浮雲浮雲はしがき薔薇の花は頭に咲て活人は畫となる世の中獨り文章而巳は黴の生えた陳奮翰の四角張りたるに頬返しを附けかね又は舌足らずの物言を學びて口に涎を流すは拙し是はどうでも言文一途の事だと思立ては矢も楯もなく文明の風改良の熱一度に寄せ來るどさくさ紛れお先眞闇三寶荒神さまと春のや先生を頼み奉り缺硯に朧の月の雫を受けて墨摺流す空のきほひ夕立の雨の一しきりさら/\さつと書流せばアラ無情始末にゆかぬ浮雲めが艷しき月の面影を思ひ懸なく閉籠て黒白も分かぬ烏夜玉のやみらみつちやな小説が出來しぞやと我ながら肝を潰して此書の卷端に序するものは 明治丁亥初夏 二葉亭四迷 |
第一編第一囘 アヽラ怪しの人の擧動千早振る神無月も、最早跡二日の餘波となツた廿八日の午後三時頃に、神田見附の内より、塗渡る蟻、散る蜘蛛の子と、うよ/\ぞよ/\涌出でて來るのは、孰れも顋を氣にし給ふ方々。しかし熟々見て篤と點檢すると、是にも種種種類のあるもので、まづ髭から書立てれば、口髭、頬髯、顋の鬚、暴に興起した拿破崙髭に、狆の口めいた比斯馬克髭。そのほか矮鷄髭、貉髭、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡くもいろ/\に生え分る。髭に續いて差ひのあるのは服飾。白木屋仕込みの黒い物づくめには佛蘭西皮の靴の配偶はありうち。之を召す方樣の鼻毛は延びて蜻蛉をも釣るべしといふ。是より降ツては、背皺よると枕詞の付くスコツチの背廣にゴリゴリするほどの牛の毛皮靴。そこで踵にお飾を絶やさぬ所から泥に尾を曳く龜甲洋袴。いづれも釣るしんぼうの苦患を今に脱せぬ顏附、でも持主は得意なもので、髭あり、服あり、我また奚をか 覓めんと濟ました顏色で、火をくれた木頭と反身ツてお歸り遊ばす、イヤお羨ましいことだ。其後より續いて出てお出でなさるは孰れも胡麻鹽頭、弓と曲げても張の弱い腰に無殘や空辧當を振垂げてヨタ/\ものでお歸りなさる。さては老朽しても、流石はまだ職に堪へるものか。しかし日本服でも勤められるお手輕なお身の上、さりとはまたお氣の毒な。 途中人影の稀れに成ツた頃、同じ見附の内より兩人の青年が話しながら出て參ツた。一人は年齡二十二三の男、顏色は蒼味七分に土氣三分、どうも宜敷ないが、秀でた眉に儼然とした眼附で、ズーと押徹ツた鼻筋、唯惜い哉口元が些と尋常でないばかり。しかし締はよささうゆゑ繪草紙屋の前に立ツてもパツクリ開くなどといふ氣遣ひは有るまいが、兎に角顋が尖つて頬骨が露れ、非道く やれてゐる故か、顏の造作がとげ/\してゐて、愛嬌氣といツたら微塵もなし。醜くはないが、何處ともなくケンがある。脊はスラリとしてゐるばかりで、左而已高いといふ程でもないが痩肉ゆゑ、半鐘なんとやらといふ人聞の惡い諢名に縁が有りさうで、年數物ながら摺疊皺の存じた霜降スコツチの服を身に纏ツて、組紐を盤帶にした帽檐廣な黒羅紗の帽子を [1]戴いてる。今一人は前の男より二つ三つ兄らしく、中肉中脊で色白の丸顏。口元の尋常な所から眼付のパツチリとした所は仲々の好男子ながら、顏立がひねてこせ/\してゐるので、何となく品格のない男。黒羅紗の半フロツクコートに同じ色のチヨツキ、洋袴は何か乙な縞羅紗で、リウとした衣裳附、縁の卷上ツた釜底形の黒の帽子を眉深に冠り、左の手を隱袋へ差入れ、右の手で細々とした杖を玩物にしながら高い男に向ひ、 「しかしネー、若し果して課長が我輩を信用してゐるなら、蓋し已むを得ざるに出でたんだ。何故と言ツて見給へ、局員四十有餘名と言やア大層のやうだけれども、皆腰の曲ツた老爺に非ざれば、氣の利かない奴ばかりだらう。其内でかう言やア可笑しい樣だけれども、若手でサ、原書も些たア噛ツてゐてサ、而して事務を取らせて捗の往く者と言ツたら、マア我輩二三人だ。だから若し果して信用してゐるのなら、已むを得ないのサ。」 「けれども山口を見給へ、事務を取らせたら、彼の男程捗の往く者はあるまいけれども矢張免を喰ツたぢやアないか。」 「彼奴はいかん、彼奴は馬鹿だからいかん。」 「何故。」 「何故と言ツて、彼奴は馬鹿だ、課長に向ツて此間のやうな事を言ふ所を見りやア、彌馬鹿だ。」 「あれは全體課長が惡いサ、自分が不條理な事を言付けながら、何にもあんなに頭ごなしにいふこともない。」 「それは課長の方が、或は不條理かも知れぬが、しかし苟も長官たる者に向つて、抵抗を試みるなどといふなア、馬鹿の骨頂だ。まづ考へて見給へ、山口は何んだ、屬吏ぢやアないか、屬吏ならば假令課長の言付を不條理と思つたにしろ思はぬにしろ、ハイ/\言ツて、其通り處辧して往きやア、職分は盡きてるぢやアないか。然るに彼奴のやうに、苟も課長たる者に向ツてあんな指圖がましい事を……。」 「イヤあれは指圖ぢやアない、注意サ。」 「フム乙う山口を辯護するネ、矢張同病相憐れむのか、アハアハ/\。」 高い男は中脊の男の顏を尻眼にかけて、口を鉗んで仕舞ツたので、談話がすこし中絶れる。錦町へ曲り込んで、二つ目の横町の角まで參ツた時、中脊の男は不圖立止ツて、 「ダガ、君の免を喰ツたのは弔すべくもまた賀すべしだぜ。」 「何故。」 「何故と言ツて君、これからは朝から晩まで情婦の側にへばり付いてゐる事が出來らアネ。アハ/\/\。」 「フヽヽン、馬鹿を言ひ給ふな。」 ト、高い男は顏に似氣なく微笑を含み、さて失敬の挨拶も手輕く、別れて獨り小川町の方へ參る。顏の微笑が一かは一かは消え往くにつれ、足取も次第々々に緩かになつて、終には蟲の這ふ樣になり、悄然と頭をうな垂れて、二三町程も參つた頃、不圖立止りて四邊を囘顧し、駭然として二足三足立戻ツて、トある横町へ曲り込んで、角から三軒目の格子戸作りの二階家へ這入る。一所に這入ツて見よう。 高い男は玄關を通り拔けて、縁側へ立出ると、傍の座鋪の障子がスラリ開いて、年頃十八九の婦人の首、チヨンボリとした摘ツ鼻と、日の丸の紋を染拔いたムツクリとした頬とで、その持主の身分が知れるといふ奴が、ヌツと出る。 「お歸ンなさいまし。」 トいつて何故か口舐ずりをする。 「叔母さんは。」 「先程、お孃さまと何處らへか。」 「さう。」 ト言捨てゝ高い男は縁側を傳ツて參り、突當りの段梯子を登ツて二階へ上る。 高い男は徐かに和服に着替へ、脱棄てた服を疊掛けて見て舌鼓を撃ちながら其儘押入へへし込んで仕舞ふ。所へ、トバクサと上ツて來たは例の日の丸の紋を染拔いた首の持主。横幅の廣い筋骨の逞しいズングリムツクリとした生理學上の美人で、持ツて來た郵便を高い男の前に差置いて、 「アノー先刻此郵便が。」 「ア、さう、何處から來たんだ。」 ト、郵便を手に取ツて見て、 「ウー、國からか。」 「アノネ貴君、今日のお孃樣のお服飾は、ほんとにお目に懸け度いやうでしたヨ。まづネ、お下着が格子縞の黄八丈で、お上着はパツとした宜い引縞の絲織で、お髮は何時ものイボジリ捲きでしたがネ、お掻頭は此間出雲屋からお取んなすツた、こんな……」 ト、故意々々手で形を拵へて見せ、 「薔薇の花掻頭でネ、それは/\お美しう御座いましたヨ……私もあんな帶留が一つ欲しいけれども……」 些し塞いで、 「お孃さまは、お化粧なんぞはしない、と仰しやるけれども、今日はなんでも内々で、薄化粧なすツたに違ひありませんよ。だツて、なんぼ色がお白いツて、あんなに……私も家にゐる時分は、是でもヘタクタ施けたもんでしたがネ、此家に上ツてから、お正月ばかりにして、不斷は施けないの。施けてもいゝけれども、御新造さまの惡口が厭ですワ。だツて何時かもお客樣のいらツしやる前で、鍋の白粉を施けたとこは、全然炭團へ霜が降ツたやうで御座いますツて……。餘りぢやア有りませんか、ネー貴君。なんぼ私が不器量だつて餘りぢやありませんか。」 ト敵手が傍にでもゐるやうに、眞黒になツてまくしかける。高い男は先程より手紙を把ツては讀みかけ、讀みかけてはまた下へ措きなどして、さも迷惑な體。此時も唯「フム」と鼻を鳴らした而已で、更に取合はぬゆゑ、生理學上の美人は左なくとも罅壞れさうな兩頬をいとゞ膨脹らしてツンとして二階を降りる。其後姿を見送つて、高い男はホツト顏。また手早く手紙を取上げて讀下す。その文言に、 一筆示し まゐらせそろ、さても時こうがら日増しにお寒う相成り候へども御無事に御勤め被成候や、それのみあんじくらし まゐらせそろ。母事も此頃はめつきり年をとり、髮の毛も大方は白髮になるにつけ心まで愚癡に相成候と見え今年の晩には御地へ參られるとは知りつゝも、何となう待遠にて毎日ひにち指のみ折り暮らし まゐらせそろ。どうぞどうぞ一日も早うお引取下され度念じ まいらせ候。さる廿四日は父上の…… ト讀みさして、覺えずも手紙を取落し、腕を組んでホツと溜息。 第二囘 風變りな戀の初峰入 上高い男と假に名乘らせた男は、本名を内海文三と言ツて、靜岡縣の者で、父親は舊幕府に仕へて俸祿を食んだ者で有ツたが、幕府倒れて王政古に復り、時津風に靡かぬ民草もない明治の御世に成ツてからは舊里靜岡に蟄居して、暫くは偸食の民となり、爲すこともなく昨日と送り今日と暮らす内、坐して食へば山も空しの諺に漏れず、次第々々に貯蓄の手薄になる所から、足掻き出したが、偖木から落ちた猿猴の身といふものは、意氣地の無い者で、腕は眞影流に固ツてゐても、鋤鍬は使へず、口は左樣然らばと重く成ツてゐて見れば、急にはヘイの音も出されず、といツて天秤を肩へ當てるも家名の汚れ、外聞が見ツとも宜くないといふので、足を擂木に駈廻ツて辛くして靜岡藩の史生に住み込み、ヤレ嬉しやと言ツた所が腰辨當の境界。なかなか浮み上る程には參らぬが、デモ感心には、多くも無い資本を吝まずして一子文三に學問を仕込む。まづ、朝勃然起きる。辨當を背負はせて學校へ出して遣る。歸ツて來る。直ちに近傍の私塾へ通はせると言ふのだから、あけしい間がない。迚も餘所外の子供では續かないが、其處は文三、性質が内端だけに學問には向くと見えて、餘りしぶりもせずして出て參る。尤も途に蜻蛉を追ふ友を見て、フト氣まぐれに遊び暮らし、悄然として裏口から立戻つて來る事も無いではないが、其は邂逅の事で、マア大方は勉強する。其の内に學問の味も出て來る。サア面白くなるから、昨日までは督責されなければ取出さなかつた書物をも、今日は我から繙くやうになり、隨ツて學業も進歩するので、人も賞讃せば兩親も喜ばしく、子の生長に其身の老ゆるを忘れて春を送り秋を迎へる内、文三の十四といふ春、待ちに待ツた卒業も首尾よく濟んだので、ヤレ嬉しやといふ間もなく父親は不圖感染した風邪から餘病を引出し、年比の心勞も手傳ツてドツと床に就く。藥餌、呪、加持祈祷と人の善いと言ふ程のことを爲盡して見たが、さて驗も見えず、次第々々に頼み少なに成ツて遂に文三の事を言ひ死に果敢なく成ツて仕舞ふ。生殘ツた妻子の愁傷は實に比喩を取るに言葉もなくばかり、嗟矣幾程嘆いても仕方がない、といふ口の下から、ツイ袖に置くは泪の露、漸くの事で空しき骸を菩提所へ送りて、荼毘一片の烟と立上らせて仕舞ふ。さて かせぎ人が歿してから家計は一方ならぬ困難。藥禮と葬式の雜用とに多くもない貯蓄をゲツソり遣ひ減らして、今は殘り少なになる。デモ母親は男勝りの氣丈者、貧苦にめげない煮焚の業の片手間に、一枚三厘の襯衣を縫けて身を粉にして かせぐに追付く貧乏もないが、如何か斯うか湯なり粥なりを啜ツて、公債の利の細い烟を立ててゐる。文三は父親の存生中より、家計の困難に心附かぬでは無いが、何と言ツてもまだ幼少の事、何時までも其で居られるやうな心地がされて、親思ひの心から今に坊が彼して斯うしてと、年齡には増せた事を言ひ出しては、兩親に袂を絞らせた事は有ツても、又何處ともなく他愛の無い所も有ツて、波に漂う浮艸のうかうかとして月日を重ねたが、父の死語便のない母親の辛苦心勞を見るに付け聞くに付け、子供心にも心細くもまた悲しく、始めて浮世の鹽が身に浸みて、夢の覺めたやうな心地。是からは給仕なりともして、母親の手足にはならずとも責めて我口だけはとおもふ由をも母に告げて相談をしてゐると、捨てる神あれば助くる神ありで、文三だけは東京に居る叔父の許へ引取られる事になり、泣の泪で靜岡を發足して叔父を便ツて出京したは明治十一年、文三が十五に成ツた春の事とか。 叔父は園田孫兵衞と言ひて、文三の亡父の爲めには實弟に當る男。慈悲深く、憐ツぽく、加之も律儀眞當の氣質ゆゑ、人の望けも宜いが、惜哉些と氣が弱すぎる。維新後は兩刀を矢立に替へて、朝夕算盤を彈いては見たが、慣れぬ事とて初の内は損耗ばかり、今日に明日にと喰込んで、果は借金の淵に陷り、如何しよう斯うしようと足掻き
もがいてゐる内、不圖した事から浮み上ツて當今では些とは資本も出來、地面をも買ひ、小金をも貸付けて、家を東京に持ちながら、其身は濱のさる茶店の支配人をしてゐる事なれば、左而已富貴と言ふでもないが、まづ融通のある活計。留守を守る女房のお政は、お摩りからずる/\の後配、歴とした士族の娘と自分ではいふが……チト考へ物。しかし兎に角、如才のない、世辭のよい、地代から貸金の催促まで家事一切獨りで切ツて廻る程あツて、萬事に拔目のない婦人。疵瑕と言ツては唯大酒飮みで、浮氣で、加之も針を持つ事がキツイ嫌ひといふばかり。さしたる事もないが、人事はよく言ひたがらぬが世の習ひ。彼女は裾張蛇の變生だらう、と近邊の者は影人形を使ふとか言ふ。夫婦の間に二人の子がある。姉をお勢と言ツて、其頃はまだ十二の蕾。弟を勇と言ツて、是もまた袖で鼻汁拭く灣泊盛り、(是は當今は某校に入舎してゐて、宅には居らぬので)トいふ家内ゆゑ、叔母一人の氣に入れば、イザコザは無いが、さて文三には人の機嫌氣褄を取る杯といふ事は出來ぬ お勢の生立の有樣、生來子煩惱の孫兵衞を父に持ち、他人には薄情でも我子には眼の無いお政を母に持ツた事ゆゑ、幼少の折より插頭の花、衣の裏の玉と撫で愛まれ、何でも彼でも言成次第に、オイソレと仕付けられたのが癖と成ツて、首尾よくやんちや娘に成果せた。紐解の賀の濟んだ頃より、父親の望みで小學校へ通ひ、母親の好みで清元の稽古。生得て才溌の一徳には生覺えながら呑込みも早く、學門、遊藝、兩つながら出來のよいやうに思はれるから、母親は目も口も一つにして大驩び。尋ねぬ人にまで吹聽する娘自慢の手前味噌、切りに涎を垂らしてゐた。其頃新に隣家へ引移ツて參ツた官員は、家内四人活計で、細君もあれば娘もある。隣づからの寒暖の挨拶が喰付きで親々が心安く成るにつれ、娘同志も親しくなり、毎日のやうに訪ひつ訪はれつした お勢の入塾した塾の塾頭をして居る婦人は、新聞の受賣からグツと思ひ上りをした女丈夫。しかも氣を使ツて一飮の恩は酬いぬがちでも、睚眥の怨は必ず報ずるといふ蚰蜒魂で、氣に入らぬ者と見れば何彼につけて、眞綿に針のチクチク責をするが性分。親の前でこそ蛤貝と反身れ、他人の前では蜆貝と縮まるお勢の事ゆゑ、責まれるのが辛さにこの女丈夫に取入ツて卑屈を働く。固より根がお茶ツぴいゆゑ、其風には染まり易いか忽ちの中に見違へるほど容子が變り、何時しか隣家の娘とは疎々しくなツた。其後英學を始めてからは、惡足掻もまた一段で、襦袢がシヤツになれば唐人髷も束髮に化け、ハンケチで咽喉を緊め、鬱陶敷を耐へて眼鏡を掛け、獨よがりの人笑はせ、天晴一個のキヤツキヤとなり濟ました。然るに去年の暮、例の女丈夫は、教師に雇はれたとかで退塾した仕舞ひ、其手に屬したお茶ツぴい連も一人去り二人去りして殘少なになるにつけ、お勢も何となく我宿戀しく成ツたれど、正可さうとも言ひ難ねたが、漢學は荒方出來たと拵へて、退塾して宿所へ歸ツたは今年の春の暮、櫻の花の散る頃の事で。 既に記した如く文三の出京した頃は、お勢はまだ十二の蕾。巾の狹い帶を締めて、姉樣を荷厄介にしてゐたなれど、こましやくれた心から、 「彼の人はお前の御亭主さんに貰ツたのだよ。」 ト座興に言ツた言葉の露を實と汲んだか、初の内ははにかんでばかり居たが、子供の馴むは早いもので、間もなく菓子一つを二つに割ツて喰 お勢の落着いたに引替へ、文三は何かそはそはし出して、出勤して事務を執りながらも、お勢の事を思ひ續けに思ひ、退省の時刻を待佗びる。歸宅したとてもお勢の顏を見ればよし、さも無ければ落膽力拔けがする。「彼女に何したのぢやないのか知らぬ。」ト或時、我を疑ツて覺えずも顏を赧らめた。 お勢の歸宅した初より、自分には氣が付かぬでも文三の胸には蟲が生いた。なれども其頃はまだ小さく場取らず、胸に在ツても邪魔に成らぬ而已か、そのムズ/\と蠢動く時は世界中が一所に集る如く、又此世から極樂浄土へ往生する如く、又春の日に瓊葩綉葉の間、和氣香風の中に、臥榻を据ゑて其上に臥そべり、次第に遠ざかり往く虻の聲を聞きながら眠るでもなく眠らぬでもなく、唯ウト/\としてゐるが如く、何とも彼とも言樣なく愉快ツたが、蟲奴は何時の間にか太く逞しく成ツて、「何したのぢやアないか、」ト疑ツた頃には、既に「添ひ度いの蛇」といふ蛇に成ツて這廻ツてゐた……。寧ろ難面くされたならば食すべき「たのみ」の餌がないから、蛇奴も餓死に死んで仕舞ひもしようが、憖に卯の花くだし五月雨の、ふるでもなくふらぬでもなく、生殺しにされるだけに、蛇奴も苦しさに堪へ難ねて歟、のたうち廻ツて腸を噛斷る……。初の快さに引替へて、文三も今は苦敷なツて來たから、竊かに叔母の顏色を伺ツて見れば、氣の所爲か粹を通して、見ぬ風をしてゐるらしい。「若しさうなれば、最う叔母の許を受けたも同然…… チヨツ寧そ打附けに……」ト思ツた事は屡々有ツたが、イヤイヤ滅多な事を言出して、取着かれぬ返答をされては、ト思ひ直してヂツと意馬の絆を引緊め、藻に住む蟲の我から苦しんでゐた……。是からが肝腎要、囘を改めて伺ひませう。 第三囘 餘程風變りな戀の初峰入り 下今年の仲の夏、或る一夜、文三が散歩より歸ツて見れば、叔母のお政は夕暮より所用あツて出た儘未だ歸宅せず、下女のお鍋も入湯にでも參ツたものか、是も留守。唯お勢の子舎に而已光明が射してゐる。文三初は何心なく二階の梯子段を二段三段登ツたが、不圖立止まり、何か切りに考へながら、一段降りてまた立止まり、また考へてまた降りる。……俄に氣を取直して、將に再び二階へ登らんとする時、忽ちお勢の子舎の中に聲がして、 「誰方。」 トいふ。 「私。」 ト返答をして、文三は肩を縮める。 「オヤ、誰方かと思ツたら文さん。……淋敷ツてならないから、些とお噺しに入らツしやいな。」 「エ、多謝う。だが、最う些と後にしませう。」 「何歟御用が有るの。」 「イヤ、何も用はないが……。」 「それぢやア宜いぢやア有りませんか。ネー入らツしやいよ。」 文三は些し躊躇つて梯子段を降り果て、お勢の子舎の入口まで參りは參ツたが、中へとては立入らず、唯鵠立んでゐる。 「お這入ンなさいな。」 「エ、エー……。」 ト言ツた儘、文三は尚ほ鵠立んでモヂ/\してゐる。何歟這入り度くもあり這入り度くもなし、といつた樣な容子。 「何故貴君、今夜に限ツてそう遠慮なさるの。」 「デモ、貴孃お一人ツ切りぢやア……なんだか……。」 「オヤマア、貴君にも似合はない……アノ何時か、氣が弱くツちやア主義の實行は到底覺束ない、と仰しやツたのは何人だツけ。」 ト、
しんの首を斜に傾 「さう言はれちやア一言もないが、しかし……。」 「些とお遣ひなさいまし。」 ト、お勢は團扇を取出して文三に勸め、 「しかしどうしましたと。」 「エ、ナニサ、陰口がどうも五月蠅くツて。」 「それはネ。どうせ些とは何かと言ひますのサ。また何とか言ツたツて宜いぢやア有りませんか、若しお互に潔白なら。どうせ貴君、二千年來の習慣を破るんですものヲ、多少の艱苦は免れツこは有りませんワ。」 「トハ思つてゐるやうなものの、まさか陰口が耳に入ると厭なものサ。」 「夫はさうですよネー。此間もネ貴君、鍋が生意氣に可笑しな事を言つて私に嬲ふのですよ。夫からネ、私が餘り五月蠅くなツたから、到底解るまいとは思ひましたけれども、試みに男女交際論を説いて見たのですヨ。さうしたらネ、アノなんですツて、私の言葉には漢語が雜るから、全然何を言ツたのだか解りませんて……眞個に教育のないといふ者は、仕樣のないものですネー。」 「アハヽヽ其奴は大笑ひだ。……しかし可笑しく思ツてゐるのは、鍋ばかりぢやア有りますまい、必と母親さんも…。」 「母ですか、母はどうせ下等の人物ですから、始終可笑しな事を言つちやアからかひますのサ、其れでもネ、其たんびに私が辱しめ/\爲い爲いしたら、あれでも些とは恥ぢたと見えてネ、此頃ぢやア其樣に言はなくなりましたよ。」 「ヘー、からかふ。どんな事を仰しやツて。」 「アノーなんですツて、其樣に親しくする位なら、寧ろ貴君と……(すこしモヂ/\して [2]言ひかねて)結婚して仕舞へツて……。」 ト聞くと等しく文三は、駭然としてお勢の顏を見守める。されど此方は平氣の體で、 「ですがネ、教育のない者ばかりを責める譯にもゆきませんよネー、私の朋友なんぞは、教育の有ると言ふ程有りやしませんがネ、それでもマア普通の教育は享けてゐるんですよ。それでゐて貴君。西洋主義の解るものは廿五人の内に僅四人しかないの。その四人もネ、塾にゐるうちだけで、外へ出てからはネ、口程にもなく兩親に壓制せられて、みんなお嫁に往ツたりお婿を取ツたりして仕舞ひましたの。だから今まで此樣な事を言ツてるものは私ばツかりだとおもふと、何だか心細くツて/\なりません。でしたがネ、此頃は貴君といふ親友が出來たから、アノー大變氣丈夫になりましたワ。」 文三はチヨイと一禮して、 「お世辭にも嬉しい。」 「アラお世辭ぢやア有りませんよ、眞實ですよ。」 「眞實なら尚ほ嬉しいが、しかし私にやア貴孃と親友の交際は到底出來ない。」 「オヤ何故ですエ、何故親友の交際が出來ませんエ。」 「何故といへば、私には貴孃が解らず、また貴孃には私が解らないから、どうも親友の交際は……。」 「さうですか、それでも私には貴君はよく解ツてゐる積りですよ。貴君は學識が有ツて、品行が方正で、親に孝行で……。」 「だから貴孃には、私が解らないといふのです。貴孃は私を、親に孝行だと仰しやるけれども、孝行ぢやア有りません。私には……親より……大切な者があります……。」 ト、吃りながら言ツて、文三は差俯向いて仕舞ふ。お勢は不思議さうに文三の容子を眺めながら、 「親より大切な者……親より……大切な……者。親より大切な者は、私にも有りますワ。」 文三はうな垂れた頸を振揚げて、 「エ、貴孃にも有りますと。」 「ハア、有りますワ。」 「誰……誰れが。」 「人ぢやアないの。アノ眞理。」 「眞理。」 ト文三は慄然と胴震ひをして、脣を喰ひしめた儘、暫く無言。稍あツて俄に喟然として歎息して、 「アヽ貴孃は清淨なものだ、潔白なものだ。……親よりも大切なものは眞理……アヽ潔白なものだ。……しかし感情といふ者は實に妙なものだナ。人と愚にしたり、人を泣かせたり、笑はせたり、人をあへたり、揉んだりして玩弄する。玩弄されると薄々氣が附きながら、其れを制することが出來ない、アヽ自分ながら……。」 ト些し考へて、稍ありて熱氣となり、 「 ト些し聲をかすませて、 「なまじひ力におもふの、親友だのといはれて見れば、私は……どうも……どう有ツても思ひ……。」 「アラ月が。……まるで、竹の中から出るやうですよ。鳥渡御覽なさいよ。」 庭の一隅に栽込んだ、十竿ばかりの纖竹の葉を分けて出る月のすゞしさ。月夜見の神の力の測りなくて、斷雲一片の翳だもない蒼空一面にてりわたる清光素色、唯亭々皎々として雫も滴るばかり。初は隣家の隔ての竹垣に遮られて庭の半より這初め、中途は縁側へ上ツて座鋪へ這込み、稗蒔の水に流されては金瀲 えん、簷馬の玻璃に透りては玉玲瓏、坐賞の一に影を添へて、孤燈一穗の光を奪ひ、終に間の壁へ這上る。涼風一陣吹到る毎に、ませ籬によろぼひ懸る夕顏の影法師が婆娑として舞ひ出し、さては百合の葉末にすがる露の珠が、忽ち螢と成ツて飛迷ふ。艸花立樹の風に揉まれる音の、颯々とするにつれて、しばしは人の心も騒ぎ立つとも須臾にして風が吹罷めば、また四邊蕭然となつて、軒の下艸に喞く蟲の音のみ獨り高く聞ゆる。眼に見る景色はあはれに面白い。とはいへ、心に物ある兩人の者の眼には止まらず、唯お勢が口ばかりで、 「アヽ佳いこと。」 トいつて、何故ともなく莞然と笑ひ、仰向いて月に見惚れる風をする。其半面を文三が偸むが如く眺め遣れば、眼鼻口の美しさは常に變ツたこともないが、月の光を受けて些し蒼味を帶んだ瓜實顏にほつれ掛ツたいたづら髮二筋三筋、扇頭の微風に戰いで頬の邊を往來する所は慄然とするほど凄味が有る。暫く文三がシゲ/\と眺めてゐると、頓て凄味のある半面が次第々々に此方へ捻れて……パツチリとした涼しい眼がジロリと動き出して……見とれてゐた眼とピツタリ出逢ふ。螺の壺々口に莞然と含んだ微笑を細根大根に白魚を五本竝べたやうな手が持つてゐた團扇で隱蔽して、恥かしさうなこなし。文三の眼は俄に光り出す 「お勢さん。」 但し震聲で。 「ハイ。」 但し小聲で。 「お勢さん貴孃もあんまりだ、餘り……殘酷だ。私が是れ……是れ程までに……。」 トいひさして、文三は顏に手を宛てて默つて仕舞ふ。意を注めて能く見れば、壁に寫ツた影法師が、慄然とばかり震へてゐる。今一言……今一言の言葉の關を踰えれば、先は妹背山。蘆垣の間近き人を戀ひ初めてより、晝は終日、夜は終夜、唯其人の面影而已常に眼前にちらついて、砧に映る軒の月の拂ツてもまた去りかねてゐながら人の心を測りかねて、末摘花の色にも出さず、岩堰水の音にも立てず、獨りクヨ/\物をおもふ胸のうやもや、もだくだを、拂ふも拂はぬも、今一言の言葉の綾……今一言……僅一言……其一言をまだ言はぬ……折柄がら/\と表の格子戸の開く音がする。……吃驚して文三はお勢と顏を見合はせる。蹶然と起上る。轉げるやうに部屋を驅出る。但し其晩は是れ切りの事で、別段にお話なし。 翌朝に至りて、兩人の者は初て顏を見合はせる。文三はお勢よりも氣まりを惡るがツて口數をきかず。此夏の事務の鞅掌さ、暑中休暇も取れぬので匆々に出勤する。十二時頃に歸宅する。下座鋪で晝食を濟まして二階の居間へ戻り、「アヽ熱かツた」ト風を納れてゐる所へ、梯子パタ/\でお勢が上ツて參り、二つ三つ英語の不審を質問する。質問して仕舞へば最早用の無い筈だが、何かモヂ/\して交野の鶉を極めてゐる。頓て差俯向いた儘で鉛筆を玩弄にしながら、 「アノー、昨夜は貴君どうなすつたの。」 返答なし。 「何だか私が殘酷だツて、大變憤ツていらツしたが、何が殘酷ですの。」 ト笑顏を擡げて文三の顏を窺くと、文三は狼狽てて彼方を向いて仕舞ひ、 「大抵察してゐながら、其樣な事を。」 「アラ、それでも私にや何だか解りませんものヲ……。」 「解らなければ解らないでよう御座んす。」 「オヤ可笑しな。」 其から後は文三と差向ひになる毎に、お勢は例の事を種にして、乙う搦んだ水向け文句。やいの/\と責め立てて、終には「仰しやらぬとくすぐりますヨ、」とまで迫ツたが、石地藏と生れ付いたせうがには、情談のどさくさ紛れに、チヨツクリチヨイといツて除ける事の出來ない文三、然らばといふ口付からまづ重くろしく、折目正しく居ずまツて、しかつべらしく思ひのたけを言ひ出さうとすれば、お勢はツイと彼方を向いて、「アラ、鳶が飛んでますヨ、」と知らぬ顏の半兵衞模擬。さればといツて、手を引けばまた意あり氣な色目遣ひ。トかうじらされて文三は些とウロが來たが、兎も角も觸らば散らうといふ下心の、自ら素振に現はれるに、「ハヽア」と氣が附いて見れば、嬉しく有難く辱けなく、罪も報も忘れ果てて、命もトントいらぬ顏附。臍の下を住家として魂が何時の間にか有頂天外へ宿替をすれば靜には坐ツてもゐられず、ウロ/\坐鋪を徘徊いて、舌を吐いたり、肩を縮めたり、思ひ出し笑ひをしたり、又は變ぽうらいな手附をしたりなど、よろづに瘋癲じみるまで喜びは喜んだが、しかしお勢の前ではいつも四角四面に喰ひしばつて、猥褻がましい擧動はしない。最も曾てじやらくらが嵩じて、どやくやと成ツた時、今まで嬉しさうに笑ツてゐた文三が俄に兩眼を閉ぢて靜まり返り、何と言ツても口をきかぬので、お勢が笑ひながら、「そんなに眞面目にお成んなさると、かう爲るからいゝ、」とくすぐりに懸ツた。其の手頭を拂ひ除けて文三が熱氣となり、「アヽ我々の感情はまだ習慣の奴隸だ。お勢さん下へ降りて下さい。」といつた爲めに、お勢に憤られたこともあツたが、……しかし、お勢も日を經るまゝに草臥れたか、餘りじやらくらもしなくなつて、高笑ひを罷めて、靜かになツて、此頃では折々物思ひをするやうに成ツたが、文三に向ツては、ともすればぞんざいな言葉遣ひをする所を見れば、泣寢入りに寢入ツたのでもない光景。 アヽ偶々咲懸ツた戀の蕾も、事情といふ思はぬ沍にかじけて、可笑しくも葛藤れた縁の絲のすぢりもぢつた間柄。海へも附かず、河へも附かぬ中ぶらりん。月下翁の惡戯か、それにしても餘程風變りな戀の初峯入り。 文三の某省へ奉職したは、昨日今日のやうに思ふ間に、既に二年近くになる。年頃節儉の功が現はれて、此頃では些しは貯金も出來た事ゆゑ、老耋ツたお袋に何時までも一人住の不自由をさせて置くも不孝の沙汰。今年の暮には東京へ迎へて一家を成して、而して……と思ふ旨を半分報知せてやれば、母親は大悦び、文三にはお勢といふ心 「エ、寫眞ですか、寫眞は……私の所には有りません。先刻アノ何が……お勢さんが何です……持ツて往ツてお仕舞ひなすツた……。」 トいふ光景で、母親も叔父夫婦の者も、宛とする所は思ひ思ひながら、一樣に今年の晩れるを待侘びてゐる矢端、誰れの望みも、彼れの望みも、一ツにからげて背負ツて立つ文三が(話を第一囘に戻して)今日思懸けなくも……諭旨免職となツた。さても まはりあはせといふものは、是非のないもの。トサ、昔氣質の人ならば、言ふ所でも有らうか。 第四囘 言ふに言はれぬ胸の中さて其日も、漸く暮れるに間もない五時頃に成ツても、叔母もお勢も更に歸宅する光景も見えず、何時まで待ツても果てしのない事ゆゑ、文三は獨り夜食を濟まして、二階の縁端に端居しながら、身を丁字欄干に寄せかけて暮れ行く空を眺めてゐる。此時日は既に萬家の棟に沒しても尚ほ餘殘の影を留めて、西の半天を薄紅梅に染めた。顧みて東方の半天を眺むれば、淡然とあがツた水色、諦視めたら宵星の一つ二つは鑿り出せさうな空合。幽かに聞える傳通院の暮鐘の音に誘はれて、塒へ急ぐ夕鴉の聲が、彼處此處に聞えて喧ましい。既にして日はパツタリ暮れる。四邊はほの暗くなる。仰向いて瞻る蒼空には、餘殘の色も何時しか消え失せて、今は一面の青海原。星さへ處斑に燦き出でて、殆んど交睫をするやうな眞似をしてゐる。今しがたまで見えた隣家の前栽も、蒼然たる夜色に偸まれて、そよ吹く小夜嵐に、立樹の所在を知るほどの闇さ。デモ、土藏の白壁は、流石に白い丈けに見透かせば見透かされる。……サツと軒端近くに羽音がする。囘首ツて觀る。……何も眼に遮るものとてはなく、唯最う薄闇い而已。 心ない身も、秋の夕暮には哀を知るが習ひ。況て文三は絲目の切れた奴凧の身の上、其時々の風次第で、落着く先は籬の梅か、物干の竿か、見極めの附かぬ所が浮世とは言ひながら、父親が歿してから全十年、生死の海のうやつらやの高浪に、搖られ搖られて辛うじて泳出した官海も矢張波風の靜まる間がないことゆゑ、どうせ一度は捨小舟の寄邊ない身に成らうも知れぬと、兼て覺悟をして見ても、其處が凡夫のかなしさで、危に慣れて見れば苦にもならず、宛に成らぬ事を宛にして、文三は今年の暮にはお袋を引取ツて、チト老樂をさせずばなるまい、國へ歸ると言ツても、まさかに素手でも往かれまい、親類の所への土産は何にしよう。「ムキ」にしようか品物にしようかと、胸で彈いた算盤の桁は合ひながらも、兎角合ひかねるは人の身のつばめ、今まで見てゐた廬生の夢も一炊の間に覺め果てて、「アヽまた情ない身の上になツたかナア……。」 俄にパツと西の方が明くなツた。見懸けた夢を其儘に文三が振返ツて視遣る向うは隣家の二階。戸を繰り忘れたものか、まだ障子の儘で人影が射してゐる……。スルト其人影が見る間にムク/\と膨れ出して、好加減の怪物となる。パツと消失せて仕舞ツた跡は、まだ常闇。文三はホツと吐息を吻いて、顧みて我家の中庭を瞰下ろせば、處狹きまで植駢べた草花立樹なぞが、佗し氣に啼く蟲の音を包んで、黯黒の中からヌツと半身を挺出して、硝子張の障子を漏れる火影を受けてゐる所は、家内を覘ふ曲者かと怪まれる。……ザワ/\と庭の樹立を揉む夜風の餘りに顏を吹かれて文三は慄然と身震をして起揚り、居間へ這入ツて手探りで洋燈を點し、立膝の上に兩手を重ねて、何をともなく目守めた儘、暫くは唯茫然。……不圖手近に在ツた藥鑵の白湯を茶碗に汲取りて、一息にグツト飮乾し、肘を枕に横に倒れて天井に圓く映る洋燈の火影を見守めながら、莞爾と片頬に微笑を含んだが、開いた口が結ばツて前齒が姿を隱すに連れ、何處からともなくまた、愁の色が顏に顯はれて參ツた。 「それはさうと如何しようか知らん、到底言はずには置けん事たから、今夜にも歸ツたら、斷念ツて言ツて仕舞はうか知らん。嘸、叔母が厭な面をする事だらうナア……眼に見えるやうだ……。しかし其樣な事を苦にしてゐた分には埒が明かない、何にも是れが金錢を借りようといふのではなし、毫しも恥 ト、ブル/\と頭を左右へ打振る。 轟然と驅けて來た車の音が家の前でパツタリ止まる。ガラガラと格子が開く。ガヤ/\と人聲がする。ソリヤコソと、文三がまづ起直ツて、度胸をついた。兩手を杖に起たんとしてはまた坐り、坐らんとしてはまた起つ。腰の蝶番は滿足でも、胸の蝶番が、「言ツて仕舞はうか」、「言難いナ」と離れ%\に成ツてゐるから、急には起揚られぬ。……俄に蹶然と起揚ツて、梯子段の下口まで參ツたが、不圖立止り、些し躊躇ツてゐて「チヨツ言ツて仕舞はう。」と獨言を言ひながら急足に二階を降りて、奧座鋪へ立入る。奧座鋪の長手の火鉢の傍に年配四十恰好の年増、些し痩肉で、色が淺黒いが、小股の切上ツた、垢拔けのした、何處ともでんぼふ肌の、萎れてもまだ見處のある花。櫛卷とかいふものに髮を取上げて、小辨慶の絲織の袷衣と養老の浴衣とを重ねた奴を素肌に着て、黒繻子と八段 「ハイ只今、大層遲かツたらうネ。」 「全體今日は何方へ。」 「今日はネ、須賀町から三筋町へ廻らうと思ツて家を出たんだアネ。さうするとネ、須賀町へ往ツたら、ツイ近所に、あれは、エート、藝人……なんとか言ツたツけ、藝人……」 「親睦會。」 「それ/\、その親睦會が有るから一緒に往かうツてネ、お濱さんが勸めきるんサ。私は新富座か、二丁目なら兎も角も、其樣な珍木會とか、親睦會とかいふものなんざア、七里けツぱいだけれども、お勢……ウーイブー……お勢が往き度いといふもんだから、仕樣事なしのお交際で往ツて見たがネ、思ツたよりはサ、私はまた親睦會といふから、大方演じゆつ會のやうな種のもんかしらとおもツたら、なアに矢張品の好い寄席だネ。此度文さんも往ツて御覽な、木戸は五十錢だよ。」 「ハア然うですか、其れでは孰れまた。」 説話が些し斷絶れる。文三は肚の裏に「同じ言ふのなら、お勢の居ない時だ。チヨツ、今言ツて仕舞はう。」ト思ひ決めて、今將に口を開かんとする。……折しも縁側にバタバタと跫音がして、スラリと背後の障子が開く。振反ツて見れば……お勢で、年は鬼もといふ十八の娘盛り、瓜實顏で富士額、生死を含む眼元の鹽にピンとはねた眉で力味を付け、壺々口の緊笑ひにも愛嬌をくくんで無暗には滴さぬほどのさび。脊はスラリとして、風に搖めく女郎花の、一時をくねる細腰もしんなりとしてなよやか。慾には最うすこし、生際と襟足とを善くして貰ひ度いが、何にしても七難を隱すといふ雪白の羽二重肌。淺黒い親には似ぬ鬼子でない天人娘、艶やかな黒髮を惜氣もなく、グツと引詰めての束髮。薔薇の花插頭を插したばかりで、臙脂も嘗めねば鉛華も施けず、衣服とても絲織の袷衣に、友禪と紫繻子の腹合せの帶か何かで、さして取繕ひもせぬが、故 お勢と顏を見合はせると、文三は不思議にもガラリと氣が變ツて、咽元まで込み上げた免職の二字を鵜呑みにして何喰はぬ顏色、肚の裏で「最うすこし經ツてから。」 「母親さん、咽が涸いていけないから、お茶を一杯入れて下さいナ。」 「アイヨ。」 トいツてお政は茶箪笥を覗き、 「オヤ/\、茶碗が皆汚れてる……鍋。」 ト呼ばれて出て來た者を見れば、例の日の丸の紋を染拔いた首の持主で、空嘯いた鼻の端に突出された汚穢物を受取り、振榮えのあるお尻を振立てて却退る。軈て洗ツて持ツて來る、茶を入れる、サア其れからが、今日聞いて來た歌曲の噂で、母子二つの口が結ばる暇なし。免職の事を吹聽し度くも、言出す潮がないので、文三は餘儀なく聽き度くもない咄を聞いて、空しく時刻を移す内、説話は漸くに清元、長唄の優劣論に移る。 「母親さんは、自分が清元が出來るもんだから、其樣な事をお言ひだけれども、長唄の方が好いサ。」 「長唄も岡安ならまんざらでもないけれども、松永は唯つツこむばかりで、面白くもなんとも有りやアしない。それよりか清元の事サ、どうも意氣でいゝワ……四谷で初て逢うた時、すいたらしいと思うたが、因果な縁の絲車。」 ト中音で口癖の清元を唄ツて、ケロリとして、 「いゝワ。」 「其通り、品格がないから嫌ひ。」 「また始まツた。ヘン、跳馬ぢやアあるまいし、番毎に品々も五月蠅い。」 「だツて、人間は品格が第一ですワ。」 「ヘン、そんなにお人柄なら、 [4] 煮込みのおでんなんぞを喰べ度いと言はないがいゝ。」 「オヤ 何時、私がそんな事を言ひました。」 「はい、一昨日の晩いひました。」 「嘘ばツかし。」 トは言ツたが、大いにへこんだので大笑ひとなる。不圖お政は、文三の方を振向いて、 「アノ、今日出懸けに母親さんの所から郵便が着いたツけが、お落掌か。」 「ア、眞に然うでしたツけ、薩張忘却れてゐました。……エー母からも、此度は別段に手紙を差上げませんが、宜しく申上げろと申すことで。」 「ハアさうですか、其れは。それでも母親さんは、何時もお異ンなすツたことも無くツて。」 「ハイ、お蔭さまと丈夫ださうで。」 「それはマア、何よりの事だ。嘸、今年の暮を樂しみにして、およこしなすツたらうネ。」 「ハイ、指ばかり屈ツて居ると申してよこしました……。」 「さうだらうてネ。可愛い息子さんの側へ來るんだものヲ。それをネー、何處かの人みたやうに、親を馬鹿にしてサ。一口いふ二口目には、直に揚足を取るやうだと義理にも可愛いと言はれないけれど、文さんは親思ひだから、母親さんの戀しいのも亦一倍サ。」 トお勢を尻目にかけて、からみ文句で宛る。お勢はまた始まツた、といふ顏色をして彼方を向いて仕舞ふ。文三は餘儀なささうに、エヘヽ笑ひをする。 「それから、アノー、例の事ネ、あの事をまた、何とか言ツてお遣しなすツたかい。」 「ハイ、また言ツてよこしました。」 「なんてツてネ。」 「ソノー、氣心が解らんから厭だといふなら、エー、今年の暮、歸省した時に、逢ツてよく氣心を洞察いた上で極めたら好からう、といツて遣しましたが、しかし……。」 「なに、母親さん。」 「エ、ナニサ、アノ、ソラお前にも此間話したアネ、文さんの……。」 お勢は獨り切りに點頭く。 「ヘー。其樣な事を言ツておよこしなすツたかい、ヘー、然うかい……それに附けても、早く内で歸ツて來れば好いが……イエネ、此間もお咄し申した通り、お前さんのお嫁の事に付いちやア、内でも些と考へてる事も有るんだから……尤も私も聞いて知ツてる事だから、今咄して仕舞ツてもいゝけれども……。」 ト些し考へて、 「何時返事をお出しだ。」 「返事は最う出しました。」 「エ。モー出したの。今日。」 「ハイ。」 「オヤマア文さんでもない。私になんとか、一言咄してから、お出しならいゝのに。」 「 「それはマア兎も角も、何と言ツてお上げだ。」 「エー、今は仲々婚姻どころぢやアないから……。」 「アラ、其樣な事を云ツてお上げぢやア、母親さんが尚ほ心配なさらアネ。それよりか……。」 「イエ、まだお [5]咄し申さぬから何ですが……。」 「マアサ、私の言ふ事をお聞きよ。それよりかアノ、叔父も何だか考へがあるといふから、いづれ篤りと相談した上でとか、そもなきやア此地に心當りがあるから……。」 「母親さん、其樣な事を仰しやるけれど、文さんは此地に何か心當りがお有んなさるの。」 「マアサ、有ツても無くツても、さう言ツてお上げだと、母親さんが安心なさらアネ……イエネ、親の身に成ツて見なくツちやア解らぬ事だけれども、子供一人身を固めさせようといふのは、どんなに苦勞なもんだらう。だから、お勢みたやうな如此な親不孝な者でも、さう何時までもお懷中で遊ばせても置けないと思ふと、私は苦勞で/\ならないから、此間も私がネ、『お前も最う押付けお嫁に往かなくツちやアならないんだから、ソノー、なんだとネー、何時までも其樣なに子供の樣な心持でゐちやアなりませんと、それも母親さんのやうに此樣な氣樂な家へ、お嫁に往かれりやア兎も角もネー、若しヒヨツと先に姑でもある處へ往ツて御覽、なか/\此樣なに、我儘氣儘をしちやアゐられないから、今の内に些と、覺悟をして置かなくツちやアなりませんよ。』と、私が、先へ寄ツて苦勞させるのが可憐さうだから、爲をおもツて言ツて遣りやアネ、文さん、マア聞いてお呉れ、斯うだ。『ハイ、私にやア私の了簡が有ります、ハイ、お嫁に往かうと往くまいと私の勝手で御座います。』といふんだよ。それからネ、私が、『オヤ、其れぢやアお前はお嫁に往かない氣かエ。』と聞いたらネ、『ハイ、私は生一本で通しますツて……』マア、呆れかへるぢやアないかネー、文さん。何處の國に、お前、尼ぢやあるまいし、亭主持たずに一生暮すものが有る者かネ。」 是は萬更形のないお噺でもない。四五日前、何かの小言序に、お政が尖り聲で、「ほんとにサ、戯談ぢやアない、何歳になるとお思ひだ。十八ぢやアないか。十八にも成ツてサ。好頃嫁にでも往かうといふ身でゐながら、なんぼなんだツて、餘り勘辨がなさすぎらア。アヽ/\早く嫁にでも遣り度い。嫁に往ツて、小喧しい姑でも持ツたら、些たア親の難有味が解るだらう。」と言ツたのが原因で、些ばかりいぢり合をした事が有ツたが、お政の言ツたのは全く其作替で。 「トいふが畢竟るとこ、是れが晩熟だからの事サ。私共がこの位の時分にやア、チヨイとお洒落をしてサ、小色の一ツも かせいだもんだけれども……。」 「また猥褻。」 トお勢は顏を顰める。 「オホヽヽヽヽ、ほんとにサ。仲々小惡戯をしたもんだけれども、此娘はヅー體ばかり大きくツても、一向しきなお懷中だもんだから、それで何時まで經ツても、世話ばツかり燒けてなりアしないんだよ。」 「だから母親さんは厭よ、些とばかりお酒に醉ふと、直に親子の差合ひもなく、其樣な事をお言ひだものヲ。」 「ヘー/\、恐れ煎豆はじけ豆ツ。あべこべに御意見か。ヘン、親の謗はしりよりか、些と自分の頭の蠅でも逐ふがいゝや、面白くもない。」 「エヘヽヽヽヽ。」 「イエネ、此通り親を馬鹿にしてゐて、何を言ツても、迚も、私共の言ふ事を用ひるやうな、そんな素直なお孃さまぢやアないんだから、此度文さん、ヨーク腹に落ちるやうに、言ツて聞かせてお呉んなさい。これでもお前さんの言ふ事なら、些たア聞くかも知れないから。」 トお政は又もお勢を尻目に懸ける。折しも紙襖一ツ隔てて、お鍋の聲として、 「あんな帶留……どめ……を。」 此方の三人は、吃驚して顏を見合はせ、「オヤ、鍋の寢言だよ。」と果ては大笑ひになる。お政は仰向いて柱時計を眺め、 「オヤ、最う十一時になるよ、鍋の寢言を言ふのも無理はない。サア/\、寢ませう/\、あんまり夜深しをすると、また翌日の朝がつらい。それぢやア文さん、先刻の事はいづれまた、翌日にも緩り咄しませう。」 「ハイ私も……私も是非、お咄し申さなければならん事が有りますが、いづれまた明日……それではお休み。」 ト挨拶をして、文三は座鋪を立出で、梯子段の下まで來ると、後より、 「文さん、貴君の處に今日の新聞が有りますか。」 「ハイ有ります。」 「最うお讀みなすツたの。」 「讀みました。」 「それぢやア拜借。」 トお勢は、文三の跡に從いて二階へ上る。文三が机上に載せた新聞を取ツて、お勢に渡すと、 「文さん。」 「エ。」 返答はせずして、お勢は唯笑ツてゐる。 「何です。」 「何時か頂戴した寫眞を、今夜だけお返し申しませうか。」 「何故。」 「それでも、お淋敷からうとおもツて、オホヽヽ。」 ト笑ひながら、逃ぐるが如く二階を驅下りる。そのお勢の後姿を見送ツて、文三は吻と溜息を吐いて、 「ます/\言難い。」 一時間程を經て、文三は漸く寢支度をして褥へは這入ツたが、さて眠られぬ儘に、過去將來を思ひ囘らせば囘らすほど、尚ほ氣が冴えて眼も合はず。是ではならぬと氣を取直し、緊敷兩眼を閉ぢて、眠入ツた風をして見ても、自ら欺くことも出來ず、餘儀なく寢返りを打ち、溜息を吻きながら、眠らずして夢を見てゐる内に、一番鷄が唱ひ、二番鷄が唱ひ、漸く曉近くなる。「寧そ今夜は此儘で。」トおもふ頃に、漸く眼がしよぼついて來て、頭が亂れだして、今迄眼面に隱見いてゐた母親の白髮首に疎らな黒髭が生えて……課長の首になる。そのまた恐らしい髭首が、暫くの間、眼まぐろしく水車の如くに廻轉ツてゐる内に、次第々々に小さく成ツて、……軈て相好が變ツて……何時の間にか薔薇の花插頭を插して……お勢の……首……に……な……。 第五囘 胸算違ひから見一無法な難題枕頭で喚覺ます下女の聲に、見果てぬ夢を驚かされて、文三が狼狽へた顏を振揚げて向うを見れば、はや障子には朝日影が斜に射してゐる。「ヤレ寢過したか……。」と思ふ間もなく、引續いてムク/\と浮み上ツた「免職」の二字で狹い胸がまづ塞がる……。 おんばこを振掛けられた死蟇の身で躍り上り、衣服を更めて夜の物を揚げあへず、楊枝を口へ頬張り、古手拭を前帶に插んで周章てて、二階を降りる。其跫音を聞きつけてか、奧の間で「文さん疾く爲ないと遲くなるよ。」トいふお政の聲は圭角はないが、文三の胸にはギツクリ應へて、返答に迷惑く。そこで頬張ツてゐた楊枝を是れ幸ひと、我にも解らぬ出鱈目を口籠勝に言ツてまづ一寸逃れ、 [6] 匆々に顏を洗ツて朝飯の膳に向ツたが、胸のみ塞がツて箸の歩みも止まりがち、三膳の飯を二膳で濟まして、何時もならグツと突き出す膳も、ソツと片寄せるほどの心遣ひ。身體まで俄に小さくなツたやうに思はれる。 文三が食事を濟まして縁側を廻り、竊かに奧の間を覗いて見れば、お政ばかりでお勢の姿は見えぬ。お勢は近屬、早朝より駿河臺邊へ英語の稽古に參るやうになツたことゆゑ、偖は今日も最う出かけたのかと、恐る/\座鋪へ這入ツて來る。その文三の顏を見て、今まで火鉢の琢磨をしてゐたお政が、俄に光澤布巾の手を止めて、不思議さうな顏をしたも其筈。此時の文三の顏色がツイ一通の顏色でない。蒼ざめてゐて力なささうで、悲しさうで、恨めしさうで、恥かしさうで、イヤハヤ何とも言樣がない。 「文さん、どうかお爲か、大變顏色がわりいよ。」 「イエ、如何も爲ませぬが……。」 「其れぢやア疾くお爲よ、ソレ御覽な、モウ八時にならアネ。」 「エー、まだお話し……申しませんでしたが……實は、さくじつ……め……め……。」 息氣はつまる、冷汗は流れる、顏は赧くなる、如何にしても言切れぬ。暫く無言でゐて、更に出直して、 「ム、めん職になりました。」 ト一思ひに言放ツて、ハツと差俯向いて仕舞ふ。聞くと等しく、お政は手に持ツてゐた光澤布巾を宙に釣るして、 「オヤ」と、一聲叫んで身を反らした儘一句も出でばこそ、暫くは唯茫然として文三の貌を見守めてゐたが、稍あツて忙はしく布巾を擲却り出して、小膝を進ませ、 「エ、御免にお成りだとエ……オヤマア、どうしてマア。」 「ど、ど、如何してだか……私にも解りませんが、……大方……ひ、人減らしで……。」 「オーヤ/\、仕樣がないネー、マア御免になツてサ。ほんとに仕樣がないネー。」と落膽した容子。須臾あツて、 「マアそれはさうと、是からは如何して往く積りだエ。」 「どうも仕樣が有りませんから、母親には最う些し國に居て貰ツて、私はまた官員の口でも探さうかと思ひます。」 「官員の口てツたツて、チヨツクラチヨイと有りやアよし、無からうもんなら、また何時かのやうな、憂い思ひをしなくツちやアならないやアネ……。だから私が言はない事ちやアないんだ、些イと課長さんの處へも御機嫌伺ひにお出でお出でと、口の酸ぱくなるほど言ツても、強情張ツてお出ででなかツたもんだから、其れで此樣な事になツたんだよ。」 「まさか然ういふ譯でもありますまいが……。」 「いゝえ、必とさうに違ひないよ。でなくツて、成程人減らしだツて、罪も咎もない者をさう無暗に御免になさる筈がないやアネ……。それとも何歟、御免になツても仕樣がないやうな、わるい事をした覺えがお有りか。」 「イエ、何にも惡い事をした覺えは有りませんが……。」 「ソレ御覽なネ。」 兩人とも暫く無言。 「アノ本田さんは(此男の事は第六囘に委曲しく)どうだツたエ。」 「彼の男はよう御座んした。」 「オヤ善かツたかい。さうかい。運の善い方は何方へ廻つても善いんだネー、其れといふが、全體あの方は如才がなくツて、發明で、ハキ/\してお出でなさるからだよ。それに聞けば課長さんの處へも、常不斷御機嫌伺ひにお出でなさるといふ事だから、必と其れで今度も善かツたのに違ひないよ。だから、お前さんも、私の言ふ事を聞いて、課長さんに取入ツて置きやア、今度も矢張善かツたのかも知れないけれども、人の言ふ事をお聞きでなかツたもんだから、其れで此樣な事になツちまツたんだ。」 「それはさうかも知れませんが、しかし、幾程免職になるのが恐いと言ツて、私にはそんな卑劣な事は……。」 「出來ないとお言ひのか……。フン、瘠我慢をお言ひでない、そんな了簡方だから、課長さんにも睨められたんだ。マア、ヨーク考へて御覽。本田さんのやうな、彼樣な方でさへ御免なツてはならないと思ひなさるもんだから、手間暇かいて、課長さんに取入らうとなさるんぢやアないか。まして、お前さんなんざア、さう言ツちやアなんだけれども、本田さんから見りやア……なんだから、尚更の事だ。それもネー、是れがお前さん一人の事なら、風見の烏みたやうに、高くばツかり止まツて、食ふや食はずにゐようと居まいと、そりやア最う、如何なりと御勝手次第さ。けれども、お前さんには、母親さんといふものが有るぢやアないかエ。」 母親と聞いて、文三の萎れ返るを見て、お政は好い責道具を視付けたといふ顏付。長羅宇の烟管で席を叩くをキツカケに、 「イエサ、母親さんが、お可哀さうぢやアないかエ。マア篤り、胸に手を宛てて考へて御覽。母親さんだツて、父親さんには早くお別れなさるし、今ぢや便りにするなア、お前さんばツかりだから、如何樣にか心細いか知れない。なにも彼して、お國で一人暮しの不自由な思ひをしてお出でなさり度くもあるまいけれども、それも、是れも、皆お前さんの立身するばツかりを樂みにして、辛抱してお出でなさるんだよ。そこを些しでも汲分けてお出でなら、假令どんな辛いと思ふ事が有ツても、厭だと思ふ事があツても、我慢をしてサ、石に噛付いても出世をしなくツちやアならないと、心懸けなければならない所だ。それをお前さんのやうに、ヤ、人の機嫌を取るのは厭だの、ヤ、そんな卑劣な事は出來ないのと、其樣な我儘氣儘を言ツて、母親さんまで路頭に迷はしちやア、今日冥利がわりいぢやないか。それやア、モウ、お前さんは自分の勝手で、苦勞するんだから、關ふまいけれども、其れぢやア母親さんがお可哀さうぢやないかい。」 ト層にかゝツて極付けれど、文三は差俯向いた儘で返答をしない。 「アヽ/\、母親さんも彼樣に、今年の暮を樂みにしてお出でなさる處だから、今度御免にお成りだとお聞きなすツたら、嘸、マア、落膽なさる事だらうが、年を寄ツて御苦勞なさるのを見ると、眞個にお痛はしいやうだ。」 「實に母親には面目が御座んせん。」 「當然サ、二十三にも成ツて、母親さん一人さへ樂に養す事が出來ないんだものヲ、フヽン、面目が無くツてサ。」 ト、ツンと濟まして空嘯き、烟草を環に吹いてゐる。其のお政の半面を、文三は畏らしい顏をして佶と睨付け、何事をか言はんとしたが……氣を取り直して、莞爾微笑した積りでも顏へ顯はれた所は苦笑ひ。震聲とも附かず、笑聲とも附かぬ聲で、 「ヘヽヽ面目は御座んせんが、しかし……出……出來た事なら……仕樣が有りません。」 「何だとエ。」 トいひながら、徐かに此方を振向いたお政の顏を見れば、何時しか額に芋 むしほどの青筋を張らせ、癇癪の眥を釣上げて、唇をヒン曲げてゐる。 「イエサ、何とお言ひだ。出來た事なら仕樣が有りませんと……。誰れが出來した事たエ、誰れが御免になるやうに仕向けたんだエ、みな自分の頑固から起ツた事ぢやアないか。其れも傍で氣を附けぬ事か、さんざツぱら、人に世話を燒かして置いて、今更御免になりながら面目ないとも思はないで、出來た事なら仕樣が有りませんとは、何の事たエ。それはお前さんあんまりといふもんだ。餘り人を踏付けにすると言ふもんだ。全體マア、人を何だと思つてお出でだ。そりやア、お前さんの事だから、鬼老婆とか、糞老婆とか言ツて、他人にしてお出でかも知れないが、私ア何處までも叔母の積りだよ。ナアニ、是が他人で見るがいゝ、お前さんが御免になツたツて成らなくツたツて、此方にやア痛くも痒くも何とも無い事だから、何で世話を燒くもんですか。けれども、血は繋らずとも、縁あつて叔母となり、甥となりして見れば、然うしたもんぢやア有りません。ましてお前さんは、十四の春ポツと出の山出しの時から長の年月此私が婦人の手一つで頭から足の爪頭までの事を世話アしたから、私にはお前さんを、御迷惑かは知らないが、血を分けた息子同樣に思ツてます。あゝやツてお勢や勇といふ子供が有ツても、些しも陰陽なくしてゐる事が、お前さんにやア解らないかエ。今までだツても然うだ、何卒マア、文さんも首尾よく立身して、早く母親さんを此地へお呼び申すやうにして上げ度いもんだと思はない事は唯の一日も有りません。そんなに思ツてる所だものを、お前さんが御免にお成りだと聞いちやア私は愉快はしないよ。愉快はしないから、アヽ困ツた事に成ツたと思ツて、ヤレ是れからはどうして往く積りだ、ヤレお前さんの身になツたら嘸、母親さんに面目があるまいと、人事にしないで歎いたり、悔んだりして心配してる所だから、全體なら、叔母さんの了簡に就かなくツて、かう御免になツて實に面目が有りません、とか何とか、詫言の一言でも言ふ筈の所だけれど、それも言はないでもよし、聞き度くもないが、人の言ふ事を取上げなくツて御免になりながら、糞落着に落着拂つて、出來た事なら仕樣が有りませんとは、何の事たエ。 [7]マ 何處を押せば其樣な音が出ます……。アヽ/\つまらない心配をした、此方ではどこまでも實の甥と思ツて、心を附けたり、世話を燒いたりして、親切を盡してゐても、先樣ぢや屁とも思召さない。」 「イヤ決して、然う言ふ譯ぢやア有りませんが、御存知の通り、口不調法なので、心には存じながら、ツイ……。」 「イヽエ、其樣な言譯は聞きません。なんでも私を他人にしてお出でに違ひない、糞老婆と思ツてお出でに違ひない……。此方はそんな不實な心意氣の人と知らないから、文さん何時までも彼やつて一人でもゐられまいから、來年母親さんがお出でなすツたら、篤り御相談申して、誰れと言ツて宛もないけれども、相應なのが有ツたら一人授け度いもんだ。夫にしても外人と違ツて、文さんがお嫁をお貰ひの事だから默ツてもゐられない。何かしら祝つて上げなくツちやアなるまいからツて、此頃ぢやア、アノ、博多の帶をくけ直さして、コノお召縮緬の小袖を仕立直さして、あれをかうして、是れをかうしてと、毎日々々考へてばツかりゐたんだ。さうしたら案外で、御免になるもいゝけれども、面目ないとも思はないで、出來た事なら仕樣が有りませぬと、濟まアしてお出でなさる。……アヽ/\、最ういふまいいふまい、幾程言ツても他人にしてお出でぢやア無駄だ。」 ト厭味文句を竝べて始終癇癪の思入、暫く有ツて、 「それもさうだが、全體其位なら、昨夕の中に、實は是々で御免になりましたと、一言位言ツたツてよささうなもんだ。お話しでないもんだから、此方は其樣な事とは夢にも知らず、お辨當のお菜も毎日おんなじものばツかりでもお倦きだらう、アヽして勉強してお勤にお出での事だから、其位の事は、此方で氣を附けて上げなくツちやアならないと思ツて、今日のお辨當のお菜は、玉子燒にして上げようと思ツても鍋には出來ず、餘儀處ないから、私が面倒な思ひをして、拵へて附けましたアネ。……アヽ/\偶に人が氣を利かせれば、此樣な事た。……しかし、飛んだ餘計なお世話でしたよネー。誰れも頼みもしないのに、鍋……。」 「ハイ。」 「文さんのお辨當は打開けてお仕舞ひ。」 お鍋女郎は、襖の彼方から横巾の廣い顏を差出して、「ヘー」ト、モツケな顏付。 「アノネ、内の文さんは、昨日御免にお成りだツサ。」 「へーそれは。」 「どうしても働きのある人は、フヽン、違ツたもんだよ。」 ト半まで言切らぬ内、文三は血相を變へて突と身を起し、ツカ/\と座鋪を立出でて我子舎へ戻り、机の前にブツ坐ツて、齒を噛切ツての悔涙、ハラ/\と膝へ零した。暫く有ツて文三は、はふり落ちる涙の雨を、ハンカチーフで拭止めた……が、さて、拭ツても取れないのは、沸返る胸のムシヤクシヤ。熟々と思廻らせば廻らすほど、悔しくも、又、口惜しくなる。免職と聞くより早く、ガラリと變る人の心のさもしさは、道理らしい愚癡の蓋で、隱蔽さうとしても看透かされる。とはいへ、其れは、忍ばうと思へば忍びもならうが、面のあたりに、意氣地なしと言はぬばかりのからみ文句。人を見括ツた一言ばかりは、如何にしても腹に据ゑかねる。何故意氣地がないとて叔母があヽ嘲り辱めたか、其處まで思ひ廻らす暇がない。唯最う腸が斷れるばかりに悔しく、口惜しく、恨めしく、腹立たしい。文三は憤然として、「ヨシ先が其氣なら、此方も其氣だ、畢竟姨と思へばこそ、甥と思へばこそ、言度い放題をも言はして置くのだ。ナニ縁を斷ツて仕舞へば赤の他人、他人に遠慮も絲瓜も入らぬ事だ……。糞ツ、面當半分に下宿をして呉れよう……。」ト腹の裏で獨言をいふと、不思議やお勢の姿が目前にちらつく。「ハテさうしては、彼娘が……」ト文三は少し萎れたが、……不圖、又叔母の惡々しい者面を憶出して、又憤然となり、「糞ツ、止めても止まらぬぞ、」ト何時にない斷念のよさ。かう腹を定めて見ると、サアモウ、一刻も居るのが厭になる、借住居かとおもへば、子舎が氣に喰はなくなる。我物でないかと思へば、縁の缺けた火入まで氣色に障る。時計を見れば早十一時、今から荷物を取旁付けて、是非とも今日中には下宿を爲よう、と思へば心までいそがれ、「糞ツ、止めても止まらぬぞ、」と口癖のやうに言ひながら、焦氣となツて其處らを取旁付けにかゝり、何か探さうとして机の抽出を開け、中に納れてあツた年頃五十の上をゆく白髮たる老婦の寫眞にフト眼を注めて、我にもなく熟々と眺め入ツた。是れは老母の寫眞で。御存知の通り、文三は生得の親おもひ、母親の寫眞を視て我が辛苦を嘗め艱難を忍び [8]なから、定めない浮世に存生へてゐたのは、自分一人の爲而已でない事を想出し、我と我を叱りもし又勵ましもする事何時も/\。今も今母親の寫眞を見て、文三は日頃喰付けの感情をおこし、覺えずも悄然と萎れ返ツたが、又惡々敷い叔母の者面を憶出して又焦氣となり、拳を握り齒を喰切り、「糞ツ、止めても止まらぬぞ、」ト獨言を言ひながら、再び將に取旁付に懸らんとすると、二階の上り口で、「お飯で御座いますよ、」ト下女の呼ぶ聲がする。故らに二三度呼ばして返事にも勿體をつけ、しぶ/\二階を降りて、氣六ケ敷い、苦り切ツた怖ろしい顏色をして奧座鋪の障子を開けると……お勢がゐる。お勢が……。今まで殘念口惜しいと而已一途に思詰めてゐた事ゆゑ、お勢の事は思出したばかりで心にも止めず、忘れるともなく忘れてゐたが、今突然、可愛らしい眼と眼を看合はせ、しをらしい口元で嫣然笑はれて見ると……淡雪の日の目に逢ツて解けるが如く胸の鬱結も解けて、ムシヤクシヤも消え消えになり、今迄の我を怪しむばかりの心の變動、心底に沈んでゐた嬉しみ、難有みが、思ひ懸けなくも、ニツコリ、顏へ浮み出し懸ツた……が、グツと飲込んで仕舞ひ、心では笑ひながら、顏では懣てて膳に向ツた。さて食事も濟む。二階へ立戻ツて、文三が再び取旁付に懸らうとして見たが、何となく拍子拔けがして、以前のやうな氣力が出ない。ソツと小聲で「大丈夫、」ト言ツて見たが、どうも氣が引立たぬ。依て更に出直して、「大丈夫、」と焦氣とした風をして見て、齒を喰切ツて見て、「一旦思ひ定めた事を變がへるといふ事が有るものか。……知らん、止めても止まらんぞ。」 ト言ツて、出て往けば、彼娘を捨てなければならぬか、ト落膽したおもむき。今更未練が出てお勢を捨てるなどといふ事は勿體なくて出來ず。ト言ツて、叔母に詫言を言ふも無念。あれも厭なり、是れも厭なりで、思案の絲筋が縺れ出し、肚の裏では上を下へとゴツタ返すが、此時より既にどうやら人が止めずとも、遂には我から止まりさうな心地がせられた。「マア兎も角も、」と取旁付に懸りは懸ツたが考へながらするので思の外暇取り、二時頃までかゝツて漸く旁付け終り、ホツと一息吐いてゐると、ミシリミシリと梯子段を登る人の跫音がする。跫音を聞いたばかりで、姿を見 「オヤ、大變旁付いたこと。」 「餘りヒツ散らかツてゐたから。」 ト我知らず言ツて、文三は我を怪んだ。何故虚言を言ツたか、自分にも解りかねる。お勢は座に着きながら、さして吃驚した樣子もなく、 「アノ今母親さんがお噺しだツたが、文さん、免職におなりなすツたとネ。」 「昨日、免職になりました。」 ト文三も今朝とはうツて反ツて、今は其處どころで無い、と言ツたやうな顏付。 「實に面目は有りませんが、しかし幾程悔んでも出來た事は仕樣が無いと思ツて、今朝母親さんに御風聽申したが……叱られました。」 トいツて、齒を噛切ツて差俯向く。 「さうでしたとネー、だけれども……。」 「二十三にも成ツて、親一人樂に過す事の出來ない意氣地なし、と言はないばかりに仰しやツた。」 「然うでしたとネー、だけれども……。」 「成程私は意氣地なしだ。意氣地なしに違ひないが、しかし、なんぼ叔母甥の間柄だと言ツて、面と向ツて意氣地なしだ、と言はれては腹も立たないが、餘り……。」 「だけれども、あれは母親さんの方が不條理ですワ。今もネ、母親さんが得意になツてお話しだツたから、私が議論したのですよ。議論したけれども、母親さんには私の言ふ事が解らないと見えてネ、唯腹ばツかり立ててゐるのだから、教育の無い者は仕樣がないのネー。」 ト極り文句。文三は垂れてゐた頭をフツと振擧げて、 「エ、母親さんと議論を成すツた。」 「ハア。」 「僕の爲めに。」 「ハア、君の爲めに辯護したの。」 「アヽ。」 ト言ツて、文三は差俯向いて仕舞ふ。何だか膝の上へ、ボツタリ零ちた物が有る。 「どうかしたの、文さん。」 トいはれて、文三は漸く頭を擡げ、莞爾笑ひ、其癖 まぶちを濕ませながら、 「どうもしないが……實に……實に嬉しい。……母親さんの仰しやる通り、二十三にも成ツて、お袋一人さへ過しかねる、其樣な腑甲斐ない私をかばツて、母親さんと議論をなすツたと。實に……。」 「條理を説いても解らない癖に、腹ばかり立ててゐるから、仕樣がないの。」 ト少し得意の體。 「アヽそれ程までに私を……思ツて下さるとは知らずして、貴孃に向ツて匿立てをしたのが今更恥かしい。アヽ恥かしい。モウかうなれば、打敗けてお話して仕舞はう。實は是れから、下宿をしようかと思ツてゐました。」 「下宿を。」 「サ、爲ようかと思ツてゐたんだが、しかし、最う出來ない。他人同樣の私をかばツて、實の母親さんと議論をなすツた、その貴孃の御親切を聞いちや、しろと仰しやツても、最う出來ない。……が、さうすると、母親さんにお詫を申さなければならないが……。」 「打遣ツてお置きなさいよ。あんな教育の無い者が、何と言ツたツて好う御座んさアネ。」 「イヤさうでない、其れでは濟まない。是非お詫を申さうが、併し、お勢さん、お志は嬉しいが、最う母親さんと議論をすることは罷めて下さい。私の爲めに貴孃を不孝の子にしては濟まないから。」 「お勢。」 ト下座舖の方で、お政の呼ぶ聲がする。 「ア、母親さんが呼んでお出でなさる。」 「ナアエ、用も何も有るんぢやアないの。」 「お勢。」 「マア、返事を爲さいよ。」 「お勢/\。」 「ハアイ。……チヨツ五月蠅いこと。」 ト起上る。 「今話した事は皆母親さんにはコレですよ。」 ト文三が手首を振ツて見せる。お勢は唯點頭いた而已で言葉はなく、二階を降りて奧座舖へ參ツた。 先程より癇癪の眥を釣り上げて、手藥煉引いて待ツてゐた母親のお政は、お勢の顏を見るより早く、込上げて來る小言を、一時にさらけ出しての大怒鳴。 「お……お……お勢、あれ程呼ぶのがお前には聞えなかツたかエ。聾者ぢやあるまいし、人が呼んだら好加減に返事をするがいゝ……。全體まア、何の用が有ツて二階へお出でだ。エ、何の用が有ツてだエ。」 ト逆上せあがツて極め付けても、此方は一向平氣なもので、 「何にも用は有りやアしないけれども……。」 「用がないのに何故お出でだ。先刻あれほど、最う是からは、今迄のやうにヘタクタ二階へ往ツてはならない、と言ツたのが、お前にはまだ解らないかエ。さかりの附いた犬ぢやアあるまいし、間がな透がな、文三の傍へばツかし往きたがるよ。」 「今までは二階へ往ツても善くツて、是からは惡いなんぞツて、其樣な不條理な。」 「チヨツ解らないネー、今迄の文三と文三が違ひます。お前にやア免職になツた事が解らないかエ。」 「オヤ、免職に成ツてどうしたの。文さんが人を見ると咬付きでもする樣になツたの、へー然う。」 「な、な、な、なんだとお言ひだ……。コレお勢、それはお前、あんまりと言ふもんだ。餘り親を馬、馬、馬、馬鹿にすると言ふもんだ。」 「ば、ば、ば、馬鹿にはしません。へー私は、條理のある處を主張するので御座います。」 ト脣を反らしていふを、聞くや否や、お政は、忽ち顏色を變へて、手に持ツてゐた長羅宇の烟管を席へ放り付け、 「エヽ、くやしい。」 ト齒を喰切ツて口惜しがる。その顏を横眼でジロリと見たばかりで、お勢はすまアし切ツて、座鋪を立出でて仕舞ツた。 しかしながら、此を親子喧嘩と思ふと、女丈夫の本意に背く。どうして/\親子喧嘩……其樣な不道徳な者でない。是れはこれ辱なくも難有くも、日本文明の一原案ともなるべき新主義と、時代後れの舊主義と、衝突をする處。よくお眼を止めて御覽あられませう。 其夜、文三は、斷念ツて叔母に詫言をまをしたが、ヤ、梃ずツたの梃ずらないのと言ツて、それは/\……まづお政が今朝言ツた厭味に、輪を懸け枝を添へて、百曼陀羅 ならべ立てた擧句、お勢の親を麁末にするまでを、文三の罪にして難題を言懸ける。されども文三が、死んだ氣になツて、諸事お容されてで持切ツてゐるに、お政もスコだれの拍子拔けといふ光景で、厭味の音締をするやうに成ツたから、まづ好しと思ふ間もなく、不圖又文三の言葉尻から燃出して、以前にも立優る火勢、黒烟焔々と顏に漲る所を見ては、迚も鎭火しさうも無かツたのも、文三が濟みませぬの水を斟盡して澆ぎかけたので、次第々々に下火になツて、プス/\燻になツて、遂に不精々々に鎭火る。文三は吻と一息。寸善尺魔の世の習ひ、またもや御意の變らぬ内にと、挨拶も匆匆に起ツて座鋪を立出で、二三歩すると背後の方で、お政がさも聞えよがしの獨言。 「アヽ/\、今度こそは厄介拂ひかと思ツたら、また背負込みか。」 第六囘 どちら附かずのちくらが沖秋の日影も稍傾いて、庭の梧桐の影法師が脊丈を伸ばす三時頃、お政は獨り徒然と、長手の火鉢に凭れ懸ツて、斜に坐りながら、火箸を執ツて灰へ書く樂書も倭文字、牛の角文字いろいろに、心に物を思へばか、快々たる顏の色。動ともすれば太息を吐いてゐる。折しも表の格子戸をガラリと開けて、案内もせず這入ツて來て、隔の障子の彼方から、ヌツと顏を差出して、 「今日は。」 ト挨拶をした男を見れば、何處かで見たやうな顏と思ふも道理。文三の免職になツた當日、打連れて神田見附の裏より出て來た、ソレ中脊の男と言ツた彼の男で、今日は退省後と見えて、不斷着の秩父縞の袷衣の上へ、南部の羽織をはおり、チト疲勞れた博多の帶に、袂時計の紐を捲付けて、手に土耳古形の帽子を携へてゐる。 「オヤ何人かと思ツたらお珍らしいこと。此間は薩張りお見限りですネ。マアお這入りなさいナ。それとも老婆ばかりぢやアお厭かネ。オホヽヽヽヽ。」 「イヤ結構……結構も可笑しい。アハヽヽヽヽ。トキニ何は、内海は居ますか。」 「ハア居ますよ。」 「其れぢや鳥渡會ツて來てから、それから此間の復讎だ。覺悟をしてお置きなさい。」 「返討ぢやアないかネ。」 「違ひない。」 ト何歟判らぬ事を言ツて、中脊の男は二階へ上ツて仕舞ツた。 歸ツて來ぬ間に、チヨツピリ此男の小傳をと言ふ可き處なれども、何者の子で、如何な教育を享け、如何な境界を渡ツて來た事か、過去ツた事は山媛の霞に籠ツておぼろおぼろ、トント判らぬ事而已。風聞に據れば、總角の頃に早く怙恃を喪ひ、寄邊渚の棚なし小舟では無く宿無小僧となり、彼處の親戚、此處の知己と、流れ渡ツてゐる内、曾て侍奉公までした事が有るといひ、イヤ無いといふ、紛々たる人の噂は、滅多に恃になら坂や、兒手柏の上露よりももろいもの、と旁付けて置いて、さて正味の確な所を掻摘んで誌せば、産は東京で、水道の水臭い士族の一人だと、履歴書を見た者の噺、是ばかりは僞でない。本田昇と言つて、文三より二年前に某省の等外を拜命した以来、吹小歇のない仕合の風にグツとのした出來星判任。當時は六等屬の獨身では先づ樂な身の上。昇は所謂才子で、頗る智慧才覺が有ツて、また能く智慧才覺を鼻に懸ける。辯舌は縱横無盡、大道に出る豆藏の壘を摩して雄を爭ふも可なり、といふ程では有るが、堅板の水の流を堰きかねて、折節は覺えず法螺を吹く事もある。また小器用で、何一つ知らぬといふ事の無い代り、是れ一つ卓絶れて出來るといふ藝も無く、怠けるが性分で、倦るが病だ、といへば其れも其筈歟。 昇はまた頗る愛嬌に富んでゐて、極て世辭がよい。殊に初對面の人にはチヤホヤもまた一段で、婦人にもあれ、老人にもあれ、それ相應に調子を合せて、曾てそらすといふことなし。唯不思議な事には、親しくなるに隨ひ、次第に愛想が無くなり、鼻の頭で待遇ツて、折に觸れては氣に障る事を言ふか、さなくば厭におひやらかす。其れを憤りて喰ツて懸れば、手に合ふ者は其場で捻返し、手に合はぬ者は一時笑ツて濟まして後、必ず讐を酬ゆる。……尾籠ながら、犬の糞で横面を打曲げる。 兎はいふものの、昇は才子で、能く課長殿に事へる。此課長殿といふお方は、曾て西歐の水を飮まれた事のあるだけに、「殿樣風」といふ事がキツイお嫌ひと見えて、常に口を極めて、御同僚方の尊大の風を御誹謗遊ばすが、御自分は評判の氣六ケ敷屋で、御意に叶はぬとなると、瑣細の事にまで眼を剥出して御立腹遊ばす。言はゞ自由主義の壓制家といふ御方だから、哀れや屬官の人々は、御機嫌の取樣に迷いて、ウロ/\する中に、獨り昇は迷かぬ。まづ課長殿の身態、聲音はおろか、咳拂ひの樣子から、嚔の仕方まで眞似たものだ。ヤ、其また、眞似の巧な事といふものは宛も其人が其處に居て云爲するが如くで、そツくり其儘。たゞ、相違と言ツては、課長殿は誰の前でもアハヽヽとお笑ひ遊ばすが、昇は人に依ツてエヘヽ笑ひをする而已。また課長殿に物など言懸けられた時は、まづ忙はしく席を離れ、仔細らしく小首を傾けて謹で承り、承り終ツて、さて莞爾微笑して恭しく御返答申上げる。要するに昇は長官を敬すると言ツても、遠ざけるには至らず、狎れるといツても涜すには至らず、諸事萬事御意の隨意々々、曾て抵抗した事なく、加之……此處が肝腎要……他の課長の遺行を數へて、暗に盛徳を稱揚する事も折節はあるので、課長殿は「見處のある奴ぢや」ト御意遊ばして、御贔屓に遊ばすが、同僚の者は善く言はぬ。昇の考では、皆法界悋氣で、善く言はぬのだといふ。 兎も角も、昇は才子で、毎日怠らず出勤する。事務に懸けては頗る活溌で、他人の一日分澤山の事を、半日で濟ましても平氣孫左衞門、難澁さうな顏色もせぬが、大方は見せかけの勉強ぶり。小使、給仕などを叱散らして濟まして置く。退省て下宿へ歸る。衣服を着更る。直ぐ何處へか遊びに出懸けて、落着いて在宿してゐた事は稀だといふ。日曜日には、御機嫌伺ひと號して課長殿の私邸へ伺候し、圍碁のお相手をもすれば、御私用をも達す。先頃もお手飼に狆が欲しいと夫人の御意、聞くよりも早飮込み、日ならずして何處で貰ツて來た事か、狆の子一疋を携へて御覽に供へる。件の狆を御覽じて課長殿が、「此奴、妙な貌をしてゐるぢやアないか、ウー、」ト御意遊ばすと、昇も「左樣で御座います、チト妙な貌をして居ります、」ト申上げ、夫人が傍から「其れでも狆は、此樣に貌のしやくんだ方が好いのだと申します、」と仰しやると、昇も「成程、夫人の仰の通り、狆は此樣に貌のしやくんだ方が好いのだと申します、」ト申上げて、御愛嬌にチヨイト、狆の頭を撫でて見たとか。しかし、永い間には取外しも有ると見えて、曾て何歟の事で、些しばかり課長殿の御機嫌を損ねた時は、昇は其當座一兩日の間、胸が閉塞へて食事が進まなかツたとかいふが、程なく夫人のお癪から揉みやはらげて、殿さまの御癇癪も療治し、果は自分の胸の痞も押さげたといふ、なか/\小腕のきく男で。 下宿が眼と鼻の間の所爲歟、昇は屡々文三の處へ遊びに來る。お勢が歸宅してからは、一段足繁くなツて、三日にあげず遊びに來る。初とは違ひ近頃は文三に對しては、氣に障る事而已を言散らすか、さもなければ同僚の非を數へて「乃公は」との自負自讚。「人間地道に事をするやうぢや役に立たぬ、」などと、勝手な熱を吐散らすが、それは邂逅の事で、大方は下座鋪で、お政を相手に無駄口を叩き、或る時は花合せとかいふものを手中に弄して、如何がな眞似をした擧句、壽司などを取寄せて奢り散らす。勿論お政には殊の外氣に入ツてチヤホヤされる。氣に入り過ぎはしないかと、岡燒をする者も有るが、正可四十面をさげて。……お勢には……、シツ、跫音がする昇ではないか。……當ツた。 「時に内海は如何も飛んだ事で、實に氣の毒な、今も往ツて慰めて來たが、鬱ぎ切ツてゐる。」 「放擲ツてお置きなさいよ、身から出た錆だもの、些とは鬱ぐも好いのサ。」 「さう言へば其樣なやうな者だが、しかし、何しろ氣の毒だ。斯ういふ事にならうと、疾くから知ツてゐたら、又如何にか仕樣も有ツたらうけれども、何しても……。」 「何とか言ツてましたらうネ。」 「何を。」 「私の事をサ。」 「イヤ何とも。」 「フム、貴君も頼母敷ないよ、あんな者を朋友にして、同類にお成んなさる。」 「同類にも何にも成りやアしないが、眞實に。」 「さう。」 ト談話の内に茶を煎れ、地袋の菓子を取出して昇に侑め、またお鍋を以てお勢を召ばせる。何時もならば文三にもと言ふ處を、今日は八分した(編者曰。はツぷとは、はぶく、又は、のけものにする意。)ゆゑ、お鍋が不審に思ひ、「お二階へは、」ト尋ねると、「ナニ茶がカツ食ひたきやア……言はないでも宜いよ。」ト答へた。此を名けてWoman's revenge(婦人の復讐)といふ。 「如何したんです、鬩り合ひでもしたのかネ。」 「鬩合ひなら宜いが、いぢめられたの、文三にいぢめられたの……。」 「それはまた、如何した理由で。」 「マア本田さん、聞いてお呉んなさい、斯うなんですよ。」 ト昨日、文三にいぢめられた事をおまけにおまけを附着て、ベチヤクチヤと饒舌り出しては止度なく、滔々蕩々として勢ひ百川の一時に決した如くで、言損じがなければ委みもなく、多年の揣摩一時の宏辯、自然に備はる抑揚頓挫、或は開き或は闔ぢて、縱横自在に言廻せば、鷺も烏に成らずには置かぬ。哀むべし文三は、竟に世にも怖ろしい惡棍と成り切ツた處へ、お勢は手に一部の女學雜誌を持ち、立ちながら讀み讀み座鋪へ這入ツて來て、チヨイと昇に一禮したのみで嫣然ともせず、饒舌りながら母親が汲んで出す茶碗を憚りとも言はずに受取りて、一口飮んで下へ差措いたまゝ、濟まアし切ツて復た再び讀みさしの雜誌を取り上げて眺め詰めた。昇と同席の時は何時でも斯うで、 「トいふ譯で、ツイそれなり鳧にして仕舞ひましたがネ、マア本田さん、貴君は何方が理窟だとお思ひなさる。」 「それは勿論内海が惡い。」 「そのまた惡い文三に肩を持ツてサ、私に喰ツて懸ツた者があると思召せ。」 「アラ、喰ツて懸りはしませんワ。」 「喰ツて懸らなくツてサ。……私は最う/\、腹が立ツて腹が立ツて堪らなかツた。けれども、何にしても此通り氣が弱いし、それに先には文三といふ荒神樣が附いてるから、迚も叶ふ事ぢやア無いと思ツて、蟲を殺して噤默ツてましたがネ……。」 「アラ、彼樣な虚言ばツかり言ツて。」 「虚言ぢやないワ、眞實だワ……マ、なんぼなんだツて、呆れ返るぢや有りませんか、ネー貴君、何處の國にか他人の肩を持ツてサ、シヽバヾの世話をして呉れた、現在の親に喰ツて懸るといふものが、有るもんですかネ。ネー本田さん、然うぢやア有りませんか。ギヤツと産れてから是までにするにア、仇や疎かな事ぢやア有りません。子を持てば七十五度泣くといふけれども、此娘の事では是まで何百度泣いたか知れやアしない。其樣にして育てて貰ツても、露程も難有いと思ツてないさうで、此頃ぢや一口いふ二口目にや、速く惡たれ口だ。マ、なんたら因果で、此樣な邪見な子を持ツたかと思ふと、シミジミ悲しくなりますワ。」 「人が默ツてゐれば、好い氣になつて彼樣な事を言ツて、餘りだから宜いワ。私は三歳の小兒ぢやないから、親の恩位は知ツてゐますワ、知ツてゐますけれども、條理……。」 「アヽモウ解ツた/\、何にも宜ふナ。よろしいよ、解ツたよ。」 ト昇は、勃然と成ツて饒舌り懸けたお勢の火の手を手頸で煽り消して、さてお政に向ひ、 「しかし叔母さん、比奴は一番失策ツたネ。平生の粹にも似合はないなされ方、チトお恨みだ。マア考へて御覽じろ、内海といぢり合ひが有ツて見ればネ、ソレ……といふ譯が有るから、お勢さんも默ツては見てゐられないやアネ、アハヽヽヽ……。」 ト相手のない高笑ひ。お勢は額で昇を睨めたまゝ何とも言はぬ。お政も苦笑ひをした而已で、是れも默然、些と席がしらけた趣き。 「それは戲談だがネ、全體叔母さん、餘り慾が深過ぎるよ。お勢さんの樣な、此樣な上出來な娘を持ちながら……。」 「なにが、上出來なもんですか……。」 「イヤ上出來サ。上出來でないと思ふなら、まづ世間の娘子を御覽なさい。お勢さん位の年恰好で、其樣に標致がよくツて見ると、學問や何歟かは其方退けで、是非色狂ひとか何とか、碌な眞似はしたがらぬものだけれども、お勢さんは、流石に叔母さんの仕込みだけ有ツて、縹致が好くツても、品行は方正で、曾て浮氣らしい眞似をした事はなく、唯一心に勉強してお出でなさるから、漢學は勿論出來るし、英學も……今何を稽古してお出でなさる。」 「ナシヨナルのフオースに列國史に……。」 「フウ、ナシヨナルのフオース。ナシヨナルのフオースと言へば、なか/\難敷い書物だ。男子でも讀めない者は幾程も有る、それを芳紀も若くツて且婦人の身でゐながら、稽古してお出でなさる。感心な者だ。だから此近邊 「ナニ、些とばかりなら人樣に惡く言はれても宜いから、最う些し優敷して呉れると宜いんだけれども、邪慳で親を親臭いとも思ツてゐないから、憎くツて成りやアしません。」 ト目を 「喜び序に最う一ツ喜んで下さい。我輩、今日一等進みました。」 「エ。」 トお政は此方を振向き、吃驚した樣子で、暫く昇の顏を目守めて、 「御結構が有ツたの……ヘエエー、それはマア、何してもお芽出度う御座いました。」 ト鄭重に一禮して、偖改めて頭を振揚げ、 「ヘー御結構が有ツたの……。」 お勢もまた、昇が御結構が有ツた、と聞くと等しく、吃驚した顏色をして、些し顏を赧らめた、咄々怪事もあるもので。 「一等お上んなすツたと言ふと、月給は。」 「僅五圓違ひサ。」 「オヤ、五圓違ひだツて結構ですワ。かうツと今までが三十圓だツたから、五圓殖えて……。」 「何ですネー、母親さん、他人の収入を……。」 「マアサ、五圓殖えて三十五圓、結構ですワ。結構でなくツてサ貴君、何うして今時高利貸したツて、月三十五圓取らうと言ふなア、容易な事ぢやア有りませんよ。……三十五圓……どうしても働き者は違ツたもんだネー。だから、此娘とも常不斷さう言ツてます事サ。アノー、本田さんは何だと、内の文三や何歟とは違ツて、まだ若くツてお出でなさるけれども、利口で、氣働きが有ツて、如才が無くツて……。」 「談話も艶消しにして貰ひ度いネ。」 「艶ぢやア無い、眞個にサ、如才が無くツてお世辭がよくツて、男振も好いけれども、唯物喰の惡いのが、可惜珠に疵だツて、オホヽヽヽ。」 「アハヽヽヽ、貧乏人の質で、上げ下げが怖ろしい。」 「それは然うと、孰れ御結構振舞が有りませうネ。新富かネ、但しは市村かネ。」 「何處なりとも、但し負ぶで。」 「オヤ、それは難有くも何ともないこと。」 ト、また口を揃へて高笑ひ。 「其れは戯談だがネ、芝居はマア芝居として、如何です、明後日、團子坂へ菊見といふ奴は。」 「菊見、左樣さネ、菊見にも依りけりサ、犬川ぢやア、マア願ひ下げだネ。」 「其處にはまた、異な寸法も有らうサ。」 「笹の雪ぢやアないかネ。」 「正可。」 「眞個に往きませうか。」 「お出でなさい/\。」 「お勢、お前もお出ででないか。」 「菊見に。」 「アヽ。」 お勢は生得の出遊き好。下地は好きなり、御意はよし、菊見の催頗る妙だが、オイソレといふも不見識と思ツたか、手弱く辭退して直ちに同意して仕舞ふ。十分ばかりを經て、昇が立歸ツた跡で、お政は獨言のやうに、 「眞個に本田さんは感心なもんだナ。未だ年齡も若いのに、三十五圓月給取るやうに成んなすツた。それから思ふと、内の文三なんざア、盆暗の意氣地なしだツちやアない。二十三にも成ツて親を養す所か、自分の居處立處にさへ彷徨いてるんだ。なんぼ何だツて、愛想が盡きらア。」 「だけれども、本田さんは、學問は出來ないやうだワ。」 「フム、學問々々とお言ひだけれども、立身出世すればこそ學問だ。居處立處に彷徨くやうぢやア、些とばかし書物が讀めたツて、ねツから難有味がない。」 「それは不運だから仕樣がないワ。」 トいふ娘の顏を、お政は熟々目守めて、 「お勢、眞個にお前は、文三と何にも約束した覺えはないかエ。エ、有るなら有ると言ツてお仕舞ひ、隱立をすると、却てお前の爲にならないよ。」 「また、彼樣な事を言ツて。……昨日あれ程、其樣な覺えは無いと言ツたのが、母親さんには未だ解らないの。エ、まだ解らないの。」 「チヨツ、また始まツた。覺えが無いなら無いで好いやアネ。何にも其樣に、熱くならなくツたツて。」 「だツて人をお疑りだものヲ。」 暫く談話が斷絶れる。母親も、娘も、何歟思案顏。 「母親さん、明後日は何を着て行かうネ。」 「何なりとも。」 「エート、下着は何時ものアレにしてト、其れから、上着は何衣にしようかしら、矢張、何時もの黄八丈にして置かうかしら……。」 「最う一つのお召縮緬の方にお爲よ。彼の方がお前にやア似合ふよ。」 「デモ彼れは品が惡いものヲ。」 「品が惡いてツたツて。」 「アヽ、此樣な時にア洋服が有ると好いのだけれどもナ……。」 「働き者を亭主に持ツて、洋服なと何なと、拵エて貰ふのサ。」 トいふ母親の顏を、お勢はヂツと目守めて不審顏。
第二編第七囘 團子坂の觀菊 上日曜日は、近頃に無い天下晴。風も穩かで塵も立たず、暦を繰つて見れば、舊暦で菊月初旬といふ十一月二日の事ゆゑ、物觀遊山には、持ツて來いと云ふ日和。 園田一家の者は、朝から觀菊行の支度とりどり。晴衣の裄丈を氣にしてのお勢のじれこみが、お政の癇癪と成ツて、廻りの髮結の來やうの遲いのが、お鍋の落度となり、究竟は萬古の茶瓶が生れも付かぬ缺口になるやら、架棚の擂鉢が獨手に駈出すやら、ヤツサモツサ捏返してゐる處へ、生憎な來客、加之も名打の長尻で、アノ只今から團子坂へ參らうと存じて、トいふ言葉にまで、力瘤を入れて見ても、まや藥ほども利かず、平氣で濟まして、便々とお神輿を据ゑてゐられる。そのじれツたさ、もどかしさ。それでも宜くしたもので、案じるよりも産むが易く、客も其内に歸れば、髮結も來る。其處で、ソレ、支度も調ひ、十一時頃には家内も漸く靜まツて、折節には高笑ひがするやうになツた。 文三は拓落失路の人、仲々以て觀菊などといふ空は無い。それに昇は花で言へば、今を春邊と咲誇る櫻の身、此方は日蔭の枯尾花。到頭楯突く事が出來ぬ位なら、打たせられに行くでも無いと、境涯に隨れて僻みを起し、一昨日昇に誘引れた時、既にキツパリ辭ツて行かぬと決心したからは、人が騒がうが騒ぐまいが、隣家の疝氣で關係のない噺。ズツと澄まして居られさうなものの、扨居られぬ。嬉しさうに、人のそはつくを見るに付け、聞くに付け、またしても昨日の我が憶出されて、五月雨頃の空と濕る、歎息もする、面白くも無い。 ヤ、面白からぬ。文三には、昨日お勢が「貴君もお出でなさるか、」ト尋ねた時、「行かぬ、」ト答へたら、「ヘー然うですか、」ト平氣で澄まして落着拂つてゐたのが面白からぬ。文三の心持では、成らう事なら、行けと勸めて貰ひ度かツた。それでも尚ほ強情を張ツて行かなければ、「貴君と御一所でなきやア、私も罷しませう、」とか、何とか言ツて貰ひ度かツた……。 「しかし、是りやア嫉妬ぢやない……。」 ト不圖何歟憶出して、我と我に分疏を言ツて見たが、また何處歟、くすぐられるやうで……不安心で。 行くも厭なり、留まるも厭なりで、氣がムシヤクシヤとして癇癪が起る。誰れと云ツて取留めた相手は無いが、腹が立つ。何か火急の要事が有るやうで、また無いやうで、無いやうで、また有るやうで、立ツても居られず、坐ツてもゐられず。如何しても、斯うしても、落着かれない。 落着かれぬ儘に、文三が、チト讀書でもしたら紛れようか、と書函の書物を手當放題に取出して讀みかけて見たが、いツかな爭な紛れる事でない。小六ケ敷い面相をして、書物と疾視競をした所はまづ宜かツたが、開卷第一章の第一行目を反覆讀過して見ても、更に其意義を解し得ない。其癖、下座鋪でのお勢の笑聲は意地惡くも善く聞えて、一囘聞けば則ち耳の洞の主人と成ツて暫くは立ち去らぬ。舌皷を打ちながら、文三が腹立たしさうに書物を擲出して、腹立たしさうに机に靠着ツて、腹立たしさうに頬杖を杖き、腹立たしさうに何處ともなく凝視めて、……フトまた起直ツて、蘇生ツたやうな顏色をして、 「モシ罷めになツたら……。」 と取外して言ひかけて、 倏忽ハツと心付き、周章てて口を鉗んで、吃驚して狼狽して遂に憤然となツて、「畜生、」と言ひざま、拳を振擧げて我と我を威して見たが、惡戯な蟲奴は心の底で、まだ……矢張……。 しかし、生憎故障も無かツたと見えて、昇は一時頃に參ツた。今日は故意と日本服で、茶の絲織の一つ小袖に、黒七子の羽織、帶も何歟乙なもので、相變らず立とした服飾。梯子段を踏轟かして上ツて來て、挨拶をもせずに、突如まづ大胡坐。我鼻を視るのかと、怪しまれる程の下眼を遣ツて、文三の顏を視ながら、 「どうした、土左的宜敷といふ顏色だぜ。」 「少し頭痛がするから。」 「然うか。尼御臺に油を取られたのでもなかツたか、アハハヽヽ。」 チヨイと云ふ事からして、まづ氣に障る。文三も怫然とはしたが、其處は内氣だけに、何とも言はなかツた。 「どうだ、如何しても往かんか。」 「まづ、よさう。」 「剛情だな。……ゴジヤウだからお出でなさいよぢや無いか。アハヽヽヽ……と、獨りで笑ふほかまづ仕樣が無い、何を云ツても先樣にやお通じなしだ、アハヽヽ。」 戯言とも附かず、罵詈とも附かぬ、曖昧なお饒舌に、暫く時刻を移してゐると、忽ち梯子段の下に、お勢の聲がして、 「本田さん。」 「何です。」 「アノ、車が參りましたから、よろしくば。」 「出懸けませう。」 「それではお早く。」 「チヨイと、お勢さん。」 「ハイ。」 「貴孃と合乘なら行ツても宜いといふのがお一方出來たが、承知ですかネ。」 返答は無く、唯バタ/\と駈出す足音がした。 「アハヽヽ、何にも言はずに逃出すなぞは、未だしをらしいよ。」 ト言ツたのが文三への挨拶で、昇は其儘起上ツて、二階を降りて往ツた跡を見送りながら、文三がさも/\苦々しさうに、口の中で、 「馬鹿奴……。」 ト言ツた其聲が、未だ中有に徘徊ツてゐる内に、フト、今年の春、向島へ櫻觀に往ツた時のお勢の姿を憶出し、如何いふ心計か蹶然と起き上り、キヨロ/\と四邊を環視して、火入に眼を注けたが、おもひ直して舊の座になほり、また苦々しさうに、 「馬鹿奴。」 是は自ら叱責ツたので。 午後はチト風が出たが、ます/\上天氣。殊には日曜と云ふので、團子坂近傍は、花觀る人が道去り敢ぬばかり、イヤ出たぞ/\、束髮も出た、島田も出た、銀杏返しも出た、丸髷も出た、蝶々髷も出た、おケシも出た。〇〇會幹事、實は古猫の怪といふ、鍋島騒動を生で見るやうなマダム某も出た。芥子の實ほどの眇少しい知慧を兩足に打ち込んで、飛んだり跳ねたりを夢にまで見るミス某も出た。お乳母も出た、お爨婢も出た。ぞろりとした半元服、一夫數妻論の未だ行はれる證據に上りさうな婦人も出た。イヤ出たぞ/\、坊主も出た、散髮も出た、五分刈も出た、チヨン髷も出た。天帝の愛子、運命の寵臣、人の中の人、男の中の男と世の人の尊重の的、健羨の府となる昔の所謂お役人樣、今の所謂官員さま、後の世になれば社會の公僕とか、何とか名告るべき方々も出た。商賣も出た、負販の徒も出た。人の横面を打曲げるが主義で身を忘れ家を忘れて拘留の辱に逢ひさうな毛臑暴出しの政治家も出た。猫も出た、杓子も出た。人樣々の顏の相好、おもひおもひの結髮風姿。聞覩に聚る衣香襟影は、紛然、雜然として千態萬状、なツかなか以て一々枚擧するに遑あらずで、それに此邊は道巾が狹隘いので、尚一段と雜沓する。そのまた中を、合乘で乘切る心無し奴も難有の君が代に、その日活計の土地の者が、摺附木の函を張りながら、往來の花觀る人をのみ眺めて、遂に眞の花を觀ずに仕舞ふ歟、とおもへば。實に浮世はいろ/\さま%\。 さてまた [9]圍子坂の景況は、例の招牌から釣込む植木屋は、家々の招きの旗幟を飜翻と金風に飄し、木戸々々で客を呼ぶ聲は、彼此からみ合ツて亂れ合ツて、入我我入でメツチヤラコ、唯逆上ツた木戸番の口だらけにした面が見える而已で、何時見ても變ツた事もなし。中へ這入ツて見ても矢張その通りで。 一體全體、菊といふものは、一本の淋敷きにもあれ、千本、八千本の賑敷きにもあれ、自然の儘に生茂ツてこそ見處の有らうものを、それを此邊の菊のやうに、斯う無殘無殘と作られては、興も明日も覺めるてや。百草の花のとぢめと律義にも衆芳に後れて折角咲いた黄菊白菊を、何でも御座れに寄集めて、小兒騙欺の木偶の衣裳、洗張りに糊が過ぎてか、何處へ觸ツてもゴソ/\として、ギコチ無ささうな風姿も、小言いツて觀る者は、千人に一人か二人。十人が十人、まづ花より團子を思詰めた顏色、去りとはまた苦々しい。ト何處かの隱居が、菊細工を觀ながら、愚癡を滴したと思食せ。(看官)何だ、つまらない。 閑話不題。 轟然と飛ぶが如くに驅來ツた二臺の腕車が、 [10]ビツタリと停止る。車を下りる男女三人の者は、お馴染の昇とお勢親子の者で。 昇の服裝は前文にある通り。 お政は鼠微塵の絲織の一つ小袖に、黒唐繻子の丸帶。襦袢の半襟も、黒縮緬に金絲でバラリと縫の入ツた奴か何歟で、まづ氣の利いた服飾。 お勢は黄八丈の一つ小袖に、藍鼠金入繻珍の丸帶。勿論下にはお定りの緋縮緬の等身襦袢、此奴も金絲で縫の入ツた、水淺黄縮緬の半襟をかけた奴で、帶上はアレは時色縮緬。統括めて云へば、まづ上品なこしらへ。しかし、人足の留まるは、衣裳附よりは寧ろその態度で、髮も例の束髮ながら、何とか結びとかいふ手のこんだ束ね方で、大形の薔薇の花插頭を插し、本化粧は自然に背くとか云ツて、薄化粧の清楚な作り、風格 [11]ぼう神共に優美で。 「色だ。ナニ夫婦サ。」ト法界悋氣の岡燒連が、目引き袖引き取々に評判するを漏れ聞く毎に、昇は得々として機嫌顏。是れ見よがしに母子の者を其處此處と植木屋を引廻しながらも、片時と默してはゐない。人の傍聞するにも關はず、例の無駄口をのべつに竝べ立てた。 お勢は、今日は取分け晴れた面相で、宛然籠を出た小鳥の如くに、言葉は勿論、歩風身體のこなしまで、何處ともなく活々とした所が有ツて、冴が見える。昇の無駄を聞いては、可笑しがツて絶えず笑ふが、それもさうで、強ち昇の言ふ事が可笑しいからではなく、默ツてゐても自然と可笑しいから、それで笑ふやうで。 お政は、菊細工には甚だ冷淡なもので、唯「綺麗だことネー、」ト云ツて、ズラリと見亙すのみ。さして眼を注める樣子もないが、その代り、お勢と同年配頃の娘に逢へば、丁寧にその顏貌、風姿を研究する。まづ最初に容貌を視て、次に衣服を視て、帶を視て、爪端を視て、行過ぎてから、ズーと後姿を一瞥して、また帶を視て、髮を視て、其跡でチヨイとお勢を横眼で視て、そして澄まして仕舞ふ。妙な癖も有れば有るもので。 昇等三人の者は、最後に坂下の植木屋へ立寄ツて、次第次第に見物して、とある小舎の前に立止ツた。其處に飾り付けて在ツた木像の顏が、文三の欠伸をした面相に酷く肖てゐるとか昇の云ツたのが可笑しいといツて、お勢が嬌面に袖を加てて、勾欄におツ被さツて笑ひ出したので、傍に鵠立んでゐた書生體の男が、俄に此方を振向いて、愕然として眼鏡越しにお勢を凝視めた。「みツともないよ、」と母親ですら小言を言ツた位で。 漸くの事で笑ひを留めて、お勢がまだ莞爾莞爾と微笑のこびり付いてゐる貌を擡げて、傍を視ると、昇は居ない。「オヤ。」と云つて、キヨロキヨロと四邊を環視して、お勢は忽ち眞面目な貌をした。 只見れば、後の小舎の前で、昇が磬折といふ風に腰を屈めて、其處に鵠立んでゐた洋裝紳士の背に向ツて、荐りに禮拜してゐた。されども紳士は一向心附かぬ樣子で、尚ほ彼方を向いて鵠立んでゐたが、再三再四虚辭儀をさしてから、漸くにムシヤクシヤと頬髯の生弘がツた、氣六ケ敷い貌を此方へ振り向けて、昇の貌を眺め、莞然ともせず、帽子も被ツた儘で、唯鷹揚に點頭すると、昇は忽ち平身低頭、何事をか喃々と言ひながら、續けざまに二つ三つ禮拜した。 紳士の隨伴と見える兩人の婦人は、一人は今樣おはつとか稱へる、突兀たる大丸髷。今一人は落雪とした妙齡の束髮頭。孰れも水際の立つた玉揃ひ。面相といひ、風姿といひ、如何も姉妹らしく見える。昇はまづ丸髷の婦人に一禮して、次に束髮の令孃に及ぶと、令孃は狼狽てて卒方を向いて禮を返して、サツと顏を赧めた。 暫く立在んでの談話。間が隔離れてゐるに、四邊が騒がしいので、其の言ふ事は能く解らないが、なにしても昇は絶えず口角に微笑を含んで、折節に手眞似をしながら、何事をか喋々と饒舌り立ててゐた。其の内に、何か可笑しな事でも言ツたと見えて、紳士は俄然大口を開いて、肩を搖ツて、ハツハツと笑ひ出し、丸髷の夫人も口頭に皺を寄せて笑ひ出し、束髮の令孃もまた莞爾笑ひかけて、急に袖で口を掩ひ、額越に昇の貌を眺めて眼元で笑ツた。身に餘る面目に、昇は得々として滿面に笑ひを含ませ、紳士の笑ひ罷むを待ツて、また何か饒舌り出した。お勢母子の待ツてゐる事は全く忘れてゐるらしい。 お勢は、紳士にも、貴婦人にも、眼を注めぬ代り、束髮の令孃を穴の開く程目守めて一心不亂、傍目を觸らなかツた、呼吸をも吻かなかツた。母親が物を言ひ懸けても、返答をもしなかツた。 其内に紳士の一行が、ドロ/\と此方を指して來る容子を見て、お政は、茫然としてゐたお勢の袖を 匆はしく曳搖かして、疾歩に外面へ立ち出で、路傍に鵠立んで待合はせてゐると、暫くして昇も紳士の後に隨ツて出て參り、木戸口の處でまた更に小腰を屈めて、皆其々に分袂の挨拶、丁寧に、慇懃に、喋々しく陳べ立てて、さて別れて、獨り此方へ兩三歩來て、フト何か憶出したやうな面相をして、キヨロキヨロと四邊を環視した。 「本田さん、此處だよ。」 ト云ふお政の聲を聞付けて、昇は急足に傍へ歩寄り、 「ヤ、大にお待遠。」 「今の方は。」 「アレが課長です。」 ト云ツて、如何した理由か、莞爾々々と笑ひ、 「今日來る筈ぢや無かツたんだが……。」 「アノ、丸髷に結ツた方は、あれは夫人ですか。」 「然うです。」 「束髮の方は。」 「アレですか、ありや……。」 ト言ひかけて、後を振返ツて見て、 「細君の妹です。……内で見たよりか、餘程別嬪に見える。」 「別嬪も別嬪だけれども、好いお服飾ですことネー。」 「ナニ、今日は彼樣なお孃樣然とした風をしてゐるけれども、家にゐる時は疎末な衣服で、侍婢がはりに使はれてゐるのです。」 「學問は出來ますか。」 ト突然、お勢が尋ねたので、昇は愕然として、 「エ 學問。……出來るといふ噺も聞かんが、……それとも出來るかしらん。此間から課長の處に來てゐるのだから、我輩もまだ、深くは情實を知らないのです。」 ト聞くと、お勢は忽ち、眼元に冷笑の氣を含ませて、振返ツて、今將に坂の半腹の植木屋へ、這入らうとする令孃の後姿を見送ツて、チヨイと我が帶を撫でて、而して、ズーと澄まして仕舞つた。 坂下に待たせて置いた車に乘ツて、三人の者はこれより上野の方へと參ツた。 車に乘つてから、お政がお勢に向ひ、 「お勢、お前も今のお娘さんのやうに、本化粧にして來りやア、宜かツたのにネー。」 「厭サ、彼樣な本化粧は。」 「オヤ何故エ。」 「だツて、厭味ツたらしいもの。」 「ナニ、お前、十代の内なら秋毫も厭味なこたア有りやしないわネ。アノ方が幾程宜いか知れない、引立が好くツて。」 「フヽン、其樣に宜きやア、慈母さんお做なさいな。人が厭だといふものを、好い/\ツて、可笑しな慈母さんだよ。」 「好いと思ツたから、唯好いぢや無いかと云ツたばかしだのに、それに其樣な事いふツて、眞個に此娘は可笑しな娘だよ。」 お勢は最早、辯難攻撃は不必要と認めたと見えて、何とも言はずに默して仕舞ツた。それからと云ふものは、鬱ぐのでもなく、萎れるのでも無く、唯何となく沈んで仕舞ツて、母親が再び談話の墜緒を紹がうと試みても、相手にもならず、どうも乙な鹽梅であツたが、しかし、上野公園に來着いた頃には、また口をきゝ出して、また舊のお勢に立ち戻ツた。 上野公園の秋景色。彼方此方に、むら/\と立駢ぶ老松奇檜は、柯を交へ葉を折り重ねて、鬱蒼として翠も深く、觀る者の心までが蒼く染りさうなに引替へ、櫻杏桃李の雜木は、老木稚木も押なべて、一樣に枯葉勝な立姿。見るからが、まづ、みすぼらしい。遠近の木間隱れに立つ山茶花の一本は、枝一杯に花を持ツてはゐれど、煢々として友欲し氣に見える。楓は既に紅葉したのも有り、まだしないのも有る。鳥の音も時節に連れて、哀れに聞える、淋敷い。……ソラ、風が吹通る。一重櫻は戰慄をして病葉を震ひ落し、芝生の上に散り布いた落葉は、魂の有る如くに立上りて、友葉を追ツて舞ひ歩き、フトまた云合せたやうに、一齊にバラ/\と伏ツて仕舞ふ。滿眸の秋色蕭條として、却却春のきほひに似るべくも無いが、しかし、さびた眺望で、また一種の趣味が有る。團子坂へ行く者、歸る者が、 お勢が散歩したい、と云ひ出したので、三人の者は教育博物館の前で車を降りて、ブラ/\歩きながら、石橋を渡りて動物園の前へ出で、車夫には、「先へ往ツて、觀音堂の下邊に待ツてゐろ、」ト命じて、其處から車に離れ、眞直に行ツて、矗立千尺、空を摩でさうな杉の樹立の間を通拔けて、東照宮の側面へ出た。 折しも其處の裏門よりLet us go on(行かう)と、「日本の」と冠詞の付く英語を叫びながらピヨツコリ飛び出した者が有る。只見れば軍艦羅紗の洋服を着て、金鍍金の徽章を附けた大黒帽子を仰向けざまに被ツた、年の頃十四歳許りの、栗蟲のやうに肥ツた少年で、同遊と見える同じ服裝の少年を顧みて、 「ダガ、何歟食度くなツたなア。」 「食度くなツた。」 「食度くなツてもか……。」 ト愚癡ツぽく言懸けて、フトお政と顏を視合はせ、 「ヤ……。」 「オヤ、勇が……。」 ト云ふ間もなく、少年は駈出して來て、狼狽てて昇に三つ四つ辭儀をして、サツと赤面して、 「母親さん。」 「何を狼狽ててゐるんだネー。」 「家へ往ツたら……鍋に聞いたら、文さんばツかしだツてツたから、僕ア……それだから……。」 「お前、モウ、試驗は濟んだのかエ。」 「ア、濟んだ。」 「如何だツたエ。」 「そんな事よりか、些し用が有るから……母親さん……。」 ト心有氣に、母親の顏を凝視めた。 「用が有るなら、 少年は横眼で、昇の顏をジロリと視て、 「チヨイと此方へ來てお呉れツてば。」 「フン、お前の用なら大抵知れたもんだ。また小遣ひが無いだらう。」 「ナニ、其樣な事ちやない。」 ト云ツて、また昇の顏を横眼で視て、サツと赤面して、調子外れな高笑ひをして、無理矢理に母親を引張ツて、彼方の杉の樹の下へ連れて參ツた。 昇と、お勢は、ブラ/\と歩き出して、來るともなく往くともなしに、宮の背後に出た。折柄四時頃の事とて、日影も大分傾いた鹽梅。立駢んだ樹立の影は、古廟の築墻を斑に染めて、不忍の池水は、大魚の鱗かなぞのやうに燦く。ツイ眼下に、瓦葺の大家根の、翼然として峙ツてゐるのが視下される。アレは大方馬見所の家根で。土手に隱れて形は見えないが、車馬の聲が轆々として聞える。 お勢は、大榎の根方の處で立止まり、翳してゐた蝙蝠傘をつぼめて、ヅイと一通り四邊を見亙し、嫣然一笑しながら、昇の顏を窺き込んで、唐突に、 「先刻の方は、餘程別嬪でしたネー。」 「エ、先刻の方とは。」 「ソラ、課長さんの令妹とか仰しやツた。」 「ウー誰の事かと思ツたら、……然うですネー、隨分別嬪ですネ。」 「而して、家で視たよりか美しくツてネ。そんだもんだから……ネ……貴君もネ……。」 と、眼元と口元に一杯笑ひを溜めて、ヂツと昇の貌を凝視めて、さて、オホヽヽと吹溢した。 「アツ失策ツた、不意を討たれた。ヤ、どうもおそろ感心、手は二本切りかと思ツたら、是れだもの、油斷も隙もなりやしない。」 「それに、彼孃も、オホヽヽ、何だと見えて、お辭儀する度に顏を眞赤にして、オホヽヽヽヽ。」 「トたゝみかけて意地目つけるネ。よろしい、覺えてお出でなさい。」 「だツて、實際の事ですもの。」 「しかし、彼の娘が幾程美しいと云ツたツても、何處かの人にやア……兎ても。」 「アラ、よう御座んすよ。」 「だツて實際の事ですもの。」 「オホヽヽ直ぐ復讐して。」 「眞に、戲談は除けて……。」 ト言懸ける折しも、官員風の男が、十許になる女の子の手を引いて來蒐ツて、兩人の容子を不思議さうに、ジロジロ視ながら行過ぎて仕舞ツた。 昇は再び言葉を續いで、 「戲談は除けて、幾程美しいと云ツたツて、彼樣な娘にやア、先方も然うだらうけれども、此方も氣が無い。」 「氣が無いから、横眼なんぞ遣ひはなさらなかツたのネー。」 「マアサ、お聞きなさい。彼の娘ばかりには限らない。どんな美しいのを視たツても、氣移りはしない。我輩にはアイドル(本尊)が一人有るから。」 「オヤ然う。それはお芽出度う。」 「所が一向お芽出度く無い事サ。所謂鮑の片思ひでネ、此方はそのアイドルの顏を視度いばかりで、氣まりの惡いのも堪へて、毎日々々其家へ遊びに往けば、先方ぢや五月蠅いと云ツたやうな顏をして、口も碌々きかない。」 トあぢな眼付をして、お勢の貌をヂツと凝視めた。其の意を曉ツたか、曉らないか、お勢は唯ニツコリして、 「厭なアイドルですネ。オホヽヽ。」 「しかし、考へて見れば此方が無理サ。先方には隱然亭主と云ツたやうな者が有るのだから。それに……。」 「モウ何時でせう。」 「それに想を懸けるは、宜く無い/\と思ひながら、因果とまた思ひ斷る事が出來ない。此頃ぢや夢にまで見る。」 「オヤ厭だ……モウ些と彼地の方へ行ツて見ようぢや有りませんか。」 「漸くの思ひで、一所に物觀遊山に出ると迄は、漕付けは漕付けたけれども、其れもほんの一所に歩く而已で、慈母さんと云ふものが始終傍に附いてゐて見れば、思ふ樣に談話もならず。」 「慈母さんと云へば、何を做てゐるのだらうネー。」 ト背後を振返ツて觀た。 「偶々好機會が有ツて言ひ出せば、其通りとぼけてお仕舞ひなさるし、考へて見ればつまらんナ。」 ト愚癡ツぽくいツた。 「厭ですよ、其樣な戯談を仰しやツちや。」 ト云ツて、お勢が莞爾々々と笑ひながら、此方を振向いて視て、些し眞面目な顏をした。昇は萎れ返ツてゐる。 「戯談と聞かれちや填まらない。斯う言出す迄には、何位苦しんだと思ひなさる。」 ト昇は歎息した。お勢は眼睛を地上に注いで、默然として一語をも吐かなかツた。 「斯う言出したと云ツて、何にも貴孃に義理を缺かして、私の お勢は尚ほ默然としてゐて、返答をしない。 「お勢さん。」 ト云ひ乍ら、昇が、頂垂れてゐた首を振揚げて、ヂツとお勢の顏を窺き込めば、お勢は周章狼狽して、サツと顏を赧らめ、漸く聞えるか、聞えぬ程の小聲で、 「虚言ばツかり。」 ト云ツて、全く差俯向いて仕舞ツた。 「アハヽヽヽヽ。」 ト突如に昇が、轟然と一大笑を發したので、お勢は吃驚して、顏を振揚げて視て、 「オヤ厭だ。……アラ厭だ。……憎らしい本田さんだネー、眞面目くさツて、人を威かして……。」 と云ツて、悔しさうにでもなく、恨めしさうにでもなく、謂はゞ、氣まりが惡さうに莞爾笑ツた。 「お巫山戯でない。」 ト云ふ聲が、忽然、背後に聞えたので、お勢が喫驚して振返ツて視ると、母親が帶の間へ紙入を挿みながら來る。 「大分談判が難しかツたと見えますネ。」 「大にお待遠さま。」 ト云ツて、お勢の顏を視て、 「お前、如何したんだエ、顏を眞赤にして。」 ト咎められて、お勢は尚ほ顏を赤くして、 「オヤ然う、歩いたら暖かに成ツたもんだから……。」 「マア本田さん、聞いてお呉んなさい。眞個に、彼兒の錢遣ひの荒いのにも困りますよ。此間ネ、試驗の始まる前に來て、一圓前借して持ツてツたんですよ。其れを十日も經ない内に、もう使用ツちまツて、また呉れろサ。宿所なら、こだはりを附けてやるんだけれども……。」 「彼樣な事を云ツて、虚言ですよ、慈母さんが小遣ひを遣りたがるのよ。オホヽヽ。」 ト無理に押出した樣な高笑ひをした。 「默ツてお出で、お前の知ツた事ちやない。……こだはりを附けて遣るんだけれども、途中だからと思ツてネ、默ツて五十錢出して遣ツたら、それんばかりぢや足らないから、一圓呉れろと云ふんですよ。然う/\は方圖が無いと思ツて、如何しても遣らなかツたらネ、不承々々に五十錢取ツて仕舞ツてネ、それからまた今度は、明後日、お友達同志寄ツて、飛鳥山で饂飩會とかを……。」 「オホヽヽ。」 此度は眞に可笑しさうに、お勢が笑ひ出した。昇は荐りに點頭いて、 「運動會。」 「そのうんどうかいとか蕎麥買ひとかをするから、もう五十錢呉れろツてネ。明日取りにお出でと云ツても、何と云ツても聞かずに、持ツて往きましたがネ。其れも宜いが、憎い事を云ふぢや有りませんか。私が、明日お出でか、ト聞いたらネ、是れさへ貰へばもう用は無い、また無くなツてから行くツて……。」 「慈母さん、書生の運動會なら、會費と云ツても、高が十錢か、二十錢位なもんですよ。」 「エ、十錢か、二十錢……オヤ其れぢや三十錢足駄を履かれたんだよ……。」 ト云ツて、昇の顏を凝視めた。とぼけた顏であツたと見えて、昇もお勢も同時に、 「オホヽヽ。」 「アハヽヽ。」 第八囘 團子坂の觀菊 下お勢母子の者の出向いた後、文三は漸く些し沈着いて、徒然と机の邊に蹲踞ツた儘、腕を拱み、顋を襟に埋めて、懊惱たる物思ひに沈んだ。 どうも氣に懸る、お勢の事が氣に懸る。此樣な區々たる事は、苦に病むだけが損だ/\、と思ひながら、ツイどうも氣に懸ツてならぬ。 凡そ相愛する二の心は、一體分身で、孤立する者でもなく、又仕ようとて出來るものでない故に、一方の心が歡ぶ時には、他方の心も共に歡び、一方の心が悲しむ時には、他方の心も共に悲しみ、一方の心が樂しむ時には、他方の心も共に樂しみ、一方の心が苦しむ時には、他方の心も共に苦しみ、嬉笑にも相感じ、怒罵にも相感じ、愉快適悦、不平煩悶にも相感じ、氣が氣に通じ、心が心を喚起し、決して齟齬し、扞挌する者で無い。と、今日が日まで文三は思ツてゐたに、今文三の痛痒をお勢の感ぜぬは、如何したものだらう。 どうも氣が知れぬ、文三には平氣で澄ましてゐるお勢の心意氣が呑込めぬ。 若し相愛してゐなければ、文三に親しんでから、お勢が言葉遣ひを改め、起居動作を變へ、蓮葉を罷めて、優に艶しく女性らしく成る筈もなし。又今年の夏、一夕の情話に、我から隔の關を取り除け、乙な眼遣ひをし、麁 匆な言葉を遣ツて、折節に物思ひをする理由もない。 若し相愛してゐなければ、婚姻の相談が有ツた時、お勢が戯談に託辭けて、それとなく文三の腹を探る筈もなし、また叔母と悶着をした時、他人同然の文三を庇護ツて、眞實の母親と抗論する理由もない。 「イヤ、妄想ぢや無い、おれを思ツてゐるに違ひない。……が……。」 そのまた、思ツてゐるお勢が、そのまた死なば同穴と、心に誓ツた形の影が、そのまた共に感じ、共に思慮し、共に呼吸生息する身の片割が、從兄弟なり、親友なり、未來の……夫ともなる文三の、鬱々として樂しまぬを餘所に見て、行かぬと云ツても勸めもせず、平氣で澄まして不知顏でゐる而已か、文三と意氣が合はねばこそ、自家も常から嫌ひだと云ツてゐる、昇如き者に伴はれて、物觀遊山に出懸けて行く……。 「解らないな。どうしても解らん。」 解らぬ儘に、文三が想像、辨別の兩刀を執ツて、種々にして、此の氣懸りなお勢の冷淡を解剖して見るに、何か物が有ツて其中に籠ツてゐるやうに思はれる。イヤ、籠ツてゐるに相違ない。が、何だか、地體は更に解らぬ。依て、更に又勇氣を振起して、唯此の一點に注意を集め、傍目を觸らず一心不亂に、 文三ホツと精を盡かした。今は最う進んで穿鑿する氣力も竭き、勇氣も沮んだ。乃ち眼を閉ぢ、頭顱を抱へて、其處へ横に倒れた儘、五官を馬鹿にし、七情の守を解いて、是非も、曲直も、榮辱も、窮達も、叔母も、お勢も、我の吾たるをも、何も角も忘れて仕舞ツて、一瞬時なりとも、此苦惱、此煩悶を解脱れようと力め、良暫くの間といふものは、身動きもせず、息氣をも吐かず、死人の如くに成ツてゐたが、倏忽勃然と跳ね起きて、 「もしや本田に……。」 ト言ひ懸けて、敢て言ひ詰めず。宛然何歟搜索でもするやうに、愕然として四邊を環視した。それにしても、此の疑念は何處から生じたもので有らう。天より降ツたか、地より沸いたか、抑もまた文三の僻みから出た蜃樓海市か。忽然として生じて、思はずして來り、恍々惚々として其來處を知るに由なし。とはいへど、何にもせよ、彼程までに、足掻きつ、 もがきつして、穿鑿しても解らなかツた、所謂冷淡中の一物を、今譯もなく造作もなく、ツイチヨツト、突留めたらしい心持がして、文三覺えず身の毛が彌立ツた。 とは云ふものの、心持は未だ事實でない。事實から出た心持で無ければ、ウカとは信を措き難い。依て今迄のお勢の擧動を憶出して、熟思審察して見るに、さらに其樣な氣色は見えない。成程お勢はまだ若い。血氣もまだ定らない。志操も或は根強く有るまい。が、栴檀は二葉から馨ばしく、蛇は一寸にして人を呑む氣が有る。文三の眼より見る時は、お勢は所謂女豪の萌芽だ。見識も高尚で、氣韻も高く、洒洒落々として愛すべく、尊ぶべき少女であツて見れば、假令道徳を飾物にする僞君子、磊落を粧ふ似而非豪傑には、或は欺かれもしよう、迷ひもしようが、昇如き彼樣な卑屈な、輕薄な、犬畜生にも劣ツた奴に、怪我にも迷ふ筈はない。さればこそ、常から文三には親切でも昇には冷淡で、文三をば推尊してゐても、昇をば輕蔑してゐる。相愛は相敬の隣に棲む。輕蔑しつゝ迷ふといふは、我輩人間の能く了解し得る事でない。 「して見れば、大丈夫かしら。……が……。」 ト、また引懸りが有る、まだ決徹しない。文三が周章ててブル/\と首を振ツて見たが、それでも未だ散りさうにもしない。此の「が」奴が、藕絲孔中蚊睫の間にも這入りさうな此の眇然たる一小「が」奴が、眼の中の星よりも邪魔になり、地平線上に現はれた砲車一片の雲よりも畏ろしい。 然り、畏ろしい。此の「が」の先には、如何な不了簡が竊まツてゐるかも知れぬ、と思へば文三畏ろしい。物にならぬ内に一刻も早く散らして仕舞ひたい。しかし、散らして仕舞ひたいと思ふほど尚ほ散り難る。加之も、時刻の移るに隨つて、枝雲は出來る、砲車雲は擴がる、今にも一大颶風が吹起りさうに見える。氣が氣で無い……。 國許より郵便が參ツた。散らし藥には屈竟の物が參ツた。飢ゑた蒼鷹が小鳥を抓むのは、此樣な鹽梅で有らうか、と思ふ程に、文三が手紙を引掴んで、封目を押切ツて、故意と聲高に讀み出したが、中頃に至ツて……フト默して考へて……また讀出して……また默して……また考へて……遂に天を仰いで、轟然と一大笑を發した。何を云ふかと思へば、 「お勢を疑ふなんぞと云ツて、我も餘程如何かしてゐる。アハヽヽヽ。歸ツて來たら全然咄して、笑ツて仕舞はう。お勢を疑ふなんぞと云ツて、アハヽヽヽ。」 此最後の大笑で、砲車雲は全く打拂ツたが、其代り、手紙は何を讀んだのだか、皆無判らない。 ハツと氣を取直して、文三が眞面目に成ツて落着いて、さて再び母の手紙を讀んで見ると、免職を知らせ手紙のその返辭で、老耋の惡い耳、愚癡を溢したり薄命を歎いたりしさうなものの、文の面を見れば、其樣なけびらひは露程もなく、何も角も因縁づくと斷念めた、思切りのよい文言。しかし、流石に心細いと見えて、返す書に、跡で憶出して書き加へたやうに、薄墨で、 「かう申せば、そなたはお笑ひ被成候かは存じ不申候へども、手紙の着きし當日より、一日も早く、舊のやうにお成り被成候やうに、○○のお祖師さまへ茶斷して、願掛け致し居り候まゝ、そなたもその積りにて、油斷なく御奉公口をお尋ね被下度念じ まいらせそろ。」 文三は手紙を下に措いて、默然として腕を拱んだ。 叔母ですら愛想を盡かすに、親なればこそ子なればこそ、ふがひないと云ツて愚癡をも溢さず、茶斷までして子を勵ます、その親心を汲分けては、難有泪に暮れさうなもの、トサ、文三自分にも思ツたが、如何したものか感涙も流れず、唯、何となくお勢の歸りが待遠しい。 「畜生、慈母さんが是程までに思ツて下さるのに、お勢なんぞの事を……不孝極まる。」 ト勃然として、自ら叱責ツて、お勢の貌を視るまでは、外出などを做度く無いが、故意と意地惡く、「是から往ツて頼んで來よう。」 ト口に言ツて、「お勢の歸ツて來ない内に」と、内心で言足しをして、憤々しながら晩餐を喫して宿所を立出で、疾足に番町へ參ツて、知己を尋ねた。 知己と云ふのは石田某と云ツて、某學校の英語の教師で、文三とは師弟の間繋、曾て某省へ奉職したのも、實は此の男の周旋で。 此の男は曾て、英國に留學した事が有るとかで、英語は一通り出來る。當人の噺に據れば、彼地では經濟學を修めて、隨分上出來の方で有ツたと云ふ事で、歸朝後も、經濟學で立派に押し廻される所では有るが、少々仔細有ツて、當分の内(七八年來の當分の内)唯の英語の教師をしてゐると云ふ事で。 英國の學 兎も角も、流石は留學しただけ有りて、英國の事情、即ち、上下議員の宏壯、 日本の事情は皆無解らないが、當人は一向苦にしないのみならず、凡そ一切の事、一切の物を、「日本の」トさへ冠詞が附けば、則ち鼻息でフムと吹飛ばして仕舞ツて、而して平氣で濟ましてゐる。 まだ中年の癖に、此男は宛も老人の如くに、過去の追想而已で生活してゐる。人に會へば必ず先づ、留學して居た頃の手柄噺を咄し出す。尤も之を封じては、更に談話の出來ない男で。 知己の者は、此男の事を種々に評判する。或は、「懶惰」ト云ひ、或は「鐵面皮だ」ト云ひ、或は「自惚だ」ト云ひ、或は「法螺吹きだ」ト云ふ。此の最後の説だけには、新知、故交、統括めて總起立。藥種屋の丁稚が、熱に浮かされたやうに、「さうだ」トいふ。 「しかし、毒が無くツて宜い、」ト誰だか評した者が有ツたが、是は極めて確評で、恐らくは毒が無いから、懶惰で、鐵面皮で、自惚で、法螺を吹くのだ、と云ツたら、或は「イヤ懶惰で、鐵面皮で、自惚で、法螺を吹くから、それで毒が無いやうに見えるのだ、」ト云ふ説も出ようが、兎も角も文三は然う信じてゐるので。 尋ねて見ると、幸ひ在宿。乃ち面會して委細を咄して依頼すると、「よろしい、承知した。」ト手輕な挨拶。文三は肚の裏で、「毒がないから安請合をするが、其代り、身を入れて周旋はして呉れまい。」ト思ツて、私に嘆息した。 「是れが英國だと、君一人位どうでもなるんだが、日本だからいかん、我輩かう見えても、英國にゐた頃は、隨分知己が [12]有ツたものだ。タイムス新聞の社員で某サ、それから……。」 と記憶に存した知己の名を、一々言ひ立てての噺。屡々聞いて、耳にタコが入つてゐる程では有るが、イエ、其のお噺なら、最う承りましたとも言兼ねて、文三も初て聞くやうな面相をして、耳を貸してゐる。その焦れツたさ、もどかしさ。モヂ/\しながら到頭二時間許りといふもの、無間斷に受けさせられた。その受賃といふ譯でも有るまいが、歸り際になツて、 「新聞の翻譯物が有るから周旋しよう。明後日午後に來給へ、取寄せて置かう。」 トいふから、文三は喜びを述べた。 「フン新聞か。……日本の新聞は、英國の新聞から見りや、全で小兒の新聞だ、見られたものぢやない……。」 文三は狼狽てて、告別の挨拶を仕直して、匆々に戸外へ立ち出で、ホツと一息溜息を吐いた。 早くお勢に逢ひたい。早くつまらぬ心配をした事を咄して仕舞ひたい。早く心の清い所を見せてやり度い。ト、一心に思詰めながら、文三がいそ/\歸宅して見ると、お勢はゐない、お鍋に聞けば、一旦歸ツて、また入湯に往ツたといふ。文三些し拍子拔けがした。 居間へ戻ツて燈火を點じ、臥て見たり、起きて見たり、立ツて見たり、坐ツて見たりして、今か/\と文三が一刻千秋の思ひをして、頸を延ばして待構へてゐると、頓て格子戸の開く音がして、縁側に優しい聲がして、梯子段を上る跫音がして、お勢が目前に現はれた。只見れば常さへ艶やかな緑の黒髮は水氣を含んで、天鵞絨をも欺くばかり、玉と透徹る肌は鹽引の色を帶びて、眼元にはホンノリと紅を潮した鹽梅。何處やらが惡戯らしく見えるが、ニツコリとした口元の可憐らしい處を見ては、是非を論ずる遑がない。文三は何も角も忘れて仕舞ツて、だらしも無くニタニタと笑ひながら、 「お歸んなさい。如何でした、團子坂は。」 「非常に雜沓しましたよ、お天氣が宜いのに、日曜だつたもんだから。」 と言ひながら、膝から先へベツタリ坐ツて、お勢は兩手で嬌面を掩ひ、 「アヽせつない。厭だと云ふのに、本田さんが無理にお酒を飮まして。」 「母親さんは。」 ト文三が尋ねた。お勢が何を言ツたのだか、トント解らないやうで。 「お湯か ト聞いて、文三は、滿面の笑を半ば引込ませた。 「それからネ、私共を家へ送り込んでから、仕樣が無いんですものヲ、巫山戲て/\。それに慈母さんも惡いのよ、今夜だけは大眼に看て置くなんぞツて、云ふもんだから、好い氣になツて尚ほ巫山戲て……オホヽヽ。」 ト思出し笑をして、 「眞個に失敬な人だよ。」 文三は全く笑を引込ませて仕舞ツて、腹立しさうに、 「そりや、嘸面白かツたでせう。」 ト云ツて顏を皺めたが、お勢はさらに氣が附かぬ樣子。暫く默然として、何歟考へてゐたが、頓てまた思出し笑をして、 「眞個に失敬な人だよ。」 つまらぬ心配をした事を全然咄して、快く一笑に付して、心の清い所を見せて、お勢に……お勢に……感心させて、而して自家も安心しようといふ文三の胸算用は、是に至ツてガラリ外れた。昇が酒を強ひた、飮めぬと云ツたら助けた。何でも無い事。送込んでから巫山戲た。……道學先生に開かせたら、巫山戲させて置くのが惡いと云ふかも知れぬが、しかし是とても酒の上の事、一時の戲なら、然う立腹する譯にもいかなかツたらう。要するに、お勢の噺に於て、深く咎むべき節も無い。が、しかし、文三には氣に喰はぬ。お勢の言樣が氣に喰はぬ。「昇如き犬畜生にも劣ツた奴の事を、さも嬉しさうに、本田さん/\と、噂をしなくツても宜ささうなものだ、」ト思へば、又不平になツて、又面白くなくなツて、又お勢の心意氣が呑込めなく成ツた。文三は差俯向いた儘で、默然として考へてゐる。 「何を其樣に、鬱いでお出でなさるの。」 「何も鬱いぢやゐません。」 「然う、私はまた、お留さん(大方老母が文三の嫁に欲しいと云つた娘の名で)とかの事を懷出して、それで、鬱いでお出でなさるのかと思ツたら、オホヽヽ。」 文三は愕然として、お勢の貌を暫く凝視めて、ホツと溜息を吐いた。 「オホヽヽ溜息をして、矢張當ツたんでせう。ネ、然うでせう。オホヽヽ、當ツたもんだから默ツて仕舞ツて。」 「そんな氣樂ぢや有りません。今日母の處から郵便が來たから、讀んで見れば、私のかういふ身に成ツたを心配して、此頃ぢや茶斷して願掛けしてゐるさうだし……。」 「茶斷して、慈母さんが。オホヽヽ、慈母さんもまだ舊弊だ事ネー。」 文三はジロリとお勢を尻眼に懸けて、恨めしさうに、 「貴孃にや可笑しいか知らんが、私にや薩張可笑しく無い。薄命とは云ひながら、私の身が定らん許りで、老耋ツた母にまで、心配掛けるかと思へば、隨分……耐らない。それに慈母さんも……。」 「また、何とか云ひましたか。」 「イヤ何とも仰しやりはしないが、アレ以來始終氣不味い顏ばかりしてゐて、打解けては下さらんし……それに……それに……。」 「貴孃も。」ト口頭まで出たが、如何も鐵面皮しく、嫉妬も言ひかねて、思ひ返して仕舞ひ、 「兎も角も、一日も早く、身を定めなければ成らぬと思ツて、今も石田の處へ往ツて頼んでは來ましたが、しかし、是れとても恃にはならんし、實に……弱りました。唯私一人苦しむのなら、何でもないが、私の身の定らぬ爲めに方方が我他彼此するので、誠に困る。」 ト萎れ返ツた。 「然うですネー。」 ト今まで冴えに冴えてゐたお勢も、トウ/\引込まれて、共に氣をめいらして仕舞ひ、暫くの間、默然としてつまらぬものでゐたが、頓て小さな欠伸をして、 「アヽ睡く成ツた。ドレ最う往ツて寢ませう。お休みなさいまし。」 ト會釋をして起立ツて、フト立止まり、 「ア、然うだツけ……文さん、貴君はアノー、課長さんの令妹を御存知。」 「知りません。」 「さう。今日ネ、團子坂でお眼に懸ツたの。年紀は十六七でネ、隨分別嬪は……別嬪だツたけれども、束髮の癖に、ヘゲル程白粉を施けて、……薄化粧なら宜いけれども、彼樣に施けちやア、厭味ツたらしくツてネー。……オヤ好い氣なもんだ。また噺込んでゐる積りだと見えるよ。お休みなさいまし。」 ト再び會釋して、お勢は二階を降りて仕舞ツた。縁側で、唯今歸ツた許りの母親に出逢ツた。 「お勢。」 「エ。」 「エぢやないよ。またお前、二階へ上ツてたネ。」 また始まツたと云ツたやうな面相をして、お勢は返答をもせず、其儘子舎へ這入ツて仕舞ツた。さて子舎へ這入ツてから、お勢は手疾く寢衣を着替へて床へ這入り、暫くの間、臥ながら今日の新聞を覽てゐたが、……フト新聞を取落した。寢入ツたのかと思へば、然うでもなく、眼はパツチリ視開いてゐる。其癖靜まり返ツてゐて、身動きをもしない。頓て、 「何故、アヽ不活溌だらう。」 ト口へ出して、考へて、フト兩足を踏伸ばして嫣然笑ひ、狼狽てて起揚ツて、枕頭の洋燈を吹消して仕舞ひ、枕に就いて、二三度臥反りを打ツたかと思ふと、間も無くスヤスヤと寢入ツた。 第九囘 すわらぬ肚今日は十一月四日。打續いての快晴で、空は餘殘なく晴れ渡ツてはゐるが、憂愁ある身の心は曇る文三は、朝から一室に垂籠めて、獨り屈託の頭を疾ましてゐた。實は昨日、朝飯の時、文三が叔母に對ツて、一昨日、教師を番町に訪うて、身の振方を依頼して來た趣を、縷々咄し出したが、叔母は木然として情寡き者の如く、「へー」ト餘所事に聞流してゐて、さらに取合はなかツた。それが未だに氣になツて氣になツてならないので。 一時頃に、勇が歸宅したとて遊びに參ツた。浮世の鹽を踏まぬ身の氣散じさ、腕押、坐相撲の噺、體操、音樂の噂、取締との議論、賄方征討の義擧から、試驗の模樣、落第の分疏に至るまで、凡そ偶然に懷に浮んだ事は、月足らずの水子思想、まだ完成つてゐなからうが、如何だらうが、其樣な事に頓着はない。訥辯ながら、矢鱈無上に陳べ立てて、返答などは更に聞いてゐぬ。文三も最初こそ相手にも成ツてゐたれ、遂にはポツと精を盡かして仕舞ひ、勇には隨意に空氣を鼓動さして置いて、自分は自分で、餘所事をと云ツた所が、お勢の上や身の成行で、熟思默想しながら、折折間外れな溜息噛交ぜの返答をしてゐる。と、フトお勢が階子段を上ツて來て、中途から貌而已を差出して、 「勇。」 「だから僕ア議論して遣ツたんだ。だツて君、失敬ぢやないか。ボートの順番を、クラツスの順番で……。」 「勇と云へば、お前の耳は木くらげかい。」 「だから、何だと云ツてるぢや無いか。」 「綻を縫つてやるから、シヤツをお脱ぎとよ。」 勇はシヤツを脱ぎながら、 「クラツスの順番で定めると云ふんだもの、ボートの順番をクラツスの順番で定めちやア、僕ア何だと思ふな、僕ア失敬だと思ふな。だツて君、ボートは……。」 「さツさと、お脱ぎで無いかネー、人が待ツてゐるぢや無いか。」 「其樣に、急がなくツたツて宜いやアネ。失敬な。」 「何方が失敬だ……アラ、彼樣な事言ツたら、尚ほ故意と愚頭々々してゐるよ。チヨツ、じれツたいネー。早々としないと、姉さん知らないから宜い。」 「そんな事云ふなら、Bridle pathと云ふ字を知ツてるか。I was at our uncle'sと云ふ事を知ツてるか。I will keep 「チヨイと、お默り……。」 ト口早に制して、お勢が耳を聳てて、何歟聞き濟まして、忽ち滿面に笑を含んで、さも嬉しさうに、 「必と本田さんだよ。」 ト言ひながら、狼狽てて梯子段を駈け下りて仕舞ツた。 「オイ/\姉さん、シヤツを持ツてツとくれツてば……。オイ……ヤ、失敬な、モウ往ツちまツた。渠奴、近頃、生意氣になツていかん。先刻も僕ア喧嘩して遣ツたんだ。婦人の癖に園田勢子と云ふ名刺を拵へるツてツたから、お勢ツ子で澤山だツてツたら、非常に憤ツたツけ。」 「アハヽヽヽ。」 ト今迄默想してゐた文三が、突然、無茶苦茶に高笑ひを做出したが、勿論秋毫も、可笑しさうでは無かツた。しかし、少年の議論家は、稱讚されたのかと思ツたと見えて、 「お勢ツ子で澤山だ。婦人の癖に、いかん、生意氣で。」 ト云ひながら、得々として二階を降りて往ツた跡で、文三は暫くの間、また腕を拱んで默想してゐたが、フト何歟憶出したやうな面相をして、起上ツて羽織だけを着替へて、帽子を片手に二 奧の間の障子を開けて見ると、果して昇が遊びに來てゐた。加之も、傲然と、火鉢の側に大胡坐をかいてゐた。その傍にお勢がベツたり坐ツて、何かツベコベと端手なく囀づツてゐた。少年の議論家は、素肌の上に上衣を羽織ツて、仔細らしく首を傾けて、ふかし甘薯の皮を剥いて居、お政は仰々しく針箱を前に控へて、覺束ない手振で、シヤツの綻を縫合はせてゐた。 文三の顏を視ると、昇が顏で電光を光らせた、蓋し挨拶の積りで。お勢もまた後方を振返ツて顧は顧たが、「誰かと思ツたら、」ト云はぬ許りの、索然とした情味の無い相貌をして、急にまた彼方を向いて仕舞ツて、 「眞個。」 ト云ひながら、首を傾げて、チヨイと昇の顏を凝視めた光景。 「眞個さ。」 「虚言だと聽きませんよ。」 アノ筋の解らない、他人の談話と云ふものは、聞いて餘り快くは無いもので。 「チヨイと番町まで。」ト文三が叔母に會釋をして、起上らうとすると、昇が、 「オイ内海、些し噺が有る。」 「些と急ぐから……。」 「此方も急ぐんだ。」 文三はグツと視下ろす、昇は視上げる。眼と眼を疾視合はした。何だか異な鹽梅で。それでも文三は、澁々ながら、座鋪へ這入ツて座に着いた。 「他の事でも無いんだが。」 ト昇がイヤに冷笑しながら咄し出した。スルトお政は、フト針仕事の手を止めて、不思議さうに昇の貌を凝視めた。 「今日役所での評判に、此間免職に成ツた者の中で、二三人復職する者が出來るだらうと云ふ事だ。然う云やア、課長の談話に、些し思ひ當る事も有るから、或は實説だらうかと思ふんだ。所で、我輩考へて見るに、君が免職になツたので、叔母さんは勿論、お勢さんも……。」 ト云懸けてお勢を尻眼に懸けてニヤリと笑ツた。お勢はお勢で、可笑しく下脣を突出して、ムツと口を結んで、額で昇を疾視付けた、イヤ疾視付ける眞似をした。 「お勢さんも、非常に心配してお出でなさるし、且つ君だツても、ナニも遊んでゐて食へると云ふ身分でも有るまいしするから、若し復職が出來れば此上も無いと云ツたやうなもんだらう。そこで、若し果して然うならば、宜しく人の定らぬ内に、課長に呑込ませて置く可しだ。が、しかし、君の事たから、今更直付けに往き難いとでも思ふなら、我輩一臂の力を假しても宜しい、橋渡しをしても宜しいが、如何だ、お思食は。」 「それは御親切……難有いが……」 ト言懸けて、文三は默して仕舞ツた。迷惑は匿しても匿し切れない、自ら顏色に現はれてゐる。モヂ付く文三の光景を視て、昇は早くもそれと悟ツたか、 「厭かネ。ナニ厭なものを無理に頼んで周旋しようと云ふんぢや無いから、そりや如何とも君の隨意さ。だが、しかし、……痩我慢なら、大抵にして置く方が宜からうぜ。」 文三は血相を變へた……。 「そんな事仰しやるが無駄だよ。」 トお政が横合から嘴を容れた。 「内の文さんは、グツと氣位が立ち上ツてお出でだから、其樣な卑劣な事ア出來ないツサ。」 「ハヽア、然うかネ。其れは至極お立派な事た。ヤ、是れは飛んだ失敬を申し上げました、アハヽヽ。」 ト聞くと等しく、文三は眞青になつて、慄然と震へ出して、拳を握ツて、齒を喰切ツて、昇の半面をグツと疾視付けて、今にもむしやぶり付きさうな顏色をした。……が、ハツと心を取直して、 「エヘ。」 何となく席がしらけた。誰も口をきかない。勇がふかし甘薯を頬張ツて、右の頬を脹らませながら、モツケな顏をして文三を凝視めた。お勢もまた、不思議さうに、文三を凝視めた。 「お勢が顏を視てゐる。……此儘で阿容々々と退くは殘念。何か云ツて遣り度い。何かカウ品の好い惡口雜言、一言の下に、昇を氣死させる程の事を云ツて、アノ鼻頭をヒツ擦ツて、アノ者面を赧らめて……。」トあせる許りで、凄み文句は以上見附からず、而してお勢を視れば、尚ほ文三の顏を凝視めてゐる……。文三は周章狼狽とした……。 「モウ、そ……それツ切りかネ。」 ト覺えず取外して云ツて、我ながら我音聲の變ツてゐるのに吃驚した。 「何が。」 またやられた。蒼ざめた顏をサツと赧らめて、文三が、 「用事は。」 「ナニ用事。……ウー、用事か。用事と云ふから判らない。……左やう、是れツ切りだ。」 モウ席にも堪へかねる。默禮するや否や、文三が蹶然起上ツて、座鋪を出て二三歩すると、後の方で、ドツと口を揃へて高笑ひをする聲がした。文三また慄然と震へて、また蒼ざめて、口惜しさうに奧の間の方を睨詰めたまゝ、暫くの間、釘付けに逢ツたやうに、立在んでゐた。が、頓てまた、氣を取直して悄々と出て參ツた。 が、文三、無念で、殘念で、口惜しくて、堪へ切れぬ憤怒の氣が、クワツと許りに激昂したのをば、無理無體に壓着けた爲めに、發しこぢれて、内攻して、胸中に磅 はく鬱積する、胸板が張裂ける、腸が斷絶れる。 無念々々、文三は恥辱を取ツた。ツイ近屬と云ツて、二三日前までは、官等に些とばかり高下は有りとも、同じ一課の局員で、優り劣りが無ければ、押しも押されもしなかツた昇如き犬自物の爲めに恥辱を取ツた。然り恥辱を取ツた。しかし、何の遺恨が有ツて、如何なる原因が有ツて。 想ふに、文三、昇にこそ怨はあれ、昇に怨みられる覺えは更にない。然るに昇は何の道理も無く、何の理由もなく、恰も人を辱める特權でも有ツてゐるやうに、文三を土芥の如くに蔑視して、犬猫の如くに待遇ツて、剩へ、叔母やお勢の居る前で嘲笑した、侮辱した。 復職する者が有ると云ふ役所の評判も、課長の言葉に思ひ當る事が有ると云ふも、昇の云ふ事なら恃にはならぬ。假令、其等は實説にもしろ、人の痛いのなら百年も我慢すると云ふ昇が、自家の利益を賭物にして、他人の爲めに周旋しようと云ふ、まづ、其れからが呑み込めぬ。 假りに一歩を讓ツて、全く朋友の眞實心から、彼樣な事を言出したとした所で、それなら其れで言樣が有る。それを昇は、官途を離れて零丁孤苦、みすぼらしい身に成ツたと云ツて文三を見括ツて、失敬にも、無禮にも、復職が出來たら此上が無からう、と云ツた。 それも宜しいが、課長は、昇の爲めに課長なら、文三の爲めにもまた課長だ。それを昇は、恰も自家一個の課長のやうに、課長々々とひけらかして、頼みもせぬに「一臂の力を假してやらう、橋渡しをしてやらう、」と云ツた。疑ひも無く、昇は、課長の信用、三文不通の信用、主人が奴僕に措く如き信用を得てゐると云ツて、それを鼻に掛けてゐるに相違ない。それも己一個で鼻に掛けて、己一個でひけらかして、己と己が愚を披露してゐる分の事なら、空家で棒を振ツた許り、當り觸りが無ければ、文三も默ツても居よう、立腹もすまいが、その三文信用を挾んで、人に臨んで、人を輕蔑して、人を嘲弄して、人を侮辱するに至ツては、文三腹に据ゑかねる。 面と向ツて、圖大柄に、「痩我慢なら大抵にしろ、」ト、昇は云ツた。 痩我慢、痩我慢、誰が痩我慢してゐると云ツた。また何を痩我慢してゐると云ツた。 俗務をおツつくねて、課長の顏色を承けて、強ひて笑ツたり、諛言を呈したり、四ン這に這ひ廻ツたり、乞食にも劣る眞似をして、漸くの事で三十五圓の慈惠金に有り附いた。……それが何處が榮譽になる。頼まれても文三には、其樣な卑屈な眞似は出來ぬ。それを昇は、お政如き愚癡無智の婦人に持長じられると云ツて、我程働き者はないと自惚れて仕舞ひ、加之も廉潔な心から、文三が手を下げて頼まぬと云へば、嫉み妬みから負惜しみをすると、臆測を逞うして、人も有らうに、お勢の前で、「痩我慢なら、大抵にしろ。」口惜しい、腹が立つ、餘の事は兎も角も、お勢の目前で辱められたのが口惜しい。 「加之も、辱められる儘に辱められてゐて、手出しもしなかツた。」 ト、何處でか、異な聲が聞えた。 「手出しをしなかツたのだ。手出しが爲度くも爲得なかツたのぢやない。」 ト、文三、憤然として分疏を爲出した。 「我だツて男子だ。蟲も有る、膽氣も有る。昇なんぞは蚊蜻蛉とも思ツてゐぬが、しかし、彼時憖じ、此方から手出しをしては、益々向うの思ふ坪に陷ツて、玩弄される許りだし、且つ婦人の前でも有ツたから、爲難い我慢もして遣ツたんだ。 トは知らずして、お勢が怜悧に見えても未惚女の事なら、蟻とも、螻とも、糞中の蛆とも云ひやうのない人非人、利の爲めにならば、人糞をさへ嘗めかねぬ廉恥知らず、昇如き者の爲めに、文三が嘲笑されたり、玩弄されたり、侮辱されたりしても、手出しをもせず、阿容々々として退いたのを視て、或は腑甲斐ない、意氣地が無い、と思ひはしなかツたか。……假令、お勢は何とも思はぬにしろ、文三はお勢の手前、面目ない、恥かしい……。 「ト云ふも、昇、貴樣から起ツた事だぞ。ウヌ、如何するか見やがれ。」 ト憤然として、文三が拳を握ツて、齒を喰切ツて、ハツタと許りに疾視付けた。疾視付けられた者は通りすがりの巡査で。巡査は立止ツて、不思議さうに文三の脊丈を眼分量に見積ツてゐたが、それでも、何とも言はずに、また彼方の方へと巡行して往ツた。 愕然として、文三が、夢の覺めたやうな面相をして、キヨロキヨロと四邊を環視して見れば、何時の間にか靖國神社の華表際に鵠立んでゐる。考へて見ると、成程爼橋を渡ツて、九段坂を上ツた覺えが、微かに殘ツてゐる。乃ち社内へ進入ツて、左手の方の杪枯れた櫻の木の植込みの間へ這入ツて、兩手を背後に合はせながら、顏を皺めて、其處此處と徘徊き出した。蓋し、尋ねようと云ふ石田の宿所は、後門を拔ければツイ其處では有るが、何分にも、胸に燃す修羅苦羅の火の手が盛んなので、暫く散歩して餘熱を冷ます積りで。 「しかし、考へて見ればお勢も恨みだ。」 ト文三が徘徊きながら、愚癡を溢し出した。 「現在自分の……我が、本田のやうな畜生に辱められるのを傍觀してゐながら、くやしさうな顏もしなかツた。……平氣で、人の顏を視てゐた……。」 「加之も立際に、一所に成ツて高笑ひをした、」ト無慈悲な記憶が、容赦なく言足した。 「然うだ、高笑ひをした。……して見れば、彌々心變りがしてゐるか知らん。」 ト思ひながら、文三が力無ささうに、とある櫻の樹の下に据ゑ付けてあツたペンキ塗りの腰掛へ腰を掛ける、と云ふよりは寧ろ尻餅を搗いた。暫くの間は、腕を拱んで、頤を襟に埋めて、身動きをもせずに、靜まり返ツて默想してゐたが、忽ちフツと首を振揚げて、 「ヒヨツトしたら、お勢に愛想を盡かさして……そして自家の方に靡かさうと思ツて……それで故意と我を……お勢のゐる處で我を……然ういへば、アノ言樣、アノ……お勢を視た眼付……コ、コ、コリヤ、此儘には措けん……。」 ト云ツて、文三は血相を變へて、突立ち上ツた。 が、如何したもので有らう。 何歟、カウ、非常な手段を用ひて、非常な豪膽を示して、 「文三は男子だ、蟲も膽氣も此の通り有る。今まで何と言はれても、笑ツて濟ましてゐたのはナ、全く恢量大度だからだぞ、無氣力だからでは無いぞ。」ト、口で言はんでも行爲で見せ付けて、昇の膽を褫ツて、叔母の睡を覺まして、若し愛想を盡かしてゐるならば、お勢の信用をも買戻して、そして……そして……自分も實に膽氣が有ると……確信して見度いが、如何したもので有らう。 思ふさま、言ツて、言ツて、言ひまくツて、而して斷然絶交する。……イヤ/\、昇も仲々口強馬、舌戰は文三の得策でない、と云ツて、正可、腕力に訴へる事も出來ず。 「ハテ、如何して呉れよう。」 ト、殆んど口へ出して云ひながら、文三がまた舊の腰掛に尻餅を搗いて、熟々と考へ込んだ儘、一時間許りと云ふものは、靜まり返ツてゐて、身動きをもしなかツた。 「オイ、内海君。」 ト云ふ聲が頭上に響いて、誰だか肩を叩く者が有る。吃驚して、文三がフツと顏を振揚げて見ると、手摺れて垢光りに光ツた洋服、加之も二三ケ處手痍を負うた奴を着た壯年の男が、餘程酩酊してゐると見えて、鼻持のならぬ程の熟柿臭い香をさせ乍ら、何時の間にか目前に突立ツてゐた。見れば舊と同僚で有ツた山口某といふ男で、第一囘にチヨイと噂をして置いた、アノ山口と同人で、矢張踏外し連の一人。 「ヤ、誰かと思ツたら一別以來だネ。」 「ハヽヽ一別以來か。」 「大分御機嫌のやうだネ。」 「然り、御機嫌だ。しかし酒でも飮まんぢやア堪らん。アレ以來、今日で五日になるが、毎日酒浸しだ。」 ト云ツて、その證據立の爲めにか、胸で妙な間投詞を發して聞かせた。 「何故また、然うDespairを起したもんだネ。」 「Despairぢやア無いが、しかし、君、面目く無いぢやアないか。何等の不都合が有ツて、我々共を追出したんだらう。また何等の取得が有ツて、彼樣な庸劣な奴許りを選んで殘したのだらう。その理由が聞いて見度いネ。」 ト眞黒に成ツてまくし立てた、その顏を見て、傍を通りすがツた黒衣の園丁らしい男が冷笑した。文三は些し氣まりが惡くなり出した。 「君も然うだが、僕だツても事務にかけちやア……。」 「些し小さな聲で咄し給へ、人に聞える。」 ト氣を附けられて、俄に聲を低めて、 「事務に懸けちや、かう云やア可笑しいけれど、跡に殘ツた奴等に、敢て多くは讓らん積りだ。然うぢやないか。」 「然うとも。」 「然うだらう。」 ト乘地に成ツて、 「然るに唯一種事務外の事務を勉勵しないと云ツて、我我共を追出した。面白く無いぢやないか。」 「面白く無いけれど、しかし、幾程云ツても仕樣が無いサ。」 「仕樣が無いけれども、面白く無いぢやないか。」 「時に、本田の云ふ事だから恃にはならんが、復職する者が二三人出來るだらうと云ふ事だが、君は其樣な評判を聞いたか。」 「イヤ聞かない。ヘエ、復職する者が、二三人。」 「二三人。」 山口は俄に口を鉗んで、何歟默考してゐたが、頓て、少許絶望氣味で、 「復職する者が有ツても、僕ぢやア無い。僕はいかん。課長に憎まれてゐるから、最う駄目だ。」 ト云ツて、また暫く默考して、 「本田は一等上ツたと云ふぢやないか。」 「然うださうだ。」 「どうしても、事務外の事務の巧みなものは違ツたものだね。僕のやうな愚直なものには、迚もアノ眞似は出來ない。」 「誰にも出來ない。」 「奴の事だから、さぞ得意でゐるだらうネ。」 「得意も宜いけれども、人に對ツて失敬な事を云ふから腹が立つ。」 ト云ツて仕舞ツてから、アヽ惡い事を云ツた、と氣が附いたが、モウ取返しは附かない。 「エ、失敬な事を。如何な事を/\。」 「エ、ナニ、些し……。」 「どんな事を。」 「ナニネ、本田が今日僕に、或人の處へ往ツてお髭の塵を拂はないかと云ツたから、失敬な事を云ふと思ツて、ピツタり跳付けてやツたら、痩我慢と云はん許りに云やアがツた。」 「それで君、默ツてゐたか。」 ト山口は憤然として、眼睛を据ゑて、文三の貌を凝視めた。 「餘程、やツつけて遣らうかと思ツたけれども、しかし、彼樣な奴の云ふ事を、取上げるも大人氣ないと思ツて、赦して置いてやツた。」 「そ、そ、それだから不可ん。然う君は内氣だから不可ん。」 ト苦々しさうに冷笑ツたかと思ふと、忽ちまた憤然として、文三の顏を疾視んで、 「僕なら、直ぐ其場でブン打ツて仕舞ふ。」 「打らうと思へば譯は無いけれども、しかし、其樣な疎暴な事も出氣ない。」 「疎暴だツて關はんサ。彼樣な奴は時々打ツてやらんと、癖になツていかん。君だから何だけれども、僕なら直ぐブン打ツて仕舞ふ。」 文三は默して仕舞ツて、最早辯駁をしなかツたが、暫くして、 「時に、君は何だと云ツて、此方の方へ來たのだ。」 山口は俄に、何歟思ひ出したやうな面相をして、 「ア、然うだツけ。……一番町に親類が有るから、此勢で是れから其處へ往ツて金を借りて來ようと云ふのだ。それぢやア是れで別れよう。些と遊びに遣ツて來給へ。失敬。」 と自己が云ふ事だけを饒舌り立てて、人の挨拶は耳にも懸けず、急足に通用門の方へと行く。その後姿を見送りて、文三が肚の裏で、 「彼奴まで我の事を、意氣地なし、と云はん許りに云やアがる。」 第十囘 負けるが勝知己を番町の家に訪へば、主人は不在。留守居の者より翻譯物を受取りて、文三が舊と來た路を引返して、爼橋まで來た頃はモウ點火頃で、町家では皆店洋燈を點してゐる。免職に成ツて懷淋しいから、今頃歸るに食事をもせずに來た、と思はれるも殘念、ト、つまらぬ處に力瘤を入れて、文三はトある牛店へ立寄ツた。 此牛店は、開店してまだ間もないと見えて、見掛は至極よかツたが、裏へ這入ツて見ると大違ひ。尤も客も相應にあツたが、給仕の婢が不慣なので、迷惑く程には手が廻らず、帳場でも間違へれば、出し物も後れる。酒を命じ、肉を命じて、文三が待てど暮らせど持ツて來ない。催促をしても持ツて來ない。また催促をしても、また持ツて來ない。偶々持ツて來れば、後から來た客の處へ置いて行く。流石の文三も、遂には癇癪を起して、嚴しく談じ付けて、不愉快、不平な思ひをして、漸くの事で食事を濟まし、勘定を濟まして、「毎度難有う御座い、」の聲を聞流して、戸外へ出た時には、厄落しでもしたやうな心地がした。 兩側の夜見世を窺きながら、文三がブラ/\と、神保町の通りを通行した頃には、胸のモヤクヤも漸く絶え%\に成ツて、どうやら酒を飮んだらしく思はれて、昇に辱められた事も忘れ、お勢の高笑ひをした事をも忘れ、山口の言葉の氣に障ツたのも忘れ、牛店の不快をも忘れて、唯 かほに當る夜風の涼味をのみ感じたが、しかし長持はしなかツた。 宿所へ來た。何心なく文三が、格子戸を開けて裏へ這入ると、奧座鋪の方でワツ/\と云ふ高笑ひの聲がする。耳を聳てて能く聞けば、昇の聲もその中に聞える。……まだ居ると見える。文三は覺えず立止ツた。「若しまた無禮を加へたら、モウ、その時は破れかぶれ」ト思へば荐りに胸が浪だつ。暫く鵠立んでゐて、度胸を据ゑて、戰爭が始まる前の軍人の如くに、思切ツた顏色をして、文三は縁側へ廻り出た。 奧座鋪を窺いて見ると、杯盤狼藉と取散らしてある中に、昇が背なかに、圓く切拔いた白紙を張られて、ウロ/\として立ツてゐる。その傍にお勢とお鍋が、腹を抱へて絶倒してゐる。が、お政の姿はカイモク見えない。顏を見合はしても「歸ツたか、」ト云ふ者もなく、「叔母さんは、」ト尋ねても、返答をする者もないので、文三が憤々しながら、其儘にして行き過ぎて仕舞ふと、忽ち後の方で、 昇「オヤ、此樣な惡戲をしたネ。」 勢「アラ、私ぢや有りませんよ。アラ、鍋ですよ。オホホヽ。」 鍋「アラ、お孃さまですよ。オホヽヽヽ。」 昇「誰も彼も無い、二人共敵手だ。ドレまづ此の肥滿奴から。」 鍋「アラ、私ぢや有りませんよ。オホヽヽヽ。アラ、厭ですよ。……アラー、御新造さアん引」 ト大聲を揚げさせての騒動、ドタバタと云ふ跫音も聞えた。オホヽヽと云ふ笑ひ聲も聞えた。お勢の荐りに、「引掻いてお遣りよ、引掻いて。」ト叫喚く聲もまた聞えた。 騒動に氣を取られて、文三が覺えず立止まりて、後方を振向く途端に、バタ/\と跫音がして、避ける間もなく、誰だかトンと文三に衝當ツた。狼狽てた聲で、お政の聲で、 「オー危い。誰だネー、此樣な處に默ツて突立ツて。」 「ヤ、コリヤ失敬。……文三です。……何處ぞ痛めはしませんでしたか。」 お政は何とも言はずに、ツイと奧座鋪へ這入りて、跡ピツシヤリ。恨めしさうに跡を見送ツて、文三は暫く立在んでゐたが、頓て二階へ上ツて來て、まづ手探りで洋燈を點じて、机の邊に蹲踞してから、さて、 「實に淫哇だ。叔母や本田は論ずるに足らんが、お勢が、品格々々と口癖に云ツてゐるお勢が、彼樣な猥褻な席に連ツてゐる。……加之も、一所に成ツて巫山戲てゐる。……平生の持論は何處へ遣ツた。何の爲めに學問をした。先自侮而後人侮之。その位の事は承知してゐるだらう。それでゐて、彼樣な眞似を……實に淫哇だ。叔父の留守に不取締が有ツちやア我が濟まん。明日嚴敷叔母に…。」 トまで調子に連れて默想したが、此に至ツて、フト、今の我身を省みて、グンニヤリと萎れて仕舞ひ、暫くしてから、「まづ兎も角も、」ト氣を替へて、懷中して來た翻譯物を取り出して讀み初めた。 "The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political parties threatens to become more formidable with the increasing influence of what has hitherto been called the Radical party. For over fifty years the party……" ドツと下座鋪でする高笑ひの聲に、流讀の腰を折られて、文三はフト口を鉗んで、 「チヨツ、失敬極まる。我の歸ツたのを知ツてゐながら、何奴も此奴も本田一人の相手に成ツて、チヤホヤしてゐて、飯を喰ツて來たかと云ふ者も無い。……ア、また笑ツた、アリヤお勢だ。……彌々心變りがしたならしたと云ふが宜い。切れてやらんとは云はん。何の糞、我だツて男兒だ。心變のした者に……。」 ハツと心附いて、また一越調子高に、 "The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political ……" フト、格子戸の開く音がして、笑聲がピツタリ止つた。文三は耳を聳てた。匆はしく縁側を通る人の足音がして、暫くすると梯子段の下で、洋燈を如何とか斯うとか云ふお鍋の聲がしたが、それから後は肅然として、音沙汰なしになツた。何となく來客でもある容子。 高笑ひの聲がする内は、何をしてゐる位は大抵想像が附いたから、まづ宜かツたが、斯う靜ツて見ると、サア容子が解らない。文三些し不安心に成ツて來た。「客の相手に、叔母は座鋪へ出てゐる。お鍋も用がなければ可し、有れば傍に附いてはゐない。シテ見ると……。」ト、文三は起ツたり居たり。 キツと思付いた、イヤ憶出した事が有る。今始ツた事では無いが、先刻から醉醒めの氣味で咽喉が渇く。水を飮めば渇が歇まるが、しかし水は臺所より外には無い。而して臺所は二階には附いてゐない故に、若し水を飮まんと欲せば、是非共下座鋪へ降りざるを得ず。「折が惡いから、何となく何だけれども、しかし我慢してゐるも馬鹿氣てゐる。」ト、種々に分疏をして、文三は遂に二階を降りた。 臺所へ來て見ると、小洋燈が點しては有るが、お鍋は居ない。皿小鉢の洗ひ懸けた儘で打捨てて有る所を見れば、急に用が出來て使にでも往ツたものか。「奧座鋪は、」と聞耳を引立てればヒソ/\と私語く聲が聞える。全身の注意を耳一つに集めて見たが、どうも聞取れない。ソコで竊むが如くに水を飮んで、拔足をして臺所を出ようとすると、忽ち奧座鋪の障子がサツと開いた。文三は振返ツて見て、覺えず立止ツた。お勢が開懸けた障子に掴まツて、出るでも無く出ないでもなく、唯此方へ背を向けて立在んだ儘で座鋪の裏を窺き込んでゐる。 「チヨイト ト云ふは慥に昇の聲。お勢はだらしもなく頭振りを振りながら、 「厭サ、彼樣な事をなさるから。」 「モウ惡戲しないから、お出でと云へば。」 「厭。」 「ヨーシ、厭と云ツたネ。」 「眞個は、其處へ往きませうか。」 ト、チヨイと首を傾げた。 「ア、お出で。サア……サア……。」 「何方の眼で。」 「コイツメ。」 ト確に起上る眞似。 オホヽヽと笑ひを溢しながら、お勢は狼狽てて駈出して來て、危く文三に衝き當らうとして、立止ツた。 「オヤ誰。……文さん。……何時歸ツたの。」 文三は何とも言はず、ツンとして二階へ上ツて仕舞ツた。 その後からお勢も續いて上ツて來て、遠慮會釋も無く文三の傍にベツタリ坐ツて、常よりは馴々敷く、加之も顏を皺めて可笑しく身體を搖りながら、 「本田さんが巫山戲て/\、仕樣がないんだもの。」 ト鼻を鳴らした。 文三は恐ろしい顏色をして、お勢の柳眉を顰めた嬌面を疾視付けたが、戀は曲物、かう疾視付けた時でも、尚ほ「美は美だ、」と思はない譯にはいかなかツた。折角の相好も、どうやら崩れさうに成ツた。……が、ハツと心附いて、故意と、苦々しさうに冷笑ひながら、外方を向いて仕舞ツた。 折柄梯子段を蹈轟かして、昇が上ツて來た。ジロリと兩人の光景を見るや否や、忽ちグツと身を反らして、さも仰山さうに、 「是だもの。……大切なお客樣を置去りにしておいて。」 「だツて、貴君が、彼樣な事をなさるもの。」 「何樣な事を。」 ト云ひながら、昇は坐ツた。 「どんな事ツて、彼樣な事を。」 「ハヽヽ此奴ア宜い。それぢやア、彼樣な事ツて如何な事を。ソラ、いゝたちこツこだ。」 「そんなら云ツてもよう御座んすか。」 「宜しいとも。」 「ヨーシ、宜しいと仰しやツたネ。そんなら云ツて仕舞ふから宜い。アノネ、文さん、今ネ、本田さんが……。」 ト言懸けて、昇の顏を凝視めて、 「オホヽヽ、マア、かにして上げませう。」 「ハヽヽ、言へ無いのか。夫れぢやア我輩が代ツて噺さう。今ネ、本田さんがネ……。」 「本田さん。」 「私の……。」 「アラ、本田さん、仰しやりやア承知しないから宜い。」 「ハヽヽ、自分から言ひ出して置きながら、然うも亭主と云ふものは恐いものかネ。」 「恐かア無いけれども、私の不名譽になりますもの。」 「何故。」 「何故と云ツて、貴君に凌辱されたんだもの。」 「ヤ、是れは、飛んでも無いことをお云ひなさる。唯チヨイと……。」 「チヨイと/\、本田さん、敢て一問を呈す。オホヽヽ、貴君は何ですよ。口には同權論者だ同權論者だ、と仰しやるけれども、虚言ですよ。」 「同權論者でなければ、何だと云ふんでゲス。」 「非同權論者でせう。」 「非同權論者なら。」 「絶交して仕舞ひます。」 「エ、絶交して仕舞ふ。アラ恐ろしの決心ぢやなアぢやないか。アハヽヽ。如何して/\、我輩程熱心な同權論者は、恐らくは有るまいと思ふ。」 「虚言仰しやい。譬へばネ、熱心でも貴君のやうな同權論者は、私ア大嫌ひ。」 「是れは御挨拶。大嫌ひとは、情けない事を仰しやる。そんなら如何いふ同權論者がお好き。」 「如何云ふツて、アノー僕の好きな同權論者はネ、アノー……。」 ト横眼で、天井を眺めた。 昇が小聲で、 「文さんのやうな。」 お勢も小聲で、 「Yes……。」 ト微かに云ツて、可笑しな身振りをして、兩手を顏に當てて笑ひ出した。文三は愕然としてお勢を凝視めてゐたが、見る間に顏色を變へて仕舞ツた。 「イヨー妬ます引。羨ましいぞ引。どうだ、内海エ、今の御託宣は。文さんのやうな人が好きツ。アツ堪らぬ/\。モウ今夜、家にや寢られん。」 「オホヽヽヽ、其樣な事仰しやるけれども、文さんのやうな同權論者が好き、と云ツた許りで、文さんが好き、と云はないから宜いぢや有りませんか。」 「その分疏闇い/\。文さんのやうな人が好きも、文さんが好きも、同じ事で御座います。」 「オホヽヽヽ、そんならばネ、……ア、斯うです斯うです、私はネ、文さんが好きだけれども、文さんは私を嫌ひだから宜いぢや有りませんか。ネー、文さん、然うですネー。」 「ヘン、嫌ひ所か、好きも好き、足駄穿いて首ツ丈と云ふ、念の入ツた落こちやうだ。些し水層が増さうものなら、ブクブク往生しようと云ふんだ。ナア内海。」 文三はムツとしてゐて、莞爾ともしない。その貌をお勢は、チヨイと横眼で視て、 「あんまり、貴君が戯談仰しやるものだから、文さん、憤ツて仕舞ひなすツたよ。」 「ナニ、正可、嬉敷いとも云へないもんだから、それで彼樣な貌をしてゐるのサ。しかし、アヽ澄ました所は内海も仲仲好男子だネ。苦味ばしツてゐて、モウ些し彼の顋がつまると、申分がないんだけれども。アハヽヽヽ。」 「オホヽヽ。」 ト笑ひながら、お勢はまた、文三の貌を横眼で視た。 「しかし、然うは云ふものの、内海は果報者だよ。まづお勢さんのやうな、此樣な、」 ト、チヨイと、お勢の膝を叩いて、 「頗る付きの別嬪、加之も實の有るのに想ひ附かれて、叔母さんに油を取られたと云ツては保護して貰ひ、ヤ、何だと云ツては保護して貰ふ。實の羨ましいネ。明治年代の丹治と云ふのは此の男の事だ。燒いて粉にして、飮んで仕舞はうか、然うしたら些とはあやかるかも知れん。アハヽヽハ。」 「オホヽヽ。」 「オイ好男子、然う苦蟲を喰潰してゐずと、些と此方を向いてのろけ給へ。コレサ丹治君。是れはしたり、御返答が無い。」 「オホヽヽヽ。」 トお勢はまた作笑ひをして、また横眼でムツとしてゐる文三の貌を視て、 「アー可笑しいこと。餘り笑ツたもんだから、咽喉が渇いて來た。本田さん、下へ往ツてお茶を入れませう。」 「マア、最う些と御亭主さんの傍に居て、顏を視せてお上げなさい。」 「厭だネー、御亭主さんなんぞツて、そんなら入れて、 「茶を入れて持ツて來る實が有るなら、寧そ水を持ツて來て貰ひ度いネ。」 「水を。お砂糖入れて。」 「イヤ、砂糖の無い方が宜い。」 「そんなら、レモン入れて來ませうか。」 「レモンが這入るなら、砂糖氣がチヨツピリ有ツても宜いネ。」 「何だネー、いろんな事云ツて。」 ト云ひながら、お勢は起上ツて、二階を降りて仕舞ツた。跡には兩人の者が、暫く手持無沙汰と云ふ氣味で、默然としてゐたが、頓て文三は厭に落着いた聲で、 「本田。」 「エ。」 「君は酒に醉ツてゐるか。」 「イヽヤ。」 「それぢやア些し聞く事が有るが、朋友の交と云ふものは、互に尊敬してゐなければ、出來るものぢや有るまいネ。」 「何だ、可笑しな事を言出したな。左やう、尊敬してゐなければ出來ない。」 「それぢやア、……。」 ト云懸けて、默してゐたが、思切ツて、些し聲を震はせて、 「君とは暫く交際してゐたが、モウ今夜ぎりで……絶交して貰ひ度い。」 「ナニ、絶交して貰ひ度いと。……何だ、唐突千萬な。何だと云ツて、絶交しようと云ふんだ。」 「その理由は、君の胸に聞いて貰はう。」 「可笑しく云ふな。我輩少しも絶交しられる覺えは無い。」 「フン、覺えは無い。彼程人を侮辱して置きながら。」 「人を侮辱して置きながら。誰が、何時、何と云ツて。」 「フヽン、仕樣が無いな。」 「君がか。」 文三は默然として、暫く昇の顏を凝視めてゐたが、頓て些し聲高に、 「何にも然う、とぼけなくツたツて宜いぢや無いか。君みたやうなものでも、人間と思ふからして、即ち廉恥を知ツてゐる動物と思ふからして、人間らしく美しく絶交して仕舞はうとすれば、君は一度ならず二度までも、人を侮辱して置きながら……。」 「オイ/\/\、人に物を云ふなら、モウ些と解るやうに云ツて貰ひたいネ。君一人位友人を失ツたと云ツて、そんなに悲しくも無いから、絶交するならしても宜しいが、しかし、その理由も説明せずして、唯無暗に人を侮辱した/\と云ふ許りぢや、ハア然うか、とは云ツて居られんぢやないか。」 「それぢや、何故、先刻、叔母やお勢のゐる前で、僕に、痩我慢なら大抵にしろ、と云ツた。」 「それが、其樣なに、氣に障ツたのか。」 「當然サ。……何故今また、僕の事を明治年代の丹治、即ち意氣地なしと云ツた。」 「アハヽヽ、彌々腹筋だ。それから。」 「事に大小は有ツても、理に巨細は無い。痩我慢と云ツて侮辱したも、丹治と云ツて侮辱したも、歸する所は唯一の輕蔑からだ。即に輕蔑心が有る以上は、朋友の交際は出來ないものと認めたからして、絶交を申出したのだ。解ツてゐるぢやないか。」 「それから。」 「但し斯うは云ふやうなものの、園田の家と絶交して呉れとは云はんからして、今迄のやうに毎日遊びに來て、叔母と骨牌を取らうが、」 ト云ツて、文三冷笑した。 「お勢を藝娼妓の如く弄ばうが、」 ト云ツてまた冷笑した。 「僕の關係した事でないから、僕は何とも云ふまい。だから、君も左う落膽、イヤ狼狽して、遁辭を設ける必要も有るまい。」 「フヽウ、嫉妬の原素も雜ツてゐる。それから。」 「モウ、是れより外に言ふ事も無い。また君も何にも言ふ必要も有るまいから、此儘下へ降りて貰ひ度い。」 「イヤ、言ふ必要が有る。寃罪を被ツては、此を辯解する必要が有る。だから、此の儘下へ降りる事は出來ない。何故、痩我慢なら大抵にしろ、と「忠告」したのが侮辱になる。成程、親友でないものに、さう直言したならば、侮辱したと云はれても仕樣が無いが、しかし、君と我輩とは親友の關繋ぢや無いか。」 「親友の間にも禮義は有る。然るに君は面と向ツて僕に痩我慢なら大抵にしろ、と云ツた。無禮ぢやないか。」 「何が無禮だ。痩我慢なら大抵にしろ、と云ツたツけか、大抵にした方がよからうぜ、と云ツたツけか、何方だツたか、モウ忘れて仕舞ツたが、しかし、何方にしろ忠告だ。凡そ、忠告と云ふ者は――君にかぶれて、哲學者振るのぢやアないが――忠告と云ふ者は、人の所行を非と認めるから云ふもので、是と認めて忠告を試みる者は無い。故に若し非を非と直言したのが、侮辱になれば、總ての忠告と云ふ者は、皆君の所謂無禮なものだ。若しそれで、君が我輩の忠告を怒るのならば、我輩一言もない。謹んで罪を謝さう。が、然うか。」 「忠告なら、僕は却て聞く事を好む。しかし、君の言ツた事は、忠告ぢやない、侮辱だ。」 「何故。」 「若し忠告なら、何故人のゐる前で言ツた。」 「叔母さんやお勢さんは、内輪の人ぢやないか。」 「そりや、内輪の者サ。……内輪の者サ。……けれども、……しかしながら、……。」 文三は狼狽した。昇はその光景を見て、私かに冷笑した。 「内輪の者だけれども、しかし、何にも、アヽ、口汚なく言はなくツても好いぢやないか。」 「どうも、種々に論鋒が變化するから、君の趣意が解りかねるが、それぢやア何か、我輩の言方、即ち忠告のMannerが氣に喰はん、と云ふのか。」 「勿論、Mannerも氣に喰はんサ。」 「Mannerが氣に喰はないのなら、改めてお斷り申さう。君には侮辱と聞えたかも知れんが、我輩は忠告の積りで言ツたのだ。それで宜からう。それなら、モウ、絶交する必要も有るまい。アハヽヽ。」 文三は、何と駁して宜いか、解らなくなツた。唯ムシヤクシヤと腹が立つ。風が宜ければ、左程にも思ふまいが、風が惡いので、尚ほ一層腹が立つ。油汗を鼻頭ににじませて、下脣を喰締めながら、暫くの間、口惜しさうに、昇の馬鹿笑ひをする顏を疾視んで、默然としてゐた。 お勢が溢れる許りに水を盛ツたコツプを、盆に載せて持ツて參ツた。 「ハイ、本田さん。」 「是れはお待遠さま。」 「何ですと。」 「エ。」 「アノ、とぼけた顏。」 アハヽヽヽ、しかし、餘り遲かツたぢやないか。」 「だツて、用が有ツたんですもの。」 「浮氣でもしてゐやアしなかツたか。」 「貴君ぢや有るまいし。」 「我輩がそんなに浮氣に見えるかネ。……ドツコイ、課長さんの令妹と云ひたさうな口付をする。云へば此方にも、文さんと云ふ武器が有るから、直ぐ返討だ。」 「厭な人だネー、人が何にも言はないのに、邪推を廻して。」 「邪推を廻してと云へば、」 ト文三の方を向いて、 「如何だ、隊長、まだ胸に落ちんか。」 「君の云ふ事は皆遁辭だ。」 「何故。」 「そりや説明するに及ばん。Self-evident truthだ。」 「アハヽヽ。とう/\Self-evident truthにまで達したか。」 「どうしたの。」 「マア、聞いてゐて御覽なさい、餘程面白い議論が有るから。」 ト云ツて、また文三の方を向いて、 「それぢや、その方の口はまづ片が附いたと。それからして、最う一口の方は何だツけ……然う然う、丹治々々。アハヽヽ、何故、丹治と云ツたのが侮辱になるネ。それも矢張Self-evident truthかネ。」 「どうしたの。」 「ナニネ、先刻我輩が、明治年代の丹治と云ツたのが、御氣色に障ツたと云ツて、此の通り顏色まで變へて御立腹だ。貴孃の情夫にしちやア、些と野暮天すぎるネ。」 「本田。」 昇は飮みかけたコツプを下に置いて、 「何でゲス。」 「人を侮辱して置きながら、咎められたと言ツて、遁辭を設けて逃げるやうな破廉恥的の人間と舌戰は無益と認める。からして、モウ、僕は何にも言ふまいが、しかし、最初のプロポーザル(申出)より一歩も引く事は出來んから、モウ降りて呉れ給へ。」 「まだ其樣な事を云ツてるのか。ヤ、どうも、君も驚く可き負惜みだな。」 「何だと。」 「負惜みぢやないか。君にも最う自分の惡かツた事は解ツてゐるだらう。」 「失敬な事を云ふな。降りろと云ツたら、降りたが宜いぢやないか。」 「モウお罷しなさいよ。」 「ハヽヽ、お勢さんが心配し出した。しかし、眞に然うだネ。モウ罷した方が宜い。オイ内海、笑ツて仕舞はう。マア、考へて見給へ、馬鹿氣切ツてゐるぢやないか。忠告の仕方が氣に喰はないの、丹治と云ツたが癪に障るの、と云ツて絶交する。全で子供の喧嘩のやうで、人に對して噺も出來ないぢやなか。ネ、オイ、笑ツて仕舞はう。」 文三は默ツてゐる。 「不承知か。困ツたもんだネ。それぢや宜しい、斯うしよう、我輩が謝まらう。全く、然うした深い考へが有ツて云ツた譯ぢやアないから、お氣に障ツたら、眞平御免下さい。それでよからう。」 文三は、モウ、堪へ切れない憤りの聲を振上げて、 「降りろと云ツたら降りないか。」 「それでも、まだ承知が出來ないのか。それぢやア仕樣がない、降りよう。今何を言ツても解らない、逆上ツてゐるから。」 「何だと。」 「イヤ此方の事だ。ドレ。」 ト起上る。 「馬鹿。」 昇も些しムツとした趣で、立止まツて、暫く文三を疾視付けてゐたが、頓てニヤリと冷笑ツて、 「フヽン、前後忘却の體か。」 ト云ひながら、二階を降りて仕舞ツた。お勢も續いて起上ツて、不思議さうに文三の容子を振反ツて觀ながら、是れも二階を降りて仕舞ツた。跡で文三は、悔しさうに齒を喰切ツて、拳を振揚げて机を拍ツて、 「畜生ツ。」 梯子段の下あたりで、昇とお勢のドツと笑ふ聲が聞えた。 十一囘 取付く島翌朝朝飯の時、家内の者が顏を合はせた。お政は始終顏を皺めてゐて口も碌々聞かず。文三もその通り。獨りお勢而已はソハ/\してゐて更に沈着かず、端手なく囀ツて、他愛もなく笑ふ、かと思ふとフト口を鉗んで、眞面目に成ツて、憶出したやうに、額越しに文三の顏を眺めて、笑ふでも無く笑はぬでもなく、不思議さうな、劒呑さうな、奇奇妙々な顏色をする。 食事が濟む。お勢がまづ起立ツて、座鋪を出て、縁側でお鍋に戲れて、高笑をしたかと思ふ間も無く、忽ち部屋の方で、低聲に詩吟をする聲が聞えた。 益々顏を顰めながら、文三が續いて起上らうとして、叔母に呼留められて、又坐直して、不思議さうに、恐る/\叔母の顏色を窺ツて見て、ウンザリした。思做かして、叔母の顏は尖ツてゐる。 人を呼留めながら、叔母は悠々としたもので、まづ煙草を環に吹くこと五六ぷく。お鍋の膳を引終るを見濟まして、さて漸くに、 「他の事でも有りませんがネ、昨日私が、マア傍で聞いてれば――また餘計なお世話だツて叱られるかも知れないけれども――本田さんがアヽやツて、親切に言ツてお呉んなさるものを、お前さんはキツパリ斷ツてお仕舞ひなすツたが、ソリヤモウ、お前さんの事だから、いづれ先に何とか確乎な見當が無くツて、彼樣な事をお言ひなさりやアすまいネ。」 「イヤ、何にも、見當が有ツての、如何の、と云ふ譯ぢや有りませんが、唯……。」 「ヘー、見當も有りもしないのに、無暗に辭ツてお仕舞ひなすツたの。」 「目的なしに斷ると云ツては、或は無考へのやうに聞えるかも知れませんが、しかし、本田の言ツた事でも、ホンの風評と云ふだけで、ナニも確に……。」 縁側を通る人の跫音がした。多分、お勢が英語の稽古に出懸けるので。改ツて外出をする時を除くの外は、お勢は大抵、母親に挨拶をせずして出懸ける。それが習慣で。 「確に然うとも……。」 「それぢや何ですか、彌々となりや、御布告にでもなりますか。」 「イヤ、其樣な、布告なんぞになる氣遣ひは有りませんが。」 「それぢや、マア、人の噂を恃にするほか、仕樣が無いと云ツたやうなもんですネ。」 「ですが、其れは然うですが、しかし、……本田なぞの言ふ事は……。」 「恃にならない。」 「イヤ、そ、そ、さう云ふ譯でも有りませんが……ウー……しかし……幾程苦しいと云ツて……課長の處へ……。」 「何ですとエ。幾程苦しいと云ツて、課長さんの處へは往けないとエ。まだお前さんは、其樣な氣樂な事を言ツてお出でなさるのかエ。」 トお政が層に懸ツて、極付けかけたので、文三は狼狽てて、 「そ、そ、そればかりぢや有りません。……假令、今課長に依頼して、復職が出來たと云ツても、迚も私のやうな者は永くは續きませんから、寧ろ官員は、モウ思切らうかと思ひます。」 「官員は、モウ思切る。フン、何が何だか理由が解りやしない。此間、お前さん何とお言ひだ。私が、是れから如何して行く積りだと聞いたら、また官員の口でも探さうかと思ツてます、とお言ひぢやなかツたか。其れを今と成ツて、モウ官員は思切る。……左樣サ、親の口は干上ツても關は無いから、モウ官員はお罷めなさるが宜いのサ。」 「イヤ、親の口が干上ツても關はない、と云ふ譯ぢやア有りませんが、しかし、官員許りが職業でも有りませんから、教師に成ツても親一人位は養へますから……。」 「だから誰も、然うはならない、とは申しませんよ。そりやアお前さんの勝手だから、教師になと、車夫になと、何になとお成んなさるが宜いのサ。」 「ですが、然う、御立腹なすツちや、私も實に……。」 「誰が腹を立ツてると云ひました。ナニ、お前さんが如何しようと、此方に關繋の無い事だから、誰も腹も背も立ちやアしないけれども、唯本田さんが、アヽやツて、親切に言ツてお呉んなさるもんだから、周旋ツて貰ツて、課長さんに取入ツて置きやア、假令んば今度の復職とやらは出來ないでも、また先へよツて何ぞれ角ぞれ、お世話アして下さるまいものでも無い。トネー、然うすりや、お前さんばかしか、慈母さんも御安心なさる事たし、それに……何だから、三方四方、まるく納まる事たから(此時文三はフツと顏を振揚げて、不思議さうに叔母を凝視めた、)と思ツて、チヨイとお聞き申したばかしサ。けれども、ナニ、お前さんが、然うした了簡方ならそれ迄の事サ。」 兩人共、暫く無言。 「鍋。」 「ハイ。」 トお鍋が襖を開けて、顏のみを出した。見れば口をモゴ付かせてゐる。 「まだ御膳を仕舞はないのかエ。」 「ハイ、まだ。」 「それぢや、仕舞ツてからで宜いからネ、何時もの車屋へ往ツて、一人乘一梃、誂へて來てお呉れ。濱町まで上下。」 「ハイ、それでは只今直に。」 ト云ツて、お鍋が、襖を閉切るを待兼ねてゐた文三が、また改めて叔母に向ツて、 「段々と承ツて見ますと、叔母さんの仰しやる事は、一々御尤のやうでも有るし、且私一個の強情から、母親は勿論、叔母さんにまで種々御心配を懸けまして、甚だ恐入りますから、今一應篤と考へて見まして。」 「今一應も二應も無いぢやア有りませんか、お前さんが、モウ、官員にやならない、と決めてお出でなさるんだから。」 「そ、それは然うですが、しかし……事に寄ツたら……思ひ直すかも知れませんから……。」 お政は冷笑しながら、 「そんなら、マア、考へて御覽なさいだが、ナニモウ何ですよ、お前さんが官員に成ツてお呉んなさらなきやア、私どもが立往か無いと云ふんぢや無いから、無理に何ですよ、勸めはしませんよ。」 「ハイ。」 「それから序だから言ツときますがネ、聞けば昨夕、本田さんと何だか入組みなすツたさうだけれども、そんな事が有ツちやア誠に迷惑しますネ。本田さんはお前さんのお朋友とは云ひ條、今ぢやア家のお客も同然の方だから。」 「ハイ。」 トは云ツたが、文三、實は叔母が何を言ツたのだか、よくは解らなかツた。些し考へ事が有るので。 「そりやア、アヽ云ふ胸の廣い方だから、其樣な事が有ツたと云ツて、それを根葉に有ツて、周旋をしないとはお言ひなさりやすまいけれども、全體なら……マアそれは、今言ツても無駄だ。お前さんが腹を極めてからの事にしよう。」 ト自家撲滅。文三はフト首を振揚げて、 「ハイ。」 「イエネ、またの事にしませう、と云ふ事サ。」 「ハイ。」 何だかトンチンカンで。 叔母に一禮して、文三が起上つて、そこ/\に部屋へ戻ツて、室の中央に突立ツた儘で、坐りもせず、良暫くの間と云ふものは、造付けの木偶の如くに、默然としてゐたが、頓て溜息と共に、 「如何したものだらう。」 ト云ツて、宛然雪達磨が、日の眼に逢ツて解けるやうにグズ/\と崩れながらに座に着いた。 何故「如何したものだらう」かと、其理由を繹ねて見ると、概略はまづ箇樣で。 先頃免職が種で油を取られた時は、文三は一途に叔母を薄情な婦人と思詰めて、恨みもし立腹もした事では有るが、其後沈着いて考へて見ると、如何やら叔母の心意氣が、飮込めなくなり出した。 成程叔母は賢婦でも無い、烈女でもない。文三の感情、思想を忖度し得ないのも勿論の事では有るが、しかし、菽麥を辨ぜぬ程の癡女子でもなければ、自家獨得の識見をも保着してゐる、論事矩をも保着してゐる、處世の法をも保着してゐる。それでゐて、何故、アヽ何の道理も無く、何の理由もなく、唯文三が免職に成ツたと云ふ許りで、自身も恐らくは無理と知りつゝ無理を陳べて、一人で立腹して、罪も咎も無い文三に手を杖かして、謝罪さしたので有らう。お勢を嫁するのが厭になツてと、或時は思ひはしたものの、考へて見れば、其れも可笑しい。二三分時前までは、文三が我女の夫、我女は文三の妻、と思詰めてゐた者が、免職と聞くより早くガラリ氣が渝ツて、俄に配合せるのが厭に成ツて、急拵への愛想盡かしを陳立てて、故意に立腹さして、而して娘と手を切らせようとした。……如何も可笑しい。 かうした疑念が起ツたので、文三がまた叔母の言草、悔しさうな言樣、ジレツタさうな顏色を、一々漏らさず憶起して、さらに出直して思惟して見て、文三は遂に昨日の非を覺ツた。 叔母の心事を察するに、叔母はお勢の身の固まるのを樂みにしてゐたに相違ない。來年の春を心待に待ツてゐたに相違ない。その帶をアアして、この衣服をかうしてと、私に胸算用をしてゐたに相違ない。それが、文三が免職に成ツた許りでカラリと恃が外れたので、それで失望したに相違ない。凡そ失望は かう氣が附いて見ると、文三は幾分か恨が晴れた、叔母がさう憎くはなくなツた、イヤ寧ろ叔母に對して氣の毒に成ツて來た。文三の今我は故吾でない。しかし、お政の故吾も今我でない。 悶着以來、まだ五日にもならぬに、お政はガラリ其容子を一變した。勿論以前とても、ナニモ非常に文三を親愛してゐた、手車に乘せて下にも措かぬやうにしてゐた、ト云ふでは無いが、兎も角も以前は、チヨイと顏を見る眼元、チヨイと物を云ふ口元に、眞似て眞似のならぬ一種の和氣を帶びてゐたが、此頃は眼中には雲を懸けて、口元には苦笑を含んでゐる。以前は言ふ事がさら/\としてゐて、厭味氣が無かツたが、此頃は言葉に針を含めば、聞いて耳が痛くなる。以前は人我の隔歴が無かツたが、此頃は全く他人にする。霽顏を見せた事も無い、温語をきいた事も無い、物を言懸ければ、聞えぬ風をする事も有り、氣に喰はぬ事が有れば、目を側てて疾視付ける事も有り、要するに可笑しな處置振りをして見せる。免職が種の悶着は、是に至ツて、沍てて、かじけて、凝結し出した。 文三は篤實温厚な男、假令その人と爲りは如何有らうとも、叔母は叔母、有恩の人に相違ないから、尊尚親愛して、水乳の如くシツクリと、和合し度いとこそ願へ、決して乖背し、 「が、若し叔母が慈母のやうに我の心を噛分けて呉れたら、若し叔母が心を和げて、共に困厄に安んずる事が出來たら、我ほど世に幸な者は有るまいに、」ト思ツて、文三屡々嘆息した。依ツて、至誠は天をも感ずるとか云ふ古賢の格言を力にして、折さへ有れば、力めて叔母の機嫌を取ツて見るが、お政は油紙に水を注ぐやうに跳付けて而已ゐて、さらに取合はず、而して獨りでジレてゐる。文三は、針の筵に坐ツたやうな心地。 しかし、まだ/\是れしきの事なら、忍んで忍ばれぬ事も無いが、 かう云ふ矢端には、得て疑心も起りたがる、繩麻に蛇相も生じたがる。株抗に人想の起りたがる。實在の苦境の外に、文三が別に妄念から一苦界を産出して、求めて其の中に沈淪して、あせツて、 もがいて、極大苦惱を嘗めてゐる今日此頃、我慢勝他が性質の叔母のお政が、よくせきの事なればこそ、我から折れて出て、「お前さんさへ我を折れば三方四方圓く納まる、」ト穩便をおもツて言ツて呉れる。それを無面目にも言破ツて、立腹をさせて、我から我他彼此の種子を蒔く……。文三然うは爲たく無い。成らう事なら叔母の言状を立てて、その心を慰めて、お勢の縁をも繋ぎ留めて、老母の心をも安めて、而して自分も安心したい。それで、文三は、先刻も言葉を濁して來たので。それで文三は、今又、屈託の人と爲ツてゐるので。 「如何したものだらう。」 ト、文三、再び我と我に相談を懸けた。 「寧そ、叔母の意見に就いて、廉恥も良心も棄てて仕舞ツて、課長の處へ往ツて見ようか知らん。依頼さへして置けば、假令へば、今が今如何ならんと云ツても、叔母の氣が安まる。然うすれば、お勢さへ心變りがしなければ、まづ大丈夫と云ふものだ。且つ慈母さんも、此頃ぢやア茶斷して心配してお出でなさる所だから、是れ許りで犠牲に成ツたと云ツても、敢て小膽とは言はれまい。コリヤ、寧そ叔母の意見に……。」 が、猛然として省思すれば、叔母の意見に就かうとすれば、厭でも昇に親まなければならぬ。昇と彼儘にして置いて、獨り課長に而已取入らうとすれば、渠奴必ず邪魔を入れるに相違ない。からして、厭でも昇に親まなければならぬ。老母の爲め、お勢の爲めなら、或は良心を傷けて、自重の氣を拉いで、課長の鼻息を窺ひ得るかも知れぬが、如何に窮したればと云ツて、苦しいと云ツて、昇に、面と向ツて圖大柄に、「痩我慢なら大抵にしろ、」ト云ツた昇に、昨夜も昨夜とて、小兒の如くに人を愚弄して、陽に負けて陰に復り討に逢はした昇に、不倶戴天の讎敵、生きながら其肉を啖はなければ此熱腸が冷されぬと怨みに思ツてゐる昇に、今更手を杖いて一着を輸する事は、文三には死しても出來ぬ。課長に取入るも、昇に上手を遣ふも、其趣きは同じからうが同じく有るまいが、其樣な事に頓着はない。唯、是もなく非もなく利もなく害もなく、昇に一着を輸する事は、文三には死しても出來ぬ。 ト決心して見れば、叔母の意見に負かなければならず、叔母の意見に負くまいとすれば、昇に一着を輸さなければならぬ。それも厭なり、是れも厭なりで、二時間許りと云ふものは、默坐して腕を拱んで、沈吟して、嘆息して、千思萬考、審念熟慮して屈托して見たが、詮ずる所は舊の木阿彌。 「ハテ、如何したものだらう。」 物皆終あれば、古筵も鳶にはなりけり。久しく苦んでゐる内に、文三の屈托も遂に其極度に達して、忽ち一つの思案を形作ツた。所謂思案とは、お勢に相談して見ようと云ふ思案で。 蓋し文三が叔母の意見に負き度くないと思ふも、叔母の心を汲分けて見れば、道理な所もあるからと云ひ、叔母の苦り切ツた顏を見るも心苦しいからと云ふは少分で、その多分は全く、それが原因でお勢の事を斷念らねばならぬやうに成行きはすまいか、と危むからで。故に、若しお勢さへ、天は荒れても、地は老いても、海は涸れても、石は爛れても、文三が此上何樣なに零落しても、母親が此後何樣な言を云ひ出しても、決してその初の志を悛めない、と定ツてゐれば、叔母が面を脹らしても、眼を剥出しても、それしきの事なら忍びもなる。文三は叔母の意見に背く事が出來る。既に叔母の意見に背く事が出來れば、モウ昇に一着を輸する必要もない。「且つ窮して濫するは、大丈夫の爲るを愧づる所だ。」 然うだ/\。文三の病原はお勢の心に在る。お勢の心一つで、進退去就を決しさへすれば、イサクサは無い。何故、最初から、其處に心附かなかツたか。今と成ツて考へて見ると、文三、我ながら我が怪しまれる。 お勢に相談する、極めて上策。恐らくは此に越す思案も有るまい。若しお勢が、小挫折に逢ツたと云ツて、その節を移さずして、尚ほ未だに文三の知識で考へて、文三の感情で感じて、文三の息氣で呼吸して、文三を愛してゐるならば、文三に厭な事は、お勢にもまた厭に相違は有るまい。文三が昇に一着を輸する事を屑しと思はぬなら、お勢もまた文三に、昇に一着を輸させたくは有るまい。相談を懸けたら飛んだ手輕く、「母が何と云はうと關やアしませんやアネ、本田なんぞに頼む事はお罷しなさいよ、」ト云ツて呉れるかも知れぬ。また此後の所を念を押したら、恨めしさうに、「貴君は、私をそんな浮薄なものだと思ツてお出でなさるの、」ト云ツて呉れるかも知れぬ。お勢が然うさへ云ツて呉れゝば、モウ文三天下に懼るゝ者はない。火にも這入れる、水にも飛込める。況んや叔母の意見に負く位の事は朝飯前の仕事、お茶の子さい/\とも思はない。 「然うだ、其れが宜い。」 ト云ツて、文三起立ツたが、また立止ツて、 「が、此頃の擧動と云ひ、容子と云ひ、ヒヨツトしたら本田に……何しては居ないかしらん。チヨツ、關はん、若し然うならば、モウ其迄の事だ。ナニ、我だツて男子だ。心渝りのした者に、未練は殘らん。斷然手を切ツて仕舞ツて今度こそは思ひ切ツて、非常な事をして、非常な豪膽を示して、本田を拉いで、而してお勢にも……お勢にも後悔さして、而して……而して……而して……。」ト思ひながら、二階を降りた。 が、此處が妙で、觀菊行の時、同感せぬお勢の心を疑ツたにも拘らず、その夜歸宅してからのお勢の擧動を怪んだのにも拘らず、また昨日の高笑ひ、昨夜のしだらを、今以て面白からず思ツてゐるにも拘らず、文三は内心の内心では、尚ほまだお勢に於て心變りするなどと云ふ、其樣な水臭い事は無い、と信じてゐた。尚ほまだ、相談を懸ければ、文三の思ふ通りな事を云ツて、文三を勵ますに相違ない、と信じてゐた、斯う信ずる理由が有るから、斯う信じてゐたのでは無くて、斯う信じたいから、斯う信じてゐたので。 第十二囘 いすかの嘴文三が二階を降りて、ソツとお勢の部屋の障子を開ける其の途端に、今迄机に頬杖をついて、何事か物思ひをしてゐたお勢が、吃驚した面相をして、些し飛上ツて居住居を直した。顏に手の痕の赤く殘ツてゐる所を觀ると、久敷頬杖をついてゐたものと見える。 「お邪魔ぢや有りませんか。」 「イヽエ。」 「それぢやア。」 ト云ひ乍ら、文三は、部屋へ這入ツて、座に着いて、 「昨夜は大に失敬しました。」 「私こそ。」 「實に面目が無い。貴孃の前をも憚らずして……今朝その事で慈母さんに小言を聞きました。アハヽヽ。」 「さう。オホヽヽ。」 ト無理に押出したやうな笑ひ聲、何となく冷淡い。今朝のお勢とは、全で他人のやうで。 「時に些し、貴孃に御相談が有る。他の事でも無いが、今朝慈母さんの仰しやるには……しかし、最うお聞きなすツたか。」 「イヽエ。」 「成程然うだ、御存知ない筈だ。……慈母さんの仰しやるには、本田がアヽ親切に云ツて呉れるものだから、橋渡しをして貰ツて、課長の處へ往ツたらば如何だ、仰しやるのです。そりや、成程、慈母さんの仰しやる通り、今 「出來なければ、其迄ぢや有りませんか。」 「サ、其處です。私には出來ないが、しかし、然うしなければ、慈母さんがまた惡い顏をなさるかも知れん。」 「母が惡い顏をしたツて、其樣な事は何だけれども……。」 「エ、關はんと仰しやるのですか。」 ト文三は、ニコ/\と笑ひながら問懸けた。 「だツて然うぢや有りませんか、貴君が貴君の考どほりに進退して、良心に對して毫しも恥づる所が無ければ、人が如何な貌をしたツて宜いぢや有りませんか。」 文三は笑ひを停めて、 「ですが、唯、慈母さんが惡い顏をなさる許りならまだ宜いが、或はそれが原因と成ツて、……貴孃には如何かはしらんが、……私の爲めには最も忌むべき、最も哀む可き結果が生じはしないか、と危ぶまれるから、それで私も困るのです。……尤も、其樣な結果が生ずると、生じないとは、貴孃の……貴孃の……。」 ト云懸けて、默して仕舞ツたが、頓て聞えるか聞えぬ程の小聲で、 「心一つに在る事だけれども……。」 ト云ツて差俯向いた。文三の懸けた謎々が、解けても解けない風をするのか、それとも如何だか其處は判然しないが、兎も角もお勢は頗る無頓着な容子で、 「私にはまだ貴君の仰しやる事がよく解りませんよ。何故然う課長さんの處へ往くのがお厭だらう。石田さんの處へ往ツてお頼みなさるも、課長さんの處へ往ツてお頼みなさるも、その趣は同一ぢや有りませんか。」 「イヤ違ひます。」 ト云ツて、文三は首を振揚げた。 「非常な差が有る、石田は私を知つてゐるけれど課長は私を知らないから……。」 「そりや如何だか解りやしませんやアネ、往ツて見ない内は。」 「イヤ、そりや、今迄の經驗で解ります。そりや掩ふ可らざる事實だから、何だけれども……それに課長の處へ往かうとすれば、是非とも先づ本田に依頼をしなければなりません。勿論課長は、私も知らない人ぢやないけれども……。」 「宜いぢや有りませんか、本田さんに依頼したツて。」 「エ、本田に依頼をしろと。」 ト云ツた時は、文三は、モウ、今迄の文三で無い、顏色が些し變ツてゐた。 「命令するのぢや有りませんがネ、唯依頼したツて宜いぢや有りませんか、と云ふの。」 「本田に。」 ト文三は、恰も我耳を信じないやうに、再び尋ねた。 「ハア。」 「彼樣な卑屈な奴に……課長の腰巾着……奴隷……。」 「そんな……。」 「奴隷と云はれても恥とも思はんやうな犬……犬……犬猫同然な奴に、手を杖いて頼めと仰しやるのですか。」 ト云ツて、ヂツとお勢の顏を凝視めた。 「昨夜の事が有るから、それで貴君は其樣に仰しやるんだらうけれども、本田さんだツて、其樣に卑屈な人ぢや有りませんワ。」 「フヽン、卑屈でない、本田を卑屈でない。」 ト云ツて、さも苦々しさうに冷笑ひながら、顏を背けたが、忽ちまたキツとお勢の方を振向いて、 「何時か貴孃、何と仰しやツた。本田が貴孃に對ツて、失敬な戯謔を言ツた時に……。」 「そりや彼時には、厭な感じも起ツたけれども、能く交際して見れば、其樣に貴君のお言ひなさるやうに、破廉恥の人ぢや有りませんワ。」 文三は默然として、お勢の顏を凝視めてゐた。但し宜敷ない徴候で。 「昨夜もアレから下へ降りて、本田さんがアノー、慈母さんが聞くと必と喧ましく言出すに違ひない、然うすると僕は何だけれども、アノ内海が困るだらうから、默ツてゐて呉れろ、ト口止めしたから、私は何とも言はなかツたけれども、鍋がツイ饒舌ツて……。」 「古狸奴、そんな事を言やアがツたか。」 「また彼樣な事を云ツて……そりや文さん、貴君が惡いよ。彼程貴君に罵詈されても、腹も立てずに、矢張貴君の [13]利益 思ツて云ふ者を、それをそんな古狸なんぞツて……。そりや貴君は温順だのに、本田さんは活溌だから、氣が合はないかも知れないけれども、貴君と氣の合はないものは、皆破廉恥と極ツても居ないから、……それを無暗に罵詈して……其樣な失敬な事ツて……。」 ト些し顏を赧めて、口早に云ツた。文三は、益々腹立しさうな面相をして、 「それでは何ですか、本田は貴孃の氣に入ツたと云ふんですか。」 「氣に入るも入らないも無いけれども、貴君の云ふやうな、其樣な破廉恥な人ぢや有りませんワ。……それを古狸なんぞツて、無暗に人を罵詈して……。」 「イヤ、まづ、私の聞く事に返答して下さい。彌々本田が氣に入ツたと云ふんですか。」 言樣が些し烈しかツた。お勢はムツとして、暫く、文三の容子をジロリ/\と視てゐたが、頓て、「其樣な事を聞いて何になさる。本田さんが私の氣に入らうと、入るまいと、貴君の關係した 「有るから聞くのです。」 「そんなら、如何な關係が有ります。」 「如何な關係でもよろしい。それを今説明する必要は無い。」 「そんなら、私も、貴君の問に答へる必要は有りません。」 「それぢやア宜しい、聞かなくツても。」 ト云ツて、文三はまた顏を背けて、さも苦々しさうに、獨言のやうに、 「人に問詰められて、逃げるなんぞと云ツて、實に卑、卑、卑劣極まる。」 「何ですと、卑劣極まると。……宜う御座んす。……其樣な事お言ひなさるなら、匿したツて仕樣がない、言ツて仕舞ひます……言ツて仕舞ひますとも……。」 ト云ツて、少し胸を突出して、儼然として、 「ハイ、本田さんは、私の氣に入りました。……それが如何しました。」 ト聞くと、文三は慄然と震へた、眞蒼に成ツた。……暫くの間は言葉はなくて、唯だ恨めしさうに、ヂツとお勢の澄ました顏を凝視めてゐた其の眼縁が、見る/\うるみ出した……が、忽ちハツと氣を取直して、儼然と容を改めて、震聲で、 「それぢや……それぢや斯うしませう、今迄の事は全然……水に……。」 言切れない。胸が一杯に成ツて、暫く杜絶れてゐたが、思ひ切ツて、 「水に流して仕舞ひませう……。」 「何です、今迄の事とは。」 「此場に成ツて、然うとぼけなくツても宜いぢや有りませんか。寧そ別れるものなら……綺麗に……別れようぢや……有りませんか……。」 「誰がとぼけてゐます。誰が誰に別れようと云ふのです。」 文三はムラ/\とした。些し聲高に成ツて、 「とぼけるのも好加減になさい。誰が誰に別れるのだとは、何の事です。今までさんざ人の感情を弄んで置きながら、今と成ツて……本田なぞに見返るさへ有るに、人が穩かに出れば、附上ツて、誰が誰に別れるのだとは何の事です。」 「何ですと、人の感情を弄んで置きながら。……誰が人の感情を弄びました。……誰が人の感情を弄びましたよ。」 ト云ツた時は、お勢もうるみ眼に成ツてゐた。文三は、グツとお勢の顏を疾視付けてゐる而已で、一語をも發しなかツた。 「餘りだから宜い……人の感情を弄んだの、本田に見返ツたのと、いろんな事を云ツて讒謗して……自分が己惚れて如何な夢を見てゐたツて、人の知ツた事ちや有りやしない……。」 トまだ言終らぬ内に、文三はスツクと起上ツて、お勢を疾視付けて、 「モウ言ふ事も無い、聞く事も無い。モウ是れが口のきゝ納めだから、然う思ツてお出でなさい。」 「さう思ひますとも。」 「澤山……浮氣をなさい。」 「何ですと。」 ト云ツた時には、モウ文三は、部屋には居なかツた。 「畜生……馬鹿……口なんぞ聞いて呉れなくツたツて、些とも困りやしないぞ。……馬鹿……。」 ト跡でお勢が敵手も無いのに獨りで熱氣となツて、惡口を竝べ立ててゐる處へ、何時の間に歸宅したか、ふと母親が這入ツて來た。 「如何したんだエ。」 「畜生……。」 「如何したんだと云へば。」 「文三と喧嘩したんだよ。……文三の畜生と……。」 「如何して。」 「先刻突然這入ツて來て、今日慈母さんが斯う/\言ツたが、如何しようと相談するから、それから昨夜慈母さんが言ツた通りに……。」 「コレサ、靜かにお言ひ。」 「慈母さんの言ツた通りに云ツて勸めたら、腹を立てやアがツて、人の事をいろんな事を云ツて。」 ト手短かに、勿論自分に不利な處は悉皆取除いて、次第を咄して、 「慈母さん、私ア口惜しくツて/\ならないよ。」 ト云ツて、襦袢の袖口で泪を拭いた。 「フウ然うかエ、其樣な事を云ツたかエ。それぢや最うそれまでの事だ。彼樣な者でも家大人の血筋だから、今と成ツて彼此言出しちや面倒臭いと思つて、此方から折れて出て遣れば、附上ツて其樣な我儘勝手を云ふ。……モウ勘辨がならない。」 ト云ツて、些し考へてゐたが、頓てまた、娘の方を向 「實はネ、お前には、まだ内々でゐたけれども、家大人はネ、行々はお前を文三に配合せる積りでお出でなさるんだが、お前は……厭だらうネ。」 「厭サ/\、誰が彼樣な奴に……。」 「必と然うかエ。」 「誰が彼樣な奴に……乞食したツて、彼樣な奴のお嫁に成るもんか。」 「その一言をお忘れでないよ。お前が彌々その氣なら、慈母さんも了簡が有るから。」 「慈母さん、今日から、私を下宿さしてお呉んなさいな。」 「なんだネ、此娘は。藪から棒に。」 「だツて私ア、モウ文さんの顏を見るのも厭だもの。」 「そんな事言ツたツて、仕樣が無いやアネ。マア最う些と辛抱してお出で。その内にや慈母さんが宜いやうにして上げるから。」 此時は、お勢は默してゐた、何か考へてゐるやうで。 「是からは、眞個に、慈母さんの言ふ事を聽いて、モウ餘り文三と口なんぞお利きでないよ。」 「誰が利いてやるもんか。」 「文三許りぢや無い、本田さんにだツても然うだよ。彼樣に昨夜のやうに遠慮の無い事をお言ひでないよ。それアお前の事だから、正可そんな……不埓なんぞはお爲ぢや有るまいけれども、今が嫁入前で一番大事な時だから。」 「慈母さんまで其樣な事を云ツて、……そんなら、モウ、是れから本田さんが來たツて、口も利かないから宜い。」 「口を利くなぢや無いが、唯昨夜のやうに……。」 「イヽエ/\、モウ口も利かない/\。」 「さうぢや無いと云へばネ。」 「イヽエ、モウ口も利かない/\。」 ト頭を振る娘の顏を視て、母親は、 「全で狂氣だ。チヨイと人が一言いへば、直に腹を立ツて仕舞ツて、手も附けられやアしない。」 ト云ひ捨てて、起上ツて、部屋を出て仕舞ツた。
第三編第十三囘心理の上から觀れば、智愚の別なく、人咸く面白味は有る。内海文三の心状を觀れば、それは解らう。 前囘參看。文三は既にお勢に窘められて、憤然として部屋へ駈戻ツた。さてそれからは獨り演劇。泡を噛んだり、拳を握ツたり、どう考へて見ても心外でたまらぬ。「本田さんが氣に入りました。」それは一時の激語、と承知してゐるでもなく、又居ないでも無い、から、強ち其ればかりを怒ツた譯でもないが、唯腹が立つ。まだ何か他の事で、おそろしく、お勢に欺かれたやうな心地がして、譯もなく腹が立つ。 腹の立つまゝ、遂に下宿と決心して、宿所を出た。では、お勢の事は、既にすツぱり思ひ切ツてゐるか、といふに、然うではない。思ひ切ツてはゐない。思ひ切ツてはゐないが、思ひ切らぬ譯にもゆかぬから、そこで悶々する。利害得喪、今はそのやうな事は頓着無い。唯己れに逆ツてみたい。己れの望まない事をして見たい。鴆毒? 持ツて來い。嘗めて此一生をむちやくちやにして見せよう……。 そこで、宿所を出た。同じ下宿するなら、遠方がよいといふので、本郷邊へ往ツて尋ねてみたが、どうも無かツた。から、彼地から小石川へ下りて、其處此處と尋ね廻るうちに、ふと水道町で、一軒見當てた。宿料も廉、其割には座鋪も清潔。下宿をするなら、まづ此處等と定めなければならぬ。……となると、文三急に考へ出した。「いづれ考へてから。またそのうちに……。」 言葉を濁して其家を出た。 「お勢と諍論ツて家を出た。――叔父が聞いたら、さぞ心持を惡くするだらうなア……。」と歩きながら、徐々畏縮だした。「ト云ツて、どうも、此儘には濟まされん。……思ひ切ツて、今の家に下宿しようか?……。」 今更心が動く。どうしてよいか、譯がわからない。時計を見れば、まだ漸く三時半すこし廻ツた許り。今から歸るも、何となく氣が進まぬ。から、彼處から牛込見附へ懸ツて、腹の屈託を口へ出して、折々往來の人を驚かしながら、いつ來るともなく番町へ來て、例の教師の家を訪問れてみた。 折善く、最う、學校から歸ツてゐたので、すぐ面會した。が、授業の模樣、舊 出た時の勢に引替へて、すご/\歸宅したは、八時ごろの事で有ツたらう。まづ眼を配ツてお勢を搜す。見えない、お勢が……。棄てた者に用も何もないが、それでも、文三に云はせると、人情といふものは妙なもので、何となく氣に懸るから、火を持ツて上ツて來たお鍋に、こツそり聞いてみると、お孃さまは、氣分が惡いと仰しやツて、御膳も碌に召上らずに、もウお休みなさいました、といふ。 「御膳も碌に?……」 「御膳も碌に召しあがらずに。」 確められて、文三急に萎れかけた……が、ふと氣をかへて、「へ、へ、へ、御膳も召上らずに……今に、鍋燒饂飩でも喰度くなるだらう。」 をかしな事をいふ、とは思ツたが、使に出てゐて、今朝の騒動を知らないから、お鍋は其儘降りて仕舞ふ。 ト、獨りになる。「へ、へ、へ、」とまた思出して冷笑ツた……が、ふと心附いてみれば、今は、其樣な、つまらぬ、くだらぬ、藥袋も無い事に拘はツてゐる時ではない。「叔父の手前、何と云ツて出たものだらう?」と、改めて首を捻ツて見たが、もウ何となく馬鹿氣てゐて、眞面目になツて考へられない。「何と云ツて出たものだらう?」と強ひて考へてみても、心めがいふ事を聽かず、それとは全く關繋もない餘所事を、何時からともなく思ツて仕舞ふ。いろ/\に紛れようとしてみても、どうも紛れられない。意地惡くもその餘所事が氣に懸ツて、氣に懸ツて、どうもならない。怺へに怺へて、怺へて見たが、とう/\怺へ切れなくなツて、「して見ると、同じやうに苦しんでゐるか知らん。」ハツと云ツても追付かず、かう思ふと、急におそろしく、氣の毒になツて來て、文三は狼狽てて、後悔をしてしまツた。叱るよりは謝罪る方が、文三には似合ふ、と誰やらが云ツたが、さうかも知れない。 第十四囘「氣の毒/\、」と思ひ寢に、うと/\として、眼を覺まして見れば、烏の啼聲、雨戸を繰る音、裏の井戸で釣瓶を軋らせる響、少し眠足りないが、無理に起きて下座鋪へ降りてみれば、只、お鍋が睡むさうな顏をして、釜の下を焚付けてゐるばかり。誰も起きてゐない。 朝寢が持前のお勢、まだ臥てゐるは當然の事。とは思ひながらも、何となく物足らぬ心地がする。早く顏が視たい。如何な顏をしてゐるか。顏を視れば、どうせ好い心地がしないは知れてゐれど、それでゐて、只早く顏が視たい。 三十分たち、一時間たつ。今に起きて來るかと思へば、肉癢ゆい。髮の寢亂れた、顏の蒼ざめた、腫瞼の美人が始終眼前にちらつく。 「昨日下宿しようと騒いだは、誰で有ツたらう、」と云ツたやうな顏色……。 朝飯がすむ。文三は奧座鋪を出ようとする。お勢は其頃になツて、漸々起きて來て、入らうとする。――縁側でぴツたり出會ツた。……ハツと狼狽へた文三は、豫て期した事ながら。それに引替へて、お勢の澄ましやうは。ジロリと文三を尻目に懸けたまゝ、奧座鋪へツイとも云はず入ツて仕舞ツた。只それだけの事で有ツた。 が、それだけで十分。そのジロリと視た眼付が、眼の底に染付いて、忘れようとしても忘れられない。胸は痞へた。氣は結ぼれる。搗てて加へて、朝の薄曇りが、晝少し下る頃より、雨となツて、びしよびしよと降り出したので、氣も消える許り。 お勢は、氣分の惡いを口實にして、英語の稽古にも往かず、只一間に籠ツたぎり、音沙汰なし。晝飯の時、顏を合はしたが、お勢は成り丈け文三の顏を見ぬやうにしてゐる。偶々眼を視合はせれば、すぐ首を据ゑて、可笑しく澄ます。それが睨付けられるより、文三には辛い。雨は歇まず。お勢は濟まぬ顏を。家内も濕り切ツて、誰とて口を利く者も無し。文三、果は泣き出したくなツた。 心苦しい其日も暮れて、やゝ雨はあがる。昇は遊びに來たが、門口で華やかな聲。お鍋のけたゝましく笑ふ聲が聞える。お勢は、其時、奧座鋪に居たが、それを聞くと、狼狽へて、起上らうとしたが、間に合はず。――氣輕に入ツて來る昇に視られて、さも餘儀なささうに又坐ツた。 何も知らぬから、昇、例の如く、好もしさうな目付をして、お勢の顏を視て、挨拶よりまづ戲言をいふ。お勢は莞爾ともせず、眞面目な挨拶をする。――彼此齟齬ふ。から、昇も怪訝な顏色をして、何か云はうとしたが、突然お政が、三日も物を云はずにゐたやうに、たてつけて、饒舌り懸けたので、ツイ紛らされて其方を向く。其間に、お勢は、こツそり起上ツて、座鋪を滑り出ようとして……見付けられた。 「何處へ、勢ちやん?」 けれども、聞えませんから、返答を致しません、と云はぬ許りで、お勢は座鋪を出て仕舞ツた。 部屋は眞の闇。手探りで摺附木だけは探り當てたが、洋燈が見付からない。大方お鍋が忘れて、まだ持ツて來ないので有らう。「鍋や、」と呼んで、少し待ツてみて、又「鍋や……。」返答をしない。「鍋、鍋、鍋」たてつけに呼んでも、返答をしない。焦燥きツてゐると、氣の拔けたころに、間の拔けた聲で、 「お呼びなさいましたか!」 「知らないよ……そんな……呼んでも呼んでも、返答もしないンだものヲ。」 「だツて、お奧で御用をしてゐたンですものヲ。」 「用をしてゐると、返答は出來なくツて?」 「御免遊ばせ……何か御用?」 「用が無くツて呼びはしないよ。……そンな……人を……くらみ(暗黒)でるのがわかツ(分ら)なツかえツ?」 二三度聞直して、漸く分ツて、洋燈は持ツて來たが、心無し奴が、跡をも閉めずして出て往ツた。 「ばか。」 顏に似合はぬ惡體を吐きながら、起立ツて邪慳に障子を〆切り、再び机の邊に坐る間もなく、折角〆めた障子をまた開けて、……己れ、やれ、もう堪忍が……と振反ツてみれば、案外な母親。お勢は急に他處を向く。 「お勢、」と小聲ながらに、力瘤を込めてお政は呼ぶ。此方は、なに、返答をするものか、と力んだ(?)面相。 「何だと云ツて、彼樣なをかしな處置振りをお爲だ? 本田さんが、何とか思ひなさらアね。彼方へお出でよ。」 と暫く待ツてゐてみたが、動きさうにも無いので。 又聲を勵まして、 「よ。お出でと云ツたら、お出でよ。」 「其位なら、彼樣な事云はないがいゝ……。」 と、差俯向く。其顏を窺けば、おや/\泪ぐんで……。 「ま、呆れけエツちまはア!」と母親はあきれけエツちまツた。「たンとお脹れ。」 とは云ツたが、又折れて、 「世話ア燒かせずと、お出でよ。」 返答なし。 「えゝ、も、じれツたい! 勝手にするがいゝ!」 其儘、母親は、奧座鋪へ還ツて仕舞ツた。 これで座鋪へ還る綱も截れた。求めて截ツて置きながら、今更惜しいやうな、じれツたいやうな、をかしな顏をして、暫く待ツてゐてみても、誰も呼びに來ても呉れない。また呼びに來たとて、おめ/\還られもしない。それに奧座鋪では、想像のない者共が打揃ツて、噺すやら、笑ふやら……。癇癪紛れにお勢は色鉛筆を執ツて、まだ眞新らしなスウヰントンの文典の表紙を、ごし/\擦り始めた。不運なるスウヰントンの文典! 表紙が大方眞青になツたころ、ふと、縁側に跫音。……耳を聳てて、お勢ははツと狼狽へた……。手ばしこく文典を開けて、倒しまになツてゐるとも心附かで、ぴツたり眼で喰込んだ。トント、先刻から書見してゐたやうな面相をして。 すらりと障子が開く。文典を凝視めたまゝで、お勢は少し震へた。遠慮氣もなく、無造作に入ツて來た者は、云はでも知れた昇。華美な、輕い調子で、「遁げたね、色男子が來たと思ツて。」 ト云はして置いて、お勢は漸く、重さうに首を揚げて、世にも落着いた聲で、さも膠なく、 「あの、失禮ですが、まだ明日の支度をしませんから……。」 けれども、敵手が敵手だから、一向利かない。 「明日の支度? 明日の支度なぞは、如何でも宜いさ。」 と、昇は、お勢の傍に陣を取ツた。 「眞個に、まだ……。」 「何をさう拗捩たんだらう? 令慈に叱られたね? え、然うでない。はてな。」 ト首を傾けるより、早く横手を拍ツて、 「あ、あ、わかツた、成、成、それで……。それならさうと、早く一言云へばいゝのに……。なんだらう。大方かく申す拙者奴に……ウ……ウと云ツたやうな譯なんだらう? 大蛤の前ぢやア口が開きかねる。――これやア尤もだ。そこで釣寄せて置いて……ほん、ありがた山の蜀魂、一聲漏らさうとは嬉しいぞエ/\。」 ト妙な身振りをして、 「それなら、實は此方も、疾から其氣ありだから。それ、白癡が出來合靴を買ふのぢやないが、しツくり嵌まるといふもんだ。嵌まると云へば、邪魔の入らない内だ。ちよツくり抱ツこのぐい極めと往きやせう。」 ト白けた聲を出して、手を出しながら、摺寄ツて來る。 「明日の支度が……。」 トお勢は泣聲を出して、身を縮ませた。 「ほい、間違ツたか。失敗々々。」 何を云ツても、敵手にならぬのみか、此上手を附けたら、雨になりさうなので、流石の本田も少し持あぐねた所へ、お鍋が呼びに來たから、それを幸ひにして、奧座鋪へ還ツて仕舞ツた。 文三は昇が來たから、安心を失くして、起ツて見たり、坐ツて見たり、我他彼此するのが薄々分るので、彌々以て堪らず、無い用を拵へて、此時二階を降りて、お勢の部屋の前を通りかけたが、ふと耳を聳て、拔足をして障子の間隙から内を窺いて、はツと顏。お勢が伏臥になツて泣……い……て……。 Explanation.(示談)と一時に胸で破裂した……。 第十五回Explanation.(示談)と肚を極めてみると、大きに胸が透いた。己れの打解けた心で推測るゆゑ、左程に難事とも思へない。もう些しの辛抱、と、哀む可し、文三は眠らでとも知らず夢を見てゐた。 機會を窺てゐる二日目の朝、見知り越しの金貸が來て、お政を連出して行く。時機到來……今日こそは、と領を延ばしてゐるとも知らずして、歸ツて來たか、下女部屋の入口で、「慈母さんは?」ト優しい聲。 其聲を聞くと均しく、文三、起上りは起上ツたが、据ゑた胸も率となれば躍る。前へ一歩、後へ一歩、躊躇ひながら二階を降りて、ふいと縁を廻つて見れば、部屋にと許り思ツてゐたお勢が、入口の柱に靠着れて、空を向上げて物思ひ顏……。ハツと思ツて、文三立ち止まツた。お勢も、何心なく振り反ツてみて、急に顏を曇らせる……。ツと部屋へ入ツて、跡 [14]びツしやり。障子は柱と額合せをして、二三寸跳ね返ツた。 跳ね返ツた障子を文三は恨めしさうに凝視めてゐたが、軈て思ひ切りわるく、二歩三歩 わなゝく手頭を引手へ懸けて、胸と共に障子を躍らしながら、開けてみれば、お勢は机の前に端坐ツて、一心に壁と睨め競。 「お勢さん。」 と瀬蹈をしてみれば、愛度氣なく返答をしない。危きに慣れて縮めた膽を少し太くして、また、 「お勢さん。」 また返答をしない。 此分なら、と文三は取越して安心をして、莞爾々々しながら、部屋へ入り、好き程の處に座を占めて、 「少しお噺が……。」 此時になツて、お勢は初て、首の筋でも蹙ツたやうに、徐々顏を此方へ向け、可愛らしい眼に角を立てて、文三の樣子を見ながら、何か云ひたさうな口付をした。今打たうと振上げた拳の下に立ツたやうに、文三はひやりとして、思はず一生懸命に、お勢の顏を凝視めた。けれども、お勢は何とも云はず、また向うを向いて仕舞ツたので、やゝ顏を霽らして、極りわるさうに莞爾々々しながら、 「此間は誠にどう……。」 も、と云ひ切らぬうち、ツと起上ツたお勢の體が……、不意を打たれて、ぎよツとする。女帶が、友禪染の、眼前にちら/\……はツと心附く……我を忘れて、しツかり捉へた、お勢の袂を……。 「何をなさるんです?」 ト慳貪に云ふ。 「少しお噺……お……。」 「今、用が有ります。」 邪慳に袂を振拂ツて、ツイと、部屋を出て仕舞ツた。 其跡を眺めて、文三は呆れた顏。……「此期を外しては……、」と心附いて、起ち上りてはみたが、正可、跡を慕ツて往かれもせず。萎れて二階へ、孤鼠々々と歸ツた。 「失敗ツた。」ト口へ出して後悔して、後れ馳せに赤面。「今にお袋が歸ツて來る。慈母さん此々の次第……。失敗ツた、失策ツた。」 千悔萬悔、臍を噬んでゐる胸元を、貫くやうな午砲の響。それと同時に「御膳で御座いますよ。」けれど、ホイ來たと、云ツて降りられもしない 二三度呼ばれて、據ろ無く、薄氣味わる/\降りてみれば、お政はもう歸ツてゐて、娘と取膳で、今、食事最中。文三は默禮をして膳に向ツた。「もう咄したか、まだ咄さぬか。」ト思へば胸も落着かず。臆病で、好事な眼を、額越にそツと親子へ注いでみれば、お勢は澄ました顏。お政は意味の無い顏。咄したとも付かず、咄さぬとも付かぬ。 壽命を縮めながら、食事をしてゐた。 「そら/\、氣をお付けなね。子供ぢやア有るまいし。」 ふと轟いたお政の聲に、怖氣の付いた文三ゆゑ、吃驚して首を揚げてみて、安心した。お勢が誤まつて、茶を膝に滴したので有ツた。 氣を附けられたから、と云ふ、えこぢな顏をして、お勢は澄ましてゐる。拭きもしない。「早くお拭きなね。」と母親は叱ツた。「膝の上へ茶を滴して、ぽかんと見てエる奴が有るもんか。三歳兒ぢやア有るまいし、意氣地の無いにも方圖が有ツたもんだ。」 最早斯う成ツては、穩かに收まりさうもない。默ツても視てゐられなくなツたから、お鍋は一とかたけ頬張ツた飯を鵜呑にして、「はツ、はツ。」と笑ツた。同じ心に文三も「へ、へ。」と笑ツた。 するとお勢は佶と振向いて、可畏らしい眼付をして、文三を睨め出した。その容子が常で無いから、お鍋はふと笑ひ罷んで、もツけな顏をする。文三は色を失ツた……。 「どうせ、私は、意氣地が有りませんのさ、」とお勢はじぶくりだした。誰に向ツて云ふともなく、「笑ひたきやア澤山お笑ひなさい。……失敬な、人の叱られるのが、何處が可笑しいんだらう? げた/\/\/\。」 「何だよ、やかましい! 言草云はずと、早々と拭いてお仕舞ひ。」 ト母 「意氣地がなくツたツて、まだ、自分が云ツたことを、忘れるほど耄碌はしません。餘計なお世話だ。人の事よりか自分の事を考へてみるがいゝ。男の口から最う口も利かないぞツて、云ツて置きながら……」 「お勢!」 ト一句に力を籠めて、制する母親。その聲も、もう斯う成ツては、耳には入らない。文三を尻眼に懸けながら、お勢は切齒をして、 「まだ三日も經たないうちに、人の部屋へ……」 「これ、どうしたもんだ。」 「だツて私ア腹が立つものを。人の事を浮氣者だなんぞツて、罵ツて置きながら、三日も經たないうちに、人の部屋へつか/\入ツて來て、……人の袂なんぞ捉へて、咄が有るだの、何だの、種々な事を云ツて……なんぼ何だツて、餘り人を輕蔑した……云ふ事が有るなら、 留めれば留めるほど、尚ほ喚く。散々喚かして置いて、最う好い時分と成ツてから、お政が「彼方へ。」と頤でしやくる。しやくられて、放心して、人の 「いゝえ、放擲ツといとくれ、何だか云ふ事が有るツていふンだから、それを……聞かないうちは……いゝえ、私や、……あんまり人を輕蔑した……いゝえ。其處お放しよ、……お放しツてツたら、お放しよツ。……」 けれども、お鍋の腕力には敵はない。無理無體に引立てられ、がや/\喚きながらも、座鋪を連れ出されて、稍部屋へ收まツたやうす。 となツて、文三初て人心地が付いた。 いづ 「實に……どうも、す、す、濟まんことをしました。……まだお咄はいたしませんでしたが、一昨日お勢さんに……。」 ト云ひかねる。 「其事なら、ちらと聞きました、」と叔母が受取ツて呉れた。 「それはあゝした我儘者ですから、定めしお氣に障るやうな事もいひましたらうから……。」 「いや、決してお勢さんが……。」 「それやアもう、」と一越調子高に云ツて、文三を云ひ消して仕舞ひ、また聲を竝に落して、お叱んなさるも、彼の身の爲めだから、いゝけれども、只まだ婚嫁前の事てすから、彼樣な者でもね、餘り身體に疵の……。」 「いや、私は決して、……其樣な……。」 「だからさ、お云ひなすツたとは、云はないけれども、是からも有る事だから、おねがひ申して置くンですよ。わるくお聞きなすツちやアいけないよ。」 ぴツたり釘を打たれて、ぐツとも云へず、文三は、只、口惜しさうに、叔母の顏を視詰めるばかり。 「子を持ツてみなければ、分らない事だけれども、女の子といふものは、嫁けるまでが心配なものさ。それやア、人樣にやア、彼樣な者を如何なツても、よささうに思はれるだらうけれども、親馬鹿とは旨く云ツたもンで、彼樣な者でも子だと思へば、有りもしねえ惡名つけられて、ひよツと縁遠くでもなると、厭なものさ。それに誰にしろ、踏付けられゝやア、あンまり好い心持もしないものさ。ねえ、文さん。」 もウ、文三、堪りかねた。 「す、す、それぢや何ですか。……私が……私が、お勢さんを踏付けたと仰しやるンですかツ?」 「可畏い事をお云ひなさるねえ。」ト、お政はおそろしい顏になツた。 [15]「お前さんがトお勢を踏付けたと、誰が云ひました? 私ア自分にも覺えが有るから、只の世間咄に、踏付けられたと思ふと厭なもンだ、と云ツた許しだよ。それを其樣な云ひもしない事をいツて、……あゝ、なンだね、お前さん、云ひ掛りをいふんだね? 女だと思ツて。其樣な事を云ツて、人を困らせる氣だね?」 と層に懸ツて極付ける。 「あゝわるう御座んした……、」ト文三は、狼狽てて謝罪ツたが、口惜し涙が承知をせず、兩眼に一杯溜るので、顏を揚げてゐられない。差俯向いて、「私が……わるう御座んした……。」 「さうお云ひなさると、さも私が難題でもいひだしたやうに、聞えるけれども、なにも然う遁げなくツてもいゝぢやないか。其樣な事を云ひ出すからにやア、お前さんだツて、何か譯が無くツちやア、お云ひなさりもすまい?」 「私がわるう御座んした……。」ト差俯向いたまゝで、重ねて謝罪ツた。「全く其樣な氣で、申した譯ぢやア有りませんが……お、お、思違ひをして……ツイ……失禮を申しました……。」 かう云はれては、流石のお政も、最う噛付きやうが無い、と見えて、無言で、暫く、文三を睨めるやうに視てゐたが、頓て、 「あゝ厭だ、/\、」と顏を皺めて、「此樣な厭な思ひをするも、皆彼奴のお蔭だ。どれ、」ト起ち上ツて、「往ツて土性骨を打挫いてやりませう。」 お政は、座鋪を出て仕舞ツた。 お政が座鋪を出るや、否や、文三は今迄の溜涙を、一時にはら/\と落した。たゞ其儘、さしうつむいた儘で、良久くの間、起ちも上がらず、身動きもせず、默然として坐ツてゐた。が、そのうちに、お鍋が歸ツて來たので、文三も、餘儀なく、うつむいたまゝで、力無ささうに起ち上り、悄々我部屋へ戻らうとして、梯子段の下まで來ると、お勢の部屋で、さも意地張ツた聲で、 「私やアもう、家に居るのは厭だ/\。」 第十六囘あれほどまでに、お勢母子の者に辱められても、文三はまだ園田の家を去る氣になれない。但だ、そのかはり、火の消えたやうに、鎭まツて仕舞ひ、いとど無口が、一層口を開かなくなツて、呼んでも捗々敷く返答をもしない。用事が無ければ、下へも降りて來ず、只一間にのみ垂れ籠めてゐる。餘り靜かなので、ツイ居ることを忘れて、お鍋が洋燈の油を注がずに置いても、それを吩付けて注がせるでもなく、油が無ければ無いで、眞闇な座鋪に悄然として、始終何事をか考へてゐる。 けれど、かう靜まツてゐるは表相のみで、其胸奧の中へ立入ツてみれば、實に一方ならぬ變動。恰も心が顛倒した如くに、昨日好いと思ツた事も、今日は惡く、今日惡いと思ふ事も、昨日は好いとのみ思ツてゐた。情慾の曇が取れて、心の鏡が明かになり、睡入ツてゐた智慧は、俄に眼を覺まして、決然として斷案を下し出す。眼に見えぬ處、幽妙の處で、文三は――全くとは云はず――稍生れ變ツた。 眼を改めてみれば、今まで爲て來た事は、夢か將た現か……と怪しまれる。 お政の浮薄、今更いふまでも無い。が、過まツた、文三は。――實に今まではお勢を見謬まツてゐた。今となツて考へてみれば、お勢はさほど高潔でも無い。移氣、開豁、輕躁、それを高潔と取違へて、意味も無い外部の美、それを内部のと混同して、愧しいかな、文三はお勢に心を奪はれてゐた。 我に心を動かしてゐる、と思ツたが、あれが抑も誤まりの緒。苟めにも人を愛するといふからには、必ず先づ互ひに、天性氣質を知りあはねばならぬ。けれども、お勢は、初より、文三の人と爲りを知ツてゐねば、よし多少文三に心を動かした如き形迹が有ればとて、それは眞に心を動かしてゐたではなく、只、ほんの、一時感染れてゐたので有ツたらう。 感受の力の勝つ者は誰しも同じ事ながら、お勢は眼前に移り行く事や物やのうち、少しでも新奇な物が有れば、眼早くそれを視て取ツて、直に心に思ひ染める。けれども、惜しい哉、殆ど見た儘で別に烹煉を加ふるといふことをせずに、無造作に、其物、其事の見解を作ツて仕舞ふから、自ら眞相を看破めるといふには至らずして、動もすれば淺膚の見に陷る。夫故その物に感染れて、眼色を變へて狂ひ騒ぐ時を見れば、如何にも熱心さうに見えるものの、固より一時の浮想ゆゑ、まだ眞味を味はぬうちに、早くも熱が冷めて、厭氣になツて、惜し氣もなく打棄てて仕舞ふ。感染れる事の早い代りに、飽きる事も早く、得る事に熱心な代りに、既に得た物を失ふことには無頓着。書物を買ふにしても然うで、買ひたいとなると、矢も楯もなく買ひたがるが、買ツて仕舞へば餘り讀みもしない。英語の稽古を始めた時も、また其通りで、始める迄は一日をも爭ツたが、始めてみれば左程に勉強もしない。萬事然うした氣風で有ツてみれば、お勢の文三に感染れたも、また厭いたも、其間に絡まる事情を棄てて、單に其心状をのみ繹ねてみたら、恐らくは其樣な事で有らう。 且つお勢は、開豁な氣質、文三は朴茂な氣質。開豁が朴茂に感染れたから、何所か假衣をしたやうに、恰當はぬ所が有ツて、落着が惡かツたらう。惡ければ良くしよう、といふが人の常情で有ツてみれば、假令免職、窮愁、恥辱、などといふ外部の激因が無いにしても、お勢の文三に對する感情は、早晩一變せずにはゐなかツたらう。 お勢は實に輕躁で有る。けれども、輕躁で無い者が、輕躁な事を爲ようとて爲得ぬが如く、輕躁な者は、輕躁な事を爲まい、と思ツたとて、なか/\爲ずにはをられまい。輕躁と自ら認めてゐる者すら、尚かうしたもので有ツてみれば、況してお勢の如き、まだ我をも知らぬ、罪の無い處女が、己れの氣質に克ち得ぬとて、強ちにそれを無理とも云へぬ。若しお勢を深く尤む可き者なら、較べて云へば、稍學問あり、知識ありながら、尚ほ輕躁を免がれぬ、譬へば文三の如き者は、(はれやれ、文三の如き者は?)何としたもので有らう? 人事で無い。お勢も惡かツたが、文三もよろしく無かツた。「人の頭の蠅を逐ふよりは、先づ我頭のを逐へ。」――聞舊した諺も、今は耳新らしく、身に染みて聞かれる。から、何事につけても、己一人をのみ責めて、敢て叨りにお勢を尤めなかツた。が、如何に贔屓眼にみても、文三の既に得た所謂認識といふものを、お勢が得てゐるとは、どうしても見えない。輕躁と心附かねばこそ、身を輕躁に持崩しながら、それを憂しとも思はぬ樣子。醜穢と認めねばこそ、身を不潔な境に處きながら、それを何とも思はぬ顏色。是れが文三の、近來最も傷心な事。半夜夢覺めて燈冷かなる時、想うて此事に到れば、常に悵然として大息せられる。 して見ると、文三は、あゝ、まだ苦しみが嘗め足りぬさうな! 第十七囘お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、凡そ二時間許りも、何か諄々と教誨かせてゐたが、爾後は、如何したものか、急に母子の折合が好くなツて來た。取分けてお勢が母親に孝順くする。折節には、機嫌を取るのかと思はれるほどの事をも云ふ。親も、子も、睨める敵は同じ文三ゆゑ、かう比周ふも其筈ながら、動靜を窺るに、只其許りでも無ささうで。 昇は其後ふツつり遊びに來ない。顏を視れば鬩み合ふ事にしてゐた母子ゆゑ、拔合が付いてみれば、咄も無く、文三の蔭口も今は道ひ盡す。――家内が何時からと無く濕ツて來た。 「あゝ辛氣だこと!」ト一夜お勢が欠伸まじりに云ツて泪ぐんだ。 新聞を拾讀してゐたお政は、眼鏡越しに娘を見遣ツて、 「欠びをして、徒然としてゐることは無いやアね。本でも出して來て、お復習ひなさい。」 「復習へツて。」ト、お勢は鼻聲になツて眉を顰めた。 「明日の支度は、もう濟まして仕舞ツたものヲ。」…… 「濟ましツちまツたツて。」 お政は、復、新聞に取掛ツた。 「慈母さん。」ト、お勢は何をか憶出して、事有り氣に云ツた。「本田さんは何故來ないンだらう?」 「何故だか。」 「憤ツてゐるのぢやないのだらうか?」 「然うかも知れない。」 何を云ツても取合はぬゆゑ、お勢も仕方なく口を鉗んで、少く物思はし氣に洋燈を凝視めてゐたが、それでもまだ氣に懸ると見えて、 「慈母さん。」 「何だよ?」と蒼蠅さうに、お政は起直ツた。 「眞個に本田さんは憤ツて來ないのだらうか?」 「何を。」 「何をツて。」ト少し氣を得て、「そら、此間來た時、私が構はなかツたから……。」 ト、母の顏を凝視めた。 「なに人、」ト、お政は莞爾した。何と云ツてもまだおぼこだなと云ひたさうで、「お前に構ツて貰ひたいンで、來なさるンぢや有るまいし。」 「あら、然うぢや無いンだけれどもさ……。」ト、恥かしさうに自分も莞爾。 おほんといふ罪を作ツてゐる、とは知らぬから、昇が例の通り、平氣な顏をして、ふいと遣ツて來た。 「おや、ま、噂をすれば影とやらだよ。」トお政が顏を見るより饒舌り付けた。「今貴君の噂をしてゐた所さ。え? 勿論さ。義理にも善くは云へないツさ……はゝはゝゝ。それは冗談だが、きついお見限りですね。何處か穴でも出來たんぢやないかね? 出來たとエ? そら/\、それだもの、だから鰻男だといふことさ。え、鰌で無くツてお仕合? 鰌とはエ?……あ、ほンに鰌と云へば、向う横町に出來た鰻屋ね、ちよいと異ですツさ。久し振りだツて、奢らなくツてもいゝよ、はゝゝゝ。」 皺延ばしの太平樂、聞くに堪へぬといふは平日の事。今宵はちと情實が有るから、お勢は顏を皺めるは扨置き、昇の顏を横眼でみながら、追蒐け引蒐けて高笑ひ。てれ隱しか、嬉しさの溢れか、當人に聞いてみねば、とんと分らず。 「今夜は大分御機嫌だが、」ト、昇も心附いたか、お勢を調戲りだす。「此間は如何したもンだツた? 何を云ツても、まだ明日の支度をしませんから。はツ、はツ、はツ、憶出すと可笑しくなる。」 「だツて、氣分が惡かツたンですものヲ。」ト、淫哇しい、形容も出來ない身振り。 「何が何だか、譯が解りやアしません。」 少し白けた席の穴を填めるためか、昇が俄に問はれもせぬ無沙汰の分疏をしだして、近ごろは頼まれて、一夜はざめに課長の處へ往ツて、細君と妹に、英語の下稽古をしてやる、といふ。「いや、迷惑な、」ト言葉を足す。 と聞いて、お政にも似合はぬ、正直な、まうけに受けて、其不心得を、諭す。是が立身の踏臺になるかも知れぬと云ツて。けれども、御弟子が御弟子ゆゑ、飛んだ事まで教へはすまいか、と思ふと心配だ、と高く笑ふ。 お勢は、昇が課長の處へ、英語を教へに往くと聞くより、如何したものか、俄に萎れだしたが、此時母親に釣られて、淋しい顏で莞爾して、 「令妹の名は何といふの?」 「花とか耳とか云ツたツけ。」 「餘程出來るの?」 「英語かね? なアに、から駄目だ。Thank you for your kind だから、まだ/\。」 お勢は冷笑の氣味で、 「それぢやア……。」 I will ask to you と云ツて、今日教師に叱られた。それは、其時、忘れてゐたのだから、仕方が無い。 「ときに、これは、」と昇は、お政の方を向いて、親指を出してみせて、「如何しました、その後?」 「居ますよ、まだ。」トお政は思ひ切りて顏を皺めた。「づうづうしいと思ツてねえ!……それも宜いが、また何か、お勢に云ひましたツさ。」 「お勢さんに?」 「はア。」 「如何な事を?」 おツとまかせと饒舌り出した、文三のお勢の部屋へ忍び込んだ事から、段々と順を逐ツて、剩さず漏さず、おまけまでつけて。昇は頤を撫でてそれを聽いてゐたが、お勢が惡たれた一段となると、不意に聲を放ツて、大笑に笑ツて、 「そいつア痛かツたらう。」 「なに其ン時こそ、些とばかし可怪な顏をしたツけが、半日も經てば、また平氣なものさ。なんと、本田さん、づうづうしいぢやア有りませんか!」 「さうしてね、まだ私の事を浮氣者だなンぞツて。」 「ほんとに、其樣な事も云ツたさうですがね。なにも、其樣に腹がたつなら、此處の家に居ないが宜いぢや有りませんか。私ならすぐ、下宿か何かして仕舞ひまさア。それを、其樣な事を云ツて置きながら、づう/\しく、のんべんくらりと、大飯を食ツて……ゐるとは、何處まで押が重いンだか、數が知れないと思ツて。」 昇は苦笑ひをしてゐた。暫時して返答とはなく、たゞ、 「何しても困ツたもンだね。」 「ほんとに困ツちまひますよ。」 困ツてゐる所へ、勝手口で、「梅本でござい。」梅本といふは近處の料理屋。「おや、家では……。」と、お政は怪しむ。その顏も忽ち莞爾々々となツた、昇の吩咐とわかツて。 「それだから此息子は可愛いよ。」ト、片腹痛い言まで云ツて、やがて下女が持込む岡持の蓋を取ツて見るより、また意地の汚ない言をいふ。それを、今夜に限ツて、平氣で聞いてゐるお勢どのの心持が解らない、と怪しんでゐる間も有ればこそ、それツと炭を 刺身は調味のみになツて、噎で應答をするころになツて、お政は、例の處へでも往き度くなツたか、ふと起ツて座鋪を出た。 と、兩人差向ひになツた。顏を視合せるとも無く視合して、お勢はくす/\と吹出したが、急に眞面目になツて、ちんと澄ます。 「これアをかしい。何がくす/\だらう?」 「何でも無いの。」 「のぼる源氏のお顏を拜んで、嬉しいか?」 「呆れて仕舞はア。ひよツとこ面の癖に。」 「何だと?」 「綺麗なお顏で御座いますといふこと。」 昇は例の、默ツてお勢を睨め出す。 「綺麗なお顏だといふンだから、ほゝゝ、」と用心しながら退却をして、「いゝぢやア……おツ……。」 ツと寄ツた昇が、お勢の傍へ。……空で手と手が閃く、からまる……と鎭まツた所をみれば、お勢は何時か手を握られてゐた。 「これが如何したの?」と平氣な顏。 「如何もしないが、かうまづ俘虜にしておいて、どツこい……。」と振放さうとする手を握りしめる。 「あちゝゝ。」と顏を皺めて、「痛い事をなさるねえ!」 「ちツとは痛いのさ。」 「放して頂戴よ。よう、放さないと此手に喰付きますよ。」 「喰付きたいほど思へども……。」ト平氣で鼻歌。 お勢はおそろしく顏を皺めて、甘ツたるい聲で、「よう、放して頂戴と云へばねえ。……聲を立てますよ。」 「お立てなさいとも。」 ト云はれて、一段聲を低めて、「あら引本田さんが引手なんぞ握ツて、ほゝゝゝ、いけません。ほゝゝ。」 「それはさぞ引お困りで御座いませう引。」 「眞個に放して頂戴よ。」 「何故? 内海に知れると惡いか?」…… 「なに、彼樣な奴に知れたツて……。」 「ぢや、ちツとかうしてゐ給へ。大丈夫だよ。淫褻なぞする本田にあらずだ。……が、ちよツと……。」ト何やら小聲で云ツて、「……位は宜からう?」 すると、お勢は、如何してか、急に心から眞面目になツて、「あたしやア知らないからいゝ……私やア……其樣な失敬な事ツて……。」 昇は面白さうに、お勢の眞面目くさツた顏を眺めて、莞爾莞爾しながら、「いゝぢやないか? だゞちよいと……。」 「厭ですよ、そんな……よツ、放して頂戴と云へばねえツ。」 一生懸命に振放さうとする、放させまいとする、暫時爭ツて居ると、縁側に足音がする。それを聞くと、昇は我からお勢の手を放して、大笑ひに笑ひ出した。 ずツと、お政が入ツて來た。 「叔母さん/\。お勢さんを放飼はいけないよ。今も人を捉へて、口説いて口説いて困らせ拔いた。」 「あら/\彼樣な虚言を吐いて、…非道い人だこと…!」 昇は天井を仰向いて、「はツ、はツ、はツ。」 第十八囘一週間と經ち、二週間と經つ。昇は、相かはらず、繁々遊びに來る。そこで、お勢も益々親しくなる。 けれど、其親しみ方が、文三の時とは大きに違ふ。彼時は、華美から野暮へと感染れたが、此度は其反對で、野暮の上塗が次第に剥げて、漸く木地の華美に戻る。兩人とも顏を合はせれば、只戯れる許り、落着いて談話などした事更に無し。それも、お勢に云はせれば、昇が宜しく無いので、此方で眞面目にしてゐるものを、とぼけ顏をして剽輕な事を云ひ、輕く、氣無しに、調子を浮かせてあやなしかける。其故、念に掛けて笑ふまい、とはしながら、をかしくてをかしくて、どうも堪らず。脣を噛締め、眉を釣上げ、眞赤になツても耐へ切れず、ツイ吹出して、大事の/\品格を落して仕舞ふ。果は、何を云はれんでも、顏さへ見れば可笑しくなる。「眞個に本田さんはいけないよ、人を笑はして許りゐて。」とお勢は絶えず昇を憎がツた。 かうお勢に對ふと、昇は戯れ散らすが、お政には無遠慮といふうちにも、何處かしツとりした所が有ツて、戯言を云はせれば、云ひもするが、また落着く時には落着いて、隨分眞面目な談話もする。勿論、眞面目な談話と云ツた處で、金利公債の話、家屋敷の賣買の噂。さもなくば、借家人が更に家賃を納れぬ苦情――皆つまらぬ事ばかり。一つとしてお勢の耳には、面白くも聞えないが、それでゐて、兩人の話してゐる所を聞けば、何か、談話の筋の外に、男女交際、婦人矯風の議論よりは、遙かに優りて面白い所が有ツて、それを眼顏で話合ツて、娯しんでゐるらしいが、お勢には薩張解らん。が、餘程面白いと見えて、其樣な談話が始まると、お政は勿論、昇までが、平生の愛嬌は何處へやら遣ツて、お勢の方は見向もせず、一心になツて、或は公債を書替へる極く簡略な法、或は誰も知ツてゐる銀行の内幕、または、お得意の課長の生計の大した事を、喋々と話す。お勢は退屈で/\、欠び許り出る。起上ツて部屋へ歸らう、とは思ひながら、つい起そゝくれて潮合を失ひ、まじりまじり、思慮の無い顏をして、面白くもない談話を聞いてゐるうちに、いつしか眼が曇り、兩人の顏がかすんで、話聲もやゝ遠く籠ツて聞こえる。……「なに、十圓さ。」と突然鼓膜を破る昇の聲に駭かされ、震へ上る拍子に、眼を看開いて、忙はしく兩人の顏を窺へば、心附かぬ樣子。まづよかツたと安心し、何喰はぬ顏をして、また兩人の談話を聞出すと、また眼の皮がたるみ、引入れられるやうな、快い心地になツて、睡るともなく、つい正體を失ふ……誰かに手暴く搖ぶられて、また愕然として眼を覺ませば、耳元にどツと高笑の聲。お勢も流石に莞爾して、「それでも睡いんだものヲ。」と睡さうに分疏をいふ。また、かういふ事も有る。前のやうに慾張ツた談話で、兩人は夢中になツてゐる。お勢は退屈やら、手持無沙汰やら、いびつに坐ツてみたり、跪坐ツてみたり、耳を借してゐては際限もなし。そのうちには、また睡氣がさしさうになる。から、ちと談話の仲間入りをしてみよう、とは思ふが、一人が口を噤めば、一人が舌を揮ひ、喋々として兩つの口が結ばるといふ事が無ければ、嘴を容れたいにも、更に其間隙が見附からない。その見附からない間隙を、漸く見附けて、此處ぞと思へば、さて肝心のいふことが見附からず、迷つくうちに、はや人に取られて仕舞ふ。經驗が知識を生んで、今度はいふべき事も豫て用意して、ぢれツたさうに插頭で髮を掻きながら、漸くの思で間隙を見附け、「公債は今幾何なの?」と嘴を插んでみれば、さて我ながら唐突千萬! 無理では無いが、昇も、母親も、膽を潰して、顏を視合せて、大笑ひに笑ひ出す。__今のは半襟の間違ひだらう。__なに、人形の首だツさ。__違えねえ。またしても口を揃へて高笑ひ。「あんまりだから、いゝ。」トお勢は膨れる。けれど、膨れたとて、機嫌を取られゝば、それだけ畢竟安目にされる道理。どうしても、かうしても、敵はない。 お勢は此の事を不平に思ツて、或は口を利かぬと云ひ、或は絶交すると云ツて、恐喝してみたが、昇は一向平氣なもの、なか/\其樣な甘手ではいかん。壓制家、利己論者と、口では呪ひながら、お勢もつい其不屆者と親んで、玩ばれると知りつゝ、玩ばれ、調戯られると知りつゝ、調戯られてゐる。けれど、さうはいふものの、戯けるも滿更でも無いと見えて、偶々昇が、お勢の望む通り、眞面目にしてゐれば、さてどうも物足りぬ樣子で、此方から、遠方から、危がりながら、ちよツかいを出してみる。相手にならねば甚だ機嫌がわるい。から、餘儀なく其手を押へさうにすれば、忽ちきやツ/\と輕忽な聲を發し、高く笑ひ、遠方へ逃げ、例の睚の裏を返して、べべべーといふ。總て、なぶられても厭だが、なぶられぬも厭、どうしませう、トいひたさうな樣子 母親は見ぬ風をして、見落しなく見ておくから、齒癢くてたまらん。老功の者の眼から觀れば、年若の者のする事は、總てしだらなく、手緩くて更に埓が明かん。そこで耐へ兼ねて娘に向ひ、嚴かに云ひ聞かせる、娘の時の心掛を。どのやうな事かと云へば、皆多年の實驗から出た交際の規則で、男、取分けて若い男といふ者は、かう/\いふ性質のもので有るから、若し戯談をいひかけられたら、かう。花を持たせられたら、かう。弄られたら、かう待遇ふものだ、などいふ事であるが、親の心子知らずで、かう利益を思ツて、云ひ聞かせるものを、それをお勢は、生意氣な、まだ世の態も見知らぬ癖に、明治生れの婦人は、藝娼妓で無いから、男子に接するに其樣な手管は入らないとて、鼻の頭で待遇ツてゐて、更に用ひようともしない。手管では無い、是れが娘の時の心掛といふものだ、と云ひ聞かせても、其樣な深遠な道理は、まだ青いお勢には解らない。そんな事は、女大學にだツて書いて無い、と強情を張る。勝手にしな、と癇癪を起せば。勝手にしなくツて、と口答をする。どうにも、かうにも、なツた奴ぢやない! けれど、母親が氣を揉むまでも無く、幾程もなく、お勢は我から自然に樣子を變へた。まづ其初めを云へば、かうで。 此の物語の首に、ちよいと噂をした事の有るお政の知己、須賀町のお濱といふ婦人が、近頃に、娘をさる商家へ縁付けるとて、それを吹聽かた%\、その娘を伴れて、或日、お政を尋ねて來た。娘といふは、お勢に一つ年下で、姿色は少し劣る代り、遊藝は一通り出來て、それでゐて、おとなしく、愛想がよくて、お政に云はせれば、如才の無い娘で、お勢に云はせれば、舊幣な娘。お勢は大嫌ひ、母親が贔屓にするだけに、尚ほ一層此娘を嫌ふ。但し是れは、普通の勝心のさせる業ばかりではなく、此娘のお蔭で、をりをり高い鼻を擦られる事も有るからで。縁付けると聞いて、お政は羨ましいと思ふ心を、少しも匿さず、顏はおろか、口へまで出して、事々しく慶びを陳べる。娘の親も親で、慶びを陳べられて、一層得意になり、さも誇貌に婿の財産を數へ、または支度に費ツた金額の、總計から内譯まで、細細と計算をして聞かせれば、聞く事毎にお政は且つ驚き、且つ羨んで、果は、どうしてか、婚姻の原因を娘の行状に見出して、これといふも、平生の心掛がいゝからだ、と口を極めて賞める。嫁る事が何故其樣に手柄であらうか。お勢は猫が鼠を捕ツた程にも思ツてゐないのに! それを其娘は、恥かしさうに、俯向きは俯向きながら、己れも仕合と思ひ顏で、高慢は自ら小鼻に現はれてゐる。見てゐられぬ程に醜態を極める! お勢は固より羨ましくも、妬ましくも有るまいが、たゞ己れ一人で、さう思ツてゐる許りでは、滿足が出來んと見えて、をり/\さも苦々しさうに、冷笑ツてみせるが、生憎誰も心附かん。そのうちに、母親が人の身の上を羨むにつけて、我身の薄命を歎ち、何處かの人が、親を蔑ろにして、更にいふことを用ひず、何時身を極めるといふ考へも無い、とて苦情をならべ出すと、娘の親は、失禮な、なに此娘の姿色なら、ゆく/\は「立派な官員さん」でも夫に持ツて、親に安樂をさせることで有らう、と云ツて、嘲けるやうに高く笑ふ。見やう見眞似に、娘までが、お勢の方を顧みて、これもまた嘲けるやうに、ほゝと笑ふ。お勢はおそろしく赤面して、さも面目なげに俯向いたが、十分も經たぬうちに、座鋪を出て仕舞ツた。我部屋へ戻ツてから、初て、後馳に憤然となツて、「一生、お嫁になんぞ行くもんか、」ト奮激した。 客は、一日、打くつろいで話して、夜に入ツてから歸ツた。歸ツた後に、お政はまた人の幸福をいひだして、羨むので、お勢は最早勘辨がならず、胸に積る晝間からの鬱憤を、一時に霽らさうといふ意氣込で、言葉鋭く云ひまくツてみると、母の方にも存外な道理が有ツて、つひにはお勢も成程と思ツたか、少し受太刀になツた。が、負けじ魂から、滅多には屈服せず、尚ほ彼此と諍論ツてゐる。そのうちに、お政は、何か妙案を思ひ浮べたやうに、俄に顏色を和げ、今にも笑出しさうな眼付をして、「そんな事をお云ひだけれども、本田さんならどうだえ? 本田さんでも、お嫁に行くのは厭かえ?」トいふ。「厭なこツた。」ト云ツて、お勢は今まで顏へ出してゐた思慮を、盡く内へ引込まして仕舞ふ。「おや、何故だらう。本田さんなら、いゝぢやないか。ちよいと氣が利いてゐて、小金も少とは持ツてゐなさりさうだし、それに、第一男が好くツて。」「厭なこツた。」「でも若し本田さんが呉れろと云ツたら。何と云はう?」ト云はれて、お勢は少し躊躇ツたが、狼狽へて、「い……いやなこツた。」お政はじろりと其樣子をみて、何を思ツてか、高く笑ツたばかりで、再び娘を詰らなかツた。その後は、お勢は故らに、何喰はぬ顏を作ツてみても、どうも旨くいかぬやうすで、動もすれば沈んで、眼を細くして、何處か遠方を凝視め、恍惚として、夢現の境に迷ふやうに見えたことも有ツた。「十一時になるよ。」ト母親に氣を附けられたときは、夢の覺めたやうな顏をして、溜息さへ吐いた。 部屋へ戻ツても、尚ほ氣が確かにならず、何心なく寢衣を着代へて、力無ささうに、ベツたりと床の上へ坐ツたまま、身動きもしない。何を思ツてゐるのか? 母の端なく云ツた一言の答を求めて、求め得んのか? 夢のやうに過ぎこした昔へ、心を引戻して、これまで文三如き者に拘ツて、良縁をも求めず、徒らに歳月を送ツたを、惜しい事に思ツてゐるのか? 或は母の言葉の放ツた光に、我身を めぐる暗黒を破られ、初て今が浮沈の潮界、一生の運の定まる時と心附いたのか? 抑また狂ひ出す妄想につれられて、我知らず心を華やかな娯しい未來へ走らし、望みを事實にし、現に夢を見て、嬉しく、畏ろしい思をしてゐるのか? 恍惚として顏に映る内の想が無いから、何を思ツてゐることか、すこしも解らないが、兎に角良久くの間は、身動きをもしなかツた。其儘で、十分ばかり經ツたころ、忽然として、眼が嬉しさうに光り出すかと思ふ間に、見る/\耐へようにも耐へ切れなささうな微笑が、口頭に浮び出て、頬さへいつしか紅を潮す。閉ぢた胸の、一時に開けた爲め、天成の美も一段の光を添へて、艶なうちにも、何處か、豁然と晴れやかに、快ささうな所も有りて、宛然蓮の花の開くを觀るやうに、見る眼も覺める許りで有ツた。突然、お勢は跳ね起きて、嬉しさがこみあげて、徒は坐ツてゐられぬやうに、そして、柱に懸けた薄暗い姿見に對ひ、模糊寫る己が笑顏を覗き込んで、あやすやうな眞似をして、片足浮かせて、床の上でぐるりと囘り、舞踏でもするやうな運歩で、部屋の中を跳ね廻ツて、また床の上へ來ると、其儘、其處へ臥倒れる拍子に、手ばしこく枕を取ツて、頭に宛がひ、渾身を搖りながら、締殺したやうな聲を漏らして笑ひ出した。 此狂氣じみた事の有ツた當座は、昇が來ると、お勢は、臆するでもなく、恥らふでもなく、只何となく落着が惡いやうで有ツた。何か心に持ツてゐる、それを悟られまいため、矢張今迄どほり、をさなく、愛度氣なく待遇はうと、蔭では思ふが、いざ昇と顏を合せると、どうも、もう、さうはいかないと云ひさうな調子で、いふ事にさしたる變りも無いが、それをいふ調子に、何處か今までに無いところが有ツて、濁ツて、厭味を含む。用も無いに、座鋪を出たり、はひツたり、をかしくも無いことに高く笑ツたり、誰やらに顏を見られてゐるなと心附きながら、それを故意と心附かぬ風をして、磊落に母親に物をいツたりするはまだな事。昇と眼を見合して、狼狽へて横へ外らしたことさへ、度々有ツた。總て今までとは樣子が違ふ。それを昇の居る前で、母親に怪しまれた時は、お勢もぱツと顏を赧めて、如何にも極りが惡さうに見えた。が、その極り惡さうなもいつしか失せて、其後は、昇に飽いたのか、珍らしくなくなツたのか、それとも何か爭ひでもしたのか、どうしたのか解らないが、兎に角昇が來ないとても、もウ心配もせず、來たとて、一向構はなくなツた。以前は鬱々としてゐる時でも、昇が來れば、すぐ冴えたものを、今は其反對で、冴えてゐる時でも、昇の顏を見れば、すぐ顏を曇らして、冷淡になつて、餘り口數もきかず、總て仲のわるい從兄妹同士のやうに、遠慮氣なく餘所々々しく待遇す。昇はさして變らず、尚ほ折節には戯言など言ひ掛けてみるが、云ツても、もウ、お勢が相手にならず、勿論嬉しさうにも無く、たゞ「知りませんよ、」ト彼方向くばかり。其故に、昇の戯ばみも鋒先が鈍ツて、大抵は、泣眠入るやうに眠入ツて仕舞ふ。かうまで昇を冷遇する。其代り、昇の來て居ない時は、おそろしい冴えやうで、誰彼の見さかひなく戯れかゝツて、詩吟するやら、唱歌するやら、いやがる下女をとらへて舞踏の眞似をするやら、飛んだり、跳ねたり、高笑ひをしたり、さまざまに騒ぎ散らす。が、かう冴えてゐる時でも、昇の顏さへ見れば、不意にまた眼の中を雲らして、落着いて、冷淡になツて仕舞ふ。 けれど、母親には大層やさしくなツて、騒いで叱られたとて、鎭まりもしないが、惡まれ口もきかず。却ツて憎氣なく、母親にまでだれかゝるので、母親も初のうちは苦い顏を作ツてゐたものの、竟には、どうかかうか釣込まれて、叱る聲を崩して笑ツて仕舞ふ。但し、朝起される時だけは、それは例外で、其時ばかりは少し頬を膨らせる。が、それも其程が過ぎれば、我から機嫌を直して、華やいで、時には母親に媚びるのか、と思ふほどの事をもいふ。初の程は、お政も不審顏をしてゐたが、慣れゝば、それも常となツてか、後には何とも思はぬ樣子で有ツた。 そのうちに、お勢が編物の夜稽古に通ひたいといひだす。編物よりか心易い者に、日本の裁縫を教へる者が有るから、晝間其處へ通へ、と母親のいふを押反して、幾度か/\、掌を合せぬばかりにして、是非に編物をと頼む。西洋の處女なら、今にも母の首にしがみ付いて頬の邊に接吻しさうに、あまえた、強請るやうな眼付で、顏をのぞかれ、やいやいとせがまれて、母親は意氣地なく、「えゝ、うるさい! どうなと勝手におし。」と賺されて仕舞ツた。 編物の稽古は、英語よりも面白いとみえて、隔晩の稽古を、樂しみにして通ふ。お勢は全體、本化粧が嫌ひで、これまで外出するにも、薄化粧ばかりしてゐたが、編物の稽古を始めてからは、「皆が大層作ツて來るから、私一人なにしないと……」と、咎める者も無いに、我から分疏をいひ/\、こツてりと人品を落すほどに粧ツて、衣服も成丈美いのを選んで着て行く。夜だから、此方ので宜いぢやないかと、美くない衣服を出されゝば、それを厭とは拒みはしないが、何となく機嫌がわるい。 お政は、そは/\して出て行く娘の後姿を、何時も請難さうに見送る……。 昇は何時からともなく、足を遠くして仕舞ツた。 第十九囘 お勢は、一旦は文三を、仂なく辱めはしたものの、心にはさほどにも思はんか、其後はたゞ冷淡なばかりで、さして辛くも當らん。が、それに引替へて、お政はます/\文三を憎んで、始終出て行けがしに待遇す。何か用事が有りて、下座鋪へ降りれば、家内中寄集りて、口を解いて面白さうに雜談などしてゐる時でも、皆云ひ合したやうに、ふと口を箝んで顏を曇らせる。といふうちにも取分けて、お政は不機嫌な體で、少し文三の出やうが遲ければ、何を愚頭愚頭してゐる、と云はぬばかりに、此方を睨めつけ、ときには氣を焦ツて、聞えよがしに舌鼓など鳴らして、聞かせる事も有る。文三とても白癡でもなく、瘋癲でもなければ、それほどにされんでも、今此處で身を退けば、眉を伸べて喜ぶ者が、そこらに澤山あることに心附かんでも無いから、心苦しいことは口に云へぬほどで有る。けれど、尚ほ、園田の家を辭し去らうとは思はん。何故にそれほどまでに、園田の家を去りたくないのか。因循な心から、あれほどにされても、尚ほそのやうに角立ツた事は出來んか。それほどになツても、まだ、お勢に心が殘るか。抑もまた、文三の位置では陷り易い謬。お勢との關繋が、此儘になツて仕舞ツたとは、戯談らしくてさうは思へんのか? 總て、此等の事は、多少は文三の羞を忍んで、尚ほ園田の家に居る原因となツたに相違ない。が、しかし、重な原因ではない。重な原因といふは、即ち人情の二字。此二字に 心を留めて視なくとも、今の家内の調子が、むかしとは大に相違するは、文三にも解る。以前まだ文三が、此の調子を成す一つの要素で有ツて、人々が眼を見合しては微笑し、幸福といはずして、幸福を樂んでゐたころは、家内全體に生温い春風が吹渡ツたやうに、總て穩に、和いで、沈着いて、見る事、聞く事が盡く自然に適ツてゐたやうに思はれた。そのころの幸福は、現在の幸福ではなくて、未來の幸福の影を樂しむ幸福で、我も、人も、皆何か不足を感じながら、強ちにそれを足さうともせず、却ツて今は足らぬが當然、と思ツてゐたやうに、急かず、騒がず、悠々として時機の熟するを竢ツてゐた。その心の長閑さ、寛さ、今憶ひ出しても、閉ぢた眉を開くばかりな。……其頃は人人の心が期せずして、自ら一致し、同じ事を念ひ、同じ事を樂んで、強ちそれを匿さうともせず、また匿すまいともせず、胸に城郭を設けぬからとて、言ツて花の散るやうな事は云はず、また聞かうともせず。まだ妻でない妻、夫でない夫、親で無い親――と、かう三人集ツたところに、誰が作り出すこともなく、自らに清く、穩な、優しい調子を作り出して、それに 今の家内の有樣を見れば、最早以前のやうな、和いだ所も無ければ、沈着いた所もなく、放心に見渡せば、總て華かに、賑かで、心配もなく、氣あつかひも無く、浮々として面白さうに見えるものの、熟々視れば、それは皆衣服で、 裸體にすれば、見るも汚はしい私慾、貪婪、淫褻、不義、無情も塊で有る。以前、人々の心を一致さした同情も無ければ、私心の垢を洗ツた愛念もなく、人々己一個の私をのみ思ツて、己が自恣に物を言ひ、己が [16]自恣に 動ふ。欺いたり、欺かれたり、戲言に託して人の意を測ツてみたり、二つ意味の有る言を云ツてみたり、疑ツてみたり、信じてみたり、――いろ/\さま%\に不徳を盡す。お政は、いふまでもなく、死灰の再び燃えぬうちに、早く娘を昇に合せて、多年の胸の塊を、一時におろして仕舞ひたいが、娘が、思ふやうに、如才なくたちまはらんので、それで、齒癢がつて氣を揉み散らす。昇はそれを承知してゐるゆゑ、後の面倒を慮ツて、迂闊に手は出さんが、罠のと知りつゝ、油鼠の側を去られん老狐の如くに、遲疑しながらも、尚ほお勢の身邊を廻ツて、横眼で睨んでは舌舐りをする。(文三は何故か、昇の妻となる者は、必ず愚で醜い代り、權貴な人を親に持ツた、身柄の善い婦人とのみ思ひこんでゐる。)お政は、昇の心を見拔いてゐる、昇も亦お政の意を見拔いてゐる。加之も、互ひに見拔かれてゐると、略心附いてゐる。それゆゑに、故らに無心な顏を作り、思慮の無い言を云ひ、互ひに瞞着しようと力めあふものの、しかし、雙方共、力は互角のしたゝかものゆゑ、優りもせず、劣りもせず、挑み疲れて、今はすこし睨合の姿となツた。總て此等の動靜は、文三も略察してゐる。それを察してゐるから、お勢がこのやうな、危い境に身を處きながら、それには少しも心附かず、私慾と淫慾とが爍して出來した、輕く浮いた、汚はしい家内の調子に乘せられて、何心なく物を言ツては高笑ひをする、その樣子を見ると、手を束ねて安坐してゐられなくなる。 お勢は今甚だしく迷ツてゐる。豕を抱いて臭きを知らずとかで、境界の臭みに居ても、恐らくは其臭味がわかるまい。今の心の状を察するに、譬へば酒に醉ツた如くで、氣は暴れてゐても心は妙に昧んでゐる故、見る程の物、聞く程の事が眼や耳やへ入ツても、底の認識までは屆かず、皆中途で立消をして仕舞ふであらう。また徒だ外界と縁遠くなツたのみならず、我内界とも疎くなツたやうで、我心ながら我心の心地はせず、始終何か本體の得知れぬ一種不思議な力に誘はれて、言動作息するから、我にも我が判然とは分るまい。今のお勢の眼には宇宙は鮮いて見え、萬物は美しく見え、人は皆我一人を愛して我一人の爲めに働いてゐるやうに見えやう。若し顏を皺めて溜息を吐く者が有れば、此世はこれほど住みよいに、何故人は然う住み憂く思ふか、殆ど其の意を解し得まい。また人の老い易く色の衰へ易い事を忘れて、今の若き美しさは永劫續くやうに心得て、未來の事などは全く思ふまい。よし思ツた所で、華かな輝いた未來の外は夢にも想像に浮ぶまい。昇に狎れ親んでから、お勢は故の吾を亡くした。が、夫には自分も心附くまい。お勢は昇を愛してゐるやうで、實は愛してはゐず、只昇に限らず、總て男子に、取分けて若い美しい男子に慕はれるのが何となく快いので有らうが、夫にも又自分は心附いてゐまい。之を要するに、お勢の病は外から來たばかりではなく、内からも發したので、文三に感染れて少し畏縮けた血氣が、今外界の刺戟を受けて一時に暴れだし、理性の口をも閉ぢ、認識の眼をも眩ませて、おそろしい力を以て、さま%\の醜態に奮見するので有らう。若し然うなれば、今がお勢の一生中で、最も大事な時。能く今の境界を渡り課せれば、此一時に、さま%\の經驗を得て、己れの人と爲りをも知り、所謂放心を求め得て、初て心で此世を渡るやうにならうが、若し躓けばもうそれまで、倒れた儘で、再び起き上る事も出來まい。物のうちの人となるも、此一時。人の中の物となるも、亦此一時。今が浮沈の潮界、最も大切な時で有るに、お勢はこの危い境を、放心して渡ツてゐて、何時眼が覺めようとも見えん。 此儘にしては置けん。早く、手遲れにならんうちに、お勢の眼ツた本心を覺まさなければならん。が、しかし、誰がお勢のために此事に當らう! 見渡したところ、孫兵衞は留守、假令居たとて役にも立たず。お政は彼の如く、娘を愛する心は有りても、其道を知らんから、娘の道心を縊殺さうとしてゐながら、加之も得意顏でゐるほどゆゑ、固よりこれは妨げになるばかり。たゞ文三のみは、愚昧ながらも、まだお勢よりは、少しは知識も有り、經驗も有れば、若しお勢の眼を覺ます者が必要なら、文三を措いて誰がならう? ト、かう、お勢を見棄てたくない許りでなく、見棄てては寧ろ義理に背くと思へば、凝性の文三ゆゑ、おウ餘事は思ツてゐられん。朝夕只この事ばかりに心を苦しめて、悶え苦んでゐるから、宛も感覺が鈍くなツたやうで、お政が顏を顰めたとて、舌鼓を鳴らしたとて、其時ばかり、少し居辛くおもふのみで、久しくそれに拘ツてはゐられん。それで、かう、邪魔にされると知りつゝ、園田の家を去る氣にもなれず、いまに六疊の小座鋪に、氣を詰らして、始終壁に對ツて歎息のみしてゐるので。 歎息のみしてゐるので。何故なればお勢を救はう、といふ志は有ツても、其道を求めかねるから。「どうしたものだらう?」といふ問は、日に幾度となく胸に浮ぶが、いつも浮ぶばかりで、答を得ずして消えて仕舞ひ、其跡に殘るものは、只不滿足の三字。その不滿足の苦を脱れよう、と氣をあせるから、健康な知識は縮んで、出過ぎた妄想が我から荒出し、抑へても抑へ切れなくなツて、遂には、尚だ如何してといふ手順をも思附き得ぬうちに、早くもお勢を救ひ得た後の、樂しい光景が眼前に隱現き、拂ツても去らん事が度々有る。 しかし、始終、空想ばかりに耽ツてゐるでも無い。多く考へるうちには、少しは稍々行はれさうな工夫を付ける。そのうちで、まづ上策といふは、此頃の家内の動靜を、詳しく叔父の耳へ入れて、父親の口から篤とお勢に云ひ聞かせる、といふ一策で有る。さうしたら、或はお勢も眼が覺めようかと思はれる。が、また思ひ返せば、他人の身の上なれば兎も角も、我と入組んだ關係の有るお勢の身の上を、彼此心配して、其親の叔父に告げるは、何となく後めたくてさうも出來ん。假令、思ひ切ツて然うしたところで、叔父はお勢を諭し得ても、我儘なお政は説き伏せるは扨置き、反ツて反對にいひくるめられるかも知れん。と思へば、成る可くは叔父に告げずして、事を收めたい。叔父に告げずして事を收めようと思へば、今一度お勢の袖を扣へて、打附けに掻口説く外、他に仕方もないが、しかし、今の如くに、かう齟齬ツてゐては、言ツたとて聽きもすまいし、また毛を吹いて疵を求めるやうではと思へば、かうと思ひ定めぬうちに、まづ氣が畏縮けて、どうも其氣にもなれん。から、また、思ひ詰めた心を解して、更に他にさまざまの手段を思ひ浮べ、いろ/\に考へ散らしてみるが、一つとして行はれさうなのも見當らず。囘り囘ツてまた舊の思案に戻ツて、苦しみ悶えるうちに、ふと又例の妄想が働きだして、無益な事を思はせられる。時としては妙な氣になツて、總て此頃の事は皆一時の戲れで、お勢は心から文三に背いたのでは無くて、只背いた風をして、文三を試みてゐるので、其證據には、今にお勢が上ツて來て、例の華かな高笑で、今までの葛藤を笑ひ消して仕舞はう、と思はれる事が有る。が、固より永くは續かん、無慈悲な記憶が働きだして、此頃あくたれた時のお勢の顏を憶出させ、瞬息の間に、其快い夢を破ツて仕舞ふ。またかういふ事も有る。ふと氣が渝ツて、今から零落してゐながら、其樣な藥袋も無い事に拘ツて、徒らに日を送るを、極めて愚のやうに思はれ、もうお勢の事は思ふまいと、少時思ひの道を絶ツて、まじ/\としてゐてみるが、それではどうも、大切な用事を仕懸けて罷めたやうで、心が落居ず。狼狽へて、またお勢の事に立戻ツて悶え苦しむ。人の心といふものは、同一の事を間斷なく思ツてゐると、遂に考へ草臥れて、思辨力の弱るもので、文三もその通り、始終お勢の事を心配してゐるうちに、何時からともなく注意が散ツて一事には集らぬやうになり、をり/\互ひに何の關係をも持たぬ零零碎々の事を、取締もなく思ふことも有ツた。曾て兩手を頭に敷き、仰向けに臥しながら、天井を凝視めて、初は例の如くお勢の事を彼此と思ツてゐたが、その中にふと天井の木目が眼に入ツて、突然妙な事を思ツた。「かう見たところは、水の流れた痕のやうだな。」かう思ふと同時に、お勢の事は全く忘れて仕舞ツた。そして尚ほ熟々とその木目を視入ツて、「心の取り方に依ツては、高低が有るやうにも見えるな。ふゝん、オプチカル、イリユウジヨンか。」フト、文三等に物理を教へた、外國教師の立派な髭の生えた顏を憶出すと、それと同時に、また、木目の事は忘れて仕舞ツた。續いて眼前に、七八人の學生が現はれて來たと視れば、皆同學の生徒等で、或は鉛筆を耳に挾んでゐる者も有れば、或は書物を抱へてゐる者も有る、又は開いて視てゐる者も有る。能く視れば、どうか文三も其中に雜ツてゐるやうに思はれる。今越歴の講義が終ツて、試驗に掛る所で、皆エレクトリカル、マシーンの周邊に集ツて、何事とも解らんが、何か頻りに云ひ爭ひながら騒いでゐる。かと思ふと、忽ちそのマシーンも生徒も烟の如く痕迹もなく消え失せて、ふとまた木目が目に入ツた。「ふん、オプチカル、イリユウジヨンか。」ト云ツて、何故ともなく莞爾した。「イリユウジヨンと云へば、今まで讀んだ書物の中で、サリーの『イリユウジヨンス』ほど面白く思ツたものは無いな。二日一晩に讀切ツて仕舞ツたツけ、あれ程の頭には如何したらなれるだらう。餘程組織が緻密に違ひない……。」サリーの腦髓とお勢とは、何の關係も無ささうだが、此時突然お勢のことが、噴水の迸る如くに、胸を突いて騰る。と、文三は腫物にでも觸られたやうに、あツと叫びながら跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もう其事は忘れて仕舞ツた。何のために跳ね起きたとも解らん。久しく考へて居て、「あ、お勢の事か。」と、辛くして、憶出しは憶出しても、宛然世を隔てた事の如くで、面白くも可笑しくも無く、其儘に思ひ棄てた。暫くは茫然として、氣の拔けた顏をしてゐた。 かう心の亂れるまでに心配するが、しかし只心配する許りで、事實には少しも益が無いから、自然は己が爲すべき事をさツ/\として行ツて、お勢は益々深味へ陷る。其樣子を視て、流石の文三も、今は殆ど志を挫き、迚も我力にも及ばん、と投首をした。 が、其内に、ふと嬉しく思ひ惑ふ事に出遇ツた。といふは他の事でも無い。お勢が俄に昇と疎々敷なツた、その事で。それまではお勢の言動に一々目を注けて、その狂ふ意の跟に隨ひながら、我も意を狂はしてゐた文三も、此に至ツて忽ち道を失ツて、暫く思念の歩みを止めた。彼程までにからんだ兩人の關係が、故なくして解れて仕舞ふ筈は無いから、早まツて安心はならん。けれど、喜ぶまいとしても喜ばずには居られんは、お勢の文三に對する感情の變動で。其頃までは、お政程には無くとも、文三に對して、一種の敵意を挾んでゐたお勢が、俄に樣子を變へて、顏を赧め合ツた事は全く忘れたやうになり、眉を顰め、眼の中を曇らせる事は扨置き、下女と戯れて笑ひ興じて居る所へ、行きがかりでもすれば、文三を顧みて快氣に笑ふ事さへ有る。此分なら、若し文三が物を言ひかけたら、快く返答するかと思はれる。四邊に人目が無い折などには、文三も數數話しかけてみようかとは思ツたが、萬一を危む心から、暫く差控へてゐた。――差控へてゐるは寧ろ愚に近い、とは思ひながら尚ほ差控へてゐた。 編物を始めた四五日後の事で有ツた。或日の夕暮、何か用事が有ツて、文三は奧座鋪へ行かうとて、二階を降りて、只見ると、お勢が此方へ背を向けて、縁端に佇立んでゐる。少し首だれて、何か一心に爲てゐたところ、編物かと思はれる。珍らしいうちゆゑと思ひながら、文三は何心なく、お勢の背後を通り拔けようとすると、お勢が彼方向いた儘で、突然、「まだかえ?」といふ。勿論人違ひと見える。が、此の數週の間、妄想でなければ、言葉を交へた事の無いお勢に、今思ひ掛なく、やさしく物を言ひかけられたので、文三はハツと當惑して、我にも無く立留る。お勢も、返答の無いを不思議に思ツてか、ふと此方を振向く、途端に、文三と顏を相視して、おツと云ツて驚いた。しかし、驚きは驚いても、狼狽へはせず、たゞ莞爾したばかりで、また彼方向いて、そして編物に取掛ツた。文三は酒に醉ツた心地。如何仕ようといふ方角もなく、只茫然として、殆ど無想の境に彷徨ツてゐるうちに、ふと心附いたは、今日お政が留守の事。またと無い上首尾、思ひ切ツて物を言ツてみようか。……ト思ひ掛けて、またそれと思ひ定めぬうちに、下女部屋の障子がさらりと開く。その音を聞くと、文三は我にも無く、突と奧座鋪へ入ツて仕舞ツた――我にも無く、殆ど、見られては不可とも思はずして、奧座鋪へ入ツて聞いてゐると、頓てお鍋がお勢の側まで來て、ちよいと立留ツた光景で、「お待遠さま。」といふ聲が聞えた。お勢は返答をせず、只何か口疾に囁いた樣子で、忍音に笑ふ聲が漏れて聞えると、お鍋の調子外の聲で、「ほんとに内海……。」「しツ!……まだ其處に。」と小聲ながら聞取れるほどに、「居るんだよ。」お鍋も小聲になりて、「ほんとう?」「ほんとうだよ。」 かう成ツて見ると、もう潛ツてゐるも何となく極りが惡くなツて來たから、文三が素知らぬ顏をして、ふツと奧座鋪を出る。その顏をお鍋が不思議さうに眺めながら、小腰を屈めて、「ちよいとお湯へ。」と云ツてから、ふと何か思ひ出して、肝を潰した顏をして、周章てて、「それから、あの、若し御新造さまがお歸んなすツて、御膳を召上ると仰しやツたら、お膳立をしてあの戸棚へ入れときましたから、どうぞ。……お孃さま、もう直ぐ宜うござんすか? それぢやア行ツてまゐります。」 お勢は笑ひ出しさうな眼元で、じろり文三の顏を掠めながら、手ばしこく手で持ツてゐた編物を奧座鋪へ投入れ、何やらお鍋に云ツて笑ひながら、面白さうに打連れて出て行ツた。主從とは云ひながら、同じ程の年頃ゆゑ、雙方とも心持は朋友で。尤も是は近頃かうなツたので、以前はお勢の心が高ぶツてゐたから、下女などには容易に言葉をもかけなかツた。 出て行くお勢の後姿を見送ツて、文三は莞爾した。如何してかう樣子が渝ツたのか、其を疑ツて居るに遑なく、ただ何となく、心嬉しくなツて莞爾した。それからは、例の妄想が、勃然と首を擡げて、抑へても抑へ切れぬやうになり、種々の取留も無い事が、續々胸に浮んで、遂には、總て、此頃の事は、皆文三の疑心から出た暗鬼で、實際はさして心配する事でも無かツたか、とまで思ひ込んだ。が、また、心を取直して考へてみれば、故無くして文三を辱めたといひ、母親に忤ひながら、何時しか其のいふなりに成ツたといひ、それほどまで親しかツた昇と、我に疎々敷なツたといひ――どうも、常事でなくも思はれる。ト思へば、喜んで宜いものか、悲んで宜いものか、殆ど我にも胡亂になツて來たので、宛も遠方から撩る眞似をされたやうに、思ひ切ツては笑ふ事も出來ず、泣く事も出來ず。快と不快との間に心を迷はせながら、暫く縁側を往きつ戻りつしてゐた。が、兎に角物を云ツたら、聞いてゐさうゆゑ、今にも歸ツて來たら、今一度運を試して、聽かれたら其通り、若し聽かれん時には、其時こそ斷然叔父の家を辭し去らう。ト、遂にかう決心して、そして一先二階へ戻ツた。
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