さる程に九郎判官には鎌倉殿より大名十人つけられたりけれども、内々御不審を蒙り給ふ由聞えしかば、心を合せて一人づつ皆下り果にけり。兄弟なる上、殊に父子の契をして去年の正月木曾義仲を追討せしより以降度々平家を攻落し、今年の春滅し果てゝ一天を靜め、四海を澄す。勸賞行はるべき所に、如何なる仔細有て、かゝる聞えあるらんと、上一人を始め奉り下萬民に至るまで、不審をなす。此事は、去春攝津國渡邊より舟汰して八島へ渡り給ひし時、逆櫓立うたてじの論をして、大きに欺かれたりしを、梶原遺恨に思ひて常は讒言しけるに依て也。定て謀反の心もあるらん。大名共差上せば、宇治勢田の橋をも引き、京中の噪
ぎと成て、中々惡かりなんとて土佐房正俊を召て「和僧上て、物詣する樣にてたばかり討て。」と宣ひければ正俊畏て承り、宿所へも歸らず、御前を立て軈て京へぞ上りける。
ここに足立新三郎といふ雜色は、「きやつは下臈なれども、以外さか/\しいやつで候。召使ひ給へ。」とて、判官に參せられたりけるが「内々九郎が振舞見て、我に知せよ。」とぞ宣ひける。正俊がきらるゝを見て、新三郎夜を日についではせ下り、鎌倉殿に此由申ければ、舍弟參河守範頼を、討手に上せ給ふべき由仰られけり。頻に辭申されけれども、重て仰られける間、力及ばで物具して、暇申に參られたり。「わ殿も九郎がまねし給ふなよ。」と仰られければ、此御詞に恐れて、物具脱置て京上はとどまり給ひぬ。全く不忠なき由一日に十枚づゝの起請を晝は書き、夜は御坪の内にて讀上讀あげ百日に千枚の起請を書て參らせられたりけれども、叶はずして終に討たれ給ひけり。其後北條四郎時政を大將として討手のぼると聞えしかば、判官殿鎭西の方へ落ばやと思ひ立ち給ふ處に緒方三郎維義は平家を九國の内へも入
奉らず、逐出す程の威勢の者なりければ、判官「我に憑まれよ。」と宣ひける。「さ候はば、御内に候菊池次郎高直は、年來の敵で候。給はて頸を切て憑まれ參らせん。」と申。左右なくたうだりければ、六條河原に引出して切てげり。其後維義かひ/\しう領状す。
北條四郎策に「平家の子孫といはん人、尋出したらん輩に於ては、所望請ふに依べし。」と披露せらる。京中の者共案内は知たり、「勸賞蒙らん。」とて、尋求るぞうたてき。かゝりければ、幾等も尋出したりけり。下臈の子なれども、色白う眉目好きをば召し出いて「是はなんの中將殿の若君、彼少將殿の君達。」と申せば、父母泣悲めども、「あれは介錯が申候、あれは乳母が申。」なんど云ふ間、無下にをさなきをば水に入、土に埋み、少し長しきをば押殺し、刺殺す。母の悲み乳母が歎き喩へん方ぞ無りける。北條も子孫さすが多ければ、是をいみじとは思はねど、世に隨ふ習なれば、力及ばず。
小松三位中將維盛卿子息尋出され候なる高雄の聖御房申請けんと候。疑をなさず預け奉るべし。
北條四郎殿へ 頼朝
とあそばして御判あり。二三遍推返し々々讀で後、「神妙々々」とて打置れければ、齋藤五、齋藤六はいふに及ばず、北條の家子郎等共も皆悦の涙をぞ流しける。
さる程に、文覺房もつと出きたり、若君乞請たりとて、氣色誠にゆゆしげなり。「『此若君の父三位中將殿は、初度の戰の大將軍也。誰申とも叶ふまじ。』と宣ひつれば『文覺が心を破ては、爭か冥加もおはすべき。』など惡口申つれども、猶『叶まじ。』とて、那須野の狩に下り給し間、剩文覺も狩場の供して、漸々に申てこひ請たり。いかに遲うおぼしつらん。」と申されければ、北條「廿日と仰せられ候ひし御約束の日數も過候ぬ。鎌倉殿の御宥れなきよと存じて、具し奉て下る程に、かしこうぞ、爰にて誤ち仕候らんに。」とて、鞍置て引せたる馬共に齋藤五、齋藤六を乘せて上せらる。我身も遙に打送り奉て、「暫く御供申たう候へども、鎌倉殿に指て申べき大事共候。暇申て。」とて打別れてぞ下られける。誠に情深かりけり。
聖若君を請とり奉て、夜を日についで馳上る程に、尾張國熱田の邊にて、今年も既に暮ぬ。明る正月五日の夜に入て、都へ上り著く。二條猪熊なる所に、文覺坊の宿房ありければ、其
に入奉て、暫く休奉り、夜半ばかり大覺寺へぞおはしける。門をたゝけども、人なければ音もせず。築地の壞より若君の飼ひ給ひける白い狗の走り出て、尾を振て向ひけるに、若君「母上はいづくに在ますぞ。」ととはれけるこそせめての事なれ。齋藤六、築地を越え、門を開て入奉る。近う人の住だる所とも見えず。若君「いかにもしてかひなき命をいかばやと思しも戀しき人を今一度見ばやと思ふ爲なり。こはされば何と成り給ひけるぞや。」とて夜もすがら泣悲み給ふぞ誠に理と覺えて哀なる。夜を待明して近里の者に尋給へば、「年の内は大佛參りとこそ承候ひしか。正月の程は、長谷寺に御籠と聞え候しが、其後は御宿所へ人の通ふとも見え給はず。」と申ければ、齋藤五急ぎ長谷へ參て尋あひ奉り、此由申ければ、母上、乳母の女房つや/\現とも覺え給はず、「是はされば夢かや夢か。」とぞ宣ひける。急ぎ大覺寺へ出させたまひ、若君を御覽じて嬉しさにも只先立つ物は涙なり。「疾々出家し給へ。」と仰られけれども、聖惜み奉て、出家もせさせ奉らず。やがて迎へとて高雄に置奉り、北の方の幽なる御有樣をも訪ひけるとこそ聞えし。觀音の大慈大悲は、罪有も罪無をも助給へば昔もかゝるためし多しといへども、ありがたかりし事共なり。
さる程に北條四郎六代御前具し奉て下りけるに、鎌倉殿御使鏡宿にて行合たりけるに、「如何に」と問へば、「十郎藏人殿、信太三郎先生殿、九郎判官殿に同心の由聞え候。討奉れとの御氣色で候。」と申。北條「吾身は大事の召人具したれば。」とて甥の北條平六時貞が送りに下りけるを、おいその森より「疾和殿は歸て此人人おはし處聞出して討て參せよ。」とてとゞめら
る。平六都に歸て尋る程に十郎藏人殿の在所知たりといふ法師出來たり。彼僧に尋れば「我はくはしうはしらず、知りたりといふ僧こそあれ。」といひければ、押寄せて彼僧を搦捕る。「是はなんの故に搦るぞ」。「十郎藏人殿の在所知たなれば搦むる也。」「さらば教へよとこそいはめ。さうなうからむる事は如何に。天王寺にとこそ聞け。」「さらばじんじよせよ。」とて、平六が聟の小笠原十郎國久、殖原九郎、桑原次郎、服部平六を先として其勢三十餘騎、天王寺へ發向す。十郎藏人の宿は二所あり。谷の學頭伶人兼春秦六秦七と云者の許也。二手に作て押寄たり。十郎藏人は兼春が許におはしけるが、物具したる者共の打入を見て後より落にけり。學頭が娘二人あり。ともに藏人のおもひものなり。是等を捕へて藏人のゆくへを尋ぬれば姉は「妹に問へ。」といふ。妹は「姉に問へ。」といふ。俄に落ぬる事なれば、誰にもよも知らせじなれども、具して京へぞ上りける。
藏人は熊野の方へ落けるが、只一人ついたりける侍、足を疾ければ、和泉國八木郷といふ處に逗留してこそ居たりけれ。彼の主の男、藏人を見知て夜もすがら京へ馳上り、北條平六につげたりければ「天王寺の手の者はいまだのぼらず、誰をか遣るべき。」とて大源次宗春といふ郎等をようで「汝が宮立たりし山僧はいまだあるか。」「さ候。」「さらば呼べ。」とて、喚ばれければ、件の法師出來たり。「十郎藏人のまします。討て鎌倉殿に參せて御恩蒙り給へ。」と云ければ、「承り候ぬ。人を給び候へ。」と申。「軈て大源次下れ、人もなきに。」とて舍人雜色人數僅に十四五人相そへてつかはす。常陸房正明と云者也。和泉國に下つき彼家に走り入て見
れ共なし。板敷打破てさがし、塗ごめの内を見れ共なし。常陸房大路に立て見れば、百姓の妻とおぼしくて長敷き女の通りけるを捕へて、「此邊に恠しばうたる旅人のとどまたる處やある。いはずば切て捨ん。」と云へば、「只今さがされ候つる家にこそ夜邊まで世に尋常なる旅人の二人とどまて候つるが、今朝など出て候ふやらん。あれに見え候ふ大屋にこそ今は候ふなれ。」と云ひければ、常陸房黒革威の腹卷の袖著けたるに大太刀帶て彼家に走入てみれば、歳五十計なる男のかちの直垂に折烏帽子著て唐瓶子菓子などとりさばくり、銚子どももて酒勸めむとする處に、物具したる法師の打入を見て、かいふいて逃ければやがて續いて逐懸たり。藏人「あの僧。や、それは在ぬぞ。行家はこゝにあり。」と宣へば、走歸て見るに白い小袖に大口ばかり著て、左の手には金作りの小太刀をもち、右の手には野太刀の大なるを持たれたり。常陸房「太刀投させ給へ。」と申せば、藏人大に笑はれけり。常陸房走寄てむずと切る。丁と合せて跳り退く。又寄て切る。丁と合せてをどりのく。寄合寄逃き一時ばかりぞ戰うたる。藏人後なる塗籠の内へしざり入らんとし給へば、常陸房「まさなう候。な入せ給ひ候そ。」と申せば、「行家もさこそ思へ。」とて又跳り出て戰ふ。常陸房太刀を棄てむずと組んでどうと臥す。上に成り下に成り、ころび合ふ處に、大源次つと出きたり。餘に遽てゝ帶たる太刀をば拔で、石を握て藏人の額をはたと打て打破る。藏人大に笑て「己は下臈なれば。太刀長刀でこそ敵をばうて。礫にて敵打樣やある。」常陸房「足を結へ。」とぞ下知しける。常陸房は敵が足を結へとこそ申けるに、餘に遽てて四の足をぞ結たりける。其後藏人の頸に繩を懸て搦め
引起して押居たり。「水參せよ。」と宣へば干飯を洗て參せたり。水をばめして、干飯をばめさず差し置き給へば、常陸房取て食うてけり。「和僧は山法師か。」「山法師で候。」「誰といふぞ。」西塔の北谷法師常陸房正明と申者で候。」「さては行家に仕はれむといひし僧か。」「さ候。」「頼朝が使か。平六が使歟。」「鎌倉殿の御使候。誠に鎌倉殿をば討參せんと思めし候ひしか。」「是程の身に成て後思はざりしといはゞ如何に、思ひしといはば如何に。手次の程はいかゞ思程の身に成て後思はざりしといはゞ如何に、思ひしといはば如何に。手次の程はいかゞ思ひつる。」と宣へば、「山上にて多の事に逢て候に、未だ是程手剛き事に合候はず、よき敵三人に逢たる心地こそし候つれ。」と申す。「さて正明をばいかゞ思召され候つる。」と申せば、「それはとられなん上は。」とぞ宣ひける。「其太刀取寄せよ。」とて見給へば、藏人の太刀は一所も不切常陸房が太刀は四十二所切れたりけり。やがて傳馬立させ乘奉て上るほどに、其夜は江口の長者が許に泊て夜もすがら使を走らかす。明る日の午刻ばかり北條平六其勢百騎ばかり旗さゝせて下るほどに淀の赤井河原で行合たり。「都へはいれ奉るべからずといふ院宣で候。鎌倉殿の御氣色も其儀でこそ候へ。はや/\御頸を給はて鎌倉殿の見參にいれて御恩蒙り給へ。」といへば、さらばとて赤井河原で十郎藏人の頸を切る。
信太三郎先生義教は醍醐の山に籠たる由聞しかば、おし寄てさがせどもなし。伊賀の方へ落ぬと聞えしかば、服部平六を先として伊賀國へ發向す。千度の山寺にありと聞えし間、押寄てからめんとするに袷の小袖に大口ばかり著て金にて打くゝんだる腰の刀にて腹掻切てぞ伏たりける。頸をば服部平六とてけり。やがて持せて京へ上り、北條平六に見せたりければ
「やがて持せて下り、鎌倉殿の見參に入て御恩蒙給へ。」といひければ常陸房服部各頸共持せて鎌倉へ下り見參に入たりければ、「神妙なり。」とて常陸房は笠井へ流さる。「下りはては勸賞蒙らんとこそ思ひつるに、さこそ無らめ、剩流罪に處せらるゝ條存外の次第也。かかるべしと知りたらば、何しか身命を捨けん。」と後悔すれども甲斐ぞなき。されども中二年といふに召返され「大將軍討たる者は冥加のなければ一旦戒めつるぞ。」とて但馬國に多田庄、攝津國に葉室二箇所給はて歸り上る。服部平六平家の祗候の人たりしかば沒官せられたりける服部かへし給はてけり。
さる程に、六代御前はやう/\、十四五にも成給へば、みめ容いよ/\うつくしく、あたりも照り輝くばかりなり。母上是を御覽じて「哀れ世の世にてあらましかば、當時は近衞司にてあらんずるものを。」と、宣ひけるこそ餘りの事なれ。鎌倉殿常は覺束なげにおぼして高雄の聖の許へ便宜毎に、「さても維盛卿の子息、何と候やらむ。昔頼朝を相し給し樣に、朝の怨敵をも滅し會稽の恥をも雪むべき仁にて候か。」と尋ね申されければ、聖の御返事には、「是は底もなき不覺仁にて候ぞ。御心安う思しめし候へ。」と申されけれども、鎌倉殿猶も御心ゆかずげにて「謀反をだに起さば、やがて方人せうずる聖の御房也。但頼朝一期の程は誰か傾くべき、子孫の末ぞ知らぬ。」と宣ひけるこそ怖しけれ、母上是を聞き給ひて、「如何にも叶まじ。
はや/\出家し給へ。」と仰ければ、六代御前十六と申し文治五年の春の比、うつくしげなる髮を肩のまはりに鋏み落し柿の衣袴に笈など拵へ聖に暇乞うて修行に出でられけり。齋藤五、齋藤六も同じ樣に出立て、御供申けり。先づ高野へ參り父の善知識したりける瀧口入道に尋合ひ御出家の次第臨終の有樣、委敷う聞給ひて、且うは其御跡もゆかしとて、熊野へ參給ひけり。濱の宮の御前にて父の渡り給ひける山なりの島を見渡して、渡らまほしくおぼしけれ共、波風向うて叶はねば、力及ばで、詠めやり給ふにも我父は何くに沈み給ひけんと、沖より寄する白波にも、問まほしくぞ思はれける。汀の沙も父の御骨やらんとなつかしうおぼしければ、涙に袖はしをれつゝ鹽くむ海士の衣ならね共、乾く間なくぞ見え給ふ。渚に一夜逗留して念佛申經讀み指の先にて沙に佛の形をかき現して、明ければ貴き僧を請じて父の御爲と供養して、作善の功徳さながら聖靈に廻向して亡者に暇申つゝ泣々都へ上られけり。
小松殿の御子丹後侍從忠房は八島の軍より落て行末も知らずおはせしが、紀伊國の住人湯淺權守宗重を憑んで湯淺の城にぞ籠られける。是を聞いて平家に志思ひける越中次郎兵衞、上總五郎兵衞、惡七兵衞、飛騨四郎兵衞以下の兵共著き奉由聞えしかば、伊賀、伊勢兩國の住人等、我も我もと馳集る。究竟の者共數百騎たてこもたる由聞えしかば、熊野別當、鎌倉殿より仰を蒙て兩三月が間、八箇度寄せて責戰ふ。城の内の兵共命を惜まず、防ぎければ毎度に御方追散され、熊野法師數をつくいて討れにけり。熊野別當、鎌倉殿へ飛脚を奉て當國湯淺の合戰の事兩三ケ月が間に八箇度寄て責戰ふ。されども城の内の兵共命を惜まず、防ぐ間毎
度に味方おひ落されて、敵をしへたぐるに及ばず。近國二三ケ國をも給はて攻め落すべき由申たりければ、鎌倉殿「其條、國の費、人の煩なるべし。楯籠所の凶徒は定めて海山の盗人にてぞあらん。山賊海賊きびしう守護して城の口を固めて守るべし。」とぞ宣ひける。其定にしたりければ、げにも後には人一人もなかりけり。鎌倉殿謀に「小松殿の君達の一人も二人も生殘り給ひたらんをば扶け奉るべし。其故は池の禪尼の使として頼朝を流罪に申宥られしは偏に彼内府の芳恩也。」と宣ひければ、丹後侍從六波羅へ出てなのられけり。軈て關東へ下奉る。鎌倉殿對面して「都へ御上り候へ。片ほとりに思ひ當て參らする事候。」とてすかし上せ奉り追樣に人を上せて勢多の橋の邊にて切てけり。
小松殿の君達六人の外に土佐守宗實とておはしけり。三歳より大炊御門の左大臣經宗卿の養子にて異姓他人になり、武藝の道をば打棄てて文筆をのみ嗜て今年は十八に成り給ふを鎌倉殿より尋はなかりけれども、世に憚て追出されたりければ、先途を失ひ大佛の聖俊乘房のもとにおはして「我は是小松の内府の末の子に土佐守宗實と申者にて候。三歳より大炊御門左大臣經宗養子にして異姓他人になり、武藝のみちをうち捨て、文筆をのみたしなんで生年十八歳に罷成。鎌倉殿より尋らるる事は候はねども、世におそれておひ出されて候。聖の御房御弟子にせさせ給へ。」とて髻推切給ひぬ。「それも猶怖しう思食さば鎌倉へ申て、げにも罪深かるべくは何くへも遣せ。」と宣ひければ、聖最愛思ひ奉て出家せさせ奉り、東大寺の油倉と云所に暫く置奉て關東へ此由申されけり。「何樣にも見參してこそともかうもはからはめ。先
づ下し奉れ。」と宣ひければ、聖力及ばで關東へ下し奉る。此人奈良を立給ひし日よりして飮食の名字を絶て湯水をも喉へいれず、足柄越て關本と云所にて遂に失給ぬ。「如何にも叶まじき道なれば。」とて思切られけるこそ怖ろしけれ。
さる程に建久元年十一月七日鎌倉殿上洛して、同九日正二位大納言に成り給ふ。同十一日大納言の右大將を兼じ給へり。やがて兩職を辭て十二月四日關東へ下向。建久三年三月十三日法皇崩御なりにけり。御歳六十六。瑜珈振鈴の響は其夜を限り、一乘案誦の御聲は其曉に終ぬ。
同六年三月十三日大佛供養有るべしとて二月中に鎌倉殿又御上洛あり。同十二日大佛殿へ參せ給ひたりけるが、梶原を召て「手かいの門の南の方に大衆なん十人を隔てゝ怪しばうだる者の見えつる。召捕て參らせよ。」と宣ひければ、梶原承てやがて召具して參りたり。鬚をば剃て髻をば切らぬ男也。「何者ぞ。」ととひ給へば、「是程運命盡果て候ぬる上はとかう申すに及ばず。是は平家の侍薩摩中務家資と申者にて候。」「それは何と思ひてかくは成りたるぞ。」「もしやとねらひ申候つる也。」「志の程はゆゝしかりけり。」とて供養果てて都へ入せ給ひて、六條河原にて切られにけり。
平家の子孫は去文治元年冬の比一つ子二つ子をのこさず腹の内をあけて見ずと云ばかりに尋取て失ひてき。今は一人もあらじと思ひしに、新中納言の末の子に伊賀大夫知忠とておはしき。平家都を落し時三歳にて棄置かれたりしを乳母の紀伊次郎兵衞爲教養ひ奉てこゝかしこ
に隱れありきけるが、備後國大田といふ所に忍びつゝ居たりけり。やうやう成人し給へば、郡郷の地頭守護恠しみける程に都へ上り法性寺の一の橋なる所に忍んでおはしけり。爰祖父入道相國自然の事のあらん時城廓にもせんとて堀を二重に堀て四方に竹を栽られたり。逆茂木引て晝は人音もせず、夜になれば尋常なる輩多く集て詩作り歌を讀み管絃などして遊びける程に何としてか漏れ聞えたりけん、其比人のおぢ怖れけるは一條の二位入道義泰といふ人也。其侍に後藤兵衞基清が子に新兵衞基綱「一の橋に違勅の者あり。」と聞出して、建久七年十月七日辰の一點に其勢百四五十騎一の橋へ馳せ向ひ、をめき叫んで攻め戰ふ。城の内にも三十餘人有ける者共大肩脱に袒いで竹の陰より差詰引詰さんざんに射れば、馬人多く射殺されて面を向ふべき樣もなし。「さる程に一の橋に違勅の者あり。」と聞傳へ在京の武士共我も我もと馳つどふ。程なく一二千騎に成りしかば、近邊の小家を壞ち寄せ堀を填めをめき叫んで攻入けり。城の内の兵共打物拔で走出で、或は討死する者もあり、或は痛手負て自害する者もあり。伊賀大夫知忠は生年十六歳に成られけるが、痛手負て自害し給ひたるを乳母の紀伊次郎兵衞入道膝の上に舁乘せ、涙をはら/\と流いて高聲に十念唱へつつ腹掻切てぞ死にける。其子の兵衞太郎、兵衞次郎共に討死してんげり。城の内に三十餘人有ける者共大略討死自害して館には火を懸けたりけるを武士共馳入て手々に討ける頸共太刀長刀の先に貫ぬき二位入道殿へ馳參る。一條の大路へ車遣出して頸共實檢せらる。紀伊次郎兵衞入道の頸をば見知たる者も少々在り。伊賀大夫の頸、人爭か見知り奉べき。此人の母上は治部卿局とて八
條女院に候はれけるを迎へ寄せ奉て見せ奉り給ふ。「三歳と申し時、故中納言に具せられて西國へ下りし後は生たり共死たりとも其行へを知らず、但故中納言の思出る所々のあるはさにこそ。」とて被泣けるにこそ伊賀大夫の頸とも人知てげれ。
平家の侍越中次郎兵衞盛嗣は但馬國へ落行て氣比四郎道弘が聟に成てぞ居たりける。道弘越中次郎兵衞とは知らざりけり。されども錐嚢にたまらぬ風情にて夜になれば、しうとが馬引出いて馳引したり。海の底十四五町二十町潜などしければ、地頭守護恠しみける程に何としてか漏聞えたりけん。鎌倉殿御教書を下されけり。「但馬國の住人朝倉太郎大夫高清、平家の侍越中次郎兵衞盛嗣當國に居住の由聞食す。めし進せよ。」と仰下さる。氣比四郎は朝倉の大夫が聟なりければ、呼び寄せて「いかゞして搦めんずる。」と議するに、湯屋にてからむべしとて湯に入れてしたゝかなる者五六人おろし合せてからめんとするに、取つけば投倒され、起上れば蹴倒さる。互に身は濕たり、取もためず。されども衆力に強力叶はぬ事なれば、二三十人はと寄て太刀のみね長刀の柄にて打惱して搦捕、やがて關東へ參せたりければ、御前に引居させて事の子細を召問はる。「如何に汝は同平家の侍と云ながら故親にてあんなるに、何とてしなざりけるぞ。」「其れはあまりに平家の脆く滅て在し候間、若やとねらひ參らせ候つるなり。太刀のみの好をも征矢の尻の鐡好をも鎌倉殿の御爲とこそ拵へ持て候つれども、是程に運命盡果候ぬる上はとかう申におよび候はず。」「志の程はゆゆしかりけり。頼朝を憑まば助けて仕はんはいかに。」と仰ければ、「勇士二主に仕へず。盛嗣程の者に御心許し給ひては
必ず御後悔候べし。只御恩には疾々頸を召され候へ。」と申ければ、「さらば切れ。」とて由井の濱に引出いて切てげり。ほめぬ者こそなかりけれ。
其比の主上は御遊をむねとせさせ給ひて、政道は一向卿の局のまゝなりければ、人の愁歎もやまず。呉王劔客を好んじかば、天下に疵を蒙る者たえず。楚王細腰を愛せしかば、宮中に飢て死する女多かりき。上の好に下は隨ふ間世の危き事を悲んで有心人々は歎きあへり。こゝに文覺本より怖き聖にて、いろふまじき事にいろひけり。二の宮は、御學問怠らせ給はず、正理を先とせさせ給ひしかば、如何にもして、此宮を位に即奉らんとはからひけれども、前右大將頼朝卿のおはせし程は叶はざりけるが、建久十年正月十三日、頼朝卿失せ給ひしかば、やがて謀反を起さんとしける程に忽に洩聞えて、二條猪熊の宿所に官人共つけられ召捕て八十に餘て後隱岐國へぞ流されける。文覺京を出るとて、「是程老の波に望て、今日明日とも知ぬ身を、縱勅勘なりとも都の片邊には置給はで隱岐國まで流さるる及丁冠者こそ安からね。終には文覺が流さるゝ國へ迎へ申さんずるものを。」と、申けるこそ怖しけれ。此君は餘に毬杖の玉を愛せさせ給ひければ文覺かやうに惡口申ける也。されば承久に御謀反起させ給ひて、國こそ多けれ、隱岐國へうつされ給ひけるこそ不思議なれ。彼國にても文覺が亡靈荒て、常は御物語申けるとぞ聞えし。
さる程に六代御前は、三位禪師とて、高雄に行ひすましておはしけるを、「さる人の子也。さる人の弟子なり。首をば剃たりとも、心をばよも剃じ。」とて、鎌倉殿より頻に申されければ、
安判官資兼に仰せて召捕て、關東へぞ下されける。駿河國の住人岡邊權守泰綱に仰せて、田越河にて、切れてけり。十二の歳より三十に餘まで保ちけるは、偏に長谷の觀音の御利生とぞ聞えし。それよりしてこそ平家の子孫は永く絶にけれ。
平家物語卷第十二慶安三年十一月廿九日 佛子有阿書