About the electronic version:
Title: Futatsu chocho kuruwa nikki
Title: [electronic resource]
Author: Takeda, Izumo; Miyoshi, Shoraku; Namiki, Sosuke

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Publisher: Charlottesville, Virginia : University of Virginia Library , Japanese Text Initiative, TakFuta Publicly accessible

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©2003 by the Rector and Visitors of the University of Virginia


About the original source:
Title: Nihon gikyoku zenshu dai 29 kan
Title: Gidayu kyogen sewamonoshu
Title:
Author: Izumo Takeda, Shoraku Miyoshi, and Sosuke Namiki

Publisher: Tokyo : Shun'yodo , 1930





關取の濡髮

名取の放駒




双蝶々曲輪日記



双蝶々曲輪日記
序幕 浮無瀬の場
清水堂の場

役名==山崎屋與五郎。


同手代、權九郎。


藤屋利八。


藤屋吾妻。


藤屋都。


平岡郷左衞門。


三原有右衞門。


傾城折鶴。


同、玉琴。


藝子、豐野。


太皷持ち、佐渡七。


南與兵衞。


造り物、浮無瀬、大座敷の體。幕内より傾城吾妻、折鶴、玉琴、好みの拵らへ。曳船、禿、大勢、並よく並び居る。藝子豐野、好みの拵らへ、太皷持ち佐渡七、豊野を煽ぎ立て居る。この見得、山姥のチラシにて幕開く。


[ト書]

トこれにて仲居おいわ、おさき、おもん、銚子杯、肴鉢を持ち出る。姉女郎都、附き添ひ出る。



佐渡

豐野さんの山姥の振り事、けうといものでござります。いつぞや見たより、扇の手が、餘ツぽどよかつたわいなう。



さき

どうでも此方の贔屓の藝子さん。




ヨウ/\、豐野さん/\。



佐渡

お前ばつかりは、ハテ、なんでも太夫さん方に、贔屓にしてもらはねばならぬ。



[ト書]

ト豊野を前へ連れ出る。



[佐渡]

いよ/\御贔屓を、ヅイと希ひ願ひ奉ります。



[ト書]

ト引合せのやうに云ふ。



折鶴

佐渡七さんが頼ましやんせいでも、豐野すは、贔屓でおますわいなア。



玉琴

隨分お客を引きつけう程に、早う袖詰めさしやんせえ。



豊野

よろしう、お頼み申し上げます。



佐渡

オツと、氣遣ひせまい。そのお客は、この佐渡七が引きつけて、お初穗を、おれが戴くぢや。



[ト書]

ト抱きつかうとするを、振り放し



豊野

こちや、知らぬわいなア。



佐渡

その、おぼこい所を。



[ト書]

ト捉へにかゝる。



豊野

アレイ。



[ト書]

ト逃げて玉琴の後へ隱れる。折鶴と仲居三人立ちかゝり



仲三

佐渡七さん、堪忍して上げさしやんせいなア。



佐渡

イヤ、堪忍はならぬ。留めて取つてくりよ。



[ト書]

ト踊り三味線になり、四人、豊野を捕へにかゝる。皆皆、捕へさせぬ模樣、蛇尾とろになり、よろしくあり



もん

これはしたり、佐渡七さん、よい加減にほたへなませ。太夫主達も、見つとむない。お前がたばかりの陽氣にしましても、肝心の此方の太夫主の氣が浮かぬわいなア。



禿皆

佐渡七、主は氣がないぞえ、



佐渡

誠に、負うた子に教へられて、アハヽヽヽ。どう云ふかう云はうと、云ふ御子もてぬお顏。申し太夫さん、こりやどうでござります。



吾妻

わたしが持てぬ顏して居るを、知らずかいなア、都さん。




里の惡口云はしやんす程にもない、佐渡七主、嗜なましやんせいなア。



佐渡

イカサマ、憂河竹の持てぬ顏とは、節季には、まだ早し。よもやお腹が、岩田帶と云ふでもあるまいし。



禿皆

戀ぢやわいなア。



佐渡

なんぢや。戀ぢや。待つたり、逃げ戀、待つ戀、忍ぶ戀、この三つのうちぢやわい。




オヽ、愚鈍やの。



佐渡

オヽぐどん。ひだるい時にぐどん蕎麥切り、もう來さうなものぢやが。エヽ、聞えた。待つ戀に、違ひなし違ひなし。



もん

やう/\合點がいたさうなわいなア。




吾妻さんは、與五郎さんがござんせぬに依つて、辛氣に思うてゞござんすやら。



吾妻

都さんは、與平さんが。



[ト書]

ト兩人、顏見合せ



兩人

オヽをかし。



吾妻

ほんに、譬へに云ふ通り、待たるゝと



佐渡

松は、松坂越えたえ。



[ト書]

ト音頭のやうに云ふ。踊り三味線になり、佐渡七、禿踊る。この一件、皆々奧へ入る。



[唄]

すぎはひは、草の種とやさま%\に、世を浮き節の笛細工、傘に小笛をぶら/\と、子供たらしの荷ひ賣り、清水邊を吹き歩く。



[ト書]

トこの淨瑠璃にて、向うより與兵衞、好みの形、荷を持ち出て



與兵

サア/\、買うたり/\、横笛鹿笛唐人笛。



[唄]

吹き立て/\賣り立つる、笛の音に寄る鹿ならで、合圖の笛を聞くよりも、都はソツと座敷を拔け出し。



[ト書]

ト與兵衞、本舞臺へ來る。ト奧より都、出て




與兵衞さん、よう來て下さんした。逢ひたかつた逢ひたかつたわいなア。



與兵

おれも其方の文を見たゆゑ、早速昨夜にも來ようと思うたれど、この浮無瀬は揚屋と違うて、夜はちよつとも、逢はれまいと思うて、商ひの出がけに來た。して、急に逢ひたいと云やる用は。




サア、その急な用と云ふは、外でもない。いつぞやから、九軒の井筒へ來る客に、有右衞門と云ふ、憎てらしい侍ひがござんす。その侍ひ面めが、わたしを身請けすると云うて、親方に引合うたとやら云ふ噂で、それでこの事を、お前に知らせたのでござんすわいなア。



與兵

よう知らせてたもつた。わしが流浪も、云はゞ其方ゆゑ。その太夫が、外へ身請けしられるを、なんで默つて見て居られう。




まだそればかりぢやござんせん。お前に云はねばならぬのは、與五郎さまの手代權九郎、太鼓の佐渡七もろともに、昨日から段々と、わしに云ふのを聞かしやんせ、追ツつけ年も明くなれば、何かにつけて心に叶はぬ事がある。借錢萬事を請け込まう、どうぞ逃げてくれんかと、あの佐渡七面めが、同じやうにアタ憎てらしい。どこで聞いたやら、お前の事まで云ひくさるわいなア。



與兵

そりや死際に樂しうなると、好い鳥がかゝつて仕合せ。逢うてやつたがよいわいの。




エヽ、逢ふ氣ならお前に云やせぬ。もし疑ひの心もあらうかと、思うて云ふに其やうな、つれない詞は胴慾なわいなア。



[唄]

恨みつらみも人目を忍び。



[ト書]

ト都、與兵衞に取りつくと、奧にて



禿

アイ/\。



[ト書]

ト禿、走り出る。兩人、ちやつと、素知らぬこなし。



[禿]

都さん、爰にかいなア。吾妻さんが、呼んでぢやぞえ。




もうそこへ行く程に、先へ行て下さんせ。



禿

そんなら、早う來ませやア。



[ト書]

ト奧へ入る。




オヽ忙し。これでは、なんにも話しする間がない。追ツつけ首尾して來う程に、ちつとの間、待つて下さんせ。



與兵

心長う、待たす事はならぬぞや。




合點ぢやわいなア。



與兵

嘘ぢやないか。




オヽくど。



[唄]

都に別れ南與兵衞、暫し木蔭に待ち居たる。



[ト書]

ト都、心を殘し、奧へ入る。與兵衞、荷を片寄せ、下手へ隱るゝと、踊り三味線になり、向うより與五郎、衣裳、羽織、好みの拵らへにて、丁稚治郎吉を伴ひ出て、花道、よき所にて



與五

アゝ、面白さうに、騷ぐワ/\。なんと治郎吉、面白い所であらうが。



治郎

爰は、なんと申す所でござりますえ。



與五

爰は、清水の浮無瀬と云ふ所ぢや。今日は、太夫が來て居やる筈ぢやが、爰へ來て居い、安井から、天王寺へ向つて來ると云うて置いたが、まだ來ぬか、誰れぞに、聞きたいものぢやが。



佐渡

つい一走り行て、見て參りませう。



[ト書]

ト奧にて云ひ/\出る。與五郎、見て、手を叩く。



[佐渡]

旦那、きつい、お持たせぶりでござりますなア。



與五

オヽ佐渡七か。今日は大儀々々。太夫は來て居るか。



佐渡

來て居るかとは、愚か/\。あなたが遲いと云うて、酒も知らず、飯も食べず、大機嫌惡でござります。ちよつと、あなたのお顏を、お目にかけて下さりませ。



與五

そんなら、なんと云ふ。おれが遲いと云うて、太夫が腹立てゝ居たか。



佐渡

イヤモウ、側が堪るもんぢやござりませぬ。



與五

アノ、ほんまにか。



佐渡

眞實、誓文。



與五

早う知らせてくれ/\。



佐渡

畏まつたと、急ぎ行く。



[ト書]

ト淨瑠璃にて、奧へ入る。



與五

治郎吉、おれは爰から、直ぐに仲へ行くに依つて、明日の朝、新町の折屋へ迎へに來い。



治郎

畏まりました。



[ト書]

ト橋がゝりへ走り入る。



與五

また冗談するな。



[ト書]

ト後を見送り



[與五]

冗談せうと思うて、嬉しがつて行き居つた。ハヽヽ。併しなア、彼奴が冗談のしたいも、おれが、山崎へ去にとむないも、同じやうなものかい。



[ト書]

ト合ひ方になり、此うち吾妻、出かけ、物云はうとしても、與五郎、矢張り向う向きにこの臺詞云うて居るゆゑ、いろ/\あつて、トヾ癪の發りしこなし、ウンと反る。與五郎、これにて恟り、側へ寄つて、



[與五]

太夫、なんとしやつた。



[ト書]

ト吾妻、氣附かぬこなし。



[與五]

サア/\、癪が發つたさうな。



[ト書]

ト抱きかゝへ、耳に口をよせて



[與五]

吾妻やい、太夫いなう。



[ト書]

トいろ/\呼び生ける。吾妻、矢ツ張りのさつてゐる。與五郎、いろ/\として脊中を撫でながら



與五

太夫、氣が付いたか/\。



[ト書]

ト手を放す。吾妻、バツタリこける。



[與五]

ヤイ/\、矢ツ張り氣が付かぬさうな。吾妻やアい、太夫やアい。



[ト書]

トいろ/\うろたへる事あつて



[與五]

こりやモウ、どうもならぬ。誰れぞ、來てくれいや。



[ト書]

ト奧より都、玉琴、折鶴、豊野、禿、仲居三人、曳船佐渡七、皆々バラ/\と出て



皆々

なんでござりまする。



與五

なんぢやどころか、太夫が、癪が發つた、目が舞つた/\。



皆々

エヽ。



曳船

さうして、太夫主が氣附かぬかいなア。




お醫者樣を、早う呼びにやつたが、よいわいなア。



與五

さうぢや/\。誰れぞ、早う醫者を呼んで來て。



もん

それでも、爰らの勝手は知らず。



さき

と云うて、捨てゝも置かれず。



與五

どうぞ仕やうは、ないかいやい。



玉琴

困つたものでござります。



與五

コリヤ/\佐渡七、どうぞ太夫の氣附く、好い思案はないか。思案してくれ/\。



佐渡

なんぼう旦那のお詞でも、斯うなつては、私しぢやて、醫術は覺えず、藤井ではなし、とんと仕やうがござりませぬ。全體、これは皆、旦那、あなたから起つた事でござります。



與五

太夫が、癪が發つたを、おれが業とは。




そりや、お前が遲いに依つて、吾妻さんが例の、疳癪でござんすわいなア。



曳船

サア與五郎さん、太夫主を元のやうにして



玉折

戻さしやんせいなア。



與五

ぢやと云うて、そんな無理な事があるものか。おれぢやと云うて、遲う來る氣はないけれど、つい天王寺へ參つて行たに依つて、それでちつと隙が入つたのぢや。




イヽエその云ひ譯は



皆々

立たぬわいなア。



與五

そんな無理な事があるものか。あやまつて居る程に皆も思案してくれいやい。



佐渡

旦那、こりや皆、あなたが惡いからでござりますぞえ。



與五

サア、おれが惡いと云ふゆゑ、最前から、あやまつて居るわいなう。



佐渡

そんなら、ほんにあやまらしやりましたか。



與五

イヤモウ、近年の大あやまりぢや。



佐渡

なんと皆さん、旦那も餘ツぽど應へたさうと見えます。




あやまらしやんす事ならば、吾妻さんの氣附けの傳授を



皆々

教へて上げしやんせいなア



與五

南無佐渡七大明神、拜むわい/\。



佐渡

サア、その氣を附ける傳授は。



與五

その傳授は。



佐渡

マア、何がなしに、水を呑ました/\。



與五

オツと合點ぢや。



[ト書]

ト茶碗の水を持つて來て、吾妻の側へ行く。



佐渡

オツト、それではゆかぬ。口移しに呑ました、呑ました。



與五

合點ぢや。



[ト書]

ト口移しに水を呑まして



[與五]

斯うか/\。



皆々

その通り/\。



與五

さうして、どうぢや/\。



佐渡

それから、太夫主を、抱き上げた/\。



與五

オツと、よし/\、斯うか/\。



[ト書]

ト抱き上げる。



皆々

その通り/\。



與五

斯うして、どうぢや/\。



佐渡

サア、それからが、大事のところ。マア、太夫主の兩の手から、お前の兩手を、脊中へ廻した、脊中へ廻した。



與五

合點ぢや/\。



[ト書]

トよろしうあつて



[與五]

斯うか/\。



皆々

その通り/\。



與五

斯うして、どうぢや/\。



佐渡

サア、それから、抱き付いた/\。



[ト書]

ト吾妻を抱いて



與五

斯うか/\。



皆々

その通り/\。



與五

さうして、この後は、



吾妻

この後は、斯うぢやわいなア。



[ト書]

ト締め返す。與五郎、恟りして



與五

ヤア、そんならわが身の、目の舞うたは。



吾妻

嘘ぢやわいなア。




あなたが遲うござんすゆゑ、



玉折

皆が、云ひ合して、折檻の



皆々

癪ぢやわいなう。



與五

ても、むごい目に遭はしたなア。



佐渡

首尾よう參つて、狂言の當り振舞ひ、打つて置け。



皆々

しやん/\。



[ト書]

ト手を打つ。



佐渡

サア、酒にしよう/\。



與五

ハテ、同じ穴の骨頂どもぢやなア。



佐渡

時に太夫主、此やうに、あなたの心底を、彼の人が聞いたら、腹立てる事でござりませうなア。



與五

佐渡七、彼の人とは。



佐渡

イヤサ、彼の人とは。



[ト書]

トくど/\云ふ。



與五

誰れが事ぢやぞいやい。



吾妻

そりや、斯うでござんすわいなア。いつぞや、田舍から來た、お話しの井筒屋の客でござりまするわいなア。



與五

その客が、なんとした/\。



吾妻

サア、その客面が、わたしに出いと云うたわいな。否と云うて戻つたれども、否では濟まぬと云うて、度々呼びにおこすれど、とんとわたしが行かぬに依つて、あつちも意地になつて、身請けすると云ふわいなア。



與五

エヽ、憎い奴ぢやな。



佐渡

サア、どんな憎い奴でも、金の威光で根曳きの談合。大方親方も、合點のやうに申します。



與五

ヤア/\、そりや、實かいやい/\。



佐渡

實もほんまも、今夜中に手付け金三百兩、打ちますげなぞえ。



曳船

彼方が手付け打つたれば、差づめ太夫主は、あつちへ行かしやんせずば、なるまいぞえ。



吾妻

こちや、否なア。



佐渡

サアヽ、その否應の云はれぬ金づく。こりや旦那、急に御思案なされずばなりますまいぞえ。



與五

思案と云うて、太夫が身請けさへすれば、よいぢやないかい。



佐渡

サア、それも彼方より、先へせねばなりませぬ。



皆々

こりやマア、鈍なものになつて來たわいなア。



與五

大事ない/\、高で三百兩、手付けさへ遣れば、よいでないか。



佐渡

さうして、その手付け三百兩、持つてござりまするか。



與五

イヽヤ、爰にはない。



佐渡

爰になうては、鈍なものぢや。



與五

今度おれが大坂へ、三百兩と云ふ爲替金を取りに來て、權九郎に渡して置いた。佐渡七、一走り行て、取つて來てたも。



佐渡

そりや、どこへ參りまして。



與五

ハテ、石町の座敷へ行て。



佐渡

權九郎さんへ逢ひさへすりや、ようござりますか。



與五

さうぢや/\。權九郎に逢うたら、昨日の三百兩を直ぐに太夫が親方へ渡して、受取とつて來いと、云うてたも。



佐渡

オツと呑み込み、山吹色の金の使ひ。



吾妻

佐渡七主/\、大儀でおますなア。



佐渡

なんの、大儀も、お前へ奉公。




吾妻さんは、さぞ



皆々

嬉しうござんせうなア。



吾妻

皆、喜んで下さんせ。追ツつけ顏も直して、笄に髮結うてなア。



與五

なんと、この喜びに、奧へ行て、酒にせうではあるまいか。



皆々

よからうわいなア。



與五

佐渡七、頼むぞ。



佐渡

呑み込んで居ります。



吾妻

おとわさん、皆さん。



皆々

サア、行かしやんせいなア。



[ト書]

ト騷ぎ唄になり、この一件、皆々奧へ入る。佐渡七、殘り



佐渡

どうやら、此方の狂言へ、すつぽり嵌るこの使ひ。うまい/\。



[唄]

うまい/\と獨り言、心も空に飛び石傳ひ、表へ出づる向うより、とつかは來る手代の權九郎。



[ト書]

ト向うより權九郎、出で來り



佐渡

オヽ、權九郎、ようござりました。



權九

佐渡七、どこへ行きやる。



佐渡

今、お前さんに逢ひに、參りまするところでござります。



權九

おれに逢ひたいと云ふ、その用は。



佐渡

用と云うたら、戀の使ひでござりますわい。



權九

戀の使ひとは、エヽ、聞えた。都が事、首尾なつたか。



佐渡

イヽエ、そこらではござりませぬ。



權九

そこらでないとは。



佐渡

彼のお聞き及びのお侍ひが、吾妻主の身請け、今日の明日のともやつて居る。ところで、その事を旦那に話したれば、えら急きが來て、いま俄かに、太夫主の身請けする。お前から三百兩の爲替金を取つて、直に手付けを打つて來いとの勅諚。なんと、えらいか/\。



權九

けうとい/\。都をおれが手に入れて、金の蔓に有りついたと云ふものぢや。



佐渡

都を手に入れる金の蔓とはえ。



權九

ハテ、われにも兼ねて話して置いた通り、拵らへものゝ眞鍮判、先づこの金を手付けに渡すワ。ところで藤屋は南無三、一杯やられたと、尻持つて來て、科は旦那にかぶせてしまふと、彼の正金は都の親方へ渡すワ。金の蔓ではあるまいか。



佐渡

天晴れ妙計。流石は山崎のお番頭。



權九

コリヤ、首尾よう行たら四六店を出させてやるワ。



佐渡

忝ない……併し、同じやうな包み小判、さすが肝心。



[ト書]

ト兩人、囁く。



權九

コリヤ一杯呑まう、奧へ來い。



[ト書]

ト踊り三味線にて、兩人、奧へ入る。ト向うより平岡郷左衞門、三原有右衞門、田舍侍ひの拵らへにて出て



郷左

なんと有右どの、あの騷ぎは、山崎與五郎でござらう。



有右

イカサマ、左やう見えます。併し、日頃聲高な、あの佐渡七めが聲が聞えませぬ。



郷左

また喰ひ醉うて、醉ひ潰れて居るのでござらう。



有右

なんでもすかた酒を、喰ふ奴でござるてなア。



郷左

先づ、あれへ參つて、佐渡七めを、呼び出しませう。



有右

左やう仕らう。



[ト書]

ト矢張り踊り三味線にて、兩人、本舞臺へ來る。佐渡七、奧より出て



佐渡

これはお珍らしい所で、御兩所樣、お顏を拜しまして、エヽ、合點が參りました。こりや、なんでござります。郷左衞門さまには、吾妻さんが、浮無瀬へお出での樣子を聞いて、御來臨でござりませう。



郷右

彼の深草の少將ほどにはなくとも、君を思へば徒歩裸足ぢやぞ。



佐渡

申し、徒歩裸足どころではござりませぬ。一大事でござります。



郷左

ナニ、一大事とは。



佐渡

サア、その一大事は、今日、吾妻さんを、與五郎が身請けの相談でござります。



郷左

ヤア、して、最早手付けを相渡したか。



有右

但しは、まだか。



兩人

どうだ/\。



佐渡

さん候ふ、吾妻さんの手付け金三百兩、持參の役目は斯く云ふ佐渡七、即ち親方、藤屋利八、西照庵へ參會に來て居られた。只今、金を渡し、受取つて歸りました。



有右

すりや、なんと云ふ。吾妻太夫の手付け三百兩、親方に渡せしとな。



郷左

なにサ/\、某に氣を持たさうとて、さま%\のたわ言。滅多にさうは乘らぬてや。



佐渡

ハテ、氣の惡い。眞實誓文、交りなしでござりますわい。その證據は、この一札。



[ト書]

ト書き物を出す。有右衞門、取つて見て



有右

ナニ/\、金子三百兩なり、右は我れら抱への太夫、吾妻儀、身請けの手付けとして、慥かに受取り申し候……郷左衞門どの、御覽なされ/\。



[ト書]

ト郷左衞門、一通を取つて見て



郷左

イカサマ、こりや、手付け金の受取りの一札。



佐渡

なんと、違ひはござりますまいが。



郷左

違ひあるまいとは、よく吐かいたな。吾妻が事を頼めばこそ、兼ねてお主に金銀を與へ置いたも、吾妻を我が手に入れんが爲。なぜ手付け渡さぬ先に、身共に知らさぬ。よくも武士を捨てさせた。もう料簡がならぬ。



[ト書]

ト刀に手をかける。有右衞門、止めて



有右

まづ/\待たつしやれ。御尤も至極。推量いたして居る。



郷左

イヤ/\、お止めなさるな/\。



有右

いま彼奴を手にかけられたとて、吾妻が手に入るでもござるまいし、某が存じ寄りもござれば、平にまづまづ。



[ト書]

ト郷左衞門を宥め、佐渡七を連れて出て



[有右]

佐渡七、惡いぞよ/\。斯やうな時、働らかせんと思はしやればこそ、常々心を付けさつしやるではないか。その恩も辨へず、外より身請けの手付けを相渡さすとは、禽獸も同然。ナニサマに劣りし馬。そりや、太鼓持ちではなくて、太鼓打ちぢや。サア、この上は、郷左衞門どのゝ武士の立つべき、思案の致せ/\。



佐渡

成る程、差當つての御立腹、御尤もに存じます。これは申し譯がござります。



郷左

今となつて、云ひ譯とは、野太い奴の。



[ト書]

トきつ廻す。



有右

よくござる/\。して、其方が云ひ譯とは。



佐渡

その申し譯は、手付けの受取でござります。



郷左

ナニ、この受取が、云ひ譯とは。



佐渡

その受取の、宛名を書かさぬが、私しの工風。郷左衞門さまへの云ひ譯、働らきでござります。



[ト書]

ト有右衞門、一札を見て



有右

誠に、こりや、金子の受取ばかり、宛名はござりませぬ。



郷左

これを、身共への働らきとは。



佐渡

ハテ、今でも、あなたのお金が調ひ次第、宛名を平岡郷左衞門さまと書けば、あなたのお入れなされた手付けになつて、吾妻さんは、お手に入るではござりませぬか。



郷有

イカサマ。



佐渡

なんと、佐渡七が忠義の程は。



郷左

皆まで云ふな、當座の褒美。



[ト書]

ト金の包みを投げる。佐渡七、取つて



佐渡

時ならぬ山吹色、實の一つだに、あるぞ嬉しき。兩人とも、重ねて貰はう。



[ト書]

ト仔細らしう云ふ。



三人

ハヽヽヽヽヽ。



有右

イヤモウ、金さへ遣れば、いきり出す奴でござる。



郷左

併し、出かし居りました。



[ト書]

ト云ふうち、與兵衞、立ち聞く事ある。この時、藤屋利八、橋がゝりより佐渡七を尋ねて出て



利八

オヽ佐渡七、爰にか。



佐渡

利八さま、なんぞ御用でござりますか。



利八

用どころか、吾妻を身請けのお客に逢ひたい。どれにござるぞ。



佐渡

そのお客は、即ち爰にござるが、太夫主のお客でござります。



利八

そんなら、あなたがお客樣。イヤ、私しは吾妻が親方、藤屋利八と申す者でござります。



郷左

名は聞き及んで居る。藤屋利八、身が吾妻が客ぢや。何用がある。



利八

イヤ、別儀でもござりませぬが、只今、遣はされました三百兩の金子、此やうな眞鍮小判でござります。



郷有

ナニ、眞鍮小判と。



[ト書]

ト兩人、見て



[郷有]

誠に、こりや百足小判。



[ト書]

ト佐渡七と顏見合せ、思ひ入れあつて



[郷有]

ハテナア。



佐渡

ほんに、こりや似せ小判。如何にも、持つて行つた私しなれど、封印が付いてあるからは、上から見えやう筈もなし。旦那、こりや、お金の出所を、キツと御吟味なされたが、ようござります。



[ト書]

ト郷左衞門、見込むこなしあつて



郷左

如何にも。出所の知れた金子。ぢや吟味いたさう。其方は奧へ參り、山崎與五郎に、某が逢ひたいと、申して參れ。



佐渡

合點でござります。



[唄]

ハツとは云へど底氣味惡く、胸に思案も浮無瀬の、路地より外へ外しける。廓の亭主、手を突いて。



[ト書]

ト佐渡七、ソツとこなしあつて、逃げて入る。



利八

お金の詮議とあれば、まそつとお隙も入るでござりませう。金子はあなたへ、お返し申します。受取は、此方へお戻し下されませ。



郷左

ソレ、手付け證文。



[ト書]

ト抛る。



有右

重ねて此方より、金子は遣はす、さう思やれ。



利八

いづれ、よろしうお頼み申し上げます。



[ト書]

ト利八、橋がゝりへ入る。



郷左

町人の分として、なに勿體。與五郎、早く來やれ。



有右

與五郎々々々。



[唄]

與五郎逢はうと云ふ聲に、何事やらんと慌てふためき、奧より出づれば。



[ト書]

ト與五郎、奧より出て



與五

私しに逢はうと仰しやるは、どなたでござります。



郷左

ムウ、山崎與五郎と云ふは、てまへだな。



與五

與五郎は、私しでござります。して、あなた樣は。



郷左

身共は、平岡郷左衞門と云ふ者。



與五

ヘエヽ、その又、郷左衞門さまが、私しに御用とは何事でござります。



郷左

用事と云ふは別儀でもない。今日、殿の御用に依り、金子三百兩受取り、開き見れば、殘らず似せ金。即ち包みは、お身が封印、とくと見やれ。



[ト書]

ト與五郎が前へ出す。



與五

ナニ、私しの封印とな。



[唄]

見れば手付けに打つたる金、使ひに遣つた佐渡七が仕業か、どう廻つて手に入りしと、不審晴れねど打明けて云はれもせず、返答にあぐみしが、暫らく思案し手を突いて。



[與五]

成る程、包みの封印は、私しの印形でござります。



郷左

すりや、覺えがあるの。



與五

覺えはござれど、金銀の取扱ひは、手代どもへ申し付けて、私しは存じませぬ。歸つて、とくと詮議いたしますでござりませう。



郷左

默れ二才め、平岡郷左衞門、武士だぞよ。この兩腰が眼にかゝらぬか。うぬが歸つて吟味の間、べん/\と殿の御用を欠き、待つて居らうか。ちよつとも待つ事ならぬ。いま爰で思案の致せ。



與五

イヤ、この金に付きまして、ちと仔細もござりますれば、暫らく御容赦下さりませう。



郷左

仔細も五才もいらぬ。似せ金に相違はない。化の皮が顯はれたゆゑ、この場を外さうと云ふ企みだな。



與五

イヤ、全く左やうではござりませぬ。



郷左

左やうでなくば、たつた今、爰で云ひ譯いたせ。



與五

サア/\、その儀は。



郷左

二才め、どうだ。



有右

郷左衞門どの/\、まづ/\、お待ちなされ……ナニ與五郎とやら。差當つて似せ金の大罪、假初めならぬ儀だ。殊に大仰にならば、山崎の家に關はる事、聞いた者は某一人。ナニ郷左衞門どの、彼れが申し譯の筋立つてござらば、事穩便にして遣はされまいか。



郷左

武士に似せ金を掴ませる町人め、以後の見せしめ、ぶち放してしまひます。



有右

ところを、拙者が扱ひ申す。與五郎とやら、申し譯申し譯。



與五

サア、その申し譯と申して



有右

無いでは濟まさぬ。とくと思案して、郷左衞門どのの納得めさるゝやう、よく分別さつしやれ。



與五

どう致して、ようござりませうやら。



有右

ハテ、どうと云うたら、この似せ金を、正眞の小判と取替へて、渡さつしやるれば、不念の段は、身共がお詫び申して遣はす。



與五

よし金子を、取替へますと申してからが、只今持ち合せと申してはござりませねば、一先づ立歸りまして。



郷左

イヤ、一寸も動かす事、罷りならぬ。



有右

但し、人の詞も立てず、この場を外すのか。



與五

イヤ、全く。



郷左

正眞の小判を辨まへるか。



與五

サア、その儀は。



有右

すりや、いよ/\、似せ金を遣うたのぢやの。



與五

サア、それは。



郷有

サア/\/\、いつそ、うぬを。



[唄]

金に事寄せ兩人が、無體も戀の意趣晴らし、兎やせんかくやと難儀の折柄、南與兵衞ずつと出て、二人を突き退け。



[ト書]

ト有右衞門、郷左衞門、與五郎にかゝる。與五郎、いろいろ宥める。よき所へ南與兵衞、ズツと出て、兩人を突き退け、キツと見得。



與兵

待つた。



郷左

コリヤ、何ひろぐ。



有右

見苦しい商人め。



郷左

横合ひから出しや張つて、慮外いたさば



郷有

手は見せぬぞ。



與兵

其やうに、立派に云はんすな。横合ひと云ふは、おれよりは、こなさん達の事ぢや。



郷左

ナニ、身共を横合ひとは。



與兵

マア第一、その似せ金は、誰れが手から取らんした。



郷有

ヤア。



與兵

云はれまい/\。そりやソレ、與五郎から藤屋利八へ、手付けに打つた三百兩だ。太鼓持ちとぐるになつて……なんと胸に、こたへたか。



[ト書]

ト兩人、こなし。



[與兵]

何もかも、聞き拔いて居るこの笛賣り。こりや一番、腰入れて、詮議せにやならぬと云ふ所なれど、云はぬぞや。聞いた事は聞き遁がし、見た事は見遁がし、汚ない所を探しや、蚯蚓が出る。むさい、汚ない侍ひ、キリ/\去なれい。



郷左

オヽ、去ぬる。此方の足だ、勝手に去ぬる。ナウ有右衞門どの。



有右

左やう/\。野でも山でも、好かぬ奴なら除けたがよいと、申す唄もござる。



郷左

出家、侍ひ、長袖でござる。彼れらと論は無益の沙汰。と云ふは云ふものゝ、與五郎め、よく似せ金を掴ました。



郷有

覺えて居れよ。



與兵

こま言云はずと、とつとと行かう。



郷左

惡い所へ、出しやばつて、うぬ。



[ト書]

ト兩人、騙し討ちに切つてかゝる。與兵衞、立廻りにて、よろしく止め



與兵

見りや、大事もない侍ひぢやが、此やうな惡い臺詞すると、笠の臺が離れるぞや。



[ト書]

ト突き飛ばす。兩人、顏見合せ



郷左

イザ、刀、お納めなされい。



有右

まづ/\、貴殿から。



郷左

イヤ、御自分から。



有右

然らば、一緒に。



郷左

イザ。



有右

イザ。



兩人

イザ。



[ト書]

トちやんと一時に納める。唄になり、兩人、向うへ仔細らしう入る。



與五

どなた樣かは存じませぬが、だん/\のお情、有り難う存じます。して、あなたは。



[ト書]

ト云ふうち、奧より皆々出かけ出で




與兵衞さん、よい所へ、よう出て下さんしたなア。



與五

すりや、あなたが、



吾妻

都さんと譯のある、南與兵衞さんぢやわいなア。



與五

これはしたり、存ぜぬ事とて。都、よろしうお禮を。



與兵

イヤモウ、お禮には及ばぬ事でござります。もと私しは、あなたの父御さまの、與の一字を申し受けまして、八幡で人に知られた、南方十次兵衞が忰、南與兵衞と申す者でござります。いつぞやはお近付きにならうと、存じて居りましたれど、何を申すも、見苦しいこの風體ゆゑ、わざと御慮外申して居りましてござります。只今の御難儀、お救ひ申したは、右申し上げます、御縁に依つての儀でござります。



與五

さう云ふ事なら、私しから近付きにならうもの。知らぬ事とて、疎遠に暮らしましたなう。



吾妻

それはさうと、與五郎さん、あの金は、どうした事でござんすぞいなア。



與五

サイナウ。おれも、とんと合點がゆかぬ。與兵衞どの、なんぞ樣子は聞かずかいなう。



與兵

成る程、その仔細と申しますは……イヤ、爰らは入込み。委細の事は、旅宿でお話し申しませう。



與五

皆も氣の付かぬ、酒でも出さぬかいやい。



與兵

イヤ/\、母者人の病氣の立願で、禁酒いたして居ります。




禁酒とあれば、無理にとも云はれず。



吾妻

都さんも、何やかや、話したい事もござんせう。ちつとの間、奧座敷へ。



與兵

イエ/\、今日は、早う歸りまして、また重ねての事に致しませう。



吾妻

ほんに、男と云ふものは、素氣ないものぢやなア。




取分けてぢやわいなア。



吾妻

そんなら、どうでも。



與兵

ゆるりと、お目にかゝりませう。



吾妻

與兵衞さん。



與兵

おさらばでござります。



與五

ハテ、堅い和郎なア。



[ト書]

ト唄になり、この一件、奧へ入る。與兵衞、荷をかたげ、橋がゝりへ入る。返し。

造り物、橋がゝり、清水の舞臺。臆病口、浮無瀬の二階座敷の體。踊り三味線にて、道具とまる。


[ト書]

ト橋がゝりより郷左衞門、有右衞門、出て



郷左

有右衞門どの、どうやら斯うやら、しくじりました。憎い奴は、笛賣りめでござる。



有右

左やう/\。大事を聞いた奴、あのまゝ置いては、我れ/\が身の上でござる。



郷左

イカサマ、なんと致したら、ようござらう。



[ト書]

ト兩人、思ひ入れ。ト橋がゝりより佐渡七、走り出て



佐渡

お二人樣。



郷有

佐渡七。



佐渡

まんまと首尾よく



郷有

しくじつたわい。



佐渡

申し、一大事を知つた笛賣りめ。いま、爰へ參ります。



松左

あの笛賣りめが、幸ひ/\、コリヤ。



[ト書]

ト囁く。



佐渡

そんなら、舞臺の小蔭に。



兩人

合點か。



[ト書]

ト三人、舞臺へ忍び居る。ト暮れ六ツの鐘鳴る。與兵衞、荷をかたげ、橋がゝりより出て、舞臺へ上がり、こなしあつて



與兵

今日は、いろ/\さま%\の事にかゝつて、つい日を暮した。もう在所へは去なれず、高い旅籠を喰はねばなるまい。



[ト書]

ト云ふ所へ佐渡七、出て



佐渡

待て。うぬはお侍ひに、よう慮外を働らいたなア。いつそ。



[唄]

目に物みせんと捻ぢ付ける、心得たりと毆り退けぶちのけ、又立ち上がるを棒押ツ取り、肩骨脊骨なぎ立つれば、思ひがけなき後より、二人の侍ひ物をも云はず切り付ける。身をかい沈み、持つたる棒で丁と受け。



[ト書]

トこの四人、面白き立廻りありて



與兵

武士に似合はぬ、騙し討ちとは卑怯者。



[唄]

拂へば突き入り附け込むを、發矢と彈き、飛んづ跳ねつ働らけども、相手は三人、身は一人、棒もなんなく切り折られ、笛をば釣りたる傘押ツ取り、拔けつ潜りつ、受け流しては後すさり、透を窺ひ高欄に飛び上がれば、どつこいやらぬと切り込む拍子、舞臺をひらりと一飛びに、飛んだる傘に風持つて、次第に下がれば舞臺の三人、口あんぐり。



[ト書]

ト與兵衞、傘を持つて舞臺を飛び下りる。三人、呆れたこなし。



與兵

それにゆるりと、ござりませ。



[唄]

長町さしてぞ。



[ト書]

ト三重にて、與兵衞、向うへ走り入る。

二幕目 角力場の場

役名==山崎屋與五郎。


平岡郷左衞門。


三原有右衞門。


藤屋吾妻。


曳船、外山。


仲居、おもん。


山崎屋與次兵衞。


同手代、庄八。


茶店の亭主。


關取、放駒長吉。


關取、濡髮長五郎。


造り物、角力場、木戸口、組み合せの貼り紙。白張り紋付きの櫓提灯を吊り、橋がゝり、水茶屋店。上手、川岸、御座船繋ぎある。右、櫓太皷にて、幕開く。


[ト書]

ト見物の仕出し大勢、出て



仕一

今年の角力は、えらうはずむなう。



仕二

第一に、勸進元の顏がよいてや。



仕三

それ/\、さうして、もう始まつたさうなぞや。



仕四

その筈ぢや。今日は、濡髮と相引とぢやけれど、片やに痛みが出來たに依つて、その代り、西國方の抱へを取らしてくれと、大方の侍ひ衆の所望ぢやに依つて、頭取がだん/\の頼みぢやとて、その屋敷の抱への角力が、取るわいなう。



仕一

そりや、見ものぢや。よからう/\。



[ト書]

ト札賣り、出て來て



札賣

通り札/\。



仕三

なんぼぢや/\。



札賣

れそぢや/\。



[ト書]

ト小算盤にして見せる。



仕一

そりや高い、コレ。



[ト書]

トまた算盤でする。



札賣

滅相な。七日目ぢやわいなう。



仕一

そんなら、これか。



札賣

負けもせい。



[ト書]

ト札を買ふうち、櫓、打ち切り、もや/\云うて木戸口へ入る。



[唄]

みな/\打連れ急ぎ行く。川風に天幕ひらめく石疊、堅い約束變らじと、藤屋吾妻が物思ひ、浮かぬ君達すゝめ込み、舟の一字の讀み聲や、みな一やうの襠裲は、これぞ龍頭鷁首かと、橋行く人も行きなやむ、曳舟外山が上調子。



外山

もう爰らがよからう。船、着けておくれえ。



[ト書]

ト吾妻、外山、おもん、禿、船より出る。



[外山]

なんと皆さん、角力へ行て押されうより、爰で一つ、呑ましやんせぬかえ。



もん

アヽモウ、太夫主は、酒に醉うて、あの船に寐てなり、なんと、起きなませんかいなア。



禿

この間、浮無瀬で、田舍の侍ひと、與五郎さんとの揉めを、苦にしなましての事ぢやわいなア。



もん

ほんに、その時のもや/\。吾妻主の辛氣がらしやんすも、道理でござんす。



外山

身にかゝはらぬわたし等さへ、苦になつてならぬもの、その筈ぢやわいなう。



もん

ほんにその時は、南與兵衞さんのいかいお世話。あのやうな頼もしいお方に、ちつと與五郎さんも、あやからしたいわいなア。



外山

サイナア、よい所に、南與兵衞さんが居なましたとて、都さんも、大抵喜んで居なました事ぢやないぞえ。あのやうな頼もしいお方と、附合うて居なます都主は、あやかり者ぢやわいなア。



吾妻

サア、その都主が、諸事、呑み込んで居る、案じな案じなと云ひなますれど、とんと氣が浮かんわいなア。



外山

それはさうと、與五郎主は、もう見えさうなものぢやなア。



もん

ほんに、きつい來しませうぢやわいなア。



[ト書]

ト此うち橋がゝりより與五郎、出て來るを見て



[もん]

ヤア、吾妻さん、與五郎さんが、來て居なますわいなア。



吾妻

ほんに、與五郎さん、なぜ遲かつたえ。



與五

先刻にから來て居るけれど、意地惡の郷左衞門や、有右衞門が附き張つて、浮無瀬の意趣を晴らすと。兎角弱い者は、歩に取らるゝと氣味が惡いけれど、長五郎が角力しまひ次第、來るであらうと思うて、待つて居るのぢやわいなう。



もん

そんな事なら、尤もぢやわいなア。



禿一

それ/\、長五郎さんさへ居やしやんすりや、千人力ぢやなア。



禿二

どうぞ早う、濡髮さんが、來てくれなませいでなア。



與五

氣遣ひするな。あの濡髮は、此方の親仁の大氣に入りで、家來筋の者ぢやに依つて、この間から、身請けの事も頼んで置いたに依つて、角力が果て次第に來るけれど、ひよつと果てぬうちに、意地惡めが來おつたら惡いに依つて、舟の中に隱れて居るのぢやわいなう。



もん

そんなら吾妻主、人の見ぬやうに、ちやつと、あの舟へ乘つてなア。合點かえ。



吾妻

そんならアノ、舟へ行く程に、頼んだぞえ。



外山

跡はわたしが、呑み込んで居るわいなア。



吾妻

そんなら、頼んだぞえ。



外山

ソレ太夫さん、貸しますぞえ。



[ト書]

ト與五郎を船へ乘せ、思ひ入れあつて



もん

與五郎さんも吾妻さんも、しつぽりと樂しみなませ。跡の行司は、わたしらが役。



外山

西は、與五郎主/\。



もん

東は、吾妻主/\。



二人

やつと、お取りなされえ。



[ト書]

ト船の障子を締める。



[唄]

障子ぴつしやり、流石廓の手だれ者、惡性仲間ぞ頼もしき。



[ト書]

ト内にてハア/\大勢の聲。こちらの船も障子締める。



[唄]

東の方から息せきと、歩み來るは與五郎の父親、吾妻からげの山崎與次兵衞、年は六十二か三か、始末親仁の固くな者、荷持ち丁稚も遲れ足、ちんばちが/\、吠え面かゝへ。



[ト書]

ト與次兵衞に手代久三、丁稚附いて出る。



丁稚

申し/\旦那さん、ちと、お休みなされませんか。



久三

肩も足も、堪りませんでござります。



與次

エヽ、きたない奴等ぢや。道ならたつた七八里、山崎から一息。晝休みは北濱のお屋敷。これも立ちながらつい爰まで。それにちよこ/\休んだら、茶の錢が堪らん。幸ひ、爰に茶店がある。そんなら、ちつとの間、休んでやらうか。



[ト書]

ト床几に腰をかける。亭主、茶を持ち出る。



亭主

お茶、上げませう。



與次

イヤ、呑みたうござらぬ。コレ、火を借りるばかりぢやぞや。コリヤ、わいら、咽喉が乾くなら呑め。仇茶を呑むと、腹が損ねるぞ。イヤ亭主、角力は、きつい繁昌ぢやの。



亭主

ハイ、今日は、濡髮と、アヽ、なんとやら云ふ屋敷の、お抱への角力取りが、取る筈でござりまするが、ちと御見物なされませぬか。



與次

オヽ、今日は、濡髮が取り居りますか。



亭主

ハイ、札が六十八文、中木戸が九十八文。



與次

オツと、九十八文とは廉いやうなが、そりや、百二文の事ぢや。アヽ、この和郎はどぎ/\と、算盤をば貸しやれ。



亭主

ハイ/\。



[ト書]

ト亭主、算盤、持ち出る。與次兵衞、眼鏡を出し



與次

サヽ、初手から云うたり。



亭主

札が、六十八文。



與次

ムウ、主從三人ぢや依つて、三八、二十四、三六の十八、これが二百十二文よ。さて、今のどぎ/\したが、中とやらぢやの。



亭主

ハイ、中木戸が九十八文。



[ト書]

ト算盤、置いて



與次

三百六文。



亭主

下棧敷が、七百六十文。



與次

下棧敷が、七百六十文。



亭主

上棧敷は、一〆め八百。



與次

ホイ、一〆め八百。これに酒が小半合、高い依つて、マア五十文、蛸の足一本が八文、三太めが小豆餅が十で十文。久三、わりや、下戸であらうなア。



久三

イエ、酒と餅も下さります。



與次

ホイしまうた。此奴、盜人上戸ぢや。そんなら、また酒、小半合、五十。蛸が八文、惣〆めて三貫百八十二文。ホヽ、恐ろしや。この辛い世界に、大抵で儲けられぬ。この錢を遣はずに、濡髮に遣れば、結構な正月が出來る。まちつと爰に休んで居て、評判聞けば、見たも同じ事ぢや。ドレ、茶を、も一つ下され。



[ト書]

ト此うち向うより白臺に卷き物、青緡、樽、肴、持たせ、庄八と手代二人、駈けて出る。



庄八

エイサツサ/\。



皆々

さゝまめこ。



[ト書]

ト皆々、本舞臺へ來る。



與次

コリヤ/\、庄八めぢやないか。



[ト書]

ト庄八、恟りして



庄八

ヤア、親旦那樣、お前樣、マア、お駕籠にも召しませず、どこへお出でなされます。



與次

ハヽア、やるワ/\。なんぢや、エイサツサ、さゝまめことは、呆れるわやい。與五郎めは、どこに居るぞ。



庄八

イエ、若旦那は。



[ト書]

ト氣の毒なこなし、もぢ/\する。此うち、與次兵衞、船に目を附け



與次

どこに居るぞ、吐かさんか。このマア、自體番頭の權九郎めが、大きなうつそりぢや。今度の爲替の事は、おれが直に來る筈なれど、折り惡う持病ゆゑ、コリヤ、忰ばかりでは心元ない、其方は屋敷の勝手も知つて居れば、附いて行て、見習はせよ。埓が明き次第、連れて戻れ、隙が入る程、大坂の水に味が出來ると、とつくりと權九郎めに云ひ付けしたれば、今日は戻るか、明日は戻るかと、待つても/\いつかな事、この月で丁度、あしかけ三月。人をおこせば、イヤ、屋敷方の御用が出來たの、イヤ、爲替の埓が明かぬわのと、明かねば明かぬやうの議定して、なぜ戻らんぞ。此やうに隙の入るは、大方新町の傾城どもに、鼻毛を讀まれて居るのであらう。エイサツサ、さゝ豆ことは、なんの事ぢや。ヤイ、山崎から爰まで、一人前三十づゝで乘合ひに乘ると、三人で九十。ナ、それ程の錢、惜しむではなけれども、一文でも費えな事に使ひ果せば、金の冥加と云ふもので、思ひ果敢がいかぬものと、みな與五郎めが不便さに、始末を思ふわいやい。内に居れば、うそ高い金魚だらけ。あの金魚が、なんの役に立つ。喰はれもせぬ亂中ぢやの、はりひぢぢやのと、さうして大分の進上物。それがマア、大抵の金目ぢやと思ひ居るか。錢三十の乘合ひにさへ、親はえゝ乘らぬのに、息子どのはあのやうな、御座船に乘り散らし、お山と一緒に酒を呑み、さゝ豆こでもあらうがの。



[ト書]

ト船に目を附け



[與次]

サア、與五郎めを連れて來い。どこに居るぞ。



[ト書]

ト此うち庄八、いろ/\こなしあつて



庄八

ハイ、若旦那は、今朝から角力見物……と仰しやつたけれど、いかう頭痛がして、目が舞ふやうな。これでは堪らぬ、大方親仁樣もお待ち兼ねなされてござるであらう依つて、早う親仁樣のお目にかゝりたいと仰しやつて、駕籠に乘つて、直ぐに山崎へお歸りなされました……ハイ、私しも、お供と申しましたれど、イヤ/\、わしはこの進物を、こりや、おれが遣ふのではない、藏屋敷から言傳かつたのぢや程に、長五郎に渡して、受取を取つて、お藏屋敷へ渡して、後から



[ト書]

トどぎ/\云ふ。



與次

ムウ、なんぢや、與五郎は病氣で、山崎へ去んだか。



庄八

ハイ、お歸りなされてゞござりました。



與次

その進物は、藏屋敷のぢやな。



庄八

左やうでござります。



與次

さうぢやないかよ。



庄八

なんのお前。



與次

マア、そんならそれにしてやらうが、違ひはないかよ。



庄八

勿體ない、口も腐れ。



[ト書]

ト互ひに思ひ入れ。



與次

なんとせう、病氣とあれば是非がない。大方小さいからの、蟲の業であらう。そんなら、おれも直ぐに、夜通しにやつてくれう。併し、此奴等は、おれが足には續くまいし、よいワ、道から辻駕籠で、ぼツ立てう。コリヤ庄八、長五郎に逢うたら、おれも少と用があつて下つたけれど、與五郎が病氣ゆゑ、折れ歸りに去ぬる依つて、角力をしまひ次第、見舞ひがてら來いと云へ。角力も見たけれど、錢もたんと入るし、何やかやで……ナア、おりや、去ぬる程に、此方へ來てから、在所の若い者どもを寄せて、錢なしに取らせて見せう。嫁のお照も待ち兼ねて居る……權九郎に云へよ……オヽ、まだ忘れた。この扇子。



[ト書]

ト腰より拔き出し



[與次]

今朝、おろした十二本の加賀骨、要は象牙ぢやぞよ。これが花ぢやと云うて、長五郎に遣つてくれ。



[ト書]

ト庄八に渡して



[與次]

いよ/\與五郎は、病氣ぢやの。



庄八

ハイ。



與次

進物は、藏屋敷のに違ひはないか。



庄八

ハイ。



與次

エヽ、これ程に。



[ト書]

ト御座船を睨み、庄八と顏見合せ



[與次]

ドリヤ、去なうか。



[唄]

慥かにさうと舟の内、肝心かなめの所をば、云はぬ心の親骨に、疊み込んでぞ歸りけり。



[ト書]

ト庄八、ホツと吐息つき



庄八

オホヽ、若旦那、お聞きなされましたか。



與五

聞いた段ではない。



[ト書]

ト船より出る。



庄八

なんと、この進物を、藏屋敷のとは。



與五

天晴れ、作者並木庄八、出かした/\。



庄八

毛蟲の親旦那を、先へお歸し申したれば。



與五

もう怖い事はない。皆來い/\。



皆々

だんないかえ。



[ト書]

ト皆々、船より上がり



外山

ほんに庄八、出來たぞえ/\。



吾妻

ひよつと、與五郎主の首尾が、そこねやうと思うて、癪が發つたわいなア。



もん

ほんにわたしらも、どうなる事と思うたが、首尾よういたも、庄八どののお庇。



與五

今日の褒美に、この文字野が水上げ、汝にさすワ。



禿

こちや、嫌いなア。



外山

ほんに、粹な與五郎さんに似合ぬ、怖い親御さん。



庄八

併し、今のやうに云うて、親旦那をお歸し申したれば。



外山

ほんに、また遲うお歸つたら、お館の首尾が、惡からうぞえ。



與五 

サア、そんなら、太夫が身請けを、今夜中にせにやならんやうになつたと、濡髮に云うてくれいよ。



庄八

畏まりました。そんなら、この進物を、早う關取へ。



與五

オヽ、早う、持つて行け/\。



[ト書]

ト内にて大勢の聲になる。



庄八

サア、みな來い/\。



[ト書]

トみな/\、木戸へ入る、ト返し、右の道具、觀音開きになる。

造り物。東西、棧敷。まん中、土俵、四本柱に弓、化粧紙、桶、水呑み、よろしく。行司二人、土俵際に居る。右、道具、とまると、觸れ拍子木、打つて廻ると、行司、眞中へ出て


行司

東西々々、抑も角力の始まりは、人皇十一代、垂仁天皇の御時、當麻の蹴速、野見の宿禰、大内にて力くらべありしより始まりたり。それより、代々の帝に傳へ、今に絶えせぬ花の都には、松の尾の御神事とて、毎年八月二日の勝負、東には、山王の御神事に角力を始めるその謂れ、畏き御代の例しなり。昔を今に浪花津や、賑ふ春の花角力、四本の柱は四天王、土俵の數は十六俵、十六羅漢を表したり。出で入る息は阿

の形、組打つ表裏の始まりなれば、臺座一面、御神妙に御一覽下さりませう。

[ト書]

トこれより土俵入りになり、角力、だん/\あつて、トヾ放駒、濡髮と名乘りを上げる。皆々捨ぜりふありて、濡髮長五郎、放駒長吉、二人、よろしく土俵へ上がり、こなしあつて、キツと見得。これにてよろしく返し。

元の木戸になり、鯨波の聲、櫓太鼓になり、見物の仕出し、群衆のこなしにて、押し合ひ/\出る。此つまりに長吉、郷左衞門、有右衞門、仕出し大勢、附き出て、皆々、手を打つて入る。


郷左

アヽ關取、手柄々々。



有右

放駒、けうとい/\。イヤ、郷左どの、吾妻が身請けの儀も、埓の明く瑞相。與五郎めが腰押しの濡髮に、勝つてくれたは、めでたいめでたい。なんと祝うて、一つたべませうか。



郷左

拙者が思ふ坪、飛び入りと云うては、濡髮が立ち合ぬは定のもの。そこをぬからず、一人の長吉を抱への角力、放駒と僞はり、名乘りを上げたればこそ、今の角力、勝つたる手柄。いよ/\太夫が身請けの世話も、頼むぞや。



長吉

成る程、諸事、私しが呑み込んで居りまする。濡髮濡髮と、えらう贔屓して、相手になる者もないやうにも申しましたが、立合つて見れば、ヘエヽ、見ると聞くとでござりますてや。



郷左

なんでも、この勢ひに。



長吉

イヤ申し、爰は往來、諸事は座敷で。



郷左

如何にも/\。



有右

サア、關取。



長吉

サア、ござりませ。



[ト書]

ト角力取の唄になり、郷左衞門、有右衞門、長吉を煽り立て向うへ入る。與五郎、木戸より出かけ、聞いて



與五

なんぢやい。そないに、なんで褒めくさるのぢや。コリヤ、なんぼう角力取りが勝つても、太夫は矢ツ張り嫌がつて居るわい。なんぢや阿房らしい。エヽモウ、とつと氣の濟まぬ。



[ト書]

ト床几に腰をかける。



[唄]

思案にくれて居る所へ、木戸口より濡髮の長五郎、評判一の角力髮、大郡内の肥り肉、鮫鞘流石關取と、一際目立つ男振り、與五郎見るより。



[ト書]

ト木戸口より、長五郎出る。



[與五]

長五郎か、待つて居た。マア/\、掛けや/\。



長五

オヽ、若旦那、これにござりましたか。



與五

これにどころか、今のはなんぢやいの。なんの事ぢやいなう。



長五

これはしたり、後も先も仰しやらずに。ハヽヽヽヽ……イヤ、コレ、茶屋の、ちやつと頼みませう。



亭主

ハイ/\、御用でござりますか。



長五

アヽ、大儀ながら、こなんは今、あそこへ行た放駒を、ちやつと呼んで下んせ。



亭主

ハイ/\。



[ト書]

ト行かうとする。



長五

イヤ、コレ/\、わしがと云はず、誰れやら、急にお目にかゝりたいと云うて居らるゝと、云うて呼んで下んせ。



亭主

ハイ/\。



[ト書]

ト向うへ入る。



長五

返事聞かして下んせ、待つて居るぞや。



[ト書]

ト云ふうち、與五郎、ウロ/\して



與五

コレ長五郎、マア爰へ、おぢやいの、マア、かけやいなう。



長五

イヤ、これがようござります。



[ト書]

トちよくつて居る。



與五

コレ、今日の始末は、なんぢやぞいの。なぜ放駒とやらを、突き出してしまやらんぞいの。突いて轉けにや、脇の下へ手を入れて、こそぐつてなりと、かきつくなりと、其方の得手に差し込んで、なぜボイと轉かしやらぬ。とつと、郷左衞門や、有右衞門めが譽めくさる。腹が立つて/\、いつそ出て、存分云うてと思うたけれど、あつちは強し、おれは弱し。さうして、吾妻を身請けする、瑞相ぢやと云ひ居つたが、大事ないかや。



長五

ハテ、お氣遣ひなされまするな。角力は放れ物、勝つたが勝ちにならず、負けたが、負けにも立ちませぬ。また強い者が、常住勝つ事なら、見に來る人は一人もござりませんわいの、ハヽヽヽヽ。それはさうと、先刻に庄八どんに逢ひまして、親旦那の事も、殘らず承はりましたが、マアお前樣は、後までお歸りなされませ。太夫どんの身請けは、例へ五日十日、隙が要つても、濡髮が呑み込みました。外の手へ遣る事ぢやござりませんわいの。



與五

そんなら、よいかや。



長五

ハテ、わしに任して置かしやりませ。



與五

だんないかや。



長五

ハア、わしが母者人は、お前樣の母御樣の、お召仕ひなりや、わしの爲には、大切なお主のお前。殊に、大恩を請けました、親旦那の思し召しもあれば、この長五郎の命のある内は、吾妻どんの事、世話せいで、なんと致しませう。その段は、大船に乘つたと思うてござりませ。



[ト書]

ト亭主、向うより戻り來て



亭主

申し/\、放駒さんが、爰へお出でなされてゞござりまする。



長五

オヽ、大儀でごんした。ま一遍頼みたい。



亭主

ハイ/\。



長五

此お方を、新町へ送つて上げまして下んせ。



亭主

ハイ/\。



長五

申し若旦那、お前はマア、先へお出でなされませ。



與五

イヤ、行かれん/\。



長五

なぜでござります。



與五

ハテ、濡髮と放駒との出合ひに、おれが居いでは濟まぬて。



長五

ハヽヽヽヽ、お前がござつては、結局、邪魔になりますわいの。



與五

ムウ、それもさうかい。



長五

氣遣ひせずと、ござりませ。



與五

そんなら、行かうか。



長五

追ツつけわしも參じます。



與五

待つて居るぞや。



亭主

サア、お出でなされませ。



[ト書]

ト與五郎、捨ぜりふにて行きかける。



長五

頼みますぞや。



[ト書]

ト與五郎、花道にて、こなしあつて



與五

なんと濡髮は、よい關取ぢやなう。



亭主

左やうでござります。わたしは、大贔屓でござります。



與五

貴樣、贔屓か、アノ、ほんまに贔屓か。



[ト書]

ト嬉しさうにして、我が腰提げを外し



[與五]

これ遣らう、提げて下んせ。



亭主

これは、有り難うござります。



[ト書]

ト喜び、戴く。



與五

あゝして居る所を見やんせ、好い男ぢやの。



亭主

イヤモウ、土俵へと上がつた所は、鬼でも敵ひませぬ。



[ト書]

ト追從らしう云ふ。



與五

エヽ、鬼位が敵ふもんかいの。凡そ、鎭西八郎この方の前髮ぢやて。



亭主

イエ/\、まつと強うござりまする。



與五

強いなア。



[ト書]

トなんぞ遣りたいと云ふ思入れあつて、羽織を脱いで



[與五]

これ、着やんせ。



亭主

これは有り難い。サア、お出でなさりませ。



[ト書]

ト與五郎、亭主が腰に提げて居る手拭にて頬かむりをして



與五

お前、先へ行て下んせ。



亭主

そりや申し、なぜでござります。



與五

關取が負けたので、わしや、顔が恥かしい。



[ト書]

ト亭主を先に立て、頬かむりして、後に附いて行く。



[唄]

はや黄昏の濱側や、茶店目當に放駒、慥か爰らと見廻せば。



[ト書]

ト向うより長吉、一散に走り出る。



長五

オヽ、これは御苦勞。サア、爰へ/\。



長吉

ムウ、ちやつと逢ひたいとは、關取、こなんでえすか。



長五

成る程、ちと、こなんに頼みたい事もあり、また外に話さねばならぬ事もあり。サア、マア、爰へ/\。



[ト書]

ト扇子にて、塵を拂ふ。



長吉

アイ、そんなら、許さんせ。



[唄]

互ひにおれそれ床几に並び、腰うちかける前髮同士、四角な十の二枚もの、すは事こそと見えにけり。



[ト書]

ト兩人、よろしく、こなしある。



長五

イヤ長吉どん、名はせき/\聞き及んで居れど、しみじみ逢うたは今日の角力。さて、強い身あん梅、小手の利きやう。



長吉

ヘヽヽヽヽ、なんとごんすやら。



長五

イヤモウ、達者な事ぢや。けうといもんぢや。



長吉

アイヤ關取、何やら、話したい事があると、人をおこさんしたは、その事でごんすか。



長五

イヤ/\、頼みたい事と云ふは、外でもない、今日の棧敷のお客な。お侍ひ樣さうなが。



長吉

アイ、さうでえす。それが、なんとしたな。



長五

イヤ、なんともせんが、其お客がこの間、新町の藤屋の、吾妻を身請けの相談。その吾妻どんには、先から馴染み、即ちわしが親方筋の人でごんすが、イヤモウ、若い人なり、殊に部屋住みゆゑ、身請けの金事。サ、マア、我が物で我が物にならぬゆゑ、無茶苦茶とした事でごんすぢやが、金の工面するとても、マア四五日はかゝる。其うちこなんのあのお客に請け出されては、とサア、そこが今の若い同士なり、なんぞ云ひ交した詞が立たぬとやら、なんぢややら、マアあるさうな。そこで、わしは家來筋の事なり、コリヤ濡髮、彼方へ遣つては、おれが立たぬ程に、われが先の客に逢うて、斷わり云うて、此方へ請け出させてくれと、イヤモウ、ほんの子供のやうな、若い、お人。わしぢやと云うて、其お侍ひに近付きではなし、どうせうぞと思ふ折から、こなんと今日の立合ひ、これは幸ひ、若い同士、大坂同士、其お客のお氣に立たぬやうに、そこをナア、コレ、どうぞ、こなんが。



長吉

イヤ、コレ/\關取、こなんの今、云はんす親方筋とは、山崎の與五郎どんの事でごんすか。



長五

よう知つて居やんすなう。



長吉

アイ、知つて居ります。その與五郎どんの事について、吾妻どんの身請けの相談、わしも成る程、侍ひ衆に頼まれて、金の工面するうち、與五郎どんに、請け出されては立たぬ程に、長吉頼む、金の才覺する間、他人に遣るな。殊に、向うは濡髮が肩持つ程に、われを頼むと頼まれました。わしも又、與五郎どんとやらと、吾妻どんばかりなら、侍ひ衆に斷わり云うて、イヤ、そんな世話は嫌でござりますと、云ふまいものでもなけれども、なまなが濡髮が肩持つと云うては、どうやらわしが、關取が強さに、へりつかうと思はれても面倒さに、また友達仲間へも、そんなものぢやごんせぬかい。



長五

ムウ、天晴れ男……ぢやが、そこぢやて。



長吉

どこでえす。



長五

サア、そこが男同士。平押しに頼みたい事があればこそ、今日の角力に、放駒と名乘りを上げたを見れば、長吉どん、こなんぢや。これは、よい所ぢやと思うたに依つて、四の五のなしに立合うたはな、行司がヤツと團扇を引くと、こなんが存分に差し込んで、右の肩へズルズル/\。コリヤ、大概。



長吉

コレ/\關取、そんなら何かいの、この長吉に、その事を頼まうばつかりに、今日の角力は、よいやうにしたと云ふのか。



長五

イヤ/\、さうではない、さう聞くと。



長吉

イヤ/\/\、振つたのぢや、振りあがつたのぢや。なんで振り居つたい。おれも面妖な。貴樣は評判の取り手。どうで子供なぶるやうにするであらう。おのれ、左差いたら、喰ひついてなりと、やつて見ようと思ひの外、ヤツと云ふと、ズル/\/\と持つて出た。其うちに團扇は上がるし、ハテ、合點のゆかぬと思うたが、振つたのぢやなア。投げるなら、どつさりと投げて、投げ殺して置いて、さて長吉、斯う/\ぢやと、なぜ改めて、頼まんのぢや。人に物遣つて、後から金の無心云ふやうな、むさい長吉ぢやごんせぬ。慮外ながら、關取にも似合ひませぬなう。



長五

ハテ、さう云はんすと、いかう出入りがむづかしいなア。



長吉

むづかしけりや、どうするえ。



長五

さればいの。與五郎どんとその侍ひとが、めつきしやつき。こなんとおれとが達引も、まだ半分道も行かぬうちに、爰で互ひに云ひ合うたり、ぶつたり踏んだりするは、ほんの喧嘩の地取りするやうなもの。そちらの身請けも今日明日に、埓が明くでもなさゝうな。すりや、

四五日のところ。ハテ、こちらも二三日のうちには、埓する筈。どうぞこなんを頼む、そちらの金の



長吉

ヱヽ、どしつこい。其やうな工面師か、もがり者の云ふやうな事は、嫌ぢや。叶はぬまでも、その時になつたら腕づく。もがり商賣は、嫌でごんすわいなう。



[唄]

と、やり込める。



長五

長吉どん、イヤ長吉よ。あまり頤が、あがき過ぎるが。與五郎どんの事については、長五郎が命でも、進ぜにやならぬ筋がありやこそ、男が手を下げて、われを頼むぢやないかい。



長吉

それをおれが、知つた事かい。



長五

サ、知らぬに依つて、云うて聞かすのぢや。



[ト書]

ト合ひ方になり



[長五]

もう頼まん。聞分けのない者に、もの云ふは、ほんの放れ駒の耳に風。隨分侍ひの、腰押せよ。



長吉

知れた事、これから内の商ひも構はず、姉貴に勘當しられうとまゝ、隨分貴樣の、邪魔せうかい。



長五

ホオ、侍ひが拔いて切りかけうが、何奴が拔いてかからうが、額に濡髮、鎖鉢卷きよりは、慥かな受け手、ちつと切り憎からうかい。



長吉

まだ鞍味知らぬ放れ駒。人中で、馬乘りに遭うた事がない。珍らしう、踏まれて見ようかい。



長五

見るかよ。



長吉

見ようかい。



二人

サア/\/\。



[唄]

互ひに惡口睨み合ひ、思はず持つたる茶碗と茶碗、手に持ちながら立ち上がり。



長五

コリヤ長吉、物事が、この茶碗のやうに、丸う行けば重疊。



[ト書]

ト手の中にて茶碗を割る。



長吉

それも、斯う割つてしまへば。



[ト書]

ト茶碗を打ち割る。



長五

接がれぬ角菱。



長吉

濡髮。



長五

放駒。



二人

重ねて逢はう。



[唄]

別れてこそは。



[ト書]

ト三重にて、

三幕目 大寶寺町米屋の場
難波浦の場

役名==山崎屋與五郎。


藤屋吾妻。


平岡郷左衞門。


三原有右衞門。


野手の三。


下駄の市。


講中、妙林尼。


同、六兵衞。


同、五助。


同、久兵衞。


關取、放駒長吉。


同姉、おせき。


關取、濡髮長五郎。


造り物、三間、二重舞臺。上手、障子屋體。赤壁、納戸口。橋がゝり、丸太格子。門口に俵數多積みあり。幕の内よりおせき、二重舞臺に帳合ひして居る。雨車の音、淨瑠璃にて幕開く。


[唄]

大坂に、爰も名高き島の内、大寶寺町に年を經て、角を絶やさぬ搗米屋、獨り息子の長吉は、父親なしの我まま育ち、姉のおせきはあたふたと、店の帳面繰返し、駄賣り小賣りの石高を、置き十露盤の手品まで、男まさりと見えにける。春雨の、向うしぶきに傘傾むけ、我が家へ歸る放駒、門口に立ちはだかり。



[ト書]

ト長吉、向うより傘をさして出て來り



長吉

この雨の降るのに、俵ものは、なぜ入れぬぞい。エエ、野良どもではあるわい。



[唄]

片手に提げて抛り込み/\、傘提げて内に入り。



[長吉]

姉さん、まだ帳合ひしまはんせぬか。



せき

嗜なみや。降り出すに、傘や下駄、持たしてやる先は知れず。ちとマア、内に居たがよいわいの。



長吉

男どもは、どこへ行きやんした。



せき

見てたも。一人は頭痛で、枕が上がらず、勘兵衞は立賣堀へ、飯米持たしてやつたが、今に戻らぬわいなう。



長吉

なんぢや、立賣堀へ飯米、持たしてやつた。その使ひをかこつけて、座摩か、稻荷の稽古場へ入つて居るであらう。いけもせぬ聲で、淨瑠璃を語らうより、空臼唄の稽古でもしをらいで、阿房ではあるわい。



せき

コレ長吉、男どもの居る前では云はぬが、人の七難より、我が身の十難と、其方もちつと嗜なみや。内の手廻し諸事萬事、この姉に打任し、明けても暮れても外を内。



長吉

アヽ、モウよいわいなう。云はんすないなう。ようつべこべ/\と云ふ人ぢや。わしが昨夜泊つて戻つたわな。



せき

なぜ泊つて戻りやつた。



長吉

そりやナア、藏屋敷の侍ひが、頼む事があると云ふ依つて、つい泊つて戻つたが、それが、なんとしたな。



せき

それは御苦勞に、よう泊つて戻らしやんした。わしが意見がましい事を云ふと、噛みつくやうに云やる依つて、常時、わしが方からあやまつて居にやならん。モウモウ、わしも云やせんぞえ。泊つて戻るなりと、どうなりと、勝手にしたがよい。アヽ、嫌やの/\。さうしてマア、今時分に戻つて、夕飯も、まだであらうなう。



長吉

飯はまだぢや。なんぞ菜があるかえ……ごんすか。



[ト書]

トおせき、ムツとして居る。



[長吉]

菜があるかいなう。



せき

ドレ、茶を沸してやりませう。



[唄]

我が子のやうに弟を、思ふは姉の習ひなり。これも同じ夜歩き仲間、下駄の市、野手の三、惡鬼どもが蛇の目傘、町一ぱいに肩ひぢを、いかつがましく表より。



[ト書]

ト市、三、同じく傘をさし、出て來て



下野

長吉、内に居るか。



[ト書]

ト云ひ/\、傘さしながら入る。



長吉

コリヤヤイ、おれが内は、雨が降らぬわい。



下駄

ほんになア。シタガ、火が降らいで仕合せぢや。



長吉

エヽ、どう云や斯う云ふ。どえらい頬桁ぢやなア……サア/\、遠慮せずと、上がれ/\。



[唄]

おゝ上がろと泥足を、からげの裾で押拭ひ、奧へ一ぱい伸しくれば、惡者連には猶以て、詞優しく姉のおせき。



[ト書]

ト膳を持ち出て



せき

オヽ皆、ようござんした。煙草でも上がれ。長吉もひもじからう。友達衆に斷わり云うて、食べてしまやらんか。



長吉

オヽ、食ひやんしよ。わいらも喰はぬか。



せき

ほんに、お前達も上がらんか。



野手

イヤ/\、世話やきやんな。下駄もおれも、砂場へ寄つて、ナア、市よ。



下駄

オヽ、二八を蹴倒して來た……長吉、こりや、膳廻り、きつう奢るな。



野手

なんぢや、振舞ひに行たやうな膳ぢやなア。



下駄

平は、大根に油揚げ。



野手

燒き物は、鯛のなんば煮、旨さうなもんぢやなア。



長吉

イヤモウ、おれも昨夜の酒で、肴は喰へぬ、水雜炊と云ふ腹鹽梅ぢや。



野下

そんなら、おいらに喰はさんか。



長吉

オヽ、据つた物でも大事なきや、これを肴に、一つ呑め。姉樣、面倒ながら、燗してやつて下んせ。



せき

オヽ、易い事/\。其方の食後におまさうと、爰に酒も取つて置いた。ドレ、燗つけて上げうか。



野手

アヽ、コレ/\、燗すると湯氣だけ減る。矢張り冷がようごんす。



下駄

長吉、われも呑まんか。



長吉

イヤ/\、おれに構はず、この汁椀で、サ、下駄よ、始めい/\。



下駄

忝ない。



野手

そんなら姉樣、飲べます……オヽ、よいワ。



下駄

オホヽ、來たぞ/\。



野手

空腹へやつた加減か、えらい/\。なんぞ、肴をせんかい。



下駄

ぢやてゝ、謠は知らず、淨瑠璃は本が讀めず。オヽあるぞ/\、コリヤ、三よ、囃してくれよ。



野手

なんぢや、やりかけ/\。



下駄

哀れなるかな石童丸は。



野手

よいサ/\。



下駄

父を尋ねて高野へ上がる。



野手

ハア、よい/\、よい/\/\/\、アリヤリヤ、コリヤリヤ、ハア、なんでもせい。



長吉

コリヤ/\、喧ましいわい。二人ながら、羽目を外すな。おれは構はねど、爰は町家、アレ、姉者人も、近所の手前を思うて、氣の毒がつてぢや。通り筋をぞめくやうに、仇口たゝくな。



下駄

エゝ、われも餘ツぽど、臍の下に分別の實生えが出來たやら、堅い事云ふな。併し、昨夜新町橋の喧嘩で、すんでの事に、締めらるゝのであつたが、長吉が來てくれたで、先の奴めが、手ひどい目に遭ひ居つたぞい。



長吉

オヽ、そればかりぢやない、西口の出入りも、この長吉が居合さずば、皆どつかれて居るであらう。それは格別、わいらも知つて居る、山崎與五郎と、吾妻の事について、侍ひに頼まれ、晩には濡髮と、グツと達引せにやならぬ。はした喧嘩と違うて、相手は長五郎なれば、なんでも生きるか、死ぬるかの、二つ一つの出入りぢや。



[唄]

喧嘩話しも聞き辛く、姉のおせきは身拵らへ、びらり帽子も色氣なき、丸括けの抱へ引き締め/\。



せき

とんと忘れてゐた。今夜は、同業衆に逮夜がある。長吉、わしや行て來る程に、留守してたもや。



長吉

エヽ、なんぢや。コレ/\、わしや今夜は、行かにや濟まん事があるわいなう。つい戻る程に、やつて下さんせいなう。



せき

なんの事ぢやぞいの。今夜は行かにやならぬと云うて、毎日其方は行きやるぢやないか。わしは、たま/\の事ぢや程に、おとなしう内に、留守して居やいなう。つい戻るわいの。



長吉

エヽ、そんなら、わしに留守せいかえ …そんなら早う戻つて下んせや。



せき

わしや、つい戻る程に、留守して、あなた方に酒を上げや。お二人ながら、ちつとの間、遊んでおくれなされや。



下駄

アイ、野手とおれとが、留守すりや、慥かな/\。



せせ

それは忝ない。そんなら、頼みますぞえ。嬉しや、雨も上がつたさうな。



[唄]

近所の徳は、引摺りで軒づたひ。



せせ

皆さん、行つて參じませう。



[唄]

皆さんこれにと出て行く。



[ト書]

トおせき、入る。



野手

サア/\、留守のうちに、なんぞ食はせ/\。



長吉

エヽ、此奴らは、疳病みぢやさうな。滅多に食ひたがるわい。



下駄

長吉、食はすか/\。



長吉

エヽ、鈍な事があるわい。今夜は新町で、濡髮との達引、姉貴が留守をせいと云はるゝ。鈍な事ぢやわい。



野手

エヽ、われも、埓の明かぬ事云ふものぢや。内の事は構はすと、行けいやい/\。



長吉

エヽ、おのれらが屋體ぢやないぞ。いろ/\の事を吐かす。おりや、死んでしまうても大事なけれど、親にも何にも彼にも、たつた一人の姉貴から頼まれた留守ぢやに依つて、どうも行かれぬ。と云うて、行かねば濟まず。ほんにそれよ。わいら、新町橋へ行て、長五郎に逢うて、長吉が云ふ、今夜はどうも内が出憎い程に、どうぞ大儀ながら、長五郎に此方の内へ來てたもと云うてくれ。



下駄

オヽ、合點ぢや。



野手

ほんに、肝心の事を忘れて居た。藤屋の吾妻と、與五郎が駈落ちして、行くへが知れぬとて、侍ひが亂騷ぎぢやが、その譯、知つて居るか。



長吉

サア、ぢやに依つて、今夜の達引ぢや。早う行てくれい。



野手

合點ぢや。必らず、ひけ取るなよ。



下駄

コリヤ、長五郎に負けなよ。



[唄]

おゝ合點と肩打振り、四ツ橋さして急ぎ行く。折から來るは平岡郷左衞門。



[ト書]

ト兩人入る。引違へて郷左衞門出て



郷左

長吉は宿に居るか。



長吉

これは/\、お珍らしい。なんと思うて、ござりました。



郷左

イヤサ、珍らしいどころではない……さて長吉、無念な事をしたわい。其方にも、かね%\頼んだ吾妻が事、値段も相濟み、金子百兩、手付けに渡し、後金を渡す段になつて、吾妻が駈落ち。なんと、肝が潰れると云ふものぢや。コリヤ長吉、其方を頼む。何卒、身が武士の立つやうに、好き思案をしてたもれ。これサ長吉、この通り、頼む/\。



長吉

お氣遣ひなされますな。大概に、うづんだ奴も知れてござりまする。わたしが、せいらくして上げまする。マア、落ちついてござりませ。



郷左

それは過分。おてまへが、さう云うてたもれば、大船に乘つた心地。少しは安堵いたしたわい。併し、身はこれより、高津、生玉、鹽町邊の、貸座敷を探して見ようわい。



長吉

イカサマ、それも、ようござりませう。お心任せになされませ。



郷左

長吉、よき吉左右あらば、身が屋敷まで、早そくに知らしてくりやれ。



長吉

よろしうござりまする。呑み込んで居りまする。



郷左

然らば長吉、さらばだ/\。



長吉

これは餘り、そう/\。マア、よろしうござりまする。



[唄]

挨拶すれども郷左衞門、耳にも入れず息きせき、むしやくしや腹にて立歸る。長吉、後を見送りて。



[長吉]

このマア、勘兵衞の大野良め、何をしてけつかるぞ。姉貴の戻りも、夜に入らうし、ドレ、店を片づけうかい。オヽ、また雨が降つて來たわい。



[唄]

座穀の船をがつたぴし、琉球の日覆も、破れかぶれの達引せんと、知らせに依つて濡髮の長五郎、流石浪花の關取と、一目に見ゆる角前髮、脇差ぼツ込み、しと/\と門口より。



[ト書]

ト向うより長五郎、傘をさし出て



長五

長吉、内に居やるか。



長吉

何奴ぢや。



長五

イヤ、おれぢや。



長吉

おれとは、何奴ぢや。オヽ、關取か。



[ト書]

ト長吉、着替へをする。



長五

わが身や、よう内に居やつたなう。



長吉

よう内に居いで。今、下駄や野手を、頼んでやつたが。



長五

野手や下駄とは、なんの事ぢや。おりや、この邊まで來たゆゑ、ちやつと寄つた。いよ/\達引に行きやるなら、連れ立つて行かうと思うて、來たのぢや。



長吉

ムウ、そんなら、わが身や、此あたりへ用があつて、寄りやつたか。



長五

オイナウ。



長吉

よう來てたもつた。



[ト書]

ト表の戸を引立て



[長吉]

わが身とおれが達引に、外から邪魔が入つても面倒ぢや。ちつとの間ぢや、待つてたも。樣子知らずに、來てたもつたが、よう來てくれたなア。



長五

マア、仕事を片づけてしまや/\。



長吉

廓で詞を番うた通り、わが身の方からしやるか。サア、關取、どうぢや。サア、行こか/\。



長五

コレ、急きやんな。わが身とおれとが出入り、外からちつとでも、指さす者はない。マア、出入りせぬ先に、出してもらはにやならぬ。



長吉

何を。



長五

吾妻どのを。



長吉

吾妻どのとは。



長五

與五郎どのと、吾妻どのが、駈落ちして、行くへが知れぬ。大方わが身が埋んで置いて、侍ひに渡しやる心であらう。達引するに、埋んである事を知らいでは、事が立たぬ。マア、吾妻を爰へ出して置いて、その上で、わが身とおれとの勝負をせうかい。



長吉

長五郎、そんな事云ふと、關取の顏が廢るぞよ。吾妻を遣るか、遣るまいのと、達引になつたを、金も出さずに、連れて去なうと云やつては、それぢや男が立つまいがの。關取、人を見て、法を説きやいなう。



長五

それ聞いたら、おれも男ぢや。埋んで置いて、出さぬと云ふ人ぢやあるまい。それ聞いたら、胸が晴れる。



長吉

イヤ、おれは晴れぬわい。



長五

どうして晴れぬ。



長吉

知つて居るわいの。



長五

誰れが。



長吉

ハテ、下駄や野手が、取分け頤のえらい奴等、云ひ觸らさいでなんとせう。不承ながら、爰で、達引してたも。



長五

そんなら、どうあつても、達引するか。



長吉

不承ながら。



長五

ハヽヽヽ、おりや、爰へ達引しに來たのぢやなけれど、そんなら、お二人の在所は、後が先へなる分の事ぢやて。



長吉

それ/\、それなら爰で、達引してたもるか。



長五

わが身の望みの通り、達引からするぞや。



長吉

サア、行かうか。



長五

サア/\。



[唄]

兩方一度に尻ひツからげ。



[長五]

わが身や、どうして片付けうと思やる。



長吉

關取、おりや、マア、斯うするわいの。



[唄]

取りにくる腕外がらみにしつかと取り。



長五

それでは行かぬ。



長吉

やつて見せう。



[唄]

兩方一度に諸肌ぬぎ、互ひに手練の身鹽梅、やつと云ふより合掌して、ひねれば止まり、突き落せば、どつこいさせぬと濡髮が、さしかくる腕ひツ捕へ、長吉が高無双、立つを飛び越し小腕とり、こりや/\/\と引き廻せば、敷居に爪づき放駒、尻餅どつとつきながら、側なる脇差拔く間も見せず起き上がり、切つてかゝるを俵口、掴んで丁と受け。



長五

叶ひもせぬ事、すなやい。



長吉

もう自棄ぢや。



[唄]

開いて發矢と切りかくれば、胴繩俵に切り込んで、流るゝ米は雨あられ、小癪するなと切尖下がりに突ツかくる、どつこいさせぬと俵の楯、切尖に刎ね飛ばせば、飛びしさつて拔き合せ、受けつ流しつ我流無法の白刃と白刃、白髮まじりの親仁ども、駕籠を舁かせて、爰ぢや/\と戸を叩けど、二人は耳にも聞き入れず、命限り根限り、刃音鍔音はつし/\、表よりはぐわつた/\。



[ト書]

ト六兵衞、五助出て表を叩く。



六兵

放駒の大盜人め。



五助

長吉の盜人め、明け居れやい/\。



[ト書]

ト口々に云ふ。



長五

待て/\、長吉。



長吉

待てとは、卑怯な。後れたか。



長五

長吉、いま表から云うたを、なんと聞いた。



長吉

ヤ。



長五

放駒の長吉、大盜人と云うたぞよ。



長吉

なんと。



長五

これまで、なんぼも出入りはしたれど、盜人を捕へて、相手にはした事がない。明りを立てい。われが盜人の明りさへ立つたら、後で勝負せうわい。



長吉

盜人の明りさへ立つたら、後で勝負してくれるか。



長五

何時でも、勝負するのぢや。マア、明り立てゝしまへ。



長吉

忝ない/\。それなら、引け。



長五

われから、引け。



二人

サア/\/\。



[唄]

一度に拔き身をさつと引き。



長五

盜人の明りさへ立つたら、何時でも勝負する。それまでは、一寸も後へは引かぬ濡髮の長五郎。おりや、爰で待つて居やうわい。



[唄]

どつかと押直れば。



六兵

明けやい、大盜人め、明け居らぬかい。



長吉

なんぢや、放駒の長吉を、大盜人と云うたは、うぬらか。



六兵

オヽ、おれぢや。大きな事するなア。立ちながら云ふ事ぢやない。みな此方へ入らしやれ。



五助

米屋の長吉は、和御寮か……和御寮は/\。昨夜、此方の男を、立賣堀まで使ひに遣つたりや、新町橋で踏んだり叩いたり、えらい事しやつたなう。なんの意趣あつて、あのやうに投げたのぢや。サア、それ聞かうそれ聞かう。



長吉

そんなら、昨夜の事か。おれに楯突く奴は、何奴でも投げてこます。投げたのが、どうしておれが盜人ぢや。うぬら、一人づゝ捻り殺すぞよ。



六兵

コリヤ、ヤイ、かさかわくないやい/\。



五助

オヽ、かさでも、汁椀でも、なんとも思ふのぢやないぞ。



[ト書]

ト云ひ/\長五郎を見て、氣味惡さうに



[五助]

立派な角力取りさん、お前も聞いて下さりませ。昨夜、此方の男に、銀六十匁、打がへに入れて持たして遣つたを、せしめうばかりに、喧嘩を仕掛けたのでござります。その喧嘩から、打がへが見えませぬわいなう。



長吉

默りあがれ。打がへか見えねば、おれが盜人かい。あんだら盡すと、頬桁を引裂くぞ。



五助

ヤレ、恐ろしや/\。



六兵

コリヤ、そないに頭から喚くないやい。科もない者を、投げたり、踏んだりしをつたは、その金をせしめうばかり。當世流行る、ばつたりぢやわい/\。



長吉

おれが取たつと云ふは、證據があるか。



六兵

アヽ、コレ/\、何も、せり合ふ事はない。いつそ町へ斷わつたがよい。ござれ/\。



[唄]

近所へ響くわなり聲、姉のおせきは息せき、戻ればいつものつけ答へ、樣子をためらふ其うちに、また車から二三人。



[ト書]

ト久兵衞、顏に膏藥を貼り、ちんば引き、妙林の肩にかゝりながら出る。



妙林

爰ぢや/\。内に居やるか。其方は/\、此方の息子を、山本町へ謠の稽古に遣つたれば、かけも構ひもせぬ者を、よう此やうにしやつたなう。腕が折れたわいなう。そればかりぢやない。紙入れに金三歩と、豆板が二十粒、その場から見えぬは、疵養生代を、其方へ取られたのぢやな。大盜人め、紙入れを戻し居れ。サア、この疵を、元のやうにまどへ/\。



長吉

猫股婆め。



妙林

にやんぢや。



長吉

いろ/\の事を吐かすがな、おのれが不調法で落したを、おれが知つた事かい。



妙林

叩いて置いて、取りやつたのぢやわいなア。



六五

大盜人よ/\。



長吉

そんならおれを、盜人に仕上げるなア。



久兵

オヽ、盜人ぢや/\。



長吉

盜人か。



三人

オヽ、盜人ぢや。



長吉

さう吐かしや、うぬら、モウ。



[ト書]

トかゝらうとする、おせき、入つて、止めて



せき

マヽヽ待つてたも。先刻にから、樣子は聞いたが、道理ぢや/\。



長吉

姉樣か。彼奴等が、おれをナ、盜人ぢやと云ひやんすわいなう。



せき

道理ぢや/\が、マア、待ちや。わしが聞かぬ。例へ其方が料簡しやつても、わしが聞かぬ。わが身の顏の立つやうにする程に、マア/\待ちや。コレ、拜む程に、待つてたもいなう。



[ト書]

ト度々宥め、又こちらへ來て



[せき]

お前方も、ざわ/\と、マア、下に居さしやんせ。一體、慮外でござんす。アイ、云ひやうが、麁相にござんすぞえ。



皆々

何が慮外、麁相ぢや/\。



せき

喧嘩をする者は、此方の長吉、一人でござんすかえ。ほんに、これまで紙一枚、粗末にせぬ者を、人樣の物を盜んだとは鈍な事。聞いては居ませぬぞえ。



[ト書]

トきつと云ふ。



長吉

コレ/\姉樣、此方へ退いて居やんせ。彼奴等が、おれを盜人にして。



[ト書]

トかゝらうとするを、いろ/\宥める。



[長吉]

エヽ、お前に構はす事はない、退いて居やんせいなう。うぬ、彼奴らを。



[ト書]

ト又かゝらうとするを、引止め



せき

サア、よいわいの。此方の理窟のある時は、温なしうしたがよい……そちらな前髮樣、お前も、なんぞ云ひ分があるのかえ。



長五

アイ、わしも出入り殘りがあつて、來たのでごんす。盜人ぢやの、盜人でないのと、云ふやうな者を相手にした事がごんせぬ。マア、そちらの達引から、片附けてしまはんせい。



せき

さうなされて下さりませ。アレ、餘所の事のやうに云うて、立つものでござんすか。小さうても、店張つて居りますぞえ。アイ、慮外ながら、そんな事、聞いては居やせんぞえ。



妙林

ヤ、コレ、姉御の姫御前、喧嘩の場から、金が見えぬ依つて、盜人と云ふのぢやわいな。總體この頃は、人に喧嘩を仕掛け、物を取るのを、ぱつたりとやら云ふげな。ちつと耳が痛らかう。サア、盜まぬと云ふ、なんぞ證據がござんすかえ。



せき

そんなら、喧嘩を仕掛け、物を取るを、ぱつたりと云うて、流行る依つて、長吉が取りやつたと云ふには、なんぞ證據があるかえ。



妙林

そりや、その場から見えぬが證據。



五助

成る程、姉御の云ふのは尤もぢやが、オヽさうぢや、長吉が取らぬと云ふ證據を見しや。



せき

サア、證據は。



皆々

サア/\/\、見よう/\。



せき

證據、見せませう。アレ、長吉の着替へや、手道具を入れる、あの箪笥、あの中を、お前方に見せて、もし無い時は、キツとお禮申しますぞえ。



妙林

そりや、その時の事。



五六

サア、見よう/\。



長吉

コレ、なに云はんすぞいなう。エヽ、とつと彼奴等が、覺えもない事云うてうせて、おれが箪笥を見せるのかえ。そりや、家搜しぢやぞえ。なりませぬ、ならぬぞ。コリヤ、うぬら、指でもさいて見され、捻り殺すぞ。



せき

惡い合點ぢや。此方に覺えのない事ぢやに依つて、有るか無いかを見せて置いて、後で存分云はねばならぬ。マア/\、わし次第に、任して置きや。



[唄]

姉に任して抽出しの、上の一重は袴入れ、次は帷子薄羽織、着物布子もでんぐり返し、箱の底より引き出せば、ついに見つけぬ紙入れ打がへ。



五助

ソレ、紙入れや打がへが、あつたぞや/\。



六兵

なんと、それでも、盜まんのか/\。



長吉

この紙入れ、打がへは。



妙林

此方の息子のに、違ひはないわいの。



長吉

こりや、どうぢや。



せき

ハア。



[唄]

はつと吐息もつき詰めた、姉のおせきは顏をも上げず、面目涙にくれければ。



長吉

姉貴、おりや、知らんぞえ。エヽ、なんの事ぢやえ。おれが箪笥の中に、こりやマア、なんの事ぢや。コリヤ、よい加減な事を拵らへて、此方の内へ、ねだりにうせたか。おりや、盜みした事はごんせぬわいなう。



せき

まだそんな事云ふか。紙入れや打がへに、手足が附いて、わが身の箪笥の中へ、入つてあつたか。そんな事とは知らずに、今まで潔白さうに云うたが、今さらどうも、エヽ、なんの事ぢやぞいなう。



長吉

どのやうに云うても、おりや、盜んだ覺えはないもの。



[ト書]

トおせき、長吉を抓つたり、叩いたり、振り廻しても、動かぬゆゑ、腹立ち聲にて



せき

エヽ、ほんにそんな心には、どうしてなつた。思へば、死なしやんした父さんや、この姉が顏まで、よごさしたぞよ。



[唄]

打がへ取つて容赦なく、叩き据ゑぶち据ゑる、姉が眞身の強意見。



妙林

エヽ、コレ/\、こちらは、こな衆の御意見を、聞きにや來ぬぞや。いつそ町へ斷わらうか。但し、金を戻すか。



皆々

どうぢや/\/\/\。



[ト書]

ト立ちかゝるを、姉はいろ/\宥めて



せき

サア、御尤もでござりまする。其やうに口々に、聲高に仰しやつて下さんしては、近所の手前がどうも。覺えのない事ぢやに依つて、今のやうに申しましたは、重重惡うござります。御料簡なされて下さりませ/\。



[ト書]

トいろ/\こなし、泣いて云ふ。



妙林

オヽ、金さへ濟ましたら、料簡してやらう。



せき

アイヤ/\、その金も、わたしが辨まへませうし、また養生代も、わたしが辨まへませう。金を拵らへるまで、マア奧へござつて、待つて下さりませ。



妙林

ハテ、金さへ戻る事なら、でんどへ出ずと、待つてやりませうかいなう。



五助

ぢやと云うて、横道な奴ではある。



六兵

と云うても、でんどへ出ては、互ひの損恥。



妙林

そんなら、兎角町には事なかれ、待つてやりませう。



せき

それは忝なうござりまする。マア/\、此やうに疵まで附け居つた憎い奴でござります。さぞ痛むでござりませうなア。



[ト書]

トいろ/\追從云ふ。皆々、思ひ入れあつて



五助

エヽ、盜人めは憎けれど、姉樣の手前が笑止なゆゑ、みんな奧へ、ござれ/\。



[ト書]

ト皆々、奧へ入る。後を見送り、おせき、紙入れ、打へを取り上げ、泣き、また長吉を見て、思ひ入れあつて、泣く。合ひ方になり



長五

長吉、勿怪な出入りになつたなア。この仕舞ひは、マア、どう附けうと思うて居るぞ。



[ト書]

ト長吉、物をも云はず、無念のこなしあつて、脇差を提げ



長吉

さうぢや。



[ト書]

ト奧へツカ/\と行かうとするを、おせき、止めて



せき

待ちや。血相變へて、どこへ行く。



長吉

どこへとは、奧へ行つて、おれが盜みしたか、せんかの明りを立てた上で、何奴も此奴も、胴腹抉つてこますわいの。



せき

待ちや。



[ト書]

トいろ/\止める。



長吉

イヤ、放さんせ/\/\。



せき

姉の云ふ事、聞かんのか。あれほど慥かな證據があつても。



[ト書]

ト長吉、無念のこなし。また行かうとするを、止めて



[せき]

コレ、いま奧へ行かしやんしたお方の、云はしやんしたを、なんと聞きやつた。この頃、人を叩いて、物を取るを、ばつたりと云ふと、云はしやんしたぞよ。モウ、世界は廣いさかい、惡い者もあらう。なんぢやあらうと、喧嘩をする者は、盜人のやうに、人が思ふわいなう。此方の父さんは、丸屋仁右衞門と云うて、人樣方にも立てられ、若い時分から相撲好き。あの長吉は、角力を取れば、内方の息子どのは、十五やそこらで大きな體ぢや、元服した者を投げたと云ふ、親の心ではそれを喜んで、力立てするを止めなんだが、今ではひよんな事。母が死ぬか、おれが死んだら、頼みにするは其方一人、長吉が事を頼むと、勿體ない、娘のわしに手を合して、拜ましやんしたぞえ。それにマア、親の事は微塵も思はず、色里へ入込み、人を投げたり、それが親の弔ひになると思うて居やるか。其方の事を思うて見れば、この姉の胸が、一杯になつてならぬわいなア。



[唄]

心に思ふありたけを、數へ立て/\、弟を思ふ眞實に、袖も袂も千石通し、涙の種をふるひけり。



妙林

コリヤ、いつまで待つても、埓の明かぬ事ぢや。



六五

コレ/\、こりや、でんどへ出ませうわいの/\。



[ト書]

ト皆々、奧より出る。



せき

もう/\金は、出來てござんす。まちつとの間、待つて下さりませ。長吉、わしや、奧へ行くぞや。コレ、今夜は父さんの年忌の逮夜ぢやぞや。親がないと思うて、我まゝの有り條。男が立たぬ、顏が立たぬと云ふその顏は、矢ツ張り父さん母さんに、産みつけてもらうたその片割れぢやぞや。盜人と惡名の附いた其方、その惡名を、この姉が血の涙で、洗ひ雪ぐやうにしてたもや。ドレ、奧へ行きませう。



[ト書]

ト思ひ入れあつて、おせき、奧へ同行、連れ立つて入る。あと唄になり、長吉、いろ/\こなしあつて、打がへ、紙入れを見て、無念のこなしあつて、脇差を拔き、手拭にて卷き、腹を切らうとするを、長五郎、止めて



長五

待て/\、待て。わりや、なんで死ぬる、腹切るのぢや。



長吉

イヤ、止めな、長五郎、生きて居られぬこの長吉、それぢやに依つて。



[ト書]

ト死なうとするを、止めて



長五

待て/\/\、待てと云うたら待て。われが立たんと云ふは、世間よりは、今日の出入りしに來た、おれが手前が立たぬと云ふのであらうが、われが盜まぬ事は、おれがよう知つて居る。それを、長五郎が盜人にして、殺してしまうては、こりや、喧嘩の尻があるに依つて、疫病の神で敵と、見ぬ顏して、見殺しにしたと云はれては、長五郎の男が立たぬ。ほんにわりや、大きな仕合せ者ぢや。



長吉

おれを仕合せ者とは、きよくるのぢやな。



長五

きよくるのぢやない。おれも八幡には、一人の母者人があれど、五つの時に別れてから、逢うたはたつた一度。誰れが意見してくれる者もないに、わが身は結構な姉貴を持つて居るなア。姉貴はえらい者ぢや。例へ山が崩れて來ても、姉貴がグツと受けこんで、わが身に微塵も難儀はかゝらぬ。そんなら、なんと姉御の庇ほど、忝ないものはないぞや。姉貴が云はれた今の意見が、わが身の事ぢやとは思はぬ。一つ/\おれが身に堪へて、これから喧嘩は止めぢや。又こんな時に止めにや、止める時はないぞよ。出入りは止める程に、さう思うてたも。



長吉

わが身とおれが、出入りをこれぎりで止めるとは、アヽ、こりや、盜人を相手にせぬと、わが身や、おれを矢ツ張り盗人にするのぢやの。



長五

なんの盜人にせうぞいの。わが身が盜人なら、先刻の時に、おりや去ぬる。こりや、なんぞの間違ひぢやあらう。あの野手や下駄を、心安うしやるが、彼奴等は世間で評判の惡い者ぢやぞや。大方先へ廻つて仕事して、わが身に難儀かけるのであらう。吟味して見や/\。



長吉

忝ない。これまで友達は幾人もあるけれど、こなたのやうな深切な者はないわい。大抵、嬉しい事ぢやないぞよ。併し、こなたの疑ひは晴れてあるけれども、長吉は盜みしたと、世間で云はれては、どうも表へは出られぬ。姉者人の手前も面目ない。それぢやに依つて。



[ト書]

トまた切腹せうとするを、おせき出て押しとめ



せき

コレ待ちや。其方を殺すまいと思うて、いろ/\と姉がするのぢや。この後、喧嘩さへせねば、わが身の明りは、立つであらう。



長五

立つてやるとい/\。



長吉

立つてやるとは、盜人の明りを立てるのかえ。おりや、盜人とさへ云はれねば、餘り死にたうもないわいの。



せき

死んで堪るものか。喧嘩を止めると云ふ、誓言を立ちや。



長吉

それでも、誓言をついに立てた事がないもの。オヽ、あるぞ。コレ、今夜、此方の内へ達引に來た、相手の長五郎、その長五郎が、踏まうが叩かうが、相手にはならぬ。これが慥かな誓言。



せき

そんなら、例へあなたに踏まれても、叩かれても、口惜しいと思やせんか。喧嘩する事もならぬぞや。



長吉

もう喧嘩はせぬわいの。



せき

オヽ、出かしやつた/\、お同行樣、みな來て下さりませ。



[唄]

爰へ/\と呼ぶ聲に、ねだりに來たる親仁ども、肩衣かけて珠數つまぐり、どや/\と立ち出づる。



[ト書]

ト皆々奧より出る。



[せき]

斯うばかりでは合點がゆくまい。あなた方は、死なしやんした父さんの、同行方ぢやわいなう。



長吉

エヽ。



せき

氣の毒なこなたの氣を、助けてやりたいと、今日長五郎さんと、この樣子を云うたら、今夜中は延ばされぬと、喧嘩の相手に來て下さんしたりやこそ、其方の心が直つたぢやないか。



長吉

こりやマア、なんの事ぢや。打がへや紙入れは、何奴が入れて置いたのぢや。



せき

わしが入れて置いたのぢや。



長吉

姉さん、胴慾ぢやわいなう。



せき

サア、腹が立つなら、わしをどうなりとしてたも。わしが入れて置いたりやこそ。人が入れて置いたりや、矢ツ張り其方は、盜人にならにやならぬ。オヽ、腹立ちやつても、今夜は出入りもなう濟んだぢやないか。皆お講中さんのお志しが屆いてなア。



妙林

オヽ、さうとも/\。姉御の心を、無足に思はしやるな。年寄つて、此やうな作り事して來るも、こなたの心が直さしたいばかり。サア、今日からとんと、心を入れ替へさつしやれや。



五六

サア/\/\、とてもの事に、誓言を聞きませう聞きませう。



長吉

ハイ、いかいお世話さま。お前方に誓言は、もうこれから喧嘩を止めて、商賣を精出して、姉さんの云はんす事、なんなりと聞きますでごんせう。



妙林

オヽ、出かさんした/\。今のを聞いては、姉御、さぞ嬉しうござんせう。



せき

妙林さんの仰しやる通り、わたしや産れてから、此やうな嬉しい事はござりません。身に引きかけて、お前方のお世話で、弟一人拾ひましてござります。もうこれからは、喧嘩は止める、わしが云ふ事も聞かうと申しますし、商ひも精出さうと云うて居ります。いかいお世話さまでござります。



[ト書]

トこなしあつて、長吉に向ひ



[せき]

長吉や、よう思うても見や。喧嘩をして人樣に、腹立てさしたりすると云ふやうな事があるものか。一體また、喧嘩する者に碌な



[ト書]

ト云ひさし、長五郎の方を見て、思ひ入れあつて



[せき]

碌なお方があるかも知らぬけれど、ハヽヽヽ、長五郎さま、初めてお出でなされまして、いろ/\の事を、お聞かせ申します。手前の長吉は、喧嘩はもう止めると云うて居ります。お前様も、ちよつ/\と、遊びにお出でなされませば、これまで出歩かしやつたものぢやに依つて、もし又、門中でお逢ひなされませうとも、内の姉が案じてあらう、早う去ねと、機嫌よう呵つて下さりませ。若い同士の事なり、何分よろしく、お頼み申しまする。



長五

イヤモウ、これが、雨降つて、地固まるとやらでごんせう。これからは、長吉とは兄弟同然にして、また惡い事でもあつたら、意見をしませうわいなう。



せき

その御深切、忘れは措きませぬ、有り難うござります。長吉も、この後は心を附けて下されや。



長吉

濡髮がさう思うてくれりや、おれもさうかい。



せき

聞かしてやつて下さりませ、生きる死ぬるの勝負にお出でなされたに、二人ながら兄弟分になつて、惡い事があらば、意見をして下さるとは、ほんに、マア/\、いかいお世話さまでござります。



[唄]

所縁の袖に置く涙、手向けの水となりぬらん。



妙林

これと云ふも、佛のお庇、ちとお寄りにも、參じられませ。



皆々

サア、もう去にませうかい。



せき

ようお出でなされました。



[ト書]

ト唄になり、皆々、下座へ入る。



長五

おれも、もう去なう。二三日のうち、此方へおぢや。



せき

マア、お待ちなされませ。つい歸しましては、どうやら、兄弟同然と仰しやつたに、違ひもせまいが、女は愚痴なものぢや依つて、とてもの事に、ちよつと杯をなされて下さりませ。



[ト書]

ト神棚の徳利、土器を持ち出る。



長五

尤もでごんす。慮外ながら、注いで下んせ。とてもの事に、しつかりと固めがして置きたい。大儀ながら、腕出してたも。お氣遣ひな事ぢやごんせぬ。斯うして置かねば、氣がしつかりとせぬて。



[ト書]

ト長吉の腕を引く事よろしくあつて



[長五]

なんぞ、つけてやつて下んせ。



[ト書]

トおせき、思ひ入れあつて、袂の埃を出して長吉の腕につける。



[長五]

斯う血を絞り込んで呑むからは、兄弟同然。サア、おれが腕を引いて、一つ呑みや。



長吉

イヤ、その杯は戴かぬ。



長五

杯を戴かぬとは、矢ツ張り心が殘つてあるか。



長吉

殘つてありや、爰で勝負する。濟んだに依つて、どうも杯が戴かれぬ。



せき

それでは、長五郎さまが、立つまいぞや。



長吉

イヤ、立つ。



長五

どうして立つ。



長吉

この杯、暫らくおれが預かつて置く。



[ト書]

ト皆々こなし。向うより野手の三、走り出て



野手

長吉々々。彼の侍ひが難波裏で、吾妻と與五郎を引ツ捕へて、出入りの最中。行きやらんか。おりや、その仕舞ひを、見ようわい。



長五

南無三方。



[ト書]

ト駈け出さうとする。



長吉

長五郎、待て。わればかりは遣らん。おれも行くまで、待つてくれい。



長五

待てと聞いて、行かうとは、矢ツ張り肩持つのぢやな。



長吉

さうぢやない。生きても死んでも、われ獨りでは心元ない。一緒に行く。待つてくれ。



[ト書]

トおせき、止めて



せき

まだ其方は、心が直らぬか。



長五

杯せぬうちは、われには頼まぬ。



長吉

待つてくれ/\。



[ト書]

トおせきを引き退け、立廻りある。



長五

おのれ。



[ト書]

ト尻を引つからげ、走り入る。長吉、おせきを退けて、行かうとする。おせき、積んである米の俵をこかす。この見得にて、兩人、よろしくこなしあつて、返し。

造り物、難波裏の體。向う遠見、今宮天王寺の景色。所々に稻村、松の木などあり、幕明く。


[ト書]

ト踊り三味線にて郷左衞門、有右衞門、與五郎を引ツ立て出て



有右

エヽ、郷左どの、手ぬるい/\。吾妻が事を、思ひ切つたと吐かさずば、土坪へ打ち込み、茶碗蒸しの冷し物にさつしやれ。



郷左

イヤ/\、それは後詰めの事。先づ、やわ/\と苛なみますが、吾妻を手に入れる責め道具。この二才めは、拙者に任して、貴殿は何卒吾妻の儀を。



有右

お氣遣ひなされな。二才をそびき出した事を、わざと吾妻へ聞かせてござるは、在所を慕うて參るは必定。先づ、貴殿はその二才めを。



郷左

合點でござる。コリヤ毛二才め、手付け金百兩、親方へ渡し置いたれば、後金の相濟み次第、身が奧樣だぞよ。イヤ、吾妻は女房だぞよ。それを、吾妻を連れて走らうとは、コナ、生き盜人めが。



有右

間夫とやら、虻とやらは、勤めのうちの事。最早郷左どのの奧方と極まれば、間男も同然だぞよ。



郷左

顏に似合はぬ、太い奴だわい。



[ト書]

ト振り廻し、いろ/\苛なむ。



有右

手ぬるい/\。ドレ、拙者、代りませう。



[ト書]

ト與五郎を引きつけて



[有右]

ヤイ二才め、苛なまるゝが、苦しいと思ふならば、吾妻が事を思ひ切つて、あなたの方へ差上げませうと、三拜ひろげ。どうぢや。



與五

ならぬ/\。相手は侍ひ、御免づくで退いたと云はれては、與五郎は立たぬ。思ひ切る事は、ならぬ/\。



有右

死太い奴の。



[ト書]

ト郷左衞門、與五郎を引き付け



郷左

エヽ、嫌らしい。その心中立てが猶むやくしいわい。



有右

土性骨にこたへさせませう。



[ト書]

トはたと蹴る。



郷左

大泥坊めが。



[ト書]

ト兩人していろ/\苛なむ。そこへ吾妻、走り出て



吾妻

ヤア、與五郎さん。



[ト書]

ト寄らうとする。有右衞門、吾妻を引きつけて



有右

なんと、見たか。郷左どのゝお心に背けば、あの通り。今にも應と云うて、奧樣にさへなれば。



吾妻

エヽ、穢らはしい。嫌ぢや/\。



郷左

さう吐かせば、この二才めを、カウ/\/\。



[ト書]

トいろ/\苛なむ。



吾妻

そりや、あんまり胴慾ぢや。心に從はぬが腹が立つなら、マア、わしから先へ、殺して下さんせいなア。



有右

益體もない。そもじを殺しては、郷左どのゝ涙の種、兎角郷左どのゝ、修羅の種はこの與五郎。



郷左

傾城遊女をたぶらかす、蟲の種どもへの見せしめに、蟲塚へを埋んでこまさう。



有右

いつそ、手短かに、さうだ/\。



[唄]

與五郎一人を手玉につき、踏みつ蹴りつの打擲に、目も當てられぬ吾妻が思ひ、戎橋筋一文字、飛ぶが如くに長五郎、駈け來るより侍ひ二人が、腰骨掴んでぐつと差上げ、大地へどつと首の骨、碎けて退けともんどり打たせ、二人を圍うて仁王立ち。



[ト書]

ト長五郎、向うより駈けて出て、二人を投げる。



吾妻

オヽ長五郎さん、好い所へ、よう來て下さんしたなア。



與五

如何におれ一人ぢやとて侮つて、此やうにむごい目に遭はして、人中へ顏が立たぬわいなう、



長五

サア/\、ようござります/\。わしが、立てます立てます。



吾妻

いとしなげに、與五郎さんを、二人して



長五

サア/\、よいてや/\。怪我がありや惡い。お前隨分氣を付けて、マア、片寄つてござりませ。



[ト書]

ト與五郎、吾妻を宥め、稻村の蔭へ入れて



[長五]

お侍ひ、濡髮が云ふ事があつて、後追うて來たのぢやと、性根を附けて、爰へ出て、聞いてもらひませう。



[唄]

喚けど更に返答なく、砂まぶれになつて起き上がり、互ひに顏を見合せて。



郷左

なんと、有右どの、氣が付いたか。



有右

成る程、人心地にはなりましたが、皆目、首が廻りませぬて。



郷左

イヤ、身共も御同然。斯程の目に遭ひまする儀は、臍の緒切つて以來の儀。



有右

恐らく、人間業とは思はれませぬ。



郷左

道理で、當年は、暖かなと存じましたが。



有右

雷か、地震か。



兩人

どいつぢや、何奴ぢや。



長五

誰れでもごんせぬ。濡髮の長五郎でごんす。マヽ、下に居て下んせ。



有右

ナニ、濡髮。



[ト書]

ト兩人、恟りして



郷左

ヤア、慮外な奴め。武士に向つて、下に居よとは。



有右

其やうに、自由に立居がなる程なら、云ひ分はないけれど、歩くも心に任せぬわい。



郷左

匹夫下郎とは違ふぞ。身は武士だぞ。武士だに依つて、ひどくこたへて、體に痛みがあるワ。痛みのない體とは違ふぞ。例へ、難波道で骨接ぎが近ければとてもぢや。



有右

長五郎、卑怯な。諸侍ひを騙し投げとは、何事ぢや。樊

、辨慶でも、騙しや負けるわい。なぜ尋常に名乘りを上げて、かゝらぬぞ。團扇も引かぬうちに、投げると云ふ事があるものかい。



長五

エヽ、喧ましいわいの。コレ、おれが云ふ事、よう聞かんせや。吾妻の身請けの高は六百兩、與五郎さまから、親方へ渡した手付けの金は三百兩。しかもおれが手から渡して、即ち、受取は爰にある。それに、こなさん方が、奧樣ぢやの、女房ぢやのと云はんすゆゑ、どうも添はれまいかと思うて、そこで駈落ちぢや。總體、屋敷方の格式で、例へ金があり剩つても、身請けぢやの、イヤ請け出すのと、ぱつとした事はならぬものぢやげな。それを、こなさん方の意地づくで、身請けの邪魔。その意地づくの所を、どうぞ長五郎に下んせ。わしが貰うた吾妻どのゝ身請けを。



郷左

ならぬ。吾妻が身請け、止めにする事、罷りならぬ。と云ふのは、あながち戀の意趣ばかりでない。與五郎には濡髮と云ふ、腰押しがあるゆゑ、侍ひが敵はぬと思うて、吾妻が事を思ひ切つたは、濡髮が恐ろしさ、長五郎には敵はぬと、世の人々にかけられては、この郷左衞門、武士が立たぬ、料簡ならぬぞ。



長五

なんと云はんす。長五郎が腰押しぢやに依つて、料簡ならぬと云はんすのぢやな。



郷左

くどい。



長五

聞えた。成る程、尤もぢや。歴としたお侍ひが、町人の濡髮に、度々投げられ、それが怖さに、吾妻を思ひ切つたと云はれては、腹が立たう。侍ひが立つまい。ようごんす、その腹癒せに、おれを。



郷左

ナニ、其方が存分になるか。



[ト書]

ト兩人、顏見合せ



有右

アノ、郷左どのゝ存分になるぢやまで。



長五

アイ、存分になりませう。



郷左

なんと致さう、有右どの。



有右

存分になるに相違なくば、望みの通りに致してくれうわい。



長五

そんなら、おれを存分にして、思ひ切つて下んすか。忝ない。サア/\、存分に踏まんせ/\。



[ト書]

ト兩人、顏見合し、こなしあつて



郷左

オヽ、好い覺悟。



有右

いよ/\得心だな。



郷左

サア、有右どの、お出でなされい。



有右

先づ/\、貴殿から。



郷左

然らば、お先へ參る。



[ト書]

ト怖々、思ひ入れあつて



[郷左]

ヤイ長五郎め、うぬ、一度ならず二度ならず、町人の分際として、諸侍ひを、斯う踏んだか。カウ/\……サア、お出でなされい。



有右

もう、それでようござるか。其やうな、生ぬるい事では參らぬ。身共が代つて、カウ/\/\/\。



[ト書]

ト打擲する。



郷左

重ねて慮外ひろがぬやうにカウ/\/\/\。



[ト書]

トいろ/\苛なんで、草臥れたこなし。



兩人

アヽ、しんど。



長五

お二人樣、もうこれで、ようござりますか。



郷左

存分に、仕返しは濟んだぞ。



長五

御存分でござりますか。



兩人

もうよい。



長五

云ひ分ないなア。



兩人

くどい。



長五

御存分になつた上は、約束ぢや、吾妻どのを、思ひ切つて、早う去んでもらひませう。



郷左

イヤ、去なれぬ。仕返しは濟んでも、吾妻には、百兩と云ふ手付けが渡してあるわい。



長五

ハテ、お前方の手付け金は、廓へ行て、お返し申しませう。吾妻どのゝ身請けは、どうぞこれぎりに。



郷左

ならぬ、否ぢや。百兩と云ふ手付けを、渡して置いたれば、いつまでも吾妻は、身が女房だわい。



長五

そんなら、どうでも吾妻どのを。



郷左

是非受取らうと云ふならば、有右どの。



[ト書]

ト顏にて教へる。



有右

オヽ、斯うして渡さうかい。



[ト書]

ト切つてかゝる。立廻りて、二人を止め



長五

コリヤ、何をするのぢや。ほてゝんがうかはくと、相手にならねばならんぞ……と云ふは嘘。どうぞ料簡を付けて下んせ。お前方も二人して、わしを仕舞ひつけもさんせうが、わしも、手も足もある。エイヤツトウの道も、ちつとばかりは知らんでもなし。すりや、互ひに命づく。ナ、さうぢやないか。大事の所ぢや。どうぞ料簡して。



兩人

ならぬ。



長五

そこを、どうぞ。



兩人

否ぢや。



長五

料簡ならねば百年目。猿松めら、覺悟しをらう。



[ト書]

トきつとなる。これより二階にて鳴り物入りの合ひ方になり、三人、立廻り、いろ/\ある。トヾ兩人を切り伏せ、よろしくある。與五郎、吾妻、慄へ/\出て



與五

ヤア、これは。



長五

騷がずと、ヂツとしてござりませ。



[ト書]

ト野手、下駄、窺ひ寄つて



下駄

吾妻、見附けた。



野手

郷左衞門さまに手渡しして、褒美にする。來い。



[ト書]

ト引ツ立て行かうとする所へ、長吉、走り出て、立ち塞がり



長吉

野手や下駄か。



野手

オヽ、長吉、好い所へ來たなア。



長吉

オヽ、好い所へ來たのぢや。



[ト書]

ト長五郎、吾妻を圍ひ、二人を投げる。



長五

さう云ふは、長吉ぢやないか。



長吉

オヽ長五郎。この場の事が氣にかゝつたに依つて、姉貴の手前を拔けて來たが、して、出入りはどうなつた。どうぢや/\。



長五

聞いてくれ。達引になつて、二人とも、殺らしてしまうた。



長吉

ヨウ、そんなら、ざぶを殺らしたか。



長五

長吉、お二人の事を頼んだぞよ。



[ト書]

ト腹切らうとするを止めて



長吉

待て。われが死んでは、お二人のお爲にならぬ。



長五

でも、人を殺したこの濡髮。所詮生きては居られぬわいの。



[ト書]

トまた死なうとするを、止めて



長吉

ハテ、惡い合點。侍ひが死んだら、もう誰れも義理はない。吾妻どのや與五郎どのは、おれが預かつて、お世話申すと云ふ證據は、コレ、この杯。



[ト書]

ト出して長五郎が腕を引き、呑んで



[長吉]

兄弟の印。



長五

エヽ、忝ない。



長吉

斯うするからは、お二人の事は案じずと、一先づ大坂を立退き、半季か一年は、影を隱したらよからう。



長五

そんなら、其方の詞につき、與五郎さま、吾妻どの、隨分御無事で。



與五

短氣な心を、持つてたもんなや。



長五

そんなら、長吉。



長吉

さらば。



[ト書]

ト長五郎、行かうとする。



野下

長五郎、待て。



[ト書]

トかゝるを、立廻り、二人の首筋を掴み



二人

毒喰はゞ皿。



[ト書]

ト双方一時に、長吉は締め殺す。長五郎は泥へ切り込む。ト明け六ツの鐘鳴る。



長五

ありや、明け六ツ。



長吉

夜明けぬうちに。



長五

さらば。



[唄]

足を早めて。



[ト書]

ト長五郎は向うへ走り入る。舞臺の三人、

よろしく幕

四幕目 橋本の場

役名==橋本次部右衞門。


山崎屋與次兵衞。


山崎屋與五郎。


藤屋吾妻。


次部右衞門娘、おてる。


下女、おしも。


同、おゆき。


駕籠の太助。


駕籠の甚兵衞。


放駒長吉


造り物、三間、二重舞臺。見附け、重ね戸棚、納戸口。上手、折り廻り、障子屋體。橋がゝり、藪垣に塀。いつもの所に門口。幕の内よりおてる、蒲團の上に脇息にもたれ、二枚屏風、側に下女おしも、おゆき、附いて、本の繪を見せて居る。淨瑠璃にて幕開く。


[唄]

思ひなくて薮入りしたれ親里に、與五郎が嫁おてる、去らるゝとなく去るとなく、呼び戻されて明暮れに、辛氣辛氣のぶら/\病、頼む床にはつかねども、つれなき床もなつかしき、お氣のもつれを慰さめんと、下女が按摩も話し伽。



ゆき

コレ/\、おしもどの、この間、御寮人樣のお供をして見に行た芝居は、面白い事であつたなう。



しも

ほんに、その時の藝題は、傾城淺間嶽、江戸役者の中村七三と云ふ色事師、なんと、好い男ではないかいなう。



ゆき

その相方の奧州と云ふ傾城になつたは、なんとやら云ふ、女形であつたなう。



しも

ても、物覺えの惡い人ぢや。それは、岩井吾妻と云ふ女形ぢやわいなう。



ゆき

オヽ、その、吾妻々々。ほんに、美しい女形であつたぞえ。



しも

サア、吾妻も好い傾城なり



ゆき

七三も、よい殿御ぢやに依つて、どちらも、惚れる筈ぢやわいなう。



しも

わしらも、どうぞあのやうな、面白い色事が、して見たいわいなう。



兩人

ホヽヽヽヽヽヽ。



[唄]

笑ひほころぶ戀ばなし。



てる

二人とも、聞いて居れば、この間見た芝居の話し。吾妻と云ふ名で、太夫になれば、與五郎さんの惚れてござる、藤屋の吾妻も同じ事。よう似た事も、あるものぢやなア。



ゆき

ほんに、御寮人樣の仰しやる通り、同じ名の吾妻でも、藤屋の吾妻は大膽者。



しも

それ/\、與五郎さまをたらし込み、御夫婦の仲を割くとは、エヽ、憎らしい傾城づら。



ゆき

お前樣も、少つと又、悋氣なされたが、ようござりますわいなア。



てる

アノ、云やる事わいなう。悋氣嫉妬は、女の嗜なみ。併し、傾城と云ふものは、人の心を迷はして、殿達が可愛がりなさるゝは、ほんにどのやうにすれば、殿御に思はるゝ事ぢやぞや。わしや、その傾城が、見たいわいなう。



[ト書]

ト泣く。兩人、こなしあつて



しも

アヽ又どうやら、鬱陶しい日和になつた。



ゆき

此やうに暖かいのは、また雨であらう。



しも

ちやつと、張り物を、取入れてしまはう。



ゆき

貞庵さまの加減の藥も、一番が上がる時分。



しも

ちやつと御寮人樣に、上げましたが、よいわいなう。



ゆき

合點ぢやわいなう。ちと、お休みなされませ。



しも

お枕も、爰にござります。



[ト書]

ト蒲團を着せ、枕を渡し



兩人

ドリヤ、奧を片附けう。



[唄]

云ひ損なひの出直しに、お藥あげうと立つて行く。



[ト書]

ト在郷唄になり、向うより甚兵衞、太助、駕籠舁きにて出て、花道にて



甚太

オツと、杖ぢや。



太助

なんと、重いもんぢや。



甚兵

二十六貫もあらうかい。



太助

オヽ、あるとも/\。旦那が十四五貫目、女中さんが十二貫目、慥か牧方から橋本までを、げんこの相輿とは廉いものぢやなア。



甚兵

オイヤイ、勘六や喜兵衞めが、鬮に當つたらへたり居らうぞい。



太助

まだ親仁は達者なゝう。



甚兵

仕込みが違ふわい。



太助

また自慢をするわい。



甚兵

サア、ヤレ/\。



[ト書]

ト本舞臺へ來り、橋がゝりにて



[甚兵]

藪垣のある所とは、大方爰らであらう。



[ト書]

ト駕籠へ聞くこなし。



[甚兵]

ハイ/\、爰ぢやわい。



[ト書]

ト駕籠を下す。中より與五郎吾妻出る。



[甚兵]

お召し物/\。



與五

辻駕籠は狹うて、腰も肩も、ムリ/\云ふ。ヤレヤレ、しんどや/\。ドリヤ、ちつと歩いて、休まうか。



吾妻

オヽ笑止、なに云ふぢやいなア。



與五

ちつと仇口なと云はにや、氣が盡きて堪らん。なんと太夫、斯う二人、差向ひに乘つた形は、女雛男雛の筥の内、寐卷形の内裏雛とは、なんと見立ては、どうぢやどうぢや。



[唄]

駈落ちしても減らず口、面白病は一盛り、橙にてや直るらん。太助は空駕籠ふりかたげ。



太助

サア甚兵衞、去なぬかい。



甚兵

ハテ、忙しない。マア、一服せいやい。



太助

イヤ、おりや氣が急く。先へ去ぬる程に、わが身が算用してもらうて、後から戻りや。



甚兵

オヽ、そんなら、さうしや。



太助

酒手も、よいやうに頼むぞや。



甚兵

ハテ、えいわい。



太助

旦那、お願ひ申します。



[ト書]

ト駕籠をかたげ、橋がゝりへ入る。



與五

時に太夫、どうせうぞ。アヽ、どうやら云ふのであつたなう。



吾妻

それをわたしに、なんの談合。奧樣も戻つて居なさるぢやないかいなア。



與五

サア、その戻つて居るのが、氣もたぢやてや。



吾妻

ぢやてゝ、どうで逢ひなされにや、濟むまいがな。



與五

濟まぬ/\。濟まぬ心のうちにも暫し、すむはゆかりの月の影。



[ト書]

ト諷ひ/\甚兵衞と顏見合せ



甚兵

ドリヤ、木蔭で、一服下さりませう。



[ト書]

ト藪蔭へ入る。



與五

ハヽヽヽヽ、親仁め、粹ぢやなア。エヽ、此方の親仁もあの位に氣を通せばよけれども、朝から晩まで、算離さず。六ちんの三ちん、二ちんも三ちんも、いけんやうになつたわい。



吾妻

そないに入り兼ねて居なさるうち、もし誰れぞに見付かつたら。



與五

それを機に、入る思案ぢやて。



[ト書]

トつか/\と行て



[與五]

頼みませう……と云はうか……コレ、わが身は……ヂツとそこに居や、どこへも行きやんなや。



吾妻

アイ/\。



[ト書]

ト與五郎、入り兼ね、内を覗き



與五

ハア、あそこに寢て居るは、われが奧樣、よしよし。



[唄]

幸ひあたりに人はなしと、つか/\入る枕元、どし/\と足音に、ふつと目覺めて見合す顏。



[ト書]

ト與五郎ズツと内へ入り、そこに本を置き、寢て居るおてるに打ちつける。これにて目を覺まし。



てる

ヤア、與五郎さま、ようマア、なんと思うて。



與五

なんと云うたら、わが身に逢ひに來たのぢや。



てる

ナニ、嘘ばつかり。が例へ嘘でも、そんなお詞は、聞き初めの、聞き納めでがなござんせう。



與五

エヽ、幸先の惡い事を云ふ人ぢや。さうして、舅太夫は留守か。



てる

父さんは、奧に御寐なつてござるわいなア。



與五

寐て居らるゝか。嬉しや。マア半分落ちついた。



てる

さうしてマア、お供には、誰れが參じましたえ。



與五

イヤ/\、供はないが、連れがある。



てる

お連れは、どなたぢや。此方へお入りなされませ。



[唄]

挨拶ながら表の方、ちらと素振りを見て取る廻り氣。



[ト書]

ト表の吾妻を見て、思ひ入れ。



[てる]

與五郎さま、聞えませぬ。お氣に入らぬは、わたしが科。例へ幾日お宿にござらぬとて、これまでついに一度、なんとも申した事はござりませんぞえ。わたしより堅いは父さんが、親の與次兵衞にあやまらさにや、なんぼでも戻しはせぬと云はしやんすゆゑ、去にたうてならぬけれど、去ぬる事のならぬを、悋氣で去なぬと思うて、お腹の立つのかえ。その當てつけに吾妻どのを、連れて來て、これ見よがしのなされ方。わたしは近づきになりもせうが、父さんは、どこで立ちませうぞいなア。昨夜も讀んだ本の中、悋氣も少しは愛想ぢやと。



[唄]

書いてはあれど、怪我な事。



[てる]

思ひもせにや、申しも致しませぬ。わたしばかりか父さんまで、それ程お前は、憎いかえ。



[唄]

お胴慾なと恨み泣き、側で聞き居る夫より、洩れ聞く吾妻が切なさは、身を悔むより外ぞなき。



[ト書]

トおてるの脊中を撫でる。吾妻、門口より見て居て、嫌ぢやと云ふ事する。與五郎、飛び退き、ちやつと上手へ行く。



與五

さう思やれば、腹の立つは尤もぢやが、全く其やうな機嫌ぢやない。おりや、匿まうてもらひに來た。どうぞ匿まうてたも。コレおてる。



てる

そんなら、父御さまの御機嫌でも、損ねましたかえ。



與五

イヤ/\、親仁は知らぬけれど、内へは去なれぬ譯は、あそこに居る、あの吾妻を、外から請け出さうと云ふ客があつて、どうも濟まぬ譯で、廓を連れて、駈落ちしたのぢやわいなう。



てる

そんなら、廓を拔けて。それでは、關破りとやらになりますぞえ。



與五

サア景清は牢破り、吾妻は關破り。見附けられて濟まず、内へは猶連れて去なれず、なんと、清少納言で、鳥の空音ははかるとも、世に大坂の關取りは、おれゆゑに難儀する。誰れを頼まう所もない身の上。頼むと云ふはわが身ばかり。舅どのへ沙汰なしに、こつそり二人を、匿まうてたもらぬか。



[ト書]

トおてる、思案して居る。



[與五]

コレ、どうぢやいの。物を云やいなう。



[ト書]

トおてる、顏を上げる。



[與五]

得心で、匿まうてたもるか。



[唄]

急く男には返事もなく、表へ出て吾妻が手を取り、



てる

折が折ぢやに依つて、お話しは後での事。人目に立つはお氣の毒。マア、入りなされませ。



[ト書]

ト無理に内へ入れ



[てる]

吾妻さんとやら、しみ%\お近附きになりませねども、主の話しで、お名は聞き及んで居りまする。わたしは、てると云ふ者でござんす。



吾妻

ほんに、お名は兼ねて聞いて居りますれど、お目にかゝりましたは今が初めて。さぞ心の内では、憎い奴ぢやと、お呵りなされてござんせうなア。



てる

ナンノイナア。大事の與五郎さんを、大切にして下さんすお前ぢやもの、餘所外のやうに思ひません。氣遣ひなされな、お前はわたしが身に替へて、匿まひ負ふせて見せませう。



與五

ヤア、そんなら匿まうてたもるか。エヽ、忝ない忝ない。流石はりやんこの胤、オヽ、頼もしい/\。吾妻、ちやつと、禮を云や/\。



吾妻

今さら、申し譯するも恥かしい。賤しいこの身とお育ちがら、悋氣嫉妬は打越えて、お頼もしい今のお詞。なんとお禮を申しませうやら。ほんに、あなたのお目にかゝるまでは、どうあらうと、與五郎さんも、大抵案じてぢやなかつたわいなア。



與五

それ/\、案じるよりは産むが安いと、おてるがああ請合うたからは、大丈夫ぢや。モウモウ、大船に乘つたやうに、思うて居や。



吾妻

大抵嬉しい事ぢやござんせぬわいなア。



與五

それ/\、今夜からは、誰れに遠慮もなう、其方と二人……サア、二人かと思へば、三人。ヤ、いつそ眞中におれが寐て、おてると吾妻を右、左、世話形の三面の大黒といふものぢや。



[ト書]

ト喜ぶ。おてる、物云はず、與五郎が手を取り



てる

與五郎さん、早うお歸りなされませ。



[ト書]

ト與五郎、思ひ入れ。



與五

そんなら、いま匿まふと云うたは、騙したか。



てる

吾妻さんは匿まふ程に、お前は早う、お歸りなされませいなア。



與五

そりや、なんの事ぢや。



吾妻

與五郎さんは匿まうても、わたしはならぬとありさうな事を、あちらこちらの仰しやりやう。



てる

イヤ、さうぢやござんせぬ。傾城は一夜流れ、嘘を賣るのが商賣と、惡洒落な譬へ。つい一通りで、關破りの科を受けてなりとも、與五郎さんと一緒に居たいと、命にかけて思うて下さる吾妻さま、なんの憎う思はうぞいなア。



吾妻

さう思うて下さんすが、ほんの事なら。



てる

お二人ながら匿まへは、主に逢ひたいばつかりに、傾城までを引入れてと、一途な父さんのお呵りは知れた事。差當つて、世を忍ぶ身と云ふは、吾妻さんばかり、與五郎さんは、なんにも科はないお身。お内へさへお歸りなさるれば、結句父御さまの御機嫌もよく、元より世間の疑ひも晴れて、御難儀のかゝる筋はありそむないものと、マア、わたしは思ひますが、吾妻さん、なんと、さうぢやあるまいかいなア。



[唄]

初心なやうでも武家育ち、立て拔く義理に恥ぢ入つて、顏を得上げぬばかりなり。與五郎は若氣の苦なし。



與五

ヨウ/\、當世娘の性根々々。そんなら、いよ/\吾妻が事を、頼むぞや。



てる

オヽ、なんの頼むの、頼まるゝのと、云ふやうな仲かいなア。



與五

嬉しや、吾妻、そんなら、おりや、もう去ぬるぞや。



吾妻

なんぼうさうぢやてゝ、わたしは、お前に別れては。



[ト書]

ト縋りつく。與五郎、おてるの方へ思ひ入れあつて



與五

ハテサテ、ちつとの間ぢや、辛抱しや。



吾妻

必らず、ちよつ/\と、來てくれなませや。



與五

來なと云やつても、わが身が居るもの、來ないで……預けたぞえ。



てる

お氣遣ひ遊ばすな。しつかりと預かつて、晩からわたしと二人寢て、廓の話しも聞きますわいなア。



與五

イヤ、コレ、何を話しても大事ないが、ついにわが身の事、おりや、惡う云うた事は、ナウ吾妻。



吾妻

オヽ笑止。そりや、呑み込んで居るわいなア。



與五

おてる、頼むぞや。



吾妻

そんなら、もう去ぬかいなア。



與五

イヤモウ、今までと違うた體。さらばお暇。



[ト書]

ト行かうとする。この時、障子屋體の内より



次部

聟どの、待ちやれ。傾城遊女を連れて走れば、關破りの同罪、滅多には去なれまい。



[ト書]

ト次部右衞門、着流し、耳に眼鏡をかけ、本一册持ちながら出て、本を抛りながら、平舞臺へ下りる。



與五

エヽ。



次部

關破りの與五郎は、この次部右術門が、匿まつてくれう。



[唄]

呼びとめる舅の顏、はつと二人は生中に逃げそゝくれて手持ちなく、消えも入りたき風情なり。



[ト書]

ト次部右衞門、吾妻を眼鏡にて見る。吾妻、氣味惡さうに上手へ行く。次におてる、次部右衞門、與五郎、下手に坐る。



[次部]

ムウ、駈落ちするに、ハテ、仰山な形だ。これを大坂から橋本へ來るまで、人が見咎めぬとは、ハテ、盲目千人、目明き千人だなア。娘、出かした、よく吾妻を匿まうた。流石は次部右衞門が娘、出かした。世の人口を顧みて、えゝ匿まはぬと云ふ與五郎は、身が匿まうてくれうわサ。



てる

そんなら、與五郎さんは。



次部

匿まひやうにも、一思案。



[ト書]

ト硯と紙を出し



[次部]

サア、聟どの、一札召されい。



與五

一札とは、なんでござります。



次部

娘てるへ、暇の状を。



與五

エヽ。



次部

エヽとは、何を其やうに驚ろく。氣に入らぬ女房、持つてもらふ追從に、匿まつたと云はれては、浪人ながらも次部右衞門、武士が立たぬ。サヽ早く書いた/\。



與五

ぢやと申して。



次部

何を斟酌。去りたくてならぬ娘、出したくてならぬ暇の状を、親が望んで出さすのぢや。サア、早く書いた書いた。



[唄]

退引きさゝぬ詞づめ、はつと一度に三人が、心ごゝろの當惑涙。



てる

思ふ事、まゝならぬが浮世とは云ひながら、ほんに又、此やうに。



次部

コリヤ/\、あれにお傾城も見て居らるゝ。たつた今褒められたでないか。その詞に引きかへて、未練な奴の。



與五

申し/\、其やうに、おてるをお叱りなされて下さりますと、私しはモウ。



次部

ヘヽ、御深切、忝なうござる。



[ト書]

ト苦笑ひして



[次部]

身が娘のてる、叱らうが、叩き殺さうが、お身が世話にやならぬ。女童をたらすやうに、追從云はずと、サア、キリ/\、書いた/\。



與五

それぢやと云うて。



次部

不承知か。不承知ならば、これまでの通り聟舅。此まゝには捨て置かれぬ。世間への面晴らしに、わしが聟の與五郎、新町の傾城を連れ、駈落ち致し、私し方へ參り居ると、代官所へ訴人せうか。



與五

サア、それは。



次部

但しは、ぐる/\卷きにして、二人ながら、引摺つて行かうか。



與五

サア、それは。



次部

離縁して、匿まはるゝか。



與五

サア。



次部

サア。



與五

サア。



次部

サア/\/\、どうだ。



[唄]

せり立てる程とまぐれて、返事なければ。



てる

申し、與五郎さん、わたしへの義理を思うて、その一札をお書きなされて下さりませぬと、お前のお爲にならぬ程に、マア、この場は素直に。ハテ、事なう濟んだその上では、又、どうなりと、そりや、お前のお心にありさうな事。父さんのお心安め、サア、なんであらうと、お書きなされて下さりませいなア。



[唄]

と云ふもおろ/\差當る、訴人の嚇しに詮方なく、遣りたい暇も遣り憎い、義理も糸瓜も一つ書き、お定まりの三下り半、手早に書いて差し出すを、中から取つて。



吾妻

おてるさん、こりや、わたしに預けて下さんせ。



てる

その暇の状を、お前が。



吾妻

わたしが見る前で、お前に渡さしましては、どうも道が立ちません。



與五

そんなものぢや。



吾妻

と云うて、お書きなされねば、匿まはぬと仰しやる、舅御樣の思し召し、これとても御尤も。いづれをどうと分け兼ねて、悲しい中からおてるさまの、お進めなさるるこの去り状。中からわたしが預かりさへすりや、この場は濟みさうなものと、思ひますわいなア。



[唄]

縁の意氣づくそれ者とて、所譯を立てし裁きなり。



次部

一度傾城の涎を得れば、忽ち心散亂し、武士の知行に離れ、町人百姓は、家藏を棒に振るは、たわけた奴だと思つたが、尤もだ。今の縁切りと云ひ、イヤハヤ、驚ろき入つた。この去り状を、此まゝに書かしては、アレ見よ吾妻と云ふ傾城は胴慾者だ。現在の女房を、與五郎をたぶらかして去らせたと云はれては、また後々、與五郎如き好い客の附いたる時、末々職分の障りともならんと思ひ計つて、わたしに預け下されいとは……ハン、天晴れの白狐めぢやなア。



[ト書]

ト皆々思ひ入れ。



[唄]

折もこそあれ山崎與次兵衞、我が子が爰に來て居るとは、白髮頭のおつほろ髮、供をも連れずあひやけの、門口に來かゝつて。



[ト書]

ト向うより與次兵衞、杖を突き出て來て



與次

頼みませう。與次兵衞でござる。次部右衞門どのはお宿にかな。



[唄]

と云う聲に、見附けられなと三人とも、奧へ追ひやり出で迎ひ。



[ト書]

トこれにて次部右衞門思ひ入れあつて、三人を障子屋體へ入れ、朱鞘の刀差し、捨ぜりふにて門口を開け、兩人顏見合せ



次部

オヽ、これは與次兵衞どの、よう出やしやりました。サヽ、通り召され通り召され。



與次

イヤ、その後は、御無沙汰ばかり。



[ト書]

ト云ひ/\二重へ通る。



次部

貴殿にもお達者で、マア/\、めでたうござる。



與次

イヤモウ、おらが達者なより、息子どのゝ達者に、モウほうど困り果てました。して、おてるは、氣色はようござるかの。



次部

オヽ、だん/\に心よくござる。



與次

物も食べますか。



次部

食べるとも/\。



與次

アヽ、そりや、嬉しうござる。そんなら、連れて歸りたうござる。



次部

イヤ、先づ今分では歸されませぬ。



與次

そりや又、どう云ふ譯で。



次部

與五郎が本心から、てるを戻せと云ひ越さば、自身は愚か、丁稚小和郎を寄越すとも、違背なく戻すが道。臭い物に蓋すると、押しつけ業が氣に入らぬ。



與次

イヤ、さう云はしやんな。嫁に取るからはおれが娘、野良めが性根が直らずば、おてるで跡を立てる所存。



次部

ハテ、皆まで云ふな。肉親の我が子さへ、金銀を惜しみ、命、生害に及ぶとも、構はぬやうなてまへが、人の子で家相續なんぞとは、存じも依らぬ。金銀財寶、望みにはないぞ。



與次

その望みにない者が、なぜ與五郎を引込んで置きやる。



次部

皆まで云ふな。斯く云へば、放埓の荷擔人するやうなれど、傾城を請け出し、てかけ妾にしたりとも、誰れが咎める者もなき身の上ながら、僅かな金銀に手支へさせ、義理に義理が迫りし駈落ち、見捨て置けぬ聟の難澁慾心に迷ひ、引込みしと云はるゝが面倒さに、離縁させて匿まうたは、世の人口を防がん爲の潔白。



與次

ムウ成る程、それで讀めた。それでは無理に暇取つて、此方の縁を切つてしまうて、さつぱりと養ひを取るやうな、聟を取り替へる、思案であらうがの。



次部

默れ、與次兵衞、太平の世に、要らざる武具馬具賣り代なし、細い煙を立つればどて、聟などに養なはるゝやうな、次部右衞門でないぞ。諸式を買ひ込み値上げさせ、高利を貪り、人をひづめる、むさい賤しい人非人と次部右衞門とは性根が違ふわい。



與次

イヤ、人非人とは、誰れが事ぢや。



次部

聞きたくば、うぬが心に問へ/\。



與次

エヽ、腹の立つ/\。さう云やモウ、破れかぶれぢや。



[ト書]

ト與次兵衞、脇差を拔き、切つてかゝるを、左の手にて肘を止め



次部

町人の分際で、いらざる刃物三昧、てんがうすない。



[唄]

刎ね飛ばせば、猶いら立ちの滅多切り、互ひに聞かぬ氣、拔き合せ、發矢々々と切り結ぶ、中を押し割る息杖は、始終殘らず立ち聞く甚兵衞。



[ト書]

ト此うち甚兵衞出て、息杖にて程よく止め



甚兵

マア/\、待たつしやりませ/\。



次部

待てとは、おのれ、見馴れぬ奴ぢやが。



與次

誰れぢや、何者ぢや。



甚兵

誰れであらうと、なんであらうと、止める思案があつて止めましたのぢや。マア/\……どつこいな。



[唄]

二人の刀を息杖で、下にしつかり押へつけ。



[甚兵]

先刻にからの一部仔什、お二人ともお腹の立つも、お子達の可愛さ。サ、御尤もぢや/\が、喧嘩の起りは藤屋の吾妻……樣とやら云ふお山さんからの事ぢやござりませんか。今にも、その傾城どのゝ親……サア、親御でも爰へわせられて、今のやうなわり口説きを聞いては、サアマア、例へわしがやうな雲助でも、親の身では大抵や大方、術ないこつちやあらうと思つてもやりませぬか。その親御の事を思ひやつて、止めに出た思案と云ふは、慮外ながら、この親仁めが、そのお傾城の親御になり代つて、とつくりと意見して、若旦那樣の事、思ひ切らしさへすりや、よいぢやござりませんか。ハテ、田から行くも、畔から行くも、内方のお娘御樣と、若旦那樣と睦まじう、女夫にして家さへ立てりや、浪風なしに治まると云ふもの、爰の所を聞き分けさつしやりまして、どうぞこの喧嘩は、親仁めに、預けさつしやつて下さりませ。



[唄]

思ひもよらぬ平頼み、藪から片棒の駕籠の甚兵衞、心あり氣に見えにけり。



與次

ムウ、すりや、われが吾妻に意見して、思ひ切らさうと云ふのか。



甚兵

この息杖冥利、嘘は申しませぬ。



與次

面白い、なんと次部右、願ひ叶へて、待つ氣はないか。



次部

ハテ、身共とても、聟や娘が不便さゆゑ、無難に治まる儀に違變はない。とは云へ一旦、武士が拔き放した刀の手前。



甚兵

サヽヽヽヽ、そのお刀は、御慮外ながら、甚兵衞に預けさつしやつて下さりませ。



次部

この拔身を、其方が預かつて。



甚兵

首尾よう、元の鞘へ納めるやうに、細工は流々、仕上げをお目にかけませう。



[唄]

預かる氣より預けたき、心くろめる黒鞘朱鞘、腰から拔いて差出し。



與次

サア、次部右衞門。



次部

與次兵衞。



與次

これで暫らく云ひ分も。



次部

吾妻が返答一つに極まる。



甚兵

マア、それまでは。



次部

甚兵衞とやら、奧で返事を



兩人

待つて居るぞよ。



[ト書]

ト唄になり、次部右衞門は障子屋體へ、與次兵衞は納戸へ入る。



[唄]

甚兵衞は刀こて/\と、鞘に納める受合ひの、思案とりどりそれぞとは、知らぬ吾妻が落ちつきし、樣子を道に待ち合す、放駒へ知らせんと。



吾妻

甚兵衞どの/\。



[ト書]

ト呼び/\出て



[吾妻]

オヽ、爰にかいなう。こなさん、大儀ながら、この状を、長吉さんへ、ちやつと屆けて下さんせ。



[ト書]

ト文を出す。



甚兵

ハイ、畏りました。わしもちと、お前樣にお目にかかりたいところ。ようござつて下さりましたなう。



吾妻

ムウ、わしに用とは、なんの用ぢや。



甚兵

ちよつと爰まで、出やしやつて下さりませ。



吾妻

オヽ、あの人の氣味の惡い、なんぢやぞいなう。



[唄]

近う寄つて跼き。



甚兵

おとよ、大きうなりやつたなう。母は、もう三年になるぞや。



吾妻

ムウ、こなさん、それ、どうして知つてぢや。



[ト書]

ト下に居る。



甚兵

オヽ、可愛い娘や女房の身の上、例へ海山隔てゝも、知らいでかいなう。知つて居るわいなう。



吾妻

ヤア、そんなら、こなさんは。



甚兵

オヽ、おきちが連合ひ、其方の親ぢやわいなう。



吾妻

エヽ。



甚兵

オヽ、斯うばかりでは、合點が行くまい。とつくりと云うて聞かしませう。元おれは大坂の聚樂町で、破れ家の一軒も持つて居た者。商賣の荒道具、ひよんな物買ひ合して、大坂の土地には居られず、嬶とわが身を殘して、おりや牧方の知るべへ立退いて、何商賣の當もなく、只うろ/\、たうとうこの態になり下がり、その時は、わが身はやう/\六つの年ぢやに依つて、知つては居やるまいが、もう大抵難儀した事ぢやないぞいの。



[ト書]

ト泣いて



[甚兵]

シタガモウ、習はうより馴れぢや。一日々々と、何もかも合點がいて、やう/\と稼ぎ溜め、三枚敷を敷いてからは、互ひに往來はせねど、嬶の方から状をおこしやる度毎に、とよも隨分達者で、今では新町の藤屋の吾妻と云ふ、太夫になつて居ますと聞いて、ヤレ嬉しや、どうぞして稼ぎ出し、さつぱりと羽織の一枚も着てから、逢ひに行かうと思ふうちに、一昨年の十二月の十三日、近所の衆からの状に、嬶は死んだと讀んで恟りせまいか。それからと云ふものは、心にかゝるはわが身の事、例へ嬶は居やらずとも、わが身さへ出世すりや、又どうなりと神佛へ、願ひに願ひをかけ、どうぞ好い客がな附けかしと、祈つた甲斐があり過ぎて、與五郎さまと云ふ、山崎の若旦那、おてるさまと云ふ、奧樣のあるお方を、ようもようもあんな、うぼ/\にしをつたなア。おのれ、如何に人を騙すのが商賣ぢやて、あんまりであらうぞよ。おのれが事で今も今、親仁樣達がすんでの事に切ツつ擲ツつ。聞いて居たこの甚兵衞、術ないと氣の毒なと、悲しいのと腹が立つので、なんぼでも涙がやまいで、昨日洗うた單衣物、四文が糊を棒に振つたわい。こりや皆誰れから起つた事ぢや。長うは云はぬ。あの衆に、意見して思ひ切らしませう、と請合つた詞がある。コリヤ、久しぶりで逢うた親が初めての頼みぢや。われさへ得心して、與五郎さまと縁切つてくれゝば、双方の納まりぢや。サヽ、得心してたも。有る縁なら、また逢はれる程に、マア當分は思ひ切つてくれい。サヽ、否と思ふは尤もぢや。命にかけて居る仲を、思ひ切れと云ふ、心の内のおらが悲しさ思ひやり、どうぞ聞き分けてくれい。コリヤ、拜むわいやい/\。



[唄]

啜り上げ/\、わつとばかりにむせ返る。駕籠が涙は息杖の、休む隙なき思ひなり。



吾妻

そんなら、お前が父さんかいなア。



甚兵

オヽ、父ぢやわい。



吾妻

父さんかいなア。



甚兵

父ぢや。



吾妻

父さん/\/\。



甚兵

父ぢや/\/\。



吾妻

てもさても、珍らしい、悲しい話しを聞きました。今の今まで、お顔は見た事はなけれども、父さんがあると、云ふ事は、母さんの話しで聞きました。お前をわしが、父さんとも。



[唄]

知らぬ道筋勿體ない。



[吾妻]

野邊の送りの親の輿、子が舁くとこそ聞いて居るに、如何に知らぬと云ひながら、現在親に駕籠舁かせ。



[唄]

乘つたわたしに神樣や、佛樣が罰當てゝ、なぜにわたしを逆さまに、落して殺して下されぬ。



[吾妻]

神や佛が恨めしい。まだその上に與五郎さん、退けと仰しやる御意見も、無理とはさら/\



[唄]

思はねど。



[吾妻]

よう思うても見やしやんせ。おてるさんと云ふ奧樣の、あるを知りつゝ逢うた客。初めの勤め、後の色、女夫にならうとも、去らさうとも、微塵も思やせぬけれど、否な客から請け出すと、まゝならぬ身は是非なくも、連れて退いたる與五郎さん。輕いお身なら、そもないに。



[唄]

逢ひかゝるから今までも、重なる節句、年の暮。



[吾妻]

お世話になつたこの吾妻、いま又わしゆゑ難儀のお身。任せぬ時に振り捨てゝ、どうマア義理が立つものぞ。コレ、手を合せて拜みます。コレナア、申し、こればつかりは、拜みます、どうぞ堪忍して、下さんせいなア。



[唄]

親に取りつき泣く娘、粹な育ちも涙には、譯も隔てもなかりける。



甚兵

オヽ、道理ぢや/\。道理ぢやわいやい……サア、道理は道理ぢやが、又此方も道理、彼方も道理、道理とばかり云うて居ては、いつまで云うても同じ道理ぢや。その道理を思ひ外し、わしが道理も考へ、與五郎さまの道理も思うて、退いてくれ、エヽ、コレ。



[ト書]

トいろ/\云へど、吾妻頭振るゆゑ、困つたと云ふこなしあつて



[甚兵]

よいワ、われのやうに、さう片意地云ふと、おらが又、仕樣がある。オヽ、おらが子で、子でない、勘當ぢや。勘當も勘當、七生も八生も、一斗までの勘當ぢや。



吾妻

勘當、否ぢや/\。



[ト書]

ト大泣き。



甚兵

アヽ、嘘ぢやわい/\。



[ト書]

ト抱きしめて泣いて



[甚兵]

なんの可愛い娘ぢやもの、ほんまに勘當して堪るものか、勘當はしやせん程に、アイと云へ/\。



吾妻

アイ/\。



甚兵

合點したか。



吾妻

アイ/\。



甚兵

退いてくれるか。



吾妻

アイ/\。



[唄]

アイ/\の詞の隙、有り合ふ刀拔くより早く。南無阿彌陀佛。



[ト書]

ト自害せうとする。甚兵衞、慌て止め



甚兵

待て/\。



吾妻

イエ/\、最前からのお前の意見、よう合點して見ても、生きて居るうちに、與五郎さんの事は、どうも思ひ切られませぬ。否と云へばこれまでに、一日の産みの御恩さへ、えゝ送らぬ父さんの、お詞背く不孝の罪。とても生きては居られぬわたし。止めずに殺して下さんせ。放して/\。



甚兵

イヤ/\、なんぼでも、殺さぬ/\。



吾妻

イエ/\、殺して/\。



[唄]

死ぬる/\とせり合ふうち、中から取つた次部右衞門。



[ト書]

ト次部右衞門出て、吾妻を止める。



甚兵

ヤア、あなたは旦那樣。



吾妻

最前からの樣子を。



次部

殘らず、あれにて聞き屆けた。さては甚兵衞は、吾妻が實の父親であつたよな。



甚兵

ハイ/\、お恥かしうござりまする。



次部

なんの/\、盛衰は人間の習ひ。職分身分の高下より、心こそ恥かしきものなれ。甚兵衞が實情と云ひ、吾妻が立つる貞女、あの一間から聞いて居て、熱い涙をこぼしたわい。吾妻が心底、見拔きし上は、身請けいたし、この次部右衞門が、與五郎と添はしてやる。コレ、この刀は五郎正宗、判金百枚の折紙。この刀を賣り代なし、關破りの科は助けてやる。お身が吾妻を思ふも、身共が娘不便なも、思ひは變らぬ燒野の雉子。それにつけても與次兵衞め、腐るほど金持つて居ながら、與五郎が關破りになるも、吾妻が難儀も、見捨てにする胴慾者。吾妻が身請けも濟んだ上、あの與次兵衞め、存分云はいで置かうか。



與次

オヽ、その鬱憤。與次兵衞、直に承はらう。



[ト書]

ト奧より法體して出る。



甚兵

ヤア、お前樣は。



次部

坊主になつたか。



與次

アヽ、次部右衞門どの、あやまりました/\。有やうは、今日來たも、忰めが關破りの科が、助けたいばつかり。と云うて金づく。その金を、おらが手から出して遣つては、親の手で請け出すも同然。關破りの科を助けてやりたいと、思うて下さる次部右衞門どのゝ心を聞いては、モウ/\/\、嬉しうて/\、どうも禮の云ひやうがなさに、與五郎が惡事を引請けて、今からおれは與五郎入道、法名もちやんと附けて置きました釋の淨閑。息子どのは、おれが名を讓つて、山崎與次兵衞。門跡樣へも、えゝ上げぬ大切な金をさへ、出してなりとも、さつぱりと關破りの譯は立てまする。そこに居るは、吾妻どのとやらぢやの。昨夜までも今朝までも、恨んだは此方が惡い。先刻にからの志しを聞いては、いとしうて/\ほんの嫁女、とサア思へども、次部右衞門どのゝ手前、不承ながら、マア、妾になつて下されや。甚兵衞とやらが志し、忝ない/\。次部右衞門どの、こなたへの過言、何事もみな、忰が不便さから。コレ、萬事は、この頭に免じて、眞平々々。



[唄]

こはい親仁が打つて變へ、恥も惜しまぬ平詑びに、涙一ぱい目に持つて、頭を下げる親の慈悲。與五郎夫婦は障子より、覗いて影に手を合せ、我が身の不孝思ひ知り、謝まり入るぞ哀れなり。



[ト書]

ト皆々よろしくこなし。



次部

これは/\痛み入る。兎や角と申せしも、聟娘等が不便さゆゑ。斯く打解ければ互ひに他事なき

同士。サア、手を上げられい、平に/\。



與次

イヤモウ、さう思うて下さりや、わしも安堵、だんだん誤まりましてござる。



次部

これはさて、マヽ、手を上げられい。



與次

マヽ、其許から。



次部

貴殿から。



兩人

ハヽヽヽヽヽ。



[唄]

心解け合ふ
同士、頭ばかりの一家中、丸うなつてぞ見えにける。



吾妻

斯う何も彼も、丸う納まる上は、預かりましたこの去り状。



[ト書]

ト引裂いて



[吾妻]

斯うしてしまふが、わたしがお禮。必らず、疑うて下さんすなえ。



甚兵

オヽ、さうぢや/\、出かした。ハイ旦那樣、御隱居樣、エヽ、有り難うござりまする。



[唄]

喜び合ふこそ道理なり。庄屋名主があわたゞしく。



[ト書]

トこれにて庄屋、年寄、駈け來り



庄屋

サア/\、大事ぢや/\。



年寄

次部右どのに、山崎の與次兵衞を連れて、罷り出いと、代官所からの急お召しでござるわいの。



次部

ナニ、急お召しとは心得ぬ。して、御用の筋は。



庄屋

なんぢや知らぬ。遲いと叱られる。早うござれ早うござれ。



次部

なんにせよ、公用とあらば、參らずばなるまい。



與次

幸ひ與次兵衞も、參り合せて居りまする。



次部

支度いたして、同道いたさう。



年寄

エヽ、悠長な。支度どころぢやない、急お召しぢやわいの。



庄屋

早うござれいの。



次部

然らば、淨閑老。



與次

次部右どの。



次部

參りませうか。



[唄]

代官所へと行く跡に、障子押し明け與五郎夫婦、飛んで出で。



[ト書]

ト次部右衞門淨閑に庄屋年寄り附いて向うへ入る。與五郎おてる出て、



與五

先刻にから出たかつたけれど、親仁樣や舅どのゝ手前、面目なうて、えゝ出なんだ。



てる

お二人樣を急お召しとは、氣遣ひな事ぢやないかいなア。



甚兵

ハテ、益體もない。盗み騙りはさつしやるまいし、お召しでも茶漬でも、なんにも案じる事はござりませぬわいの。



與五

イヤ/\、吾妻を身請けせうと云ふ、屋敷の客を、濡髮が切つたゆゑ、その事についての、詮議であらうわいなう。



吾妻

ひよつと、その詮議になつたら。



與五

わが身も。



吾妻

お前も。



[ト書]

ト顏見合せ、思ひ入れ。甚兵衞、恟りして



甚兵

ヤア/\、そんなら、懸り合ひぢや、えらぢやぞえらぢやぞ。



てる

父さんのお身の上も、氣遣ひないわなア。



甚兵

アヽ、其やうに心にかけて、案じてばかり居たつてあかん事。ハテ、それ程に氣遣ひに思はしやる事なら、わしが一走り行て、樣子を聞いて進ぜませう。



てる

そんなら、大儀ながら。



[唄]

まつかせ合點と甚兵衞は、尻引ツからげ、飛んで行く。



[ト書]

ト甚兵衞入る。



與五

エヽ、おれが、これが否さに長五郎に、喧嘩しやるなと云うたのに。



吾妻

なんのマア、長五郎さんぢやてゝ、あまり殺したうもあるまいけれど、二人の侍ひ面めが、意地の惡いに依つてぢやわいなア。



與五

エヽ、いつそわが身を、侍ひの方へ遣つてしまうたら、この難儀はせまいもの。



[ト書]

トうろ/\する。



吾妻

なにを。こちや否いなア。



[ト書]

ト橋がゝり、ワヤ/\云ふ。



判人

慥かに爰へ、付け込んだといやい。



[ト書]

ト判人、太助と供男を連れ出て



太助

ぢやてゝ、侍ひの家、滅多には入られぬ。



[ト書]

ト此うち、おてる思ひ入れあつて、囁いて、與五郎、吾妻を戸棚へ隱す。



判人

でも、駕籠の太助が、證人ぢやわい。



供男

そんなら、太助を猿にして。



判人

來い/\。



[ト書]

ト内へツツと入り



[判人]

關破りの與五郎、吾妻を、爰の内へ付け込んだ。出しや出しや。



てる

オヽ、滅相な。そんな覺えはござんせぬ。大方それは門違ひ。脇を尋ねさしやんせいなア。



太助

きやんないの。證人はこの太助ぢや。先刻に、相輿の二人連れ、爰へ付け込んで置いたのぢや。



てる

女ばかりぢやと思うて、嚇すのぢやの。例へ、どのやうな事を云うても、覺えはないわいなう。



判人

ても、つべこべと、よう喋る衒妻ぢや。その上、慥かな證據は、この戸棚が氣ぶさいな。



[ト書]

トつか/\と行くを、おてる立ち塞がり



てる

狼藉しやると、免さぬぞ。



[ト書]

トせり合ふ所へ、代官、捕り手大勢を連れ出て



代官

ソレ。



[ト書]

トばら/\と込み入り



捕手

動くな。



[ト書]

ト取卷く。皆々、恟りして



てる

ヤア、これは。



判人

なんの事ぢや。



代官

御上意。



てる

御上意とはな。



代官

橋本次部右衞門こと、家柄たるに依つて、先年より當村の大庄屋、仰せつけられしところ、五ヶ年以前、老衰に及びしゆゑ、役儀御赦免の願ひに依つて、退役仰せつけたるに、この度、當村の田畑反別、御吟味の事につき、役中取捌きお疑ひの旨あつて、書き物諸式に封印をお付けなさるゝ。家來、ソリヤ。



家來

ハツ。



[唄]

云ふより早く手分けして、押入れ戸棚も締めたなり、箪笥長持ち膳棚まで、きり/\しやんと封印を、附けるもハア/\女氣の、怖い/\におど慄ふ。



代官

ヤア、何奴も此奴も頭が高い。早速罪科にも仰せつけらるべきところなれども、お上のお慈悲、附け立ての封印、少しでもそゝける時は、退荷同然、科は重罪、キツと申し渡したぞ。



[唄]

叱り付けてぞ立歸る。廓の者どもうつかりひよん。



[ト書]

ト代官皆々入る。



判人

なんの事ぢや。戸棚も封印附けられては、指さす事も叶はぬ。



太助

ハテ、だんないわいの。斯う封印が附程の事、三日や五日で埓明くまい。早うて三十日か、五十日、其うちには干殺しになるわいなア。



判人

そりやそんなものぢや。



太助

四五日のうちに來て、樣子を見たがよいわい。



判人

エヽ、忌々しい。サア、來い/\。



[唄]

サア來い/\と出て行く跡へ、大汗になつて甚兵衞が。



[ト書]

ト判人等入る。甚兵衞出て



甚兵

サア、むづかしうなつて來たぞ/\。



てる

なんとしたえ/\。



甚兵

與五郎さまの事について、長五郎が、侍ひを殺したと云ふ噂、あやが拔けいで、お二人とも、揚り家へ、お入りなされた。



てる

エヽ。



[唄]

ハツと一度に戸棚の内外、泣き出す聲に氣の附く甚兵衞。



甚兵

さうして、この與五郎さまや吾妻は、どこへ參じました。



てる

サイナウ、廓から詮議に來たに依つて、急に隱し所はなし、この戸棚の内へ、二人ながら隱しましたりや、お上からお咎めで、封印を附けて去んだわいなう。



甚兵

ヤア、そんなら、おらより先へ、捕り方が來て、封印を附けたかえ。



てる

この通りぢやわいなう。



甚兵

南無三、封印を切つたら猶お咎め、科の上に又科を増す。



てる

と云うて、斯うして置いては、濟まぬわいなう。



甚兵

こいつ、難儀なものぢやわい。



[唄]

どうせうぞいのどうせうと、また内外から泣き出す聲。



[ト書]

ト長吉、代官を連れ出て



長吉

その封印、わしが切つてやりませう。



甚て

ヤア。



[唄]

聲をかけて放駒、以前の代官侍ひもろとも。



長吉

廓から、詮議にうせる素振りを見付けたに依つて、南無三方と思うて、村外れの人を雇うて、思ひついた家財の封印。



てる

エヽ、そんなら、今の代官樣は。



代官

みんな、關取に、雇はれて來たのでござります。



長吉

オヽ、みんな大儀であつた。ソレ、骨折り代。



[ト書]

ト金包みを遣る。



代官

こりや、忝ない。



長吉

シタガ、この譯、ちよつとでもはぶしへ出す事、ならぬぞや。



代官

なんの、お前。



長吉

づきの廻らぬうち、散れ/\。



[ト書]

トめい/\、刀をかたげ、橋がゝりへ入る。



てる

そんなら、この封印は、もう切つても、大事ないかえ。



長吉

知れた事。



[ト書]

ト皆々、戸棚の戸を開けて



てる

申し/\與五郎さま、みんな長吉さんの計らひでござります。サア/\、ちやつと、お出でなされませ。



長吉

申し與五郎さま、長吉ぢや。何してござる。サア、爰へ。



[唄]

手を取れば、きよろ/\顏。



[ト書]

ト與五郎出て、狂人の思ひ入れ。



與五

ハアハヽヽヽヽ、詮議に來る/\。親仁樣はずんばら坊。坊主々々小坊主。



[唄]

いたいけな事云うた、ほろゝん/\/\や。



長吉

コレ、なに云はしやります。長吉ぢやわいなう。



與五

なんぢや、町中引き廻す。



吾妻

與五郎さん、なに云はしやんす。



てる

申し/\、なに仰しやる。今のをお聞きなされて、それで、お氣が狂つたのか。



吾妻

コレ、氣を付けて下さんせ。



[唄]

二人の女が取りついて、泣く顏じろ/\打詠め。



與五

其方は、藤屋の吾妻かの。



[唄]

吾妻請け出せ山崎與次兵衞。



[與五]

廓を拔けて、それ/\/\、名代のはしり坊、しつたん/\や、法ぬけ坊主。



[唄]

途方もなしに駈け出だす。それ止めましてと捕ゆる吾妻、氣狂ひ力の手に合ねば、どつこい遣らぬと長吉が、止めても止まらず引摺られ、共に狂ふや。



[ト書]

ト三重にて、皆々、與五郎を留めるこなし。

よろしく幕

五幕目 道行菜種の亂咲

役名==濡髮長五郎。


山崎與五郎。


藤屋吾妻。


娘おてる。


放駒長吉。


造り物、向う一面に野邊の遠見。前は淀川堤の體。一面に菜種の花盛りの體。上手に太夫座を飾る。淨瑠璃、櫻の吊り枝、見事にして幕開く。


[唄]

吾妻請け出せ山崎與次兵衞、請け出せ/\山崎與次兵衞、いつか思ひのな、下紐解いて、昔思へば憂や辛や、情なや誰れあらう、山崎與次兵衞さまとては、人に後れぬ亂れ髮、吾妻が顏も見忘れて、現なやとせいすれば、ムウ、其方は藤屋の吾妻かの、オヽ嬉しやなア、お心も鎭まり、お氣が付いたか與次兵衞さま、アレ御覽ぜよ虫でさへ、番ひ離れぬ揚羽の蝶、我れ/\とても二人連れ、好いた同士のなか/\に、お心弱やと諌むれば、ヤアヤア/\、ソレ/\/\、コレ/\/\、この花盛り、よい京女郎ぞと八文字の、道中姿しよてんになづむ、傾城駒めにならひが女房、精出したくいの底ぬけて、影も宿らぬきぬ%\の、親を悲しみ妻を戀ひ、心一つを二品に名乘つて通る時鳥、ぢやが父に似て父に似ぬ、子は色里に初音ふる、かむりは着ねど大盡と、花車がとゞろく口舌の門、遣り手が叩く禿が眠り、みな夢の間の境界と破れば愚痴もなかりけり、吾妻はとかう涙さへ、止めかねたる我が夫の、心の亂れ解けやらぬ、その馴染を繰返し、指を折屋の惣がりに、吾妻太夫主、サアをかし、この人をかしと呼び立てられて、突き出しのまだ恥かしき初座敷、それその時に主さんは、床に寄り添ひにつこりと、笑はしやんした殿御振り、見惚れて落す杯の、くわつと上氣を濟ました顏で、衝立越しに見返りし、縁と縁とが結ぼれもつれ、二人寐る夜の揚句には、口舌の船を楫とる仲居が取りなし、太皷はどん/\段階子、のぼり詰めての戀ひいさかひ、口に任せて詑び言に、なんの事なき一つ夜着、寢物語りは長かれと、思ひ暮らして居るものを、正體もなきお心と、かこち嘆くぞ道理なり。



[ト書]

ト此うち與五郎、狂亂の振り、吾妻介抱して、よろしく振りある。



[唄]

春風に、つるゝにあらず連れられて、吹くとしもなき裾かい取り、夫の身の上案じられ、心も爰に荒川の、渡せる縁の橋本を、そつと拔け出で來ながらも、なんと菜種の花の際、打伏す夫を見るよりも、なういとしさと戀しさに、心たどりて走りつき。



[ト書]

トこの淨瑠璃のうち、向うよりおてる來て、與五郎を見て側へ走り寄つて



てる

申し與五郎さま、お怪我はなかりしか。



[唄]

あゝ嬉しやと縋り寄る。



[ト書]

ト與五郎に取りついて、泣くを見て



吾妻

オヽ、おてるさま、お前を振捨て、わたし一人が氣儘にしたと思うて、定めし腹が立つたであらう。何を云うてもこの姿、堪忍して下さんせ。



てる

エヽ、ナンノイナア。お二人の揚がり屋入りゆゑ、ハツと思うてこの狂氣。わたしは心にかゝれども、父さんの手前、跡に殘れど氣もそゞろ。人目を忍んで、お跡を慕うて參じました、申し、與五郎さま。



[唄]

我が夫戀ひは八雲だち、その神樣の縁結び、そもや初めのその日から、逢ふ瀬も絶えてなか/\に、淺い縁の悲しさは、繋がぬ船のたとへ綱、追うてこがるゝ身の上を、人こそ知らね袖の雨、濡れて音を置く小男鹿の、慕ふわたしが無理かいな、なぜにお心亂れしと、ゆすり起せどこはなんと、正體さへもなかりける。



[ト書]

トおてる、吾妻、取りついて泣く。



[唄]

これも浮名の菜種畑、楠葉を後に歩み來る、跡をつけ來る捕り手の面々、慕ひ寄れども白絞り、透を見合せヤツと掛け聲、尻目にきつと身構への、その勢ひに氣を呑まれ、堤傳ひに引返す。



[ト書]

ト長吉、向うより出る。後より捕り手、附いて出て、よき所にて十手振り上げる。長吉、振返り、キツと見る捕り手は後へ引返す。この間、長吉、本舞臺へ來て皆々と顏見合せ



長吉

ヤア、おてるさま、吾妻どの。



吾妻

長吉さん。



長吉

先日、橋本にて騷動の砌りより、狂氣におなりなされし與五郎さま、長五郎は人目もあれば、八幡へと落しましたが、あなた方のお身の上が氣遣ひさ、後を尋ねて參りました。



[唄]

先づ旦那をと抱き上ぐれば、むつくと起きて。



與五

ヤア、われは蝶。



[唄]

蝶々菜の葉にとまりや。



[與五]

ハヽヽヽヽ。



てる

正體もない、この有樣。



吾妻

長吉さんが、來て下さんしたぞえ。



二人

氣を慥かに、持つて下さんせいなア。



[唄]

取りつく吾妻が顏打ち詠め、わりや吾妻か、オヽ、めでたい/\、ヒヤ、ぬめた傾城、やつたる物はなに/\、切つた小指に鬢の髮、起請誓紙は數知れず、昨日は吾妻に戀を載せ、今日は筑紫の入れ黒子、燒いた報いは焦熱の、さつても厚皮な三味線の、ちやう/\ちやうと打連るゝ。



[ト書]

ト此うち長五郎、頬かむりにて出る。長吉見て



長吉

オヽ、こなたは長五郎、八幡へ落ちたと思うたに、どうして爰へ。



長五

オヽ、與五郎さまの御病氣も、科を名乘つて出るならば、一時に事は濟む。



長吉

イヤ/\、そりや惡い、長五郎。われが名乘つて出るとな、與次兵衞さまから起つた事と、却つてお家に疵が附く。隱れるだけは隱れるが、矢ツ張り旦那樣のお爲ぢや。



長五

イヤ/\、それでも。



長吉

ハテサテ、コリヤ、長吉が詞を立て、氣遣ひせずと、河内の方へ行け。



[唄]

一足も早をちこちの、道筋よりも數多の侍ひむら/\むら、長五郎やらぬと押ツ取卷く。濡髮圍うて長吉が、落ちよ急げと氣をあせり、だんびらひらりと濡髮も、拔いてつれ%\切り立つれば、叶はぬ逃げよと侍ひども、一足出して畔道を、いづくともなく追うて行く。ゆきかふ雲の程もなく、西山に風おこり、東南に向ふ空の足、梢木の葉もばら/\/\。走れば走る、止むれば止まり、狂はぬ袖の亂れ心、命つれなき流れの身、流れ渡りの世の中に、しばし止むる賤が家の、軒を尋ねて惱みけり。



[ト書]

ト捕り手かゝり、長吉長五郎と立廻つて、よろしく追つて入る。跡に與五郎吾妻おてる、よろしくあつて、三重にて、

大詰 八幡村與兵衞内の場

役名==南方十次兵衞實ハ南與兵衞。


同女房、おはや實ハ都。


十次兵衞母親。


三原傳藏。


平岡丹平。


濡髮長五郎。


造り物、平舞臺、惣二階。見附け、押入れ、赤壁納戸口。上手、下手とも屋體。いつもの所に門口。右の舞臺に母親、神棚へ神酒などを供へ居る。おはやは小芋を三方に載せて月見の拵らへして居る。この見得、床の淨瑠璃にて幕開く。


[唄]

出で入るや月弓の、八幡山崎、南與兵衞のお婆、我が子可愛か金を出せと、諷ひしを思ひ合せば、その昔、八幡近在隱れなき、郷代官の家筋も、今は妻のみ生き殘り、神と佛を友にして、秋の半の放生會、宵宮祭と待つ宵と、かけ荷うたる供へ物、母は神棚しつらへば、嫁は小芋を月魄へ、子種頼みの米團子、月の數ほど持ち出づる。



[ト書]

トあと合ひ方になる。



母親

コレ嫁女、月見の芋は明日の晩。今日は待宵、殊に日のうちからは、早いわいなう。



はや

母さんの、何をわつけもない。お前が明日の放生會を、今日からお供へ遊ばすゆゑ、何もかも、宵月からする事と存じまして、オヽ笑止やなア。



母親

アヽ、コレ嫁女、その笑止は、矢ツ張り廓の詞。大坂の新町で、都と云うた時とは違ふぞや。今では南與兵衞の女房のおはや、近所の人が來たとて、煙草など吸ひつけて出しやんなや。今でこそ落ちぶれたれど、前は南方十次兵衞と云うて、人も羨やむ身代。連合ひがお果てなされてから與兵衞が放埓、郷代官の役目も上がり、内證もしもつれ、こなたの手前も恥かしい事だらけ。さりながら、爰の殿樣もお替りなされ、新代官は皆上がり、古代官の筋目をお尋ねにて、與兵衞も俄のお召し。昔に返るはこの時と、難行なれども、神いさめの供物、蚤の息が天とやら、お上の首尾が聞きたいわいなう。



はや

イヤモウ、それはお氣遣ひ遊ばすな。お前のその心が通じて、御出世でござりませうわいなア。



[唄]

早う吉左右聞きましたやと、待ちかね見やる表の方、編笠にて顏隱し、世を忍ぶ身の後や先、見廻して立ち寄る門口、嬉しや爰ぞとずつと入る、母は見るより。



[ト書]

トこの淨瑠璃にて、向うより長五郎、前幕の形にて、編笠を着て、向うより出て來て、後先見廻して直ぐに本舞臺へ來て、内へ入ると、母何心なう、長五郎を見て



母親

ヤア、長五郎ではないか。



長五

母者人。



はや

濡髮さんか。



長五

都どの。これはしたり。さては願ひの通り、與兵衞どのと夫婦にならつしやつたか。



はや

ヤア、喜んで下さんせ。わたしを請け出した權九郎は、根が似せ金師で牢へ入れられ、殺された太皷持ちは、盜人の上前取りで、追剥になつて殺し徳。なんの氣がゝりなう、添うて居やんすわいなア。



長五

ハテ、仕合せな事ぢやなう。同じ人を殺しても、運の好いのと、惡いのと。



[ト書]

トちよつと思ひ入れあつて



[長五]

イヤ、仕合せな事ぢやなう、



[ト書]

ト母親、こなしあつて



母親

コレおはやゝ、しみ%\とした話しぢやが、其方衆は近附きかいなう。



はや

アイ、廓でのお近付き。



母親

アノ、與兵衞もかや。



はや

イヽヤ、これは、つい一目知る人ぢやが、また長五郎さんが、お前を母さんと仰しやる譯はえ。



母親

オヽ、不思議なは道理々々。どうで一度は、云はねばならぬ、マア一通り、聞いて下されいなう。



[ト書]

ト合ひ方になり



[母親]

この長五郎は、五つの時、養子に遣つて、わしはこの家へ嫁入り。與兵衞は先妻の子で、わしとは生さぬ仲ゆゑに、その譯知つても知らぬ顏。あそこや爰の手前を思ひ、かつふつ音づれもせなんだが、去年開帳參りに、フト大坂で見た時には、年はたけても父御ゆづりの高頬の黒子。もし其方は、長右衞門へ遣つた、長五郎ではないかと、問ひつ問はれつ昔語り、息子の親達も死失せ、相撲取りになつたとの話し。歸つて與兵衞に話さうかと思うたれど、以前を慕ひて、尋ねにでも行つたかと、思はれるが恥かしさに、隱して居ましたが、斯うしらけて來たからは、與兵衞が戻られたら、引合して、兄弟の杯。嫁ともに子三人。ほんにわしほど、果報な身の上は、又と世界にあるまいわいなう。



[唄]

喜ぶ親の心根を、思ひやるほど長五郎、明日をも知れぬ我が命を、知られぬ母のいたはしやと、思へばせき來る涙を隱し。



長五

イヤ申し、母者人。與兵衞どのが、お歸りあらうとも、わたしの事はお話し御無用になされて下さりませ。



母親

そりや又、なぜに。



長五 

されば、相撲取りと申す者は、人を投げたり、抛つたり、喧嘩同然。勝負の遺恨に依つて、侍ひでも、町人でも、切つて/\切りまくり、ぶち殺して。



母親

ヤア。



長五

イヤ、そんな事、わしは致しませねど、男を立て通して、一家一門へ、難儀のかゝる事もあるもの。マア、この商賣しまふまでは、お前とも赤の他人。忰を持つたと思うて下されまするな。何時知れぬ身の上、これがお別れにならうも知れず。おはやどの、與兵衞どのへも母の事、頼みますると云うて下され。長崎の相撲に下りますれば、長うお目にかゝりますまい。隨分御息災で、お暮しなされて下さりませ。



[唄]

と打萎るれば。



[ト書]

ト長五郎、愁ひの思ひ入れ。母親、おはや、合點のゆかぬこなしあつて



母親

コリヤ長五郎、そんな商賣せねばならぬか。長崎へも、どつこへも行かずと、この内に居て、與兵衞とも問ひ談合。その恰幅では、何さしたとて仕兼ねはせまい、ナウおはや。



はや

さうでござりまするとも。御兄弟と云ふ事、主も聞かれましたら喜ばれませう。マア、お茶漬でも、ナア阿母樣。



母親

イヤ/\、初めて來たもの、鱠でもしませう。あの體へは牛蒡の太煮、蛸の料理が好きであらう。マア、それまでは氣が晴れてよい二階座敷、淀川を見て肴にして、一つ呑みや。うご/\せずに、行きやいなう。ドリヤ、拵らへませうか。



[唄]

薄刃の錆は身より出て、死出の出立ちの料理ぞと、思へばいとゞ胸ふさがり。



長五

申し、何もお構ひなくとも、欠け椀の一杯ぎり、つい食べて、歸りませう。



[ト書]

トこれにて母親、おはや、納戸へ入る。長五郎、こなしあつて



[唄]

母の手盛りを牢扶持と、思ひ諦らめ煙草盆、提げて二階へ萎れ行く。



[ト書]

トこれにて長五郎煙草盆、提げて、二階へ上がる。



[唄]

人の出世は時知れず、見出しにあづかる南與兵衞、衣類大小申し請け、伴なふ武士は何者か、所目馴れぬ血氣の兩人、家來もその身も立ちどまり。



[ト書]

トこの淨瑠璃にで南與兵衞、着附け、袴、大小にて、出て來り、後より平岡丹平、三原傳藏、着附け、羽織大小にて出る。次に家來一人、旅形にて附いて出て、花道よき所にて立ちとまり



與兵

即ちあれが、拙者の宅でござりまする。



丹平

然らば、あれが御貴殿樣の、お宅でござりまするか。



傳藏

左やうござらば、御案内の下されい。



與兵

サ、お越しなされませう。お先へ參る。



[唄]

互ひに辭儀合ひ南與兵衞、いそ/\として内に入り。



[ト書]

トこれにて皆々、本舞臺へ來て、與兵衞は直ぐに内へ入つて



[與兵]

母者人、女房ども、只今歸つたぞよ。



[ト書]

トこれにて母親、おはや兩人、出て來て



はや

ヤア、お歸りか。



母親

戻りやつたか。して、お上の御首尾は、どうぢやぞいなう。



[ト書]

トこれにて與兵衞は眞中に居ると、上手に母親、下手におはや。



與兵

イヤ、お喜び下されい。首尾は極上々。まツこの如く衣類大小下し置かれ。名前も南方十次兵衞と、親の名跡に改め下され、昔の通り、庄屋代官を仰せつけられ、七ケ村の支配まで、仰せつけられましてござりまする。



母親

ヤレ/\、それはめでたい事。さうして、見れば、表にお歴々がござるが、あれは全體、どなたぢやぞいなう。



與兵

即ち、あれは西國方のお侍ひ。密々に仰せ合さるゝ事あつて、御同道申せしが、さして隱す程の事ではござらねども、暫らく母人にも、御遠慮下され。女房どもゝ、用事あるまで差控へてよからう。



[唄]

と云ひ渡し、表へ出づれば。



[ト書]

トこれにて與兵衞は門口へ行くと



母親

コレ嫁女、今からは武士づき合ひ、遠慮が多い。



[唄]

物馴れし、母と嫁とは立別れ、奧と口とへ入りにける。



[ト書]

トこれにて母親は奧へ入ると、おはやは思ひ入れあつて、下手の屋體へ入る。



與兵

イザ、お通り下されませう。



兩人

然らば、御免下され。



[唄]

兩人を上座に直し。



[ト書]

トこれにて丹平、傳藏、内へ入つて、上手へ居直る。



與兵

さて、今日殿の御前にて、仰せつけられし、秘密の御用、仔細は各々方に承はれとの儀。先づそのお尋ね者の科の樣子、お物語り下されい。



[唄]

と尋ぬれば、年がさなる侍ひ取りあへず。



丹平

さて、拙者は平岡丹平、これなるは三原傳藏と申して、主人の名は、お上にも御存じ。當春、大坂表にて、兩人の同苗どもを殺されしゆゑ、相手の者の在所を、所所方々と詮議致せども、討つたる相手の行くへ知れず、この間承はれば、この八幡近在に由縁あつて、立越えしと申す。さるに依つて、當役所へお願ひ申せしに、兄弟の敵、隨分見付け、召捕られよ。併し、夜に入つては當地不案内、所に馴れたる者に申しつけ、繩かけ渡さんとあつて、貴殿へ仰せつけられた。仔細と申すは、斯くの通りでござる。



[ト書]

トこの間、おはや、下手の屋體より立ち聞いて居る。上手の屋體より母、これも立ち聞いて居る。



[唄]

語るを一間に母親は、耳そば立つればこなたには、女房おはやが立ち聞きの、蟲が知らすか胸騷ぎ、與兵衞はなんの心も付かず。



[ト書]

ト此うち、長五郎は二階にて聞いて居て、いろ/\とこなしある。與兵衞は、何も知らず



與兵

然らば、敵討ち同然、隱密々々。もし左やうな儀もござらうかと、母女房まで退け、御内意を承はる。なんとその討たれさつしやつた、御同苗のお名は、なんと申しまするな。



丹平

その討たれたは、身共が弟、郷左衞門と申しまする。



傳藏

手前が兄、有右衞門と申しまする。



與兵

フム、すりや平岡郷左衞門、三原有右衞門どのとなア。



丹平

如何にも。



傳藏

すりや、貴殿には御存じかな。



與兵

イヤ、承はつたやうにも……して、その殺したる者は何者。



丹平

サア、その相手は、相撲仲間で隱れもなき、濡髮の長五郎。



[唄]

聞いて母親障子をぴつしやり、おはやは運ぶ茶碗をぐわつたり。



[ト書]

トこれにて母親は恟りして、障子を締めると、おはやは丸盆に茶碗を載せて持つて居るを、恟りして落す。與兵衞はこれを見て



與兵

ハテ、不調法な。



[唄]

呵る夫の側に坐り、猶も樣子を聞き居たる。



[ト書]

トこれにておはやは與兵衞の下手に坐る。



[與兵]

して、御兩所は、何所を目當。



丹平

この丹平は、當所を家探し致したうござる。



與兵

イヤ、御尤も。して傳藏どのゝ思し召しは、如何でござりまするな。



傳藏

手前が存ずるには、最前其許樣へお頼み申した繪姿を、村々へ貼り置き、油斷の體に見せ、どか/\と踏ん込んで、牛部屋、柴部屋、或ひは二階などを、吟味いたしたい所存でござる。



與兵

それも尤も。



[ト書]

ト與兵衞、思ひ入れあつて



[與兵]

併し、大きな體で、下家には居りますまい。兎角二階などが心元ない。先づ御兩所には、楠葉橋本邊を、御詮議なされませ。夜に入らば、拙者が受取り、例へ相撲取りでござらうが、柔術取りでござらうが、見付け次第に繩打つて、お渡し申さん。その段、ちつともお氣遣ひなされまするな。



傳藏

イヤ、其お詞を承はつて、我れ/\が安堵。イヤ丹平どの、楠葉邊へ參らうではござらぬか。



丹平

イカサマ、日の内は、我れ/\が働らき、夜に入つてお頼み申すが肝心。然らば、お暇申すでござらう。



與兵

然らば又、晩ほどお役所にて、御意得ませう。



兩人

おさらばでござりまする。



[唄]

と目禮し、二人の武士は立歸る。おはやは始終物案じ差俯向いて居たりしが。



[ト書]

ト丹平傳藏入る。おはや思ひ入れあつて



はや

申し與兵衞さん、味な事を頼まれなされたが、長五郎とやらを、捕つて出さうとの請合ひ。そりやマアお前、ほんの氣でござんすかえ。



與兵

ハテ、けうとい物の云ひやう。あの侍ひに由縁もなく、元來長五郎に意趣もなけれど、今の兩人が願ひに依つて、お上よりこの與兵衞に、仰せつけられたその仔細は、關口流の一手も覺え居る事、お聞き及びあつて、役人どもに申しつける筈なれども、當地に來て間もなく、土地不案内ゆゑ、當所に住み馴れたる其方に申しつくる。日の内は、あの方より詮議せん、夜に入つては此方より、隅々まで詮議いたし、搦め捕つて渡しなば、國の譽れとあつてのお頼み。一生の外聞、召捕つて、手柄の程を見せたらば、母人にも、さぞお喜びであらう。



はや

イヤ/\、なんの、それがお嬉しからうぞいなア。



與兵

とは又、なぜに。



はや

ハテ、昔はともあれ、昨日今日まで八幡の町人、生兵法大疵の基と、ひよつとお怪我でもなされた時は、阿母樣の悲しみ、なんのお喜びでござんせうぞいなア。



與兵

イヽヤ、入らざる女の差出。わりや、手柄の先を折るか。



はや

サア、折るも一つは、お前の爲。



與兵

ヤア、此奴が。なんで濡髮を庇ひ立て。但しはおのれが一門か。何にもせよ、御前で請合ひ、見出しに遭うたこの與兵衞。今までとは違ふ。詞返せは、手は見せぬぞ。



[唄]

と切刃廻せば。



[ト書]

トこの時、與兵衞は腹を立て、刀の柄に手をかけると納戸より母親、出て



母親

ヤレ、夫婦の衆、爭ひは必らず無用。



[唄]

と一間を立ち出で。



[母親]

最前からの樣子は、殘らずあれにて聞きましたが、その濡髮の長五郎と云ふ者、其方は、よう見知つて居やるか。



與兵

その長五郎と云へる者、一度堀江の相撲で見請け、その後、色里にてちよつとの出合ひ。隱れもなき大前髮。慥か、右の高頬に黒子、見知らぬ者もあらうとあつて、村々へ配る人相書。



[ト書]

ト懷中より人相書を出して



[與兵]

これ、御覽下されい。



[唄]

懷中より、出して見せたる姿繪を。



母親

ドレ。



[唄]

と見る母、二階より、覗く長五郎手洗鉢、水に姿が映ると知らず、目早き與兵衞が水鏡、きつと見附けて見上ぐるを、敏きおはやが引窓ぴつしやり、内は眞夜となりにけり。



[ト書]

ト母親、繪姿を開くと、二階より長五郎、覗く。下の手洗ひ鉢に姿映る。與兵衞は見て、キツとなつて、二階を見込む。この時、おはやは引窓を締める。



五兵

コリヤ、何をする、女房。



はや

ハテ、雨もぽろつく、最早日の暮れ、灯をともして上げませうわいなア。



[ト書]

ト與兵衞は、さてはと云ふ思ひ入れあつて



與兵

ハテナア、面白し/\。日が暮れたれば、この與兵衞が役。忍び居るお尋ね者、イデ、召捕らん。



[唄]

とスツクと立つ。



[ト書]

トおはや、こなしあつて



はや

ソレ、まだ日は高い。



[唄]

引窓ぐわらり、明けて云はれぬ女房の、心遣ひぞ切なけれ。母は手筥に嗜なみし、銀一包み取出し。



[ト書]

トこれにておはやは窓を明けると、母親は手筥を取つて來て、銀一包み出して



母親

これは、コレ、御坊へ差上げ、永代經を讀んでもらひ、未來を助からうと思ふ、大切な金なれども、手放す心を推量して、なんと、その繪姿、わしに賣つてはたもらぬか。



與兵

フム。母者人、二十年以前に、御實子を大坂へ、養子に遣はされたと聞きましたが、その御子息は、堅固でござるかな。



母親

與兵衞、村々へ渡すその繪姿、どうぞ買ひたい。



與兵

ハテナア。鳥の粟を拾ふやうに、溜め置かれたその金、佛へ上げる布施物を費しても、この繪姿が、お買ひなされたいか。



母親

未來は奈落へ沈むとも、今の思ひに替へられぬわいなう。



與兵

エヽ、是非もなや。



[唄]

大小投げ出し。



[ト書]

トこれにて與兵衞、丸腰になつて



[與兵]

兩腰差せば十次兵衞、丸腰なれば、今までの通りの與兵衞。相變らず八幡の町人、商人の代物、お望みならば、上げませう。



母親

アノ、賣つて下さるか……それでは、こなたの。



與兵

アイヤ、日の内は、私しが役目ではござりませぬ。



母親

ハアヽ、忝なや。



[唄]

と戴く母、袖は乾かぬ涙の海、嫁は見る目を押拭ひ。



はや

イヤ申し、與兵衞さん、あまり母さんのお心根が痛はしさに、大事の手柄を支へました。さぞ憎い奴、不屆き者と、お呵りもあらうが、産の子よりも大切に、可愛がつて下さる御恩、せめてお力にと、とも%\に匿まひました。常々からも、萬事の品、包むと思うて下さんすなえ。



[唄]

中に立つ身の切なさは、云ひ譯涙に時うつる。哀れ數ふる暮れの鐘、隈なき月も待宵の、光り映れば。



[ト書]

ト與兵衞、氣を替へて



與兵

イヤ、夜に入らば村々を、詮議する我が役目。



[ト書]

ト二階へこなしあつて



[與兵]

河内へ越ゆる拔け道は、狐川を左に取り、右へ渡つて山越しに……よもやさうは行くまいわい。



[唄]

それと知らして駈け出づる、情も厚き藪疊、折から月の雲隱れ、忍びて樣子窺ひ居る。堪え兼たる長五郎、二階より飛んで下り、表をさして駈け出すを、母は抱きとめ。



[ト書]

トこれにて與兵衞は二階へ思ひ入れあつて、表へ出て下手へ隱れる。この時長五郎、二階より下りて來て、表へ出かける。母は止めて



母親

コリヤ、うろたへ者、どこへ行く。



長五

イヽヤ、最前より尋常に、繩かゝらうと存じたれども、餘りと申せばお志しの有り難さ。眼前嘆きを見せませうよりは、この家を離れてと、堪えに堪えて居りましたが、與兵衞どのゝ手前もあり、後よりぽツつき、捕はれる覺悟。お免されて下さりませ。



[唄]

駈け出すを、取つて引据ゑ。



[ト書]

トまた駈け出すを、母は長五郎を引据ゑて



母親

ヤイ、こゝな物知らずめ。おればかりか嫁の志し、與兵衞の情まで無にしをるか、罰當りめが。生さぬ仲の心を疑ひ、繪姿買はうと云ひかけたは、見遁がしてたもるかたもらぬかと、胸の内を聞かう爲。賣つてくれたその時の嬉しさ。おりや、後ろ影を拜んだわいやい、拜んだわいやい。まだその上に、河内へ越える拔け道まで、教へてくれた大恩を、なんと報じようと思ひ居るぞ。コリヤ、死ぬるばかりが男ではないぞよ。七十近い親持つて、喧嘩口論で、人を殺すと云ふやうな、不孝な子が世にあらうか。來ると其まゝ缺け椀に、一膳盛りと望んだは、おのれは牢へ入る覺悟ぢやな。それが、どう見て居られうぞ。せめて親への孝行に、逃げられるだけ、逃げてくれ。生きられるだけ、生きてたも。なんの因果で科人に。



[唄]

なつた事ぢやとだうと伏し、前後不覺に泣き叫ぶ。おはやも共にせきのぼす、涙押へて。



はや

申し/\、泣いてござる所ぢやないぞえ。夜が明ければ、放生會で人立ちが多い。今宵のうちに落す思案。どうぞ姿を替へる、仕樣はない事かいなア。



母親

オヽ、それも心付いて置きました。マア、目に立つこの大前髮、剃り落しませう。ドレ、剃刀を、取つて來う。



[ト書]

ト母親、立ちかゝると



長五

イヤ申し、母者人、姿を替へて繩かゝらば、よくよく命が惜しさにと、云はれるも無念な。侍ひを殺した場で、直に相果てうと存じましたが、死なれぬ義理にて、生き長らへ、一日々々と親の事が身に浸み、ま一度お顏が拜みたさに、お暇乞ひに參つて、却つて思ひをかけまする。矢張り此まゝで、與兵衞どのへ、お渡しなされて下さりませ。



母親

すりや、どうしても、繩かゝる氣ぢやな。



長五

覺悟いたして居りまする。



母親

よいワ。勝手にしをれ。



[唄]

われより先にと剃刀を。



[ト書]

ト母親剃刀にて死なうとするを、おはや、長五郎兩人にて止めて



長五

アヽ申し、あやまりました/\。



母親

サヽ、そんなら、剃つて、落ちてくれ。



[唄]

母は手づから合せ砥に、かゝる思ひがあらうとは、神ならぬ身の白髮のこの身、剃るべき髮は剃りもせで、祝うて落す前髮を、涙で揉んで剃り落す、老の拳の定まらず、わな/\慄うて刃尖がきつくり。



[ト書]

トこれにて長五郎、顏に二所ほど疵附く。おはや見て、



はや

申し、二所まで、お顏に疵が。



母親

アヽ、ひよんな事しました。幸ひ、血止め。



[唄]

硯の墨べつたり附けて、顏打詠め。



[母親]

大方これで人相が變つたが、肝心の見知りは、高頬の黒子。



[唄]

剃り落さんと剃刀を、當てる事は當てながら。



[母親]

これこそは、父御の讓り。



[唄]

形見と思へば。



[母親]

嫁女、わしやどうも剃り憎い。こなたを頼む。剃り落して下され。



はや

わしぢやとて、むごたらしい。それが、どう剃らるるもの。お免しなされて下されませ。



母親

思へば/\親の形見まで、剃り落すやうになつたか。エヽ、心柄とは云ひながら



[唄]

可愛の者やと取りついて、わつとばかりに泣き沈む。折もこそあれ門口より。



與兵

濡髮、捕つた。



[唄]

と打ちつける金の手裏劍高頬にぴつしやり、ハツと身構へ母は楯、おはやは灯火立ち覆ひ。



[ト書]

トこれにて與兵衞出て、門口より金包みを長五郎の高頬へ當てる。身構へすると、母親は長五郎を圍ふ。おはやは行燈の灯を我が身で隱して



はや

今のは慥かに、連合ひの聲。



[ト書]

ト云ひつゝ、長五郎の顏を見て



[はや]

長五郎さんの、顏の黒子が、潰れたぞえ。



母親

ヤア、ほんに、誠にこれも情。



[唄]

と母親は、表を拜み居たりしが、兼ねて覺悟の長五郎、思ひ設けてどつかと座し。



長五

サア母者人、お前の手で繩かけて、與兵衞どのへ、お渡しなされて下さりませ。



はや

コレ長五郎さん、お前の氣がのぼせたか。捕つたと顏へ打ちつけて、黒子を消した連合ひの心、又コレ、この打ちつけた金の包みに、路銀と書いた一筆、そこへお心は附かぬかえ。



長五

イヽヤ、その書付けも、黒子を消した心も、骨にこたへ、肝に通り、餘り過分な忝なさに、母の嘆きも御意見も、不孝の罪も思はれず、片輪な子が可愛いと、義理も法も辨まへなく、助けたい/\と、母人のお慈悲心、暫らくはお心休めと、詞に從ひ、元服まで致したれど、一人ならず二人ならず、四人まで殺した科人、助かる筋はござりませぬ。生仲な者の手にかゝらうより、形見と思ひ母者人、泣かずとも、繩をかけ、與兵衞どのへ手渡しゝて、ようお禮を仰しやれや。ヤヽ、コレ、さうなうては、未來の十次兵衞どのへ、濟むまいがな。



母親

アヽ、誤まつた、長五郎、よう云うてくれたな。イカサマ、思へば、わしは大きな義理知らず。誠を云はゞ我が子を捨てゝも、繼子に手柄さするが人間。畜生の皮かぶり、猫が子をくはへ歩くやうに、隱し退けようとしたは何事。とても遁がれぬ天の網、一世の縁の縛り繩。おはや、その細引でも、取つて下され。



はや

イヤ、それでは連合ひの心を、無になされると云ふもの。唐天竺へござつても、この世にさへござれば、どうしてなりとも、また逢はれる。何かはなしに、落しまして下さんせ。



母親

イヤナウ、一旦庇うたは恩愛、今また繩かけ、渡すのは生さぬ仲の義理。晝は庇ひ、夜は繩かけ、夜晝と分ける繼子、ほんの子、慈悲も立ち、義理も立つ。草葉の蔭の親々への云ひ譯、覺悟はよいか。



長五

待ち兼ねて居りまする。



はや

マア/\、待つて下さんせい。



[ト書]

トおはや、止めるを、突き退けて



[唄]

おはやを取つて突きのけ突きのけ、手を廻すれば母親は、幸ひ有り合ふ窓の繩、押取つて縛り繩、突き放せば引き繩に、窓は塞がれ心も闇、暗き思ひの聲張り上げ。



[ト書]

トこれにて窓紐にて長五郎を縛りて、放すと、窓の蓋締まる。



母親

濡髮長五郎を召捕つたぞ。十次兵衞は居やらぬか。受取つて、手柄に召され。



[唄]

呼ぶ聲に、與兵衞は駈け入り。



[ト書]

トこれにて與兵衞は内へ入つて



與兵

お手柄/\。左やうなうては叶はぬところ。とても遁がれぬ科人。受取つて、御前へ引く。女房ども、もう何時。



はや

されば、夜半にもなりませう。



與兵

たわけ者めが。七ツ半を最前聞いた。時刻が延びると役目が上がる。繩先知れぬ窓の引き繩、三尺殘して切るが古例。目分量にて、これから。



[唄]

すらりと拔いて縛り繩、ずつかり切れば、ぐわら/\ぐわら、さし込む月に。



[與兵]

南無三方、夜が明けた。身共が役目は夜の内ばかり。明くれば即ち放生會、生けるを放す所の法、恩に着ずとも、勝手にお行きやれ。



[ト書]

ト長五郎を突きやる。



長五

ハア。



[唄]

ハツと喜ぶ嫁姑、合す兩手の數よりも、九ツの鐘六ツ聞いて。



與兵

殘る三ツは、母への進上。



長五

拙者が命も、御自分へ。



與兵

それも云はずと、さらば。



長五

さらば。



[唄]

さらば/\の暇乞ひ、別れてこそは、落ちて行く。



[ト書]

ト皆々よろしく、引張り模樣、三重にて、



双蝶々曲輪日記(終り)

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Last Modified: Tuesday, March 11, 2025
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