私はまた元のもくあみだ。胸にエプロンをかけながら二階の窓をあけに行くと、遠い向うに薄い富士山が見えた。あああの山の下を私は幾度か不幸な思いをして行き帰りした事である。でもたとえ小さな旅でも、二日の外房州のあの寥々たる風景は、私の魂も汚れのとれた美しいものにしてくれた。野中の一本杉の私は、せめてこんな楽しみでもなければやりきれない。明日から紅葉デーで、私達は狂人のような真紅な着物のおそろいだそうである。都会の人間はあとからあとから、よくもこんなはずかしくもない、コッケイな趣向を思いつくものだと思う。又新らしい女が来ている。今晩もお面のように白粉をつけて、二重な笑いでごまかしか……うきよとはよくも云い当てしものかな――。留守中、母から、さらしの襦袢が二枚送って来ていた。
カフェーで酔客にもらった指輪が思いがけなく役立って、十三円で質に入れると私と時ちゃんは、千駄木の町通りを買物しながら歩いた。古道具屋で箱火鉢と小さい茶ブ台を買ったり、沢庵や茶碗や、茶呑道具まで揃えると、あとは半月分あまりの間代をいれるのがせいいっぱいだった。十三円の金の他愛なさよ。
赤いマリの私を叩いてくれ
(一月×日)
雪空。
どんな事をしてでも島へ行ってこなくてはいけない。島へ行ってあのひとと会って来よう。
「こっちが落目になったけん、馬鹿にしとるとじゃろ。」
私が一人で島へ行く事をお母さんは賛成をしていない。
「じゃア、今度島へお母さん達が行くときには連れて行って下さい。どうしても会って話して来たいもの……」
私に「サーニン」
[50]を送ってよこして、恋を教えてくれた男じゃないか、東京へ初めて連れて行ったのもあの男、信じていいと云ったあのひとの言葉が胸に来る。――波止場には船がついたのか、低い雲の上に、船の煙がたなびいていた。汐風が胸の中で大きくふくらむ。
「気持ちのなくなっているものに、さっちついて行く事もないがの……サイナンと思うてお母さん達と一緒に又東京へ行った方がええ。」
「でも、一度会うて話をして来んことには、誰だって行き違いと云う事はあるもの……」
「考えてみなさい、もう去年の十一月からたよりがないじゃないかの、どうせ今は正月だもの、本気に考えがあれば来るがの、あれは少し気が小さいけん仕様がない。酉年はどうもわしはすかん。」
私は男と初めて東京へ行った一年あまりの生活を思い出した。
晩春五月のことだった。散歩にいった雑司ケ谷の墓地で、何度も何度もお腹をぶっつけては泣いた私の姿を思い出すなり。梨のつぶてのように、私一人を東京においてけぼりにすると、いいかげんな音信しかよこさない男だった。あんなひとの子供を産んじゃア困ると思った私は、何もかもが旅空でおそろしくなって、私は走って行っては墓石に腹をドシンドシンぶっつけていたのだ。男の手紙には、アメリカから帰って来た姉さん夫婦がとてもガンコに反対するのだと云っている。家を出てでも私と一緒になると云っておいて、卒業あと一年間の大学生活を私と一緒にあの雑司ケ谷でおくったひとだのに、卒業すると自分一人でかえって行ってしまった。あんなに固く信じあっていたのに、お養父さんもお母さんも忘れてこんなに働いていたのに、私は浅い若い恋の日なんて、うたかたの泡より果敢ないものだと思った。
「二三日したら、わしも商売に行くけん、お前も一度行って会うて見るとええ。」
そろばんを入れていたお養父さんはこう云ってくれたりした。尾道の家は、二階が六畳二間、階下は帆布と煙草を売るとしより夫婦が住んでいる。
「随分此家も古いのね。」
「あんたが生れた頃、此家は建ったんですよ。十四五年も前にゃア、まだ此道は海だったが、埋立して海がずっと向うへ行きやんした。」
明治三十七年生れのこの煤けた浜辺の家の二階に部屋借りをして、私達親子三人の放浪者は気安さを感じている。
「汽車から見て、この尾道はとても美しかったもんのう。」
港の町は、魚も野菜もうまいし、二度目の尾道帰りをいつもよろこんでいて、母は東京の私へ手紙をよこしていた。帰ってみると、家は違っていても、何もかもなつかしい。行李から本を出すと、昔の私の本箱にはだいぶ恋の字がならんでいる。隣室は大工さん夫婦、お上さんはだるま上り
[51]の白粉の濃い女だった。今晩、町は、寒施行なので、暗い寒い港町には提燈の火があっちこっち飛んでいた。赤飯に油揚げを、大工さんのお上さんは白粉くさい手にいっぱいこんなものを持って来てくれた。
「おばさんは、二三日うち島へ行きなさるな?」
「この十五日が工場の勘定日じゃけん、メリヤスを少し持って行こうと思ってますけに……」
「私のうちも船の方じゃあ仕事が日がつまんから、何か商売でもしたら云うて、繻子足袋の再製品を聞いたんじゃけど、どんなもんだろうな?」
「そりゃアよかろうがな、職工は此頃景気がよかとじゃけん、品さえよけりゃ買うぞな、商売は面白かもん私と行ってみなさい、これに手伝わせてもええぞな。」
「そいじゃ、おばさんと一緒にお願い申しましょう。」
船大工もこのごろ工賃が安くて人が多いし、寒い浜へ出るのは引きあわない話だそうな。
夕方。
ドックに勤めている金田さんが、「自然と人生」
[52]と云う本を持って来てくれる。金田さんは私の小学校友達なり。本を読む事が好きな人だ。桃色のツルツルしたメクリがついていて、表紙によしの芽のような絵が描いてあった。
――勝てば官軍、負けては賊の名をおわされて、降り積む雪を落花と蹴散し。暗くなるまで波止場の肥料置場でここを読む。紫のひふを着た少女の物語り、雨後の日の夜のあばたの女の物語など、何か、若い私の胸に匂いを運んでくれる。金田さんは、みみずのたわごとが面白いと云っていた。十時頃、山の学校から帰って来ると、養父さんが、弄花をしに行ってまだ帰らないのだと母は心配していた。こんな寒い夜でもだるま船が出るのか、お養父さんを迎えに町へ出てみると、雁木についたランチから白い女の顔が人魂のようにチラチラしていた。いっそ私も荒海に身を投げて自殺してあの男へ情熱を見せてやろうかしらとも思う。それともひと思いに一直線に墜落して、あの女達の群にはいってみようかと思う。
(一月×日)
島で母達と別れると、私は磯づたいに男の村の方へ行った。一円で買った菓子折を大事にかかえて因の島の樋のように細い町並を抜けると、一月の寒く冷たい青い海が漠々と果てもなく広がっていた。何となく胸の焼ける思いなり。あのひととはもう三カ月も会わないのだもの、東京での、あの苦しかった生活をあのひとはすぐ思い出してくれるだろう……。丘の上は一面の蜜柑山、実のなったレモンの木が、何か少女時代の風景のようでとてもうれしかった。
牛二匹。腐れた藁屋根。レモンの丘。チャボが花のように群れた庭。一月の太陽は、こんなところにも、霧のような美しい光芒を散らしていた。畳をあげた表の部屋には、あのひとの羽織がかけてあった。こんな長閑な住居にいる人達が、どうして私の事を、馬の骨だの牛の骨だのなんかと云うのだろうか、沈黙って砂埃のしている縁側に腰をかけていると、あの男のお母さんなのだろう、煤けて背骨のない藁人形のようなお婆さんが、鶏を追いながら裏の方から出て来た。
「私、尾道から来たんでございますが……」
「誰をたずねておいでたんな。」
声には何かトゲトゲとした冷たさがあった。私は誰を尋ねて来たかと訊かれると、少女らしく涙があふれた。尾道での
はなし、東京でのはなし、私は一年あまりのあのひととの暮しを物語って見た。
「私は何も知らんけん、そのうち又誰ぞに相談しときましょう。」
「本人に会わせてもらえないでしょうか。」
奥から、あのひとのお父さんなのか、六十近い老人が煙管を吹き吹き出て来る。結局は、アメリカから帰った姉さん夫婦が反対の由なり。それに本人も此頃造船所の庶務課に勤めがきまったので、あんまり幸福を乱さないでくれと云う事だった。こんな煤けたレモンの山裾に、数万円の財産をお守りして、その日その日の食うものもケンヤクしている百姓生活。あんまり人情がないと思ったのか、あのひとのお父さんは、今日は祭だから、飯でも食べて行けと云った。女は年を取ると、どうして邪ケンになるものだろう。お婆さんはツンとして腰に縄帯を巻いた姿で、牛小屋にはいって行った。真黒いコンニャクの煮〆と、油揚げ、里芋、雑魚の煮つけ、これだけが祭の御馳走である。縁側で涙をくくみながらよばれていると、荒れた水田の小道を、なつかしい顔が帰って来ている。
私を見ると、気の弱い男は驚いて眼をタジタジとさせていた。
「当分は、一人で働きたいと云っとるんじゃから、帰ってもおこらんで、気ながに待っておって下さい。何しろあいつの姉の云う事には、一軒の家もかまえておらん者の娘なんかもらえんと云うのだから……」
お父さんの話だ。あのひとは沈黙って首をたれていた。――どう煎じ詰めても、あんなにも勇ましいと思っていた男が沈黙っていて一言も云ってくれないのでは、私が百万べん云っても動いてくれるような親達ではない。私は初めて空漠とした思いを感じた。男と女の、あんなにも血も肉も焼きつくような約束が、こんなにたあいもなく崩れて行くものだろうかと思う。私は菓子折をそこへ置くと、蜜柑山に照りかえった黄いろい陽を浴びて村道に出た。あの男は、かつてあの口から、こんなことを云ったことがある。
「お前は、長い間、苦労ばかりして来たのでよく人をうたがうけれども、子供になった気持ちで俺を信じておいで……」
一月の青く寒く光っている海辺に出ると、私はぼんやり沖を見ていた。
「婆さんが、こんなものをもらう理由はないから、返して来いと云うんだよ。」
私に追いすがった男の姿、お話にならないオドオドした姿だった。
「もらう理由がない? そう、じゃ海へでもほかして下さい。出来なければ私がします。」
男から菓子折を引き取ると、私はせいいっぱいの力をこめてそれを海へ投げ捨てた。
「とても、あの人達のガンコさには勝てないし、家を出るにも、田舎でこそ知人の世話で仕事があるんだが、東京なんかじゃ、大学出なんか食えないんだからね。」
私は沈黙って泣いていた。東京での一年間、私は働いて此男に心配かけないでいた心づかいを淋しく思い出した。
「何でもいいじゃありませんか、怒って私が菓子折を海へ投げたからって、貴方に家を出て下さいなんて云うんじゃありませんもの。私はそのうち又ひとりで東京へ帰ります。」
砂浜の汚い藻の上をふんで歩いていると、男も犬のように何時までも沈黙って私について来た。
「おくってなんかくれなくったっていいんですよ。そんな目先きだけの優しさなんてよして下さい。」
町の入口で男に別れると、体中を冷たい風が吹き荒れるような気がした。会ったらあれも云おう、これも云おうと思っていた気持ちが、脆く叩き毀されている。東京で描いていたイメージイが愚にもつかなかったと思えて、私はシャンと首をあげると、灰色に蜿蜒と続いた山襞を見上げた。
造船所の入口には店を出したお養父さんとお母さんが、大工のお上さんともう店をしまいかけていた。
「オイ、この足袋は紙でこしらえたのかね、はいたと思ったらじき破れたよ。」
薬で黒く色染めしてあるので、
はくとすぐピリッと破れるらしい。
「おばさん! 私はもう帰りますよ。皆おこって来そうで、おそろしいもん……」大工のお上さんは、再製品のその繻子足袋を一足七十銭に売っているんだからとても押しが太かった。大工の上さんが一船先へ帰ると云うので、私も連れになって、一緒に船着場へ行く。
「さあ、船を出しますで!」
船長さんが鈴を鳴らすと、利休下駄をカラカラいわせていた大工の上さんは、桟橋と船に渡した渡し子をわたるとき、まだ半分も残っていた足袋の風呂敷包みを、コロリと海の中へ落してしまった。
「あんまり高いこと売りつけたんで、罰が当ったんだでな。」
上さんはヤレヤレと云いながら、棒の先で風呂敷包みをすくい取っていた。
皆、何も彼も過ぎてしまう。船が私の通った砂浜の沖に出ると、灯のついたようなレモンの山が、暮色にかすんでしまっていた。三カ月も心だのみに空想を描いていた私だのに、海の上の潮風にさからって、いつまでも私は甲板に出ていた。
(一月×日)
「お前は考えが少しフラフラしていかん!」
養父さんは、東京行きの信玄袋をこしらえている私の後から云った。
「でもなお父さん、こんなところへおっても仕様のない事じゃし、いずれわし達も東京へ行くんだから、早くやっても、同じことじゃがな。」
「わし達と一緒に行くのならじゃが、一人ではあぶないけんのう。」
「それに、お前は無方針で何でもやらかすから。」
御もっとも様でございます。方針なんて真面目くさくたてるだけでも信じられないじゃありませんか。方針なんてたてようもない今の私の気持ちである。大工のお上さんがバナナを買ってくれた。「汽車の中で弁当代りにたべなさいよ。」停車場の黒い
さくに凭れて母は涙をふいていた。ああいいお養父さん! いいお母さん! 私はすばらしい成金になる空想をした。
「お母さん! あんたは、世間だの義理だの人情だのなんてよく云い云いしているけれども、世間だの義理だの人情だのが、どれだけ私達を助けてくれたと云うのです? 私達親子三人の世界なんてどこにもないんだからナニクソと思ってやって下さい。もうあの男ともさっぱり別れて来たんですからね。」
「親子三人が一緒に住めん云うてのう……」
「私は働いて、うんとお金持ちになりますよ、人間はおそろしく信じられないから、私は私一人でうんと身を粉にして働きますよ。」
いつまでも私の心から消えないお母さん、私は東京で何かにありついたらお母さんに電報でも打ってよろこばせてやりたいと思った。――段々陽のさしそめて来る港町をつっきって汽車は山波の磯べづたいに走っている。私の思い出から、たんぽぽの綿毛のように色々なものが海の上に飛んで行った。海の上には別れたひとの大きな姿が虹のように浮んでいた。
○
(六月×日)
烈々とした太陽が、雲を裂き空を裂き光っている。帯の間にしまった二通の履歴書は、ぐっしょり汗ばんでしまった。暑い。新富河岸の橋を曲線しながら、電車は新富座に突きささりそうに朽ちた本橋を渡って行く。坂本町で降りると、汚い公園が目の前にあった。金でもあれば氷のいっぱいも呑んで行くのだけれど、ああこのジトジトした汗の体臭はけいべつされるに違いない。石突きの長いパラソルの柄に頬をもたせて、公園の汚れたベンチに私は涼風をもとめてすずんでいた。
「オイ! 姉さん、五銭ほど俺にくんないかね……」
驚いて振り返って見ると、垢まぶれな手拭を首に巻いた浮浪者が私の後に立っていた。
「五銭? 私二銭しか持たないんですよ、電車切符一枚と、それきり……」
「じゃア二銭おくれよ。」
三十も過ぎているだろうこのガンジョウな男が、汗ばんだ二銭を私からもらうと、共同便所の方へ行ってしまった。あの人に二銭あげてあの人はあんなに喜んで行ったんだから、私にもきっといい事があるに違いない。玩具箱をひっくり返したような公園の中には、樹とおんなじように埃をかぶった人間が、あっちにもこっちにもうろうろしている。
茅場町の交差点から一寸右へはいったところに、イワイと云う株屋がみつかった。薄暗い鉄格子のはまった事務室には遊び人風な男や、忙がし気に走りまわっている小僧やまるで人種の違ったところへ来た感じだった。
「月給は弁当つき三十五円でしてね、朝は九時から、
ひけは四時です。ところで玉づけ
[53]が出来ますかね。」
「玉づけって何です?」
「簿記ですよ。」
「少しぐらいは出来ようと思います。」
まあ、月給が弁当つき三十五円なんて! 何とすばらしい虹の世界だろう――。三十五円、これだけあれば、私は親孝行も出来る。
お母さんや!
お母さんや!
あなたに十円位も送れたらあんたは娘の出世に胸がはちきれて、ドキドキするでしょうね。
「ええ玉づけだって、何だってやります。」
「じゃアやって見て下さい、そして二三日してからきめましょう――」
白い絹のワイシャツを、帆のように扇風機の風でふくらましたこの頭の禿げた男は、私を事務机の前に連れて行ってくれた。大きな、まるで岩のような事務机を前にすると、三十五円の憂鬱が身にしみて、玉づけだって出来ますと云った事が、おそろしく思えてきた。小僧が持って来た大きい西洋綴りの帳面を開くと、それは複式簿記で、私の一寸知っている簿記とは、はるかに縁遠いものだった。目がくらみそうに汗が出る。生れてかつて見た事もないような、長い数字の行列、数字を毎日書き込んだり、珠算を入れるとなると、私は一日で完全に、キチガイになってしまうだろう。でも私は珠算をいかにもうまそうにパチパチ弾きながら子供の頃、算術で丙ばかりもらっていた事を思い出して、胸が冷たくなるような気がした。これだけの長い数字が、どれだけ我々の人生に必要なのだろうか、ふっと頭を上げると小僧が氷あずきをおやつに持って来てくれている。私は浅ましくてもううれし涙がこぼれそうだった。氷と数字、赤や青の直線、簿記棒でコツコツやりながら、でたらめな数字を書き込んだのが恐ろしくなっている。
帰ってみたら電報が来ていた。
シュッシャニオヨバズ。
えへだ! あんなに大きい数字を毎日加えてゆかなくちゃならない世界なんて、こっちから行きたくもありませんよだ。成金になりたい理想も、あんな大きな数字でへこたれるようでは一生駄目らしい。
(六月×日)
二階から見ると、赤いカンナの花が隣の庭に咲いている。
昨夜、何かわけのわからない悲しさで、転々ところがりながら泣いた私の眼に、白い雲がとてもきれいだった。隣の庭のカンナの花を見ていると、昨夜の悲しみが又湧いて来て、カンナの花を見ていると、熱い涙が流れる。いまさら考えて見るけれど、生活らしいことも、恋人らしい好きなひとも、勉強らしい勉強も出来なかった自分のふがいなさが、凪の日の舟のように佗しくなってくる。こんどはとても好きな
ひとが出来たら、眼をつぶってすぐ死んでしまいましょう。こんど、生活が楽になりかけたら、幸福がズルリと逃げないうちにすぐ死んでしまいましょう。
カンナの花の美しさは、瞬間だけの美しさだが、ああうらやましいお身分だよだ。またのよには、こんな赤いカンナの花にでも生れかわって来ましょう。昼から、千代田橋ぎわの株屋へ行ってみる。
――12345678910――
これだけの数字を何遍も書かせられると、私は大勢の応募者達と戸外へ出ていった。女事務員入用とあったけれど、又、簿記をつけさせるのかしら、でも、沢山の応募者達を見ると、当分私は風の子供だ。
明石の女もメリンスの女も、一歩外に出ると、睨みあいを捨ててしまっている。
「どちらへお帰りですの?」
私はこの魚群のような女達に別れて、銀座まで歩いてみた。銀座を歩いていると、なぜか質屋へ行くことを考えている。とある陳列箱の中の小さな水族館では、茎のような細い鮎が、何尾も泳いでいた。銀座の舗道が河になったら面白いだろうと思う。銀座の家並が山になったらいいな、そしてその山の上に雪が光っていたらどんなにいいだろう……。赤煉瓦の舗道の片隅に、二銭のコマを売っている汚れたお爺さんがいた。人間って、こんな姿をしてまでも生きていなくてはならないのかしら、宿命とか運命なんて、あれは狐つきの云う事でしょうね、お爺さん! ナポレオンのような戦術家になって、そんな二銭のコマで停滞する事は止めて下さい。コマ売りの老人の同情を強いる眼を見ていると、妙に嘲笑してやりたくなる。あんなものと私と同族だなんて、ああ汚れたものと美しいものと
けじめのつかない錯覚だらけのガタガタの銀座よ……家へかえったら当分履歴書はお休みだ。
空と風と
河と樹と
みんな秋の種子
流れて 飛んで
夜。
電気を消して畳に寝転んでいると、雲のない夜の空に大きい月が出ている。歪んだ月に、指を円めて覗き眼鏡していると、黒子のようなお月さん! どこかで氷を削る音と風鈴が聞える。
「こんなに私はまだ青春があるのです。情熱があるんですよお月さん!」両手を上げて何か抱き締めてみたい佗しさ、私は月に光った自分の裸の肩を此時程美しく感じた事はない。壁に凭れると男の匂いがする。ヅシンと体をぶっつけながら、何か口惜しさで、体中の血が鳴るように聞える。だが呆然と眼を開くと、血の鳴る音がすっと消えてお隣でやっている蓄音機のマズルカ
[54]の、ピジカット
[55]の沢山はいった嵐の音が美しく流れてくる。大陸的なそのヴァイオリンの音を聞いていると、明日のない自分ながら、生きなくては嘘だと云う気持ちが湧いて来るのだった。
(六月×日)
おとつい行った株屋から速達が来た。×日より御出社を乞う。私は胸がドキドキした。今日から株屋の店員さんだ。私は目の前が明るくなった様な気がした。パラソルを二十銭で屑屋に売った。
日立商会、これが私のこれからお勤めするところなり。隣が両替屋、前が千代田橋、横が鶏肉屋、橋の向うが煙草屋、電車から降りると、私は色んなものが豊かな気持ちで目についた。荻谷文子、これが私の相棒で、事務机に初めて差しむかいになると、二人共笑ってしまった。
「御縁がありましたのねイ。」
「ええ本当に、どうぞよろしくお願いします。」
此人は袴をはいて来ているが、私も袴をはかなくちゃいけないのか知ら……。二人の仕事はおトクイ様に案内状を出す事と、カンタンな玉づけをならって行く事だった。相棒の彼女は、岐阜の生れで小学校の教師をしていたとかで、ネーと云う言葉が非常に強い。「そうしてねイ!」二人の小僧が真似をしては笑う。お昼の弁当も美味し、鮭のパン粉で揚げたのや、いんげんの青いの、ずいきのひたし、丹塗りの箱を両手にかかえて、私は遠いお母さんの事を思い出していた。
ニイカイ サンヤリ
[56]!
自転車で走って小僧がかえって来ると、店の人達は忙がしそうにそれを黒板に書きつけたり電話をしている。
「奥のお客さんにお茶を一ツあげて下さい。」
重役らしい人が私の肩を叩いて奥を指差す。茶を持ってドアをあけると、黒眼鏡をかけた色の白い女のひとが、寒暖計の表のような紙に、赤鉛筆でしるしをつけていた。
「オヤ! これはありがとう、まあ、ここには女の人もいるのね、暑いでしょう……」
黒ずくめの恰好をした女のひとは、帯の間から五十銭銀貨二枚を出すと、氷でも召し上れと云って、私の掌にのせてくれた。
こんなお金を月給以外にもらっていいのか知ら……前の重役らしい人に聞くと、くれるものはもらっておきなさいと云ってくれた。社の帰り、橋の上からまだ高い陽をながめて、こんなに楽な勤めならば勉強も出来ると思った。
「貴女はまだ一人なの?」
袴をはいて靴を鳴らしている彼女は、気軽そうに口笛を吹いて私にたずねた。
「私二十八なのよ、三十五円くらいじゃ食えないわね。」
私は黙って笑っていた。
(七月×日)
大分仕事も馴れた。朝の出勤はことに楽しい。電車に乗っていると、勤めの女達が、セルロイドの円い輪のついた手垂げ袋を持っている。月給をもらったら私も買いたいものだ。階下の小母さんは此頃少し機嫌よし。――社へ行くと、まだ相棒さんは見えなくて、若い重役の相良さんが一人で、二階の広い重役室で新聞を読んでいた。
「お早うございます。」
「ヤア!」
事務服に着かえながら、ペンやインキを机から出していると、
「ここの扇風機をかけて。」と呼んでいる。
私は屑箱を台にすると、高い
かもいのスイッチをひねった。白い部屋の中が泡立つような扇風機の音、「アラ?」私は相良さんの両手の中にかかえられていた。心に何の用意もない。私の顔に大きい男の息がかかって来ると、私は両足で扇風機を突き飛ばしてやった。
「アッハヽヽヽヽいまのはじょうだんだよ。」
私は梯子段を飛びおりると、薄暗いトイレットの中でジャアジャア水を出した。頬を強く押した男の唇が、まだ固くくっついているようで、私は鏡を見ることがいやらしかった。
「いまのはじょうだんだよ……」
何度顔を洗ってもこの言葉がこびりついている。
「怒った! 馬鹿だね君は……」
ジャアジャア水を出している私を見て、降りて来た相良さんは笑って通り過ぎた。
昼。
黒い眼鏡の夫人と一緒に
[57]場の中へ行ってみる。高いベランダのようなところから拍子木が鳴ると、若い背ビロの男が、両手を拡げてパンパン手を叩いている。「買った! 買った!」ベランダの下には、芽をもむような人の頭、夫人は黒眼鏡をズリ上げながら、メモに何か書きつける。
夫人を自動車のあるところまでおくると、また、小さな
のし袋に一円札のはいったのをもらう。何だかこんな幸運も亦ズルリと抜けてゆきそうだ。帰ると、合百師達
[58]や小僧が丁半でアミダ
[59]を引いていた。
「ねイ林さん! 私達もしない? 面白そうよ。」
茶碗を伏せては、サイコロを振って、皆で小銭を出しあっていた。
「おい、姉さん! はいんなよ……」
「…………」
「はいるといいものを見せてやるぜ。生れて初めてだわって、嬉しがる奴を見せてやるがどうだい。」
羽二重のハッピをゾロリと着ながした一人の合百師が、私の手からペンを取って向うへ行ってしまった。
「アラ! そんないいもの……じゃアはいるわ、お金そんなにないから少しね。」
「ああ少しだよ、皆でおいなりさん買うんだってさ……」
「じゃ見せて!」
相棒はぺンを捨てて皆のそばへ行くと、大きいカンセイがおきる。
「さあ! 林さんいらっしゃいよ。」
私も声につられて店の間へ行って見る。ハッピの裏いっぱいに描いた真赤な絵に私は両手で顔をおおうた。
「意気地がねえなア……」
皆は逃げ出している私の後から笑っていた。
夜。
ひとりで、新宿の街を歩いた。
(七月×日)
「ああもしもし寿々の家ですか? こちらは須崎ですがねイ、今日は一寸行かれませんから、明日の晩いらっしゃるそうです。よしさんにそう云って下さいねイ。」
又、重役が、どっか芸者屋へ電話をかけさせているのだろう。荻谷さんのねイがビンビンひびいている。
「ねイ! 林さん、今晩須崎さんがねイ、浅草をおごってくれるんですって……」
私達は事務を早目に切りあげると、小僧一人を連れて、須崎と荻谷と私と四人で自動車に乗った。この須崎と云う男は上州の地主で、古風な白い浜縮緬の帯を腰いっぱいぐるぐる巻いて、豚のように肥った男だった。
「ちんやにでも行くだっぺか!」
私も荻谷も吹き出して笑った。肉と酒、食う程に呑む程に、この豚男の自惚話を聞いて、卓子の上は皿小鉢の行列である。私は胸の中がムンムン
つかえそうになった。ちんやを出ると、次があらえっさっさの帝京座だ。私は頭が痛くなってしまった。赤いけだしと白いふくらっぱぎ、群集も舞台もひとかたまりになって何かワンワン唸りあっている。こんな世界をのぞいた事もない私は、妙に落ちつかなかった。小屋を出ると、ラムネとアイスクリーム屋の林立の浅草だ。上州生れのこの重役氏は、「ほう! お祭のようだんべえ。」とあたりをきょろきょろながめていた。
私は頭が痛いので、途中からかえしてもらう。荻谷女史は妙に須崎氏と離れたがらなかった。
「二人で待合へでも行くつもりでしょう。」
小僧は須崎氏からもらった、電車の切符を二枚私に裂いてくれた。
「さよなら、又あした。」
家へかえると、八百屋と米屋と炭屋の
つけが来ていた。日割でもらっても少しあまるし、来月になったら国へ少し送りましょう。階下でかたくりのねったのをよばれる。床へはいったのが十一時、今夜も隣のマズルカが流れて来る。コウフンして眠れず。
○
(九月×日)
今日も亦あの雲だ。
むくむくと湧き上る雲の流れを私は昼の蚊帳の中から眺めていた。今日こそ十二社に歩いて行こう――そうしてお父さんやお母さんの様子を見てこなくちゃあ……私は隣の信玄袋に凭れている大学生に声を掛けた。
「新宿まで行くんですが、大丈夫でしょうかね。」
「まだ電車も自動車もありませんよ。」
「勿論歩いて行くんですよ。」
この青年は沈黙って無気味な暗い雲を見ていた。
「貴方はいつまで野宿をなさるおつもりですか?」
「さあ、この広場の人達がタイキャクするまでいますよ、僕は東京が原始にかえったようで、とても面白いんですよ。」
この生齧りの哲学者メ。
「御両親のところで、当分落ちつくんですか……」
「私の両親なんて、私と同様に貧乏で間借りですから長くは居りませんよ。十二社の方は焼けてやしないでしょうかね。」
「さあ、郊外は朝鮮人が大変だそうですね。」
「でも行って来ましょう。」
「そうですか、水道橋までおくってあげましょうか。」
青年は土に突きさした洋傘を取って、クルクルまわしながら雲の間から霧のように降りて来る灰をはらった。私は四畳半の蚊帳をたたむと、崩れかけた下宿へ走った。宿の人達は、みんな荷物を片づけていた。
「林さん大丈夫ですか、一人で……」
皆が心配してくれるのを振りきって、私は木綿の風呂敷を一枚持って、時々小さい地震のしている道へ出て行った。根津の電車通りはみみずのように野宿の群がつらなっていた。青年は真黒に群れた人波を分けて、くるくる黒い洋傘をまわして歩いている。
私は下宿に昨夜間代を払わなかった事を何だかキセキのように考えている。お天陽様相手に商売をしているお父さん達の事を考えると、この三十円ばかりの月給も、おろそかにはつかえない。途中一升一円の米を二升買った。外に朝日を五つ求める。
干しうどんの屑を五十銭買った。母達がどんなに喜んでくれるだろうと思うなり。じりじりした暑さの中に、日傘のない私は長い青年の影をふんで歩いた。
「よくもこんなに焼けたもんですね。」
私は二升の米を背負って歩くので、はつか鼠くさい体臭がムンムンして厭な気持ちだった。
「すいとんでも食べましょうか。」
「私おそくなるから止しますわ。」
青年は長い事立ち止って汗をふいていたが、洋傘をくるくるまわすとそれを私に突き出して云った。
「これで五十銭貸して下さいませんか。」
私はお伽話的なこの青年の行動に好ましい微笑を送った。そして気持ちよく桃色の五十銭札を二枚出して青年の手にのせてやった。
「貴方はお腹がすいていたんですね……」
「ハッハッ……」青年はそうだと云ってほがらかに哄笑していた。
「地震って素敵だな!」
十二社までおくってあげると云う青年を無理に断って、私は一人で電車道を歩いた。あんなに美しかった女性達が、たった二三日のうちに、みんな灰っぽくなってしまって、桃色の蹴出しなんかを出して裸足で歩いているのだ。
十二社についた時は日暮れだった。本郷からここまで四里はあるだろう。私は棒のようにつっぱった足を、父達の間借りの家へ運んだ。
「まあ入れ違いですよ。今日引っ越していらっしたんですよ。」
「まあ、こんな騒ぎにですか……」
「いいえ私達が、ここをたたんで帰国しますから。」
私は呆然としてしまった。番地も何も聞いておかなかったと云う関西者らしい薄情さを持った髪のうすい此女を憎らしく思った。私は堤の上の水道のそばに、米の風呂敷を投げるようにおろすと、そこへごろりと横になった。涙がにじんできて仕方がない。遠くつづいた堤のうまごやしの花は、兵隊のように皆地べたにしゃがんでいる。
星が光りだした。野宿をするべく心をきめた私は、なるべく人の多いところの方へ堤を降りて行くと、とっつきの歪んだ床屋の前にポプラで囲まれた広場があった。そこには、二三の小家族が群れていた。私がそこへ行くと、「本郷から、大変でしたね……」と、人のいい床屋のお上さんは店からアンペラを持って来て、私の為めに寝床をつくってくれたりした。高いポプラがゆっさゆっさ風にそよいでいる。
「これで雨にでも降られたら、散々ですよ。」
夜警に出かけると云う、年とった御亭主が鉢巻をしながら空を見てつぶやいていた。
(九月×日)
朝。
久し振りに鏡を見てみた。古ぼけた床屋さんの鏡の中の私は、まるで山出しの女中のようだ。私は苦笑しながら髪をかきあげた。油っ気のない髪が、ばらばら額にかかって来る。床屋さんにお米二升をお礼に置いた。
「そんな事をしてはいけませんよ。」
お上さんは一丁ばかりおっかけて来て、お米をゆさゆさ抱えて来た。
「実は重いんですから……」
そう云ってもお上さんは二升のお米を困る時があるからと云って、私の背中に無理に背負わせてしまった。昨日来た道である。相変らず、足は棒のようになっていた。若松町まで来ると、膝が痛くなってしまった。すべては天真ランマンにぶつかってみましょう。私は、罐詰の箱をいっぱい積んでいる自動車を見ると、矢もたてもたまらなくなって大きい声で呼んでみた。
「乗っけてくれませんかッ。」
「どこまで行くんですッ!」
私はもう両手を罐詰の箱にかけていた。順天堂前で降ろされると、私は投げるように、四ツの朝日を運転手達に出した。
「ありがとう。」
「姉さんさよなら……」
みんないい人達である。
私が根津の権現様の広場へ帰った時には、大学生は例の通り、あの大きな蝙蝠傘の下で、気味の悪い雲を見上げていた。そして、その傘の片隅には、シャツを着たお父さんがしょんぼり煙草をふかして私を待っていたのだ。
「入れ違いじゃったそうなのう……」と父が云った。もう二人とも涙がこぼれて仕方がなかった。
「いつ来たの? 御飯たべた? お母さんはどうしています?」
矢つぎ早やの私の言葉に、父は、昨夜朝鮮人と間違えられながらやっと本郷まで来たら、私と入れ違いだった事や、疲れて帰れないので、学生と話しながら夜を明かした事など物語った。私はお父さんに、二升の米と、半分になった朝日と、うどんの袋をもたせると、汗ばんでしっとりとしている十円札を一枚出して父にわたした。
「もらってええかの?……」
お父さんは子供のようにわくわくしている。
「お前も一しょに帰らんかい。」
「番地さえ聞いておけば大丈夫ですよ、二三日内に又行きますから……」
道を、叫びながら、人を探している人の声を聞いていると、私もお父さんも切なかった。
「産婆さんはお出になりませんかッ……どなたか産婆さん御存知ではありませんか!」
と、産婆を探して呼んでいる人もいた。
(九月×日)
街角の電信柱に、初めて新聞が張り出された。久しぶりになつかしいたよりを聞くように、私も大勢の頭の後から新聞をのぞきこんだ。
――灘の酒造家より、お取引先に限り、酒荷船に大阪まで無料にてお乗せいたします。定員五十名。
何と云う素晴らしい文字だろう。ああ私の胸は嬉しさではち切れそうだった。私の胸は空想でふくらんだ。酒屋でなくったってかまうものかと思った。
旅へ出よう。美しい旅の古里へ帰ろう。海を見て来よう――。
私は二枚ばかりの単衣を風呂敷に包むと、それを帯の上に背負って、それこそ飄然と、誰にも沈黙って下宿を出てしまった。万世橋から乗合の荷馬車に乗って、まるでこわれた羽子板のようにガックンガックン首を振りながら長い事芝浦までゆられて行った。道中費、金七十銭也。高いような安いような気持ちだった。何だか馬車を降りた時は、お尻が痺れてしまっていた。すいとん――うであずき――おこわ――果物――こうした、ごみごみと埃をあびた露店の前を通って行くと、肥料くさい匂いがぷんぷんしていて、芝浦の築港には鴎のように白い水兵達が群れていた。
「灘の酒船の出るところはどこでしょうか?」と人にきくと、ボートのいっぱい並んでいる小屋のそばの天幕の中に、その事務所があるのがわかった。
「貴女お一人ですか……」
事務員の人達は、みすぼらしい私の姿をジロジロ注視ていた。
「え、そうです。知人が酒屋をしてまして、新聞を見せてくれたのです。是非乗せて戴きたいのですが……国では皆心配してますから。」
「大阪からどちらです。」
「尾道です。」
「こんな時は、もう仕様おまへん。お乗せしますよってに、これ落さんように持って行きなはれ……」
ツルツルした富久娘のレッテルの裏に、私の東京の住所と姓名と年齢と、行き先を書いたのを渡してくれた。これは面白くなって来たものだ。何年振りに尾道へ行く事だろう。あああの海、あの家、あの人、お父さんや、お母さんは、借金が山ほどあるんだから、どんな事があっても、尾道へは行かぬように、と云っていたけれど、少女時代を過したあの海沿いの町を、一人ぼっちの私は恋のようにあこがれている。「かまうもんか、お父さんだって、お母さんだって知らなけりゃ、いいんだもの?」鴎のような水兵達の間をくぐって、酒の匂いのする酒荷船へ乗り込むことが出来た。――七十人ばかりの乗客の中に、女といえば、私と取引先のお嬢さんであろう水色の服を着た娘と、美しい柄の浴衣を着た女と三人きりである。その二人のお嬢さん達は、青い茣蓙の上に始終横になって雑誌を読んだり、果物を食べたりしていた。
私と同じ年頃なのに、私はいつも古い酒樽の上に腰をかけているきりで、彼女達は、私を見ても一言も声を掛けてはくれない。「ヘエ! お高く止っているよ。」あんまり淋しいんで、声に出してつぶやいてみた。
女が少ないので船員達が皆私の顔を見ている。ああこんな時こそ、美しく生れて来ればよかったと思う。私は切なくなって船底へ降りてゆくと、鏡をなくした私は、ニッケルのしゃぼん箱を膝でこすって、顔をうつしてみた。せめて着物でも着替えましょう。井筒の模様の浴衣にきかえると、落ちついた私の耳のそばでドッポンドッポンと波の音が響く。
(九月×日)
もう五時頃であろうか、様々な人達の物凄い寝息と、蚊にせめられて、夜中私は眠れなかった。私はそっと上甲板に出ると、吻と息をついた。美しい夜あけである。乳色の涼しいしぶきを蹴って、この古びた酒荷船は、颯々と風を切って走っている。月もまだうすく光っていた。
「暑くてやり切れねえ!」
機関室から上って来たたくましい船員が、朱色の肌を拡げて、海の涼風を呼んでいる。美しい風景である。マドロスのお上さんも悪くはないなと思う。無意識に美しいポーズをつくっているその船員の姿をじっと見ていた。その一ツ一ツのポーズのうちから、苦しかった昔の激情を呼びおこした。美しい夜あけであった。清水港が夢のように近づいて来た。船乗りのお上さんも悪くはない。
午前八時半、味噌汁と御飯と香の物で朝食が終る。お茶を呑んでいると、船員達が甲板を叫びながら走って行った。
「ビスケットが焼けましたから、いらっして下さい!」
上甲板に出ると、焼きたてのビスケットを私は両の袂にいっぱいもらった。お嬢さん達は貧民にでもやるように眺めて笑っている。あの人達は私が女である事を知らないでいるらしい。二日目であるのに、まだ、一言も声をかけてはくれない。此船は、どこの港へも寄らないで、一直線に大阪へ急いで走っているのだから嬉しくて仕方がない。
料理人の人が「おはよう!」と声をかけてくれたので、私は昨夜蚊にせめられて寝られなかった事を話した。
「実は、そこは酒を積むところですから蚊が多いんですよ。今日は船員室でお寝みなさい。」
この料理人は、もう四十位だろうけれど、私と同じ位の背の高さなのでとてもおかしい。私を自分の部屋に案内してくれた。カーテンを引くと押入れのような寝室がある。その料理人は、カーネエションミルクをポンポン開けて私に色んなお菓子をこしらえてくれた。小さいボーイがまとめて私の荷物を運んで来ると、私はその寝室に楽々と寝そべった。一寸頭を上げると枕もとの円い窓の向うに大きな波のしぶきが飛んでいる。今朝の美しい機関士も、ビスケットをボリボリかみながら一寸覗いて通る。私は恥かしいので寝たふりをして顔をふせていた。肉を焼く美味しそうな油の匂いがしていた。
「私はね、外国航路の厨夫だったんですが、一度東京の震災を見度いと思いましてね、一と船休んで、こっちに連れて来て貰ったんですよ。」
大変丁寧な物云いをする人である。私は高い寝台の上から、足をぶらさげて、御馳走を食べた。
「後でないしょでアイスクリームを製ってあげますよ。」本当にこの人は好人物らしい、神戸に家があって、九人の子持ちだとこぼしていた。
船に灯がはいると、今晩は皆船底に集まってお酒盛りだと云う。料理人の人達はてんてこ舞いで忙がしい。――私は灯を消して、窓から河のように流れ込む潮風を吸っていた。フッと私は、私の足先に、生あたたかい人肌を感じた。人の手だ! 私は枕元のスイッチを捻った。鉄色の大きな手が、カーテンの外に引っこんで行くところである。妙に体がガチガチふるえてくる。どうしていいのかわからないので、私は大きなセキをした。
やがて、カーテンの外に呶鳴っている料理人の声がした。
「生意気な! 汚い真似をしよると承知せんぞ!」
サッとカーテンが開くと、料理庖丁のキラキラしたのをさげて、料理人のひとが、一人の若い男の背中を突いてはいって来た。そのむくんだ顔に覚えはないけれど、鉄色の手にはたしかに覚えがあった。何かすさまじい争闘が今にもありそうで、その料理庖丁の動く度びに、私は冷々とした思いで、私は幾度か料理人の肩をおさえた。
「くせになりますよッ!」
機関室で、なつかしいエンジンの音がしている。手をはなしながら、私は沈黙ってエンジンの音を聞いていた。
○
(二月×日)
ああ何もかも犬に食われてしまえである。寝転んで鏡を見ていると、歪んだ顔が少女のように見えてきて、体中が妙に熱っぽくなって来る。
こんなに髪をくしゃくしゃにして、ガランス
[60]のかった古い花模様の蒲団の中から乗り出していると、私の胸が夏の海のように泡立って来る。汗っぽい顔を、畳にべったり押しつけてみたり、むき出しの足を鏡に写して見たり、私は打ちつけるような激しい情熱を感じると、蒲団を蹴って窓を開けた。――思いまわせばみな切な、貧しきもの、世に疎きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足らぬ、果敢なく、味気なく、よりどころなく、頼みなきもの、捉えがたく、あらわしがたく、口にしがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮ずれば仏ならねど此世は寂し。――チョコレート色の、アトリエの煙を見ていると、白秋のこんな詩をふっと思い出すなり。まことに頼みがいなきは人の世かな。三階の窓から見降ろしていると、川端画塾
[61]のモデル女の裸がカーテンの隙間から見える。青ペンキのはげた校舎裏の土俵の日溜りでは、ルバシカの紐の長い画学生達が、これは又野放図もなく長閑な角力遊びだ。上から口笛を吹いてやると、カッパ頭が皆三階を見上げた。さあ、その土俵の上にこの三階の女は飛び降りて行きますよッって呶鳴ったら、皆喜んで拍手をしてくれるだろう――川端画塾の横の石屋のアパートに越して来て、今日でもう十日あまり、寒空には毎日チョコレート色のストーヴの煙があがっている。私は二十通あまりも履歴書を書いた。原籍を鹿児島県、東桜島、古里、温泉場だなんて書くと、あんまり遠いので誰も信用をしてくれないのです。だから東京に原籍を書きなおすと、非常に肩が軽くて、説明もいらない。
障子にバラバラ砂ッ風が当ると、下の土俵場から、画学生達はキャラメルをつぶてのように、三階へ投げてくれる。そのキャラメルの美味しかったこと……。隣室の女学生が帰って来る。
「うまくやってるわ!」
私のドアを乱暴に蹴って、道具をそこへほうり出すと、私の肩に手をかけて、
「ちょいと画描きさん、もっと
ほうってよ、も一人ふえたんだから……」と云った。
下からは遊びに行ってもいいかと云うサインを画学生達がしている。すると、この十七の女学生は指を二本出してみせた。
「その指何の事よ。」
「これ! 何でもないわ、いらっしゃいって云う意味にも取っていいし、駄目駄目って事だっていいわ……」
この女学生は不良パパと二人きりでこのアパートに間借りをしていて、パパが帰って来ないと私の蒲団にもぐり込みに来る可愛らしい少女だった。
「私のお父さんはさくらあらいこの社長なのよ。」
だから私は石鹸よりも、このあらいこをもらう事が多い。
「ね、つまらないわね、私月謝がはらえないので、学校を止してしまいたいのよ。」
火鉢がないので、七輪に折り屑を燃やして炭をおこす。
「階下の七号に越して来た女ね、時計屋さんの妾だって、お上さんがとてもチヤホヤしていて憎らしいったら……」
彼女の呼名はいくつもあるので判らないのだけれど、自分ではベニがねと云っていた。ベニのパパはハワイに長い事行っていたとかで、ビール箱でこしらえた大きいベッドにベニと寝ていた。何をやっているのか見当もつかないのだけれど、桜あらいこの空袋が沢山部屋へ持ちこまれる事がある。
「私んとこのパパ、あんなにいつもニコニコ笑ってるけれど、ほんとはとても淋しいのよ。あんたお嫁さんになってくれない。」
「馬鹿ね! ベニさんは、私はあんなお爺さんは大嫌いよ。」
「だってうちのパパはね、あなたの事を一人でおくのはもったいないって、若い女が一人でゴロゴロしている事は、とてもそんだってさア。」
三階だてのこのガラガラのアパートが、火事にでもならないかしら。寝転んで新聞を見ていると、きまって目の行くところは、芸者と求妻と、貸金と女中の欄が目についてくる。
「お姉さん! こんど常盤座へ行ってみない、三館共通で、朝から見られるわよ、私、歌劇女優になりたくって仕様がないのよ。」
ベニは壁に手の甲をぶっつけながら、リゴレット
[62]を鼻の先で器用に唄っていた。
夜。
松田さんが遊びに来る。私は、此人に十円あまりも借りがあって、それを払えないのがとても苦しいのだ。あのミシン屋の二畳を引きはらって、こんな貧乏なアパートに越して来たものの、一つは松田さんの親切から逃げたい為めであった。
「貴女にバナナを食べさせようと思って持って来たのです。食べませんか。」
此人の言う事は、一ツ一ツが何か思わせぶりな云いかたにきこえてくる。本当はいい人なのだけれども、けちでしつこくて、する事が小さい事ばかり、私はこんなひとが一番嫌いだ。
「私は自分が小さいから、結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」
いつもこう云ってあるのに、此人は毎日のように遊びに来る。さよなら! そう云ってかえって行くと、非常にすまない気持ちで、こんど会ったら優しい言葉をかけてあげようと思っていても、こうして会ってみると、シャツが目立って白いのなんかも、とてもしゃくだったりする。
「いつまでもお金が返せないで、本当にすまなく思っています。」
松田さんは酒にでも酔っているのか、わざとらしくつっぶして溜息をしていた。さくらあらいこの部屋へ行くのは厭だけれども、自分の好かない場違いの人の涙を見ている事が辛くなってきたので、そっとドアのそばへ行く。ああ十円と云う金が、こんなにも重苦しい涙を見なければならないのかしら、その十円がみんな、ミシン屋の小母さんのふところへはいっていて、私には素通りをして行っただけの十円だったのに……。セルロイド工場の事。自殺した千代さんの事。ミシン屋の二畳でむかえた貧しい正月の事。ああみんなすぎてしまった事だのに、小さな男の後姿を見ていると、同じような夢を見ている錯覚がおこる。
「今日は、どんなにしても話したい気持ちで来たんです。」
松田さんのふところには、剃刀のようなものが見えた。
「誰が悪いんです! 変なまねは止めて下さい。」
こんなところで、こんな好きでもない男に殺される事はたまらないと思った。私は私を捨てて行った島の男の事が、急に思い出されて来ると、こんなアパートの片隅で、私一人が辛い思いをしている事が切なかった。
「何もしません、これは自分に云いきかせるものなのです。死んでもいいつもりで話しに来たのです。」
ああ私はいつも、松田さんの優しい言葉には参ってしまう。
「どうにもならないんじゃありませんか、別れていても、いつ帰ってくるかも知れないひとがあるんですよ。それに私はとても変質者だから、駄目ですよ。お金も借りっぱなしで、とても苦しく思っていますが、四五日すれば何とかしますから……」
松田さんは立ちあがると、狂人のようにあわただしく梯子段を降りて帰って行ってしまった。――夜更け、島の男の古い手紙を出して読んだ。皆、これが嘘だったのかしらとおもう。ゆすぶられるような激しい風が吹く。詮ずれば、仏ならねどみな寂し。
(三月×日)
花屋の菜の花の金色が、硝子窓から、広い田舎の野原を思い出させてくれた。その花屋の横を折れると、産園××とペンキの板がかかっていた。何度も思いあきらめて、結局は産婆にでもなってしまおうと思って、たずねて来た千駄木町の××産園。歪んだ格子を開けると玄関の三畳に、三人ばかりの女が炬燵にゴロゴロしていた。
「何なの……」
「新聞を見て来たんですけども……助手見習生入用ってありましたでしょう。」
「こんなにせまいのに、ここではまだ助手を置くつもりかしら……」
二階の物干には、枯れたおしめが半開きの雨戸にバッタンバッタン当っていた。
「ここは女ばかりですから、遠慮はないんですのよ、私が方々へ出ますから、事務を取って戴けばいいんです。」
このみすぼらしい産園の主人にしては美しすぎる女が、私に熱い紅茶をすすめてくれた。階下の女達が、主人と云ったのがこの女のひとなのだろうか……高価な香水の匂いが流れていて、二階のこの四畳半だけは、ぜいたくな道具がそろっていた。
「実はね、階下にいる女達は、皆素性が悪くて、子供でも産んでしまえば、それっきり逃げ出しそうなのばかりなんですよ。だから今日からでも、私の留守居をしてもらいたいんですが、御都合いかが?」
あぶらのむちむちして白い柔かい手を頬に当てて、私を見ている此女の眼には、何かキラキラした冷たさがあった。話ぶりはいかにも親しそうにしていて、眼は遠くの方を見ている。そのはるかなものを見ている彼女の眼には空もなければ山も海も、まして人間の旅愁なんて何もない。支那人形の眼のような、冷々と底知れない野心が光っていた。
「ええ、今日からお手伝いをしてもよろしゅうございますわ。」
昼。
黒いボア
[63]に頬を埋めて女主人が出て行った。小女が台所で玉葱を油でいためている。
「一寸! 厭になっちゃうね、又玉葱にしょっぺ汁かい?」
「だって、これだけしか当てがって行かねえんだもの!……」
「へん! 毎日五十銭ずつ取ってて、まるで犬ころとまちがえてるよ。」
ジロジロ睨みあっている瞳を冷笑にかえると、彼女達は煙草をくゆらしながら、「助手さん! 寒いから汚いでしょうけど、ここへ来て当りませんか!」と云ってくれた。私は何か底知れない気うつさを感じながら襖をあけると、雑然とした三畳の玄関に、女が六人位も坐っていた。こんなに沢山の妊婦達はいったいどこから来たのかしら……。
「助手さん! 貴女はお国どこです?」
「東京ですの。」
「おやおや、そうでございますの、一寸こりゃごまめだわよ。」
女達は、あはあは笑いながら何か私のことに就いて話しあっていた。昼の膳の上は玉葱のいためたのに醤油をかけたのが出る。そのほかには、京菜の漬物に薄い味噌汁、八人の女が、猿のように小さな卓子を囲んで、箸を動かせる。
「子供だ子供だと云って、一日延ばしに私から金を取る事ばかり考えているのよ、そして栄養食ヴィタミンBが必要ですとさ、淫売奴のくせに!」
女給が三人、田舎芸者が一人、女中が一人、未亡人が一人と云う素性の女達が去ったあと、小女が六人の女たちの説明をしてくれた。
「うちの先生は、産婆が本業じゃないのよ、あの女の人達は、前からうちの先生のアレの世話になってんですの、世話料だけでも大したものでしょう。」
淫売奴、と云い散らした女の言葉が判ると、自分が一直線に落ち込んだような気がして急にフッと松田さんの顔が心に浮んで来た。不運な職業にばかりあさりつく私だ。もう何も云わないであの人と一緒になろうかしらとも思う。何でもない風をよそおい、玄関へ出る。
「どうしたの、荷物を持ったりして、もう帰るの……」
「ちょいと、先生がかえるまでは帰っちゃ駄目だわ……私達が叱られるもの、それにどんなもん持って行かれるか判らないし。」
何と云うすくいがたなき女達だろう。何がおかしいのか皆は目尻に冷笑を含んで、私が消えたら一どきに哄笑しそうな様子だった。いつの間に誰が来たのか、玄関の横の庭には、赤い男の靴が一足ぬいであった。
「見て御らんなさいな、本が一冊と雑記帳ですよ、何も盗りゃしませんよ。」
「だって沈黙って帰っちゃ、先生がやかましいよ。」
女中風な女が、一番不快だった。腹が大きくなると、こんなにも、女はひねくれて動物的になるものか、彼女達の眼はまるで猿のようだった。
「困るのは勝手ですよ。」
戸外の暮色に押されて花屋の菜の花の前に来ると、初めて私は大きい息をついたのだ。ああ菜の花の咲く古里。あの女達も、この菜の花の郷愁を知らないのだろうか……。だが、何年と、見きわめもつかない生活を東京で続けていたら、私自身の姿もあんな風になるかも知れないと思う。街の菜の花よ、清純な気持ちで、まっすぐに生きたいものだと思う。何とかどうにか、目標を定めたいものだ。今見て来た女達の、実もフタもないザラザラした人情を感じると、私を捨てて去って行った島の男が呪わしくさえ思えて、寒い三月の暮れた街に、呆然と私はたちすくんでいる。玉葱としょっぺ汁。共同たんつぼのような悪臭、いったいあの女達は誰を呪って暮しているのかしら……。
(三月×日)
朝、島の男より為替を送って来た。母のハガキ一通あり。――当にならない僕なんか当にしないで、いい縁があったら結婚をして下さい。僕の生活は当分親のすねかじりなのだ。自分で自分がわからない。君の事を思うとたまらなくなるが、二人の間は一生絶望状態だろう――。男の親達が、他国者の娘なんか許さないと云ったことを思い出すと、私は子供のように泣けて来た。さあ、この十円の為替を松田さんに返しましょう、そしてせいせいしてしまいたいものだ。
オトウサンガ、キュウシュウヘ、ユクノデ、ワタシハ、オマエノトコロヘ、ユクカモシレマセン、タノシミニ、マッテイナサイ――母よりの手紙。
せいいっぱい声をはりあげて、小学生のような気持ちで本が読みたい。
ハト、マメ、コマ、タノシミニマッテイナサイか!
郵便局から帰って来ると、お隣のベニの部屋には刑事が二人も来ていて何か探していた。窓を開けると、三月の陽を浴びて、画学生達が相撲を取ったり、壁に凭れたり、あんなに長閑に暮せたら愉しいだろう。私も絵を描いた事がありますよ。ホラ! ゴオガンだの、デイフイだの、好きなのですけれど、重苦しくなる時があります。ピカソに、マチィス、この人達の絵を見ていると、生きていたいと思います。
「そこのアパートに空間はありませんか?」
新鮮な朗かな青年達の笑い声がはじけると、一せいに男の眼が私を見上げた。その眼には、空や、山や海や、旅愁が、キラキラ水っぽく光って美しかった。
「二間あいてるんですか!」
私はベニの真似をして二本の指を出して見せた。ベニの部屋では、何か家宅捜索されているらしい。ビール箱のベッドを動かしている音がしている。
焦心。女は辛し。生きるは辛し。
○
(三月×日)
階下の台所に降りて行くと、誰が買って来たのか、アネモネの花の咲いた小さな鉢が窓ぶちに置いてあった。汚い台所の小窓に、スカートをいっぱい拡げた子供のような可愛い花の姿である。もう四月が来ると云うのに、雪でも降りそうなこの寒い空、ああ、今日は何か温かいものが食べたいものなり。
「お姉さんいますか?」
敷きっぱなしの蒲団の上で内職に白樺のしおりの絵を描いていると、学校から帰って来たベニがドアを開けてはいって来た。
「一寸! とてもいい仕事がみつかったわ。見てごらんなさいよ……」
ベニは小さく折った新聞紙を私の前に拡げると、指を差して見せた。
――地方行きの女優募集、前借可……。
「ね、いいでしょう、初め田舎からみっちり修行してかかれば、いつだって東京へ帰れるじゃないの、お姉さんも一緒にやらない。」
「私? 女優って、あんまり好きな商売じゃないもの、昔、少し素人芝居をやった事があるけど、私の身に添わないのよ、芝居なんて……時に、あんたがそんな事をすれば、パパが心配しないかしら?」
「大丈夫よ、あんな不良パパ、此頃は、七号室のお妾さんにあらいこをやったりなんかしてるわ。」
「そんな事はいいけど、パパも刑事が来たりなんかしちゃいけないわね。」
お昼、ベニの履歴書を代筆してやる。下の一番隅っこの暗い部屋を借りている大工さんの子供が、さつま芋を醤油で炊いたのを持って来てくれた。
ベニのパパが紹介をしてくれた白樺のしおり描きはとても面白い仕事だ。型を置いては、泥絵具をベタベタ塗りさえすればいいのである。クロバーも百合もチュウリップも三色菫も御意のままに、この春の花園は、アパートの屋根裏にも咲いて、私の胃袋を済度してくれます。激しい恋の思い出を、激しい友情を、この白樺のしおり達はどこへ持って行くのだろうか……三畳の部屋いっぱい、すばらしいパラダイスです。
夜。
春日町の市場へ行って、一升の米袋を買って来る。階下まで降りるのがめんどくさいので、三階の窓でそっと炊いた。石屋のお上さんは、商売物の石材のように仲々やかましくて朝昼晩を、アパートを寄宿舎のようにみまわっているのだ。四十女ときたら、爪の垢まで人のやることがしゃくにさわるのかも知れない。フン、こんな風来アパートなんて燃えてなくなれだ! 出窓で、グズグズ御飯を炊いていると、窓下の画塾では、夜学もあるのか、カーテンの蔭から、コンテ
[64]を動かしている女の人の頭が見える。自分の好きな勉強の出来る人は羨ましいものだ。同じ画描きでも私のは個性のないペンキ屋さんです。セルロイドの色塗りだってそうだったし……。明日は、いいお天気だったら、蒲団を干してこのだらしのない花園をセイケツにしましょう。
(三月×日)
昨夜、夜更けまで内職をしたので、目が覚めたのが九時ごろだった。蒲団の裾にハガキが二通来ている。病気をして入院をしていると云う松田さんのと、来る×日、万世橋駅にお出向きを乞う、白いハンカチを持っていて下さると、好都合ですと云った風な私宛のハガキだった。心当りが少しもないので、色々考えた末、不図、ベニの事を思いついた。パパにも知れないように、一人者の私の名前を利用したのかもしれないと思う。手に白いハンカチを持っていて下されば好都合ですか……淫売にでも叩きうられるのが関の山かも知れない。かつて、本郷の街裏で見た、女アパッシュ
[65]の群れ達の事が胸に浮んできた。ベニは粗野で、生のままの女だから、あんな風な群れに落ちればすさまじいものだと思う。
今日は風強し、上野の桜は咲いたかしら……桜も何年と見ないけれど、早く若芽がグングン萌えてくれるといい。夕方ベニのパパが街から帰ってくる。
「林さん! 坊やはどこへ行きましたでしょうね。」
「さあ、何だか、今日は方々を歩くんだと云ってましたが……」
「しょうがないな、寒いのに。」
「ベニちゃんは、もう学校を止したんですか、小父さん。」
外套をぬぎぬぎ私のドアをあけたベニのパパは、ずるそうに笑いながら、
「学校は新学期から止さしますよ。どうも落ちつかない子供だから……」
「おしいですわね、英語なんか出来たんですのに……」
「母親がないからですよ、一ツ林さんマザーになって下さい。」
「小父さんと年をくらべるより、ベニちゃんとくらべた方が早いんですからね。いやアーよ。」
「だってお半長右衛門
[66]だってあるじゃありませんか。」
私はいやらしいので沈黙ってしまった。こんな仕事師にかかっては口を動かすだけ無駄かも知れない。やがてベニが、鼻を真紅にして帰って来る。
「お姉さん! うどん玉、沢山買って来たから上げるわ。」
「ええありがとう、パパ早く帰って来たわよ。」
ベニは片目をとじてクスリと笑うと、立ちあがって、壁越しに「パパ!」と呼んだ。
「ハガキが来ていてよ、白いハンカチを持ってって書いてあるわ、香水ぐらいつけて行くといいわよ……」
「あらひどい!」
七号室ではお妾さんが三味線を鳴らしている。河のそばを子供達が、活動芝居をいましめてなんて、日曜学校の変なうたをうたって通った。仕事、二百六十枚出来る。松田さん、どんな病気で入院をしているのかしら、遠くから考えると、涙の出るようないいひとなのだけれども、会うとムッとする松田さんの温情主義
[67]、こいつが一番苦手なのだ。その内、何か持って見舞いに行こうと思う。夜、竜之介の「戯作三昧」を読んだ。魔術
[68]、これはお伽噺のようにセンチメンタルなものだった。印度人の魔術、日本の竹薮と雨の夜か……。霧つよく、風が静かになる、ベニは何か唄っている。
(四月×日)
ベニの帰らない日が続く。
「別に心配してくれるなって、坊やからハガキが来ましたが、もう四日ですからね。」
ベニのパパは心配そうに目をしょぼしょぼさせていた。
今日は陽気ないいお天気である。もう病院を出たかも知れないと思いながら、植物園裏の松田さんの病院へ行った。そこは外科医院だった。工場のかえり、トラックにふれたのだと云って、松田さんは肩と足を大きくほうたいをしていた。
「三週間位でなおるんだそうです。根が元気だから何でもないんです。」
松田さんは、由井正雪みたいに髪を長くしていて、寒気がする程、みっともない姿だった。昔昔、毒草と云う映画を見たけれど、あれに出て来るせむし男にそっくりだと思った。ちょいとした感傷で、此人と一緒になってもいいと云うことを、よく考えた事だが厭だった。外の事でも真実は返せる筈だ、蜜柑をむいてあげる。
病院から帰って来ると、ベニが私の万年床に寝ころがっていた。帯も足袋もぬぎ散らかしている。ベニは果敢なげに天井を見ていた。疲れているようだ。彼女は急速度に変った女の姿をしている。
「パパには沈黙っててね。」
「御飯でもたべる?」
ベニは自分の部屋には誰もいないのに、妙に帰るのをおっかながっていた。
夕刊にはもう桜が咲いたと云うニュースが出ていた。尾道の千光寺の桜もいいだろうとふっと思う。あの桜の並木の中には、私の恋人が大きい林檎を噛んでいた。海沿いの桜並木、海の上からも、薄紅い桜がこんもり見えていた。私は絵を描くその恋人を大変恋していたのだけれど、私が早い事会いに行けないのを感違いして、そのひとは町の看護婦さんと一緒になってしまった。ベニのように、何でもガムシャラでなくてはおいてけぼりを喰ってしまう。桜はまた新らしい姿で咲き始めている。――やがてベニはパパが帰って来たので、帯と足袋を両手にかかえると、よその家へ行くようにオズオズ帰って行った。別に呶鳴り声もきこえては来ない。あのパパは、案外ケンメイなのかも知れないと思う。ベニが捨てて行った紙屑を開いてみたら、宿屋の勘定がきだった。
十四円七十三銭也。八ツ山ホテル、品川へ行ったのかしら、二人で十四円七十銭、しかもこれが四日間の滞在費、八ツ山ホテルと云う歪んだ風景が目に浮んでくる。
(四月×日)
ひからびた、鈴蘭もチュウリップも描き飽きてしまった。白樺のしおりを鼻にくっつけると、香ばしい山の匂いがする。山の奥深いところにこの樹があるのだと云うけれど、その葉っぱはどんなかたちをしているのかしら……粛々としたその姿を胸に描きながら、私は毎日こうして、泥絵具をベタベタ塗りたくっているのだ。
軒一つの境いで、風景や静物や裸体を描いている画学生と、型の中へ泥絵具を流してはそれで食べている女と、――新聞を見ると、アルスの北原
[69]という人の家で女中が欲しいと出ている、勉強をさせてくれるかしらとも思う、もっとうんと叩かれたい。方針のない生活なんて、本当はたまらないのだから……明日は行ってみよう。午後、ベニが風呂へ行った留守に、白いハンカチの男が私をたずねて来た。ベニはどんな風に云っているのかしら、階下へ降りてゆくと、頭を油で光らせて、眼鏡をかけた男がつったっていた。「私がそうですが。」部屋に通ると、背の高い男はすぐひざを組んで煙草に火をつけ出した。
「ホウ絵をお描きになるんですね。」
「いいえ内職ですのよ。」
およそこんな男は大きらいだ。此男の眼の中には、人を馬鹿にしたところがある。内職をする女の姿が、チンドン屋みたいに写っているのかも知れない。
「昨夜、信越の旅から来たのですが、東京はあたたかですね。」
「そうですか。」
新劇はとてもうけると云う話だった。ベニ、外出先からすぐ帰って来る。彼女は女らしく、まるで鳴らないほおずきみたいに円くかしこまって返事をしていた。
「貴女も、芝居をなすったそうですが、芝居の方を少し手伝って戴けませんか、女優が足りなくって弱っているんです。」
「女優なんて、とても柄じゃアありませんよ。自分だけの事でもやっと生きてますのに、舞台に立つなんて私にはメンドクサクてとても出来ません。」
「仲々貴女は面白い事を云いますね。」
「そうですかね。」
「これから、しょっちゅう遊びに来させてもらいます。いいですか。」
十七八の娘って、どうしてこうシンビ眼がないのだろう。きたない男の前で、ベニはクルクルした眼をして沈黙っているのだ。夜、ベニは私の部屋に泊ると云う、パパは帰って来ない。あまり淋しいのでチエホフの「かもめ」
[70]を読んだ……。
ベニは寝床の中から「面白いわね。」と云っている。
「自分で後悔しなきゃ、何やってもいいけれど、取るにたらないような感傷に溺れて、取りかえしのつかない事になるのは厭ね、ベニちゃんは、とても生一本で面白い人だけれど、案外貴女の生一本は内べんけいじゃなかったの、色んな事に目が肥えるまでは用心はした方がいいと思ってよ。」
彼女は薄っすらと涙を浮べて、まぶしそうに電気を見つめていた。
「だって逃げられなかったのよ。」
「八ツ山ホテルってところでしょう。」
「うん。」
ベニはけげんな顔をしていた。
「男の払った勘定書を持って来るのいやだわ、赤ちゃんみたいねえ、――十四円七十三銭って、こんなもの落してみっともないわよ。」
「あの男、花柳はるみを知ってるだの何だのってでたらめばかり云うのよ、からかってやるつもりだったの……」
「貴女がからかわれたんでしょう、御馳走さま。」
パパのいないベニは淋しそうだった。河水の音を聞いて、コドクを感じたものか、ベニは指を噛んで泣いている。
(四月×日)
朝。
東中野と云うところへ新聞を見て行ってみた。近松さんの家にいた事をふっと思い出した。こまめそうな奥さんが出てくる。お姑さんが一人ある由。
「別に辛い事もないけれど、風呂水がうちじゃ大変なんですよ。」
暗い感じの家だった。北原白秋氏の弟さんの家にしては地味な構えである。行ってみる間は何か心が燃えながら、行ってみるとどかんと淋しくなる気持ちはどうした事だろう。所詮、私と云う女はあまのじゃくかも知れないのだ。柳は柳。風は風。
ベニのパパ、詐欺横領罪で引っぱられて行ったとの事だった。帰ってみると、一人の刑事が小さな風呂敷包みをこしらえていた。ベニは呆然としてそれを見ている。アパート中の内儀さん達が、三階のベニの部屋の前に群れてべちゃくちゃ云っている。人情とは、なぜかくも薄きものか、部屋代はとるだけ取って、別にこのアパートには迷惑も掛けていないと云うのに、あらゆる末梢的な事を大きくネツゾウして、お上さん達は口々に何かつぶやいているのだ。刑事が帰って行くと、台所はアパートじゅうの女が口から泡を飛ばしているようだった。お妾さんは平然と三味線を弾いている、スッとした女なり。
「お姉さん! 私金沢へ帰るのよ、パパからの言伝けなの、そこはねえ、皆他人なんですのよ、だってまだ見ない親類なんて、他人より困るわねえ、本当はかえりたくないのよ。」
「そうね、こっちにいられるといいのにね。」
「アパートじゃ、じき立ちのいてくれって云うし……」
夜、ベニと貧しい別宴を張った。
「忘れないわ、二三年あっちでくらして、ぜひ東京へ来ようと思うの、田舎の生活なんて見当がつかないわ。」二人は、時間を早めに上野駅へ行く。
「桜でも見に行きましょうか?」
二人は公園の中を沈黙って歩いている。こんなに肩をくっつけて歩いている女が、もう二時間もすれば金沢へ行く汽車の中だなんて、本当にこのベニコがみじめでありませんようにと私は神様に祈っている。私はオールドローズの毛糸の肩掛をベニの肩にかけてやった。
「まだ寒いからこれをあげるわ。」
上野の桜、まだ初々たり。
○
(七月×日)
ちっとも気がつかない内に、私は脚気になってしまっていて、それに胃腸も根こそぎ痛めてしまったので、食事もこの二日ばかり思うようになく、魚のように体が延びてしまった。薬も買えないし、少し悲惨な気がしてくる。店では夏枯れなので、景気づけに、赤や黄や紫の風船玉をそろえて、客を呼ぶのだそうである――。じっと売り場に腰を掛けていると、眠りが足らないのか、道の照りかえしがギラギラ目を射て頭が重い。レースだの、ボイルのハンカチだの、仏蘭西製カーテンだの、ワイシャツ、カラー、店中はしゃぼんの泡のように白いものずくめである。薄いものずくめである。閑散な、お上品なこんな貿易店で、日給八十銭の私は売り子の人形だ。だが人形にしては汚すぎるし、腹が減りすぎる。
「あんたのように、そう本ばかり読んでいても困るよ。お客様が見えたら、おあいそ位云って下さい。」
酸っぱいものを食べた後のように、歯がじんと浮いてきた。本を読んでいるんじゃないんです。こんな婦人雑誌なんか、私の髪の毛でもありはしない。硝子のピカピカ光っている鏡の面を一寸覗いて御覧下さい。水色の事務服と浴衣が、バックと役者がピッタリしないように、何とまあおどけた厭な姿なのでしょう……。顔は女給風で、それも海近い田舎から出て来たあぶらのギラギラ浮いた顔、姿が女中風で、それも山国から来たコロコロした姿、そんな野生の女が、胸にレースを波たたせた水色の事務服を着ているのです。ドミエの漫画ですよこれは……。何とコッケイな、何とちぐはぐな牝鶏の姿なのでしょう。マダム・レースやミスター・ワイシャツや、マドモアゼル・ハンカチの衆愚に、こんな姿をさらすのが厭なのです。それに、サーヴィスが
[C]下手だおっしゃる貴方の目が、いつ私をくびきるかも判らないし、なるべく、私と云う売り子に関心を持たれないように、私は下ばかりむいているのです。あまりに長いニンタイは、あまりに大きい疲れを植えて、私はめだたない人間にめだたない人間に訓練されていますのよ。あの男は、お前こそめだつ人間になって闘争しなくちゃ嘘だと云うのです。あの女は、貴女はいつまでもルンペンではいけないと云うのです。そして勇ましく戦っているべき、彼も彼女もいまはどこへ行っているのでしょう。彼や彼女達が、借りものの思想を食いものにして、強権者になる日の事を考えると、ああそんなことはいやだと思う。宇宙はどこが果てなんだろうと考えるし、人生の旅愁を感じる。歴史は常に新らしく、そこで燃えるマッチがうらやましくなった。
夜――九時。省線を降りると、道が暗いのでハーモニカを吹きながら家へ帰った。詩よりも小説よりも、こんな単純な音だけれど音楽はいいものです。
(七月×日)
青山の貿易店も、いまは高架線のかなたになった。二週間の労働賃金十一円也、東京での生活線なんてよく切れたがるもんだ。隣のシンガーミシンの生徒? さんが、歯をきざむように、ギイギイとしっきりなしにミシンのペダルを押している。毎日の生活断片をよくうったえる秋田の娘さんである。古里から十五円ずつ送金してもらって、あとはミシンでどうやら稼いでいる、縁遠そうな娘さんなり。いい人だ。彼女に紹介状をもらって、新興女性新聞社に行く。本郷の追分で降りて、ブリキの塀をくねくね曲ると、緑のペンキの脱落した、おそろしく頭でっかちな三階建の下宿屋の軒に、螢程の小さい字で社名が出ていた。まるで心天を流すよりも安々と女記者になりすました私は、汚れた緑のペンキも最早何でもないと思った。
昼。
下宿の中食をもらって舌つづみを打つと、女記者になって二三時間もたたない私は、鉛筆と原稿紙をもらって談話取りだ。四畳半に尨大な事務机が一ツ、薄色の眼鏡をかけた中年の社長と、新興女性新聞発行人の社員が一人、私を入れて三人の新興女性新聞。チャチなものなり。又、生活線が切れるんじゃないかと思ったけれど、兎に角私は街に出てみたのだ。訪問先は秋田雨雀氏
[71]のところだった。此頃の御感想は……私はこの言葉を胸にくりかえしながら、雑司ケ谷の墓地を抜けて、鬼子母神のそばで番地をさがした。本郷のごみごみした所からこの辺に来ると、何故か落ちついた気がしてくる。一二年前の五月頃、漱石の墓にお参りした事もあった……。秋田氏は風邪を引いていると云って鼻をかみながら出ていらした。まるで少年のようにキラキラした眼、やさしそうな感じの人である。お嬢さんは千代子さんと云って、初めて行った私を十年のお友達のように話して下すった。厚いアルバムが出ると、一枚一枚繰って説明して下さる。この役者は誰、この女優は誰、その中に別れた男のプロマイドも張ってあった。
「女優ってどんなのが好きですか、日本では……」
「私判らないけど、夏川静江
[D]なんが好きだわ。」
私はいまだかつて私をこんなに優しく遇してくれた女の人を知らない。二階の秋田さんの部屋には黒い手の置物があった。高村光太郎さんの作で、有島武郎さんが持っていらっしたのだとかきいた。部屋は実に雑然と古本屋の観があった。談話取りが談話がとれなくて、脂汗を流していると、秋田さんは二三枚すらすらと私のノートへ手を入れて下すった。お寿司を戴く。来客数人あり。暮れたのでおくって戴く。赤い月が墓地に出ていた。火のついた街では氷を削るような音がしている。
「僕は散歩が好きですよ。」
秋田氏は楽し気にコツコツ靴を鳴らしている。
「あそこがすずらんと云うカフェーですよ。」
舞台の様なカフェーがあった。変ったマダムだって誰かに聞いたことがある。秋田氏はそのまま銀座へ行かれた。
私は何か書きたい興奮で、沈黙って江戸川の方へ歩いて行った。
(七月×日)
階下の旦那さんが二日程国へ行って来ますと云って、二階の私達へ後の事を頼みに今朝上ってみえたのに、社から帰ってみると、隣のミシンの娘さんが、帯をときかけている私を襖の間から招いた。
「あのね一寸!」
低声なので、私もそっといざりよると、
「随分ひどいのよ、階下の奥さんてば外の男と酒を飲んでるのよ……」
「いいじゃあないの、お客さんかも知れないじゃないですか。」
「だって、十八やそこいらの女が、あんなにデレデレして夫以外の男と酒を飲めるか知ら……」
帯を巻いて、ガーゼの浴衣をたたんで、下へ顔洗いに行くと、腰障子の向うに、十八の花嫁さんは、平和そうに男と手をつなぎあって転がっていた。昔の恋人かも知れないと思う。只うらやましいだけで、ミシンの娘さんのような興味もない。夜は御飯を炊くのがめんどうだったので、町の八百屋で一山十銭のバナナを買って来てたべた。女一人は気楽だとおもうなり。糊の抜けた三畳づりの木綿の蚊帳の中に、伸び伸びと手足を投げ出してクープリンの「ヤーマ」
[72]を読む。したたか者の淫売婦が、自分の好きな男の大学生に、非常な清純な気持ちを見せる。尨大な本だ、頭がつかれる。
「一寸起きてますか?」
もう十時頃だろうか、隣のシンガーミシンさんが帰って来たらしい。
「ええまだねむれないでいます。」
「一寸! 大変よ!」
「どうしたんです。」
「呑気ねッ、階下じゃ、あの男と一緒に蚊帳の中へはいって眠っててよ。」
シンガーミシン嬢は、まるで自分の恋人でも取られたように、眼をギロギロさせて、私の蚊帳にはいって来た。いつもミシンの唄に明け暮れしている平和な彼女が、私の部屋になんかめったにはいって来ない行儀のいい彼女が、断りもしないで私の蚊帳へそっともぐり込んで来るのだ。そして大きい息をついて、畳にじっと耳をつけている。
「随分人をなめているわね、旦那さんがかえって来たら皆云ってやるから、私よか十も下なくせに、ませてるわね……」
ガードを省線が、滝のような音をたてて走った。一度も縁づいた事のない彼女が、嫉妬がましい息づかいで、まるで夢遊病者のような変な狂態を演じようとしている。
「兄さんかも知れなくってよ。」
「兄さんだって、一ツ蚊帳には寝ないや。」
私はなんだか淋しく、血のようなものが胸に込み上げて来た。
「眼が痛いから電気を消しますよ。」と云うと、彼女はフンゼンとして沈黙って出ていった。やがて梯子段をトントン降りて行ったかと思うと、「私達は貴女を主人にたのまれたのですよ。こんな事知れていいのですかッ!」と云う声がきこえている。切れ切れに、言葉が耳にはいってくる。一度も結婚をしないと云う事は、何と云う怖ろしさだ。あんなにも強く云えるものかしら……。私は蒲団を顔へずり上げて固く瞼をとじた。何も彼もいやいやだ。
(七月×日)
――ビョウキスグカエレタノム
母よりの電報。本当かも知れないが、また嘘かも知れないと思った。だけど嘘の云えるような母ではないもの……、出社前なので、急いで旅支度をして旅費を借りに社へ行く。社長に電報をみせて、五円の前借りを申し込むと、前借は絶対に駄目だと云う。だが私の働いた金は取ろうと思えば十五円位はある筈なのだ。不安になって来る。廊下に置いたバスケットが妙に厭になってきた。大事な時間を「借りる!」と云う事で、それも正当な権利を主張しているのに、駄目だと云われて悄気てしまう。これは、こんなところでみきわめをつけた方がいいかも知れない。
「じゃ借りません! その代り止めますから今迄の報酬を戴きます。」
「自分で勝手に止されるのですから、社の方では、知りませんよ。満足に勤めて下すっての報酬であって、まだ十二三日しかならないじゃありませんか!」
黄色にやけたアケビのバスケットをさげて、私は又二階裏へかえって来た。ミシン嬢は、あれから階下の細君と気持ちが凍って、引っ越しをするつもりでいたらしかったが、帰って見ると、どこか部屋がみつかったらしく、荷物を運び出している処だった。彼女の唯一の財産である、ミシンだけが、不恰好な姿で、荷車の上に乗っかっていた。全ては
ああ空しである。
(七月×日)
駅には、山や海への旅行者が白い服装で涼し気だった。下の細君に五円借りた。尾道まで七円くらいであろう。やっと財布をはたいて切符を買うと、座席を取ってまず指を折ってみた。何度目の帰郷だろうと思う。
露草の茎
粗壁に乱れる
万里の城
いまは何かしらうらぶれた感じが深い。昔つくった自分の詩の一章を思い出した。何もかも厭になってしまうけれど、さりとて、自分の世界は道いまだ遠しなのだ。この生ぐさきニヒリストは腹がなおると、じき腹がへるし、いい風景を見ると呆然としてしまうし、良い人間に出くわすと涙を感じるし、困った奴なり。バスケットから、新青年の古いのを出して読んだ。面白き笑話ひとつあり――。
――囚人曰く、「あの壁のはりつけの男は誰ですか?」
――宣教師答えて、「我等の父キリストなり。」
囚人が出獄して病院の小使いにやとわれると、壁に立派な写真が掛けてある。
――囚人、「あれは誰のです?」
――医師、「イエスの父なり。」
囚人、淫売婦を買って彼女の部屋に、立派な女の写真を見て――
――囚人、「あの女は誰だね。」
――淫売婦、「あれはマリヤさ、イエスの母さんよ。」
そこで囚人嘆じて曰く、子供は監獄に父親は病院に、お母さんは淫売婦にああ――。私はクツクツ笑い出してしまった。のろい閑散な夜汽車に乗って退屈していると、こんなにユカイなコント
[73]がめっかった。眠る。
(七月×日)
久し振りで見る高松の風景も、暑くなると妙に気持ちが焦々してきて、私は気が小さくなってくる。どことなく老いて憔悴している母が、第一番に云った言葉は、「待っとったけん! わしも気が小さくなってねえ……」そう云って涙ぐんでいた。今夜は海の祭で、おしょうろ流し
[74]の夜だ。夕方東の窓を指さして、母が私を呼んだ。
「可哀そうだのう、むごかのう……」
窓の向うの空に、朝鮮牛がキリキリぶらさがっている。鰯雲がむくむくしている波止場の上に、黒く突き揚った船の起重機、その起重機のさきには一匹の朝鮮牛が、四足をつっぱって、哀れに唸っている。
「あんなのを見ると、食べられんのう……」
雲の上にぶらさがっているあの牛は、二三日の内には屠殺されてしまって、紫の印を押されるはずだ。何を考えているのか知ら……。船着場には古綿のような牛の群れが唸っていた。
鰯雲がかたくりのように筋を引いてゆくと、牛の群れも何時か去ってゆき、起重機も腕を降ろしてしまった。月の仄かな海の上には、もう二ツ三ツおしょうろ船が流れていた。火を燃やしながら美しい紙船が、雁木を離れて沖の方へ出ていた。港には古風な伝馬船が密集している。そのあいだを火の紙船が月のように流れて行った。
「牛を食ったりおしょうろを流したり、人間も矛盾が多いんですねお母さん。」
「そら人間だもん……」
母は呆んやりした顔でそんな事を云っている。
○
(八月×日)
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提燈のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は爽かな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。
貧しい私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時は、町はずれに大きい火事があったけれど……。「ねえ、お母さん! 私達の東京行きに火が燃えるのは、きっといい事がありますよ。」しょぼしょぼして隠れるようにしている母達を、私はこう云って慰めたものだけれど……だが、あれから、あしかけ六年になる。私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしているのだ。気の弱い両親をかかえた私は、当もなく、あの雑音のはげしい東京を放浪していたのだけれど、ああ今は旅の古里である尾道の海辺だ。海沿いの遊女屋の行燈が、椿のように白く点点と見えている。見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった海辺の朽ちた昔の家が、六年前の平和な姿のままだ。何もかも懐しい姿である。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がしてならない。
尾道を去る時の私は肩上げもあったのだけれど、今の私の姿は、銀杏返し、何度も水をくぐった疲れた単衣、別にこんな姿で行きたい家もないけれど、兎に角もう汽車は尾道にはいり、肥料臭い匂いがしている。
船宿の時計が五時をさしている。船着場の待合所の二階から、町の燈火を見ていると、妙に目頭が熱くなってくるのだった。訪ねて行こうと思えば、行ける家もあるのだけれど、それもメンドウクサイことなり。切符を買って、あと五十銭玉一ツの財布をもって、私はしょんぼり、島の男の事を思い出していた、落書だらけの汽船の待合所の二階に、木枕を借りて、つっぷしていると、波止場に船が着いたのか、汽笛の音がしている。波止場の雑音が、フッと悲しく胸に聞えた。「因の島行きが出やすんで……」歪んだ梯子段を上って客引が知らせに来ると、陽にやけた縞のはいった蝙蝠と、小さい風呂敷包みをさげて、私は波止場へ降りて行った。
「ラムネいりやせんか!」
「玉子買うてつかアしゃア。」
物売りの声が、夕方の波止場の上を行ったり来たりしている。紫色の波にゆれて因の島行きのポッポ船が白い水を吐いていた。漠々たる浮世だ。あの町の灯の下で、「ポオルとヴィルジニイ」
[75]を読んだ日もあった。借金取りが来て、お母さんが便所へ隠れたのを、学校から帰ったままの私は、「お母さんは二日程、糸崎へ行って来る云うてであった……」と嘘をついて母が、佗し気にほめてくれた事もあった。あの頃、町には城ケ島の唄や、沈鐘の唄が流行っていたものだ。三銭のラムネを一本買った。
夜。
「皆さん、
はぶい着きやんしたで!」
船員がロープをほどいている。小さな船着場の横に、白い病院の燈火が海にちらちら光っていた。この島で長い事私を働かせて学校へはいっていた男が、安々と息をしているのだ。造船所で働いているのだ。
「此辺に安宿はありませんでしょうか。」
運送屋のお上さんが、私を宿屋まで案内して行ってくれた。糸のように細い町筋を、古着屋や芸者屋が軒をつらねている。私は造船所に近い山のそばの宿へついた。二階の六畳の古ぼけた床の上に風呂敷包みをおくと、私は雨戸を開けて海を眺めた。明日は尋ねて行ってみようとおもう。私は財布を袂に入れると、ラムネ一本のすきばらのまま潮臭い蒲団に長く足を延ばした。耳の奥の方で、蜂の様なブンブンと云う喚声があがっている。
(八月×日)
枕元をごそごそと水色の蟹が這っている。町にはストライキの争議があるのだそうだ。
「会いに行きなさるというても、大変でごじゃんすで、それよりも、社宅の方へおいでんさった方が……」女中がそう云っている。私は心細くかまぼこを噛んでいた。社員達は全部書類を持って倶楽部へ集まっていると云うことだ。食事のあと、私はぼんやりと戸外へ出てみた。万里の城のように、うねうねとコンクリートの壁をめぐらしたドックの建物を山の上から見下ろしていると、旗を押したてて通用門みたいなところに黒蟻のような職工の群れが唸っていた。山の小道を子供を連れたお上さんやお婆さんが、点々と上って来る。六月の海は銀の粉を吹いて光っているし、縺れた樹の色は、爽かな匂いをしていた。
「尾道から警官がいっぱい来たんじゃと。」
髪を後になびかせた若いお上さん達が、ドックを見下ろして話しあっていた。
「しっかりやれッ!」
「負けなはんな!」
「オーイ……」真昼間の、裸の職工達の肌を見ていると、私も両手をあげて叫んだ。旅の古里の言葉で「しっかりやってつかアしゃア。」
「御亭主があそこにおってんな? うちの人は、こうなったら、もう死んでもええつもりでやる云いよりやんした。」
私はわけもなく涙があふれていた。事務員をしたりしてあんなにつくした私の男が、大学を出ると、造船所の社員になって、すました生活をしている、ここから見ていると、あんな門位はすぐ崩れてしまうようにもろく見えているのに……。
「職工は正直でがんすけん、皆体で打っつかって行きやんさアね。」
とうとう門が崩れた。蜂が飛ぶように黒点が散った。光った海の上を、小舟が無数に四散して行っている。
潮鳴の音を聞いたか!
茫漠と拡がった海の上の叫喚を聞いたか!