- 9月、故桃園式部卿宮邸を訪問 斎院は、御服にて下りゐたまひにきかし
- 朝顔姫君と対話 あなたの御前を見やりたまへば
- 帰邸後に和歌を贈答しあう 心やましくて立ち出でたまひぬるは
- 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う 東の対に離れおはして、宣旨を迎へつつ
- 朝顔姫君訪問の道中 夕つ方、神事なども止まりてさうざうしきに
- 宮邸に到着して門を入る 宮には、北面の人しげき方なる御門は
- 宮邸で源典侍と出会う 宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに
- 朝顔姫君と和歌を詠み交わす 西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむも
- 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて
- 紫の君、嫉妬す 大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど
- 夜の庭の雪まろばし 雪のいたう降り積もりたる上に
- 源氏、往古の女性を語る 「一年、中宮の御前に雪の山作られたりし
- 藤壷、源氏の夢枕に立つ 月いよいよ澄みて、静かにおもしろし
- 源氏、藤壷を供養す なかなか飽かず、悲しと思すに、とく起きたまひて
出典 校訂
斎院は、御服にて下りゐたまひにきかし。大臣、例の、思しそめつること、絶えぬ御癖にて、御訪らひなどいとしげう聞こえたまふ。宮、わづらはしかりしことを思せば、御返りもうちとけて聞こえたまはず。いと口惜しと思しわたる。 長月になりて、桃園宮に渡りたまひぬるを聞きて、女五の宮のそこにおはすれば、そなたの御訪らひにことづけて参うでたまふ。故院の、この御子たちをば、心ことにやむごとなく思ひきこえたまへりしかば、今も親しく次々に聞こえ交はしたまふめり。同じ寝殿の西東にぞ住みたまひける。ほどもなく荒れにける心地して、あはれにけはひしめやかなり。 宮、対面したまひて、御物語聞こえたまふ。いと古めきたる御けはひ、しはぶきがちにおはす。年長におはすれど、故大殿の宮は、あらまほしく古りがたき御ありさまなるを、もて離れ、声ふつつかに、こちごちしくおぼえたまへるも、さるかたなり。 「院の上、隠れたまひてのち、よろづ心細くおぼえはべりつるに、年の積もるままに、いと涙がちにて過ぐしはべるを、この宮さへかくうち捨てたまへれば、いよいよあるかなきかに、とまりはべるを、かく立ち寄り訪はせたまふになむ、もの忘れしぬべくはべる」 と聞こえたまふ。 「かしこくも古りたまへるかな」と思へど、うちかしこまりて、 「院隠れたまひてのちは、さまざまにつけて、同じ世のやうにもはべらず、おぼえぬ罪に当たりはべりて、知らぬ世に惑ひはべりしを、たまたま、朝廷に数まへられたてまつりては、またとり乱り暇なくなどして、年ごろも、参りていにしへの御物語をだに聞こえうけたまはらぬを、いぶせく思ひたまへわたりつつなむ」 など聞こえたまふを、 「いともいともあさましく、いづ方につけても定めなき世を、同じさまにて見たまへ過ぐす
命長さの恨めしきこと多くはべれど、かくて、世に
立ち返りたまへる御よろこびになむ、ありし年ごろを見たてまつりさしてましかば、口惜しからましとおぼえはべり」 と、うちわななきたまひて、 「いときよらにねびまさりたまひにけるかな。童にものしたまへりしを見たてまつりそめし時、世にかかる光の出でおはしたることと驚かれはべりしを、時々見たてまつるごとに、ゆゆしくおぼえはべりてなむ。内裏の上なむ、いとよく似たてまつらせたまへりと、人々聞こゆるを、さりとも、劣りたまへらむとこそ、推し量りはべれ」 と、長々と聞こえたまへば、 「ことにかくさし向かひて人のほめぬわざかな」と、をかしく思す。 「山賤になりて、いたう思ひくづほれはべりし年ごろののち、こよなく衰へにてはべるものを。内裏の御容貌は、いにしへの世にも並ぶ人なくやとこそ、ありがたく見たてまつりはべれ。あやしき御推し量りになむ」 と聞こえたまふ。 「時々見たてまつらば、いとどしき命や延びはべらむ。今日は老いも忘れ、憂き世の嘆きみな去りぬる心地なむ」 とても、また泣いたまふ。 「三の宮うらやましく、さるべき御ゆかり添ひて、親しく見たてまつりたまふを、うらやみはべる。この亡せたまひぬるも、さやうにこそ悔いたまふ折々ありしか」 とのたまふにぞ、すこし耳とまりたまふ。 「さも、さぶらひ馴れなましかば、今に思ふさまにはべらまし。皆さし放たせたまひて」 と、恨めしげにけしきばみきこえたまふ。
あなたの御前を見やりたまへば、枯れ枯れなる前栽の心ばへもことに見渡されて、のどやかに眺めたまふらむ御ありさま、容貌も、いとゆかしくあはれにて、え念じたまはで、 「かくさぶらひたるついでを過ぐしはべらむは、心ざしなきやうなるを、あなたの御訪らひ聞こゆべかりけり」 とて、やがて簀子より渡りたまふ。 暗うなりたるほどなれど、鈍色の御簾に、黒き御几帳の透影あはれに、追風なまめかしく吹き通し、けはひあらまほし。簀子はかたはらいたければ、南の廂に入れたてまつる。 宣旨、対面して、御消息は聞こゆ。 「今さらに、若々しき心地する御簾の前かな。神さびにける年月の労数へられはべるに、今は内外も許させたまひてむとぞ頼みはべりける」 とて、飽かず思したり。 「ありし世は皆夢に見なして、今なむ、覚めてはかなきにやと、思ひたまへ定めがたくはべるに、労などは、静かにやと定めきこえさすべうはべらむ」 と、聞こえ出だしたまへり。「げにこそ定めがたき世なれ」と、はかなきことにつけても思し続けらる。 「人知れず神の許しを待ちし間に ここらつれなき世を過ぐすかな 今は、何のいさめにか、かこたせたまはむとすらむ。なべて、世にわづらはしきことさへはべりしのち、さまざまに思ひたまへ集めしかな。いかで片端をだに」 と、あながちに聞こえたまふ、御用意なども、昔よりも今すこしなまめかしきけさへ添ひたまひにけり。さるは、いといたう過ぐしたまへど、御位のほどには合はざめり。 「なべて世のあはればかりを問ふからに 誓ひしことと神やいさめむ」 とあれば、 「あな、心憂。その世の罪は、みな科戸の風にたぐへてき」 とのたまふ愛敬も、こよなし。 「
みそぎを、神は、いかがはべりけむ」 など、はかなきことを聞こゆるも、まめやかには、いとかたはらいたし。世づかぬ御ありさまは、年月に添へても、もの深くのみ引き入りたまひて、え聞こえたまはぬを、見たてまつり悩めり。 「好き好きしきやうになりぬるを」 など、浅はかならずうち嘆きて立ちたまふ。 「齢の積もりには、面なくこそなるわざなりけれ。
世に知らぬやつれを、今ぞ、とだに聞こえさすべくやは、もてなしたまひける」 とて、出でたまふ名残、所狭きまで、例の聞こえあへり。 おほかたの、空もをかしきほどに、木の葉の音なひにつけても、過ぎにしもののあはれとり返しつつ、その折々、をかしくもあはれにも、深く見えたまひし御心ばへなども、思ひ出できこえさす。
心やましくて立ち出でたまひぬるは、まして、寝覚がちに思し続けらる。とく御格子参らせたまひて、朝霧を眺めたまふ。枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれにはひまつはれて、あるかなきかに咲きて、匂ひもことに変はれるを、折らせたまひてたてまつれたまふ。 「けざやかなりし御もてなしに、人悪ろき心地しはべりて、うしろでもいとどいかが御覧じけむと、ねたく。されど、 見し折のつゆ忘られぬ朝顔の 花の盛りは過ぎやしぬらむ 年ごろの積もりも、あはれとばかりは、さりとも、思し知るらむやとなむ、かつは」 など聞こえたまへり。おとなびたる御文の心ばへに、「おぼつかなからむも、見知らぬ
やうにや」と思し、人々も御硯とりまかなひて、聞こゆれば、 「秋果てて霧の籬にむすぼほれ あるかなきかに移る朝顔」
似つかはしき御よそへにつけても、露けく」 とのみあるは、何のをかしきふしもなきを、いかなるにか、置きがたく御覧ずめり。青鈍の紙の、なよびかなる墨つきはしも、をかしく見ゆめり。人の御ほど、書きざまなどに繕はれつつ、その折は罪なきことも、つきづきしくまねびなすには、ほほゆがむこともあめればこそ、さかしらに
書き紛らはしつつ、おぼつかなきことも多かりけり。 立ち返り、今さらに若々しき御文書きなども、似げなきこと、と思せども、なほかく昔よりもて離れぬ御けしきながら、口惜しくて過ぎぬるを思ひつつ、えやむまじく思さるれば、さらがへりて、まめやかに聞こえたまふ。
東の対に離れおはして、
宣旨を迎へつつ語らひたまふ。さぶらふ人々の、さしもあらぬ際のことをだに、なびきやすなるなどは、過ちもしつべく、めできこゆれど、宮は、そのかみだにこよなく思し離れたりしを、今は、まして、誰も思ひなかるべき御齢、おぼえにて、「はかなき木草につけたる御返りなどの、折過ぐさぬも、軽々しくや、とりなさるらむ」など、人の物言ひを憚りたまひつつ、うちとけたまふべき御けしきもなければ、古りがたく同じさまなる御心ばへを、世の人に変はり、めづらしくもねたくも思ひきこえたまふ。 世の中に漏り聞こえて、 「
前斎院を、ねむごろに聞こえたまへばなむ、女五の宮などもよろしく思したなり。似げなからぬ御あはひならむ」 など言ひけるを、対の上は伝へ聞きたまひて、しばしは、 「さりとも、さやうならむこともあらば、隔てては思したらじ」 と思しけれど、うちつけに目とどめきこえたまふに、御けしきなども、例ならずあくがれたるも心憂く、 「まめまめしく思しなるらむことを、つれなく戯れに言ひなしたまひけむよと、同じ筋にはものしたまへど、おぼえことに、昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心など移りなば、はしたなくもあべいかな。年ごろの御もてなしなどは、立ち並ぶ方なく、さすがにならひて、人に押し消たれむこと」 など、人知れず思し嘆かる。 「かき絶え名残なきさまにはもてなしたまはずとも、いとものはかなきさまにて見馴れたまへる年ごろの睦び、あなづらはしき方にこそはあらめ」 など、さまざまに思ひ乱れたまふに、よろしきことこそ、うち怨じなど憎からず聞こえたまへ、まめやかにつらしと思せば、色にも出だしたまはず。 端近う眺めがちに、内裏住みしげくなり、役とは御文を書きたまへば、 「げに、人の言葉むなしかるまじきなめり。けしきをだにかすめたまへかし」 と、疎ましくのみ思ひきこえたまふ。
夕つ方、神事なども止まりてさうざうしきに、つれづれと思しあまりて、五の宮に例の近づき参りたまふ。雪うち散りて艶なるたそかれ時に、なつかしきほどに馴れたる御衣どもを、いよいよたきしめたまひて、心ことに化粧じ暮らしたまへれば、いとど心弱からむ人はいかがと見えたり。さすがに、まかり申しはた、聞こえたまふ。 「女五の宮の悩ましくしたまふなるを、訪らひきこえになむ」 とて、ついゐたまへれど、見もやりたまはず、若君をもてあそび、紛らはしおはする側目の、ただならぬを、 「あやしく、
御けしきの変はれるべきころかな。罪もなしや。
塩焼き衣のあまり目馴れ、見だてなく思さるるにやとて、とだえ置くを、またいかが」 など聞こえたまへば、 「
馴れゆくこそ、げに、憂きこと多かりけれ」 とばかりにて、うち背きて臥したまへるは、見捨てて出でたまふ道、もの憂けれど、宮に御消息聞こえ
たまひてければ、出でたまひぬ。 「かかりけることもありける世を、うらなくて過ぐしけるよ」 と思ひ続けて、臥したまへり。鈍びたる御衣どもなれど、色合ひ重なり、好ましくなかなか見えて、雪の光にいみじく艶なる御姿を見出だして、 「まことに離れまさりたまはば」 と、忍びあへず思さる。 御前など忍びやかなる限りして、 「内裏より他の歩きは、もの憂きほどになりにけりや。桃園宮の心細きさまにてものしたまふも、式部卿宮に年ごろは譲りきこえつるを、今は頼むなど思しのたまふも、ことわりに、いとほしければ」 など、人々にものたまひなせど、 「いでや。御好き心の古りがたきぞ、あたら御疵なめる」 「軽々しきことも出で来なむ」 など、つぶやきあへり。
宮には、北面の人しげき方なる御門は、入りたまはむも軽々しければ、西なるがことことしきを、人入れさせたまひて、宮の御方に御消息あれば、「今日しも渡りたまはじ」と思しけるを、驚きて開けさせたまふ。 御門守、寒げなるけはひ、うすすき出で来て、とみにもえ開けやらず。これより他の男はたなきなるべし。ごほごほと引きて、 「錠のいといたく銹びにければ、開かず」 と愁ふるを、あはれと聞こし召す。 「昨日今日と思すほどに、
三年のあなたにもなりにける世かな。かかるを見つつ、かりそめの宿りをえ思ひ捨てず、木草の色にも心を移すよ」と、思し知らるる。口ずさびに、 「いつのまに蓬がもととむすぼほれ 雪降る里と荒れし垣根ぞ」 やや久しう、ひこしらひ開けて、入りたまふ。
宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに、古事どものそこはかとなきうちはじめ、聞こえ尽くしたまへど、御耳もおどろかず、ねぶたきに、宮も欠伸うちしたまひて、 「宵まどひをしはべれば、ものもえ聞こえやらず」 とのたまふほどもなく、鼾とか、聞き知らぬ音すれば、よろこびながら立ち出でたまはむとするに、またいと古めかしきしはぶきうちして、参りたる人あり。 「かしこけれど、聞こし召したらむと頼みきこえさするを、世にある者とも数まへさせたまはぬになむ。院の上は、祖母殿と笑はせたまひし」 など、名のり
出づるにぞ、思し出づる。 源典侍といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子にてなむ行なふと聞きしかど、今まであらむとも尋ね知りたまはざりつるを、あさましうなりぬ。 「その世のことは、みな昔語りになりゆくを、はるかに思ひ出づるも、心細きに、うれしき御声かな。
親なしに臥せる旅人と、育みたまへかし」 とて、寄りゐたまへる御けはひに、いとど昔思ひ出でつつ、古りがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたる口つき、思ひやらるる声づかひの、さすがに舌つきにて、うちされむとはなほ思へり。 「
言ひこしほどに」など聞こえかかる、まばゆさよ。「今しも来たる老いのやうに」など、
ほほ笑まれたまふものから、ひきかへ、これもあはれなり。 「この盛りに挑みたまひし女御、更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、あるはかひなくて、はかなき世にさすらへたまふもあべかめり。入道の宮などの御齢よ。あさましとのみ思さるる世に、年のほど身の残り少なげさに、
心ばへなども、ものはかなく見えし人の、生きとまりて、のどやかに行なひをもうちして過ぐしけるは、なほすべて定めなき世なり」 と思すに、ものあはれなる御けしきを、心ときめきに思ひて、若やぐ。 「年経れどこの契りこそ忘られね
親の親とか言ひし一言」 と聞こゆれば、疎ましくて、 「身を変へて後も待ち見よこの世にて 親を忘るるためしありやと 頼もしき契りぞや。今のどかにぞ、聞こえさすべき」 とて、立ちたまひぬ。
西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむもいかがとて、一間、二間は下ろさず。月さし出でて、薄らかに積もれる雪の
光りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり。 「ありつる老いらくの心げさうも、良からぬものの世のたとひとか聞きし」と思し出でられて、をかしくなむ。今宵は、いとまめやかに聞こえたまひて、 「一言、憎しなども、
人伝てならでのたまはせむを、思ひ絶ゆるふしにもせむ」 と、おり立ちて責めきこえたまへど、 「昔、われも人も若やかに、罪許されたりし世にだに、故宮などの心寄せ思したりしを、なほあるまじく恥づかしと思ひきこえてやみにしを、世の末に、さだすぎ、つきなきほどにて、一声もいとまばゆからむ」 と思して、さらに動きなき御心なれば、「あさましう、つらし」と思ひきこえたまふ。 さすがに、はしたなくさし放ちてなどはあらぬ人伝ての御返りなどぞ、心やましきや。夜もいたう更けゆくに、風のけはひ、はげしくて、まことにいともの心細くおぼゆれば、さまよきほど、おし拭ひたまひて、 「つれなさを昔に懲りぬ心こそ 人のつらきに添へてつらけれ
心づからの」 とのたまひすさぶるを、 「げに」 「かたはらいたし」 と、人々、例の、聞こゆ。 「あらためて何かは見えむ人のうへに かかりと聞きし心変はりを 昔に変はることは、ならはず」 など聞こえたまへり。
いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて出でたまふも、いと若々しき心地したまへば、 「いとかく、世の例になりぬべきありさま、漏らしたまふなよ。ゆめゆめ。
いさら川などもなれなれしや」 とて、せちにうちささめき語らひたまへど、何ごとにかあらむ。人々も、 「あな、かたじけな。あながちに情けおくれても、もてなしきこえたまふらむ」 「軽らかにおし立ちてなどは見えたまはぬ御けしきを。心苦しう」 と言ふ。 げに、人のほどの、をかしきにも、あはれにも、思し知らぬにはあらねど、 「もの思ひ知るさまに見えたてまつるとて、おしなべての世の人のめできこゆらむ列にや思ひなされむ。かつは、軽々しき心のほども見知りたまひぬべく、恥づかしげなめる御ありさまを」と思せば、「なつかしからむ情けも、いとあいなし。よその御返りなどは、うち絶えで、おぼつかなかるまじきほどに聞こえたまひ、人伝ての御いらへ、はしたなからで過ぐしてむ。年ごろ、沈みつる罪失ふばかり御行なひを」とは思し立てど、「にはかにかかる御ことをしも、もて離れ顔にあらむも、なかなか今めかしきやうに見え聞こえて、人のとりなさじやは」と、世の人の口さがなさを思し知りにしかば、かつ、さぶらふ人にもうちとけたまはず、いたう御心づかひしたまひつつ、やうやう御行なひをのみしたまふ。 御兄弟の君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねば、いとうとうとしく、宮のうちいとかすかになり行くままに、さばかりめでたき人の、ねむごろに御心を尽くしきこえたまへば、皆人、心を寄せきこゆるも、ひとつ心と見ゆ。
大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど、つれなき御けしきのうれたきに、負けてやみなむも口惜しく、
げにはた、人の御ありさま、世のおぼえことに、あらまほしく、ものを深く思し知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞き集めたまひて、昔よりもあまた経まさりて思さるれば、今さらの
御あだけも、かつは世のもどきをも思しながら、 「むなしからむは、いよいよ人笑へなるべし。いかにせむ」 と、御心動きて、二条院に夜離れ重ねたまふを、女君は、
たはぶれにくくのみ思す。忍びたまへど、いかがうちこぼるる折もなからむ。 「あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ」 とて、御髪をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵に描かまほしき御あはひなり。 「宮亡せたまひて後、主上のいとさうざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見たてまつり、太政大臣もものしたまはで、見譲る人なきことしげさになむ。このほどの絶え間などを、見ならはぬことに思すらむも、ことわりに、あはれなれど、今はさりとも、心のどかに思せ。おとなびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見知らぬさまにものしたまふこそ、らうたけれ」 など、まろがれたる御額髪、ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞こえたまはず。 「いといたく若びたまへるは、誰がならはしきこえたるぞ」
とて、「常なき世に、かくまで心置かるるもあぢきなのわざや」と、かつはうち眺めたまふ。 「斎院にはかなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。それは、いともて離れたることぞよ。おのづから見たまひてむ。昔よりこよなうけどほき御心ばへなるを、さうざうしき折々、ただならで聞こえ悩ますに、かしこもつれづれにものしたまふ所なれば、たまさかの応へなどしたまへど、まめまめしきさまにもあらぬを、かくなむあるとしも、愁へきこゆべきことにやは。うしろめたうはあらじとを、思ひ直したまへ」 など、日一日慰めきこえたまふ。
雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に、人の御容貌も光まさりて見ゆ。 「
時々につけても、人の心を移すめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折なれ。すさまじき例に言ひ置きけむ人の心浅さよ」 とて、
御簾巻き上げさせたまふ。 月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭
心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ。 をかしげなる姿、頭つきども、月に映えて、大きやかに馴れたるが、さまざまの衵乱れ着、帯しどけなき宿直姿、なまめいたるに、こやなうあまれる髪の末、白きにはましてもてはやしたる、いとけざやかなり。 小さきは、童げてよろこび走るに、扇なども落して、うちとけ顔をかしげなり。 いと多うまろばさむと、ふくつけがれど、えも押し動かさでわぶめり。かたへは、東のつまなどに出でゐて、心もとなげに笑ふ。
「一年、中宮の御前に雪の山作られたりし、世ぬ古りたることなれど、なほめづらしくもはかなきことをしなしたまへりしかな。何の折々につけても、口惜しう飽かずもあるかな。 いとけどほくもてなしたまひて、くはしき御ありさまを見ならしたてまつりしことはなかりしかど、御交じらひのほどに、うしろやすきものには思したりきかし。 うち頼みきこえて、とあることかかる折につけて、何ごとも聞こえかよひしに、もて出でてらうらうじきことも見えたまはざりしかど、いふかひあり、思ふさまに、はかなきことわざをもしなしたまひしはや。世にまた、さばかりのたぐひあり
なむや。 やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたるところの、並びなくものしたまひしを、君こそは、さいへど、紫のゆゑ、こよなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしき気添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや、苦しからむ。 前斎院の御心ばへは、またさまことにぞ見ゆる。さうざうしきに、何とはなくとも聞こえあはせ、われも心づかひせらるべきあたり、ただこの一所や、世に残りたまへらむ」 とのたまふ。 「尚侍こそは、らうらうじくゆゑゆゑしき方は、人にまさりたまへれ。浅はかなる筋など、もて離れたまへりける人の御心を、あやしくもありけることどもかな」 とのたまへば、 「さかし。なまめかしう容貌よき女の例には、なほ引き出でつべき人ぞかし。さも思ふに、いとほしく悔しきことの多かるかな。まいて、うちあだけ好きたる人の、年積もりゆくままに、いかに悔しきこと多からむ。人よりはことなき静けさ、と思ひしだに」 など、のたまひ出でて、尚侍の君の御ことにも、涙すこしは落したまひつ。 「この、数にもあらずおとしめたまふ山里の人こそは、身のほどにはややうち過ぎ、ものの心など得つべけれど、人よりことなべきものなれば、思ひ上がれるさまをも、見消ちてはべるかな。いふかひなき際の人はまだ見ず。人は、すぐれたるは、かたき世なりや。 東の院にながむる人の心ばへこそ、古りがたくらうたけれ。さはた、さらにえあらぬものを、さる方につけての心ばせ、人にとりつつ見そめしより、同じやうに世をつつましげに思ひて過ぎぬるよ。今はた、かたみに背くべくもあらず、深うあはれと思ひはべる」 など、昔今の御物語に夜更けゆく。
月いよいよ澄みて、静かにおもしろし。女君、 「氷閉ぢ石間の水は行きなやみ 空澄む月の影ぞ流るる」 外を見出だして、すこし傾きたまへるほど、似るものなく
うつくしげなり。髪ざし、面様の、恋ひきこゆる人の面影にふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとり重ねつべし。鴛鴦のうち鳴きたるに、 「かきつめて昔恋しき雪もよに あはれを添ふる鴛鴦の浮寝か」 入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大殿籠もれるに、夢ともなくほのかに見たてまつるを、いみじく恨みたまへる御けしきにて、 「漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」 とのたまふ。御応へ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、 「こは、など、かくは」 とのたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり。今も、いみじく濡らし添へたまふ。 女君、いかなることにかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。 「とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜に むすぼほれつる夢の短さ」
なかなか飽かず、悲しと思すに、とく起きたまひて、さとはなくて、所々に御誦経などせさせたまふ。 「苦しき目見せたまふと、恨みたまへるも、さぞ思さるらむかし。行なひをしたまひ、よろづに罪軽げなりし御ありさまながら、この一つことにてぞ、この世の濁りを
すすいたまはざらむ」 と、ものの心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、 「何わざをして、知る人なき世界におはすらむを、訪らひきこえに参うでて、罪にも
代はりきこえばや」 など、つくづくと思す。 「かの御ために、とり立てて何わざをもしたまふむは、人とがめきこえつべし。内裏にも、御心の鬼に思すところやあらむ」 と、思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて念じたてまつりたまふ。「同じ蓮に」とこそは、 「亡き人を慕ふ心にまかせても 影見ぬ三つの瀬にや惑はむ」 と思すぞ、憂かりけるとや。
出典
[出典1] 寿則多辱(荘子-天地)(戻)
[出典2] 恋せじと御禊は神もうけずかと人を忘るる罪深くして(源氏釈所引、出典未詳) 恋せじと御手洗河にせし御禊神はうけずもなりにけるかな(古今集恋一-501 読人しらず)(戻)
[出典3] 君が門今ぞ過ぎ行く出でて見よ恋する人のなれる姿を(源氏釈所引、出典未詳)(戻)
[出典4] 須磨の浦の塩焼き衣馴れ行けば憂き頼みこそなりまさりけり(源氏釈所引、出典未詳)(戻)
[出典5] 馴れ行けば憂き世なればや須磨の海人の塩焼衣まどほなるらむ(新古今集恋三-1210 徽子女王)(戻)
[出典6] しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし(拾遺集哀傷-1350 聖徳太子)(戻)
[出典7] 身を憂しと言ひ来しほどに今日はまた人の上とも嘆くべきかな(源氏釈所引、出典未詳)(戻)
[出典8] 親の親と思はましかば問ひてまし我が子の子には(拾遺集雑下-545 源重之母)(戻)
[出典9] 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな(後拾遺集恋三-750 藤原道雅)(戻)
[出典10] 恋しきも心づからのわざなればおきどころなくもてわづらふ(中務集-249)(戻)
[出典11] 犬上の鳥籠の山なる名取川いさと答へよ我が名洩すな(古今集墨滅歌-1108 読人しらず)(戻)
[出典12] ありぬやと試みがてらあひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき(古今集俳諧歌-1025 読人しらず)(戻)
[出典13] 春秋に思ひ乱れて分きかねつ時につけつつ移る心は(拾遺集雑下-509 紀貫之)(戻)
[出典14] 遺愛寺鐘*枕聴 香鑪峯雪撥簾看(白氏文集巻16、*=埼-土,+欠<右>)(戻)
校訂 備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--?
[校訂1] 立ち返り--たちか(か/$か)へり(戻)
[校訂2] やうにや」と--やうに(に/+や<朱>)と(戻)
[校訂3] 似つかはしき--につら(ら/$か)はしき(戻)
[校訂4] 書き紛らはし--かき(き/+まき)らはし(戻)
[校訂5] 宣旨--せむ(む/$)し(戻)
[校訂6] 前斎院を--前斎院(院/+を<朱>)(戻)
[校訂7] 御けしきの--御けしきの(の/+の$<朱>)(戻)
[校訂8] たまひて--たま(ま/+ひ)て(戻)
[校訂9] 三年--みそ(そ/$<朱>)とせ(戻)
[校訂10] 出づる--いつ(つ/+る)(戻)
[校訂11] ほほ笑まれ--をほ(をほ/$ほゝ)ゑまれ(戻)
[校訂12] 心ばへ--こ(こ/+こ)ろはへ(戻)
[校訂13] 光りあひて--ひかり?(?/#)あひ(ひ/+て)(戻)
[校訂14] げに--け(け/+に)(戻)
[校訂15] 御あだけ--御仇(仇/$あたけ)(戻)
[校訂16] とて--と(と/+て)(戻)
[校訂17] 心苦しう--心くる(る/+し<朱>)う(戻)
[校訂18] なむや--*なむ(戻)
[校訂19] うつくしげ--うつ(つ/+く<朱>)しけ(戻)
[校訂20] すすい--すゝ(ゝ/$す<朱>)い(戻)
[校訂21] 代はりきこえ--かはりき(き/$)きこえ(戻)
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