庭には、檜葉だの、あすなろう、青木、槇、常緑樹ばかり繁茂しているので、初夏の烈しい日光がさすと、天井の低い八畳の部屋は、緑色の反射でどちらを向いても青藻の底に沈んだようになった。
ぱっとした、その癖何となく陰気なその部屋に独りぽつねんと坐って、さよは一つのことを考えていた。考えというのはオゥトミイルについてであった。彼女は、竹製の小さい朝鮮の塗台の上で、独りぎりの昼飯を詰らなくすました時から、そのことを頭に泛べているのであった。女中が十日ばかり国へ帰った。毎朝彼女は良人と自分との前に
けれども、郊外の小店などで信用の出来るものは売っていない。呟きにもならず彼女は考えた。
「ちょっと帰りに廻って買って来て下さればいいんだけれども。――銀座までぐらいすぐだのに……」
然し、さよは、自分の良人が年に合わせてどんなものぐさかよく知っていた。また、彼が自分ほど食物に注文のないのも解っていた。彼は、近頃の恐ろしく混む電車をわざわざ乗り換えて迄下町に行き、一鑵のオゥトミイルを買う位なら、手近かで間に合う麺麭ばかりで半月辛棒する方が遙かにましだ、と云うだろう。
さよの庭を眺めている眼の奥には、さぞ溌溂とした色彩と活動と、同時に砂塵に満ちているだろう五月の銀座、日本橋辺の光景が、小さくはっきりパノラマのように映った。いつか天気のからりと晴れた日、日本橋の上に立って眺めた川面の漣、両岸に立てこんだ家の見通し、空の軟かな水色などが鮮やかに甦って来た。印象の絵の裡で、村井銀行の横手を軽快な
さよは、立って行って編物袋を出した。
縁側の籐椅子にかけて、彼女は袋の中から銀鼠色の絹糸を出した。そして、先の尖った金属の針を濃く緑色に溶けた日光に燦めかせ、祖母の肩掛けを編み始めた。
良人は、その日いつもより少し晩く帰って来た。
それ故、良人の声が玄関ですると、彼女はやっと危い綱渡りをすましたように
「おかえりなさい。――今日は少しおそかったのね」
朝から殆ど始めて人間と口を利くのであったから、さよはいくら喋っても喋りきれない暖い潮が胸一杯に流れるのを感じた。
「どうなすって?」
「今日はね、思いがけない用事で伊東屋へ行ったんでおそくなった。――ひどいよ今頃は。まるで喧嘩さ」
「銀座の?」
彼女は、靴をぬいでいる良人の背中を見下しながら、それは惜しいことをしたと思った。
「銀座へいらっしゃるんだったらお願いすることがあったのよ」
「ほう……何だね。また行けばいいが……然し」
彼は、今までさよに見えなかった一つの紙包みを黒皮のポートフォリオのかげから出した。
「こういうものがあるんだが……」
それは、明治屋の商標をもっている。さよは冗談の積りで云った。
「私当てて見ましょうか? 何を買っていらしったか」
保夫は、外套を掛け、居間に入りながら云った。
「あやしいものだぞ」
「大丈夫、きっと当てるわ」
さよは、勿論間違うものとして断言した。
「オゥトミイル――二鑵? それとも一つは何か別なもの?」
保夫は振向いてさよを見た。
「ずるいぞ、触ったな?」
「いいえ。そんなことはしないわ」
彼女は、逆に訝しそうに良人に訊いた。
「でも――当ったの?」
「珍しく直覚の出来がよかったね、オゥトミイルだよ二つとも」
「まあ……」
さよは、思いがけず、驚いた。彼女は「違うよ」と一言に否定されることを予期していた。彼女はそれをきっかけに、
「本当はあれが欲しかったのよ」と云う積りでいたのであった。彼女は自分がうまく当ったと思うより、良人がどうしてこれを、特に今日、買って来る気になったかと意外であった。
「私、今朝何とか云って? オゥトミイルのこと」
「いいや、云わないよ」
保夫は、さよの眼を瞠った顔から、自分の手柄を素ばしこく見てとった。彼は、さも自信ある良人のように云った。
「ちゃあんと判るさ、これ位のことは。顔に書いてあったのさ」
すっかり夕飯の後片づけがすむと、さよは明朝の準備に、碧色の二重鍋を火にかけた。中には、先刻のオゥトミイルが入っている。踏台に腰をかけ、料理台に両肱をもたせ、電燈の下で、煮える鍋の番をしながら、彼女は自分の気持を考えた。
もう半年も前であったら、こんなことでも自分はどんなに興奮しただろう。事柄はすっかり違ったが、矢張り小さなことで、良人と自分との気持がぴったり合っているのが判った時、さよは、愛はこんなに微妙なものかと、感歎しつくした自分を覚えていた。
今、彼女はそんなにじき
煮え立った鍋からは、陽気に湯気が吹出した。良人の書斎の方からは、歯切れのよいタイプライターの音が、彼の周囲を
台所に働きながら、さよはふと、日頃からすきな
箱根路をわがこえくれば伊豆の海や
沖の小島に波のよる見ゆ
という歌を思い出した。自分達の生活が、この沖の小島を見晴すように、一点遙に情を湛え、広々と明るい全景の裡に小さく浮んでいるようで、さよは穏やかな悦びと懐しさとを覚えた。