Title: Koyahijiri
Author: Izumi, Kyoka
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About the original source:
Title: Koyahijiri
Author: Kyoka Izumi
Publisher: Tokyo: Kobunsha, 1947



高野聖

第一

 「參謀本部編纂の地圖を又繰開いて見るでもなからう、と思つたけれども、餘りの道ぢやから、手を觸るさへ暑くるしい、旅の法衣の袖をかゝげて、表紙を附けた折本になつてるのを引張り出した。

 飛騨から信州へ越える深山の間道で、丁度立休らはうといふ一本の樹立も無い、右も左も山ばかりぢや、手を伸ばすと達きさうな峯があると、其の峯へ峯が乘り巓が被さつて、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。

 道と空との間に唯一人我ばかり、凡そ正午と覺しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返つた光線を、深々と頂いた一重の檜笠に凌いで、恁う圖面を見た。」

 旅僧は然ういつて、握拳を兩方枕に乘せ、其で額を支へながら俯向いた。

 道連になつた上人は、名古屋から此の越前敦賀の旅籠屋に來て、今しがた枕に就いた時まで、私が知つてる限り餘り仰向けになつたことのない、詰り傲然として物を見ない質の人物である。

 一體東海道掛川の宿から同じ汽車に乘り組んだと覺えて居る、腰掛の隅に頭を垂れて、死灰の如く控へたから別段目にも留まらなかつた。

 尾張の停車場で他の乘務員は言合はせたやうに、不殘下りたので、函の中には誰上人と私と二人になつた。

 此の汽車は新橋を昨夜九時半に發つて、今夕敦賀に入らうといふ、名古屋では正午だつたから、飯に一折の鮨を買つた。旅僧も私と同じく其の鮨を求めたのであるが、蓋を開けると、ぱらぱらと海苔が懸つた、五目飯の下等なので。

(やあ、人參と干瓢ばかりだ。)と疎 ツかしく絶叫した。私の顏を見て旅僧は耐へ兼ねたものと見える、吃々と笑ひ出した、固より二人ばかりなり、知己にはそれから成つたのだが、聞けば之から越前へ行つて、派は違ふが永平寺に訪ねるものがある、但し敦賀に一泊とのこと。

 若狹へ歸省する私もおなじ處で泊らねばならないのであるから、其處で同行の約束が出來た。

 渠は高野山に籍を置くものだといつた、年配四十五六、柔和な何等の奇も見えぬ、可懷い、おとなしやかな風采で、羅紗の角袖の外套を着て、白のふらんねるの襟卷を占め、土耳古形の帽を冠り、毛糸の手袋を箝め、白足袋に日和下駄で、一見、僧侶よりは世の中の宗匠といふものに、其よりも寧ろ俗歟。

(お泊りは何方ぢやな、)といつて聞かれたから、私は一人旅の旅宿の詰らなさを、染々歎息した、第一盆を持つて女中が坐睡をする、番頭が空世辭をいふ、廊下を歩行くとじろ/\目をつける、何より最も耐へ難いのは晩飯の仕度が濟むと、忽ち灯を行燈に換へて、薄暗い處でお休みなさいと命令されるが、私は夜が更けるまで寢ることが出來ないから、其間の心持といつたならい、殊に此頃の夜は長し、東京を出る時から一晩の泊が氣になつてならない位、差支へがなくば御僧と御一所に。

 快く頷いて、北陸地方を行脚の節はいつでも杖を休める香取屋といふのがある、舊は一軒の旅店であつたが、一人女の評判なのがなくなつてからは看板を外した、けれども昔から懇意な者は斷らず留めて、老人夫婦が内端に世話をして呉れる、宜しくば其へ。其代といひかけて、折を下に置いて、

(御馳走は人參と干瓢ばかりぢや。)

と呵々と笑つた、愼み深さうな打見よりは氣の輕い。




第二

 岐阜では未だ蒼空が見えたけれども、後は名にし負ふ北國空、米原、長濱は薄曇、幽に日が射して、寒さが身に染みると思つたが、柳ケ瀬では雨、汽車の窓が暗くなるに從うて、白いものがちら/\交つて來た。

(雪ですよ。)

(然やうぢやな。) といつたばかりで別に氣にも留めず、仰いで空を見ようともしない、此時に限らず、賤ケ岳が、といつて古戰場を指した時も、琵琶湖の風景を語つた時も、旅僧は唯頷いたばかりである。

 敦賀で悚毛の立つほど煩はしいのは宿引の惡弊で、其日も期したる如く、汽車を下りると、停車場の出口から町端へかけて招きの提灯、印傘の堤を築き、潜拔ける隙もあらなく旅人を取圍んで、手ン手に喧しく己が家號を呼立てる、中にも烈しいのは、素早く手荷物を引手繰つて、へい難有う樣で、を喰はす。頭痛持は血が上るほど耐へ切れないのが、例の下を向いて悠々と小取廻に通拔ける旅僧は、誰も袖を曳かなかつたから、幸ひ其後に踉いて町へ入つて、吻といふ息を吐いた。

 雪は小止なく、今は雨も交らず乾いた輕いのがさら/\と面を打ち、宵ながら門を鎖した敦賀の通はひつそりして一條二條縱横に辻の角は廣々と、白く積つた中を、道の程八町ばかりで、唯ある軒下に辿り着いたのが名指の香取屋。

 床にも座敷にも飾りといつては無いが、柱立の見事な、疊の堅い、爐の大いなる、自在鍵の鯉は鱗が黄金造であるかと思はるゝ艶を持つた、素ばらしい竈を二ツ並べて一斗飯は焚けさうな目覺しい釜の懸つた古家で。

 亭主は法然天窓、木綿の筒袖の中へ兩手の先を窘まして、火鉢の前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁、女房の方は愛嬌のある、一寸世辭の可い婆さん、件の人參と干瓢の話を旅僧が打出すと、莞爾々々笑ひながら、縮緬雜魚と、鰈の干物と、とろゝ昆布の味噌汁とで膳を出した、物の言振取做なんど、如何にも、上人とは別懇の間と見えて、連の私の居心の可さと謂つたらない。

 軈て二階に寢床を慥へてくれた、天井は低いが、梁は丸太で二抱もあらう、屋の棟から斜に渡つて座敷の果の廂の處では天窓に支へさうになつて居る、巖丈な屋造、是なら裏の山から雪頽が來てもびくともせぬ。

 特に炬燵が出來て居たから私は其まゝ嬉しく入つた、寢床は最う一組同一炬燵に敷いてあつたが、旅僧は之には來らず、横に枕を並べて、火の氣のない臥床に寢た。

 寢る時、上人は帶を解かぬ、勿論衣服も脱がぬ、着たまゝ丸くなつて俯向形に腰からすつぽりと入つて、肩に夜具の袖を掛けると手を突いて畏つた、其の樣子は我々と反對で、顏に枕をするのである。

 程なく寂然として寢に着きさうだから、汽車の中でもくれ%\いつたのは此處のこと、私は夜が更けるまで寢ることが出來ない、あはれと思つて最う暫くつきあつて、而して諸國を行脚なすつた内のおもしろい談をといつて打解けて幼らしくねだつた。

 すると上人は頷いて、私は中年から仰向けに枕に着かぬのが癖で、寢るにも此儘ではあるけれども目は未だなか/\冴えて居る、急に寢着かれないのはお前樣と同一であらう、出家のいふことでも、教だの、戒だの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かつしやい、と言つて語り出した。後で聞くと宗門名譽の説教師で、六明寺の宗朝といふ大和尚であつたさうな。




第三

 「今に最う一人此處へ來て寢るさうぢやが、お前樣と同國ぢやの、若狹の者で塗物の旅商人。いや此の男なぞは若いが感心に實體な好い男。

 私が今話の序開をした其の飛騨の山越を遣つた時の、麓の茶屋で一所になつた富山の賣藥といふ奴あ、けたいの惡い、ねぢ/\した厭な壯佼で。

 先づこれから峠に掛らうといふ日の、朝早く、尤も先の泊はものゝ三時位には發つて來たので、凉しい内に六里ばかり、其の茶屋までのしたのぢやが朝晴でぢり/\暑いわ。

 慾張拔いて大急ぎで歩いたから咽が渇いて爲樣があるまい、早速茶を飮うと思うたが、まだ湯が湧いて居らぬといふ。

 何うして其時分ぢやからというて、滅多に人通のない山道、朝顏の咲いてる内に煙が立つ道理もなし。

 床几の前には冷たさうな小流があつたから手桶の水を汲まうとして一寸氣がついた。

 其といふのが、時節柄暑さのため、可恐い惡い病が流行つて、先に通つた辻などといふ村は、から一面に石灰だらけぢやあるまいか。

(もし、姉さん。)といつて茶屋の女に、

(此水はこりや井戸のでござりますか。)と、極りも惡し、もじ/\聞くとの。

(いんね、川のでございます。)といふ、はて面妖なと思つた。

(山したの方には大分流行病がございますが、此水は何から、辻の方から流れて來るのではありませんか。)

(然うでねえ。)と女は何氣なく答へた、先づ嬉しやと思ふと、お聞きなさいよ。

 此處に居て先刻から休んでござつたのが、右の賣藥ぢや。此の又萬金丹の下廻と來た日には、御存じの通り、千筋の單衣に小倉の帶、當節は時計を挾んで居ます、脚絆、股引、之は勿論、草鞋がけ、千草木綿の風呂敷包の角ばつたのを首に結へて、桐油合羽を小さく疊んで此奴を眞田紐で右の包につけるか、小辨慶の木綿の蝙蝠傘を一本、お極だね、一寸見ると、いやどれもこれも克明で分別のありさうな顏をして。

 これが泊に着くと、大形の浴衣に變つて、帶廣解で燒酎をちびり/\遣りながら、旅籠屋の女のふとつた膝へ脛を上げようといふ輩ぢや。

(これや、法界坊。)

なんて、天窓から甞めて居ら。

(異なことをいふやつだが何かね、世の中の女が出來ねえと相場が極つてすつぺら坊主になつても矢張り生命は欲しいのかね、不思議ぢやあねえが、爭はれねえもんだ、姉さん見ねえ、彼で未だ未練のある内が可いぢやあねえか。)といつて顏を見合はせて二人で呵々と笑つたい。

 年紀は若し、お前樣、私は眞赤になつた、手に汲んだ川の水を飮みかねて蕕豫つて居るとね。

 ポンと煙草を拂いて、

(何、遠慮をしねえで浴びるほどやんなせえ、生命が危くならや、藥を遣らあ、其爲に私がついてるんだぜ、喃姉さん。おい、其だつても無錢ぢやあ不可えよ、憚りながら、神方萬金丹、一貼三百だ、欲しくば買ひな、未だ坊主に報捨をするやうな罪は造らねえ、其とも何うだお前いふことを肯くか。)といつて茶屋の女の脊中を叩いた。

 私は 々に遁出した。

 いや、膝だの、女の脊中だのといつて、いけ年を仕つた和向が業體で恐入るが、話が、話ぢやから、其處は宜しく。」




第四

 「私も腹立紛れぢや、無暗と急いで、それからどん/\山の裾を田圃道へ懸る。

 半町ばかり行くと、路が恁う急に高くなつて、上りが一ケ處、横から能く見えた、弓形で宛で土で勅使橋がかゝつてるやうな。上を見ながら、之へ足を蹈懸けた時、以前の賣藥がすた/\遣つて來て追着いたが。

 別に言葉も交はさず、又ものをいつたからというて、返事をする氣は此方にもない。何處までも人を凌いだ仕打な、賣藥は流盻にかけて故とらしう私を通越して、すた/\前へ出て、ぬつと小山のやうな路の突先へ蝙蝠傘を差して立つたが、其まゝ向うへ下りて見えなくなる。

 其後から爪先上り、軈てまた太鼓の胴のやうな路の上へ體が乘つた、其なりに又くだりぢや。

 賣藥は先へ下りたが立停つて頻に四邊を みまはして居る樣子、執念深く何か巧んだかと、快からず續いたが、さてよく見ると仔細があるわい。

 路は此處で二條になつて、一條はこれから直ぐに坂になつて上りも急になり、草も兩方から生茂つたのが、路傍の其の角の處にある、其こそ四抱さうさな、五抱もあらうといふ一本の檜の、背後に畝つて切出したやうな大巖が二ツ三ツ四ツと並んで、上の方へ層なつて其の背後へ通じて居るが、私が見當をつけて、心組んだのは此方ではないので、矢張今まで歩行いて來た其の巾の廣いなだらかな方が正しく本道、あと二里足らず行けば山になつて、其からが峠になる筈。

 唯見ると、何うしたことかさ、今いふ其檜ぢやが、其處らに何もない路を横截つて見果のつかぬ田圃の中空へ虹のやうに突出て居る、見事な。根方の處の土が壞れて大鰻を捏ねたやうな根が幾筋ともなく露はれた、其根から一筋の水が颯と落ちて、地の上へ流れるのが、取つて進まうとする道の眞中に流出してあたりは一面。

 田圃が湖にならぬが不思議で、どう/\と瀬になつて、前途に一叢の藪が見える、其を境にして凡そ二町ばかりの間宛で川ぢや、礫はばら/\、飛石のやうにひよい/\と大跨で傅へさうにずつと見ごたへのあるのが、それでも人の手で並べたに違ひはない。

 尤も衣服を脱いで渡るほどの大事なのではないが、本街道には些と難儀過ぎて、なかなか馬などが歩行かれる譯のものではないので。

 賣藥もこれで迷つたのであらうと思ふ内、切放れよく向を變へて右の坂をすた/\と上りはじめた。見る間に檜の後を潜り拔けると、私が體の上あたりへ出て下を向き、

(おい/\、松本へ出る路は此方だよ、)といつて無造作にまた五六歩。

 岩の頭へ半身を乘出して、

(茫然してると、木精が攫ふぜ、晝間だつて用捨はねえよ。)と嘲るが如く言ひ棄てたが、軈て岩の陰に入つて高い處の草に隱れた。

 暫くすると見上げるほどな邊へ蝙蝠傘の先が出たが、木の枝とすれ/\になつて茂の中に見えなくなつた。

(どツこいしよ。) と暢氣なかけ聲で、其の流の石の上を飛々に傅つて來たのは、呉座の尻當をした、何にもつけない天秤棒を片手で擔いだ百姓ぢや。」




第五

 「前刻の茶店から此處へ來るまで、賣藥の外は誰にも逢はなんだことは申上げるまでもない。

 今別れ際に聲を懸けられたので、先方は道中の商賣人と見たゞけに、まさかと思つても氣迷がするので、今朝も立ちぎはによく見て來た、前にも申す、其の圖面をな、此處でも開けて見ようとして居た處。

(一寸伺ひたう存じますが、)

(これは何でござりまする、)と山國の人などは殊に出家と見ると丁寧にいつてくれる。

(いえ、お伺ひ申しますまでもございませんが、道は矢張これを素直に參るのでございませうな。)

(松本へ行かつしやる? あゝ/\本道ぢや、何ね此間の梅雨に水が出て、とてつもない川さ出來たでがすよ。)

(未だずつと何處までも此水でございませうな。)

(何のお前樣、見たばかりぢや、譯はござりませぬ、水になつたのは向ふの那の藪迄で、後は矢張これと同一道筋で、山までは荷車が並んで通るでがす。藪のあるのは舊大きいお邸の醫者樣の跡でな、此處等はこれでも一ツの村でがした、十三年前の大水の時、から一面に野良になりましたよ。人死もいけえこと。御坊樣歩行きながらお念佛でも唱へて遣つてくれさつしやい。)と問はぬことまで親切に話します。其で能く仔細が解つて確になりはなつたけれども、現に一人蹈迷つた者もある。

(此方の道はこりや何處へ行くので、)といつて賣藥の入つた左手の坂を尋ねて見た。

(はい、これは五十年ばかり前までは人が歩行いた舊道でがす。矢張信州へ出まする、前は一つで七里ばかり總體近うござりますが、いや今時往來の出來るのぢやあござりませぬ。去年もお坊樣、親子連の巡禮が間違へて入つたといふで、はれ大變な、乞食を見たやうな者ぢやというて、人命に代りはねえ、追かけて助けべいと、巡査樣が三人、村の者が十二人、一組になつて之から押登つて、やつと連れて戻つた位でがす。御坊樣も血氣に逸つて近道をしてはなりましねえぞ、草臥れて野宿をしてからが此處を行かつしやるよりは増でござるに。はい、氣を着けて行かつしやれ。)

 此處で百姓に別れて其の川の石の上を行かうとしたが弗と猶豫つたのは賣藥の身の上で。

 まさかに聞いたほどでもあるまいが、其が本當ならば見殺ぢや、何の道私は出家の體、日が暮れるまでに宿へ着いて屋根の下に寢るには及ばぬ、追着いて引戻して遣らう。罷違うて舊道を皆歩行いても怪しうはあるまい、恁ういふ時候ぢや、狼の春でもなく、魑魅魍魎の汐さきでもない、まゝよ、と思うて、見送ると早や親切な百姓の姿も見えぬ。

(可し。)

 思切つて坂道を取つて懸つた、侠氣があつたのではござらぬ、血氣に逸つたでは固よりない、今申したやうではずつと最う悟つたやうぢやが、いやなか/\の臆病者、川の水を飮むのさへ氣が怯けたほど生命が大事で、何故又と謂はつしやるか。

 唯挨拶をしたばかりの男なら、私は實の處、打棄つて置いたに違ひはないが、快からぬ人と思つたから、其まゝに見棄てるのが、故とするやうで、氣が責めてならなんだから、」

と宗朝は矢張俯向けに床に入つたまゝ合掌していつた。

「其では口でいふ念佛にも濟まぬと思うてさ。」




第六

 「さて、聞かつしやい、私はそれから檜の裏を拔けた、岩の下から岩の上へ出た、樹の中を潜つて草深い徑を何處までも、何處までも。

 すると何時の間にか今上つた山は過ぎて又一ツ山が近づいて來た、此邊暫くの間は野が廣々として、前刻通つた本街道より最つと巾の廣い、なだらかな一筋道。

 心持西と、東と、眞中に山を一ツ置いて二條並んだ路のやうな、いかさまこれならば槍を立てても行列が通つたであらう。

 此の廣ツ場でも目の及ぶ限り芥子粒ほどの大さの賣藥の姿も見ないで、時々燒けるやうな空を小さな蟲が飛び歩行いた。

 歩行くには此の方が心細い、あたりがぱツとして居ると便がないよ。勿論飛騨越と銘を打つた日には、七里に一軒十里に五軒といふ相場、其處で粟の飯にありつけば都合も上の方といふことになつて居ります。其を覺悟のことで、足は相應に達者、いや屈せずに進んだ進んだ。すると、段々又山が兩方から逼つて來て、肩に支へさうな狹いことになつた、直ぐに上。

 さあ、之からが名代の天生峠と心得たから、此方も其氣になつて、何しろ暑いので、喘ぎながら先づ草鞋の紐を締直した。

 丁度此の上口の邊に美濃の蓮大寺の本堂の床下まで吹拔けの風穴があるといふことを年經つてから聞きましたが、なか/\其處どころの沙汰ではない、一生懸命、景色も奇蹟もあるものかい、お天氣さへ晴れたか曇つたか譯が解らず、目じろぎもしないですた/\と捏ねて上る。

 とお前樣お聞かせ申す話は、これからぢやが、最初に申す通り路がいかにも惡い、宛然人が通ひさうでない上に、恐しいのは、蛇で。兩方の叢に尾と頭とを突込んで、のたりと橋を渡してゐるではあるまいか。

 私は眞先に出會した時は笠を被つて竹杖を突いたまゝ、はツと息を引いて膝を折つて坐つたて。

 いやもう生得大嫌、嫌といふより恐怖いのでな。

 其時は先づ人助けにずる/\と尾を引いて、向うで鎌首を上げたと思ふと草をさら/\と渡つた。

 漸う起上つて道の五六町も行くと、又同一やうに胴中を乾かして尾も首も見えぬのが、ぬたり!

 あツといふて飛退いたが、其も隱れた。三度目に出會つたのが、いや急には動かず、然も胴體の太さ、譬ひ這出した處でぬら/\と遣られては凡そ五分間位尾を出すまでに間があらうと思ふ長蟲と見えたので、已むことを得ず私は跨ぎ越した、途端に下腹が突張つてぞツと身の毛、毛穴が不殘鱗に變つて、顏の色も其の蛇のやうになつたらうと目を塞いだ位。

 絞るやうな冷汗になる氣味の惡さ、足が窘んだといふて立つて居られる數ではないからびくびくしながら路を急ぐと又しても居たよ。

 然も今度のは半分に引切つてある胴から尾ばかりの蟲ぢや、切口が蒼を帶びて其で恁う黄色な汁が流れてびく/\と動いたわ。

 我を忘れてばら/\とあとへ遁歸つたが、氣が着けば例のが未だ居るであらう、譬ひ殺されるまでも二度とは彼を跨ぐ氣はせぬ。あゝ前刻のお百姓がものゝ間違でも故道には蛇が恁うといつてくれたら、地獄へ落ちても來なかつたに、と照りつけられて、涙が流れた、南無阿彌陀佛、今でも慄然とする。」と額に手を。




第七

 「果が無いから肝を据ゑた、固より引返す分ではない。舊の處には矢張丈足らずの骸がある、遠くへ避けて草の中へ驅け拔けたが、今にもあとの半分が絡ひつきさうで耐らぬから、氣臆がして足が筋張ると石に躓いて轉んだ、其時膝節を痛めましたものと見える。

 それからがく/\して歩行くのが少し難澁になつたけれども、此處で倒れては温氣で蒸殺されるばかりぢやと、我身で我身を激まして首筋を取つて引立てるやうにして峠の方へ。

 何しろ路傍の草いきれが可恐しい、大鳥の卵見たやうなものなんぞ足許にごろ/\して居る茂り鹽梅。

 又二里ばかり大蛇の畝るやうな坂を、山懷に突當つて、岩角を曲つて、木の根を繞つて參つたが此處のことで、餘りの道ぢやつたから、參謀本部の繪圖面を開いて見ました。

 何矢張道は同一で聞いたにも見たのにも變りはない、舊道は此方に相違はないから心遣りにも何にもならず、固より歴とした圖面といふて、描いてある道は唯栗の毬の上へ赤い筋が引張つてあるばかり。

 難儀さも、蛇も、毛蟲も、鳥の卵も、草いきれも、記してある筈はないのぢやから、薩張と疊んで懷に入れて、うむと此の乳の下へ念佛を唱へ込んで立直つたは可いが、息も引かぬ内に情無い長蟲が路を切つた。

 其處でもう所詮叶はぬと思つたなり、これは此の山の靈であらうと考へて、枝を棄てゝ膝を曲げ、じり/\する地に兩手をついて、

(誠に濟みませぬがお通しなすつて下さりまし、成たけお書寢の邪魔になりませぬやうに密と通行いたしまする。

 御覽の通り杖も捨てました。)と我折れ染々と頼んで額を上げると、ざつといふ凄じい音で。

 心持餘程の大蛇と思つた、三尺、四尺、五尺四方、一丈餘、段々と草の動くのが廣がつて、傍の谷へ一文字に颯と靡いた、果は峯も山も一齊に搖いだ、恐毛を震つて立窘むと凉しさが身に染みて、氣が着くと山颪よ。

 此の折から聞えはじめたのは哄といふ山彦に傳はる響、丁度山の奧に風が渦卷いて其處から吹起る穴があいたやうに感じられる。

 何しろ山靈感應あつたか、蛇は見えなくなり暑さも凌ぎよくなつたので、氣も勇み足も捗取つたが、程なく急に風が冷たくなつた理由を會得することが出來た。

 といふのは目の前に大森林があらはれたので。

 世の譬にも天生峠は蒼空に雨が降るといふ、人の話にも神代から杣が手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは餘り樹がなさ過ぎた。

 今度は蛇のかはりに蟹が歩きさうで草鞋が冷えた。暫くすると暗くなつた、杉、松、榎と處々見分けが出來るばかりに遠い處から幽に日の光の射すあたりでは、土の色が皆黒い、中には光線が森を射通す工合であらう、青だの、赤だの、ひだが入つて美しい處があつた。

 時々爪尖に絡まるのは葉の雫の落溜つた糸のやうな流で、これは枝を打つて高い處を走るので。ともすると又常磐木が落葉する、何の樹とも知れずぱら/\と鳴り、かさ/\と音がしてぱつと檜笠にかゝることもある、或は行過ぎた背後へこぼれるのもある、其等は枝から枝に溜つて居て何十年ぶりではじめて地の上まで落ちるのか分らぬ。




第八

 「心細さは申すまでもなかつたが、卑怯な樣でも修行の積まぬ身には、恁う云う暗い處の方が却つて觀念に便が宜い。何しろ體が凌ぎよくなつたゝめに足の弱も忘れたので、道も大きに捗取つて、先づこれで七分は森の中を越したらうと思ふ處で、五六尺天窓の上らしかつた樹の枝から、ぽたりと笠の上へ落ち留まつたものがある。

 鉛の重かとおもふ心持、何か木の實ででもあるかしらんと、二三度振つて見たが附着いて居て其まゝには取れないから、何心なく手をやつて掴むと、滑らかに冷りと來た。

 見ると海鼠を裂いたやうな目も口もない者ぢやが、動物には違ひない、不氣味で投出さうとするとずる/\と辷つて指の先へ吸ついてぶらりと下つた、其の放れた指の尖から眞赤な美しい血が垂々と出たから、吃驚して目の下へ指をつけてぢつと見ると、今折曲げた肱の處へつるりと垂懸つて居るのは同形をした、巾が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠。

 呆氣に取られて見る/\内に、下の方から縮みながら、ぶく/\と太つて行くのは生血をしたたかに吸込む所爲で、濁つた黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもつた、痣胡瓜のやうな血を取る動物、此奴は蛭ぢやよ。

 誰が目にも見違へるわけのものではないが、圖拔て餘り大きいから一寸は氣がつかぬであつた、何の畠でも、甚麼履歴のある沼でも、此位な蛭はあらうとは思はれぬ。

 肱をばさりと振つたけれども、よく喰込んだと見えてなか/\放れさうにしないから、不氣味ながら手で抓んで引切ると、ぷつりといつてやう/\取れる、暫時も耐つたものではない、突然取つて大地へ叩きつけると、これほどの奴等が何萬となく巣をくつて我ものにして居やうといふ處、豫て其の用意はして居ると思はれるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔い、潰れさうにもないのぢや。

 と最早や領のあたりがむず/\して來た、平手で扱で見ると横撫に蛭の背をぬる/\とすべるといふ、やあ、乳の下へ潜んで帶の間にも一疋、蒼くなつてそツと見ると肩の上にも一筋。

 思はず飛上つて總身を震ひながら此の大枝の下を一散にかけぬけて、走りながら先づ心覺えの奴だけは夢中でもぎ取つた。

 何にしても恐しい今の枝には蛭が生つて居るのであらうと、餘の事に思つて振返ると、見返つた樹の何の枝か知らず矢張幾ツといふこともない蛭の皮ぢや。

 これはと思ふ、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充滿。

 私は思はず恐怖の聲を立てゝ叫んだ、すると何と? 此時は目に見えて、上からぽたり/\と眞黒な瘠せた筋の入つた雨が體へ降かゝつて來たではないか。

 草鞋を穿いた足の甲へも落ちた上へ又累り、並んだ傍へ又附着いて、爪先も分らなくなつた、然うして活きてると思ふだけ脈を打つて血を吸ふやうな、思ひなしか一ツ/\伸縮をするやうなのを見るから氣が遠くなつて、其時不思議な考へが起きた。

 此の恐しい山蛭は神代の古から此處に屯をして居て、人の來るのを待ちつけて、永い久しい間に何の位何斛かの血を吸ふと、其處でこの蟲の望が叶ふ、其の時はありつたけの蛭が不殘吸つただけの人間の血を吐出すと、其がために土がとけて、山一ツ一面に血と泥との大沼にかはるであらう、其と同時に此處に日の光を遮つて晝もなほ暗い大木が切々に一ツ一ツ蛭になつて了うのに相違ないと、いや、全くの事で。」




第九

 「凡そ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない、飛騨國の樹林が蛭になるのが最初で、しまひには皆血と泥の中に筋の黒い蟲が泳ぐ、其が代がはりの世界であらうと、ぼんやり。

 なるほど此の森も入口では何の事もなかつたのに、中へ來ると此通り、もつと奧深く進んだら早や不殘立樹の根の方から朽ちて山蛭になつて居やう、助かるまい、此處で取殺される因縁らしい、取留めのない考へが浮んだのも人が知死期に近づいたからだと、弗と氣が着いた。

 何の道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らぬ血と泥の大沼の片端でも見て置かうと、然う覺悟が極つては氣味の惡いも何もあつたものぢやない、體中珠數生になつたのを手當次第に掻い除け、 むしり棄て、拔き取りなどして、手を擧げ足を踏んで、宛で躍り狂ふ形で歩行き出した。

 はじめの内は一廻も太つたやうに思はれて痒さが耐らなかつたが、しまひにはげつそり瘠せたと感じられてづき/\痛んでならぬ、其上を用捨なく歩行く内にも入交りに襲ひをつた。

 既に目も眩んで倒れさうになると、禍は此邊が絶頂であつたと見えて、隧道を拔けたやうに、遙に一輪のかすれた月を拜んだのは、蛭の林の出口なので。

 いや蒼空の下へ出た時には、何のことも忘れて、碎けろ、微塵になれと横なぐりに體を山路へ打倒した。それでからもう砂利でも針でもあれと地へこすりつけて、十餘りも蛭の死骸を引くりかへした上から、五六間向ふへ飛んで身顫をして突立つた。

 人を馬鹿にして居るではありませんか。あたりの山では處々茅蜩殿、血と泥の大沼にならうといふ森を控へて鳴いてゐる、日は斜、谷底はもう暗い。

 先づこれならば狼の餌食になつても其は一思に死なれるからと、路は丁度だら/\下なり、小僧さん、調子はずれに竹の杖を肩にかついで、すたこら遁げたわ。

 これで蛭に惱まされて痛いのか、痒いのか、それとも擽つたいのか得もいはれぬ苦しみさへなかつたら、嬉しさに獨り飛騨山越の間道で、御經に節をつけて外道踊をやつたであらう、一寸清心丹でも噛碎いて疵口へつけたら何うだと、大分世の中の事に氣がついて來たわ。捻つても確に活返つたのぢやが、夫にしても富山の賣藥は何うしたらう、那の樣子では疾に血になつて泥沼に。皮ばかりの死骸は森の中の暗い處、おまけに意地の汚い下司な動物が骨までしやぶらうと何百といふ數でのしかゝつて居た日には、酢をぶちまけても分る氣遣はあるまい。

 恁う思つてゐる間、件のだら/\坂は大分長かつた。

 其を下り切ると流が聞えて、飛だ處に長さ一間ばかりの土橋がかゝつて居る。

 はや其の谷川の音を聞くと我身で持餘す蛭の吸殻を眞逆に投込んで、水に浸したら嘸可心地であらうと思ふ位、何の渡りかけて壞れたら夫なりけり。

 危いとも思はずにずつと懸る、少しぐら/\としたが難なく越した。向ふから又坂ぢや、今度は上りさ、御苦勞千萬。」




第十

 「到底も此の疲れやうでは、坂を上るわけには行くまいと思つたが、ふと前途に、ヒイインと馬の嘶くのが谺して聞えた。

 馬子が戻るのか小荷駄が通るか、今朝一人の百姓に別れてから時の經つたは僅ぢやが、三年も五年も同一ものをいふ人間とは中を隔てた。馬が居るやうでは左も右も人里に縁があると、之がために氣が勇んで、えゝやつと今一揉。

 一軒の山家の前へ來たのには、然まで難儀は感じなかつた、夏のことで戸障子の締もせず、殊に一軒家、あけ開いたなり、門といふてもない、突然破縁になつて男が一人、私はもう何の見境もなく、

(頼みます、頼みます、)といふさへ助を呼ぶやうな調子で、取縋らぬばかりにした。

(御免なさいまし、) といつたがものもいはない、首筋をぐつたりと、耳を肩で塞ぐほど顏を横にしたまゝ小兒らしい、意味のない、然もぽつちりした目で、ぢろ/\と門に立つたものを瞻める、其の瞳を動かすさい、おつくうらしい、氣の拔けた身の持方、裾短かで袖は肱より少い、糊氣のある、ちやん/\を着て、胸のあたりで紐で結へたが、一ツ身のものを着たやうに出ツ腹の太り肉、太鼓を張つたくらゐに、すべ/\とふくれて然も出臍といふ奴、南瓜の蔕ほどな異形な者を、片手でいぢくりながら幽靈の手つきで、片手を宙にぶらり。

 足は忘れたか投出した、腰がなくば暖簾を立てたやうに疊まれさうな、年紀が其で居て二十二三、口をあんぐりやつた上脣で卷込めやう、鼻の低さ、出額。五分刈の伸びたのが前は鷄冠の如くになつて、領脚へ刎ねて耳に被つた、唖か、白痴か、これから蛙にならうとするやうな少年。私は驚いた、此方の生命に別條はないが、先方樣の形相。いや、大別條。

(一寸お願ひ申します。)

 それでも爲方がないから又言葉をかけたが少しも通ぜず、ばたりといふと僅に首の位置をかへて今度は左の肩を枕にした、口の開いてること舊の如し。

 恁う云ふのは、惡くすると突然ふんづかまへて臍を捻りながら返事のかはりに甞めやうも知れぬ。

 私は一足退つたが、いかに深山だといつても是を一人で置くといふ法はあるまい、と足を爪立てゝ少し聲高に、

(何方ぞ、御免なさい。)といつた。

 脊戸と思ふあたりで再び馬の嘶く聲。

(何方。)と納戸の方でいつたのは女ぢやから、南無三寶、此の白い首には鱗が生えて、體は床を這つて尾をずる/\と引いて出ようと、又退つた。

(おゝ、御坊樣。)と立現はれたのは小造の美しい、聲も清しい、ものやさしい。

 私は大息を吐いて、何にもいはず、

(はい。)と頭を下げましたよ。

 婦人は膝をついて坐つたが、前へ伸上るやうにして黄昏にしよんぼり立つた私が姿を透かしてみて、

(何か御用でござんすかい。)

 休めともいはずはじめから宿の常世は留守らしい、人を泊めないと極めたものゝやうに見える。

 いひ後れては却つて出そびれて頼むにも頼まれぬ仕誼にもなることゝ、つか/\と前へ出た。

 丁寧に腰を屈めて、

(私は、山越で信州へ參ります者ですが旅籠のございます處までは未だ何の位ございませう。)」




第十一

 (貴方まだ八里餘でございますよ。)

(其他に別に泊めてくれます家もないのでせうか。)

(其はございません。)といひながら目たゝきもしない清しいで目で私の顏をつく%\見て居た。

(いえもう何でございます、實は此先一町行け、然うすれば上段の室に寢かして一晩扇いで居て其で功徳のためにする家があると承りましても、全くの處一足も歩行けますのではございません、何處の物置でも馬小屋の隅でも宜いのでございますから、後生でございます。)と先刻馬の嘶いたのは此家より外にはないと思つたから言つた。

 婦人は暫く考へて居たが、弗と傍を向いて布の袋を取つて、膝のあたりに置いた桶の中へざらざらと一巾、水を溢すやうにあけて縁をおさへて、手で掬つて俯向いて見たが、

(あゝ、お泊め申しませう、丁度炊いてあげますほどお米もございますから、其に夏のことで、山家は冷えましても夜のものに御不自由もござんすまい。さあ、左も右もあなた、お上り遊ばして。)

 といふと言葉の切れぬ先にどつかりと腰を落した。婦人は衝と身を起して立つて來て、

(御坊樣、それでござんすが一寸お斷り申して置かねばなりません。)

 判然いはれたので私はびく/\もので、

(唯、はい。)

(否、別のことぢやござんせぬが、私は癖として都の話を聞くのが病でございます、口に蓋をしておいでなさいましても無理やりに聞かうといたしますが、あなた忘れても其時聞かして下さいますな、可うござんすかい、私は無理にお尋ね申します、あなたは何うしてもお話しなさいませぬ、其を是非にと申しましても斷つて仰有らないやうに吃と念を入れて置きますよ。)

 と仔細ありげなことをいつた。

 山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人の言葉とは思うたが、保つにむづかしい戒でもなし、私は唯頷くばかり。

(唯、宜しうございます、何事も仰有りつけは背きますまい。)

 婦人は言下に打解けて、

(さあ/\汚うございますが早く此方へ、お寛ぎなさいまし、然うしてお洗足を上げませうかえ。)

(いえ、其には及びませぬ、雜巾をお貸し下さいまし。あゝ、それからもし其のお雜巾次手にづツぷりお絞んなすつて下さると助ります、途中で大變な目に逢ひましたので體を打棄りたいほど氣味が惡うございますので、一ツ背中を拭かうと存じますが、恐入りますな。)

(然う、汗におなりなさいました、嘸ぞまあ、お暑うござんしたでせう、お待ちなさいまし、旅籠へお着き遊ばして湯にお入りなさいますのが、旅するお方には何より御馳走だと申しますね、湯どころか、お茶さへ碌におもてなしもいたされませんが、那の、此の裏の崖を下りますと、綺麗な流がございますから一層其へ行らつしやツてお流しが宜うごぜいませう。)

 聞いただけでも飛でも行きたい。

(えゝ、其は何より結構でございますな。)

(さあ、其では御案内申しませう、どれ、丁度私も米を磨ぎに參ります。)と件の桶を小脇に抱へて、縁側から、藁草履を穿いて出たが、屈んで板縁の下を覗いて、引出したのは一足の古下駄で、かちりと合はして埃を拂いて揃へて呉れた。

(お穿きなさいまし、草鞋は此處にお置きなすつて、)

 私は手をあげて、一禮して、

(恐入ります、これは何うも、)

(お泊め申すとなりましたら、あの、他生の縁とやらでござんす、あなた御遠慮を遊ばしますなよ。)

 先づ恐ろしく調子が可いぢやて。」




第十二

 「(さあ、私に跟いて此方へ、)と件の米磨桶を引抱へて手拭を細い帶に挾んで立つた。

 髮は房りとするのを束ねてな、櫛をはさんで で留めて居る、其の姿の佳さといふてはなかつた。

 私も手早く草鞋を解いたから、早速古下駄を頂戴して、縁から立つ時一寸見ると、それ例の白痴殿ぢや。

 同じく私が方をじろりと見たつけよ、舌不足が饒舌るやうな、愚にもつかぬ聲を出して、

(姉や、こえ、こえ。)といひながら氣だるさうに手を持上げて其の蓬々と生えた天窓を撫でた。

(坊さま、坊さま?)

 すると婦人が、下ぶくれな顏にゑくぼを刻んで、三ツばかりはき/\と續けて頷いた。

 少年はうむといつたが、ぐたりとして又臍をくり/\/\。

 私は餘り氣の毒さに顏も上げられないで密つと盗むやうにして見ると、婦人は何事も別に氣に懸けては居らぬ樣子、其まゝ後へ跟いて出ようとする時、紫陽花の花の蔭からぬいと出た一名の親仁がある。

 背戸から廻つて來たらしい、草鞋を穿いたなりで、胴亂の根附を紐長にぶらりと提げ、啣煙管をしながら並んで立停つた。

(和尚樣おいでなさい。)

 婦人は其方を振向いて、

(をぢ樣何うでござんした。)

(然ればさの、頓馬で間の拔けたといふのは那のことかい。根ツから早や狐でなければ乘せ得さうにもない奴ぢやが、其處はおらが口ぢや、うまく仲人して、二月や三月はお孃樣が御不自由のねえやうに、翌日はものにして澤山と此處へ擔ぎ込んます。)

(お頼み申しますよ。)

(承知、承知、おゝ、孃樣何處さ行かつしやる。)

(崖の水まで一寸。)

(若い坊樣連れて川へ落つこちさつさるな。おら此處に頑張つて待つ居るに。)と横樣に縁にのさり。

(貴僧、あんなことを申しますよ。)と顏を見て微笑んだ。

(一人で參りませう、)と傍へ退くと、親仁は吃々と笑つて、

(はゝゝゝ、さあ、早くいつてござらつせえ。)

(をぢ樣、今日はお前、珍らしいお客がお二人ござんした、恁う云ふ時はあとから又見えやうも知れません、次郎さんばかりでは來た者が弱んなさらう、私が歸るまで其處に休んで居ておくれでないか。)

(可いともの。)といひかけて、親仁は少年の傍へにじり寄つて、鐵挺を見たやうな拳で、背中をどんとくらはした、白痴の腹はだぶりとして、べそをかくやうな口つきで、にやりと笑ふ。

 私は慄氣として面を背けたが婦人は何氣ない體であつた。

 親仁は大口を開いて、

(留守におらがこの亭主を盗むぞよ。)

(はい、ならば手柄でござんす。さあ、貴僧參りませうか。)

 背後から親仁が見るやうに思つたが、導かるゝまゝに壁について、彼の紫陽花のある方ではない。

 軈て脊戸と思ふ處で左に馬小屋を見た、こと/\といふ音は羽目を蹴るのであらう、もう其邊から薄暗くなつて來る。

(貴僧、こゝから下りるのでございます、辷りはいたしませぬが、道が酷うございますからお靜に。)といふ。」




第十三

 「其處から下りるのだと思はれる、松の木の細くツて度外れに脊の高い、ひよろ/\した凡そ五六間上までは小枝一ツもないのがある。其中を潜つたが、仰ぐと梢に出て白い、月の形は此處でも別にかはりはなかつた、浮世は何處にあるか十三夜で。

 先へ立つた婦人の姿が目さきを放れたから、松の幹に掴まつて覗くと、つい下に居た。

 仰向いて、

(急に低くなりますから氣をつけて。こりや貴僧には足駄では無理でございましたか不知、宜しくば草履とお取交へ申しませう。)

 立後れたのを歩行惱んだと察した樣子、何が扨轉げ落ちても早く行つて蛭の垢を落したさ。

(何、いけませんければ跣足になります分のこと、何卒お構ひなく、孃樣に御心配をかけては濟みません。)

(あれ、孃樣ですつて、)と稍々調子を高めて、艶麗に笑つた。

(唯、唯今あの爺樣が、然やう申しましたやうに存じますが、夫人でございますか。)

(何にしても貴僧には叔母さん位な年紀ですよ。まあ、お早くいらつしやい、草履も可うござんすけれど、刺がさゝりますと不可ません、それにじく/\濡れて居てお氣味が惡うございませうから。)と向ふ向きでいひながら衣服の片褄をぐいとあげた。眞白なのが暗まぎれ、歩行くと霜が消えて行くやうな。

 ずん/\ずん/\と道を下りる、傍らの叢から、のさ/\と出たのは蟇で。

(あれ、氣味が惡いよ。)といふと婦人は背後へ高々と踵を上げて向ふへ飛んだ。

(お客樣が被在しやるではないかね、人の足になんか搦まつて。贅澤ぢやあないか、お前達は蟲を吸つて居れば澤山だよ。

 貴僧ずん/\入らつしやいましな、何うもしはしません。恁う云ふ處ですからあんなものまで人懷うございます、厭ぢやないかね、お前達と友達を見たやうで可愧い、あれ可けませんよ。)

 蟇はのさ/\と又草を分けて入つた、婦人はむかふへずいと。

(さあ此の上へ乘るんです、土が柔かで壞へますから地面は歩行かれません。)

 いかにも大木の僵れたのが草がくれに其の幹をあらはして居る、乘ると足駄穿で差支へがない、丸木だけれども可恐しく太いので、尤もこれを渡り果てると忽ち流の音が耳に激した、それまでには餘程の間。

 仰いで見ると松の樹はもう影も見えない、十三夜の月はずつと低うなつたが、今下りた山の頂に半ばかゝつて、手が屆きさうにあざやかだけれども、高さは凡そ計り知られぬ。

(貴僧、此方へ。)

 といつた婦人はもう一息、目の下に立つて待つて居た。

 其處は早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかゝつて此處によどみを造つて居る、川巾は一間ばかり、水に望めば音は然までにもないが、美しさは玉を解いて流したやう、却つて遠くの方で凄じく岩に碎ける響がする。

 向ふ岸は又一座の山の裾で、頂の方は眞暗だが、山の端から其山腹を射る月の光に照らし出された邊からは、大石小石、榮螺のやうなの、六尺角に切出したの、劍のやうなのやら、鞠の形をしたのやら、目の屆く限り不殘岩で、次第に大きく水に浸つたのは唯小山のやう。 [1]

[1] Koyahijiri, Mayukakushi no rei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1936; hereafter cited as Iwanami's Koyahijiri) has 」 at this point.




第十四

 「(可鹽梅に今日は水がふえて居りますから、中へ入りませんでも此上で可うございます。)

と甲を浸して爪先を屈めながら、雪のやうな素足で石の盤の上に立つて居た。

 自分達が立つた側は、却つて此方の山の裾が水に迫つて、丁度切穴の形になつて、其處へ此の石を篏めたやうな誂。川上も、下流も見えぬが、向ふの彼の岩山、九十折のやうな形、流は五尺、三尺、一間ばかりづつ上流の方が段々遠く、飛々に岩をかゞつたやうに隱見して、いづれも月光を浴びた、銀の鎧の姿、目のあたり近いのはゆるぎ糸を捌くが如く眞白に飜つた。

(結構な流れでございますな。)

(はい、此の水は源が瀧でございます、此山を旅するお方は皆な大風のやうな音を何處かで聞きます、貴僧は此方へ被入つしやる道でお心着きはなさいませんかい。)

 然ればこそ山蛭の大藪は入らうといふ少し前から其の音を。

(彼は林へ風の當るのではございませんので?)

(否、誰でも然う申します、那の森から三里ばかり傍道へ入りました處に大瀧があるのでございます、其は/\日本一ださうですが、路が嶮しうござんすので、十人に一人參つたものはございません。其の瀧が荒れましたと申しまして、丁度今から十三年前、可恐しい洪水がございました、恁麼高い處まで川の底になりましてね、麓の村も山の家も不殘流れて了ひました。此の上の洞も、はじめは二十軒ばかりあつたのでござんす、此の流れも其時から出來ました、御覽なさいましな、此通り皆な石が流れたのでございますよ。)

 婦人は何時かもう米を精げ果てゝ、衣紋の亂れた、乳の端もほの見ゆる、膨らかな胸を反らして立つた。鼻高く口を結んで目を恍惚と上を向いて頂を仰いだが、月なほ半腹の其の累々たる巖を照らすばかり。

(今でも恁うやつて見ますと恐いやうでございます。)と屈んで二の腕の處を洗つて居ると、

(あれ、貴僧、那樣行儀の可いことをして被在しつてはお召が濡れます、氣味が惡うございますよ、すつぱり裸體になつてお洗ひなさいまし、私が流して上げませう。)

(否、)

(否ぢやあござんせぬ、それ、それ、お法衣の袖が浸るではありませんか、)といふと突然背後から帶に手をかけて、身悶をして縮むのを、邪慳らしくすつぱり脱いで取つた。

 私は師匠が嚴しかつたし、經を讀む身體ぢや、肌さへ脱いだことはつひぞ覺えぬ。然も婦人の前、蝸牛が城を明け渡したやうで、口を利くさへ、況して手足のあがきも出來ず、背中を丸くして、膝を合はせて、縮かまると、婦人は脱がした法衣を傍らの枝へふはりとかけた。

(お召は恁うやつて置きませう、さあお背を、あれさ、じつとして。お孃樣と仰有つて下さいましたお禮に、叔母さんが世話を燒くのでござんす、お人の惡い。)といつて片袖を前齒で引上げ、玉のやうな二の腕をあからさまに背中に乘せたが、熟と見て、

(まあ。)

(何うかいたしてをりますか。)

(痣のやうになつて、一面に。)

(えゝ、それでございます、酷い目に逢ひました。)

 思ひ出しても慄然とするて。」




第十五

 「婦人は驚いた顏をして、

(それでは森の中で、大變でございますこと。旅をする人が、飛騨の山では蛭が降るといふのは彼處でござんす。貴僧は拔道を御存じないから正面に蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。お生命も冥加な位、馬でも牛でも吸ひ殺すのでございますもの。然し疼くやうにお痒いのでござんせうね。)

(唯今では最う痛みますばかりになりました。)

(それでは恁麼ものでこすりましては柔かいお肌が擦剥けませう。)といふと手が綿のやうに障つた。

 それから兩方の肩から、背、横腹、臀、さら/\水をかけてはさすつてくれる。

 それがさ、骨に通つて冷たいかといふと然うではなかつた。暑い時分ぢやが、理窟をいふと恁うではあるまい、私の血が湧いたせゐか、婦人の温氣が、手で洗つてくれる水が可工合に身に染みる、尤も質の佳い水は柔かぢやさうな。

 其の心地の得もいはれなさで、眠氣がさしたでもあるまいが、うと/\する樣子で、疵の痛みがなくなつて氣が遠くなつて、ひたと附ついて居る婦人の身體で、私は花びらの中に包まれたやうな工合。

 山家の者には肖合はぬ、都にも希な器量はいふに及ばぬが弱々しさうな風采ぢや、背を流す内にもはツ/\と内證で呼吸がはずむから、最う斷らう/\と思ひながら、例の恍惚で、氣はつきながら洗はした。

 其上、山の氣か、女の香か、ほんのりと佳い薫がする、私は背後でつく息ぢやらうと思つた。」

 上人は一寸句切つて、

「いや、お前樣お手近ぢや、其の明を掻き立つて貰ひたい、暗いと怪しからぬ話ぢや、此處等から一番野面で遣つけよう。」

 枕を並べた上人の姿も朧げに明は暗くなつて居た、早速燈心を明くすると、上人は微笑みながら續けたのである。

「さあ、然うやつて何時の間にやら現とも無しに、恁う、其の不思議な、結構な薫のする、暖い花の中へ柔かに包まれて、足、腰、手、肩、頸から次第に、天窓まで一面に被つたから吃驚、石に尻餠を搗いて、足を水の中に投げ出したから落ちたと思ふ途端に、女の手が背後から肩越しに胸をおさへたので確りつかまつた。

(貴僧、お傍に居て汗臭うはござんせぬかい、飛だ暑がりなんでございますから、恁うやつて居りましても恁麼でございますよ。)といふ胸にある手を取つたのを、慌てゝ放して棒のやうに立つた。

(失禮、)

(いゝえ誰も見て居りはしませんよ。)と澄まして言ふ、婦人も何時の間にか衣服を脱いで全身を練絹のやうに露はして居たのぢや。

 何と驚くまいことか。

(恁麼に太つて居りますから、最うお可愧しいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も來ては恁うやつて汗を流します、此の水がございませんかつたら何ういたしませう、貴僧、お手拭。)といつて絞つたのを寄越した。

(其でおみ足をお拭きなさいまし。)

 何時の間にか、體はちやんと拭いてあつた、お話し申すも恐多いが、はゝはゝはゝ。」




第十六

 「なるほど見た處、衣服を着た時の姿とは違うて肉つきの豐な、ふつくりとした膚。

(前刻小屋へ入つて世話をしましたので、ぬら/\した馬の鼻息が體中へかゝつて氣味が惡うござんす。丁度可うございますから私も體を拭きませう。)

 と姉弟が内端話をするやうな調子。手をあげて黒髮をおさへながら腋の下を手拭でぐいと拭き、あとを兩手で絞りながら立つた姿、唯これ雪のやうなのを恁る靈水で清めた、恁う云ふ女の汗は薄紅になつて流れやう。

 一寸々々と櫛を入れて、

(まあ、女がこんなお轉婆をいたしまして、川へ落こちたら何うしませう、川下へ流れて出ましたら、村里の者が何といつて見ませうね。)

(白桃の花だと思ひます。)と弗と心着いて何の氣もなしにいふと、顏が合うた。

 すると、然も嬉しさうに莞爾して其時だけは初々しう年紀も七ツ八ツ若やぐばかり、處女の羞を含んで下を向いた。

 私は其まゝ目を外らしたが、其の一段の婦人の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向ふ岸の しぶきに濡れて黒い、滑かな大きな石へ蒼味を帶びて透通つて映るやうに見えた。

 するとね、夜目で判然とは目に入らなんだが地體何でも洞穴があると見える。ひら/\と、此方からもひら/\と、ものの鳥ほどはあらうといふ大蝙蝠が目を遮つた。

(あれ、不可いよ、お客樣があるぢやないかね。)

 不意を打たれたやうに叫んで身悶えをしたのは婦人。

(何うかなさいましたか。)最うちやんと法衣を着たから氣丈夫に尋ねる。

(否、)

 といつたばかりで極が惡さうに、くるりと後向になつた。

 其時小犬ほどな鼠色の小坊主が、ちよこ/\とやつて來て、婀呀と思ふと、崖から横に宙をひよいと、背後から婦人の背中へぴつたり。

 裸體の立姿は腰から消えたやうになつて、抱きついたものがある。

(畜生、お客樣が見えないかい。)

 と聲に怒を帶びたが、

(お前達は生意氣だよ。)と激しくいひさま、腋の下から覗かうとした件の動物の天窓を振返りさまにくらはしたで。

 キツゝゝといふて奇聲を放つた、件の小坊主は其まゝ後飛びに又宙を飛んで、今まで法衣をかけて置いた、枝の尖へ長い手で釣し下つたと思ふと、くるりと釣瓶覆に上へ乘つて、其なりさらさらと木登をしたのは、何と猿ぢやあるまいか。

 枝から枝を傳ふと見えて、見上げるやうに高い木の、軈て梢まで、かさ/\がさり。

 まばらに葉の中を透かして月は山の端を放れた、其の梢のあたり。

 婦人はものに拗ねたやう、今の惡戯、いや、毎々、蟇と蝙蝠と、お猿で三度ぢや。

 其の惡戯に多く機嫌を損ねた形、あまり子供がはしやぎ過ぎると、若い母樣には得てある圖ぢや。

 本當に怒り出す。

 といつた風情で面倒臭さうに衣服を着て居たから、私は何も問はずに小さくなつて默つて控へた。」




第十七

 「優しいなかに強みのある、氣輕に見えても何處にか落着のある、馴々しくて犯し易からぬ品の可い、如何なることにもいざとなれば驚くに足らぬといふ身に應のあるといつたやうな風の婦人、恁く嬌瞋を發しては屹度可いことはあるまい、今此の婦人に邪慳にされては木から落ちた猿同然ぢやと、おつかなびつくりで、おづ/\控へて居たが、いや案ずるより産が易い。

(貴僧、嘸をかしかつたでござんせうね、)と自分でも思ひ出したやうに快く微笑みながら、

(爲やうがないのでございますよ。)

 以前と變らず心安くなつた、帶も早や締めたので、

(其では家へ歸りませう。)と米磨桶を小脇にして、草履を引かけて衝と崖へ上つた。

(お危うござんすから。)

(否、もう大分勝手が分つて居ります。)

 づツと心得た意ぢやつたが、扨上る時見ると思ひの外上までは大層高い。

 軈て又例の木の丸太を渡るのぢやが、前刻もいつた通り草のなかに横倒れになつて居る木地が恁う丁度鱗のやうで、譬にも能くいふが松の木は、蝮に似て居るで。

 殊に崖を、上の方へ、可い鹽梅に畝つた樣子が、飛んだものに持つて來いなり、凡そ此の位な胴中の長蟲がと思ふと、頭と尾を草に隱して、月あかりに歴然とそれ。

 山路の時を思ひ出すと我ながら足が穿む。

 婦人は親切に後を氣遣うては氣を着けてくれる。

(其をお渡りなさいます時、下を見てはなりません、丁度中途で餘程谷が深いのでございますから、目が廻ふと惡うござんす。)

(はい。)

 愚圖々々しては居られぬから、我身を笑ひつけて、先づ乘つた、引かゝるやう、刻が入れてあるのぢやから、氣さい確なら足駄でも歩行かれる。

 其がさ、一件ぢやから耐らぬて、乘ると恁うぐら/\して柔かにずる/\と這ひさうぢやから、わつといふと、引跨いで腰をどさり。

(あゝ、意氣地はございませんねえ。足駄では無理でございませう、是とお穿き換へなさいまし、あれさ、ちやんといふことを肯くんですよ。)

 私はその前刻から何となく此婦人に畏敬の念が生じて、善か惡か、何の道命令されるやうに心得たから、いはるゝまゝに草履を穿いた。

 するとお聞きなさい、婦人は足駄を穿きながら手を取つてくれます。

 忽ち身が輕くなつたやうに覺えて、譯なく後に從つて、ひよいと那の孤家の背戸の端へでた。

 出會頭に聲を懸けたものがある。

(やあ、大分手間が取れると思つたに、御坊樣舊の體で歸らつしやつたの。)

(何をいふんだね、小父樣家の番は何うおしだ。)

(もう可い時分ぢや、又私も餘り遲うなつては道が困るで、そろ/\青を引出して仕度して置かうと思うてよ。)

(其はお待遠でござんした。)

(何さ、行つて見さつしやい御亭主は無事ぢや、いやなか/\私が手には口説落されなんだ、ははゝゝゝ。)と意味もないことを大笑して、親仁は厩の方へてく/\と行つた。

 白痴はおなじ處に猶形を存して居る、海月も日にあたらねば解けぬと見える。




第十八

 「ヒイイン! 叱どう/\どうと背戸を廻る蹄の音が縁へ響いて親仁は一頭の馬を門前へ引き出した、轡頭を取つて立ちはだかり、

(孃樣そんなら此儘で私參りやする、はい、御坊樣に澤山御馳走して上げなされ。)

 婦人は爐縁に行燈を引附け、俯向いて鍋の下を焚して居たが、振仰ぎ、鐵の火箸を持つた手を膝に置いて、

(御苦勞でござんす。)

(いんえ御懇には及びましねえ。叱!)と荒繩の綱を引く。青で蘆毛、裸馬で逞しいが、鬣の薄い牡ぢやわい。

 其馬がさ、私も別に馬は珍らしうもないが、白痴殿の背後に畏つて手持不沙汰ぢやから今引いて行かうとする時縁側へひらりと出て、

(其馬は何處へ。)

(おゝ、諏訪の湖の邊まで馬市へ出しやすのぢや、これから明朝御坊樣が歩行かつしやる山路を越えて行きやす。)

(もし、其へ乘つて今からお遁げ遊ばすお意ではないかい。)

 婦人は慌だしく遮つて聲を懸けた。

(いえ、勿體ない、修行の身が馬で足休めをしませうなぞとは存じませぬ。)

(何でも人間を乘つけられさうな馬ぢやあござらぬ。御坊樣は命拾ひをなされたのぢやで、大人しうして孃樣の袖の中で、今夜は助けて貰はつしやい。然樣ならちよつくら行つて參りますよ。)

(あい。)

(畜生。)といつたが馬は出ないわ、びく/\と蠢いて見える大きな鼻面を此方へ捻ぢ向けて頻に私等が居る方を見る樣子。

(どう/\どう、畜生これあだけに獸ぢや、やい!)

 右左にして綱を引張つたが、脚から根をつけた如くに、ぬつくと立つて居てびくともせぬ。

 親仁大いに苛立つて、叩いたり、打つたり、馬の胴體について二三度ぐる/\と廻はつたが少しも歩かぬ。肩でぶツつかるやうにして横腹へ體をあてた時、漸う前足を上げたばかり又四脚を突張り拔く。

(孃樣々々。)

 と親仁が喚くと、婦人は一寸立つて白い爪さきをちよろ/\と眞黒に煤けた太い柱を楯に取つて、馬の目の屆かぬほどに小隱れた。

 其内腰に挾んだ、煮染めたやうな、なへ/\の手拭を拔いて克明に刻んだ額の皺の汗を拭いて、親仁は之で可しといふ氣組、再び前へ廻つたが、舊に依つて貧乏動もしないので、綱に兩手をかけて足を揃へて反返るやうにして、うむと總身の力を入れた。途端に何うぢやい。

 凄じく嘶いて前足を兩方中空へ飜したから、小さな親仁は仰向けに引くりかへつた、づどんどう、月夜に砂煙が ぱつと立つ。

 白痴にも之は可笑しかつたらう、此時ばかりぢや、眞直に首を据ゑて厚い脣をぱくりと開けた、大粒な齒を露出して、那の宙へ下げて居る手を風で煽るやうに、はらり/\。

(世話が燒けることねえ。)

 婦人は投げるやうにいつて草履を突かけて土間へついと出る。

(孃樣勘違ひさつしやるな、これはお前樣ではないぞ、何でもはじめから其處な御坊樣に目をつけたつけよ、畜生俗縁があるだツぺいわさ。)

 俗縁は驚いたい。

 すると婦人が、

(貴僧、こゝへ入らつしやる路で誰にかお逢ひなさりはしませんか。)




第十九

 (はい、辻の手前で富山の反魂丹賣に逢ひましたが、一足前に矢張此路へ入りました。)

(あゝ、然う。)と會心の笑を洩らして婦人は蘆毛の方を見た、凡そ耐らなく可笑しいといつた仂ない風采で。

 極めて與し易う見えたので、

(もしや此家へ參りませなんだでございませうか。)

(否、存じません。)といふ時忽ち犯すべからざる者になつたから、私は口をつぐむと、婦人は、匙を投げて衣の塵を拂うて居る馬の前足の下に小さな親仁を見向いて、

(爲樣がないねえ。)といひながら、かなぐるやうにして、其の細帶を解きかけた、片端が土へ引かうとするのを、掻取つて一寸猶豫ふ。

(あゝ、あゝ。)と濁つた聲を出して白痴が件のひよろりとした手を差向けたので、婦人は解いたのを渡して遣ると、風呂敷を寛げたやうな他愛のない、力のない、膝の上へわがねて寶物を守護するやうぢや。

 婦人は衣紋を抱き合はせ、乳のしたでおさへながら靜かに土間を出て馬の傍へつゝと寄つた。

 私は唯呆氣に取られて見て居ると、爪立をして伸び上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度鬣を撫でたが。

 大きな鼻頭の正面にすつくりと立つた。丈もすら/\と急に高くなつたやうに見えた、婦人は目を据ゑ、口を結び、眉を開いて恍惚となつた有樣、愛嬌も嬌態も、世話らしい打解けた風な頓に失せて、神か、魔かと思はれる。

 其時裏の山、向ふの峯、左右前後にすく/\とあるのが、一ツ/\嘴を向け、頭を擡げて、此の一落の別天地、親仁を下手に控へ、馬に面して彳んだ月下の美女の姿を差覗くが如く、陰々として深山の氣が籠つて來た。

 生ぬるい風のやうな氣勢がすると思ふと、左の肩から片を脱いだが、右の手を脱して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着て居た其の單衣を丸げて持ち、霞も絡はぬ姿になつた。

 馬は脊、腹の皮を弛めて汗もしとゞに流れんばかり、突張つた脚もなよ/\として、身震をしたが、鼻面を、地につけて、一掴の白泡を吹出したと思ふと前足を折らうとする。

 其時、頤の下へ手をかけて、片手で持つて居た單衣をふはりと投げて [2]馬の目を蔽ふが否や、

 兎は躍つて、仰向けざまに身を飜し、妖氣を籠めて朦朧とした月あかりに、前足の間に膚が挾つた思ふと、衣を脱して掻取りながら下腹を衝と潜つて横に拔けて出た。

 親仁は差心得たものと見える、此の機かけに手網を引いたから、馬はすた/\と健脚を山路に上げた、しやん、しやん、しやん、しやんしやん、しやんしやん、――見る間に限界を遠ざかる。

 婦人は早や衣服を引かけて縁側へ入つて來て、突然帶を取らうとすると、白痴は惜しさうに押へて放さず、手を上げて、婦人の胸を [3]壓へやうとした。

 邪慳に拂ひ退けて、屹と [4]睨むで見せると、其まゝがつくりと頭を垂れた、總ての光景は行燈の火も幽かに幻のやうに見えたが、爐にくべた紫がひら/\と炎先を立てたので、婦人は衝と走つて入る。空の月のうらを行くと思ふあたり遙に馬子唄が聞えたて。」

[2] Iwanami's Koyahijiri reads 馬の目を蔽ふが否や、兎は躍つて、仰向けざまに.

[3] Iwanami's Koyahijiri reads 壓へようとした。.

[4] Iwanami's Koyahijiri reads 睨んで見せると.




第二十

 「さて、其から御飯の時ぢや、膳には山家の香の物、生姜の漬けたのと、わかめを茹でたの、鹽漬の名も知らぬ蕈の味噌汁、いやなか/\人參と干瓢どころではござらぬ。

 品物は侘しいが、なか/\の御手料理、餓ゑては居るし、冥加至極なお給仕、盆を膝に構へて其上に肱をついて、頬を支へながら、嬉しさうに見て居たわ。

 縁側に居た白痴は誰も取合はぬ徒然に堪へられなくなつたものか、ぐた/\と膝行出して、婦人の傍へ其の便々たる腹を持つて來たが、崩れたやうに胡坐して、頻に恁う我が膳を視めて、指をした。

(うゝ/\うゝ/\。)

(何でございますね、あとでお食んなさい、お客樣ぢやあありませんか。)

 白痴は情ない顏をして口を曲めながら頭を掉つた。

(厭? 仕樣がありませんね、それぢや御一緒に召しあがれ。貴僧、御免を蒙りますよ。)

 私は思はず箸を置いて、

(さあ何うぞお構ひなく、飛んだ御雜作を頂きます。)

(否、何の貴僧。お前さん後程に私と一緒にお食べなされば可いのに。困つた人でございますよ。)とそらさぬ愛想、手早く同一やうな膳を拵へてならべて出した。

 飯のつけやうも効々しい女房ぶり、然も何となく奧床しい、上品な、高家の風がある。

 白痴はどんよりした目をあげて膳の上を睨めて居たが、

(彼を、あゝ、彼、彼。)といつてきょろ/\と四邊を みまはす。

 婦人は熟と瞻つて、

(まあ、可いぢやないか。そんなものは何時でも食られます、今夜はお客樣がありますよ。)

(うむ、いや、いや。)と肩腹を搖つたが、べそを掻いて泣出しさう。

 婦人は困じ果てたらしい、傍のものの氣の毒さ。

(孃樣、何か存じませんが、おつしやる通りになすつたが可いではござりませんか。私に氣扱は却つて心苦しうござります。)と慇懃にいうた。

 婦人は又た最う一度、

(厭かい、これでは惡いのかい。)

 白痴が泣出しさうにすると、然も怨めしげに流盻に見ながら、こはれ%\になつた戸棚の中から、鉢に入つたのを取り出して、手早く白痴の膳につけた。

(はい。)と故とらしく、すねたやうにいつて笑顏造。

 はてさて迷惑な、こりや目の前で黄色蛇の旨煮か、腹籠の猿の蒸燒か、災難が輕うても赤蛙の干物を大口にしやぶるであらうと、潜と見て居ると、片手に椀を持ちながら掴出したのは老澤庵。

 其もさ、刻んだのではないて、一本三ツ切にしたらうといふ握太なのを横啣へにしてやらかすのぢや。

 婦人はよく/\あしらひかねたか、盗むやうに私を見て颯と顏を赤らめて初心らしい、然樣な質ではあるまいに、羞かしげに膝なる手拭の端を口にあてた。

 なるほど此の少年はこれであらう、身體は澤庵色にふとつて居る。やがてわけもなく餌食を平らげて湯ともいはず、ふツ/\と大儀さうに呼吸を向ふへ吐くわさ。

(何でございますか、私は胸に支へましたやうで、些少も欲しくございませんから、又後程に頂きませう。)

 と婦人自身は箸も取らずに二ツの膳を片つけてな。」




第二十一

 「頃刻悄乎して居たつけ。

(貴僧、嘸お疲勞、直ぐにお休ませ申しませうか。)

(有難う存じます、未だ些とも眠くはござりません、前刻體を洗ひましたので草臥もすつかり復りました。)

(那の流れは甚麼病にでもよく利きます、私が苦勞をいたしまして骨と皮ばかりに體が朽れましても、半日彼處につかつて居りますと、水々しくなるのでございますよ。尤も那のこれから冬になりまして山が宛然氷つて了ひ、川も崖も不殘雪になりましても、貴僧が行水を遊ばした彼處ばかりは水が隱れません、然うしていきりが立ちます。

 鐵砲疵のございます猿だの、貴僧、足を折つた五位鷺、種々な者が浴みに參りますから其の足痕で崖の路が出來ます位、屹と其が利いたのでございませう。

 那樣にございませんければ恁うやつてお話をなすつて下さいまし、淋しくつてなりません、本當にお可愧しうございますが、恁麼山の中に引籠つてをりますと、ものをいふことも忘れましたやうで、心細いのでございますよ。

 貴僧、それでもお眠ければ御遠慮なさいますなえ。別にお寢室と申してもございませんが其換り蚊は一ツも居ませんよ、町方ではね、上の洞の者は、里へ泊りに來た時蚊帳を釣つて寢かさうとすると、何うして入るのか解らないので、階子を貸せいと喚いたと申して嬲るのでございます。

 澤山朝寢を遊ばしても鐘は聞えず、鷄も鳴きません、犬だつて居りませんからお心安うござんせう。

 此人も生れ落ちると此山で育つたので、何にも存じません代り、氣の可い人で些ともお心置はないのでござんす。

 それでも風俗のかはつた方が被入しやいますと、大事にしてお辭儀をすることだけは知つてでございますが、未だ御挨拶をいたしませんね。此頃は體がだるいと見えてお惰けさんになんなすつたよ。否、宛で愚なのではございません、何でもちやんと心得て居ります。

 さあ、御坊樣に御挨拶をなすつて下さい。まあ、お辭儀をお忘れかい。)と親しげに身を寄せて、顏を差し覗いて、いそ/\していふと、白痴はふら/\と兩手をついて、ぜんまいが切れたやうにがつくり一禮。

(はい、)といつて私も何か胸が迫つて頭を下げた。

 其まゝ其の俯向いた拍子に筋が拔けたらしい、横に流れやうとするのを、婦人は優しう扶け起して、

(おゝ、よく爲たのねえ、)

 天睛といひたさうな顏色で。

(貴僧、申せば何でも出來ませうと思ひますけれども、此人の病ばかりはお醫者の手でも那の水でも復りませなんだ、兩足が立ちませんのでございますから、何を覺えさしましても役には立ちません。其に御覽なさいまし、お辭儀一ツいたしますさい、あの通り大儀らしい。

 ものを教へますと覺えますのに嘸骨が折れて切なうござんせう、體を苦しませるだけだと存じて何にも爲せないで置きますから、段々、手を動かす働も、ものをいふことも忘れました。其でも那の、謠が唄へますわ。二ツ三ツ今でも知つて居りますよ。さあ御客樣に一ツお聞かせなさいましなね。)

 白痴は婦人を見て、又私が顏をじろ/\見て、人見知をするといつた形で首を振つた。」




第二十二

「左右して、婦人が、激ますやうに、賺すやうにして勸めると、白痴は首を曲げて彼の臍を弄びながら唄つた。

木曾の御嶽山は夏でも寒い、袷遣りたや足袋添へて。

(よく知つて居りませう。)と婦人は聞き澄して莞爾する。

不思議や、唄つた時の白痴の聲は此話をお聞きなさるお前樣は固よりぢやが、私も推量したとは月鼈雲泥、天地の相違、節廻し、あげさげ、呼吸の續く處から、第一其の清らかな凉しい聲といふものは、到底此の少年の咽喉から出たものではない。先づ前の世の此白痴の身が、冥途から管で其のふくれた腹へ通はして寄越すほどに聞えましたよ。

 私は畏つて聞き果てると、膝に手をついたツ切り何うしても顏を上げて其處な男女を見ることが出來ぬ、何か胸がキヤ/\して、はら/\と落涙した。

 婦人は目早く見つけたさうで、

(おや、貴僧、何うかなさいましたか。)

 急にものもいはれなんだが漸々、

(唯、何、變つたことでもござりませぬ、私も孃樣のことは別にお尋ね申しませんから、貴女も何にも問うては下さりますな。)

 と仔細は語らず唯思ひ入つて然う言うたが、實は以前からの樣子でも知れる、金釵玉簪をかざし、蝶衣を纒うて、珠履を穿たば、正に驪山に入つて陛下と相抱くべき豐肥妖艶の人が、其男に對する取廻しの優しさ、隔なさ、親切さに、人事ながら嬉しくて、思はず涙が流れたのぢや。

 すると人の腹の中を讀みかねるやうな婦人ではない、忽ち樣子を悟つたかして、

(貴僧は眞個にお優しい。)といつて、得も謂はれぬ色を目に湛へて、じつと見た、私も首を低れた、むかふでも差俯向く。

 いや、行燈が又薄暗くなつて參つたやうぢやが、恐らくこりや白痴の所爲ぢやて、

 其時よ。

 座が白けて、暫らく言葉が途絶えたうちに所在がないので、唄うたひの太夫、退屈をしたと見えて、顏の前の行燈を吸ひ込むやうな大欠伸をしたから。

 身動きをしてな、

(寢ようちやあ、寢ようちやあ。)とよた/\體を持扱ふわい。

(眠うなつたのかい、もうお寢か。)といつたが坐り直つて弗と氣がついたやうに四邊を みまはした。戸外は恰も眞晝のやう、月の光は開け廣げた家の内へはら/\とさして、紫陽花の色も鮮麗に蒼かつた。

(貴僧ももうお休みなさいますか。)

(はい、御厄介にあひなりまする。)

(まあ、いま宿を寢かします、おゆつくりなさいましな。戸外へは近うござんすが、夏は廣い方が結句宜うございませう、私どもは納戸へ臥せりますから、貴僧は此處へお廣くお寛きが可うござんす、一寸待つて。)といひかけて衝と立ち、つか/\と足早に土間へ下りた、餘り身のこなしが活溌であつたので、其の拍子に黒髮が先を卷いたまゝ項へ崩れた。

 鬢をおさへて戸につかまつて、戸外を透かしたが、獨言をした。

(おや/\さつきの騒ぎで櫛を落したさうな。)

 いかさま馬の腹を潜つた時ぢや。」




第二十三

 此折から下の廊下に跫音がして、靜かに大跨に歩行いたのが、寂として居るから能く。

 軈て小用を達した樣子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、手水鉢へ干杓の響。

「おゝ、積つた、積つた。」と呟いたのは、旅籠屋の亭主の聲である。

「ほゝう、此の若狹の商人は何處へか泊つたと見える、何か愉快い夢でも見て居るかな。」

「何うぞ其後を、それから。」と聞く身には他事をいふうちが悶かしく、膠もなく續きを促した。

「さて、夜も更けました、」といつて旅僧は又語り出した。

「大抵推量もなさるであらうが、いかに草臥れて居つても申上げたやうな深山の孤家で、眠られるものではない、其に少し氣になつて、はじめの内、私を寢かさなかつた事もあるし、目は冴えて、まじ/\して居たが、有繋に、疲が酷いから、心は少し茫乎して來た、何しろ夜の白むのが待遠でならぬ。

 其處ではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたつぷり經つたものをと、怪しんだが、やがて氣が着いて、恁う云ふ處ぢや、山寺處ではないと思ふと、俄に心細くなつた。

 其時は早や、夜がものに譬へると谷の底ぢや、白痴がだらしのない寢息も聞えなくなると、忽ち戸の外にものゝ氣勢がして來た。

 獸の足音のやうで、然まで遠くの方から歩行いて來たのではないやう、猿も、蟇も、居る處と、氣休めに先づ考へたが、なか/\何うして。

 暫くすると今其奴が正面の戸に近づいたなと思つたのが、羊の啼聲になる。

 私は其の方を枕にして居たのぢやから、つまり枕元の戸外ぢやな。暫くすると、右手の彼の紫陽花が咲いて居た其の花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。

 むさゝびか知らぬが、きツ/\といつて屋の棟へ、軈て凡そ小山ほどあらうと氣取られるのが胸を壓すほどに近づいて來て、牛が啼いた。遠く彼方からひた/\と小刻に駈けて來るのは、二本足に草鞋を穿いた獸と思はれた、いやさま%\にむら/\と家のぐるりを取卷いたやうで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁いて居るのがある。恰も何よ、それ畜生道の地獄の繪を、月夜に映したやうな怪しの姿が板戸一重、魑魅魍魎といふのであらうか、ざわ/\と木の葉が戰ぐ氣色だつた。

 息を凝すと、納戸で、

(うむ、)といつて長く呼吸を引いて一聲、魘れたのは婦人ぢや。

(今夜はお客樣があるよ。)と叫んだ。

(お客樣があるぢやないか。)

 と暫く經つて二度目のは判然と清しい聲。

 極めて低聲で、

(お客樣があるよ。)といつて寢返る音がした、更に寢返る音がした。

 戸の外のものの氣勢は動搖を造るが如く、ぐら/\と家が搖いた。

 私は陀羅尼を呪した。

若不順我呪   惱亂説法者   頭破作七分如阿梨樹枝   如殺父母罪   亦如厭油殃斗秤欺誰人   調達僧罪犯   犯此法師者當獲如是殊

 と一心不亂。颯と木の葉を捲いて風が南へ吹いたが、乍ち靜まり返つた、夫婦が閨もひツそりした。」




第二十四

 「翌日又正午頃、里近く、瀧のある處で、昨日馬を賣に行つた親仁の歸りに逢うた。

丁度私が修行に出るのを止して孤家に引返して、婦人と一緒に生涯を送らうと思つて居た處で。

 實を申すと此處へ來る途中でも其の事ばかり考へる、蛇の橋も幸になし、蛭の林もなかつたが、道が難澁なにつけても、汗が流れて心持が惡いにつけても、今更行脚も詰らない。紫の袈裟をかけて、七堂伽藍に住んだ處で、何程のこともあるまい、活佛樣ぢやというてわあ/\拜まれゝば人いきれで胸が惡くなるばかりか。

 些とお話もいかゞぢやから、先刻はことを分けていひませなんだが、昨夜も白痴を寢かしつけると、婦人が又爐のある處へやつて來て、世の中へ苦勞をしに出ようより、夏は凉しく、冬は暖い、此の流と一緒に私の傍においでなさいというてくれるし、まだ/\其ばかりでは自分に魔が魅したやうぢやけれども、こゝに我身で我身に言譯が出來るといふのは、頻りに婦人が不便でならぬ、深山の孤家に白痴の伽をして言葉も通ぜず、日を經るに從うてものをいふことさへ忘れるやうな氣がするといふは何たる事!

 殊に今朝も東雲に袂を振り切つて別れようとすると、お名殘惜しや、かやうな處に恁うやつて老朽ちる身の、再びお目にはかゝられまい、いさゝ小川の水になりとも、何處ぞで白桃の花が流れるのを御覽になつたら、私の體が谷川に沈んで、ちぎれ/\になつたことと思へ、といつて悄れながら、なほ親切に、道は唯此の谷川の流れに沿うて行きさへすれば、何れほど遠くても里に出らるゝ、目の下近く水が躍つて、瀧になつて落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるやうに、と氣をつけて、孤家の見えなくなつた邊で、指差しをしてくれた。

 其手と手を取交はすには及ばずとも、傍につき添つて、朝夕の話對手、蕈の汁で御膳を食べたり、私が榾を焚いて、婦人が鍋をかけて、私が木の實を拾つて、婦人が皮を剥いてそれから障子の内と外で、話をしたり、笑つたり、それから谷川で二人して、其時の婦人が裸體になつて私が脊中へ呼吸が通つて、微妙な薫の花びらに暖に包まれたら、其まゝ命が失せても可い!

 瀧の水を見るにつけても耐へ難いのは其事であつた、いや、冷汗が流れますて。

 其上、もう氣がたるみ、筋が弛んで、早や歩行くのに飽きが來て、喜ばねばならぬ人家が近づいたのも、高がよくされて口の臭い婆さんに澁茶を振舞はれるのが關の山と、里へ入るのも厭になつたから、石の上に膝を懸けた、丁度目の下にある瀧ぢやつた、これがさ、後に聞くと女夫瀧と言ふさうで。

 眞中に先づ鰐鮫が口をあいたやうな尖のとがつた黒い大巖が突出て居ると、上から流れて來る颯と瀬の早い谷川が、之に當つて兩に岐れて、凡そ四丈ばかりの瀧になつて哄と落ちて、又暗碧に白布を織つて矢を射るやうに里へ出るのぢやが、其巖にせかれた方は六尺ばかり、之は川の一巾を裂いて絲も亂れず、一方は巾が狹い、三尺位、この下には雜多な岩が並ぶと見えて、ちらちらちら/\と玉の簾を百千に碎いたやう、件の鰐鮫の巖に、すれつ、 れつ。」




第二十五

 「唯一筋でも巖を越して男瀧に りつかうとする形、それでも中を隔てられて末までは雫も通はぬので、揉まれ、搖られて具さに辛苦を甞めるといふ風情、此の方は姿も窶れ容も細つて、流るる音さへ別樣に、泣くか、怨むかとも思はれるが、あはれにも優しい女瀧ぢや。

 男瀧の方はうらはらで、石を碎き、地を貫く勢、堂々たる有樣ぢや、之が二つの件の巖に當つて左右に分れて二筋となつて落ちるのが身に浸みて、女瀧の心を碎く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震はすやうで、岸に居てさへ體がわなゝく、肉が跳る。況して此の水上は、昨日孤家の婦人と水を浴びた處と思ふと、氣の精か其の女瀧の中に繪のやうな彼の婦人の姿が歴々、と浮いて出ると卷込まれて、沈んだと思ふと又浮いて、千筋に亂るゝ水とともに其の膚が粉に碎けて、花片が散込むやうな。あなやと思ふと更に、もとの顏も、胸も、乳も、手足も全き姿となつて、浮いつ沈みつ、ぱツと刻まれ、あツと見る間に又あらはれる。私は耐らず眞逆に瀧の中へ飛込んで、女瀧を確と抱いたとまで思つた。氣がつくと男瀧の方はどう/\と地響打たせて、山彦を呼んで轟いて流れて居る、あゝ其の力を以て何故救はぬ、儘よ!

 瀧に身を投げて死なうより、舊の孤家へ引返せ。汚らはしい欲のあればこそ恁うなつた上に躊躇するわ、其顏を見て聲を聞けば、渠等夫婦が同衾するのに枕を並べて差支へぬ、それでも汗になつて修行をして、坊主で果てるよりは餘程の増ぢやと、思切つて戻らうとして、石を放れて身を起した、背後から一ツ背中を叩いて、

「やあ、御坊樣。」といはれたから、時が時なり、心も心、後暗いので吃驚して見ると、閻王の使ではない、これが親仁。

 馬は賣つたか、身輕になつて、小さな包みを肩にかけて、手に一尾の鯉の、鱗は金色なる、溌刺として尾の動きさうな、鮮しい、其丈三尺ばかりなのを、顋に藁を通して、ぶらりと提げて居た。何にも言はず急にものもいはれないで瞻ると、親仁はじつと顏を見たよ。然うしてにや/\と、又一通りの笑ひ方ではないて、薄氣味の惡い北叟笑をして、

(何をしてござる、御修行の身が、この位の暑で、岸に休んで居さつしやる分ではあんめえ、一生懸命に歩行かつしやりや、昨夜の泊から此處まではたつた五里、もう里へ行つて地藏樣を拜まつしやる時刻ぢや。

 何ぢやの、己が孃樣に念が懸つて煩惱が起きたのぢやの。うんにや、祕さつしやるな、おらが目は赤くツても、白いか黒いかはちやんと見える。

 地體並のものならば、孃樣の手が觸つて那の水を振舞はれて、今まで人間で居やう筈はない。

 牛か馬か、蟇か、猿か、蝙蝠か、何にせい飛んだり跳ねたりせねばならぬ。谷川から上つて來さしつた時、手足も顏も人ぢやから、おらあ魂消た位。お前樣それでも感心に志が堅固ぢやから助かつたやうなものよ。

 何と、おらが曳いて行つた馬を見さしつたらう、それで、孤家へ來さつしやる山路で富山の反魂丹賣に逢はしつたといふではないか、それ見さつせい、彼の助倍野郎、疾に馬になつて、それ馬市で錢になつて、お錢が、そうら此の鯉に化けた。大好物で晩飯の菜になさる、お孃樣を一體何ぢやと思はつしやるの。」

 私は思はず遮つた。

「お上人!」




第二十六

 上人は頷きながら呟いて、

「いや、先づ聞かつしやい、彼の孤家の婦人といふは、舊な、これも私には何かの縁があつた、あの恐しい魔處へ入らうといふ岐道の水が溢れた往來で、百姓が教へて、彼處は其の以前醫者の家であつたというたが、其の家の孃樣ぢや。

 何でも飛騨一圓當時變つたことも珍らしいこともなかつたが、唯取り出でていふ不思議は此の醫者の娘で、生れると玉のやう。

 母親殿は頬板のふくれた、眦の下つた、鼻の低い、俗にさし乳といふあの毒々しい左右の胸の房を含んで、何うして彼ほど美しく育つたものだらうといふ。

 昔から物語の本にもある、屋の棟へ白羽の征矢が立つか、然もなければ狩倉の時貴人のお目に留つて御殿に召出されるのは、那麼のぢやと噂が高かつた。

 父親の醫者といふのは、頬骨のとがつた髯の生えた、見得坊で傲慢、其癖でもぢや、勿論田舍には苅入の時よく稻の穗が目へ入ると、それから煩らう、脂目、赤目、流行目が多いから、先生眼病の方は少し遣つたが、内科と來てはからつぺた、外科なんと來た日にやあ、鬢附へ水を垂らしてひやりと疵につける位な處。

 鰯の天窓も信心から、其でも命數の盡きぬ輩は本復するから、外に竹庵養仙木齋の居ない土地、相應に繁昌した。

 殊に娘が十六七、女盛となつて來た時分には、藥師樣が人助けに先生樣の内へ生れてござつたといつて、信心渇仰の善男善女? 病男病女が我も/\と詰め懸ける。

 其といふのが、はじまりは彼の孃樣が、それ、馴染の病人には毎日顏を合はせる所から愛想の一つも、あなたお手が痛みますかい、甚麼でございます、といつて手先へ柔かな掌が障ると第一番に次作兄いといふ若いのの(りやうまちす)が全快、お苦しさうなといつて腹をさすつて遣ると水あたりの差込の留まつたのがある、初手は若い男ばかりに利いたが段々老人にも及ぼして、後には婦人の病人もこれで復る、復らぬまでも苦痛が薄らぐ、根太の膿を切つて出すさへ、錆びた小刀で引裂く醫者殿が腕前ぢや、病人は七顛八倒して悲鳴を上げるのが、娘が來て脊中へぴつたりと胸をあてて肩を押へて居ると、我慢が出來るといつたやうなわけであつたさうな。

 一時彼の藪の前にある枇杷の古木へ熊蜂が來て可恐しい大きな巣をかけた。

 すると、醫者の内弟子で藥局、拭掃除もすれば惣菜畠の芋も掘る、近い所へは車夫も勤めた、下男兼帶の熊藏といふ、其頃二十四五歳、稀鹽散に單舍利別を混ぜたのを瓶に盗んで、内が吝嗇ぢやから見附かると叱られる、之を股引や袴と一緒に戸棚の上に載せて置いて、隙さへあればちびりちびりと飮んでた男が、庭掃除するといつて、件の蜂の巣を見つけたつけ。

 縁側へ遣つて來て、お孃樣面白いことをしてお目に懸けませう、無躾でござりますが、私の此の手を握つて下さりますと、彼の蜂の中へ突込んで、蜂を掴んで見せませう。お手が障つた所だけは刺しましても痛みませぬ、竹箒で引拂いては八方へ散つて體中に集られては夫は凌げませぬ即死でございますがと、微笑んで控へる手で無理に握つて貰ひ、つか/\と行くと、凄じい蟲の唸、軈て取つて返した左の手に熊蜂が七ツ八ツ、羽ばたきをするのがある、脚を振ふのがあり、中には掴んだ指の股へ這出して居るのがあツた。

 さあ、那の神樣の手が障れば鐵砲玉でも通るまいと、蜘蛛の巣のやうに評判が八方へ。

 其の頃からいつとなく感得したものと見えて、仔細あつて、那の白痴に身を任せて山に籠つてからは神變不思議、年を經るに從うて神通自在ぢや。はじめは體を押つけたのが、足ばかりとなり、手さきとなり、果は間を隔てゝ居ても、道を迷うた旅人は孃樣が思ふまゝはツといふ呼吸で變ずるわ。

 と親仁が其時物語つて、御坊は、孤家の周圍で、猿を見たらう、蟇を見たらう、蝙蝠を見たであらう、兎も蛇も皆孃樣に谷川の水を浴びせられて畜生にされた輩!

 あはれ其時那の婦人が、蟇に絡られたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸はれたのも、夜中に魑魅魍魎に襲はれたのも、思ひ出して、私は犇々と胸に當つた。

 なほ親仁のいふやう。

 今の白痴も、件の評判の高かつた頃、醫者の内へ來た病人、其頃は未だ子供、木訥な父親が附添ひ、髮の長い、兄貴がおぶつて山から出て來た。脚には難澁な腫物があつた、其の療治を頼んだので。

 固より一室を借受けて、逗留をして居つたが、かほどの惱は大事ぢや、血も大分に出さねばならぬ、殊に子供、手を下すには體に精分をつけたからと、先づ一日に三ツづつ鷄卵を飮まして、氣休めに膏藥を張つて置く。

 其の膏藥を剥がすにも親や兄、又傍のものが手を懸けると、堅くなつて硬ばつたのが、めりめりと肉にくツついて取れる、ひい/\と泣くのぢやが、娘が手をかけてやれば默つて耐へた。

 一體は醫者殿、手のつけやうがなくつて身の衰をいひ立てに一日延ばしにしたのぢやが三日經つと、兄を殘して、克明な父親は股引の膝でずつて、あとさがりに玄關から土間へ、草鞋を穿いて又地に手をついて、次男坊の生命が扶かりますやうに、ねえ/\、というて山へ歸つた。

 其でもなか/\捗取らず、七日も經つたので、後に殘つて附添つて居た兄者人が、丁度苅入で、此節は手が八本も欲しいほど忙しい、お天氣模樣も雨のやう、長雨にでもなりますと、山畠にかけがへのない、稻が腐つては、餓死でござりまする、總領の私は、一番の働手、かうしては居られませぬから、と辭をいつて、やれ泣くでねえぞ、としんめり子供にいひ聞かせて病人を置いて行つた。

 後には子供一人、其時が、戸長樣の帳面前年紀六ツ、親六十で兒が二十なら徴兵はお目こぼしと何を間違へたか屆を五年遲うして本當は十一、それでも奧山で育つたから村の言葉も碌には知らぬが、怜悧な生れで聞分があるから、三ツづつあひかはらず鷄卵を吸はせられる汁も、今に療治の時殘らず血になつて出ることゝ推量して、べそを掻いても、兄者が泣くなといはしつたと、耐へて居た心の内。

 娘の情で内と一所に膳を並べて食事をさせると、澤庵の切をくはへて隅の方へ引込むいぢらしさ。

 彌よ明日が手術といふ夜は、皆寢靜まつてから、しく/\蚊のやうに泣いて居るのを手水に起きた娘が見つけて、あまり不便さに抱いて寢てやつた。

 さて療治となると例の如く娘が背後から抱いて居たから脂汗を流しながら切れものが入るのを、感心にじつと耐へたのに、何處を切違へたか、それから流れ出した血が留まらず、見る/\内に色が變つて、危くなつた。

 醫者も蒼くなつて、騒いだが、神の扶けか漸う生命を取留まり、三日ばかりで血も留つたが、倒頭腰が拔けた、固より不具。

 之が引摺つて、足を見ながら情なさうな顏をする、蟋蟀が がれた脚を口に啣へて泣くのを見るやう、目もあてられたものではない。

 しまひには泣出すと、外聞もあり、少焦で、醫者は可恐しい顏をして睨みつけると、あはれがつて抱きあげる娘の胸に顏をかくして縋る状に、年來隨分と人を手にかけた醫者も我を折つて腕組をして、はツといふ溜息。

 軈て父親が迎にござつた、因果と諦めて、別に不足はいはなんだが、何分小兒が娘の手を放れやうといはぬので、醫者も幸、言譯旁々、親兄の心もなだめるため、其處で娘に小兒を家まで送らせることにした。

 送つて來たのが孤屋で。

 其時分はまだ一ケの莊、家も小二十軒あつたのが、娘が來て一日二日、ついほだされて逗留した五日目から大雨が降出した。瀧を覆すやうで小留もなく家に居ながら皆蓑笠で凌いだ位、茅葺の繕をすることは扨置いて、表の戸もあけられず、内から内、隣同士、おうおうと聲をかけ合つて纔に未だ人種の世に盡きぬのを知るばかり、八日を八百年と雨の中に籠ると九日目の眞夜中から大風が吹出して其風の勢こゝが峠といふ處で忽ち泥海。

 此の洪水で生殘つたのは、不思議にも娘と小兒と其に其時村から供をした此の親仁ばかり。

 同一水で醫者の内も死絶えた、さればかやうな美人が片田舍に生れたのも國が世がはり、代がはりの前兆であらうと、土地のものは言ひ傳へた。

 孃樣は歸るに家なく、世に唯一人となつて小兒と一緒に山に留まつたのは御坊が見らるゝ通り、又那の白痴につきそつて行屆いた世話も見らるゝ通り、洪水の時から十三年、いまになるまで一日もかはりはない。

 といひ果てゝ親仁は又氣味の惡い北叟笑。

(恁う身の上を話したら、孃樣を不便がつて、薪を折つたり水を汲む手扶けでもしてやりたいと、情が懸らう。本來の好心、可加減な慈悲ぢやとか、情ぢやとかいふ名につけて、一層山へ歸りたかんべい、はて措かつしやい。彼の白痴殿の女房になつて世の中へは目もやらぬ換にやあ、孃樣は如意自在、男はより取つて、飽けば、息をかけて獸にするわ、殊に其の洪水以來、山を穿つたこの流は天道樣がお授けの、男を誘ふ怪しの水、生命を取られぬものはないのぢや。

 天狗道にも三熱の苦惱、髮が亂れ、色が蒼ざめ、胸が痩せて手足が細れば、谷川を浴びると舊の通り、其こそ水が垂るばかり、招けば活きた魚も來る、睨めば美しい木の實も落つる、袖を翳せば雨も降るなり、眉を開けば風も吹くぞよ。

 然もうまれつきの色好み、殊に又若いのが好ぢやで、何か御坊にいうたであらうが、其を實とした處で、軈て飽かれると尾が出來る、耳が動く、足がのびる、忽ち形が變ずるばかりぢや。

 いや軈て、此の鯉を料理して、大胡坐で飮む時の魔神の姿が見せたいな。

 妄念は起さずに早う此處を退かつしやい、助けられたが不思議な位、孃樣別してのお情ぢやわ、生命冥加な、お若いの、屹と修行さつしやりませ。)と又一ツ脊中を叩いた、親仁は鯉を提げたまゝ見向きもしないで、山路を上の方。

 見送ると小さくなつて、一座の大山の背後へかくれたと思ふと、油旱の燒けるやうな空に、其の山の巓から、すく/\と雲が出た、瀧の音も靜まるばかり殷々として雷の響。

 藻拔けのやうに立つて居た、私が魂は身に戻つた、其方を拜むと齊しく、杖をかい込み小笠を傾け、踵を返すと慌しく一散に驅け下りたが、里に着いた時分に山は驟雨、親仁が婦人に齎らした鯉もこのために活きて孤家に着いたらうと思ふ大雨であつた。」

 高野聖は此のことについて、敢て別にち註して教を與へはしなかつたが、翌朝袂を分つて、雪中山越にかゝるのを、名殘惜しく見送ると、ちら/\と雪の降るなかを次第に高く坂道を上る聖の姿、恰も雲に駕して行くやうに見えたのである。



(明治三十三年二月作)