胸中一戀字を擺脱すれば、便ち十分爽淨、十分自在。人生最も苦しき處、只々是れ此の心。然ればにや失意の情に世をあぢきなく觀じて、嵯峨の奧に身を捨てたる齋藤時頼、瀧口入道と法の名に浮世の名殘を留むれども、心は生死の境を越えて、瑜伽三密の行の外、月にも露にも唱ふべき哀れは見えず、荷葉の三衣、秋の霜に堪へ難けれども、一杖一鉢に法捨を求むるの外、他に望なし。實にや輪王位高けれども七寶終に身に添はず、雨露を凌がぬ檐の下にも圓頓の花は匂ふべく、眞如の月は照らすべし。旦に稽古の窓に凭れば、垣を掠めて靡く霧は不斷の烟、夕に鑽仰の嶺を攀づれば、壁を漏れて照る月は常住の燭、晝は御室、太秦、梅津の邊を巡錫して、夜に入れば、十字の繩床に結跏趺坐して[14]※阿の行業に夜の白むを知らず。されば僧坊に入りてより未だ幾日も過ぎざるに、苦行難業に色黒み、骨立ち、一目にては十題判斷の老登科とも見えつべし。あはれ、厚塗の立烏帽子に鬢を撫上げし昔の姿、今安くにある。今年二十三の壯年とは、如何にしても見えざりけり。
顧みれば瀧口、性質にもあらで形容邊幅に心を惱めたりしも戀の爲なりき。仁王とも組んず六尺の丈夫、體のみか心さへ衰へて、めゝしき哀れに弓矢の恥を忘れしも戀の爲なりき。思ヘば戀てふ惡魔に骨髓深く魅入られし身は、戀と共に浮世に斃れんか、將た戀と共に世を捨てんか、擇ぶベき途只々此の二つありしのみ。時頼世を無常と觀じては、何恨むべき物ありとも覺えず、武士を去り、弓矢を捨て、君に離れ、親を辭し、一切衆縁を擧げ盡して戀てふ惡魔の犧牲に供へ、跡に殘るは天地の間に生れ出でしまゝの我身瀧口時頼、命とともに受繼ぎし濶達の氣風再び欄漫と咲き出でて、容こそ變れ、性質は戀せぬ前の瀧口に少しも違はず。名利の外に身を處けば、自から嫉妬の念も起らず、憎惡の情も萌さず、山も川も木も草も、愛らしき垂髫も、醜き老婆も、我れに惠む者も、我れを賤しむ者も、我れには等しく可愛らしく覺えぬ。げに一視平等の佛眼には四海兄弟と見えしとかや。病めるものは之を慰め、貧しきものは之を分ち、心曲りて郷里の害を爲すものには因果應報の道理を諭し、凡て人の爲め世の爲めに益あることは躊躇ふことなく爲し、絶えて彼此の差別なし。然れば瀧口が錫杖の到る所、其風を慕ひ其徳を仰がざるはなかりけり。或時は里の子供等を集めて、昔の剛者の物語など面白く言ひ聞かせ、喜び勇む無邪氣なる者の樣を見て呵々と打笑ふ樣、二十三の瀧口、何日の間に習ひ覺えしか、さながら老翁の孫女を弄ぶが如し。
斯くて風月ならで訪ふ人もなき嵯峨野の奧に、世を隔てて安らけき朝夕を樂しみ居しに、世に在りし時は弓矢の譽も打捨て、狂ひ死に死なんまで焦れし横笛。親にも主にも振りかへて戀の奴となりしまで慕ひし横笛。世を捨て樣を變へざれば、吾から懸けし戀の絆を解く由もなかりし横笛。其の横笛の音づれ來しこそ意外なれ。然れど瀧口、口にくはへし松が枝の小搖ぎも見せず。見事振鈴の響に耳を澄まして、含識の流、さすがに濁らず。思へば悟道の末も稍々頼もしく、風白む窓に、傾く月を麾きて冷かに打笑める顏は、天晴大道心者に成りすましたり。
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さるにても横笛は如何になりつるや、往生院の門下に一夜を立ち明かして曉近く御所に還り、後の二三日は何事もなく暮せしが、間もなく行衞知れずなりて、其部屋の壁には日頃手慣れし古桐の琴、主待ちげに見ゆるのみ。