泉に宿を豫約していらつしやるとかで、看護婦さんと一緒にお歸りになつた。門の外までお見送りして、それから、夢中で引返してお座敷のお母さまの枕もとに坐り、何事も無かつたやうに笑ひかけると、お母さまは、 「先生は、なんとおつしやつてゐたの?」 とおたづねになつた。 「熱さへ下ればいいんですつて。」 「胸のはうは?」 「たいした事もないらしいわ。ほら、いつかのご病氣の時みたいなのよ、きつと。いまに涼しくなつたら、どんどんお丈夫になりますわ。」 私は自分の嘘を信じようと思つた。命取りなどといふおそろしい言葉は、忘れようと思つた。私には、このお母さまが、亡くなるといふ事は、それは私の肉體も共に消失してしまふやうな感じで、とても事實として考へられないことだつた。これからは何も忘れて、このお母さまに、たくさんご馳走をこしらへて差し上げよう。おさかな。スウプ。罐詰。レバ。肉汁。トマト。卵。牛乳。おすまし。お豆腐があればいいのに。お豆腐のお味噌汁。白い御飯。お餅。おいしさうなものは何でも、私の持物を皆賣つて。さうしてお母さまにご馳走してあげよう。 私は立つて、支那間へ行つた。さうして、支那間の寢椅子をお座敷の縁側ちかくに移して、お母さまのお顏が見えるやうに腰かけた。やすんでいらつしやるお母さまのお顏は、ちつとも病人らしくなかつた。眼は美しく澄んでゐるし、お顏色も生き生きしていらつしやる。毎朝、規則正しく起床なさつて洗面所へいらして、それからお風呂場の三疊でご自身で髮を結つて、身じまひをきちんとなさつて、それからお床に歸つて、お床にお坐りのままお食事をすまし、それからお床に寢たり起きたり、午前中はずつと新聞やご本を讀んでいらして、熱の出るのは午後だけである。 「ああ、お母さまは、お元氣なのだ。きつと、大丈夫なのだ。」 と私は、心の中で三宅さまのご診斷を強く打ち消した。 十月になつて、さうして菊の花の咲く頃になれば、など考へてゐるうちに私は、うとうとと、うたた寢をはじめた。現實には、私はいちども見た事の無い風景なのに、それでも夢では時々その風景を見て、ああ、またここへ來たと思ふなじみの森の中の湖のほとりに私は出た。私は、和服の青年と足音も無く一緒に歩いてゐた。風景全體が、みどり色の霧のかかつてゐるやうな感じであつた。さうして、湖の底に白いきやしやな橋が沈んでゐた。 「ああ、橋が沈んでゐる。けふは、どこへも行けない。ここのホテルでやすみませう。たしか空いた部屋があつた筈だ。」 湖のほとりに、石のホテルがあつた。そのホテルの石は、緑色の霧でしつとり濡れてゐた。石の門の上に金文字でほそく、HOTEL SWITZERLANDと彫り込まれてゐた。SWIと讀んでゐるうちに、不意に、お母さまの事を思ひ出した。お母さまは、どうなさるのだらう。お母さまも、このホテルへいらつしやるのかしら? と不審になつた。さうして、青年と一緒に石の門をくぐり、前庭へはひつた。霧の庭に、アヂサヰに似た赤い大きな花が燃えるやうに咲いてゐた。子供の頃、お蒲團の模樣に、眞赤なアヂサヰの花が散らされてあるのを見て、へんに悲しかつたが、やつぱり赤いアヂサヰの花つて本當にあるものなんだと思つた。 「寒くない?」 「ええ、少し。霧でお耳が濡れて、お耳の裏が冷たい。」 と言つて笑ひながら、 「お母さまは、どうなさるのかしら。」 とたづねた。 すると、青年は、とても悲しく慈愛深く微笑んで、 「あのお方は、お墓の下です。」 と答へた。 「あ。」 と私は小さく叫んだ。さうだつたのだ。お母さまは、もう、いらつしやらなかつたのだ。お母さまのお葬ひも、とつくに濟ましてゐたのぢやないか。ああ、お母さまは、もうお亡くなりになつたのだと意識したら、言ひ知れぬ淋しさに身震ひして、眼がさめた。 ヴエランダは、すでに黄昏だつた。雨が降つてゐた。みどり色のさびしさは、夢のまま、あたり一面にただよつてゐた。 「お母さま。」 と私は呼んだ。 靜かなお聲で、 「何してるの?」 といふご返事があつた。 私はうれしさに飛び上つて、お座敷へ行き、 「いまね、私、眠つてゐたのよ。」 「さう。何をしてゐるのかしら、と思つてゐたの。永いおひる寢ね。」 と面白さうにお笑ひになつた。 私はお母さまのかうして優雅に息づいて生きていらつしやる事が、あまりうれしくて、ありがたくて、涙ぐんでしまつた。 「御夕飯のお獻立は? ご希望がございます?」 私は、少しはしやいだ口調でさう言つた。 「いいの。なんにも要らない。けふは、九度五分にあがつたの。」 にはかに私は、ぺしやんこにしよげた。さうして、途方にくれて薄暗い部屋の中をぼんやり見廻し、ふと、死にたくなつた。 「どうしたんでせう。九度五分なんて。」 「なんでもないの。ただ、熱の出る前が、いやなのよ。頭がちよつと痛くなつて、寒氣がして、それから熱が出るの。」 外は、もう、暗くなつてゐて、雨はやんだやうだが、風が吹き出してゐた。灯をつけて、食堂へ行かうとすると、お母さまが、 「まぶしいから、つけないで。」 とおつしやつた。 「暗いところで、じつと寢ていらつしやるの、おいやでせう。」 と立つたまま、おたづねすると、 「眼をつぶつて寢てゐるのだから、同じことよ。ちつとも、さびしくない。かへつて、まぶしいのが、いやなの。これから、ずつと、お座敷の灯はつけないでね。」 とおつしやつた。 私には、それもまた不吉な感じで、默つてお座敷の灯を消して、隣りの間へ行き、隣りの間のスタンドに灯をつけ、たまらなく佗しくなつて、いそいで食堂へ行き、罐詰の鮭を冷いごはんにのせて、食べたら、ぽろぽろと涙が出た。 風は夜になつていよいよ強く吹き、九時頃から雨もまじり、本當の嵐になつた。二、三日前に卷き上げた縁先の簾が、ばたんばたんと音をたてて、私はお座敷の隣りの間で、ローザルクセンブルグの「經濟學入門」を、奇妙な興奮を覺えながら讀んでゐた。これは私が、こなひだお二階の直治の部屋から持つて來たものだが、その時、これと一緒に、レニン選集、それからカウッキイの「社會革命」なども無斷で拜借して來て、隣りの間の私の机の上にのせて置いたら、お母さまが、朝お顏を洗ひにいらした歸りに、私の机の傍を通り、ふとその三册の本に目をとどめ、いちいちお手にとつて、眺めて、それから小さい溜息をついて、そつとまた机の上に置き、淋しいお顏で私のはうをちらと見た。けれども、その眼つきは、深い悲しみに滿ちてゐながら、決して拒否や嫌惡のそれではなかつた。お母さまのお讀みになる本は、ユーゴー、デウマ父子、ミユッセ、ドオデエなどであるが、私はそのやうな甘美な物語の本にだつて、革命のにほひがあるのを知つてゐる。お母さまのやうに、天性の教養といふ言葉もへんだが、そんなものをお持ちのお方は、案外なんでもなく、當然の事として革命を迎へる事が出來るのかも知れない。私だつて、かうして、ローザルクセンブルグの本など讀んで、自分がキザつたらしく思はれる事もないではないが、けれどもまた、やはり私は私なりに深い興味を覺えるのだ。ここに書かれてあるのは、經濟學といふ事になつてゐるのだが、經濟學として讀むと、まことにつまらない。實に單純でわかり切つた事ばかりだ。いや、或ひは、私には經濟學といふものがまつたく理解できないのかも知れない。とにかく、私にはすこしも面白くない。人間といふものは、ケチなもので、さうして永遠にケチなものだといふ前提が無いと全く成り立たない學問で、ケチでない人にとつては、分配の問題でも何でも、まるで興味の無い事だ。それでも私はこの本を讀み、べつなところで、奇妙な興奮を覺えるのだ。それは、この本の著者が、何の躊躇も無く、片端から舊來の思想を破壞して行くがむしやらな勇氣である。どのやうに道徳に反しても、戀するひとのところへ涼しくさつさと走り寄る人妻の姿さへ思ひ浮ぶ。破壞思想。破壞は、哀れで悲しくて、さうして美しいものだ。破壞して、建て直して、完成しようといふ夢。さうして、いつたん破壞すれば、永遠に完成の日が來ないかも知れぬのに、それでも、したふ戀ゆゑに、破壞しなければならぬのだ。革命を起さなければならぬのだ。ローザはマルキシズムに、悲しくひたむきの戀をしてゐる。 あれは、十二年前の冬だつた。 「あなたは、更級日記の少女なのね。もう、何を言つても仕方がない。」 さう言つて、私から離れて行つたお友達。あのお友達に、あの時、私はレニンの本を讀まないで返したのだ。 「讀んだ?」 「ごめんね。讀まなかつたの。」 ニコライ堂の見える橋の上だつた。 「なぜ? どうして?」 そのお友達は、私よりさらに一寸くらゐ背が高くて、語學がとてもよく出來て、赤いベレ帽がよく似合つて、お顏もジョコンダみたいだといふ評判の、美しいひとだつた。 「表紙の色が、いやだつたの。」 「へんなひと。さうぢやないんでせう? 本當は、私をこはくなつたのでせう?」 「こはかないわ。私、表紙の色が、たまらなかつたの。」 「さう。」 と淋しさうに言ひ、それから、私を更級日記だと言ひ、さうして、何を言つても仕方がない、ときめてしまつた。 「私たちは、しばらく默つて、冬の川を見下してゐた 「ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。バイロン。」 と言ひ、それから、そのバイロンの詩句を原文で口早に誦して、私のからだを輕く抱いた。 私は恥づかしく、 「ごめんなさいね。」 と小聲でわびて、お茶の水驛のはうに歩いて、振り向いてみると、そのお友達は、やはり橋の上に立つたまま、動かないで、じつと見つめてゐた。 それつきり、そのお友達と逢はない。同じ外人教師の家へかよつてゐたのだけれども、學校がちがつてゐたのである。 あれから十二年たつたけれども、私はやつぱり更級日記から一歩も進んでゐなかつた。いつたいまあ、私はそのあひだ、何をしてゐたのだらう。革命を、あこがれた事も無かつたし、戀さへ、知らなかつた。いままで世間のおとなたちは、この革命と戀の二つを、最も愚かしく、いまはしいものとして私たちに教へ、戰爭の前も、戰爭中も、私たちはそのとほりに思ひ込んでゐたのだが、敗戰後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなつて、何でもあのひとたちの言ふ事の反對のはうに本當の生きる道があるやうな氣がして來て、革命も戀も、實はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと嘘ついて教へてゐたのに違ひないと思ふやうになつたのだ。私は確信したい。 人間は戀と革命のために生れて來たのだ。 すつと襖があいて、お母さまが笑ひながら顏をお出しになつて、 「まだ起きていらつしやる。眠くないの?」 とおつしやつた。 机の上の時計を見たら、十二時だつた。 「ええ、ちつとも眠くないの。社會主義のご本を讀んでゐたら、興奮しちやいましたわ。」 「さう。お酒ないの? そんな時には、お酒を飮んでやすむと、よく眠れるんですけどね。」 とからかふやうな口調でおつしやつたが、その態度には、どこやらデカダンと紙一重のなまめかしさがあつた。 やがて十月になつたが、からりとした秋晴れの空にはならず、梅雨時のやうな、じめじめして蒸し暑い日が續いた。さうして、お母さまのお熱は、やはり毎日夕方になると、三十八度と九度のあひだを上下した。 さうして或る朝、おそろしいものを私は見た。お母さまのお手が、むくんでゐるのだ。朝ごはんが一ばんおいしいと言つていらしたお母さまも、このごろは、お床に坐つて、ほんの少し、おかゆを輕く一椀おかずも匂ひの強いものは駄目で、その日は、松茸のお清汁をさし上げたのに、やつぱり、松茸の香さへおいやになつていらつしやる樣子で、お椀をお口元まで持つて行つて、それきりまたそつとお膳の上におかへしになつて、その時、私は、お母さまの手を見て、びつくりした。右の手がふくらんで、まあるくなつてゐたのだ。 「お母さま! 手、なんともないの?」 お顏さへ少し蒼く、むくれてゐるやうに見えた。 「なんでもないの。これくらゐ、なんでもないの。」 「いつから、腫れたの?」 お母さまは、まぶしさうなお顏をなさつて、默つていらした。私は聲を擧げて泣きたくなつた。こんな手は、お母さまの手ぢやない。よそのをばさんの手だ。私のお母さまのお手は、もつとほそくて小さいお手だ。私のよく知つてゐる手。優しい手。可愛い手。あの手は、永遠に、消えてしまつたのだらうか。左の手は、まだそんなに腫れてゐなかつたけれども、とにかく傷ましく、見てゐる事が出來なくて、私は眼をそらし、床の間の花籠をにらんでゐた。 涙が出さうで、たまらなくなつて、つと立つて食堂へ行つたら、直治がひとりで、半熟卵をたべてゐた。たまに伊豆のこの家にゐる事があつても、夜はきまつてお咲さんのところへ行つて燒酎を飮み、朝は不機嫌な顏で、ごはんは食べずに半熟の卵を四つか五つ食べるだけで、それからまた二階へ行つて、寢たり起きたりなのである。 「お母さまの手が腫れて、」 と直治に話しかけうつむいた。言葉をつづける事が出來ず、私は、うつむいたまま肩で泣いた。 直治は默つてゐた。 私は顏を擧げて、 「もう、だめなの。あなた、氣が附かなかつた? あんなに腫れたら、もう、駄目なの。」 と、テーブルの端を掴んで言つた。 直治も、暗い顏になつて、 「近いぞ、そりや。ちえつ、つまらねえ事になりやがつた。」 「私、もう一度、なほしたいの。どうかして、なほしたいの。」 と右手で左手をしぼりながら言つたら、突然、直治が、めそめそと泣き出して、 「なんにも、いい事が無えぢやねえか。僕たちには、なんにもいい事が無えぢやねえか。」 と言ひながら、滅茶苦茶にこぶしで眼をこすつた。 その日、直治は、和田の叔父さまにお母さまの容態を報告し、今後の事の指圖を受けに上京し、私はお母さまのお傍にゐない間、朝から晩まで、ほとんど泣いてゐた。朝霧の中を牛乳をとりに行く時も、鏡に向つて髮を撫でつけながらも、口紅を塗りながらも、いつも私は泣いてゐた。お母さまと過した仕合せの日の、あの事この事が、繪のやうに浮んで來て、いくらでも泣けて仕樣が無かつた。夕方、暗くなつてから、支那間のヴエランダへ出て永いことすすり泣いた。秋の空に星が光つてゐて、足許に、そよの猫がうづくまつて、動かなかつた。 翌日、手の腫れは、昨日よりもまた一そうひどくなつてゐた。お食事は、何も召し上らなかつた。お蜜柑のジユースも、口が荒れて、しみて、飮めないとおつしやつた。 「お母さま、また、直治のあのマスクをなさつたら?」 と笑ひながら言ふつもりであつたが、言つてゐるうちに、つらくなつて、わつと聲を擧げて泣いてしまつた。 「毎日いそがしくて、疲れるでせう。看護婦さんを、やとつて頂戴。」 と靜かにおつしやつたが、ご自分のおからだよりも、かず子の身を心配していらつしやる事がよくわかつて、なほの事かなしく、立つて、走つて、お風呂場の三疊に行つて、思ひのたけ泣いた。 お晝すこし過ぎ、直治が三宅さまの老先生と、それから看護婦さん二人を、お連れして來た。 いつも冗談ばかりおつしやる老先生も、その時は、お怒りになつていらつしやるやうな素振りで、どしどし病室へはひつて來られて、すぐにご診察を、おはじめになつた。さうして、誰に言ふともなく、 「お弱りになりましたね。」 と一こと低くおつしやつて、カンフルを注射して下さつた。 「先生のお宿は?」 とお母さまは、うは言のやうにおつしやる。 「また長岡です。豫約してありますから、ご心配無用。このご病人は、ひとの事など心配なさらず、もつとわがままに、召し上りたいものは何でも、たくさん召し上るやうにしなければいけませんね。榮養をとつたら、よくなります、明日また、まゐります。看護婦をひとり置いて行きますから、使つてみて下さい。」 と老先生は、病床のお母さまに向つて大きな聲で言ひ、それから直治に眼くばせして立ち上つた。 直治ひとり、先生とお供の看護婦さんを送つて行つて、やがて歸つて來た直治の顏を見ると、それは泣きたいのを怺へてゐる顏だつた。 私たちは、そつと病室から出て、食堂へ行つた。 「だめなの? さうでせう?」 「つまらねえ。」 と直治は口をゆがめて笑つて、 「衰弱がばかに急激にやつて來たらしいんだ。今、明日も、わからねえと言つてゐやがつた。」 と言つてゐるうちに直治の眼から涙があふれて出た。 「はうばうへ、電報を打たなくてもいいかしら。」 私はかへつて、しんと落ちついて言つた。 「それは、叔父さんにも相談したが、叔父さんは、いまはそんな人集めの出來る時代では無いと言つてゐた。來ていただいても、こんな狹い家では、かへつて失禮だし、この近くにはろくな宿もないし、長岡の温泉にだつて、二部屋も三部屋も豫約は出來ない、つまり、僕たちはもう貧乏で、そんなお偉らがたを呼び寄せる力が無えつてわけなんだ。叔父さんは、すぐあとで來る筈だが、でも、あいつは、昔からケチで、頼みにも何もなりやしねえ。ゆうべだつてもう、ママの病氣はそつちのけで、僕にさんざんのお説教だ。ケチなやつからお説教されて、眼がさめたなんて者は、古今東西にわたつて一人もあつた例が無えんだ。姉と弟でも、ママとあいつとではまるで雲泥のちがひなんだからなあ、いやになるよ。」 「でも、私はとにかく、あなたは、これから叔母さまにたよらなければ、……」 「まつぴらだ。いつそ乞食になつたはうがいい。姉さんこそ、これから、叔父さんによろしくおすがり申し上げるさ。」 「私には、……」 涙が出た。 「私には、行くところがあるの。」 「縁談? きまつているの?」 「いいえ。」 「自活か? はたらく婦人。よせ、よせ。」 「自活でもないの。私ね、革命家になるの。」 「へえ?」 直治は、へんな顏をして私を見た。 その時、三宅先生の連れていらした附添ひの看護婦さんが、私を呼びに來た。 「奧さまが、何かご用のやうでございます。」 いそいで病室に行つてお蒲團の傍に坐り、 「何?」 と顏を寄せてたづねた。 けれども、お母さまは、何か言ひたげにして默つていらつしやる。 「お水?」 とたづねた。 幽かに首を振る。お水でも無いらしかつた。しばらくして、小さいお聲で、 とおつしやつた。 「さう? どんな夢?」 「蛇の夢。」 私は、ぎよつとした。 「お縁側の沓脱石の上に、赤い縞のある女の蛇が、ゐるでせう。見てごらん。」 私はからだの寒くなるやうな氣持で、つと立つてお縁側に出て、ガラス戸越しに、見ると、沓脱石の上に蛇が、秋の陽を浴びて長くのびてゐた。私は、くらくらと目まひした。 私はお前を知つてゐる。お前はあの時から見ると、すこし大きくなつて老けてゐるけど、でも、私のために卵を燒かれたあの女蛇なのね。お前の復讐は、もう私よく思ひ知つたから、あちらへお行き、さつさと向うへ行つてお呉れ。 と心の中で念じて、その蛇を見つめてゐたが、いつかな蛇は、動かうとしなかつた。私はなぜだか、看護婦さんに、その蛇を見られたくなかつた。トンと強く足踏みして、 「ゐませんわ、お母さま。夢なんて、あてになりませんわよ。」 とわざと必要以上の大聲で言つて、ちらと沓脱石のはうを見ると、蛇は、やつと、からだを動かし、だらだらと石から垂れ落ちて行つた。 もうだめだ。だめなのだと、その蛇を見て、あきらめが、はじめて私の心の底に湧いて出た。お父上のお亡くなりになる時にも、枕もとに黒い小さい蛇がゐたといふし、またあの時に、お庭の木といふ木に蛇がからみついてゐたのを、私は見た。 お母さまはお床の上に起き直るお元氣もなくなつたやうで、いつもうつらうつらしていらして、もうおからだをすつかり附添ひの看護婦さんにまかせて、さうして、お食事は、もうほとんど喉をとほらない樣子であつた。蛇を見てから、私は、悲しみの底を突き拔けた心の平安とでも言つたらいいのかしら、そのやうな幸福感にも似た心のゆとりが出て來て、もうこの上は、出來るだけ、ただお母さまのお傍にゐようと思つた。 さうしてその翌る日から、お母さまの枕元にぴつたり寄り添つて坐つて編物などをした。私は、編物でもお針でも、人よりずつと早いけれども、しかし、下手だつた。それで、いつもお母さまは、その下手なところを、いちいち手を取つて教へて下さつたものである。その日も私は、別に編みたい氣持も無かつたのだが、お母さまの傍にべつたりくつついてゐても不自然でないやうに、恰好をつけるために、毛糸の箱を持ち出して餘念無げに編物をはじめたのだ。 お母さまは私の手もとをじつと見つめて、 「あなたの靴下をあむんでせう? それなら、もう、八つふやさなければ、はくとき窮屈よ。」 とおつしやつた。 私は子供の頃、いくら教へて頂いても、どうもうまく編めなかつたが、その時のやうにまごつき、さうして、恥づかしく、なつかしく、ああもう、かうしてお母さまに教へていただく事も、これでおしまひと思ふと、つい涙で編目が見えなくなつた。 お母さまは、かうして寢ていらつしやると、ちつともお苦しさうでなかつた。お食事は、もう、けさから全然とほらず、ガーゼにお茶をひたして時々お口をしめしてあげるだけなのだが、しかし意識は、はつきりしてゐて、時々私におだやかに話しかける。 「新聞に陛下のお寫眞が出てゐたやうだけど、もういちど見せて。」 私は新聞のその箇所をお母さまのお顏の上にかざしてあげた。 「お老けになつた。」 「いいえ、これは寫眞がわるいのよ。こなひだのお寫眞なんか、とてもお若くて、はしやいでいらしたわ。かへつてこんな時代を、お喜びになつていらつしやるんでせう。」 「なぜ?」 「だつて、陛下もこんど解放されたんですもの。」 お母さまは、淋しさうにお笑ひになつた。それから、しばらくして、 「泣きたくても、もう、涙が出なくなつたのよ。」 とおつしやつた。 私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思つた。幸福感といふものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光つてゐる砂金のやうなものではなからうか。悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明りの氣持、あれが幸福感といふものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかに今、幸福なのである。靜かな、秋の午前。日ざしの柔らかな、秋の庭。私は、編物をやめて、胸の高さに光つてゐる海を眺め、 「お母さま、私いままで、ずゐぶん世間知らずだつたのね。」 と言ひ、それから、もつと言ひたい事があつたけれども、お座敷の隅で靜脈注射の支度などしてゐる看護婦さんに聞かれるのが恥づかしくて、言ふのをやめた。 「いままでつて、……」 とお母さまは、薄くお笑ひになつて聞きとがめて、 「それではいまは世間を知つてゐるの?」 私は、なぜか顏が眞赤になつた。 「世間は、わからない。」 とお母さまはお顏を向うむきにして、ひとりごとのやうに小さい聲でおつしやる。 「私にはわからない。わかつてゐる人なんか、無いんぢやないの? いつまで經つても、みんな子供です。なんにも、わかつてやしないのです。」 けれども、私は生きて行かなければならないのだ。子供かも知れないけれども、しかし、甘えてばかりもをられなくなつた。私はこれから世間と爭つて行かなければならないのだ。ああ、お母さまのやうに人と爭はず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯を終る事の出來る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得ないのではなからうか。死んで行くひとは美しい。生きるといふ事。生き殘るといふ事。それは、たいへん醜くて、血の匂ひのする、きたならしい事のやうな氣もする。私は、みごもつて、穴を掘る蛇の姿を疊の上に思ひ描いてみた。けれども、私にはあきらめ切れないものがあるのだ。あさましくてもよい、私は生き殘つて、思ふ事をしとげるために世間と爭つて行かう。お母さまのいよいよ亡くなるといふ事がきまると、私のロマンチシズムや感傷が次第に消えて、何か自分が油斷のならぬ惡がしこい生きものに變つて行くやうな氣分になつた。 その日のお晝すぎ、私がお母さまの傍で、お口をうるほしてあげてゐると、門の前に自動車がとまつた。和田の叔父さまが、叔母さまと一緒に東京から自動車で馳せつけて來て下さつたのだ。叔父さまが、病室にはひつていらして、お母さまの枕元に默つてお坐りになつたら、お母さまは、ハンケチでご自分のお顏の下半分をかくし、叔父さまのお顏を見つめたまま、お泣きになつた。けれども、泣き顏になつただけで、涙は出なかつた。お人形のやうな感じだつた。 「直治は、どこ?」 と、しばらくしてお母さまは、私のはうを見ておつしやつた。 私は二階へ行つて、洋間のソフアに寢そべつて新刊の雜誌を讀んでゐる直治に、 「お母さまが、お呼びですよ。」 といふと、 「わあ、また愁歎場か。汝等は、よく我慢してあそこに頑張つてをれるね。神經が太いんだね。薄情なんだね。我等は、何とも苦しくて、實に心は熱すれども肉體よわく、とてもママの傍にゐる氣力は無い。」などと言ひながら上衣を着て、私と一緒に二階から降りて來た。 二人ならんでお母さまの枕もとに坐ると、お母さまは、急にお蒲團の下から手をお出しになつて、さうして、默つて直治のはうを指差し、それから私を指差し、それから叔父さまのはうへお顏をお向けになつて、兩方の掌をひたとお合せになつた。 叔父さまは、大きくうなづいて、 「ああ、わかりましたよ。わかりましたよ。」 とおつしやつた。 お母さまは、ご安心なさつたやうに、眼を輕くつぶつて、手をお蒲團の中へそつとおいれになつた。 私も泣き、直治もうつむいて嗚咽した。 そこへ、三宅さまの老先生が、長岡からいらして、取敢へず注射した。お母さまも、叔父さまに逢へて、もう、心殘りが無いとお思ひになつたか、 「先生、早く、樂にして下さいな。」 とおつしやつた。 老先生と叔父さまは、顏を見合はせて、默つて、さうしてお二人の眼に涙がきらと光つた。 私は立つて食堂へ行き、叔父さまのお好きなキツネうどんをこしらへて、先生と直治と叔母さまと四人分、支那間へ持つて行き、それから叔父さまのお土産の丸ノ内ホテルのサンドウヰッチを、お母さまにお見せして、お母さまの枕元に置くと、 「忙しいでせう。」 とお母さまは、小聲でおつしやつた。 支那間で皆さんがしばらく雜談をして、叔父さま叔母さまは、どうしても、今夜、東京へ歸らなければならぬ用事があるとかで、私に見舞ひのお金包を手渡し、三宅さまも看護婦さんと一緒にお歸りになる事になり、附添ひの看護婦さんに、いろいろ手當の仕方を言ひつけ、とにかくまだ意識はしつかりしてゐるし、心臟のはうもそんなにまゐつてゐないから、注射だけでも、もう四、五日は大丈夫だらうといふ事で、その日いつたん皆さんが自動車で東京へ引き上げたのである。 皆さんをお送りして、お座敷へ行くと、お母さまが、私にだけ笑ふ親しげな笑ひかたをなさつて、 「忙しかつたでせう。」 と、また、囁くやうな小さいお聲でおつしやつた。そのお顏は、活き活きとして、むしろ輝いてゐるやうに見えた。叔父さまにお逢ひ出來てうれしかつたのだらう、と私は思つた。 「いいえ。」 私もすこし浮き浮きした氣分になつて、につこり笑つた。 さうして、これが、お母さまとの最後のお話であつた。 それから、三時間ばかりして、お母さまは亡くなつたのだ。秋のしづかな黄昏、看護婦さんに脈をとられて、直治と私と、たつた二人の肉親に見守られて、日本で最後の貴婦人だつた美しいお母さまが。 お死顏は、殆んど、變らなかつた。お父上の時は、さつと、お顏の色が變つたけれども、お母さまのお顏の色は、ちつとも變らずに、呼吸だけが絶えた。その呼吸の絶えたのも、いつと、はつきりわからぬ位であつた。お顏のむくみも、前日あたりからとれてゐて、頬が蝋のやうにすべすべして、薄い唇が幽かにゆがんで微笑みを含んでゐるやうにも見えて、生きてゐるお母さまより、なまめかしかつた。私は、ピエタのマリヤに似てゐると思つた。
六戰鬪、開始。 いつまでも、悲しみに沈んでもをられなかつた。私には、是非とも、戰ひとらなければならぬものがあつた。新しい倫理、いいえ、さう言つても僞善めく、戀。それだけだ。ローザが新しい經濟學にたよらなければ生きてをられなかつたやうに、私はいま、戀一つにすがらなければ、生きて行けないのだ。イエスが、この世の宗教家、道徳家、學者、權威者の僞善をあばき、神の眞の愛情といふものを少しも躊躇するところなくありのままに人々に告げあらはさんがために、その十二弟子をも諸方に派遣なさらうとするに當つて、弟子たちに教へ聞かせたお言葉は、私のこの場合にも全然、無關係でないやうに思はれた。 「帶のなかに金・銀または錢を持つな。旅の [15]嚢も、二枚の下衣も、鞋も、杖も持つな。視よ、我なんぢらを遣すは、羊を豺狼のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧く、鴿のごとく素直なれ。人々に心せよ、それは汝らを衆議所に付し、會堂にて鞭たん。また汝等わが故によりて、司たち王たちの前に曳かれん。かれら汝らを付さば、如何なにを言はんと思ひ煩ふな、言ふべき事は、その時さづけらるべし。これ言ふものは、汝等にあらず、其の中にありて言ひたまふ汝らの父の靈なり。又なんぢら我が名のために凡ての人に憎まれん。されど終まで耐へ忍ぶものは救はるべし。この町にて、責めらるる時は、かの町に逃れよ。誠に汝らに告ぐ、なんぢらイスラエルの町々を巡り盡さぬうちに人の子は來るべし。 身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。われ地に平和を投ぜんために來れりと思ふな、平和にあらず、反つて劍を投ぜん爲に來れり。それ我が來れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその しうとめより分たん爲なり。人の仇は、その家の者なるべし。我よりも父または母を愛する者は、我に相應しからず、我よりも息子または娘を愛する者は、我に相應しからず。又おのが十字架をとりて我に從はぬ者は、我に相應しからず。生命を得る者は、これを失ひ、我がために生命を失ふ者は、これを得べし。」 戰鬪開始。 もし、私が戀ゆゑにイエスのこの教へをそつくりそのまま必ず守ることを誓つたら、イエスさまはお叱りになるかしら。なぜ、「戀」がわるくて、「愛」がいいのか、私には [16]わからい。同じもののやうな氣がしてならない。何だかわからぬ愛のために、戀のために、その悲しさのために、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者、ああ、私は自分こそ、それだと言ひ張りたいのだ。 叔父さまたちのお世話で、お母さまの密葬を伊豆で行ひ、本葬は東京ですまして、それからまた直治と私は、伊豆の山莊で、お互ひ顏を合せても口をきかぬやうな、理由のわからぬ氣まづい生活をして、直治は出版業の資本金と稱して、お母さまの寶石類を全部持ち出し、東京で飮み疲れると、伊豆の山莊へ大病人のやうな眞蒼な顏をしてふらふら歸つて來て、寢て、或る時若いダンサアふうのひとを連れて來て、さすがに直治も少し間が惡さうにしてゐるので、 「けふ、私、東京へ行つてもいい? お友だちのところへ久し振りで遊びに行つてみたいの。二晩か、三晩、泊つて來ますから、あなた留守番してね。お炊事はあの方に、たのむといいわ。」 直治の弱味にすかさず附け込み、謂はば蛇のごとく慧く、私はバッグにお化粧品やパンなど詰め込んで、きはめて自然に、あのひとと逢ひに上京する事が出來た。 東京郊外、省線荻窪驛の北口に下車すると、そこから二十分くらゐで、あのひとの大戰後の新しいお住居に行き着けるらしいといふ事は、直治から前にそれとなく聞いてゐたのである。 こがらしの強く吹いてゐる日だつた。荻窪驛に降りた頃には、もうあたりが薄暗く、私は往來のひとをつかまへては、あのひとのところ番地を告げて、その方角を教へてもらつて、一時間ちかく暗い郊外の路地をうろついて、あまり心細くて、涙が出て、そのうちに砂利道の石につまづいて下駄の鼻緒がぷつんと切れて、どうしようかと立ちすくんで、ふと右手の二軒長屋のうちの一軒の家の表札が、夜目にも白くぼんやり浮んで、それに上原と書かれてゐるやうな氣がして、片足は足袋はだしのまま、その家の玄關に走り寄つて、なほよく表札を見ると、たしかに上原二郎としたためられてゐたが、家の中は暗かつた。 どうしようか、とまた瞬時立ちすくみ、それから身を投げる氣持で、玄關の格子戸に倒れかかるやうにひたと寄り添ひ、 「ごめん下さいまし。」 と言ひ、兩手の指先で格子を撫でながら、 「上原さん。」 と小聲で囁いてみた。 返事は、有つた。しかし、それは女のひとの聲であつた。 玄關の戸が内からあいて、細おもての古風な匂ひのする、私より三つ四つ年上のやうな女のひとが、玄關の暗闇の中でちらと笑ひ、 「どちらさまでせうか。」 とたづねるその言葉の調子には、なんの惡意も警戒も無かつた。 「いいえ、あのう、」 けれども私は、自分の名を言ひそびれてしまつた。このひとにだけは、私の戀も、奇妙にうしろめたく思はれた。おどおどと、ほとんど卑屈に、 「先生は? いらつしやいません?」 「はあ。」 と答へて、氣の毒さうに私の顏を見て、 「でも、行く先は、たいてい、……」 「遠くへ?」 「いいえ。」 と、可笑しさうに片手をお口に當てられて、 「荻窪ですの。驛の前の、白石といふおでんやさんへおいでになれば、たいてい、行く先がおわかりかと思ひます。 私は飛び立つ思ひで、 「あ、さうですか。」 「あら、おはきものが。」 すすめられて私は玄關の内へはひり、式臺に坐らせてもらひ、奧さまから輕便鼻緒とでもいふのかしら、鼻緒の切れた時に手輕に繕ふことの出來る革の仕掛紐をいただいて、下駄を直して、そのあひだに奧さまは蝋燭をともして玄關に持つて來て下さつたりしながら、 「あいにく、電球が二つとも切れてしまひまして、このごろの電球は馬鹿高い上に切れ易くていけませんわね、主人がゐると買つてもらへるんですけど、ゆうべも、をととひの晩も歸つてまゐりませんので、私どもは、これで三晩、無一文の早寢ですのよ。」 などと、しんからのんきさうに笑つておつしやる。奧さまのうしろには、十二、三歳の眼の大きな、めつたに人になつかないやうな感じのほつそりした女のお子さんが立つてゐる。 敵、私はさう思はないけれども、しかし、この奧さまとお子さんは、いつか私を敵と思つて憎む事があるに違ひないのだ。それを考へたら、私の戀も、一時にさめ果てたやうな氣持になつて、下駄の鼻緒をすげかへ、立つてはたはたと手を打ち合せて兩手のよごれを拂ひ落しながら、わびしさが猛然と身のまはりに押し寄せて來る氣配に堪へかね、お座敷に駈け上つて、まつくら闇の中で奧さまのお手を掴んで泣かうかしらと、ぐらぐら烈しく動搖したけれども、ふと、その後の自分のしらじらしい何とも形のつかぬ味氣無い姿を考へ、いやになり、 「ありがたうございました。」 と、ばか丁寧なお辭儀をして、外へ出て、こがらしに吹かれ、戰鬪、開始、戀する、すき、こがれる、本當に戀する、本當にすき、本當にこがれる、戀ひしいのだから仕樣が無い、すきなのだから仕樣が無い、こがれてゐるのだから仕樣が無い、あの奧さまはたしかに珍しくいいお方、あのお孃さんもお綺麗だ、けれども私は、神の審判の臺に立たされたつて、少しも自分はやましいと思はぬ、人間は、戀と革命のために生れて來たのだ、神も罰し給ふ筈が無い、私はみぢんも惡くない、本當にすきなのだから大威張り、あのひとに一目お逢ひするまで、二晩でも三晩でも野宿しても、必ず。 驛前の白石といふおでんやはすぐ見つかつた。けれども、あのひとはいらつしやらない。 「阿佐ケ谷ですよ、きつと。阿佐ケ谷驛の北口をまつすぐにいらして、さうですね、一丁半かな? 金物屋さんがありますからね、そこから右へはひつて、半丁かな? 柳やといふ小料理屋がありますからね、先生、このごろは柳やのおステさんと大あつあつで、いりびたりだ、かなはねえ。」 驛へ行き、切符を買ひ、東京行きの省線に乘り、阿佐ケ谷で降りて北口、約一丁半、金物屋さんのところから右へ曲つて半丁、柳やは、ひつそりしてゐた。 「たつたいまお歸りになりましたが、大勢さんで、これから西荻のチドリのをばさんのところへ行つて夜明しで飮むんだ、とかおつしやつてゐましたよ。」 私よりも年が若くて、落ちついて、上品で親切さうな、これがあのおステさんとかいふあのひとと大あつあつの人なのかしら。 「チドリ? 西荻のどのへん?」 心細くて、涙が出さうになつた。自分がいま、氣が狂つてゐるのではないかしら、とふと思つた。 「よく存じませんのですけどね、何でも西荻の驛を降りて、南口の、左にはひつたところだとか、とにかく、交番でお聞きになつたら、わかるんぢやないでせうか。何せ一軒ではをさまらないひとで、チドリに行く前に又どこかにひつかかつてゐるかも知れませんですよ。」 「チドリへ行つてみます。さようなら。」 また、逆もどり。阿佐ケ谷から省線で立川行きに乘り、荻窪、西荻窪、驛の南口で降りて、こがらしに吹かれてうろつき、交番を見つけて、チドリの方角をたづねて、それから、教へられたとほり夜道を走るやうにして行つて、チドリの青い燈籠を見つけて、ためらはず格子戸をあけた。 土間があつて、それからすぐ六疊間くらゐの部屋があつて、たばこの煙で濛々として、十人ばかりの人間が、部屋の大きな卓をかこんで、わあつわあつとひどく騒がしいお酒盛りをしてゐた。私より若いくらゐのお孃さんも三人まじつて、たばこを吸ひ、お酒を飮んでゐた。 私は土間に立つて、見渡し、見つけた。さうして、夢見るやうな氣持ちになつた。ちがふのだ。六年。まるつきり、もう、違つたひとになつてゐるのだ。 これが、あの、私の虹、M・C、私の生き甲斐の、あのひとであらうか。六年。蓬髮は昔のままだけれども哀れに赤茶けて薄くなつてをり、顏は黄色くむくんで、眼のふちが赤くただれて、前齒が拔け落ち、絶えず口をもぐもぐさせて、一匹の老猿が背中を丸くして部屋の片隅に坐つてゐる感じであつた。 お孃さんのひとりが私を見とがめ、目で上原さんに私の來てゐる事を知らせた。あのひとは坐つたまま細長い首をのばして私のはうを見て、何の表情も無く、顎であがれといふ合圖をした。一座は、私に何の關心も無ささうに、わいわいの大騒ぎをつづけ、それでも少しづつ席を詰めて、上原さんのすぐ右隣りに私の席をつくつてくれた。 私は默つて坐つた。上原さんは、私のコップにお酒をなみなみといつぱい注いでくれて、それから自分のコップにもお酒を注ぎ足して、 「乾杯。」 としやがれた聲で低く言つた。 二つのコップが、力弱く觸れ合つて、カチと悲しい音がした。 ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、と誰かが言つて、それに應じてまたひとりが、ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、と言ひ、カチンと音高くコップを打ち合せてぐいと飮む。ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、とあちこちから、その出鱈目みたいな歌が起つて、さかんにコップを打ち合せて乾杯してゐる。そんなふざけ切つたリズムでもつてはずみをつけて無理にお酒を喉に流し込んでゐる樣子であつた。 「ぢや、失敬。」 と言つて、よろめきながら歸るひとがあるかと思ふと、また、新客がのつそりはひつて來て、上原さんにちよつと會釋しただけで、一座に割り込む。 「上原さん、あそこのね、上原さん、あそこのね、あああ、といふところですがね、あれはどんな工合ひに言つたらいいんですか? あ、あ、あ、ですか? ああ、あ、ですか?」 と乘り出してたづねてゐるひとは、たしかに私もその舞臺顏に見覺えのある新劇俳優の藤田である。 「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といつたやうな鹽梅だね。」 と上原さん。 「お金の事ばつかり。」 とお孃さん。 「二羽の雀に一錢、とは、ありや高いんですか? 安いんですか?」 と若い紳士。 「一厘も殘りなく償はずば、といふ言葉もあるし、或者には五タラント、或者には二タラント、或者には一タラントなんて、ひどくややこしい譬話もあるし、キリストも勘定はなかなかこまかいんだ。」 と別の紳士。 「それに、あいつあ酒飮みだつたよ。妙にバイブルには酒の譬話が多いと思つてゐたら、果せるかなだ。視よ、酒を好む人、と非難されたとバイブルに録されてある。酒を飮む人でなくて、酒を好む人といふんだから、相當な飮み手だつたに違ひねえのさ。まづ、一升飮みかね。」 ともうひとりの紳士。 「よせ、よせ。ああ、あ、汝らは道徳におびえて、イエスをダシに使はんとす。チエちやん、飮まう、ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ。」 と上原さん、一ばん若くて美しいお孃さんと、カチンと強くコップを打ち合せて、ぐつと飮んで、お酒が口角からしたたり落ちて、顎が濡れて、それをやけくそみたいに亂暴に掌で拭つて、それから大きいくしやみを五つ六つも續けてなさつた。 私はそつと立つて、お隣りの部屋へ行き、病身らしく蒼白く痩せたおかみさんに、お手洗ひをたづねまた歸りにその部屋をとほると、さつきの一ばんきれいで若いチエちやんとかいふお孃さんが、私を待つてゐたやうな恰好で立つてゐて、 「おなかが、おすきになりません?」 と親しさうに笑ひながら、尋ねた。 「ええ、でも、私パンを持つてまゐりましたから。」 「何もございませんけど、」 と病身らしいおかみさんは、だるさうに横坐りに坐つて長火鉢に寄りかかつたままで言ふ。 「この部屋でお食事をなさいまし。あんな呑んべえさんたちの相手をしてゐたら、一晩中なにも食べられやしません。お坐りなさい、ここへ。チエ子さんも一緒に。」 「おうい、キヌちやん、お酒が無い。」 とお隣りで紳士が叫ぶ。 「はい、はい。」 と返辭して、そのキヌちやんといふ三十歳前後の粹な縞の着物を着た女中さんが、お銚子をお盆に十本ばかり載せて、お勝手からあらはれる。 「ちよつと、」 とおかみさんは呼びとめて、 「ここへも二本。」 と笑ひながら言ひ、 「それからね、キヌちやん、すまないけど、裏のスズヤさんへ行つて、うどんを二つ大いそぎでね。」 私とチエちやんは長火鉢の傍に並んで坐つて、手をあぶつてゐた。 「お蒲團をおあてなさい。寒くなりましたね。お飮みになりませんか。」 おかみさんは、ご自分のお茶のお茶碗にお銚子のお酒をついで、それから別の二つのお茶碗にもお酒を注いだ。 さうして私たち三人は默つて飮んだ。 「みなさん、お強いのね。」 とおかみさんは、なぜだか、しんみりした口調で言つた。 がらがらと表の戸のあく音が聞えて、 「先生、持つてまゐりました。」といふ若い男の聲がして、 「何せ、うちの社長つたら、がつちりしてゐますからね、二萬圓と言つてねばつたのですが、やつと一萬圓。」 「小切手か?」 と上原さんのしやがれた聲。 「いいえ、現なまですが。すみません。」 「まあ、いいや、受取りを書かう。」 ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、の乾杯の歌が、そのあひだも一座に於いて絶える事無くつづいてゐる。 「直さんは?」 と、おかみさんは眞面目な顏をしてチエちやんに尋ねる。私は、どきりとした。 「知らないわ。直さんの番人ぢやあるまいし。」 と、チエちやんは、うろたへて、顏を可憐に赤くなさつた。 「この頃、何か上原さんと、まづい事でもあつたんぢやないの? いつも、必ず、一緒だつたのに。」 とおかみさんは、落ちついて言ふ。 「ダンスのはうが、すきになつたんですつて。ダンサアの戀人でも出來たんでせうよ。」 「直さんたら、まあ、お酒の上にまた女だから、始末が惡いね。」 「先生のお仕込みですもの。」 「でも、直さんのはうが、たちが惡いよ。あんな坊ちやんくづれは、……」 「あの、」 私は微笑んで口をはさんだ。默つてゐては、かへつてこのお二人に失禮なことになりさうだと思つたのだ。 「私、直治の姉なんですの。」 おかみさんは驚いたらしく、私の顏を見直したが、チエちやんは平氣で、 「お顏がよく似ていらつしやいますもの。あの土間の暗いところにお立ちになつてゐたのを見て、私、はつと思つたわ。直さんかと。」 「左樣でございますか。」 とおかみさんは語調を改めて、 「こんなむさくるしいところへ、よくまあ。それで? あの、上原さんとは、前から?」 「ええ、六年前にお逢ひして、……」 言ひ澱み、うつむき、涙が出さうになつた。 「お待ちどうさま。」 女中さんが、おうどんを持つて來た。 「召し上れ。熱いうちに。」 とおかみさんはすすめる。 「いただきます。」 おうどんの湯氣に顏をつつ込み、するするとおうどんを啜つて、私は、今こそ生きてゐる事の佗しさの、極限を味はつてゐるやうな氣がした。 ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、と低く口ずさみながら、上原さんは私たちの部屋にはひつて來て、私の傍にどかりとあぐらをかき、無言でおかみさんに大きい封筒を手渡した。 「これだけで、あとをごまかしちやだめですよ。」 おかみさんは、封筒の中を見もせずに、それを長火鉢の引出しに仕舞ひ込んで笑ひながら言ふ。 「持つて來るよ。あとの支拂ひは、來年だ。」 「あんな事を。」 一萬圓。それだけあれば、電球がいくつ買へるだらう。私だつて、それだけあれば、一年らくに暮せるのだ。 ああ、何かこの人たちは、間違つてゐる。しかし、この人たちも、私の戀の場合と同じ樣に、かうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて來た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人達のこの生き切るための姿も、憎むべきでないかも知れぬ。生きてゐる事。生きてゐる事。ああ、それは、何といふやりきれない息もたえだえの大事業であらうか。 「とにかくね。」 と隣室の紳士がおつしやる。 「これから東京で生活して行くにはだね、コンチワア、といふ輕薄きはまる挨拶が平氣で出來るやうでなければ、とても駄目だね。いまのわれらに、重厚だの、誠實だの、そんな美徳を要求するのは、首くくりの足を引つぱるやうなものだ。重厚? 誠實? ペッ、プッだ。生きて行けやしねえぢやないか。もしもだね、コンチワアを輕く言へなかつたら、あとは道が三つしか無いんだ、一つは歸農だ、一つは自殺、もう一つは女のヒモさ。」 「その一つも出來やしねえ可哀想な野郎には、せめて最後の唯一の手段、」 と別な紳士が、 「上原二郎にたかつて、痛飮。」 ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ。 「泊るところがねえんだろ。」 と、上原さんは、低い聲でひとりごとのやうにおつしやつた。 「私?」 私は自身に鎌首をもたげた蛇を意識した。敵意。それにちかい感情で、私は自分のからだを固くしたのである。 「ざこ寢が出來るか。寒いぜ。」 上原さんは、私の怒りに頓着なく呟く。 「無理でせう。」 とおかみさんは、口をはさみ、 「お可哀さうよ。」 ちえつ、と上原さんは舌打ちして、 「そんなら、こんなところへ來なけれあいいんだ。」 私は默つてゐた。このひとは、たしかに私のあの手紙を讀んだ。さうして、誰よりも私を愛してゐると、私はそのひとの言葉の雰圍氣から素早く察した。 「仕樣がねえな、福井さんのとこへでも、たのんでみようかな。チエちやん、連れて行つてくれないか。いや、女だけだと、途中が危險か。やつかいだな。かあさん、このひとのはきものを、こつそりお勝手のはうに廻して置いてくれ。僕が送りとどけて來るから。」 外は深夜の氣配だつた。風はいくぶんをさまり、空にいつぱい星が光つてゐた。私たちは、ならんで歩きながら、 「私、ざこ寢でも何でも、出來ますのに。」 上原さんは、眠さうな聲で、 「うん。」 とだけ言つた。 「二人つきりに、なりたかつたのでせう。さうでせう。」 私がさう言つて笑つたら、上原さんは、 「これだから、いやさ。」 と口をまげて、にが笑ひなさつた。私は自分がとても可愛がられてゐる事を、身にしみて意識した。 「ずゐぶん、お酒を召し上りますのね。毎晩ですの?」 「さう、毎日。朝からだ。」 「おいしいの? お酒が。」 「まづいよ。」 さう言ふ上原さんの聲に、私はなぜだか、ぞつとした。 「お仕事は?」 「駄目です。何を書いても、ばかばかしくつて、さうして、ただもう、悲しくつて仕樣が無いんだ。いのちの黄昏。藝術の黄昏。人類の黄昏。それも、キザだね。」 「ユトリロ」 私は、ほとんど無意識にそれを言つた。 「ああ、ユトリロ。まだ生きてゐやがるらしいね。アルコールの亡者。死骸だね。最近十年間のあいつの繪は、へんに俗つぽくて、みな駄目。」 「ユトリロだけぢやないんでせう? 他のマイスターたちも全部、……」 「さう、衰弱。しかし、新しい芽も、芽のままで衰弱してゐるのです。霜。フロスト。世界中に時ならぬ霜が降りたみたいなのです。」 上原さんは私の肩を輕く抱いて、私のからだは上原さんの二重廻しの袖で包まれたやうな形になつたが、私は拒否せず、かへつてぴつたり寄りそつてゆつくり歩いた。 路傍の樹木の枝。葉の一枚も附いてゐない枝、ほそく鋭く夜空を突き刺してゐて、 「木の枝つて、美しいものですわねえ。」 と思はずひとりごとのやうに言つたら、 「うん、花と眞黒い枝の調和が。」 と少しうろたへたやうにおつしやつた。 「いいえ、私、花も葉も芽も、何もついてゐない、こんな枝がすき。これでも、ちやんと生きてゐるのでせう。枯枝とちがひますわ。」 「自然だけは、衰弱せずか。」 さう言つて、また烈しい嚔をいくつも續けてなさつた。 「お風邪ぢやございませんの?」 「いや、いや、さにあらず。實はね、これは僕の奇癖でね、お酒の醉が飽和點に達すると、たちまちこんな工合のくしやみが出るんです。醉ひのバロメーターみたいなものだね。」 「戀は?」 「え?」 「どなたかございますの? 飽和點くらゐにすすんでゐるお方が。」 「なんだ、ひやかしちやいけない。女は、みな同じさ。ややこしくていけねえ。ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、實は、ひとり、いや、半人くらゐある。」 「私の手紙、ごらんになつて?」 「見た。」 「ご返事は?」 「僕は貴族は、きらひなんだ。どうしても、どこかに、鼻持ちならない傲慢なところがある。あなたの弟の直さんも、貴族としては、大出來の男なんだが、時々、ふつと、とても附き合ひ切れない小生意氣なところを見せる。僕は田舎の百姓の息子でね、こんな小川の傍をとほると必ず、子供のころ、故郷の小川で鮒を釣つた事や、めだかを掬つた事を思ひ出してたまらない氣持になる。」 暗闇の底で幽かに音立てて流れてゐる小川に、沿つた路を私たちは歩いてゐた。 「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶對理解できないばかりか、輕蔑してゐる。」 「ツルゲーネフは?」 「あいつは貴族だ。だから、いやなんだ。」 「でも、獵人日記、……」 「うん、あれだけは、ちよつとうまいね。」 「あれは、農村生活の感傷、……」 「あの野郎は田舎貴族、といふところで妥協しようか。」 「私もいまでは田舎者ですわ。畑を作つてゐますのよ。田舎の貧乏人。」 「今でも、僕をすきなのかい。」 亂暴な口調であつた。 「僕の赤ちやんが欲しいのかい。」 私は答へなかつた。 岩が落ちて來るやうな勢ひでそのひとの顏が近づき、遮二無二私はキスされた。性慾のにほひのするキスだつた。私はそれを受けながら涙を流した。屈辱の、くやし涙に似てゐるにがい涙があつた。涙はいくらでも眼からあふれ出て、流れた。 また、二人ならんで歩きながら、 「しくじつた。惚れちやつた。」 とそのひとは言つて、笑つた。 けれども、私は笑ふ事が出來なかつた。眉をひそめて口をすぼめた。 仕方が無い。 言葉で言ひあらはすなら、そんな感じのものだつた。私は自分が下駄を引きずつてすさんだ歩き方をしてゐるのに氣がついた。 「しくじつた。」 とその男は、また言つた。 「行くところまで行くか。」 「キザですわ。」 「この野郎。」 上原さんは私の肩をとんとこぶしで叩いて、また大きいくしやみをなさつた。 福井さんとかいふお方のお宅では、みなさんがもうおやすみになつていらつしやる樣子であつた。 「電報、電報。福井さん、電報ですよ。」 と大聲で言つて、上原さんは玄關の戸をたたいた。 「上原か?」 と家の中で男のひとの聲がした。 「そのとほり。プリンスとプリンセスと一夜の宿をたのみに來たのだ。どうもかう寒いと、くしやみばかり出て、せつかくの戀の道行もコメデイになつてしまふ。」 玄關の戸が内からひらかれた。もうかなりの、五十歳を越したくらゐの、頭の禿げた小柄のをぢさんが、派手なパジヤマを着て、 [17]へんなはにかむやうな笑顏で私たちを迎へた。 「たのむ。」 と上原さんは一こと言つて、マントも脱がずにさつさと家の中へはひつて、 「アトリヱは、寒くていけねえ。二階を借りるぜ。おいで。」 私の手をとつて、廊下をとほり突き當りの階段をのぼつて、暗い座敷にはひり、部屋の隅のスヰツチをパチとひねつた。 「お料理屋のお部屋みたいね。」 「うん、成金趣味さ。でも、あんなヘボ畫かきにはもつたいない。惡運が強くて罹災も、しやがらねえ。利用せざるべからずさ。さあ、寢よう、寢よう。」 ご自分のお家みたいに、勝手に押入れをあけてお蒲團を出して敷いて、 「ここへ寢給へ。僕は歸る。あしたの朝、迎へに來ます。便所は、階段を降りて、すぐ右だ。」 だだだだと階段からころげ落ちるやうに騒々しく下へ降りて行つて、それつきり、しんとなつた。 私はまたスヰツチをひねつて、電燈を消し、お父上の外國土産の生地で作つたビロードのコートを脱ぎ、帶だけほどいて着物のままでお床へはひつた。疲れてゐる上に、お酒を飮んだせゐか、からだがだるく、すぐにうとうとまどろんだ。 いつのまにか、あのひとが私の傍に寢ていらして、……私は一時間ちかく、必死の無言の抵抗をした。 ふと可哀さうになつて、放棄した。 「かうしなければ、ご安心が出來ないのでせう?」 「まあ、そんなところだ。」 「あなた、おからだを惡くしていらつしやるんぢやない? 喀血なさつたでせう。」 「どうしてわかるの? 實はこなひだ、かなりひどいのをやつたのだけど、誰にも知らせてゐないんだ。」 「お母樣のお亡くなりになる前と、おんなじ匂ひがするんですもの。」 「死ぬ氣で飮んでゐるんだ。生きてゐるのが、悲しくつて仕樣が無いんだよ。わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。陰氣くさい、嘆きの溜息が四方の壁から聞えてゐる時、自分たちだけの幸福なんてある筈は無いぢやないか。自分の幸福も光榮も、生きてゐるうちには決して無いとわかつた時、ひとは、どんな氣持になるものかね。努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獸の餌食になるだけだ。みじめな人が多すぎるよ。キザかね。」 「いいえ。」 「戀だけだね。おめえの手紙のお説のとほりだよ。」 「さう。」 私の戀は、消えてゐた。 夜が明けた。 部屋が薄明るくなつて、私は、傍で眠つてゐるそのひとの寢顏をつくづく眺めた。ちかく死ぬひとのやうな顏をしてゐた。疲れてゐるお顏だつた。 犧牲者の顏。貴い犧牲者。 私のひと。私の虹。マイ、チヤイルド。にくいひと。 この世にまたと無いくらゐに、とても美しい顏のやうに思はれ、戀があらたによみがへつて來たやうで胸がときめき、そのひとの髮を撫でながら、私のはうからキスをした。 かなしい、かなしい戀の成就。 上原さんは、眼をつぶりながら私をお抱きになつて、 「ひがんでゐたのさ。僕は百姓の子だから。」 もうこのひとから離れまい。 「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの聲が聞えて來ても、私のいまの幸福感は、飽和點よ。くしやみが出るくらゐ幸福だわ。」 上原さんは、ふふ、とお笑ひになつて、 「でも、もう、おそいな。黄昏だ。」 「朝ですわ。」 弟の直治は、その朝に自殺してゐた。
七 直治の遺書。 姉さん。 だめだ。さきに行くよ。 僕は自分がなぜ生きてゐなければならないのか、それが全然わからないのです。 生きてゐたい人だけは、生きるがよい。 人間には生きる權利があると同樣に、死ぬる權利もある筈です。 僕のこんな考へ方は、少しも新しいものでも何でも無く、こんな當り前の、それこそプリミチヴな事を、ひとはへんにこはがつて、あからさまに口に出して言はないだけなんです。 生きて行きたいひとは、どんな事をしても、必ず強く生き拔くべきであり、それは見事で、人の榮冠とでもいふものも、きつとその邊にあるのでせうが、しかし、死ぬことだつて、罪では無いと思ふんです。 僕は、僕といふ草は、この世の空氣と陽の中に、生きにくいんです。生きて行くのに、どこか一つ缺けてゐるんです。足りないんです。いままで、生きて來たのも、これでも精一ぱいだつたのです。 僕は高等學校へはひつて、僕の育つて來た階級と全くちがふ階級に育つて來た強くたくましい草の友人と、はじめて附き合ひ、その勢ひに押され、負けまいとして、麻藥を用ゐ、半狂亂になつて抵抗しました。それから兵隊になつて、やはりそこでも、生きる最後の手段として阿片を用ゐました。姉さんには僕のこんな氣持、わからねえだらうな。 僕は下品になりたかつた。強く、いや強暴になりたかつた。さうして、それが、所謂民衆の友になり得る唯一の道だと思つたのです。お酒くらゐでは、とても駄目だつたんです。 いつも、くらくら目まひをしてゐなければならなかつたんです。そのためには麻藥以外になかつたのです。僕は家を忘れなければならない。父の血に反抗しなければならない。母の優しさを、拒否しなければならない。姉に冷たくしなければならない。さうでなければ、あの民衆の部屋にはひる入場券が得られないと思つてゐたんです。 僕は下品になりました。下品な言葉づかひをするやうになりました。けれども、それは半分は、いや、六十パーセントは、哀れな附け燒刃でした。へたな小細工でした。民衆にとつて、僕はやはり、キザつたらしく乙にすました氣づまりの男でした。彼等は僕と、しんから打ち解けて遊んでくれはしないのです。しかし、また、いまさら捨てたサロンに歸ることも出來ません。いまでは僕の下品は、たとひ六十パーセントは人工の附け燒刃でも、しかし、あとの四十パーセントは、ほんものの下品になつてゐるのです。僕はあの、所謂上級サロンの鼻持ちならないお上品さには、ゲロが出さうで、一刻も我慢できなくなつてゐますし、また、あのおえらがたとか、お歴々とか稱せられてゐる人たちも、僕のお行儀の惡さに呆れてすぐさま放逐するでせう。捨てた世界に歸ることも出來ず、民衆からは惡意に滿ちたクソていねいの傍聽席を與へられてゐるだけなんです。 いつの世でも、僕のやうな謂はば生活力が弱くて、缺陷のある草は、思想もクソも無いただおのづから消滅するだけの運命のものなのかも知れませんが、しかし、僕にも、少しは言ひぶんがあるのです。とても僕には生きにくい、事情を感じてゐるんです。 人間は、みな、同じものだ。 これは、いつたい、思想でせうか。僕はこの不思議な言葉を發明したひとは、宗教家でも哲學者でも藝術家でも無いやうに思ひます。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆がわくやうに、いつのまにやら、誰が言ひ出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆ひ、世界を氣まづいものにしました。 この不思議な言葉は、民主々義とも、またマルキシズムとも、全然無關係のものなのです。それは、かならず、酒場に於いて醜男が美男子に向つて投げつけた言葉です。ただの、イライラです。嫉妬です。思想でも何でも、ありやしないんです。 けれども、その酒場のやきもちの怒聲が、へんに思想めいた顏つきをして民衆のあひだを練り歩き、民主々義ともマルキシズムとも全然、無關係の言葉の筈なのに、いつのまにやら、その政治思想や經濟思想にからみつき、奇妙に下劣なあんばいにしてしまつたのです。メフイストだつて、こんな無茶な放言を、思想とすりかへるなんて藝當は、さすがに 良心に恥ぢて、躊躇したかも知れません。 人間は、みな、同じものだ。 なんといふ卑屈な言葉であらう。人をいやしめると同時に、みづからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるやうな言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言はぬ。民主々義は、個人の尊嚴を主張する。同じものだ、などとは言はぬ。ただ牛太郎だけがそれを言ふ。 「へへ、いくら氣取つたつて、同じ人間ぢやねえか。」 なぜ、 同じだと言ふのか。優れてゐる、と言へないのか。奴隷根性の復讐。 けれども、この言葉は、實に猥せつで、不氣味で、ひとは互ひにおびえ、あらゆる思想が姦せられ、努力は嘲笑せられ、幸福は否定せられ、美貌はけがされ、光榮は引きずりおろされ、所謂「世紀の不安」は、この不思議な一語からはつしてゐると僕は思つてゐるんです。 イヤな言葉だと思ひながら、僕もやはりこの言葉に脅迫せられ、おびえて震へて、何を仕樣としてもてれくさく、絶えず不安で、ドキドキして身の置きどころが無く、いつそ酒や麻藥の目まひに依つてつかのまの落ちつきを得たくて、そうして、めちやくちやになりました。 弱いのでせう。どこか一つ重大な缺陷のある草なのでせう。また、何かとそんな小理窟を並べたつて、なあに、もともと遊びが好きなのさ、なまけ者の、助平の、身勝手な快樂兒なのさ、と、れいの牛太郎がせせら笑つて言ふかも知れません。さうして、僕はさう言はれても、いままでは、ただてれて、あいまいに首肯してゐましたが、しかし、僕も死ぬに當つて、一言、抗議めいた事を言つて置きたい。 姉さん。 信じて下さい。 僕は、遊んでも少しも 樂しくなかつたのです。快樂のイムポテンツなのかも知れません。僕はただ、貴族といふ自身の影法師から離れたくて、狂ひ、遊び、荒んでゐました。 姉さん。 いつたい、僕たちに罪があるのでせうか。貴族に生れたのは 僕たちの罪でせうか。ただ、その家に生れただけに、僕たちは、永遠に、たとへばユダの身内の者みたいに、恐縮し、謝罪し、はにかんで生きてゐなければならない。 僕は、もつと早く死ぬべきだつた。しかし、たつた一つ、ママの愛情。それを思ふと、死ねなかつた。人間は、自由に生きる權利を持つてゐると同樣に、いつでも勝手に死ねる權利を持つてゐるのだけれども、しかし、「母」の生きてゐるあひだは、その死の權利は留保されなければならないと僕は考へてゐるんです。それは同時に、「母」をも殺してしまふ事になるのですから。 いまはもう、僕が死んでも、からだを惡くするほど悲しむひともゐないし、いいえ姉さん、僕は知つてゐるんです、僕を失つたあなたたちの悲しみはどの程度のものだか、いいえ、虚飾の感傷はよしませう、あなたたちは僕の死を知つたら、きつとお泣きになるでせうが、しかし、僕の生きてゐる苦しみと、さうしてそのイヤな生から完全に解放される僕のよろこびを思つてみて下さつたら、あなたたちのその悲しみは、次第に打ち消されて行く事と存じます。 僕の自殺を非難し、あくまでも生き伸びるべきであつた、と僕になんの助力も與へず口先だけで、したり顏に批判するひとは、陛下に菓物屋をおひらきなさるやう平氣でおすすめ出來るほどの大偉人にちがひございませぬ。 姉さん。 僕は死んだはうがいいんです。僕には、所謂生活能力が無いんです。お金の事で、人と爭ふ力が無いんです。僕は、人にたかる事さへ出來ないんです。上原さんと遊んでも、僕のぶんのお勘定は、いつも僕が拂つて來ました。上原さんは、それを貴族のケチくさいプライドだと言つて、とてもいやがつてゐましたが、しかし、僕は、プライドで支拂ふのではなくて、上原さんのお仕事で得たお金で、僕がつまらなく飮み食ひして、女を抱くなど、おそろしくて、とても出來ないのです。上原さんのお仕事を尊敬してゐるから、と簡單に言ひ切つてしまつても、ウソで、僕にも本當は、はつきりわかつてゐないんです。ただ、ひとのごちそうになるのが、そらおそろしいんです。殊にも、そのひとご自身の腕一本で得たお金で、ごちそうになるのは、つらくて、心苦しくてたまらないんです。 さうしてただもう、自分の家からお金や品物を持ち出して、ママやあなたを悲しませ、僕自身も、少しも樂しくなく、出版業など計畫したのも、ただ、てれかくしのお體裁で、實はちつとも本氣で無かつたのです。本氣でやつてみたところで、ひとのごちそうにさへなれないやうな男が、金まうけなんて、とてもとても出來やしないのは、いくら僕が愚かでも、それくらゐの事には氣附いてゐます。 姉さん。 僕たちは、貧乏になつてしまひました。生きて在るうちは、ひとにごちそうしたいと思つてゐたのに、もう、ひとのごちそうにならなければ生きて行けなくなりました。 姉さん。 この上、僕は、なぜ生きてゐなければならねえのかね? もう、だめなんだ。僕は、死にます。らくに死ねる藥があるんです。兵隊の時に、手にいれて置いたのです。 姉さんは美しく、(僕は美しい母と姉を誇りにしてゐました)さうして、賢明だから、僕は姉さんの事に就いては、なんにも心配してゐませぬ。心配などする資格さへ僕には有りません。どろぼうが被害者の身の上を思ひやるみたいなもので、赤面するばかりです。きつと姉さんは、結婚なさつて、子供が出來て、夫にたよつて生き拔いて行くのではないかと僕は、思つてゐるんです。 姉さん。 僕に、一つ、祕密があるんです。 永いこと、祕めに祕めて、戰地にゐても、そのひとの事を思ひつめて、そのひとの夢を見て、目がさめて、泣きべそをかいた事も幾度あつたか知れません。 そのひとの名は、とても誰にも、口がくさつても言はれないんです。僕は、いま死ぬのだから、せめて、姉さんにだけでも、はつきり言つて置かうか、と思ひましたが、やつぱり、どうにもおそろしくて、その名を言ふことが出來ません。 でも、僕はその祕密を、絶對祕密のまま、たうとうこの世で誰にも打ち明けず、胸の奧に藏して死んだならば、僕のからだが火葬にされても、胸の裏だけが生臭く燒け殘るやうな氣がして、不安でたまらないので、姉さんにだけ、遠まはしに、ぼんやり、フイクシヨンみたいにして教へて置きます。フイクシヨン、といつても、しかし、姉さんは、きつとすぐその相手のひとは誰だか、お氣附きになる筈です。フイクシヨンといふよりは、ただ假名を用ゐる程度のごまかしなのですから。 姉さんは、ご存じかな? 姉さんはそのひとをご存じの筈ですが、しかし、おそらく、逢つた事は無いでせう。そのひとは、姉さんよりも、少し年上です。一重瞼で、目尻が吊り上つて、髮にパーマネントなどかけた事が無く、いつも強く、ひつつめ髮、とでもいふのかしら、そんな地味な髮形で、さうして、とても貧しい服裝で、けれどもだらしない恰好ではなくて、いつもきちんと着附けて、清潔です。そのひとは戰後あたらしいタツチの畫をつぎつぎと發表して急に有名になつた或る中年の洋畫家の奧さんで、その洋畫家の行ひは、たいへん亂暴ですさんだものなのに、その奧さんは平氣を裝つて、いつも優しく微笑んで暮してゐるのです。 僕は立ち上つて、 「それでは、おいとま致します。」 そのひとも立ち上つて、何の警戒も無く、僕の傍に歩み寄つて、僕の顏を見上げ、 「なぜ?」 と普通の音聲で言ひ、本當に不審のやうに少し小首をかしげて、しばらく僕の眼を見つづけてゐました。さうして、そのひとの眼に、何の邪心も虚飾も無く、僕は女のひとと視線が合へば、うろたへて視線をはづしてしまふたちなのですが、その時だけは、みぢんも含羞を感じないで、二人の顏が一尺くらゐの間隔で、六十秒もそれ以上もとてもいい氣持で、そのひとの瞳を見つめて、それからつい微笑んでしまつて、 「でも、……」 「すぐ歸りますわよ。」 と、やはり、まじめな顏をして言ひます。 正直、とは、こんな感じの表情を言ふのではないかしら、とふと思ひました。それは修身教科書くさい、いかめしい徳ではなくて、正直といふ言葉で表現せられた本來の徳は、こんな可愛らしいものではなかつたかしら、と考へました。 「またまゐります。」 「さう。」 はじめから終りまで、すべてみな何でもない會話です。僕が、或る夏の日の午後、その洋畫家のアパートをたづねて行つて、洋畫家は不在で、けれどもすぐ歸る筈ですから、おあがりになつてお待ちになつたら? といふ奧さんの言葉に從つて、部屋にあがつて、三十分ばかり雜誌など讀んで、歸つて來さうも無かつたから、立ち上つて、おいとました、それだけの事だつたのですが、僕は、その日のその時の、そのひとの瞳に、くるしい戀をしちやつたのです。 高貴、とでも言つたらいいのかしら。僕の周圍の貴族の中には、ママはとにかく、あんな無警戒な「正直」な眼の表情の出來る人は、ひとりもゐなかつた事だけは斷言できます。 それから僕は、或る冬の夕方、そのひとのプロフイルに打たれた事があります。やはり、その洋畫家のアパートで、洋畫家の相手をさせられて、炬燵にはひつて朝から酒を飮み、洋畫家と共に、日本の所謂文化人たちをクソミソに言ひ合つて笑ひころげ、やがて洋畫家は倒れて大鼾をかいて眠り、僕も横になつてうとうとしてゐたら、ふはと毛布がかかり、僕は薄目をあけてみたら、東京の冬の夕空は水色に澄んで、奧さんはお孃さんを抱いてアパートの窓縁に、何事も無ささうにして腰をかけ、奧さんの端正なプロフイルが、水色の遠い夕空をバックにして、あのルネッサンスの頃のプロフイルの畫のやうにあざやかに輪郭が區切られ浮んで、僕にそつと毛布をかけて下さつた親切は、それは何の色氣でも無く、慾でも無く、ああ、ヒユウマニテイといふ言葉はこんな時にこそ使用されて蘇生する言葉なのではなからうか、ひとの當然の佗びしい思ひやりとして、ほとんど無意識みたいになされたもののやうに、繪とそつくりの靜かな氣配で、遠くを眺めていらつしやつた。 僕は眼をつぶつて、こひしく、こがれて狂ふやうな氣持ちになり、瞼の裏から涙があふれ出て、毛布を頭から引かぶつてしまひました。 姉さん。 僕がその洋畫家のところに遊びに行つたのは、それは、さいしよはその洋畫家の作品の特異なタッチと、その底に祕められた熱狂的なパッシヨンに、醉はされたせゐでありましたが、しかし、附き合ひの深くなるにつれて、そのひとの無教養、出鱈目、きたならしさに興覺めて、さうして、それと反比例して、そのひとの奧さんの心情の美しさにひかれ、いいえ、 正しい愛情のひとがこひしくて、したはしくて、奧さんの姿を一目見たくて、あの洋畫家の家へ遊びに行くやうになりました。 あの洋畫家の作品に、多少でも、藝術の高貴なにほひ、とでもいつたやうなものが現れてゐるとすれば、それは、奧さんの優しい心の反映ではなからうかとさへ、僕は [18]いままでは考へてゐるんです。 その洋畫家は、僕はいまこそ、感じたままをはつきり言ひますが、ただ大酒飮みで遊び好きの、巧妙な商人なのです。遊ぶ金がほしさに、ただ出鱈目にカンヴァスに繪具をぬたくつて、流行の勢ひに乘り、もつたい振つて高く賣つてゐるのです。あのひとの持つてゐるのは、田舎者の圖々しさ、馬鹿な自信、ずるい商才、それだけなんです。 おそらくあのひとは、他のひとの繪は、外國人の繪でも日本人の繪でも、なんにもわかつてゐないでせう。おまけに、自分で畫いてゐる繪も、何の事やらご自身わかつてゐないでせう。ただ遊興のための金がほしさに、無我夢中で繪具をカンヴァスにぬたくつてゐるだけなんです。 さうして、さらに驚くべき事は、あのひとはご自身のそんな出鱈目に、何の疑ひも、羞恥も、恐怖も、お持ちになつてゐないらしいといふ事です。 ただもう、お得意なんです。何せ、自分で畫いた繪が自分でわからぬといふひとなのですから、他人の仕事のよさなどわかる筈が無く、いやもう、けなす事、けなす事。 つまり、あのひとのデカタン生活は、口では何のかのと苦しさうな事を言つてゐますけれども、その實は、馬鹿な田舎者が、かねてあこがれの都に出て、かれ自身意外なくらゐの成功をしたので有頂天になつて遊びまはつてゐるだけなんです。 いつか僕が、 「友人がみな怠けて遊んでゐる時、自分ひとりだけ勉強するのは、てれくさくて、おそろしくて、とてもだめだから、ちつとも遊びたくなくても、自分も仲間入りして遊ぶ。」 と言つたら、その中年の洋畫家は、 「へえ? それが貴族氣質といふものかね、いやらしい。僕は、ひとが遊んでゐるのを見ると、自分も遊ばなければ、損だ、と思つて大いに遊ぶね。」 と答へて平然たるものでしたが、僕はその時、その洋畫家を、しんから輕蔑しました。このひとの放埒には苦惱が無い。むしろ馬鹿遊びを自慢にしてゐる。ほんものの阿呆の快樂兒。 けれども、この洋畫家の惡口をこの上さまざまに述べ立てても、姉さんには關係の無い事ですし、また僕もいま死ぬるに當つて、やはりあのひととの永いつき合ひを思ひ、なつかしく、もう一度逢つて遊びたい衝動をこそ感じますが、憎い氣はちつとも無いのですし、あのひとだつて淋しがりの、とてもいいところをたくさん持つてゐるひとなのですから、もう何も言ひません。 ただ、僕は姉さんに、僕がそのひとの奧さんにこがれて、うろうろして、つらかつたといふ事だけを知つていただいたらいいのです。だから、姉さんはそれを知つても、別段、誰かにその事を訴へ、弟の生前の思ひをとげさせてやるとか何とか、そんなキザなおせつかいなどなさる必要は絶對に無いのですし、姉さんおひとりだけが知つて、さうして、こつそり、ああ、さうか、と思つて下さつたらそれでいいんです。なほまた慾を言へば、こんな僕の恥づかしい告白に依つて、せめて姉さんだけでも、僕のこれまでの生命の苦しさを、さらに深くわかつて下さつたら、とても僕は、うれしく思ひます。 僕はいつか、奧さんと、手を握り合つた夢を見ました。さうして奧さんも、やはりずつと以前から僕を好きだつたのだといふ事を知り、夢から醒めても、僕の手のひらに奧さんの指のあたたかさが殘つてゐて、僕はもう、これだけで滿足して、あきらめなければなるまいと思ひました。道徳がおそろしかつたのではなく、僕にはあの半氣違ひの、いや、ほとんど狂人と言つてもいいあの洋畫家が、おそろしくてならないのでした。あきらめようと思ひ、胸の火をほかへ向けようとして、手當り次第、さすがのあの洋畫家も或る夜しかめつらをしたくらゐひどく、滅茶苦茶にいろんな女と遊び狂ひました。何とかして、奧さんの幻から離れ、忘れ、なんでもなくなりたかつたんです。けれども、だめ。僕は、結局、ひとりの女にしか、戀の出來ないたちの男なんです。僕は、はつきり言へます。僕は、奧さんの他の女友達を、いちどでも、美しいとか、いぢらしいとか感じた事が無いんです。 姉さん。 死ぬ前に、たつた一度だけ書かせて下さい。 スガちやん。 その奧さんの名前です。 僕がきのふ、ちつとも好きでもないダンサア(この女には、本質的な馬鹿なところがあります)それを連れて、山莊へ來たのは、けれども、まさかけさ死なうと思つて、やつて來たのではなかつたのです。いつか、近いうちに必ず死ぬ氣でゐたのですが、でも、きのふ、女を連れて山莊へ來たのは、女に旅行をせがまれ、僕も東京で遊ぶのに疲れて、この馬鹿な女と二、三日、山莊で休むのもわるくないと考へ、姉さんには少し工合ひが惡かつたけど、とにかくここへ一緒にやつて來てみたら、姉さんは東京のお友達のところへ出掛け、その時ふと、僕は死ぬなら今だ、と思つたのです。 僕は昔から、西片町のあの家の奧の座敷で死にたいと思つてゐました。街路や原つぱで死んで、彌次馬たちに死骸をいぢくり廻されるのは、何としても、いやだつたんです。けれども、西片町のあの家は人手に渡り、いまではやはりこの山莊で死ぬよりほかは無からうと思つてゐたのですが、でも、僕の自殺をさいしよに發見するのは姉さんで、さうして姉さんは、その時どんなに驚愕し恐怖するだらうと思へば、姉さんと二人きりの夜に自殺するのは氣が重くて、とても出來さうも無かつたのです。 それが、まあ、何といふチヤンス。姉さんがゐなくて、そのかはり、頗る鈍物のダンサアが、僕の自殺の發見者になつてくれる。 昨夜、ふたりでお酒を飮み、女のひとを二階の洋間に寢かせ、僕ひとりママの亡くなつた下のお座敷に蒲團をひいて、さうして、このみじめな手記にとりかかりました。 姉さん。 僕には、希望の地盤が無いんです。さようなら。 結局、僕の死は、自然死です。人は、思想だけでは、死ねるものでは無いんですから。それから、一つ、とてもてれくさいお願ひがあります。ママのかたみの麻の着物。あれを姉さんが、直治が來年の夏に着るやうにと縫ひ直して下さつたでせう。あの着物を、僕の棺にいれて下さい。僕、着たかつたんです。 夜が明けて來ました。永いこと苦勞をおかけしました。 さようなら。 ゆうべのお酒の醉ひは、すつかり醒めてゐます。僕は、素面で死ぬんです。 もういちど、さようなら。 姉さん。 僕は、貴族です。
八ゆめ。 皆が私から離れて行く。 直治の死のあと始末をして、それから一箇月間、私は冬の山莊にひとりで住んでゐた。 さうして私は、あのひとに、おそらくはこれが最後の手紙を、水のやうな氣持で、書いて差し上げた。 どうやら、あなたも、私をお捨てになつたやうでございます。いいえ、だんだんお忘れになるらしうございます。 けれども、私は、幸福なんですの。私の望みどほりに、赤ちやんが出來たやうでございますの。私は、いま、いつさいを失つたやうな氣がしてゐますけど、でも、おなかの小さい生命が、私の孤獨の微笑のたねになつてゐます。 けがらはしい失策などとは、どうしても私には思はれません。この世の中に、戰爭だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかつて來ました。あなたは、ご存じないでせう。だからいつまでも不幸なのですわ。それはね、教へてあげますわ、女がよい子を生むためです。 私には、はじめからあなたの人格とか責任とかをあてにする氣持はありませんでした。私のひとすぢの戀の冒險の成就だけが問題でした。さうして、私のその思ひが完成せられて、もういまでは私の胸のうちは、森の中の沼のやうに靜かでございます。 私は、勝つたと思つてゐます。 マリヤが、たとひ夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあつたら、それは聖母子になるのでございます。 私には、古い道徳を平氣で無視して、よい子を得たといふ滿足があるのでございます。 あなたは、その後もやはり、ギロチンギロチンと言つて、紳士やお孃さんたちとお酒を飮んで、デカタン生活とやらをお續けになつていらつしやるのでせう。でも、私は、それをやめよ、とは申しませぬ。それもまた、あなたの最後の鬪爭の形式なのでせうから。 お酒をやめて、ご病氣をなほして、長生きをなさつて立派なお仕事を、などそんな白々しいおざなりみたいなことは、もう私は言ひたくないのでございます。「立派なお仕事」などよりも、いのちを捨てる氣で、所謂惡徳生活をしとほす事のはうが、のちの世の人たちからかへつて御禮を言はれるやうになるかも知れません。 犠牲者。道徳の過渡期の犧牲者。あなたも、私も、きつとそれなのでございませう。 革命は、いつたい、どこで行はれてゐるのでせう。すくなくとも、私たちの身のまはりに於いては、古い道徳はやつぱりそのまま、みぢんも變らず、私たちの行く手をさへぎつてゐます。海の表面の波は何やら騒いでゐても、その底の海水は、革命どころか、みじろぎもせず、狸寢入りで寢そべつてゐるんですもの。 けれども私は、これまでの第一囘戰では、古い道徳をわづかながら押しのけ得たと思つてゐます。さうして、こんどは、生れる子と共に、第二囘戰、第三囘戰をたたかふつもりでゐるのです。 こひしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。 あなたが私をお忘れになつても、また、あなたが、お酒でいのちをお無くしになつても、私は私の革命の完成のために、丈夫で生きて行けさうです。 あなたの人格のくだらなさを、私はこなひだも或るひとから、さまざま承りましたが、でも、私にこんな強さを與へて下さつたのは、あなたです。私の胸に、革命の虹をかけて下さつたのはあなたです。生きる目標を與へて下さつたのは、あなたです。 私はあなたを誇りにしてゐますし、また、生れる子供にもあなたを誇りにさせようと思つてゐます。 私生兒と、その母。 けれども私たちは、古い道徳とどこまでも爭ひ、太陽のやうに生きるつもりです。 どうか、あなたも、あなたの鬪ひをたたかひ續けて下さいまし。 革命は、まだ、ちつとも、何も、 [19]行はれてゐないです。もつと、もつと、いくつもの惜しい貴い犧牲が必要のやうでございます。 いまの世の中で、一ばん美しいのは犧牲者です。 小さい犠牲者がもうひとりゐました。 上原さん。 私はもうあなたに、何もおたのみする氣はございませんが、けれども、その小さい犧牲者のために、一つだけ、おゆるしをお願ひしたい事があるのです。 それは、私の生れた子を、たつたいちどでよろしうございますから、あなたの奧さまに抱かせていただきたいのです。さうして、その時、私にかう言はせていただきます。 「これは、直治が、或る女のひとに [20]内證に生ませた子ですの。」 なぜ、さうするのか、それだけはどなたにも申し上げられません。いいえ、私自身にも、なぜさうさせていただきたいのか、よくわかつてゐないのです。でも、私は、どうしても、さうさせていただかなければならないのです。直治といふあの小さい犧牲者のために、どうしても、さうさせていただかなければならないのです。 ご不快でせうか。ご不快でも、しのんでいただきます。これが捨てられ、忘れかけられた女の唯一の幽かないやがらせと思召し、ぜひお聞きいれのほど願ひます。 M・C マイ・コメデアン。 昭和二十二年二月七日 ――了――
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