Title: Hiragana seisuiki
Author: Matsuda, Bunkodo, Miyoshi Shoraku, and Kakai Asada
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About the original source:
Title: Gidayu kyogenshu zokuzoku
Title: Nihon gikyoku zenshu, vol. 37
Author: Bunkodo Matsuda, Miyoshi Shoraku, and Kakai Asada
Publisher: Tokyo: Shun'yodo, 1932



ひらがな盛衰記

序幕 梶原館先陣問答の場

  1. 役名==梶原源太景季。


  2. 梶原平次景高。


  3. 横須賀軍内。


  4. 茶道、順齋。


  5. 腰元、千鳥。


  6. 母、延壽


本舞臺、三間の間、常足の二重、正面に鎧を飾り、向う矢筈の金襖、上手一間の障子屋體、上下柴垣、爰に腰元三人、三寶に神酒、熨斗、昆布、供物の品を持ち並び居て、中の舞ひにて、幕明く。

[唄]

實に武夫の習ひとて、夫は都の軍さ場へ、妻は東の留守住居、梶原景時が屋敷には、嫡子景季が、誕生日の祝ひとて、上段床に兜鎧を飾り立て、敵にかちんの供へ物、取り%\運ぶ腰元婢女、一つ所に寄りこぞり



腰一

皆の衆や、もうお供へ物も、これで大方片附いたわいなう。



腰二

都は軍さ半ばなれど、この鎌倉は穩やかに、今日の御祝儀。



腰一

ソレ/\、若殿源太さまの御誕生日とて、奧樣のお喜び、御家中とても賑はしく、私し等まで



腰二

常からお情深い源太さま、今度の軍さにお手柄のある樣に、影乍らお祈り申すも冥加のため。



腰一

早う勝ち軍さの注進を



腰二

ほんに聞きたい



皆々

ものぢやわいなア。



腰三

コレ/\、わが身達は滅多無性に、源太さまの事はかり褒めそやしてゐやるが、畢竟千鳥がゐやらねばこそよけれ、千鳥が聞く前であんまり褒めたら、又疑ひを受けうぞや。



腰一

ソレ/\、先達ても御出陣のその時に、早うお凱陣を待ちますと、若旦那としつぽりと。



腰二

同じ御兄弟でもあの弟御の平次さま、一寸見るから憎々しい。あの顏で千鳥どのを、附けつ廻しつ、厭らしい。



腰三

イヤ/\、そりやそなたが料簡違ひ、男のよいより惡いより、肝心の寐間のよいのが、マア、當世。わしも日頃焦れたあの忠太どの、無事な便りを聞く迄は、胸の休まる暇もなう、若しお怪我でもあらうかと、都の空の懷しい、心を推量してたもいなう。



[ト書]

ト大泣きに泣く。



兩人

オホヽヽヽヽ、こりや可笑しいわいなア。



腰三

なんで可笑しい、人の心も知りもせで、戀知らずの情知らず。



腰一

蓼食ふ蟲も好き%\と、忠太どのが戀しいといなう。



兩人

オヽ、笑止、オホヽヽヽヽ。


[唄]

話しの中の間押し開けて、立ち出づる茶道順齋。



[ト書]

ト皆々笑ふ。奧より順齋、茶道の拵らへにて出て來り



順齋

これは腰元衆、どうしたものでござる。若旦那平次さま、御病氣でゐらせられるお伽を致さうとはせいで、御家中の男の取り沙汰、お耳へ入らば大抵ではござるまい。若旦那のお側へお越しなされい。サヽ、行かつしやれ/\。



腰一

ハイ/\參りますわいな。サア、皆さん。



腰二

そんなら奧へ



皆々

行かうわいなア。


[唄]

不承々々に腰元ども、ぴんしやんとして入りにける。



順齋

エヽ、やかましい女共だ。なんでも景高さまの御意に入つたこの順齋、追つゝけ若旦那の御代になれば、身共は御家老。鎌倉やうの衣紋を繕ひ、大磯又は化粧坂の名ある遊女を、心の儘に掴み込み、あちらからは迎ひの文、こちらからは恨みの文、所で困るは身共一人。若しさうなつた時は、名代茶道を拵へて置かずばなるまい。


[唄]

都より急用あつて横須賀軍内、只今下着と打ち通れば



[ト書]

ト手を組み、思ひ入れ。向うより軍内、好みの拵へにて出て來り



軍内

都より急用あつて、お使ひとして横須賀軍内、只今到着。



[ト書]

ト順齋、氣の附かぬ思ひ入れ。



順齋

どう考へても、廓通ひはよしにて、地物おめかで十五六人、置く方がよいわえ。



[ト書]

ト軍内、順齋を見て



軍内

コレサ、順齋どの、何を云はつしやる。



順齋

年増にしようか。イヤ、新造にしようか。



軍内

コレサ、順齋どの/\。コレサ、順齋ど/\。



[ト書]

トこれにて順齋、恟りして



順齋

イヤ、そこ許は軍内どの、いつ當地へ御歸館でござる。



軍内

やう/\只今下着仕つてござる。して奧方や若旦那樣は。



順齋

若旦那にはこのほど御病氣。都よりの樣子承りたい、いかゞでござる。平次さまにもお案じなされてゞござる。どうぢやな、どうぢやな。



軍内

さればでござる。樣子と云ふは、御惣領の源太どの鎌倉へお歸りでござる。



順齋

ナニ、源太どのがお歸りとな。



軍内

サア、そのお歸りについて奧樣へ、親旦那より御内意のこの文箱、先へ參つて渡し申せ、畏まつたと急ぎの道中、川々の出水に暇取つて、やう/\只今。源太どのにも追つゝけお着きでござる。



順齋

ハテナ、源太どのが歸つては、平次さまのお望みも。



軍内

叶ふとも/\。景高さまの御運のよいお知らせでござるてな。



順齋

ムウ、して、兄御のお歸りの樣子と云ふは。



軍内

その樣子と申すは、かやうでござる。



[ト書]

ト一寸囁く。



順齋

ハヽア、うまいな/\。さうなる時はこの順齋、身共が執成し、御褒美は望み次第。



軍内

愈々御褒美下さるかな。



順齋

その儀は愚老が承知でござる。



軍内

左樣ござらば順齋どの。



順齋

軍内どの。



軍内

ドレ、若旦那に



兩人

お目にかゝらう。



[ト書]

ト兩人よろしく、調べにて、この道具ぶん廻す。

本舞臺、一面の金襖、折廻して、出入りあり、結構なる拵へ、爰に金屏風を立て絹夜具、同じく掻卷き、このうへに平次、病中の拵へ、脇息にもたれ、枕頭に刀かけ、莨盆を引寄せ、莨をのみ居る。腰元歌かるたを取つて居る。この模樣、よろしく、琴唄にて、道具留まる。


腰一

逢ひ見ての後の心に較ぶれば



腰二

昔は物を思はざりけり。



腰一

爰にあつたわいなア。



腰三

オヽ、爰にあるわいな/\。



腰一

イエ/\、そりや違うてあるわいな。



腰三

イエ/\、違はぬ/\。



腰二

こりや小野の小町ぢやわいなア。



腰三

小町でも通り町でも、これに違ひはないわいなア。



[ト書]

ト皆々、立ちかゝり、喧しう云ふ。



平次

エヽ、姦しい女ども、この平次が介抱は致さうとはせいで、おのれ等の遊びばかり。して、先刻より千鳥が見えぬが、いづれへ參り居るぞ。



腰一

ハイ、奧樣のお側にゐられましたが、もう見えたうなものでござりまする。



腰二

千鳥どの/\、平次さまが召しまする。



皆々

ちやつとござんせいなア。



[ト書]

ト奧にて



千鳥

畏まりました。


[唄]

ハイと返事も愛嬌も、一きは目立つ形容ち、千鳥は奧より立ち出でゝ



[ト書]

トこのうち奧より千鳥、藥茶碗を茶臺に載せ、持ち出て來り



[千鳥]

只今煎じ上がりのお藥、召し上がられませう。



平次

オヽ、千鳥か。ハテ、そちは親切なものぢやなア。この藥は定めて毒味いたしてくれたであらうな。さうかさうか。



千鳥

ハイ、奧樣の仰せつけで、アノ、私しが



平次

忝ない/\。イヤ、定めて今日の藥は格別効目も



[ト書]

ト藥を服み



[平次]

なんぞ面白い遊びはないか。餘ほど積鬱いたした。ヤヽかやう致さう。ちと酒宴の催しなば、心の解ける事もあらう。ナニ、小車、其方は酒宴の用意申しつけい。



腰一

畏まりました。



[ト書]

ト上手へ入る。平次、色々思ひ入れあつて



平次

ハテナ、この中下されし懷紙の中に、慥かに入れ置きしが……コリヤ、常夏、母人に申さうには、政子さまの早春の御詠は、いづれへお納めなされしぞ。承り參れ。



腰二

畏まりました。



平次

待て/\。コリヤ、母人が御存じなくば、身が手箱なぞを吟味いたせ。急ぐには及ばぬぞ。



腰二

ハツ。



[ト書]

ト腰元二、奧へ入る。平次、後の腰元を見て



平次

殘りの女どもは廣庭の鎭守の社へ、身が病氣平癒のため、百度參りでも致して參れ。



腰三

畏まりました。



[ト書]

ト腰元皆々入る。千鳥も一緒に立たうとするを



平次

コリヤ/\、某一人捨て置いて相濟むか。千鳥は殘つて介抱いたせ。



千鳥

イエ、私しも



平次

ハテ、これに居らうと云ふに。



千鳥

ハヽアイ。



[ト書]

ト下に居る。合ひ方になり、平次、以前の歌るたを取り



平次

コリヤ、千鳥、この歌は



[ト書]

ト一枚出す。千鳥、取り上げ見て



千鳥

あらざらん、この世の外の思ひ出に



平次

今一度の逢ふこともがな、只一度の情だに、叶へてくれるものならば、この景高の戀病みも、早速快氣するであらうに。アノ、爰な情知らずめ。



[ト書]

ト千鳥の手を取る。



千鳥

又戯談ばつかり。



平次

こいつ戯談ごかしに爰を逃げようとは、イヤ/\、さうはならぬ。腰元どもを遠ざけしも、今日は人目の關晴れて、直き/\に返事を聞かうと存じての事サ。病氣と云ひ立て鎌倉に殘りしも、そちを手に入れんためばかり。コリヤ、どうぢやな/\。



[ト書]

ト無理に引き寄せる。



千鳥

アヽモシ、有難うはござりまするが、左樣な事は



平次

ならぬと申すか。



千鳥

この事ばかりは。



平次

なぜ/\。



千鳥

サア、そのなりませぬと申しまするは、私しが父樣は鎌田隼人と申しまして、源氏譜代の家來筋、頼朝公へ歸參のお願ひ、申し上げたい下心、それゆゑ御出頭のお家へ御奉公いたしまするも、折もあらば右のお願ひ申し上げたい下心、お袋樣のお許しもないに、猥らな事がござりましては、徒ら者とお暇の出ます事は知れてある。左すれば望みも叶ひませねば



平次

コリヤ/\、何ともくど/\申すには及ばぬ。左程もの堅いそちが、なぜ兄源太とは抱き寐した。



千鳥

イエ、わたしは左樣な事は



平次

こいつ、僞りを申すな。



千鳥

でも、そのやうな



平次

そのやうもこのやうも要らぬ。これまで順齋めに申しつけ口説かせても、兄貴への心中立て。コリヤ、今日はもう逃がさぬ。アノ、爰な命取りめが。



[ト書]

ト又抱きつかうとするを、振り放し



千鳥

エヽモ、しつこく遊ばすと、大きな聲を致しまするぞえ。



平次

大きな聲を立てゝも大事ない。



千鳥

イエ、爰お放しなされませ。



平次

イヽヤ、放さぬ。



[ト書]

ト無理に捕へるを、トヾ振り放し下手へ逃げて入る。平次跡を見送り、うつとりとなる。この時上手より軍内、茶道の順齋、出て來り



軍内

平次さま/\。



順齋

御前々々。



兩人

コレサ、若旦那。



[ト書]

トこれにて心附き、順齋を見て



平次

エヽ、喧しいわえ。



順齋

都より軍内どの、只今歸宅仕りました。



[ト書]

ト平次、軍内を見て



平次

誠に軍内、して、都の樣子は。



軍内

ハツ、御前、御吉左右でござりまする。



平次

ナニ、吉左右とは耳寄り、どうだ/\。



軍内

先づその仔細と申しまするは、この度宇治川の合戰、何が彼の名に負ふ宇治川の川波の流れは、はや矢を射るが如くの大河なれば、さしもの味方も進み兼ねしに、源太景季さま、彼の摺墨に打ち乘り、さも勇ましく、エヘン/\。



平次

その後はどうぢや/\。



軍内

先づ爰らで一服と申す所でござる。



[ト書]

ト平次、思ひ入れあつて、軍内に褒美をやる。



平次

サア、後を申せ/\。



軍内

その後はかやうでござる。この宇治川の先陣は、景季どのと思ひの外、佐々木の四郎に高名せられ、源太どのは後れを取り、京中の物笑ひ、何が手ひどい親旦那、御機嫌は散々、京で殺さば恥の上塗り、鎌倉で切腹せよ、汝をやるは檢死同然。必らず手ぬるく致すなと、屹と仰せ附けられた。惣領どのを仕舞ふてやれば、さしづめあなたが御家督さま、千秋萬歳お目出度うござりまする。



平次

すりや、兄貴は負けたとな。



順齋

御惣領が御切腹とあれば、さしづめあなたが跡目相續。



軍内

さすれば榮耀榮華は心の儘。



平次

さうなる時は俺は主人。



軍内

この軍内は御家老職。



平次

軍内、嬉しい事だなア。



[ト書]

ト向う揚げ幕にて



呼び

若旦那のお歸り。



平次

ナニ、兄貴の歸りしとな。



[ト書]

ト平次、向うへ思ひ入れ。軍内、思ひ入れあつて



軍内

アモシ、あなたのお袖にお塵が/\。



[ト書]

ト羽織の塵を拂ふ。



平次

遣はさう。



[ト書]

ト羽織を脱いでやる。



軍内

ハア。



平次

ムウ。



[ト書]

ト向ふを見込み。キツと思ひ入れ、上手へ入る。軍内、こなしあつて、鸚鵡返しに、よろしくあつて、上手へ入る。ト又順齋、同じく眞似をして、入る。


[唄]

打ち連れてこそ入りにける。



[ト書]

トこの仕組み、よろしく、三重にて、この道具ぶん廻す。

本舞臺、四間、通し、高足、正面、結構なる金襖、上手、塗り骨障子屋體、下手杉戸、出入り、大欄間を下ろし、すべて奧殿の模樣、調べにて、この道具納まる。

[唄]

時もあらせず表の方



呼び

若旦那のお歸り。


[唄]

若旦那のお歸國と、さゞめく聲々、梶原源太景季、鎌倉一の風流男、戰場より立ち歸る。烏帽子のかけ緒、故實を正し、大紋の袖たぶやかに、悠々と打ち通る。



[ト書]

ト向うより源太、烏帽子、素袍、好みの拵へにて、腰元、雪洞を持ち、出て來り、直ぐに屋體へ來り



源太

誰ぞ源太が歸りしと、母人へ傳へてたべ。


[唄]

と訪へば



[ト書]

ト奧にて



延壽

ナニ、源太が歸りしか。


[唄]

いづらや/\と立ち出で給ひ



[ト書]

ト延壽、白髮の鬘、襠裲、衣裳にて出て來り



[延壽]

ナニ、源太、頼朝公の御運の強さ、木曾どのを亡ぼし給ふ。範頼、義經兩大將を始め參らせ、誰れ/\も恙なしとは聞きつるが、顏を見て落附きました。



源太

ハツ、仰せの如く、木曾の狼藉、早速に討ち鎭め、押し續いて西國表、平家の大敵攻め亡ぼし、法皇の宸襟を休め奉らんと、攻め支度の評定取り%\。父にも益益御勇健。先づは變らぬ母人の御有樣、拜し申して祝着至極。



延壽

いやとよ源太、都は未だ軍半、そなた一人歸されしは心得ず。父御の仰せは聞かざるや。



源太

イヤ、何とも承らず。鎌倉へ立ち歸り、仔細は母に尋ねよと、仰せもいなみ難ければ、是非に及ばず罷り歸る。母人の御方へは、いかゞ申し參りしやらん。


[唄]

覺束なしと伺へば



延壽

オヽ、軍内が渡せし文箱。これ見よ、封もまだ切らず。心許なや。開き見ん。


[唄]

蓋押し明けるその暇に、千鳥は戀しい殿御の顏、守り詰めても親子の仲、包む戀路のやる瀬なき。



[ト書]

ト千鳥、茶臺へ湯呑みを載せ、持つて出て來り



千鳥

申し源太さま、常さへ旅は憂きものと、たんと御苦勞なされしやら、お顏の細つた事わいなア。お氣もじ惡うはござりませぬか。



源太

ホヽ、悄らしいそちが問ひで氣が附いた。身が發足のその時分には、弟平次病氣であつたが、本腹をし召されたか。



千鳥

アイナア、本腹やら立腹やら、達者過ぎて迷惑を致しまするわいなア。



源太

それは一段、對面の致したい。



[ト書]

ト奧にて



平次

ナニ、兄者人が歸りしとな。それへ行て逢ひませう。


[唄]

一間のうちよりのさばり出で



[平次]

これは/\兄者人、先づ以て今日の御歸國、祝着至極に存じまする。



源太

其方にも無事の對面、重疊々々。



平次

兄者人、何か差措き、聞きたいは宇治川の先陣、見事な高名遊ばしたでござらうの。



源太

オヽ、この源太が身に取つては、過分なる今度の高名。



平次

ナニ、あの高名をなされしとか。



源太

いかにも。



平次

アノ、愈々高名を



源太

家の譽れ、この身の面目。



平次

愈々高名なされしなら、この平次も後學のため、そのお話しを承らうか。



源太

オヽ、いかにも語つて聞かさん。母人、床几御免。


[唄]

床几御免と座に直り



[ト書]

ト大小入りの鳴り物になり



[源太]

さる程に木曾義仲、奢る平家を西海へ、追下せし功に依り旭將軍と尊敬せられ、遂には飮酒に乘じ、次第に惡行増長せしゆゑ、この度五條の御所よりして、木曾の狼藉鎭めよと、鎌倉どのへ院宣下り、大手の大將蒲の冠者範頼公、附き隨ふ輩には、千葉、川越、粕谷の輩、稻毛、榛谷、河原兄弟、その勢都合三萬餘騎、伊勢を指して御進發、搦め手の大將九郎義經、この手の武士は、和田、畠山、佐々木の一類、岡部、平山、熊谷なんど、分けて侍ひ大將には、父梶原平三景時、かく云ふ源太景季、都合二萬五千餘騎、山城の國宇治の郡へ


[唄]

押し寄せる。



[源太]

頃は睦月の末つ方、四方の山々雪解して、水かさ増さるかの大河、宇治橋の中の間切り放し、向うの岸には亂杭逆茂木、鎧ふたる武者五六千、聲々に天晴れ東夷の御陣立て、關八州に水練得たる者あらば、この川渡り御覽ぜよと、箙を叩いて嘲り罵り、旭に輝きかう/\たり。


[唄]

川を渡さん射落さんと、矢尻を揃へて待ち受けたり。につくき敵の廣言よと、拳を握り怒れども、さばかりの大河なれば、誰れあつて一人抽んでる者もなく、暫時しらけて見えたりしが。



[源太]

某心に思ふ樣、かゝる時節に渡さずば、いつか譽れを現はさんと、我が君より賜つたる、摺墨と云ふ名馬に。


[唄]

あをりはづしてゆらりと打ち乘り、名に橘の小島が崎より、一散に乘り出せば、續いて後に武者一騎、春のあしたの川風に、誘ふ轡の音はりん/\、誰れならんと見返れば、古歌の心に似たるぞや、朧々と白玉の、霞のひまより駈け來るは



[源太]

佐々木の四郎高綱、馬は劣らぬ生月摺墨、二騎相並んで


[唄]

ざんぶ/\と打ち入つたり。



平次

コレ、兄者人、それまでは話しもならうが、これから先が話しの肝もん、自分には云ひにくからう、平次代つて話さうかえ。



千鳥

兄御樣の高名話し、横合ひから腰折らずと、だまつて聞いて


[唄]

ゐやしやんせ。



平次

ヤア、厭らしい、肩持つな。われには構はぬ。今の後はかうであらう。佐々木は聞こゆる強の者、兄貴は知れた野呂間どの、遂に佐々木に


[唄]

乘り負けて。



[ト書]

トノリ。



千鳥

イヤ/\/\なんのあなたが負け給はん。知らぬながらも千鳥が推量、敵は川を渡さじと、水底に


[唄]

大綱小綱、十文字に引き渡し、駒の足を惱ませしに



[千鳥]

頓智の源太景季さま


[唄]

太刀をすらりと拔き給ひ、大綱小綱切り流し/\



[千鳥]

なされたで


[唄]

ござんせう。



[ト書]

トノリ。



源太

オヽ、千鳥が云ふに違ひなく、綱は殘らず切り拂ひ佐々木が乘つたる生月に、一たんばかり乘り勝つたり。



千鳥

アレ/\、聞き給へ、負けはなされませぬ。そんな所に拔け目のある、兄御さんではござんせぬ。


[唄]

あゝ嬉しや、それ聞いて痞へが下りたと悦べば、平次頭を打ち振つて



平次

某佐々木に成り代り、一問答仕らん。その時高綱


[唄]

大言上げ



[平次]

オヽイ/\、景季どの、馬の腹帶が延び候ふ。鞍返されて怪我あるなと、聲をかけたであらうがな。



源太

都の樣子、鎌倉に居る其方が、委しくもよく知つたり



[ト書]

ト上手を見る。軍内と顏見合はせ、思ひ入れあつて



[源太]

某はつと心附き


[唄]

弓の絃を口に啣へ、馬の腹帶に諸手をかけ、搖り上げ搖り上げしつかと締め



平次

ソレ/\、それがうつそり、延びぬ腹帶を延びたと云ふは、こなたの鼻毛を見拔いた計略。うぢ/\召さるるその暇に、さつと佐々木が


[唄]

打ち渡つて



[平次]

宇多の天皇九代の後胤、近江源氏の嫡流、佐々木の四郎高綱、宇治川の先陣なりと呼ばはりしは天晴れ手柄。こなたは大恥。微塵も違ひはあるまいがな。



源太

サア、それは



平次

但しは返答ござるかな。



源太

サア



平次

サア



兩人

サア/\/\



平次

兄貴返事は、ドヽどうだ。


[唄]

かさにかゝつて、恥しむれば、源太は默していらへなし。側からハア/\とあせるばかりに女氣の、なんと詮方なく千鳥。平次景高せゝら笑ひ



[平次]

どいつもこいつも吠え面、ハテ、氣味のよい事の。コレ、母者人、惣領の恥掻きどのを、仕舞へと云うて來ませうがの。その状俺に見せさつしやれ。


[唄]

差し出す腕を叩きのけ。



延壽

コリヤ、この文は母への名宛て、何が書いてあらうと儘、そちには見せぬ。母を差し置き出しやばるな。


[唄]

叱る聲さへおろ/\涙、又繰り返す文體に、心を痛めおはします。



平次

エヽ、子に甘いも事に寄る。生けて置く程親兄弟の面汚し。コレ、爰な腰拔けどの、せめては親の催促待たずに、ごねやうと思ふ氣はないか。アヽ、それもなるまい。世間は切腹したにして、その首刎ねて埒明けうワ。


[唄]

ずばと拔いて斬りかゝる、刀の鍔際むづと取り



源太

兄親に對して尾籠の振舞ひ。腰拔けの手並み、腰骨に覺えたか。


[唄]

引かついでどうと投げつけ、起しも立てず刀のむね打ち、りう/\發矢と打ちのめせば、あいた/\と顏しかめ、はうばう逃げてぞ入りにける。



[ト書]

ト平次、奧へ逃げて入る。



[源太]

コリヤ/\、千鳥、源太が母へ申し上げる仔細あり。次ぎへ參れ



千鳥

ハイ。



[ト書]

トうじ/\する。



源太

ハテ、行けと申すに。



千鳥

ハアイ。


[唄]

せき立てられて是非なくも、言葉殘して入りにける。源太は後先見廻して、母の前に兩手を突き



源太

かく申せば景季が、命惜しむに似たれども、夢々助かる所存にあらず。この度宇治の合戰前、父にて候ふ平三どの、軍さの勝負を試みんと、お許しもなき的を射損じ、その矢が量らず大將の、御白旗に中りしは、味方の不吉父の不運、申し譯立ち難く、切腹に極まりしを、佐々木の四郎が情に依つて、君の御前を云ひ直し、父の命を助けたり。その場に某あり合さず、後にてかくと承り、佐々木に逢ふて一禮をと、思ふ間もなく早合戰。宇治川の先陣は我れも人も望む所。あるが中にも川を渡すは佐佐木と某。南無三寶、父のためには恩ある佐々木、この人に乘り勝つては、侍ひの道立たずと、心一つに料簡定め、先陣を彼れに讓り、手柄させしは情の返禮。後れを取りし某は、元より覺悟の上なれば、恥も命もちつとも厭はず。先陣の高名に、おさ/\劣らぬ孝行の、高名と存ずれど、あからさまに申されぬは、武士と武士との誠の情、父のために捨てる命。お暇申す、母人樣。


[唄]

差添へに手をかくれば



延壽

ヤレ、待て源太、それ程知れた身の言譯、父御へはなぜ云はぬ。



源太

イヤ、言譯を仕れば、佐々木が手柄を無にする道理。よん所なく母人へ、申し上げしも本意ならず。死後までもこの事は、御沙汰なされて下さりまするな。



延壽

イヤ/\、それは若氣の料簡、今死んでは忠孝にならぬぞよ。



源太

こは仰せとも覺えず。義を知つて相果つれば、忠も立ち孝も立つ。



延壽

イヽヤ、立たぬ。なぜと云へ。梶原の家は坂東の八平氏、その氏を名に現はす平三どの、惣領のそちなれば名をば平太と云ふべきを、源太と附けしは、忝なくも征夷大將軍源の頼朝公、石橋山の伏木隱れ、危ふきお命助けられし平三どのを、命の親とのたまひて、勿體なくも家來の子を兄弟分に思ひ召され、源の氏を賜り源太と名乘らせ、源氏嫡流のお召しある、産衣と云ふ鎧まで下された烏帽子子。爰をよう合點しや。今命を捨てゝは、實の親への孝行は立たうが、烏帽子親のわが君へは、どの命で御恩を送る。主なり親なり、忠孝が立たぬとは、爰の事を云ふわいやい。



源太

イヤ、その御恩は忘れは致さぬ。烏帽子親とは憚りあり、主從は三世の契り、生き替り死に替り、君に仕へる侍ひの魂。



延壽

ヤレ、情ない。三世の契りのお主には未來でも逢はれうが、わが子は一世、この世ばかりで又逢はれぬ。母を置いて死なうと云ふ子も胴慾、殺せと書いて送られし連合ひは猶胴慾。惡い子でさへ捨て兼ねるは親の因果、ましてや健氣な子でないか。蟲けらの命でさへ、科ないものは殺されぬに、塵芥かなんぞの樣に


[唄]

心安そに捨てやうとは



[延壽]

父御ばかりの子かいなう。


[唄]

母がためにも子ぢやものを、問ひ談合に及びもせず



[延壽]

軍内を檢死にやると、一徹短氣なこの文體。見るも恨めし忌はしい。


[唄]

寸々に引き裂き/\、口に含んで咬みしだき、夫を恨み子をかこち、わつと叫び入り給ふ。母の慈悲心肝に銘じ、六根五臟を絞り出す、涙も厚き恩愛の、親子の歎きぞ道理なる。横須賀軍内、憚りもなくずつと通り



[ト書]

ト軍内、上手より出て來り



軍内

親旦那の御状を御覽の上は、申すに及ばぬ、某は檢死の役。サア、源太どの、お腹召され。


[唄]

苦り切つて云ひ放せば



源太

オヽ、覺悟は兼ねて極めたり。


[唄]

身繕ひする所を、母は立ち寄り



延壽

ヤア、そりやならぬ。恥掻いた人でなし、大小もぎ取り阿呆拂ひ、手ぬるい父御の指圖より、嚴しい母が仕置きを見せう。中間どもの古布子、持つて來や、早く早く。


[唄]

早う/\と呼ぶ聲に、はつと答へて平次景高、古わんうを引ツ提げ出で



[ト書]

ト平次先に、順齋、紺看板を木綿繩にて括り、持ち、出て來り



平次

申し母者人、この布子をどうなされまする。



延壽

どうするとは知れた事、源太めに着せ替へて、門前から阿呆拂ひ。



平次

ナニ、阿呆拂ひ。それこそ望む所。コレ、軍内、順齋、われ達も手傳へ/\。



軍順

ヘイ/\、畏まりました。


[唄]

無法の主從立ちかゝり、手ん手にもぎ取る太刀烏帽子、叩き落されおつぽう髮、素袍袴の帶紐も、引きしやなぐるやら引き切るやら、上着中着の綾錦、古わんぽうに着せ替へさせ、腰に食ひ入る繩帶ひき締め



[ト書]

トこの淨瑠璃のうち、紺看板に着せ替へる。



平次

イヤ、よいざまだ。今までは兄上だの兄者人ぢやのともてはやせど、もう斯うなつたら只の仲間折助だ。アア、見れば見る程慘めなざまだ。アハヽヽヽヽ。



軍内

ヘイ/\、ナニ、平次さま、ちとお願ひがござりまする。この軍内にも少々ばかり、云はせては下さりますまいか。



平次

ナニ、云ひ分が云ひたいとか、遠慮はない。なんなりと存分に申せ/\。



軍内

アノ、申してもよろしうござりまするか。



平次

よいとも/\。



軍内

ハツ、それは/\有難うござりまする。



[ト書]

ト源太の側へ來り



[軍内]

ヤイ、源太景季……さまめ、ようも/\これ迄は、手ひどく身共を使ひ居つたな。ソレ、茶を汲んで來い。軍内、肩を叩け。軍内見張りをいたせ。軍内、ソレ、軍内。ヤレ、軍内。コレ、軍内なればこそよけれ、絹や縮緬で見ろ、今頃はずたずたに切れてしまふぞよ。その返報はかうしてくれるワ。



[ト書]

ト源太を蹴倒し



[軍内]

ヘイ/\、これで少しは腹が癒ましてござりまする。



順齋

ナニ、若旦那、私しにも少々申させて下さりませ。



平次

アヽ、よいとも/\、なんなりと十分に申すがいゝワ。



順齋

左樣なら申してもよろしうござりまするか。



[ト書]

ト源太の側へ行き



[順齋]

ヤイ、源太……さま/\、日頃からこの順齋を、よう使ひ居つたな。茶を持つて來い順齋、床を取れ、順齋、莨盆を持つて來い、順齋、明りを持て、順齋、ようも/\むごうこき使ふたな。その腹癒せは



[ト書]

ト打ち、さうにして、延壽を見て、怖々源太をつねり



[順齋]

これでもう、よろしうござりまする。



平次

イヤ/\、まだそんな事では腹が癒ぬ。源太があのざまを見て、大聲上げて笑つてやれ/\。



軍内

それぢやと申しまして、可笑しくもない事を、どうも笑ふと申す譯には參りませぬ。



平次

エヽ、笑へと申すに、笑はぬか。



軍内

それぢやと申しまして どうも



平次

ムウ、笑はぬに於いては、よい/\、身共が手討ちに致してくれう。



軍内

アヽモシ/\、若旦那、笑ひます/\。



平次

然らば早く笑へ。



軍内

ヘイ/\、只今笑ひます。順齋どのもお附合ひなされ。



順齋

でも、私しは



軍内

厭と申せば只今の樣に、お手討ちでござるぞ。



順齋

致し方がない、附合ひませう。



平次

エヽ、何をぐづ/\致し居る。



軍内

ヘイ/\、笑ひます/\。



平次

よいかな、ハヽヽヽヽ。



軍内

ヘヽヽヽヽ。



順齋

ホヽヽヽヽ。



平次

ハヽヽヽヽ。



軍内

ヘヽヽヽヽ。



順齋

ホヽヽヽヽ。



平次

ハヽヽヽヽ、ヘヽヽヽヽ、ホヽヽヽヽ。


[唄]

一度にどつと打ち笑ふ。源太は變りしわが姿の、恥も無念も忍び泣き、母はわが子を助けんため、人前作る澁面顏、怒る擬勢も苦口も、詞と心は裏表。命替りの勘當ぢやと、思うて堪忍してくれと、云ひたさ辛さ泣きたさを、胸に包めど包まれぬ、悲しい色目悟られじと



延壽

皆の者が笑ふので、母も可笑しい。あんまり笑うて涙が出る。ハヽヽヽヽ。


[唄]

と高笑ひ、泣くよりも猶哀れなり。千鳥はかくと聞くよりも、あるにもあられず走り出で、變りし源太が憂き姿、二目とも見も分かず



[ト書]

ト千鳥、奧より走り出で、愁ひの思ひ入れ。



千鳥

お胴慾な母御樣、勝つも負けるも軍さの習ひ、誰れしもかうした不覺はあるもの。父御樣から殺せとあるを、お詫び言はなさらいで、阿呆拂ひの勘當のと、これがほんの


[唄]

父打ち母打ち。



[千鳥]

二人の親御に憎まれて、源太さまのお身がどこで立つ。あれ程むごうなされたら、もう堪忍して上げまして


[唄]

下さりませとばかりにて、かつぱと臥して泣き詫ぶる。



延壽

エヽ、母が采配、小癪な、そちが何知つて。コリヤ、よう聞け。源太めがあのざまは、弟への見せしめ。あの恥を無念と思はば、西國へ攻め下つて、平家を亡ぼし手柄して、わが君の御用に立たば、ナ、勘當はせぬ、ナ、平次、心得たか。



[ト書]

ト思ひ入れにて云ふ。



平次

アイ/\。



延壽

必らず手柄を待つて居る。母が詞を忘るゝな。


[唄]

弟が事を云ひなして、兄を勵ます詞の謎々、とくより母のお慈悲とは、知るほど重き源太が額、土に摺りつけ泣きゐたる。平次景高したり顏。



平次

コリヤ、千鳥、なんぼ吠えても叶はぬ程に、これからは分別を仕替へ、源太が事は思ひ切り、俺が云ふ事聞きさへすりやア、母へ願うて、コリヤ、奧樣ぢや。なんと、嬉しいか/\。



千鳥

エヽ、穢らはしい、聞きとむない。憎まれ子世に憚ると、どこまで憚りなされうが、わたしや厭ぢや、厭ぢやわいなア。



平次

ヤア、しぶとい女郎め。母者人、源太と千鳥が狂うて居りまする。



延壽

なんぢや。源太と千鳥が狂うて居る。



軍内

狂うて居る段ではござりませぬ。ちんちん鴨の入首でござりまする。



延壽

エヽ、年よりませた徒ら者。二人はわしが仕樣がある。源太めを追ひ拂ひ、サア、千鳥は奧へ。


[唄]

千鳥はこちへと引立てゝ、靜々奧へ入りにける。



[ト書]

ト延壽、千鳥を連れ、奧へ入る。



平次

ヤイ、源太、今まではその生白いしやつ面で、千鳥めとむたついたが、もうこれからはあの千鳥も、この平次が寐間の伽だぞよ。



軍内

アヽ、申し/\若旦那、もう千鳥が事は思ひ切つておしまひなされませ。



平次

エヽ、馬鹿を申すな。千鳥をどうして



軍内

イヤサ、千鳥が事は思ひ切つて



[ト書]

ト仕方にて教へ



[軍内]

サア、思ひ切つておしまひなされませ。



平次

ムウ、なるほど、千鳥が事は思ひ切つた。



軍内

御合默が參りましたか。



平次

オヽ、思ひ切つた。


[唄]

拔き打ちに、源太を目がけ切りつける、さしつたりと引ツ外して、掻い潜る身のひねり、軍内が諸膝掻きのめらす暇を又切りかゝる、平次が刀打ち落し、踏みつけ/\立ちたるは、心地よくこそ見えにける。



源太

ヤア、千鳥が事を根に持つて、兄に敵對ふ人畜め、今踏み殺すは安けれど、惡い子ほど捨てられぬと、母のお詞聞き捨てられず助け置く。兄に代つて孝行せよ。


[唄]

突き放せば、からき命を助かりて、跡をも見ずに逃げて行く。



[ト書]

ト平次、刀を杖に突き、順齋の肩にもたれ、ほう%\上手へ逃げて入る。軍内は花道へ、這ひながら逃げて行く。源太、見附けて



源太

軍内々々、そちやいづれへ參る。



軍内

ヘイ、私しは一寸そこ迄



源太

ハテ、用事がある。これへ參れ。



軍内

ヘイ、これが勝手でござりまする。



源太

ハテ、參れと申すに。



軍内

ヘイヽヽ。



[ト書]

トこれにて、怖々本舞臺へ戻る。



源太

そちや親どもからの上使ぢやな。



軍内

左樣でござる。親御樣よりの上使でござる。上使なれば親子も同然でござる。



源太

上使とあらば殺されぬ。こりや料簡を致さずばなるまい。



軍内

左樣々々、料簡を致さずばなりますまい。



源太

殺さにやならぬ奴なれど、そこを源太が料簡して



軍内

そこをあなたが料簡して



源太

うぬが刀でうぬが首



軍内

うぬが刀でうぬが首



源太

ころりと落すは自業自得。



軍内

ころりと落すは自業自得。



源太

源太は殺さぬ。



軍内

あなたは殺さぬ。



源太

手ばかり動く。


[唄]

首と胴との生き別れ。



[ト書]

ト軍内を突き廻し、見事に切る。



[源太]

親子の別れ今一度、母の御目に、イヤ/\/\、仰せに隨ひ、四國九國の果てまでも。


[唄]

ぼツつめ/\高名し、その時お顏を拜まんと、思ひ諦め立ち出づる。後ろの障子さつと開く、音に驚き振り返れば、母はすつくと立ち乍ら、源太が方へは目もやらず



[ト書]

ト延壽、上手の障子を明け、出て



延壽

四國九國の合戰に、裸武者では手柄がなるまい。勘當した子に持つて行けと教へはせぬが、頼朝公より賜りし、産衣の鎧兜、誕生日の祝儀とて、飾らせて爰にある。わが物を取つて行くに、誰れが厭と云はうぞ。但しは要らぬか。主もないこの鎧、取り捨てよ。腰元はゐやらぬか。來いよ/\。


[唄]

呼ばはり/\入り給ふ。



[ト書]

ト奧へ入る。



源太

ハアヽ、重々厚き御憐愍、忝なし/\。


[唄]

鎧兜を取りのくれば、思ひがけなき腰元千鳥。



[源太]

ヤ、そちや千鳥、爰にはどうして。



[ト書]

トこれにて千鳥、下へ下り



千鳥

サア、これも母御樣のお情、不義をした科でこの箱に入れられ、窮命さすそのあとは、行きたい方へ連立つて行けと、お慈悲深い母御樣。



源太

そりや、母人樣が。アヽ、有難や冥加なや、仇に思はゞ天罰受けん、恐ろし、恐ろし、これより直ぐにこの源太が、恥辱を雪ぐ合戰の首途。


[唄]

四國九國の果てまでも、ぼつゝめぼつつめ高名し



[源太]

その時お顏を母人樣



千鳥

おまめでござつて



兩人

下さりませ。


[唄]

母の方を伏し拜み/\、云ふも盡きせぬ別れの涙絞りかねたる袖の海、深き御恩を蒙りしは、身一つならぬ友千鳥、泣く/\出でしが又立ち戻り、振返つては親と子の、はてし名殘りの憂き別れ、浮世に憂き身かこつらん。



[ト書]

ト源太、千鳥、身拵へして、奧を伏し拜み、行きにかかる事、鎧をかせに、よろしく愁ひのこなしあつて、トヾ兩人、花道へ行く。この時襖を明け、延壽、手雪洞を持ち出て來る。これにて花道の兩人、つか/\と本舞臺へ戻り、襠裲に取り附くを、延壽、後ろ向きになり、上下へ二包みの金を落す。兩人、取り上げ、見て、物を云はうとする。延壽



延壽

コレ。



[ト書]

ト手雪洞を消す。兩人は金包みを押し戴く。延壽は泣き顏を隱す。この仕組みよろしく、段切れにて




大詰 福島逆櫓の場

  1. 役名==船頭、權四郎。


  2. 同娘、およし。


  3. 木曾駒若丸。


  4. 船頭、又六。


  5. 同、富藏。


  6. 同、九郎作。


  7. 隼人娘お筆。


  8. 秩父庄司重忠。


  9. 船頭、松右衞門 實ハ樋口次郎兼光。


本舞臺、常足の二重、眞中納戸口、上手佛壇、下手茶壁、上の方九尺の屋體、障子たて切り、いつもの所門口、この外、大樹の松、爰に講中三人、坊主一人、鉦を叩き、百姓大勢、百萬遍の珠數を繰つて居る見得、在郷唄、浪の音にて、幕明く。


皆々

南無阿彌陀ン佛/\。



[ト書]

ト皆々、珠數を繰り終ひ



坊主

ヤレ/\、皆の衆、お氣の毒に、よう念佛申してやらしやつた。サア/\、一服のまつしやれ。



講一

モウ/\、構はつしやるな。さつきお芳どのが迎ひに見えたゆゑ、念佛申して進ぜやうと思ふて、ナウ、皆の衆。



講二

念佛仲間が誘ひ合ひ、連れ立つて來ました。



講三

ふだん世話になる爰のうち、他人の樣には思ひませぬわいの。



坊主

ソレ/\、かうやつて回向して進ぜるは、人の事ぢやござらぬ、わが身のためでござるわいの。



皆々

いかさま、さうでござるなう。



[ト書]

ト合ひ方になり、奧より權四郎、木綿やつし形。お芳、世話女房にて、重箱を抱へ、子役の手を引き、出て來り



權四

オヽ、皆の衆、御苦勞でござつた。コレ、娘、つまらぬ物なれど、それ進ぜてくれ。



よし

サア/\、皆さん、美味しうはなけれども、たんと上つて下さりませ。



[ト書]

ト重箱を前へ出す。



皆々

モウ/\、構はつしやるな/\。



よし

何もお構ひ申しはいたしませぬわいな。



權四

サア/\、お構ひなしに、やらんせ/\。



皆々

そんなら馳走になりませう。



[ト書]

ト皆々、捨せりふにて、茶を呑む事あつて



坊主

時に親父どん、今日はどの佛さまの



皆々

志しの日でござるの。



權四

サア、今日の佛は、こなた衆も懇ろな、この娘が前の連合ひ、この槌松のほんの父が、三年の祥月命日に當つたゆゑ、澁茶を焚きました。たんと呑んでゆつくりして下され。常ならば箸でも取らせまする筈なれど、知つての通り足弱な娘や孫を引連れ、巡禮の長道中、物費りの後ゆゑなんにもしませぬ。とは云へ娘、もう何もないか。



よし

なんぞと申したら、人手はなし、この子はせがむ、ほんの心ばかりをば上つて、御回向お頼み申します。


[唄]

あられ混りの煎り豆に、花香持たせて汲み出せば



[ト書]

ト盆の上へ茶碗を載せ、茶を汲んで出す。



講一

もう三年になりますか。アヽ、月日に關守り据ゑざればぢや。今の松右衞門どのは、聟入りしてまだ間もないゆゑ、しみ%\と附合はねば知らぬけれど



講二

死なしやつたこの槌松の父御は、誠によい人であつたわいの。



講三

それに尋ねたいは、別の事でもないが、この槌松を連れて巡禮に出らるゝ迄は、肥え太つて年よりも背が大柄で、病ひ氣もない頑丈造り



坊主

ほんの赤松はしらかしたやうに、外を内と遊びやるを見ては、あやかりものぢやと羨んだ子が、なんとして又色白に痩せこけて、思ひなしか顏の樣子も變つて、背も低う弱々として、外へとては出ず、これが巡禮した奇特と云ふやうな事で



皆々

ござるかいの。



權四

さればその事、こりや前の槌松ぢやござらぬ。違うた譯。思ひ出すも、ナウ、恐ろしや。マア、皆の衆、聞いて下され。ナア、娘よ、幾日の夜やらであつたな。



よし

ハテ、二十八日の



權四

オヽ、それ/\、まだ後の月の二十八日、三井寺の札を納めて、大津の八町に泊る夜、何かは知らず御上意ぢや、捕つた捕つたと大勢の侍ひが、これ見さつしやれ話しするさへ身が震ひます。ほんの世話に云ふ狼狽へては子を逆さま、どう負ふたやら娘が手を引いたやら、走つたやら、飛んだやら、やう/\毒蛇の口を遁れ、逃げて行く先は又狼谷の水音、松吹く風も後から追つ手の來る樣に思はれ、さても命はあるものかな。眞暗な夜に四里足らずの山道を、息一つつかばこそ、水一口呑まばこそ、命から%\伏見へ出て始めて脊に負ふた子の顏見れば南無三寶、相宿の襖越し、宵に話しもした和郎が連れた子と、取り違へたに極まつた。大儀ながら一走り行て、元々へ取り替へて來てくれと、娘はせがむ、オヽ、尤も、取り戻して來うと思ふ程先の怖さ。いつかな/\、一足も行かれる事ぢやない。今には限らぬ、取り返す折があらう。先の和郎も子を取り違へ、人の子ぢやとて粗末にはして置かぬ筈、この子さへ大事に育てゝ置いたら、三十三所の觀世音のお力、枯れたる木にも花さへ咲くぢやないか。一先づうちへ戻つて、潰した肝を癒やしてからの上の事と、晝船に飛び乘つて戻るうちも、乳呑まうと泣く。持ち合はせたを幸ひに、娘が乳を呑ませたら、それなりに月日も立ち、名も知らねば呼びつけた、槌松よ槌松よと云や、我が名と心得爺よ/\と、馴れ馴染むいたいたしさ。今ではほんの槌松めも同然に、可愛うござるわいの。


[唄]

云ふ聲も、咽喉につまらす老心、娘も共に涙ぐみ



よし

時の災難とは云ひ乍ら、縁あればこそこの子が手鹽にかゝり、他人がましうする事か、母樣々々と、この乳を呑みもすりや、呑ましもすれ、馴染めばわが子も同じ事、この子が憎いではないけれども、今日の佛の手前もありならう事ならちつとも早う、元々へ取り戻したうござりまする。


[唄]

語るを聞いて皆の者。



講一

それで疑ひ晴れました。大願立てゝの西國廻り、現世未來の觀音さまのお引合せ。



講二

あつちから槌松を連れて、やがて尋ねて見えませうわいの。



講三

必らずきな/\思はぬがよいぞや。



坊主

時に皆の衆、あんまりお茶呑んで、結句腹も晝下り、もうお暇しやうではござらぬか。



權四

マア、よいぢやないかい。



よし

ゆつくりと話して行て下されませ。



講一

イヤ/\、その話しは又明日の事。



皆々

もうお暇いたしませう。



權四

それなればたつてとも云ふまい、どうぞ又遊びに來て下んせ。



よし

マア、お靜かにお出でなされませ。



講三

コレ、お芳どの、松右衞門が歸られたら



皆々

よう云うて下されや。



よし

有難うござりまする。



皆々

そんなら親仁殿。



權四

大きに御苦勞でござりました。



皆々

サア、行きませう。


[唄]

打ち連れ出づる向うより



[ト書]

ト濱唄になり、向うより松右衞門、どてら形、草履を穿き、櫓の先に蓑、竹笠を括りつけ、擔ぎ出て來り、花道にて皆々に行き合ひ



坊主

オヽ、松右衞門どの、今戻らつしやつたか。今日はこなたのお留守へ上り



皆々

大きに馳走になりました。



松右

こりや皆お歸りか。今日は前の聟殿の三年忌、うちに居て共々御馳走申す筈を、遁がれぬ用事で罷り出で、近頃の亭主振り、まそつとゆるりとなされませ。



講一

イヤモウ、ゆるりくわんすの底叩きました。



講二

餘り茶には福がある。呑んでお休み



皆々

なされませ。



松右

そんなら皆の衆。



皆々

又明日逢ひませう。


[唄]

わが家/\へ立ち歸る。



[ト書]

ト皆々向うへ入る。松右衞門、舞臺へ來る。門口を明け



松右

親父樣、今歸りましてござります。



[ト書]

ト云ひながら内へ入る。



權四

オヽ、聟どのか、イヤ、御苦勞々々。



よし

こちの人、戻りやしやんしたか。大層遲うござんしたなア。



松右

イヤモウ、早う戻つて、茶事の間に合ふ樣、釜の下でも焚かうと氣が急いても、相手が急かぬ大名のゆつたり、遲なはつた。嘸お草臥れ、女房ども、大儀であつたの。



よし

なんの大儀の事はない。お前こそ嘸おひもじからう。ぼんよ、父樣がお歸りなされたかと、なぜお側へ行きやらぬ。ドレ、飯上げうか。


[唄]

と立ち上る。



松右

コレ/\、女房、飯なればまだ欲しうない。よい時分には云ふわえ。



よし

そんなら、よい時分に云はしやんせ。



權四

それはさうと聟どの、今日のお召しはどんな事ぢや。なんぞ氣にかゝる事ぢやないか。



松右

イヤ、お案じなさるる事ぢやござりませぬが、併し親父樣、大名のうちにも梶原さまは、取り分け念者であると申す、その譯は私しが、掻いつまんでお話し申しませう。



[ト書]

ト合ひ方になり



[松右]

今日お召しに寄つて、船頭松右衞門參上と奧へ云うて行き、やゝ暫らくして御家老の彼の番場の忠太さまがお出でなされ、先達て差上げた彼の逆櫓の事書き、一々尋ねる程に、問ひころしたそのうへで、その通り申し上げよ。暫らく待てと申しまして、マア、三時も待たせて置いて、殿が直ぐにお逢ひなさるゝ、これへお出でなさるゝと、その重々しさ、物云ひの堅苦しさ、船頭松右衞門とはおのれよな、軍術逞しき義經へ、この景時がよつく存ぜしと云ふ逆艪の大事、おろそかに聞き受け難し。おのれ船に逆艪を立てゝの軍さ調練したる事やある。それ聞かんと問ひかけられ、この度親父樣に習うて、逆艪と云ふ事初めて知つた松右衞門、返答に困るまいか、難儀せまいか、ほつとせしが分別いたし ハア、御意ではござれども、賣船の船頭風情、軍さと云ふものは夢に見た事もござらぬ、逆艪の事はわれらが家に傳へ、よく存じ罷りありと申して、間に合ひを申したれば、ムヽヽさもありなん。然らば汝覺えある船頭を語らひ、今宵密かに逆艪を立て、船の駈引き手練して、そのうへ知らせよ、事成就せば御大將のお召し船の船頭は汝たるべしと直きのお詞、その嬉しさに始めの術なさ打ち忘れ、あたふたと歸りがけ、日吉丸の船頭又六、灘吉丸の九郎作、明神丸の富藏、こいらは梶原さまのお船の船頭、幸ひ三人を相手にして、日暮れから逆艪の稽古にこつちへ參る筈。お教へなされた手際を見せつけ、立身出世はたつた今。これと申すも御指南のお庇、忝ない。坊主よ、喜べ。結構なおべゞを着て、持ち遊びに飽かせうぞ。それは勿論知れた事。女房ども、親父樣、喜んで下さりませ。


[唄]

語る聟より聞く嬉しさ。



權四

イヤサ、不器用な奴は、千年萬年教へても埓明かぬ。滿更素人のわり樣が、入り聟にわせられて、一年も立つや立たず、天下さまのお船の船頭するやうになると云ふは、俺が教へたばかりぢやない。その身の器用がする事で、おじやらしますで目出度い目出度い。聟殿の草臥れ休め、娘、十二文持つて走らぬかい。



松右

イヤ/\、御酒も歸りがけに、九郎作が所で下された。一生覺えぬ大名の附合ひ、膝はめりつき氣骨は折れる、播磨灘で南風に逢うた樣な目にあうて、頭痛まじり草臥れたと云ふ段ではない。暮れまでは間もあらう。親父樣、御ゆるされませ。トロトロと一寐入り。コレ、見や、お芳、坊主めが眠るは幸ひ、父が添へ乳をしてやらうか。



よし

オヽ、さうかいな。コレ、坊よ、父樣と行てねんねしや。オヽ、誰がよ/\。


[唄]

ねん/\ころりと掻き抱き、納戸のうちにぞ入りにける。



[ト書]

トお芳、子役を抱いて、松右衞門に渡す。松右衞門、受取り、叩き乍ら奧へ入る。



權四

娘、裾になんぞ置いてやれ、出世する大事の體、風引かすな。祝うて船玉さまへ燈明も灯せ。お神酒も上げたい、酒買うて來てくれぬかい。



よし

イエ、買ふまでもない。これをお供へなされませ。


[唄]

棚から下ろす難波燒き



[ト書]

ト棚から燗銚子を取り、權四郎の前へ置く。



權四

ちろりと用意があつたなう。


[唄]

老の洒落ごと輕口も。神慮は重き一對の、徳利に餘る親心。妻は火打ちの石の火に、夫の威光輝くと、油煙も細き燈明に、心を照らす正直の、神や光りを添へぬらん。



[ト書]

トこのうち權四郎、神棚へ神酒を供へ、お芳、火を持ち燈明を上げる事なぞ、よろしく


[唄]

妻戀ふ鹿の果てならで、難儀硯の海山と、苦勞摺墨うき事を、數かくお筆が身の行くへ、いつまで果てし難波潟、福島に來て事問へば、門に印しのそんじよそこと、松を目當てに尋ね寄り



[ト書]

トこのうち向うよりお筆、屋敷風の形、菅笠を持ち、風呂敷を脊負ひ、出て來り、直ぐに舞臺へ來り



ふで

ハイ、御免なされませ。船頭松右衞門さまはこなたでござりまするか。お名をしるべに遙々と、尋ねて參つたもの、お逢ひなされて下さらば、忝なうござりまする。


[唄]

物ごしのしとやかさ。



よし

ハイ/\、どなたか、松右衞門ならこちらでござりまする。お入りなされませ。



[ト書]

ト門口を明け、お筆を見て、思ひ入れあつて、ぴつしやり締め、權四郎の寢てゐる側へ行き



[よし]

モシ、父さん、來たわいな/\/\。



[ト書]

トこれにて權四郎、驚き、目を覺し



權四

來た/\とは、何が來たのぢや。



よし

何が所ぢやない。來たわいな/\。



權四

なんぢや、津浪でも來たのか。



よし

イヽエイナ、松右衞門に逢ひたいと云うて、若い女子が來たわいな/\。



權四

エヽ、何をぬかす。又悋氣さらすな。コリヤ、嗜め嗜め。



よし

それぢやと云うて、大方碌な事ぢやないわいなア。



權四

コリヤ、松右衞門に逢はうと云うて來た女中、譯も聞かずに、もし姉でも、コリヤ、悋氣さらすか。マア、なんであらうと、とつくり樣子を聞いての上。



[ト書]

ト門口を明け、思ひ入れあつて



[權四]

松右衞門は内に居りまするが、どこからござつたかは知らぬが、マア/\、内へ入らつしやれ/\。



ふで

左樣なら、御免なされて下さりませ。


[唄]

笠解き捨てゝ内に入り



[ト書]

ト内へ入り、下手に住ひ



[權四]

左樣ならばあなたが松右衞門どのか。お近附きでもなければ、お顏を見知らうやうはなけれども



權四

なけれども……なりや、なぜござつた。



ふで

サア、何が知るべにならうやら、攝州福島松右衞門、一子槌松と書いた笈摺が縁となつて



權四

ヤア、そんならこなたは大津の八町で



よし

又あとの月二十八日の夜



ふで

ハイ、お子さまを取り替へたものでござりまする。



權四

道理こそ、見たやうな顏ぢやと思うた。コレ、お芳、喜べ、槌松を取り替へた人ぢやといやい。此方からも行くへをお尋ねて、元々へ取り戻す筈なれど、何を證據に尋ねて行く手がゝりもなく、泣いてばかり居りました。その代りには取り替へたそつちの子供、鵜の毛で突いた程も怪我させず、蟲腹一つ病みもせず、娘が乳が澤山ゆゑ、食物はあしらひばかり、乳一度餘した事はござらぬわいの。



よし

ほんに風一度引かさばこそ、親子が大事にかけたに附けても、此方の息子めもさぞ御厄介、お世話でござりましたらうに、よう連れて來て下さりました。



權四

コレ、槌松よ、わが内を忘れたか。なぜ入らぬぞよ。



ふで

イエ、門にではござりませぬ。



權四

ヤア、連れの衆が後から連れてお出でなさるゝか。さぞ御厄介、忝なうござる。ハテ、早う逢ひたいな。娘お禮を申しやいの。



よし

父さん、忙しない。このお禮が、ちやつきりちやつと、つい云うて濟む事かいな。申しこの槌松は、なぜ遲い事ぢやぞいなア。



[ト書]

ト立つて、門口を明けて見る。



權四

これはしたり、娘、不遠慮な、立つたり居たり、どうしたものぢや。ようお禮を申さぬかい。



よし

ハイ/\、大きに有難うござりまする。



[ト書]

ト又立つて、門口を覗く。



權四

アヽ、この孫は、何をして遲いのぢや。



[ト書]

ト同じく見る。



よし

父さん、お前こそ立つたり居たり。ちやつとお禮を云はしやんせいなア。



權四

オヽ、さうぢや。これは大きに有難うござりまする。


[唄]

立替り入替り、門を覗きつ禮云ひつ、そゞろ喜ぶ親子の風情、お筆が胸に燒き金刺し、今更なんと返答も、泣くに泣かれず差し俯向き、暫し詞もなかりしが、



[ト書]

トこのうち權四郎、お芳、代り/\に門口を覗き、喜ぶこなし、お筆は始終術なき思ひ入れ、じつと差し俯向きゐて



ふで

お願ひ申さねば叶はぬ譯あつて、恥を包み面目を忍びて尋ね參りしが、そのやうにお喜びなされては、氣が後れて物が申されませぬ。マア、下にゐて下さりませ。


[唄]

涙ながらに押し鎭め



[ふで]

改め申すも味氣なきその夜の騒ぎ、手ばしかう逃げ隱れなされたあなた方は巡禮の功徳、此方は一人の病人、男とてはあるに甲斐なき老人ゆゑ、逃げるにも隱るゝにも心に任せず、取り違へたそのお子は



[ト書]

ト云ひ兼ねる思ひ入れ。兩人はお筆の側へ差し寄つて氣の急くこなし。



兩人

その子はどういたしました。



ふで

サア、そのお子は



兩人

その子は



ふで

その夜敢なく



兩人

エヽヽ。



ふで

お成りなされましたわいなア。


[唄]

聞いて恟り。こは何ゆゑにと、餘りの事に泣きもせず、仰天するこそ道理なり。



[ト書]

トお筆は泣き伏す。兩人、顏見合め、呆れし思ひ入れ。



[ふで]

人の身の仇なりと、兼ねては聞けど、その夜の悲しさ、ようも今日まで存へし、言譯ながらの物語り、聞いて恨みを晴らして下さりませ。



[ト書]

ト合ひ方になり、門口を明け、あたりを見廻し、戸を締め、こなしあつて



[ふで]

高うは云はれぬ事ながら、連れの女中と申すはわたしの御主人。騒ぎの紛れ、取り違へしとは思ひも寄らず、若君は猶大切とわたしが抱き、御病人の女中は親が手を引き一度は旅籠屋の


[唄]

憂き目は遁れ出たれども、追ひかける武士の大勢、氣は樊と防いでも、何を云ふも老人の、云ひ甲斐なく討ち死し



[ふで]

若君は奪ひ取られ、氣も狂亂のやうになつて、大事の若君取り返さんと駈け廻る。


[唄]

月なき夜半の葉隱れに、尋ね廻る笹垣の蔭



[ふで]

サア、爰にこそ若君ありと、取り上げ見れば


[唄]

悲しやお首が。



[ふで]

もうなかつたわいなア。よく/\見れば若君ならぬ、證據はこの笈摺、騒ぎの紛れ取り違へしか、さては若君のお命に恙なかりしかと、一度は安堵いたせしが、代りを戻さねば取り返されぬ若君樣。人の大事の子を殺し、何を代りに若君を取り戻さう、悲しい事をしやつたと、それを苦に病み主君の女中も、その座で儚なくなり給ひ


[唄]

悲しみやら苦しみやら私し一人、背たら負うたる身の因果。



[ふで]

この笈摺を知るべにて尋ね參りしは、お果てなされたお子の事は諦めて、此方の若君を戻して下さるやうとのお願ひ。大事にかけてお世話なされたとの物語り、聞くにつけても面目ないやら悲しいやら、味氣なき身の上を、思ひやつてたべ、親子御樣。


[唄]

かつぱと伏して泣きければ、父は聲こそ立てねども、涙をはなに咬み交ぜて、咽喉につまればむせ返り、身も浮くやうに泣きければ、娘は心も亂るゝばかり、空しき笈摺手に取つて



よし

コレ、槌松よ。


[唄]

かう成るは昨夜の夢にまざ/\と



[よし]

前の父樣に抱かれて、天王寺參りしやると見たは、日こそ多けれ、父御の三年祥月なり


[唄]

命日の今日の日に便り聞く、告げでこそありつらん。



[よし]

それとは知らぬ凡夫の淺間しさ。今日は連れて來るか、明日は戻りやるかと、待つてばつかりゐたものを、大きな災難に逢うて笈摺に書いた詮もない。


[唄]

これがなんの二世安樂。



[よし]

順禮も當てにはならぬ。


[唄]

觀音さまも不甲斐ない、恨めしや懷しや。



[よし]

あはれこのことが、夢であつてくれよかし。


[唄]

顏に袖當て抱き締めて、聲をばかりに身悶へし、前後不覺に泣きゐたる。



[ト書]

トおよし、よろしくあつて、權四郎、涙を拭ひ



權四

娘、吠えまい。泣けば槌松が戻るか。よまい言云や再び坊主に逢はれるか。兼ねて愚痴なぞ云ふなと俺が云ふを、なんと聞いて居る。


[唄]

と云ふ詞に縋りつき



ふで

ソレ/\、かう申す私しも女子ぢやが、愚痴では濟まぬ。爺樣の仰しやる通り、いか程お歎きなされたとて、槌松さまのお歸りなさると云ふではなし、さつぱりと諦めて、此方の若君をお戻しなされて下さつたら、有難いとも忝ないとも、喜ぶわたしがその心はどこへ行かう、皆槌松さまの未來のためには、佛千體寺千軒、千部萬部の經陀羅尼、千僧萬僧の供養なされたよりは、それは/\遙かに勝つた御供養になりまする。



權四

エヽ、默れ/\、默れアがれ。がやがやと頤叩くな。コリヤ、恥を知れやい、恥を知れやい。わが子をわが育てるには、少々の怪我させても、不調法があつても、親だけで濟めどもな、人の子には義理もあり、情もある。主君の若君のとお云やるからは、それ知らぬ滿更の、賤しい人でもなさゝうな。この親仁は親代々、梶柄取つてその日暮らしの身なれども、お天道さまが正直、大事にかけて置いたそつちの子、見せうか。イヤ、見せまい。見やつたら目玉がでんぐり返らうぞ。人の子を勞るは、こつちの子を勞つて貰ふ代り、大てい大事にかけたと思ふかい。そんなら又なぜ尋ねて來ぬと、へらず口ぬかさうが、尋ねて行かうにも何も手懸りはなし、そつちには笈摺に所書きがある、今日は連れて來て取り替へるか、明日は連れて來て下さるか、逢うたらなんと禮云はうと明けても暮れても待つてばかり。コレ、この屏風を見居れ、可愛や槌松が下向に買はうと云うたを聞き入れず、無理に買うて三井寺三界持ち歩るいて、嬉しがつた鬼の念佛、外法どのゝ頭へ梯子さへて月代剃る大津畫、藤の花のおやまも買ひ居らず、外法どのゝ繪を買うたは、あのやうに髮の白髮になるまで、長生きし居る瑞相、又鬼のやうに達者で、金持ち世界の人を餓鬼のやうに、這ひかゞまし居らう吉左右ぢや。めでたう戻り見居つたら、さぞ喜ばうと貼つて置いて待つてゐたに、思へば梯子は


[唄]

外法頭の下り坂。



[權四]

鬼の側に這ひつくばふ、餓鬼になつて、お念佛で助かるやうに成り居つたか。思へば思ひ廻す程、身も世もあられぬ、大それた目に遭はせたなア。それになんぢや、思ひ諦めて、若君を戻して下され。エヽ、町人でこそあれ、孫が敵、首にして戻してやるワ。


[唄]

と突つ立ち上がる。なう悲しやと、取り附くお筆を押し退け刎ね退け、納戸の障子さつと明ければ、こはいかに松右衞門、若君を小脇に掻ひ込み、刀つ込み力士立ち。お筆驚き



[ト書]

ト權四郎、行かうとする。お筆、留める。トヾ權四郎上手の障子を明ける。うちに松右衞門、刀を差し、子役を抱き、立ち身、皆々驚く。お筆、松右衞門を見て



ふで

ヤア、こなたは樋口



松右

コリヤ/\、女、樋口とはなんの囈言。アヽ、最前歸りがけ樋の口で、ちらりと見た女中よな。若君は身が手に入れた。氣遣ひなし。ナ、云うてよければ身が名乘る。ナ、イヤサ、樋の口を樋口なぞとは、必らず粗相云ふまいぞ。


[唄]

と目混ぜで知らせば打ち頷く。鎭まる女、聞かぬ親父。



權四

松右衞門、出かした。先刻にからのもやくやで、寐られはせまい。定めて聞いたであらう。そちが爲にも子の敵。その小びつちよ、ずた/\に切り刻んで、女めに渡してやれ。



松右

イヤ、さうは致すまい。



權四

なぜ致すまいぢや。



松右

サア、それは



權四

それはとは水臭い。云いでも知れたおのれが胤を分けぬ、槌松が敵ぢやに依つて致さぬな。もう破れかぶれぢや。俺が云ふやうにせぬからは、親でも子でもない。娘、そこら駈け廻つて、若い奴等を呼んで來い。


[唄]

呼んで來いと氣を急いたり。



松右

ヤレ、待て女房、人を集めるまでもなし。親父樣、どうあつても槌松が敵、この子を存分になさるゝか。



權四

くどい。



松右

ハテ、是非もなし。この上はわが名も語り、仔細を明かした上の事。


[唄]

若君をお筆に抱かせ、上座に直し



[ト書]

ト子役をお筆に渡し、門口を明け、あたりを窺ひ、元の座へ直り、思ひ入れあつて、



[松右]

權四郎、頭が高い。



權四

何ぬかす。



松右

イヤサ、頭が高い。天地に轟き鳴雷の如く、お姿は見奉らずとも、定めて音にも聞きつらん、これこそは旭將軍、木曾義仲公の御公達駒若君、かく申す某は、樋口の次郎兼光なるワ。


[唄]

云ふに親子は荒肝取られ、仰天するこそ道理なり。



[ト書]

ト權四郎、お芳、恟りして、下に居る。


[唄]

樋口お筆に打ち向ひ



[松右]

さて/\女の甲斐々々しく、後日まで御先途を見屆ける神妙さ。山吹御前も思ひ寄らぬ御最期。御身が父の隼人も敢なく討ち死したりとな。力落し思ひやる。それにつけてもかくてある樋口が身の上、さぞ不審。若君のためには大伯父ながら、多田の藏人行家と云ふ無道人、誅伐せよとの御意を受け、河内の國へ出陣の跡、鎌倉勢を引受け粟津の一戰、誤りなきお身をむざ/\と、御生害遂げ給ひし、我が君の御最期の鬱憤、直ちに駈け入り一軍さとは存ぜしかど、思へば重き主君の仇、手段を以て範頼義經を討ち取り、亡君に手向け奉らんと、この家へ入り聟、逆艫を云ひ立て、早梶原に近附き、義經が乘船の船頭は松右衞門と極まる。追つゝけ本意を遂ぐる時節致來。あら嬉しやと思ふうちも、若君の御在所はいづく、いかがならせ給ふと


[唄]

心苦しき折も折



[松右]

最前よりの物語り、障子越しに聞くにつけ、見れば見る程面やつれ給へども、紛ひもなき駒若君。さては思ひ設けず、願はずして、所こそあれ日こそあれ、その夜一緒に泊り合せ、取り違へられても助かり給ふ、若君の御運の強さ、ハヽア。また


[唄]

殺されし槌松は、樋口が假の子と呼ばれ



[松右]

御身代りに立つたるは、二心なき某が忠心天の冥利に叶ひしか、ハアヽこれも誰が庇、親父樣、お前樣のお庇。子ならぬわれを子になされ、親ならぬわれを親とする。槌松が恩もあり、又義理もあり、餘所外の子と取り違へての敵なれば、あなたが御堪忍なされうが、女房がよしにと申さうが、その敵安穩に置くべきか。


[唄]

親父樣の御歎き、われも不愍さ身にせまれども



[松右]

相手に取れぬ主君の若君、弓矢取る身の上には、願うてもなきお身代り、爺、親の名を揚げた槌松、その名を揚げた元はと云へば、私しを子となされし、親父樣の御高恩。


[唄]

千尋の海蘇命路の山、それさへ御恩はなか/\較べ難けれど



[松右]

またそのうへの大恩ある主君の若君、孫の敵とて爺樣に切らされうか。


[唄]

わが手にかけて主殺しの、惡名が取られうか。



[松右]

花は三吉野人は武士、末世に殘る


[唄]

名こそ恥かしけれ。



[松右]

御立腹の數々やお歎きの段々、申し上げ樣はなけれども親となり子となり、夫婦となるその縁に、繋がる定まりと思し召し、若君の御先途を見屆け、まだこのうへに私しが武士道を立てさせて下さらば、生々世々の御厚恩


[唄]

聞き分けてたべ親父樣と、身をへりくだり詞をあがめ、忠義に凝つたる樋口が風情、兼平巴が頭を踏まへ、木曾に仕へし四天王、その隨一の武夫と、世に名を取りしも理はりなり。



[ト書]

トこれにて權四郎はハタと手を打ち



權四

さうぢや、侍ひを子に持てば、俺も侍ひ。わが子の主人は俺のためにも御主人。ハアヽ、サア、聟殿、お手上げられい。もうもう船玉冥利、再び丸額になつて、かしきする法もあれ、恨みも殘らぬ悔みもせぬ。泣きもせぬ。娘、精出して、早う又槌松を生んでくれ。



松右

扨ては御得心參りしか。ハア、有難う存じまする。


[唄]

忝なや嬉しやと、互ひの心ほどけ合ひ、千里の灘の浮かれ船、港見つけし如くにて、悦び合ふこそ道理なり。


[唄]

お筆も嬉しく若君を、樋口の次郎に手渡して



[ト書]

トお筆、松右衞門に子役を渡し下手に來りし手を支へ



ふで

かくて在する上からは、若君には氣遣ひなし。浮き沈みは世の習ひ、わたしが妹はこの津の國に、勤め奉公すると聞く、それが行くへも尋ねたし、又大津で討たれし父の敵、討つて佛へ手向けたし、何やら彼やら事繁き身の上なれば、最早お暇いたしまする。


[唄]

早お暇と立ち上れば



松右

然らば兎も角も勝手次第。



權四

これはしたり聟殿、せめて二三日の足休め。



よし

父さんの仰しやる通り、かう心が溶け合へば、結句今ではお名殘り惜しい。せめて今宵は一宿を



ふで

有難うはござりますれど、只今お聞きの通りの仕儀なれば、わたしが身にはお構ひなく、若君樣のお身の上、よろしうお願ひ申しまする。



權四

なんの、頼むの頼まるゝのと云ふ仲かいの。



よし

本意を遂げたら又重ねて



ふで

左樣ならばお二人樣。



よし

隨分御無事で



ふで

おさらばでござりまする。


[唄]

さらば/\と門送り、見送る袂見返る袖、お筆は別れて出でゝ行く。



[ト書]

トお筆、思ひ入れあつて、向うへ入る。



權四

さて/\、武家に育つた女中は又格別。娘、今からあれ見習へよ。



[ト書]

ト件の笈摺に目を附け



[權四]

こりや爰に七面倒な笈摺がある。どうぞへ捨てゝ仕舞へ。



松右

親父樣、そりやあんまりな思ひ切りやう。せめて佛前へ直し香華取り、逆さまながら、御回向なされておやりなされませ。



權四

侍ひの親になつて、未練なと、人が笑ひはせまいかの



松右

なんの誰れが笑ひませうぞいの。わしは奧へ行つて最前の三人の、來るのを待つて居りませうわえ。


[唄]

納戸へこそは入りにける。



權四

アヽ、嬉しや/\。ありやうは俺や先刻にから、さうしたかつたわえ/\。コリヤ、娘、納戸の佛壇へ灯をともせ。



よし

アイ/\。


[唄]

手に取り上ぐる笈摺の



權四

千年も生かさうと思うたに、たつた三つで、南無阿彌陀佛/\。槌松精靈頓生菩提。



兩人

南無阿彌陀佛/\。


[唄]

見れば見かはす顏と顏、共に涙に暮れの鐘、打ち連れ一間へ入りにける。



[ト書]

トお芳、權四郎、笈摺を持ち、愁ひのこなしにて、奧へ入る。ゴン。


[唄]

はや約束の黄昏時、又六さきに連れ立つて、富藏九郎作三人連れ、門口から容赦なく



[ト書]

トこのうち浪の音になり、又六、富藏、九郎作、船頭の拵へ、櫂を持ち、出て來り



三人

松右衞門どの/\、内にか外にかお宿にか、約束違へず



富藏

富藏



九郎

九郎作



又六

又六



三人

逆艪の稽古に參つた/\。


[唄]

と呼ばはれば



[ト書]

ト奧にて



松右

オヽ、それ待つてゐた。


[唄]

身輕に拵へ飛んで出で



[ト書]

ト奧より松右衞門、厚司形にて出て



[松右]

皆の衆、御大儀々々。まだ早いに依つて、マア、こちへ入つて、莨でも參らぬか。



三人

イヤ/\、大事の急用、一精出して、後での莨。マア、しゆつぽりと、やりませう/\。



松右

そんなら船場へ。



三人

サア、行かうかい。


[唄]

皆川岸へ



[ト書]

ト浪の音になり、松右衞門先に、三人、奧へ入る。跡知らせにつき、この道具ぶん廻す。

本舞臺、三間の間、後淺黄幕、前側浪手摺り、二段に飾り、舞臺前雨落ち、小高き浪手摺りを出し、浪の音にて、道具留まる。


[ト書]

ト浪の音打ち上げ


[唄]

繋げる手舟の渡海造り、とも綱切り捨て飛び乘り/\



[ト書]

ト浪の音になり、上手より松右衞門、眞中に三人、船を漕ぎながら、よき所まで船を押し出す



三人

松右どの/\、船で妻子を養ひながら、ついに逆艪と云ふ事は



松右

オヽ、知らぬ筈/\。何事も俺次第ぢや。教へてやらう。船と陸とは又格別。コレ、ともの艪を、さう立てて、これを逆艪と云ふわいやい。



三人

ハテナウ。


[唄]

惣じて陸の働きは、敵も味方も馬の上、働きかけんと思へば駈け、引かんと思へば引く事も、自由げに見ゆれども



松右

知つての通り潮につれ


[唄]

風に誘はれ、艪拍子立てゝ押す時は、おも楫。



三人

オヽイ。


[唄]

とり楫の風波を考へて、船に過ちある時は、八萬奈落も憂き目を見、いとし可愛の



松右

妻子にも、再び逢はれぬぢやないかいの。



三人

いかにも/\その通り。



松右

サア、憂き目を見まいためのこの逆艪。サア、ともの艪を押立て/\。


[唄]

おつと心得ヤツシツシ/\、三段ばかり漕ぎ出だす。



[ト書]

ト三人、艪櫂を取つて、船を漕ぐ事あつて


[唄]

すきを窺ひ富藏九郎作、櫂おつ取り、松右衞門が諸肘打ち倒さんと、左右よりはつしと打つ。心得たりと跳り越え、空を打たせて三人を、川の深みへ投げ込んだり



[ト書]

トよろしく立廻りあつて、トヾ三人を、川の中へ打ち込み、きつと見得。知らせにて、淺黄幕をふりかむせる。直ぐに浪の音、ばた/\にて、向ふより、船頭大勢いづれも柿の筒ツう、銘々櫂を持ち出て來り



船一

なんと聞いたか。權四郎の聟の松右衞門と云ふ奴は誠は木曾の郎等樋口の次郎兼光と云ふこと。



船二

鎌倉方には疾く御存じにて、梶原さまより仰せを受けたる我れ/\。



船三

今宵逆艪の稽古に事寄せ、又六、富藏、九郎作が、船の中にて押つ取り卷き



船四

一手になつて討ち取る手段。搦め捕るか討ち取るか、手柄次第で褒美はずつしり。



船五

必らずともに拔かるまいぞ。



皆々

合點だ。



[ト書]

トこの時上手より、以前の三人、出て來り



又六

コレ/\、皆の衆、爰にゐたか。梶原樣のお指圖で、松右衞門めを船中で、この三人が討つて取らうと思ひの外



富藏

却てきやつめにぼひまくられ、揚げ句の果てが三人とも川の中へぶち込まれ



九郎

死ぬ苦しみで水底を、やう/\くゞつて三人が、命から%\逃げて來た。



皆々

ヤア、そいつは大變。さうして松右衞門めは



又六

船を漕ぎつけ、慥かに陸へ上る樣子。



富藏

それゆゑわいらと一つになり



九郎

取り逃がさぬ樣手分けをして



又六

手柄は仕勝ち



三人

ぬかるまいぞ。



皆々

合點だ。



[ト書]

ト皆々、上手へ入る。知らせにつき、淺黄幕切つて落す。

本舞臺、三間、眞中、莫大なる誂への松の大樹、後ろ海の遠見、この前砂地の浪手摺り、日覆ひより吊り枝、芦原、上下浪の音にて、道具納まる。


[ト書]

ト直ぐに早笛、ばた/\になり、三階立廻り連中、皆皆見事に返つて出ると續いて松右衞門、大童になり、大碇を持ち、大勢を相手に一寸立廻り、きつと見得。



松右

コリヤ、わいらは、なんとするのだ。



又六

ヤア、なんとするとは知れた事、我れこそ木曾義仲の郎等、樋口の次郎兼光と云ふ事



富藏

梶原さまがよく御存じ。それゆゑ逆艪の稽古に事よせ



九郎

搦め來れと我れ/\への仰せつけられ。サア、尋常に



皆々

腕廻せ。


[唄]

腕を廻せと罵つたり。樋口、から/\と打ち笑ひ



松右

ヤア、小賢しいうぢ蟲めら、いかにもうぬ等が推量の通り、名乘つて聞かせる。耳をさらつてよつく聞け。


[唄]

旭將軍木曾義仲の身内に於いて、四天王の隨一と呼ばれたる



[松右]

樋口の次郎兼光なるワ。



皆々

扨てこそな。



松右

うぬら如きが搦めんとは、眞物ついたる一番碇、蟻の引くに異ならず、ならば手柄に搦めて見ろエヽ。


[唄]

大手を擴げて待ちかけたり。



[ト書]

トどん/\になり、一寸立廻つて、きつと見得。誂への鳴り物になり、色々仕ぬきの立廻りあつて、トヾ皆皆逃げて入る。松右衞門、花道よき所にて、きつと見得。この時遠寄せを打ち込む、これと一時に船頭兩人、捕つたとかゝるを、一寸立廻り、きつと見得。


[唄]

これ屈強の物見の松。



[ト書]

ト大小入りの合ひ方になり、松右衞門、兩人を投げ退け、舞臺へ戻り、松へ昇り


[唄]

四方を屹と見渡せば



松右

北は海老江長柄の地。


[唄]

東は川崎天滿村。



[松右]

南は津村三津の濱。


[唄]

西は源氏の陣所々々、皆人ならぬ所もなく



[松右]

扨てはわれを取り卷くと覺えたり。ナニ、小賢しい。


[唄]

と飛んで下り



[ト書]

ト松右衞門、飛んで、下り、こなしあつて



[松右]

女房々々。



[ト書]

ト浪の音になり、上手よりお芳、刀を持ち、出て來り刀を松右衞門に渡す。



よし

モシ、こちの人、父さんは納戸の壁をこぼつて、どつちへやら行かしやんしたわいなア。



松右

ナニ、壁を破つて、扨ては訴人にうせたな。槌松が仇を忘れかね、それで失せたか、チエ、樋口ほどの武夫が船玉の誓言に氣を奪はれ、心を許し飼ひ犬に手を咬まれたか。エヽ、殘念やなア。


[唄]

拳を握り齒を鳴らし、しほれぬ眼に泣く涙、磨き立てたる鏡の面、水をそゝぐが如くなり。



よし

お腹立ちは斷りながら、父樣に限つて、よもやそのやうな事はござんすまい。


[唄]

云ひ宥むる折こそあれ、武威輝く高張り提灯、畠山庄司重忠、權四郎に案内させて見えければ、娘はそれと見るよりも、



[ト書]

トこのうち向ふより、軍兵二人、高張りを持ち、續いて軍兵二人、この後より重忠、鎧、陣羽織の拵へ、軍兵大勢、誂への繩を持ち、ずつと後より權四郎、腰をかがめ、子役を脊負ひ、出て來り、お芳、權四郎を見て



[よし]

コレ、父さん、恨めしい。


[唄]

と云はせもあへず



權四

訴人の恨みか、云ふな/\。俺が訴人せいでも、松右衞門を樋口の次郎と云ふ事は、梶原さまがよく御存じ。それゆゑ富藏や九郎作に、搦め捕らさうとなされたぢやないか。そればかりぢやない。四方八方を取り圍んで、樋口が命は籠の鳥、なんぼ助けうと思うても助からぬ。俺が秩父さまへ訴人したは、槌松めが事。



よし

サア、その槌松が事を云うて、松右衞門どのが腹立てゝござんすわいな。



權四

なんの腹立てる事がある。親子と云ふ名につながれて、孫めが親と一緒にあつち者になり居らうかと、それが悲しさに、あれは樋口が子ではござりませぬ。死んだ前の入り聟のな、松右衞門が子でな、合點が行たか。ほんの親子でないからは、訴人いたした代り、孫めが命お助けなされと願うたれば、段々聞こし召し分けられ、天下晴れて孫めが命は、オヽ、慮外乍らこの爺が助けた。それになんぢや、樋口が腹立つた。ヤイ、おのれが子でもない、主君でもない、大事の/\俺が孫を、一緒に殺して侍ひが立つか。コレ、われがその大きな眼には、爺が心は見えまいが、恨めしいとぬかす、われが結句恨めしいわえ。


[唄]

氣をせき上げて曇り聲。オヽ、よう訴人なされた、有難しとも過分とも、云はぬ詞は云ふ百倍、嬉し涙に暮れけるが、ずつと立つて重忠の、側近くさし寄つて



[ト書]

ト松右衞門、重忠の側へ行き



松右

天晴れ御邊が梶原ならば、太刀の目釘の續かん程切り死をせんなれども、粟津の軍、妹巴が身の上まで、志しありと聞く。情に刃向ふ刃はなし、腹十文字に掻き切つて、首を御邊に參らせん。


[唄]

云はせも果てず



重忠

ヤア、樋口、死首取つて手柄にする重忠ならず。とても叶はぬと覺悟あらば、尋常に繩かゝられよ。



松右

ハヽヽヽヽ、運盡きて腹切るは勇士の習ひ。繩かゝれとはこの樋口に、生恥かゝせん結構よな。仁義ある重忠の詞とも覺えず。



重忠

いやとよ、樋口、木曾どのゝ御うちに四天王の隨一と呼ばれ、亡君の仇を報はんため、權四郎が聟となつて弓矢に勝れる艪櫂を取つて、大將の船をくつがへし、鏖しにせん謀、恐ろしくも頼母し。晋の豫讓は主の智伯が仇を報ぜんと、御邊が如く姿をやつし、敵裏子を覗ふ。その志しを深く感じ、着たる衣服を脱いで豫讓に與へ、その衣を切らせて彼れが忠義を立てさせしは、敵乍らも裏子が情。木曾どの反逆ならざるは、書置に現はれ、御最期は今更悔むに甲斐なし、主人に科なき樋口の次郎、全く恥を與ふるにあらず、忠臣武勇を惜み給ふ、大將義經の心を察し、重忠が繩かくる。


[唄]

つゝと寄つて樋口が腕、捩ぢ上ぐればにつこと笑ひ



松右

關八州に隱れなき、勇力の重忠どの、力量には劣らぬ樋口、取られし腕もぎ放すは安けれど、智仁兼備の力には及ばぬ及ばぬ。兎も角も計らはれよ。


[唄]

右手の腕を押し廻せば



重忠

ヤア、愚か/\。忠義厚き樋口どのゝ力に、重忠如きが及ばんや。大手の大將範頼公、搦め手の大將源義經公、兩大將の御仁政、文武二つの力を以ていましむるこの繩。樋口、捕つた。


[唄]

かくるもかゝるも勇者と勇者、仁義に搦むる高手小手。



[ト書]

ト松右衞門に繩をかける。



[重忠]

コリヤ女、樋口どのゝ血こそ分けねど、槌松とやらんにとつくりと、暇乞ひを


[唄]

とありければ、お芳は泣く子を抱き上げ



よし

これなう暫し、假初にも親子となりしこの世の別れ、よう顏見せて下さりませ。


[唄]

差し寄すれば



松右

ハア、槌松の暇乞ひとは、四相を悟る重忠どのゝ御情。コリヤ、槌松よ、父と云はずに暇乞ひ



子役

樋口、さらば。


[唄]

誰が教へねど呼ぶ子鳥、われは名殘りも鴛鴦の、番ひ離るゝ憂き思ひ。



よし

コレ、申しこちの人、なんぼ武士の習ひぢやとて、連添ふわたしに一言の、暇乞ひさへなされぬは、そりやあんまりぢや、胴慾ぢや、わたしやなんぼうでもやらぬやらぬ。


[唄]

やらぬ/\と縋り附く。



權四

娘、吠えるな。なんぼやらん/\と、商賣の船唄で留めても留まらぬ、アヽ、悲しや。たとへ死んでも地獄へはやらん、極樂へやる、弘誓の船唄、思ひ切つてやつてのけよ。汐の滿干にこの子が出來たとな、孫の身の上案じるな、爺が預かりのんゑい/\、われが代りに大事に育てゝゑいよほんをんほゝんほ


[唄]

ほんになんたる因果ぞと、正體もなくどうと伏し、涙にむせぶ腰折れ松。



重忠

餘所の千歳は知らねども



松右

わが身に辛き有爲無常。



權四

老は止り



よし

若きは行く。



重忠

世は逆さまの



皆々

逆艪の松。


[唄]

朽ちぬその名を福島に、枝葉を今に殘しける。



[ト書]

ト皆々、よろしく居並び

段切りにて
ひやうし幕


ひらがな盛衰記(終り)