青年

     十九

 翌朝純一は十分に眠った健康な体のい心持で目をました。只のどたんが詰まっているようなので咳払せきばらいを二つみつして見て風を引いたかなと思った。しかしそれは前晩ぜんばんに酒を飲んだ為めであったと見えてうがいをして顔を洗ってしまうと、さっぱりした。

 机の前に据わって、いつの間にか火の入れてある火鉢に手をかざしたとき、純一はたちまち何事をか思い出して、「あ、今日だったな」と心のうちにつぶやいた。丁度学校にいた頃、朝起きて何曜日だということを考えて、それと同時にその日の時間表を思い出したような工合である。

 純一が思い出したのは、坂井の奥さんが箱根へく日だということであった。誘われた通りに、跡から行こうと、はっきり考えているのではない。それが何より先きに思い出されたのは、奥さんに軽い程度のsuggestionサジェスションを受けているからである。一体夫人の言語や挙動にはsuggestifサジェスシイフな処があって、夫人は半ば無意識にそれを利用して、むしろ悪用して、人の意志を左右しようとする傾きがある。若し催眠術者になったら、大いに成功する人かも知れない。

 坂井の奥さんが箱根へく日だと思った跡で、純一の写象は暗中の飛躍をして、妙な記憶を喚び起した。それは昨夜ゆうべ夜明け近くなって見た夢の事である。その夢を見掛けて、ちょいと驚いて目を醒まして、直ぐに又てしまったが、それからは余り長く寐たらしくはない。どうしても夜明けぢかくなってからである。

 なんでも大村と一しょに旅行をしていて、どこかの茶店に休んでいた。大宮で休んだような、人のいない葭簀張よしずばりではない。茶を飲んで、まずい菓子麪包パンか何か食っている。季節は好く分からないが、目に映ずるものは暖い調子の色に飽いている。薄曇りのしている日の午後である。大村と何か話して笑っていると、外から「海嘯つなみが来ます」と叫んだ女がある。自分が先きにって往来に出て見た。

 広いはたと畑との間を、真直に長く通っている街道である。左右にはみぞがあって、そのふちにははんの木のひょろひょろしたのが列をなしている。女の「あれ、あそこに」という方角を見たが、灰色の空の下に別に灰色の一線がかくせられているようなだけで、それが水だとはっきりは見分けられない。その癖純一の胸にははげしい恐怖がく。そこへ出て来た大村を顧みて、「山の近いのはどっちだろう」と問う。大村は黙っている。どっちを見ても、山らしい山は見えない。只水の来るという方角と反対の方角に、余り高くもない丘陵が見える。純一はそれを目掛けて駈け出した。広い広い畑を横に、足に任せて駈けるのである。

 折々振り返って見るに、大村はやはり元の街道に動かずに立っている。女はいない。夢では人物の経済が自由に行われる。純一は女がいなくなったとも思わないから、なぜいないかと怪しみもしない。

 忽ちsceneセエヌ[40]が改まった。場所の変化も夢では自由である。純一は水がかかとに迫って来るのを感ずると共に、そばに立っている大きな木にじ登った。何の木か純一には分からないが広い緑色の葉の茂った木である。登り登って、扉のように開いている枝に手が届いた。身をその枝の上にね上げて見ると、同じ枝の上に、自分より先きに避難している人がある。所々に白い反射のある緑の葉にうずもれて、長い髪も乱れ、袂も裾も乱れた女がいるのである。

 黄いろい水がもう一面にみなぎって来た。その中に、この一本の木が離れ小島のように抜きでている。滅びた世界に、あらたに生れて来たAdamアダムEvaエヴァとのようにこずえを掴む片手に身を支えながら、二人は遠慮なく近寄った。

 純一は相触れんとするまでに迫まり近づいた、知らぬ女の顔の、忽ちおちゃらになったのを、少しも不思議とは思わない。馴馴しい表情と切れ切れのことばとが交わされるうちに、女はいつか坂井の奥さんになっている。純一があやうい体を支えていようとする努力と、僅かに二人の間に存している距離を縮めようと思う慾望とに悩まされているうちに、女の顔はいつかお雪さんになっている。

 純一がはっと思って、半醒覚はんせいかくの状態にかえったのはこの一刹那いっせつなの事であった。たれやらの書いたものに、人は夢の中ではどんな禽獣きんじゅうのような行いをもあえてして恬然てんぜんとしているもので、それは道徳という約束の世間にまだ生じていない太古に復るAtavismeアタヴィスムだと云うことがあった。これは随分思い切った推理である。しかしその是非はとにかくいて、純一はそんなAtavismeアタヴィスムには陥らなかった。或は夢が醒め際になっていて、醒めた意識の幾分が働いていたのかも知れない。

 半醒覚の純一が体には慾望の火が燃えていた。そして踏み脱いでいた布団を、又領元えりもとまで引き寄せて、あごうずめるようにして、又寐入る刹那には、おぼろげな意識の上に、見果てぬ夢の名残を惜む情が漂っていた。しかしそれからは、短い深いねむりったらしい。

 純一が写象は、人間の思量の無碍むげの速度を以て、ほんのつかの間に、長い夢を繰り返して見た。そして、それを繰り返して見ている間は、その輪廓りんかくや色彩のはっきりしていて、手で掴まれるように感ぜられるのに打たれて、ふとあんな工合に物が書かれたら好かろうと思った。そう思って、又繰り返して見ようとすると、もう輪廓は崩れ色彩はせてしまって、不自然な事やら不合理な事やらが、道の小石に足のつまずくように、際立って感ぜられた。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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