月に吠える竹とその哀傷草の莖冬のさむさに ほそき毛をもてつつまれし 草の莖をみよや あをらみ莖はさみしげなれども いちめんにうすき毛をもてつつまれし 草の莖をみよや。 雪もよひする空のかなたに 草の莖はもえいづる。 地面の底の病氣の顏地面の底に顏があらはれ さみしい病人の顏があらはれ。 地面の底のくらやみに うらうら草の莖が萠えそめ 鼠の巣が萠えそめ 巣にこんがらがつてゐる かずしれぬ髪の毛がふるへ出し 冬至のころの さびしい病氣の地面から ほそい青竹の根が生えそめ 生えそめ それがじつにあはれふかくみえ けぶれるごとくに視え じつに じつに あはれふかげに視え。 地面の底のくらやみに さみしい病人の顏があれはれ。 竹光る地面に竹が生え 青竹が生え 地下には竹の根が生え 根がしだいにほそらみ 根の先より纎毛が生え かすかにけぶる纎毛が生え かすかにふるへ。 かたき地面に竹が生え 地上にするどく竹が生え まつしぐらに竹が生え 凍れる節節りんりんと 青空の下に竹が生え 竹 竹 竹が生え。 竹ますぐなるもの地面に生え するどき青きもの地面に生え 凍れる冬をつらぬきて そのみどり葉光る朝の空路に なみだたれ なみだをたれ いまはや懺悔をはれる肩の上より けぶれる竹の根はひろごり するどき青きもの地面に生え。 みよすべての罪はしるされたり されどすべては我にあらざりき まことにわれに現はれしは かげなき青き炎の幻影のみ 雪の上に消えさる哀傷の幽靈のみ ああかかる日のせつなる懺悔をも何かせむ すべては青きほのほの幻影のみ。 醋えたる菊その菊は醋え その菊は痛みしたたる あはれあれ霜つきはじめ わがぷらちなの手はしなへ するどく指をとがらして 菊をつまむとねがふより その菊をばつむことなかれとて かがやく天の一方に 菊は痛み 饐えたる菊はいたみたる。 龜林あり 沼あり 蒼天あり ひとの手にはおもみを感じ しづかに純金の龜ねむる この光る 寂しき自然のいたみにたへ ひとの心靈にまさぐりしづむ 龜は蒼天のふかみにしづむ。 冬つみとがのしるし天にあらはれ ふりつむ雪のうへにあらはれ 木木の梢にかがやきいで ま冬をこえて光るがに おかせる罪のしるしよもに現れぬ。 みよや眠れる くらき土壤にいきものは 懺悔の家をぞ建てそめし。 笛あふげば高き松が枝に琴かけ鳴らす おゆびに紅をさしぐみて ふくめる琴をかきならす ああ かき鳴らすひとづま琴の音にもつれぶき いみじき笛は天にあり。 けふの霜夜の空に冴え冴え 松の梢を光らして かなしむものの一念に 懺悔の姿をあらはしぬ。 いみじき笛は天にあり。 天上縊死遠夜に光る松の葉に 懺悔の涙したたりて 遠夜の空にしも白ろき 天上の松に首をかけ。 天上の松を戀ふるより 祈れるさまに吊されぬ。 卵いと高き梢にありて ちひさなる卵ら光り [1]あふげぼ小鳥の巣は光り いまはや罪びとの祈るときなる。
雲雀料理五月の朝の新緑と薫風は私の生活を貴族にする。したたる空色の窓の下で、私の愛する女と共に純銀の ふおうくを動かしたい。私の生活にもいつかは一度、あの空に光る、雲雀料理の愛の皿を盗んで喰べたい。 山居魚鳥遠くに消え去り 桔梗いろおとろへ しだいにおとろへ わが心いたくおとろへ 悲しみ樹蔭をいでず 手に聖書は銀となる。 感傷の手わが性のせんちめんたる あまたある手をかなしむ 手はつねに頭上にをどり また胸にひかりさびしみしが しだいに夏おとろへ かへれば燕はや巣を立ち 大麥はつめたくひやさる。 ああ 都をわすれ われすでに胡弓を彈かず 手ははがねとなり いんさんして土地を掘る いぢらしき感傷の手は土地を掘る。 殺人事件とほい空でぴすとるが鳴る。 またぴすとるが鳴る。 ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて こひびとの窓からしのびこむ 床は晶玉。 ゆびとゆびとのあひだから まつさをの血がながれてゐる かなしい女の屍體のうへで つめたいきりぎりすが鳴 いてゐる。 しもつき上旬のある朝 探偵は玻璃の衣裳をきて はやひとり探偵はうれひをかんず。 みよ遠いさびしい大理石の歩道を 曲者はいつさんにすべつてゆく。 盆景春夏すぎて手は琥珀 瞳は水盤にぬれ 石はらんすゐ いちいちに愁ひをくんず みよ山水のふかまに ほそき瀧ながれ 瀧ながれ ひややかに魚介はしづむ。 苗苗は青空に光り 子供は土地を掘る。 生えざる苗をもとめむとして あかるき鉢の底より われは白き指をさしぬけり。 雲雀料理ささげまつるゆふべの愛餐 いとしがりみどりの愛をひらきなむ。 あはれあれみ空をみれば さつきはるばると流るるものを 手にわれ雲雀の皿をささげ いとしがり君がひだりにすすみなむ。 天景しづかにきしれ四輪馬車 ほのかに海はあかるみて 麥は遠きにながれたり しづかにきしれ四輪馬車。 光る魚鳥の天景を また窓青き建築を しづかにきしれ四輪馬車。 掌上の種われは手のうへに土を盛り 土のうへに種をまく いま白き じようろもて土に水をそそぎしに 水はせんせんとふりそそぎ 土のつめたさはたなごころの上にぞしむ。 ああとほく五月の窓をおしひらきて われは手を日光のほとりにさしのべしが さわやかなる風景の中にしあれば 皮膚はかぐはしくもぬくもりきたり 手のうへの種はいとほしげにも呼吸づけり。 焦心霜ふりてすこしつめたき朝を 手に雲雀料理をささげつつ歩みゆく少女あり。 そのとき並木にもたれ 白粉もてぬられたる女のほそき指と指との隙間をよくよく窺ひ このうまき雲雀料理をば盗み喰べんと欲して しきりにも焦心し あるひとのごときはあまりに焦心し まつたく合掌せるにおよべり。 悲しい月夜蛙の死蛙が殺された 子供がまるくなつて手をあげた。 みんないつしよに かわゆらしい 血だらけの手をあげた。 月が出た 丘の上に人が立つてゐる。 帽子の下に顏がある。 幼年思慕篇 かなしい遠景かなしい薄暮になれば 勞働者にて東京市中が滿員なり それらの憔悴した帽子の かげが 市街中いちめんにひろがり あつちの市區でもこつちの市區でも 堅い地面を掘つくりかへす 掘り出して見るならば 煤ぐろい嗅煙草の銀紙だ 重さ五匁ほどもある にほひ菫のひからびきつた根つ株だ それも本所深川あたりの遠方からはじめ おひおひ市中いつたいにおよぼしてくる。 なやましい薄暮のかげで しなびきつた心臟が しやべるを光らしてゐる。 悲しい月夜ぬすつと犬めが くさつた波止場の月に吠えてゐる。 たましひが耳をすますと 陰氣くさい聲をして 黄ろい娘たちが合唱してゐる 合唱してゐる 波止場のくらい石垣で。 いつも なぜおれはこれなんだ 犬よ 青白いふしあはせの犬よ。 死みつめる土地の底から 奇妙きてれつの手がでる 足がでる くびがでしやばる 諸君 こいつはいつたい なんといふ鵞鳥だい。 みつめる土地の底から 馬鹿づらをして 手がでる 足がでる くびがでしやばる。 危險な散歩春になつて おれは新らしい靴のうらに ごむをつけた どんな粗製の歩道をあるいても あのいやらしい音がしないやうに それにおれはどつさり毀れものをかかへこんでる それがなによりけんのんだ。 さあ そろそろ歩きはじめた みんなそつとしてくれ そつとしてくれ おれは心配で心配でたまらない たとへどんなことがあつても おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。 おれはぜつたいぜつめいだ おれは病氣の風船のりみたいに いつも憔悴した方角で ふらふらふらふらあるいてゐるのだ。 干からびた犯罪どこから犯人は逃走したか ああ いく年もいく年もまへから ここに倒れた椅子がある ここに兇器がある ここに死體がある ここに血がある さうして青ざめた五月の高窓にも おもひにしづんだ探偵のくらい顏と さびしい女の髪の毛とがふるへて居る。 くさつた蛤なやましき春夜の感覚とその疾患 椅子椅子の下にねむれるひとは おほいなる家をつくれるひとの子供らか。 内部に居る人が畸形な病人に見える理由わたしは窓かけの れいすのかげに立つて居ります それがわたくしの顏をうすぼんやりと見せる理由です。 わたしは手に遠めがねをもつて居ります それでわたくしは ずつと遠いところを見て居ります あたまのはげた子供たちの歩いてゐる林をみて居ります それらがわたくしの瞳を いくらかかすんでみせる理由です。 わたしはけさ きやべつの皿を喰べすぎました そのうへこの窓硝子は非常に粗製です それがわたくしの顏をこんなに甚だしく歪んで見せる理由です。 じつさいのところを言へば わたくしは健康すぎるぐらゐなものです それだのに なんだつて君は そこで私をみつめてゐる。 なんだつてそんなに薄氣味わるく笑つてゐる。 [3]おお もちろん わたくしの腰から下ならば そのへんが はつきりしないといふならば いくらか馬鹿げた疑問であるが もちろん つまり この青白い窓の壁にそうて 家の内部に立つてゐるわけです。 春夜淺蜊のやうなもの 蛤のやうなもの みぢんこのやうなもの それら生物の身體は砂にうもれ どこからともなく 絹いとのやうな手が無數に生え 手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。 あはれこの生あたたかい春の夜に そよそよと潮みづながれ 生物の上にみづながれ 貝類の舌も ちらちらとしてもえ哀しげなるに とほく渚の方を見わたせば ぬれた渚路には 腰から下のない病人の列があるいてゐる ふらりふらりと歩いてゐる。 ああ それら人間の髪の毛にも 春の夜のかすみいちめんにふかくかけ よせくる よせくる このしろき浪の列はさざなみです。 ばくてりやの世界ばくてりやの足 ばくてりやの口 ばくてりやの耳 ばくてりやの鼻 あるものは人物の胎内に あるものは貝るゐの内臟に あるものは玉葱の球心に あるものは風景の中心に。 ばくてりやがおよいでゐる。 ばくてりやの手は左右十文字に生え 手のつまさきが根のやうにわかれ そこからするどい爪が生え 毛細血管のるゐは べたいちめんにひろがつてゐる。 ばくてりやがおよいでゐる。 ばくてりやが生活するところには 病人の皮膚をすかすやうに べにいろの光線がうすくさしこんで その部分だけほんのりとしてみえ じつに じつに かなしみたへがたく見える。 ばくてりやがおよいでゐる。 およぐひとおよぐひとのからだはななめにのびる 二本の手はながくそろへてひきのばされる およぐひとの心臟はくらげのやうにすきとほる およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。 ありあけながい疾患のいたみから その顏はくもの巣だらけとなり 腰からしたは影のやうに消えてしまひ 腰からうへには薮が生え 手が腐れ 身體いちめんがじつにめちやくちやなり ああ けふも月が出て 有明の月が空に出て そのぼんぼりのやうなうすらあかりで 畸型の白犬が吠えてゐる。 しののめちかく さみしい道路の方で吠える犬だよ。 猫まつくろけの猫が二匹 なやましいよるの屋根のうへで ぴんとたてた尻尾のさきから 糸のやうな みかづきがかすんでゐる。 『おわあ こんばんは』 『おわあ こんばんは』 『おぎやあ おぎやあ おぎやあ』 『おわああ ここの家の主人は病氣です』 貝つみたきもの生れ その齒はみづにながれ その手はみづにながれ 潮さし行方もしらにながるるものを 淺瀬をふみてわが呼ばへば 貝は遠音にこたふ。 麥畑の一隅にてまつ正直の心をもつて わたくしどもは話がしたい 信仰からきたるものは すべて幽靈のかたちで視える かつてわたくしが視たところのものを はつきりと汝にもきかせたい およそこの類のものは さかんに裝束せる 光れる おほいなるかくしどころをもつた神の半身であった。 陽春ああ 春は遠くからけぶつて來る ぽつくりふくらんだ柳の芽のしたに やさしいくちびるをさしよせ をとめのくちびるを吸ひこみたさに 春は遠くから ごむ輪のくるまに乘つて來る。 ぼんやりした景色のなかで 白いくるまやさんの足はいそげども ゆくゆく車輪がさかさにまはり しだいに地面をはなれ出し おまけにお客さまの腰が へんにふらふらとして これではとてもあぶなさうなと とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。 くさつた蛤半身は砂のなかにうもれてゐて それでゐてべろべろ舌を出してゐる。 この軟體動物のあたまの上には 砂利や潮みづがざらざらざらざら流れてゐる ながれてゐる ああ夢のやうにしづかにもながれてゐる。 ながれてゐる砂と砂との隙間から 蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる この蛤は非常に憔悴れてゐるのである。 みればぐにやぐにやした内臟がくさりかかつてゐるらしい それゆゑに哀しげな晩がたになると 青ざめた海岸に坐つてゐて ちら ちら ちら ちらとくさつた息をするのですよ。 春の實體かずかぎりもしれぬ蟲けらの卵にて 春がみつちりとふくれてしまつた げにげに眺めみわたせば どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。 櫻のはなをみてあれば 櫻のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ やなぎの枝にも もちろんなり たとへば蛾蝶のごときものさへ そのうすき翅は卵にてかたちづくられ それがあのやうに ぴかぴかぴかぴか光るのだ。 ああ 瞳にもみえざる このかすかな卵のかたちは楕圓形にして それがいたるところに押しあひへしあひ 空氣中いつぱいにひろがり ふくらみきつた ごむまりのやうに固くなつてゐるのだ よくよく指のさきでつついてみたまへ 春といふものの實體がおよそこのへんにある。
さびしい情慾五月の貴公子若草の上をあるいてゐるとき わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく ほそい すてつきの銀が草でみがかれ まるめてぬいだ手ぶくろが宙でをどつて居る ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして わたしは柔和の羊になりたい しつとりとした貴女のくびに手をかけて あたらしいあやめおしろいのにほひをかいでゐたい 若くさの上をあるいてゐるとき わたしは五月の貴公子である。 白い月はげしいむし齒のいたみから ふくれあがつた頬つぺたをかかへながら わたしは棗の木の下を掘つてゐた なにかの草の種を蒔かうとして きやしやの指を泥だらけにしながら つめたい地べたを掘つくりかへした ああ わたしはそれをおぼえてゐる うすらさむい日のくれがたに まあたらしい穴の下で ちろ ちろ とみみずがうごいてゐた そのとき低い建物のうしろから まつしろい女の耳を つるつるとなでるやうに月があがつた 月があがつた。 幼童思慕詩篇 肖像あいつはいつも歪んだ顏をして 窓のそばに突つ立つてゐる 白いさくらが咲く頃になると あいつはまた地面の底から むぐらもちのやうに這ひ出してくる ぢつと足音をぬすみながら あいつが窓にしのびこんだところで おれは早取寫眞にうつした。 ぼんやりした光線のかげで 白つぽけた乾板をすかして見たら なにかの影のやうに薄く寫つてゐた。 おれのくびから上だけが おいらん草のやうにふるへてゐた。 さびしい人格さびしい人格が私の友を呼ぶ わが見知らぬ友よ早くきたれ ここの古い椅子に腰をかけて二人でしづかに話して居よう なにも悲しむことなくきみと私でしづかな幸福な日をくらさう 遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう しづかにしづかに二人でかうして抱き合つて居よう 母にも父にも兄弟にも遠くはなれて 母にも父にも知らない孤兒の心をむすび合はさう ありとあらゆる人間の生活の中で おまへと私だけの生活について話し合はう まづしいたよりない二人だけの秘密の生活について ああその言葉は秋の落葉のやうにそうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。 わたしの胸はかよわい病氣したをさな兒の胸のやうだ。 わたしの心は恐れにふるへるせつないせつない熱情のうるみに燃えるやうだ。 ああいつかも私は高い山の上へ登つて行つた けはしい坂路をあふぎながら蟲けらのやうにあこがれて登つて行つた 山の絶頂に立つたとき蟲けらはさびしい涙をながした。 あふげばばうばうたる草むらの山頂でおほきな白つぽい雲がながれてゐた。 自然はどこでも私をくるしくする そして人情は私を陰鬱にする むしろ私はにぎやかな都會の公園を歩きつかれて とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ ああ都會の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙 またその建築の屋根をこえてはるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。 よにもさびしい私の人格が おほきな聲で見知らぬ友をよんで居る わたしの卑屈な不思議な人格が 鴉のやうなみすぼらしい樣子をして 人氣のない冬枯れの椅子の片隅にふるへて居る。 見知らぬ犬海水旅館赤松の林をこえて くらきおほなみはとほく光つてゐた。 このさびしき越後の海岸 しばしはなにを祈るこころぞ ひとり夕餉ををはりて 海水旅館の居間に灯を點ず。 見しらぬ犬この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる みすぼらしい 後足でびつこをひいてゐる不具の犬のかげだ。 ああ わたしはどこへ行くのか知らない わたしのゆく道路の方角では 長屋の屋根がべらべらと風にふかれてゐる 道ばたの陰氣な空地では ひからびた草の葉つぱがしなしなとほそくうごいて居る。 ああ わたしはどこへ行くのか知らない おほきな いきもののやうな月がぼんやりと行手に浮かんでゐる。 さうして背後のさびしい往來では 犬のほそながい尻尾の先が地べたの上をひきずつてゐる。 ああ どこまでもどこまでも この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる きたならしい地べたをはひまはつて わたしの背後で後足をひきずつてゐる病氣の犬だ とほく ながく かなしげにおびえながら さびしい空の月に向つて遠白く吠える ふしあはせの犬のかげだ。 青樹の梢をあふぎてまづしいさみしい町の裏通りで 青樹がほそほそと生えてゐた。 わたしは愛をもとめてゐる わたしを愛する心のまづしい乙女を求めてゐる そのひとの手は青い梢の上でふるへてゐる わたしの愛を求めるためにいつも高いところで やさしい感情にふるへてゐる。 わたしは遠い遠い街道で乞食をした みじめにも飢ゑた心が腐つた葱や肉のにほひを嗅いで涙をながした うらぶれはてた乞食の心でいつも町の裏通りを歩きまはつた。 愛をもとめる心はかなしい孤獨の長い長いつかれの後にきたる それはなつかしいおほきな海のやうな感情である。 道ばたのやせ地に生えた青樹の梢で ちつぽけな葉つぱがひらひらと風にひるがへつてゐた。 蛙よ蛙よ 蛙は白くふくらんでゐるやうだ 雨のいつぱいにふる夕景に ぎよ ぎよ ぎよ ぎよ と鳴く蛙。 まつくらの地面をたたきつける 今夜は雨や風のはげしい晩だ つめたい草の葉つぱの上でも ほつと息をすひこむ蛙 ぎよ ぎよ ぎよ ぎよ と鳴く蛙。 蛙よ わたしの心はお前から遠くはなれて居ない わたしは手に燈灯をもつて くらい庭の面を眺めて居た 雨にしをるる草木の葉を つかれた心もちで眺めて居た。 山に登る旅よりある女に贈る 山の頂上にきれいな草むらがある その上でわたしたちは寢ころんでゐた。 眼をあげてとほい麓の方を眺めると いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。 空には風がながれてゐる おれは小石をひろつて口にあてながら どこといふあてもなしに ばうばうとした山の頂上をあるいてゐた おれはいまでも お前のことを思つてゐるのである。 孤獨田舎の白つぽい道ばたで つかれた馬のこころが ひからびた日向の草をみつめてゐる ななめに しのしのとほそくもえる ふるへるさびしい草をみつめる。 田舎のさびしい日向に立つて おまへはなにを視てゐるのか ふるへる わたしの孤獨のたましひよ。 このほこりつぽい風景の顔に うすく涙がながれてゐる。 田舎を恐るわたしは田舎をおそれる 田舎の人氣のない水田の中にふるへて ほそながくのびる苗の列をおそれる。 くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。 田舎のあぜみちに坐つてゐると おほなみのやうな土壌の重みが わたしの心をくらくする 土壌のくさつたにほひが私の皮膚をくらずませる 冬枯れのさびしい自然が私の生活をくるしくする。 田舎の空氣は陰欝で重くるしい 田舎の手觸りはざらざらして氣もちがわるい わたしはときどき田舎を思ふと きめのあらい動物の皮膚のにほひに惱まされる。 わたしは田舎をおそれる 田舎は熱病の青じろい夢である。 白い共同椅子森の中の小徑にそうて まつ白い共同椅子がならんでゐる そこらはさむしい山の中で たいそう緑のかげがふかい あちらの森をすかしてみると そこにもさみしい木立がみえて 上品な まつしろな椅子の足がそろつてゐる。
長詩二篇雲雀の巣おれはよにも悲しい心を抱いて故郷の河原を歩いた 河原には よめな つくしのたぐひ せり なづな すみれの根もばうばうと生えてゐた。 その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる ぬすびとのやうに 暗くやるせなく流れてゐる。 おれはぢつと河原にうづくまつてゐた おれの眼のまへには河原よもぎの草むらがある ひとつかみほどの草むらである 蓬はやつれた女の髮の毛のやうに へらへらと風にうごいてゐた。 おれはあるいやなことをかんがへこんでゐる。それは恐ろしく不 吉なかんがへだ。 そのうへ きちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつ けるので おれはぐつたり汗ばんでゐる。 あへぎ苦しむひとが水をもとめるやうに おれはぐいと手をのばした おれのたましひをつかむやうにして なにものかをつかんだ 干からびた髮の毛のやうなものをつかんだ。 河原よもぎの中にかくされた雲雀の巣 ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよと空では雲雀 の親が鳴いてゐる。 おれはかわいさうな雲雀の巣をながめた 巣はおれの大きな掌の上で やさしくも毬のやうにふくらんだ いとけなく育くまれるものの愛に媚びる感覺が あきらかにおれの心にかんじられた。 おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた おれはまた親鳥のやうに頸をのばして巣の中をのぞいた。 巣の中は夕暮どきの光線のやうに うすぼんやりとしてくらかつ た。 かぼそい植物の纎毛に觸れるやうな たとへやうもなく 哀傷が 影のやうに神經の末梢をかすめて行つた。 巣の中のかすかな光にてらされて ねずみいろの雲雀の卵が四つ ほどさびしげに光つてゐた。 わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた 生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた 死にかかつた犬をみるときのやうな齒がゆい感覺が おれの心の 底にわきあがつた。 かういふときの人間の感覺の生ぬるい不快さから殘虐な罪が生れ る 罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。 おれは指と指とにはさんだ卵をそつと日光にすかしてみた うす赤いぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた つめたい汗のやうなものが感じられた そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液體がじくじくと流れてゐ るのを感じた。 卵がやぶれた 野蠻な人間の指が むざんにも繊細なものを押しつぶしたのだ 鼠いろの薄い卵の殻にはKといふ字が 赤くほんのりと書かれて ゐた。 いたいけな小鳥の芽生 小鳥の親 その可愛いらしいくちばしから造つた巣 一所けんめいでやつた小動物の仕事 愛すびき本能のあらはれ。 いろいろな善良な しをらしい考へが私の心にはげしくこみあげ た。 おれは卵をやぶつた 愛と悦びとを殺して 悲しみと呪ひとにみちた仕事をした くらい不愉快なおこなひをした おれは陰欝な顏をして地面をながめつめた 地面には石や 硝子かけや 草の根などがいちめんにかがやいて ゐた。 ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよと空では雲雀 の親が鳴いてゐる。 なまぐさい春のにほひがする おれはまたあの いやなことをかんがへこんだ 人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと 人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること あるとき人間が馬 のやうに見えること 人間が人間の愛にうらぎりすること 人間が人間をきらふこと ああ 厭人病者。 ある有名なロシヤの小説 非常に重たい小説をよむと厭人病者の それは立派な小説だ けれども恐ろしい小説だ 心が愛するものを肉體で愛することの出來ないといふのは なん たる邪惡の思想であらう。なんたる醜惡の病氣であらう。 おれは生れていつぺんでも娘たひに接吻したことはない ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて せめては兄らしい言葉を 言つたことすらもない。 ああ 愛する 愛する 愛する小鳥たち。 おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。 おれはときどき すべての人々から脱れて孤獨になる。そしてお れの心は すべての人々を愛することによつて涙くましくなる。 おれはいつでも 人氣のない寂しい海岸を歩きながら 遠い都の 雜閙を思ふのがすきだ。 遠い都の灯ともし頃に ひとりで故郷の公園をあるこのがすきだ。 ああ きのふもきのふとて おれは悲しい夢をみつづけた。 おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。 おれはくるしくなる。 おれはさびしくなる。 心で愛するものを なにゆゑに肉體で愛することができないのか。 おれは懺悔する。 懺悔する。 おれはいつでも くるしくなると懺悔する。 利根川の河原の砂の上に坐つて懺悔をする。 ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよと空では雲雀 の親たちが鳴いてゐる。 河原蓬の根がばうばうとひろがつてゐる。 利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。 あちらにも こちらにも うれはしげな農人の顏がみえる。 それらの顏はくらくして地面をばかりみる。 地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。 おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。 笛子供は笛が欲しかつた。 その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。 子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。 子供はひつそりと扉のかげに立つてゐた。 扉のかげにはさくらの花のにほひがする。 そのとき室内で大人はかんがへこんでゐた。 大人の思想がくるくると渦まきをした。 ある混み入つた思想の ぢれんまが大人の心を痙攣させた。 みれば ですくの上に突つ伏した大人の額を いつのまにか蛇が ぎりぎりとまきつけてゐた。 それは春らしい今朝の出來事が そのひとの心を憂はしくしたの である。 本能と良心と わかちがたき一つの心をふたつにわかたんとする大人の心のうら さびしさよ。 力をこめて引きはなされた二つの影は 糸のやうにもつれあひつつ ほのぐらき明窓のあたりをさまよう た。 人は自分の頭のうへに それらの悲しい幽靈の通りゆく姿をみた。 大人は恐ろしさに息をひそめながら祈をはじめた「神よ ふた つの心をひとつにすることなからしめたまへ」 けれどもながいあひだ 幽靈は扉のかげを出這入りした。 扉のかげにはさくらの花のにほひがした。 そこには青白い顏をした病身のかれの子供が立つてゐた。 子供は笛が欲しかつたのである。 子供は扉をひらいて部屋の一隅に立つてゐた。 子供は窓際の ですくに突つ伏してゐる おほいなる父の頭腦をみ た。 その頭腦のあたりは甚だしい陰影になつてゐた。 子供の視線が蠅のやうにその場所にとまつてゐた。 子供のわびしい心が なにものかにひきつけられてゐたのだ。 しだいに子供の心が力をかんじはじめた 子供は實に はつきりとした聲で叫んだ。 みればそこには笛がおいてあつたのだ。 子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。 子供は笛に就いてなにごとも父に話してはなかつた。 それ故この事實はまつたく偶然の出來事であつた。 おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。 けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。 もつとも偉大なる大人の思想が生み落した陰影の笛について。 卓の上に置かれた笛について。
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極光懺悔者の背後には美麗な極光がある。 |