不如帰

三の二

 武男が思えるはこれなり。

 一週前の事なりき。武男は読みあきし新聞を投げやりて、ベッドの上にあくびしつつ、窓外を打ちながめぬ。同室の士官昨日退院して、室内には彼一人なりき。時は黄昏に近く、病室はほのぐらくして、窓外には秋雨滝のごとく降りしきりぬ。隣室の患者に電気かくるにやあらん。じじの響き絶え間なく雨に和して、うたた室内のわびしさを添えつ。聞くともなくその響に耳を仮して、目は窓に向かえば、吹きしぶく雨淋漓としてガラスにしたたり、しとどぬれたる夕暮れの庭はまだらに現われてまた消えつ。

 茫然としてながめ入りし武男は、たちまち頭より毛布を引きかつぎぬ。

 五分ばかりたちて、人の入り来る足音して、

 「お荷物が届きました。……おやすみですか」

 頭を出せば、ベッドの横側に立てるは、小使いなり。油紙包みを抱き、廿文字にからげし重やかなる箱をさげて立ちたり。

 荷物? 田崎帰りてまだ幾日もなきに、たが何を送りしぞ。

 「ああ荷物か。どこからだね?」

 小使いが読める差し出し人は、聞きも知らぬ人の名なり。

 「ちょっとあけてもらおうか」

 油紙を解けば、新聞、それを解けば紫の包み出でぬ。包みを解けば出でたり、ネルの単衣、柔らかき絹物の袷、白縮緬の兵児帯、雪を欺く足袋、袖広き襦袢は脱ぎ着たやすかるべく、真綿の肩ぶとんは長き病床に床ずれあらざれと願うなるべし。箱の内は何ぞ。莎縄を解けば、なかんずく好める泡雪梨の大なるとバナナのあざらけきとあふるるまでに満ちたり。武男の心臓の鼓動は急になりぬ。

 「手紙も何もはいっていないかね?」

 彼をふるいこれを移せど寸の紙だになし。

 「ちょいとその油紙を」

 包み紙をとりて、わが名を書ける筆の跡を見るより、たちまち胸のふさがるを覚えぬ。武男はその筆を認めたるなり。

 彼女なり。彼女なり。彼女ならずしてたれかあるべき。その縫える衣の一針ごとに、あとはなけれどまさしくそそげる千行の涙を見ずや。その病をつとめて書ける文字の震えるを見ずや。

 人の去るを待ち兼ねて、武男は男泣きに泣きぬ。

 もとより涸れざる泉は今新たに開かれて、武男は限りなき愛の滔々としてみなぎるを覚えつ。昼は思い、夜は彼女を夢みぬ。

 されど夢ほどに世は自由ならず。武男はもとより信じて思いぬ、二人が間は死だもつんざくあたわじと。いわんや区々たる世間の手続きをや。されどもその心を実にせんとしては、その区々たる手続き儀式が企望と現実の間に越ゆべからざる障壁として立てるを覚えざるあたわざりき。世はいかにすとも、彼女は限りなくわが妻なり。されど母はわが名によって彼女を離別し、彼女が父は彼女に代わって彼女を引き取りぬ。世間の前に二人が間は絶えたるなり。平癒を待って一たび東に帰り、母にあい、浪子を訪うて心を語り、再び彼女を迎えんか。いかに自ら欺くも、武男はいわゆる世間の義理体面の上よりさることのなすべくまたなしうべきを思い得ず、事は成らずして畢竟再び母とわれとの間を前にも増して乖離せしむるに過ぎざるべきを思いぬ。母に逆らうの苦はすでになめたり。

 広い宇宙に生きて思わぬ桎梏にわが愛をすら縛らるるを、歯がゆしと思えど、武男は脱るる路を知らず、やる方なき懊悩に日また日を送りつつ、ただ生死ともにわが妻は彼女と思いてわずかに自ら慰めあわせて心に浪子をば慰めけるなり。

 今朝も夢さめて武男が思える所は、これなりき。

 この朝軍医が例のごとく来たり診して、傷のいよいよ全癒に向かうに満足を表して去りし後、一封の書は東京なる母より届きぬ。書中には田崎帰りていささか安堵せるを書き、かついささか話したき事もあれば、医師の許可次第ひとまず都合して帰京すべしと書きたり。話したき事! もしくは彼がもっとも忌みかつ恐るるある事にはあらざるか。武男は打ち案じぬ。

 武男はついに帰京せざりき。

 十一月初旬、彼とひとしく黄海に手負いし彼が乗艦松島の修繕終わりて戦地に向かいしと聞くほどもなく、わずかに医師の許容を得たる武男は、請うて運送船に便乗し、あたかも大連湾を取って同湾に碇泊せる艦隊に帰り去りぬ。

 佐世保を出発する前日、武男は二通の書を投函せり。一はその母にあてて。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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