瀧口入道

   第九

 天にも地にも意外の一言に、左衞門呆れて口も開かず、只々其子の顏色打ち[9]まもれば、瀧ロは徐ろに涙を拂ひ、『思ひの外なる御驚おんおどろききに定めてうわそらともおぼされんが、此願ひこそは時頼が此座の出來心できごゝろにては露候つゆさふらはず、斯かる曉にはとかねてより思決おもひさだめし事に候。事の仔細を申さば、只々御心にたがふのみなるべけれども、申さざれば猶ほ以て亂心の沙汰とも思召おぼしめされん。申すも思はゆげなる横笛が事、まこと言ひかはせし事だになけれども、我のみの哀れは中々に深さの程こそ知れね、つれなき人の心に猶更なほさら狂ふ心の駒を繋がむ手綱たづなもなく、此の春秋はるあきは我身ながらつらかりし。神かけて戀に非ず、迷に非ずと我は思へども、人には浮氣とや見えもしけん。唯々つるぎに切らん影もなく、弓もて射んまともなき心の敵に向ひて、そもいくその苦戰をなせしやは、父上、此の顏容かほかたちのやつれたるにて御推量下されたし。時頼が六尺の體によくもになひしと自らすら駭く計りなる積り/\し憂事うきことの數、我ならで外に知る人もなく、只々戀の奴よ、心弱き者よと世上せじやうの人に歌はれん殘念さ、誰れに向つて推量あれとも言はん人なきこそ、返す返すも口惜しけれ。此儘の身にては、どの顏げて武士よと人に呼ばるべき、腐れし心をいだきて、外見ばかりの伊達だてに指さん事、兩刀の曇なき手前に心とがめて我から忍びず、只々此上は横笛に表向き婚姻を申入るゝ外なし、されどつれなき人心、今更靡かん樣もなく、且や素性すじやういやしき女子なれば、物堅き父上の御容おんゆるしなき事もとより覺悟候ひしが、只々最後の思出おもひでにお耳を汚したるまでなりき。所詮天魔に魅入みいられし我身の定業ぢやうごふと思へば、心を煩はすもの更になし。今は小子それがしが胸には横笛がつれなき心も殘らず、月日と共に積りし哀れも宿さず、人の恨みも我がいつくしみも洗ひし如く痕なけれども、殘るは只々此世の無常にして頼み少きこと、秋風の身にしみ/″\と感じて有漏うろの身の換へ難き恨み、今更骨身ほねみこたへ候。おもんみれば誰が保ちけん東父西母がいのち、誰がめたりし不老不死の藥、電光の裏に假の生を寄せて、妄念の間に露の命を苦しむ、おろかなりし我身なりけり。横笛が事、御容しなきこと小子それがしに取りては此上もなき善知識。今日けふを限りに世を厭ひて誠の道に入り、墨染のころもに一生を送りたき小子それがしが決心。二十餘年の御恩の程は申すもおろかなれども、何れのがれ得ぬ因果の道と御諦おんあきらめありて、なが御暇おんいとまを給はらんこと、時頼が今生こんじやうの願に候』。胸一杯の悲しみにことばさへ震へ、語り了ると其儘、齒根はぐき喰ひしばりて、と耐ゆる斷腸の思ひ、勇士の愁歎、流石さすがにめゝしからず。

 過ぎせし六十餘年の春秋、武門の外を人の住むべき世とも思はず、涙は無念の時出づるものぞと思ひし左衞門が耳に、哀れに優しき瀧口が述懷の、何としてかるべき。歌詠うたよむ人の方便とのみ思ひ居し戀に惱みしと言ふさへあるに、木のはしとのみ嘲りし世捨人よすてびとが現在我子の願ならんとは、左衞門如何いかでか驚かざるを得べき。夢かとばかり、一度は呆れ、一度は怒り、老の兩眼に溢るゝばかりの涙を浮べ、『やよせがれ、今言ひしは慥に齋藤時頼が眞の言葉か、幼少より筋骨きんこつ人に勝れて逞しく、膽力さへすわりたる其方、行末の出世の程も頼母しく、我が白髮首しらがくび生甲斐いきがひあらん日をば、指折りながら待侘まちわび居たるには引換へて、今と言ふ今、老の眼に思ひも寄らぬ恥辱を見るものかな。奇怪とや言はん、不思議とや言はん。慈悲深き小松殿が、左衞門は善き子を持たれし、と我を見給ふ度毎たびごとのお言葉を常々人に誇りし我れ、今更乞食坊主の悴を持ちて、いづこに人にあはする二つの顏ありと思うてか。やよ、時頼、ヨツク聞け、他は言はず、先祖代々よりの齋藤一家が被りし平家の御恩はそも幾何なりと思へるぞ。殊に弱年の其方を那程あれほどに目をかけ給ふ小松殿の御恩に對しても、よし如何に堪へ難き理由わけあればとて、斯かる方外の事、言はれ得る義理か。弓矢の上にこそ武士の譽はあれ、兩刀捨てて世を捨てて、悟り顏なる悴を左衞門は持たざるぞ。上氣じやうきの沙汰ならば容赦ようしやもせん、性根しやうねを据ゑて、不所存のほどあやまつたと言はぬかツ』。兩の拳を握りて、怒りの眼は鋭けれども、恩愛の涙は忍ばれず、雙頬傳うてはふり落つるを拭ひもやらず、一息つよく、『どうぢや、時頼、返答せぬかッ』。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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