東呉繋万里船富岡初曙其風流をうたひしは浪花夕霧文吾嬬秋色櫻
西嶺含千秋雪中町着初其鞘割ときこえしは薩摩源五兵衞 笹野三五兵衞
武藏野の開きあふ御惠みは筑波山の影よりもしげく大通と呼ぶ色男力だめしの虎ケ石固めはしやんと津の國住吉、抑々奧の院に五大力明王と申奉るは千話のやりくり口舌のひぞり又はしみ%\思ひ參らせ候かしく其玉章の封目にかくとだに縁につるれば團三郎が濡事鬼王は初會工藤は二度目の狩場の約束兄弟が無念は五つや三つの頃は彌生の花の下女藝者の俳諧師身替りの去状は八幡が仁義近江が釋教戀は曲者寶の盜賊三味線かひこんだ詮議の合の手彈けや清掻吉原細見名所名物すぐれし御國の
五大力戀緘四里四方四番續
表のカタリは「五大力戀緘」初演の時の番附から取つたものである。この時にはまだ、二番目が別名題にならず、「江戸砂子慶曾我」の一本名題の中に包含されてゐたのでカタリも曾我狂言と共通になつてゐる。
下掲の寫眞は、大正八年十月、帝國劇場でこの狂言を演じた時の寫眞で、この時は宗十郎がお家の源五兵衞に扮し、幸四郎の三五兵衞、故宗之助の小万といふ役割であつた。
大詰、花屋の場へ插入した錦繪は、宗十郎が再演の折ので、いかにも面白く描けてゐる。また中木場の場へ入れたのは、宗十郎の子の源之助が、初役で扮した時の發行である。筆者は共に初代歌川豐國。
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