消えわびん露の命を、何にかけてや繋ぐらんと思ひきや、四五日經て瀧口が顏に憂の色漸く去りて、今までの如く物につけ事に觸れ、思ひ煩ふ樣も見えず、胸の嵐はしらねども、表面は槇の梢のさらとも鳴らさず、何者か失意の戀にかへて其心を慰むるものあればならん。
一日、瀧口は父なる左衞門に向ひ、『父上に事改めて御願ひ致し度き一義あり』。左衞門『何事ぞ』と問へば、『斯かる事、我口より申すは如何なものなれども、二十を越えてはや三歳にもなりたれば、家に洒掃の妻なくては萬に事缺けて快からず、幸ひ時頼見定め置きし女子有れば、父上より改めて婚禮を御取計らひ下されたく、願ひと言ふは此事に候』。人傳てに名を聞きてさへ愧らふべき初妻が事、顏赤らめもせず、落付き拂ひし語の言ひ樣、仔細ありげなり。左衞門笑ひながら、『これは異な願ひを聞くものかな、晩かれ早かれ、いづれ持たねばならぬ妻なれば、相應はしき縁もあらばと、老父も疾くより心懸け居りしぞ。シテ其方が見定め置きし女子とは、何れの御内か、但しは御一門にてもあるや、どうぢや』。『小子が申せし女子は、然る門地ある者ならず』。『然らばいかなる身分の者ぞ、衞府附の侍にてもあるか』。『否、さるものには候はず、御所の曹司に横笛と申すもの、聞けば御室わたりの郷家の娘なりとの事』。
瀧口が顏は少しく青ざめて、思ひ定めし眼の色徒ならず。父は暫し語なく俯ける我子の顏を凝視め居しが、『時頼、そは正氣の言葉か』。『小子が一生の願ひ、神以て詐りならず』。左衞門は兩手を膝に置き直して聲勵まし、『やよ時頼、言ふまでもなき事なれど、婚姻は一生の大事と言ふこと、其方知らぬ事はあるまじ。世にも人にも知られたる然るべき人の娘を嫁子にもなし、其方が出世をも心安うせんと、日頃より心を用ゆる父を其方は何と見つるぞ。よしなき者に心を懸けて、家の譽をも顧みぬほど、無分別の其方にてはなかりしに、扨は豫てより人の噂に違はず、横笛とやらの色に迷ひしよな』。『否、小子こと色に迷はず、香にも醉はず、神以て戀でもなく浮氣でもなし、只々少しく心に誓ひし仔細の候へば』。
左衞門は少しく色を起し、『默れ時頼、父の耳目を欺かん其の語、先頃其方が儕輩の足助の二郎殿、年若きにも似ず、其方が横笛に想ひを懸け居ること、後の爲ならずと懇に潛かに我に告げ呉れしが、其方に限りて浮きたる事のあるべきとも思はれねば、心も措かで過ぎ來りしが、思へば父が庇蔭目の過ちなりし。神以て戀にあらずとは何處まで此父を袖になさんずる心ぞ、不埒者め。話にも聞きつらん、祖先兵衞直頼殿、餘五將軍に仕へて拔群の譽を顯はせしこのかた、弓矢の前には後れを取らぬ齋藤の血統に、女色に魂を奪はれし未練者は其方が初めぞ。それにても武門の恥と心付かぬか、弓矢の手前に面目なしとは思はずか。同じくば名ある武士の末にてもあらばいざしらず、素性もなき土民郷家の娘に、茂頼斯くて在らん内は、齋藤の門をくゞらせん事思ひも寄らず』。
老の一徹短慮に息卷き荒く罵れば、時頼は默然として只々差俯けるのみ。やゝありて、左衞門は少しく面を和らげて、『いかに時頼、人若き間は皆過ちはあるものぞ、萌え出づる時の美はしさに、霜枯の哀れは見えねども、何れか秋に遭はで果つべき。花の盛りは僅に三日にして、跡の青葉は何れも色同じ、あでやかなる女子の色も十年はよも續かぬものぞ、老いての後に顧れば、色めづる若き時の心の我ながら解らぬほど癡けたるものなるぞ。過ちは改むるに憚る勿れとは古哲の金言、父が言葉腑に落ちたるか、横笛が事思ひ切りたるか。時頼、返事のなきは不承知か』。
今まで眼を閉ぢて默然たりし瀧口は、やうやく首を擡げて父が顏を見上げしが、兩眼は潤ひて無限の情を湛へ、滿面に顯せる悲哀の裡に搖がぬ決心を示し、徐ろに兩手をつきて、『一一道理ある御仰、横笛が事、只今限り刀にかけて思ひ切つて候、其の代りに時頼が又の願ひ、御聞屆下さるべきや』。左衞門は然さもありなんと打點頭き、『それでこそ茂頼が悴、早速の分別、父も安堵したるぞ、此上の願とは何事ぞ』。『今日より永のおん暇を給はりたし』。言ひ終るや、堰止めかねし溜涙、はら/\と流しぬ。