瀧口入道

   第七

 歌物語うたものがたりに何の癡言たはことと聞き流せし戀てふ魔に、さては吾れとくよりせられしかと、初めて悟りし今の刹那に、瀧口が心は如何いかなりしぞ。『嗚呼過てり』とは何より先に口を衝いて覺えず出でし意料無限の一語、襟元に雪水を浴びし如く、六尺の總身ぶる/\と震ひ上りて、胸轟き、いきせはしく、『むゝ』とばかりに暫時しばしは空を睨んで無言のてい。やがてを閉ぢてつくづく過越方すぎこしかたを想ひ返せば、哀れにもつらかりし思ひの數々かず/\、さながら世を隔てたらん如く、今更かし暮らせし朝夕の如何にしてと驚かれぬる計り。夢かと思へば、うつせ身の陽炎かげろふの影とも消えやらず、うつゝかと見れば、夢よりも尚ほ淡き此の春秋の經過、例へば永の病に本性を失ひし人の、やうやく我に還りしが如く、瀧口は只々恍惚として呆るゝばかりなり。

『嗚呼過てり/\、弓矢ゆみやの家にまれし身の、天晴あつぱれ功名手柄して、勇士の譽を後世に殘すこそ此世に於ける本懷なれ。何事ぞ、眞の武士の唇頭くちびるぼすもいまはしき一女子の色に迷うて、可惜あたら月日つきひ夢現ゆめうつゝの境にすごさんとは。あはれ南無八幡大菩薩も照覽あれ、瀧口時頼が武士の魂の曇なき證據、まつ此の通り』と、とこなる一刀スラリと拔きて、青燈の光に差し付くれば、爛々たる氷の刃に水もしたゝらんず無反むそり切先きつさき、鍔をふくんで紫雲の如く立上たちのぼ燒刃やきばにほひ目もむるばかり。打ち見やりて時頼莞爾につこと打ちみ、二振三振ふたふりみふり不圖ふと平見ひらみに映る我が顏見れば、こはいかに、内落ち色蒼白あをじろく、ありし昔に似もつかぬ悲慘の容貌。打ち駭きて、ためつ、すがめつ、見れば見るほど變り果てし面影おもかげは我ならで外になし。扨も窶れたるかな、はづかしや我を知れる人は斯かるすがたを何とか見けん――、そも斯くまで骨身をいためし哀れを思へば、深さは我ながら程知らず、是もが爲め、思へば無情つれな人心ひとごゝろかな。

 碎けよと握り詰めたるつかも氣も何時いつしかゆるみて、臥蠶ぐわさん太眉ふとまゆ閃々と動きて、覺えず『あゝ』と太息といきつけば、霞む刀に心も曇り、うつるは我面わがかほならで、烟の如き横笛が舞姿。是はとばかり眼を閉ぢ、氣を取り直し、鍔音高くやいばを鞘に納むれば、跡には燈の影ほの暗く、障子に映る影さびし。

 嗚呼々々、六尺のに人竝みの膽は有りながら、さりとは腑甲斐なき我身かな。影も形もなき妄念まうねんに惱まされて、しらで過ぎし日はまだしもなれ、迷ひの夢の醒め果てし今はのきはに、めめしき未練は、あはれ武士ぞと言ひ得べきか。輕しとかこちし三尺二寸、双腕もろうでかけて疊みしはそも何の爲の極意ごくいなりしぞ。祖先の苦勞を忘れて風流三昧にうつゝを拔かす當世武士を尻目にかけし、半歳前の我は今何處いづくにあるぞ。武骨者と人の笑ふを心に誇りし齋藤時頼に、あはれ今無念の涙は一滴も殘らずや。そもや瀧口が此身は空蝉うつせみのもぬけのからにて、腐れしまでも昔の膽の一片も殘らぬか。

 世に畏るべき敵に遇はざりし瀧口も、戀てふ魔神には引く弓もなきに呆れはてぬ。無念と思へば心愈々亂れ、心愈々亂るゝにれて、亂脈打てる胸の中に迷ひの雲は愈々擴がり、果は狂氣の如くいらちて、時ならぬ鳴弦の響、劍撃の聲に胸中の渾沌をすまさんと務むれども、心茲にあらざれば見れども見えず、聞けども聞えず、命の蔭に蹲踞うづくまる一念の戀は、玉の緒ならで斷たん術もなし。

 誠や、戀に迷へる者は猶ほ底なき泥中に陷れるが如し。一寸うへに浮ばんとするは、一寸したに沈むなり、一尺きしのぼらんとするは、一尺そこくだるなり、所詮自ら掘れる墳墓に埋るゝ運命は、悶え苦みて些の益もなし。されば悟れるとは己れが迷を知ることにして、そをだつせるのいひにはあらず。哀れ、戀の鴆毒ちんどくかすも殘さず飮みせる瀧口は、只々坐して致命の時を待つの外なからん。

Etext Home | Library Home | Search the Library Web
Contact Us:UVA Library Feedback
Last Modified:Thursday, February 13, 2025
© 2025 The Rector and Visitors of the University of Virginia
Japanese Text Initiative
Electronic Text Center | University of Virginia Library
PO Box 400148 | Charlottesville VA 22904-4148
434.243.8800 | fax: 434.924.1431