Title: Ukigumo
Author: Hayashi, Fumiko
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Title: Ukigumo
Author: Fumiko Hayashi
Rokko shuppansha Tokyo 1951 Source copy consulted: Georgetown University, call number: PL 829 .A8U6 Prepared for the University of Virginia Library Electronic Text Center.

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Title: Library of Congress Subject Headings
1951 Japanese fiction prose feminine LCSH 11/2002
corrector Sachiko Iwabuchi
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理性が萬物の根據でありそして萬物が
理性であるならば
若し理性を棄て理性を憎むことが不幸
の最大なものであるならば‥‥。
――シエストフ――裝幀 岡 鹿之助




浮雲

 なるべく、夜更けに着く汽車を選びたいと、三日間の收容所を出ると、わざと、敦賀の町で、一日ぶらぶらしてゐた。六十人餘りの女達とは收容所で別れて、税關の倉庫に近い、荒物屋兼お休み處といつた、家をみつけて、そこで獨りになつて、ゆき子は、久しぶりに故國の疊に寢轉ぶことが出來た。

 宿の人々は親切で、風呂をわかしてくれた。少人數で、風呂の水を替へる事もしないとみえて、濁つた湯だつたが、長い船旅を續けて來たゆき子には、人肌の浸みた、白濁した湯かげんも、氣持ちがよく、風呂のなかの、薄暗い煤けた窓にあたる、しやぶしやぶした みぞれまじりの雨も、ゆき子の孤獨な心のなかに、無量な氣持ちを誘つた。風も吹いた。汚れた硝子窓を開けて、鉛色の雨空を見上げてゐると、久しぶりに見る、故國の貧しい空なのだと、ゆき子は呼吸を殺して、その、窓の景色にみとれてゐる。小判型の風呂のふちに兩手をかけると、左の腕に、みゝずのやうに盛りあがつた、かなり大きい刀傷が、ゆき子をぞつとさせる。そのくせ、その刀傷に湯をかけながら、ゆき子はなつかしい思ひ出の數々を瞑想して、今日からは、どうにもならない、息のつまるやうな生活が續くのだと、觀念しないではなかつた。退屈だつた。潮時を外づした後は、退屈なものなのだと、ゆき子は汚れた手拭ひで、ゆつくり躯を洗つた。煤けた狹い風呂場のなかで、躯を洗つてゐる事が、嘘のやうな氣がした。肌を刺す、冷い風が、窓から吹きつけて來る。長い間、かうした冷い風の觸感を知らなかつただけに、ゆき子は、季節の飛沫を感じた。湯から上つて部屋へ戻ると、赤茶けた疊に、寢床が敷いてあり、粗末な箱火鉢には炎をたてゝ、火が熾つてゐた。火鉢のそばには、盆が出てゐて、小さい丼いつぱいにらつきようが盛つてある。ぐらぐらと煮えこぼれてゐるニュームの やかんを取つて、茶を淹れる。ゆき子はらつきようを一つ頬張つた。障子の外の廊下を、二三人の女の聲で、どやどやと隣りの部屋へ這入つて行く氣配がした。ゆき子はきゝ耳をたてた。襖一重へだてた部屋では、一緒の船だつた、藝者の幾人かの聲がしてゐる。

「でも、歸りさへすればいゝンだわ。日本へ着いた以上は、こつちの躯よ、ねえ‥‥」

「本當に寒くて心細いわ。‥‥あたい、冬のもの、何も持つてやしないもンね。これから、まづ身支度が大變だよ」

 口ほどにもなく、案外陽氣なところがあつて、何がをかしいのか、くすくす笑つてばかりゐる。

 ゆき子は所在なく寢床へ横になつて、暫く呆んやりしてゐたが、氣が滅入つて、くさくさして仕方がなかつた。それに、何時までたつても、隣室の騒々しさはやまなかつた。べとついた古い敷布に、ほてつた躯を投げ出してゐるのは、氣持ちのいゝことであつたが、これからまた、長い汽車旅につくといふことは、心細くもあつた。肉親の顔を見るのも、いまではさして魅力のある事ではなくなつてゐる。ゆき子は、このまゝまつすぐ東京へ出て、富岡を尋ねてみようかとも思つた。富岡は運よく五月に海防を發つてゐた。先へ歸つて、すべての支度をして、待つてゐると約束はしてゐたのだが、日本へ着いてみて、現實の、この寒い風にあたつてみると、それも浦島太郎と乙姫の約束事のやうなもので、二人が行き合つてみなければ、はつきりと、確かめられるわけのものでもない。船が着くなり、富岡のところへ電報も打つた。三日間を引揚げの寮に過して、調べが濟むと、同時に、船の者達は、それぞれの故郷へ發つて行くのだ。三日の間に、富岡からは返電は來なかつた。これが逆であつてみても、同じやうな事になつてゐるのかもしれないと、ゆき子は何となく、あきらめてきてもゐた。ひとねいりしたが、まだ時間はあまりたつてゐない。障子が昏くなり、部屋のなかに、燈火がついてゐる。隣りでは、食事をしてゐる樣子だつた。ゆき子も腹が空いてゐた。枕許のリュックを引き寄せて、船で配給された辨當を出した。茶色の小さい箱のなかに、四本入りのキャラメルの煙草や、ちり紙、乾パン、粉末スープ、豚と馬鈴薯の罐詰なぞが、きちんとはいつてゐる。その中からチョコレートを出して、ゆき子は、腹這つたまゝ齧じつた。少しも甘美くはなかつた。

 ――ドウソン灣の紅黄ろい海の色が、なつかしく瞼に浮ぶ。ドウソンの岬の、白い燈臺や、ホンドウ島のこんもりした緑も、生涯見る事はないだらうと、ゆき子は、船から燒きつくやうに、この景色に眼をとめてはゐたが、そんな、異郷の景色もすつかり色あせてきて、思ひ出すのも億くうであつた。隣室の女達は、夜汽車で發つのか、食事が終ると、宿のおかみさんに、勘定を拂つてゐる樣子だつた。ゆき子は騒がしい隣室の樣子を聞きながら、粉末スープを湯呑みにあけて、煮えた湯をそゝいで飮んだ。殘りのらつきようも食べた。軈て女達は、お世話さまになりましたと、口々に云ひながら、おかみさんの後から廊下を賑やかに通つて行つた。女の聲を聞いてゐると、ゆき子は、あの女達も、それぞれの故郷へ戻つてゆくのだらうと、誘はれる氣がした。ゆき子が、船で聞いたところによると、藝者達は、プノンペンの料理屋で働いてゐたのださうで、二年の年期で來てゐた。藝者とは云つても、軍で呼びよせた慰安婦である。――海防の収容所に集つた女達には、看護婦や、タイピストや、事務員のやうな女もゐたが、おほかたは慰安婦の群であつた。こんなにも、澤山日本の女が來てゐたのかと思ふほど、それぞれの都會から慰安婦が海防へ集つて來た。――幸田ゆき子はダラットとドユランの間にある、パスツール研究所の、規那園栽培試驗所のタイピストとして働いてゐた。昭和十八年の秋、ダラットに着いたのである。この地は海拔高一・六○○米位で、氣温も最高二五度、最低六度位で、高原地帶のせゐか、非常に住みいゝところであった。佛蘭西人で茶園を經營してゐるものが多く、澄んだ高原の空に、甘い佛蘭西の言葉を聞くのは、ゆき子には珍しかつた。

 ゆき子はふつと、富岡へ手紙を書かうと思つた。どんな事を書いていゝかは、判らなかつたけれども、書いて行くうちには、何とか心がまとまつて來さうであつた。富岡と同じ土の上に着いてゐるのだと思ふと、海防の收容所で、心細く虚無的になつてゐた氣持ちも、少しづゝ立ちなほつてきさうである。ゆき子は店の子供に頼んで、レターぺヱパアと封筒を買つた。




 ゆき子は氣が變つて來た。ゆき子は、まつすぐ東京へ出て伊庭を尋ねてみようと思つた。燒けてさへゐなければ、富岡に逢へるまで、まづ伊庭の處へ厄介になつてもいゝのだ。厭な記憶しかないが、仕方がない。靜岡には何のたよりもしなかつたので、自分の歸りを待つてくれる筈もない。――夜更けの汽車で、ゆき子は敦賀を發つた。船で一緒だつた男の顔も二人ばかり、暗いホームで見掛けたけれども、ゆき子は、わざとその男達から離れて後の列車に乘つた。驚くほどの混雜で、ホームの人達はみんな窓から列車に乘り込んでゐる。ゆき子も、やつとの思ひで窓から乘車する事が出來た。何も彼もが、俊寛のやうに氣後れする氣持ちだつた。南方から引揚げらしい、冬支度でないゆき子を見て、四圍の人達がじろじろゆき子を盗見してゐる。如何にも敗戰の形相だと、ゆき子もまた立つて揉まれながら、四圍を眺めてゐた。夜のせゐか、どの顔にも氣力がなく、どの顔にも血色がない。抵抗のない顔が狹い列車のなかに、重なりあつてゐる。奴隷列車のやうな氣もした。ゆき子はまた、少しづゝこの顔から不安な反射を受けた。日本はどんな風になつてしまつたのだろう‥‥。旗の波に送られた、かつての兵士の顔も、いまは何處にもない。暗い車窓の山河にも、疲勞の跡のすさまじい形相だけが、るゐるゐと連らなつてゐた。

 東京へ着いたのは、翌日の夜であつた。雨が降つてゐた。品川で降りると、省線のホームの前に、ダンスホールの裏窓が見えて、暗い燈火の下で、幾組かゞ渦をなして踊つてゐる頭がみえた。光つて降る糠雨のなかに、物哀しいジャズが流れてゐる。ゆき子は寒くて震へながら、崖の上のダンスホールの窓を見上げてゐた。光つた白い帽子をかぶつた、脊の高いMPが二人、ホームのはづれに立つてゐる。ホームは薄汚れた人間でごつた返してゐる。ジャズの音色を聞いてゐると、張りつめた氣もゆるみ、投げやりな心持ちになつて來る。そのくせ、明日から、生きてゆけるものなのかどうかも判らない懼れで、胸のなかゞ白けてゐた。ホームに群れだつてゐるものは、おほかたがリュックを背負つてゐた。時々、思ひもかけない、唇の紅い女が、外國人と手を組んで、階段を降りて來るのを見ると、ゆき子は、珍しいものでも見るやうに、じいつとその派手なつくりの女を見つめた。かつての東京の生活が、根こそぎ變つてしまつてゐる。

 ゆき子が、西武線の鷺の宮で降りた時、その電車が終電車であつた。踏み切りを渡つて、見覺えの發電所の方へ行く、廣い道を歩いてゐると、三人ばかりの若い女が、雨のなかを急ぎ足にゆき子のそばを通り拔けて行つた。三人とも、派手な裂地で頬かぶりをして、長い外套の襟をたててゐた。

「今日、横濱まで送つて行つたのよオ。どうせ、ねえ、向うには奥さんもあるンでせう‥‥。でも、人間つて、瞬間のものだわねえ。それでいゝンだろう‥‥。友達を紹介して行つてくれたンだけどさア、何だか變なものよねえ。自分の女にさア、友達をおつゝけて行くなンて、日本人には判らないわ‥‥」

「あら、だつて、いゝぢやないの。どうせ、別れてしまへば、二度と、その人と逢へるもンでもないしさア、氣を變へちやふのよオ。あたしだつて、もうぢき、あの人かへるでせう‥‥。だからさア、厚木へ通ふのも大變だしね、そろそろ、あとのを探さうかと思つてンのよ‥‥」

 ゆき子は、賑やかな女達の後から足早やについて行つた。そして、聲高に話してゐる女達から聞く話に、日本も、そんな風に變つてしまつてゐるのかと、妙な氣がしてきた。

 軈て女達は、ポストの處から右へ這入つて行つてしまつた。ゆき子はすつかり濡れ鼠になつて疲れてゐた。此のあたりは、南へ出發の時と少しも變つてはゐなかつた。細川といふ産婆の看板を左へ曲つて二軒目の、狹い路地を突きあたつたところに、伊庭の家がある。自分の、このみじめな姿を見せたら、みんな驚くに違ひない。ゆき子は石の門の前に立つて、暗い街燈の下で身づくろひをした。ずつぷりと髮も肩も濡れてゐる。落ちぶれ果てたものだと思つた。ベルを押してゐると、佛印へなぞ行つてゐた事が、嘘のやうな氣がして來た。玄關の硝子戸に燈火が射して、すぐ大きい影が、土間に降りたつたやうだ。ゆき子は動悸がした。男の影だけれど、伊庭ではない。

「どなた?」

「ゆき子です‥‥」

「ゆき子? どちらの、ゆき子さんですか?」

「佛印へ行つてました、幸田ゆき子です」

「はア‥‥。どなたをお尋ねですか?」

「伊庭杉夫はおりませんでせうか?」

「伊庭さんですか? あのひとは、まだ疎開地から戻つてはおられませんですよ」

 その影の男は、やつと、億くうさうに鍵を開けてくれた。濡れ鼠になつて、外套も着ないで、リュックを背負つてゐる若い女を見て、寢卷きを着た男は、吃驚したやうな樣子で、ゆき子を眺めた。

「伊庭の親類のもので、今日、戻つて來たものですから‥‥」

「まア、おはいり下さい。伊庭さんは、三年ほど前から、靜岡の方へ疎開してゐらつしやるンですがね」

「ぢやア、こゝはもう、伊庭はすつかり引揚げてゐるンでせうか?」

「いや、伊庭さんの代りにはいつてゐるンですが、伊庭さんの荷物は來てゐますよ」

 ゆき子達の話聲を聞いて、その男の細君らしいのが、赤ん坊をかかへて玄關へ出て來た。ゆき子は佛印から引揚げて來た事情を話した。伊庭と、この男との間は、家の問題でいざこざがある樣子で、あまりいゝ顔はしなかつたが、それでも、こゝは寒いから座敷へ上れと云つてくれた。

 敦賀の宿で、握り飯を一食分だけ特別につくつてくれた以外は、飮まず食はずの汽車旅だつたので、ゆき子は躯が宙に浮いてゐるやうだつた。廊下のミシンにぶつゝかつたりして、座敷へ通ると、伊庭の一家が何度も寢室に使つてゐた六疊間で、荷造りした荷物が疊もへこんでしまふ程積み重ねてあつた。佛印から引揚げて來たと聞いて、細君は同情したのか、茶を淹れたり、芋干しを出したりした。男は四十年配で、躯の大きい、軍人あがりの、武骨なところがあつた。細君は小柄で色の白い、そばかすの浮いた顔をしてゐたが、笑ふと愛嬌のいゝ笑靨が浮いた。

 その夜、蒲團を二枚借りて、伊庭の荷物の積み重ねてある狹いところへ、ゆき子は一夜の宿をとる事が出來た。ゆき子はリュックからレイションを二箱出して細君へ土産代りに出した。

 床にはいつて、寢ながら、こも包みの荷の中へ指を差しこんでみると、厚い木でがんじやうに打ちつけてあるので、なかに何がはいつているのかさつぱり判らない。話によると、暮までには伊庭が上京して來るので、二部屋ばかり空けなければならないと細君は云つてゐた。六人家内なので、いまのところ、どの部屋を空けるかゞ問題だけれど、自分達は空襲時代、一生懸命にこの家を護つたのだから、急にどいてくれと云はれても、どくところはないし、そんな事は、道に外づれてゐると云つた。伊庭も、何時までも田舍暮しも出來ないので、焦々してゐるのだろうと、ゆき子は、早々と荷物を送りつけて來てゐる伊庭一家の氣持ちが察しられた。みんな丈夫でゐるらしい事も判つて、かへつてゆき子は拍子拔けのするやうな氣持ちだつた。




 幸田ゆき子が佛印のダラットに着いたのは、昭和十八年の十月も半ば過ぎであつた。農林省の茂木技師一行に連れられて、四人のタイピストがまづ海防に着いた。――茂木技師は、佛印の林業調査に軍から派遣される事になり、同じ農林省で働いてゐる、タイピストを募つて、それぞれの部署に一人づゝのタイピストを置いて來る事になつてゐた。志願者は五人ばかりあつたが、幸田ゆき子も志願して一行に加はつた。――病院船で海防に着き、軍の自動車で河内へ出て、河内で、三人のタイピストが勤め先きを持つた。幸田ゆき子は高原のダラットへきまり、もう一人の篠井春子はサイゴンに職場を得た。一番貧乏くじを引いたのは幸田ゆき子である。地味で、一向に目立ない人柄が、さうしたところに追いやつたのかも知れない。額の廣い割に、眼が細く、色の白い娘だつたが、愛嬌にとぼしく、何處となく淋しみのある顔立ちが人の眼を惹かなかつた。軍の證明書に張つてある彼女の寫眞は、年よりは老けて、二十二歳とは見えなかつた。白い襟つきの服が似合ふ以外に、何を着てゐても、何時も同じやうな服裝をしてゐる女にしかみえない。サイゴンに行く篠井春子は、五人のなかでも一番美人で、一寸李香蘭に似た面差しがあつたので、幸田ゆき子なぞの存在は、誰にも注意されなかつたのだ。――二臺の自動車で、一行は河内を發つたが、タンノア、フウキ、ビンと走つて、最初の夜はビンに泊つた。河内から南部印度支那のビンまでは、自動車で三百五十キロ走つた。ビンのグランド・ホテルに宿を取つた。道々の野山は、野火の跡で黒くくすぶつてゐたり、またあるところでは、むくむくと黄ろい煙をたてゝ燃えてゐる林野もあつた。油桐や松の造林地帶がほとんどで、行けども行けども森林地帶のせゐか、篠井春子は、幾度も太い溜息をついて、わざと心細がつてみせてゐるところもあつた。ゆき子は馴れない長途の旅で、へとへとに疲れてゐた。タンノアといふところを出てから、長く續いてゐる黄昏の道を、自動車はかなりのスピードで走つたが、ビンへ近くなつてからは、昏くなつた四圍に、大きな蛾が飛び立つてゐて、自動車のヘッドライトに明るく照し出された道の方へ、紙片を散らしたやうに、白い蛾が群れだつて寄つて來た。

 ホテルの左手には、運河でもあるのか、水に反響する安南人の船頭の聲がしてゐた。食用蛙がやかましく啼きたてゝゐる。ビンロウや、ビルマネムの植込みのなかへ自動車を置いて、一行はホテルの部屋へ案内された。運河の見える、こざつぱりした階下の部屋に、篠井春子と幸田ゆき子は通された。

 春子は窓を開けた。運河の水音がしてゐる。橙色の燈のついた卓子には、二人の貧弱なトランクが竝んでゐた。桃色の花模樣の壁紙や、柔い水色毛布のかゝつてゐるダブルベッドは、如何にも佛蘭西人の趣味らしく、清潔で可愛いかつた。戰爭下の日本で、長らく貧しい生活にあつた二人にとつて、これはまるでお伽話の世界である。顔を洗つて、食堂で遲い晩食をとつてゐると、腕に憲兵の白い布を卷いた兵隊が、わざわざ女二人の身分證明書を見に來たりした。若い憲兵は、日本の女が珍しくなつかしかつたのだろう。――その夜、ゆき子も春子も、仲々寢つかれなかつた。日本を發つ時は、うそ寒い陽氣だつたのに、海防から、河内、タンノアと南下して來るにつれて、急に季節はまた夏の方へ逆もどりしてゐた。柔い、彈力のあるベッドに寢てゐると、仲ゝ寢つかれない。太棹の三味線でも聽いてゐるやうに、食用蛙が、ぽろんぽろんと雨滴のやうに何時までも二人の耳についてゐた。

 東京を發つ時の、伊庭の家での事や、友人達との壯行會や、陸軍省でのあわたゞしい注射の日が、夢うつゝに浮んで、ゆき子は、佛印にまで來るなぞとは夢にも考へられなかつた運命が、自分でも不思議でならなかつた。――伊庭杉夫は姉のかたづいたさきの伊庭鏡太郎の弟であつたが、杉夫には妻も子供もあつた。東京へ家を持つてゐる唯一の親類さきで、ゆき子は靜岡の女學校を出るとすぐ、伊庭杉夫の家へ寄宿して、神田のタイピスト學校へ行つた。杉夫は保險會社の人事課に勤めてゐて、實直な男だと云ふ評判であつたが、ゆき子が寄宿して、丁度一週間目の或夜、ゆき子は杉夫の爲に犯されてしまつた。女中部屋の三疊にゆき子は寢てゐた。何となく眠れない夜で、杉夫が臺所に水を飮みに行つてゐる物音をゆき子はうとうと聽いてゐたが、軈て、すつと女中部屋の障子が開いた。ゆき子は、それを夢うつゝに聽いてゐた。その障子はまた靜かに閉まつて、みしみしと疊をふむ音がした。重くかぶつてくる男の體重に胸を押されて、ゆき子ははつとして、暗闇に眼を開いた。革臭い匂ひがして、杉夫が何か小さい聲で云つたのが、ゆき子には判らなかつた。蒲團の中に、肌の荒い男の脚が差し寄せられて、初めて、ゆき子は聲をたてようとした。そのくせ、聲をたてるわけにもゆかないものを感じて、ゆき子は身を固くして默つてゐた。

 その夜の事があつて以來、ゆき子は、杉夫の妻の眞佐子に、顔むけのならないやうな氣がしてゐたけれども、ゆき子は、夜になると、杉夫の來るのが何となく待ちどほしい氣がしてならなかつた。杉夫は來るたびに、ハンカチをゆき子の口のなかへ押し込むやうにした。美人で、機智のある妻の眞佐子をさしおいて、目立たない自分のやうな女に、どうして杉夫がこんな激しい情愛をみせてくれるのか、ゆき子は不思議だつた。――ゆき子は三年を伊庭のところで暮した。タイピスト學校を出て、農林省へ勤めてゐた。眞佐子は杉夫とゆき子の情事は少しも知らない樣子だつた。たまに、眞佐子が子供づれで横濱の實家へ泊りに行つたりすると、杉夫は早くから寢床へ就いて、ゆき子を呼んだりした。ゆき子は、只、默つて杉夫の意のまゝにしたがふより仕方がない。將來に就いて語りあふといふでもなく、まるで娼婦をあつかうようなしぐさで、杉夫は、ゆき子をあつかつた。――ゆき子が、佛印行きの決心を固めたのも、かうした不倫から自分を拔けきりたい氣持ちで、事がきまるまでは、伊庭夫婦にも、靜岡の母にも、姉弟にも打ちあけなかつたのだ。いよいよ、佛印行きが本當にきまつてから、ゆき子は肉親にも知らせ、伊庭夫婦にも打ちあけた。杉夫は別に顔色も變へなかつた。

 ゆき子は、案外冷たい表情でゐる杉夫を盜見て、心のなかに噴きあげるやうな侮辱を感じてゐたが、自分が伊庭の家を出る事によつて、伊庭の心のなかに、太い釘を差し込むやうな、氣味のいゝものも感じた。眞佐子に對しても、ゆき子はかへつて憎しみを持つやうになり、時々、眞佐子の口から、「このごろ、ゆきさんはすぐふくれるやうになつたのね。早くお嫁さんにやらなくちや駄目だわ」と冗談にも、皮肉にもとれるやうな事を云つたりする。杉夫は、ゆき子がいよいよ二三日うちに佛印出發と聞くと、藥や、ハンドバッグや、下着の類を買ひとゝのへて來た。ゆき子は杉夫にそんな事をして貰ふのが口惜しくてたまらなかつた。眞佐子は眞佐子で、ゆき子に對して、杉夫のさうした心づかひが不思議で、反撥するものを持つてゐる樣子だつた。




 ゆき子は明け方になつて、杉夫の夢を見た。遠い旅に出たせゐか、妙に人肌戀しくて、奈落に沈んでゆくやうな淋しさになる。ここまで來てゐながら、日本へ歸りたい氣がしてならなかつた。ハンカチを口へ押しこむ時の、氣忙はしい杉夫の息づかひが、耳について離れない。厭だと思ひ續けてゐた杉夫が、こんなに遠いところへ來て、急に戀しくなるのは變だと、ゆき子は、杉夫との情事ばかりを想ひ出してゐた。きつと、杉夫は淋しがつてゐるに違ひない。只、あのひとは無口だつたから、別に、こみいつた事も云はなかつたけれども、佛印へ發つ日まで、二人の關係が續いてゐた。三年も關係が續いてゐて、どうして子供が生れなかつたのだらう‥‥。そのくせ、三年の間に、眞佐子の方には男の子が生れた。

 ゆき子は果てしもなく、いろいろな記憶がもつれて來る事に、やりきれなくなつて、そつと起きた。ヴェランダへ通じる硝子戸を開けると、運河はすぐ眼の前に光つてゐた。ビルマネムの大樹が運河添ひに並木をなして、珍しい小禽の聲が騷々しくさへづつてゐた。もやの淡く立ちこめた運河の上に、安南人の小船がいくつももやつてゐる。石造りのヴェランダに凭れて、朝風に吹かれてゐると、何ともいへないいゝ氣持ちだつた。地球の上には、かうした夢のやうな國もあるものだと、ゆき子は、小禽のさへづりを聽いたり、運河の水の上を呆んやり眺めてゐたりした。燕も群れをなして飛んでゐる。海防の濁つた海の色を境にして、何も彼も虚空の彼方に消えてゆき、これから、どんな人生が待つてゐるのか、ゆき子には豫測出來なかつた。

 早い朝食が濟んで、また自動車に乘り、南部佛印での古都である、ユヱへの街を指して、一行は發つて行つた。木麻黄の並木路を透かして、運河ぞひの苫屋からも、のんびりと炊煙があがつてゐた。廣い植民道路を、黄色に塗つたシトロヱンが、シュンシュンとアスファルトの道路に吸ひつくやうな音をたてゝ走つてゐる。

 ビンの街は、人口二萬五千あまりで、北部安南でもかなり重要な街だと、一行での男連中の話である。軈て、植民道路は高原のラオスにはいつて行く路と二つに分れた。時々、野火が右手の森林から煙を噴いてゐる。廣い森林地帶の中のユヱへの植民道路をかなり走つてから、やつと四圍に蒲陽が射し始め、晴々と夜が明けて來た。陽が射して來ると、空氣がからりと乾いて、空の高い、爽凉な夏景色が展けて來た。

 第二泊目はユヱで泊つた。こゝでも、一行はグランド・ホテルに旅裝をといた。日本の兵隊がかなり駐屯してゐる。ホテルの前に、廣いユヱ河が流れてゐた。クレマンソウ橋が近い。ゆき子は、こんなところまで、日本軍が進駐して來てゐる事が信じられない氣がしてゐた。無理押しに、日本兵が押し寄せて來てゐるやうな氣がした。このまゝでは果報でありすぎると思つた。そのくせ、このまゝ長く、この寶庫を占領出來るものなのかどうかも、ゆき子は考へてゐるいとまもないのだ。自動車が走つてゆくまゝに、身をゆだねて、あなた任せにしてゐるより仕方がない、單純な氣持ちだけて旅をしてゐた。かうしたところで見る、日本の兵隊は、貧弱であつた。躯に少しもぴつたりしない服を着て、大きい頭に、ちよんと戰闘帽をのつけてゐる姿は、未開の地から來た兵隊のやうである。街をゆく安南人や、ときたま通る佛蘭西人の姿の方が、街を背景にしてはぴつたりしてゐた。華僑の街も文化的である。都心の街路には、樟の木の並木が鮮かで、朝のかあつと照りつける陽射しのなかに、金色の粉を噴いて若茅を萠してゐた。赤煉瓦の王城のあたりでは、若い安南の女學生が、だんだらの靴下をはいて、フットボールをしてゐるのなぞ、ゆき子には珍しい眺めだつた。河のほとりの遊歩場には、花炎木や、カンナの花が咲いてゐた。河は黄濁して水量も多く、なまぐさい河風を朝の街へ吹きつけてゐた。

 旅空にあるせゐか、一行は七人ばかりであつたが、かなり自由に、解放された氣持ちになつてゐる樣子だつた。鑛山班の瀬谷といふ老人は、河内からずつと女連の自動車の方へばかり乘り込んで、篠井春子のそばへ腰をかける習慣になつてゐた。わざと春子の肩や膝頭に躯をくつゝけて、汗のにちやつくのもかまはずに、圖々しくみだらな話をしている。――サイゴンは小巴里だと云はれる程、巴里的な街だと聞いて、ゆき子は篠井春子が妬ましかつた。自分もそんな美しい街へポストを持ちたかつた。きまつてしまつたものは仕方がないけれども、さうした命令が、女にとつては、顔かたちの美醜にある事も、ゆき子はよく知つてゐる。ダラットといふ、聞いた事も見た事もない、高原の奥深いところで、平凡な勤めに就く運命が、ゆき子には何となく情けない氣持ちだつた。若い女にとつて、平凡といふ事位苦しいものはない。一年はどうしても勤めなければならない事も、心には重荷であつた。

 東京を發つ時、杉夫が佛印がいゝところだつたら、俺達も呼んでくれないか、せめて内地の戰時世相から解放されたいと冗談を云つてゐたけれども、杉夫も、保險會社なんかやめて、志願してでも佛印へ來てくれるといゝと空想した。

 ユヱで一泊して、海邊のツウフン驛から、一行はサイゴン行きの汽車へ乘つた。狹い可愛い車體だつたが、二等車は案外、贅澤な設備がしてあつた。ソフアや、小卓があり、小さい扇風機も始終氣忙はしく車室をかきまはしてゐる。部屋の隣りには、シャワーの設備もあつて、自動車の旅よりはずつと快よかつた。コオヒイを注文すると、まるで花壺のやうな、深い茶碗に、安南人のボーイが持つて來てくれる。こゝで、初めて、ゆき子は篠井春子と二人きりの部屋におさまる事が出來たのだ。汽車は動搖が激しく、コオヒイ茶碗の花壺のやうな しかけも、この動搖の爲なのだと判つた。自動車の旅と少しも變らない程、砂塵が何處からか吹き込んで來るのには、二人とも閉口だつた。どんな贅澤な設備も、黄ろい砂塵の吹きこむ列車は不潔である。春子は何時の間にどうした手段で求めたのか、絹靴下をはき、洒落れたラバソールをつゝかけてゐた。そして、汽車に乘る時から氣にかけてはゐたのだけれども、春子は、匂ひの甘い香水をつけてゐた。ゆき子は自分が慘めに敗けてしまつた氣で、學校時代のサージの制服を仕立なほした洋袴に、爪先きのふくらんだ、汚れた黒靴をはいてゐる事に、いまいましいものを感じてゐる。長い旅路で、紺の洋袴はかなり汚れて來てゐる。春子の化粧の濃くなつたのを妬まし氣に眺めながらゆき子は、

「篠井さんは、サイゴンに落ちつくなんて幸福だわね」と、云つた。

「あら、いゝところなのか、惡いところなのかは、行つてみなくちや判らないわ。幸田さんこそ、パスツウルの規那園なンて、とてもハイカラぢやないの?貴女は勉強家だから、すぐ、佛蘭西語も、安南語も覺えちやふでせう。とても、第一級のところぢやないの? 私、さう思ふわ。凉しくて、いゝ處なンですつてね‥‥」

 ゆき子は、春子が心のゆとりを持つて、慰めてくれてゐる事は、よく判つてゐた。

「でも、人間の數の少ないところつて、淋しいわ。第一、苦勞をともにして來た貴女たちに別れて、誰も知らない山の中へ行くなンて、淋しいのよ。退屈だらうと思ふの‥‥」

 行けども行けども、山野の波間を、汽車は激しい動搖で走つてゐる。

 サイゴンに着いたのは夜であつた。




 ゆき子は、かうした旅に馴れなかつたせゐか、へとへとに疲れてゐた。どうかすると、一日のうちに、幾度かわけのわからない熱の出る時もあつた。サイゴンでは、五日ほど暮す事になり、こゝでまた軍への手續きが相當手間どつて、獨りになつて街を見物する ゆとりは許されなかつた。サイゴンでは、軍の指定した旅館で、海防を出て以來、初めて、身分相當な貧しい旅館に落ちついた。四日目に、篠井春子は、軍報道部に働く中渡といふ男に連れられて、勤めさきの宿舍へ變つて行つた。ゆき子たちの旅館は、以前は華僑の住宅ででもあつたらしく、飾りつけの何もないがらんとした部屋々々に、折りたゝみ式のベッドがあるだけのもので、安南人の女が二人、ものうさうに部屋々々の掃除をしてまはつてゐる。茂木技師も、黒井技師も、瀬谷も、ゆき子と一緒にダラットへ出掛ける連中なので、食堂は何時も、此のグループだけが部屋の隅に集つた。しつくひ塗りの青い壁に、粗末な大きい地圖が張りつけてある。紫檀の脊の高い卓子が三つほど竝び、それぞれの用向きを持つて泊つてゐる連中が、こゝで食事をする。食堂へ來る顔ぶれは何時も流れるやうに變つてゐた。――離合集散の激しい食堂で、窓ぎはの凉しい場所に、何時も變らない顔が一人だけあつた。ふつと、ゆき子はこの男に注意を惹いた。食事中も、いつも本を讀むとか、新聞を讀んでゐた。別に、連れがあるらしくもなく、そこへ腰をかける時間も、場所も、判で押したやうだつた。色は青黒く、髮の毛の房々とした、面長な顔立ちで、じいつと本を讀んでゐる横顔は、死人のやうに生氣のない表情をしてゐた。夜になると、何處からか戻つて來て、誰もゐない食堂で、ウイスキーの壜を前に置いて酒を飮んでゐる。シャフスキンの半袖シャツを着て、茶色の洋袴をはいてゐるところは、ゆき子には安南人のやうにも見えた。ゆき子は熱があつたので、時々食堂へ氷を貰ひに行つたが、その男は、何時でも食堂の椅子に膝をたてた、不作法な腰のかけ方で酒を飮んでゐた。ゆき子が食堂へはいつて行つても、別に、ゆき子の方を注意するでもなく、ゆつくり孤獨を愉しんでゐるやうな范洋とした風貌をして、酒を飮んでゐる。此の宿舍の近くには、夜でも賑やかに、レコードやラジオを鳴らしてゐる華僑の飮食店が竝んでゐた。風のむきで、遠くかすかに、食堂のなかへ、父よあなたは強かつたの日本の曲なぞが流れて來る。食堂の隈で、藥を飮んでゐると、ふつと、ゆき子はこの曲に誘はれた。何といふ事もなく、酒を飮んでゐる男と話をしてみたい、冒險的な氣持ちになつてきた。ゆき子は、男といふものは、みんな杉夫のやうな性癖を持つてゐるやうであり、旅空のせゐか、誰の紹介もなく話しかけてもかまはないのではないかとも考へる氣分になり、そこに散らかつてゐる日本新聞なぞを、ゆつくり讀み耽つてゐたりした。

 男は、何ものにもとんちやくしない太々しさで、本を讀みながら、酒を飮んでゐる。酒を飮むと、肌に赤味がさして、白い半袖からむき出した、すくすくとのびた腕が、ゆき子の眼をとらへる。三十四五になつてゐるであらうか。名前も知らなければ、職業も判らないまゝで、別れるひとなのだと思ふにつけ、ゆき子は一人寢の、狹いベッドへ這入つてからも、その男の事が始終瞼を離れなかつた。

 五日目に、ダラットへ行くトラックの便があるといふので、茂木技師一行について、ゆき子はまた旅支度をした。――サイゴンは、昔、クメール族の名づけで、プレイ・ノコールと云つてゐた。森の都と云ふ意味である。トラックの上から見る、サイゴンの大通りは、ヨウの大樹の並木が、亭々と竝んでゐて、その樹下のアスハルトの滑つこい大通りを、輪タクに似たシクロが昆蟲のやうに走つてゐた。繁華なカチナ通りの、タマリンドウの街路樹の下に、水色の服を着た佛蘭西人の子供の遊んでゐるところなぞは、繪を見るやうだつた。タマリンドウの梨のやうな果實が、るゐるゐと實つて、まるで田園の感じである。道はちりつぱ一つなく、大樹の並木の下を、悠々と往來してゐる安南人や、華僑の服裝は、貧弱な日本の服裝を見馴れたゆき子には驚異であつた。急に篠井春子が羨しかつた。こんな美しい都にとゞまつてゐられる自體が妬ましいのだ。陽をさへぎつた、うつさうとした並木の下を、日本の兵隊が歩いてゐる。兵隊は、日本といふ故郷や、軍隊の背景も感じられない、孤獨なたよりなさで群れて歩いてゐた。歩いてゐるといふよりは、そこへ投げ出されてゐるといつた方がいゝかも知れない。トラックの上にゐる一行の顔も、長途の旅疲れもあるせゐか、膏の浮いた貧しい顔をしてゐた。ゆき子は、自分も亦その一人なのだと思ひ、何のほこりもない、日傭ひ人夫の娘にでもなつたやうな佗しいものが心をよぎつた。ゆき子は内地へかへりたかつた。ダラットがどのような土地なのか、もう、どうでもいゝのだ。人戀しくて、たつた獨りでダラットの高原へなぞ、住んではゐられない氣がする。篠井春子と別れた鑛山班の瀬谷は、手の裏を返すやうに、ゆき子へにこにこした顔をむけた。

「厭に悄氣てゐるンだね。元氣を出すんだよ。何處へ行つたつて、日本の兵隊がゐるンだ。何も心配する事はない。しかもだね、たつた一人の日本女性として、責任は重大なりだ。皇軍とともに働いて貰はなくちやいけない。ね、さうぢやないかね‥‥」




 ダラットにあと十六キロといふ、プレンといふ部落から曲りくねつた勾配になり、ランビァン高原への九十九折のドライヴウェイをトラックはぐうんぐうんと唸りながら登つた。夕方であつたが、時々沿道の森蔭に白い孔雀がすつと飛び立つて一行を驚かせた。

 夕もやのたなびいた高原に、ひがんざくらの並木が所々トラックとすれ違ひ、段丘になつた森のなかに、別莊風な豪華な建物が散見された。いかだかづらの牡丹色の花ざかりの別莊もあれば、テニスコートのまはりに、モミザを植ゑてあるところもある。金色の花をつけたモミザの木はあるかなきかの匂ひを、そばを通るトラックにたゞよはせてくれた。ゆき子は夢見心地であつた。森の都サイゴンの比ではないものを、この高原の雄大さのなかに感じた。三角のすげ笠をかぶつた安南の百姓女が、てんびんをかついでトラックに道をゆづるのもゐた。

 高原のダラットの街は、ゆき子の眼には空に寫る蜃氣樓のやうにも見えた。ランビァン山を背景にして、湖を前にしたダラットの段丘の街はゆき子の不安や空想を根こそぎくつがへしてくれた。以前は市の駐在部であつたといふ白堊の建物の庭にトラックがはいつてゆくと、庭の眞中に日の丸の旗が高くあげてあつた。地方山林事務所と書いた新しい看板が石門に打ちつけてある。その下に、安南語と佛蘭西語で小さく墨の文字で書いた板も打ちつけてあつた。湖の見える應接間で、一行は事務所長の牧田氏に會つた。ゆき子はこゝに當分働く事になり、ゆき子だけ安南人の女中に案内されて自分にあてがはれた部屋へ行つた。二階の一番はづれの部屋で、湖や街の見晴しはなかつたが、北の窓からは、ランビァンの山が追つてみえた。庭にはいかだかづらの花が盛りで、毛の房々した白い犬が芝生にたはむれてゐた。

 ゆき子は長い旅の果てに、やつと自分の部屋に落ちついたのである。チーク材の床には敷物もなかつたが、かへつて凉しさうだつた。何處からか運んで來たのであらう、粗末なベッドに、腰高な机と椅子が一つ。白いペンキ塗りの狹い洋服箪笥が、暗い部屋の調和を破つてゐた。ねぐらを求めて小禽が、夕あかりの黄昏のなかに騒々しくさへづつてゐた。茂木技師や、瀬谷たちは、ダラット第一級のホテルである、ランビァン・ホテルに牧田氏の自動車で引きあげて行つた。牧田喜三は、鳥取の林野局をふりだしに、農林省へはいつた人物ださうで、四十年配の太つた小柄な男であつた。昭和十七年の暮に、軍屬として、赴任して來た。部下は四人ばかりあつたが、みんなそれぞれが、山の分擔區に視察に出掛けてゐる樣子で、安南人の通譯が二人と、林務官一人、混血兒だといふ女の事務員が一人ゐる。――ゆき子はへとへとに疲れてゐた。ランビァン・ホテルへ一行とともに夕食の案内を受けたが、氣分が悪くて行く氣がしなかつた。ベッドの毛布の上に轉がつてゐると、トラックの震動がまだ續いてゐるやうで、耳の中がふたをしたやうに重苦しかつた。昏々と眠りたかつた。眼を閉ぢると、蝉の啼きごゑのやうな、森林のそよぎが耳底に消えなかつた。洋服箪笥のペンキの匂ひが鼻につく。

 その夜、ゆき子は、安南人の女中のつくつてくれた日本食を、廣い食堂で一人で食べた。中央には岩のやうなシュミネがあり、入口近いところにピアノが一臺光つてゐた。のりのきいたテーブルクロースの白い布に手を置くと、黄色の手が、安南人の女中の手よりも汚れた感じだつた。ガラスのフィンガボールにいかだかづらの花が浮かしてある。ソーセイジのやうな赤黒いかまぼこや、豆腐汁がゆき子には珍しかつた。女中はもう三十は過ぎてゐる年配であるらしかつたが、眼の綺麗な女だつた。額は禿げあがり、澁紙色の凹凸のない顔に、粉を噴いたやうな化粧をして、ねり玉の青い耳輪をはめてゐる。彼女は、かたことの日本語を少し話した。網戸をおろした廣い窓へ、白い蛾の群れが貼りついてゐた。食事を終つた頃、突然、前庭の方で、自動車のヱンジンの音がした。牧田所長がもう戻つて來たのかと思つたが、それにしては馬鹿に歸りが早いと、ゆき子はきゝ耳をたてゝゐた。女中が走つて出て、甘い聲で、ボンソアと庭口へ呼んだ。軈て、男の聲で何事か、ごやごやと話す聲と足音がして、ぱつと食堂へ這入つて來たのは、サイゴンの宿舎で會つた、ゆき子の注意を惹いてゐた、あの男であつた。脊の高い、さくさくした足どりで食堂へ這入つて來るなり、ゆき子を見て、一寸驚いた風で、輕く眼で挨拶をして、また、さつさと廊下へ出て行つた。

 ゆき子の食事が終つてからも、女中は仲々食堂へは戻つて來なかつた。ゆき子は赧くなつてその男に挨拶を返したが、部屋を出て行つたきり、一向に戻つて來る氣配もない樣子に、焦々してゐた。いまゝで死んだやうにぐつたりしてゐた氣持ちのなかに、急に火を吹きつけられたやうな切ないものを感じた。あわてゝ、しのび足で部屋へ戻り、ゆき子は洋服箪笥の鏡の中をのぞいて、濃く口紅をつけた。髮をくしけづり、粉白粉もつけて、また、急いで食堂へ戻つたが、網戸を叩く白い蛾の氣忙はしい羽音だけで、廣い食堂は森閑としてゐる。暫くして、女中がコオヒイを持つて來たが、すぐ、女中はコオヒイを置いて去つて行つた。いくら待つても、男はつひに食堂へは出て來なかつた。ゆき子は氣拔けしたやうな氣持ちで部屋へ戻つて行つた。廣い階段を誰かゞ上つて來る。ゆき子は激しい動悸をおさへて、扉に耳をあてゝゐた。ゆき子は物音が消えると、また食堂へ降りて行つた。所在なくピアノの蓋をとり、女學校時代よく彈いてゐた濱邊の歌を片手でぽつんぽつんと鍵を叩いてみた。壁には森林に就いての統計のやうなものが硝子縁のなかにはいつてゐる。カッチヤ松とか、メルクシ松、ヨウ、カシ、クリカシなぞの標本圖をたどつてゆくと、ゆき子はつくづく遠いところに來たやうな氣持ちがした。誰も食堂へはやつて來さうもないので、ゆき子は庭に出てみた。星が澄んできらめき渡り、ゴム風船をすりあふやうな、透明な夜風がゆき子の絹ポプリンの重たいスカートを吹いた。何處からともなく、香ばしい花の匂ひが來る。小徑の方で、ボンソア‥‥と挨拶してゐる女の聲がしてゐる。薄い雲が星をかいくゞつて流れてゐる。湖は見えない。部屋へ戻つて窓に凭れてゐると、暫くしてから、階下の何處かで電話のベルがけたゝましく鳴り、それからすぐ、牧田所長の自動車が戻つて來た樣子だつた。急に階下がざわめきたち、數人の男達の笑ふ聲が聞えた。




 夜明けに吹く山風で、ゆき子は松風の音を聽いた。朝の寢覺めに、あの男と、廣い芝生でテニスをしてゐる夢をみて、なつかしかつたが、その夢は思ひ出さうとしてもとりとめがなかつた。またすぐ、こゝを發つて行くひとだらうか‥‥。それにしても、同じ屋根の下に二度も吹き寄せられる人間の奇遇を、ゆき子は愉しいものに思つた。念入りに化粧をして、粗末な布地ではあつたが、白絹のワンピースを着て、朝の食堂に降りて行くと、牧田氏と、あの男が、網戸をあげた、廣い窓邊でコオヒイを飮んでゐた。血色のいゝ牧田氏は、にこにこして朝の挨拶をしてくれたが、あの男はゆき子に對して一べつもくれなかつた。窓へ足をあげて、不作法な腰掛けかたで、もやでかすんでゐる湖を見てゐた。情のないしぐさで、そんな風なスタイルを見せる一種のポーズが、ゆき子には、中學生のやうな がんこさに見えた。

「どうです?幸田さん、こつちへいらつしやい。道中が長いンで疲れたでせう? サイゴンでは、富岡君と同じ宿舍だつたンださうですね?」

 ゆき子がその男の方を不安さうに見たので、牧田氏は、小さい聲で、

「君、幸田君つてね、これから、當分こゝで、タイプの方をやつて貰ふひとなンだよ。半年位して、パスツウルの方へまはつて貰ふンだがね‥‥」と、云つた。

 男は初めて、幸田ゆき子の方へ躯を向けた。それでも腰かけたなりで、「僕、富岡です」と挨拶した。

「何だ、初めてなのかい? 紹介濟みかと思つてたンだよ。こちらは富岡兼吾君、やつぱり本省の方から來たひとで、三ケ月程前にボルネオから轉任して來たンだ。――日本の女のひとは珍しいから、もてゝ仕樣がないだらう‥‥。こゝぢや、幸田さん一人だからね」

 ゆき子は、革張りのソフアに遠く離れて腰をかけた。昨夜、ホテルのロビーで、瀬谷が、ゆき子の事を、地味な女だから、かへつて、仕事にはいゝだらう。サイゴンに置いて來た篠井といふ女は、これは一寸美人だから問題を起しはしないかと心配してゐるンだと話してゐたが、かうして遠くから見る幸田ゆき子の全景は、瀬谷の云ふほど地味な女にも見えなかつた。珍しくパアマネントをかけてゐないのも氣に入つた。第一、つゝましい。きちんとそろへたむき出しの脚は、スカートの下からぼつてりとした肉づきで、これは故國の練馬大根なりと微笑された。疊や障子を思ひ出させるなつかしさで、なだらかな肩や、肌の蒼く澄んだ首筋に、同族のよしみを感じ合掌したくなつてゐた。少々額の廣いのも、女中のニウよりは數等見ばえがした。混血兒のマリーのやうに、六角眼鏡をかけてゐないのも氣に入つた。日本の若い女が、はるばるとこの高原へ來て呉れた事が牧田氏には夢のやうなものであつた。昔は海外へなぞ出て行く女に對して、あまりいゝ氣持ちは持てなかつたのだが、幸田ゆき子は、牧田氏には案外印象がよかつた。化粧も案外上手である。瀬谷の云ふほどの女ではなかつた事が牧田氏を幸福にした。大きな卓上にはカンナの花が活けてあつた。牧田氏は至つて機げんよく富岡と専門的な話をしてゐた。ゆき子はうつとりして、明るい窓の方を見てゐたが、心はとりとめもなく流れてゐた。富岡は煙草をくゆらしながら、兩腕を椅子の後に組んで、後頭部を凭れさしてゐた。左腕の黒い文字板の時計に、赤い秒針が動いてゐた。アイロンのきいた茶色の防暑服を着て、凉し氣なプラスチックの硝子めいた細いバンドを締めてゐる。剃りたての襟筋が青々としてゐた。軈て食堂のベルが鳴つた。牧田を先にたてゝゆき子が富岡の後から食堂へ這入つて行くと、白いテーブルクロースの上に、白や紫の珍しい花が硝子の鉢に盛られ、アルマイトの赤い器に、豆腐の味噌汁が出てゐた。玉子燒や、桃色のあみの鹽辛なぞが次々に運ばれた。ゆき子は富岡と竝んで牧田氏の前に腰をかけた。ホテルに泊つた茂木、瀬谷、黒井なぞはまだ事務所に顔をみせない。天井にしつらへてある扇風機が厭な音で軋つてゐた。牧田氏は味噌汁をずるずるとすゝりながら、

「内地は段々住み辛くなつてるさうですが、こゝにゐれば極樂みたいでせう?」

 と、ゆき子へ話しかけて來た。極樂にしても、ゆき子はかつてこんな生活にめぐまれた事がないだけに、極樂以上のものを感じてかへつて不安であつた。富豪の邸宅の留守中に上がり込んでゐるやうな不安で空虚なものが心にかげつて來る。

 時々、富岡は、サイゴンの農林研究所の話や、山林局の佛人局長に對する日本の亂暴なやりかたに就いてひなんをしてゐた。第一、貧弱な日本人が、コンチネンタル・ホテルなぞにふんぞりかへつてゐる柄でないなぞと牧田氏も小さい聲で合槌打ちながら、あんな大ホテルを兵站宿舍なぞにして、軍人が引つかきまはしてゐる事は、占領政策としても、かへつて反感を呼ぶ事ではないかと話した。

「我々は幸福と云ふものだ。軍の目的は兎に角として、我々は自分の職分にしたがつて森林を護つてやればいゝンですよ。充分にめぐまれた仕事として、それだけは感謝してゐるからね‥‥」

 富岡は、十日ばかりをサイゴンに暮し、ルウソウ街にある農林研究所で、ガス用木炭に關する研究を行つてゐた。富岡は、パン食であつた。ふつと、手をのばして、バターの皿を取つてくれた幸田ゆき子の手を見た。肉づきのいゝ日本の女の手を、珍しさうに見た。

 美しい優しい手だと思つた。

 生毛が生えてゐる。

「四五日うちに、ランハンに行きたいと思つてゐます。竹筋混凝土の研究を、一寸見て來ようと思つてゐます。加野君が、薪炭林の中間作業に就いての詳細をよこしてゐましたが、御覧になりましたか。――木炭自動車も仲々馬鹿になりませんね。もう、内地でも木炭自動車にどんどん切りかへてゐるさうですが、こつちぢやア早くからやつてゐるンですからね――。加野君の書いたもの、いつぺん眼を通しといて下さいませんか。トラングボムの研究所にも行つて、加野君にも逢つてやりたいと思つてゐます‥‥」

 富岡はぼそりと、そんな事を云つて、さつさと先に應接間へ戻つて行つた。

「随分變つた方ですのね‥‥」

 無遠慮に部屋を去つて行つた富岡に對して、思はずゆき子は牧田氏に、こんな事を云つた。

「風變りな人間でね、だが、あれで、仲々情の深い男なンですよ。三日に一度、きちんと細君に手紙を書いてをる‥‥。私には仲々そんな眞似は出來ない。責任感の強い男で、一度引き受けたら、一つとして間違つた事がない奴ですよ‥‥」

 三日に一度、細君に手紙を書いてゐるといふ事が、何故だか、ゆき子にはがんと胸にこたへた。




 二日目の夕方、牧田氏は急用で、サイゴンからプノンペンまで事務上の用事で十日ほど出張する事になつた。丁度、歸途をともにする瀬谷老人と二人で、一行はトラックで出發した。茂木や黒井は、安南人の通譯の案内で、分擔區へ視察に出てゐて、あとへ殘つたのは、富岡とゆき子だけであつた。富岡は、二階の中央にある東側の一番いゝ部屋を持つてゐた。一番いゝ部屋といつても、清潔な病室のやうな部屋であつた。三日おきには、細君に手紙を書いてゐる富岡に對して、ゆき子は、妙に白々しい感情になつてゐた。食堂であつても、富岡は「おはよう」とか、「やア」とか云ふ位で、タイプの仕事は、マリーの方へまはしてゐるやうだつた。タイピストのマリーは、仕事に飽きて來ると、食堂へ行つてはピアノを彈いてゐた。その音色は高原のせゐもあつたが、仲々いゝタッチで、ゆき子には曲目は判らなかつたけれども、時々きゝほれてしまつた。富岡も、音樂が好きとみえて、仕事机で、呆んやりピアノに耳をかたむけてゐる。マリーは二十四五歳にはなつてゐるらしかつたが、眼鏡のせゐか老けてみえた。几帳面な家庭の娘だといふ話である。羚羊のやうなすんなりした脚で、何時もネイビイブルウのソックスに、白い靴をはいてゐた。腰の線がかつちりしてゐて、後から見る姿は楚々とした美しさだつた。髮は薄い金茶色で、ゆるいウェーヴをかけた斷髮が、肩で重たく波打つてゐる。何の藝もないゆき子は、マリーのピアノを聽くたび、人種的な貧弱さを感じさせられた。マリーは英語も佛蘭西語も、安安語も達者で、仕事もてきぱきしてゐた。何もわざわざ、この遠い佛印の高原にまで、ゆき子のやうな無能な女が呼びよせられる必要もないではないかと、ゆき子はふつとそんな事を考へる時があつた。ゆき子の仕事は邦文タイプを打つ仕事で、或ひは秘密な書類をつくる仕事に重要なのかも知れないと、自らを慰めて、無爲な時間を過すのだつた。

 牧田氏が急に旅立つたので、富岡のランハン行きは延びたが、五日ほどたつた或日、トラングポムから加野久次郎が、ひよつこり安南人の助手を一人連れてダラットへ戻つて來た。

 加野は戻つて來るなり、事務所の幸田ゆき子を見て、吃驚した表情で、顔を赧らめた。富岡の紹介で加野とゆき子は挨拶しあつた。物事に精根をかたむけ盡しさうな、ひたむきな青年らしさで、すぐ、富岡と椅子を寄せあつて、仕事の話を始めてゐる。

「何かい、少しは長くゐられるの?」

「どうも、下痢ばかりしちやつて、あまり工合もよくないしね、それに、ダラットの文明も戀しかつたンだ。富岡さんが戻つてるとは思はなかつた‥‥」

 長い話のあと、二人はこんな事を云つて、コオヒイを女中に持つて來させて、如何にもなつかしさうな間柄のやうであつた。加野は富岡よりは若く見えた。男にしては色が白く小柄で、紺の開襟シャツに白い半洋袴をはいて、スポーツ選手のやうな輕快さがあつた。躯つきとは反對に眼の色はいつもおどおどしてゐて、相手の顔を正しく正視出來ない氣の弱さがある。

 晩餐の食堂で、久しぶりに賑やかな食事が始まつた。アペリチーフに、富岡がサイゴンから手に入れた、白葡萄酒を拔いた。ゆき子にもさゝれた。

「幸田君は、千葉かい?」

 酒に醉つたせゐか、無口な富岡がふつと、ゆき子に、こんな事を尋ねた。

「あら、千葉ぢやないわ。失禮ね‥‥」

「え、さうかなァ、千葉型だと思つたンだがね。ぢやァ何處?」

「東京ですわ‥‥」

「東京? 嘘つけ。東京生れには、幸田君のやうなのはないよ、あれば、葛飾、四ッ木あたりかな‥‥」

「まァ! ひどい方ね」

 ゆき子は侮辱されたやうでむつとした。

 加野がみかねて、

「富岡さんは無類の毒舌家なンだから、氣にかけないでいらつしやい。これが、このひとの病なンですよ‥‥」

「さうかなァ、東京かなァ‥‥。江戸ッ子にしちやァ訛があるよ。幸田君はいくつ?」

「いくつでもいゝわ‥‥」

「二十四五かな‥‥」

「あら、私、これでも二十二なンですよ。本當にひどい方ねえ、富岡さんて‥‥」

「あゝさうか、二十二ね、女のひとが二十四五に見えるつてのは、利巧だつて云ふ事だよ。若く見て貰ひたいなンて愚かな事だ」

 富岡は今度は、コアントロウの瓶を出して來て、栓を開けた。加野は富岡と同じ東京高農の出で、先輩の富岡と安永教授の引きで佛印へ森林業の研究に赴任して來たのである。富岡も加野も文學好きで、富岡はトルストイフアンであり、加野は漱石信者であり、武者小路の心醉者でもあつた。

「はるばると佛印のダラットへ進駐して來た、幸田女史の爲に乾杯!」

 加野がさう云つて、グラスをゆき子の前へ差し出した。ゆき子は涙ぐんでゐた。抵抗したい氣持ちだつた。富岡は醉つた眼に、ゆき子の涙を浮べてぎらぎら光る眼差しを見た。その眼の色のなかには、不思議な魔力があつた。女房の眼のなかにも、時々こんな光りがあつたと思つた。わけのわからないとまどひで、富岡はコアントロウをぐつとあふつた。ゆき子は此の場に耐へられなくて、そつと椅子をずらして部屋を出た。二階の自分の部屋に上つて行くには、あまりに戸外は美しい夜であつた。ゆき子は夜露に光つた廣い路を降りて、あてどなく歩いた。

「氣にして、出ちやつたよ‥‥」

 加野は、ゆき子を二階まで追つて行き、ゆき子の部屋の扉を叩いたが、返事がなかつた。鍵が開いてゐたので、ノブをまはすと、燈火がかうかうとついたベッドの上に、女學生のはく、黒いパンツがぬぎすてゝある。加野は暫くそこに立つてゐた。

 食堂へ戻つてからも、加野は、黒いパンツが瞼にちらついた。

「取り澄ましてる女ぢやないか?」

 富岡が吐き捨てるやうに云つた。加野は外へ出て行つたらしいゆき子を考へて、探しに行つてやりたい氣持ちだつた。

「三宅邦子つて女優に似てゐないかね?」

 加野が云つた。

「そんなの知らないよ。若い女がこんな處まで來るのは厭だね」

「案外古いンだなァ‥‥。僕はダラットが一寸よくなつて來た‥‥」

「幸田ゆき子は、加野には似合はないよ」

 加野は、コアントロウを手酌でやりながら、血走つた眼で、天井の動かない扇風機の白いプロペラを見上げてゐた。富岡は如何にもものうさうに金網の窓ぶちに足をあげて、椅子の背に頭を凭れさしてゐた。

「何時まで、この生活が續くかなア‥‥」

 溜息まじりに富岡が云つた。

「勝つとは思へないよ」

 加野はけゞんさうな顔を富岡へ向けた。

「サイゴンで、そんな風に思つたンだ。ねえ、大きい聲ぢや云へないが、來年の春がやまぢやないかね?」

「奥地へ這入つてると、何も判らンが、そんな氣配があるの? 何かニュースあつた?」

「絶體に勝てやしないよ。それだけだよ」

「さうかねえ、俺は大丈夫だと、信じてゐるンだ。日本の海軍つてものは、どうしてるンだろう‥‥」

「策はあるンだらう‥‥。戰果が毎日擧つてるぢやないか」

 加野は、黒いパンツを瞼から取り去れないもどかしさで、立つて、扇風機のスイッチを入口へ押しに行つた。白いプロペラは、ネヂがきりきりとまはるとみるまに、ぶうんと唸り始めた。卓上の花が風に強くゆるぎだした。




 幸田ゆき子は暫くたつても戻つて來なかつた。富岡は扇風機の風に吹かれて、椅子の背に頭を凭れさしたまゝ眠つてゐる。

 加野は扇風機をとめた。そして、靜かに食堂を出て行つて、ゆき子を探しに戸外へ出てみた。ヒガンザクラのこんもりした暗い並木のあたりで、夜烏が啼いた。濡れて、ぴたりと動きがとまつたやうな空だつた。淡い燈かげが、樹間にちらついてゐる。山林事務所のすぐ下の方に、華僑の別莊風な、でこでこした建物があつた。暫く人も住まないと見えて、庭は荒れてゐたが、南洋バラとでもいふのか、雪のやうに小さい花をつけた、生垣の中に、かすかに歌聲が聞えた。日本の歌だ。あつ、このなかにゆき子がゐるのだなと、加野は芝生の方から這入つて行つた。虫がしきりに啼きたてゝゐる。背中の反つた、ゆつたりした木のベンチに、ゆき子が腰をかけて、歌つてゐる。

 ゆき子は加野だと判つてゐた。歌をやめて、暗い庭を透かすやうにして、立ちあがつた。

「どうしたの? 怒つたの?」

「何でもないのよ‥‥」

「歸らない? 夜霧にあたつちや毒だ。こんなところで、蚊にでもさゝれて、病氣しちやァ毒だよ‥‥」

「あとで、一人で歸ります‥‥」

「あいつはね、いゝ人間なンだけど、毒舌家なンだ。一つは神經衰弱もあるかも知れないね‥‥」

 加野は、ゆき子の肩へ手をかけたが、薄い絹地をとほして、案外柔い女の肉づきに、全身が熱くなつた。酒の醉ひがまはつたせゐか、自制するにはあまりに辛く、加野はゆき子の柔い肩の肉を、二三度熱い手でつかんだ。ゆき子は、くるりと加野の手をすり拔けたが、ゆき子自身も、自制出來ないやうな胸苦しさになつてゐる。本能的に、毒舌家の富岡を、ひどいめにあはせてしまひたいやうな、反抗の氣が湧いた。こんな、白い肉の男なぞ、少しも興味はないのだ。ゆき子は默つて立つてゐた。加野は、もう一度、不器用に、ゆき子のそばへ寄つて來た。遠くで、ホテル行きの、自動車のヱンジンがかすかに唸つて、往來してゐる。

 今日、トラングボムから戻つて來たばかりで、ゆき子に惹かれる氣持ちは、これは慾情だけなのかと、加野はちらりと、その思ひにかすめられたが、現在をおいては、他に此の女を得る機會がないやうな氣がしてゐた。加野はもう一度、ぴつたりゆき子に躯を寄せてみた。ゆき子はぎらぎら光つた眼差しで、加野を見つめた。むれた雜草や、花の匂ひが夜氣にこもつてゐる。時々、ちいつと草の莖が鳴つた。

「加野さん、私ね、内地では、どうにも仕樣がなくつて、こゝへ志願して來たンですの‥‥。加野さんは、お判りになるでせう? あの戰爭のなかで、若い女が、毎日、一億玉碎の精神で、どうして暮してゆけて? 私、氣まぐれで、こんな遠いところへ、來たンぢやないのよ‥‥。何處かへ、流れて行きたかつたの。――それを、富岡さんに、あんな、意地惡な事を云はれて、‥‥心にこたへない筈つてないでせう? 三人とも、日本人ですよ。――葛飾だつて、四ツ木だつて、よけいなお世話だわ。生き苦しい氣持ちで辿りついたものを、高いところから、せゝら笑ふなンて失禮よ‥‥」

 突然、ゆき子が甲高い聲で云つた。加野は、激情を宙に浮かしたまゝ、獸のやうに光つたゆき子の眼を覗き込んでゐたが、生き苦しくて、こゝへ來たのだと云はれて、ゆき子の背景にある、内地の状態がぐるりと眼に浮んだ。

「富岡は、酒に醉つてるンだよ‥‥」

 加野はさう云つて、また、大膽に、ゆき子の二の腕を、兩の手で強く握り締めた。

「厭ツ! 加野さんも、酒に醉つていらつしやるのねツ、私は、違ふのよ‥‥」

 ゆき子は固くなつて、云つた。眼を閉ぢたが、別に加野の手をふりほどきもしなかつた。矢庭に熱い加野の唇が頬に觸れた。咄嗟に、ゆき子が顔を動かした。加野の唇はゆき子の頬に突きあたつて、あへなく離れた。

 道の方で、「おーい、加野君!」と呼んでゐる、富岡の聲がした。加野は小さい聲で、ゆき子に、

「貴女も、後から戻つていらつしやい」

 と、云つて、素直に加野は、すたすたと草の中を分けて、道へ出て行つた。富岡は默つて草の中から出て來た加野に、急に不快なものを感じてゐる。加野は云ひわけめいた事も云はずに、默つて、富岡と歩調をあはせて、相手の不快らしい反射を浴びたまゝ、事務所の方へ戻つて行つた。夜氣は凉しく、夜霧で、靴がアスハルトに滑りさうだつた。

「内地はそろそろ雪だね‥‥」

 富岡が生あくびのあと、ぼつりと云つた。

「あゝ、歸りたい。一度でいゝから歸りたいなア‥‥」

 加野は、息苦しくて、流れて來たのだと云つたゆき子の、思ひ詰めた、さつきの言葉が胸に引つかゝつて返事もしなかつた。

「幸田ゆき子は、相當怒つてるの?」

 富岡が何氣なく、煙草を出して、長い紐つきのライタアを、指の先きで彈きながら云つた。

「あゝ、怒つてるね」

「さうか‥‥」

「いゝ娘だよ」

「ほう‥‥いゝ娘かね? 彼女は、娘なのかね‥‥」

「娘だよ。手ひどくやつゝけられた」

 かへつて、現在白状しておく方が好都合だと、加野は正直に告白した。富岡は、煙草を吸ひながら默つて歩いた。

「君は、内地に好きなひとはなかつたのかい?」

「なくもないさ‥‥」

「ふうん‥‥」

 加野は、曲り道で、後を振りかへつて見たが、ゆき子の姿は坂の下には見えなかつた。

「おい、明日、フイモンまで、自動車で釣りに行かないか?」

 富岡の道樂は釣りであつた。フイモン附近には、四つの飛瀑があり、富岡はフイモンは馴染みの場所である。加野は釣りに行く氣はない。そんな悠々とした氣持ちにはなれなかつた。久しぶりに山の中から戻つて來たのである。人間が見たかつたし、切ない感情が胸の中に渦を卷いて、こゝまで、戻つてゐるのだつた。久しぶりに富岡に逢つた事も嬉しかつたが、思ひがけない幸田ゆき子との出逢ひは、野火のやうに火を噴いた。黒いパンツを見た時の、脚のすくむ感情は、現在、加野にとつて、どうしやうもないのである。加野は返事もしないで、ぴゆつと犬を呼ぶ時の口笛を吹いた。自動車小舍の方で、微かに犬が吠えた。

「牧田さんはうまい事したなア、サイゴンとプノンペンでは、久しぶりのオアシスだね‥‥」

「うん」

「富岡さん、サイゴンで、面白い事あつたの?」

「面白い事なンかあるもンか」

「さうかなア‥‥。さうでもないだらう?」

「君も、トラングボムへ歸る迄に、一度、サイゴンへ行つて、さつぱりして來るンだね‥‥」

「サイゴンか‥‥。久しく行かないなア‥‥」

 加野は、サイゴンなんか、どうでもよくなつてゐた。今夜の、星あかりに見た、ゆき子の、獸のやうな眼の光りが忘れられなかつた。どうしても話しあつてみたかつた。そして、あの淋しさを慰めてやりたかつた。少し夜風に吹かれたせゐか、さつきの激しい動悸もおさまり、自分のせつかちな亂暴さが、後悔された。氣まぐれで、こゝへ流されて來たのではないと、泣きさうになつて云つた、あの思ひは、考へてみると、自分にも通じるものがあつた。兵隊に行くよりはいゝのだ。あの言葉は、忘れ去つてゐた古傷に、さはられたやうな痛さである。赤羽の工兵隊に召集されて、南京攻略に行つた時の、あの憂鬱な戰爭が、腦裡をかすめた。何といふ湖だつたか、暗い夜、船の中に女をしのばせて、あわただしいあそびかたをした思ひ出が、影繪のやうに加野の瞼に浮んだ。




 富岡は面白くもなかつたので、食堂の前で加野に別れると、さつさと二階へ上つて行つた。夜光時計を見ると、十一時をかなりまはつてゐた。部屋へ這入ると、女中のニウが、富岡の洗濯物を整理して、棚へしまつてゐた。にぶい動作で、片づけてゐる。富岡はゆつくり片づけてゐる、ニウの樣子にやりきれない淋しさになり、裏梯子から標本室の方へ降りて行つた。標本室に燈火をつけて、圓い木の椅子に、腰を掛けた。陳列に竝んだ、乾いた標本を、ひとわたり眺めながら、何のために、こんなところに所在なく腰を掛けてゐるのか、自分で自分が判らなくなつてゐた。

 部屋へ戻つて、久しぶりに妻へ手紙を書かうと思つた。サイゴンへ旅をして、十日あまり、故國へは音信もしてゐない。しみじみした淋しさの思ひは、妻へだけは云へるやうな氣がした。あらゆるものゝ乏しい内地にあつて、云ふに云へない苦勞を、一人で續けてゐるであらう妻の姿が、ほうふつとして浮んで來る。サイゴンで買つた、ミッチェルの口紅や、粉白粉を、近々好便を選んで内地へ送つてやりたいと、富岡は妻の邦子に、そんな事も書き添へてやりたかつた。

 咽喉が乾いたので、標本室を出て、食堂へ行つた。加野がまだ食堂で殘りのコアントロウをかたむけてゐた。

「幸田女史は戻つたやうかね?」

「あゝ、戻つて、自分の部屋へ行つた」

 富岡は、水を飮み、またゆつくりと二階へ上つて行つた。部屋には、もうニウはゐなかつた。富岡は扉に鍵をかけて、ベッドへ後ざまに寢轉んだ。バネがきしきしとたはむ音を聞きながら、じいつと、天井のくもり硝子の電燈を見つめてゐた。心に去來するものは、何もなかつた。水のやうな、淋しさのみが、しいんと、濡れ手拭のやうに、額に重くかぶさつて來る。横になつてしまふと、妻へ手紙を書く事も、ひどく、億くうになつて來た。軈て、富岡は黄ろいパジャマに着替へた。思ひをこめて洗濯してある、アイロンのすつきりしてゐる寢卷き‥‥。ニウの情けが哀れであつた。

 毛布を蹴つて、シーツに樂々と横になる。――食堂の扉がきいつと軋んで、ゆつくり二階へ上つて來る加野の足音がした。加野の奴、加野の奴と、ふつと、そんな言葉を胸のなかで富岡はつぶやく。幸田ゆき子のすくすくした躯つきが、妻の邦子に何處か似てゐた。第一に、言葉のニユゥアンスが通じたといふ、妙な發見が、富岡の心に響いた。同じ人種の男女に丈、通じあふ、言葉や、生活の、馴々しさが、こゝに一人現はれた、幸田ゆき子によつて示されたかたちだつた。――加野は、今夜は仲々眠れないと、富岡は、ふつと微笑した。軈て隣りの部屋では、亂暴に椅子を引き寄せたり、洋服箪笥を開けたりしてゐる、加野の焦々した氣配が聞えてゐた。

 富岡は寢つかれなかつた。標本室の電燈を消す事を忘れてゐたやうな氣がして、富岡はまた、のこのこ起き出して、廊下へ出て行つた。階下へ降りると、ニウが水色の部屋着を着て、標本室の入口に立つてゐた。

「燈火を、消し忘れたンで、降りて來たンだ」

 富岡が、安南語でさゝやくやうに云つた。

「私も、いま、燈火を消しに來たのです」

 ニウはさう云つて、自分で、長い部屋着の裾を前でつまむやうにして、脊延びをして、壁のスイッチを切つた。富岡は重たくぶつつかつて來る女の躯を抱きしめた。ニウが何か云ひさうだつたので、富岡はあわてゝ、ニウの唇に接吻した。長い接吻のあと、小柄な女の躯を壁に立てかけるやうにして、富岡は二階へ上つたが、ニウが、かすかに笑ひ聲をたてたやうな氣がした。二階の梯子を上りながら、富岡は銅像の團十郎のやうに、眼をむきながら、ゆつくりと部屋へ這入つた。

 靜かな晩である。

 風の吹く日は、山鳴りのやうな、松の唸りがするものなのだが、今夜は松の唸りも聞えなかつた。富岡は、松の森林を瞼に描いてみた。馬尾松の房のやうに、長い葉の頼りなさや、メルクシ松の箒のやうな形状、カッチヤ松の淡い色彩。小旗のやうな破れかぶれの枝工合なぞが、次々と瞼に現はれては消える。――南ボルネオの山林に、メルクシ松をたづねて歩いた時の山野の思ひ出が、また瞼にかけめぐつて來る。バンヂャルマシンの町で見た、五月信子の、慰問の芝居なぞがなつかしかつた。演しものは、「時の氏神」だつたかな‥‥。海のやうに廣い、黄濁した河幅いつぱいに、ヒヤシンスに似た、イロンイロンの大群の水草の流れには、富岡は驚いたものだつた。あれもこれも、過ぎ去つた一夢であらうか‥‥。植物は、その土地についたものでなければ、うまく育たないものなのだと、現に、このダラットの、山林事務所の庭先に、植栽されてゐる、日本の杉の育ちの惡さを、富岡は、民族の違ひも、また、植物と同じやうなものだと當てはめて考へてみる。植物は、その民族の土地々々にしつかり根づいたものではないのかと、妙な事を考へ始め出した。――ダラット近邊の、メルクシ松の分布圖面では、メルクシ松が、三五、○○○ヘクタールと云つたところで、どさくさで這入りこんだ、こんな、鈍才の日本の一山林官が、いつたい、どんな風に、よその土地の數字をのみこめると云ふのだ‥‥。幹形、木理麗はしいと云つたところで、大森林のメルクシ松を、世界の何處へ賣り出さうと云ふのだ‥‥。長年かゝつて成長させた、人の財寶を、突然ひつかきまはしに來た、自分達は、よそ者に過ぎなからうではないか‥‥。いつたい、これだけの雄大な山林を、日本人がどう處理してしまふのだらう‥‥。人間の心は自由である。富岡はうつらうつらと、とりとめもない、幼い事を考へてゐた。一向に眠れない。

 富岡は燈火を消した。

 燈火を消すと同時に、隣室の加野が、ドアを開けて、また、ゆつくりした足音をたてゝ、階段を降りて行つた。‥‥まさかと、妙な考へを打ち消しながら、富岡は耳をそばだてゝゐた。――暫くして、深い井戸に、水滴のしたゝるやうな音階で、食堂のピアノがぽつん、ぽつんと鳴つた。長い間の、山歩きの禁慾生活が、加野を物狂ほしくしてゐるのだと、富岡はきゝ耳をたてゝゐた。頭をしづかに枕に沈ませる。さつき、ニウとひそかに接吻した、自分のいやらしさが、急にむかついて來た。加野も自分も、戀ではないものを戀してゐるのだ。二人とも、内地にゐた時の、旺盛なヱスプリを失つてしまつてゐる。ダラットの高原に移植されて、枯れかけてゐる日本の杉のやうなものになりつゝある、自分達を、富岡は、何氣なく、南洋呆けかなと、咽喉もとでつぶやいてみるのだつた。




十一

「ボンヂゥウル‥‥」

 マリーの柔い、朝の挨拶が、階下の踊り場で聞えた。重い頭を枕から持ち上げて、富岡は、腕時計を眺めた。九時を指してゐる。そんな時間なのかと、ゆつくり起きて、富岡は暫くベッドで煙草を吸つた。づきづきと頭が痛んだ。何をしたらいゝのか、一向に、躯は動きたがらない。すべてが茫々としてゐる。小禽が可愛くさへづつてゐた。ゆつくりと窓を開けると、かあつとした高原の空と、緑は、お互ひに、上と下とが反射しあつてゐるかのやうな爽凉さであつた。澁色の、光つて冷たさうな服を着た、ニウが、廣い庭隅の花畑に立つてゐた。疲れを知らない、女の健康さが、富岡は憎くもある。長い接吻をしたあと、昆蟲のやうな笑ひ聲をたてた、ニウの心の中が、富岡には不思議であつた。思ひきりのびをして、また、ゆつくりと、ベッドに腰をかける。躯を動かす事自體に無意味なものを感じる。

 富岡は、顔を洗ひに洗面所へ出て行つたが、その序に、加野の扉を叩いてみた。返事がなかつた。ノブに手をかけると、扉はニスの匂ひをさせてすつと開いた。窓は開けつぱなし、床には服をぬぎすてたまゝ、加野は茶縞のだんだら模樣のパンツ一つで、裸でベッドに寢てゐた。むきたての玉子のやうな、蒼味がゝつたすべすべした肌で、うつぶせになつて眠つてゐる。唇は開いたまゝ時々、樋に水の溜るやうないびきをあげてゐる。天地無情の姿かなと、富岡は、加野の冷い肩を大きくゆすぶつて起した。加野はにぶく眼を開けた。昨夜の痴情の爲か、眼が血走り、視線がさだまらない樣子だつた。

 富岡は、そのまゝ洗面所に行き、冷たいシャワーを浴びた。朝になつたのだ、何事もないぢやないか‥‥。昨夜の妖怪變化は雲散霧消してしまつたのだ。大判のタオルにくるまり、急いで二階へ馳け上る元氣が出た。アイロンのきいた、白い半袖の上着に、ギャバヂンの茶色の長洋袴をはいて、鏡の前で苦手な髯剃り作業にかゝる。コオヒイの香ばしい匂ひが二階までのぼつて來た。教會の鐘が鳴り始める。

 身支度をとゝのへて、食堂へ降りて行くと、窓ぎはに、幸田ゆき子が、獨りで食事をしてゐた。

「お早よう‥‥」

 ゆき子は泣き腫れたやうな眼で、富岡の挨拶に微笑したゞけであつた。富岡は、ゆき子の優しい表情を見て、照れ臭かつた。そのまま怒つたやうに、自分の席へ行き、さつさと食事を始めた。食事を運ぶニウも、まるきり人が變つてしまつてゐる。佛像のやうな表情のない顔で、コオヒイや、トーストを運んで來る。事務所の方では、マリーの打つタイプの音が忙はしさうだつた。

 食事を濟まして、富岡は漂然と、四キロほど離れた、マンキンへ行く氣になつた。安南王の陵墓附近の、林野巡視の駐在所まで、一人で出掛けて行つた。氣持ちが屈してゐる時は、釣りに出て行くよりも、むしろ、森林を相手に自問自答した方が快適であらう。――ダラットの部落々々には、大小樣々の製材所があつた。キイッと、耳をつんざく、裂かれる樹木の悲鳴を聞きながら、曲りくねつた、勾配のある自動車道を、富岡は默々として歩いた。沿道は巨大なシヒノキや、オブリカスト、ナギや、カッチヤ松の森で、常緑濶葉樹林が、枝を組み、葉を唇づけあつて、朝の太陽を鬱蒼とふさいでゐた。空は切り開いた森の中を、河のやうに青く流れてゐた。人の歩いて來る氣配で、富岡が、ふつと後を振り返ると、意外な事には、幸田ゆき子が、白いスカートをなびかせながら、急ぎ足で歩いて來てゐた。

 富岡は、自分の眼のあやまりではないかと思つた。立ち停つてやつた。ゆき子は、息をはづませながら近寄つて來た。

「どうしたの?」

「私、今日の仕事、何をすればいゝンでせう?」

「仕事?」

「えゝ‥‥」

「加野君は?」

「とてもよく眠つていらつしやいますわ」

 安南人の林務官がゐる筈だが、來たばかりの幸田ゆき子には言葉が判らないのだ。

「牧田さん、何か、仕事を云ひつけてゆかなかつたの?」

「いゝえ、何もおつしやいませんわ‥‥」

 二人は自然に、マンキンの方へ歩を運んだ。富岡は默つて歩いた。ゆき子も默つて富岡の後からついて行つた。時々、軍のトラックや、自動車が通る。運轉してゐる兵隊が、日本の女を見て、はつと驚いたやうな表情で通り過ぎて行つた。ゆき子は富岡からわざと離れて歩いてゐる。

 何時までも富岡がものを云はないので、ゆき子はもう一度、小さい聲で「どうしたらいゝンでせう?」と訊いてみた。

 富岡はゆつくり振り返つて、

「この先に、安南王の墓があるンですがね。見物したらどうです?」と、怒つたやうに云つた。

 富岡は大股に歩いてゐる。ゆき子には、富岡が親切なのかどうか、少しも、判らなかつた。後姿を、ゆき子は卑しいと思つた。富岡は、ヘルメット帽子を手にぶらぶら振つてゐる。音のしないラバソールの靴が氣持ちよささうだつた。ゆき子も、やつとの思ひで、サイゴンで安い白靴を買ひ、いまもそれをはいてゐるのだ。

 路が二つに岐れた。狹い人道の方へ這入つて、暫く行くと、何時の間にか、富岡の歩調はにぶくなり、ゆき子と肩を竝べる位になつた。ゆき子は、あゝ自動車道路は、軍の自動車が通るので、あんなに大股に歩いたのかと、富岡の考へに思ひ當つた。

「昨夜は怒つたンだつて?」

「あら、何をですの‥‥」

「加野がね、幸田君がとても、僕を怒つてるつて云つた‥‥」

「えゝ、とても、こたへちやつたンです」

 富岡は、ヘルメットをかぶり、腰の圖嚢から植林地圖を出して、それを擴げながら歩いた。森の中で、山鳩が近々と啼き始めた。白い地圖の反射を受けて、富岡は思ひついたやうに、胸のポケットから、薄紅いサングラスを出して高い鼻にかけた。地圖は急に薄紅く染つた。空の細い隙間から、高原の強い日光がぎらぎらと道に降りそゝいでゐる。富岡は、日本の女と歩く事に、何となく四圍に氣を兼ねてゐた。内地の習慣が、遠い地に來てゐても、富岡の日本人根性をおびえさせてゐるのだ。




十二

 かうして歩いてゐる事も、氣紛れのやうな氣がしたが、何しろ、四圍は稀な巨大の常緑濶葉樹が鬱蒼として繁つてゐる。甘つたるく、ねばつこい花粉にとりかこまれてゐるやうな氣配が立ちこめてゐて、二人とも默つて歩くには息苦しい。飛行機が森林の上を姿もみせずに、唸つて飛んで行つた。陵墓附近は原生林が昏く續き、カッチヤ松や、ナギが亭々と原生林のなかに混生してゐる。この原生林を突き拔けると、十二三ヘクタアルのカッチヤ松の、人工播種造林地帶になる。このあたりの民家では、炭燒きの かまども見られた。

 ゆき子は歩き疲れてゐた。昨夜はよく眠れなかつたせゐか、歩くと、息が切れさうに、背中がづきづきと痛んだ。だが、時々深呼吸をすると、馬鹿に胸の中がせいせいと、凉しい空氣でふくらんで來る。そのくせ、ゆき子は森林地帶には少しも興味はなかつた。只富岡の脊の高い後姿に心は惹かれてゆく。もつと、互ひに近しくなりたい孤獨な甘さだけで、ゆき子は歩いてゐた。ファンタスチックな感情が、ゆき子をわざと孤獨な風に化粧させてしまふ‥‥。何時、富岡に振り返られても、旅空の女の淋しさを、上手にみせる哀愁の面紗を、ゆき子はじいつとかぶつてゐた。その面紗の後で、ゆき子はひとりで昂奮して、やるせなげに溜息をついてゐるのだ。

 富岡は振り返つた。

「疲れたでせう‥‥」

「えゝ」

「僕は半日で、十二キロ位は平氣だね。森の中はいくら歩いても、案外疲れないし、夜はよく眠れるンだけどなア」

「あのう、加野さんは、ずつと、こちらにいらつしやいますの?」

「まだ、當分はゐるかもしれないね‥‥」

「私、加野さんつて氣味が惡いわ」

「何故? 荒れてゐるせゐかね‥‥」

「昨夜、ひどく、お酒に醉つて、いらつしたンですのよ。怖いわ」

 富岡は默つて、ゆつくり歩いた。自分にしても、何となく寢苦しい一夜だつた昨夜の事が、唐突に、その原因に關聯があるやうな氣がしてきて、一種の憎惡を持つて、加野を考へてゐた――。富岡は自分の後に近々と歩いて來てゐるゆき子に、歩調を合せるべく立ちどまつたが、無意識に、自然に寄つて來たゆき子の肩をつかんで、小暗いナギの大樹の下で、強く抱き締めてゐた。ゆき子も案外自然であつた。ゆき子は激しい息づかひで、富岡の胸に顔をすりつけて來た。呆氣なかつたが、富岡はゆき子の顔を胸から引きはなして、ぼつてりした唇を近々に見つめた。言葉の隅隅まで通じあふ、同種族の女のありがたさが、昨夜のニウとの接吻とは、はるかに違ふものを發見した。氣兼ねのない、樂々とした放心さで、富岡はゆき子の赧らんだ顔を眺めた。眼をつぶつて、荒い息づかひを殺してゐるゆき子の顔面が、ひどく妻の顔に似通つてゐた。麻痺した心の流れが、現實には、ゆき子の重たい顔をかゝへてゐながら、とりとめもなく千里を走り、もつと違ふものへの希求に、焦つてゐる心の位置を、富岡はどうする事も出來ない。南方へ來て、清潔に女を愛する感情が、呆けてしまつたやうな氣がした。森林のなかの獅子が、自由に相手を選んでゐた境涯から、狹い囚はれの をりの中で、あてがはれた牝をせつかちに追ひまはすやうな、空虚な心が、ゆき子との接吻のなかに、どうしても邪魔つけで取りのぞきやうがないのだ。富岡は、何時までも長く、ゆき子を接吻してゐた。ゆき子はすつかり上氣して、富岡の肩に爪をたてゝ苛れてゐる。少しづゝ、心が冷えて來た富岡には、ゆき子の苛れた心に並行して、これ以上の行爲に出る情熱はすでに薄れてゐた。野生の小柄な白孔雀が、ぱたぱたと森の中を飛んで消えた。

 二人は暫く、森や部落や、廣い農園のあたりを歩いて、晝もかなり過ぎてから事務所へ戻つた。富岡はすぐ部屋へ行つてタオルをかゝへて、シャワーを浴びに行つたが、ゆき子は何氣なく事務室を覗いた。加野がたつた一人で窓ぎはの廣いデスクに凭れて、書きものをしてゐた。扇風機がとまつてゐるので、部屋の中は蒸し暑かつた。加野は、ゆき子を見むきもしないで、ペンを走らせてゐる。マリーは仕事を濟ませて戻つたのか、タイプライターにカヴアがかけてあつた。ゆき子はそのまゝ事務室を出て、二階へ上り、自分の部屋に行つたが、自分の部屋の扉が開いたまゝになつてゐるのが、厭な氣持ちだつた。誰かゞ、自分の部屋をみまはしたやうな氣がして、ゆき子はじいつと、ベッドや机の上を眺めてゐた。ベッドへ誰かゞ腰をかけてゐたやうな、深いくぼみが眼につくと、ゆき子は何となく、不安な氣がしてならなかつた。扉の鍵を閉めて、そつと靴のまゝベッドに寢轉んでみたが、少しも落ちつかない。開いた窓には、青い空だけが見えた。こんなところへ、何をしに來たのかと苛責に似た氣持ちも感じられて、一日一日氣忙はしく戰爭に追ひたてられてゐる、内地の樣子が、意味もなく、ゆき子の頭の中に、泡のやうに浮いては消えてゐる。この現實には、さうした、追はれるやうな氣忙はしさはなかつたけれども、石のやうに重たい淋しさや、孤獨が、躯の芯にまで喰ひ込んで來た。ゆき子は、時々微笑が湧いた。深いちぎりとまではゆかないけれども、一人の男の心を得た自信で、豐かな氣持ちであつた。もう、遠い伊庭の事などはどうでもいゝ。富岡の一切が噴きこぼれるやうな魅力なのだ。川のやうに涙を流して愛しきれる氣がした。冷酷をよそほつてゐて、少しも冷酷でなかつた男の崩れかたが、氣味がよかつたし、皮肉で、毒舌家で、細君思ひの男を素直に自分のものに出來た事は、ゆき子にとつては無上の嬉しさである。富岡の冷酷ぶりに打ち克つた氣がした。昨夜、たやすく、加野の情熱に溺れてゆかなかつた強さが、今日の幸福を得たやうな氣がして、ゆき子は何時の間にか、滿足してうとうと眠りに落ちてゐた。





 シャワーを浴びた富岡は、こざつぱりと服を替へて、階下の食堂へ降りて行くと、加野が、ヴェランダへ向つて、木椅子に呆んやり腰をかけてゐた。富岡はシュバリヱの植物誌の重い本をかかへて、加野の横の木椅子に腰をかけた。正面にランビァンの山を眺め、眼の下に湖が白く光つてゐた。誰もゐない後の部屋では、からからと扇風機が鳴つてゐる。富岡に命じられて、ニウが冷いビールと鴨の冷肉を大皿に盛りあはせて持つて來た。

「一杯どうだ!」

 富岡が加野に聲をかけると、加野はものうげにコップを手に取つた。小禽が騒々しく四圍にさへづつてゐる。ビールを飮みながら、景色を見てゐると、山の色が太陽の光線の工合で、少しづつ色が變つていつた。加野が默つてビールを飮んでくれる事も富岡には幸だつた。山も湖も、空も亦異郷の地でありながら、富岡は、佛蘭西人のやうにのびのびと、この土地を消化しきれないもどかしさがある。この土地には、日本の片よつた狹い思想なぞは受けつけない廣々とした反撥があつた。 おうやうにふるまつてはゐても、富岡達日本人のすべては、此の土地では、小さい異物に過ぎないのだ。何の才能もなくて、只、この場所に坐らされてゐる心細さが、富岡には此頃とくに感じられた。貧弱な手品を使つてゐるに過ぎない。いまに見破られてしまふだらう‥‥。だが、眼の前に見る湖の景色は、永久に心に殘る美しさだつた。誰も彼も日本人なぞには見むきもしてゐない土地で、日本人は蟻のやうに素早く、あくせくと、人の土地を動きまはつてゐるだけだ。極めて巧妙に實際的な顔をして、日本人はこゝまで流れて來てはゐるけれども。カッチヤ松の樹齡は五六十年に達する筈なのだが、何の用意もなく、どしどし伐採して、伐採の數字だけを軍へ報告する。數字は笑つてゐるのだ。モイ族を使つて、ダニムの河に流したり汽車で運んだりはしてゐるが、富岡に云はせると、伐採された木材が少しも自由に動いていないのであつた。伐採された木材は、貨車に溜つたまゝだつたし、ダニムの流れには、切り口の生々しいカッチヤ松や、オプリカスト・ナギなぞの大木が、川添ひにごろごろしたまゝで、伐採の數字だけが机から机を動いてゐるだけだつた。素朴で不器用なモイ族を怠惰な奴隷として、日本の軍隊は忙はしく酷使してゐた。――ビールを飮みながら、富岡は植物誌を讀み出した。何十年となく此の地にとどまつて、印度支那産物誌や、植物誌を書いた佛蘭西人のクレボーや、シュバリヱの著述は、富岡にとつては仲々得がたいものであり、佛印の林業を知る上には、この書物は、此の上ない不朽の名著であつた。

 加野も幾分醉ひがまはつて來たのか、さつきの不機嫌さが表情から消えて、思ひ出したやうに大きい聲で、

「幸田女史は眠つてゐるのかな?」と云つた。

「さア‥‥。何をしてるのかね」

「さつき、マンキンへ幸田君連れて行つたンでせう?」

「いや、後から來たから、一緒に見物の相手をしたまでさ‥‥」

「僕はあのひとに惚れてるンだ。承知しといて下さいよ‥‥」

「ほう‥‥」

「こだはるわけぢやないが、さつき、工兵隊の將校が來て、富岡さんとよろしく歩いてゐた日本の女は、何者だと聞いてゐたンで、早いなと思つたンですよ」

「厭にこだはるなア。‥‥只、歩いてゐたゞけだよ。車輛部の少尉だらう? そんな事を云つたのは‥‥」

「僕もすぐマンキンまで行つたンですよ。随分探したンだが、判らなかつた‥‥」

 富岡は湖の方にひそかに眼をむけてゐた。わざと森の小徑へはいつて行つた事を知つたらどうだらうと、ぞくつとしながら、

「誰でも女には眼が早いもンねえ‥‥」と、何氣なく云つた。

「いや、富岡さんの素早いのには驚いた。寢てる間に幸田君とマンキンへ行くなンざア、よろしくありませんよ。女つてものは、瞬間の雰圍氣が勝負なンだから、いかに毒舌家の富岡さんでも信用はならない。」

「後からついて來たンだよ。所長が仕事をいひつけて行かなかつたし、君は寢てるンで、僕に何をしたらいゝか訊きに來たと云つたから、見物でもしたらいゝだらうと、一緒に案内したわけだ。それきりだよ。別に約束して、行つたわけでも何でもないさ‥‥」

「まア、いゝですよ。僕は惚れたンだから、何とか、彼女にぶちあたつてゆくまでだ」

 邪魔をしないでくれといつた、はにかんだ微笑で、加野は自分でビールを二つのコップについだ。富岡は煙草に火をつけて、ゆつくり煙を吐きながら、心のなかで、もう遲いよと獨白してゐる。だが、考へてみると、遲くもない氣がした。あの場合、ゆき子の感情を生殺しのまゝでやり過した、自分の疲れかたは、只事ではないやうな氣もして來る。サイゴンへ旅立つ日まで、ニウとの毎夜の逢ふ瀬は、加野のやうな、肉體の凶暴さからは救はれてゐた。ニウとの情交も、かりそめのもので、富岡は妻の邦子以外に、心の戀情は發芽しなかつたのだ。所長の牧田氏も、富岡とニウとの間を薄々には知つてゐる樣子だつた。だが、牧田氏は所員の不始末に就いて、自分で責任を持つ限りにはあまり文句を云ふ人物でもない。富岡は牧田氏のそのおだやかさに甘へきつてもゐるのだつた。

 何時の間にか、太陽はオレンヂ色をふちどりして、ランビァンの山の方へかたむきかけてゐた。湖が金色の針をちりばめたやうに、こまかに小波をたててゐる。食堂の奥から油臭い匂ひがたゞよつて來た。夕暮の美しさは、ひとしほ、二人の男に考へ深いものを誘つた。

「これで、こゝは平穩だが、内地は大變なンだらうなア‥‥。戀愛をするなんざアぜいたくかな‥‥」と加野が云つた。

「この戰爭は勝つと思ふかね?」

「そりア勝つにきまつてゐますよ。いまさら、敗けツこはないでせう‥‥。こゝまで來て敗けたりしちやア眼もあてられない。私は、敗けるなンざア考へてもみない。牧田さんもあんたも、妙な、不安にとりつかれてゐるが、もし、萬が一にも、敗けたとなれば、私はその場所で腹を切つてしまふ‥‥」

「さう簡單には腹を切れないよ。敗けるとは思ひたくないが、敗ける可能性は、君、あるらしいンだぜ。なるべく、さうした問題には觸れたくはないが、どうも、耳にはいるニュースはいゝ面ばかりぢやない。此の土地のものが一番敏感だからね。一種の日本人的スタイルで、強引には押してはゐるが、手持ちの金も銀も飛車もありやアしないンだ。何となく日本的表象の影が薄くなつたね。圓熱しないまゝで途方に暮れて、そこらを引つかきまはしてゐるのさ‥‥。戰爭を合理化する爲に、色々と策はねつてゐるンだらうが、それからさきの才能がとぼしいンだ。何しろ、猿に刃物的なところもあるンだよ‥‥」

「あんまり無氣味な事を云はないで下さいよ。まア矛盾もあるにはあるでせうが、乘るかそるかやつてみない事にはね。最惡の場合は、玉碎だ。死にやァいゝでせう、死にやァ‥‥」

「無責任だね」

 富岡は吐き捨てるやうに云つて、トイレットに立つて行つた。富岡が食堂を出て行くとすぐ、入れかはりに、幸田ゆき子が、寢たりた顔で食堂へはいつて來た。ギンガムの紅い格子のワンピースを着て、ひどくめかしこんでゐた。髮をブルウの細いリボンで結んでゐた。加野ははつとして、暫く振り返つて、ゆき子を眺めてゐた。

「晝御飯も食べないで、おなかゞ空いたでせう?」

 加野が椅子をすゝめながら云つた。ゆき子は素直に、加野のそばの椅子に腰をかけて、素肌の脚を組んだ。金色の太陽の光線で、ゆき子の顔がぼおつと浮いてみえる。唇が血を吸つたやうに紅く光つてゐる。日本的な香料の匂ひがした。加野はなつかしい氣がして、何の匂ひだらうかと鼻をうごめかしてゐたが、椿油の匂ひだと思ひ當つた。ゆき子の髮が艶々と光つてゐた。加野はポケットから部厚い角封筒を出して、素早くゆき子の膝に置いた。

「あとで、讀んで下さい」

 とつさに、ゆき子はその封書を白いハンケチにくるんだ。富岡がのつそりとトイレットから戻つて來た。わざとゆき子の方に一べつもくれないで、金色の太陽をまぶしさうに暫く眺めてゐた。加野は食堂からコップとビールを持つて來て、ビールをついで、ゆき子に渡した。

 ぎこちない沈默が暫く續いたが、軈て、富岡は重いシュバリヱの本をかゝへて、默つて椅子を離れて食堂を出て行つた。加野は、富岡が素直に氣を利かせてくれたのだと思ひ込んでゐる。




十三

 雨は土砂降りになつた樣子だ。

 樋をつたふ雨聲が瀧のやうに激しくなり、ゆき子はふつとまた現實に呼び戻される。くさくさして、仲々寢つかれない。佛印での華やかな思ひ出が、走馬燈のやうに頭のなかに浮きつ沈みつしてゐる。夜更けてずんと冷えて來たせゐか、一枚の蒲團だけでは寒くて寢つかれなかつた。泥のやうに疲れてゐながら、露營をしてゐるやうな落ちつきのなさである。誰も力になつてくれるものゝない抵抗しやうのない淋しさで、暗がりに眼を開いたまゝ、ゆき子はじつと激しい雨の音に耳をかたむけてゐた。伊庭がこの家にゐなかつた事は倖であつた。もう一度、昔のむしかへしはないけれども、伊庭との間に四ケ年の月日の空間を置い事は、ゆき子にとつて有難いのであつた。誰も顔見知りのないところで、ごろりと寢轉んでゐる。ゆき子には佛印でそんな習慣には馴れきつてゐた。海防の收容所では、篠原春子とも逢はなかつたし、春子の樣子を知つてゐる女達とは誰にも逢ふ機會がなかつた。加野は終戰前にサイゴンの憲兵隊へ連れて行かれたまゝだつたし、最後までゐた富岡は、幸運にも、五月の船でゆき子より一足さきに内地へ引揚げて行つた。五月から今日まで、富岡の心が、どんな風に變つてゐるかは判らなかつたが、逢ひさへすれば、二人の間は解決するのだと、ゆき子は自信を持つてゐた。自信を持つ事が氣が樂だつたせゐもある。

 その翌日、雨は霽れてゐた。からりとした初冬の空が、雨あがりの濕氣を吹きはらつてゐた。荒れた狹い庭の柿の木には霜を置いたやうな小粒な澁柿がいくつか實つてゐた。柿の木が大きくそだつてゐる事に、四年の歳月があつたのだとゆき子はうなづいた。同居人の細君は、眞黒い麥飯だけれど召し上つて下さいと云つて、朝の卓にゆき子を呼んでくれた。主人公は夜明けに早く出て行つた樣子だつたが、細君の話では、信州へリンゴを買ひに行つたのだと云つた。郷里が信州なので、このごろリンゴのブロォカーを始めたのだが、早晩、果實の統制がはづれる樣子だから、靜岡へ鹽を買ひに行つて、鹽を信州へ持つてゆき、信州から味噌を持つて來てみようかと思ふとも云つた。

「伊庭さんとの間がうまくいつてましたら、伊庭さんにお世話願つて、鹽を手に入れたいのですけれど、何しろ、うちのひとゝきたら伊庭さんにいゝ氣持ち持つてませんのでね。何處か、鹽を賣つてくれる處、御ぞんじぢやありません?」

 ゆき子は一向にそんなところは知らなかつた。食卓には八ツの男の子を頭に、七ツの女の子と三ツの男の子と赤ん坊がゐる。主人の末弟が同居してゐるのだが、今日は二人でリンゴを取りに行つたのださうだ。

 ゆき子は何でもして働く氣持ちもないではなかつたが、富岡に逢つてから方針をきめたいと思つた。伊庭の荷物のある部屋でよければ當分ゐてもいゝと細君が云つてくれたので、ゆき子は吻つとして、その好意に感謝した。――以前の職場に戻れるものかどうかもいまのところは判然りとはしない。かへつてゆき子は、以前の職場へ戻りたい氣は少しもないのであつた。朝食後、細君に教はつて、近所の酒の配給所に電話を借りに行つた。農林省の富岡のデスクに電話を掛けてみたが、女の聲で、富岡といふ人は省をやめてしまつてゐると教へてくれた。ゆき子は思ひ切つて、上大崎の富岡のアドレスを頼りに尋ねてみる氣になり、出むいて行つた。目黒の驛を降りて、切通しの下を省線の走つてゐる道添ひに、人に聞きながら歩いて行つた。伏見之宮邸の前を通り、燒け殘つた邸町を、番地を頼りに歩いた。電車で見る窓外の景色は大半が燒け野原で、何も彼も以前の姿は崩れ果てゝしまつてゐるやうな氣がした。やつとその番地を探しあてゝ富岡の名刺の張りつけてある玄關を眼の前にして、ゆき子は妙に氣おくれがしてならなかつた。同居してゐるらしく、別の名札が二つばかり出てゐた。荒れ果てた家でどの硝子にも細いテープでつぎたしてあつた。夜來の雨で洗はれた矢竹が、箒のやうに、こはれた板塀に凭れかゝつてゐる。細君に顔をあはせるのが厭であつたが、電報を打つても返事も來ないところをみると、自分で尋ねてゆくより方法がない。ゆき子は思ひ切つて硝子のはまつた格子戸を開け、農林省からの使ひだと案内を乞ふた。五十年配の品のいゝ老婦人が出て來て、すぐ奥へ引つこんだが、思ひがけなく着物姿の脊の高い富岡がのつそり玄關へ出て來た。富岡はさほど驚いた樣子もなく、下駄をつゝかけて外へ出ると、默つてゆつくり歩き出した。ゆき子も後を追つた。知らない小道をいくつか曲つて、燒跡の續いた淋しい通りへ出ると、富岡は初めて、ゆき子を振り返つて、

「元氣だね」と云つた。

「電報、御覽になつて」

「あゝ」

「何故、返事くれないの?」

「どうせ、東京へ出て來ると思つた」

「お勤めは、おやめになつてるのね?」

「七月にやめた」

「いま、何をしてるの?」

「親父の仕事を手傳つてる‥‥」

「さつきの方、お母さま?」

「うん」

「よく似ていらつしたから、さうぢやないかと思つたわ」

「君、何處にゐるの?」

「鷺の宮の親類の家‥‥」

「君、こゝで一寸待つてるかい?」

「えゝ、待つてゐます」

 富岡は支度をして來ると云つて、もと來た道へ引返して行つた。紺飛白の着物を着た後姿に、人が違つてしまつたやうな妙な氣配が感じられた。ゆき子は燒跡の石塀のこはれたのに腰をかけて、暫く寒い風に吹かれてゐた。黒いサージの洋袴に、同居の細君に借りて來たブルウの疲れたジャケツ姿の自分が、ひどく荒凉としたその景色にしつくりしてゐた。危險な訪問だつたと、今頃になつて顔が火照つて來た。

 三十分も待つた頃、富岡が洋服姿でやつて來た。幾分かは昔のおもかげがあつたけれども、疲れた冬服のせゐか、ダラットで見た頃の若々しさが失はれて、何となく、くすぼつて見えた。ひどく痩せてもゐた。石塀の崩れた處へ腰を降ろしてゐるゆき子を、遠くから眺めて、富岡は、何の感動もなかつた。舞臺がすつかり變つてしまつてゐるこの廢墟では、ダラットでの夢をもう一度くりかへしてみたいといふ氣はしなかつた。苛ら立つた心をおさへて、もう終末の來る斷定だけで、富岡はゆき子のそばへ歩み寄つた。鸚鵡のやうにもう一度、

「元氣だね」と云つた。

「えゝ、あなたに逢ひたい一念で戻つたのですもの、元氣でなくちや」

 ゆき子は念を押すやうにして、まぶしさうに下から富岡をしみじみと眺めた。富岡は唇に微笑を浮べて、返事もしなかつた。別れるといふ斷定が、二人の間に狹まつてゐるのを、引揚げたばかりのゆき子には見えないに違ひない。電報を見て以來、富岡はあまりいゝ氣持ちはしてゐなかつたが、それでも責任だけは果さなければなるまいと考へてゐた。あんまり惡黨だと思はれないうちにとも考へてゐたが、現實にゆき子に逢つてみると、そんな考へもいまは必要ではなく、あつさり、今夜一晩で別れられるやうな決斷力が出た。「何處へ行くかね?」ゆき子に聞いてみたが、ゆき子は何處も知る筈がない。このごろ、池袋に小さい旅館が出來てゐると誰かに聞いてゐたのを思ひ出して、富岡は池袋へ行つた。煎餅のやうな生木の薄いバラック旅館が、いくつも建ちかけてゐた。気儘放題に家が建ち竝んでゐる。市場あり小料理屋あり。ひしめきあつてゐる急速の混雜状態が、かへつて女を連れてかくれるには、かつかうの市街であつた。看板だけはホテルと名のついてゐる、木造の小さい旅館に、富岡は硝子戸を開けて這入つて行つた。髮ふり亂した蒼い顔の女が、チュウインガムをくちやくちややりながら、靴をはいてゐたが、ろくろく紐も結ばずに、扉に躯をぶつゝけるやうに戸外へ出て行つた。ゆき子は寒々とした氣になつてゐる。――二人が案内された部屋は、市場が眞下に見える二階の四疊半だつた。疊は汚れ、點々と煙草の燒け跡があつた。床の間も何もない。緑色の壁には幾つも引つかいた筋がついてゐた。部屋の隅に汚れた赤い無地の蒲團が、二枚積み重ねてあつた。その蒲團の上に、覆ひのない枕のサラサは油でべとべとに光つてゐた。

 富岡は金を出して、ワンタンと酒を注文した。卓子も火鉢もないがらんとした部屋では、二人とも取りつきばもないのだ。富岡は壁に凭れて、長い膝小僧を抱いた。ゆき子は蒲團に片肘ついて横坐りになると、ジャケツの胸の上から大きなまるい乳房を、叩くやうにして掻いてゐる。

「世の中つて、こんなに變つてるとは思はなかつたわ」

「敗戰だもの、變らないのがどうかしてるさ‥‥」

「さうね‥‥。あゝ、でも、私、とつても、あなたに逢ひたかつたのよ。あなた、いやに冷いのね。引揚げて來たものなンか、もう同情しないンでせう?」

「馬鹿云つちやアいけない。俺だつて引揚げだよ。君ばかりぢやない。澤山俺達のやうなのはゐる」

 何もさう、引揚げだからと、自分だけが偉いもののやうに、氣負つてゐる云ひかたをするゆき子の無作法なのが、富岡にはあまりいゝ氣持ちではなかつた。いきなり泥水のなかへ寢轉んで動かうともしないゆき子の馴々しさが、富岡にはなじめない。ゆき子は、激しい男の感情を待つてゐた。誰も見てゐない、たつた二人きりのこの圍ひのなかで、最初に逢つた時のやうなよそよそしさでゐる富岡の心が判らなかつた。ダラットでの二人きりの理解はこんなに時がたてば儚いものだつたのだらうか‥‥。些細な事にはこだはつてはゐられない、荒波のしぶきに鍛へられて、ゆき子は大膽ににじり寄つて、富岡の膝小僧にあごをすゑた。

「どうして、そんなに知らないふりしてるの?」

「何を?‥‥」

「私が、厭なのでせう?」

「何を云つてるンだい。女つて呑氣だね‥‥」

「呑氣ぢやないわ。私、捨てられるンだつたら、こんなにして戻つて來ない、加野さんと一緒に戻つて來たわ。――私、判つたのよ、富岡さんの氣持ちが‥‥」

「馬鹿な事を云ふもンぢやない。加野は加野だ。君があんな風にしむけた罪があるンだ。女は誰にでも尻尾を振つてゆく氣があるンだ。あんな處では、女は無上の天國だからね‥‥。誰にも愛されるのは、女にとつて、いゝ氣持ちだらう‥‥」

「まア‥‥。今頃、そんな事言つて、厭! 急にそんな事言つて、私をいじめるのでせう。もう、私に愛情もないンぢやありませんか‥‥。いゝわ、私だつて、さつき、こゝの玄關で見た女みたいになつてみせるわ。もう誰にも遠慮しないで、私はどろどろにおつこちて行きます‥‥」

「そんなにヒステリックになるもンぢやない。俺だつて、内地へ戻れば、ダラットの時のやうな、責任のない暮しは出來ないよ。只、ダラットの生活の續きを内地で持たうといふ事は無理だと云ひたかつたンだ。君の生活に就いても大いに力になつてあげようし、俺だつて、その位の責任は持つ氣だよ」

「どんな責任?」




十四

 酒に醉つて來た爲か、富岡は少しづゝ氣持ちが明るくなり、曖昧な心のわだかまりから、解放されて、このまゝまた元通りの危險な關係に墜ち込んでゆく勇氣が出た。家庭とか幸田ゆき子の問題とか、そんなごみごみした現實からは、飛び離れた空想でいつぱいになりながらも、自分の躯のなかの人間的な淋しさは、自分の考へなぞはふり捨ててしまつて、やつぱり、そこに横になつて、泣いてゐる女を、抱きかかへたくなつてゐる。日本に戻って來ると同時に、ゆき子への思ひ出を否認しつゞけて、少しづゝ記憶が薄れかけて來てゐる處へ、また、かうして眼の前に幸田ゆき子を見ると、富岡は何の準備もなく、己れの運命の斷層を見せられた氣がした。富岡は、今度は、自分の方からにじり寄つて行つて、ゆき子のそばへ肩を竝べた。

「私、思ひ出すわ。いろんなこと‥‥。あの頃つて、私も、あなたも狂人みたいだつたわね。チャンボウの保存林を視察に行く時、牧田さんと、内地から來た何とかと云ふ少佐のひとゝ、あなたと、自動車に乘る時、急に、あなたが、幸田さんも行きませんかつて云つてくれて、少佐のひとも、さうださうだ、幸田孃も連れて行かうつて云つて、四人でチャンボウへ行つたでせう? 何ていふ宿屋だつたかしら、安南のホテルに泊つて、ランプで御飯を食べて、みんなお酒を飮んで、醉つて、眠つたのよ。一番はづれの部屋があなたのところだつて、覺えておいて、私、夜中に、裸足で、あなたの部屋へ行つたわね。竝んだ部屋の前は沼になつてゐて、森で氣味の惡い鳥の啼き聲がしたわ。ドアには鍵もおりてなかつたので、そつとノブをまはすと、安南人の番人が庭に立つてゐたンで、吃驚しちやつた‥‥。でも、あの時が、あなたとは、初めてだつたでせう?」

 ゆき子が、富岡の手を取つて、指をからませながら、こんな事を云つた。富岡は、あゝそんな事件もあつたと思つた。兵隊が血を流して死んでゆく最中に、女と二人でたはむれてゐた當時の氣の狂つた日常が、富岡には夢物語のやうでもある。

 馬小舍のやうに、境の壁がついたて式になつてゐたので、どんな物音も筒拔けに聞える粗末な部屋だつた。眼を閉ぢるとすぐ、さうした二人でだけ知つてゐる思ひ出が、瞼の中に走つて來た。カッチヤ松の林床には、カルカヤや、チガヤが繁り、ところどころに、ボタンやヤマモ丶や、ユーゲニヤが點じてゐて、富岡にしても、チャンボウの森林はなつかしい土地である。二人の苦力が組になつて、伐倒や玉切りをして、一日やつと立木四本位を切り倒す位だつたかなと、森林官としてチャンボウへ出張してゐた頃を富岡は思ひ出してゐた。このあたりの樵人は、おもにモイ族とか、安南人を使つてゐたが、みんなマラリヤを怖れて、募集の布告を出しても、仲々あつまりが惡く、富岡は率先して、自分で、苦力を募つてチャンボウへ何日も出掛けて行つたものだつた。山の中では、手挽の製材小舍を建てゝ、そこで小角物や板材に挽いてダラットへ軍のトラックで送り出した。苦力の日給は全く安い比弗でこきつかつたものだつたが、終戰寸前も、あの苦力達は、富岡になついて、日本の敗戰を薄々と知りながらもよく働いてゐたものだ。

「ねえ、もう、私達、二度と、あんな佛印の山奥なンて、行ける時ないでせうね。あすこで、二人で一生苦力になつて、木を切つて暮してもいゝつて話し合つてたわね」

「うん‥‥」

「あなたが、そんな事云ひ出したンだわ」

「もう、二度と行けやしないよ」

「さうね。行けやしないわね。加野さんが、あんな事件を起さなければ、二人は、終戰の時に、あのチャンボウへ逃げ込んでたかも知れなくてよ。人間つて、何處でも、自由に住めるつてわけにゆかないものなのね。自然と人間がたはむれて、樂しく暮すつてわけにゆかないものなのかしら?」

 富岡にしたところで、かうしたごみごみした敗戰下の日本で、あくせく息を切らして暮す氣はしないのである。野生の呼び聲のやうなものが、始終胸のなかに去來してゐた。イエスの故郷が本來はナザレであるやうに、富岡は、自分の魂の故郷があの大森林なのだと、時々戀のやうに郷愁に誘はれる時がある。

 何時の間にか夕方になつた。

 窓の下の市場は喧噪をきはめて、燈火が賑やかに光り出した。ゆき子は一人で部屋を出て行つて、壽司と、カストリ酒をビール壜一本買つて來た。歸るところも、行くところもないゆき子にとつては、一寸でも長く富岡と一緒に話してゐたかつた。二人ともカストリの醉ひがまはるにつれ、このまゝ泥々に溺れこんでも仕方がない氣持ちになつて來るのだ。――富岡は自然に、ゆき子に觸れた。何の感動もなく、晝間から敷き放しの蒲團に二人は寄りそつて、こほろぎの交尾のやうな、はかない習慣に落ちてしまふのである。日の落ちるのを眼の前にして、ゲッセマネに於いての、殘酷なほどの痛ましい心の苦鬪を、もう一人の分身として、そこに放り出されてゐる現實の己れに富岡は委ねてみる。神若し我等の味方ならば、誰か我等に敵せんやである。この女と共に行くべきであるとも、富岡は想ふ。兩親も家庭も、かりそめの垣根でしかあり得ない氣がして、もう一度、その垣根を乘り越えて、この女と人生を共にすべきだと、富岡は醉ひのなかで、誰かの聲を聞くのだつた。日本人の萠芽期はすでに去つたのだと、彼は自分の醉ひのなかで、自分で大演説をしなければならないやうな錯覺にとらはれてゐるゆき子を抱きかゝへて、久々で二人はしみじみと唇を噛み合はせてゐた。

 夜になつてからは、旅館のなかも少しづゝ騒々しくなり、時々は、無作法な夜の女が、部屋を間違へて、ゆき子達の襖を開けたりする。二人は平氣で離れなかつた。風のかげんか、省線の電車の音が轟々と耳につく。蒲團の上にぬぎつぱなしの二人の洋袴が、人間よりもかへつて生々とみだらにみえた。

 ゆき子は、富岡の躯にあたゝめられながらも、もつと、何か激しいものが欲しく、心は苛だつてゐた。こんな行爲は男の一時しのぎのやうな氣もした。伊庭との秘密な三年間にも、こんな氣持ちがあつたのを、ゆき子は思ひ出してゐる。もつと力いつぱいのものが欲しいといつたもどかしさで、ゆき子は富岡から力いつぱいのものを探し出したい氣で焦つてゐた。富岡も亦、女を抱いてゐながら、灰をつくつてゐるやうな淋しさで、時々手をのばしてはビール壜のカストリを、小さい硝子の盃にあけてはあほつた。時々、ゆき子も一息いれては、壽司をつまんだ。まだ、夜がいつぱいあるやうな氣がして、壽司を舌の上にくちやくちやと噛みしめながら、ゆき子は、疊の上に火照つた脚を投げ出したりしてゐる。夥しい二人だけの思ひ出がありながら、實際には、必死になつてゆくほど、相反する二人の心が、無駄なからまはりをしてゐるに過ぎないのだつた。これからの、先途について、二人は語りあふでもなく、一切の現實を忘れて、ひたすら、昔の情熱を、もう一度呼び水する爲の作業を試みてゐるやうなものであつた。時々、二人は力が拔けるやうな淋しい氣になり、この貧弱な環境のせゐなのだと、そつと、お互ひに鼻を寄せあつて、相手の息の臭さにやりきれなくなつてゐるのだつた。

「あなた、とても痩せたわね」

「美味いもの食はないせゐだよ」

「私も痩せたでせう?」

「さうでもない‥‥」

「だつて、抱いてみて違はない? 奥さんとどつちが太つてゐる?」

 富岡はまた手をのばして、盃の酒を唇のなかへかつとあけた。

 富岡は、お互ひの噴火はすでに終つてゐるのだと思つた。二人とも見誤つてゐるのだ。本質的に二人とも、この敗戰の底にずんずん沈みこんで、噴出する火を持たなくなつてしまつてゐる。只忘れてゐる。

「ねえ、加野さんには、私、可哀想な事をしたつて思つてゐるわ。あなたがあんまり、私を可愛がつてくれるから、私、加野さんをからかつてしまつたのよ。――でも、加野さんなら、私とよろこんで死んでくれる人ね。あの人は本當にうたがふつて氣持ちのない人ですもの。‥‥戰爭だつて、あの位、日本が勝つつて信じこんでた人もないでせう? いゝ人だつたわね。二人の伴奏者としては申し分ない人物よ」

「君はひどい女だね」

「さうかしら‥‥。でも、女つて、そんなところもあるンぢやない?」

 富岡はなるべく加野の事を思ひ出したくなかつた。時々、加野の事を云ひ出すゆき子の心理には、何時までも加野を伴奏者として、二人の昔の情熱の呼び水にしてゐる惡い好みがないとは云へない。富岡は疲れてしまつた。ゆき子は少しも疲れないで、壽司をつまんでゐる。色がはりした、黒いまぐろをつまんで、平氣でお喋舌りしてゐる。沒落しつこのない原始的な女の強さが、富岡には憎々しかつた。赤い蒲團から、洗つたやうな艶のいゝ顔をしてゐる女の顔が卑しく見えた。

「何を考へてゐるの?」

「何も考へてはゐない」

「奥さんの事でせう?」

「馬鹿!」

「えゝ、私は馬鹿よ。女は馬鹿が多いのよ。男はみんな偉いンでせう? 馬鹿に責任を持つなンて氣の毒みたいだわ。未來の事なんか考へないで、かうして、眼のさきのあなたにすがりついてゐるなンて、馬鹿以外の何ものでもないわ。ね、さうでせう‥‥。はるばる戻つて來て、でも、逢へて、とても嬉しいのよ。それだけなのよ。――でも、私、海防で、あなたが奥さんと逢つてるところ考へて、とても厭だつたの‥‥。奥さんつて、どんな方? 美しい人なンでせうね。教養があつて、綺麗で‥‥」

 ゆき子は眼の前に呆んやり、富岡の妻を描いてみた。申し分のない美人の楚々とした姿が眼の前に現はれて來る。富岡はゆき子のおしやべりを聞きながらうとうとしてゐた。

「君が歸るまでには、きちんと解決して、奥さんとも別れてしまつて、さつぱりして、君を迎へるつて云つたのは嘘ね。男つて嘘吐きよ。女を口の先でまるめて、自分の境界はちやんとしておくのね。私を、こんなところへ連れて來て、思ひ知らせるなンてひどいわ。日本へかへつたら、何も彼も昔の生活をきれいにして、君と二人で、日傭ひ人夫でもして生きようなンて云つて‥‥」

 ゆき子は涙をいつぱい溜めた眼を閉ぢて、富岡の肌をなでてゐた。腰骨がごつごつしてゐた。美味いものを食はないからと云つた男のざらついた肌が哀れだつた。ゆき子は自分の下腹に手をやり、すべすべしたなめらかな肌ざはりに神秘なものを感じてゐた。どうして、こんなに生きた女の肌はつるつるしているのかと不思議だつた。國が敗けたつて、若い女の肌には變りはないものかしら‥‥。もう一度、そつと、富岡の下腹にゆき子は手を觸れてみた。

「明日になつたら、右と左に別れて、また、こんなとこで逢つて、あなたは醉つて眠つてしまふンでせう‥‥。遠いところから戻つて來ても、あなたは少しも何とも思つちやゐないンだわ。私が、はるばる戻つて來るなンて奇蹟ぢやないの。色んな事心配して、ダラットの時のやうに可愛がつてくれなくちや厭! ねえ、起きてよ。眠つてしまふなンてひどいわ。眠るなンて厭よッ!」

 ゆき子は富岡の肌をきゆつとつねつた。

 富岡はうとうとしてゐたが、つねられて醉眼を開いた。不思議なところにゐる氣がして、四圍を眺めた。だが、睡魔はおそつて來る。また落ちくぼんだ眼を深く閉ぢ、「うるさいねえ、もう、君も疲れてるから、少し眠るといゝよ。何時までも、昔の事なんか考へたつて仕方がないよ」と云つた。

「まア!随分薄情な人だわ。昔の事があなたと私には重大なンだわ。それをなくしたら、あなたも私も何處にもないぢやないンですか? まだ若いくせに、年寄りみたいになつて、榮養不良で、元氣がなくて、疲れてるつて厭だわ。日本は自由になつたつて云ふンぢやないの? 隣りの部屋では、あんなに、甘つたれてゐるぢやないのよ‥‥。起きて、そんなお爺さんみたいな疲れかたしないでよ。――起きないのなら、私は明日奥さんのところへ話しに行つてよ。いゝ?」




十五

 富岡と別れて、ゆき子が鷺の宮の伊庭の家へ戻つて來たのは、翌日の晝過ぎであつた。

 判然りした約束を取り交はしたわけではなかつたが、二人が、一緒になるにしても、一應、時をかけなければ、うまくはゆかないと云ひきかされて、ゆき子は仕方がないと思つた。

 近いうちに、兎に角、ゆき子の落ちつき場所をみつけてくれると云ふ事と、さつそく、まとまつた金も作らうと富岡が云つた。男の一時のがれのやうな氣がしないでもなかつたが、かうした出逢ひのなかでは、富岡の言葉を信用しないわけにはゆかない。

 池袋の驛で富岡に別れたが、富岡はすぐ雜沓の中へまぎれ込んで行つた。ゆき子は心細い氣がして、暫くホームの柱に凭れて、電車から吐き出される人や、乘り込む人の波を見つめてゐた。長い間の戰爭に扱使はれてゐた、營養のない顔が、犇きあつて、ゆき子の周圍を流れてゐる。

 ゆき子は目的もなかつた。

 鷺の宮へ戻つたところで、別に、誰もゆき子を待つてくれる人もない。靜岡へこのまゝ戻つてみようかとも考へたが、東京を去るには、やはり富岡に強く心が殘つてゐる。その執着は、初めて富岡に逢つてみて、形の違ふものになつて來てゐたが、ゆき子は、一應、富岡に逢へた事は嬉しかつた。それにしても、ゆき子も亦、このまゝでは、富岡の重荷になるだけだと、心の中にひそかに承知してゐるところもあるのだ。まづ、この群衆の生活のなかに、自分も這入つて行つて、働く道を求めなければならないのだと思ひ、ふつと、品川の驛で見たダンスホールを思ひ出してゐた。何と云ふ事もなく、ダンサアになつてみようかと思つた。

 華やかな音樂の流れのなかに、化粧をした變つた自分の姿を置いてみるのだけれども、現在の自分の姿からは、さうした職業は實感としては不可能のやうな氣がした。

 富岡から、ほんのわづかな小遣ひを貰つてゐたので、ゆき子は新宿へ出てみた。何年ぶりかで見る新宿は、相變らずの雜沓だつた。知つた顔は一人もいないのが、ゆき子には他郷を歩いてゐるやうな氣がした。新型の自動車が走り、しはしはした寒い歩道を、群衆は着ぶくれして歩いてゐる。硝子のない巨きな建物の前へ來ると、あゝこゝが三越だつたのだと、ゆき子は高いビルを見上げた。ビルにそつて右へ曲ると、いくつもの小路のなかに、地べたに店を擴げてゐる露店市が、ぎつしりと竝んでゐた。鰯を石油鑵から掴み出して賣つてゐる。小さい硝子箱には飴もある。ピラミッドのやうに積み上げた蜜柑を賣る店、ゴム靴屋、一ぱい五圓の冷凍烏賊を竝べてゐる店、どんな路地の中にもさうした露店市が路上にあふれてゐた。荒凉とした燒跡の瓦礫には、汚ない子供達がかたまつて煙草を吸つてゐた。

 ゆき子は、一山二拾圓の蜜柑を買つて、瓦礫の山へ登り、そこへ腰をかけて、蜜柑をむいて食べた。舊弊で煩瑣なものは、みんなぶちこはされて、一種の革命のあとのやうな、爽凉な氣がゆき子の孤獨を慰めてくれた。何處よりも居心地のよさを感じて、酸つぱい蜜柑の袋をそこいらへ吐き散らした。

 かうした形の革命は、容赦なく人の心を改革するものなのか、流れのやうに歩いてゐる群衆の顔が、ゆき子にはみんな肉親のやうになつかしかつた。

 いまごろは、富岡はあの家へ戻つて、細君に、一夜の外泊をどんな風に云いわけしてゐるのかとをかしかつた。富岡の事だから、何氣なくふるまつてゐるに違ひない。家族のものは、富岡に對して、不安を持たないだらう。ゆき子はさうした事が妬ましく考へられた。内地へ戻つて來たら、その日にも、富岡が迎へに出てゐて、二人で新居にうつれるものと空想してゐた甘さが、ゆき子には口惜しかつた。

 晝過ぎになつて、ゆき子は鷺の宮へ戻つた。二つばかり殘つた蜜柑を、子供達へくれて、伊庭の荷物のある部屋へ這入つたが、人氣のない部屋は寒くて淋しかつた。

 ふつと思ひついたやうに、ゆき子は伊庭の荷物を眺め、何かめぼしいものを探して賣つてしまひたい氣がした。さうした事が、伊庭へ對するふくしゆうのやうな氣がした。めぼしいものを賣つて、當分の生活費にして暮しても惡くはないやうな氣がした。荷物をほどくにしても、自分の預けてあるものを探すのだと云へば、此の家の人達は怪しまないだらう。また、たとへ、伊庭が來て、荷物がなくなつてゐるのを知つても、ゆき子のやつた事ならば、とがめるわけにもゆくまいと思へた。

 夕方になつて、ゆき子は此の家の人からさつま芋を分けて貰つて、一緒にふかして貰つた。

 芋を食べながら、猫間障子の硝子越しに狹い庭を見てゐると、汚れた躑躅の植込みに、小さい痩せた三毛猫がじいつと何かをうかがつてゐた。春さき、牡丹色の花が咲いた躑躅を思ひ出して、昔のことが、まるで昨日のやうに思へた。猫は暫くしてから、のそのそとものうげに垣根のそばの、枇杷の木の下をくゞつて外へ出て行つた。

 ゆき子は障子を開けて、廊下へ出て行き、猫を呼んでみたが、仔猫は戻つては來なかつた。




十六

 富岡は、二三日はゆき子の事を考へてゐたが、ゆき子を落ちつかせるべき家の事も、金をつくる事も何時か忘れるともなく忘れて、このまゝで、ゆき子との交渉は途切れてしまひたい氣持ちでゐた。窒息しさうな程、ゆき子との邂逅は息苦しく、ゆき子がこのまゝ自由に自分の方向へ進んで行つてくれる事を祈つた。

 富岡は、このごろ材木商の知人と共同で、山へ木材の買ひ出しにかかつてゐた。近々、北信州の田舎に出掛けて、杉材の仕入れにかゝりたかつたのだが、知人の資金關係が仲々うまくゆかなかつたし、木材の流筏が、山からの荷出しには、相當の困難だつたので、毎日のびのびになつてゐた。それさへうまくゆけば、多少の金も手にはいつたし、闇の材木は飛ぶやうに高價で賣れてゆく時勢だつたので、少々の冒險はやつてみたい氣持ちでいつぱいだつた。日本へ戻つて來て、富岡は、つくづく官吏生活には厭氣がさしてゐたので、この機會をとらへて、自分の人生を變へてみたいとも考へてゐた。

 今日も、知人の材木商の田所に、電話してみたが、資金があと、四五日は日數がかゝると聞いて、がつかりして戻つて來た。歸るなり、妻の邦子が、女のひとが尋ねて來ましたと報告した。明日、池袋の ほてい商會まで、お出で願ひたいと、云ひおひて戻つたと聞いて、ゆき子だなと思つた。

 ほてい商會と云ふのは、池袋で泊つたホテイ・ホテルの事だつた。富岡は一寸厭な氣がして浮かない顔つきだつた。邦子は、何も知らない樣子で、

「あの女のひと、私のことを、奥樣でいらつしやいますかつて聞きますのよ。何ですの? 田所さんのところに何か御關係のある方ですか?」と、聞いた。

「いや、田所とは別に何の關係もない。此の頃、やつぱり事業の方で知りあつたホテイ商會の細君ぢやないのかね‥‥」

「さうですか。それにしても、あまり感じのいゝ女の方ぢやございませんのね。終戰以來、色々な人が出來たのですね。何だか、好意の持てない、私の厭な型の女の人でしたわ。――何處へいらしたンだらうとか、何時頃、お歸りでせうとか、無作法な程、とても馴々しいンですのよ。」

 女の直感と云ふものは、すぐ反射しあふものがあるのに違ひないと、富岡は心中ひそかに恐れをなした。

 邦子はゆき子に對して、直感で、一種の膚觸りが感じられたのだらう。富岡は、辛い氣がした。いまのうちに、ゆき子の事を告白してしまつておいた方がいゝのではないかとも考へられたが、モンペの膝に、縫物をひろげて、冬の蒲團の手入れをしてゐる妻に對して、外地での色戀沙汰を報告するには、あまりにも氣の毒な氣がした。罪もない邦子にさうした告白をして、深い傷口をつくる事は、富岡にはたうてい忍びないのである。邦子は、富岡の兩親のもとで、とぼしい生活によく耐へて、良人を待つてゐたのだ。





 翌日、晝過ぎ、富岡は、ホテイ・ホテルに出向いて行つた。ゆき子は待つてゐた。海老茶色の外套を着て、髮を思ひきり額にさげた、見違へるやうに派手なかつかうをして、火鉢に凭れてゐた。

「昨日、うかゞつたのよ‥‥」

「うん‥‥」

「奥さまつて、とても、おとなしさうな方ね」

「君、馬鹿に、お洒落になつたンだね」

「えゝ、此の外套買つたンだけど似合つて?」

「どうしたンだ」

「私、親類のものを默つて賣つちまつて、これ買つたのよ。あまり寒かつたし、淋しくて仕樣がなかつたから‥‥」

「そんな事していゝのかい?」

「よくはないけど、仕方がないわ」

 富岡はまじまじと、派手なゆき子の姿を眺めてゐた。懈いやうな、ものうい姿でゐるゆき子の變化が、そゞろに哀れで、富岡は、昔歌舞伎で觀た、朝顔日記の大井川だつたか、棒杭に抱きついて、嘆いてゐた深雪の狂亂が、瞼に浮んだ。自分が、こゝで此の女を突き放してしまへば、そのまゝ廢頽の淵に落ち込むのが見えてゐるのだ。棄て鉢にさせたら、どんな事になるかと、富岡はさうした不安もあつた。

「何を考へていらつしやるの?」

「別に、考へてもゐないが、これから、二人とも大變だね‥‥」

「さうね、纒りやうがないつて思つてるンでせう? 悉皆、私はあきらめてもゐるのよ。奥さんを見たら、とても悲しくなつて、歩きながら、思ひ詰めちやつたわ。旦那さまに安心してゐる奥さまつて、清潔で綺麗ね。善いひとを不幸にするのは怖いわ‥‥」

 富岡は本氣でそんな事を云つてゐるのかと、じいつとゆき子をみつめた。家の前を彷徨いてゐたのだらうゆき子の姿が眼に浮んで來る。ゆき子はハンカチを外套のポケットから出して眼を拭いた。思ひがけなく、そのハンカチは、富岡がダラットで使つてゐたものであつた。

「貴方は、私なンか捨てゝしまひたいのね? さふだと思ふわ。もう、私の事なンかどうでもよくなつてゐるのよ。私つてものが、貴方には苦痛になつてるのね。私は、貴方に見放されたら地獄へ落ちて行つてしまふのよ。灰になつて吹き飛んでしまふきりなのよ。貴方の影だけを見てゝは生きてはゆけないぢやありませんか。奥さんを愛していらつしやる、そのおあまりを、乞食みたいに貰ふ愛情なンて厭だわ‥‥」

「何云つてるンだ。馬鹿だね。愛情なンか、いまごろ持ち出すなンて變だぜ。それどころぢやなく、俺だつて、色々と考へてゐるンだ。何とか、方法を考へてゆかない事には、君だつて困ると思ふから、かうして、今日も忙しいのにやつて來てゐるンだ」

「厭! そんなに恩を被せないで‥‥。私の云つてる氣持ちが、貴方にはよく判つて貰へないンだわ。私は、どうして、我まゝいつぱいに貴方に甘へてゆけないの? 貴方は、いまでも他の事を考へてゐるンぢやありませんか。――でもね、無理な事は云ひませんから、何とか私の住むところをみつけて、時々逢つて下さい‥‥。私、すぐにでも働きたいのよ。私は、貴方の本當の奥さんにはなれないやうに生れついてゐるンだわね」

 富岡は冷い茶をすゝり乍ら、寒いので、膝を貧乏ゆすりして、ゆき子のヒステリックな口説を聞いてゐた。ゆき子は三日も放つておかれた淋しさで、富岡の顔を見るなり、あれもこれも喋舌りたかつた。

「部屋は探して下すつてるンですの?」

「探してゐるさ。部屋一つ位と思うだらうが、こんなに燒けたンだもの、仲々みつかるもンぢやない。たとへみつかつても、何萬圓と權利金が要るンだ。もう、一寸待つてくれよ‥‥」

「そりやァ、貴方は一軒の家に住んでいらつしやるから、何となく落ちついていらつしやるけど、私は宿無しなのよ。現在泊つてゐる處は、私の住める義理合のない家にゐるンですもの。‥‥早く、私だけの居場所が欲しいのよ。親類が疎開しちやつて、その後を知らない人達が住んでる、その家へ、ほんの數日と云ふ事で借りてるンですもの、辛くて仕方がないわ‥‥」

「いまに、何か見つけてやるよ。俺だつてぐづぐづしてゐるわけぢやないンだ。家と云ふものは、此の時勢ぢやア仲々ないものなンだ。ところで、此の宿ぢや、火はくれないのかね? 馬鹿に寒いな‥‥」

「さうね、また、此の前みたいに、私、宿で壜を借りて、カストリ買つて來ませうか?」

 ゆき子は氣が變つたのか、手提げを引き寄せてもそもそと袋のなかを探し始めた。やつと財布を探し出すと、氣輕るに立ちあがつた。

「おい、少しでいゝよ。澤山は飮みたくないな‥‥」

「今日は早く歸るの?」

「別に早く歸らなくてもいゝ‥‥」

「泊つてかないの? 私、お金あるわよ」

「今日は泊れないね」

「さう、つまらない。どうして? 此の間、叱られたンですか?」

「子供ぢやあるまいし、誰も叱りやアしないよ。今日は駄目だ‥‥」

 ゆき子は無理に強制するでもなく、そのまゝ部屋を出て行つた。此の間の部屋とは違つてゐたが、部屋のなかゞ馬鹿に寒く、目の荒い疊の汚れてゐるのも陰氣だつた。

 富岡は煙草を出して一服つけながら、邦子が、ゆき子の事を、最も厭な女だと云つたのを思ひ出してゐた。

 かうした荒れた旅館の一室で、秘密な女と逢つてゐる事よりも、家の茶の間で、しゆんしゆんと湯のたぎる音をきいて、邦子のそばで新聞に眼をとほしてゐる時の方が愉しいと思へた。何と云ふ事もなく、何故、ゆき子は佛印で死んでくれなかつたのだらうと、怖ろしい事も考へるのだつた。すべて人間の心のなかには、どんな時にも、二つの祈願が同時に存在してゐて、一つはサタンに向ふと云ふ心理があるものだと、富岡は何かで讀んだ記憶があつた。

 富岡は、煙草の煙を眼で追ひながら、ふつと、ゆき子のふくらんだ手提げに眼がとまつた。手をのばしてそれを引きよせてみた。フエルトで出來た汚れた手提げのなかには、紫の風呂敷に包んだ反物のやうな固いものがはいつてゐた。その他には化粧品だとか、富岡がサイゴンで買つた、ブルーダイヤのマークのはいつたパアカーの萬年筆や、ピースの煙草や、手拭や石けんがごたごたとはいつてゐた。靜岡の肉親にあてた手紙も二通ほどあつた。富岡は、軈て、また、もとどほりにその手提げを戻して、煙草を火鉢の固い灰に突き差したが、自分の心のなかゝらはみ出しさうになつてゐるゆき子に對して、何となく濟まない氣がして來た。善き半身である處の邦子のおだやかな容子を考へて、その妻を犠牲にしながら、自分だけはこんなところに彷徨してゆき子に搦まり、現在の生活の淋しさを、ゆき子によつて遁れようと、秘密な誘惑に頼らうとしてゐる自分の身勝手さが、背筋に冷い汗のやうに走つた。

 富岡は人妻だつた邦子をさらつて、自分の妻とした當時の事を思ひ出してゐた。惡い事を重ねては、新しい罪をまた重ねてゆく自分の勝手な心の移りかたが、いまでは宿命のやうにさへ感じられた。ダラットに殘して來た女中のニウは、富岡の子供をみごもつて田舎へ戻つて行つた。まとまつた金を與へたゞけで、一切濟んだ氣でゐた氣持ちが、妙に痛んで、時々、ニウの夢を見る時があつた。もう、ニウはすでに赤ん坊を産んだに違ひないのだ。混血兒を生んで、肩身の狹い思ひをしてゐるだらうと、富岡はなつかしい佛印での生活を思ひ浮べてゐた。

 暫くして、ゆき子が冷い風に吹かれたのか、赧い顔をして戻つて來た。

「ねえ、またお壽司買つて來ちやつた。お酒も、ほら、壜にいつぱい分けて貰つたのよ」

 ゆき子はビール壜を窓に透かすやうにして、富岡へ見せた。ゆき子は、冷い殘りの茶を、亂暴にも、火鉢の隅へあけて、それへ酒をついだ。

「私が、初めに、お毒見よ」と、茶碗に唇をつけて、半分ほどぐつと、飮んだ。

「あゝ、おいしい。胸も、おなかも燒けつくやうだわ」

 富岡は酌をされて、これも息もつかずに、一息に酒を飮んでしまつた。ゆき子はまた茶碗へ酒をついだ。

「ねえ、今夜、泊つて‥‥いけないかしら。もう、今度だけで、無理を云ひませんわ。もし、この家が厭だつたら、何處へでもいゝわ。お金が足りなかつたら、私、いゝものこゝに持つてるから、もつと氣持ちのいゝところに泊つてもいゝわ」

 急に熱いものがこみあげて來て、富岡は、ゆき子の手を握つた。どんな感情も心にしまつてはおけないゆき子の野性的な性格が、愛らしかつた。家庭を背負つた、重い環境に押しひしがれてゐた氣持ちから解放されて、酒の勢ひを借りたせゐか、富岡はゆき子の手の指を唇に噛んだ。

「もつと、ひどく、ひどく噛んでよ」

 富岡は、ゆき子の指を小刻みに噛んだ。ゆき子は耐へられなくなつたのか、富岡のゆすぶつてゐる膝へ顔を伏せて、くつくつと泣いた。

「私は、こんな女になつてしまつて、自分でも、判らなくなつてゐるンです。何うかしてしまつて下さい。どうでもしてしまつて下さい‥‥」

 ゆき子は泣きながら、兩の手で、富岡の膝をさすりながら云つた。部屋の中は暗くなり始めてゐる。賑やかな市場の呼び聲が風の工合か判然りと聞える。富岡はゆき子の頭髮に唇をつけたが、自分の心にはさうした事が、芝居じみてむなしい事をしてゐるやうに思へた。

 妻の邦子にはない、野生な女の感情が、富岡には酒を飮んだ時にだけ、ぱあつと反射燈を顔に當てられたやうに判然りするのだつた。

「私、奥さんを見なければよかつたわ。いゝ人なのね。でも、貴方の奥さんと思ふと、やつぱりあの顔は憎い。私、お宅へうかゞつてから、何時も、あの奥さんの顔がちらちらと胸の中へ刺しに來るの‥‥。奥さんは、きつと、私の事を感じてお出でだわ。ね、おつしやつたでせう?」

「何も云はないよ」

「嘘よ。私、とても、ひどい表情をして、奥さんを睨んでたの。不思議さうに私の顔を見て、奥さんてば、私の足もとから、頭のてつぺんまでじろじろ見てゝ、とても、厭な笑ひ方をしたの。たまらない氣味の惡い、笑ひ方だつたわ。金齒が光つたのよ、その時ね‥‥。どうして、前齒に、金なンかはめてるのかしら‥‥」

 ゆき子は顔をあげて、にやにや笑ひながら云つた。泣いた顔が洗つたやうに化粧がとれて、かへつて生々してみえた。額にさげた前髮が亂れて、初めて見るやうななまめかしさだつた。醉眼で見るせゐか、遠近の調子が、まるで映畫の速度のやうに、眼の前でゆき子の顔がゆれて、濃く淡く見える。

「でも、私より、ずつと年上の方ね‥‥」

「いやに搦むね?」

「さうなのよ。貴方を一人占めしてるのいけないわよ。唇の正面に金齒なンか入れてる奥さんとキッスするひとつて、ぞつとするわ‥‥」

 富岡は邦子の缺點をづけづけと差される事は、あまりいゝ氣持ちではなかつた。部屋の隅に蒲團がつんであるのを富岡は一枚引きずつてきて、膝へかけた。汚れてべとついた冷い蒲團だつた。

「炬燵ね。私も、こつちから足を入れていゝ?」

 ゆき子は醉つてゐた。

「働くつて、何をするつもりだ?」

 もう、三四杯目の酒をひつかけて、富岡が聞いた。ゆき子は一寸眞面目な顔になつて、

「ダンサアになりたいンだけど、いけないかしら‥‥」

 と、眼の底から光るやうななまめかしい表情で云つた。富岡はそれもいゝだらうと思つたが、それに就いてはいゝとも悪いとも云はなかつた。





 軈て、十時近くになり、富岡は、

「さて、歸るかな‥‥」

 と、つぶやくやうに云つて、外套の内ポケットから、まるめたやうな札束を出して、そのまゝゆき子の膝へ置いた。

「千圓ある。これのあるうちに、働く處を何處でもみつけなさい。部屋は、みつけ次第知らせる。明日の晩、一寸、信州へ發つので、十日位は逢へないが、それまで、その家へいくらか金を出して、置いて貰ひなさい‥‥」と、こんな事を云つた。

 ゆき子は、千圓の金を手にして、そのまゝつつ放されたやうな氣がした。

「私、お金いらないわ。それより、泊つて行けない? このまゝ別れるの淋しい。厭だわ。信州へ十日も行くなンて、逃げて行くのよ。さうだわ。きつと、さうだわ。――正直に氣持ちを云つて‥‥」

 殘りの酒をぐつと飮んで、富岡は、また思ひ出したやうに、膝小僧を苛々と貧乏ゆすりしながら、

「いや、さうぢやない。君に申し譯ないンだ。ね、正直に云へば、僕達は、あんな美しい土地に住んでから夢を見てゐたのさ。そんな事を云ふと、君に叱られさうだが、日本へ戻つて來て、まるきり違ふ世界を見ては、家の者達をこれ以上苦しめるのは酷だと思つたンだ。みんなひどい苦しみ方をして來たのに、さうしたなかに、兎に角耐へて來てゐたンだ。僕を待つてゐてくれた人達に、ひどい別れ方は出來なくなつてしまつたンだよ。約束を破つたやうになつたが、君が、倖せになるまで、僕はどうにでもする。眞心こめて考へる‥‥。君は好きなンだよ。それでゐて、どうにも一緒になれないのは、僕の弱いところなンだ。今夜も、泊れない事はないが、もう、君を僞つては惡い氣がして、僕はさつきから早く歸るべきだと、自分に云ひきかしてゐた。信州へ行くのは本當なンだ。旅から戻つて、君にこの氣持ちを話さうと考へてゐたが、急に、いま、ぶちまけたくなつた。本當に別れるとなると、僕は、きつと君が不憫になるにきまつてゐる。そのくせ、現在の家から、自分一人丈拔けて出る事は不可能なンだよ。みんなが、僕一人を頼りにして生きてゐるンだからね‥‥」

 性急に、ゆき子は首を振り、兩の耳を手でおほふた。きらきらと光る眼で、富岡の唇もとを睨みつけながら。――富岡は靜かに蒲團を片寄せて、ゆき子の膝に兩手をかけてうめくやうに、

「別れてしまふより方法はない」と云つた。

「厭! それでは、貴方たちだけが幸福になる爲に私の事はどうでもいゝの? こんなお金なンかいらないッ。私は、お金を貴方から貰つて幸福だとは思はないわ。私は貴方の都合のいゝやうにおとなしくはしてゐられないわ。私にだつて、云ひたい事を云へる權利があるなら、奥さんも私も同じだつて事だわ。奥さんを幸福にする爲に、私なンかどうにでもなると思つてるンでせう‥‥。何故、初めに、私が尋ねて行つた時、玄關で、さう云はなかつたの?」

 ゆき子は一時に醉ひが發して來た。何を云つてゐるのか、自分でもよくは判らなかつたが、富岡の勝手な云ひ分が氣に食はなかつた。

 佛印では、あんなに伸々としてゐた男が、日本へ戻つてから急に萎縮して、家や家族に氣兼ねしてゐる弱さが、ゆき子には氣に入らなかつた。ゆき子は、富岡の兩の手を取つて力いつぱいゆすぶつた。そして、急に左の腕をまくり、太いみゝず腫れの從に長い傷痕をみせて、

「これ、覺えてゐるでせう? みんな、貴方が、加野さんに嘘をついてゐたからだわ。ニウにいたづらしたのも、私、みんな知つてるのよ。貴方は、人間の一生懸命な氣持ちつて、狂人みたいに思つてるンぢやありませんか? 誰でも、すぐ、貴方のやうな人を信用して、加野さんや、私のやうなものは、ノーマルぢやないつて信用されないのよ。――でも、あの時は、貴方は私には贋物には見えなかつた。別れてくれつておつしやれば、仕方がないけれど、それでもいゝものなのかしら‥‥。家を立派にして、家族のひとたちをよろこばせて、自分の胸の中がすつとしたつて、貴方のその幸福をつくる爲には、幾人かを犧牲にしてる事になるわ。それを知らん顔するなンてひどい。そんなに、家や奥さんが大切だつたら、初めつから、石塊になつてればいいのよ。――私、別に、貴方の奥さんを追ひ出したいなンて思はないけど、でも、もう少しいゝ事考へ過ぎてたのね。私は、今夜はこゝへ泊りますから、貴方は自由に歸つて下さいッ‥‥」

 眼が据つてゐた。そして、富岡の手を放すと、ゆき子は、そこにある蒲團を頭から被つてごろごろと疊を轉げまはつた。ゆき子の自暴自棄な姿を眼にして、富岡は森閑とそこに坐つたまゝだつた。




十七

 四日ばかりして、不意に伊庭が上京して來た。

 ゆき子は出掛けようとして、路地の出逢頭に、向うからほつほつやつて來る伊庭に會つた時は、初め、伊庭ではなく、伊庭の兄かと思つた。伊庭も吃驚したやうだつた。

「おう、ゆきちやんぢやないか?」

 ゆき子は突然だつたので顔を赧めた。

「何時、戻つたンだい? 靜岡へ何故、先に戻つて來ないンだ。やつぱりゆきちやんだつたンだね‥‥」

 伊庭は四年も見ないうちに、すつかり老けこんで人相も變つてゐた。

「私がこゝへ來てるの、どうして知つてゝ?」

 伊庭は黒い外套の襟を立てゝくるりと、後がへりの姿で、

「家ぢやこみいつた話も出來ないから、何處かで休みながら茶でも飮むか‥‥」

 さう云つて、ぴゆうぴゆう寒い風の吹く、からからに乾いた廣い道の方へ出て行つた。ゆき子も、伊庭の疲れたやうな後姿を珍しいものでも見るやうに眺めながら、默つてついて行つた。踏切を渡つて、伊庭は驛へは這入らないで、かまはずに道をまつすぐ行つて、丁度驛からは、はすかひに見える蕎麥屋ののれんをくゞつた。薄暗い家のなかには火の氣もなく、たゝきに竝んでゐる卓子の上は白い埃が浮いてゐた。隅の方に二人は腰をかけてむきあつたが、二人ともあまり寒いので、足をたゝきから浮かせるやうにしてゐた。それに硝子戸の外はこまかい格子だつたので、その一隅は特別薄暗く寒かつた。

「こゝは、蕎麥は出來ませんか?」

 伊庭が尋ねた。ガーゼのマスクをした、桃割に結ひたての娘が、蕎麥はまだやかましくて出來ないのだと云つた。こゝで出來るものはと尋ねると、紅茶と、汁粉と、ソーダ水だけだと云つた。この寒いのにソーダ水なンか飮めるものかと、伊庭は、汁粉を二つ、とりあへず注文した。昔ながらの蕎麥屋で、如何にも宿場の食べもの屋の感じである。伊庭はポケットから煙草を出して、一服つけた。一服つけて光の箱をまたポケットへしまひかけると、ゆき子が寒さうに肩をふるはせながら、

「私にも一本吸はせて」と云つた。

「お前、喫むのかい?」

「あんまり寒いから、一寸吸つてみたいのよ。煙を吸ひこんだら、あつたまりさうだから‥‥」

 ゆき子は一本唇に咥へて、伊庭にマッチをつけて貰つた。伊庭はうるさい程、いろいろな事を尋ねた。軈て、ズルチン入りのどろりとした汁粉が運ばれた。椀の蓋を取ると、蓋に汗をかいてはゐるが、汁子の色が飴色をしてゐた。團子の小さい塊りが二つ浮いてゐる。

「お前、勝手にうちの荷をほどいたンだつてね?」

 伊庭が、うつむいて、汁粉の團子を箸でつまみあげながら云つた。ゆき子は默つてゐた。伊庭と同じやうに團子を箸でつまんで口に入れながら、家の者が密告したのに違ひないと思つた。

「家へ行つて、荷物を調べれば判るンだが、どうして、そんな勝手な眞似をするンだね。金がいるのなら、そのやうに云つてくれゝば何とかするンだよ。それよりも、東京へ戻つて、靜岡へ知らさないと云うのはをかしいね‥‥。或る人から手紙で知らせて來たンだが、大分賣り飛ばしてるつて本當かね?」

 伊庭は、消えかけた煙草に火をつけて、すぱすぱと力いつぱい煙草を吸ひながら云つた。ゆき子はいまは、伊庭に對して何の感情もなかつた。

「あんまり、寒かつたンで、お義兄さんとこの荷をほどいて、二三枚拜借したのよ」

「ふうん。賣つたのかい?」

「えゝ、まアね、惡いと思つたけど、燒けた人もあるんだから、その位はいゝと思つて、義兄さん許してくれると思つて、この外套を、そのお金で買つたの」

「どうして、まつさきに靜岡へ戻らないンだ?」

「歸りたくなかつたのよ。それに、一緒に戻つて來た友達もあつたし、これから働く場所も早く探したかつたから、落ちついてから歸るつもりだつたの‥‥」

 さう云つて、ゆき子は、手提げから、故郷へ書いた手紙を二通出してみせた。もう、四五日前に書いたまゝ、出し忘れてゐた手紙だつた。

「何と何を賣つたンだ?」

「絽縮緬二枚と、反物が少しあつたから賣つちやつた」

「お前、そんな亂暴な事をしていゝのかね? あつちへ行つて、人柄が變つたね」

 ゆき子は默つてゐた。

「銀行をやめて、ずつと田舍で百姓をしてゐたンだが、やつぱり都會で暮したものは、田舍には住みつけない。それで、此の暮にはみんなで出て來るつもりで、荷物を送つておいたンだ。めぼしいものは今いゝ價になるから、そいつを賣つて、商賣のたしにでもするつもりでゐたンだよ。お前、外套は田舍にあづけてある筈ぢやないか?」

「えゝ、だから、あつちの方を賣つて下すつてもいゝわ。私のもの、みんな賣つて貰つてもかまはないわ。私ね。結婚するつもりで、今度、それで先へ東京へ來たンです」

「ほう、何時結婚するンだ?」

「うゝん、それがうまくゆかなかつたの。そつちには奥さんも親もあるンで、日本へ歸つたら、みんな駄目になつちやつたのよ」

「何をする男だ?」

「やつぱり農林省の人で、あつちでは一緒に働いていた人なの。こつちへ戻つて、いまは、材木の方をやつてるつて云つたわ」

「いくつだい?」

「義兄さんよりはずつと若いわ」

「欺されたンだな‥‥」

「いゝえ、欺されたわけぢやないけれど、別れるやうになつちやつたのよ‥‥」

 伊庭は、無口でおとなしい娘だつたゆき子が、すつかり人柄が變つてしまつてゐる事が珍しかつた。すつかり大人らしくなつて、云ふ事もはきはきしてゐた。寒いので、ゆき子は紫の風呂敷で頬かぶりしてゐたが、地肌が白いので、その紫が顔に影をつくつてよく似合つてゐた。

「義兄さん、ずつとこれからゐるの?」

「うん、三四日泊つて、一寸、あつちこつち東京の友人も尋ねたり視察したりして、歸るつもりだ。一緒に戻つてもいゝよ」

「荷物はないの?」

「いや、角の産婆さんに預けてあるンだ。産婆さんがお前の事を知らせてくれたンだよ」

「さう‥‥」

 二人は蕎麥屋を出たが、別に行くところもないので、伊庭もゆき子も驛の前のこはれた自動電話の箱の前で立ち話をした。

「私はこれから、新宿まで出るから、どうぞ、勝手に調べてみてよ」

 ゆき子は惡びれた容子もなく云つた。

 伊庭は、寒さうに風のあたらない方へ、背を向けて立つてゐたが、「一緒に行つてみよう」と、ゆき子と竝んで驛へはいつて行き、二枚の切符を買つた。

 二人は新宿へ出て行つた。伊庭はゆき子が妙にはきはきしてゐるのが不安だつた。何を考へてゐるのかさつぱり見當がつかない。薄陽の射した天氣だつたが、馬鹿に風の強い日だつた。電車の中も、硝子はあらかたこはれてゐたので、氷の室が走つてゐるやうに寒かつた。

「隨分、やられたものだなァ」

 驛々の間の、荒凉とした燒跡に眼をとめて、伊庭はそれでも珍しさうに窓外を見てゐる。

「ね、義兄さん、私、ダンサアになりたいンだけど、私にやれるかしら?」

 ふつと、何氣なくゆき子が云つた。伊庭はゆき子の突拍子もない話に驚いたらしく、すぐには返事もしなかつたが、

「タイプの仕事をするのは厭なのかい?」

 と聞いた。

「もう、あんな仕事は飽きちやつたわ。サラリーも少ないつて云ふンだし、進駐軍專用のホールだと、とてもいろんな面で收入がいゝつて云ふわね」

「うん、それもさうだらうが、長續きするか、どうかね‥‥」

 二人は新宿へ出て、何の目的もないので、暫く歩いて、武藏野館でキュウリイ夫人と云ふ映畫を觀にはいつた。何年ぶりかで、西洋映畫を見る氣がした。ぼろぼろになつた椅子に、二人は竝んで腰をかけたが、映畫館の中もとても寒かつた。荒れ果てゝ昔のおもかげもない、むさくるしい小舍の中で、初めて觀る西洋映畫は、現實からはづれたやうな奇妙な感じだつた。

 伊庭は何を考へてか、ゆき子の手を暗がりのなかで握つた。熱い手だつた。ゆき子は厭な氣持ちだつたが我まんして、伊庭に手を握られたまゝにしてゐた。銀色に光るスクリーンの反射で、伊庭の横顔が死人のやうに見えた。ゆき子は、富岡とのこの間の別れが胸に來て、こんな淋しい思ひをするのも、みんな富岡の爲なのだと、いまごろになつて涙が溢れて來る。

 映畫館を出た時は薄暗くなつてゐた。

 すつかり、露店もなくなり、四圍はいやに淋しくなつてゐた。廢墟の角々に外燈がついてゐるのが、いつそう敗戰のみじめさを思はせた。凍つたやうな冷たい風が吹いた。二人は電車通りへ出た。まるで小舍のやうなバラックの商店が竝んでゐたが、それも早々に店を閉してゐた。このごろは強盜おひはぎのたぐひが街に横行してゐたので、日の暮れには、どの商店も早い店じまひをしてゐる。

 ゆき子は二度ばかり來た事のある、角筈の電車通りに出來た、中華蕎麥の小さいバラックの店へ、伊庭を連れて行つた。夜になると、ゆき子は強い酒が飮みたかつた。荒れ果てた心のなかに、強い酒でもそそぎこまなければやりきれない氣持ちだつた。竹の子蕎麥を注文して、二人は珍しく小さいストーヴの燃えるそばへ腰を降した。ストーヴが勢よく燃えてゐるのを見るのは、何年ぶりだらうと、ゆき子は青く光つた錻力の煙突に、ちよいちよいと指先で觸れてみた。

「ダンサアなンてのは賛成しないね」

 伊庭が煙草を吸ひながら云つた。ゆき子は、さつき手を握つてゐた伊庭の厚かましさがいやらしくて返事もしなかつた。伊庭はゆき子の派手な化粧をしてゐる顔を珍しさうに眺めながら、

「ずつと、お前の事は心配しづめだつた。うまく歸れるものなのかどうかも心配だつた。日本もいまは大變だ。みんな偉い人達はつかまつたし、世の中がひつくり返つたやうなものだ。昔、偉くかまへてゐた人間が、いまはみんな落ちぶれてね、小氣味がいゝ位に世の中が變つた」

 しんみりと、伊庭はそんな事を云つた。

「あんまりのぼせかへつたのよ。もう、これから戰爭がないだけでも清々していゝわ。でも、よく義兄さんは兵隊にとられなかつたわね?」

「うん、そればかり心配してゐたンだ。濱松の軍の工場に勤めたのも兵隊のがれだつたが、いまから思へば、夢のやうなものさ‥‥。濱松もやられて、それからずつと百姓をしてゐたが、よく兵隊にとられなかつたと、不思議な位だ。終戰になつて、一番、心配したのは、お前の事だつたが、かうして樂々と戻つて來ようなぞとは思はなかつたな‥‥」

 熱い蕎麥が來たので、二人は丼を抱へこんで食べた。珍しく赤く染めた竹の子がはいつてゐた。

「美味い‥‥」

「こゝ、とても美味いのよ。第三國人がやつてるのね。とても量が澤山あつて安いのよ」

 ゆき子は、ふつと、池袋のホテイ・ホテルの事を思ひ出して、このまゝ伊庭と鷺の宮へ戻つて、あの狹い部屋で、二人で寄り添つて寢るのは厭だと思つた。自分が求めてゐるものは何も與へられないで、求めてゐないものは、運命的に、自分の周圍にまつはりつかれる氣がして、心のなかでからからに乾いてゆく感じだつた。

「今夜、家で泊るの?」

「うん」

「部屋がないでせう?」

「お前は、どの部屋で寢てるンだ?」

「茶の間。荷物がいつぱいね」

「一緒に寢ればいゝよ」

「食べるものなくてよ」

「米は三升ばかり持つて來てゐる。なあに自分の家だもの、自由に臺所を使つて、煮焚きすればいゝさ。何も遠慮する事はない。蒲團もいゝ方の奴が一組送つてある。歸つて荷ほどきをするよ」

「ぢやア、私は、池袋に泊るところがあるから、そこへ行くわ」

「馬鹿に警戒するンだね」

「さうぢやないけど、私、今夜は、仕事の事で、どうしてもお友達と打ち合せしなくちやならないもの、また、明日、わざわざ出掛けるの億くうだから‥‥」

「今夜は、久しぶりに逢つたンだよ。まだ色々話もある。一緒に歸ンなさい。お前が、着物をどれだけ賣つてるのか知らンが、叱りはしないよ」

「えゝ、その事は、どんなに叱られてもかまはないのよ。‥‥仕事の話で、友達の處へ行きたいンだわ」

 伊庭と添寢する事は、思つてもぞつとした。




十八

 富岡は信州行きがのびて、一向に田所の處の話が埒があかなかつた。何でも素早く立ちまはらなければ、世の中はどんどん變つて行くのだ。金の價値もすつかり變つてしまふと云ふ風評も飛んだ。いまのうちに、材木をしこたま豫約しておきたかつたし、此の頃、紙の闇も激しいと聞いて、その方にも手をのばしたかつた。だが、かうして、世の中に獨りでごろりと放り出されてみると、富岡は自分の無力さを悟るのだつた。誰も信用出來るやうな顔でゐて、ひそひそ語りあひながら、その實、胸の中には自分一人で胸算用をしてゐる‥‥。敗戰だとか何とか云つたところで、みんな、不安な方へ考へを持つて行かうとはしてゐないのだ。このどさくさに、何とか力頼みなものが自分の周圍にだけ轉がつてゐるやうに、無雜作に考へたがる‥‥。戰爭をしてゐる時よりは、この革命的な、スリルのある時代の方が誰にも好ましかつた。人間はすぐ退屈する動物だ。どんな變形でもいゝ、變化のある世代がぐるぐる廻つてゆく方が刺戟があつた。

 富岡は、まづ、さうした事業の手始めに、家を賣つて資金をこしらへるより術はないと考へた。まづ、五六十萬の現金さへつくれば、その金を土臺にして、あとは何とか出來てゆくやうな氣がした。このまゝ手をつかねて、この時代をやりすごすには忍びないのだつた。





 或朝、食事の時に、邦子が、ふつとこんな事を云つた。

「ねえ、この間、尋ねてみえました、ほてい商會の女の方ですね、私、昨夜、家の近所でおめにかゝりましたけれど、あの方、この近くにお知りあひでもございますのかしら‥‥」

 富岡は、忘れようとしてゐたゆき子のおもかげをふつと瞼に浮べた。默つて味噌汁をすゝつてゐると、この近くをうろうろしてゐるゆき子の苛々した顔つきが心にこたへて來る。

「御主人は、何時頃、信州からお歸りでせうかつておつしやるものだから、私、どう云つてお返事していゝか判りませんので、もしも、歸りの道で、貴方にお逢ひになつては工合が惡いと思ひまして、昨日、戻つて參りましたつて云ひましたのよ‥‥。何か、御用でございましたら、傳へますつて申しましたら、御近所まで來たとおつしやつて、いまずつとほてい商會に住んでゐますから、夜分にでも是非お出掛け下さいと傳へてくれつておつしやるンですの‥‥。そして、先日お立替したものをお返し願ひたいとおつしやれば富岡さん御承知ですつて、そのまゝさつさと行つておしまひになりましたのよ。とても派手な化粧をした方ですのね」

 息苦しい氣持ちで、富岡はゆき子のその後の消息を知らされた。それでは、住むところもなく、あのホテルに居着いてゐるのかも知れないと思はれる。あの時、千圓の金はどうしても取らないと云つて、池袋の驛で、無理矢理突つ返されてしまつたが、ゆき子が、泣きながら、自分だけが幸福になる爲に、人を犧牲にするのかと云つた事が、いまでも判然りと富岡の耳についてゐた。

 生一本な加野を、狂人のやうにしてしまつてまで、あの時は、富岡はゆき子を得た。その爲に、ゆき子は加野から傷つけられたが、あの時は無雜作に二人は結婚出來ると考へてゐたし、また二人はそれだけの心の準備をしたつもりだつた。富岡は急に味のなくなつた朝の食卓から、早く箸を置いた。ゆき子の不幸な姿に濟まなさを感じた。旅空での、男の無責任さが反省されもした。此の家を賣るとなれば、兩親にも妻にもそれぞれ金を與へて、自分は無一文で、ゆき子と一緒になるべきではないかとも空想したが、その空想は少しも慰さめにはならなかつた。

「お金でも、その商會でお借りになつたンでございますの?」

 白粉氣のない邦子が不安さうに訊いた。

「昨夜、何時頃だ」

「七時頃でせうか。買ひ物に參りましての歸りでしたわ。貴方が遲くお歸りでしたので、つい、申し上げるの忘れてゐましたけれど、今朝、ラジオの尋ね人で、ほていと云ふ名が出ましたので思ひ出しましたけど、ほてい商會つて、何の御商賣なさる處なンですかしら‥‥」

 富岡は返事もしなかつた。何時も朝の遲い食事だつたので、父も母も他の部屋にゐた。邦子は新聞をたゝみながら、

「私が、參りましてはいけないでせうか?」と云つた。

 憑かれたやうに、富岡は邦子の細面の顔を見てゐた。この秘密を妻に何も彼も打ちあけたい氣がした。富岡は疲れてへとへとな氣持ちだつた。妻に、自分の秘密を洞察して貰ひたかつた。この不安を長く續ける勇氣もないくせに、ゆき子の問題には何一つ親身になつてやらうとしない身勝手さが、富岡には自分でよく判つてゐた。みんな自分のやつた事なのだ。日本へ戻つてからといふもの、富岡はまるで人が變つたやうに、固い假面を被つて、自分の感情をおもてに現す事を好まなくなつてゐた。邦子はさうした良人に對して、もどかしく水臭いものを感じて、あの派手な化粧の女とのつながりが、無關係ではないやうに思へ、不安で暗いものを直感した。このごろの富岡は、眼には落ちつきがなく、邦子を愛撫し、抱擁してゐても、突然その動作を打ち切つて深く溜息をつくやうになつてゐた。昔のやうな強烈な力を使ひ果さないうちに、富岡はあきらめたやうに、冷たく邦子を突き放す時があつた。

「貴方は、佛印からお歸りになつて、とつてもお變りになつたわ‥‥」

 と、富岡が歸つて來た早々に邦子が不思議さうに云つた事があつた。富岡も自分の變化はよく判つてゐた。朝々髭を剃るたび、鏡の中の自分の顔が、スタヴローギン的な厭らしさを感じないではない。繪に描いた美男子ではなかつたが、それに、唇は珊瑚の色でもなく、顔色は白く優しくもなかつたが、このまるきり違つた東洋の蒼ぶくれの男が、何となく、悪靈のなかのスタヴローギンのいやらしい外貌に似てゐる氣がして氣持ちが惡かつた。

 田所が、このごろ、厭によそよそしてゐるのも、かうした心を見拔いての疎遠なのではあるまいかとも考へてみる。邦子と一緒になつた時にも、田所には多くの迷惑をかけてゐた。そのくせ苦勞人の田所は、少しも富岡に對して迷惑がつた顔色もみせないで、佛印から戻つた孤獨な自分に、協力の手を差しのべてくれた事を思ふと、田所だけを責めるわけにもゆかないのだ。

「私、あんな女の方に、家のまはりを歩かれるのは厭です。何か、おありになるンぢやありませんの‥‥。とても、貴方の御容子が以前とはまるきり違つて來てゐるンですもの」

「馬鹿な事を云ふもンぢやない。何も變つてはゐないよ」

「それでは、私が、そのお立替のお返しに參りましてはいけないンでせうか?」

「男のやる事に、よけいな心配はしないがいゝ」

「でも、何だか、私、腑に落ちないンですもの‥‥」

「本人の僕が、心配するなと云つてゐるンだから信じたらいゝだらう」

「えゝ、それは、さうでせうけれど。貴方は、あの女の方に、何か負目がおありになるンぢやあありません。あの方の話が出ると、急に怒りつぽくおなりになるわ」

「君がつまらん疑ひを持つから怒りつぽくなるンだ。僕は仕事の事で、田所の方の仕事もおさきまつくらで思ひ惱んでゐるンだ。よけいな不安は口にしない方がいゝね」

 富岡は、もう一度、しみじみと佛印の山林に出掛けてみたい氣がしてゐた。山林以外には、どうした事業も身には添はない氣がして、親も妻も家も、みんなわづらはしい氣がした。あの大森林のなかで、一生涯を苦力で暮してゐる方が、いまの生活よりはるかに幸福に思へた。

 干潟の泥土の中に、まるで錨を組みあはせたやうな紅樹林の景觀が、どつと思ひ出の中から色あざやかに浮んで來る。ぎらぎらと天日に輝く油つこい葉、幹を支へる蛸のやうな枝根の紅樹林の壁が、海防でも、サイゴンでも港灣の入口につらなつてゐた。ビロードのやうなその樹林の帶を、富岡は忘れる事が出來なかつた。もう一度、南方へ行つてみたい。

 今度こそ、あの戰爭中の狂人沙汰な氣持ちから頭を冷して、靜かに研究出來るやうな氣がした。だが、幾度その思ひ出に耽つてみたところで、身動きもならない身では、その考へもいたづらに身心を疲れさすだけだつた。

 海を渡る事が出來ないとなれば、泳いでも渡つてゆきたかつた。家の問題も、富岡にはどうでもよかつた。このまゝ消えてゆけるものならば、この息苦しさから拔けて、南方へ行く密輸船にでも身を託してみたいのである。

 邦子は、不氣嫌に默りこんだ良人の冷たい顔を見てゐたが、急に涙が溢れて來た。

「何を泣いてるンだ?」

「私、苦しい。とても苦しいのです。いまごろになつて、私は、罰があたつたのだと思つてゐます。人の罰が當つたのですわ」

「小泉君の事でも思ひ出したのか?」

「いゝえ、そんな、あのひとの事なンか。‥‥貴方がこのごろ、私と別れたいと思つていらつしやるのだと思つて、いろんな罰を受けてゐる氣がします」

「暮しが苦しいから、君はそんな苛々した氣になるンだ。別れるなんて、僕は少しも考へてはゐない‥‥」

 富岡は嘘をついてゐる自分にやりきれなくなつてゐた。自分の嘘の塊が、ざくろの實のやうに、くわつと口を開いて自分を笑つてゐるやうに思へた。




十九

 このごろ、馬鹿に涙もろくなつてしまつて、これは氣が狂ひ始めてゐるのではないかと思ふ時があつた。泣いてゐると、これからさきの行末に就いての直感が、不安な暗い影になつて、ゆき子の瞼に現はれて來る。その直感は、かならずその通りになるものだと判斷をする。その判斷には狂ひはないと思へる。何一つ強い背景になるべき柱がない以上は自分は小石のやうに誰かに蹴飛ばされて生きてゆかなければならない。

 富岡への愛は、やつぱり富岡の現在考へてゐるとほりのもので、ゆき子自身もいまではそれに同化して來てゐるやうになり、お互ひに逢つて、誰かに責められてゐるやうな薄手な感情に色あせつゝあるのを感じる。無理な工面をして逢ふ、そして、二人だけの共通のなかにある遠い思ひ出をたぐり寄せて、色も香も失せつゝあるその思ひ出に醉つぱらつてみたくなつてゐる感情の始末の惡さ‥‥。只、それだけの事なのに、一度、二度、三度とゆき子は富岡に逢ひたがつてゐる。さうして逢へば、その思ひ出も、色があせつゝあるのを知らされるだけのものだつた。この敗戰の現實からは、二人の心のなかにある、遠い思ひ出なぞは、少しも火の氣を呼ばないのだつた。

 愛しあつたら、その場ですぐ一緒にならなければ、永遠に悔いを殘すものだと、ダラットにゐた時に、富岡が云つた事がある。今になつてみると、富岡の云つた事が現實のなかでは、本當の答へになつて現はれたのだと思ひ知らされるだけだつた。

 池袋の宿屋の拂ひも長く續くわけではなく、ゆき子はまた、鷺の宮の伊庭の家へ舞ひ戻つたが、伊庭は靜岡に歸つて、二三日して、いよいよ東京に引揚げて來ると云ふので、六疊の茶の間と、四疊半の應接間を空けて貰つてゐた。應接間と云つたところで、屋根だけが赤瓦で、部屋は坊主疊を敷いた、床の間も押入れもない部屋である。

 ゆき子は、そこで一晩泊つた。伊庭からは置手紙があつた。荷物を調べてみた。別に怒るわけではないが、賣つたものは仕方がないとしても、これ以上迷惑をかけられる事は困るのだ。部屋も狹いので、引揚げて來てからも、君をこゝへ置くわけにはゆかない。何處へでも行つてくれ。行く處がなかつたら、一度田舍へ戻つて君の將來をみんなに相談して貰ふ事だ。留守の間に、また荷物に手をかけるやうな事があつたら、こちらにも考へがあるからそのつもりでと書いてあつた。

 どの荷物もかんじがらめな荷造りにされて、紙で封印がしてあつた。ゆき子はをかしくてたまらなかつた。鋏でぷつぷつと細切を切つてしまひたい氣がしてゐた。

 男といふものは、みんな逃げる氣なのだと、ゆき子はつくづく物慾の深い男心にいやらしいものを感じてゐた。考へがあるものなら、その考へにしたがふのも愉快な氣がして、ゆき子は、一晩だけ泊つて今度は、伊庭の蒲團包みを近所の運送屋に頼んで、池袋のホテイ・ホテルに運んだ。留守の人達は別にとがめだてもしなかつた。むしろ、心のなかでは、何でもやんなさいと云つたところを無言の表情に現はしてゐた。

 池袋の旅館で、蒲團包みを開くと、なかゝら伊庭の袍褞や、かなり古いインバネスや、小豆の袋が包みこんであつた。小豆は五升ばかりはいつてゐた。蒲團の包みは、木綿の敷蒲團が二枚、毛布が一枚、ガス銘仙の上蒲團が一枚、ゆき子は、胸のなかゞぬくぬくとする感じで、さつそく、インバネスと小豆は、驛のそばのマアケットで賣り拂つた。盗みをするといふ事は仲々面白いものだと思つた。伊庭の荷物から、これだけのものがなくなつたところで大した事はないのだ。自分は三年もあの男にもてあそばれてゐたのだと思ふと、いまごろになつて、ぐつと、噴きあげる怒りの氣持ちが湧いて來た。もつと、みんな盗んで來てやればよかつたやうな氣がした。

 ホテイ・ホテルの主人の世話で、翌日、ゆき子は近所の荒物屋の古い物置を借りる事が出來た。その荒物屋は家の横に新しく家を建てゝゐた。

 物置きは、三坪ばかりで、部屋の部分は、新しい錻力の卷いたのがしまひ込んであつた。天窓が一つあるきりで、電氣も水もない。荒物屋では、古い疊を二疊ほど敷いてくれた。女獨りで寢るには充分である。ゆき子は自分獨りで住める部屋をみつけると、急にまた富岡に逢ひたくなつてきた。ゆき子は敷蒲團の一枚をホテイ・ホテルに買つて貰つて、その金で、鍋釜や七輪を買ひ、初めて、マアケットで闇の米を一升と炭を少しばかり買つて來た。金氣臭い新しいニユームの鍋で飯を焚き、殘りの火を炬燵に入れて、熱い飯に生玉子をぶつかけて食べた時は、ゆき子はしみじみと自炊の有難さを感じた。たらふく白米の飯を食べて、呆んやり炬燵にあたつてゐると、食慾だけでは滿たされない淋しい感情が、雨のやうに心に降りかゝつて來て、ゆき子は、蒲團の縫目を數へてみたり、只、荒く木を削つたゞけの壁をみつめたりした。ローソクの灯が板壁の隙間風にゆらゆらとゆれて、時々消えかける。心細くなつて、ゆき子はかうした獨り住居に耐へて行けるかどうかを考へるのだつた。部屋の隅に水を汲んだバケツが置いてあるのも寒々としてゐた。これだけでも生きてはゐられるものだと、小さい幸福らしいものは感じるのだつたが、心もとない幸福らしさで、明日の事は少しも判らないのである。

 翌朝は雨であつた。

 ゆき子は遲く起きて、富岡に手紙を出しに行き、錢湯へ行つた。錢湯の歸り、驛へ行つて新聞を買つて來て、職業欄をひらいてみたが、タイピスト募集のところだけが眼にちらついて來る。明日でも働きたいと思ひながら、慾も得もないやうな、躯も心もうつろになつた氣がして、薄暗い小舍の中で、終日うとうとして過してしまふのであつた。

 かうした氣持ちのなかで、四五日は過ぎたが、富岡はやつて來なかつた。長野から戻つてゐさうなものだと思ひながらも、やつて來ないところを見ると、あの手紙は富岡の手にはいつてゐないのかも知れないとも考へられる。

 ゆき子は目的のない氣持ちで、新宿へ出てみた。夕方で寒い風が吹いてゐた、露店もあらかた店をしまつた新宿は、淋しい砂漠の街のやうなところであつた。如何にも用事あり氣に歩いてはみたが、少しも心は滿たされはしなかつた。靜岡へ戻つてみようかとも考へないではなかつたが、折角、あの小舍を得られたのだから、あの小舍から、自分の人生が始まつてゆくのもいゝのではないかと、ゆき子はそんな事を考へて、伊勢丹のところまで歩いて來ると、脊の高い外国人に呼びとめられた。何處へ行くのかと聞かれたが、とつさの事だつたので、ゆき子は笑つて立ち停つてゐた。外國人はゆき子と竝んで歩き出した。ゆき子は大膽になつてゐた。外國人は早口で喋りかけて來たが、ゆき子は默つて、外國人に躯を寄せて歩くきりだつた。運命が、少しづゝ何處かへ向けて進行していつてゐるやうな氣がした。お互ひの衝動が、このゆきずりの二人の心のなかに一種の生氣をもたらして來る。

 外國人は時々背をかゞめるやうにして、ゆき子の顎に手を觸れて早口にしやべつた。ゆき子はダラットで安南人と話した、佛蘭西語や英語のミックスされた言葉を使つてゐた生活を、いま急に呼びさまされたやうな氣がして、少しづゝ片言でしやべつた。

「目的もなく歩いてゐるのよ」

「それは好都合だ。私もいま、目的もなく歩いてゐたのだ」

 二人は何時の間にか腕を組んで歩いてゐた。をかしくもないのに、ゆき子は聲をたてゝ醉つたやうに笑つて計りゐた。

 ゆき子は外國人と腕を組んで新宿驛に行き、珍しい外人專用車の省線の電車に乘せて貰つた。ゆき子は晴れがましい氣持ちで、小さくなつて、自分の道づれに寄り添つてゐた。

 サイゴンの街を想ひ出して、その昔に戻つたやうな氣がしないでもない。――ゆき子は、自分のみすぼらしい小舍へ、その外國人を連れて歸つた。小舍の天井にとゞくやうな、脊の高い外國人は、火のない炬燵に、不器用に長い膝を入れて、四圍を珍しさうに眺めてゐる。ローソクの灯にゆらぐ、淡い明るさのなかで、ゆき子は七輪に火を起し始めた。煙がもうもうと渦をなして、小舍の中へ立ちこめたので、ゆき子は天窓を差して、「ウインドウ・ゲット・アップ」と外國人に命じた。外國人は氣輕るに、天窓を明けてくれた。煙は束ねた煙を、天窓へ勢よく吸ひあげていつた。




二十

 その翌日の晝すぎ、外國人はまたやつて來た。グリンのボストンバッグをさげて、天井の低い小舍へ這入つて來た。バッグを開けて、一つ一つ土産を出しながら早口でしやべつた。大きな枕や、重い小箱やレイションや菓子を竝べた。小箱は電池のはいつたラジオで、外國人がスイッチをまはすと、甘いダンス曲が流れて來た。ゆき子は小さいラジオに耳をあてゝ子供のやうに喜んでみせた。激しい歴史のうつりかはりが感じられて、その音色から、超然とした運命が流れ出てゐるやうに思へる。言葉は充分ではなかつたが、お互ひの人間らしさは、肉體で了解しあつてゐる氣安さで、ゆき子は、何事にも恐れのない生活に踏み出して行ける自信がついたやうな氣がした。大きい枕は二人にとつて、何を物語つてゐるのだらう‥‥。ゆき子は枕の白いカヴアの清潔さにみとれて涙ぐんでしまつた。

 孤獨で飢ゑてゐるものにとつて、その大きい枕は特別な意味を持つて、ゆき子の生活を再起させようとしてゐるかのやうだ。ゆき子は少しも恥づかしいとは思はなかつた。枕を持つて來た男の心持ちが立派だと思へた。――懷しき君よ。今は凋み果てたれど、かつては瑠璃の色、いと鮮かなりしこの花、ありし日の君と過せし、樂しき思ひ出に似て、私の心に告げるよ。――外國人はジョオと云ふ名前だと云つた。ラジオのわすれな草を小さい聲でくちずさみながら、紙片に英語で書きつけて、今度來るまでは、この歌を覺えておくといゝとゆき子に渡した。ゆき子は一つ一つのスペルを指でさしてゆきながら、發音を教はつて口へ出して歌つてみた。大陸的な豊饒な男の性質に打たれて、何處にゐても自由にふるまへる民族性に、ゆき子は富岡にはなかつた明るいものを感じた。富岡に逢つてゐる時の胸を射すやうな淋しさはなかつた。誤まつた焦點のなかに、心をかきみだされる事もない。すべてが、のびのびとふるまへるのは、お互ひの心の詮索が不必要なせゐだらうかとも思へた。獨りで鳴るラジオはゆき子には珍しい玩具だつた。夕方、ジョオが戻つて行つてから、ゆき子は貰つた石けんを持つて錢湯に行つた。サイゴンで買つた、パアモリイヴと云ふ名前の石けんだつたのがひどく心にこたへてゐた。富岡がこのまゝ來てくれなくても、ゆき子は自分一人で生きてゆける自信があつた。心を引かきまはされるやうな男を待つてゐるよりも、現在のまゝで生きてゆくのも愉しいと思へた。だが、その愉しさはまるで泡雪のやうなたよりないものでもある事も承知だつた。

 小舍へ越して、十日あまりたつた或日の夕方富岡が尋ねて來た。ジョオが來たのだと思つて、ゆき子はあわてゝ扉のところに出て行つたが、思ひがけなく、そこに富岡が寒さうに立つてゐるのを見てゆき子は吃驚した樣子で、「まア! あなたゞつたの?」と云つた。

 富岡も驚いてゐた。黄昏の薄明りに見るゆき子は、すつかり人が變つたやうに華やかに化粧してゐた。髮はこつてりと油に光つて、アップに結ひあげ、眉は細く剃り、眼には墨を入れてゐた。人造ダイヤの耳飾りをつけてはゐたが、足はこの寒さに、足袋もはかずに汚れた素足でサンダルをつゝかけてゐる。

「面白いところに引越したものだね」

「さうかしら、でも、私にとつては宮殿みたいよ」

 壁は白い紙で張りめぐらして、壁の釘には花籠が吊つてあり、菊の花が活けてあつた。小さい茶餉臺の上に、ローソクがゆらめき、小さい箱からラジオが鳴つてゐた。華やかなチョコレートの箱に、食べ荒した銀紙がローソクの灯できらきら光つてゐた。富岡は坐りもしないで、四圍を眺め、この數日の間の女の身の上の移り變りを察した。

「ハイカラなものがあるね?」

「あら、さうかしら?」

 ラジオはダンス曲を鳴らしてゐる。ゆき子は、富岡の立つたなりの姿を見上げて、子供がいたづらをみつかつた時のやうな笑ひ方で炬燵に膝を入れた。

「信州から、何時、戻つて來たの?」

「二日ほど前かな‥‥」

「さう、手紙を見た?」

「手紙を見たから來たンだ」

「炬燵にはいつたらどうなの?」

 富岡は帽子をあみだにして、どつかと炬燵に膝を入れた。白い大きい枕がいやに目立つて何時もジョオの坐るところにある。富岡はまじまじとその大きい枕に眼をとめてゐた。

「幸福さうだね?」

「さう見える? ひぼしにならなかつたと云ふだけね‥‥」

 富岡は釘をさしこまれた氣がして默つて、ゆき子の顔を見た。ローソクの灯に照らされてゐるゆき子の顔が、ニウのおもざしに似てゐる。女自身の個性の強さが、ぐつと大きく根を張つてゐるやうに見えた。何ものにも影響されない、獨得な女の生き方に、富岡は羨望と嫉妬に似た感情で、ゆき子の變貌した姿をみつめた。女といふものに、天然にそなはり附與されてゐる生活力を見るにつけ、現在の貧弱な自分の位置に就いて、富岡は心細いものをひそかに感じてゐた。絶對に二元性を持つてゐる自由な女の生き方に、こんな道もあつたのかと思はないわけにはゆかない。その癖、この間まで、女を荷厄介に考へてゐた、あの卑怯な感情はもうすつかり消えてしまつて、富岡はむしろ逃げてゆく魚に對してのすさまじい食慾すら感じてゐるのだつた。

「羨ましいなア‥‥」

 そんな言葉が口をついて出た。

「まア! 何云つてるのよ。何が羨しいの? こんな暮しの何處が羨しいの? あなたは次々に云ふ事が變つてゆく人なのね?」

「いや氣にさはつたら御免。只、さう思つたンだ。何も彼もうまくゆかないとなると、人の暮しは羨しいと思ふンだね」

「人を馬鹿にしてゐる。男つて、みんなあなたみたいなのね。日本の男つて、肚のなかまで勝手なものだわ。自分の都合のいゝ事ばかり考へてる‥‥」

 ゆき子は苛々してゐた。富岡は炬燵のなかで膝を貧乏ゆすりしながら、ラジオの小箱を手にとつて、幾度もダイヤルをまはした。ゆき子は戸外へ出て行つた。ジョオが來たら、今夜は遠慮して貰ふつもりで暫く驛のところに立つてゐたが、三十分ばかりしてもジョオの姿は現はれなかつた。思ひあきらめて、ゆき子は、マアケットでカストリをビール壜に分けて貰つて小舍へ戻つた。富岡は炬燵につゝぷしてうとうとしてゐた。その後姿は、妙に影が薄くて、ダラットで生活してゐた男の逞しさなぞは少しもなかつた。

「お酒を買つて來たから、飮まない?」

「あゝ、御馳走してくれるのかい」

 買つて來たローソクを新しく變へて、コップに並々と酒をついで、ゆき子もコップに唇をつけた。

「お仕事の方はうまくいつて?」

「仲々、思ふやうにはゆかない。いよいよ家を賣るところにごきつけて、乘るかそるかでやつてみるンだ」

「御家族はどうなさるの?」

「浦和に、叔母の家があるンで、みんなそつちへ引越しだ。やつてみるのさ‥‥。人のふところを當てには出來なくなつてるンでね」

「大變ね‥‥」

「いやに、よそよそしいンだな。案外落ちついて、馬鹿に調子よくやつてるンで、関心してしまつた‥‥」

「皮肉ですか?」

 ゆき子は酒に刺戟されて、ジョオが來やうとどうしやうとかまふことはないと肚が据つて來た。やりばのない、明日をも判らぬ、一時しのぎの傾向が、自分の本當の生活なのだと、ゆき子は大膽になつて、富岡の顔をじつとみつめた。埃臭い男の體臭が、かへつて哀れに思へて、ゆき子は環境で變つてゆく人間の生活の流れを不思議なものと悟る。少しづゝさうした眼力が肥えてゆく事も淋しいとも思はずにゆき子は高見に立つて、富岡を見くだしてゐる氣位を示してゐた。

 富岡は、少しばかり金の工面もして來てゐた。もそもそと内ポケットをさぐつて、ハトロンの封筒包みになつた金を出して、投げ出すやうに、炬燵の上へ置いた。

「少しなンだけど、君が困つてやしないかと思つてね‥‥」

 ゆき子は、そのハトロンの包みを見て、別に動じた樣子もなく、

「私、日本へ戻つて、このごろ、色んな事が少しづゝ判つて來たのよ。本當に日本が戰爭に敗けてしまつた事も判つたのよ。これが現實だと思つたら、このごろ、富岡さんを恨む氣もしなくなつたわ‥‥」

 ゆき子は七輪に炭をついで、するめを燒きながら云つた。燒いたするめを皿に小さく裂きながら、自分の指さきに、きらきら光るやうな安易な幸福を感じてゐた。人生はうまくゆくものだと云つた、そんな目の先の幸福がするめの匂ひのなかにこもつてゐるやうで、ゆき子は肚のなかでくすくす笑つてゐる。私は、うまく暮してるけど、いつたい、あなたはどうなのよ‥‥。泥鰌のやうに泡を噴いてるぢやないの? ゆき子はそんな氣持ちだつた。

 地響きをたてゝ省線の電車の音がしてゐる。ゆき子はあわてゝ入口の鍵をかけた。酒の醉ひがまはるにつれ、富岡もゆき子も、自然にものがなしく心が奈落に沈んで行つた。

「ダラットに殘つて、あつちで暮すンだつたね?」

 富岡が思ひついたやうに云つた。

「さうね、でも、かうして、戻つて來たのもいゝぢやないの? 私やつぱり、戻つて來てよかつたと思つてるわ。あのまゝダラットに住んでたつて、二人とも幸福ぢやないわ。昔のやうに、いい生活は出來つこはないし、敗けた國の人間として、無一文で暮すには、とても、二人とも我慢ならないぢやないの。やつぱり、かうして、みんなとみじめになつてゆくのが本當だわ‥‥」

 さうかしら‥‥自分は本當の事を云つてゐるのかしらと、ゆき子は自分の言葉を、自分がむしかへして考へ、何となくずるいものを己れの言葉のなかに感じてもゐる。

 人間の考へと云ふものは、何でも正確なものを缺いてゐる氣がした。都合のいゝやうな事をうまく云ひたい爲の行爲だけが、人間の考へのなかの答へなのだと、ゆき子はするめを頬ばりながら、するめ臭い四圍の空氣に、日本へ戻つてからの自分の勇氣を味氣なく考へてゐる。

 富岡は、ラジオの箱を引き寄せて、スイッチをひねつた。齒切れのいゝアナウンサーのニュースが流れて來た。だが、そのニュースはいんさんな氣がした。

 富岡は聞いてゐるに耐へない樣子で、スイッチを切ると、思ひついたやうに、

「加野が戻つて來たらしいンだがね」と云つた。

「へえ‥‥本當? 何時ですの?」

「此の間、鳥取の林野局の友人に久しぶりに逢つたら、そんな事を云つてゐた」

「まア! さうなの‥‥元氣かしら?」

「逢ひたいかい?」

「えゝ、やつぱり逢ひたいわ。あなたと違つて、正直ないゝ人だつたから」

「さうだらうね‥‥」

 加野が戻つて來たらしいと聞いて、ゆき子は急にまた佛印がなつかしく瞼に浮んで來た。一生のうちに、あのやうな青春の思ひ出は再びないだらうと思ふにつけ、富岡と自分の間には、加野と云ふ人物はなくてはならぬ人間なのである。突然、扉がこつこつと鳴つた。ゆき子は素早く立つて、扉を開けるなり戸外へ出て行つた。ジョオが立つてゐた。ゆき子はジョオを押すやうにして、今日は故郷から親類のものが來てゐるので、明日にしてくれと云つて、驛までジョオを送つて行つた。富岡は、肩のあたりに重いものを被せられたやうな胸苦しさで扉の外の外國の言葉を聞いてゐた。どのやうなきつかけでゆき子が、さうした外國人と知りあつたかゞ知りたかつた。大きな枕を眼にして富岡は、このまゝゆき子とは別れ去つてしまふやうな氣がした。一時間位もして、ゆき子は一人で戻つて來た。

「邪魔だつたンぢやないのかい?」

「いゝのよ、歸したンだから‥‥」

「どうして、知りあつたンだ?」

「そんな事、どうだつていゝでせう? あの人も淋しいのよ。あなたが、ニウを可愛いがつてた氣持ちと同じよ‥‥」

「妙な事を云ひなさンな‥‥」

「私も、これから變つて行くのね‥‥」

「さうだなア。それもいゝさ。何も云ふ事はないものね」

「私に、歌を教へてくれる程、若くて親切な人なのよ」

「ふうん‥‥」

「とても、いゝ人だわ。でも、二カ月位したら、故郷へ戻るンだつて」

「また、次を探すンだね」

「まア! あなたつて厭な事を云ふわねえ‥‥。私が、生きるか死ぬるかつていふ時に、めぐりあつた人なのよ。あなたは、女つてものをそんなものに考へてるンでせう? 滿足に何一つ出來もしないで、私を馬鹿にしないで頂戴。――自分の都合のいゝ事ばつかり考へてゝ、その程度で女をどうにかする氣持ちつて貧弱なもンだわ。あいまいな氣持ちで、私の考へのなかにまで踏み込まないでよ」

 ローソクの灯が消えた。天窓が馬鹿に明るい。ゆき子は手さぐりでローソクを探してマッチをすつた。

「このまゝで、引つこんでもいゝつて氣持ちで、さつきみたいな事を云つたンでせう?」

 ゆき子が、腹をたてゝゐる樣子なので、富岡は殘りの酒をあふり、帽子をぬいで疊に置いた。歸りたくない氣持ちだつた。酒の醉ひは一時しのぎなものだつたが、一切の習慣をふり捨て、冒險的な淵へ飛び込んでゆける力が湧いて來る。目的もなにもない醉ひと云ふものは氣安くて、多勢の友人にとりかこまれたやうな賑やかなものを身につけてしまふ。逞しくなつて來る。

 刹那の積み重つた甘さでもある。女を眼の前に坐らせて、これから起つて來る刹那に就いて、富岡は自分のいやらしさをためしてみたかつた。貂のやうな女の光つた眼が、酒の醉ひで、昔のエールを發散しはじめてゐる。日本へ戻つて來て、お互ひに、太陽の光線にも堪へられぬ程の心の衰へに到つてゐながら、酒の醉ひのなかゝら呼びに來る刹那の聲は、少々の苦痛にはへこたれもしない力の強いものを、身内にみなぎらせて來る。

「今夜、泊つてもいゝかい?」

「泊るつもりで來たンぢやなかつたの?」

「泊るつもりさ‥‥」

「嘘云つてるツ。急に泊りたくなつたンでせう? 判るわ。私、一つりこうになつた。あなたつて、やつぱり、そんな人だつたンだわ。偉い事云つて、私をすつかりくらましたつもりでゐて、やつぱり、日本の男なのね、泊つて行くといゝわ。一晩ぢゆう、私はあなたと起きていじめてあげる‥‥」

「いや、そんな氣持ちで云つてるンぢやないよ。泊つていけなきやア泊らないさ。‥どうも、氣持ちが荒れちやつて、どうにもならないンだ‥‥」

 ゆき子がラジオをひねると、富岡はおつかぶせるやうに、

「外國のでもやつてくれよ。ダンス曲でもやつてないかね? 日本のラジオは胸に痛いンだ。聞いてはゐられないぢやアないか。やめてくれよ」

 ラジオは戰犯の裁判に就いての模樣だつた。ゆき子はそのラジオを意地惡く炬燵の上に置いた。富岡は急にかつとして、そのラジオのスイッチをとめて、床板の上に亂暴に放つた。

「何をするのよッ」

「聞きたくないンだ」

「よく聞いておくもンだわ。誰の事でもありやしないでしよ? 私達の事を問題にされてゐるンでせう? だから、あなたつて、駄目ッ。甘いのねえ‥‥」

 それでも、ゆき子は別にラジオの小箱を取りあげるでもなく、コップに唇をつけて富岡を睨んだ。戰爭中の狂亂怒濤が、すつかりおさまりかへつて、波一つない卑屈なまでの平坦さが、ゆき子には喜劇のやうに思へた。その喜劇のかたわれが二人で、この小さいあばら家にさしむかひに坐つてゐるのだ。富岡は臭いくつ下をぬいで、外套のまゝ横になつた。眞白いふくふくした大きな枕があつたが、富岡は手枕のまゝ知らん顔をしてゐたし、ゆき子も、その枕には無關心でゐる。何にも束縛されない女の逞しさを富岡はそこに見るのだ。

「やつぱり、あなたの力ではどうにもならないンでせう? 私と一緒に暮す事が出來なければ、私の生活は私でやつてゆくンですから、そのつもりでゐて下さいね」

「邪魔はしないさ。邪魔はしないが時々は遊びに來てもいゝだらう?」

「厭! 今夜だつて邪魔してるわ」

「營業妨害かね?」

「まア! それが、あなたの心なのね? あなたは、何時でもいゝ子になつて、人の弱點を笑ひたいのでせう? 加野さんも私も、あなたのそのわなに引つかゝつたンだわ」

「ぢやア、君は、僕にだまされたとでも云ふのかい?」

 ゆき子は黙つてしまつた。五分五分な氣持ちでつながつてゐたとは思はない。むしろ、自分の方が、富岡を熱愛してゐたのかも知れないのだ。ゆき子は口の中でもぐもぐやつてゐたするめの噛みかけを、ぷつと掌に吐き捨てゝ叫ぶやうに云つた。

「私が、私が、あなたに惚れてしまつたのですよ。さうでせう? 私がいけないのでせう?」

 さう云つて、ゆき子は、するめの吐いたのを、七輪の中へぶつゝけた。青い炎をたてゝた火の中で、するめはいぶつて匂つた。

 その夜遲く、富岡は泊らないで歸つて行つた。まるで喧嘩別れのやうな歸り方であつた。ゆき子は、じいつと息を殺して、富岡の足の遠ざかるのを聞いてゐたが、急に切なくなり、ゆき子は扉を押して外へ出て行つた。星屑が空いちめんに擴がり、霜冷えする寒い道であつた。ゆき子は暗くなつたマアケットの裏を通つて、驛の方へ走つて行つてみた。富岡の姿は見えなかつた。

 急に涙が溢れ、行き場のないやりきれなさで、ゆき子は泣きながら小舍へ戻つた。三本目のローソクは誰もゐない部屋でゆらめきゆらめき小さくなつてゐた。亂暴な事を云つたのが後悔された。あとからあとからほとばしつて出て來る言葉のトゲは、けつして、富岡一人を責めたてゝゐる言葉ではないのだつたが、富岡は、「もう、君に、それ程までやつゝけられては、泊る氣もしないよ」と云つて、ゆつくりくつ下をはき、立ちあがつたのだ。ゆき子ははつとして、富岡の顔を見上げたけれども、口をついて出る言葉は、あとへ引けなかつた。ゆき子は泊つてほしい氣持ちだつた。泊つて貰つて、淋しさを分けあひたい思ひだつた。

 ゆき子はローソクの灯を吹き消した。そのまゝ炬燵にもぐり込んで、獸のやうに身を揉んで泣いた。




二十一

 富岡は遲く家へ戻つて來たが、ゆき子と厭な別れをして來た事が胸から離れなかつた。邦子は遲くまで荷造りをしてゐる樣子だつた。長く住んだ此の家を賣るとなると、いつそ燒けてしまつてゐた方がさばさばしてよかつたのではないかとも思へる。

 自分の周圍をとりまくものが、何一つなくなつてしまひつゝあるのだ。假定のなかに生きて行くものにとつて、これだけの家族は富岡にとつては、堅固な石の中に詰められて息も出ない苦しさだつた。ゆき子の生き方が羨しくもあつた。そのくせ、無性に、ゆき子の大膽な生活が哀れにさへ思へる。あの女をかばつて立つだけの力のなさが、自分でもはがゆい位だつた。近いうちに、もう一度逢つて、あの荒くけば立つた心をたしかめてから本當の別れをしなければ、このまゝでは、自分の方が敗北だと考へられた。このまゝで、ずるずるに逢つてゐるだけでは、自分と女の間に、何の結論も得られないのだ。だが、いつたい結論とは何を指して云ふのだらうかと、富岡は對立してしまつた、ゆき子と自分の感情を、これは何故なのかともじいつと考へてみる。日本へ戻つてみて、始めて微妙な女心を見たやうな氣がしたが、また、自分の變化した心の轉移にも、富岡はひそかに幻滅を感じないではゐられなかつた。人間の精神とは果敢ないものであり、その時々の、環境の培養菌によつて、どんなにでも、精神は變化してしまふのだと、富岡は自分にうなだれてしまふ。千萬の誓ひの言葉や、鋲のやうにしつかりとめた筈の純粹さなぞは、泥土にまみれて平氣なのであらう‥‥。このまゝ別れてもいゝのだと思ふ氣もあつたが、いや、今一度逢つて、たしかめてからにしても遲くはないと云つた、自分勝手な我儘な感情が、富岡の胸のなかには色模樣をなして明滅した。





 ゆき子は夜明けになつて、ダラットの官舍の夢を見てゐた。加野と二人でベランダに腰をかけて、抱きあつてゐるやうな、妙になまぐさい切ない夢であつた。

 夢がさめてからも、ゆき子は、オントレーの茶園の一日が瞼に浮んで來た。加野と富岡と三人で、アルプル・プロイの茶園を見に行つた日の事だ。正月で、安南人の上流の者たちは、黒い上着の下から、白絹のズボンをのぞかせて、小高いオントレーの中央にある教會にお參りしてゐた。大森林に圍まれたオントレーの部落が、油繪のやうに美しかつた。

 海拔高一、六○○米、氣温は最高二五度、最低六度のところで、玄武岩質の赤土地帶で、茶の生育には、氣侯條件の不利を償つてあまりある由なのだと、富岡が説明してくれた。高原で低温地のせゐか、樹形が横擴りになるのださうで、碁盤の目のやうに廣々と植ゑられた茶園の間道を、ゆき子はレースのふちどりした白いワンピースで、富岡の腕に凭れて歩いてゐた。加野は時々、不愉快な顔をして立ちどまつた。そして云つた。

「僕は、さつきから、苦しくて、鼻血が出さうだ‥‥」

 妙な事を云ひ出したので、富岡も、ゆき子も立ち止つて加野を見た。

「どうなすつて? 氣持ちが惡いンですの?」

「ゆき子さん、貴女は全く、ひどいひとだ。僕をなぶりものにしたい爲に、こんなところへ、僕を連れ出したンですか?」

「あら、何故なの? 私、別に‥‥」

 ゆき子が赤くなつて、何か云ひかけようとすると、加野は妙な笑ひかたをして、「富岡と腕を組まないでほしいンですよ」と云つた。

 富岡は、加野が氣でも狂つたのではないかと思つた。ゆき子はあわてゝ富岡から腕を放した。

 富岡は急にあつはつはと笑つた。案内の安南人は、富岡の笑ひ聲に吃驚して、自分に何か落度でもあるのかと不安な顔をしてゐた。

 三人は離れて歩き始めた。

「十八ケ月位たちました丈夫な苗を植付けます。草を取つたり、中耕は年に五六回位で、施肥は、一ヘクタールあたり、窒素が三十キロ、憐酸四十キロ、加里が五十キロ位を標準としまして、隔年に施肥するわけでございます。植付けの後、二年位から摘葉しまして、六年七年頃から、茶の收量は經營費を償ひ得るやうになり、十年たちますと、成年期になりますやうなわけで‥‥」

 ゆき子は案内人から、茶園の説明を聞いてゐるうちに、さうした長い歳月をかけて、根氣よく茶の植付けに情熱をかたむけてゐる、佛蘭西人の大陸魂と云ふものに怖れを感じ始めた。説明や理窟ではくはしく判らなかつたが、それでも、眼の前の茶園の歴史が、そんなに長い月日をかけて植ゑられてゐるものとは、考へてみなかつたゞけに、短日月で、この廣い茶園までも自由にしようとしてゐる日本人の腰掛け的なものゝ考へ方が、ひどく恥づかしくもあつた。

 營々と續けられてゐる、他人の汗のあふれた土地の上を、狹い意地の惡さで歩いてゐる、野良猫のやうな自分のあさましさが反省された。加野に、腕をはなして歩いてくれと云はれた事が、ゆき子は妙に胸に引つかゝつて來た。案内人は、まだ、長々と説明をやめなかつたが、ゆき子は、そんなに長く日本人が何十年も、この佛印の土地に住みつけるとは思へなかつた。いまに、何かの形で、ひどい報ひが來るやうな氣もして來る。

「大軍の日本兵が押し寄せて來たところで、この廣大な茶園やキナ事業は、一朝一夕には日本でやつてゆけるものぢやない。盜んで、汚なく、そこいらへ吐き捨てるのが關の山だね‥‥」

 富岡がつゝぱなすやうに云つた。加野は返事もしないで、安南人の胸の、象牙の大官章をむしり取つて、自分の胸に吊してゐる。ゆき子は厭な氣持ちだつた。その夜、酒に醉つた加野にゆき子は腕を傷つけられたのだ。

 みんな過ぎた思ひ出になつてしまつた。そして、あの美しい土地にごみごみと散らばつてゐた日本人は、みんな日本に追ひ返へされてしまつたのだ。

 あたり前なのだわと、ゆき子は、ぱつちりと眼を開いて、夜の明けた天窓の雨もよひの空を、じいつとみつめた。

 ふはふはとした大きい枕だけが、ひどくゆき子を慰めてくれる、昨夜、この小舍に富岡が尋ねて來た事も、それも夢のやうに思へた。

 ゆき子が、ラジオを手に取つて、スイッチをひねると、突然、扉がこつこつと鳴つた。朝早く來る人がないだけに、ホテイ・ホテルの誰かなのかもしれないと、そのまゝ立つて扉を開けると、思ひがけなく伊庭が怖しい顔をして立つてゐた。後に、ホテイ・ホテルの女中がついて來てゐたが、何も云はずに、女中は路地の中を出て行つた。

「こんな事だらうと思つたよ」

 靴をぬいで、づかづかと伊庭は上つて來た。ゆき子は震へてものも云へなかつた。

「まさか、こゝまで探して來るとは考へなかつたゞらう? お前も、随分、人柄が變つたものだね‥‥」

「あんまり大きい聲しないでよ」

「生意氣な事云ふなツ」

「何を、そんなに怒るのよ?」

「怒るのがあたり前ぢやないかツ。運送屋を探したンだよ。盜人をして、おまけに、蒲團を宿屋へ賣つたりしてるのは、怒る事にならないかね。パンパンをしてゐるンださうだね‥‥」

 ゆき子は怒りで唇もきけなかつた。伊庭の猛々しい態度に吐き氣が來た。なる事ならば、このまゝ消えてしまひたい氣持ちだつた。

「生きてゆく爲には、仕方がないわ。蒲團位何なのよツ」

「蒲團がなければ稼げないのかい?」

「いつたい、どうすればいゝのよツ。そんな大きな聲をだして、私があんたの蒲團位貰つたつて、どうして、それが惡いの? 三年も私を玩具にしてゝその位の事が何だつて云ふのよ。欲しかつたら持つて行くといゝンだわ」

「汚ないが、貰つて行くよ。洗濯をすればまた使へる。貴重なものなンだからね」

 伊庭は毒舌を吐きながら、煙草を出して咥へると、マッチを探す樣子で、そこいらにある、ラジオや大きな枕に皮肉な笑ひを浮べた。ゆき子は伊庭の表情を見て胸にかつと燃え立つものを感じた。何でも思ひたい事を思ふがいゝ。一刻も、伊庭に、そこにゐて貰ひたくなかつた。伊庭は何か思ひついたやうに、

「仲々、景氣がよさゝうだな。うまい事がありさうだが、どうだね。‥‥うまい仕事に乘るやうな事はないかね‥‥。一口乘せてくれゝば、蒲團なンか當分貸してやつてもいゝね」

 ゆき子は、默つてゐた。娘時代を、こんな男の自由になつてゐた事が哀しくさへあつた。自分の周りの男は、どうして、こんなに落ちぶれて卑しくなつてしまつてゐるのかと、不思議な氣持ちだつた。

「何か、いゝ手蔓はないかね。煙草とか、衣類とか、出ないのかい?」

「何を云つてるのよツ。早く蒲團を持つて行つて頂戴ツ。何もいらないわ‥‥」

 ゆき子は見榮もなく涙が溢れた。辛くて、そこに伊庭の顔を見るのも不愉快であつた。伊庭は手をのばして、ラジオの小箱を引き寄せてスイッチをひねつた。三味線の音色が、爽かに流れ出した。

「ほう、こりやア電池で鳴るンだね。便利なものだなア‥‥」

 小箱の裏側の蓋を開けると、小さい玩具のやうな眞空管がいくつも竝んでゐた。ゆき子は立つたなりそれを見降してゐたが、思ひついたやうに、蒲團から、炬燵櫓を引つぱり出して、さつさと風を切るやうな音をたてゝ蒲團をたゝみ出した。

「まア、そんな、急に片づける事はないやね‥‥」

 昨日から、この小さいラジオが馬鹿にたゝつてゐるやうで、ゆき子は、その三味線の音色に佗しくなつてゐる。

「ところで、芋干しを七八貫持つて來たンだが、何處か賣り口を知らないかね?」

 ラジオの蓋を閉めながら云つた。芋干しの賣れ口なぞ、ゆき子は知るものかと、返事もしなかつた。

「このラジオは、高價なものだらうなア」

「私のぢやないのよツ」

「日本でも、こいつの眞似をして、新案登録出來ないものかな‥‥。流石に、うまいものが出來てるもンだね‥‥」

 伊庭は感心して、ラジオを手に吊りさげ、耳をかたむけて、三味線の音を聽いてゐる。




二十二

 もう一度、逢ふつもりで、富岡は、ゆき子のところへ速達を出した。あの家で逢ふ氣はしなかつた。おびえた心で、あの家に坐つてゐる氣はなかつたので、富岡は、四谷見付の驛で待ちあはせるやうにして、時間と、日を知らせてやつた。

 あひにくと、その日は雨であつたが、クリスマスも過ぎ、暮れ近い、あわたゞしさが、街にこもつてゐたせゐか、雨の降つてゐるのも氣にかゝらないやうな、そんな、人に忘れられた、しぽしぽした雨の日であつた。

 富岡は驛で十分ほど待つた。

 激しい乘降客ではなかつたが、それでも、改札を、出入りする人達は、種々樣々の階級が、富岡の眼の前を忙はしく通つて行つた。富岡は何と云ふ事もなく、絶望的な氣持ちになつてゐた。その絶望感は、佛印にゐた時も時々感じてゐた。不安のこもつたもので、これ以上はどうしやうもないといつた、つきつめた思ひが、通り魔のやうに、富岡の胸のなかにこもつてきてゐた。

 富岡は、靴のさきを、ばたばたと貧乏ゆるぎさせながら、坂になつた道を見上げてゐた。鉛色の光つた坂道を、濡れ鼠になつた雜種の犬が、よろめきながら、誰かを探し求めるやうに歩きまはつてゐる。

 時計を見ながら、富岡は、ゆき子がもう來ないのではないかと思つた。少し待つてみて、來なければ、來ないで、そのつもりで、戻ればいゝのだと、よろめき歩いてゐる犬へ向つて、口笛を吹いてみたりした。犬は口笛の吹かれてゐる方をちらりと振り返つて、富岡をしげしげと見てゐたが、このひとは違ふんだと云つた、哀れつぽい眼つきで、すたすたと、八ツ手の植込みの方へまぎれて行つた。

「待つたでせう?」

 ゆき子が、驛の廂のところに立つてゐる富岡のそばへ、肩をぶつゝけて來た。

「三十分も過ぎたンだから、もう、ゐないと思つて、よつぽど、引返さうかしらと考へたのよ。ごめんなさいね‥‥」

 ゆき子は、赤い絹のマフラを頭から被つて、顎の下にきつく結び、生々とした表情で、脊の高い富岡の顔を見上げてゐる。富岡は、三十分も遲れたので、家へ引返さうと思つたと云つた、ゆき子の言葉が氣に入らなかつた。自分が此の女に、上手にあしらはれてゐるやうな氣がしてゐる。ゆとりのある女の心の状態が、富岡には厭な氣持ちだつた。別れ時が來てゐると思つた。

 富岡が歩き出すと、ゆき子もそのまゝ、水溜りのなかへはいつて來た。――富岡は孤獨に耐へられない氣持ちで、一人でさつさと歩きながらも、後から濡れた道をびちやびちやと歩いて來るゆき子の表情を、素通しにして、心で眺め、自分の孤獨の道づれになつて貰ひたい氣持ちになつてゐた。そのくせ、ゆき子と歩いてゐる時は、何となく犯罪感がつきまとふ氣さへしてくる。

 自分の孤獨を考へてゆきながら、その孤獨に、ひどく戰慄してゐるやうな、おびえを、富岡は感じてゐた。現在に立ち到つて、何ものも所有しないと云ふ孤獨には、富岡は耐へてゆけない淋しさだつた。自分を慰さめてくれる、自己のなかの神すらも、いまは所有してゐないとなると、空虚なやぶれかぶれが、胸のなかに押されるやうに、鮮かにうごいて來る。

 ゆき子と、二人きりで、いまのまゝの氣持ちで、自殺してしまひたかつた。――若い日本の男が、外國の女とかけおちをして、追手に反抗して、郊外の驛で劇藥をのんだ事件があつたのを、富岡は思ひ出してゐた。

 人間と云ふものゝ哀しさが、浮雲のやうにたよりなく感じられた。まるきり生きてゆく自信がなかつたのだ。二人は、何處へ行く當てもなく、市電の停留所までぶらぶら歩いた。

「ねえ、寒いわねえ‥‥。何處か、お茶でも飮みに這入りませうか?」

「うん」

「いやに、 しけてるぢやないの‥‥」

しけてる」

「えゝ」

「厭な事を云ふね‥‥」

「さう‥‥。獨りでゐると、いろんな言葉を覺えちやふのよ‥‥。荒んでゆくのが、自分でも、怖いみたい」

「ふうん‥‥。そんなものかね。如何にも、樂々として、愉しさうに見えるよ」

「あら、厭だわ。さうかしら。ちつとも、樂々となンか、してないわ。――さう見えるなんて、癪だわね‥‥。貴方だつて、あの頃とすつかりお變りになつてよ‥‥。ねえ、あゝ、もう、私は、何だか少しも、先の事が、判らなくなつてしまつた‥‥」

 富岡は、雨の街に立つて、並樹の美しい、昔の東宮御所の方を眺めてゐた。この建物も、現在はどんな方面に使はれてゐるのかは判らなかつたが、鐵柵を透かして、淡い灰色の御所の建物が、雨に煙り、並樹の黒い塊が、如何にも外國の繪でも見るやうに、新鮮だつた。

 じいつと見てゐるうちに、また、空虚な、とらへどころのない絶望がおそつて來た。

 富岡は、御所の道に添つて歩いた。ゆき子も默つて、富岡と竝んで歩いてゐる。

「佛印はよかつたね‥‥」

「あら、貴方もさう思つていらつしたの‥‥。私も、いまね、佛印の事を考へてゐたのよ。なつかしいわア‥‥。あんなところ夢ね。私達、夢を見てゐたのよ。さうなのね‥‥。夢を見てたンだわ。‥でも、夢にしても、貴方に逢つたンだから、不思議だわ‥‥」

「あんな事もあつたのかと、時々、思ふだけのものさ‥‥」

「あの時は、貴方だつて、私だつていゝ人間だつたわ。自然な人間まる出しでね‥‥」

「うん、それでも、本當の幸福ぢやなかつたのかも知れないね。さうぢやアないのかなア。いまね、この御所を見てゐて、急に、何だか、現在の方が倖せのやうな氣がしたンだ。――やぶれたものゝ哀れさは、美しい。その考へないかい? いまは、この建物も、何に使はれてゐるのか知らないが、昔は御所だつたンだよ、そのなごりが、そここゝに殘つてゐてさ。何となく、しみじみとするね」

 ゆき子は、御所の土壁の塀を呆んやり見上げた。淡い土壁の匂ひがした。富岡が感傷的になつてゐるほどには、その氣持ちについてはゆけなかつたけれども、やつぱり、ゆき子にも、ものゝ哀れは感じられる。雨が降つて寒かつたせゐか、四圍の景色が、ひどく印象的だつた。御所の横の、廣い道路を、ハイカラな、コバルト色の自動車がしゆんしゆんと走つて行つた。

 富岡は、自分の淋しさを咬む氣持ちであつた。何一つ、押しつける事なく、この女に自然な死の道づれになつて貰ひたい氣持ちだつた。

 今日まで生きて來て、何も彼も、國とともに喪失してしまつてゐると云ふ感情は、背筋が冷い、この冬の雨のやうな佗しさだつた。孤獨な國の、一人々々は、釘づけになつてゐるやうなものだと考へる。如何なる戰爭も、やぶれてこそ、愛しく哀れでもあると思へた。やぶれた敗者の魂には、人知れず、昔のファンタジーを呼びとめる何かゞあるやうに、そのファンタジーは、時々は、誰にも反省をうながすものであらう。――富岡は、何も考へてはゐないやうな、單純な女の生活のファイトを羨みながらも、ひそかに、その女の、平易な心の流れに不服なものを感じるのだつた。女自身は、何も缺乏してはゐないのだと、富岡は、ふつと、自分のそばに、寄り添つて歩いてゐるゆき子を見降した。怖ろしい事には、この女に限らず、どの女も、長い戰爭の苦しみを、通つて來た痕跡を、少しもとゞめてゐないといふ妙な發見だつた。

「ねえ、何處まで歩くのよ?」

「疲れたのかい?」

「だつて、濡れて歩くの、たまらないわ。風邪ひいてしまふわ‥‥」

「赤坂へ出て、あすこから、澁谷へ都電で出てみるのもいいぜ」

「えゝ。――ねえ、話つて、なあに?」

「話か‥‥。別に、たいした話もないンだがね」

「勝手なひとね‥‥」

「さうかね? 君に逢ひたかつたからなンだよ」

「嘘! 嘘云つてるわ。私に逢ひたいなンて、そんな優しい言葉を聞くのは、初めてね?」

「女と云ふものは、そんなに、優しい言葉を聞きたいものかい?」

「そりやア、さうよ‥‥」

 富岡は、かうした會話のがいねんに、やりきれなくなつてゐた。かうして、逢つてみても、何も收穫がないのだ。そのくせ、人々の魂の上に、敗者の心の亂れや、その日暮しのあくせくした思ひだけが、黒雲のやうにのしかゝつて來てゐる。自分は自分なのだと、承知してゐながら、何も知らぬ相手まで、自我のなかに引きずり込んで、道づれをつくりたいと云ふ甘つたれた淺はかな慾望が、富岡には、自分でも解らなかつた。何か收穫があるやうな錯覺で、日々を生きてゐるだけの自分が、ずるい人間のやうにも考へられて來る。




二十三

 澁谷へ出て、ガード下の中華料理へ二人は這入つた。煉炭ストーブのそばの椅子に、差し向ひに腰をかけた。青い炎が、蓮の穴からぽつぽつと息を噴きあげてゐる。客もない、がらんとした部屋の隅に、よれよれの白い上着を着た給仕女が、三人ばかり立つてゐた。

 ゆき子は、煉炭火鉢の上に手をかざしながら、雨に濡れたマフラを金網の上に干した。

 給仕女に注文を聞かれて、富岡は燒きそばを頼んだ。

「それから、酒を一本つけてくれないかね」

 ゆき子は、にやにや笑ひながら、プラスチックの緑色のハンドバッグから、外國煙草を出して、富岡に一本取らせた。

「私達つて、行く處がないみたいね‥‥」

「うん‥‥」

 美味さうに煙草を吸ひながら、富岡は、雨のなかをさまよひ歩いて、ひどく疲れが出てゐた。速達を出したものゝ、別に話し合はなければならない理由も、いまはない。

「何時、引越しですか?」

「家族のものは引越しちやつたよ。今度の正月は、がらんとした空家でおくるンだ‥‥」

「あら、一人で?」

「細君は殘るだらう‥‥」

「なあンだ、おのろけね‥‥」

 ゆき子は、子供のやうに、がつかりして見せた。軈て酒が運ばれてきた。

「加野の住所が判つたンだよ。逢つてみるかい?」

「あら、住所が判つたの? 何處にいらつしやるの?」

 富岡は小さいメモを出して、ぱらぱらとめくりながら、自分の名刺の裏に、加野の住所を鉛筆で書いて、ゆき子に渡した。

「あら、小田原にいらつしやるの?」

「おふくろと一緒ださうだ。まだ、獨りでゐるらしいね」

 ゆき子はらんらんと光つた眼で、富岡の意地の惡さに反撥してみせた。そのくせ胸の奥では、佛印で別れたまゝの加野へ對して、逢ひたさ、なつかしさが燃え上つて來た。

 酒は腹のなかに浸り渡り、冷えきつた躯をあたゝめてくれた。ゆき子も二三杯の酒をつきあつた。

「もう、あと、三日だね?」

「何が?」

「正月が來ると云ふ事さ‥‥」

「あら、お正月の事なンか、考へてみた事もなかつたわ」

「どうだね、今日、このまゝ、伊香保か、日光の方へでも行つてみる氣はないかね?」

「まア、伊香保つて、私、行つた事ないけど、いゝわねえ‥‥。ざぶざぶ、熱いお湯にはいりたいわ。本當に行けるの?」

「一泊か二泊位なら行ける。行つてみるかい?」

 永遠の海のなかに浮いてゐる以上、ちつぽけな人間の心のおもむくまゝに、好き勝手もいゝぢやないかと、富岡は、いざとなれば、ゆき子とともに、枯木の山の中で、果てゝしまひたい氣持ちだつた。

(お前は、俺にていよく殺される事も知らないで、にこにこ笑つてゐるンだよ‥‥)富岡は、猛烈な食慾で、燒きそばを食べてゐるゆき子を見てゐた。金メッキの耳輪が、小さい耳朶にゆれてゐる。黒い髮の毛は、襟もとで短く刈り込んでゐた。

「伊香保つて、寒くない?」

「寒くてもいゝさ」

「それはさうね」

 まるで、新婚夫婦が、旅のプランを相談してゐるやうな、浮々した表情で、ゆき子、は加野の名刺をハンドバッグに入れて、それとなくコンパクトを出して、鼻の先に鏡を開いた。

 富岡は女を殺す場面を空想してゐる。音のない芝居のやうに、血みどろなゆき子の姿が、ゆるく空想の景色の中で動いてゐる。危險な感情だつたが、その危險な思ひに這入り込んでゆける勇氣が、爽快でさへあつた。殺してやる。そして、自分も折り重なつて死ぬ。それだけのものだ。誰も自分達に對して、文句を云ふものはないのだと、富岡は二本目の酒を注文して、化粧をしてゐるゆき子の平べつたい顔を呆んやりみつめてゐた。この顔が、外國人に好かれるのかなと、妙な氣がした、卑しい顔だつた。平べつたくて、顎が張り、何のとりえもない平凡さだ。だが、よく見てゐると、原始人に近いのだ。額や、眉や、眼のあたりが、佛像のやうでもあつた。

「家は、留守をしても大丈夫なのかい?」

「えゝ、鍵をかけて來てるから、人が來ても、ゐないと思ふでせう?」

「伊庭が蒲團を取りに來たンだつて?」

「あら、私の手紙着いて? さうなの。いま、だから、私は毛布で寢てるのよ」

 ゆき子は別に困つた樣子もなく、徳利を取りあげて、富岡の盃に酒をついだ。富岡は冷えた燒きそばの上に散らかつてゐる、葱や筍を肴に、酒を飮んでゐる。日々の生活が、如何にくだらなく憐むべきかと、富岡は、自分のやつてゐる事が喜劇的に思へて來た。みんな、大眞面目に、悲劇をくりかへしてゐると思ひながら、人類をうるほすところの、人間の悲劇味は、何千年の昔から、何一つありはしなかつたのぢやないかと、うたぐつて來る。みんな、人間のやつてゐる事は、喜劇の連續だつた。心臆して、こそこそと喜劇のなかで、人間は生きる。正義をふりかざす事も喜劇。人間の善も惡もみな喜劇ならざるはない。涙の出るほどのをかし味のなかに、人間は、自分に合つた、最も至極な理窟をつけて、生活をしてゐる。死のまぎはになつて、初めて、吻つとして、あゝと、本當の溜息が出るのかも知れない。





 思ひきつて、富岡は、ゆき子を連れて伊香保へ行つた。伊香保へは夜更けて着いた。宿引きに、金太夫と云ふ旅館へ連れて行かれた。坂の多い温泉町で、その坂は、路地ほどの狹さだつた。湯花の匂ひがむつと鼻に來る。ゆき子は珍しさうに、坂道の兩側の家々を覗いて歩いた。不如歸で有名な伊香保と云ふところが、案外素朴で、如何にもロマンチックだつた。夜更けて着いたせゐか、水の音も、山の風も、凍つたやうに肌を刺す。宿の奥まつた部屋へ這入ると、部屋には大きな炬燵がつくつてあつた。炬燵の上には、一枚板が乘つかつてゐる。ゆき子は冷えた膝を炬燵に入れた。ほかほかと暖かつた。

「とても、いゝところね。貴方、どうして、こんな處を知つてゐるの。昔、來た事あるの?」

 ゆき子が甘へて聞いた。

「學生の頃、來たンだ‥‥」

「とてもいゝ處だわ。ダラットみたいね。お金でもあつて、暫く、こんなところで呆んやり暮してみたいわね‥‥」

「うん、それでも、長くゐたつて、飽きちやふだらう。二日位が關の山だね‥‥」

「さうね、その位がいゝところでせうね‥‥」

 狹い部屋だつたが、窓の下は溪流になつてゐるのか、そうそうと水音がしてゐた。顔の赧い女中が、干柿と茶を持つて這入つて來た。床の間には、籠型の花筒に、小菊が活けてあり、石版畫の山水の軸がかかつてゐる。ありふれた部屋だつたが、旅室で、しかも温泉町へ來たと云ふ思ひがあるせゐか、今朝感じてゐたほどの淋しさも、案外さらりとして來てゐた。絶望だの、何だのと云つたところで、かうした轉換法さへ心得てゐれば、すぐ、目のさきの氣分は一轉して、人間は愉しくなり、一時しのぎの氣持ちにもなるのだつた。仄々として來た。不思議な心の波だと、富岡は、自分でもをかしくなつてゐた。女と死ぬために、わざわざ芝居がゝりの死の舞臺を求めるなぞと云ふ事も、大きな宇宙のなかでは、一粒の泡ほどの事件でしかないのだと、富岡は、外套のまゝ、ごろりと炬燵に寢轉び、手枕をしたまゝ、煤けた天井をみつめてゐた。

「袍褞を、お着替へになりましては、如何ですか?」

 女中が袍褞を持つて來た。ゆき子は、次の間ですぐ着替へて、女中に手拭を貸してくれないかと云つてゐる。富岡は湯にはいるのも億くうになつてゐた。躯を動かすのも大儀で仕方がない。このまゝ消えてゆけるものならば、此のまゝぼおつと地の底に消えてしまひたかつた。

「ねえ、お着替へにならない?」

「うん‥‥」

「ねえ、着替へて、早く御飯にして貰ひませうよ。とても、私、おなか、空いちやつたわ」

「うるさいなア。ゆつくりさしてくれよ。君、湯に這入つて來たらいいだらう」

 ゆき子は、ぬぎ散らかしたものを、部屋の隅に放つて、炬燵のそばへ來ると、袍褞の袖の匂ひをかぎながら、

「あゝ、人臭い、人臭い‥‥」と疳性に云つた。




二十四

 富岡は大分醉つてゐた。久しぶりに、輕々と心が解放された氣持ちで、床柱に凭れたまゝ、安南語で唄をくちづさんでゐる。

 あなたの戀も、わたしの戀も、はじめの日だけは、眞實だつた。あの眼は、

本當の眼だつた。わたしの眼も、あの日の、あの時は、本當の眼だつた。い

まは、あなたも、わたしも、うたがひの眼――。

 そんな意味の、安南の流行り唄だつた。ゆき子も大分醉つてゐたので、うろおぼえの唄についてゆきながら、しみじみとダラットの生活をなつかしがつてゐる。

 いまさら、思ひ出したところで、何もならない事だつたが、遠く過ぎた夢は、なつかしい。ゆき子は、足をのばして、炬燵の中の男の足をさぐつた。熱い足が足裏にさはつた。

「富岡さん、何時までも、元氣でね。時々、ダラットの事思ひ出したら、ゆき子を呼んで頂戴‥‥。ね、私、諦らめちやつたの。時々、かうして逢つて貰へばいゝ事よ。ね、その方がいゝわ。――さつきの唄みたいなのが、私達の間柄だつたンだつて判つたわよ‥‥」

 富岡は眼をつぶり、靜かに安南の唄を口づさんでゐる。ゆき子は立つて、富岡のそばに行き、竝んで炬燵へ滑り込んだ。富岡はそれでも唄ひ續けて、眼を開けなかつた。

「どうして、自分一人で、考へごとをしてゐるの? 私にも、考へてゐる事を、分けて頂戴! ね、半分頂戴‥‥」

 考へてゐる事を、半分頂戴と云はれて、富岡はぱつと眼を開いた。

 ゆき子が可愛かつた。自然に出る、女の言葉は、瞬間の虹のやうなものであるだけに、富岡は、誘はれる氣持ちで、ゆき子の指を取り、唇に持つて行つた。

「私、淋しい、淋しい、淋しい、淋しいのよオ‥‥」

 富岡の腕にしがみつくやうにして、ゆき子は、淋しい淋しいと、小さい聲で叫んだ。富岡はまじまじと女の狂態を眺めながら、少しも、ゆき子のその狂態に感動は出來なかつた。女の心は、窓下の水の流れと同じやうに、只、瞬間のなかに流されてゐるとしか考へられない。――富岡は、死の方法に就いてのみ、考へをめぐらせてゐた。立派に息の根をとめる事が出來るものであらうか、どうかを、考へてゐる。女を殺して、その後から、うまく、自分も死ねるものであらうかどうかを、富岡は、數字のやうに計算をしてゐた。愛しあつて死ぬるわけのものではないかと云ふ事を、自分の死んだあとは、誰も判つてはくれないだらう‥‥。それもよからうと思つた。

 

 此の場合、富岡には「死」そのものが必要だつたのだ。女を道づれにするのはどうなのだ?これは、自分の死の道具に過ぎないのさ。勝手な奴だな。俺はさう云ふ人間なンだ‥‥。富岡は、ゆき子の指を時々固く握り締めてみながら、自分の心に自問自答してゐる。怖ろしいとか、つくりものだとか、いやらしいとかの考へだと云ふのならば、それは他人の考へる事であつて、死んでゆくものは、案外、悲劇を演じてゐるつもりかも知れない。

 食ひ荒した炬燵の上の赤い廣蓋に、電燈が反射してゐる。赤い塗りに、金で小松が描いてある。これも、いまに、見おさめだな‥‥。富岡は、部屋のすべてを眺めまはした。山の中へ這入つて、この二人は、間もなく死んでしまふンだよと、心でひそかに言葉をのべてゐた。

 生涯の最後だと思ふと、何も彼も淋しい美しい。いとしくなるほど、すべて見るものが美しいのだ。菊の花の、白に見える薄黄ろ‥‥。汚れた軸の山水から風が吹きあげてゐる。今朝の東京の御所の雨が心を掠めた。

 伊香保は雨が晴れてゐた。

「商賣はどんな風なの?」

「商賣?」

「えゝ、材木の方のお仕事よ」

「あゝ、仕事かい? 何とかなるだらう‥‥」

「家は、まだ賣れないの?」

「賣れて、半金は貰つた。來年登記をして、一月の終りには、家を明け渡すのさ‥‥」

「いくらに賣れて?」

「いくらでもいゝぢやアないか」

「そりやアさうだけど‥‥。だつて、聞いたつていゝでせう?」

 ゆき子は、一時の狂態も過ぎてゆくと、じいつと眼をすゑて、富岡を眺めながら、どうして、こんな男に惹かれてゐるのか、自分でもをかしかつた。只、その場で逢つてゐるだけの二人のやうでもある。ゆき子は立つて、手拭を取つて、また湯に這入りに行つた。

 狹い階段を降りて、湯殿へ這入ると、深夜の湯殿に、パアマネントの長い髮をふりみだした若い女が二人、聲高で喋り散らしてゐた。

 赤く濁つた湯が、タイルの ふちにたぷたぷ溢れてゐる。ゆき子は默つて、浴槽の女達の前へ片脚を入れた。醉つてゐるせゐか、脚がふらついて、よろけて、どぼんと湯の中へ飛び込むと、湯のしぶきがあがつて、二人の女達は飛びのきざまに、顔をしかめた。如何にも意地の惡い表情で、二人は舌打ちしてざあつと、立ちあがつた。

「ごめんなさい‥‥」

 ゆき子はあやまつた。二人の女はにこりともしない。ゆき子は疳にさはつて、赤い湯の中に、のびのびと脚をのばした。二人は、都會の女に違ひないのだけれども、骨太な百姓の女のやうな逞ましい大きい腰つきをしてゐた。

 ゆき子は、すんなりとした自分の裸が自慢で、その女達と竝んでみせたい衝動にかられてゐる。女達は、タイルの流し場に、べつたりと坐り込んで、また、さつきの話の續きを始め出した。

「別れぎはに、たみちやんてばさア、カムアゲンつて云つたンだつてよ。あのひと、カムアゲンしか知らないンだからね。そしたらさア、向うは、泳ぐまねをしてさ、もう、男の間を泳ぐのはやめて、オフイスにでも勤めなさいつて云つたンだつてよ。――そいで、すぐまた、泳ぎまはつてるンだから世話はないやね。‥‥日本の男は見るのも厭だつてさア」

 二人はげらげら笑ひ出した。

 はゝア、そんな階級の女なのだなと、ゆき子は池袋の自分の小舍を思ひ出してゐた。いまごろは、尋ねて來て、扉をこつこつ叩いてゐるかも知れない。二人の女は、匂ひのいゝ石けんを使ひ、プラスチックの、大きな櫛で、お互ひ同志、髮をかきつけあつてゐる。

 二人の態度は、醉つてゐるゆき子の眼には、いどみかゝつてゐるやうに見えた。お前達とは人種が違ふンだからねと云はンばかりに、ハイカラな大瓶に這入つた水クリームや、大判のタオルをみせびらかしてゐる。ゆき子は、宿の女中に借りた、煮〆めたやうな日本手拭と、魚臭い石けんを使つてゐた。

「ねえ、明日歸つたら、私、洋服屋へ行くンだけど、あんたも行つてみてくンないかなア‥‥。眞紅なスーツで、金釦をつけて貰つたンだよ」

「へえ、大したものだねえ、ユウのハートが、つくつてくれたのかい?」

「そりやア、さうさ。あのひと、氣前はいゝンだから」

 ゆき子は、くすくすと笑つた。唇の眞赤な女がちらりと、笑つてゐるゆき子の方を見て、

「何を笑ふのさア」と、怒つて云つた。

「あら、私、自分の事を思ひ出し笑ひしてるのよ。妙な事云はないでよツ」

「チヱッ、馬鹿にしてるよ。醉つぱらつて湯をぶつかけたくせに」

「あら、ごめんなさいつて云つたぢやないの?」

 もう一人の骨張つた女が、「醉つぱらひに、かゝりあふのおよしなさいよツ」と云つた。

 二人はさつさと水しぶきをあげるやうな見幕で、脱衣場の方へ出て行つた。

「耳輪なんかしてさ、汚ない手拭使つてるの、あれなアに? よう、何だらうね‥‥」

「知れてるぢやないか‥‥」

 二人の忍び笑ひがした。ゆき子はざぶざぶと湯を使ひながら、大きい聲で、

あなたの戀も

わたしの戀も

初めの日だけは

眞實だつた‥‥。

 と、安南語で歌つた。案外、なまめかしく柔い聲だつた。しのび笑ひはとまつた。

あの眼は、

本當の眼だつた。

わたしの眼も

あの日の

あの時は

本當の眼だつた。

いまはあなたもわたしも

うたがひの眼‥‥。

 唄つてゆきながら、ゆき子は、放蕩の果てのやうな荒さんだ氣持ちだつた。




二十五

 意味もなく、富岡とゆき子は、二日ばかりを伊香保で暮した。二日も雨が續いた。流石に、正月を明日にひかへては客もなく、廣い旅館はひつそりしてゐた。

 富岡は、二日の間に、何ものも把握する事は出來なかつた。眞劍にものを考へようとして、少しも心は中心へ向いてはゆかなかつた。

 自己矛盾にとらはれてゐる。自分をどのやうに始末してよいのか判らない。戰爭が濟んで、遠くから戻つて來たものには、どの人間にもかうした一種の氣後れがあるのではないかと思へた。

 その氣後れを氣づいてゐる者と、氣づいてゐない者とあつたとしたところで、狹い天地で、釘づけにされた人種は、一人々々か、孤獨に、てんでんばらばらになつてゆくより、道はないのではないかと思へた。

 全面的な眞理を追ふには、かうしたやぶれた國の狹い土地では、たうていむつかしい、空虚な理想なのである。

 生活すると云ふ可能性を、凡ゆる瞬間において、思ひがけなく否定される障害もあり得る‥‥。富岡は、さうした天地の狹さのなかに疲れ切つてしまつたし、家族を平和に支へて行く技術にも、へとへとになつてゐた。

 みんな氣むづかしくなつて來る。家族のものは、別々に孤獨の穴へ穴ごもりをするだけの現實になつてしまふきりだ。

「ねえ、煙草、ない?」

「ないよ」

「何をそんなに、貴方は考へ詰めてゐるのさア? 焦々してるのね。――いつそ、正月を、こゝで暮して行きませんか? お金が足りなかつたら、私の外套を置いてもいゝし、この時計を置いてもいゝわ。みつともなかつたら、町へ出て、時計を賣つて來るつもりよ‥‥」

 ゆき子は、さう云つて、灰皿から、吸ひ殻をひろつて、短い吸ひ殻をパイプに突きさして火をつけた。

 富岡は、炬燵に腹這つて、昨日の新聞をもう一度くり返して讀んでゐたが、「おい‥‥」と、思ひ詰めたやうに、くるりと、疊に片肘突いて、ゆき子の顔を、下から見上げた。

「何よ?」

「うん、別に、何て事もないンだが、つくづく、世の中が厭になつちやつたなア‥‥」

「どうして、どんな事なの?」

 どんな事なのだと聞かれて、富岡は頬のしびれるやうな氣がした。乾いた眼を、白々と開いたなりで、ゆき子の化粧のはげた顔を見つめ、冷たくつゝぱなすやうに云つた。

「生きてゐるのも退屈だね‥‥」

 ゆき子は、何を意味する言葉なのか、一寸判らなかつた。富岡は、ゆき子の胸の釦のはづれさうなのを、指で引つぱりながら、

「僕達は、どうにも仕方がないと云ふ事さ」

「仕方がなくないぢやアないの‥‥。貴方の心境つて、妙に底をついて來たのね‥‥」

「ふうん、うまい事を云ふね‥‥。さうなンだよ。――ぢやア、君は、底をついてないンだね。面白いだらうね。世の中が面白いだらうね‥‥」

「何が、面白いのよ?」

「こんな時勢になつた事がさ‥‥」

 ゆき子は、富岡の考へてゐる事が少しづゝ判りかけて來た。甘い涙が、咽喉元まで、溢れさうな氣持ちだつた。

「私、貴方の思つてる事、云つてみませうか?」

「いや、云つて貰はなくてもいゝ‥‥」

「別れる話?」

「違ふツ」

 釦がぽろりとはづれた。はづれた釦を握つたまゝ、富岡はぬるい炬燵に躯を縮めるやうにして、横になつた。

「私、時計を賣つて來ていゝ? ――ねえ、お正月をこゝで過したいわ‥‥」

 窓硝子に、白い雨がにじんで來た。ついツ、ついツと、小鳥が廂をよぎつてゐる。ゆき子は立つて、硝子戸を開けた。眼の前の山も空も乳色に煙つてゐる。佛印の山々の、雨に煙つてゐる景色に似てゐる。富岡は貝釦を手でまさぐりながら、疊の上に置いて、子供のおはじきのやうに、小指や、人差し指ではじいてゐた。

「お正月は雨だわね‥‥」

 硝子を閉めて、また、ゆき子は炬燵に這入つた。富岡は、むつくり起きあがつて、炬燵の上に貝釦を置くと、ゆき子へともつかず、自分へともつかず、つぶやくやうに、

「死にたくなつた‥‥」と云つた。

 何氣なく聞き流して、ゆき子は、釦を取つて、一寸胸にあてゝみたが、釦のとれたあとの糸屑を疳性に引つぱりながら、

「私だつて、死にたいわよ」と、ぽつんと云つた。

「君なンか、安々とは死ねやしないさ。これから、大いに發展して、もう少し、人生を愉しむンだね‥‥」

「まア! 何を發展するのよ? 妙な事云はないで頂戴」

「それぢやア、死ぬる事を、本氣に考へた事あるかい? 虚心な氣持ちで、本氣で考へもしないで、安つぽく死ぬなンて云ふのはよしたがいゝよ」

「いゝえ、本氣に考へるのよ。私、何時だつて考へたわ。海防でも死ぬつもりだつたし、ダラットで、加野さんの事件があつた時も、その事を考へてたわ。――だから、私は、死ぬ事なンて、怖くもなンともないンですよ」

「ふうん‥‥。それは、まだまだ死ねないね。怖くも何ともないなンて力んでゐるうちは、死に就いて、樂觀してるつて事だよ。死ぬと云ふ事は、本當は怖いものなンだ。――かあつとした、眞空状態になるのを待たなければ、仲々死ねないものだ。君は、もし、萬一、死を選ぶとして、どんな方法をとるかね?」

「青酸カリが一番樂なンでせう?」

「そんなものを持たない時に、眞空状態になつたら?」

「そりやア、その時になつてみなくちやア判らないぢやありませんか? 眞空状態で、どんなスタイルで死ぬかなンて、考へてはゐられないでせう?」

「ぢやア、愛する者同志が心中をする場合だね、どつちかゞ、眞空になれなかつたら、うまく、氣分があはないわけだね?」

「違ふでせう? それは、かあつとなるよりも、それを通り越してもう一つ心の奥で冷たくなつて、二人が默つて、事を運ぶンぢやなくちや、いけないのぢやないかしら‥‥。死ぬ事が怖いのだつたら、方法を考へる事だつて怖いンだから、二人の死となると、よく計畫しなくちや駄目なのね‥‥」

「僕は君と榛名へでも登つて、死ぬ事を空想してたンだがね‥‥」

「偶然だわ。私も、そんな事を、此の間、考へた事あつたのよ」

 お互ひの心の交流のなかに、少しづつ、死の意識が薄昏い影になつて、眼底を掠めた。富岡は馬鹿々々しいと思ひながらも、亦、東京へ戻つてからの現實を考へると、落漠とした感情が鼻について來る。苦しさや、惱みに押しひしがれてゐる時は、まだ生きられる力を貯へてゐたが、いまは、惱みも苦しみも、煙のやうに糸をひいて消えてしまつた。




二十六

 富岡は煙草に火をつけながら、心を掠めるやうなものを感じた。自分がこの女を連れて死んだところで、世の中は、昨日も明日も變りはないのだ。世の中へ絶望したとか、何か云つてはゐるが、そんなところに、説明をこじつけてみても、世の中は、自分一人の死なんか、何とも考へてゐるものでもない。たゞ、それだけのものだと云ふだけだ。だが、その、何とも感じてくれない世の中に揉まれて、生き辛さの爲に、自分の死場所を求めて歩いてゐる人間と云ふものも、全く妙な存在だと、富岡は、寢床に腹這ひ、闇の中に光る、煙草の火を、呆んやりみつめてゐた。

 結局は、強烈な享樂によるか、絶望して死ぬかの二つの方法だが、絶望すると云ふ事はどうも世の中への みせかけのやうなもので、たとへ、何かのはづみに死を選んだにしたところで、念頭に、絶望なぞ少しも感じないで死ぬに違ひないのだ。富岡は苦笑してゐた。この深い暗さは、何時までも長續きするものではないが、燈火を消した部屋の中は、あらゆる旅行者の、旅のなごりが、衣ずれのやうに闇の中に動いてゐた。

 此の部屋で、女と誓ひあつた男もゐるかも知れない。蒲團をおしつけられるやうな氣がした。すると、隣りの蒲團で眠つてゐるゆき子が、うゝうゝ、とひどくうなされて、呻つてゐる。その呻り聲を、富岡は暫く聞いてゐたが、富岡はたまらなくなつて、煙草を手探りで灰皿の中へにじりつけると、枕許の行燈型のスタンドをつけた。

 急に四圍が明るくなり、深い闇が去つた。

「おい、おい、どうした?」

 ゆき子の枕を、富岡は引つぱつた。ゆき子は向うむきになつてゐたが、眼を覺して、くるりと、スタンドの方へ寢返りを打つた。

「あゝ、厭な夢を見たわ。とても、妙な怖い夢だつた‥‥」

「馬鹿にうなされてゐたね‥‥」

「さう、厭な夢なのよ。血みどろになつた、皮をはがれた馬に追ひかけられてたのよ。何處まで走つても、すぐ追ひかけられちやふのよ‥‥。何だか、青い着物を着た、顔のない人間が、その馬に乘つてるのよ。苦しくて、苦しくて、助けてッて云つても、聲も出ないンですもの‥‥」

 富岡は炬燵のなかへ足をのばした。ほかほかと埋火が暖い。ゆき子は、スタンドの燈火をまぶしさうに眺めながら、「今日はお正月ね‥‥」と云つた。

 長い間、かうして、二人は、此の宿で暮してゐるやうな氣がしてゐる。たつた三晩しか泊つてゐないのだが、昔からかうして、二人は暮してゐるやうだつた。富岡は因縁深いものを感じてゐる。戰爭さへなければ、此の女にも相逢ふ事もなかつたらうし、佛印のやうな遠い處にまで行く事もなかつたのだ。いまごろは實直な官吏として、役人生活をしてゐるにきまつてゐる。だが、この戰爭は、日本人に多彩な世界を見學させたものだと思ふ。――富岡は、煤けた天井を眺めながら、地圖のやうな汚點をつけて、ふつと、ユヱの街を思ひ出してゐた。驛から街の中心へ向ふ街路に、樟の若芽が湧きたつやうな金色だつた。香水河と云つたユヱ河に添つた遊歩道には、カンナや鐵線花が友禪のやうに華やかだつた。椰子、檳榔、ハシドイが、到る處に茂つてゐる。赤褌一つのモイ族が、二三羽のインコを籠に入れて、遊歩道で賣つてゐたのを、富岡は思ひ出した。

 なつかしいダラットの生活が、織物の飛白のやうに、一つの模樣になつて記憶のなかに燒きついてゐた。ユヱの山林局にゐた局長のマルコン氏は、いまごろは、また、あのユヱに戻つて、悠々と露臺で葉卷でも吸つてゐる事だらう。日本の軍隊に厭な思ひをしたに違ひないマルコン氏の好人物な顔が、富岡は、なつかしい人として思ひ出に殘つてゐた。マルコン氏は、一九三○年に森林官として、佛印に渡航して來た。佛蘭西のナンシー山林學校を出た人物である。若い、何も知らない、田舍者の、禮儀知らずな、日本の山林官である、富岡達に、心の中では随分をかしなものを感じてゐたに違ひないのであらうが、マルコン局長は、城あけ渡しの時も、非常に立派な態度であつた。富岡にはとくに眼をかけてくれて、よく、佛印の林業に就いての説明を事こまかに教へてくれたものであつた。

 佛印の山林は、巨きな虎にとり組んでゐるやうなものだと思はなければならないと、マルコン氏はよく云つてゐた。佛印の山林の何たるかも判らないで、何の豫備知識もなく、軍の命令で遠征した富岡達は地圖の上だけで、平地の松林のやうな疎林を空想して出掛けてゐたのだ。

 マルコン氏のユヱの私邸によばれた時、富岡は、庭にある樹木の名前をみんな知つてゐるかと問はれて、富岡はビンロウ樹さへも云ひあてる事が出來なかつた。リム、タガヤサン、ボウデ、キェンキェン、サオ、ヤウ、ベンベン、バンラン、一つ一つ指差して、マルコン氏はその樹木の産地や性情を教へてくれた。

 佛印の山岳地帶は、雨も多いので、森林も廣大なもので、自分は長い間、こゝに來てゐるが、まだ山岳地の森林に就いては研究も淺いが、いたづらに伐り出す前に、よく、林質をたしかめてからにして貰ひたいと、マルコン氏は願望すると云つた。とくに、山地の蠻人の燒畑開墾は、原生林の状態を、相當蠶食してゐるので、これも、考へてほしい事だと云つた。北部安南の、ビンや、タンノアの兩州は、とくに、日本軍の開發が多いと聞くが、中部地方は、これは山脚がすぐ海にはいつてゐるので、地勢は急峻で、流筏の便のある河川に乏しく、只、樹木を伐るだけでは、開發しても容易に持ち運びは出來ないらしい。北部と南部だけが、地勢がゆるやかなので、流筏の便利はあるが、その一方的な利用の仕方は考へなくてはなるまいと注意も受けた。造林事業と云ふものは或る意味で、戰爭とは別箇のものだと、マルコン氏は心配さうに云ふのである。





「ねえ、あなた、覺えてゐる? ツウランのそばの何とかつて、日本人の墓地にお參りした事もあつたでしよ?」

 富岡は、記憶のさすらひから、急に引き戻されたやうな氣持ちで、天井の汚點から眼をそらして、ゆき子の方へ顔を向けた。

「あの町、何て云つたかしら‥‥」

「ヘイホつて町かい?」

「さうさう、ヘイホつて町だつたわ。加野さんと、私と、あなたと、三人でヘイホの町へ行つた事あつたわね。三日位の旅だつたかしら、加野さんは焦々して、ずつと、私達を看視してたぢやない? その看視の眼をくゞつて、二人で、眞夜中に逢つてたわね。二人とも狂人みたいだつたわ。覺えてゐる?」

「あゝ、覺えてゐるよ」

「並木はフクギつて樹だつたでせう? こんもりした老樹で、自動車をとめて休んでゐると、子供達が、トンボ・ヤポネーゼつて寄つて來たわね。私、あの時ね、コンパクトで鏡をのぞいて、一流の美人に生れて來ないのを殘念に思つた位よ。だつて、子供達は、女の私なンかに興味もないやうな樣子で、脊の高いあなたの方へばかり、何だか、おしやべりしてゐたわ‥‥。墓地へ行く道に、巨きな仙人掌が繁つてゐて、いまでも、私、よく覺えてゐるのよ。山田五十鈴位の美人だつたらもつと、あの旅はよかつただらうと思つたわ」

 ゆき子は、妙な事を云つた。




二十七

 ヘイホの町は、三百五六十年前に、澤山の日本人が住んでゐた土地である。當時の御朱印船に乘り、ひんぱんに往來して、日本に、紫檀や、黒檀や、伽羅、肉桂なぞを送つてゐたものだが、その後、日本の鎖國の爲に、歸國出來なくなつた日本人が、此の地に同化した樣子で、墓碑の表なぞに、太郎兵衞田中之墓などと刻んであるのがあつた。

 流れる椰子の實のやうに、何處へでも遠く漂流して行く、昔の日本人の情熱を、ゆき子はひどく勇氣のあるものに思ひ、土まんぢゆうの墓碑にも、はな子之墓なぞとあるのに、ゆき子はいじらしい氣がしたものだ。

「ヘイホつていゝ町だつたわ、道が狹くて、やつと自動車一臺通れる幅だつたわね。マツチ箱を二つづつ重ねたやうな白壁塗りの家並がつづいて、ほら、日本橋つて、屋根のある小さい橋があつたわ。あすこで寫眞を加野さんが撮つたけど、あの寫眞も持つて歸れなかつたし、でも、あの時の私達つてぜいたくね。いま、あれだけの旅をするつて云へば、大變なお金がかゝるでせうね‥‥」

「罰があたつたンだよ」

「さうね、さう考へるに越した事ないわ。――もう、幾時頃かしら」

 ゆき子は腹這ひになつて、枕許の小机から時計を取つて見た。四時を少しまはつてゐた。ゆき子は、昨夜、あれほど、二人と死に就いて語りあつてゐながら、いまは、死に就いて何も考へる事はなかつた。こんなところで死ぬのは馬鹿々々しい氣がした。富岡の云つてゐる事も、本氣ではないやうに思へ、今日はこの時計を手放して、池袋の家へ戻りたいと思つた。二人の間に、佛印の記憶が、二人の心を呼ぶきづなになつてゐるだけで、こゝに寢てゐる二人にとつては、案外、別な方向を夢見てゐるにしか過ぎないのかも知れない。

 宿の拂ひに追ひたてられてゐる事が氣がゝりで、何時まで伊香保にゐても、少しもロマンチックな氣にはなれないのだ。ゆき子は、その氣持ちをうまく富岡へ表現したかつたが、富岡は、心が屈してゐる樣子で、此の宿を去る説には、仲々ふれて來さうもない。

「今日は、お正月ね?」

「うん」

「今日、歸る?」

「三四日ゐたいと、君は云つてたぢやないか。氣が變つたのかい?」

「氣が變つたわけぢやないけど、何だか、佛印の話も云ひ盡したやうな氣がするし、あなた、私に飽きちやつてると思つてさ‥‥」

「君が飽きたンだらう?」

「馬鹿云つてるわ‥‥」

 私は飽きないと云ふ處を見せる爲に、大きい聲で、馬鹿云つてると云つてみたものゝ、ゆき子は、池袋がなつかしかつたのはたしかである。浮氣でうつり氣なのかなと、ゆき子は、自分の心の中を手さぐりでさはつてみてゐる感じだつた。山峽の水の流れが深々と耳に響いた。

「もつと、苦しまなくちや、僕達は、この生活から前進は出來ないんだよ。君にとつてはどうでもいゝ事だらうがね‥‥。二人で逢つて昔の事をなつかしがつてみたところで、もう、月日は過ぎたんだし、そんな話をする事は、惡い習慣だよ。そんな昔話で、君と僕の間が、昔通りのあの激しさに戻るもんでもないしさ‥‥。そのくせ、俺は、細君にだつて、昔通りの愛情は持つちやゐないんだよ。戰爭は、僕達に、ひどい夢をみせてくれたやうなものさ‥‥。どうにもならん、魂のない人間が出來ちやつたものさ‥‥。ねえ、どつちつかずの人間に凡化しちやつたんだよ。時がたてば、昔話だつて色あせて來るしね。人生つて、そんなものだ。渇望する思ひだけが、馬鹿に強くなつて、この現實には、なるべく體當りしないやうなずるさになつて來てるしね。浦島太郎のはんらん時代なんだよ。現實は、一向にぴんと來ないとなれば、何處にも行き場がない。妙な大旅行はしない方がよかつたのさ‥‥」

「さうね、判るわ。でも生きてる限りは、浦島太郎で尻もちついてなんかゐられないでしよ?やつぱり、何とか、煙の立つてしまつた箱の蓋でも閉めて、そこから歩き始めなくちや、誰も食はしちやくれないし‥‥。でも、二人とも、別れて、二三日逢はないと、ふつと逢ひたくなるのは變だと思はない? 私、きまつて、あなたの事考へてるのよ。憎くかつたり、可愛いかつたり‥‥。人間つて、どうにもやりきれないもんだわ。もう少し、時がたてば、この氣持ちだつて、樂々する時が來るんだとは思ふんだけど‥‥」

 二人は、また、うとうとしはじめた。どうにかなるやうに任せて、時間のたつのをやり過すより仕方がないのかも判らない。

 二人が、昏々として眠りにはいつてから、眼が覺めるまではかなりな時間がたつた。

 遠くで鼓が鳴つてゐる。ゆき子がその鼓の音に眼を覺すと、富岡は寢床にゐなかつた。鼓の音はラジオだつた。ゆき子は起きて、袍褞の前をあはせ、時計を見ると、もう十一時を一寸まはつてゐた。女中が火鉢に火を入れに來た。

「旦那さんはお湯におはいりです」と、女中が云つた。ゆき子は昨夜借りた手拭をさげて、湯殿へ行つてみた。

 小さい湯の方へ、富岡ははいつてゐた。硝子戸を開けて覗くと、

「はいつていゝ?」とゆき子は聞いた。

「あゝ」

 ゆき子は袍褞をぬいで、粟立つやうな寒さの中に、手荒く硝子戸を開けて、湯殿へ降りて行つた。檜の浴槽に、滿々と赤い湯が溢れてゐる。もうもうとして湯氣が、狹い湯殿にこもつてゐた。

「おめでたうございます‥‥」

 ゆき子は笑ひながら云つた。富岡も、おめでたうと云つた。淡いながらも、二人の親和が、裸の肌に浸みた。旅空の正月とは云つても、時間と金が、ありあまつて湯治に來てゐる客ではないだけに、二人には、おめでたうと云ひあひながらも、佗しく、つゝましい感情が、心に流れてゐる。ゆき子が湯にはいると、湯はタイルの流しへ溢れた。

「おゝ、いゝ湯だこと‥‥」

「客は僕達だけらしいよ」

 富岡は、さう云つて、ざあつと流しへ上つて行つた。肌が赧くなつてゐる。浴槽の中は明るかつた。ゆき子はちらと、富岡の裸體から眼を外らして窓にせまつてゐる赤土の肌を眺めてゐた。

「ねえ‥‥」

「何だ?」

「私達何だか、落着いちやつたわね。でも、女中は、不思議な男と女だと思つてるでせうね。外へも出ないし、あまり、金もなささうだし、そのくせ、悠ゝとしてゝ、じめついてないし‥‥。でも、隨分、親切な家ね‥‥」

「うん、さうだね‥‥」

「さうだねつて、あなた、何を考へてゐるの? やつぱり、まだ死ぬ事? 私、あなたをもつと生きさせてあげたいのよ」

「いや、何も考へちやゐない。湯から上つたら、さつぱりして、酒を飮もう。そして、今夜歸るよ‥‥」

 と云つて、石けんを泡立てゝ體を洗ひ始めた。

「さうですか? もう榛名山へ登つて、湖水へ飛び込むのはおやめ?」

「うん、君とは死ねない。もつと、美人でなくちや駄目だ‥‥」

「まア、憎らしい。いゝ事よ」

 ゆき子は蓮つぱに笑つて、浴槽のふちへ兩手をかけて、泳ぐやうなしぐさをした。腕もいくらか太つて、すべすべした肌になつてゐる。何もしないで食べて寢る生活が、こんなに體にすぐ反應があるものなのかと、ゆき子は、しみじみと血色のいゝ腕を眺めた。

 軈て湯から上り、二人は晝近くに炬燵の膳についたが、湯にはいつてゐた時の氣持ちとは違つた、また寒々したお互ひの思ひが、二人の氣持ちを焦々させてきた。二本の徳利がついてゐたが、それも仲々すゝまない。大きい椀は冷えた雜煮だつたが、これにもあまり手が出ないでゐる。

 食事が濟むと、富岡は、ゆき子を殘して、一人で町へ出て行つた。時計を賣りに行くのだ。古いオメガで、一度、修繕に出したものだがこゝの拂ひの足しにするには、これ一つで充分だらうと、ゆき子の時計はそのまゝで、袍褞姿で出て行つた。戸外は、ちらほらと雪が降つてゐる。




二十八

 石の階段を降りて、射的やカフヱーの竝んでゐる、狹い町へ出て行つた。毛皮の外套を着た女が、土産物屋をひやかしてゐる。富岡は袍褞だけでは寒かつたが、がまんをして時計屋を探した。バスの發着場のそばに、バーのやうなものがあり、頬紅を眞紅につけた女が、富岡に、「お兄さん寄つていらつしやいよ」と云つた。こんな女に聞いてみるのもいゝと、富岡はつかつかと女のそばへ寄つて行き、狹いバーの中へ這入つて行つた。バラックにペンキを塗つたゞけの鳥小舍のやうな家の中であつた。富岡は、寒いので酒を注文した。女は瀬戸の火鉢を奥からかゝへて來て、富岡に股火鉢をすゝめてくれた。

「ねえ、君は、此の土地の人かい?」

「近くなンです‥‥」

「伊香保つて、古い町かと思つたら、案外新しい町だね‥‥」

「大火があつたさうで、こんな町になつたンでせう? 昔はよかつたンですつてね‥‥」

 烏が馬鹿に啼きたてゝゐた。熱い酒をコップにあけて、富岡はぐうつと一息に飮み干して、金を拂ひ、女に時計屋はないかと聞いた。女は奥へ行つて聞いて來ませうと奥へ行きかけたので、富岡は腕時計をはづして、これを持つて行つて聞いてみてくれと云つた。軈て、奥から、小柄な頭の禿げた亭主らしい男が出て來た。

「旦那、いくら位なら、手放しなさるンで‥‥」

 富岡は亭主らしい男が、わざわざ出て來たので、きまり惡さうに二三日前に伊香保へ女を連れて來て、つい、伊香保が氣に入り、一泊のつもりが、今日まで滯在したのだが、勘定が少々足りなくなつたので、それを賣りたいのだと話した。

「本當は、賣りたくないンでね。‥‥誰か、これを かたに、取りに來るまで預つてくれる家があるといゝンだがね‥‥」と云つた。

「いゝ時計ですね」

「あゝ、南方で買つたンだ‥‥」

「ほう‥‥南方、旦那は南方の何處へおいでなすつたンですか?」

「佛印に行つてゐたがね‥‥」

「あゝ、さうですかい。自分もね、海軍で南ボルネオのバンジャルマシンつてところに行つてましてね。去年引揚げて來たンでさア‥‥」

「ほう、南ボルネオ‥‥。大變でしたね。あすこは、海軍地區でしたかね?」

「えゝ、さうです‥‥。淋しい處でしてね。それでも、土地の人氣はいい處でしたね。あの土地で、この時計をいつぺん見た事があるンで、いゝ時計だなと思つたンですよ。――いつたい、どの位なら、放しなさるンですかね?」

「何處か、賣れ口でも、心當りがありますか?」

「いや、自分がほしいンですよ。いつぺんはこんな時計がほしいと考へてゐたンです。シーマアか、エルジンあたりでもいゝなンて思つて、いまだにそんな時計を持つた事がないンでね。先日も、バルカンと云ふのを見ましたが、どうも、古い型なので、氣に入らなかつたンですよ。――こんなスマートぢやないンで、もし値段の折れあひがつけば、ゆづつて下さいよ」

「そんなにほしいのなら、ゆづつてもいゝんだが、貴方の方で云つて下さい。僕はどうも‥‥」

「さア、私も商賣人ぢやないし‥‥一本ではいけませんか?」

「一本? 一萬圓ですか?」

「えゝ、それで、如何ですかね、時計屋へ持つていらつしても、足もとを見られて、五千圓位のものだと思ひますがね‥‥」

 富岡は、それもさうだと思つた。このあたりの知らない店に持つて行けば、五千圓もあぶないかも知れないと思つてはゐたのだ。亭主は、女にいひつけて、酒を持つて來させると、富岡の卓子の横へ來て電氣をつけると、自分の腕へ時計をはめて、ためつすがめつ眺めて、時計を耳へあてゝ暫く音を聞いてゐた。

「仲々いゝ音ですな。固い、いゝ音だ」

「それは、帶革をかへるといゝですよ」

「いや、まだ、いゝでせう‥‥。この帶皮も氣に入りましたよ。日本出來ぢやア、こんな柔いいいのはありません」

 女が酒を運んで來た。亭主は、奥へ引つこんで、暫く出て來なかつたが、軈て下駄を引きずるやうにして、笑ひながら、「かきあつめるやうにして、全財産ですよ」と、卓子に十枚づゝの百圓札を十字に重ねて行つた。

「佛印は、ボルネオと違つていゝ處ださうですね。旦那は兵隊ですか?」

「いや、官吏で行つたンです。農林省に勤めてゐましたからね‥‥」

「ほう、お役人でね」

 亭主は、初め、女給がオメガを持つて奥へ來たので、帳場から、富岡の人品を眺めて、盗品ではないかと思つたと笑つて云つた。

「澤山の人を見る商賣ですから、此の眼に狂ひはありません‥‥。自分は貴方を繪描きぢやないかと見たンですが、お役人とは思はなかつたな‥‥」

 亭主も少し酒を飮んだ。バスの發着ごとに、小舍のやうな家はゆれた。富岡は札束をふところに入れて、名刺入れから、名刺を出して、亭主に出した。

「ほゝう、材木の方をおやりになつてゐるンですか?」

「役人をやめて、友人の仕事を手傳つてゐるンですが、資金關係と、統制で、いまのところ、手も足も出ないンです」

「統制々々、税金々々で、どうも、我々の仕事はうまく滑り出す事が出來ません。みすみす、いい客がはいつても、ライスカレー一つ出せないンですからね。――何しろ、密告がやかましくて、あぶなくてどうにもならないンです。役人と來ちやア、昔の代官と同じで、全く、子供のガキ大將と同じでさア‥‥。よろこんで働けねえやうにしといて、いじめるンだから、闇がはびこつちまふンですよ‥‥。宿屋ぢやア、米はどうなンです?」

「米がなくちやア泊められないつて云ふンで、家内が、何處かで一升買つて來た樣ですよ‥‥」

「なるほどね。そんなもンですよ。闇米はいくらでも賣つてますからね。わざわざ、伊香保くんだりまで來る客を、追ひ返すみてえな事をして、何の宣傳もありやしません。商人は客に來てほしくても、つまらん統制つて奴が、杓子定規でね。えらい不景氣が來さうですな」

「物より金の時代になりますかね」

「旦那はずつと東京ですか?」

「さうです。幸ひ、家も燒けなかつたンだが、どうにもならなくて、家も賣つちまつた」

「自分は、親の代から、ずつと本所業平にゐたンですが、三月九日の大空襲で、家は燒け、子供は一人死にましたが、日本へ戻つて來てから、その家内とも別れて、いまの女房と、こんなところに家を持つたンです。やつぱり東京へ戻りたくて仕方がねえンでさア。自分は魚屋が本業なンですがね。‥‥いまの家内が、魚屋は厭だつて云ふンで商賣してゐます‥‥」

「おかみさんは、さつきの?」

「えゝ、娘みてえに若いので、どうもお恥しいンですが、自分は、何事も因縁で、これも、一種の前世からのめぐりあひだと思つてゐます。――めぐりあひつてものは、旦那、大切にしなくちやいけねえ、めぐりあひにさからつても仕方のねえ事だと、自分は考へてまさア、運命にさからはねえやうにしております‥‥」

 頬紅をこつてりつけた女が、この男の細君なのかと、富岡は妙な氣がした。めぐりあひは大切にしなくちやいけないと云はれた事が、胸にこたへて、ゆき子との關係もめぐりあひには違ひないのだと思へた。

「廣島の大竹港へ着いて、棧橋で、キャメルの袋が落ちてましたが、あの色つてものは綺麗だと思ひましたな。たうとう、敗けたンだと、その煙草の袋で思ひ知りました。戰爭に敗けるのもめぐりあひだ」

「時計を買つて貰ふのも、めぐりあひかな」

 富岡は醉つてゐたので、氣持ちが樂になつてゐた。輕い冗談を云ひながら、亭主から煙草を貰つて、一本つけた。烏が馬鹿にさうざうしく啼いてゐる。南京豆を反齒で噛みながら、亭主は、ジャンバアのチャックをまさぐりながら、

「いや、世の中の事は、すべて、氣運つてものがきまつてゐるンですよ。このまゝで日本が戰爭に勝つてゐた日にやア、もつと、ひどいめにあつてゐましたよ。――戰爭つてものは馬鹿々々しいつて知つたゞけでも、大した事でさア‥‥。でも、自分も、これで、ボルネオなんて南の果てまで行つたンだから、これも因縁事だと思はないわけにはゆかないね」




二十九

 宿へ戻つて來ると、ゆき子は炬燵で、爪をハンカチで磨いてゐた。その後姿が、急に哀れになつた。富岡は、さつき、何事もめぐりあひだと、バーの亭主に云はれたのだが、めぐりあひと云ふ言葉が、切實に胸に來て、昨日まで、此の女と死ぬ空想をしてゐた事が馬鹿々々しくなつた。ふつと、仲々死ねるものではないやうな氣もした。時計を手放した事が、運命的でもあるやうに、喪家の狗の如き、しをしをとした昨日までの感情が、少しばかり、酒の醉ひをかりて活々してきた。

「あら、醉つていらつしたの?」

「少し飮んだよ‥‥」

 お酒なンか飮んで大丈夫ですかと云つた表情で、ゆき子はじいつと富岡の眼をみつめた。お互ひに、間がなひまがな假面を被りあつてゐたゞけに、いま戻つて來た、富岡の柔かい眼の色が、ゆき子には、何かいゝ事があつたやうな氣がした。「賣れたの?」と聞いた。

「賣れた。一萬圓に賣れたンだ‥‥」

 さう云つて、ことこまかに、時計の賣れた一件を話すと、ゆき子は眼に涙をためて、「めぐりあひつて、いゝ事云ふひとね」と溜息をついた。萎縮した情慾を、お互ひに贋物でないやうな與へかたでゐたゞけに、二人とも、亭主の云つた言葉には押されるものがあり、富岡が炬燵の上に置いた一萬圓の札束を、ゆき子はしみじみと眺めてゐる。

「活路つてあるものね‥‥」

 日本へ戻つて來て、魂も心もないやうな人間を見て來てゐたゞけにゆき子は、富岡からその話を聞いて、

「その人も、南方がへりで、若い細君を持てたなンて、勇氣があるわ。貴方なンか、駄目なんだわ。そして、死ぬ夢ばかり空想してゝ」

 富岡は、いまでも、死の夢をまんざら捨てたわけではない。昔、佛印で讀んだ、惡靈のなかの、スタヴローギンの用意のいゝ死支度を思ひ出すのである。冷靜な氣持ちで、丈夫な絹紐に前もつて、べつとりと濃く石鹸を塗りつけておいて、死ぬにも、なるべく痛くないやうな心づかひをしたと云ふ一文は、スタヴローギンの憎々しいばかりの冷たさが感じられて、富岡は、その當時、一種の反感を持つてゐたものだ。だが、現在は違つて來た、絹紐に石鹸を塗りたくつて痛くないやうにして、死につく事は、最も痛さからのがれる便利さがあると、富岡は、自分も亦、輕々とした死の方法を案出したがつてゐた。スタヴローギンはあらゆる地を巡禮してまはり、心の糧は何處にも得られないまゝで只憑かれた人として故郷へ戻つて來たのだが、富岡は遠い佛印から戻つて、人生に醒めた人間として、自分みづからの命を絶たうとしてゐる。富岡にとつては、此の世は、面白くもおかしくもなかつたのだ。

「宿屋なンかに泊らないで、早く引きあげて、よかつたら二三日泊つて行けと云ふンだが、君の意見はどうなンだい?」

 と、富岡は、バーの主人に貰つた外國煙草を出して吸ひつけながら云つた。ゆき子も一本、珍らしさうに火をつけて吸つた。

「さうね、面白いわ。そんな男つて逢つてみたいわ」

「人なつゝこいンだね。いはゆる善人だ。君が馬鹿にしさうな、加野的善人だ‥‥」

「あら、厭な事云ふわね‥‥」

 夕方、二人は、勘定を濟ませて、東京へ歸るつもりで、バーへ寄つてみた。客は運轉手らしいのが二人ばかりで、酒を飮んでゐた。亭主は、二人を狹い二階へ上げて、くつろいでくれと云つた。晝間とは違ふ女が二階へ茶を運んで來た。小さい掘り炬燵がしてあつた。女の外套や、着物が壁にぶらさがつてゐた。軈て、晝間の頬紅の赤い女が二階へ上つて來た。まだ十八か九位で、躯はゆき子より大柄だつたが、眠つたやうな靜かな女だつた。時々、眼をみはる癖があつたがその時の眼は馬鹿に大きくて、光つてゐた。美人ではなかつたが、若く水々しい躯の線が、何かのはづみで、ぱあつと派手々々しく周圍に擴がつてみえる。

 今日は正月なので、店の客も早く歸つて行つた。通ひの女も軈て挨拶して戻つて行くと、亭主は女に店を閉めさせて、二階へウイスキーの瓶を持つて上つて來た。

 ずんぐりした、もう五十年配の亭主は、炬燵の上に、ジャンバアのポケットから、いくつも林檎を出して、ゆき子に食べて下さいと云つた。男達はウイスキーをかたむけて、南方の話に花を咲かせてゐる。

 六疊ほどの部屋だつたが、天井は紙の吊天井で、壁には世界地圖が張りつけてあつた。だるま火鉢の蓋に、女は手をかざして、呆んやり何か考へごとをしてゐる樣子だつた。富岡は、自分の横に坐つてゐるその女の横顔を時々眺めてゐた。ゆき子は林檎をむいて、むしやむしや食べながら、男達の話のなかに割り込んで、賑やかに喋つてゐる。

 窓にさらさらと雪の氣配がした。山鳴りのやうなごおつと響くやうな風の音がした。女は火鉢に頬杖をつき、膝を崩して、炬燵に右手をさし込んでゐた。富岡は、何氣なく、女の膝に胡坐を組んだ自分の足の先をきつくあてゝみた。女は知らん顔をしてゐる。富岡は、左の手で、蒲團の中の女の手にふれてみた。そして、靜かに、女の横顔をみつめたまゝ強く手を握り締めた。富岡の胸の中には、急に無數の火の粉が彈ぜた。女は、靜かにうなだれて、眼を閉ざしたが、女の手はねつとりとして、富岡の手に、幾度となく反應を示した。

 頬紅の赤い、田舍々々した女に、このやうな獸のやうな、野生的な力があるのかと、富岡はとりのぼせて、片手でウイスキーのグラスをあほつた。ゆき子は、二つ目の林檎をむいてゐる。

 富岡は、毒々しい紅を塗つた唇を持ちあげるやうにして、林檎を食つてゐるゆき子の顔を時々警戒した。だが、ゆき子は、加野的善人さと云つた、バーの亭主と、とりとめもなく話をしてゐる。亭主は、腕時計をしてゐた。如何にも自慢さうに、短い腕首に、金側の時計はにぶく光つてゐた。

 炬燵の中の、二人の手は仲々離れなかつた。女も大膽になり、膝を富岡の足の先に乘せるやうにしてゐた。富岡は思ひ切つて、女の手を離して、とりのぼせたやうな上づゝた聲で、

「ああ、これもめぐりあひだね。こんな記念すべき正月はない。美しい晩だ。をぢさん、一つ、このウイスキーを空にするまで飮みませんか、僕が今夜の宴會は持ちますよ‥‥」

 と云つて、盛んに、亭主のグラスにウイスキーをつぎ、ゆき子にも飮めと云つて、わざと手をさしのべて、グラスを唇へあてがつてやつた。人間の氣は變り易いものだと、富岡はもう一つの冷たい感情で、ゆき子に、何度もグラスを持たせた。ゆき子は、大分醉つてきた。夕飯をたべなかつたせゐか、早く醉ひがまはつてきた。ゆき子は、自分の前に眠つたやうに、頬杖をついて、さしうつむひてゐる女を、馬鹿な田舍女だと思つてゐた。柄ばかり大きくて、こんな貧弱な男と、青春のない生活をしてゐる田舍暮しを、同情的な眼でも見るのだ。ずつと默つたきりでゐるだけに、女の存在も此の場所でははつきりしない。ゆき子は醉ひがまはるにつれ、富岡との、南方での激しい戀の話を、面白さうに亭主に告白しはじめた。

 富岡は醉はなかつた。ほとんど、壜を空にするまで三人は飮みつゞけた。――富岡は、温泉へ行つて來ると云つて急に立ちあがつた。亭主はもうろうとした眼で、

「おい、おせい、お前、旦那を案内して、米屋の風呂へ案内して上げなよ。奥さん、あなたもおいでになりませんか?」と云つた。

「私、もういゝのよ。今朝から、二度も金太夫の湯にはいつたンですもの‥‥。それに、すつかり醉つて、ふらふらなの‥‥」

 ゆき子は、酒の肴に出てゐるハムを頬ばりながら、また、ウイスキーのコップを唇へ持つて行つた。富岡が手拭を借りたいと云ふと、女は、自分の桃色のタオルを壁からはづして、富岡の後へついて、梯子段を降りて行つた。

 階下は昏く冷々としてゐる。富岡は女の降りて來るのを、階段の下で待つてゐた。卓子に椅子の乘せてある店の床に、鼠がちらちらしてゐた。

 女が降りて來た。二人はお互ひに、激しい眼光で正面から近々と向ひあつた。




三十

 谷間の山壁に押しこめられたやうな、階段の下の仄昏い土間に立つて、富岡は矢庭におせいを抱いた。おせいは、息を殺して、富岡に寄り添つて、案外、富岡のするまゝに任せて、富岡の接吻に應へてゐたが、二階で、ゆき子が大聲で笑つたので、富岡はおせいをはなした。おせいは何も云はないで、裏口へ出て行き、富岡に、「暗いから、足もと氣をつけてね」と云つた。

 足もとに氣をつけてねと云つた女の言葉に、なま醉ひの富岡は、急に本能の目醒めた思ひで、また、強くおせいの腰を取つたが、おせいは、富岡の手をふりほどくやうにして、狹ひ石段を降りて行つた。四圍は暗かつたが、石段の下の電柱に、小さい灯がついてゐた。その燈火のあたりに、もうもうと湯煙が立ちこめてゐる。電柱のそばの明るい硝子戸を開けて、おせいは富岡の降りて來るのを待つてゐたが、富岡が降りて行くと、硝子戸の中で、派手な花模樣のふり袖を着て、光つた帶を結んだ若い女が、下駄をはいてゐた。

「随分寒いわね」

 と、誰にともなく女は云つた。白いショールをぱつと擴げると、羽織も着ない痩せた肩にさつと羽織つて、さよならとあわてゝ出て行つたが、富岡がその女をやりすごして硝子戸の中へはいると、

「いまの、藝者ですよ」と、おせいが云つた。

 富岡は硝子戸を閉めて、おせいの後から、冷い廊下を幾曲りもして低い方へ降りて行くと、廣い湯殿に突きあたつた。混浴とみえて、脱衣場の圓い籠には、女や男の衣類がぬぎすてゝあつた。鏡の前で着物を着てゐた中年の女が、

「おせいさん、今日は年始にも行かなかつたが、おとうさんによろしくと云つておくれよ。明日はうかゞひますつてね‥‥」と云つた。

 富岡が洋服をぬぎ始めると、何時の間に、そんなものを持つて來たのか、おせいは木綿の風呂敷を擴げて、富岡のぬいだものを片つぱしから風呂敷に包みこんでゐる。

 洋服をぬぎながら、富岡が四圍の籠を見ると、二つ三つ風呂敷に包んだものがあるので、旅のものゝ衣類は、盜まれぬ用心に、風呂敷に包んでおくのかとをかしかつた。

 おせいも、洋服をぬぎ始めた。

 富岡はさつさと、湯氣のたちこめてゐる湯殿へ這入つて行つたが、六七人の老若もみわけがたい男女が、タイル張りの廣い浴槽にはいつてゐる賑やかさに氣安いものを感じた。おせいも湯殿へはいつて來て、入口の隅の方に膝をついて湯を浴びてゐる樣子だつた。

 浴槽へ飛び込むと、肌の沁みとほるほどの熱い湯が、冷えきつた躯に抱きついて來る。おせいは誰かと、湯煙のなかで話しあつてゐたが、これもすぐ浴槽へ入つて、ゆるい速度で富岡のそばへ寄つて來た。肩肉の厚い、白い肌が、赤土色の湯から浮きあがつてゐる。そばへ來て、おせいはにつと笑つた。富岡は湯の中で足をのばして、おせいの脚肉にふれた。おせいは沈んで手拭を探すやうなかつこうで、手で、富岡の膝にさはつてゐた。湯が赤いので、首からでは、二人のたはむれは誰にも見えなかつた。富岡は、奇怪な笑ひ顔でおせいの眼を見てゐたが、おせいは少しも笑はない。湯の中の野獸の本能が、おせいの首から湯底に拔け落ちでもしたやうに、おせいの首は、富岡の首とは一定の間を置いて、西瓜のやうにたゞふはふはと浮いてゐるだけだつた。富岡は、この現實は何時か、何處かで演じられたやうな氣がしたが、思ひ出しやうもなく、只、じいつと、顎まで湯にひたつて笑ひ顔を浮かせてゐた。二人ばかり、どやどやと男達がはいつて來た。富岡は眼の前にゐる對象に向つて、ひどく原始的な空想に耽つてゐた。浴槽のなかで誰かゞ林檎の唄をうたひ出した。

 富岡は、魚屋を本業にしてゐる男が、若いおせいと同棲する爲に、この伊香保の温泉町に住みついた氣持ちが、何氣なく唄はれる林檎の唄聲に乘つて、心のなかにしみじみと判るやうな氣がした。おせいは泳ぐやうなしぐさで、向う側へ行き、さつと上つて行つたが、大柄な立派な後姿が、富岡には、いまゝでに見た事もない美しい女の裸のやうに思へた。矢も楯もなく、富岡はおせいの裸が戀しかつた。後姿に嗾かされた。いきなり、富岡もその方へ泳いで行き、おせいのそばに上つて行つた。湯殿の廂を掠める、荒い夜の山風がごうごうと鳴つてゐる。

「背中、流しませうか?」おせいが云つた。

 太い腿をぴつたりあはせて、タイルの上に坐つてゐる大柄な裸は、水浴をしてゐる時のニウの裸體にも似てゐた。富岡はふつと、ニウのおもかげを思ひ浮かべた。肌のあさぐろいニウの逞ましい躯や、時々、肉桂をしやぶつてゐたニウの口臭がなつかしく、佛印での生活がいまでは、思ひがけない時に、富岡の胸のなかに酢つぱい思ひ出を誘つた。――肉桂は昔から、男子の若返りの藥として愛用せられてゐるものだと、ニウは時々、富岡が疲れて、ベッドでものうい休息をとつてゐると、桂皮を削つて、熱い湯にとかして持つて來てくれた事があつた。この若返り藥の肉桂は、王樣肉桂と云ふのが珍重されて、富岡達は、ネーアン州のソンとか、スアンや、クイ、シャウのやうな無人の山中に探險に行つた事もあつた。王樣肉桂は、安南では、桂と云はれて、北部安南の山中に稀に生殖した。肉桂は小喬木で、昔は安南の宮廷用として、止め木とされて、民間の伐採は自由ではなかつたので、山地住民のモン族の酋長が、安南の官邊から、伐採許可證を貰つて肉桂をとりに行つたものである。肉桂樹を發見する事は、何よりも神佛の加護に依るものとして、盛大な宗教的儀禮を行つて、初めて深い山中に這入るのだと、山林局長のマルコン氏に聞いた。探險に出たモン族は一年も二年も戻つて來ない事は珍しくない事で、老練なものでなければ發見出來ないのださうである。芳香をたよりに探して、稀に探しあてたとなると、官憲に申告して、伐採剥皮の上、これに官印を押して貰はなければならなかつた。タンノアのあたりの山で、富岡は、時々この肉桂の芳香を嗅いだ。

 裸のおせいに、背中を流して貰つてゐると、富岡は肉桂の芳香のやうな匂ひを思ひ出した。ニウとの間に生れた子供はいまごろはもう言葉を解し、よちよち歩いてゐるに違ひない。父のない子供をかゝへて、ニウはどうして暮してゐるだらうと、富岡はもう二度と逢ふ事のない昔の女や子供の暮しを空想してもゐた。

 湯殿の灯が時々薄暗く息をしてゐる。

「君は、何年位、伊香保にゐるの?」富岡が聞いた。

「二年ばかり。ねえ、私、東京へ行きたいのですけど、もう、こんな淋しい處は飽々しちやつた‥‥。第一、景氣もよくないし、寒いとお客もないですからね‥‥」

「流行らないのかい?」

「とても、駄目ですよ。あのひとも、とてもこれぢや駄目だから、東京へ行つて、またもとの商賣にとりつかうかつて云ふンですけどね、私、魚屋つてきらひだから‥‥。一人で東京へ行つて、私、ダンサアになりたいンです。いま、さつき戸口で逢つた藝者があつたでせう? あのひとにダンス習つてンですけど‥‥。東京でもダンスなら食べてゆけるつて云ふもンですから、私、やつてみたいンです‥‥。こゝは、夏場でなくちや商賣になりませんしね」

「ダンスか、ダンスもいゝだらうが、そんな事位ぢや仲々やつてゆけないし、結局躯を張つて暮すやうになるだらう‥‥」

「でも、やつぱり東京へ行きたいわ。とても、あのひと、うるさくて、私、仲々東京へ出られないンです‥‥」

 ざあつと湯を背中へ流して、おせいはまた湯のなかへ、音をたてゝはいつて行つた。

 二人が湯から上つて、二階へ戻つて行つた時には、ゆき子はまだ酒を呑んでゐる亭主を相手に、喋つてゐた。佛印での樣々な思ひ出話を面白をかしく話してゐた。

「随分ごゆつくりね‥‥。二人ともかけおちしたかしらと思つたわ」

 ゆき子は冗談で云つたのだが、富岡は、ゆき子の直感にどきりとした。おせいはびくともしないで、冷い手拭を壁の釘にかけて炬燵にもぐり込んだ。頬紅を赤くつけてゐると思つたのは、さうではなくて、生地からの頬の赤さで如何にも山間の女らしく見えた。

 化粧をしないおせいの顔が艶々と光つてみえる。富岡は、魂のない空な眼差しで、おせいのどつしりとした胸のあたりを見てゐた。ゆき子に對しては、もはやすがりつき慰さめを得ようと云ふ氣持にはなれない。おせいの逞ましい肉づきに、富岡は明日からの生活を考へ始めてゐた。もう死ぬ氣はなかつた。ゆき子に對して、背反の反省もない。おせいは、時々眼を光らせて、富岡を掠めるやうに眺めた。富岡は、自分の心のなかに、佛印にゐた時のやうな、旅空での青春の濫費がぎざし始めてきてゐたのだ。一應の倫理感は自分の額にぶらさがつてはゐたけれども、富岡は、胸の奥深くには、おせいの亭主も、ゆき子も馬鹿にしきつてゐた。おせいの誘惑によつて、何とか生きかへりたいと思ひ、一種の焦げつくやうな興奮をさへ感じてゐる。――眼の前にゐる亭主とゆき子を眼の前から消してしまひたかつた。二人さへゐなければ、富岡はおせいと自由に第二の人生を歩み出せるやうな氣がした。何も彼も肉親のきづなを捨てきれる自信はあつた。眼の前の二人を殺した罪によつて、おせいと二人で獄につながれる空想もしてゐる。――亭主もゆき子もかなり醉つぱらつてゐた。亭主は醉ひつぶれて、炬燵に眠つた。ゆき子は醉つた眼を吊りあげてゐる。おせいは持つて來た燒酎を水に割つて、ゆき子のコップについだ。咽喉の乾いたゆき子は、そのコツプの水をがぶがぶと美味さうに飮み干して、わけのわからぬ事を喋つてゐる。

 おせいは亭主の躯を引きずるやうにして、隣室の自分達の寢間へ運んで行つた。富岡は手を貸してやるでもなく、ゆき子のコップにごぼごぼと燒酎をついだ。ゆき子は何が面白いのか、時々ぷつと吹き出しては、コップの水を四圍に吹きつけるやうにして、燒酎の混じつたコップの水を飮んだ。顔は火のやうだつた。

「椰子の水はおいしいもんだわね。一寸ねえ、冷くてとても生ぐさい匂ひがしたわねえ‥‥。椰子の實の水が飮みたいのよ」

「そら、椰子の實の水だぞ‥‥」

 富岡はまた燒酎をコップについだ。ゆき子は全身がしびれて、こんとんとして來た。富岡は煙草に火をつけて、風の音に耳をかたむけてゐる。だるま火鉢の蓋に手をかざしてゐたおせいは、膝のさきに、富岡の足が這ひよつて來たのを片手でつかんだ。ぱつと瞠る眼から、青いヱーテルが光りこぼれるやうだつた。富岡は火鉢のそばへ寄つて行つて、おせいの首を自分の顔の方へ引きよせた。

「駄目よッ」

「醉つてゝ判りやアしない‥‥」

「厭だわ、まだ何か、おくさん喋つてるわ」

 富岡はゆき子に復讐するやうな眼で、醉つぱらひの化粧のはげた、醜いゆき子を嫌惡の表情でみつめた。この女との幕は終つたやうな氣がした。富岡は、寢轉んでまだ喋つてゐるゆき子にはおかまひなく、おせいの肩を抱き寄せて激しく唇を封じた。ゆき子が笑ひながら唄をうたつてゐる。初めて逢つた時の眼の色が本當だと云ふ唄をうたつてゐる。馬鹿な奴だと、富岡はおせいの膝にくつゝいた火鉢を引きはなした。

 ゆき子は時々眼を覺したが、四圍は暗かつた。男の太い鼾が耳の近くで聞えた。その鼾に混じつて、窓のカーテンを透かした路上の灯影で、誰かゞひそひそとさゝやきあひ、寄り添つてゐる人の氣配がした。ゆき子は咽喉が燒けつくやうだつた。椰子の實の水がこんこんと流れるところへ、這ひ寄つて行きたかつた。部屋はハンモックのやうに搖れた。肩や腰に力が少しもはいらない。水が飮みたくてたまらなかつたが、からからに乾いた咽喉はぴつたりとくつゝいて音聲を出す事が出來ない。力いつぱいで寢返りを打つて、やつと腹這ふ事が出來たが、ふつと誰かゞゆき子の枕許をまたいで襖ぎはに行く氣配がした。何氣なく、もうろうとした眼を開けると、脊の高い女の姿が、襖を開けて、隣室に消えて行くところだつた。ゆき子はその人影に向つて、

「水頂戴」

 と叫ぶやうに云つた。襖は閉つて何の反響もない。ゆき子は怒つて、また、「水が飮みたい」と叫んだ。誰も起きる氣配がないので、ゆき子は手さぐりで炬燵のまはりを這ひまはつた。




三十一

 三日ばかり、富岡達は厄介になつたが、ゆき子は東京へかへるのを急ぎ始めた。女の敏感さで、ゆき子は、おせいに何となく反感を持ち始めてゐた。いよいよ明日は伊香保を發つと云ふ日の夜、別れの宴を張つて、その夜はまた亭主は、おせいにそゝのかされて酒をはづんだが、ゆき子は、あまり酒を飮まなかつた。最初の夜の深酒がたゝつて、何時までも頭が痛く、胃も重かつた。おせいが、さかんに酒をついでよこしたが、ゆき子は、ひそかに灰皿を引き寄せて、灰皿へ酒をあけた。そのくせ醉つた眞似をした。富岡は眼を閉ぢて時々安南の唄をくちづさんでゐる。ゆき子はうかゞふやうに、時々おせいの表情を眺めた。最初の夜のもうろうとした女のお化けが、おせいのやうにも思へて來た。何故、襖ぎはに立つてゐたかゞ謎でもあつた。亭主はもういゝ氣持ちになり、鼻水をすゝりながら、東京へ出て一旗あげたい話をしてゐる。

「本所の燒跡に、一杯屋でも建てたいンだが、坪二滿兩としても、十坪ぢや相當なもンだしね。それに仕入れとなれば、三十萬は用意しなくちやならねえし、仲々、これで今日、容易な事では、東京住ひもむつかしいつて聞くンだが‥‥。と云つて、何時までも、こんな事をしてもゐられねえし、居拔きのまゝ賣りに出してるンだが、何しろ、夏場のところで、それまで命をつないでゆく根氣はねえし、いつそ、築地の兄弟分のところへ、二人で轉げこんで行かうなンて話してもゐるンですがね」

 富岡は時々眼をあけて相槌を打つやうに返事をしてゐたが、人の話なぞどうでもよかつた。萎縮した無氣力さで、盃を唇へ運んだ。亭主は、無口な謙遜家の富岡がすつかり氣に入り、何事も相談したい樣子で、現在のこの商賣にはほとほとおせいと一緒に、飽きが來てゐるのだと云つた。風はなかつたが、底冷えのする寒い夜だつた。珍しく按摩の笛が窓の下を通つた。

 富岡は如何にも思ひついたやうに、

「さて、湯に這入つて來るかな‥‥」と云つた。

 すると、おせいがすぐ立つて、シャボン箱と手拭を取つてやり、「私も一風呂あつたまつて來よう」と云つた。

「あら、ぢやア、私も一緒に行きませう」

 ゆき子が何氣なく、富岡の後から立ちあがると、おせいは急に不服さうな顔をして、

「さうですか、それぢやア、お二人で行つてらつしやい」と云つた。

 ゆき子は、ぴいんと額に小石を投げられたやうな厭な氣持ちで、おせいの荒々しさを眺め、階段を降りて行く、富岡の後へついて行つた。

 下駄をつゝかけて、裏口へ出て行くと、肌を射すやうな冷い空氣だつた。

「おせいさんつて、妙な女ね。貴方が好きなのぢやないの? 何だか變だわね‥‥」

 ゆき子が嘲ひながら、かまをかけるつもりで、富岡の後姿へ話しかけたが、富岡は狹い石段を降りて行きまがら、「へえ、さうかい」とへうきんな返事をした。

「あのお猿さん、相當の浮氣者だわ‥‥」

「さうかね‥‥」

「あら、さうかねつて、貴方は、何時でも女にはよそよそしくしてゐて、女をちやんと掴んでしまふンだから‥‥」

「別に、あのお猿さんを掴んぢやゐないぜ。馬鹿な事は云はないでくれよ」

「でも、興味はないわけぢやないでせう?」

「ないね‥‥」

「さうかしら。私が、湯に行くつて言つたら、急にぷりぷりしだしたの變ね。貴方に惚れてるのよ。――馬鹿にサービスがいゝわね。貴方にだけ‥‥」

「ほう。そりやァ、いま初めて氣がついた。もう四五日厄介になるか」

「さうね。それもいゝわね」

 二人はくすくす笑ひながら、米屋の大湯へ這入りに行つた。七八人の浴客が高聲で闇米の相場を話しあつてゐた。團體客でゞもあるらしく、二人ばかりの藝者らしいのも混じつて、客の背中を流してやつてゐる。流して貰つてゐる男が時々仲間に冷やかされてゐる樣子で、湯殿は仲々賑やかであつた。

 富岡は何氣なく、ゆき子の裸を見たが、おせいのやうに立派な肉體でないのが哀れに思へた。若い藝者ばかりのせゐか、ゆき子の肉體は何となく凋落のきざしをみせてゐる。そのくせ、脚はすくすくとして、胴との均整がとれてゐた。ゆき子は勝手に躯を洗ひ、藝者のやうに、男の背中を流すと云ふ心づかひはしなかつた。――ゆき子は早々と湯から上つた。洋服をぬいだ籠のところへ行くと、竝べて置いた富岡の籠のものが、何時の間にか、青い木綿の風呂敷包みになつてゐた。違ふ籠ではないのかと、四圍を眺めたが、富岡の衣類の籠は見當らなかつた。そつと、風呂敷の隅から衣類をのぞいてみると、妙な事には、その包みは富岡のものがそつくり包まれてゐる。軈て富岡が上つて來た樣子だつたので、ゆき子は服を手早く着て、鏡の前へ行き、髮をときつけにかゝつた。鏡のなかに寫る富岡は、風呂敷包みに一寸ばかりとまどひした樣子だつたが、すぐ、素知らぬ顔で、風呂敷をといてゐる。何となく、籠の中をたんねんに探してゐるやうだつたが、暫くして、ちらと、ゆき子の方を振り返るやうにして、富岡は新しいパンツをはいた。ゆき子には、その眞白いパンツが不思議だつた。富岡は忙はし氣に服を着て、風呂敷を小さくまるめてポケットにしまつた。ゆき子は何も彼もが不思議でならない。

「ねえ、風呂敷包みになつてるなンて變ね」

 ゆき子が冷やかすやうに、鏡から離れていつた。

「誰かゞ包んでくれたンだらう‥‥」

「新しいパンツも持つて來てくれたのね。古いのはどうして?」

 富岡は返事もしないで、さつさと、湯殿へ手拭を絞りに行つた。ゆき子はかちんと心へ觸れるものがあつたが、富岡が戻つて來ても、何も云はないで寒い廊下へ、先になつて出て行つた。

 ――逃げてゆかうとしてゐる男の心を、かうした事で、時々見はぐれたのだと、ゆき子は、自分自身にも判然りと云ひ聞かせるつもりで、富岡との思ひ出ばかりに引きずられてゐてはならないと思つた。我慢の出來ない淋しさだつたが、ゆき子は當分獨りで生きてみるつもりだつた。弛んだ氣持ちのまゝ、引きずられてはゐられないと、自分の心に云ひきかせてみる。

 二人は默つたまゝ、石段を登つた。星屑がまるで船の燈火のやうにまたゝいてゐる。ゆき子は氣を紛らせるつもりで、かすれた口笛を吹いた。瞼に突きあげて來る熱いものを、時々外套の袖でこすりながら、海防から戻つて來た時の、心の渇きが、急にいまごろ涙になつて、とめどなく頬に溢れた。日本へ戻つて來て、いつたい何が自分達をこんな風に、無氣力な淋しがりにしてしまつたのだらう‥‥。一つ一つ石段を登りながら、ゆき子はうゝと突きあげて來る涙にむせてゐた。

「どうしたンだ?」

「どうもしないわ‥‥」

「うたぐつてるのか?」

「何を?」

 ゆき子は激しい怒りが襲つて來たが、その怒りはすぐ口に噴きこぼれないうちに、胸のなかで淡く消えて行つた。昂奮は少しづゝ沈んで來た。石段を登りつめると、家の横から表通りへ出る路地があつた。

「少し歩いてみようか?」

「風邪をひくといけないからよしませう」

 富岡は立停つて、纒りのない小さい聲で、「君は神經衰弱なンだよ」と云つた。さうしてまた早口に、

「いや、僕の神經が弱つてゐるんだ。落ちつかないのは僕の方なンだ。すぐ溺れたがる。孤獨ではゐられなくなつてゐるンだね‥‥。どうにもやりきれないから、このまゝ沈下してゆくンだよ。――手當り次第に勝手な方向へ歩きたくなつてゐる‥‥。いまも、勝手な事を考へてゐたンだ」

 と、云つて、富岡は棒のやうに凍つた手拭を、まるでステッキのやうに肩にかついだ。

「冷えちやふわ。兎に角、家の中へ這入つて、さつさと寢かせて貰ひませう‥‥。明日朝早く、私、こゝを發ちたいンですから‥‥」

「君だけ歸るやうな事を云つてるぢやないか‥‥。僕も歸るよ。一緒に來たンだもの、一緒に歸らなくちやいけない」

「えゝ、そりやアさうですけれど‥‥。貴方つて、大變な方なンだから‥‥。もう、こんな事はどうでもいゝわ。よしませう。私、足がぶるぶる震へて來たわ‥‥」

 二人は、裏口から二階へ上つて行つたが、隣りの部屋では亭主が鼾をたてゝ眠つてゐた。おせいはゐなかつた。富岡は茶餉臺の徳利を取つて耳にあてゝ振つてゐたが、酒が殘つてゐたとみえて、冷えた酒をコップにあけて、咽喉を鳴らして飮んだ。おせいが亭主の寢床にゐないと云ふ事は、温泉から戻つて來た富岡やゆき子に、多少の効果はあつた。二人は二人なりに、それぞれの思ひで、おせいのゐない事を氣にしてゐる。ゆき子は冷えこんだ足を炬燵に入れて、明日、東京で富岡と別れてからの生活を考へてゐた。池袋の生活は、この一週間あまりの不在で、一切が片づいてゐるやうな氣もした。




三十二

 二人は、五日の夕方東京へ戻つた。

 東京を去る時よりも、もつとひどい憂鬱さで、ゆき子は自分の避難所へ富岡を連れて戻つて來た。母屋の荒物屋へ歸つた挨拶に行くと、お神さんは厭な顔をしてゐた。ゆき子は、さうした顔に行きあたると、思ひがけない旅路の長さを思ひ、他人の家へ這入るやうな氣兼な氣持ちで小舍の鍵を開けた。引いて貰つたばかりの電氣をつけ、ソケットをコードについで、電氣コンロのスイッチをひねつた。部屋のなかは何となくかき亂されてゐた。炬燵の上には手紙が置いてあつたが、それは伊庭の置手紙であつた。二日ほど、こゝでゆき子を待つ爲に泊つた事や、一度郷里に戻つて來いと云ふ事が記されてゐた。鷺の宮には、七草の日に、伊庭一家が集る事になつてゐるから、その日はぜひ泊りがけで來てくれるやうにともある。ゆき子は、すぐ、それをぴりぴりと破つて七輪に投げ込んだ。火を熾して、炬燵に入れると、ゆき子はコオヒイを電氣コンロにかけた。

 炬燵に膝を入れて、煙草を吸ひつけてゐた富岡が、片手で髮の毛をかきむしりながら、

「おい、こゝには酒はないのか?」と聞いた。

 ゆき子は默つて、部屋の隅の壜を二三本透かして見てゐたが、「ないわ」と云つた。富岡は毎晩酒がなくてはゐられないやうになつてゐる。酒の力で心を引つ掻きまはしてゐなければ、ぐんぐん沈下してゆく自分の孤獨さに耐へてゆけないのだ。連れて逃げてくれと云つたおせいを富岡はそのまゝ置き去りにして來た事が、いまでは遠い昔に思へた。戀しくもあつたが、どうでもいゝ事でもあつた。所を教へてくれと云はれて、富岡は出鱈目な住所を渡しておいた。おせいの心づくしの新しいパンツをはいて東京へ戻つて來たが、それはまるで他人事のやうでもあつた。

「飮みたい?」

「飮みたいねえ‥‥」

「さう、今夜は貴方を飮みつぶさせてやるわね‥‥」

 ゆき子はコオヒイを淹れながら、冗談を云つた。その癖、酒を買ひに行く氣はなかつたのだ。

「まだ、氣にしてゐるのか?」

「あら、私が、何を氣にしてるの?」

「いや、何でもない。お互ひに命びろひをした祝賀會でもするか‥‥」

「おせいさんに救はれたやうなものね」

「猿ツ子にかい?」

「いゝ躯してるぢやないの? バスの處で、おせいの眼に、涙が光つてたわ」

「ふうーん」

 ゆき子はコオヒイ茶碗を富岡のそばへ差しのべて、自分も熱いのをすゝりながら、初めて富岡の顔を見た。灰皿に煙草をにじりつけて、富岡もコオヒイを唇へ持つて行つた。何故ともなく、ゆき子は、今夜は一人きりで昏々と眠りたかつた。酒は伊香保以來一滴も飮みたくはなかつた。――コオヒイを飮み終ると、富岡は酒を買つて來ると云つて、戸外へ出て行つた。ゆき子は富岡の意のまゝにしておいた。富岡の酒の習慣が、宿命のやうにも思へる。東京も案外寒かつた。

 

 ゆき子は米を洗ふ爲に母屋の裏口へ水を汲みに行つた。ジョウは來てくれたのだらうかとも考へたが、それもどうでもよくなつてゐた。バケツに水を汲み、小舍へ戻ると、富岡は酒を一升買つて來てゐた。自分でやかんに酒をあけて、コンロにかけてゐる。

「酒に淫する方ね」

「うん、いまのところ、これが最大の戀人だな‥‥」

「富岡さんつて怖いひとだわ。自分の事ばかり可愛いのでせう?」

 燗をした酒を、コオヒイ茶碗についで、ぐうと一口美味さうに飮んで、富岡はじろりとゆき子を見た。

「可愛いから未練があるンだ。死ぬのは痛いからね‥‥。死んでしまふまでの一瞬の痛みの怖さなンだ。これは怪我のやうな痛みぢやないからね。命を落す痛みなンだ。仲々死ねない。自分が可愛いンぢやなく、命に未練があるからなンだ‥‥。君、一杯やらない?」

「ほしくないの、胃が痛くなるのよ」

「さう云はないで、一杯やつたらどうだい。いゝ氣持ちだよ」

「私は御飯を焚いて食べるからいゝわ。お酒は一滴も入らないの‥‥」

 ゆき子は鍋の米を洗つてコンロにかけた。富岡は二杯目の酒をコオヒイ茶碗につぎ、小さいさいころを二つポケットから出して、炬燵の上で振つた。おせいがそつと別れる時にくれたものだつた。二と五が出た。しまつたと思つた。富岡の最も嫌な數字だつた。あわてゝさいころを振りなほした。四と五が出た。富岡は憤懣に似た氣持ちで、さいころをまた振りなほした。三杯目の酒を口にふくんで、幾分か重苦しい憂愁の車が滑り出した氣がした。「惡靈」のなかのキリーロフの言葉に、

『けれど、痛みなしに死ぬ方法がないと思ひますか』と云つてゐるのを思ひ出してゐた。自殺を怖れる第一の理由が痛み、第二の理由は來世。『完全な自由といふものは生きても生きなくても同じになつた時、初めて得られるのです。これが一切の目的です』と云つてゐる。富岡は溜息をついて、またさいころを大きく振つた。不思議に二と五が出た。また元の同じ數字へ戻つたのだ。

「飯は煮えたかい?」

「もうすぐよ」

「伊香保は面白かつたね?」

「さうね。猿ツ子がゐたからでせう?」

「うん‥‥」

「戀しい?」

「うん‥‥」

「また、行けばいゝわ‥‥」

「うるさいなア、行くよツ」

「どうして怒るの?そんなに好きなのね‥‥」

「あゝ好きだよ。何も云はないで、躯で表現してる女だつた。逢ひたいよ‥‥」

「逢ひに行けばいゝンだわ」

「もう遲い。捨てゝ來た‥‥」

 ゆき子が何か云はうとした時、池袋驛を通過する貨物列車の地響が、小舍を地震のやうにゆすぶつた。

 富岡は、おせいの眼の光が瞼に浮んだ。きらきらよく光る、獸のやうに美しい眼だつた。大柄な、どつしりした白い裸體が空間で屈折する。熱い汗ばんだ肌がひどく戀しい。默つて、お互ひの指を握りあつた闇のなかの息づかひが、急に耳についてはなれない。程よい醉ひのめぐりで、富岡はおせいに對して、馬鹿に慾情をそゝられた。パアマネントした固い髮の毛の感觸が、丁度馬の皮なみのやうだつた。富岡は、小さい豆粒ほどのさいころをやけになつて炬燵の上で振つてゐるのだ。貨物列車は遠く去つて行つた。地響きも消えた。四杯目の酒を富岡は口に持つて行つてゐる。ゆき子は鍋を降ろした。渦を卷いたコンロの火が寒々とした部屋に、賑やかだつた。ゆき子は、いまごろになつておせいが憎くてたまらなかつた。默つて躯で表現すると云つた富岡の言葉が、針のやうにさゝつた。あの時の酒の醉ひで見た、もうろうとした女のお化けは、あれは、やつぱりおせいだつたのではないかと思へた。

「貴方は怖いひとだわ‥‥」

 富岡は返事もしないで、さいころを振つてゐる。退屈だつた。と云つて、邦子のところへ歸る氣はしない。空家同然のがらんとした家に坐りこんでゐる妻の邦子の姿が、現在の富岡にはうつたうしくもあるのだ。そのくせ、ゆき子に對して、深い愛情があるわけのものでもない。むしろ、友情に近いものに純化しようとしてゐるお互ひのずるさが此の頃になつて判り始めて來た。ゆき子を戀人にした時代はとつくの昔に過ぎ去つてゐる。




三十三

 富岡は、もう一升の酒をかなり飮んでゐた。

「ダラットぢやシェリイをよく飮んだね」

 ゆき子は飯を終つて、またコオヒイを淹れて飮んだ。酒を飮んで、一人で勝手な事を云つてゐる富岡を觀察しながら、ゆき子は、一升壜の空になりかけたのを呆れて眺めた。富岡にとつては、酒は麻藥のやうになつてゐるのかも知れない。どんないゝ仕事に就いたところで、かうして、毎日酒を飮むとなれば、少々の收入では追ひつく筈もない。ゆき子は、富岡を哀れがるよりも、腹立たしいものがこみあげて來た。酒に溺れてゐるので、本氣でもの事を考へたり、相談する力が拔けてしまつてゐる。顔がぴかぴか膏で光り、佛印の時のやうな若さはもう消えかけてゐた。顔が、ひどく疲れて痩せてゐる。

「何をじろじろ人の顔を見てゐるンだ? 追ひかへすつもりかい‥‥。こゝは君の御邸宅だからね、折角のお客樣がお出でになつても、御商賣の邪魔になりますかね‥‥」

「何を云つてるのよ‥‥」

「いや、本當の話が、別れ時と勘定時が大切なンだ‥‥。人生にとつては、それさへ心得ておれば、大した災難もない‥‥。だが、さうは云ふものゝさ、人生、これ別れ辛き事のみ。敗戰のていたらくも勘定時のまづさで、これやこの逆さ‥‥。一人々々が、ゴオイング・マイ・ウェイになつたと云ふものだ」

「お喋りねえ、もう、お酒はそれだけにしておやすみなさいよ。別れ時と勘定時が大切だなンて、自分で云つてるくせに、だらだらして、何なの‥‥」

「さう怒らなくてもいゝよ。明日は右と左だ。ゴオイング・マイ・ウェイといきませう。伊香保の事は何でもないンだから、根に持たないで下さい。モンセリ・ゆき‥‥」

 おどけて、くどくどと喋つてゐる富岡の紫色の唇が、ゆき子には印象的だつた。富岡は煙草を出して、べとべとに煙草を喞へこんでは喋つてゐる。眼が濁り、髮が額にたれさがつてゐる。

「あなたつていふひとは、仕樣のない人間ね。でも、他人にはよく見えるンだからいゝわ。みえぼうで、うつり氣で、その癖、氣が小さくて、酒の力で大膽になつて‥‥氣取り屋で」

「ふうん、氣取り屋か‥‥。それから、まだあるだらう、惡い所が‥‥」

「えゝ、人間のずるさを一ぱい持つてゝ隱してるひとなのよ。いつそ、さつぱりとあきらめて、落ちこめる人でもないし、立派な策士的なところがある癖に、事業の方には、からきし頭の働かないところは、お役人的なンでせう? それで、この荒い世の中をさくさく乘り越えてゆけたら、富岡さんつて大した男だけど‥‥」

「いや、これからまだ未來があるンだ。さう馬鹿にしたものでもない。びくびくしてるやうに見せかけてはゐるが、これで、巨萬の富を得たいと云ふ慾望は、人なみ以上に持つてゐるンだがね‥‥」

「ぢやア、何故、死ぬ氣になンかなつたの?」

「君は、死ぬ氣になつた事はないのかい? 生きたいから、死ぬ事も考へるンだよ。伊香保へ行つた時の氣持ちは、その氣だつたから行つたのさ‥‥。東京へ戻つたのは、生きて、何とかなるかも知れないと思つたから戻つて來たンだ。――死ぬのは淋しいと考へたから、かうして酒を飮むンだよ。己れに勇氣のない事を見破つたから、あきらめたまでなンだ。誰だつて、一生のうちに、死を考へないものはなからうぢやないかね‥‥。只僕達は、死ぬにしても、邪魔つけな意識がぶらさがつてゝ仲々單純にはやつゝけられない。天界からみたら粟粒ほどの人間なンだが、やつぱりひとかどの理窟がついて、うぬぼれも、みえもあるしね‥‥。人間には仙人になる方法もないンだ。矛盾だらけのゴミを吸ひこんで、何とか生きの愉しみを自分でつくつてゐるまでの事だよ。その矛盾のゴミのなかには、事業もあらう、女もあらうし、政治も法律もスポーツもあるンだ。――矛盾のゴミの吸ひかげんで、運のいゝ奴と、運の惡い奴が出來て來る。――海防だつて、あの船出についちやア、隨分厭な根性の奴がゐたぢやないか。早く歸りたいから、仲間を押しのけても、船に乘りたがる。自分以外はみんな戰犯だつたやうな事を云ひ出す奴もゐるしね‥‥。人間はそんなもンだよ。正義を口にする奴ほど油斷がならんと思はないかね? 女の君をだます位は何でもありやアしない‥‥。だが、加野つて男は、あれはいゝ男だつた。正直で、何時も運の惡い奴で、そして、何時でも、自分を運の惡いものとは思つちやゐない‥‥」

「加野さんには、貴方も私もあやまらなくちやいけないわ。――じらして、からかつて、罪を犯さしたのは、私達なンだから‥‥。つかまつてサイゴンへ行く時、少しも私達を恨んぢやゐなかつたわ‥‥。でも、私は加野さんに切られちやつたけど、得をしたのは貴方よ。ずるいンだから‥‥」

「運がよかつたね。それでいゝンだよ」

「あのひと、戰爭には勝つ勝つと云つてたけど、日本へ歸つて來て吃驚したでせうね‥‥。あの時、私だつて、加野さんつて馬鹿なひとだと思つてたわ」

 酒はかなりまはつた。富岡は炬燵に寢そべつて肘枕をしてゐたが、瞼のなかに、暗い森林のやうなものが浮んだ。加野は、アフリカの森林調査と、瓦斯用木炭に關する試驗を完成して、佛印に木炭自動車の普及に貢獻した、サイゴンの農林研究所のアロアルド氏について、瓦斯用木炭の製炭法と、薪炭林の中林作業に一生をかけると云つてゐたものだが、一つの事に熱中すると、何のうたがひもなく、その仕事にまつしぐらに熱中してゆける加野の純情を、富岡はいまになつて得がたいものに考へてゐた。風のたよりでは、戻つて來た加野は、何を考へてか、一切のいまゝでの生活にそむいて、横濱で自由勞働者になつてゐるとも聞いた。だが、その話は、實際に、加野に逢つてみなければ判らない。加野のやうな男だつたら、自分の思ひ通りな事を率直にやりかねない所もある。富岡は一度、加野を尋ねてみようと思つた。

 平和條約でも濟んで、自由に何處へでも行けるやうな時が來たら、もう一度、一使用人となる覺悟で、富岡はサイゴンへ船出して行きたい氣持ちだつた。

「眠い?」

「いや、眠くはないよ。ますます眼が冴えてくるばかりだ。色々と生きる道を考へてるが、仲々だね。これから‥‥。女は如何なる場合も女だが、男は仲々むづかしい」

「女だつて大變だわ‥‥。貴方は頼りにならないし、私、一度、田舍へ戻つてみようと思つてるの、どうかしら?」

「そりやアいゝさ、田舍へ歸つて、健康なお嫁さんになるンだね。平和な生活にはいれたら、それが一番いゝンだ」

「あら、厭なひとね、お嫁さんになンてならないわ。田舍へ歸るつて云ふのは、そんな氣持ちで云つてるンぢやないのよ。私には、私の生き方があるから、さよならをしに行くンぢやないの‥‥」

「ふうーん、君の生きかたがね。そりやアさうだ。誰にだつて、生き方はあるさ‥‥。まア、それにしても、無理をしないがいゝね。一生獨身でゆくわけにもゆかないだらう」

 ゆき子は、炬燵に炭をついでゐた。ぶうぶうと火を吹きながら、

「まるで、他人みたいな事を云ふわね」と怒つたやうに云つた。

 時々省線の電車の地響きがする。昨日まで伊香保にゐた事が嘘のやうな氣がした。眼の前に、まだ富岡が寢轉んでゐてくれるからいゝやうなものゝ、實際に別れてしまへば、この小舍での生活は、一人では淋しいかも知れないのだ。さつきまでは、昏々と一人で眠りたいと考へてゐたのだけれど、いまはまた、氣持ちが變つた。お互ひの素性を知りあつたもの同志が、一つところに寄りあつてゐる事は慰めだつた。

「煙草ないかい?」

 富岡が手を出した。ゆき子はハンドバッグから光の箱を出して、その手に渡した。そして炬燵の上に轉つてゐる、二つのさいころを手にとつて、ゆき子は暫く、そのさいころを振つて自分勝手な事を考へてゐた。何をして働くべきかゞ重くかぶさつて來る、事務的な才能もいまはなくなつてゐる。まして女中にはなれない。細君になるのも嫌だつた。何かをしなければ飢ゑてしまふ。どの仕事を選ぶべきかとゆき子はさいころを振りながら、寒い風に吹かれて、街の女になつてゐる自分の姿をひそかに空想してゐた。




三十四

 七草の日には、ゆき子は、伊庭の家には行かなかつた。富岡が歸つて以來、ゆき子は四五日は家のなかで暮した。何處へも出て行く氣がしなかつたし、何をしようと云ふ氣持ちもなかつた。心に突き刺した傷はなかなか、恢復する模樣もない。ゆき子は、伊香保のおせいのところと、横濱の蓑澤にゐると云ふ、加野のところへハガキを書いた。

 おせいのところへは、わざと主人からよろしくと書いておいた。どのやうな反應で、おせいから返事があるかゞ、ゆき子には面白いいたづらでもあつた。加野には、近いうち是非尋ねたいが、何時が都合がよいかと云ふ問ひあはせの文面を出した。案外な事には、ハガキを出して間もなく、おせいの亭主が、雪もよひの日に、ゆき子を尋ねて來た。おせいは、ゆき子達が東京へ戻つて行つた翌朝、身一つで家を出てしまひ、いまだに戻つて來ないと云つた。

 ゆき子は、富岡の事が頭のなかに浮んだ。一夜泊つて歸つて行つた富岡は、何處かでおせいと逢ふ約束が出來てゐたのかも判らないと思つた。二人のはつきりしたところを見たわけではなかつたけれども、見送りに來たおせいの涙は、あれは、たゞごとではない女の涙だと、ゆき子は心ひそかに睨んでゐたのだ。いま、かうして、おせいの亭主に尋ねて來られると、富岡が、おせいには所をいゝかげんに教へておいたと云つた事も、嘘にとれたし、何かゞ二人の間に約束されてゐるのではないかと考へられたのだ。逢つてゐる時には、富岡と別れる事ばかり思ひ續けてゐながら、富岡が細君のところへ戻つて行つたとなると、何故ともなく、富岡の思ひ通りに、伊香保で自殺してしまはなかつたのだらうかと、後悔もされた。いまになつてみると、死ぬ事は安安とした氣持ちでもあつたのだ。自分のひそかな絶望の形態が、竹矢來のやうに、自分の周圍に張りめぐらされた氣がした。ゆき子は、富岡の住所を、おせいの亭主にわざと教へてやつた。いまごろは何處かで、あの男は、おせいに逢つてゐるに違ひないのだ‥‥。

 その翌る朝早くまた、おせいの亭主が尋ねて來た。

「富岡さんはゐましたよ。やつぱり、おせいの事は、何も御ぞんじない樣子で、驚ろいてゐましたがね‥‥。私も、あいつの行きさうな心あたりがないンで、警察にでも頼んでみようかと思ひます。富岡さんで泊めて下すつたンですが、蒲團がないンで、夜ぢゆう炬燵のごろ寢で、奥さんにも、えらい御厄介をかけてしまひました」

 おせいの亭主はさう云つて、ゆき子の立場が初めて判つたらしく、少々馴々しいぞんざいさで、亭主は暗い小舍のなかへ上り込んで來た。

 すると、あの時のおせいの涙は、やつぱり、自分の思ひ過しだつたのかともゆき子は考へたが、その時の氣持ちで、非常に冷酷になれる富岡の事だから、あれは本當に、富岡の云つたとほり、おせいにも亭主にも自分の住所をあかさなかつたのかも知れないとも思へた。もしも、おせいに行きあつてゐないとすれば、富岡の冷酷さがますます底氣味の惡いものに考へられて來る。富岡とおせいの間が普通ではない事を、ゆき子は女の敏感さで見拔いてもゐたし、第一、共同温泉で、新しいパンツを持つて來てやつてゐるおせいの女心が、ゆき子に判らない筈はないのであつた。おせいの女心を、そのまゝはぐらかして、逢つてゐないとなると、あれは旅の行きずりの、富岡の我まゝな一種の甘つたれだけであつたのだらうか‥‥。おせいとのかゝはりの續きを、そのまま旅先だけの事にして、打切つてしまふ冷酷さだつたのかも知れないと思つた。一時間ばかりもゐて、おせいの亭主は悄然と戻つて行つた。

 ゆき子は富岡の本心を見たやうな氣がした。かへつて、もてあそばれたやうなかたちになつて、家出をした若いおせいに對して、ゆき子は何となく同情もしてみる。その日、ゆき子は加野から、病氣で寢てゐるので、むさくるしくはしてゐるが、何と云つても、なつかしいので、あのハガキの御心意が本當ならば、尋ねてお出で下さい、と云ふ返事を貰つた。そして、その文面の末尾には、富岡君にも逢ひたいので、よかつたら、お二人でお出掛け下さいと、小さく追ひ書きがしてあつた。ゆき子はかなり苦勞人らしくなつた加野の人なつゝこさが、たまらなくなつかしかつた。富岡や自分に對して、現在では何のわだかまりも、持つてゐさうもない文面でもあると、吻つとした。





 ゆき子は思ひ切つて、横濱の蓑澤に加野を尋ねて行つた。ベアリング工場とか、印刷屋だのがごみごみした通りの、掘り返した道路に面した番地を、たんねんに探して、ゆき子はやつと、狹い路地の中に、加野の下宿先を探しあてた。バラックの小さい小舍同然の竝んでゐる、長屋のはづれに、アンゴラ兎を家のなかで飼つてゐる二階家に、加野は間借りをしてゐた。丁度、伊香保のおせいの家のやうなぐらぐらした家で、二階に加野は寢てゐると階下の子供が云ふので、ゆき子はかまはず二階へ上つて行つた。天井の低い、一部屋だけの、梯子段の上り口から、七輪や炭の俵の置いてあるところを通つて、破れた襖ぎはへ立つと、あの聞きおぼえのある、加野の疳高い聲で、

「むさくるしくしてますが、お這入り下さい」と云つた。

 襖を開けると、加野は汚れた手拭で鉢卷きをして毛布を被つて寢てゐた。裸電氣が、まるで氷の袋のやうに、加野の頭の上でゆらゆらゆれてゐる。むくんで蒼黒い顔をしてゐた。昔のおもかげもないやうな風貌の變化である。

「まア! どうなすつて? お風邪ですか?」

 足の踏み場もなく取り散らかつた、加野の枕もとに行き、ゆき子は加野をのぞき込むやうに云つた。加野はぽつと顔を赧くして、如何にもなつかしさうに笑つた。白い齒をしてゐた。

「駄目になつちやつたンですよ。こゝをやられて、昨夜も少し喀血したンです‥‥」

 と、他人事のやうに云つて、壁ぎはの綿のはみ出た座蒲團を眼で差して、それに坐つてくれと加野は云つた。ぷうんと四圍に石灰酸の匂ひがした。

「躯がすつかり參つちまつてね。少しばかり、荷揚げの人夫をやつてゐたンですが、雨にあつて冷えたのがもとで、もう四十日ばかり寢込んでゐます。生きながらの死骸ですね。――富岡君と一緒ぢやなかつたの?」

「いゝえ一人で來たのよ。富岡さんとは久しく逢はないンですの‥‥」

「ふうん、結婚してゐないの?」

「誰と?」

「富岡君と幸福に暮してるのかと思つたンですがね‥‥」

「あら、私は一人だわ。富岡さんは富岡さんですわ。――加野さんの御病氣は、いつたい誰が看ていらつしやるの?」

「おふくろと弟がゐるンですが、弟はついこの先の文壽堂つて印刷工場に植字工で働きに出てゐます。戰爭中は特攻隊の一人だつたンですがね、いまは、植字工になつておふくろと二人暮しで、僕を待つてゐてくれたンです。何しろ燒け出されで、家もないもンで、こんな處にゐますがね。これでも、現在の僕達には、金殿玉樓ですよ」

 紙を張つた硝子窓から、にぶい午後の陽射しが縞になつて、汚れた軍隊毛布に射し込んでゐた。ゆき子は人の身の上の激しいうつり變りを見るやうな氣がした。ひげののびた蒼ざめた加野の顔は、痩せてとがつてゐた。まんまるい子供の顔のやうだつた加野は、まるで十年も年を取つたやうな老けかたであつた。寢てゐる加野の現在の風貌からは、南方の生活の樣子は仲々思ひ出せないのである。まるで違つた人の顔をして、そこに横たはつてゐるのだ。二人には何の過去もなかつたやうな、赤の他人同志の間柄にしか考へられない。

「お變りになつたわね‥‥」

「吃驚したでせう?」

「えゝ」

「まア、今日は、昔話でもして行つて下さい。ゆき子さんのハガキが來た時、とても嬉しくてね‥‥。貴女は、僕になンか、たよりをくれる人ぢやないと思ひましたからね‥‥」

「まア、そんな事はありませんわ。富岡さんから、加野さんのアドレスを知らして來たものですから、とても逢ひたくて‥‥」

「ほゝう、そりやアどうも‥‥」

 ふつと、お互ひに氣まづいものが心を走つた。一寸の間、二人は默りあつてゐた。




三十五

「おふくろも働きに出てゐるンで、お茶もあげられませんが‥‥。かへつて、病氣がうつらないからいゝかも知れませんよ」

 皮肉な云ひかたで、加野はふつと冷く笑つた。

 ゆき子は、その言葉に、千萬の刺を感じたが、さからはないやうにして默つてゐた。加野は時時激しく咳をしながら、癖のやうに、頭を振つた。

「冷やさなくてもいゝのですか?」

「胸を冷やすといゝンですがね、いまは何の根氣もありません。おふくろと弟の邪魔をしないやうに生きてゐるのが、せめてもの私の感謝ですからね‥‥。人の邪魔をしないと云ふのが、此の頃の僕の悟りです。何時でも、僕は死ぬ事には自信がつきましたよ。でも、何ですな、まア、折角、神より頂戴した生命なンだから、一日でも生きのびた方が、死んで灰になるよりは、いくらかましですから‥‥」

「心細い事を云はないで、早くよくなつて下さるといゝわ‥‥」

「絶對に、よくなりませんね‥‥」

「どうして、そんなに心細い事をおつしやるのかしら‥‥。氣の持ちやうですわ。昔の元氣な加野さんに戻つてほしいわ」

「昔の加野さんは、戰爭で死んだと思つてゐます。この戰爭で、僕は身心ともにめちやくちやになりましたよ。ひどい目にあつたもンですよ。でもね、これも仕方がないとあきらめてゐます。時々、佛印の事を思ひ出して、僕の生涯のうちで、一番印象深い時代だつたなアと思つてね‥‥。どうです、その後、手の傷は痛みますか? 左の腕でしたね」

 ゆき子は腕の傷を覺えてゐてくれる、加野の純情さにほろりとしてゐる。

「貴女には、本當に濟まないと思つてゐますよ」

「厭ッ! 私こそ、加野さんに、我まゝをして濟まないと考へてるンですよ。あの頃は、どうかしてたのね。みんな狂人の状態だつたのね」

「全く狂人の状態だつたな。貴女がわざと僕の刀の方へもたれかゝつて來たやうな氣がしてね。僕は富岡を刺すつもりで、部屋へ行つたら、ゆき子さんがゐたので、なほさらかあつとしてしまつたンです。いまから考へると、馬鹿な事をしたものだ」

「もう、その話はやめて‥‥」

「ごめんなさい。つい貴女に逢つたら、昨日の事のやうに思へたものですから‥‥」

 ゆき子は、藥臭い部屋の空氣に壓迫されて、立つて、硝子戸を少し開けた。冷い風がすつと流れこんでいゝ氣持ちだつた。

「富岡君は元氣?」

「えゝお元氣らしいわ」

「あいつは運のいゝ奴ですね。人の落ちぶれには理解を持つて、さうした人間の運命をなつとく出來る顔でゐながら、自分は住み心地のいい椅子にかけて、仲々動き出ようとしない男ですからね。いや、それは惡口ぢやありませんよ。だから、彼の運のいゝところも、その邊にあるンぢやないかと思つて、早く見習つておくべきだと、今頃になつて、僕はさう思ひ出しましたよ」

「でも、いまは、あまり、運のいゝ方でもなささうですよ」

「さうですかね‥‥。貴女が、ひいきめに見てるンでせう? 家も燒けなかつたし、仕事の方も、いゝ共同者をみつけて、うまい事やつてると云ふ話ぢやありませんか?」

 ゆき子は、伊香保へ富岡と心中をしに行つて果せなかつた事を思ひ出してゐた。加野は何も知らないから、あんな事を云つてゐるのだと、

「とてもいま、困つてはいらつしやる樣子ですわ。家もお賣りになつて、御家族を郷里の方へおかへしになつて、自分は當分身輕るになつて働くつて、云つてらしつたわ」

「働くたつて、僕のやうに、濱の人夫になつて、日給二百圓の風太郎になる氣は、あいつには出來ませんよ。何十貫と云ふ荷物かつぎをやつて、こんな躯になるのも、あいつには喜劇に見えるだらうな‥‥」

「冗談ばつかり、加野さんは、わざと、求めてそんな事をおつしやるのね。どうした心境で、人夫になンてなる氣持ちにおなりになつたの?」

「そりやア、食ふ爲ですよ。氣の利いた仕事はありませんでしたからね。てつとり早いのがいゝと思つて、泥棒になるよりはましだと思つて始めたんです。――ペンより重いものを持つた事のない役人生活をしてたものには、とてもこたへましたね‥‥」

「さうでせうね‥‥」

 土産に林檎を五ツ六ツ買つて來たのを、ゆき子は開いて、庖丁を探してむいた。くるくるとむきながら、ゆき子は鼻の奥の熱くなるやうな氣がした。もういくらも生きてはゐないだらう加野の爲に、出來るだけの親切をしてやりたい氣持ちだつた。むいたのを小さく切つて加野の口へ入れてやると、加野は齒の音をさせて、林檎をむさぼるやうに食つた。

「色んな事が私達にはあつたけど、やつぱり、生きてゐれば、かうした時代も見る事が出來たし、私達もお目にかゝれたぢやありませんの? だから、うんと榮養をとつて、元氣になつて下さらなくちやいけないわ」

「榮養か‥‥。さうですね。金さへあれば、二三年は壽命がありますでせう」

「でも、お母さまも、弟さんも大變ね‥‥」

「全く御氣の毒のかぎりと云ひたいところだ。此の頃はおふくろも、弟も、僕には飽々してる模樣ですよ」

「そりやア、貴方のひがみだわ」

「ひがみですかね‥‥」

 加野は實際、富岡のやうな、紙一重のあぶないところを、一生涯、自分の直接性をもつてすり拔けてゆける幸運には、あやかる事も出來ないと思つてゐた。富岡の事を考へてゐると自然に腹が立つて來る。いつも、するりと身を交はして、中々溺れる方へは頭をつゝこまない。加野は昔の事を思ひ出してむつつりした。ゆき子は林檎の皮を新聞紙にくるんでゐる。そして、何か云ひかけようとしてやめた。加野は、ゆき子が、少しも昔の情熱的なところを見せないで、悠々と落ちついてゐる事に、謎だなと、此の女の大膽さが不思議でもあつた。話に聞けば、いまだに一度も郷里へ戻つた事もなく、引揚げて戻つたまま、獨りで放浪してゐるのだと、枕もとで引揚げ以來の事を話されてみると、女は魚の肌のやうに、底意地の冷たいものだと思へた。

「富岡と云ふ人間は、いまにきつと、あいつの才能でまた息を吹き返します。それが出來る男なンだ。あいつは‥‥。去年の五月に海防から船に乘つたと聞いて、その時の事を後で聞いて、つくづく運のいい奴だと思ひましたよ。インテリをよそほつてゐると仲々戻れないと思ひ、軍屬で、佛印へ來て、林野局のお茶わかしとか、使ひ走りに來てゐたのだと、あいつが云つたさうです。波止場の檢問所の前で、澤山の將校から調べられた時、富岡は最も愚直なスタイルをつくつてね、英語やフランス語でべらべらと將校連が話しあつてゐても、その方をちらつとも見ないのださうですよ。こいつ、言葉が判ると思はれると、殘されるのださうです。その次に日本地圖を見せられて、四國は何處かと聞かれた時、あいつは、九州をさつと指差したのださうです。學力は小學校卒業程度に見せてね。どうです? うまく芝居を打つぢやありませんか、そして、まんまと關門をくゞり拔けて、自分は誰かの名前をつかつて、まんまと早い船に乘つて、日本へ戻つて來た。全く英雄的人物ですよ‥‥」

 ゆき子にはそれは初耳だつた。

 富岡ならば、或ひはやりかねないであらうと思へた。おせいとの問題も、本人は女の示す好意を、その女の好意として受け取つたに過ぎないのであらう。おせいは、あの時、富岡のなぐさみものになつてしまつたのかも知れない‥‥。

「僕は、富岡とゆき子さんは、その爲に、早く戻つたのかと思ひました。でも、船は一緒ぢやなかつたさうですね?」

「いゝえ、別々ですわ‥‥」

 加野の犯罪は戰爭最中で、しかも役人として、最初の醜い事件として、サイゴンの憲兵隊では、ひどく亂暴にあつかはれたさうである。

 一時間位で、ゆき子は何とも息苦しくなり、加野に別れを告げて外へ出た。戸外へ出ると吻つとして、いゝ空氣を吸つたやうな氣がした。心のうちで、加野をみじめな男だと思つた。のびのびとした、いい家の息子だと聞いてゐたゞけに、この急激な變りかたは、何ともゆき子には氣の毒に思へた。

 加野は加野で、久しぶりに日本でめぐりあつてみたゆき子の現實の顔は、昔とはいくらも變つてはゐなかつたけれども、自分が富岡と血鬪してまで此の女を欲しがつてゐたのだらうかと、妙な氣がしてゐたのはたしかである。女の腕に偶然に傷をつけて、加野はそれだけの償ひをしたものゝ、眼の前に坐つてゐるゆき子を見た時には、こんな女の何處に誘はれて、あんな事になつたのかとをかしかつた。あの時の、出先の日本人の生活には、一種の魔がさしてゐたのかも知れないのだ。みんな、虹のやうなものに醉つぱらつて暮してゐたやうな氣がして來る。

 ゆき子が戻ると云つた時に、加野はそれでも、もう少しそこへ坐つてゐて貰ひたかつた。逢ふまでは、ゆき子を、まるで女神のやうに考へてゐたが、逢つてみると、加野は負け惜しみでもなく、人間的なゆき子の現實に、白々と夢の覺める思ひだつた。

 ゆき子の方も亦、加野に逢つて後悔してしまつた。行かなければよかつた氣がした。あの時のまゝの加野さんと考へておく方が、よかつたやうにも思へる。‥‥富岡が、加野に逢ひたがつてゐるゆき子を、甘いと云ひ、物好きだと云つたが、おせいに嘘の住所を教へた、富岡の心の底がいまになつて判つたやうな氣がした。その場かぎりの感情で、物事を切り裁いて行く男の強さが、ゆき子にはいまでは憎々しい程の魅力になつてもゐる。

 初めに會つた、眼の色が本當なのよと、南の流行歌を唄つた富岡の自然のつぶやきが、自分や、おせいの身に、いまふりかゝつて來てゐる。

 黄昏の寒い新橋驛にゆき子は降りてみた。寒い風が吹いた。自動車乘場の方へ歩きかけると、「あらツ」と云つて、派手なグリンの外套を着た女が、ゆき子のそばへ走つて來た。女はゆき子の肩を叩いた。

「まア!」

 ゆき子は眼を瞠つた。一緒にサイゴンへ行つた、篠原春子が走り寄つて來たのだ。ゆき子はなつかしかつた。

「どうしていらつしやるの! 何時お歸りになつて?」

 ゆき子は早口に、篠原の引揚げる時の消息を聞きたがつてゐる。

「私、さうぢやないかと、貴女が改札を出る時から見てゐたのよ。――お元氣? 私は去年の六月に引揚げて來たの。家は浦和に疎開してたので、燒けなかつたのよ。私、引揚げてすぐ、英文タイプを習ひに行き、丸の内に勤めを持つたの。‥‥貴女はいま何をしてゐるの?」

 タイピストをしてゐるにしては、篠原春子は派手な美しいつくりをしてゐた。




三十六

人身を享けて あすの日の

何をもたらすと 測るなかれ

また營耀の 人を見て

いく時か かくあらむとも。

世のうつろひの 迅やかなる

翔ひろの 蜻蛉のあしも

かくはあらじ。

 一週間ほどして、加野から、ゆき子の見舞ひをよろこんだ手紙の末尾に、こんな詩のやうな文句が書いてあつた。世のうつろひの迅やかなると云ふ一節が、ゆき子の心に燒きついてきた。病の絶望の底に到つて、自嘲めいたこの言葉が、いまの加野の一切なのだと、ゆき子は加野へ對して、同情しないではゐられなかつたが、現實に逢つた加野へ對しては、もう何一つ惹かされるものはない。佛印での一切はもうみんな、世のうつろひの迅やかなるであらうか。ゆき子は返事を出さなかつた。

 その後、富岡からは何のたよりもなかつた。二人で死ぬつもりで、伊香保へ行つた事も、いまでは遠い過去のやうな氣がして來た。あの時に死んでゐたら、今日の日は迎へられなかつたのだが、生きてゐる事も、ゆき子にとつてはどうでもいゝのであつた。富岡に死なうと打ちあけられた時、何故、あんなに妙な臆病さになつたのかゞ不思議である。

 篠原春子に逢つた事も、ゆき子の心のなかには少しも刺戟にはならなかつた。自己自身を食ひ盡してしまつてゐるやうな空虚さで、ゆき子は、何をする氣持ちはなかつたが、何時までもぶらぶらしてゐるわけにはゆかない。それに、ゆき子は、此の物置小舍も、近々に立ち退いてくれるやうに、家主から云ひ渡されてゐたのだ。ふつとまた死の豫感がした。富岡の、あの時の氣持ちは、嘘ではなかつたやうに思へた。何故一緒にあの場で死んでしまはなかつたのだらう。‥‥いまでは死神がとつゝいてゐるやうな氣もしてくる。寢轉んで細い革のバンドを首にあてゝみたが、自分の力だけでは締める自信はない。或るところまで、強く首を締めあげてみたが、それを一歩通り越すまでの激しさには到らないのだ。ゆき子は、革のバンドを外づして、それを腰に卷いた。いま、この場に富岡がゐてくれたらどんなにいゝだらうと思つた。富岡の姿が無性になつかしくてならない。いつたい死ぬと云ふ事は、自分が此の世から過ぎ去つてしまふだけのものなのだらうか‥‥。誰も、月日がたてば、自分の死んだ事なぞかまつてはくれないだらうし、富岡にしても、何時かは自分の事なぞは忘れ去つてしまふにきまつてゐる。あの時を外づしてしまつた事が、ゆき子には殘念でもあつた。初めに逢つた時が本當のお互ひだと云ふ佛印の歌の文句のやうに、伊香保の宿で、富岡が、じいつと思ひをこらしてゐたあの氣持ちに、應へられなかつた心の感じかたを、ゆき子は今になつて口惜しくなつた。その癖、ゆき子は、世の中や、男に對して、信用してしまふ自信をなくしてしまつてゐるのだ。二人が、情死をしたところで、うまく、氣合ひのあつた死に方は出來なかつたに違ひない。死のまぎはまで、二人は別々の事を肚のなかでは考へてゐるに相違ないのだ。ゆき子には、それが厭だつたのだ。たとへ、自分は、何も考へてないとしても、富岡は、息をつめる最後に到つて、妻よ許せなぞと唸り出しはしないかと、ゆき子はうたぐつてゐるのだ。人間は心のなかまではどうにも自由にするわけにはゆかない。一時の暗さを通り過ぎた以上は、二人にとつて、陽氣な人生への希望を思ひ起させるのは必定なのである。富岡は、捨て場のない氣持ちで、おせいに涙を流させる仕儀に到つたのではないかと、ゆき子はうたがひ深く考へてみるのだ。

 富岡との交渉はこれで、一應はピリオドを打つてしまつたと云つてもいゝ。現に、富岡は、伊香保から戻つて以來、何の音沙汰もないのだ。現實の世界では、生きた人間同志で、お互ひを理解すると云ふ事は、どんなに激しい戀愛の火中にあつても、むづかしいのであらう。微妙な虹が、人間の心の奥底には現はれては消え、現はれては消えてゆくものなのであらう。そこをもどかしがつて、人間は笑つたり泣いたりしてゐるだけのやうにも考へられた。人間は、さうした生きものなのであらう。ゆき子は、富岡に逢ひたかつた。ちやんと、富岡とのきづなが判つてゐながら、佛印での二人の思ひ出は何といつても生涯のうちでの大きな出來事なのである。この戰爭は、ゆき子にとつては生涯忘れる事が出來ないのだ。あの時は、本當に幸福だつた。‥‥兵隊のみんなが、生死をかけて戰つてゐる時に、ゆき子だけは、富岡と不思議な戀にとりつかれてゐたのだから。

 ツウランの驛から、縱貫鐵道で、サイゴンへ向ふ車中での、一つの運命が、ゆき子を、富岡へめぐりあはせたのであらうか。時速四二キロの直通列車で、ゆき子は、自分一人だけ皆と別れてしまふ淋しさを考へてゐた。篠原春子は陽氣に歌つたりしてゐた。その汽車に、やがて、ゆき子は富岡と乘る事があらうなぞとは考へもしなかつたのだ。あれはいつだつたかしら、春だつたか、夏だつたか、季節の變化のないところなので、思ひ出のなかに月日の念が薄れてしまつてゐる。車中で、富岡が、ゆき子の手を握り、人目につかないかくしかたで、車窓に乘り出すやうなかつかうで、走り去る疎林を指差し、あすこはベンベン、サオ、ヤウ、コンライ、バンバラと教へてくれた。疎林は落葉し、林床には野火の跡があり、線路近くまで延燒して來てゐた。凄んだ林野も瞼に浮ぶ。そのなかを、時々、おそろしくこんもりした密林があり、棕梠竹や下草が密生して、いはゆるジャングルの状を示してゐる處もあつた。そのジャングルのまはりを、パラと云ふ椰子の一種が、巨大な掌状葉を擴げてゐるのが、ゆき子には印象的だつた。

 あゝ、もう、あの景色のすべては、暗い過去へ消えて行つてしまつたのだ‥‥。もう一度、呼び戻す事の出來ない、過去の冥府の底へかき消えてしまつたのだ。貧弱な生活しか知らない日本人の自分にとつては、あの背景の豪華さは、何とも素晴しいものであつたのだ。ゆき子は、さうした背景の前で演じられた、富岡と、自分との戀のトラブルをなつかしくしびれるやうな思ひで夢見てゐる。悠々とした景色のなかに、戰爭と云ふ大芝居も含まれてゐた。その風景のなかにレースのやうな淡さで、佛蘭西人はひそかにのんびりと暮してゐたし、安南人は、夜になると、坂の街を、ボンソアと呼びあつてゐたものだ。ボンソアの聲が耳底から離れない。自然と人間がたはむれない筈はないのだ。湖水、教會堂、凄艶な緋寒桜、爆竹の音、むせるやうな高原の匂ひ、ゆき子は瞼に佛印の景觀を浮べ、郷愁にかられてゆくと、くつくつとせぐりあげるやうに涙を流してゐた。もう一度、あの場所が戀しいのだ。こんな貧しい生き方は息苦しい。ダラットの生活は、もう再びやつては來ないと思ふにつけ、富岡の皮膚の感觸がたまらなく戀しかつた。贅澤さは美しいものだと云ふ事も知つた。ランビァン高原の佛蘭西人の住宅からもれる、人の聲や音樂、色彩や匂ひが、高價な香水のやうに、くうつと、ゆき子の心を掠めた。林檎の唄や、雨のブルースのやうな貧弱な環境ではないのだ。のびのびとして、歴史の流れにゆつくり腰をすゑてゐる民族の力強さが、ゆき子には根深いものだと思へた。何も知らないとは云へ、教養のない貧しい民族ほど戰爭好きなものはないやうに考へられる。此の地球の上に、あのやうな樂園がちやんとある事を、日本人の誰もが知らないのであらう‥‥。贅澤は敵だと云ふ、戰爭中のスローガンを思ひ出したが、贅澤が敵であつてたまるものではないのだ。五月から十月へかけての雨期をさけて、佛蘭西人がりくぞくとランビァン高原の街へやつて來た。あの生活のヱンジョイの仕方が、終戰になつた現在では、もつと美しく、もつと華々しく展開されてゐるに違ひない。サイゴンから二百五十キロのランビァンの高原は、さながら油繪のやうに美しかつたものだ。ランビァンの素晴しいホテルや、別莊住ひが出來ないものにも、河内近くのタムダオや、ビンや、ナベの高原に佛蘭西人はりくぞくとやつて來てゐた。戰爭の話なぞには何の興味もない、自分達の生活を愉しんでゐたものである。ランビァンの野山は、佛蘭西人にとつては、絶好の狩獵地でもあつた。ゆき子は、富岡との散歩で、よく狩獵家の自動車隊に行きあつたものであつた。

 他人を見る眼のとげとげしさに訓練させられてゐる日本人の生活の暗さが、ランビァンの樂園にゐる時は、何とも不思議な人種に見えて、ゆき子は、生涯をランビァンに暮すつもりで、日本の遠さを、心のうちではよその民族を見るやうな思ひでもゐた。




三十七

 歴史は一貫して、數かぎりもない人間を産んで行つた。政治も幾度となく同じ事のくり返しであり、戰爭も、何時までも同じ事のくり返へしで始まり、終る‥‥。何が何だか悟りのないまゝに、人間は社會と云ふ枠のなかで、犇きあつては、生死をくり返してゐる。





 何時か、歳月は過ぎて、夏になつた。

 ゆき子は二月の終りに、一度靜岡へ歸つて、肉親に逢つたが、すぐまた上京して來た。池袋の家も引越して、篠原春子の紹介で、高田馬場の錻力屋のバラックの二階を借りた。ずつと富岡には逢はなかつた。驛の近くで、電車の地響きが耳につくところだつたが、敷金なしの、部屋代が千圓と云ふのが氣に入り、靜岡から持つて來た行李や蒲團を運びこんで、初めて人間らしい暮しに落ちついたが、ゆき子はまだ職業を持つてはゐなかつた。ゆき子は妊娠してゐた。富岡に三度ほど手紙を出したが、富岡からは、そのうち行くと云ふ返事が一回あつたきりで、その時、五千圓の爲替を送つて來た。ゆき子は、郷里から持つて來た衣類はほとんど賣り盡して、暮しにあててゐたが、少しづつ生活が辛くなつて來た。躯の方は壯健だつたので、つはりも案外輕いものだつたが、ゆき子は、子供を産むべきかどうかを毎日思ひ惱んでゐた。ほしくもあつた。だが、このまゝ葬つてしまひたい氣もして來る。ゆき子は風呂へ行くか、買物に行く以外は、何處へも出ないで終日部屋にこもつてゐた。だが、此のまゝで行けば、自分の生活は追ひ詰められて來る事が判つてゐた。どうにもならなくなつたら、伊香保の時の氣持ちをやつてのけるだけだと考へてはゐたが、さて、その時に、本當にやれるものかどうかは不安である。伊庭はちよくちよくやつて來たが、昔の不義理に就いては、もう責めなくなつてゐたし、此の頃いゝ仕事でもみつけたのか、仲々立派な服裝をしてゐた。ジョウとは去年別れたきりである。ジョウの思ひ出と云へば、大きな枕一つになつてしまつた。ジョウから貰つたラジオは靜岡へ歸る時の旅費に賣り拂つてしまつてゐた。

 伊庭は、ゆき子が妊娠してゐる事はまだ知らなかつた。ゆき子は産婆にも診て貰はないで、自分流にさらしで腹をきつく締めあげてゐた。ゆき子は自分の肉體や生活に對して、これほど忍耐強い自分を知つた事はなかつた。ひそかに、これでは何でも出來るやうな氣がした。これほどの強さが自分にあるとは思はなかつた。加野に腕を切られた時にも、この忍耐があつたやうな氣がした。自分の我慢強さが、ゆき子には自分でも性根のしぶとい女だと思はれたが、この行き暮れた氣持ちを、誰に打ちあけると云ふすべもないのをよく知つてゐたからでもある。

 三日ばかり雨の續いた或る夕方、春子が尋ねて來た。丸の内でタイピストに通つてゐると云ふ春子は、タイピストをしてゐると云ふふれこみだけのもので、錻力屋のをばさんの話によると、實際は春子はバーへ勤めを持つてゐる樣子だつた。道理で、わづかなサラリーで働く女の服裝にしては美しすぎると、ゆき子は春子に逢つた時から睨んでゐたのだ。

「ねえ、私達つて、この戰爭のおかげで、 かすみたいな女になつちやつたわね‥‥」

 坐るなり、靴下をぬぎながら、春子はさう云つて溜息をついた。春子にとつては、靴下が一番大切なのであらう。土産に牛肉を百匁買つて來たと云つて、竹の皮包みを出したので、ゆき子は、かつたるい躯だつたが、すき燒の支度をした。雨の中を、市場まで葱を買ひに行つたりした。春子が金を出したので、それでパンを買つたり、砂糖を五十匁ばかり分けて貰つたりして歸ると、思ひがけなく伊庭が尋ねて來てゐて、春子と話しあつてゐた。

 伊庭は宗教に就いて、春子と話しあつてゐた。伊庭の口から、宗教の話なぞ聞くとは思はなかつたので、ゆき子は妙な氣がした。人間はすべて躓きの可能性があると云ふのである。人間は生れるときから、下を見て歩く動物に出來てゐて、いつも、躓きかげんの輕重に就て研究してゐる動物だと伊庭は説明した。伊庭の金まはりのよさは、此の頃新しくおこつた大日向教とかの會計事務に勤めを持つやうになつた爲である。

「躓く人間は箒いて捨てるほどありますからね。まづ、躓いて、初めて天を眺め、神を祈る。私たちのやつてゐる大日向教と云ふのは、まだ日も淺いのだが、かうした人間の躓きの足もとを照してやる強大な日光の神樣なのだから、聞き傳へて、大變なお參りなンですがね。いまに、熱海の觀音教どころの勢力以上になると思ふね‥‥」

「あら、ぢやア、私みたいに、躓きつぱなしと云ふ人間は、いつたいどうなりますの?」

「そりやア、神樣が起して歩くやうにしてくれますよ。ロマ書の第十四章、二十三節にもあるとほり、凡て信仰によらぬ事は罪なりと語られてゐる通り、基督教だつてこんな判りきつた事を云つてゐるのですから、まして、日本の國の大日向教が、罪多い人間の魂に喰ひ入つてゆかない筈はないね。いま、田園調布に本殿を造る敷地を求めてゐるンですがね‥‥」

「爾光尊みたいな宗教なの?」

「いや、あのやうなものぢやないね。名士の他力は必要ぢやないンだ。たゞ、私達は、大日向の神樣おひとりをお守りする、平凡階級の守り人だけで、隆盛にやつてみるつもりですよ。名士を入れると、途中で目立つて、仕事がうまく運ばないおそれがあるンでね。かへつて、さうした宣傳は邪魔つけになるンだ」

「でも、神樣つて、本當にあるものかしら‥‥」

「ありますとも、あるから、人間は、神を信じるまでの迷ひが多いンだね。第一、君、この神秘な人間の五體を見てみるといゝんだ。いくら科學が發達したところで、君、この人間が造れるものぢやないからね。神はある。たしかにある‥‥」

 すき燒きの支度が出來た。伊庭も肉鍋に手を出した。ゆき子は少しも食慾がない。生葱の白いところを好んで食べた。春子は、ポケットウイスキーを出して、伊庭にもすゝめた。伊庭は女二人を前にして、酒に醉つて來ると、さかんに肉をつゝきながら、一度、二人でお參りに來てみてくれと云つた。

「昔は、何處の村々町々にも寺があつてね、寺が庶民の寄りあひの場所だつたが、寺も段々お葬ひ專門になつちまつたから、活氣がなくなり、佛教は暗いものと云つた印象を受けるやうになつたからね‥‥。そこへ行くと、基督教つてものは結婚式も引きうけるし、賑やかな宗教だよ。何も、百貨店や料理屋ばかりで、何十組もの結婚式を引き受ける事はないやね。さうだらう? 大日向教もその傳でゆくつもりだ。何事も賑やかな明朗な宗教が、躓いた人間に魅力があるもんだ。いまに大日向教の本殿で結婚式が始まるやうになる。葬式は一切引き受けない事にする。――東都の何處かの寺では、寅の日にお參りして、寺で買つた筆で帳簿をつけると、金持ちになると云ふ案を考へ出して、それからぐうんとお參りもふへたさうだが、考へ出した坊主は頭がいゝのさ。すべて陽氣な明るいものでいかなくちやいけない。縁結びなンてのは貧弱だね。すべて人にかくれてお參りをしなくちやならんと云ふやうな宗教は駄目だ。金もうけの宗教、人間の慾に目をつけたものが、宗教も榮えるやうだね」

 神は何處かへかくれて、神を利用し、人間を利用するテクニックに就いての話に變つて來た。人間はすべて躓き、すべてが絶望の苦惱を持つてゐるものであると、伊庭は云ふのである。どの人間も、絶望は長く、喜びは短い。その短い喜びは人間の五慾のなかの一種のヱクスタアシイにもあたるもので、その喜びの短さをとらへて、人間どもをそゝのかしてやる事が、今日の宗教の急務だと、伊庭は説明した。愛慾の爲に、男も女も金を使ふ。宗教のヱクスタアシイもそのこつを心得てゐれば、宗教位金もうけの出來るものはないと云ふ商賣通の説明になつた。

 伊庭は春子の手を取り、掌に耳をつけた。

「あなたは熱い手をしてゐる。人間の熱を計るには耳で、一番敏感なのだから、體温計はいらないンだ。心の冷たい人は、熱い手をしてゐる。手は人間の魂のエーテルを發散するところだから、あなたのやうに手の熱いのが本當なンだ。手の冷い人間は體内に熱がこもつて、何處かに病氣を持つてゐる‥‥」

 伊庭はいつまでも春子の手を握り、もてあそび、離さうとはしない。

「ところが、いま、私は失戀して、相當まゐつてゐるのよ。占ひなさるの?」

 伊庭は失戀したのだと聞くと、また、春子の手を耳にあてゝ、自分の頬に押しつけるやうにして、思ひをこらしてゐた。春子はくすくす笑ひながら、すつと伊庭の耳から手を拔いた。

「彌陀の本願には、老少善惡のひとをえらばれず、たゞ信心を要とすべし。その中へは、罪惡深重、煩腦熾盛の衆生をたすけんがための願ひにまします。ね、こんな風なもンでね、信心は、願ふ心を信じなくちや何もならない。あんたみたいに、初めから、馬鹿にしてかゝつてゐるンではいけないね。馬鹿にしてるのなら、一度、自分が馬鹿になつて、大日向教を信心してみてくれなくちやいけない。いやしくも私もあなたにとつては異性ですよ。その異性の耳にあんたの手が觸れてゐるところに、微妙な神靈が傳はるンだ。信心を要とすべしだね‥‥」

 伊庭は、ポケットウイスキーの半分位をあけてしまつて、とろんとした眼をしてゐた。




三十八

 二階は三疊と四疊半で、三疊の方は、錻力屋の三人の子供の寢場所であつた。四疊半にはひらきになつた半間の押入れがあるだけで、壁はをが屑を押しつぶしたやうなものが張つてあつた。出窓に七輪や配給の炭を置いて、そこで炊事をするやうになつてゐる。出窓の下は空地で、いま唐もろこしが繁つてゐる。ゆき子はいよいよ生活に困つて來た。靴みがきでもしてみようかと思つたが、地びたに坐つてゐる仕事には、躯が耐へられないやうな氣がした。二度ほど富岡に電報を打つてみたが、富岡からは何の音沙汰もない。ゆき子は思ひ切つて、五反田の以前の富岡の家へ尋ねて行つてみたが、今では表札も變り、出て來た人は、五月に此の家を買つて引越して來たのだが、富岡さんのハガキがあるので、それを差上げようと云つて、富岡のハガキをゆき子へくれた。引越し先きは世田ケ谷の三宿と云ふところになつてゐた。間借りでもしてゐるらしく、高瀬方となつてゐた。

 ゆき子は思ひ切つて、かつたるい躯を押して、富岡の新住所へ尋ねて行つてみた。思ひのほかの大きな石門のある家で、昔は自動車でも持つてゐたのか、石門のそばにカレーヂがあつた。門をはいつてベルを押すと思ひがけなくあつぱつぱ姿のおせいが扉を開けて出て來た。ゆき子は、一瞬ぎよつとして息をのんだ。おせいも驚いたと見えて、赧くなつて「まア!」と聲を擧げた。

「あら、あなた、東京に出て來てゐたの?」

「えゝ‥‥」

「どうして、こんなところに?」

「私の知りあひの家だものですから?」

「富岡ゐます?」

「いま、留守なンですけど‥‥」

「嘘おつしやいよ。妙なひとね‥‥。全く、妙な事だわ。ぢやア、私富岡が戻つて來るまで、富岡の部屋で待ちませう‥‥」

 おせいは默つてゐた。ゆき子は全身ががくがく震へる氣がした。何を云つてゐるのか、自分でもよく判らなつた。

「奥さまの方へお歸りになつてるんですよ。昨日いらつしたばかりだから、當分いらつしやらないンですけど‥‥。奥さまおぐあひが惡いものですから‥‥」

「あら、さうなの、さうなら、なほいゝわ。私もぐあひが惡いのよ。富岡の部屋であのひとが戻つて來るまで、ゆつくり休息させて貰ひますわ」

 おせいは困つた樣子だつた。おせいの後の玄關を見ると、幾世帶も住んでゐるらしく、子供のスクータアや、乳母車が入れてあつた。おせいはがんこにそこに突つ立つて動かない。ゆき子もがんこに立つてゐた。

「玄關でもいゝわ。このお家の方に事情を話して、私、待たして貰ふわよ」

 おせいは抵抗する力もなくなつた樣子で、默つてゆき子を二階へ案内して行つた。廣い廊下の突き當りの部屋で、板の間敷にうすべりを敷いた八疊間で、壁ぎはに粗末なベッドがあり、小さい枕が二つ竝んでゐる。壁にはおせいの紫めいせんの單衣や、シュミーズや、富岡の浴衣の寢卷きがぶらさがつてゐた。觀音開きのダイヤガラスのはいつた窓には赤い塗りの小さい姫鏡臺が置いてあつた。食卓や、小さい茶箪笥も新しいのが竝んでゐる。ゆき子は一切が判つたものゝ胸のなかは煮えるやうな腹立しさであつた。やつぱりこんな事だつたのだと思つた。富岡は本當にゐなかつた。富岡のものらしいと云へば、男物の浴衣だけである。

「何時から、一緒に暮してるの?」

「何時からつて、こゝは私の部屋なンですよ。富岡さんは、田舍の方にいらつして、東京に足溜りがないから、こゝでお泊りになるンだけど、私、その時は、階下でやすませて貰つてゐるンです‥‥」

「足溜り? へえ、足溜りねえ‥‥。伊香保の旦那さまどうなすつて?」

「別れちやつたわ‥‥」

「さう、それで、都合よくいつたわけね」

 もう夕方だつたので、子供達が二階の廊下で騒々しく遊んでゐた。おせいは默りこくつてベッドに腰をかけてゐた。ゆき子も默りこんで出窓のそばに坐つてゐた。ふと思ひついたやうに、おせいは廊下へ出て行つた。ゆき子はあたりを眺めた。おせいは、いつたいどんな機會を掴んで、富岡と一緒になつたのかゞ不思議だつた。卓上に出てゐる二つの湯呑茶碗、部屋の隅にある男ものゝ雨傘、見てゐるうちに、富岡の身のまはりのものが、少しづゝにじみ出て來た。おせいは仲仲戻つて來なかつた。ゆき子は廊下へ出て、遊んでゐる七ッ位の子供を呼びとめて聞いた。

「こゝのをじさん、お勤め?」

「うん」

「夜は戻つて來るンでせう?」

「うん」

「いつも、何時頃、戻つて來る?」

「もう、戻つて來るよ‥‥」

「何處へお勤めしてるのかしら?」

「知らない」

「こゝ、澤山で住んでるのね?」

「うん」

 ゆき子は、一種のアパートのやうなものだと思つた。もう一度部屋へ戻り、執達吏のやうな冷い眼で、一つ一つのものを見てまはつた。ベッドの下にトランクや行李が押し込んである。部屋の隅のシックイ塗りの天井に、針金を渡して、手拭が二本かゝつてゐた。ベッドの裏側には、林業に關する本が二十冊ばかり積んであつた。その本の上に、ランビァン農林總監部の、原始林地帶の事を佛蘭西語で書いた、見覺えのあるパンフレットがのつてゐた。これはたしか、森林官のダビヤウ氏が書いたものである。ゆき子は急に切ないほどのなつかしさで、そのパンフレットを手にとり、美しい佛印の森林の寫眞を眺めてゐた。自然に涙が頬につたはつた。どの寫眞も思ひ出ならざるはない。いかだかづらや、モミザの花に圍まれた、ランビァン高原の別莊のある寫眞は、ことのほか、ゆき子の眼をとめた。ランビァンの山に圍まれ、湖を前にした雄大な景色は、いまのゆき子にとつて、何とも云へない心の慰めであつた。こゝで息をしてゐる時には、現在のみじめさを一度も考へた事はなかつた‥‥。四圍が昏くなつてきた。おせいは戻つては來なかつた。富岡に電話をかけに行つたのかも知れない。ゆき子は開いた窓から、赤つぽく暮れてゆく、むし暑い空に眼をやつて、流れる涙を拭いた。ダビヤウ氏のパンフレットを記念に貰つて行くつもりでハンドバッグにしまつて、ゆき子は廊下へ出た。もう富岡やおせいに逢ふ氣もしなかつた。

 心が決つたやうな氣がした。

 伊香保で、二人は死んでしまつてゐる筈である。さう考へてしまへば、何も人を恨む事はない。ゆき子が靴をはいて玄關の前庭へ出て行くと、門のところで、こつちへ來る男に出逢つた。

 富岡だつた。富岡は、一瞬、吃驚した樣子だつたが、何も云はないで、眼を赤く泣き腫して、自分の前に立つたゆき子を見ると、すべてを觀念した樣子で、「何時來たの?」と、靜かに聞いた。

「おせいさんに逢ひましたわ‥‥」

 さう云つて、ゆき子は呆んやりと、富岡の前を離れ、門の外へ出て行つた。富岡もゆき子の後からついて行つた。

「おい!」

 ゆき子はふり返らなかつた。

「おい、話があるンだ」

 ゆき子は、どうでもよかつた。いまさら、富岡の口から、おせいとの事情を聽いたところで始まらないのである。加野の罰があたつたやうな氣がした。加野も、男ではあつたけれども、あの時、こんな氣持ちをなめたのに違ひないと思つた。加野から激しい愛情を打ちあけられてふらふらと接吻をゆるしておきながら、富岡と逢引してゐた、自分のずるさを、加野が、かつとして刃物をふりあげたのも、今日の自分のやうな理由があつたからだと、今になつて判つた。

「君の事は、毎日、忘れた事はないンだ。何とかしてやりたいと考へてゐたンだよ。おせいの奴に、強引に誘はれてしまつたかたちなンだ‥‥」

「そんな話、いゝことよ‥‥」

「よくはない。僕が惡いンだ。責任は持つ覺悟だ」

「さうですか‥‥」

 ゆき子は、目黒の驛には反對の方向へ歩いた。燒跡の昏い雜草の原にこまかい雨虫が、群れて飛んでゐた。夜明けのやうな夕燒けた黄昏だつた。燒跡のまんなかに、廣い道が續いて、ところどころに新しい家が立つてゐる。

「十月だね?」

「えゝ、なにが?」

「子供の生れるのさ‥‥」

「さうね、ちやんと産めばね。私、明日にでも婦人科へ行つておろして貰ふつもりよ」

 富岡は何も云はなかつた。ゆき子は生きてゐるかぎり、煩腦は人の心に嵐を呼ぶものだと悟つた。大日向教がどんな金もうけに利用した神と云つても、それはそれとして、さうした神を祭つた道場にこもつて、じいつと屈伏して祈つてみたい氣もして來る。富岡は、おせいが、どんな風な事をゆき子に云つたのかは判らなかつたが、おせいの強情な性格は、ゆき子に、のしかゝつて、ひどく反抗したに違ひないと思へた。

「君は、俺を厭な奴と思つたゞらう?」

「えゝ」

 はつきり、ゆき子は「えゝ」と云つた。

「子供だけは産んでくれよ。その日からでも僕が引き取る‥‥。おせいとの問題も、正直に君に告白するつもりだ」

「おせいさん、御主人と別れたつて云つてたわ」

「本當を云へば、あの部屋は、おせいの部屋なンだよ。ずるずるべつたりに、僕が一時の宿に入り込んだみたいになつたが、本當はおせいの借りた部屋なンだ。此の五月、新宿の驛でぱつたり逢つて、無理矢理連れて行かれて、自然に、僕が入り込んだかたちになつたンだ。――君が靜岡からたよりをよこした時も、歸つて新しい部屋を見つけたのも、みんな手紙で承知してゐたンだが、逢ふとまた、二人とも、どうにもならなくなると思つて、金だけを送つたンだがね。家を賣つて、家族を田舍へやつたり、女房を入院させたり、勤め口もどうやらきまつて、ひどく氣持ちが荒さんでゐる時だつたので、おせいの誘惑に打ち勝てなかつたのだ‥‥」

 いまさら、そんな理由を聞いたところで、どうにかなるものでもないのである。二人が逢つたところで、どうにかなる理由は何處にもない筈だつた。

 バラックの喫茶店をみつけたので、富岡はゆき子をその店へ連れて這入つたが、店先には大きい青ペンキを塗つたアイスキャンデーの箱があり、子供連れの女が、二人をじろじろ見てゐた。ぎくしやくした椅子に腰をおろしたが、ゆき子はすつかり疲れてゐた。くたくたに、身心とも參つてしまつて、足が棒のやうにしびれてゐた。




三十九

 顔色の惡い、ゆき子の顔を、じいつとみつめながら、富岡はポケットから煙草を出して火をつけた。ソーダ水を二つ注文した。ゆき子はぐつたりと板壁に凭れて瞼を閉じた。何も考へるよゆうもない。そのくせ、湖水の白い飛込臺に立つてゐる、ランビァンの或日がほうふつとして浮んで來た。富岡もパンツ一つで黄昏の湖水に泳いでゐる。近所のスタジオでやつてゐる、ラグビイの騷々しいあの時の音も耳について、じいつとしてゐると、まるで泳ぎのあとのやうな疲れかただつた。

 富岡は一服ゆるく煙を吐き出しながら、

「ねえ、君はいま、いろんな事を考へてゐるンだらうが、こんなになつてしまつたンだよ。僕は、どんなにでもつぐないひをする。君ならばすべてを判つて貰へると思ふンだ」

「伊香保では、やつぱり、おせいさんと、わけがあつたのね」

 富岡は默つてゐた。

「あなたつて、いけないひとね?」

 いけないひとねと云ひながら、それでは、自分はどうなのだと、ゆき子は自問自答してみる。ほんのわづかではあつたが、ジョウとの關係はどうだつたのだらう‥‥。淋しくて淋しくてやりきれなくて、ジョウとあんなわけになつてしまつたのだ。富岡は別にとがめだてはしなかつた。さうした、人間の、或る時の心の空虚は、やつぱり、誰かに手を差しのべて行くより仕方のないものだらうか。伊庭との昔のくされ縁にしたところで、一種の空虚さがさせたわざなのである。

 自分だつて、富岡と同じやうな事をやつてゐたのだ。只、それを、氣がつかないまゝでやりすごしてしまつたゞけである。

「別に、判らないわけぢやないけど、やつぱり、吃驚しちやつたのね。‥‥伊香保で、おせいさんが、あのバスのところで泣いたのは、私、忘れなかつたけど、でも信じてはゐたのよ。貴方の氣持ちを‥‥。私も、うぬぼれてゐたのね。――でも、仕方がないわ。仕方がない事なのよ。私、それで怒つて、子供をおろしてしまふ氣になつたわけぢやないの‥‥。もう、前から、何時か、何時かとは考へてゐたンです。今日で、ふんぎりがついたのよ。強くならうと思つて‥‥。いろんな事を、毎日々々我慢して暮してゐる事を思へば、子供をおろす位何でもないわ。身輕るになつて働きたいのよ。‥‥私達の子供を産んぢやア、不幸だと思はない? たとへ、貴方が引き取るにしても、何もしてやれないし、私だつて困つて身動きも出來ないと思ふのよ。それを、一度相談して、二人でなつとくのゆくまで話しあつて、子供の始末をしたいと、私思つてゐたンです。――おせいさんと一緒にいらつしたつて、かまはないでせう‥‥。貴方に都合のいゝ生活ならね。あのひとも、貴方を心から好きな樣子だし‥‥。奥さま、何處がお惡いの?」

「胸なンだ‥‥」

「もう、よほど、いけない?」

「長く靜養すれば助かるだらう‥‥」

「これから、貴方も大變ね。お勤め、きまつたンですつて?」

「あゝ、友人のやつてゐる石けん會社で、大した事もないがね。それでも、よく面倒をみてくれるンで、まア、いまのところは甘へてゐるンだ」

 紅いソーダ水の麥蕎をぐつとすゝりながら、富岡は、ゆき子の美しい手を見てゐた。柔らかさうな美しい手をしてゐた。富岡はゆき子が不憫であつたが、おせいの事もどうにも仕方のない不憫さである。

「僕は、いまゝでに、一人も子供がないンで、どうしても産んでほしいと思ふンだ。おせいの問題も、長續きはしないし、家さへみつかれば、いまにも引越したい位だ。おせいも、亭主と綺麗に別れたわけぢやないし、あの部屋は、おせいのかくれ家みたいなものなンだよ。――亭主は、いまだに、おせいの消息は判つてはゐないンだ。僕だつて厭なンだし、あの家でも、僕はあいまいな眼で、見られてゐるンだ」

「おせいさんは、何かしてるンですか?」

「新宿のバーの女給をしてゐたンだが、二三日前から齒が痛くて休んでゐたンだ」

「でも、おせいさんは、とても、貴方に惚れてゐますよ。案外、一生あのひとゝ貴方は暮すやうになるンぢやない? 一緒にゐるものが勝ね。去るもの日々にうとしのたとへもあるンですもの‥‥。ねえ、佛印の思ひ出だつて、もう、ひところのやうに、めつたに思ひ出さなくなつたし、夢も見なくなつたぢやない? そんなものね」

「僕は時々見るよ。君の事を考へると、ダラットの生活を思ひ出してやりきれなくなるンだ‥‥」

「私、此の間、一月に、加野さんをお見舞ひに行つたの、手紙に書いたかしら?」

「あゝ、知つてる。加野も大變だな、氣の毒な奴だ‥‥」

「悟つてはいらつしたやうだけど、痩せて、元氣がなかつたわ‥‥」

「大變な愛國者で、正直一途な男だつたね」

「さうね。私達のやうに、ずるい人ぢやなかつたわね‥‥」

 喫茶店を出て、また、目的もなく歩き出したが、四圍はすつかり暗くなり、凉しい夜風が吹いてゐた。富岡は歸る樣子もなくゆき子について來た。

 上着をぬいで、肩に引つかけて、ぞろりぞろりと靴を引きずつてゐた。

「くたびれてるンでせう?」

「いや、水虫が出來て、痛いンだよ」

「でも、やつぱり、二人で歩いてゐると、何だか、肉親みたいね。貴方、心のうちでは、私の事よりも、おせいさんでいつぱいなンでせうけど、私ね、私が勝手に、貴方の事を肉親らしく考へるのは自由ね。笑ふ?」

「笑ふもンか‥‥。おせいの事よりも、おせいの亭主に濟まない氣がして、毎日が罪人みたいにきつぷせな生活なンだぜ。意氣地がないくせに、おせいの強さに引つぱり込まれて行くンだ。」

「おせいさんと、いまに心中でもするやうになるンぢやない? もしもの事があれば、あのひと、毒でものみかねないから‥‥」

 富岡もさう思つた。ゆき子に云ひあてられたやうな氣がした。おせいの爲に、自分の生活が、一日一日駄目になつてゆくのがよく判つてゐるのだ。

「毎日、喧嘩してるンだ‥‥」

「どうしてなの?」

「僕が、おせいにぴつたりついて行かないと云ふ事なンだよ。無智な何も知らない女なンだが、直感のすばらしくきく女でね。一度、自分で思ひこんだら、仲々、もとへ戻してやるのが大變なンだ」

「ぢやア、今夜も大變ね」

「まア、そんな話はやめよう。今度の日曜日にでも、尋ねて行く。子供の事は、それまで待つててほしいな。案外、君が、僕の氣持ちを判つてくれたンで、何だか、氣持ちがとても樂になつたし、晴々した。おせいの事にこだはるやうだが、きつと、近いうちに、これも、解決するつもりでゐる」

「そんな、急に、坊ちやんみたいな事云はなくてもいゝわ。なりゆきに任せてゐます。私、もう、本當を云へば、私の事だけで、やぶれかぶれなのよ。おどかして云つてるンぢやないの‥‥。判るかしら?」

 二人は陸橋のところまで來て、白い石の欄干に凭れて暫くそこへ立つてゐた。橋の下を轟々と電車が走つて行く。




四十

 富岡に別れて十日ばかり過ぎた。

 ゆき子は思ひきつて、近所の小さい婦人科醫を尋ね、躯を診て貰つた。子供をおろしてしまふにはどうしても五六千圓の金がかゝる樣子であつた。富岡に別れて以來、ゆき子は、日がふるにしたがつて、富岡へ對して腹立しくなつてゐた。子供を産むには産むやうな助けをして貰はない事には、現在のゆき子はどうにも出來なくなつてゐるのだ。お互ひ逢つてゐる時だけの、だましあふ二人の供述心理は、お互ひにその深い原因にはふれたくない、蕊はえぐりたくない、甘さだけに溺れてゐるとも云へる。

 ゆき子は、富岡の心のなかを洞察してゐた。

 日がたつにつれ、ゆき子は富岡へ對して憎しみが濃くなり、あのやうな薄情な男の子供を産んでなるものかと云つた、恨みつぽい氣持ちになり、ゆき子は思ひきつて、伊庭に何も彼も打ちあけてみた。身輕るにさへなれば、何としても働いて返濟するつもりだつた。伊庭は、ゆき子の告白を聞いて、いつそ、そのやうな覺悟が出來てゐるのならば、金も出してやるが、身輕るになつたら、教團へ來て仕事を手傳つてくれないかと云つた。自分には、仕事の途中だから、他人よりも、氣心の判つた腹心の秘書が欲しいのだと云つた。

 二三日して、伊庭は一萬圓の金を持つて來てくれた。ゆき子は身輕るにさへなれば、何でもいいから、伊庭の始めた教團を手傳ふつもりだつた。そして、子供をおろしてしまふと同時に、富岡の事は忘れ、一切を御破算して、自分らしい生活に立ち戻りたいと願つた。

 一週間ばかり、ゆき子はその産院に入院した。自分と同じやうな秘密を持つた女達が、一日に二人三人と醫者をたづねて來る。狹い入院室には、二人ばかり、さうした女達がはいつてゐた。掻爬が濟んだあと、ゆき子は、躯が奈落へおちこんだやうな氣がした。ぐちやぐちやに崩れた血肉の魂を眼に掠めた時の、息苦しさを忘れなかつた。

 伊庭が二日目に見舞ひに來てくれたが、ゆき子に尋ねた事は、何時起きて、手傳ひに來てくれるかと云ふ事であつた。ゆき子はひどく躯が衰弱してゐた。伊庭はすつかり大日向教にはまりこんだ人間になりきつて、いまは會計事務から、建築用度課を兼ね、金は雨霰の如く這入つて來ると豪語してゐた。

 ゆき子の部屋に蒲團を竝べてゐる女達も、いつの間にか伊庭の話にきゝ耳をたてゝゐた。

 壁ぎはに寢てゐた大津しもと云ふ、四十歳近い女が、突然云つた。

「私も、一つ、御信者のなかへはいるわけにはゆかないものでございますか?」

 細君のある老人とのなかに出來た子供を始末して、明日は退院すると云ふ女である。自分の身分は一切語らなかつたが、看護婦の牧田さんの話では、千葉あたりの小學校の教師らしいと云ふ事である。

 男の世話になれるやうな女とも思へない程、四角張つた、色の黒い骨太な女だつた。

「その大日向教と申しますのは、教祖さまは男の方でございますか?」

 伊庭はにやにや笑ひながら、

「勿論、男の方で、立派な方です。若い頃からインドで修行され、充分識見のある人です。いままでに色々な難關を通つて來られて、荒野に光をもたらす爲に、日本に辿りつかれた方ですな。――長い間、馬來やビルマ方面に陸軍の參謀としても勇名をとゞろかした人物でね。世が世ならば、我々はそばへも寄れない方ですよ。一度、お出掛け下さい。あらゆる惱みを解消して下さるでせう」と云つた。

「まあ、ぢやア、その教祖つて人は、もとは軍人だつたの?」

「さうだよ。追放の軍人だから面白いンだ。かうした軍人あがりは、氣合をかける事は板についてゐるからね。すべて、烏合の衆相手には、高飛車な氣合だけなンだ‥‥」

 伊庭は小さい聲で云つた。

「いまに、自動車も俺の名儀で買ふ。すべて、一切合財が任されてゐるンで、教祖の首根ッ子は、俺がおさへてゐるやうなものさ‥‥」

「いくつ位の方なの?」

「六十一二かな‥‥。女も百人位關係したと云ふ豪い人物だ。草木が、どんなところに生えてゐても、日に向つてのびて行くと云ふ、その生々の力を大日向教と名づけたンださうだが、いまは信者も十萬以上になつてゐる。これから、いくらでも伸びて行く可能性がある。すべて目立たぬやうにして、目立てと云ふのが、彼の信條らしいな」

 ゆき子は、昔の伊庭の性格が、すつかり變つてしまつて、まるで狂人のやうな人物になつてゐるのが薄氣味惡いのである。富岡との事に對しても、何の關心もない如く、只、自分の腹心の秘書にして、昔の關係のある女を起用したいと云ふだけであらう。

 大津しもは、暫く考へてゐたやうだつたが、浴衣の上に羽織を引つかけて、蒲團の上に坐り、伊庭に云つた。

「私、實は、千葉のものでございますが、深い事情がございまして、どうしても、このまゝでは田舍へ戻ると云ふわけにはゆかないのでございます。その大日向教の方の信者にさしていたゞいて、修業が出來ましたら、布教師のお免状でも頂戴いたしたいのでございますが、それには、いかほど位お金がかゝるものでございませうか?」

 伊庭は鹿爪らしく、外國煙草をふかしながら、

「さうですな。初め、入會金として、只の信者の方からは三百圓いただいておりますが、布教師をお願ひになりますならば、初めは千圓の保證金を入れて貰ふ事になつてゐます。半年すれば、布教師の許しが出ます。日々の分はおこもり料として、おぼしめしを頂戴して、許しの時に、また御相談する事になつておりますがね」

 大津しもは、是非、大日向教のおこもり堂に上ると云つて、伊庭から住所を書いて貰つた。伊庭は、當分は名刺をつくらないのだと、妙な事を云ひながら、大津しもに對して、何の興味もないらしく、

「やつぱり、布教師になるには、只の信者と違つて、布教師になる事が、生活の資本となるンですから、實は、これは、相當の金がいるンでしてね‥‥」と云つた。

「はい、それは、私にもちやんとあてがございまので、こゝ一年ばかり、私の身をかくす事が出來ましたら、どのやうにも金を出してくれるものがございますのです。そのひとは身分のある人ですから、私が、救はれて、どうにかなるまでは、不自由なくしてくれると云ふ約束なンでございます」

「ほゝう、身分のある方ですか‥‥」

 伊庭は急に丁寧になつた。

「身分? 身分のある方の後だてがあれば、大日向教の大いにかんげいする處です。此の宗教は、絶體にいまどきの邪宗ではありません。病氣がなほると云つて、人の氣を吊るやうな事はしないのです。また、現代のすゝんだ科學の世の中に、宗教で病氣がなほるとは考へられないぢやありませんか。大日向教は、人間の心の病ひをなほさうと云ふ心願のもとに生れたのです。生身の躯を診る醫者はあつても、精神を診て慰さめてくれる醫者はありません。しかも、この宗教は金持ちへ導く、非常に明るい末世の樂觀術もほどこしております。――身分のある方のうしろだてならば、私の方でも、普通の方より大切にお取りなしいたしませう‥‥。教祖は仲々人にあふのをおきらひで、私が、何事も代行してゐるものですから‥‥」




四十一

 いよいよ今日は退院と云ふ日に、ゆき子は醫局に金を拂ひ、待合室で何氣なく新聞を見た。ふつと眼にはいつた小さい記事があつた。

 十二日、午後十時四十分頃、品川區北品川××番地、飯倉方もと飮食店主向井清吉(四八)は自分の部屋に内縁の妻、谷せい子(二十一)を呼びよせて、手拭で絞殺。品川臺場派出所に自首して出た。――品川署の調べによれば、向井は伊香保温泉で酒場をやつてゐる時、せい子と同棲。せい子は情夫富岡某を頼つて上京中、あとより向井が呼び戻しに行つたが、せい子が復縁を拒絶した爲、十二日風呂へ行くせい子を強迫して、自分の部屋へ連れ込み、またも復縁をせまつて口論となり、かつとなつて、手拭でせい子を絞殺し、自首して出たもの。寫眞は加害者の向井と被害者のせい子。

 幾度讀み返しても、せい子の事であつた。殺されたせい子が、日本髮を結つてゐる。加害者の向井は、うなだれて寫つてゐた。

 ゆき子は、暫く、固い椅子に腰をかけて、その新聞の記事を、幾度も讀み返してゐた。あの片意地なほど、性格の強いせい子は、たうとうおせいの良人に絞殺されたのかと、不思議な因縁を感じた。

 富岡にはいゝみせしめだとも思へたし、三宿の家を尋ねた時のあの富岡の複雜な表情も、ゆき子には判るやうな氣がした。いまごろ富岡はどうしてゐるだらう。あの時、自分がもしも富岡に殺意を持つてゐたら、自分もあとを追つて、ガードの上から電車をめがけて飛び降りて死んでゐたかも知れないのだ。

 富岡は、これからさきも、おせいの幻影から脱けきれない男であらうと、ゆき子は、思へた。日本へ戻つて來て、すつかり駄目になつたのは、富岡一人ではないのかもしれない。加野もまた、いはば落ちぶれきつた人間になつてゐるのだ。

 その夜、ゆき子は、久しぶりに自分の部屋に眠つた。すつかり疲れ切つてゐたし、長い旅路を續けて、今日に到つた自分を感じた。窓の下のとうもろこしのやさかな葉ずれの音や、蝉の音を聞きながら、ゆき子は、三宿の富岡の部屋の事を考へてゐた。

 昏々と眠りにはいりながらも、伊香保でのさまざまな思ひ出が夢になり、現になり、ゆき子は寢苦しく息がつまりさうだつた。そのくせ、あの、いやな肉塊のどろどろした血のりが、ゆき子には、すべてを脱皮したやうにも思へた。誰にも頼らず、誰にも逢はないで、これから自分だけの仕事をして、働きたいと思つた。

 死んだおせいへ對しては、ゆき子は少しも同情は持てなかつた。あのやうな いこじな生き方は、ゆき子の最も厭な型の生き方だつたし、さうした女に溺れていつた富岡の弱さも憎々しいのである。――日がたつにつれ、そしておせいが亭主に殺されたと知つて以來ゆき子は、富岡や、死んだおせいに唾を吐きかけてやりたい憎しみすら持つた。

 四五日たつても、一向に、ゆき子は躯工合がよくならなかつた。伊庭はじれつたがつて迎へにやつて來たが、蒼い顔をしてゐるゆき子を見ると、あまり強い事も云へないらしく、早く出て來てくれとは云ひかねてゐる。

「どうした? 馬鹿に弱つちまつてゐるぢやないか‥‥。元氣を出しなさい。精神力だよ。死ぬも生きるも精神力だ。どうも、お前さんは佛印から戻つて、人が變つたね。もつと愉快になつて、おしやれでもして、元氣を出さなくちやいけない。――ところで、大津しもさんと云つたかね、あの女史やつて來て、今日で三日ほどおこもりをしてゐるが、仲々有望だ。辯も立つし、小金も持つてゐるし、此の頃は、こつてりとお白粉もつけて、とても張り切つて來た。小學校の教員で家は味噌屋だつて話だぜ。女も、年を取つて來ると、行く末の事を考へるやうになると見えて使ひいゝし、教祖も拾ひもンだと云つてゐる」

 伊庭は新しい黒い服を着て、胸にひまはりのバッヂをはめてゐた。

「大きい聲ぢや云へないが、かうした世の中で、何が一番いゝ商賣かと云へば、宗教だね。宗教で、人を救ふ道だ。面白いほど迷ひの人間が聞きつたへてやつて來る。四圍には藥店も出來たし驛には地圖も出てゐる。面白いもンだ。喜んで金を出す人間ばかりだ。金を澁るものがないと云ふのは宗教の力だね。鷺の宮のあの家は賣つてしまつたよ。いまは池上に銀行家の家を買つて、教祖とうちのものと一緒に住んでゐるが、これは立派だ。三百五十萬圓で、家は古いが、八十坪の建坪でね、邸内は五百坪、池あり山ありだ」

「いまに、神樣の罰があたるわよ」

「神樣か、神樣は運のいゝ奴だけはお見捨てはない。運命の繩をよう握らぬ奴は、神樣だつて興味はないさ。――俺はね、ゆき子にやつぱり惚れてゐるらしいね。そのうち、ゆき子の家もこじんまりしたのを買つてやる。何と云つても、お前の最初の男は俺だから、その事だけは忘れられないンだ‥‥」

 ゆき子は厭な氣がした。

「そんな話はやめて下さい。いまごろ、そんな話をして、私を吊らうたつて、私はもう、男のひとにはだまされないンだから。女だつて、年をとれば世の中を見る眼はついて來るわ。私は、もう、昔のむしつかへしは澤山です。あんたの事なンか、何とも思つちやゐない」

 伊庭はにやにや笑つた。化粧のないゆき子の顔は、蒼ざめてゐたが、女らしくて、昔の生娘には違ふなまめかしさを持つてゐた。

「いや、卑しい氣持ちで云ふンぢやない。みんな、ゆき子の幸福をおもへばこそ、こんないくじのない事も云つてみるンだ。あんまり、理想を追ふやうな事は考へない方がいゝ。お前さんは、世の中を見て、かなり、酢いも甘いも勉強して來た筈だ。男にも女にも、愛だの惚れたのと云ふ事も、大して信用にならない事位は判つて來てゐる筈だよ。此の世の天國も地獄も、金だけの問題だ。金の有難さを、俺はつくづく知つた。終戰後の立ち遲れで、あの時位、氣がめいつた事はなかつたが、今日の伊庭は違ふ。生きてうんと、金を貯めこめる時に貯め込む必要を感じた。教祖もさう云つてゐる」

 さう云つて、伊庭はまた金の包みを置いてそゝくさと歸つて行つた。包みを開いてみると、皺一つない百圓札の束であつた。壹萬圓の新しい札束を眼にして、ゆき子は、いつも皺くちやの金しか握つた事のない自分の哀れさがをかしくなり、銀行からおろしたての、皺のない札束が、如何にも魅力的だと、暫く、伊庭の逞ましさを考へてゐた。

 こじんまりした家を伊庭に買はせて、富岡と時々逢ひたい氣もした。だが、その思ひは一瞬の甘さで、すぐまた、富岡に對して、激しい妬みが湧いて來た。

 ゆき子は、伊庭を頼る氣にもなれなかつたし、大日向教なぞ拜む氣にもなれないのだ。

 或日、加野のところから、女の字で、加野が死んだと云ふ頼りを受けた。

 ゆき子は、やつぱりさうだつたのかと、加野の母親からの手紙を讀み返した。本人の意志で、カソリックで葬儀をいとなむ事になりましたとあつた。大變な愛國者で、日本は敗ける筈がないと信じこんでゐた加野が、死んで、カソリックで、さゝやかなとむらひを出して貰つた事が、ゆき子には不思議だつた。結局は、加野の晩年は、この戰爭の犧牲者であつたのだと思へた。加野の母親へ、優しいくやみの手紙でも出したかつたが、ゆき子は、それもものうくてやめてしまつた。

 新聞を見て以來、富岡からは何ともたよりがなかつた。いつたい、富岡は、どんなところに消えて行つたのかと案じられもした。もう三宿にはゐないのかも知れない。

 一日のうちに、かならず、富岡の事だけは心に去來して、富岡の事だけはしつゝこく胸から去らないと云ふのは、これは、何と云つても、富岡への愛情なのであらうかと思へた。此の世に、本當の愛はないと、伊庭はいゝ氣な事を云つてゐたが、伊庭は金錢以外に柱を持たないから云へる事なのではないだらうか。富岡がこのまゝおせいの哀れな死とともに、自分をふつゝりと忘れ去つてゐるとは、ゆき子は思へなかつた。石けんの會社に勤めを持つてゐると云つたが、もう一度、富岡には、農林省へ戻つて貰つて、何處でもいゝ地方の山の中の營林署へでも行つて貰ひたかつた。そして、その時こそ、二人はつゝましい結婚を、したいとも空想してみる。三宿のおせいの部屋から盜んで來た、富岡の佛印のパンフレットを出して眺めながら、ゆき子は、富岡が、このまゝ路傍の人として去つてゆくとは思へなかつたのだ。

 ゆき子は思ひ切つて、富岡へ手紙を書いてみた。





 ――新聞でおせいさんの死を知りました。何事も不思議な運命の糸にあやつられてゐたと思ふより仕方がありません。大變だつた事と思ひます。

 どうしていらつしやいますか。

 一時は、貴方を憎み、怒りましたが、やはり、ゆき子以外には、貴方を慰さめてあげる女は他にゐないと思つております。

 加野さんが、二十二日に亡くなりました。カソリックで葬つたと、お母さんのたよりでした。貴方は御ぞんじないと思ひ、御報告します。思へば、加野さんも、大變気の毒な晩年と思ひます。

 もう、あれから、十日あまりたちました。お心のしづまつた頃と思ひます。本當に、私は苦しみました。何故、伊香保で、二人は死なゝかつたのでせう‥‥。二人が死んでたら、いろんな事もなかつたのです。綺麗さつぱりと世の中を見捨てられなかつたのでせうか。本當は、ダラットの山の中で死んでゐたら、なほさら美しかつたと思ひます。

 私、子供は思ひ切つて、おろしてしまひました。貴方を憎いひとだと思ひ、貴方を頼つてゐては、私は、追ひつめられて、いまごろは、一人で自殺してゐたかも判りません。貴方と云ふひとは、人を殺す人なンです。貴方の爲に、おせいさんも私も、そして、加野さんも、それから、貴方の奥さんも、みんな不幸になつてゐます。貴方を責めるわけではありませんが、私はさう思ふのです。なぜ、もう一度、昔の勇氣を出して下さいませんの?

 私、まだ、ぶらぶらとしております。よくなつたら、今度こそ、堅實な職場をみつけて働くつもりです。お元氣ですか。やつぱり逢ひたいのです。女の未練かも知れませんが、ゆき子は、貴方と別れる話はしてゐないではありませんか。一度、是非たづねて來て下さい。そして、貴方のあいまいでないお話を聞かして下さい。





 手紙を出してから、五日ばかりして、富岡から五千圓の爲替を封入して、君に逢ふのも、もう二週間ほど待つてくれ、いま、一番、自分の苦しい時なのだから、誰にも逢ひたくない。只、あのやうな手紙を貰つた事はせめてもの慰さめだつた。子供をおろした事もやむを得ないが、これも、自分の到らぬ事から出來た事とあきらめてゐる。きつと、逢ひに行く。別れをしてゐないと云ふ事が、君の眞實なら、それを頼りに、きつと逢ひに行くと云ふ文面の手紙がはいつてゐた。




四十二

 二週間もしたら、君に逢ひに行くと云ふ、手紙を、ゆき子に送つたが、二週間たつても、富岡は、ゆき子のところへは尋ねて行けなかつた。

 一番隔てのない話相手のゆき子のところへ、一向に出向いて行く氣がしないのも自分のものぐさからではなく、向井清吉の裁判に忙はしくもあつたし、辯護士の問題も、富岡が世話をしなければならなかつたのだ。殺されたおせいが、向井清吉の内縁の妻であつたと云ふ事だけにこだはつてゐるのではなく、清吉が身寄りのない男だからと云ふ、義務感だけで、富岡は、清吉の爲に走りまはつてゐた。獄中にゐる清吉の面倒をみながら、富岡は、女一人を殺した清吉の眞面目さに打たれ、自分の贋物的な根性が吐氣のするほど厭に見えて來るのであつた。せめて、清吉の面倒をみる事によつて、死者への贖ひが出來るやうな氣がした。おせいと云ふ女にすがつて、自分の生活能力を試み、萎縮した氣持ちをたてなほしたいと願つてゐたのだ。だが、おせいは人妻であつた。おせいの背後にゐる、向井清吉と云ふ男の事なぞは、富岡は少しも氣にしなかつたし、向井清吉に多少の世話を受けた事も忘れ果ててゐた。男女の愛慾と云ふものが、こんなにも激しかつたのかと、富岡はおせいが清吉に殺されたと知つて、初めて向井清吉の存在を知つた。

 おせいと同棲したために、富岡は、清吉から、手酷い復讐を受けた氣がした。伊香保を去つて以來、富岡の頭からは、清吉の存在は、幻のやうに消えてしまつてゐたのだ。

 富岡は、ドストエフスキイの惡靈のなかの、スタヴローギンが、首を縊る支度の最中にも、出來るだけ死の前に、餘計な痛みや苦しみのないやうに、縊死に使ふ紐まで、べつたりと石鹸水を濃く塗つておいたと云ふ、一章を忘れなかつた。

 ゆき子と情死行で伊香保に行さ、情死を實行するまぎはまでも、此の世の中に戀々と未練を持ち、偶然に行きあつたおせいに、自分の生命の再生を求めた淺ましさが、いまになつて罪もないおせいを殺し、清吉を獄に送る破目になつた事に就いて、富岡は、自分自身のずるさに、冷やりとするものを感じてゐる。ゆき子の逢ひたいと云ふ手紙にも、いまさら、富岡は動じなかつたし、ゆき子が子供をおろしてしまつた事にも何の苦しさも感じなかつた。自分はもう、日本へ戻つて來た時に、自分の心をすべて失つてしまつてゐるとしか思へなかつた。

 品川の警察で逢つた時、清吉は、何處で暮すのも同じですよ。死刑か、無期かだとすれば、刑のきまるのは早い方がいい。ゆつくり、獄舍でおせいの佛をなぐさめてやるつもりだと、清吉が云つた。そして辯護士を頼む必要もないと斷つてゐた。

 富岡は、清吉に云はれてみて、なるほど、人間は、何處へ住みつくのも同じ事だと思つた。いまさら、海外へ出る事を夢想してみたところで、昔ながらの生活が、自分の前に再び現はれるとは考へられない。このやうな世の中になつてしまつた以上、昔の夢や幻は、早く切り捨てた方がよいのである。

 加野も、たうとう、胸を惡くして死んでしまつた樣子だ。みな、行きつく終點へ向つて、人間はぐんぐん押しまくられてゐる。富岡は、だが、不幸な終點に急ぐ事だけは厭だつた。心を失つた以上は、なるべく、氣樂な世渡りをしてゆくより道はないと悟つた。

 ゆき子には逢ひたくはなかつた。

 五千圓の金を工面して送つたが、それは、子供を此の世から消してくれた、さゝやかな祝ひの餞別でもあつた。心の底から、子供をほしいとは思はなかつたのだ。

 朝からかなりひどい吹き降りである。

 おせいのゐないベッドに横になり、富岡は、呆んやり、雨の音を聽いてゐた。窓は白く煙り、水滴が汚れた硝子戸を洗ひ流してゐる。身動き一つすることもものうく、富岡は、胸に手を組んだまゝ眼を開けてゐた。

 たつた此の間まで、自分のそばに、大柄なおせいが横になつてゐた。おせいは、寢覺めに、かならず、富岡の脚の上に、自分の兩の脚をのつけて、唄をうたつた。その時だけが、二人をしみじみと近いものにしてゐるやうな氣がして、富岡は眼を閉ぢたまゝ、おせいの唄を聽いてゐたものだ。いまは、そのおせいは、何處にもゐない。だが、富岡は、死んだおせいを戀しいともなつかしいとも思はなかつた。かへつて、さばさばとした氣持ちである。富岡にとつて、もう、女はこりごりであつた。ベッドに一人で横になつてゐる事が、こんなに樂々として健康な事も初めて知つたやうな氣がした。今日になつて、初めて、生活轉換の機會が到來したのだ。政治、社會道、徳、それらのものを、粉ひき機械のやうに、粉々に打ち碎いて、奔放な自分にかへりたかつた。獨りといふ事がどんなに爽やかなものかと、窓外の枝木をふるはせて激しくふる雨に、富岡は、うつとりと眼を向けてみる。

 獨りで暮す緊張だけが、今日の富岡の救ひでもある。

 まづ、此の部屋から去る事。それと同時に、妻も兩親も捨てる事。もし、よかつたら、自分の名前さへも替へてみたかつた。勤め口もやめて、新しい仕事をみつけたかつた。何もおせいが亡くなつたから、急に、おせいの爲に、こんな氣持ちになつたのだとは思ひたくなかつた。

 だが、自分と關係のある一人の男が、獄に投じられてゐると思ふのは、富岡にとつて、あまりいゝ氣持ちのものではない。向井清吉のしよんぼり坐つた、獄中の一片が、ちらちらと、富岡の心のなかを横切つて行く。その思ひは邪魔くさくもあつた。本人の云ふ通りに、早く刑がきまりさへすれば、自分もまた落ちつくのかも知れない‥‥‥‥。

 雨の窓を見てゐると、外の緑が濡れて霧を噴いてゐるやうに見えた。一種の神秘な緑の光線が、ぐつと部屋の中にまで浸み込んで來る。死といふものが、たやすく肌に觸れる氣がしたが、人間は、なかなか死ねないものであると思つた。富岡は、會社も、あの事件以來、ずつと休んでゐた。富岡は或る新聞社で出してゐる農業雜誌に、南方の林業の思ひ出と云つたものを、此の數日ぽつぽつ書き出してゐた。百枚ばかりのものであつたが、それが書けたら、その農業雜誌に送つて原稿を金にかへてみたい氣がしてゐた。

 林業の思ひ出をつゞる前に、富岡は、きまぐれな氣持ちから、南の果物の思ひ出といつた三十枚ばかりの文章を、その農業雜誌に送つておいた。丁度あの事件のあつた頃である。その一文は、農業雜誌に載り、一萬圓の稿料を貰つた。思ひがけなかつた事だけに、富岡は、そのやうな才能もあつた自分に勇氣づけられてゐた。

 その文章は、こんなものであつた。

 私は、以前農林省の官吏で、軍屬として、四年ばかり佛印に住んでゐた事があつた。熱帶地方に、四年の歳月を過したが、こゝでは、私は、さまざまな果物の思ひ出を持つた。

 熱帶地方には、色々な果樹が繁生し、この果物の豊醇な味覺は、熱帶に生活するものにとつては、何よりも強い魅惑である。最も私の印象深いものをあげるならば、熱帶の果實の王樣であるバナナを初めにあげなければなるまい。此の頃、やつと臺灣から、日本にも輸入されるやうになつたが、このバナナに、何百かの種類があると知つてゐるひとは少ないであらう。細いもの、太くてずんぐりしたもの、稜角が顯著なもの、色が白茶けたもの、少し紅色を帶びたもの、芳香の強いもの、形や味は、まつたく千差萬別である。

 私は、熱帶の生活では、おもに、キングバナナや、三尺バナナを特に選んで食べてゐた。稀には料理用のバナナを供せられたが、美味とは云へない。繁殖には、ヒコバエを用ひてゐるが、植ゑて十五ヶ月位たつと、高さ十尺から二十尺となり、葉の着生した芯から、四五尺の偉大な花梗が出て花をつける。果實を結び、花梗は自然に下へ曲り、幹は枯れてゆき、その株から生じるヒコバエがこれにかはり、一年を經ると、また結實する。暑い濕潤な風土に適し、土壌は粘質で、排水がよければ何處でもよい。だが、風當りの強い、石礫地や、砂質の石灰岩質の土壌には適さない。バナナは天與の果實で、貧者にも最もよろこばれて、食事のたしに用ひる。バナナが果實の王ならば、女王と云ふべき果實は、マンゴスチーンであらうか。學名をガルシニア・マンゴスタナと云ふ果樹に生ずる。私が、初めてマンゴスチーンを見たのは、河内の町、プラチックに近い果物店であつた。小さい柿粒ほどの大きさで、頂點が扁平で、果皮平滑、褐紫色である。この果實を輪切りにすると、中にクリーム状の白い果肉のついた種が、塊をなしてゐる。果皮にはタンニン酸と色素を含み、布片に果汁をつけると、その汚染はなかなかとれない。五月から七月頃までが出さかりと云ふ事であつたが、私が河内で求めて食したのは二月であつた。ユヱのモーラン・ホテルに二週間滯在中も、毎食の卓子に、このマンゴスチーンが出た。マンゴスチーンはミカンの味ひがした。

 この樹は、小喬木で、樹形は圓錘状、葉は大形、對生、長楕圓形、革質、馬來が原産地である。成長が非常に遲く、結實するまでには、九年から十年を要する。生育の地は、暑くて濕潤な氣候で、土壌は深く、肥沃で排水良好でなくてはならない。マンゴスチーンを上品な果實とすれば、その正反對な果物に、臭氣ふんぷんとしたドウリアンと云ふ珍果のある事を書かねばならぬ。

 富岡は、他にも、カルダモム、サポチル、バラミツ、パパイヤなぞの果實の生態を書き、その果物を食べた時の思ひ出や熱帶地方の旅行記をもつけ加へておいた。富岡は、ベッドの下に手をのばし、その農業雜誌を取りあげてはぱらぱらとめくり、自分の文章が活字になつてゐるところを眺めてゐた。自然に南のダラツトの風物が瞼に浮んで來る。あの時代を考へると、あまりにも、自分の生活の變りかたの激しさに、呆然として來るのだ。

 一萬圓の稿料の半分を割いて、富岡はゆき子に送つたのだが、その金が、子供をおろす病院の費用になつた事も、皮肉な氣がした。佛印に捨て去つて來た、安南人の女中に産ました子供の事が、いま、富岡はふつとなつかしく思ひ出されたが、生涯、その子供に逢ふ事もないだらうと思ふにつけて、富岡の荒さびた氣持ちのなかに、その思ひ出は、郷愁をそそつた。

 雜誌を放つて、ベッドに起きあがると、誰かゞ、扉をこつこつ叩いてゐた。富岡は冷やりとして、「どなた?」と呼んだ。

「わたしです、ゆき子です‥‥」と扉の外で云つてゐる。

 富岡が、扉を開けて行くと、痩せてすつかりやつれ果てたゆき子が、濡れた雨傘を持つて廊下に立つてゐた。

 薄情のやうだけれども、富岡は肚の底から、ゆき子の訪問を迷惑至極に思つた。




四十三

 三週間待つても、富岡が來てくれない事に、ゆき子は焦々して、雨の日であつたが、ゆき子は思ひ切つて、富岡を尋ねて來たのだ。扉を開けてくれた時の、富岡の表情を見てとり、ゆき子は、もう、どんなに努力しても、富岡との愛情は、今日で終りになるにちがひないと受け取つた。雨ゴートも、雨靴もないゆき子は、水色のブラウスに紺のスカートをはいて、毛深い脚をむき出したまゝ、部屋へ默つて這入つて來た。

「お邪魔ぢやなかつたンでせうか?」

 富岡は、よれよれの浴衣の前をあはせて、窓ぎはに坐り、つとめて、ゆき子に笑顔を向けようと努力してゐる。

「大變だつたンですのね‥‥」

「君こそ、大變だつたンぢやないの?もう起きていゝのかい?」

「えゝ、さう何時までも、入院してる譯にもゆきませんものね‥‥。やつと元氣になりました」

 佛印の頃は、人目のないところでは、すぐ、二人は寄り添ひ、手を握りあつてゐたものだがと、ゆき子は、索漠とした二人の現實を淋しいものに考へてゐる。

「新聞で讀みましたわ。ねえ、私、これ以上は待てなかつたのよ。きつと逢ひに行く。別れをしてゐないといふ事が、君の眞實なら、それを頼りに、逢ひに行くと書いて下すつた、貴方のお手紙にすがつて、私、やつと生きてゐたのよ‥‥」

 ゆき子は、そこへへたばるやうに坐つて、富岡に云つた。富岡は變化のない白けた表情で、

「うん、僕が、みんな惡いンだよ。君の事は、片時も忘れやしないンだが、おせいの亭主の問題もあつてね、ごたごたしてたから行けなかつた‥‥」

「ぢやア、私が病院でうんうん唸つて、そのまゝ亡くなつても、貴方は來て下さらないつもりだつたンでせうね‥‥」

「いや、それは、また違ふよ。君が、大丈夫だと思ふから、安心してゐた‥‥」

「嘘! 嘘ですよ。貴方は、私に嘘云つてるのよ。もう、愛情も何もない癖に、弱氣で嘘云つて、私をよろこばせようたつて駄目だわ。――そんなに、貴方は、おせいさんがなつかしいのかしら‥‥。あんな女の何處がいゝの?」

 ゆき子は、おせいへ對する嫉妬で、躯が震へて來る。石のやうに動かない男の心理が、ゆき子にかあつと反射して來て苦しかつた。こゝろをぶちまけてしまつては、二人の間が駄目になると思ひながらも、ゆき子は吐き捨てるやうに云つた。

「子供の事なンか考へてもゐないくせに、子供を生んでくれつて云つたのは貴方ぢやありませんか‥‥。その癖、一度だつて來た事もないし、病院へ行つてからも、見舞ひにも來てくれない。離れてゐると、貴方と云ふひとは離れつぱなしなンです。――かうして逢つてる時だけ、お上手を云つてくれるのよ。心にもない事を云つて、それで、おせいさんも迷はしてしまつたンでせう?貴方つてひとは、心中するつもりでゐても、女の死ぬのを見て自分だけゆつくりその場をのがれて行くひとです。ひとを犧牲にして知らん顔してるンだわ。――私、おせいさんが憎い。おせいさんの亭主だつて憎いわ。いまから考へてみると、何故、伊香保なンか行つたのだらうつて思ふの‥‥。私、口惜しくて仕方がないわ。貴方つて云ふひとが‥‥。さつぱりしてしまふつもりでゐて、かうして尋ねて來なければならない、私の氣持ちが、私は、いゝかげん厭になつてゐるンです。心のなかゞ、少しも動かないのよ。考へてゐる事にこりかたまつて、少しもそこから出て行けないの‥‥。うまく云へないけど、貴方をとても怒つてゐて、貴方が好きだつて云ふ事は、私、とても哀しい‥‥」

 ゆき子は、坐つたまゝベッドへ凭れて泣いた。ベッドは軋んだ。富岡は吹き降りの雨をじいつと眺めながら、ゆき子の泣き聲を聞いてゐた。俺に、いつたい、どうしろと云ふことだらう‥‥。此の女は、何時まで昔の思ひ出のむかしを、金貸しのやうに責めたてるのだらう‥‥。昔の二人の思ひ出の爲に、いまだに、その思ひ出を、金貸しのやうにとりたてようとしてゐる。ゆき子の泣き聲を聞いてゐると、急に富岡はむかむかして來た。

「頼むから、俺を一人にしておいてくれツ。何もやる事がないンだ、俺と云ふ人間は、もぬけのからなんだから、君のやうに、さうおしつけて來たつて仕方がない。――伊香保でお互ひさつぱりしてしまつた筈ぢやないのかい?」

「厭よ、そんな事云つたりして‥‥。私がおせいさんに敗けたみたいだわ。前のやうに、優しくなつてよ‥‥。別れてしまふのは厭なの‥‥。」

「俺と一緒にゐれば、君は駄目になつてしまふ。もう、日本へ戻つた時から、二人は別々の道を歩んでゐた方がよかつたンだ。世の中も、あの時とは變つて來てゐるしね。君は君の人生へふみ出してくれたらいゝンだ‥‥」

「まア! 何て、怖い事を云ふのよ、貴方つてひとは‥‥。私に、こゝで死んでみせろつて云つてるみたいね‥‥。私が、自分の人生を歩むのだつたら、もうとつくに、貴方には逢つてはゐないわ。――それ、でも、貴方の本當の氣持ちなンでせうね。私に飽きてしまつたから、本當の事が云へるンでせうね‥‥。私、何を云はれたつて驚かないわ。えゝ、さうなンです。おせいさんと二人で暮していらしたこの部屋の空氣が、貴方と私に邪魔をしてるのかも知れないけれど‥‥。もし、こゝに、おせいさんのお化けが出て來たら、私云つてやる。一生、富岡さんとは別れてはやらないつて云つてやる‥‥」

「おい、聲が大きいぢやないかツ。こゝはアパートと同じなンだから、つゝしんで貰ひたいね。おせいの事なンか、いまはもうどうでもいゝし、かへつて、あいつが死んでくれて清々してゐる。向井さんに濟まなかつたと考へてゐる位だ、かうして俺は自由に、いまは何處へでも歩いて行けるンだが、向井は、何處へも歩いて行ける自由のないところに、いまも坐つてゐるンだぜ。俺が、焦々してる氣持ちも、少しは考へてみてくれないのかい?」

「私が、おせいさんの亭主の事を考へなくちやいけないなンて、妙ぢやないの‥‥。厭ですよ。私と貴方との間に、あのひと達が何のかゝはりがあるンでせう‥‥。勝手に貴方のひきおこした事件で、私の知つた事ぢやないわ。何を云つてるンですツ‥‥」

 ゆき子は、まだ、深くおせいを愛して、そのおもかげを忘れかねてゐる富岡のふてぶてしさが口惜しかつた。口惜しさに心が昂ぶり、眼が据つて來ると、ゆき子は急にめまひがして、くらくらとそこにつゝぷしてしまつた。下腹に澁い痛みを感じ、肩の力が拔けてゆくやうだつた。

 富岡はあわてゝゆき子の肩を強くゆすぶつた。

「おい、どうした! 氣分が惡いのか?」

 雨はいつそう激しくなり、風も強く吹きつけて來た。富岡は、ゆき子を抱いてベッドに寢かしつけたが、額に青い筋が浮き、唇は白く乾いて、頬の肉が、ひくひくと、ひきつゝてゐる。富岡は、自分がよつぽどひどい事を云つたのだと判つた。ゆき子は躯全體が病人のやうになつてゐた。兩の手は何かを掴まうとして、十本の指が、蝉のやうに動いてゐる。爪には黒く垢がたまつてゐた。

 金盥に水を汲んで來て、富岡はタオルで、ゆき子の額を冷やしてやつた。つくづく自分が厭になつてゐる。富岡は急に金がほしくなつた。ゆき子が昏々と眠りかけて來たので、そのまゝ机に向ひ、富岡は林業と植物に就いての、佛印の思ひ出の原稿に向つた。

 ――檳椰(ビンラウ)と蒟醤(キンマ)については、安南に美しい傳説がのこつてゐる。

 安南の王であるフン・ヴォンの四世の時代である。廷臣カオの家に、タン、カン、と云ふ二人の兄弟があつた。小さい時に父を亡くした兄弟は特に仲がよかつたが、偶然身をよせたルウと云ふ家に一人の娘がゐて、兄のタンは娘と相思の仲になり結婚してしまつた。

 そこまで筆を運んでゐる時、富岡は、ゆき子と初めて相知つたダラットの高原の景色が心を掠めた。オントレの茶園をおとづれた時のゆき子の赤縞のギンガムのスカートが、昨日のことのやうに瞼にちらつく。若々しく少女のやうに美しかつたゆき子のなれの果てが、いま、自分の部屋のベッドに横はつてゐるのだとは、どうしても思へない。だが、心はおだやかに靜まつてゆき、思ひのほかにペンははかどり、軈て空腹をおぼえて來た。茶箪笥からパンを出して來て、富岡は電熱でコオヒイをわかした。

 茶箪笥の枕時計を見ると、もう一時近くである。パンを頬ばりながら、ふつと、富岡がベッドを振りむくと、額のタオルの下から、ゆき子は眼を開けてゐた。

「君も、食べたらどうだ?」

 富岡は、新しく茶碗にコオヒイを淹れてやつた、ゆき子は眼を開けたまゝ天井を見てゐた。

「起きて、コオヒイを飮まないか」

 ゆき子は素直に起きて、富岡からコオヒイ茶碗を受取つた。




四十四

 夕方になつても雨はいつそう激しくなつた。富岡はそくそくとペンを走らせてゐる。――私のゐたダラット地方の山林事務所管内では、カッチヤ松の出材量は一五、七○○立方米位であつたが、その頃、私達森林官は、軍の命令で、急速開發にかゝり、かなり亂暴な濫伐もやつた。

 その頃の將校の一人々々のおもかげもいまは記憶からうすれて來てゐる。

「ダラットからドユラン、それから、終點の驛は何と云つたかね?」

 突然、富岡がゆき子に聞いた。

 ゆき子は書きものをしてゐるのは、そんな事だつたのかと、急に活々として、ベッドから降りると、

「ツルチャムつて云ふンでせう‥‥」と、云つた。

「あゝ、ツルチャムだ」

 ゆき子は暫く、富岡の机に向つた後姿を眺めてゐた。

「ねえ、マンリンつて部落を覺えてらつしやるかしら‥‥」

「マンリン?」

「もう忘れちやつた?」

「あゝ、安南の陵墓のあつた處だね?」

「えゝ、ダラットから四キロ、林野局の駐在所があつて、欝蒼とした森のなかを初めて歩いたわね」

 ゆき子は、富岡のそばへ行き、机の原稿をのぞきこんだ。

「そんなものを書いて何になさるの?」

「これで金を稼ぐンだ‥‥」

「そんなものがお金になるの?」

 富岡は、ベッドのそばの農業雜誌を取つてきて、ゆき子に渡した。

「これを讀んでごらん‥‥」

 ゆき子は手にとつて、目次を見た。富岡兼吾と云ふ文字が眼にとまつた。すぐ、ぱらぱらと頁をめくり讀んで行つた。

「それで金を貰つたンで氣をよくしたンだ。君に送つた金は、此の原稿料なンだぞ‥‥」

「まア! 貴方が書いたの?」

 バナナや、マンゴスチーンや、ドウリアンの思ひ出話や生態が、くだけた筆で綴られてゐた。

 夜まで、雨風は激しく、窓外はまるでつなみのやうな音をたてゝ樹木が鳴つてゐた。ゆき子が泊ると云ひ出したが、富岡はもう、どうでもいゝ氣持ちだつた。殘りのパンとコオヒイを飮んでゐる時に電氣はぱつと消えてしまつた。

 ローソクの火を机にたてゝ、二人は友人同志のやうな話しぶりで、佛印の思ひ出を語りあつた。時々、二人は喰ひ違ひな事を覺えこんでゐる處もあつたりした。二人とも、その思ひ出によつて、もう一度、激しいあの日の愛情を呼び戻さうと努力しあつてゐるところもある。何時までも電氣はつかなかつた。ローソクの灯も絶えた。仕方なく、二人はベッドに這ひあがつて横たはつた。カーテンのない窓は、時々稻光りで明るく、ざあつと板戸や硝子に吹きつける雨が、波のやうな音をたてた。

 富岡は、また同じ事のむしかへしだと思ひながらも、意固地に寢たまゝの姿でゐた。ゆき子はせつかちに、何かを待ち望んで、マンリンの森の中の話を幾度もくり返してゐる。思ひ出の中から、激しい接吻の味が、むつとゆき子の胸のなかにしびれて來た。だが、富岡は横になつたまゝマンリンの思ひ出の景色なぞにはふみとゞまつてはゐなかつた。耳もとに、幾度も、ゆき子が、マンリン、マンリンとさゝやいてくれても、富岡は、自分の横に、大柄な躯を横たへてゐたおせいの思ひ出しか浮かばないのである。脚を自分の躯の上にどたりと乘つけて、鼻唄をうたつてゐたおせいの最後の顔が、ありありと眼底に浮んだ。

 眼を半眼に開き、舌を出してゐた、と、宿のものに聞いたが、富岡はかいぼうにまはされたおせいの死體は見る事なく終つた。手ごたへのある大柄な躯つきが、ふつとなつかしくなる。もう、あの女は死んで此の世にはゐないのだ‥‥。暗闇の中で、富岡は、咽喉もとに熱いものがこみあげて來た。

「ねえ、ダラットのあのテニスコートの下の、中國人の別莊の庭を覺えてゐる?」

「あゝ」

 富岡は、ダラットだとか、中国人の別莊だとかは、いまではどうでもよくなつてゐた。覺えてゐるならば、その後は貴方が語つてくれと云はぬばかりのゆき子の甘さが、富岡には不快でもあつた。そんな昔の夢はどうでもいゝのだ。そんな夢にすがつてなんかゐられるものか‥‥。それよりも、おせいのがつちりとした、大きな肉躯への思慕で、富岡はふうつと溜息をついた。

 おせいによつて、初めて、本當の女を知つたやうな氣がして、富岡は眼尻の涙のつたふのをおぼえた。

 そつと、胸の上にゆき子の手が這つて來たのを、富岡は掴んでもとへ戻した。

「あら、どうしたの? いけない?」

「うん、今夜は疲れたンだ。ぐつすり眠りたい‥‥」

 ゆき子は手を引つこめて、暫く息をのんで默つてゐた。富岡の氣持ちの變化を察したやうだつたが、まさか、おせいの事を深く考へ耽つてゐるとは思はなかつた。

「ねえ、南の話をしませう‥‥。こんな晩は、何だか、私すぐ眠れないのよ」

「俺は眠いンだよ」

「久しぶりに逢つて、どうして、そんなに冷たいのかしら‥‥。もつと、優しいひとぢやなかつたの‥‥」

 ゆき子は、もう一度、富岡の胸にとりすがつてかきくどいてみた。富岡は、何かで讀んだ、ワイルドの葡萄酒の醸造量と質とを知るには、なにも、一樽あけてみる必要はないのだと云ふ言葉を思ひ出してゐる。むし返しは澤山である。いまのところ、おせい以外の躯を求める氣はしなかつた。咽喉は乾いてはゐないのだ。富岡は何時の間にかぐつすりと眠りこんでゐた。

 暗い水中をくぐり拔けてゐるやうな、不氣味な夢のなかで、富岡はおせいに逢つた。眼を半眼に開いて、舌を長くたらした不氣味な顔だつたが、なんともなまめかしいのである。水中のなかで、すぐ抱きとつてやると、長い脚を自分の胴に卷きつけて、手を首にまはして來た。おせいの冷い舌が頬に觸れた。思はずわあつと聲をたてた。

 富岡は、自分の聲で眼を覺した。

 ゆき子の躯が重くのしかゝつて、濡れた頬を富岡の頬にぴつたりくつゝけてゐる所だつた。




四十五

 翌朝、富岡が眼を覺ました時には、ゆき子はおせいの姫鏡臺の前で化粧をしてゐた。雨はからりとあがつて、秋によくあるやうな、青い澄みきつた空であつた、

 富岡は、寢ながら、ゆき子の化粧をしてゐる姿を眺めてゐた。悔悟に似た思ひが、重くかぶさり、泥沼に引きずりこまれてしまつた氣がした。

 ゆき子は、おせいの粉白粉やパフを遠慮なく使つてゐる。女と云ふ動物は、無神經そのもので、恥を知らないものなのだなと、ゆき子の無遠慮さが不快だつた。死んだおせいの化粧品を、何の考もなく、無雜作に使へる神經は、女だけのものかも知れないと思つた。だが、それよりも、もつと無神經なのは、自分ぢやないのかと、おせいのベッドで一夜を不純に明かした悔ひが、富岡の胸にしみじみと反省された。ひどい事をしてゐるのは自分の方である。鏡の前のゆき子は、すつかり痩せ細つてゐた。膝のふくらみが、薄く、馬鹿に年を取つたやうだ。胸も薄くなつてゐた。髮は赤茶けて乾いてゐる。額が馬鹿に廣く、眼のふちがただれてゐた。

 富岡はむつくり起きて、階下へはゞかるやうな靜かな足どりで顔を洗ひに行つた。ゆき子は化粧をしながら、急に涙が溢れてきた。どうにもならない事を、昨夜ではつきり知らされた氣がした。寢言にまで、おせいを呼んでゐる富岡に、ゆき子はどうにも刃向へないのである。あのひとには、佛印の思ひ出なンか、何も殘つてはゐないと悟つた。

 十時頃、ゆき子は後味の惡い思ひで、戸外へ出たが、富岡は疲れてゐるからと云つて、ゆき子を送つては來なかつた、ゆき子も疲れてゐた。くたくたに疲れて、空氣を拔かれたやうな躯を、ぶらぶらと無意識に驛へ運んでゐる。ゆき子は、如何に生きてゆくべきかを考へ、穴の中におちこむやうな孤獨を味つてゐた。このまゝ身動きがならないとなれば、思ひ切つて、伊庭のところへ行き、當分は大日向教の事務でもとらうかとも思つた。

 五日ばかり、また、無爲に過ぎた。

 伊庭からさいそくの手紙が來た。一日も早く來てほしいと云ふ文面である。ゆき子は、大日向教と云ふものがどんな處なのか行つてみるつもりになつた。富岡からは、何の音信もない。少しでも愛情が殘つてゐるものならば、富岡は、自分から尋ねて行くと云つた約束を守つてくれさうなものである。ゆき子は、富岡との縁があるものかないものか、大日向教に頼つてみようかと、心が少しばかり動いて來た。

 燒けつくやうな暑い日であつた。

 ゆき子は、池上上町の三の×番地大日向教と云ふのを探して行つた。なるほど銀行家の家邸を買つたと云ふだけあつて、御影石の門柱には、鐵格子の扉がついて、玄關まで砂利が敷きつめてある。庭樹は手入れが行きとゞき、新しいトタン葺きの自動車小舍まで揃つてゐる。耳門から邸内へはいつて行くと信者ででもあらうか、痩せ細つた中年の女が、大麥藁帽子をかぶつて、庭の草むしりをしてゐた。玄關の軒下に大きな檜の一枚板に、緑色の文字で、點晴と書いてあつた。硝子戸は開かれ、澤山の下駄がずらりとタイルの床に竝んでゐる。

 龍を描いた新しい大衝立が玄關の正面にある。その蔭で、机に向つてゐるのが産院で見覺えの大津しもであつた。白粉をこつてりとつけて、紺の上着に紺の袴をはいて、何か書きものをしてゐた。奥深い玄關なので、冷い風が吹き拔けてゐる。奥の方では、祈りでも始まつてゐるのか、がやがやと不安な聲で合唱が聞えた。




四十六

 遠い山の中で、獸の唸り聲を聽いてゐるやうな祈祷の聲がなかつたら、此の玄關は、田舍の病院にでもゐるやうな錯覺をおこす。大津しもが、ゆき子に眼をとめると、すつと立つて來て、

「よくいらつしやいました。教師さま、お待ち兼ねでございました」と、云ひながら、下駄箱から、新しいスリッパを出して揃へてくれた。

 大津しもは、昔からそこに坐つてゐる人間のやうに落ちついたものごしで、固い表情をしてゐる。

「どう? お馴れになつて?」

 ゆき子がスリッパをはきながら尋ねた。

 しもは、持參金つきの嫁のやうな、妙な氣位をみせて、その事には返事もしないで、「どうぞ、こちらへ」と、ゆき子を廊下の奥へ案内した。三尺の狹い暗い廊下をつゝ切つて、曲折れになつた部屋の前へ來ると、しもは廊下へ手をついて、

「教師さま、おゆきさまがお見えでございます」と云つた。

 ゆき子は、馬鹿々々しい氣がした。部屋の中では、「うをつ」と伊庭が返事をしてゐる。しもが板戸を開けると、六十年配の男が、軍隊毛布の上に横になつて、伊庭が、その男の上に兩の手をかざしてゐた。しもは部屋の隅から、茶無地の薄い座蒲團を取つて、入口に敷き、ゆき子に、敷くやうにあてがつて、また、靜かに板戸を閉して出て行つた。すべてが、ゆき子には不思議な世界である。寢てゐる老人は、眼を閉じて、唇をぱくぱくさせてゐた。蒼黒い顔で、髮は枯草のやうに亂れ、額に大きな黒子があつた。白いYシャツに、灰色の洋袴をはいて素足である。

 伊庭は、大津しもと同じ黒色のゆるい上着を着て、これも眼をつぶつてゐる。

「よいですか‥‥。大日向の本願は、老少善惡のひとを選ばれず、ひたすら信心の心篤いものをいとしみ給ふ。煩腦熾盛の衆生をたすけ給はんが爲の御心にてまします。現世の善と惡は要にもたゝず、たゞたゞ大日向の念佛のみとなへれば、神佛にもまさるべき善はない。惡を怖れるべからず。なかでも病惡は、人間の惡のうちの最も輕いものなり。病惡は眼に見ゆるものにて、これ、己れの道しるべを見る如し。心の惡は眼には見えず、手にはとらへがたく、これこそ、地獄の惡なり。業とや云はん。病惡は輕し。大日向を日夜となへるならばいづれの行よりも、強き天力、地力の湧くものなり。大日向の本願、まことにこゝのことなり。病惡は輕しとの助けの手をのべ給ふ‥‥」

 少しの澱みもなく伊庭はすらすらと、このやうな事を云つた。そして、兩の手の震動を老人の肩のあたりに置いて、ものすごく激しくさせた。老人は、唇で息を吸つた。

「もつと、口いつぱいで、空氣中のエーテルを吸ひこんで下さい。いま、すごく、私の手に大日向のエーテルが出て來ましたぞ‥‥」

 ゆき子はじつと眺めてゐるうちに、伊庭は狂人になつたのではないかと思つた。伊庭は時々眼を開き、老人の瞼の上にかゞみ込んでゐた。

「煩腦具足の衆生は、いづれにても生死をはなるゝ事かなはず、哀れみ給へ、哀れみ給へ。病惡の正因をぬぐひ去り給へ。大日向の慈悲を垂れ給へ」

 暫くそのやうな言葉をくりかへして、伊庭は、震動する手をじいつと、老人の頭に置いてゐたが、「どうぞ、お清めを」と云つて、老人の肩を輕く叩いて起した。老人は晴々とした顔で、むつくりと毛布の上に起きなほつた。伊庭は床の間の三寶の上にあつた白布で、兩の手を拭いてゐる。

 老人は身づくろひして、そこにきちんと坐りこむと、伊庭に丁寧におじぎした。

「如何ですか? 少しは躯が輕くなりましたか?」

「はい。さつぱりいたしました。とても、爽やかになりましてございます」

「四五回續けると、すつかりよくなりますな。相當、重い病氣ですから、一朝一夕には、なほるといふわけにはゆきません。大日向さまが、世間の山師のやうに、即座によくなるといふやうな、そんな教へは絶對にしませんので、その人々の祈祷の根氣を、御覽になり次第で、病惡を去つていたゞきます」

「はい、何回でも、拜みに參るつもりでございます」

「それがよろしいですな‥‥」

「今日の御清診料は、いかほど、奉納いたしたらよろしゆうございませうか?」

「いや、こゝは病院ではありません。無料でいたすのが慈悲で、これが大日向教の根本なのですからな‥‥。金のないひとからは一錢も貰ひませんが、金のある人からは、いくらでも頂戴して、そのひとの諸惡の去る祈祷をたてゝをります」

 伊庭はさう云つて、悠然と、机の前に戻つた。老人は困つたやうな樣子だつた。伊庭はすかさず、臺帳を老人の前に差し出した。

「これは御清診料として、いまゝでに頂戴したものです。御參考まで、どうぞ‥‥」

 老人は、その臺帳をうやうやしく受取つて自分の膝の上で開いた。黒い袴をはいた病弱さうな少女が、茶を持つて來た。

 臺帳のはじめには、前大臣某の名が記され、五萬圓の清診料が記入してある。戰犯で亡くなつた、その大臣の本當の署名なのかどうかは、うたがはしい文字であつた。老人は暫く臺帳を眺めてゐたが、軈て、臺帳を毛布の上に置き、そばの卓子の硯箱の筆を取つて、一金五百圓也と記入した。

 老人は五百圓の清診料を拂つて、丁寧に二度目の清診日と時間を伊庭に聞いて、廊下へ出て行つた。

 ゆき子は吻つとして、その老人の足音の遠くなるのを聞いてゐた。

「隨分、うまい商賣ぢやないの?」

 ゆき子が、笑ひながら云つた。實際、たつた此の間まで、何の商賣にもありつけなかつた、なまけものゝ男が、どのやうな風の吹きまはしか、手を一寸震はせて、怪し氣な祈祷をして、五百圓の金にありつけるのである。うまい商賣と云はなければなるまい。

 昔のゆき子だつたら席を蹴つて、部屋を出て行くところである。伊庭は、机から外國煙草を出して一服つけながら、胡坐を組んだ。河内山と云つた、卑しい胡坐の組みかたで、

「どうだ、世の中は面白いだらう? 大した事はないンだ。人間といふものは信用させさへすればいゝンだ。手品なンだ。まんまと、大日向のエーテルを噴きつけてやれば、病人は息を吹きかへすンだよ。もう、昔のやうな、月給取りの暮しには戻れないぢやないか‥‥。衆生なンてものは、神や佛は持つちやゐないのさ。自分で持てないから、小金を積んで、神佛の慈悲を買ひに來る。それを心得て、こゝでは大日向教と云ふものを製造して賣つてやるンだ、みんなよろこんで買つて行くンだな‥‥」

 ゆき子は呆れてゐた。伊庭の戰後の心の變りかたが、現在のゆき子にも通じて來る。ゆき子も、煙草を一本貰つてつけた。廣い床の間には、こゝにも怪し氣な書體で、何か書いた軸がさがつてゐる。七寶の花瓶に、女松が活けてあつた。十疊ばかりの部屋の眞中に、軍隊毛布敷いてある。縁側の見える障子ぎはには、伊庭の机。そのそばに、小さい中國風な卓子が一つ。天上が高いせゐか、おちついた部屋であつた。風もよく通つた。中庭にでもなつてゐるのか、狹い庭には、干物がしてある。

「もし、怪しいと思つて、新聞社からさぐりにでも來たらどうするの?」

「なあに、そんなのはすぐ判るさ。怪しい奴からは一錢も貰はない事にしてゐる」

「そんなに眼が利くんですの?」

「そりやア、こんな商賣してゐると、どんな人間もすぐ見破つてしまふさ」

 ゆき子は、何時かは、かうした水商賣にも似たからくりは長續きはしないだらうと思へた。だが、戰後に何をするあてもない人間が大量に放り出されてゐるとなると、かうした異常な心理を持つた人間も出て來るのだらう。

「躯はどうなんだい?」

「私も清診料を拂つて診て貰ふくちね」

 ゆき子は笑ひながら、煙草をふかした。富岡との問題が、まだ一向に、自分では解決したものにはなつてゐなかつたが、一時しのぎに、伊庭のこの仕事を手傳ふのも惡くはないと思つた。ゆき子は、もう、まつたうな仕事に就ける自信もなくなつてゐた。大日向教がどんなものであるにもせよ。何かのよりどころを掴むには、バーや喫茶店の女給になるよりも、こゝで、一つ、馬鹿馬鹿しい仕事を手傳つた方が、氣が樂になりさうでもある。

 世の中のすべてに嫌惡の情を持つてゐたゆき子は、富岡をこの場所から、呪ひつめてやりたい氣もしてきた。おせいに敗北した事が、ゆき子には、自分が生き殘つてゐるだけに口惜しくもあつたのだ。自分が死んでゐたら、富岡は逆に、自分の死をいとしんでくれるだらう。

「大分やつれたぢやないか‥‥」

「えゝ、少しおいしいものでも食べて、ゆつくりしてゐれば、貴方みたいに肥つて來るでせう‥‥。女つて、お金をかけてくれる人がなくちや、綺麗にはならないもんなのね」

 伊庭はにやにや笑つて、耳垢をほじくつてゐた。祈祷が濟んだと見えて、太鼓が鳴り出した。すぐ、大津しもが、伊庭を呼びに來た。

 ゆき子も伊庭について廣間へ行くと、三十人ばかりの男女の信者が部屋のぐるりに立つて、教主と教師を迎へてゐた。こゝだけ新しくつけ足したものと見えて、二十疊敷位の板の廣間は、木の香も新しく、三面の祭壇には、紫の幕が絞つてあつた。幕の後には、三ケ月型の鏡が光つてゐる。

 その前に、教主の成宗專造が、中國風な腰高の椅子に腰をおろした。法服のやうな黒い服を着てゐる。胸に金色の三ケ月と日向草を組み合せた紋章を刻んだバッヂをつけてゐた。伊庭は、教主のそばに立つて、信者達に一禮すると、

「お樂に‥‥」

 と云つて、信者達を板の間へ坐らせた。ゆき子も末坐に坐つた。伊庭は籐椅子に腰をおろした。昔の小學校の作法室といつた感じである。教主は、机上の鉦を鳴らして、口のなかで何かぶつぶつつぶやいてゐたが、暫くして、机上の紙をひろげた。

「今日は、大日向さまの、第三章の御神意を御展べいたします。御信者の方は、どなたも、御神服をおつけ下さい」

 信者は膝に持つてゐた紫の袖なしのやうなものをてんでに擴げて、肩へ羽織つた。大日向教と染め拔いた、はつぴの襟だけのショールのやうなものである。

「第三章のみことのり申す‥‥。をのをの世界の境を一つにして、人間はまことのこゝろを交ふが道なり。世界のひと、いづれの行も足りず、たゞ迷ひ、たゞにさすろふものなり。大日向さまは、地獄よりこの人々すくひ給はんとて、娑婆の業を人間に與へ給ふ。他力をたのみて、眞實報土のこゝろなくば、この人々地獄への往生をとぐるものなり‥‥」

 開いた硝子戸から、凉しい風が吹いた。庭師がゆつくり鋏を使つてゐる音が長閑である。

「人それぞれに、五十年の月日を稼がせ給ふは、これみな犧牲の修行を積ませ給はんが爲なり‥‥」

 ゆき子は、板の間に坐つてゐる事が苦しくなり、そつと膝を崩した。




四十七

 富岡は清吉の爲に辯護士を頼んだ。せめて、さうした盡し方をしてやるより、おせいへの供養はないのだ。ゆき子から、めんめんと、もう一度、二人は一緒になつて立ちなほりたいと云つて來たが、富岡はゆき子に對しては、もう赤の他人よりもひどい無關心さしかない。このごろ、ゆき子は或る宗教にこりかたまつてゐる樣子だつたが、それもいゝだらうと思つた。おせいとの思ひ出の部屋からは、富岡は一向に腰をあげる氣配もなく、毎日、ベッドに寢轉んで、農業雜誌へ原稿を書いた。書けば、いくらかの稿料を送つて來た。富岡は、誰にも逢ふ必要のない。かうした仕事に、いまのところは滿足してゐた。勤めを持つて、毎日一定の時間をしばられる事に息苦しいものを感じてゐたからである。友人の會社へは、そのまゝ無斷で行かなくなり、富岡は、全くの浮浪者的心理に落ちこんでゐた。浦和の家も一向よりつかなくなり、妻の邦子からの音信も封を切らないまゝで、茶箪笥の上に放り出してゐた。長らく病床にある妻に對しても、いまは何の感情もない。老いた兩親も、いまのところは居食ひのありさまだといふ事も、富岡はよく承知してゐたが、これもまた、どうしてやつてよいのか、根氣も盡き果てゝゐた。家を賣つた金は大半は、材木事業で失敗してなくしてしまつたが、まだ、半年や一年位は、細々とやつてやれない事はない金額だけは、富岡は家の方に任せて來てゐる。

 寢ながら藁半紙のやうな原稿紙を擴げて、富岡は、漆に就いての隨筆を書いてゐた。南の思ひ出は、これすべて、只、記憶の海を航海してゐるやうなものである。

 漆は、日本、中國、印度支那、ビルマ、タイに限られた産地である。はじめに、此の樣なことを鉛筆で書きつけたが、妙に頭がしびれて來た。時々、めまひがする事がある。時間をきめて食事が攝れなかつたせゐか、富岡は、ますます、自分の肉體の衰へを感じて來た。この漆の原稿を書いて、一萬圓位は稼がねばならないと、心のなかは焦るのであつたが、頭がこれにともなつてゆかない。漆の産地なんか、どうでもいいぢやアないかといつた氣持ちになつて來る。

 急に書きかたを變へてみた。戰爭中、私が、トンキンの首都河内へ赴任してゐる時に、フウトウといふ、小さな町に呼ばれて行つた事があつた。と、思ひ出のやうな事から、書き始めた。

 フウトウは、河内の西北にあたり、河内から離れる事一三○粁の地で、こゝは世界にほこる漆樹園といつてもいゝところである。

 漆は、學名をルス・サクシーダナと云ひ、我國ではハゼの樹であり、トンキンでは、カイソンと云つた。フウトウの町では、日本の養蠶地のやうに、農家の副業としてカイソンが栽培されてゐた。昔は、安南漆といふものは、壺漆と云はれて、品質も粗惡で、價格も低廉であつたので、漆商の老舗では、安南漆を敬遠してゐた傾向があつたものだが、戰時中は日本でも品不足で、爭つて安南漆を輸入してゐた。私はほんの數日を、フウトウの漆樹園を視察にまはつた經驗しかないのだが、現在の日本では、農家の副業に、このハゼの植林に注目する事が出來たならば、日本の良質な漆を、西洋へ輸出出來るのではないかとも考へるものである。安南漆は非常に乾燥度が不良で、もう少し技術が進歩しなければ、折角の世界一の漆の町も、これからは寂れてゆくであらう。たゞし、價格が低廉であるといふ事は、日本の漆の比ではない。フウトウの農民は、掻き取つた生漆を、町の市場に持つて行つて、そこで仲買人に賣るのであつたが、フウトウの漆の市場は、あらゆる日常品が揃ひ、この日は、玩具箱をひつくりかへしたやうな賑やかな素朴さで、農家の女子供は、着飾つて市場へ出掛けて行くのである。

 富岡はこゝまで書いて、鉛筆をとめた。一世紀も違つた世界へ引き戻されたやうな日本の生活が、富岡には味氣なくなつてくるのだ。海の外へ出てみたい想ひは、いまのところ空想の世界になつたが、このまゝの状態では、どうにも拔けて行く場所がないやうだつた。これが己れの本當の場所なのだと思ひながらも、富岡はナイフで鉛筆を削りながら、ナイフの光つた刃をふと眼にとめて、漆の隨筆なぞ、書く元氣もなくなつてゐる。日本の漆が海外に輸出されたところで、どうなるものでもなかつたし、日本の漆の生産なぞは、安南や中國とはくらべものにはならない貧弱な生産高でもある。富岡はごろりと寢轉び、ナイフの刃をじいつと見つめてゐた。おせいは死んでしまつたといふ事が、ひどく心にこたへてきた。おせいが生きてゐる間は、爭ひの連續であつたが、清吉と云ふ獵犬が飛び出して來て、あばれまはつてゐた野兎のおせいを掴み殺してしまつた。自分は、山かげにかくれて、氣まぐれにおせいをねらつた獵師のやうなものだと、富岡は、自分のずるさを考へてゐる。清吉はそゝのかされて殺人を犯したやうなものだつた。ナイフの刃を、富岡は手首の動脈にあててみたが、ひと思ひにそこへ突き差す氣にはなれない。

 朝から何も食事を攝つてゐないので、富岡は嘔吐をもよほしてゐた。原稿もすゝまなかつたので、むつくり起きて、汚れたYシャツに、黒いサージの洋袴をはいて、階下へ降りて、下駄箱からおせいの下駄を出して、それをつつかけて戸外へ出た。黄昏の時間でありながら、街はまだ夕陽が眞晝のやうに明るかつた。驛のそばまでぶらぶら歩いて、小さい飮屋の繩のれんをくゞつた。強い醉ひに溺れたかつたのだ。燒酎を注文して、一氣に飮み干すと、二杯目をまた注文した。客は誰もゐなかつた。乾物を燒く匂ひが裏の方から流れて來た。亭主らしい中年の男が、カウンターの後で、十五六の娘を小聲で叱りつけてゐる。娘はおかつぱの髮を時々耳にかきよせながら、むつとした横顔で、壁の方を向いた。

「何だツ、そのふくれつ面は、世間の事は何も知らねえくせに、いまから男遊びしやがつて‥‥。昨夜は、何處へ泊つたンだよ?」

 富岡は、燒酎を飮みながら、じいつと、娘へ小言を云つてゐる親爺の文句を聞いてゐた。

「何處へ泊つたンだよう?」

 娘は默つてうつむいてゐた。富岡は三杯目を注文した。激しい醉ひがきて、少し氣分が晴々して來た。久しぶりに獨りで映畫でも觀て、うさばらしでもしたかつた。三杯目の燒酎は、娘が運んで來た。化粧をしない、淺黒い顔の娘であつたが、眼がぱつちりしてゐて、仲々器量のいゝ顔だちである。剃らない眉は黒く太く、まるで一文字を引いたやうだ。臺の上にコップを置いて、娘は富岡を見てにつと笑つた。凉やかな眼もとであつた。

 三杯の燒酎にすつかり人生感が變つたやうな醉ひかたで、富岡は、その酒の店を出た。醉ひはすべてを忘れさせてくれた。よろめきながら街をあてどなく歩いた。今夜にでも歸つて、一氣に漆論を書きあげて、それを農業雜誌へ持つて行かう。

 富岡は三軒茶屋まで歩いて映畫館へ這入つた。銀座三四郎といふのをやつてゐた。昔の女が忘れられなくて醫者をやつてゐる主人公がよく酒を飮む。やくざに近い醫者だなと思ひながら、うとうとと、映畫館の一隅に腰を掛けてゐた。主人公の醫者は昔の女にくつゝゐてゐる銀座のやくざを、何人も相手にして河の中へ放り込んでゐる。料理屋の娘が、そのやくざな醫者を好きのやうだつたが、これは逢ふと喧嘩ばかりしてゐる。おせいのやうな女であつた。似てゐるところはなかつたが、氣つぷうがおせいに似てゐた。醉つてゐるせゐかその映畫の筋が少しもつじつまがあはない。退屈して、富岡は映畫館を出たが、まだ四圍は仄々と明るかつた。

 何時頃なのか、此の頃は、時計もないので、さつぱり時間に就いての觀念がなかつた。或る店さきの時計を覗き込むと、八時近くである。あゝ、もうそんな時刻かと、ぶらぶら當てどなく歩いたが、やつぱり、もう少し泥を掴むやうな、醉ひに惹かれてゆく。映畫館の方へ戻つて、驛の近くのマーケットの中の小さいバラックの飮み屋へ這入つて行つた。

 箱のやうな狹い店のなかへ、よろめいて這入つた。年の割に厚化粧をした中年の女が、あいそよく、富岡に自分の小さい座蒲團を椅子へあてゝくれた。

「をばさん、チユウを一杯」

「あら、いゝ御きげんね。もう、何處かで飮んでいらつしたンでせう?」

 コップに並々と燒酎をついで貰つて、富岡はゆつくり唇をつけた。風にゆれる軒先の提灯に、酒の店ジャムスと書いてある。

「をばさん、滿洲から引揚げたのかい?」

「えゝ、さうよ。どうして知つてらつしやるの?」

「いや、提灯に、ジャムスと書いてあるからさ‥‥」

 眼の下に黒いくまが出來て、額の拔けあがつた、眼鼻の小さい女だつた。襟白粉をこつてりつけて、浴衣がけに、胸にレースのついたヱプロンをしてゐる。臺の上には、魚の煮つけや、ハムの切つたのや、うで玉子が飾つてあつた。富岡は指で大皿のハムをつまんで口に頬ばつた。

「引揚げ者なンですよ。身一つで戻つて來ましてね。すつてんてんなのよ。私、これでも、十年ジャムスで教員をしてたンですけどね‥‥。人間つて判らないものですわねえ。馴れない商賣で、みなさんに、士族の商法だつて云はれますのよ」

「をばさん、いくつだい」

「あら、いくつに見えて? これでもまだ若いのよ。あんまり苦勞したンで、年を取つちやつたンですけど‥‥」

「女の年は判らないね。四十位かな?」

「まア、悲しくなつちやふわね。私、そんなにお婆さんに見えるかしら、これでも三十五なンですよ。これから一花咲かせるつもりなンですのに‥‥」

 富岡は、三十五と聞いて、女の嘘つきにも呆れた。内心では五十位かい? と聞くところを、十年も若く云つてやつたつもりである。

「へえ、そりやアどうも相濟みませんねだ。三十五か‥‥。そりやア若い。これからだね。御亭主とは生き別れと云ふところだね。そんなに水々しく綺麗なンぢやアね‥‥」

 女はおつほつほと笑ひ出して、小皿にハムを二切よそつて臺の上へ出した。

「死に別れなンですのよ。ジャムスで別れたきり、主人は寶清と云ふところの協和會に勤めてゐたンですけど、そのまゝ夫婦相別れ申し候でしてね。私は、もう、昔の亭主なンか何とも考へちやゐませんわ」

 二杯目のコップが竝んだ。

 富岡は、泥のやうに醉つてきた。世の中のすべてが、まはり舞臺になつた人生だと承知してゐながら、遠くジャムスに女教員をしてゐた女と逢ふ人の世が、哀れつぽくもある。時々、手を差しのべては、「おい、をばさん、握手しよう」と富岡は同じことをくり返してゐた。

「本當に、をばさんの御亭主は死んだのかい?」

「本當ですよ。同じ協和會の方と、朝鮮で一緒になつて、私、ちやんと聞いたんですもの‥‥。それも獵銃で自殺しちやつたんですのよ」

「ほう‥‥」

 話は複雜なほど面白いのだ。三杯目の燒酎にすつかり脚をとられた富岡は、臺の上にうつぷしてしまつた。




四十八

 ゆき子は秋になるまで、ずつと大日向教の會計事務をとつて暮した。大日向教の内幕はお話にならぬほど亂脈で、教主の專造は、金錢にかけては守錢奴に近い方で、いつも金の事になると伊庭と激しい爭ひを演じた。ゆき子は、この二人の性格をよく心得てゐて、程々に自分の貯へもくすねる事を忘れなかつた。

 專造も、伊庭も、常々口に出して云ふ事は、人生すべて金であると云ふ事だつた。大日向教ではなく、大金錢教だわねと、ゆき子は皮肉を云ふ時もある。すつかり躯は恢復して、皮膚の艶もよくなり、見違へるやうに若々しくなつた。大津しもが、專造のかくし女である如く、ゆき子はまた何時とはなく伊庭と昔のよりを戻してゐた。伊庭は、妻も子供も靜岡の田舍に歸してしまつて、いまでは、ゆき子の爲に小さい家を教會の近くに買つてやつたりしてゐる。ゆき子は、伊庭を少しも愛してはゐなかつた。むしろ、伊庭を憎んでさへゐた。小さな三間ばかりの家に信者のをばさんを置き、ゆき子はそこに一人で住み、教會に通つて行つた。ゆき子は十萬圓ばかりの貯金を持つてゐた。人生は金より頼るものはないと教へこまれて、ゆき子自身も、少しづゝ金錢のあつかひがうまくなつてもゐた。信者はますますふえて來たし、いまでは、相當の勢力を持つて、大日向教は、町の名物になりつゝあつた。

 ゆき子は、時々、富岡の事を考へないわけではなかつたが、富岡には、幾度手紙を出しても梨のつぶてであつた。富岡とは、どんなにしても、再び昔の愛情に戻れる當てはないと思ふにつけ、ゆき子は、現在の生活が、自分にとつては、少しも救はれてゐない事を知るのである。何も不自由のない生活でありながら、ゆき子は常に飢ゑてゐる氣持ちだ。

 或る雨の夜、教會から戻つて、ゆき子は黒い制服を袷に着替へて、茶の間で、信者のをばさんと食事をしてゐた。火鉢のそばに置かれた夕刊に眼をとめると、農業雜誌の廣告が眼にとまつた。「漆の話」として、富岡兼吾の名前が出てゐる。ゆき子は、何時か、おせいの部屋で、富岡から見せられた農業雜誌を思ひ出してゐた。すぐ、をばさんに頼んで、近所の本屋から、その雜誌を買はせてみた。

 富岡の文章は素人臭くはあつたが、判りやすい文體であつた。二人だけで知つてゐる安南の事がちらちらとゆき子の心を熱く燃えたゝせた。「漆の話」を讀んでゐるうちに、いまにも走つて逢ひに行きたかつたが、おせいの亡靈に意地を張つてゐる自分としては、自分の方から、いまごろになつて尋ねて行く氣はしなかつた。だが、この日頃の心の飢ゑかたは、どうしても富岡に逢はなければ、どうにも救つて貰へない氣がしてゐる。ゆき子は思つた。私は、あのひとの落ちぶれを攻撃しすぎてゐたのだ。おせいがあのひとにとつて、どんなに得難い女であつたにしたところで、私は、おせいに敗けてはゐられない。あのひとも崩れ、自分も亦崩れて行くのは、どうしてなのだらう‥‥。二人とも、求められない昔の夢を見過ぎて、お互ひを厭になりあつてゐるのかも知れない。二人の中心が、おせいの問題だけであつたら、何も二人が、死ぬ覺悟までした筈がないのだ。あの事件から二ケ月あまりの月日がたつてゐる。富岡は、おせいの亡靈から解放されてゐる頃かも知れない。

「ねえ、をばさん‥‥。この名前はね、私の昔の戀人の名前なのよ」

 あとかたづけをしてゐたをばさんは、雜誌を手にとつて、ゆき子の指差した目次を眺めた。をばさんは、おしげさんと云つた。二人の息子を戰死させて、魚の行商をやつてゐた。つれあひには、此の春亡くなられてゐた。あまり不幸ばかり續くので、大日向教を信じるやうになり、口の固いところを伊庭に見込まれてか、ゆき子の家の女中に、引取られたのである。

「これは、何の話と讀むンでございますかねえ?」

「漆の話よ。うるしと讀むのよ。その盆や、お椀の、うるしの事だわ」

「前の旦那は、漆の商賣をしておいでだつたンですか?」

「さうぢやないのよ。農林省の官吏で、とても偉いひとなの‥‥。戰爭の時にね、私が、農林省のタイピストをしてる時、佛印へ私も軍屬で行つたンだけど、そこで、此の人に會つて、お互ひに好きになつた人なのよ」

 ゆき子は、話してゐるうちに、感傷的な氣持ちになり、目頭が熱くなつてゐた。

「戰爭が終つて、辛い思ひをして、別々に内地へ戻つて來たンだけど、どうしたンだか、南方ではとても激しく好きあつてゐた二人が、急に内地の風にあたつてからは、よそよそしくなつてしまつて、そのひとゝ一度は、二人で死なうなンて、伊香保にまで死に場所を求めて行つたンだけどねえ‥‥」

 おしげは、茶餉臺の上をゆつくり布巾で拭きながら、ゆき子の話を聞いてゐてくれた。

「伊香保で金に困つちやつてね、そのひとが、飮み屋の御亭主に、時計を買つて貰つたンだけど、魔がさしたンだわね。そこの細君と妙な事になつてしまつたのよ。男つて、心中に行つてゐても、そんな心の迷ひつてあるものかしら‥‥。私はすつかり、そのひとを信用してゐた氣持ちが崩されてしまつたンだわ。――ねえ、それからの私は、もうやぶれかぶれで、どうにも、息が出來なかつたンだわ。私、けつして伊庭なンか好きぢやない。誰だつて飢ゑてゐる時は、やぶれかぶれになるものだわ。心まで飢ゑて、狼のやうになつてしまふものなのよ。愛しあつてゐても、お互ひが飢ゑてる時は、飢ゑたもの同志がきらひになつて來るンぢやないかしら‥‥。平和な海を航海してゆく船に乘つてれば吐く事もないけど、嵐の日の船出は、どんなにいゝ思ひをしようたつて、吐くぢやないの‥‥あんなものだわね‥‥。私はまた伊庭のもとへ戻つて來たンですけど、いまは吐くものもないンだもの‥‥。伊庭は、私はきらひなひとだわ。私よりも惡い人間ね。私、隨分惡くなつたけど、私よりも惡い人なのよ、あのひとは‥‥。教主も惡いひとだわね。をばさんなンかだまされてゐるンだわ‥‥」

「はい、それは私もよく判つてをります。それでも、私は、どうしても大日向さまを信じなければ、生きてはゐられないのでございます。私は、教主さまや、伊庭さまをお信じ申してゐるのではございません。あの方たちの事は、大した事はないのでございますもの‥‥」

 ゆき子は、おしげさんが、大日向教は信じるが、教主や伊庭を信じてはゐないと云つた言葉に、ふつと心を燒かれた。いまゝで偉ぶつてゐた氣持ちを、打ちのめされた氣がした。

「さうでございますよ。私は、眼にみえない大日向さまをお信じしてゐるきりなンでございます」

「だつて、大日向なンて神樣は、何處にもいらつしやるわけぢやないでせう?」

「いえね、私は或時、私の爪を眺めましてね、どんなに、立派な便利なものが發明されても、自分の爪一つだつて、これはなかなかあらたかなものだと思つたンでございますよ。原子爆彈よりも、自分の爪は怖ろしいものでございます。つくづくさう思つたンですよ。これは、人間のなかに神樣がお住みになつてるこつたと思ひましてね。どんなにしても、學者さんは、人間の爪一つだつて發明出來やアしません、えゝ出來ませんとも‥‥。自然に、親から、この爪は生れたものなのでございましてね。神樣がなければ、人間なンて生れやうがございませんでせう‥‥。人間は煩惱具足をそなへてをりますから、私は、どうしても、何かを信じなくては生きては參れません。おゆきさまも、まつすぐに、そのお好きな方のところへお出でになつて、よをくお話を噛み碎いてごらんになつたら如何なものでございますかねえ‥‥。男といふものは、迷信深くはありませんから、なかなかやりにくい生きものでございます。よをく女が話してみたら、判るのではありませんかね。話をすると云ひますのはね、何もお喋りをするのではなくて、男のそばにそつと坐つて、かばつてやればよいのですよ‥‥」

 ゆき子はくすくす笑ひ出した。初めて晴々と笑へる氣がした。




四十九

「漆の話」が、どうやら原稿料になり、富岡はそれでやつと露命をつないだ。たまつた部屋代も少し入れて、あとは、やつと二ケ月ばかりを、その金で暮す事が出來た。富岡はいまは孤獨にも馴れ、農業雜誌へ以前から書いてみようと思つた、或る農林技師の思ひ出といつた仕事にもぽつぽつ手を染めてゐた。それは主として、南方の林業に就いてのノスタルヂイを綴る心算であつた。色々と佛印では、研究のノートも澤山あつたのだが、それは何一つ持つて歸るわけにはゆかなかつた。その當時の記憶を辿り、富岡は、もし、この一文がうまく書けて、雜誌社でも出版してくれるやうであつたならば、死んだ加野へ贈るつもりであつた。そしてまた心ひそかに、佛印の土と消えた人々へたむける、ひそかな願ひも心にはあつた。





 安南人はあらゆる階級を通じて、自然に對する信仰心が強くて、自然社會的現象を、すべて精靈にことよせて考へるところがある。生前の生活は、すべて靈魂の活動に左右され、且つ禍福のすべては精靈の告示によるものだと云ふのが、安南人の信條でもあつた。

 富岡は、ダラットに着いた日の林野局の事務所で、局長から加野に紹介されたが、加野が、卓上に小さな木片を置いてゐた記憶がよみがへつて來た。

「富岡さん、本當の伽羅の木を御覽になつた事がありますか?」

 と、その小さい木片を、加野は富岡の鼻のさきに持つて來た。加野は、笑ひながら云つたものだ。

「私は戰地に來て、女の肌を知る事が出來ないので、香木の研究を始めてゐるンですがね、なかなか粋なもンでせう‥‥」と、云つた。

 富岡は、佛印に着いて、初めて、伽羅の木を見せられた日の思ひ出から書き出してみたかつた。日本で云ふ伽羅の木が中國では沈香といふのだと知つたのも加野に教へられたからである。サイゴンの農林研究所に行つた時に、植物園に近いルウソウ街の、林業部長の部屋で、鰹節大の立派な伽羅の木を見せられた事があつたが、佛蘭西語では、ボア・ド・エーグルと云ふのだと、部長のモーラン氏に教へられた。中國では、漢の武帝の頃から伽羅は用ひられ、印度、エジプト、アラビヤでは古くから使つてゐたやうである。安南人の精靈崇拜の好例としては、到る處に、寺院があり、この伽羅の木がよく焚かれた。黄金の重さに等しい値段だといふ伽羅の木が、南部安南に産し、そこの土地の伽羅が、最優良品と聞いて、富岡は、ゆき子を知つた頃、小指の先ほどの伽羅の木片を彼女のベッドの枕の下に入れてやつた思ひ出がある。安南の寺へ行つて、寺僧に鼻藥を利かせると、小さい伽羅の木片を分けてくれた。富岡は安南人の宗教と燻香には、何か神秘的な關連があるやうに思へた。

 原稿は二百枚ばかりも書き進んでゐた。書き進んでゐるうちに、富岡は、ゆき子の事なぞは、佛印の土地々々には、何のかゝはりもない事を知つた。むしろ、安南人の女中や子供の記憶の方が、なつかしく心を掠めてくる。結局は、土地の持つ香氣のなつかしさだけで、こんなに佛印の景色が、忘れられないのであらうかと思へた。

 このごろは清吉を拘置所に尋ねて行く事も少なくなり、此の一ケ月は足が向かなかつた。富岡は次々に轉じてゆく焦點が、一つとして燃燒する事もなく、この巨きな社會の齒車の外にこぼれ落ちてゆく、淡い火の粉のやうな自分を感じてゐた。囚人となつた清吉と、囚はれてはゐない自分との差は、少しも違つてはゐなかつたし、むしろ、囚人こそは善人のこりかたまりで、社會に放り出されてゐる自分達のやうなものこそ、本當の囚人なのだと、富岡は、刑法の良心といふものが、ひそかにうたがはしくもなつてきた。おせいを殺した下手人は自分でありながら、獵師の犬となつた清吉が、囚はれて、あの男は、自分の生涯に極刑を選ぶ、馬鹿な道をとつてゐる。富岡は時々、清吉の事を考へると、自分の良心を持ちこたへる事の出來ない焦らだたしさを感じてきてゐる。清吉の犯罪は行動であつたが、自分の犯した事は行動とは云へないものなのだらうかと考へる。

 清吉は案外の事には、面會に行つても、いつも晴々としてゐた。富岡は、清吉を陰鬱孤獨な性格だと辯護士が云つてゐた言葉を、何だか信じがたい氣持ちだつた。――考へまいとしても、富岡は、仕事の最中にも、清吉のにこにこしてゐた顔が眼に浮ぶのである。獵師の犬は囚はれてゐる。獵師が逢ひに行くと、犬は平氣な顔をしてゐる‥‥。そんな樣子に汲みとれて、富岡は清吉に薄氣味の惡いものを感じてゐた。加野がサイゴンの憲兵隊に囚はれた原因も、また、この獵犬のたぐひであつた。加野は、いまはもはや冥府の人になつてしまつたけれども、生きて病床にある時も、富岡は一度も逢ひに行つてはやらなかつた。和解しないまゝで、加野は淋しく死んで行つた。

 ゆき子だけが、横濱まで逢ひに行つてゐる。ゆき子を傷つけた加野は、ゆき子に詫びてゐたと聞いたが、富岡は、考へてみると、自分の卑怯さには、一種のかさぶたが出來てゐるやうなものだと感じた。

 夜になると、富岡は強い酒が飮みたかつた。一日、五六枚位の仕事の速度では、南方の林業も仲々金に變る日は來ない。酒が飮みたくなると、富岡はおせいの家具や衣類を賣つた。茶箪笥を賣り、トランクを賣り、おせいの衣類も賣り盡してゐた。あの眼の美しい小娘のゐる飮み屋にも、七八回通つて、娘とも口を利くやうになつてゐた。

 二回ばかり、富岡のところへ、娘は金を取りに來た事もある。――富岡は、仕事に退屈して、今夜は久しぶりに風呂へ行かうかと、壁の手拭を取つた。かすれたやうな、女の笑ひ聲が壁の中に聞えた。一瞬の聯想で、ふつと、その聲がおせいの聲になつた。伊香保の、夜の狹い石段を、おせいと手をつないで降りる時のあのふくらんだやうな笑ひ聲である。富岡は壁にこもつてゐる女の笑ひ聲に耳をそばだてゝゐたが、

「をじさん」と云ふ聲に扉の方をふりむくと、眼の大きい飮み屋の娘が、二三册の雜誌をかゝへて、部屋を覗きこんでゐた。

「何だ、君か‥‥」

「一人?」

「あゝ、一人だよ。何だい? 借金取りかい?」

「遊びに來たのよ」

「ほう‥‥」

 富岡は、大膽な子供だと思つた。娘はすぐ部屋に飛び込んで來て、手にさげてゐた汚い下駄をベッドの下へ入れた。何の怖れ氣もなく、ベッドの裾に腰をかけて、意味もなく笑ひころげてゐる。あゝ、あの笑ひ聲だつたのかと、富岡も、娘と竝んでベッドに腰をかけた。肩へ手をかけて抱き寄せてやると、娘はあどけなく唇を開けて、下から富岡を覗き込んだ。じいつと見てゐると南方形の顔であつた。佛印へ行くと、こんな顔が澤山あつたものだがと、娘のあさぐろい顔を富岡はしみじみと眺めた。

「あんまり、お父つあんが叱るから、おどかしに、家を出て來ちやつたのよ‥‥」

「君が惡いことばかりするから、お父つあんは心配して叱るんだらう?」

「神經衰弱なのよ。お母さんがお父つあんと、別れ話をしてるから、毎日いらいらしてんだわ。私、此の間も交番で泊つたのよ。とても、夜中の交番つて面白いわねえ‥‥」

「何處の交番で泊つたんだい?」

「遠いところよ。お巡りさん、とても優しくていゝひとだつたわ」

 富岡には、かうした娘の心理が、少しも判らなかつた。




五十

 冬になつた。

 富岡は、窮乏のなかで或る農林技師の思ひ出を五百枚近く書きあげたが、これは失敗であつた。出版界の不況で、いまがいま出版するわけにはゆかないと云はれて、富岡は失望した。急な傾斜面に立つてゐるやうな、いまにも轉落して行く、安定のない生活を、どうにも支へて行く事が出來なくなり、富岡は職業安定所へ行つて見たり、農林省時代の友人を尋ねてみたりした。

 そのどれもが、富岡には向かなかつた。火の氣のない、寒い部屋に寢ながら、富岡は、時々ゆき子の事を考へないわけではなかつたが、それは富岡自身を卑しくするに過ぎない。部屋代は夏以來拂へなかつたので、追ひたてを食つてゐたし、浦和から、老母が邦子の病氣と、窮乏をうつたへて、富岡の部屋へ尋ねて來たりした。

 正月始めの、雪の降る朝であつた。邦子が亡くなつた電報を手にして、富岡は、寢臺を古物商へ賣り飛ばして、浦和へ歸つた。みじめな暮しのなかで、邦子はみるかげもなく衰へ、自殺にもひとしい死にかたであつた。

 長い間の衰弱の上に、瘰癧性腺炎にかゝり、切開手術が必要だつたが、醫者も、この貧しい、痩せ衰へた女の手術をあやぶんでか、いゝ空氣を吸つて、肝油を飮めといふ位の診斷しかしてくれなかつたが、鼠蹊部の上に膿傷が出來て、どうにも手術をして、排膿用のゴム管を挿し込まなければならなくなり、非常の容態になつたが、邦子はじいつと病氣に耐へて手術もしないで、そのまゝのみじめな姿で息を引きとつたのだ。

 家の中は棺を買ふ金も盡きてゐた。富岡は、おせいの亡くなつた時のやうな、名殘り惜しさは少しも感じなかつたが、終戰以來、邦子を妻らしくあつかつてやらなかつた自責で、棺を求める事すら出來なくなつてゐる、自分達の落ちぶれを厭なものに思つた。

 雪は朝から降り續いてゐた。

 僧侶を頼んで、枕經を讀んで貰ふ事はおろか、燒場にさへも運ぶ金もないのだ。富岡は思ひ切つて、急場の金をゆき子から借りる爲に、父の古ぼけた外套を着て、朝早く東京へ出て、ゆき子の手紙の住所を頼りに尋ねてみた。伊庭の表札が出てゐた。小ぢんまりした二階家で、ペンキ塗りの門の中には、青木が赤い實をつけて雪をかぶつてゐた。格子に手をかけると、家のなかで、けたゝましく犬が吠えた。富岡は思ひ切つて、玄關のくもり硝子のはまつた格子を開けた。

 思ひがけなく、白い犬を抱いたゆき子が、突きあたりの二階から降りて來た。黄ろいジャケツを着て、黒い洋袴をはいたゆき子は、みすぼらしい富岡を眺めて、初めは氣をのまれたやうに、暫く、ものも云へないふうで、玄關に立つてゐた。

 夏頃のゆき子とは、すつかり面がはりして、ふつくらと肥り、躯つきも若々しく豐かになり、佛印の頃のゆき子の面影を取り戻してゐた。犬は毛の長い、眞白な犬で、赤い舌を出して、富岡に、神經質に吠えたてゝゐる。ゆき子は犬の頭をきびしく毆り、

「まア! どなたかと思ひましたわ‥‥」と、云つた。

 富岡も、女の姿の激しい變化を見て驚いた樣子だつた。ゆき子は、すぐ、犬を二階へ連れてあがり、襖を手荒く閉した音がしたが、やがて階下へ降りて來て、富岡を茶の間へ案内した。ゆき子は、後向きになりながら、ふつと舌を出した。たうとう富岡が、落ちぶれてやつて來たと思ふと、胸のなかが痛くなるほど、爽快な氣がした。

 この男は、金を借りに來たのだといふ事がゆき子にはすぐ判つた。柔い炬燵蒲團をはぐつて、電氣のスイッチを入れると、ゆき子は、富岡の顔を見ないやうにして、「寒いから、炬燵へおはいりになつて」と、甘い聲で云つた。

「すつかり變つたね」

 富岡は素直に、外套のまゝ炬燵にはいつて、じろじろとゆき子を眺めて云つた。

「どんなに變つて?」

「若くなつた」

「さうかしら、呑氣でもないンだけど‥‥」

 差しむかひになつて、ゆき子が坐つた。ゆき子は風呂上りとみえて、血色のいゝ手をしてゐた。大きな瀬戸火鉢には、鐵瓶が湯氣を噴いてゐる。障子ぎはに三面鏡が置いてあり、その横の小さい棚には潮汲みの人形が硝子箱にをさまつてゐた。

「僕が、何の用事で來たかは判るだらう?」

 單刀直入に、富岡は、玄關先で、金を借りたい話をするつもりだつた。炬燵にまで這入りこんでしまふと、何となく話しそびれた氣で、富岡は、ゆき子の暮しぶりをじろじろと眺めてゐる。二階ではさかんに犬が吠えたてゝゐた。「伊庭君は?」富岡が尋ねた。

「教會の方へ行つてるのよ」

「一人?」

「えゝ、いま、よそのをばさんを頼んでるンだけど、買物に行つてますわ」

「いゝ身分だね‥‥」

「あら、さうかしら‥‥」

 ゆき子は表情には出さなかつたが、肚の底で、自分をこれでもいゝ身分かしらと笑つた。

「終戰以來、男は駄目で、女の方が逞ましくなつたね‥‥」

 ゆき子は茶を淹れながら、「さうかしら」と、また、取りすまして云つた。これが、今日まで戀ひこがれてゐた富岡だつたのかと、二ツ三ツ年を取つた、富岡のすつかり變つた樣子を、ゆき子は眼尻を掠めて眺めながら、自分の冷酷さが不思議な氣持ちだつた。

「邦子が、昨日、亡くなつたンだよ」

「まア、奥さま、お亡くなりになつたの?」

 ゆき子は眼を瞠つた。いつか、二度ほど逢つた、富岡の妻のおもかげが、瞼に浮んだ。富岡をつけまはつてゐる時に、五反田の家の近くで、細君に逢つた時の印象が忘れられなかつた。ゆき子はいまごろになつて、かあつと涙が噴いた。富岡は、無頼漢のやうな氣持ちで、昔の女に金の無心に來てゐたのだが、ゆき子のほとばしるやうな涙を見ると、一寸、驚いた樣子だつた。急に、この女との辛酸をなめた昔の思ひ出の數々が、富岡の荒凉としたハートをゆすぶつた。何も云へない氣がして、ゆき子の泣きじやくるのを呆んやり眺めてゐた。

 ゆき子は、富岡との感傷で泣いたのではないのだ。あの時の、野良犬にもひとしかつた、自分のみじめさを思ひ出して泣いたのだつたけれども、自分の涙が、富岡に對して、案外な効果があつた事を知ると、ゆき子は、もう我慢のならないやうなあけつぱなしな泣きかたで、鏡臺の上にあつた濡れタオルを取つて顔に押しあてた。

 呆氣にとられて、富岡は、ゆき子の泣く姿を眺めてゐたが少しづつ動悸が激しくなり、タオルにしみた香料の匂ひが、なまめかしく鼻をついた。富岡は激しく泣いてゐるゆき子のそばに行き、ゆき子の肩を抱いて、タオルを引きむしつた。ゆき子が、そんなに深く自分を愛してゐてくれたのかと嬉しかつた。ゆき子の柔い首を抱き、富岡は激しく接吻をした。新しい女に觸れるやうな、新鮮な香りがして、富岡は氣忙はしく、ゆき子の大きい腰を抱いた。ゆき子は診察を受ける患者のやうに、富岡にされるまゝになつてゐた。軈て二人にだけ共通した秘密な思ひ出が、案外なところで、共通の經過をたどつて、萬事は最上の心の痛みを分けあつた。




五十一

 十二時の時計が鳴つた。富岡は朝湯に入れて貰つた。五六日も風呂にはいつた事もない貧しい生活から、解放された氣がした。コバルトタイルを張つた、小さい浴槽いつぱいに湯は溢れ、白い外國石鹸で躯を洗ひながら、富岡は、痩せさらばへて死んでいつた妻に對して、不憫な氣もしてゐた。小さい窓に雪の降りこめてゐるのを眺め、富岡は、尨大で威嚇的な人間社會の切斷面を覗いた氣がした。自分の心は何處にもない。ひろびろとした雪の野原を、目的もなくさすらつてゐるやうな荒凉としたおもむきが、現實の足の裏に吸ひついて來る氣がした。しゆんしゆんと音をたてゝガス釜が燃えてゐる。

 柔い蒸氣に顔をなぶられながら、富岡は、鏡のなかを覗きこんで髯を剃つた。伊庭の使ひつけの安全剃刀なのであらうが、毒食はゞ皿までの心理で、じよりじよりと、富岡は、心にひやりとする刃を頬にあてゝゐた。把捉しがたい樣々の世を渡つて、こゝに行きついた人間の、卑しさが、富岡には苦味いものでもあつたのだ。人間は、單純なものであつた。些細なことで、現實はすぐ變化する。案化傷ついてもゐない。すぐ、起きあがつて微笑む。――ゆき子は、時計を見上げ、をばさんがなかなか戻つて來ない事に安心してゐた。いつも使ひの遲いをばさんであつたが、今日も案外遲い。一時には、教會へ行つて、大津しもと事務を代らなければならない。ゆき子は、今日こそ、あの金庫の中のありがねを全部さらつて來なければならぬと決心してゐる。

 教主の成宗專造の寢部屋に大金庫があつて、そこには、教會の全財産がかくされてゐたが、受付の小金庫には、二三十萬の金が、いつも溜つてゐた。このごろの大日向教は、ますます隆盛で、寄附も盛んに集り、清診料もぐんとふえて來てゐた。奉仕の間には、季節の果實や、野菜や、反物が山をなして積み上げられてゐた。

 晝の食事をとゝのへ、伊庭の飮み料にしてゐるサントリウイスキーを卓上に竝べた頃、富岡が活々した血色で風呂から上つて來た。甲斐々々しいゆき子の姿を、富岡は不思議さうに眺め、二人だけの歡びが、ひそかに營まれてゐるのを盜人の心理で眺めてゐた、二階では犬がやかましく吠えてゐる。富岡は炬燵にもぐつて、かすかな目まひを感じてゐた。ウイスキーを二三杯あふつた。全身を刺戟する酒の味が、鎖沈した富岡の氣持ちを幾分か明るくした。

 やつとをばさんが戻つて來た。見知らぬ客を見て、をばさんはとまどつてゐたが、その客をあしらふゆき子の態度から、をばさんはこれが漆の旦那だなと思つた樣子だつた。ゆき子は箪笥から、二萬圓の金を出した。ほんの一寸、惜しい氣もしたが、氣前よく、新聞に包み、富岡の座蒲團の下へ押し込んだ。富岡は眼で感謝した。

 一時に、教會へ行くゆき子と、富岡は一緒に戸外へ出て行つたが、ゆき子はゆつくり歩きながら、

「貴方は、これから、どうするつもりなのよ?」と、聞いた。

「どうするつて、御覽のとほりだ。どうにもならない。この金も、さつそくには返せる當もないよ。いゝかい?」

「えゝ、いゝわ。そんな事はいゝンだけど。やつぱり、目黒の、あの部屋にゐるの?」

「あゝ」

「ねえ、もう一度、逢ひたいけど‥‥」

 ゆき子は、別れがたない氣がした。邦子が亡くなつてみれば、もう、誰にも遠慮なく、富岡とも一緒になれるやうな氣がした。だが、まだ、これから棺桶を買ひに行く富岡をつかまへて、一緒になる話は、さしひかへなければならない。富岡は、もう一度逢ひたいと云はれて、ゆき子の氣持ちは充分判つてはゐたが、何故かそこまで話しあふのも億劫だつた。まして、自分の生活能力のない現在では、ゆき子に、何一つ要求出來るものでもないのだ。

 田園調布の驛で、二人は奥齒にものゝはさまつてゐる感じで別れた。

 ゆき子は雪道を、伊庭の長靴をはいて、教會へ行き、大津しもと事務を代つた。大津しもは、今日、教主と二人で熱海へ行く事になつてゐる。ゆき子は電氣座蒲團に坐り、暫く庭の雪景色にみとれてゐた。雪は降つてはゐなかつたが、鉛色の空から、石油色の寒々とした空が透けてゐた。富岡の貧しさが、哀れでもあつたが、生活力のなくなつてゐる男へ對しての魅力は薄れかけて來た氣がした。あの時、自分の背中の金庫から、あり金をさらつて、富岡と逃げたい氣持だつたものだが、いまは妙に落ちつき、ゆき子は、まだ、二三時間はものを考へる時間があると思つた。受付には電氣がついてゐた。伊庭は、内輪な信者と、教主の部屋で、酒を飮んでゐる樣子だつた。講堂には、素朴な信者が、二十名ばかりおこもりをして、冷い板敷に坐りこんで祈祷をあげてゐる。

 電氣蒲團で腰があたゝまつて來ると、ゆき子は、富岡の荒々しいあの時の力を、微笑して思ひ出してゐた。何時までも心の名殘りになるやうな、あの時が、肉體の一點に強く殘つてゐるその事を考へると、富岡に對して平靜にはなれなかつた。富岡のすべてに惹かされる愛情が、自分の血液を創るための女の最後のあがきのやうな氣もして來て、富岡にだけは、その愛情が安らかに求められる思ひがした。昇騰する心の波はまた、背後の金庫へ向つて行く。ゆき子は金庫へ向つて鷲のやうに手を差しのべてゐるのだ。金は湯水の如く金庫へ流れこんで來たが、ゆき子にとつては、平凡な、退屈な毎日であつた。思ひ煩ふ事が、拭ひきれないやうな、奇妙な生活から退いて行きたかつた。こんな一隅で、頑張つてゐるには、ゆき子は淋しすぎた。

 ゆき子は、何氣ないそぶりで、今日の寄附帳を眺め、案外大口な寄附のあつた事を知り、金庫を開けた。約六十萬近い札束が這入つてゐた。

 四五日で、この位の金が、金庫に溜るのは何でもない事であつたが、今日眺める金は、ゆき子にとつては、相當手ごたへのある金であつた。大津しもは、ちやんと計算して、教主と伊庭に報告してゐるので、その金は、どうにもならないものであつたが、ゆき子はその金を、夕方、奥へ持つて行く氣にはなれなかつた。成宗の寢所にかくされてゐる大金庫は、毎夜開けるわけにはゆかなかつたので、何時も、日曜日の夜、開けられる事になつてゐた。今日は日曜日である。一週間分の收入を全部、成宗と伊庭がひそかに計算する日だつたが、今夜は教主も留守になるので、大金庫はあるひは月曜日に開く事になるかも知れないのだ。さうすれば、二日のよゆうがあるとみなければならない。

 ゆき子は色々口實を空想してみた。自分が逃げ出したあと、をばさんが、不思議な來客のあつた事を、伊庭に報告するであらう。ゆき子は、あれこれと考へに疲れて、講堂へ行つてみた。祭壇に、電氣ローソクが賑やかにとぼり、おこもりの信者達は、聲をあげて祈祷をしてゐる。

「をのをの世界の境を一つにして、人間はまことのこゝろ交ふが道なり、世界のひと、いづれの行も足りず、たゞ迷ひ、たゞにさすろふものなり‥‥。大日向さまは、地獄よりこの人々すくひ給はんとて、娑婆の業を人間に與へ給ふなり。他力をたのみて、眞實報土のこゝろなくば、この人々地獄への往生をとぐるものなり。方蓮華經‥‥。あなかしこやな、大日向神しろしめすところ、闇も消え、白日輝き、人々闇にさすろふをせきとめ給ふ‥‥」

 ゆき子は、信者の合唱を聽きながら、板敷きに坐つた。じいつと、合掌して、眼を閉ぢてみたが、もどかしい氣持ちが糸のやうにもつれ、少しも落ちついた氣分にはなれない。眼の前に、手ごたへのある札束がちらついて仕方がない。頭の上にも、眼の前にも、神の姿は現はれなかつた。伊庭の口にする大日向教のエーテルさへも拜む事が出來ない。神は何處にもゐない。たゞ廣々とした板敷の上に、ノアの箱船のやうな、人々の集りだけが、陰氣な眺めだつた。伊庭が眞赤な顔をして、講堂に這入つて來た。めつきり色艶をなし、見るからに堂々とした躯つきで、ひとまはり、祈祷の信者達を眺めまはすと、縁側の硝子戸を引きあけて、庭へかつと唾を吐いて、そしてまた手荒く硝子戸を閉めた。ゆき子が、入口の方へ坐つてゐるのを見て、伊庭は滿足した樣子で、また、のつしのつしと奥の方へ引つこんで行つた。信者は、手のかゝらない幼兒ででもあるかのやうな思ひで、伊庭の後姿は自信あり氣に消えて行つた。ゆき子は、電氣ローソクの輝く祭壇を眺めた。紫の幕の向うに、鏡が光つてゐる。そのあたりに、もしかしたら、神の姿でも現はれては來ないものかと、ゆき子はじいつと睨みすゑてゐたが、怪しい影すらも寫らない。庭の芝生の雪は、光淋風に圓くとけて行つてゐる。風が出たのか、硝子戸がぎしぎしと鳴つた。

 富岡の事を考へると、ゆき子は、今朝の快樂が、しめつけられるやうになつかしくてたまらなかつた。




五十二

 邦子の葬式を濟まして、富岡は五日ばかりを浦和で過した。葬式が濟んでしまふと、富岡は重荷を降したやうに吻つとした。邦子の蒲團や身のまはりのものは、二束三文に賣り拂つて、死者の思ひ出を、一切合財吹き拂つてしまつた。富岡にとつて妻の邦子は、長い間他人であつた。おせいへの思ひ出は息苦しかつたが邦子への氣持ちは案外さばさばしたもので、葬ると同時に、邦子のすべては、富岡の心からさつと吹き消されていつた。邦子は妻としては、淋しい一生であつたとも云へる。富岡が、佛印から戻つて以來といふもの、全く無意味な妻であつた。友人の妻であつた邦子をさらつて、愉しい月日を暮したのは束の間で、富岡は二年もしないで、佛印へ軍屬として旅立つてしまつたのだ。この戰爭さへなければ、邦子も、富岡も、案外、平凡な官吏生活に安住してゐたかも知れない。五年も内地を留守にして戻つて來た富岡と、妻の邦子には、どうにもならない大きな距離がついてゐたのだ。邦子にも、富岡にも、戰爭といふ、大きな負膽が、重くかぶさつて來てゐたのだ。不毛荒蕪地に立つ夫婦生活は、お互ひに歩み寄つて、開墾する熱情もなかつたのか、はかなくも終りを見てしまつた。富岡は、邦子の野邊のおくりが濟むと、いつそう身輕になつた氣がした。

 老いた兩親は、郷里の信州の松井田へ戻つて、百姓を手傳ひながら餘生をおくりたいと云ふので、小舍同然の浦和の家を、手取り十四萬圓ほどで、國鐵へ勤めてゐる男に賣つて、その金を持たせて、富岡は、老人二人を郷里へ歸してやる事にした。松井田には、父の弟が百姓をしてゐた。以前疎開者に貸してゐた納屋があるといふので、そこへ、老人夫婦は落ちつく事になつたのだ。

 富岡が東京へ戻つて來たのは、晴れた日であつた。部屋へ這入ると、驛のそばの飮み屋の娘が來てゐて、富岡の蒲團にくるまつて雜誌を讀んでゐた。

 まるで、自分の家のやうな樂々とした寢やうである。富岡がはいつて來ると、娘はにやりと笑つた。暮れに遊びに來て以來、ちつとも姿を見せなかつたが、何時の間にか、パアマネントをかけて、化粧をしてゐた。一度、何氣なく、醉つたたはむれに、富岡が、娘にキスをした事があつた。たつたそれだけのつながりで、娘はまたやつて來たのであらう。

「さつきね、綺麗なお姉ちやんが來たわよ。私、追ひかへしてやつたの‥‥」

 富岡は綺麗なお姉ちやんと云はれて、一寸見當がつかなかつたが、あゝゆき子が來たのだなと判つた。

「どんなお姉ちやんだ?」

「とても凄いのよ。ハイカラな縞の外套を着て、ナイロンの靴下をはいてたわ。黒いぴかぴかのハンドバッグをさげてたわね。それから、こゝで煙草を吸つて行つたわ」

「何か、話したのかい?」

「えゝ、あんたは、富岡とどうして知りあひなのかつて聞いたから、私は富岡さんと仲がいゝンだつて云つたわ。そしたら、鼻に皺をよせて笑つたわよ。私、癪だから、さつさと蒲團を敷いて寢ちやつたのよ」

「何か云ひおいて歸らなかつたかい?」

「また、來るとは云つてたけど、私のこと、ずつとこゝにゐるのかつてしつゝこく聞いたから、えゝさうよつて云つたの‥‥。變な顔をしてたわ。でも、あんな女は、私きらひよ。とても、冷たいひとみたいね。家のなかをぐるぐる見まはしてゐたわ。もう、來ないかも知れないわね。いけなかつたかしら?」

「お前は、ひどい奴だな‥‥」

「あら、富岡さんの好きな、お姉ちやん?」

「富岡さんの嫁さんだよ」

「あらア‥‥嘘ばつかり。富岡さんのお嫁さんは、殺されたンだつて評判よ。私、みんな知つてるわ」

 娘は意地の惡い笑ひかたをして起きあがつた。ジャケツは着たまゝだつたが、スカートはぬいでゐた。汚れた短いシュミーズ、太い膝小僧がにゆつと出てゐる。富岡は眼をそむけて、電氣コンロのスイッチをひねつた。寢臺もないので寒々として、何處にも落ちつき場がない。机の前に坐ると、机の上には、娘のコンパクトが粉を散らかして置いてあつた。安ものゝ固くなつた口紅や、齒のかけた赤い櫛が竝んでゐる。ゆき子はこの樣子を見て、相變らず浮氣な男だと思つたであらうと、苦笑した。

「おい、をじさんは、これから仕事をするンだから、歸れよ」

「あら、私、いまのところ、歸る家がないのよ。昨日まで鷺の宮の養靜園に行つてたンだけど、私、逃げて來ちやつたのよ。ちつとも面白くないわね。飛行郵便の封筒貼りばかりしてゐて、手がこんなに霜燒けになつちやつたわ。――私、をぢさんの事を思ひ出して逃げ出しちやつたのよ。お家へ歸れば、私は、また追ひ出されちやふもの‥‥。こゝよりほかに、行くところはないわ」

「養靜園つて、何だ?」

「私みたいな、不良の行くところね。青だの赤だのゝだんだら縞のふちのついた封筒を貼つてるのよ。初めは、綺麗で、面白かつたンだけど、飽きちやつたのよ。床屋さんの飴ん棒みたいな模樣が、眼の中にゴミみたいにたまつちやつて、みんな色盲になるつて心配してたわ」

 富岡は頭が疲れてゐた。生活のすべてに疲れきつてゐると云つてもいゝ。また昔のやうな、靜かな官吏生活がなつかしかつた。平凡な生活だとあなどつてゐたその當時の生活が、富岡には、いま一番自分でも美しい時代だつたと思はないではゐられない。その平凡な官吏生活の時代にも、色々惱んでゐた事はあつたが、その當時の惱みは、いまのやうに汚れたものではなかつた。時とすると喚きたて、烈しく苦しんだ時もあつた。――あれから、十年ばかりの月日が過ぎて行つた。だが、現在では、富岡は喚く力もないほどに力が盡きてゐる自分を、心のひだに感じるのだ。自分の生活が、かびのやうに、つまらなくなつたと同時に、そのかびにくつゝいてくる、かびのやうな人間の生きかたを、富岡は冷い、他人の眼で、只、眺めてゐるきりであつた。生毛のはえた、まだ白粉のよくのらない、小娘の不逞な寢姿を見て、富岡は、敗戰後の、社會の一隅の色彩を見る氣がした。この娘は疲れてもゐるのだ。

 だが、富岡には、いまはこの娘も、うるさい存在であつた。

「おい、俺が送つて行つてやるから、家へ戻つたらどうだい?」

「いやな事。私は、こゝにゐたいのよ」

「どうして、出て行かないンだ?」

「そんなに邪魔にしないでよ。とつても、今日は外は寒いのよ。驛へ寢るよりも、こゝの方がましだわ。私、何もしないから、こゝにゐていゝでせう?」

「いけないなア。をぢさんが送つて行くから、今日は戻つた方がいゝ」

 富岡は素つけなく云つた。娘は寢たまゝ暫く默つてゐたが、むつくり起きあがると、默つて、枕もとに散らかしたスカートをはき、小さい風呂敷包みを持つて廊下へ出て行つた。荒々しい戸の閉めかただつたので、富岡は振り返つた。陰氣なものを殘して行つたやうな氣がして、娘が去つたあと、富岡は暫くそこにつゝ立つてゐたが、やりきれない氣持ちだつた。娘の若さが、あの娘にとつて、何の役にも立つてゐない氣がして來る。孤獨で、無智で、神經質で、ヒステリックで、何を考へて、街を放浪したいのか、富岡には、さつぱり判らない小さな惡魔だつた。いづれは、あの小娘も、監獄へ這入るか自殺するかだ‥‥。嘔吐が出るやうに、むかついてきて、富岡は、そこに敷きはなされた蒲團を蹴つた。

 棺へおさめた時の、煎餅のように薄つぺたくなつてゐた邦子の死骸を、富岡はふつと思ひ出した。蒲團を蹴りながら、邦子への追憶で、眼の奥が痛かつた。あの女も死んでしまつた。何一つ倖せはなかつたが、ぼろきれのやうになつて死んでしまつた。寢棺へおさめて、釘を打つ時の、あの別れぎはがいまになつて、深い感傷を呼んだ。




五十三

 ゆき子は、手輕るな身のまはりのものだけで、をばさんにも何も云はないで、家を出た。もう、二度と、この家には戻らぬつもりであつた。自分の生活をもぎとるやうな、強い氣持ちで、ゆき子は、まづ、圓タクで富岡のアパートを尋ねたが、氣の狂つたやうな、をかしな娘にあつて、ゆき子は氣が變つた。富岡のアパートを出て、待たせておいた圓タクに乘つて、ゆき子は品川驛に行き、そこから、靜岡行きの汽車に乘つた。何處といふあてもなかつたので、只、靜岡までの切符を買つたのだ。

 気紛れな旅のやうな、呆んやりした心で、ゆき子は、寒々とした黄昏の車窓を眺めてゐた。靜岡まで歸つて、實家へ行つてみようかとも考へたが、それも退屈だつた。知つた人に逢ふ事が億劫だつた。

 三島へ着いたのは八時頃であつた。そこから電車に乘つて修善寺へ行つてみる氣になつた。驛驛の廣告看板で、宿の名前を讀みながら、長岡といふところで降りる氣になり、ゆき子はそこで網棚の荷物をおろして下車してみた。夜更けのせゐか、東京の郊外を歩いてゐるやうな、平凡な町であつた。年寄りの宿引きの案内で、山吹莊といふ小さい旅館へ案内された。割合新しく、木口も粗末なものであつたが、ゆき子にとつては、何處でもいゝのである。ゆき子は、外套もぬがないで、富岡のところへ、すぐ電報を書いて打たせた。

 泊り客もあまりないと見えて、靜かな宿であつた。鍵をかけたトランクを違ひ棚の上の天袋にしまつて、宿の褞袍に着替へ湯にはいつたが、ゆき子は少しも落ちつかない。六十萬圓の金を持ち逃げして來た後めたさがあつたが、ゆき子は、伊庭も、成宗も、怖ろしいとは思はなかつた。六十萬圓の幸福があるにしても、いまは、もう六十萬圓の金ではあがなへない幸福だつた。何も彼も遲すぎる氣がした。

 湯から上つて、運ばれた食膳の前に坐つてみても、この心の飢ゑは滿たされやうもない。ゆき子は町へ出て、寒い風に吹かれて歩いたが、何處まで行つても暗い道だつたので、町の果物屋で、蜜柑を買つて宿へ戻つた。どうしても、富岡に來て貰ひたくて、ゆき子は、また電報を書いて女中に頼んだ。宿で不思議がつてもかまはない氣持ちで、女中には、わざと戀人を待つてゐる樣子を冗談めかしく話したりした。が、ゆき子にとつては、巨萬の富を得たやうな氣がして、富岡とすぐにでも、手をたづさへて、愉しい生活が出來ると考へてゐたのだが、いまでは、金を持つてゐるその幸福も、ゆき子を一層苦しめるやうな孤獨さに追ひこんでゐた。

 夜更けになつても、ゆき子は何時までも眠れなかつた。糊臭いシーツに寢て、ごうごうと木枯しの音を聞いてゐると、富岡への思慕が火のやうに烈しく燃えたつて來る。夜半に二三度起きては、天袋の襖を開けて、ゆき子は小さいスーツケースの存在をたしかめてみた。

 夜明けまで、苛々した眠りの連續だつた。

 富岡が、長岡の山吹莊へ來たのは、ゆき子が四通目の電報を打つたあとであつた。ゆき子は丁度、夕食を食べてゐた。「お客樣です」と、番頭が前ぶれして來ると同時に、その後から、みすぼらしい外套姿の富岡が、帽子もかぶらずに部屋へ這入つて來た。怒つたやうな顔をしてゐた。坐るなり「來なければ死ぬなんて電報は、非常識だね」と云つた。

 富岡が素直に來てくれた事が、ゆき子には嬉しかつた。この二日間の不安は、富岡にも分けたかつたのだ。ゆき子は、すぐ酒を注文した。現金にはしやぎながら、富岡が、湯から上つて來るのも待ちきれない思ひである。女中に冷やかされながら、ゆき子は、をかしくもないのに笑つてばかりゐた。

 富岡が、湯から上つて來て、食膳についた時、富岡は、

「いつ、こゝへ來たの?」と、聞いた。

「昨晩。電報を打つて驚いたでせう!」

「うん。隣りの部屋の奥さんが、吃驚してゐた」

「とても、來てほしかつたのよ。いろいろ話したい事だらけなンだけど、私、伊庭のところを出てしまつたのよ」

 富岡は、別に驚いた樣でもない。

「どうするつもりなンだ?」

「どうつて、耐へられない生活だつたから出て來たのよ。私ね、惡い事をして出て來たのよ‥‥」

 ゆき子は、惡戯をした子供のやうな無邪氣さで、六十萬圓の、教會の金を盜んで家を飛び出してきた話をした。

「伊庭さんは、いまごろ、警察へとゞけてゐないかね?」

「とゞけられやしないわよ。みんな、變な事をしてるンですもの。儲け仕事の宗教なンですもの。私を警察へ突き出せばあの教會のぼろが出ちまふでせう。――薮蛇をつゝくやうな事はしない筈だわ。六十萬圓の金位は、あの人達にとつては自動車を一臺こはしたやうなものですもの‥‥。何の資本もいらなくて儲けた、不浄の金ですもの‥‥」

「いまに、罰があたるな‥‥」

「大日向教の罰なら、神樣御不在だから、かまはないわ。伊庭だつて、あの家を、私にくれると思へば、この位のお金は何でもありませんもの‥‥」

「あるところにはあるものだね。宗教といふものは、當ればぼろいもンだな」

 富岡は二三杯の酒に醉ひ、少しづゝ氣持ちがほぐれてきた。ゆき子は、成宗や伊庭の惡口を云ふ事で、自分のやつた事を幾分でも輕く考へたいところもあつた。富岡は、ゆき子との、かうした長い交渉を宿命のやうにも思ふのだつた。おせいも、邦子も死んだ。たゞ、この女だけが、生き殘つてゐる。それも、逞ましいファイトを持つて生きてゐるのだと思ふと、今度は、自分の方が。此の女に追ひ詰められさうな氣がした。

 世界のひと、いづれの行も足りず、たゞに迷ひ、たゞにさすらふの、祈祷を思ひ出して、ゆき子は、明日の日は、伊庭に捕へられても、今日の迷ひを迷つた方が、はるかに愉しいのだと、捨てばちな氣持ちであつた。食事が濟んで、女中が膳をさげて行つても、酒だけは幾本かおかはりを持つて來て貰つた。

「伊香保の事を考へると、お互ひに、長く生きられたものね‥‥」

「あれからは、蛇足だつたな‥‥」

「さうかしら‥‥。でも、貴方には變化の多い生活だつたぢやないの? おせいさんといふ人物が現はれた事だつて‥‥」

 富岡は返事もしなかつた。

「おせいさんが、あんな死にかたをしなければ、私はもつと幸福だつたと思ふのよ。貴方の顔を見ると、おせいさんの亡靈がとつゝいてゐるやうで口惜しい。酒に醉つたから云ふわけぢやなかつたンですけど、こんなに二人だけで、何でも云へる日はなかつたでせう? 私、おせいさんが憎い。いまでも、とても憎んでゐるのよ。いやあな女だつたと思つて‥‥」

「おせいの話をする爲に、俺をこゝへ呼んだのかい?」

「いゝえ、さうぢやないわ。そんな事なンか考へてもゐなかつたわ‥‥。でも、貴方を見たとたんに、暗い顔をしてる貴方の躯の何處かに、まだ、あの女の亡靈がとりついてるンだと思つたのよ。――伊香保で、何故、私達は氣持ちよく死ねなかつたンでせう?」

「いまは、死ねるかい?」

「さうね、貴方は?」

「死ねないね‥‥」

「さう‥‥。さうね、私も、死ねないやうな氣がして來たわ」

「お互ひに、死ぬ必要はなくなつたね。月日が、そんな風にうまく、取り計らつてくれたンだよ」

「あら、それ、どういふ意味なの?」

「どうつて、別に理窟はない」

「このまゝ、貴方と一緒にゐられるつていふ意味?」

「一緒に? さうだね。そりやア、もう、無理かも知れないね。僕は、明日は歸るつもりで、ここへ來たンだ‥‥」

 ゆき子は酒に醉つたせゐか、眼の前がぼやぼやと水つぽくなり、涙がぱらぱらと胸にこぼれ落ちた。一緒になる事は無理だらうと云はれて、ゆき子は、

「何故なの?」

 と、唇をゆがめながら、せぐりあげて聞いた。

「結局、君には迷惑のかけどほしだつたが、どうして一緒になれないのかと聞かれても、かうだからといふ理由はない。こんな世の中なンだよ。僕は、君が教會の金を盜んで來たと聞いては、何だか、濟まない氣もするが、當分、女房も女もいらない。少し、自分の仕事も本腰でやつてみたい氣がして來てゐるンだ。幸い生活にも馴れたし、あのアパートも、近々引越す事になつてゐるが、このまゝ、二人は氣持ちよく別れてしまへないものかね?」

 ゆき子は、六十萬圓の札束が、急に、重い碇のやうに、どすんと頭の上へ落ちかゝつて來たやうな凄い胸の痛さであつた。




五十四

 氣持ちよく別れてしまへないかと云はれて、ゆき子は、富岡の顔をみつめた。女房も女もいらないといふ、無情な言葉は、たとへどんな考へがあつたにしても、自分の前で云へる言葉ではないではないかと、ゆき子は、暫く默つてゐた。

 富岡は、いつもにない妙な醉ひかたをして來た。

 卓上に肘をついて、盃を唇に持つてゆきながら、ゆき子を見てゐたが、その眼はうつろであつた。かつてない、冷い眼の色で、これがこの男の持つて生れた表情なのではないかと思へた。頬は痩せこけてゐる。額に垂れた髮をかきあげるたび、その手で髮の毛をむしる癖。眼のふちはただれ、褞袍の胸を擴げて、赤黒い胸をぴちやぴちや叩きつけてゐるのも、ゆき子には、いまゝでの富岡にないものを見たやうな氣がした。富岡を、いま初めて見るやうな氣持ちで、じいつと見てゐると、女を誘ふやうな、むせかへる男の體臭が感じられた。この體臭が、女を誘ふのかも知れないと、ゆき子は、富岡に盃を差した。自分も醉つて來た。

 ゆき子は、無茶苦茶に醉ひたかつた。金を持つて、逃げ出して來た情熱を判つて貰へないとすれば、自分の今朝の考へは、淺はかなものであつただらうか‥‥。どうせ、富岡と一緒になつたところで、うまくゆけるとは思はなかつたが、ゆき子は、富岡を手放す氣にはなれなかつた。

 醉ひが激しくなるにつれ、ゆき子は、皮膚のすべてが、毒河豚でも食つたやうに、じいんとしびれてきた。醉つて、洗ひざらひ富岡に毒づいてやりたかつた。ゆき子は、その醉ひのなかで氣がつくたびに、また、佛印の思ひ出を話してゐる。

「えゝ、けつして、私は、貴方のやうに、絶望はしてゐません。生きてみせますとも、せいぜい、貴方は勝手に女をつくればいゝのよ。河内のキャンプで、私は、ベラミーつて小説を讀んだけど、貴方は、あの中の主人公ね‥‥。でも、あの主人公は、宿無しの風來坊だから、女を梯子段にして出世するンだけど、貴方は、女だけを梯子にしてる‥‥」

 富岡は、そんな小説は讀んではゐなかつたが、女を梯子にするとゆき子に云はれて、むつとした。ゆき子の腕を掴み、引きずり寄せた。

「そんな事を云ふために俺をこゝへ呼んだのかい? 俺は、お前が、千萬圓の金を持つて來たつて、それをあてにするやうな男ぢやないンだぞ‥‥。教會の金を盜んだつて、大手柄みたいな顔をしやがつて‥‥。そんなに俺がなつかしかつたら、何故、伊庭のところに行くンだツ」

「あらツ、何をおつしやるのよ。自分で勝手な事ばかりしてゐて‥‥」

 富岡は、掴んだゆき子の手を放した。

「君も、せいぜい男を梯子にするがいゝ」

 富岡は、ごろりと横になつて、眼を閉ぢた。何の聯想からか、ユヱに着いて、クレマンソウ橋のそばの、グランド・ホテルに泊つた日の事を思ひ出してゐた。ユヱの山林局に、マルコン氏を尋ねるべく、ユヱに數日を送つた事があつた。村木種子の譲與を頼みこみに行つたのだが、あのグランド・ホテルで、そつくり返つてゐた、自分が、いまはみるかげもない落ちぶれやうで、女の盜んで來た、六十萬圓をひそかにあてにしてゐる‥‥。富岡は、肚の中で、自分をにやりと笑つてゐた。ゆき子が、女を梯子にすると云つたが、或ひはさうかも知れないと思へた。

 富岡は、このごろ、以前の農林省の友人の世話で、南の果ての屋久島へ行つてみないかといふ話があつた。もとの官吏に逆もどりするのは、富岡としても心は進まなかつたが、他に何の手段もないとなれば、また、もとの古巣へ戻るより仕方がない。

 それと、もう二つばかり仕事があつたが、一つは、和歌山の高池町にある林業試驗場へ、技師として勤める口であつた。

 富岡は、高池町の林業試驗場へ行くよりも、南の果ての孤島である、屋久島の營林署へ行きたかつた。高池町の林業試驗場が、氣がむかなければ、同じ、和歌山の伊都群九度山町の、高野營林署にも、君の行くポストはあると、その友人は勸めてくれた。いづれ、どうにもならなかつたら、頼みに行くよと云つて別れたが、富岡は、東京でまごまごしてゐるよりも、いつそ、思ひ切つて、もう一度、山の中へ這入りこむのもいゝのではないかと思つた。それにしても、南の果ての屋久島へ行くのはいゝが、病妻や、兩親を捨てゝ行くには、相當の用意もしなければならないと考へてゐたのだ。だが、いまは、邦子も亡くなり、兩親も松井田へ引つこんでしまつた。いまは、何一つ足手まとひはない。明日からでも、友人は、富岡の屋久島行きの辭令を出してくれるに違ひない。

 屋久島が、どんなところかは、富岡はさつぱり知らなかつた。たゞ、原生林の屋久杉の産地といふだけしか、富岡には判つてゐないのだ。

 まるで、無人島のやうな氣がした。友人は、屋久島は、營林署だけで保つてゐるやうな島だが、人情は純朴で、一ケ月は雨の降りつゞいてゐる島だが、覺悟が出來るかいと笑つて云つた。

 いつそ、また、官吏に逆もどりするのならば、和歌山の高野山あたりに行くよりも、屋久島がいゝと思つた。地圖を見ると、種子島の近くで、圓い島である。

 富岡は眼をつぶつて、暫く、屋久島行きを考へてゐた。ゆき子が自分の脇腹のところに這ひ寄つて來て、何か、くどくど云つてゐたが、富岡は、うとうととしてゐた。

 ゆき子は、富岡のそばへ這ひ寄つて行くと、富岡の胸に顔をつけて云つた。

「どうして、そんなに、心が遠くへ行つたの? どうして、そんなに、急に冷くなつたンですか? 伊庭のところへ行つたから、富岡さんは怒つたの?」

「いや、もう、怒るも怒らないもない。終戰後、みんな、こんな氣持ちになつてしまつたんだな‥‥。自分を基にして判斷する力を失つてしまつたンだよ。目的は、自分がつくるものぢやなくて、周圍がつくつてくれるやうになつたンだ‥‥。この國柄が、俺達をつくるやうになつたンだよ。昔の夢を追つて、君の、いま持つてる金で、二人で當分、面白をかしく暮したところで、どうにもならない。根のない浮草みたいな我々だが、それで、二人が、何とかなれるとも思へないしね‥‥」

「死ねばいゝわ。伊香保で、死ぬ筈だつたのを、死ねなかつたンですもの、お金をつかひ果したら、死ねばいゝわ。貴方は、私に、死んでくれつて云つたぢやないの?」

「死ぬのは痛いよ」

 富岡はふつと、惡靈のなかの自殺の方法のところを思ひ出してゐた。大きい家ほどもある、大盤石が、頭へ落下して來るとすれば、痛いかどうか‥‥。百萬貫の石を想像し、その下に立てば、痛いだらうと恐怖にかられる。石そのものには苦痛はないが、石に對する恐怖で、苦痛を感じる。富岡は、いまは、どのやうな手段の死も、一種の石に對する恐怖のやうなものを感じるのだ。

「死ぬのは、とても痛いことだぞ」

「死ねば、痛くはないでせう?」

「いや、うまく死ねるといゝが、うまく死ねなかつたら痛いぞ‥‥。」

「痛いのは我慢出來ます。貴方に、きらはれるのは我慢出來ない」

 ゆき子は、富岡の褞袍の襟を掴み、吊り上げるやうにしてゆすぶつた。

「きらつてはゐないさ。好きだから、もう、このへんで、お互ひの生き方を變へようと云ふンだ‥‥。君は、伊庭のところへ戻るのもいゝし、その金で、何か仕事にとりつくのもいい。おゆきさん、世の中といふものは、そんな風に變つたンだよ。僕達のロマンスは、もう、終戰と同時に消えたンだ。いゝ年をして、いつまでも、小娘みたいな夢をみるのはやめたがいゝ。僕だつて、君と離れてゐると、時々は、君との夢を見て、一種のエクスタアシイを感じる時もある。人間とはそんなもンだ。――さア、こつちい向いてくれ。今夜はゆつくり話しあかさう。お互ひに、妙な別れはしたくないね。君をきらひで、別れるンぢやない。きらひだつたら、こんなところへのこのことやつて來るもンか‥‥」

 富岡は、むつくり起きて、冷えた徳利の酒を、手酌で盃についだ。

 女中が、不意に寢床を敷きに來た。

 富岡は、熱い酒を注文した。女中が寢床を敷く間、二人は縁側の椅子に腰をかけてゐた。寒い廊下であつた。

 蒲團の敷ける間、二人は、卓子にむきあつて默つてゐた。軈て部屋いつぱいに蒲團が敷かれ、床の間のところに、火鉢と茶餉臺とが片寄せられ、そこに、酒の支度が出來た。火鉢には炭がつがれ、青い炎を上げてゐた。

 二人は火鉢を狹んで坐つた。

「何でも話して頂戴」

「そんなに、詰めよられても、大した話もないがね‥‥。死ぬの生きるのといふことは、もう、二人とも卒業していゝんだぜ」

「勝手な人ね」

「どうしてだ?」

「どうだつて事でもないけれど。私は、死ぬ氣持ちで、出て來たのよ」

「死ぬ氣持ちか、そりやアいけない。まつぴらだな‥‥。マタイ傳かな、狹き門よりはいれ、ほろびに到る門は大きく、その路は廣く、之よりはいるもの多しだ。いのちに到る門は狹く、その路は細く、之を見出す者少なし‥‥。つまり、二人とも、もう、ほろびに到る門の前を素通りしたンだ。僕はさつき云つた、石の恐怖は澤山だからね」

「ぢやア、私、一人で死にます」

 富岡は、にやにや笑ひながら、冷酷な表情で、

「どうとも、勝手にするんだな」

 と、小さい聲で云つた。




五十五

 翌朝、二人は晝近くになつて眼を覺ました。富岡は、寢床で新聞を讀んでゐた。二月になるのを期して、國鐵のストライキを報じた記事が大きく出てゐた。富岡は、興味もなく、その新聞を枕もとに放り出して、大きなあくびをした。ゆき子は白いカーテンの、汚れた汚點をじいつと見てゐた。富岡はこのまゝあの部屋へ戻つてゆけるのだが、自分は何處へも戻れないのだと思ふと、心細くなり、朝の黄ろい光りを受けて、ゆき子は、自分の手を蒲團から出して眺めてゐた。

 富岡は枕をかゝへ込むやうにして、うつぶせになると、煙草を取つて吸つた。

「何時頃、こゝを出るの?」

「さうだな、二時頃の電車でいゝね」

「どうしても歸る?」

「君は?」

「私は、何處へ歸るのよ?何處へも行くところはないでせう?」

 富岡は、煙草を吸ひ、じいつと、煙草の煙を見てゐた。ゆき子は、伊庭のところへ戻るのは厭であつた。何時でも戻れる氣持ちで出て來たのならば、何も、こんなに富岡にすがりつく必要もないのだ。浮氣ですまして、さつさと伊庭のところへ戻つて行けばいゝ。死ぬ氣はなかつたが、伊庭のところへ戻る氣持ちがないといふ事が、ゆき子には重大であつた。もう、何一つ喋る氣はしない。せめて、もう一日、こゝにゐて貰ひたかつたが、ゆき子は、富岡には、ひそかにあきらめてゐた。今日の別れを、本當の別れにすべきだと思ふと、自然に涙が溢れた。

 富岡は、ゆき子が泣いてゐる事を知つてゐたが、知らないふりをしてゐた。富岡にも、ゆき子の心の中は反射して來た。富岡は煙草を灰皿にもみ消して、ゆき子のそばへ行つて、ゆき子を掻き抱いた。

 昨夜は、妙な醉ひかただつたので、二人はお互ひに喋り散らして眠つたが、やつぱり、その清潔さだけでは、本當の別れを決行する事が出來ない二人でもあつた。

「いま、かうして、二人は、一緒に抱きあつてゐるのに、もう、二三時間もしたら、また、他人よりも始末の惡い別れ方になるのね」

 ゆき子が、淋しさうに、富岡の胸の中で云つた。船醉ひのやうな、佗しい二人であつた。

「君も元氣を出すンだよ」

「えゝ」

「云はないでゐようと思つたが、僕も、いよいよ、また勤めへ戻るンだよ」

「まア!」

「それでね、一週間位したら、任地へ行くつもりだ」

「任地つて、何處?」

「鹿兒島から、船に乘つて行くンだ。屋久島といふ、國境の島だ」

「屋久島、そんなところあるの?」

「そこの營林署に口があるンでね、五六年、あるひは一生、そこへ行つて、山の中で暮すつもりだ‥‥」

 ゆき子は、富岡の肩を抱き締めて泣いた。

「厭よツ! そんな遠いところへ行くなンて‥‥。ぢやア、私も連れて行つてツ」

「さうはゆかない。淋しい島だよ。第一、君は、そんなところで、五六年も暮せる人ぢやない。一年に一度位は東京へ來られるだらうから、その時は、また逢へるが、當分、出來るかどうか判らないが、山の中へ這入つてみたいンだ」

 ゆき子は、呆んやりしてゐた。そのくせ、富岡の後を追つて、屋久島とかへ行くであらう、自分の姿を空想した。

「ねえ、貴方のところにゐた、あの娘と、また、一緒になるンぢやありませんの‥‥」

 ゆき子が、ふつと、聞いた。

「娘?」

「えゝ、貴方の部屋に、可愛い娘が、寢床にはいつてゐましたよ」

「あゝ、あれは、近くの飮み屋の娘だ。不良少女だ」

「かまつたンぢやないの? おせいさんみたいに‥‥」

「馬鹿!」

「一人で、そんな遠いところへ行く、貴方とも思へないけど‥‥」

「一人さ。一人で行くンだよ」

「一人でね。でも、いゝわね。男のひとは、何とか、落ちつくさきがみつかるもンだけど、女つてものは、三界に家なしだから」

「伊庭のところへ歸るさ‥‥」

「それが、私には一番いゝつて思つていらつしやるの?」

「他にどんな方法があるンだい?」

「私は、もう、絶對に伊庭のところへは戻りませんよ。それだつたら、私は、今度の事は、たゞの遊びみたいぢやないの? 馬鹿にしないで下さい。――私は、貴方が一人になつたから、今度こそ、貴方と結婚したいと思つて、思ひつめて逃げて來たンぢやありませんか。そりやア、日本へ戻つて來てから、私も貴方も、いろんな迷ひはありましたよ。やぶれかぶれで、いけない事もあつたけど、二人とも同罪だわ。折角、廣き門の前を通りすぎたのなら、やつぱり、私と貴方は、別々にならないで、狹き門を探して、二人で努力すべきよ。――貴方は、昔の夢をなつかしがつちやいけないつて云ふけど、私と別れて、私を夢の中で見て下さるのは、貴方こそ、ロマンチストで、昔の事を忘れないつて人ぢやない? どうして、一人になつてしまつた貴方が、私と別れようとなさるのか、私には判りませんわ。きらひなら、きらひと、はつきり云つて‥‥。その上で、私は、貴方の云ふとほり、伊庭へ戻るかも知れないし、戻らないかも知れない。――結婚出來ないのが、私には不思議だわ」

 富岡は默つてゐた。おせいの問題が、心の中で、まだ、かたづいてはゐないのだと判然りと云へなかつた。屋久島へ行く事になれば、サラリーをさいて、おせいの亭主の辯護人も頼めるのだ。考へてみるとおせいは、ゆき子と自分の問題の犧牲者でもあるのだ。そこまで判然り云へば、ゆき子が怒り出すのは判つてゐる。あいまいに、自分の氣持ちを流してしまふより方法もない。

 二人は軈て、湯にはいり、遲い朝飯の卓子についた。丁度伊香保の時から、一年目になる、富岡は、鏡臺の前に蹲踞んで、髮をときつけながら、鏡の奥に、眼をすゑて自分を見てゐる、ゆき子のけはしい眼に行きあたつた。

「幸福さうね」

「さうかい」

「私と縁が切れて、せい/\なすつたでせう?」

「さうだね」

「冷い人だつたわ、昔から‥‥」

「僕かい?」

「えゝ、貴方よ。私、いまごろになつて、加野さんが、氣の毒で仕方がないわ」

「なつかしいだらう‥‥」

「えゝ、なつかしい、何故、死んぢやつたのかしら、死んだものが損ね」

「だから、無理しても、生きてた方がいゝンだ」

「これから狹き門を探すンぢや遲いわ」

「遲くはないよ」

「ねえ、お金、十萬圓ばかり持つていらつしやる?」

「十萬圓くれるのかい」

「少ない?」

「いや、惡くはないね」

「二十萬圓でもいゝわ」

「人の金だと思つて、大きい事を云ふね」

「もともと、あぶく錢ですもの‥‥。宗教屋つて、面白いほどはいるンだから‥‥」

「狹き門への入場料だからだらう‥‥」

「さうね‥‥」

 ゆき子が、天袋から、ボストンバッグを引きずり出すと、富岡は、鏡臺に櫛を置いて、

「何もいらないよ。勤めを持つとすれば、何もいらない。君こそ、大切な金だからね」

「どうして、大切なの? 私は、お金なンかいらない‥‥」

「そんな事はない。金が、人間にとつては、一番の味方だ」

「ねえ、貴方が、一人で、屋久島へ行くつて氣持ち、私ちやんと判つてるのよ。あたるか、あたらないか判らないけど、きつとさうなのね‥‥。おせいさんの事が、貴方の胸にまだ引つかゝつてるンでせう? それとも、奥さんの事かしら」

 富岡は床の間を背にして坐つた。女中が、熱い茶を運んで來た。富岡は女中に、電車の時間を聞きにやつた。




五十六

 富岡が歸るとなれば、ゆき子も、べんべんと旅館へ居殘つてゐる氣もしない。二人は宿を引きあげて、一緒の電車に乘り、三島へ出て、それから、東京行きの汽車に乘つた。

 行き所のないゆき子を、このまゝふり捨てるわけにもゆかなくなり、富岡は、結局、自分の部屋に、ゆき子を連れて戻るより仕方もないと考へてゐた。二人は品川で降りた。

 山の手線の電車のホームで、お互ひに笑ひ出したが、そのまゝゆき子は富岡の部屋へついて行つた。

 伊豆と違つて、東京の寒さは、骨身にこたへる程の冷たさだつた。ごうごうと生活の嵐が吹きすさみ、二人とも、また暗い氣持ちに落ちこんでしまつた。

 部屋へ戻ると、農業雜誌からハガキが來てゐた、農業技師の思ひ出の原稿を、少しづゝ分割して載せたい意向が書いてあつた。富岡は明るい氣持ちになつた。

 電氣コンロが自由につかへなくなつてゐたので、ゆき子は、荷物を置いて、近所の炭の配給所に、高い炭を分けて貰ひに行つた。富岡は、原稿を出して、ぱらぱらとめくつて讀み始めた。隣室の細君が、さつき、伊庭さんといふ方がみえましたと、名刺を持つて來てくれた。

 富岡は、その名刺をポケットにしまつた。ゆき子には見せたくなかつたのだ。軈て、ゆき子が、炭のほかにも、色々な買物をして、顔をまつかにして戻つて來た。一升壜もさげてゐた。富岡は、ゆき子を不憫だと思つた。

 子供染みた幻影を抱きつゞける女の心根が、富岡には、鼻白む思ひだつた。いろんな、矛盾にゆきつく。富岡は、自然に、女を裏切つて來た道筋を、自分でも判らなくなつてゐた。女の習慣に恐怖を持つてゐた。これは己れのなかにある己れへの恐怖なのだと、富岡は、犯罪者の感じるやうな後めたさでもあつた。

 女は、どんな事があつても、後をふりかへつてみようとはしないものだ。ひたすらに、子供染みた無邪氣さで、男を誘惑する。

 伊庭が、こゝへ來たとすれば、この部屋も安全ではない。早く、屋久島行きを決行しなければならない。それに就いては、ゆき子をどんな風に始末して行くかゞ富岡には問題だつた。

「君は、また、昔の役所に勤める氣はないのかい? 頼んでみてもいゝんだがね。一人で部屋でも借りて、のんびり暮せないかい? 勉強も出來るし、また結婚の相手もみつかるかも判らないぜ‥‥」

 ゆき子は、じろりと富岡を見た。

 もう、その話には觸れないで下さいといつた表情だつた。ゆき子の行き暮れた氣持ちは昨日も明日も必要ではないのだ。只、現在だけが彼女であつた。それに、六十萬圓の金といふのが、かなりゆき子を大膽にしてゐた。如何にか切り拔けられる金でもあるからだ。まかり間違へばゆき子は自分だけでも屋久島へ行くつもりだつた。この男の體臭からいまは離れられなくなつてゐる。

 伊庭にも、加野にもない、男らしい體臭に、ゆき子は狂人のやうにしがみついて行きたかつた。いま、こゝで富岡と別れる位なら、品川の驛から、伊庭のところへまつしぐらに戻つて行つてゐる筈だ。

 ゆき子は、この部屋に、昔から住んでゐるやうな馴々しさで、食事の支度をした。富岡は、仕方なくポケットの名刺を出してゆき子に見せた。

「まア、伊庭が來たの? 何時、來たンでせう? どうして、こゝを知つてゐるンでせう?」と、吃驚してゐた。

「不思議ね‥‥」

「神樣だから、こゝが判つたンだらう‥‥」

「冗談はおいて、どうして判つたのかしら。貴方のところは、誰にも云つてゐないのよ」

「おせいの騷ぎの時に、知つてゐたンぢやないのか?」

「いゝえ、知らない筈よ。そんな事はあつた事は知つてゝも、こゝを知る筈がないもの」

 ゆき子は、全く、伊庭の出現を不思議がつてゐた。富岡は何かに追ひたてられる氣がした。

「ねえ、兎に角、私は何處にゐてもいゝ躯なンですから、屋久島まで、連れて行つて下さいませんか。飽きたら、一人で戻ります。一月でも、二月でも、連れて行つて下さい。さうすれば、私にもなつとくがゆくと思ひます」

 富岡は、ゆき子を南の果てまで連れて行く氣はしなかつたが、伊庭の出現によつて、さうした冒險もやつてみる氣になつた。

 翌朝、早く友人の家へ行き、屋久島行きを頼み、さつそく手續きをして貰ふ事になり、歸り、丸の内の農業雜誌の編集部へ原稿を持つて行つた。

 編集部では、顔見知りの記者の出社を待つて、一時間ほど待つた。出社して來た記者は、妙な事を云つた。昨日の朝、漆の話といふのを書いた君の住所を聞きに來たものがあつたと云つた。あゝ、さうだつたのかと、富岡は思ひ當つた。ゆき子が、自分の漆の話といふ原稿の載つてゐる農業雜誌を買つて讀んだ話をしてゐたので、伊庭が、その雜誌で、自分の住所を尋ねる氣になつたのだなと判つた。

 ゆき子は、一日、外へ出てゐる事にしてゐた。荷物を持つて、ゆき子は二つ三つ映畫を觀てまはつた。富岡の留守に伊庭に來られては連れ戻されるのは判つてゐる。

 富岡と一緒に、屋久島へ行くとなれば、ゆき子にとつては、何も思ふ事はなかつた、ゆき子はおせいの辯護人を頼む金を出したいまは、何の慾もない。

 夜、遲く、富岡の處へ戻つて來る。また、明日になれば、ゆき子は荷物をかゝへて外へ出て行く。

 一週間ほど、こんな生活が續いた。一週間目に、伊庭から富岡に、何處かでお目にかゝりたいが、場所を指定してくれるやうにといつた速達が來た、だが、丁度その日に、富岡の就任がきまつた。

 速達を、富岡は破り捨てた。ゆき子も、一方、その事を氣にしたやうだつたが、富岡の屋久島行きがきまつた以上は伊庭の凄んだ速達なぞは、氣にする事もないと思つた。

 富岡は色んなところへ挨拶まはりに行つたり、原稿に手を入れたりして、伊豆から戻つて、二週間目に、やつと、部屋もあけて、荷をまとめて任地へ送つた。

 富岡は、東京を去る日まで、まだ、ゆき子を何とか殘して行きたいと考へてゐたが、おせいの亭主の辯護人への金も出させて、いまさら、自分一人で發つわけにもゆかなかつたのだ。なりゆきに任せるより仕方がないのだ。南でキャンプ生活をした時に、この、なりゆきに任せる精神は癖になつてしまつた。馬來人の材木運びが、何か不運な事に出逢ふと、アパ・ボレ・ボアットと云つてゐたが、この仕方がないと云ふ言葉ほど、富岡の現在には容易なものはないのだ。

 全く、仕方がない。自分は、ゆき子の金に手も觸れないでおきながら、何から何まで、ゆき子に吐き出させてゐる卑しさが、富岡には、息苦しかつた。新聞に騷がれてゐた、二月のストライキは禁じられたが、世の中は、盆々騷然としてきてゐた。一種の觀念だけでは、富岡は東京で生活するのはむづかしいと思つた。自分の生活のなかに、いろんな誤解が生じて來るのも、この現代の東京生活であつた。

 いろんな齟齬のうちに、富岡は、自分の躯をもてあましてしまつてゐる。別の人間として、再出發するには、もう一度、何處かへ場所を變つてみなければならないのだ。いつも、受動的な惱みのなかに、自分と社會とのずれを感じてゐた。西も東も、廻轉するベルトの速さで、富岡の耳のそばを、社會は押し流されてゐた。不安な、第三期の戰爭の氣配すらぷすぷすいぶつてゐる。富岡は、この無精神状態のなかに、ゆき子と古いきづなを續けるのはたまらない氣持ちだつた。そのくせ、その古いきづなは、切れやうとして切れもしないで、富岡の生活の中にかびのやうに養ひ込んでしまつてゐた。

 二人が、東京を發つたのは、二月の中旬であつた。夜汽車に乘つた。




五十七

 Ilale diable au corps だ。惡魔が俺に乘りうつゝてゐる。加野が、ダラットで、よく使つた言葉だつた。その惡魔は、誰と聞くと、加野はゆき子をあごで差した。

 汽車はあまり長くて退屈な旅であつた。富岡は退屈もしないで、よく、むしやむしやと、食ひ散らかしてゐるゆき子に呆れてゐる。

 京都には朝着いた。ゆき子がゐなければ、富岡は、一日位は、京都へ降りてみたいところである。

 ゆき子は持ちつけない金を持つたせゐか、京都でもホームに降りて、食ひ物を買つて來た。車窓へ乘り出して見てゐると、外套を着込んだ背中が、もう、さかりの女を過ぎた感じのみすぼらしさに見えた。煙草も買つてくれたやうだ。ちらと、こつちを振り向いたゆき子の顔が、ひどく蒼ざめて乾いてゐた。

 大阪、神戸を過ぎ、舞子の海邊を通過する時、にぶく鉛色に光つた海が、車窓に白く反射してきた。

 ゆき子は、外套の襟をたてゝ深い眠りに落ちてゐた。博多停りの三等車は、割合混んでゐた。通路にも坐り込んでゐるものがあつた。

 いろんな食べ殻と、人いきれで、スチームのない晝間の車中は、割り合ひむしむししてゐた。よく眠つてゐるゆき子の顔を富岡は呆んやり眺めてゐた。この四五日の同棲で、眼の下は三角に薄黒くなり、唇の皮が割れて、紅が筋のなかに固まつてゐた。眉は立ちあがつてゐたし、小さい鼻の頭には膏が浮いてゐた。時々、瞼が神經的にぴりぴり動いてゐる。

 惡魔が眠つてゐる。だが惡魔は眠つたふりをして、富岡の眼の行き場をよく知つてゐるのだ。眠つたまゝゆき子は笑つた。富岡はあわてゝ眼をそらした。

「また、私の事、何か云ひ出すンでせう?」

 さう云つた眼を開けて、ゆき子が、漆の蜜柑をむき出した。冬枯れの錆びついた田畑や煙突だけになつた、瓦礫の工場地帶や、山や川や海が、轟々と汽車の車輪に刻まれて後へ走り去つて行く。

 博多へ着いたのは夜更けであつた。雨が降つてゐた。

 二人は疲れてゐたが、すぐ、鹿兒島行きに乘り替へた。もつと疲れ切つて、何も彼も麻痺してしまひたかつた。ゆき子は、少しづゝ心細くなつて來てゐる。夜の雨は、光つて、汚れた硝子窓に降り込めてゐる。ゆき子は、幾度も切れ切れの夢を見たが、サイゴンから、ヂリンを經て、ランビァン高原へ行くダラットへの自動車の動搖を感じてゐた。

 眼が覺めるたび、雨の中を走る夜汽車の現實が、ゆき子には、心細くなつて來るのだ。案外、日本も廣いものだと思へた。富岡は病人のやうにぐつすり眠つてゐる。

 長い旅路でもあつた。東京を遠く離れてみると、伊庭との生活の思ひ出が、ずたずたに切り裂かれてゐた。熊本で雨が少しばかりやんだ。車中の顔も、次々に變つていつた。言葉も、九州なまりになり、四圍には、二人に關聯したものは何もなくなつて來た。ゆき子は、疲れた足を富岡の脚の間へぐつとのばして眼を閉ぢた。

 何處からも危險はおそつて來ないと思ふにつけ、ゆき子は伊庭の怒つた顔ををかしく思つた。こゝまで來てしまへば、もう、私を引きもどすわけにも行かないのだわ‥‥。もつともつと、大日向教の御繁昌を祈りますと云ひたいところである。

 大津しもは、これからも厚化粧をして、あの金庫の前に、 でんと坐り込んでゆくであらう。ゆき子は、時々頭の上の網棚のボストンバッグに注意をしてゐた。いま、自分の頼るべきものは、このボストンバッグ一つきりである。





 鹿兒島へ着いたのは、朝であつた。土砂降りの雨であつた。輪タクに案内させて、港に近い、千石町とか云ふところの、小さい宿屋に案内された。

 二階の窓からは、幕を張つたやうに、大きい櫻島が見え、櫻島は雨で紫色に煙つてゐた。

 ゆき子は、疲れてしまつて、潮臭い疊に脚をのばした。

 女中に、富岡が屋久島通ひの船は、何時出るかと聞いた。雨や嵐になると、何日も船は出ませんといふ返事だつた。屋久島へ行く船便を調べて貰ふやうに頼んで、富岡は外套のまゝ疊に寢轉んだ。

 寢ながら櫻島が見えた。海は漆のやうな青い色をしてゐる。小さい船が、ごちやごちやと波止場に寄り添つてゐた。茶を運んで來た女中に、富岡はビールを頼んだ。

「隨分遠いところへ來たわね。こゝから、また船に乘つて、一晩かゝるなんて、島流しみたい。一人ぢやア、私、とても來られないわ」

「四年も五年も、これから暮すんだよ」

「さうね‥‥」

「どうだ、歸るのなら、こゝからなら、丁度いゝよ」

「まだ、そんな事云つてるの?」

「君が、一人ぢや來られないと云ふからさ」

「貴方と二人だから來たんぢやありませんか‥‥。私つて、可哀さうな女だと思はない?」

「恩を被せられちや、やりきれないね」

 近所で、ラジオが、やかましく煎りつくやうに鳴つてゐる。ゆき子は外套をぬぎ、宿の褞袍を肩に引つかけて、吹き降りの廊下の外を眺めた。

「恩を被せるンぢやありませんわ。私は、そんなけちな氣持ちはないのよ。でも、貴方だつて、誰もゐないよりはましぢやないの? 私、屋久島に住めなかつたら、こゝへ來て、料理屋の女中をしたつていゝわ。女つて、それだけのものよ。捨てられたら、またそれはそれにして、こんなところでやつてゆく氣もあるのね‥‥」

「誰も、捨てると云つてやしない」

 女中がビールを運んで來た。

 泡立つビールを、ぐうつと一息に飮んで、富岡は初めて息をふきかへした。

 女中は、二日ほど船が出ないと知らせてくれた。こんなところで、二日も泊つてゐるのは退屈だつたが、船が出ないのならば仕方がないと、富岡も廊下に出て、吹き降りの海上を眺めた。

「貴方は、雜誌社には、屋久島へ行く事をおつしやつた?」

「あゝ」

「伊庭が、怒るでせうね」

「追つかけて來るかい?」

「まさか、それほどのお金でもないでせう?」

「いや、仲々大金だからなア‥‥。ひよいとしたら、警察沙汰にしないとも限らんぜ」

「大丈夫よ」

 大丈夫よと云ひながら、ゆき子は、部屋に戻り、自分もビールを飮んだ。冷いビールは腹にしみた。だが何となく、氣分が惡くなつて來た。

「奥さま、お風呂如何でございますか?」

 女中が、風呂を知らせてくれた。

 奥さまと云はれて、ゆき子は、誰にもそんな事を云はれなかつただけに、ふつと眼を瞠つて、富岡を眺めた。

「奥さん、先に、風呂へ這入つて來なさい」

 富岡が、からかつて云つた。富岡はくたくたに疲れてゐるのだ。風呂へ這入る氣もしない。船會社へ行つて、船の切符を買ひかたがた、船の出る日を聞いて來ると云つて、富岡は宿の番傘を借りて外へ出た。教はつた船會社への廣い荒凉とした道を、海の方へ向つて歩いた。初めて、自分一人になつたせゐか、富岡は清々した氣持ちだつた。いまがいま、船が出ると聞けば、自分一人でも乘つて行きたかつた。青いペンキ塗りのバラック建ての船會社へ行くと、宿で云つてゐたとほり、この嵐が濟まなければ、出航しないのだけれど、たぶん、明後日頃は出るだらうといふ事だつた。富岡は、屋久島までの二等切符を二枚買ひ、乘船名簿にゆき子を妻と書いた。

 歸り、賑やかな通りへ出て、富岡はウイスキーを買つた。宿へ戻ると、ゆき子は蒲團に寢て、蒼い顔をしてがたがた震へてゐた。

「どうした?」

「ねえ、寒くて、震へがとまらないのよ。お醫者さんを呼んで貰へないかしら‥‥」

 ゆき子は富岡の腕を掴んで、小刻みに震へてゐる。風邪をひいたにしては樣子が變であつた。唇に血がにじんでゐた。額に手をやつたが、大して熱はなかつた。だが、もしも、この宿で寢込まれるやうになつては、どうにも仕方がなくなるのだと、富岡は宿に頼んで醫者を呼んで貰つた。蒲團を三枚ばかりかけてやつたが、ゆき子は、それでも寒いといつて震へがとまらない。醫者は仲々來てはくれなかつた。富岡は、風邪藥を買ひに外へ出て行つたが、不吉な豫感がした。

 風邪藥を一服のませて熱い茶を與へてみた。まだ震へがとまらない。一時間位して、若い醫者がやつと來てくれた。女中に手傳つて貰つて、洋服やシュミーズをぬがせて診て貰つた。醫者はカンフルやビタミンの注射をしてくれた。二日ほど休養すればよくなるだらうといふ事で、富岡は吻っとした。何となく、亡くなつた邦子の病状に似てゐるやうな氣がした。富岡は、ゆき子の顔に、そんな氣配を感じるのだ。

 ゆき子は、鎮靜剤を貰つて、昏々と眠つてゐる。自分に遭遇する一つ一つの事柄が、富岡には、宿命的に固い扉に押しつけられてゐるやうな氣がしてきた。邦子が寢ついた時も、醫者は二三日でよくなるだらうと云つたものだ。だが、結果は二三日ではよくならなかつた。此の宿は、空襲後に建てたバラックらしく、五部屋位のものだつたが、案外客はたてこんでゐて、壁隣りは賑やかに笑ひさゞめいてゐる。自分達の部屋だけが陰氣だつた。

 富岡は、褞袍にも着替へないで、ゆき子の枕もとで、ウイスキーの栓をあけて飮んだ。雨風はます/\ひどくなつて、家が時々風にゆれた。電氣もつかないので、夕方近くになるにつれて、部屋の暗さが重苦しかつた。櫻島が、あまり大きく窓に擴がつてゐるせゐか、部屋のなかに、櫻島がたふれかゝつて來るやうな壓迫を感じた。




五十八

 たゞ漠然と、こゝまで來た感じだつたところだつたので、富岡は、ゆき子の發病には、相當の衝撃を受けた。

 二日目は快晴であつた。

 雨はからりと霽れたが、風の強い日であつた。女中は、照國丸といふ船が、朝九時に出船しますと、夜明け頃、火鉢の火を運びに來た時に知らせてくれた。だが、ゆき子の病状はいぜんとしておさまつてはゐない。昏々と眠り、眠りのなかで咳をした。その咳を聞いてゐると、富岡は、自分の皮膚をこすられるやうな痛さを感じ、その痛みは、少しづゝ齒痛にも似てきた。

 廊下の窓から外をのぞくと、寒々とした夜明けの空に、櫻島が、石油色に明けそめた空に溶けこんでゐた。海岸添ひには、貧弱な木造家屋の倉庫が竝んで、屋根の上から、船のマストが格子のやうに見えた。まだ、街上には燈火がともり、その街路の歪んだ影の上に、夜明けの月が、白く光つてゐた。富岡は、まだ何處も寢靜まつてゐる港の街の夜明けを、じつと眺めてゐた。今朝は、このままで出發するにはむつかしいと思つた。思ひきつて、一船遲らせるより仕方がないと、枕もとの火鉢に行き、中腰になつて煙草をつけた。ゆき子は、眼を開けてゐた。

「どうだ! 氣分は‥‥」

 ゆき子は、笑ひかけようとして、笑へないのか、眼を大きくあけたまゝ、富岡の顔を下から見上げてゐる。富岡は、ゆき子の額に手をやつてみた。案外冷たかつた。その大きく見開いた眼は、何とも云へない淋しさのこもつた、見馴れぬ表情だつた。富岡は、急にいとしさがまし、膝をついて、ゆき子の顔の上に、自分の顔を持つて行つた。

「船を遲らせたから、大丈夫だ。これから、切符を切りなほして貰つて來るから、安心して寢てるといゝ。焦々したつてつまらないからね‥‥。いゝかい、疲れが出たンだよ。雨にあたつたのがいけなかつたンだね」

 富岡は、言葉を切るやうに、ゆつくり云つた。ゆき子は眼を開いたまゝうなづいてゐる。富岡はゆき子の手を取つて、自分の頬にあてた。ダラットの佛蘭西人の外科醫院で、加野にゆき子が、切りつけられた傷の手術に立ちあつた時の、丁度あの時の眼の色だと、富岡は、佛印での思ひ出が、うづくやうに胸に來た。あの病院で、湖の夜明けの空を眺めながら二人の宿命的な一種の旅情に就いて、恐怖に近い嘔吐を催した事を思ひ出してゐた。旅空でめぐりあつた女だから、こんな風になつたのではないかといふ、反省もしてみた。だが、安南人の女中に對する行きずりは、どうなんだと問はれてみると、これもまた、旅情かなと、富岡は、自分をひそかに冷笑した。小麥色の肌をした女中のニウの、初々しいおもかげが、富岡の胸に熱く燒きついて來る。二度と相ひ逢ふ事の出來ない女だけに、富岡は、死んだおせいとともに、なつかしかつた。だが、いまから考へてみると、佛印での生活は、旅愁なぞといふ生やさしいものではなかつたやうだ。死刑を宣告された人間が、その時から、誰にでも、物優しくなるやうな、そくそくとした淋しさで、人の心を戀ひしがつてゐたやうなものだつた。日本軍隊の、獨裁政權のなかで、何一つ、自由な孤獨を許されなかつた、精神の乾きを、ゆき子の躯によつて求めた自分の身勝手さが、今日、こゝにその結果をもたらしたのだと、富岡は、償ひの氣持ちをこめて、強く、ゆき子の手を握り締めてゐた。

「一人で、あなた、船に乘るンぢやないの?」

 ゆき子が、弱々しく云つた。

「馬鹿! 一人で、船に乘ると思つてたのかい?」

 ゆき子は、子供のやうにうなづいた。富岡は肉親的な氣持ちで、ゆき子の眼尻に流れる涙を指ではじいてやつてゐる。大丈夫だよといふ思ひをこめて、強く、ゆき子の手を、二三度握り締めてやると、富岡はその手を離して、茶を持つて這入つて來た女中に、時間を聞いた。

「七時頃でッせう」

 と、女中は、腕時計を見ながら、時計に耳をつけてゐる。

 富岡が階下へ降りて行くと、玄關の時計は、七時を少し過ぎてゐた。――富岡は船會社へ行つた。切符の切り替へを頼み、四日ほど遲らせて、また、こゝから就航する照國丸に乘る事にきめた。序でに港へぶらぶらと出てみると、白い照國丸は、大きな煙突から煙を噴き、船の起重機は、材木を吊りあげてゐた。波止場には、船客相手の、果物店が竝んでゐる。九州の果てに來て、果物店の林檎の山を見ると、富岡は、不思議な氣がした。ゆき子の爲に、林檎を一貫目ばかり、緑に染めた籠の中に詰めて貰ひ、船のそばまで行つてみた。もう船客は、列をなして竝んでゐた。どの旅客も、小さい硝子の金魚鉢を抱へてゐる。照國丸は、まるで佛印通ひの船のやうだつた。さうした、錯覺で、富岡は、今朝、このまゝゆき子と此の船へ乘れたなら、どんなにか愉しい船旅だつたらうと思へた。だが、この快適な船は、屋久島までの航路で、それ以上は、今度の戰爭で境界をきめられてしまつてゐるのだ。此の船は、屋久島から向うへは、一歩も出て行けない。南國の、あの黄ろい海へ向つて、この船は航路を持つてはゐないのだ。波止場は、乘船客や、荷運びの人夫で犇き立ち、棧橋は、藁屑や木裂や、林檎の皮が、散亂してゐた。

 この敗戰も、云はゞ、なしくづしの日本の革命だつたのだと、富岡は起重機のぎりぎりと卷きあげられるのを、呆んやり眺めてゐた。出航を知らせる汽笛が鳴り、笛が吹かれた。子供や女が、乘船客を見送りに來た群衆のなかをくゞつて、テープを賣り歩いてゐる。富岡も赤いテープを一つ買つた。昔ながらの服裝をした事務長が船のタラップを渡つて棧橋へ降りて來た。乘船が開始され、タラップのそばには、白服のボーイや、巡査が立つてゐる。

 乘客はどれもかなりな荷物を持つて、船の中へ押されて行つた。

 軈て、九時一寸過ぎに、二度目の汽笛が鳴り、船はゆるく岩壁を離れ始めた。棧橋の見送り人はどよめき、船のデッキには少しづゝ、荷物をおろした乘客が竝び出した。テープが澤山の小鳥のやうに、棧橋から船へ飛んだ。赤、白、コバルト、黄、緑とテープの虹が、風をはらんで大きくゆらめく。富岡は、棧橋に向つて手を振つてゐる、七ツ八ツの少年に向つて、赤いテープを投げつけたが、そのテープは、事務員風な女の額に當り、その女が兩手で富岡のテープを受けとめた。色の黒い、みすぼらしい服裝の女だつたが、愛らしい顔をしてゐる。色のさめた青いジャケツを着てゐた。女はテープを切れないやうに高く持ちあげてゐた。富岡は、船の動きのおそいのに根氣をなくしてしまつたのか、途中で、テープを離して、棧橋を、船會社の方へ戻つて來た。何處にも目的はなく、近づくべき道はない氣がした。思ひ出したやうに、海を振り返ると、案外船は小さくなつてゐる。テープの散らかつた棧橋には、まだ、見送り人が手を振り、帽子を振り、ハンカチを振つてゐた。濁つた海水には、眼に沁みるやうな、赤や黄のテープが浮いてゐる。

 富岡は人に尋ねて、郵便局に行つた。

 屋久島の營林署に電報を打ち、ハガキを買つて、富岡は松井田の兩親へあてゝ、鹿兒島まで來て、船を待つてゐる音信を書いた。廣い郵便局は、割合空いてゐた。六角のピラミッド型の机に向ひ、富岡は、そなへつけのペン軸を握つてゐたが、ふつと、自分の隣で若い女が、電報用紙にトウキョウと書いてゐるのを眼にとめて、なつかしくなつた。この女も東京へ電報を打つてゐるといふ、「東京」といふ大都會が、富岡には、世界の果てのやうに遠く思へた。

 富岡にとつて、東京はなつかしい土地である。おせいの事件がなかつたら、かうした、自殺にもひとしい、絶望的な世捨て人の境界にはいる事もなかつたであらう。掃除の行きとどいた朝の郵便局の光線は、海の底のやうに靜かで、平和であつた。隣の女は、格子のはまつた窓口へ電報を打ちに行つた。靴のかゝとが、ひどくいたんでゐる。黒い外套も疲れてゐた。富岡は、ハガキをポストへ入れて、郵便局を出た。




五十九

 宿の近くで、小さい時計店をみつけて、富岡は陳列に寄つて行き、暫く時計を眺めてゐた。どれも、スイス時計のイミテイションであつたが、三千六百圓と正札のついたのが氣に入り、屋久島の記念に、一つ求めたいと、富岡は店へ這入つて行き、陳列のなかの時計を見せて貰つた。佛印で買つた時計は、伊香保で、おせいの亭主に賣つてしまつた。それから、ずつと時計なしの不自由な暮しだつたので、富岡は、時計を欲しかつたのだ。一つ取つて耳に當てると、セコンドの刻みが、カチカチと澄んでゐる。型も圓く薄手だつたので、富岡は思ひ切つてその時計を買つた。

 宿へ歸ると、ゆき子は待ち疲れた樣子で、泣きさうな顔をしてゐたが、富岡の持つてゐる林檎の籠を見ると、ほつとしたやうに、蒲團から手を出した。さつそく、富岡は、ゆき子の枕もとに坐り込んで、ナイフで林檎をむいてやつた。

「序でに、船を見て來たが、仲々いゝ船だ。屋久島通ひでは一番いゝ船だらうね。船へ乘る奴が、みんな、金魚鉢を持つてるンだ。屋久島には金魚がないのかね‥‥」

 林檎をむきながら、富岡が、見て來た船の話をした。

「白い船だよ。君が病氣だから、ぜいたくのやうだけど、一等に變へて貰つたンだ。食事は出さないさうだから、二食分位は用意した方がいゝさうだ。たゞね、途中の種子ケ島には醫者も多いンださうだが、屋久島は醫者がゐないンだつてね‥‥」

「そんなところですか?」

「あゝ。一寸、心配なンだ‥‥」

「船で、氣分が惡くなつたら、その、種子ケ島でもいゝから、私を置いて行つて下さい」

「種子ケ島で降りる位だつたら、鹿兒島の方が便利だよ。此の次の船で、どうしても都合が惡いやうだつたら、こゝで入院するなり、小さい旅館でもみつけるなりして、ゆつくりあとから來てもいゝンだ。何をするにしても、鹿兒島は都會だし、便利なところだ」

 ゆき子は、林檎をむいてゐる、富岡の手を見てゐたが、腕に卷いた、新しい革帶の時計に眼がとまつた。

「時計、お買ひになつたの?」

「あゝ、いま、宿の近くで買つた」

「見せて‥‥」

 富岡が左腕を出すと、ゆき子はじいつと時計の文字盤を眺めた。伊香保で賣つた時計に何處となく似てゐる。ゆき子は、「いゝ時計ですね」と云つた。別に値段を聞かなかつたので、富岡も云はなかつた。雜誌社で貰つた金の殘りで買つただけに、富岡は少しも卑屈ではなかつたが、ゆき子は、その時計をよほど高價なものと思ひ込んだのか、何となく釋然としない表情であつた。

「乘つてたら、いまごろは、もう海の上ですね‥‥。波は荒れてゐましたか」

「風は強いが、おだやかな海だつたよ。まるで、外國船の船出のやうに、テープを投げたりするンだね」

「まア! 綺麗でせうね」

「いや、泥臭い感じだね。あれも、外國へ行けない、一つのノスタルヂアだな‥‥」

 人間のいはゆる、淋しさや甘さを飾る裝飾のテープが富岡の瞼のなかに、ちらちらしてゐた。ゆき子は、妙に時計にこだはつてゐる。高價な時計を買つたりしてゐる富岡の心沙汰が、情の薄いものに思はれてきた。林檎をむいて富岡が半分くれた。

 ゆき子は齒莖を酸つぱくして噛つたが、林檎は案外柔らかくて、味もまづかつた。富岡も林檎をさくさくと噛つてゐる。

「ぼけた林檎だな‥‥」さう云つて、富岡は、林檎の芯をかつと吐き出した。宿で飼つてゐるのか、鷄がけたゝましく鳴きたてた。また雨がぱらつき始めてゐる。

 晝前に、醫者が、注射に來てくれたが、ゆき子の胸や背中を診ながら若い醫者は、

「一度、レントゲンを撮つてみると、一番いゝンですがねえ‥‥」

 と、富岡に云つた。ゆき子は冷やりとした。旅空で寢つく事は、いまのゆき子には耐へられないのだ。こゝまで來て、富岡と離れる位なら、東京に殘つてゐた方がよかつたのだと、ゆき子は、今度の發病が、何となく、命取りの病氣のやうな胸苦しさである。こんな不安な病氣になる位だつたら、引揚げて來た時にやつた疥癬の方がまだましなのだと、ゆき子は若い醫者が、富岡に、餘計な事を云つてくれなければよいがと思つた。





 富岡にとつても、ゆき子にとつても、耐へがたい旅空の四日間が過ぎた。その旅空の四日間に、非常な親密さで、二人のよき知人になつてくれたのは、若い醫者であつた。日華事變の間中を、中支で野戰に働いてゐた軍醫上りで、年は案外にも、富岡と幾つも違はなかつたのだが、まだ、獨身で、父の病院を手傳つてゐると云ふ事だつた。獨身のせゐか非常に若く見えた。福岡醫大を出てゐる事も知つた。音樂が好きで、電蓄も自分で組み立てゝレコードをあつめる事が趣味だと宿の女中が話してゐた。若い醫者は、比嘉といふ名前で、先代は琉球の生れだと云ふ事である。或日、近所のラジオの音樂に耳をかたむけながら、比嘉はじいつと耳をかたむけ、「僕は、この曲が好きなンですよ」と、愉しさうに眼を細めた。富岡は、何處かで、耳を掠めた音色だなと、耳を澄ました。ゆき子は、注射がすんだ後を、寢卷の袖の上から、よく揉み込みながら、ラジオの音に聽きいつてゐた。富岡もゆき子もその曲が何といふのか判らなかつた。「誰の曲ですの」ゆき子が、率直に尋ねた。

「ドヴォルザアークの『新世界』といふのです」

 醫者は、さう云つて、ゆつくり注射器をしまひ、洗面器で手を洗つた。

 富岡は醫者の音樂好きなのを羨ましく思ひながら、こんな九州の果てゞ、いゝ醫者にめぐりあへた事を嬉しく思つた。ずんぐりした醫者らしくない體つきだつたが、柔和な細い眼と、皓い美しい齒竝びが印象的だつた。富岡は、屋久島の營林署へ勤めを持つて、赴任して行く途中なのだと云ひ、暫く佛印の林野局に軍屬で行つてゐたのだと話した。

 醫者は、富岡が、營林署へ勤めを持つと聞いて、急に好意をましたらしく、自分も、昔は、北海道帝大へ行くつもりだつたと、少年の頃の理想を話したりした。――屋久島は醫者のないところで心細いのだが、萬一の時には、電報を打つから屋久島へ診に來て貰へないだらうかと、富岡が話すと、どんな事があつても行きませうと云つてくれた。

「屋久島に醫者がないといふのは、聞いてゐました。あすこには、營林署關係の醫者が、山の中にゐる筈ですがね。私も、以前、屋久島で開業する事を考へた事もあるンですが、電氣もないし、雨が一年ぢゆう降つてゐるところだと聞いて怖れをなしたわけです。レコードを聽けないのが淋しいンで、そのまゝ空想だけで終つたのですがね。このごろは、營林署の方で、何日おきかに、電氣を供給してゐるやうですね‥‥。どうも、人間つてものは、自己本位で、醫は仁術なりと、口では云つてゐても、レコード一つ聽けない島流しの生活は、やつぱり僕には駄目です。――今度は、一度、機會をみて、お尋ねしてみませう‥‥。だが、私は、率直に申し上げますと、どうも、奥さんのお躯は、濕氣の多いところはどうでせうかねえ‥‥。お勤めとあれば、是非もない事なンですが、なるべく、高い山の方に舍宅をお選びになつて規則正しい日課をつくつて暮らされるンですな‥‥。何しろ、時間がないので、どうにも、ゆつくり診られないのですが、島へ行かれたら、日々の御容態を、ハガキでもいゝから知らせて下さい」

 比嘉は、病人に不安を持たせない口調で、これだけの事を注意してくれた。ゆき子は、ドヴォルザアークの「新世界」の曲は、もう忘れてしまつたが、「新世界」といふ言葉だけが、耳に強く殘つてゐた。自分達の新しい出發を占つて貰つたやうな氣がして、ゆき子は比嘉の初々しい態度に、好意と尊敬を持つた。――富岡は、「罪と罰」だつたかのなかの、人間たるものは、誰しも、同情なくしては、到底生き得られるものではないと云つた、ドストエフスキーの言葉を思ひ出して、この醫者に、革命前の、露西亞的人物を感じてゐた。急な場合の藥や、注射の材料までととのへて貰つて、四日目の朝照國丸へ富岡とゆき子が自動車で乘りつけた時には、思ひがけなく比嘉が帽子も外套も忘れて、見送りに走つて來てくれた。旅空で、誰一人、テープを投げてくれるものゝない二人にとつては、意外であつた。若い醫者の見送りを受けやうとは、富岡もゆき子も、豫想だにしてゐなかつたのだ。

 一等船室は、上下二段のベッドがあり、毛布も白く新しかつた。長椅子の前には、卓子や椅子があり、壁には鏡や、水差しがはめこんであつた。四疊半ばかりのゆつくりした廣い部屋である。ゆき子が下段のベッドへ横になると、乘り込んで來た比嘉は、鞄から注射針を出して、アルコールで拭き、ゆき子の腕に營養劑を注射してくれた。ゆき子は、その冷たい醫者の手の感觸をいつまでも忘れなかつた。最初の戀のやうな仄々した氣持ちであつた。

 ゆき子は甲板へ出て行けなかつたが、富岡は比嘉を送つて部屋を出て行き、船が動き出して、暫くしてからも、部屋へ戻つて來なかつた。

 一等甲板の富岡は、比嘉から投げられた緑色のテープを、何時までも握つてゐた。ごみごみした、玩具箱をひつくり返したやうな、棧橋が、遠くなるまで、切れたテープを、富岡は頭の上で振つてゐた。比嘉は棧橋のはづれに立つて、白いハンカチを振つてゐたが、一寸、小腰をかゞめて、大股に棧橋を去つて行つた。鞄を振るやうにして歩いて行く、醫者の後姿が富岡には頼もしく見えた。

 船が海上に出たせゐか、薄陽の射した朝の櫻島は、案外小さく紫色に健康に見えた。宿の部屋から見た櫻島は幕を張つたやうに大きく見えたのだが、海上で見る櫻島は、物置のやうに小さく見えた。三等客は、穴藏のやうな船室から這ひ出して、廣いデッキの木椅子に、日向ぼつこをしてゐる。土産とみえて、デッキのところどころに、金魚鉢が置いてあり、どの金魚鉢にも金魚が金色に光つてゐた。

 海上は凪ぎであつた。

 ひかげの風は、外套を刺すやうに冷めたかつたが、日向へ出ると、陽射しがほかほかと暖かであつた。すぐ眼の上の大きい煙突から、汚れた煙が西へなびいてゐた。陽射しを受けた白い海上の痛みが、廣い海上に出ると、足もとや肩にまつはりついてゐた、運命の鎖を、吹飛ばしてくれるやうな、爽快な氣持ちだつた。沈默した海の水を見てゐると、饒舌には十度の、沈默には、一度の後悔があるといふ、格言を、富岡は、陸上と海上とを比較して考へさせられてゐた。

 ゆき子は、背中に響く、船の動搖を、こゝろよく感じてゐた。動いて走つてゐる船まかせの氣分は、佛印から戻つて來る時の氣持ちそつくりである。あの醫者の、ものやはらかな動作や言葉や藥臭い體臭が、ゆき子には、妙に忘れがたいのだつた。加野に似たおもざしでもあつた。こんな、ちぐはぐな感情を持つてゐる自分の心が、ゆき子には、自分でなつとくゆかなかつたが、ゆき子は、屋久島の山の中で迎へる比嘉との、危險な出逢ひの空想を、何時までも、牛の胃袋のむしかへしのやうに、愉しみに描いてゐたのだ。




六十

 種子島へ着いたのは、二時頃であつた。

 白く光つた海の上に、黄ろい、平べつたい島が、窓の向うに見えた。富岡は煙草をくゆらしながら、その、ながながと寢そべつたやうな、淋しげな島を眺めてゐた。ゆき子は昏々とよく眠つてゐる。富岡は何故ともなく、遠くへ來たものだと思つた。

 遙かに見える小さい港に、ごちやごちやと、小さい船がもやつてゐる。海添ひの家の屋根が、白と黒との切紙細工のやうなのも、富岡には珍しい眺めだつた。

 船はゆつくり時間をかけて、種子島の西の表港に這入つて行つた。夜の九時まで、この船は種子島に破泊してゐるのださうだ。夜の九時まで、この港から動かないのだと船員から聞いて、富岡は、少々退屈だなと思つた。こんなところにまごまごしないで、終點に早く着きたかつた。

 だが、種子島は、遠くから見ると、無人の島のやうにも見えた。何となく、陣に臨んで、久しく敵なしの感じで、無人の島には、感興が湧かない。だが、この大隅の海上に點在してゐる諸島のうちでは種子島は、唯一の文明を持つた島だと聞かされてゐる。この島よりも、もつと無人な島へ、いま自分は行きつゝあるのだと、富岡は、呆んやり、近くなつてゆく島の港を見てゐた。禿山のやうな島である。非常に長い廣々とした島でありながら、高山がないせゐか、いまにも海水に沈みかけてゐるやうな、平べつたい島だ。

「ねえ、何處かへ着いたの?」

 ゆき子が、枕の音をさせながら聞いた。富岡は、窓に頬杖をついたまゝ、

「種子島へ着いたンだよ」と、云つた。

「いゝ港ですか?」

「あゝ、こぢんまりしたところだ。起きて見るかい?」

「見なくてもいゝわ。‥‥どうせ、何處の港だつて、同じ事なンでせう?」

「案外、賑やかな港だよ。小さい船が澤山ゐるよ。佛印の何處だつたかな、これによく似た部落があつた」

「佛印に似てるの?」

「いや、似ちやアゐないが、こんな、部落があつたやうな氣がしたンだ。日本人のつくつた港といふものは、何處へ行つたつて、陰氣で淋しいもンだな‥‥」

 がらがらと、激しい音をさせて、錨をおろす音がした。船が少しづつ港の小さい棧橋に寄つて行つた。

 迎への人達ででもあらうか、明るい棧橋には、蟻のかたまりのやうに、澤山の人達が船を迎へに出てゐた。

 船が近づくにつれ、迎への人達の一人一人の姿がはつきり見えたが、服裝は、東京も鹿兒島も變りはない。若い女は、このごろ流行の赤いジャケツを着てゐるのもゐる。どの女もパアマネントをかけてゐるやうだし、若い男は、油で光らせた、リイゼントとかの髮かたちをしてゐた。

 軈て、ブリッヂが降ろされると、林檎や、金魚鉢を持つた下船客が、ぞろぞろとブリッヂを降りて行つた。狹い棧橋は波にゆらめき、ふはふはと蟻のかたまりがはしつてゐるやうに見える。富岡は、外套を肩へ引つかけて、一等のデッキに出て行つた。

 暫く見てゐるうちに、ぞろぞろと、丘状になつた町の方へ、群衆は消えて行つた。白い砂地のやうな道が、夕陽に、にぶく反射してゐた。木造の役所らしいのや、運送店や、三階建てのかしがつたやうな古びた旅館や、飮み屋なんかが、岩壁添ひにごちやごちや見えた。

 何の爲に、こんな處に、夜の九時まで、船が碇泊してゐるのか、富岡には不思議だつた。積荷をするにしても、棧橋には、大した荷物も出てはゐない。

 二人とも上陸はしないで、船のなかで、夜まで過した。夕方になつて、船の甲板には、きらめくばかりのイルミネーションがとぼり、騷々しいばかりに、擴聲器から流行歌が流れた。

 甲板や廊下を下駄で走りまはるものや、飮み屋の女の嬌聲も聞えた。幾度となく、富岡達の部屋のドアを開けて、なかを覗きこむものもある。富岡もゆき子も、この無作法には驚いてしまつた。

「屋久島も、こんなところかしら‥‥」

 ゆき子が、毛布にもぐり込んだなり、心細氣に云つた。何とかのブルースといつた、人の心を投げやりにするやうな、流行歌が、幾度も甲板で唸りたてゝゐる。

 翌日、朝八時頃、屋久島が見え始めた。

 富岡達は、安房の港へ上陸するのだ。船は、宮の浦の沖へ着いた。海岸は波が荒く、港もないので、沖あひに碇泊して、小船が、船客を運んだ。大隅諸島のはづれの、黒子のやうな、こんもりした孤島を眺めた時、富岡は、こゝが、自分の行き着く棲家だつたのかと、無量な氣持ちであつた。

 青い沁みるやうな海原の上に、ビロードのやうにうつさうとした濃緑の山々が、晴れた空に屹立してゐる。

 種子島の西南三二海里、面積は五○○平方粁、島形は、圓く殆ど出入なき水平的肢節。島の中央には、九州地方第一の高山、宮の浦岳、一九三五米が聳える。永味岳、黒田岳、所謂八重岳の群巒をなし、垂直的肢節の變化に富む。海拔一○○○から一五○○米の山腹に屋久杉の繁茂。

 富岡のポケットのメモには、屋久島の簡單な説明が記してあつた。種子島とはひかくにならない、黒々とした圓い島である。久しぶりに、島の濃緑な色を眺めて、富岡は、爽快な氣がした。少しも、孤島へ流れて來た感じはなく、かへつて、身も心も洗はれたやうな、樹林の招ぎを感じるのだ。富岡は、甲板に出て、寒い海の風に吹かれながら、いま眼の前遙に立つてゐる島を、飽きもせずに眺めてゐた。種子島は、寢そべつた島であつたけれども、屋久島は、海の上に立つてゐる島のやうだ。薄昏い夜明けの海上で、ふつと、こんな島に出くはしたら、さだめし氣味の惡いものであらうと思へた。

 明るい紺碧の海上に、密林の島が浮いてゐるといふだけでも、自然の不思議さである。船ははしけを離してしまふと、また、ヱンヂンの音を忙はしくたて始めた。海上は相當波が荒い。

 この荒い波の上を、小さいはしけは木の葉のやうに波に揉まれながら、宮の浦の淋しい岩壁へ漕ぎつけようとしてゐる。

 ゆき子も、ゆつくり起きあがつて、髮をかきつけてゐる。あきらめきつた表情で、毛布の皺の中に、コンパクトを狹みこんで、ゆき子は亂れた髮をなほしてゐた。油氣のない髮を邪魔くささうに一束にたばねて、ハンカチで結んだ。如何にも大儀さうに、クリームを顔にこすりこんでゐる。白いペンキ塗りの板壁に、海からの反射が、窓硝子を越して、かげろふのやうに、ゆらゆら動いてゐた。

 ゆき子は、がんこに、窓から外界を見ようとはしなかつた。種子島も見ないづくだつたし、いま、眼の前に屹立してゐる屋久島さへも見ようとはしない。ゆき子にとつては、どんな陸上でもよかつたのかも知れない。着いた樣子だから、身支度をするといふ、ものぐさな態度である。富岡は、ゆき子のそのものぐさな樣子を、躯の惡さから來てゐるものと思つてゐた。

 十時頃、安房の沖合へ着いた。

 小さい はしけが、大きい波にゆられながら、富岡達の船をめがけて漕ぎ寄せて來た。何時の間にか、小雨が降つてゐた。

 富岡は、病人のゆき子の肩を抱きかゝへるやうにして、急なブリッヂを降りて行つた。白い上着を着たボーイが、ブリッヂの下の方から、ゆき子を受けとめるやうなかつかうで待ち受けてゐてくれた。ブリッヂは、高く持ちあがつたり、低く、波間に吸ひこまれさうになつたりして、はなはだ危險である。やつとの思ひで、ボーイの手につかまり、ゆき子は小さいはしけの中へ滑り降りた。藁包みの荷物のわきに、ゆき子は蹲踞みこんだ。ふつと、荷物の隙間から見える、海上の向うに、魔物のやうにうつさうとした、脊の高い小さい島が見えた。ゆき子は眼を瞠り、暫く、その島をじいつと眺めてゐた。無人の島のやうだ。何もゐないぢやないのと、心でつぶやきながら、ゆき子は、その黒い脊の高い島に一種の壓迫を感じた。

 やがて、 はしけは大きな波に乘つて、さつと、本船を離れた。氣持ちの惡いほど、はしけは搖れた。小雨は何時の間にか、篠つく雨となり、はしけのなかの數人の客達は、ずつぷり水浸しになつて來た。ゆき子は、富岡の外套を頭から被つてゐた。膝から下がしんしんと冷えてくる。暗い外套の下で、ゆき子は、激しく咳きこんでゐた。

 猫の額ほどの入江に、 はしけが這入つてから、やつと、船の動搖はおさまつた。白い砂の洲が、雨で洗はれたやうにしめつてゐる。入江のなかは、グリン色の澄みとほつた水で、海底の岩や藻や、空罐の光りまで判然りと見えた。

 白い洲の上流は、河になつてゐると見えて、高い堤の上に、珍しい程メカニックな大きい吊橋がアーチのやうに架つてゐた。

 砂地に、四五人の人が、はしけを出迎へてゐたが、その中の二人は、營林署の人で、富岡を迎へに出てゐる人達である。

 一人は番傘を差し、一人はレインコートを引き被つてゐた。 はしけの渡賃を拂つて、富岡が白い砂地へ飛び降りた。そして、ゆき子を濡れた外套ごと抱きかゝへて降ろしてやると、營林署の出迎への人は、富岡のところへ、さくさくと砂をきしませて走つて來た。

「お疲れでございませう? 奥さま、御病氣ださうでいけませんな‥‥」

 都會の人種とはまるきり違ふ、素朴な眼色をした中年の男が、番傘をゆき子の上へ差しかけてくれた。堤の上までは砂地續きである。かなり疲れて、ゆき子は、幾度も砂地に立ちどまつて溜息をついた。息苦しく、全身がかつかつと炎を噴いてゐるやうだつた。

 吊橋の上に峨々とそびえてゐた山々は、いつの間にか、乳色のもやの中へ姿を沒してゐた。

 堤へ登り、長い吊橋を渡り、見晴亭と、看板の出た、安房旅館といふのに案内された。旅館は一寸した丘の上にあり、狹いコンクリートの板道に、吊橋の太いロープが幾條も、鐵筋の支柱で支へられてゐる。

 米の配給所と運送を兼ねてゐる旅館は、旅館らしくないかまへで、陰氣な店である。暗い土間に靴をぬいで、雨でべたついた板の階段を登つて、二階の座敷に通つた。

 何處を見ても壁土のない、板壁の素朴な旅館であつた。

 富岡は、ジャケツを着こんだ、若い女中に頼んで、ゆき子の爲に、すぐ寢床を敷かせた。雨は細引を流したやうに激しくなり、廊下から見える、海も山も、一面のもやのなかに景色を隱してゐた。一寸さきも見えない、白いもやの壁である。

 その白いもやの中から、庭さきの風呂場の煙が黄ろく流れてゐた。

 蒲團を敷いて貰つて、明るい方の部屋で、富岡は、出迎への人達と、名刺の交換をした。ぬるい茶と、黒砂糖の茶菓子が運ばれた。

「こゝは、雨が多いンださうですね」

 富岡が一服つけながら、輕い箱火鉢を引き寄せて聞いた。

「はア、一ケ月、ほとんど雨ですな。屋久島は月のうち、三十五日は雨といふ位でございますからね‥‥」

 レインコートを被つてゐた男が云つた。レインコートを取ると、案外若々しい男であつた。學者らしい感じだつた。




六十一

 レインコートを被つてゐた男は、田付と云つた。番傘を差してゐた中年の方は、登戸といふ名前だつた。

 二人とも事務官で、山の方は仕事ではない樣子だ。毎日、山から、トロッコが二度、往復してゐるといふ事である。富岡の爲に、小さい官舍も用意してある樣子だつたが、病人がゐては、さしづめ不自由だらうから、五六日、この宿へおいでになつた方がよろしからうといふので、富岡もさうする氣になつた。だが、何にしても、佗しい。

 雨は息苦しいばかり、降り續いてゐる。乳色の太い雨であつた。

 二人が戻つて行つてから、富岡は五右衞門釜の汚れた湯にはいり、暫く自分も寢床へもぐり込んだ。非常に疲れてゐた。ゆき子は咳がとまらないのか、顔を眞赤にして咳きこんでゐる、ゆき子は、咳止めの藥を飮み、暗い部屋のなかに、眼を開けてゐた。

 二人とも、一種の刑罰を受けて、こゝに投げ捨てられたやうな氣がして、ゆき子は、こゝで自分は死んでしまふのではないかといつた豫感がした。死ぬのなら、一思ひに死にたかつた。この雨は、毎日降り續く雨だといふ、この島のこれからの生活が耐へられさうにもなかつた。じいつと耳を澄ましてゐると、耳の中にまで、雨が降りこんで來る。

 硝子戸のない、障子だけの部屋は、その障子の紙が、棧ごとに、袋のやうに重たくたるんでゐた。蒲團は一枚づゝ。敷布は海苔臭く、枕は木の根のやうに固い。

 ニュームの凸凹のやかんに、湯は火鉢に噴きこぼれてゐたが、灰が貝殻のやうに固いせゐか、灰神樂もあがらない。ゆき子は、湯煙を眺めながら、その部屋の佗しさを食ひつくやうにして眺めてゐた。板壁の床の間に、菊のやうな花が活けてあり、その上に吊りランプが三つぶらさがつてゐる。何もない、昔の生活に戻つたやうな部屋の味氣なさである。富岡は鼾をたてゝよく眠つてゐた。鼾をかくほどの心の平和さが羨ましい位だつた。

 行きも歸りもならない、雨音の騷々しさに、ゆき子は、あゝと溜息をついた。元氣になつたところで、こゝではどうにもならないのではないかと思へた。だが、このまゝ東京へ戻つたところで、希望的なものがあるわけでもないのだ。

 夜になつてランプがとぼされた。

 夕食が運ばれて來た。赤いカニの煮つけがつき、野菜らしいものは何もない。ゆき子は四十度近い熱の爲に、汗びつしよりになつてゐた。着替へのものもないので、宿の海苔臭い浴衣をかりて着替へた。

 富岡は、不器用な手つきで、ゆき子の腕に注射をしてやり、初めて、ゆつくり、病人の枕もとで酒を飮んだ。酒の肴になるやうなものは何もない。飯だけが、山盛りに、小さい塗りびつの蓋の間からはみ出てゐた。米の不自由なところなのに、妙な事だと、富岡は苦笑してゐた。

 酒は薯燒酎とかで、鼻へ持つてくると、ぷんと臭い。徳利が、二本もやかんにつけてあつたので、富岡は薯燒酎とは思はなかつたのだ。女中に、日本酒はないかと聞くと、此の島にはないのだと云つた。

 何もないとなれば、何だつてがまん出來るものか、その燒酎にも富岡はとろりと醉つて來た。昨日までの事はみんな醉ひのなかで忘れ去る事が出來、ずつと、こゝで暮してゐるやうな錯覺にとらはれて來る。雨は、嵐に近い降りやうになつた。樋をつたふ荒い水音が、打樂器のやうに聽える。こゝには何の思想も不要だつた。たゞ生きるだけの爲にこゝにある氣がして、富岡は、何も考へないで酒をあほつた。どの地をも神は支配してゐる。雨が降らうとも、風が吹かうとも、神の意のまゝである。苛酷なこの雨のなかに、この島の人達は素朴に生きて鬪かつてゐるのだ。雨に敗れては生きてはゐられないのだ。だが、それにしても、何とよく降る雨なのだらう。敵意のある雨の騷々しさが、富岡の心を突いて來た。女は病んで、熱のなかに泡を噴いてゐる。冷薄な神の世界だつたが、その力に敗けてはゐられない。こゝまで流れ着いた以上は、もう、こゝが富岡の最良の土とならなければならないのだと思つた。もう、こゝまで這ひ出して來た以上は、奇蹟はない。だが、ひよつとしたら、此の女も案外こゝで死亡するかも知れない。富岡は、長い間の二人の苦勞を考へ、醉ひのなかにも、涙が眼尻ににじんで來た。自分のやうな男に、いつたいこれほどの情熱をかたむけた人間が、何處にあつただらうか。おせいはおせいで、勝手に死んだンだ。ニウはついて來なかつた。邦子は貧しさに敗けた。だが、ゆき子だけは、病氣と鬪ひながらも、こゝまで、自分と行をともにして來てくれたのだ。船着場で、營林署の迎へのものに、「奥さん」と云はれて、富岡は、その時、ふつと、官吏生活を長く續けてゐる、健康な家族を思ひ出した。ゆき子が勝手におろしてしまつた子供の顔が、いまごろになつて、身を責めたてるやうに、不憫でなつかしくてたまらなかつた。

 ゆき子は、時々、熱にうなされて、醫者の名を呼んだ。富岡は切ない氣がして、額の濡手拭を時々裏返しにしてやつた。明日を待つて、もしいけないやうだつたら、比嘉へあてゝ、電報を打つてみようと思つた。

 べとついた疊、霧を噴いたやうな板壁、何もかもが、富岡には不吉でたまらないのだ。

 その翌日、雨はあがつてゐたが、梅雨時のやうな薄昏い朝であつた。富岡は營林署へ行き、赴任の挨拶をした。署長は宮崎に出張中であつたので、登戸の案内で、林層の地圖や、書類を見せて貰ひ、序でに、署の近くの、小學校のそばにある、官舍を見に行つた。こゝも壁のないバラック建てゞ、田の字づくりの小さい平屋であつた。庭に、何人がかへもあるやうな榕樹が、乳のやうに枝を垂らしてゐた。青い小さな實をつけた、芭蕉の葉も繁つてゐる。冬の景色とも思へない緑の美しさである。また、雨がこまかい霧のやうに立ちこめて來た。明日、山へ登る事にして、登戸に鹿兒島への電報を頼み、晝頃、富岡は、宿へ戻つた。

 ゆき子の熱はまだひかなかつたので、富岡は、比嘉に教はつたとほり、ペニシリンの注射をこころみてみた。氣分はたしかとみえて、ゆき子は、冗談らしく、

「あなたのそばで死ねば、本望だわ」と、云つた。

「死ぬのは何でもないさ、いつだつて死ねる。こゝまで來て、弱音を吐く奴があるかツ」

「雨つて、うるさいものね‥‥」

「もう、小降りだよ」

「一度だけ、晴々した空が見たいわ‥‥」

 隣りの部屋では、寄りあひでもあるのか、四五人の話しあふ聲が襖ごしに聞えた。小降りの雨のなかに、判然りとした山脈が見えた。硯をたてたやうな山容である。富岡は、病人の額の手拭が、案外煮えたやうに熱いのに驚き、ぎよつとして、その手拭を暫く掴んでゐた。宿の人の親切で、辛子粉をといて、胸に張つてみたらどうだらうと云はれて、富岡は、女中に辛子粉を買はせて、それをといて、紙にのばして、ゆき子の胸の上に張りつけてみた。時間を見て、その紙を引きはがしてみると、皮膚が赤くなつてゐた。

 富岡は、その皮膚に顔を寄せて、神佛に祈つた。もう一度、我々を誕生させて下さい。




六十二

 一息づゝゆき子が荒い呼吸をするたび、富岡は、汗で煮えるやうに熱い、ゆき子の手を握り、じいつと疊に頭をつけて、その呼吸を數へてゐた。

 愚かなるものよ。今宵汝の靈魂とらるべし、然らば、汝の備へたるものは、誰がものとなるべきぞ‥‥。富岡は、祈つてゐるうちに、こんな言葉を思ひ出した。不吉な氣がした。何處で讀んだ文章だつたかも忘れたが、いま、突然、かうした言葉が、瞼に浮んで來た。女の手をじいつと握り締めながら、女の死を願つてゐるやうな空間もある、その思ひを、拂ひのけようとあせりながら、富岡は、時々、「ゆき子! ゆき子!」と小さく、病人の耳もとで呼んだ。ゆき子は、熱に浮かれた眼を薄く開けては、力なく四圍を眺めた。富岡は、ゆき子の心臟へ耳をあてゝみた。割合しつかりした音をたてゝゐる。手の脈を取つてみる。富岡は、さうしてゐるうちに、自分の方が氣が狂ひさうだつた。耳の中にまで、雨音は溢れていつぱいに詰りさうだ。かうした夜が、如何にもランビァン高原の或日に戻されたやうな氣もして來る。この二人は奇妙なつながりであつた。富岡は、こゝ數年の波瀾縦横な戰ひのなかで、何處かに自分の人間らしさを失つて來てゐるやうな氣がしてゐる。自分といふ人間は、何時も空洞なハートを持つてゐるやうな人間に思へて來る。生身な身振り音調のかげに隱れて、がらんだうなハートで歩いてゐる化物のやうだ。自分で自分が、富岡は無氣味であつた。

 ゆき子を愍むよりも、まづ、自分を、富岡はもてあましてゐるのだ。それにしても、夕方までも雨はやまなかつた。

 夕刻頃から、ゆき子は、昏々と眠つた。少しばかり熱もひいたやうだ。四時間ごとに注射したペニシリンが、利いたのかも知れない。それにしても、ゆき子の生命に、少しでも、この藥が反響したといふ事は、富岡には、嬉しかつた。富岡はすつかり疲れてしまつてゐる。夜になつて、また薯燒酎を、ゆき子の枕許で飮んだ。少しづゝ醉つてゆくうちに、そばに口を開けて眠つてゐる、どろどろの病人の姿が、いやらしく見えて來た。この女の運命に、自分といふものが反映してゐるとすれば、それは、過去の思ひ出だけのものぢやアないのかと、こんなところにまで駈け落ち同樣に追ひ込まれて來た自分達の考へが、狂人じみて考へられて來る。思ひ出といふ奴に、女は、いつまでも戀々としてゐるものだ。思ひ出と運命といふものを、女は何時も感違ひしてゐる‥‥富岡は、昔、ゆき子に、君はどうせ練馬大根の産地で生れたのだらうと、毒舌を吐いた事があつたが、締りのない寢顔が、浮氣者らしく見えた。加野は、三宅某女優に似てゐると云つた事があつたが、じいつと見てゐると、歌舞伎役者の家にでも生れた、不器量な娘のやうに、妙に間のびのした顔でもある。

 富岡は臭い燒酎をしたゝか飮んだが、ふだんよりも、一層生々として來た。女中が大丈夫ですかと云つたが、富岡は、すわつた眼で、大丈夫だよと云つた。酒の醉ひは、思ひ出とか、運命とか、あいまいもこたるものは、けろりと忘れさせてくれる。ふいごのやうな激しい風が全身に浸みとほつて、彼は自分を肴に、自分を觀察してゐた。

 何もね、こんなところへ來なくてもいゝんだが、東京で乞食をする氣はないからだよ‥‥。藝は身を助けるとは云ふものゝ、深山へ這入つて、仙人のやうな仕事が身につくかどうかだ。ゆき子を道づれにして、容赦なく、女の思ひ出の伴奏者になりおほせてはゐるものゝ、ゆき子の持ち逃げした金にも、多少の魅力はあつたかも知れない。何しろ、神樣の金だから、あらかたな御利益はあるに違ひない。神は殘酷なほど公平だ‥‥。雨樋から溢れるやうな雨音を聞いてゐると、富岡は、一晩ぢゆうでも酒を飮みたくなるのだ。

 女を愛する力はもう、すつかりなくなつてしまつたよと、富岡は、七八本の空の徳利を床の間に竝べ、女のつまらなさをすつかり了解したやうな晴々しさで、ゆき子の寢床の裾にへたばつてしまつた。夜更けになつて、咽喉が燒けるやうに乾いた。鼻血でも噴くのではないかと、富岡は手さぐりで火鉢のやかんを取り、口をつけた。雨は、小降りになつたのか、雨滴の間遠うな音がしてゐる。

 時計を見ると四時近い。富岡は、アルコールランプに火をつけて、注射針を出した。

 富岡は頭がぐらぐらした。

 これも一つの習慣である。世の中の看護婦の心理はこんなものであらうかと思つた。病人に對して、非常に無關心でゐながら、習慣で、夜中でも起きる。たゞそれだけの事だが、病人は、あたりまへのやうに、顔をしかめて、辛い表情だ。

「氣分は、どうだ?」

「えゝ、大分いゝわ」

「雨があがつてるね」

「よくも、こんなに、雨の降るところだと、私、呆れてしまつてるの‥‥」

「うん‥‥」

「全く、しつゝこい雨だわ」

「君の、思ひ出好き、みたいぢやないかい?」

「さうね‥‥。さうかも知れないわ」

「二人とも、皮を剥がれた兎かね?」

 ゆき子は微笑した。

 注射針をかたづけて、富岡はしめつた煙草に火をつけて、ぷうつとまづさうに吸ひつけながら、床の間の空の徳利に手をのばしてゐる。

 おせいの幻影が、眼のさきにちらつく。富岡は、一本々々、空の徳利に口をつけた。

「そんなに召し上りたいの?」

「うん、飮みたいね」

「私も、病氣でなかつたら、飮みたいわ。ねえ、どうして、二人で、こゝへ來る氣になつたンでせう?」

「勤めを持つたンだから仕方がないさ」

「どうして、こんな遠い處へ勤め口を持たなくちやならなかつたの?」

「そりやア、東京ぢやア食べられないからね。君こそ、少しよくなつたら、東京へ戻れよ‥‥。えゝ?」

「戻つて、何をするの?」

「それは、判らない。君が、何をするンだか‥‥」

 ゆき子は眼をつぶつた。痛い傷口に觸れたやうな氣がし、自分の病氣が、何か特殊なものゝやうな氣もして來る。比嘉が、さかんにレントゲンを撮りませうと云つてゐたが、ゆき子は撮らせなかつた。ポータブルの機械があるからと云つてくれたが、ゆき子は、自分の胸のなかを診られるのは厭だつた。

「何時頃ですか?」

「もう、夜明けだ。五時だよ。こゝは、一年ぢゆう、雨の降る島かね?」

「どうなンでせうね」

「山の中へ這入つて働くより方法もないところだね。官舍も、昨日見て來たが、君一人でゐられるかどうかだ‥‥。僕が、山へ這入つてしまへば、一週間位は、留守になつちまふンだぜ‥‥」

「私も、山へ行けないの?」

「いかに何でも、さうはゆかないだらう」

「さうでせうね。でも雨さへ降らなければ、私、とてもいいところだらうと思ふンだけど、かう毎日、雨降りつてわけでもないでせうね‥‥。こんな時、加野さんがゐてくれるといゝわ‥‥」

「冥土へ呼びに行くか?」

「呼びに行つて、歸らなかつたら、あなた、吻つとなさるでせう?」

「吻つとするさ。女は何處にでもゐるからね」

「さうね。女つて、そんなものなのね。どんな立派な女だつて、男から見れば、そんなものなのだわ‥‥。根本的に違つてるンだもの。女は何處にでもゐるなんて、口惜しいわ」

「口惜しかつたら、早く元氣になる事だな。元氣になつて、男と鬪爭するんだ。女の最大の武器でやるんだ‥‥」

「憎らしい事を云ふひとだわねえ。昔から、毒舌家だつたけど、婦人代議士みたいな人達が聞いたら、怒りに來るわよ」

「婦人代議士‥‥。僕は、婦人代議士なんか、女とも何とも思つちやゐないよ。そんなものがあるのさへ忘れてゐた」

 アーメン(確かに)である。ゆき子は、腹を立てながら胸の手をのばして、富岡の手を探し求めた。




六十三

 何時までも、宿屋住ひも出來なかつたので、四日目に、雨の霽れ間を見て、ゆき子は、官舍まで、タンカで運ばれて行つた。島の人達は、何事なのかと、運ばれて來る、タンカを覗きこんだ。

 久しぶりに見る、青い空である。陽も射してゐる。兩側から差しよつてゐる樹木が、陽にきらきら光つてゐた。眼を開けてゐられないほど、まぶしい空の色である。冬の空とも思へないほど、青々と暖い色だ。

 うねりくねつた道を、タンカは波になつて運ばれて行く。人聲のないところで、眼を開けると、鷄がけたゝましく、人家へ逃げこんでゐる。町らしい町もない、部落の家々は、ほんの少し雨戸を開けてゐるきりで、まるで、佛印の安南人の部落そつくりだつた。ゆき子は頭を左右にまはして、不思議さうに四圍を眺めた。どの家も、雨戸を閉してゐる。榕樹に似た巨きい樹のトンネルをくぐると、すぐ富岡の聲がした。

「やア、御苦勞さま‥‥」

 玄關の戸が、軋みながら開いた。タンカは躓きながら、家の中へ這入つて行つたが、天井の板は汚點だらけで、板壁には新聞紙が張つてあつた。ゆき子は、こゝが官舍なのかと、眼を瞠つてゐる。

 晝から、富岡は、トロッコで山へ行く事になつてゐた。一晩山で泊つて、明日の夕方、富岡は戻つて來るのだ。戰爭未亡人だといふ子連れの女を、手傳婦に頼んであつたので、その女が、留守中のゆき子の面倒をみる事になつた。

 何處で手に入れたのか、割合さつぱりした縞木綿の蒲團が敷いてあり、鹿兒島で買つた毛布が、敷布になつてゐた。疊はふちのない坊主疊。箱火鉢には、新しいニュームのやかんが湯氣を噴きあげてゐる。

 宿からとゞいた晝食を濟まして、富岡はゲートルを卷き、山行きの身支度をして、出て行つた。レインハットをかぶり、汚れたレインコートを羽織り、しぼんだリユックを肩にしたところは、身支度の板についた山林官の姿である。スキー服で身を固めた登戸が迎へに來たので、富岡は、手傳婦に後を頼んで出掛けて行つた。全く、珍しくいゝ天氣である。

「こんなお天氣のよい日は、めつたにございません‥‥。氣持ちが晴々します。奥さま、お粥が出來てをりますが、召し上りますか?」

 手傳婦は、血色の惡い顔をしてゐる。腹に蟲でも湧いてゐるやうな、蒼黒い眼であつた。都和井のぶと云つた。良人が戰死して、九年になるのださうだ。

 ゆき子は少しも食慾はない。

 只、眼を開いて、雨戸の隙間から青い空を眺めてゐた。富岡が冗談らしく、何處にも女はゐるのだと云つた一言にこだはつてゐる。あの男は、このまゝ圖太く生き殘つてゆくに違ひない。だが、ゆき子は、もう、何年も生きてゆける自分ではないのだと、心ひそかに思ふのであつた。近くの山で山鳩が啼いてゐる。硯の肌を見るやうな紫色の、けづり立つた山が雨戸の隙間から見えた。

「小杉谷つて、よつぽど遠いのかしら‥‥」

 ゆき子が、のぶに尋ねてみた。ぽんかんの汁を絞つてゐたのぶは、むくんだやうな顔を擧げて、「さうですねえ、二時間半位はかゝりませう。途中の大忠岳までが、一時間位のものでございますから‥‥。それにしましても、いま小杉谷は、大變な雪ださうでございますから、旦那さま、お寒いでせう」と、云つた。

 標高七百米の小杉谷の斫伐所附近では、平均氣温が、十六度に下り、十二月から、春三月頃までは、積雪してゐるところである。

 峨々たる高山の連なりのせゐか、一日中に、晴曇雨が交々に來るところで、颱風の通路にあたるせゐか、屋久島は一年中、豪雨に見舞はれ、村の財政は、窮乏に追ひこまれ、治水對策が、はかばかしく運ばれてゐないところであつた。

 島の主要な財源は、五月の飛魚と、甘藷と、甘蔗と、林業である。

 屋久島は、屋久杉で有名なところであつたが、こゝの杉材は、河川を利用して、河口へ押し出すといふわけにはゆかないので、全部トロッコ運搬に寄らなければならなかつた。

 一年中、雨と霧に卷かれてゐる杉は、年數をかなり經てゐるせゐか、水には浮かないのだ。トロッコで押し出した杉の原木を、船に積み込む時、一本でも海中に沈めたら、そのまま浮き上る力のない重量を持つてゐる。

「こんなに暖いところで、そんなに雪が降るンですか?」

「はい、小杉谷は、三月頃まで、スキーの出來るところなのです」

「あなたは、登つた事があるの?」

「いゝえ、途中の大忠岳までしか、行つた事はございません」

 急に空が暗くなつて來た。

 硯のやうにそぎ立つた山頂に、霧がまき始めた。ゆき子は、その山頂の霧の動きを見てゐるうちに、何とも云へない、悲しみを感じてゐた。かうした景色だけでは、自分のやうな人間は育たない氣がした。一度、ぜいたくな事を知つたゆき子には、天井の汚點や、新聞紙を張つた板壁には耐へられないのだ。東京へ戻れば、あらゆる文明が動いてゐる。だが、池袋のあの物置小舍の生活はどうなつたらう‥‥。ジョウといふ男の思ひ出が、いまごろになつて、なつかしくゆき子の瞼に浮んで來た。大きい枕を抱へて來てくれたジョウが、寢物語りに――懷しき君よ。今は凋み果てたれど、かつては瑠璃の色、いと鮮かなりしこの花、ありし日の君と過せし、樂しき思ひ出に似て、私の心に告げるよと、持つて來たラジオのスイッチからもれる、忘れな草の唄を、うたつてくれたものであつた。

 その、小さいラジオを眼にとめて、富岡が、ダンス曲でも聽かせてくれと云つたが、ゆき子は、わざとダイヤルを戰爭裁判の方へまはしたものだ。二世の發音で、

「貴下、その時、どうお考へでしたか?」

 といつた丁寧な言葉つきが、ラジオから流れると、富岡は、そんなラジオは胸が痛いから、アメリカのジャズでも、聽かしてくれとせがんだ。ゆき子は、むかつとして云つた。

「私や貴方もふくまれてゐるのよ、この裁判にはね。――私だつて、こんな裁判なンて聞きたくないけど、でも、現實に裁判されてゐる人達があるンだと思ふと、私、戰爭つてものゝ生態を、聽いておきたい氣がするのよ」ゆき子は、ジョウと知りそめた時が、十年も昔のやうな氣がした。いまごろは、あの外國人は故郷へ戻つてゐるかも知れない。二人の言葉は充分ではなかつたが、お互ひの肉體が、お互ひの心を了解しあつてゐた。富岡が、皮肉を云つた時、ゆき子は、「貴方が、佛印で、ニウを愛したやうなものよ」と反駁したものだ。

 考へてゐるうちに、ゆき子は、昔のすべてがなつかしかつた。ジョウとのつながりは、お互ひに、心を詮索しあふ必要のない明るさがあり、責任らしきものを喋りあふ、深刻さを持ちあはさないで濟む氣樂さがあつたからだと思つた。




六十四

 トロッコの機關車へ乘り、運轉手と並んだ富岡は、ごうごうと、ものすごい音をたてゝ狹いレールの上を押し登つて行く、自分の躯が、まるで、宙吊りにあつてゐるやうだつた。眼の下に、晴れて青い安房河が、密林の奥深くへくねくねと光つてゐる。今日出來て來た、胸のポケットの名刺にある、農林技官といふ肩書が、富岡には、なにかおもはゆい。

「君、一服しない?」

 運轉手は、驚いたやうに、富岡を眺めた。眼の下は斷崖絶壁だつた。羊齒に似た、ヘゴといふ植物が富岡には珍しい。ダラットの奥地にもこの羊齒は到るところに繁つてゐた。内地の鬼羊齒に似てゐる。富岡は煙草に火をつけて、ハンドルを握つてゐる運轉手の手に握らせてやつた。

 右手の河底にある、安房の部落が、少しづゝ樹林のなかへ消えて行く。トロッコは空中を走つてゐるやうなものであつた。機關車の後には、四輛ばかりの無蓋トロッコが連結して、その四臺のトロッコには、米俵や、野菜や、郵便や、鹽叺が積み込まれて、山へ行く營林署の樵夫が五六人、寒さうに俵に腰をかけてゐた。登戸もそこに乘つて、大きい聲で話しあつてゐる。

 屋久島の、營林署の管轄になつてゐる土地は、二萬ヘクタール位であつたが、すべて官有林であつた。佛印の個人の私有地にも足りない、狹さだつたが、小さい島であつてみれば、土地なきところに、土地を求めるやうなもので、この狹い二萬ヘクタールも、現在の日本にとつては、得難い寳庫であらう。朝鮮や臺灣や、琉球列島、樺太、滿洲、此の敗戰で、すべてを失つて、胴體だけになつた日本は、いまでは、臺所の隅々までも掘りおこして、大家族を養はなければならないのだ。

「山は寒いだらうね」

「今年は全國的に雪が多かつたさうですが、山も、たいそうな雪で、みんな、珍しいと云つてをります」

「冬支度をして來るンだつたな」

「山へ行かれましたら、着るものはあります」

「君、この島は東西どの位あるのかい?」

「さうです、東西六里、南北三里二十七町、と云つてをりますかな‥‥。鹿兒島から、九十七哩離れてをるさうです。安房の町はぬくいところですが、山の上は、相當寒いです」

 軍隊訛りで、運轉手が説明した。左手の山脈は、眼に沁みるやうな、赤い土肌をしてゐるところがある。相當、トロッコは、山の上に登りつめて來た。吐く息が白い。

 山の上に、暗い廂のやうな雨雲が卷き始めたが、大粒な雨が降つて來た。後をふりむくと、トロッコの連中は、レインコートを被つたり、番傘を擴げたりしてゐる。

 大忠岳へ着いた時は、相當の吹き降りになつた。トロッコの上に天幕を被せる爲に、停車する事になつたが、寒さは相當きびしかつた。――小杉谷へ着いたのは夕方であつたが、山は暗くなり、みぞれのやうなものが降つてゐた。亭々とした杉の大樹が、うつさうと繁り、群落のやうに、斫伐所の小舍があつた。

 富岡は、營林署の事務室に飛び込んで、ストーブにあたつた。登戸に事務室の人達を紹介して貰つた。今日はあひにくと發電所の故障だとかで、天井に、大きいランプが吊してあつた。

 事務官の堺といふ、もう白髮をいたゞいた老人が、「昔は、こゝも、ほとんど朝鮮人勞働者ばかりでしたが、今は全部日本人で、滿洲朝鮮からの引揚げ者に變り、アカハタ新聞が、五部ばかり、此の島へ送つて來るやうになつてをります。こんな島でも、一寸、民主主義になつて、複雜になつて來ました。――世の中は隨分變つたものですな‥‥。聲の高いものほど勢ひがよいのです。我々、老人は、もうこの山の上では、必要ではなくなりました。富岡技師も、まづ、木を伐るよりも、辯論家にならなければ駄目ですな」

 堺老人は、笑ひながら、さう云つて、富岡から煙草を一本貰つて、爐の火をつけた。硝子戸は、暗くなつて來た。ひくい廂には氷柱のさがつてゐるところもある。




六十五

 サイゴンの街を出外れると、道は自然にキャデインの町へ這入つてゆく。こゝには日本の兵隊が澤山ゐた。こゝからビエンホアの町へ這入る間、甘蔗畑や、果樹園や、椰子、檳榔の生ひ茂る、いくつかの小さい部落を拔けて、ドンナイ河に架つた、長い鐵橋を二つも渡つた。そして、美しいビエンホアの町だ。小さいホテルで、ゆき子は、加野と富岡と、三人で、こゝへ一泊した。佛蘭西人のホテルで、メエゾン・ポアソンといふ家號だつた。看板には魚の尻尾だけが、大きく描かれてゐる。

 丁度空襲があつて、發電所がやられたあとだつたので、三人は、花炎木の花盛りの黄昏の庭で、食事をした。何處かの植込みで、奇妙な野鳥が啼いた。むせるやうな花の匂ひがした。庭の芝生は、黄昏の光の底に、濡れたやうなグリーンで、ゆき子の白い靴先が、木の卓子の下で、富岡の足とたはむれてゐる。

 むし暑い、寢苦しい夜で、遠くで、食用蛙の無氣味な啼き聲がしてゐる。じいつと、眼をすゑて考へてゐるうちに、ゆき子は、自分の胸におほひかぶさつて來た、富岡の躯の重さに、息苦しくなつてゐた。

 森閑とした部屋の外に、そつと、鍵をまはしてゐる音、やがて、扉は開き、外の光のなかから、脊の高い富岡が、扉の中の暗さへ消えてしまふ。白い蚊帳のなかで、わざと、激しく、ゆき子は、扇をつかつてゐた。二人の唇のなかには、さつき、芝生で飮んだ、シェリー酒の匂ひがこもつてゐる。此のホテルには、二組ばかり軍人も泊つてゐるのだ。ゆき子も富岡も、聲一つたてないで、じいつと、お互ひの眼を暗がりの中で、みつめあつてゐた。獸めいた、光つた眼の底に、戰爭とはかけはなれた、二人だけの、ひそかな愛情が、しみじみと二人の思ひを語りあつてゐるのだ。

 窓の外に、大きな樹の實の落ちる音がした。二人は、その音にもおびえた。井戸の底にでもゐるやうな、靜かな、高原のビエンホアのホテルの一夜は、ゆき子にとつては、夢の中にまで現はれて來る。房々とした富岡の頭髮の手觸りが、いまでもじいつと思ひをこらすと、掌のなかに匂つてきた。

 翌日は、二人は、何喰はぬ顔で、自動車でダウジアイから、分岐點のジリンを經て、約四十キロのリボンのやうな官道にゆられてゐた。奥の方にはゆき子と加野が竝び、安南人の運轉手と富岡が、運轉臺に竝んだ。加野は妙に不機嫌であつた。整然としたゴム林のなかを、強烈な太陽の漏れる緑のトンネルのなかを、自動車はジリン高原を走つた。

 林業試驗所のある、トラングボムで一寸降りて、そこで、富岡と加野は、それぞれの用事を濟ませて、また、自動車は、もの淋しい鉛色のうねうねとした官道を、すくんすくんと音をたてゝ走つて行く。この邊には、よく野象が飛び出して來るところもあると、安南人の運轉手が云つた。巨大なバンラン樹が、黒々と群生してゐる、無氣味な森林地帶だつた。

 夢のなかで、ゆき子は、微笑しながら、その夢を追つかけてゐる。もう、二度と、あの青春は戻つては來ないのだ‥‥。あの當時のまゝのものはもう歸らない。富岡も、ゆき子も、いまは、かうして、南の果ての、屋久島まで來てゐるのだけれども、二人は、あの時から、幾年か年を取つてゐた。‥ゆき子は、耳もとにざはつく、雨の音を、樹海のそよぎのやうに、聞いてゐたが、それが、窓硝子に、霧をしぶいてゐる雨の音だと判ると、ゆき子は、がつかりして、奈落へ落ちこむ氣がした。

 ノアの洪水のやうに、家そのものが、ぞつぷりと、水浸しにあつてゐるやうだ。眼を閉ぢると、自分の皮膚と筋肉の間をとほつて、心臟の音が、いやに判然りと耳についた。そして、時々、その心臟の音は、停つては、またとくとくと動く。耳を枕につけると、心臟の音は、人の足音のやうに大きく響いた。

 四圍の空氣を、さつと、刀で切りつけてやりたいやうな、じれじれした雨である。ゆき子は、ぴいんと、手足をのばしてみた。自分の寢棺は、どの位の大きさなのだらうかと、不吉な空想をしてゐる。さうして、心ひそかに、昨日山へ行つた富岡の歸りを、心待ちにして、ゆき子は全身が待つ事に集中してゐた。

 比嘉もなかなかやつて來てはくれない。ゆき子は、何故か、靜岡へ手紙を出したかつた。繼母へあてゝ手紙を書きたかつたが、考へてゐるうちにまた氣も變つてくる。手傳婦の都和井のぶは、ゆき子の食事に就いては、少しも工夫をこらしてみようといふ氣はないらしく、 のりになつたまづい粥と、梅干一つに、時々、生卵を皿の上にごろりとのせて出すきりである。何となく、この都和井のぶと、富岡が、示しあはせてゐるやうな錯覺にとらはれて來るのだ。ゆき子は、この女から、解放されなければならないと思つた。殺されてしまふやうな氣がして來る。

 枕もとで、じいつと、本を讀んでゐる都和井のぶの姿を、ゆき子は、時々、眼をあげて、眺めてゐた。戰死した良人に離れて、九年間も孤獨をまもつて來た女らしく、如何にも意志の強さうなところがあるのだ。そのくせ、胸や、顎のあたりは、油が浮いて美味さうな女の肌をしてゐた。

 何を讀んでゐるのかと、ゆき子は、その本は、何かと聞きたかつたが聲を出す事がものういのだ。毛布に、汗ばんだ手をごろりと出して眺めながら、ゆき子は、このまゝ、自分の生命の終りを、自分で、靜かに感知出來るやうな氣がした。

 都和井が、本をそこへ置いて、玄關へ出て行つた。本は、富岡が、安房旅館から借りて來た、家庭醫學の古本であつた。今日は、霧雨にけぶつてゐるせゐか、硯のやうに、けづり立つた八重岳は見えない。ゆき子は、玄關へ出て行つた都和井の、白い足裏が氣にかゝつてゐた。こゝの女達は、いつも裸足である。砂地を踏むせゐか、女達の足の裏は、案外綺麗で、別に水で足を洗ふでもなく、そのまゝ部屋の中へ上つて來るのだ。

 ゆき子は、自分がこのまゝ亡くなつてしまへば、富岡は、こゝで、都和井のぶと結婚をして、住みついてしまふかも知れない‥‥。ゆき子は、さうした可能性のある、未來を豫想出來た。二人が、そのやうに結ばれてゆくであらう過程を空想してゐるうちに、ゆき子は、胸もとに、激しい勢で、ぬるぬるしたものを噴きあげて來た。息が出來ない程の胸苦しさで、ゆき子は、ぐるぐると躯を動かしてゐた。兩手を鼻や口へ持つて行つたが、噴きあげるぬるぬるはとまらないのだ。息も出來ない。聲も出ない。蒲團も毛布も、枕も、噴きあげる血のりで汚れた。

 ゆき子は、このまゝ死ぬのではないかと思つた。分裂した、冷い自分が、もう一人自分のそばに坐つて、一生懸命、死神にとりすがつてゐるのだ。死神は、ゆき子の分身の前に現存してゐる‥‥。この女の肉體から、あらゆるものが去りつゝあるのだと宣べて、死神は、勝利の舞ひを、舞つてゐるやうでもあつた。胸中に去來するものゝなかに、ゆき子は、かすかに、加野の誘ひの聲を聞いた氣がして、頭をかすかにふつた。いまゝでの生活のなかで、ゆき子は、未練に思ふやうな心殘りなものは一つもなかつたし、いま、自分のそばに、富岡がゐてくれたにしても、もうすでに、冥府へ、自分だけの乘つた汽車は、走り去らうとしてゐる。最後の生命を貫流する、矢つぎ早な、肉體の破壊作用は、いつたい、どこから音をたてゝ崩れてゆくのか、ゆき子は、自分の死の最初を知りたかつた。苦しくあへいだ。水が飮みたかつた。無鐵砲なほど、健康だつた頃の、あの長い旅行の數々が、虹のやうに、とりとめなく瞼に浮んで來る。未知の世界へ逝く、不安と分裂と混亂が、ゆき子の十本の指のなかに、ピアノのキイを叩くやうな表情で、表現されてゐた。空洞になつた肺のなかに、泥々の血が溢れてゐるやうな氣持ちの惡さだ。

 誰かゞ枕許で、影をちらちらさせてゐた。その影がわづらはしく、ゆき子は、血みどろの顔を擧げて、その影をさけようとした。だが、その影は、人類破壊の稻妻のやうな、暗い光りをともなつて、ゆき子の額にちらちらと動いてゐた。

 ノアや、ロトの審判が、雨の音のなかに、轟々と、押し寄せて來るやうで、ゆき子は、その響きの洞穴の向うに、誰にも愛されなかつた一人の女のむなしさが、こだまになつて戻つて來る、淋しい姿を見た。失格した自分は、もうここでは何一つ取り戻しやうがない。あの頃の自分は、どうしてしまつたのだらう‥‥。佛印でも樣々な思ひ出が、いまは、思ひ出すだにものうく、ゆき子はぬるぬるした血をううつと咽喉のなかへ押し戻しながら、生埋めにされる人間のやうに、あゝ生きたいとうめいてゐた。ゆき子は、死にたくはなかつた。頭の中は氷のやうに冷くさえざえとしながら、躯は自由にならなかつたのだ。




六十六

 山の上は、珍しく土砂降りの雨だつた。富岡は、町へ降りるのを、一日のばして、事務所のストーブにあたり、山の人達五六人と、薯燒酎を飮んでゐた。里へ降りて、官舍へ戻る勇氣はなかつた。ゆき子の病状は氣にした事もあるまいと、酒の醉ひが強くなるにつれて、薄情になつてくる。

 富岡は、この八重岳の山容は、佛印のアンコールトムのバイヨンに似てゐると思ひ、その頃の話をぽつりぽつり話してゐた。

「山の石肌には、巨大な、人面を現はした石積の塔が聳えてゐてね、部屋々々の石柱は、傾き、石粱は落ちかけて、この山石の、廢墟の前庭には、巨きな樹が、倒れかけた擁壁を支へてゐるし、こゝの、杉のミイラと少しも變りはない。この王宮には、男女の生殖器の接合した、シバの象徴がまつつてあつたが、リンガとか云つたかな‥‥。いろいろと、文明は發達してゆくンだが、このシバの大自在天は、人間最大の文明だね。この自在天のシバの秘密のなかから、アトミックボオンも生れたンだらうからね‥‥」

 山の人達は、話好きである。遠く外地の山林を視察した事のある、富岡の思ひ出話に耳をかたむけ、ストーブの上に煮えたつてゐるやかんのなかから、燒酎の徳利を何本も引きあげてゐる。

 富岡は、薯燒酎の臭いのにもいまは馴れてゐた。東京で飮む燒酎と違つて、頭にもこなかつたし、舌ざはりも案外いい。話はいつか女の話になつていつた。賄ひの婆さんや、娘達が、げらげら笑ひながら、するめを裂いたり、鯖干しに醤油をかけてくれたりしてゐる。富岡はかなり醉つた。耳もとに腕時計を押しつけてみても、その秒針の音が聞えない程、醉つてゐた。醉はなければ、心が耐へられない。心が耐へられないのではなく、あるひは、躯が耐へられなかつたのかもしれない。脊のひくい娘の丸々とした手首の青黒い肉づきが、ちらちらと眼を掠める。富岡は暫く、女の肌に觸れた事はなかつた。娘の太い首まはりや、腰のふくらみ、足の甲の、紫色になつたのまでが、腹のなかにづきづきして來た。娘は紺飛白のモンペに、緑色のジャケツを着てゐた。山には根雪が積り、小舍の外に出ると、雨はみぞれのやうに、頬に痛い雨粒だつた。さうした寒い山の上の生活で、娘は足袋もはかないで、小舍から小舍へ使ひ走つて行くのだ。

 誰もゐなければ、抱き伏せてしまひたいやうな、彈力のある娘の躯が、富岡には眼ざはりでならなかつた。自分でも、このやうな氣持ちになつた事は久しぶりであつた。娘の顔は、何處か、おせいに似てゐた。だが、過去はもう一切合財を灰にして、こゝまで來たのだと、富岡は、かいこ棚のやうになつた、三階のベッドへ登り、くるりと革のジャンバアをぬぎ、毛布の上に横になつた。娘の笑ひ聲は何時までも、富岡の耳にじやれつくやうに響いた。

 ほんの少し、富岡はなやましい眠りをむさぼり、五時頃、眼を覺ました。ランプがついてゐた。階下で、富岡を呼んでゐるものがある。 てすりから覗くと、町から電話だと云つて、奥さんがキトクだと知らせてくれた。富岡は、革のジャンバアを被り、梯子を降りて、ストーブのそばで山靴をはいた。

「トロッコは出ないンでせう?」

「出します。下りは、流せばいゝでせうから、誰かつけてやります」

 庶務の老人が引き受けてくれた。もう、四圍はとつぷり暮れかけてゐる。どこの山小舍にも、ちらちらと、ランプの燈が明滅してゐた。雨は何時の間にか、雪になつてゐた。富岡は、レインハットの上から、娘にかりた肩掛けをぐるつと頬や首に卷きつけて、疊一疊ほどのトロッコへ乘つた。丁度明日入港する船で、鹿兒島へ歸る學生と、カジをとつてくれる樵夫の若い男とでトロッコにうづまつた。カンテラを富岡と學生二人が交互に持ち、樵夫が、その明りでカジを押すのだ。

 トロッコは、雷のやうな音をたてゝ、急な山道を流れて行つた。時々、トロッコは浮きあがる。そのスピードをセーヴしながら、若い樵夫は、「おつと、まつさかさまになるとこだ‥‥」と、二人をおどかしたりした。一寸先も見えないやうな、暗い谷添ひのレールを、カンテラの灯が、すいすいと流れて行く。安房の町は、篠つくやうな雨が降つてゐた。

 富岡が、やつとの思ひで、官舍へ戻つた時は、もう十時頃であつた。ゆき子は、亡くなつてゐた。富岡にもゆき子にも、初めて見る顔ばかりが、七八人も詰めかけてゐてくれて、ゆき子の臨終をみてくれたのである。富岡は四圍の人達に挨拶して、ゆき子の枕もとに坐り、ランプの光の中にむくんだやうなゆき子の死顔を、暫くみつめてゐた。誰かゞ、富岡のずぶ濡れのジャンバアをぬがしてくれた。

 まだ、ゆき子の手は、胸で組みあはされてはゐなかつた。富岡は、妻の邦子にしてやつたやうに、固くなりかけてゐるゆき子の手を、そつと胸に組みあはせてやつたが、冷い手は、乾いた血で、汚れてゐた。顔だけを手傳婦が拭いてくれたのであらう。富岡は、ゆき子の手についてゐる血を見て、急に瞼につきあげる熱い涙にむせた。おせいの死、邦子の死、いままたゆき子の死だ。富岡は、ゆき子の躯を激しくゆすぶつてみた。ゆき子の肉體には何の反應もなかつた。寄つて來てくれてゐた人達は、一人去り、二人去りで、番傘を擴げて戻つて行く傘の音が、窓ぎはの道を通つた。

「何時頃から、をかしくなつたンだ?」

 都和井のぶは、ゆき子が、何時頃をかしくなつたのか、判然りとは知らない。あの時、家庭醫學の本を讀んでゐると、自分が、どんなところを讀んでゐるのか、病人は、何も彼も見透すやうな、無氣味な眼色で、都和井の方をじろじろみつめてゐた。都和井のぶは、妊娠してゐたのだ。子供を生みたくはなかつたので、偶然、病人の枕許にある、家庭醫學の本を取りあげてゐたのだ。その中に、合法的な、いろいろな方法が書かれてゐた。のぶは、これから、鹿兒島に出て、かうした醫者にかゝるには、どの位の金がいるのだらうかと胸算用をしながら、ぼおつと、考へ深くなり、何氣なく、病人の顔を見下すと、薄眼を開けた、病人のむくんだ顔が、都和井には、ぞつとするやうな、怖ろしい顔に見えた。縁もゆりもない、かうした病人のそばに、自分一人でついてゐる事にゐたゝまれなくて、都和井のぶは、さつと、裸足で、雨の中を、自分の家に戻つて行つたのだ。

 都和井のぶは、いゝかげんな事を云つた。だが、聞く方も、いゝかげんな事とは、判つてゐても、こんなになつてしまつた以上、どうにも方法はない、とあきらめてしまふ。ゆき子は、この島へ死にに來たやうなものであつた。富岡は、みとりに來てくれた人々に、引きとつて貰つた。のぶにだけ、ゐて貰ふつもりだつたが、のぶも、氣持ち惡がつてゐる樣子だつたので、富岡は引きとつてゆかせた。





 ゆき子は、相當苦しんだとみえる。四圍の血の汚れが、富岡の眼をとらへた。

 富岡は、何をする氣力もない。次の部屋の火鉢に、しゆんしゆんと煮えたつてゐる湯を金盥にうつして、それにタオルを浸し、富岡は、ゆき子の顔を拭いてやつた。いつも枕もとに置いてゐるハンドバッグから、紅棒を出して唇へ塗つてやつたが、少しものびなかつた。タオルで眉のあたりを拭つてゐる時、富岡は、何氣なく、ゆき子の瞼を吊るやうにして、開いてみた。ゆき子の唇がふつと動いた氣がした。「もう、そつとさせておいて‥‥」と云つてゐるやうだ。雨は息苦しいまでに、板屋根に叩きつけてゐる。いつたい、どうしろと云ふンだらうと、富岡は、天井裏に突き拔けて來さうな騷々しい音に、追ひたてられるやうな氣がした。ゆき子の眼は、生きものゝやうに光つてゐる。氣にかゝつて、もう一度、富岡は、ゆき子の眼を覗きこんた。ランプをそばによせて、じいつと、ゆき子の眼を見てゐた。哀願してゐる眼だ。富岡は、その死者の眼から、無量な抗議を聞いてゐるやうな氣がした。ハンドバッグから櫛を出して、かなり房々した死者の髮を、くしけづつて、束ねてやつた。死者は、いまこそ、生きたものから、何一つ、心づかひを求めてはゐない。されるまゝに、されてゐるだけである。

 腕時計は十二時を指してゐた。

 雨は一刻のゆるみもなく、荒い音をたてゝ、夜をこめて降りしきつてゐる。夜更けてから、富岡は、猛烈な下痢をした。息苦しい厠に蹲踞み、富岡は、兩の掌に、がくりと顔を埋めて、子供のやうに、 をえつして哭いた。人間はいつたい何であらうか。何者であらうとしてゐるのだらうか‥‥。色々な過程を經て、人間は、素氣なく、此の世から消えて行く。一列に神の子であり、また一列に惡魔の仲間である。

 金網だけの厠の窓から、雨滴がしぶいてゐた。ローソクの灯が足もとにゆらめき、此の世の地獄を思はせるやうな、下腹の痛みが、厠の臭氣とともに、富岡の皮膚をびりびりと引き裂きさうだ。

 この狹い枠のなかから、一歩も出て行けない、不可能さを、富岡は、自分への報ひだと思つた。その不可能さは、一種のゲッセマネにまで到る。ゆき子の死そのものが、災難のやうな何氣なさであつただけに、ゆき子の死の目的は、富岡にとつては、案外、不憫でいとしくもあるのだつた。これでは、東京で、自動車に跳ねとばされるのと、何も變りはない。長く患つて亡くなつたのなら、まだ、受難的な夢を、死者に考へる事も出來たのだが‥‥。富岡は下腹をおさへて、這ふやうにして、部屋へ戻り、腰に毛布を卷いた。どつちが北枕かも判らなかつたが、いまは、死者は、富岡に、壁ぎはへ枕をうつして貰つて、平べつたくなつてゐる。新しい蒲團の上に、種ケ島製の鋏がのせてあつた。

 此の島のなかでは、二人にとつて、誰も知り人はないのだつたが、島へ着いて知りあつた幾人かの人達は、富岡の留守に、ゆき子の死をみとつてくれたのである。富岡は不思議なものを感じてゐた。人間は、何處で、かうした災難を蒙るかも知れないのだ。だが、また、みとつてくれた人達の災難も亦、人の世の をかしみなのだと、富岡は、臺所から、今夜、都和井のぶに買はせておいた、燒酎を、出して來て、燗をして飮んだ。死んだ女を次の間に置いて、誰一人仲間のない酒盛の情は、宗教的な清々しさで、富岡の胸のなかを賑やかにしてくれる。

 いまに、自分もまた、何時の日かは、あの姿に行きつくのだがと、富岡は、そんな事を考へてゐたが、いま、ゆき子と一緒に、死ぬ氣はしない。醉ふほどに、氣持ちは少しづゝ荒さんで來た。しみじみと、人間的な、氣の荒さみかたが、富岡には救ひだつた。酒の醉ひが全身にみなぎり、富岡は、自分の生命そのものに、有難い、まうけものをした興奮を感じてゐる。時々、空間から、死者のヱーテルが光るやうな氣がして、富岡は、じいつと、平べつたい寢床を眺める。死者は、森閑として動かない。

 三人の女のうちで、この、ゆき子が、一番、自分に寄り添つてゐてくれてゐたやうな氣がした。だが、この冷えたゆき子の躯には、何の反應もないのだ。

 二人の昔の思ひ出が、醉つた腦裡を掠め、富岡は、瞼を熱くしてゐた。少しづゝ醉ひはすさまじくなり、富岡は、腹が燒けつくほど、燒酎をあふつた。何も食べないので、醉ひは相當の勢で、全身をめぐり、富岡は、獨語しては酒を飮んだ。

 風が出た。ゆき子の枕許のローソクの灯が消えた。

 富岡は、よろめきながら、新しいローソクに灯を點じ、枕許へ置きに行つた。面のやうに、表情のない死者の顔は、孤獨に放り出された顔だつたが、見るものが、淋しさうだと思ふだけのものだと、富岡は、ゆき子の額に手をあてゝみる。だが、すぐ、生き身でない死者の非情さが、富岡の手を拂ひのけた。富岡は、新しい手拭ひも、ガーゼもなかつたので、半紙の束を、屋根のやうに擴げて、ゆき子の顔へ被せた。




六十七

 一ケ月は過ぎた。富岡は、一週間程の休みをとつて、鹿兒島へ出てみた。雨の少ない、からりと乾いた春さきの鹿兒島は、まるで別世界である。まづ、富岡は、以前泊つた宿に着いた。少しの間に、女中達はすつかり變つてゐた。ゆき子と泊つた表の部屋へ案内された。偶然だつたので、富岡は不思議な氣がした。

 雨に濡れた時計の修繕を、時計を買つた家に頼みに行つたが、修繕する主人公が、怪我をして寢ついてゐるといふので、富岡は、仕方なく、他の時計屋へ持つて行つた。時計屋の歸り、富岡は比嘉醫師のところへ寄つてみた。比嘉は在宅してゐた。富岡を覺えてゐた。藥臭い部屋に通されて、富岡はゆき子の死を報告した。比嘉も、何となく不安な病状だつたので、レントゲンを撮りたかつたのだと云つてくれた。

 病人のゆき子のゐない、二人の間は、富岡には、何となく息苦しくもある。富岡は、この一ケ月すつかり、酒に溺れ、別人のやうに顔が變つてもゐた。煙草もひつきりなしに火をつけてゐる。部屋はもうもうとして來た。コオヒイが運ばれた。富岡は、久しぶりに文明にめぐりあふやうな氣がして、香ばしいコオヒイに唇をつけた。比嘉は、「奥さんがお好きだつた、ドヴォルザアークの『新世界』をかけませう」と云つて、手製だと云ふ電蓄に、レコードをかけてくれた。

 レコードを聽きながら、富岡は、ずうつと以前から、ゆき子が躯をこはしてゐて、自分で判らなかつたのではないかと、比嘉に何氣なく云はれた。

「どうです、貴方も一度、診てみませうか? 酒量も相當なンでせう?」

 と、比嘉は笑ひながら云つた。

 音樂を聽いてゐるだけで、富岡は、氣が安まるのだ。夕方、比嘉は、寄り合ひがあるといふので、富岡は、再會を約して、醫院を出たが、何處へ行くといふ宛もなかつた。人生はそれぞれに、他人の容啄を許さない、樣々なアラベスクを持つてゐるものだと、富岡は、遠い島で考へてゐた、比嘉醫師へのなつかしみも、いまは、少しばかり冷えて來てゐた。正常な、規則正しい醫者だつたのである。 On ne se soigne jamais trop‥‥, 身を守る事にかぎりはなしである。富岡は、古本屋に寄つて、小説本でも買つて歸りたいと思つた。讀んでみたいものは、ゾラ。ダラットの林野局に働いてゐた、混血兒のタイピストが、ゾラの『居酒屋』を貸してくれたのを思ひ出してゐた。夕暮れの通りを、賑やかな天文館通りへ出て、富岡は、映畫館の一つ一つを眺めてまはつた。狹い往來には、混血兒的人種が、河水のやうに犇き流れてゐる。かうした文明は、現在の富岡には、うつたうしくさへあるのだ。街裏へ這入つて、富岡は、女のゐる小料理屋へ這入つてみた。女達は、油つこい光つた化粧をしてゐた。富岡は、赤いイブニングを着た女が氣に入つた。その女の酌でビールを飮んだ。ビールが、こんなに美味いものとは思はなかつた。雨の降つてゐない、香ばしく乾いた夜氣は、久しぶりに爽快だつた。女は絲のやうに細い眼をしてゐたが、あつぼつたい瞼の底からのぞく眼は、時々なまめかしく光る。手の甲が乳色をしてゐた。だが、色電氣の下で見る女の赤い服は、かなり汚れてゐる。ギター彈きが、赤いネッカチーフを首に卷いて、狹い土間に這入つて來た。

 女は早口に、訛りの強い言葉で喋り、ギター彈きを追ひかへした。そのアクセントが、何となくゆき子に似てゐる。雨の浸みこむ土の下に土葬をしたゆき子の、あの時のおもかげが、富岡の胸に燒きついてゐるのだ。それにしても、あの強い、一つの生命は、ほろびた。そしてまた、こゝにも、あらゆる まどはしの麥は芽を噴いてゐる。性こりもなく、情緒に誘はれるアダム‥‥。神は無數に種子を蒔いた。收獲は、ただ、「おのづから」なる力にすがつて育つてゐるだけだ。富岡は、またゝくまに、半ダースばかりのビールを空にして、女に、二階へ引きずりあげられて行つた。

 夜更けになつて、富岡は、女に送られて宿へ戻つたが、案外、眞面目な女だつたとみえて、宿に預けた以外の富岡の財布は、まだ、かなり殘つてゐた。みんな、ゆき子の殘していつた、あの時の金である。富岡は、乾いた寢床へ、洋服のままもぐりこんで、石のやうに重たくなつてゆく、自分の考へを追つてゐた。

 屋久島へ歸る氣力もない。だが、ゆき子の土葬にした亡骸をあの島へ、たつた一人置いて去るにも忍びないのだ。それかと云つて、いまさら、東京に戻つて何があるだらうか‥‥。

 富岡は、まるで、浮雲のやうな、己れの姿を考へてゐた。それは、何時、何處かで、消えるともなく消えてゆく、浮雲である。



(完)


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Last Modified: Tuesday, March 11, 2025
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