二月初旬ふと引きこみし風邪の、ひとたびは[14]※りしを、ある夜姑の胴着を仕上ぐるとて急ぐままに夜ふかししより再びひき返して、今日二月の十五日というに浪子はいまだ床あぐるまで快きを覚えざるなり。
今年の寒さは、今年の寒さは、と年々に言いなれし寒さも今年こそはまさしくこれまで覚えなきまで、日々吹き募る北風は雪を誘い雨を帯びざる日にもさながら髄を刺し骨をえぐりて、健やかなるも病み、病みたるは死し、新聞の広告は黒囲のみぞ多くなり行く。この寒さはさらぬだに強からぬ浪子のかりそめの病を募らして、取り立ててはこれという異なれる病態もなけれど、ただ頭重く食うまからずして日また日を渡れるなり。
今二点を拍ちし時計の蜩など鳴きたらんように凛々と響きしあとは、しばし物音絶えて、秒を刻み行く時計のかえって静けさを加うるのみ。珍しくうららかに浅碧をのべし初春の空は、四枚の障子に立て隔てられたれど、悠々たる日の光くまなく紙障に栄えて、余りの光は紙を透かして浪子が仰ぎ臥しつつ黒スコッチの韈を編める手先と、雪より白き枕に漂う寝乱れ髪の上にちらちらおどりぬ。左手の障子には、ひょろひょろとした南天の影手水鉢をおおうてうつむきざまに映り、右手には[15]槎※たる老梅の縦横に枝をさしかわしたるがあざやかに映りて、まだつぼみがちなるその影の、花は数うべくまばらなるにも春の浅きは知られつべし。南縁暄を迎うるにやあらん、腰板の上に猫の頭の映りたるが、今日の暖気に浮かれ出でし羽虫目がけて飛び上がりしに、捕りはずしてどうと落ちたるをまた心に関せざるもののごとく、悠々としてわが足をなむるにか、影なる頭のしきりにうなずきつ。微笑を含みてこの光景を見し浪子は、日のまぶしきに眉を攅め、目を閉じて、うっとりとしていたりしが、やおらあなたに転臥して、編みかけの韈をなで試みつつ、また縦横に編み棒を動かし始めぬ。
ドシドシと縁に重やかなる足音して、矮き仁王の影障子を伝い来つ。
「気分はどうごあんすな?」
と枕べにすわるは姑なり。
「今日は大層ようございます。起きられるのですけども――」と編み物をさしおき、襟の乱れを繕いつつ、起き上がらんとするを、姑は押しとめ、
「そ、そいがいかん、そいがいかん。他人じゃなし、遠慮がいッもンか。そ、そ、そ、また編み物しなはるな。いけませんど。病人な養生が仕事、なあ浪どん。和女は武男が事ちゅうと、何もかも忘れッちまいなはる。いけません。早う養生してな――」
「本当に済みません、やすんでばかし……」
「そ、そいが他人行儀、なあ。わたしはそいが大きらいじゃ」
うそをつきたもうな、卿は常に当今の嫁なるものの舅姑に礼足らずとつぶやき、ひそかにわが[16]※のこれに異なるをもっけの幸と思うならずや。浪子は実家にありけるころより、口にいわねどひそかにその継母のよろず洋風にさばさばとせるをあきたらず思いて、一家の作法の上にはおのずから一種古風の嗜味を有せるなりき。
姑はふと思い出でたるように、
「お、武男から手紙が来たようじゃったが、どう書えて来申した?」
浪子は枕べに置きし一通の手紙のなかぬき出して姑に渡しつつ、
「この日曜にはきっといらッしゃいますそうでございますよ」
「そうかな」ずうと目を通してくるくるとまき収め、「転地養生もねもんじゃ。この寒にエットからだ動かして見なさい、それこそ無か病気も出て来ます。風邪はじいと寝ておると、なおるもんじゃ。武は年が若かでな。医師をかえるの、やれ転地をすッのと騒ぎ申す。わたしたちが若か時分な、腹が痛かてて寝る事なし、産あがりだて十日と寝た事アあいません。世間が開けて来っと皆が弱うなり申すでな。はははは。武にそう書えてやったもんな、母さんがおるで心配しなはんな、ての、ははははは、どれ」
口には笑えど、目はいささか懌ばざる色を帯びて、出で行く姑の後ろ影、
「御免遊ばせ」
と起き直りつつ見送りて、浪子はかすかに吐息を漏らしぬ。
親が子をねたむということ、あるべしとは思われねど、浪子は良人の帰りし以来、一種異なる関係の姑との間にわき出でたるを覚えつ。遠洋航海より帰り来て、浪子のやせしを見たる武男が、粗豪なる男心にも留守の心づかいをくみて、いよいよいたわるをば、いささか苦々しく姑の思える様子は、怜悧き浪子の目をのがれず。時にはかの孝――姑のいわゆる――とこの愛の道と、一時に踏み難く岐るることあるを、浪子はひそかに思い悩めるなり。
「奥様、加藤様のお嬢様がおいで遊ばしましてございます」
と呼ぶ婢の声に、浪子はぱっちり目を開きつ。入り来る客を見るより喜色はたちまち眉間に上りぬ。
「あ、お千鶴さん、よく来たのね」