青年

     十二

 二人は山を横切って、常磐華壇の裏の小さな坂を降りて、停車場に這入った。時候が好いので、近在のものが多く出ると見えて、札売場の前には草鞋ばきで風炉敷包を持った連中が、ぎっしり詰まったようになって立っている。

「どこにしようか」と、大村が云った。

「王子も僕はまだ行ったことがないのです」と純一が云った。

「王子は余り近過ぎるね。大宮にしよう」大村はこう云って、二等待合の方に廻って、一等の札を二枚買った。

 時間はまだ二十分程ある。大村が三等客の待つベンチのある処の片隅で、煙草を買っている間に、純一は一等待合に這入って見た。

 ここで或る珍らしい光景が純一の目に映じた。

 中央に据えてある卓の傍に、一人の夫人が立っている。年はもう五十を余程越しているが、純一の目には四十位にしか見えない。地味ではあるが、身の廻りは立派にしているように思われた。小さく巻いた束髪に、目立つような髪飾もしていないが、鼠色の毛皮の領巻をして、同じ毛皮のマッフを持っている。そして五六人の男女に取り巻かれているが、その姿勢や態度が目を駭かすのである。

 先ず女王がcercleをしているとしか思われない。留守を頼んで置く老女に用事を言い附ける。随行らしい三十歳ばかりの洋服の男に指図をする。送って来たらしい女学生風の少女に一人一人訓戒めいた詞を掛ける。切口状めいた詞が、血の色の極淡い脣から凛として出る。洗錬を極めた文章のような言語に一句の無駄がない。それを語尾一つ曖昧にせずに、はっきり言う。純一は国にいたとき、九州の大演習を見に連れて行かれて、師団長が将校集まれの喇叭を吹かせて、命令を伝えるのを見たことがある。あの時より外には、こんな口吻で物を言う人を見たことがないのである。

 純一は心のうちで、この未知の夫人と坂井夫人とを比較することを禁じ得なかった。どちらも目に立つ女であって、どこか技巧を弄しているらしい、しかしそれが殆ど自然に迫っている。外の女は下手が舞台に登ったようである。丁度芸術にも日本には或るmanierisme[13]が行われているように、風俗にもそれがある。本で読んだり、画で見たりする、西洋の女のように自然が勝っていない。そしてその技巧のある夫人の中で、坂井の奥さんが女らしく怜悧な方の代表者であるなら、この奥さんは女丈夫とか、賢夫人とか云われる方の代表者であろうと思った。

 そこへ、純一はどこへ行ったかと見廻しているような様子で、大村が外から覗いたので、純一はすぐに出て行って、一しょに三等客の待っているベンチの側の石畳みの上を、あちこち歩きながら云った。

「今一等待合にいた夫人は、当り前の女ではないようでしたが、君は気が附きませんでしたか」

「気が附かなくて。あれは、君、有名な高畠詠子さんだよ」

「そうですか」と云った純一は、心の中になる程と頷いた。東京の女学校長で、あらゆる毀誉褒貶を一身に集めたことのある人である。校長を退いた理由としても、種々の風説が伝えられた。国にいたとき、田中先生の話に、詠子さんは演説が上手で、或る目的を以て生徒の群に対して演説するとなると、ナポレオンが士卒を鼓舞するときの雄弁の面影があると云った。悪徳新聞のあらゆる攻撃を受けていながら、告別の演説でも、全校の生徒を泣かせたそうである。それも一時の感動ばかりではない。級ごとに記念品を贈る委員なぞが出来たとき、殆ど一人もその募りに応ぜなかったものはないということである。とにかく英雄である。絶えず自己の感情を自己の意志の下に支配している人物であろうと、純一は想像した。

「女丈夫だとは聞いていましたが、一寸見てもあれ程態度の目立つ人だとは思わなかったのです」

「うん。態度のrepresentative[14]な女だね」

「それに実際えらいのでしょう」

「えらいのですとも。君、オオトリシアンで、まだ若いのに自殺した学者があったね。Otto Weiningerというのだ。僕なんぞはニイチェから後の書物では、あの人の書いたものに一番ひどく動されたと云っても好いが、あれがこう云う議論をしていますね。どの男でも幾分か女の要素を持っているように、どの女でも幾分か男の要素を持っている。個人は皆M+Wだというのさ。そして女のえらいのはMの比例数が大きいのだそうだ」

「そんなら詠子さんはMを余程沢山持っているのでしょう」と云いながら、純一は自分には大分Wがありそうだと思って、いやな心持がした。

 風炉敷包を持った連中は、もうさっきから黒い木札の立ててある改札口に押し掛けている。埒が開くや否や、押し合ってプラットフォオムへ出る。純一はとかくこんな時には、透くまで待っていようとするのであるが、今日大村が人を押し退けようともせず、人に道を譲りもせずに、群集を空気扱いにして行くので、その背後に附いて、早く出た。

 一等室に這入って見れば、二人が先登であった。そこへ純一が待合室で見た洋服の男が、赤帽に革包を持たせて走って来た。赤帽が縦側の左の腰掛の真ん中へ革包を置いて、荒い格子縞の駱駝の膝掛を傍に鋪いた。洋服の男は外へ出た。大村が横側の後に腰掛けたので、純一も並んで腰を掛けた。

 続いて町のものらしい婆あさんと、若い女とが這入って来た。物馴れない純一にも、銀杏返しに珊瑚珠の根掛をした女が芸者だろうということだけは分かった。二人の女は小さい革包を間に置いて腰を掛けたが、すぐに下駄を脱いで革包を挟んで、向き合って、きちんと据わった。二人の白足袋がsymetrique[15]に腰掛の縁にはみ出している。

 芸者らしい女は平気でこっちを見ている。純一は少し間の悪いような心持がしたので、救を求めるように大村を見た。大村は知らぬ顔をして、人の馳せ違うプラットフォオムを見ていた。

 乗るだけの客が大抵乗ってしまった頃に、詠子さんが同じ室に這入って来た。さっきの洋服の男は、三等にでも乗るのであろう。挨拶をして走って行った。女学生らしい四五人がずらりと窓の外に立ち並んだ。詠子さんは開いていた窓から、年寄の女に何か言った。

 発車の笛が鳴った。「御機嫌宜しゅう」、「さようなら」なんぞという詞が、愛相の好い女学生達の口から、囀るように出た。詠子さんは窓の内に真っ直に立って、頤で会釈をしている。女学生の中の年上で、痩せた顔の表情のひどく活溌なのが、汽車の大分遠ざかるまで、ハンケチを振って見送っていた。

 詠子さんは静かに膝掛の上に腰を卸して、マッフに両手を入れて、端然としている。

 暫くは誰も物を言わない。日暮里の停車場を過ぎた頃、始めて物を言い出したのは、黒うとらしい女連であった。「往くと思っているでしょうか」と若いのが云うと、「思っていなくってさ」と年を取ったのが云う。思いの外に遠慮深い小声である。しかし静かなこの室では一句も残らずに聞える。それが始終主格のない話ばかりなのである。

 大村が黙っているので、純一も遠慮して黙っている。詠子さんはやはり端然としている。

 窓の外は同じような田圃道ばかりで、おりおりそこに客を載せてゆっくり歩いている人力車なんぞが見える。刈跡から群がって雀が立つ。醜い人物をかいた広告の一つに、鴉の止まっていたのが、嘴を大きく開いて啼きながら立つ。

 室内は、左の窓から日の差し込んでいる処に、小さい塵が跳っている。

 黒人らしい女連も黙ってしまう。なぜだか大村が物を言わないので、純一も退屈には思いながら黙っていた。

 王子を過ぎるとき、窓から外を見ていた純一が、「ここが王子ですね」と云うと、大村は「この列車は留まらないのだよ」と云ったきり、又黙ってしまった。

 赤羽で駅員が一人這入って来て、卓の上に備えてある煎茶の湯に障って見て、出て行った。ここでも、蕨や浦和でも、多少の乗客の出入はあったが、純一等のいる沈黙の一等室には人の増減がなかった。詠子さんは始終端然としているのである。

 三時過ぎに大宮に着いた。駅員に切符を半分折り取らせて、停車場を出るとき、大村がさも楽々したという調子で云った。

「ああ苦しかった」

「なぜです」

「馬鹿げているけれどね、僕は或る種類の人間には、なるべく自己を観察して貰いたくないのだ」

「その種類の人間に詠子さんが属しているのですか」

 大村は笑った。「まあ、そうだね」

「一体どういう種類なのでしょう」

「そうさね。一寸説明に窮するね。要するに自己を誤解せられる虞のある人には、自己を観察して貰いたくないとでも云ったら好いのでしょう」純一は目を※[16]っている。「これでは余り抽象的かねえ。所謂教育界の人物なんぞがそれだね」

「あ。分かりました。つまりhypocritesだと云うのでしょう」

 大村は又笑った。「そりゃあ、あんまり酷だよ。僕だってそれ程教育家を悪く思っていやしないが、人を鋳型に※[17]めて拵えようとしているのが癖になっていて、誰をでもその鋳型に※[18]めて見ようとするからね」

 こんな事を話しながら、二人は公園の門を這入った。常磐木の間に、葉の黄ばんだ雑木の交っている茂みを見込む、二本柱の門に、大宮公園と大字で書いた木札の、稍古びたのが掛かっているのである。

 落葉の散らばっている、幅の広い道に、人の影も見えない。なる程大村の散歩に来そうな処だと、純一は思った。只どこからか微かに三味線の音がする。純一が云った。

「さっきお話しのワイニンゲルなんぞは女性をどう見ているのですか」

「女性ですか。それは余程振っていますよ。なんでも女というものには娼妓のチイプと母のチイプとしかないというのです。簡単に云えば、娼と母とでも云いますかね。あの論から推すと、東京や無名通信で退治ている役者買の奥さん連は、事実である限りは、どんなに身分が高くても、どんな金持を親爺や亭主に持っていても、あれは皆娼妓です。芸者という語を世界の字書に提供した日本に、娼妓の型が発展しているのは、不思議ではないかも知れない。子供を二人しか生まないことにして、そろそろ人口の耗って来るフランスなんぞは、娼妓の型の優勝を示しているのに外ならない。要するにこの質の女はantisocialeです。幸な事には、他の一面には母の型があって、これも永遠に滅びない。母の型の女は、子を欲しがっていて、母として子を可哀がるばかりではない。娘の時から犬ころや猫や小鳥をも、母として可哀がる。娵に行けば夫をも母として可哀がる。人類の継続の上には、この型の女が勲功を奏している。だから国家が良妻賢母主義で女子を教育するのは尤もでしょう。調馬手が馬を育てるにも、駈足は教えなくても好いようなもので、娼妓の型には別に教育の必要がないだろうから」

「それでは女子が独立していろいろの職業を営んで行くようになる、あの風潮に対してはどう思っているのでしょう」

「あれはM>Wの女と看做して、それを育てるには、男の這入るあらゆる学校に女の這入るのを拒まないようにすれば好いわけでしょうよ」

「なる程。そこで恋愛はどうなるのです。母の型の女を対象にしては恋愛の満足は出来ないでしょうし、娼妓の型の女を対象にしたら、それは堕落ではないでしょうか」

「そうです。だから恋愛の希望を前途に持っているという君なんぞの為めには、ワイニンゲルの論は残酷を極めているのです。女には恋愛というようなものはない。娼妓の型には色欲がある。母の型には繁殖の欲があるに過ぎない。恋愛の対象というものは、凡て男子の構成した幻影だというのです。それがワイニンゲルの為めには非常に真面目な話で、当人が自殺したのも、その辺に根ざしているらしいのです」

「なる程」と云った純一は、暫く詞もなかった。坂井の奥さんが娼妓の型の代表者として、彼れの想像の上に浮ぶ。※[19]くことを知らないpolypeの腕に、自分は無意味の餌になって抱かれていたような心持がして、堪えられない程不愉快になって来るのである。そしてこう云った。

「そんな事を考えると、厭世的になってしまいますね」

「そうさ。ワイニンゲルなんぞの足跡を踏んで行けば、厭世は免れないね。しかし恋愛なんという概念のうちには人生の酔を含んでいる。Ivresseを含んでいる、鴉片やHaschischのようなものだ。鴉片は支那までが表向禁じているが、人類が酒を飲まなくなるかは疑問だね。DionisosはApollonの制裁を受けたって、滅びてしまうものではあるまい。問題は制裁奈何にある。どう縛られるか、どう囚われるかにあると云っても好かろう」

 二人は氷川神社の拝殿近く来た。右側の茶屋から声を掛けられたので、殆ど反射的に避けて、社の背後の方へ曲がった。

 落葉の散らばっている小道の向うに、木立に囲まれた離れのような家が見える。三味線の音はそこからする。四五人のとよめき笑う声と女の歌う声とが交って来る。

 音締の悪い三味線の伴奏で、聴くに堪えない卑しい歌を歌っている。丁度日が少し傾いて来たので、幸に障子が締め切ってあって、この放たれた男女の一群と顔を合せずに済んだ。二人は又この離れを避けた。

 社の東側の沼の畔に出た。葦簀を立て繞らして、店をしまっている掛茶屋がある。

「好い処ですね」と、覚えず純一が云った。

「好かろう」と、大村は無邪気に得意らしく云って、腰掛けに掛けた。

 大村が紙巻煙草に火を附ける間、純一は沼の上を見わたしている。僅か二三間先きに、枯葦の茂みを抜いて立っている杙があって、それに鴉が一羽止まっている。こっちを向いて、黒い円い目で見て、紫色の反射のある羽をちょいと動かしたが、又居ずまいを直して逃げずにいる。

 大村が突然云った。「まだ何も書いて見ないのですか」

「ええ。蜚ばず鳴かずです」と、純一は鴉を見ながら答えた。

「好く文学者の成功の事を、大いなるcoupをしたと云うが、あれは采を擲つので、つまり芸術を賭博に比したのだね。それは流行作者、売れる作者になるにはそういう偶然の結果もあろうが、censure問題は別として、今のように思想を発表する道の開けている時代では、価値のある作が具眼者に認められずにしまうという虞れは先ず無いね。だから急ぐには及ばないが、遠慮するにも及ばない。起とうと思えば、いつでも起てるのだからね」

「そうでしょうか」

「僕なんぞはそういう問題では、非常に楽天的に考えていますよ。どんなに手広に新聞雑誌を利用しているcliqueでも、有力な分子はいつの間にか自立してしまうから、党派そのものは脱殻になってしまって、自滅せずにはいられないのです。だからそんなものに、縋ったって頼もしくはないし、そんなものに黙殺せられたって、悪く言われたって阻喪するには及ばない。無論そんな仲間に這入るなんという必要はないのです」

「しかし相談相手になって貰われる先輩というようなものは欲しいと思うのですが」

「そりゃああっても好いでしょうが、縁のある人が出合うのだから、強いて求めるわけには行かない。紹介状やなんぞで、役に立つ交際が成り立つことは先ず無いからね」

 こんな話をしているうちに、三味線や歌が聞え已んだので、純一は時計を見た。

「もう五時を大分過ぎています」

「道理で少し寒くなって来た」と云って、大村が立った。

 鴉が一声啼いて森の方へ飛んで行った。その行方を見送れば、いつの間にか鼠色の薄い雲が空を掩うていた。

 二人は暫く落葉の道を歩いて上りの汽車に乗った。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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