Title: Ise ondo koi no netaba
Author: Chikamatsu, Tokuso
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About the original source:
Title: Kanseiki keihan sewa kyogenshu
Title: Nihon gikyoku zenshu, vol. 9
Author: Tokuso Chikamatsu
Publisher: Tokyo: Shun'yodo, 1928



去りし噂の

青江下坂

十人切子の

大一座は




伊勢音頭戀寢刃

四幕




伊勢音頭戀寢刃
序幕 相の山の場
妙見町宿屋の場
二見ケ浦の場
  1. 役名==福岡貢。


  2. 藤浪左膳。


  3. 今田萬次郎。


  4. 奴、林平。


  5. 徳島岩次、實ハ藍玉屋北六。


  6. 熊本角太郎。


  7. 横山大藏。


  8. 桑原丈四郎。


  9. 黒上主鈴。


  10. 御師娘、榊。


  11. 油屋抱へお岸。


  12. 同、小てる。


  13. 禿。


  14. 三よし。


  15. 仲居千野。


  16. 同、蔦野。


造り物、一面の杉林、眞中に杉の葉にて屋根を造り小屋あり、お杉お玉、三味線を彈いてゐる。參宮の仕出し大勞あり、この中に比丘尼、びんざさら杓ふつて仕出しに附く事あり、すべて勢州相の山の體。大坂はなれての木遣りにて幕明ける。


比丘

島サア紺サア中乘りサア、あちらの姐サア、こちらの坊サア、爰ばかりぢやヤテカアンセ/\。



[ト書]

トこの間に仕出し、お杉お玉に錢を投げる事あつて、東西に別れて入る。花道よりお岸、蔦野、千野、小照、禿の三よし、衣裳の上に練の浴衣を着て、參宮の形にて出る。



千野

コレ、お岸さん、もそつと靜かに歩かしやんせいなア。



蔦野

なんぼ其やうに急がしやんしても、萬さまはちつとやそつとで。



きし

また蔦野が惡口かいの。この伊勢詣りの趣向も、この伊勢に勤めはしてゐれど、ツイに道中を歩いた事がないによつて、京大坂の參宮さんすお方が羨やましかつたが、歩いて見ると、なほ面白いによつて、つい足が早うなつたのぢやわいなア。



千野

そりや、道理いなア。萬さんの思ひ付きで、參宮をさせ、二見や淺間の遊山とは、なんと面白いぢやないかいの。



小照

お前方は面白いか知らぬが、わたしや、しんどうてならぬわいなア。



三よ

それ/\、お岸さん、ちと休んで行かしやんせぬかいなア。



きし

オヽ、さうであらう/\、内宮さまの八十末社廻りでも、わしも餘ツぽど草臥れた。萬さまを爰で待ち合さうではないか。



すぎ

コレ、女中さん、そこ退いて下さんせ。錢儲けの邪魔になるわいの。



きし

ほんに、これは此方が誤まつた。蔦野、お錢あげさんせいなう。



蔦野

ツイ遣らうより、この錢投げて樂しまうぢやないかいの。



千野

こりやよからうわいの。サア、子供衆も、投げさんせ/\。



[ト書]

ト錢を皆々へ渡す。また木遣りになり、お杉お玉は三味線を彈きゐる。女達、錢を投げてやる。花道より萬次郎、大藏、丈四郎、衣裳の上に、練の浴衣を引ツ張り、駕籠を舁き出る。



萬次

エツサツサ/\。



丈四

さゝ豆こ枝豆こ。



萬次

枝豆こ。



大藏

サツサツサ。オツと肩ぢや。



[ト書]

ト息杖をする。後より林平、奴の形にて、柳樽に提げ重と、大小三ながれを三尺手拭にて括り、割りがけにて持つて出る。



林平

オヽイ/\。これはしたり若旦那、お遊びなさるゝとて、大概の事をなされませ、大藏さまも丈四郎さまも外聞の惡い。もうよしになされませ。



萬次

なんの、われが知つた事ぢやない。構はずとやれやれ。



丈大

合點ぢや。エツサツサ/\。



[ト書]

ト本舞臺へ來る。林平も氣の毒の顏にて附いて來る。



蔦野

エヽ、萬さまかいな。何をして居なさんすぞいなア。その形は何ぢやぞいなア。



萬次

何ぢやどころか、參宮人に施行駕籠ぢや。サア、皆も爰で休め/\。



丈大

オツトセイ、ヨンヤサ。



[ト書]

ト駕籠を降ろし、皆々床几へかゝる。



きし

申し萬さま。お前もマア、駕舁きの眞似をせねば、遊ばれぬかいなア。もし怪我でもあつたら、どうせうと思はしやんす。もうよしにして下さんせいなア。



林平

さうでござります。おらが云うてもお聞入れがないキツと云うて下さりませ。



萬次

サア、おれもどんな事ぢや知らぬけれど、大藏や丈四郎が云ふには、わが身を參宮人の眞似さして、海道を歩かすとよう練れるげな。それがきつい樂しみぢや程にわしも練れるやうに駕籠舁けと云うたゆゑ、それでしんどいけれど駕籠舁くのぢやわいなう。



きし

エヽ、お前方も大概な。惡洒落を教へたがよいわいなア。



丈四

オツト腹を立て給ふな。この施行駕籠に數多の女を乘せて、お岸女郎に比ぶれども、いつかな叶はぬ/\。



大藏

これと云ふも、其方の器量を、若旦那へ自慢せう爲ぢやわい。



萬次

それはさうと、今の娘の風俗と云ひ、ほつそりとした好い器量ぢやないかいなう。



丈大

左樣でござりまする。



萬次

あゝいふ奴を釣らねば役に立たぬ。



きし

その娘御が、お前氣に入つたかえ。



萬次

ムウ、氣に入つた。



きし

オヽ憎。



[ト書]

ト萬次郎を抓る。



萬次

アイタヽヽヽヽ。



きし

誰れに逢ひたいえ。



萬次

今の娘に。



きし

まだそんな憎らしい事、云はしやんすかいなア、



[ト書]

ト萬次郎が胸倉を取る。大藏丈四郎、中へ割つて入り



丈四

こりや門中で、痴話喧嘩かいな。



大藏

こりや仲直りに、大道で雲助酒はどうであらうな。



萬次

よからう/\。酒を持て/\。



林平

ネイ/\。



[ト書]

ト件の樽と提げ重を持ち出す。仲居皆々手傳ひて、駕籠の毛氈を敷き、その上に酒の肴を並べ、皆々はよろしく住ふ事。



たま

こりや、あんまりぢやがな/\。最前から店先を塞いで、どうするのぢやぞいなア。



丈四

えいワ/\、其方達には旦那より、金子を遣はさるる。暫らくの間爰を貸せサ。ソリヤ、金子を遣はす。



[ト書]

ト林平の持ちし萬次郎の紙入れより、二兩金を取出しお杉お玉にやる。



たま

ヤア、こりや小判ぢ。ホヽヽヽ、結構な旦那ぢやわいなア。



すぎ

アノお若いのが旦那樣かえ、てもよい御器量。



たま

あれなら、娘があつたら、ナウお杉。



すぎ

それ/\、ずる/\べつたり/\。



兩人

ずる/\べつたり/\。



[ト書]

ト矢張り右合ひ方にて、お杉、お玉、金を頂いて下手へ入る。



丈四

さて/\姦ましい奴らぢや。併し、今のを若旦那、お聞きなされたか。女の方からずるずるべつたりとは、秀句をやり居つたぢやござりませぬか。



大藏

これを肴に、雲助酒ぢや。



[ト書]

トこの時駕籠の内にて




申し、どうぞ駕籠やつて下さりませぬかいなア。



[ト書]

ト振り袖、御師の娘の拵らへにて、駕籠の垂を上げる。



萬次

ほんに、とんと忘れてゐた。酒の相手にする。爰へ呼べ/\。



丈四

心得たりと云ふまゝに、駕籠より手を取り誘ひける。ハヽア、ヨイホウ。



[ト書]

ト丈四郎駕籠より榊が手を取り、萬次郎が側へ突きやる。




わたしや耻かしい。堪忍して下さんせ。



[ト書]

ト逃げようとするを、萬次郎捕へて



萬次

オツト逃がしてよいものか。



きし

萬さま、そんなら今云はしやんした娘御は、此お方かえ。




わたしが否と云ふ者を、無理に乘せてから。もう去なして下さんせ。



きし

コレ、性惡の惡性男わたしが見る前で、見事その杯を、あの娘御にさして見やしやんすか。



萬次

オヽ、さす/\。斯う呑みかゝつたからは、さしてさして、さしぬくのぢや。サア娘、一つ呑んでくれ。男が立たぬ/\。




わたしや否でござんすわいなア。



きし

イヤ、さゝす事はならぬ/\。



萬次

イヽヤ、さすのぢや。




わたしや否ぢやわいなア。



きし

ならぬわいなア/\。



萬次

イヤ、呑まさにや置かぬ。




堪忍して下さんせいなア。



[ト書]

ト榊、逃ぐるを萬次郎追はへる。お岸、萬次郎を追ふこれについて皆々廻り、この一件ゴチヤ/\になる。林平、氣の毒なるこなし、橋がゝりより左膳、羽織袴、吹きそらしの陣笠大小にて、仲間二人を連れ出る。榊は左膳の蔭へ隱れる。



萬次

なんでも、この杯を呑まさにやア置かぬのぢや。



[ト書]

ト杯を持ち、左膳を見て恟り。



[萬次]

ヤア、あなたは。南無三。



[ト書]

ト逃げようとする。



左膳

コリヤ/\萬次郎、待て/\。見れば往來にて女を捕へ、刀を帶せず、この有樣は何事ぢや。



[ト書]

ト上手へ通る。大藏丈四郎、慌しく酒肴を片寄せ、林平は女どもを圍ひ、件の大小を三人に渡す。



萬次

これは思ひも依りませぬ所で、お目にかゝりましてござりまする。あなた樣には輕々しく、いづれへお出でござりまするな。



左膳

當時鎌倉の執權職は、古今に秀し博學多才、昔の北條時頼にも劣らぬ賢人ゆゑ、自身に諸國を巡檢あるとの知らせ、それゆゑ我が支配内の地頭代官の者ども、邪曲の計らひあつては、國の名折れゆゑ、身共が密かの見廻り。其方は誰れあらうぞ、阿波の家老、今田九郎右衞門が忰の身を以て、その身持は何事ぢや。して、青井下坂の刀、手に入つたか、どうぢや/\。



萬次

サア、その刀の儀は。



大藏

アイヤ、恐れながら、その刀の儀は、所々方々と尋ねましたなれども、相知れませぬところ、大神宮樣へ祈誓をかけし徳により、やう/\この頃手に入りました、其お禮詣り、それでこの出立ちでござりまする。



左膳

ハテ、それは仰々しい參宮ぢやな。其方が主人阿州どのより、武將家へ差上ぐる下坂の刀、大切なる役目、油斷なきやうに致したがよい。ムウ、見れば、それに居るは孫太夫が娘の榊でないか。何ゆゑにこの所へ。




ハイ、貢さまが、松坂へお出でなされて、お歸りが遲いゆゑ。



左膳

ハア、迎ひに來たか。ハヽヽ、案じるやうではあるわい。貢は身が用事あつて遣はした。追ツつけ戻るであらう。山田の宿屋で相待ち居れ。萬次郎、其方にはとくと申し聞かす仔細がある。山田の宿屋まで罷り來やれ。



萬次

御用もござりませうならば、追ツつけ後より參りませう。先づお先へお出で下さりませう。



左膳

然らばさうせう。榊參れ。家來、供せい。



[ト書]

ト唄になり、上手へ榊を連れ、左膳入る。



萬次

ヤレ/\、恐ろしや/\。きつい所で小舅どのに出會うた事ぢや。



きし

萬さん、今のお方は、お前の何ぢやえ。



萬次

ありや神領一萬石を支配する、藤浪左膳さまといふ御仁ぢやわいなう。



林平

それ御覽なされ。手前がおやめなされといふ時に、おやめなさると、藤浪さまに見付かる事もござりませぬ。今のやうに御意なされたれば、早うお出でなされずばなりますまい。



萬次

ほんにさうぢや。大藏丈四郎、われら達は、女子どもを連れて先へ行きや。わしは後から行く程に、早う行け/\。



丈四

成る程、藤浪さまは氣味が惡い。然らば古市へ先へ參りませう。



きし

そんなら萬さま、早う來て下さんせえ。



蔦野

待つて居りますぞえ。



萬次

合點ぢや/\。早う去ね/\。



大藏

サア、皆來やれ/\。



[ト書]

トわや/\云うて、お岸、蔦野、千野、小照、三よし、大藏、丈四郎、下手へ入る。



林平

イヤ申し若旦那、して下坂の刀は、どう遊ばしましたのぢやなア。



萬次

サア、その刀は買ひ取つたけれど、茶屋の入用金に詰つたゆゑ、山田の町人、胴脈の金兵衞とやらいふ者に質物に入れたが、その者は出奔して行くへが知れぬゆゑそんれで此やうに去なずにゐるのぢやわいなう。



林平

滅相もない。左膳さまが刀の事お尋ねなされたら、何とせうと思し召すな。



萬次

サア、わしもそれが氣にかゝる。併し折紙はわしが持つてゐる。どうぞ刀を取り戻す思案してたもいなう。



林平

こりや、とくと思案せねばなりませぬわい。



[ト書]

ト矢張り木遣り唄になり、上手より黒上主鈴、撫付け繼上下、大小、御師の形にて、下坂の刀を持ち出で、萬次郎、林平の前を通り、花道へ行きかける。橋がゝりより岩次、着流し大小の拵らへにて出て來り、兩人とも下手にて



主鈴

アイヤ/\、卒爾ながら其許は、山田の佐野屋善兵衞方に、止宿なさるゝ御浪人ではござりませぬか。



岩次

如何にも左樣でござる。ムウ、して其許は、どなたでござるな。



主鈴

拙者事は、御長官の支配下、黒上主鈴と申す、御師でござるが、貴殿にはこの度名作の刀をお求めなさるゝとあつて、手前所持の下坂の刀を、半金五十枚に所望いたさせくれよと、作野屋善兵衞より段々の頼みゆゑ、只今持參仕る所でござる。



岩次

それは幸ひ。して、青井下坂の刀は、所持いたしてござるか。



主鈴

如何にもこれに所持して居りまする。



[ト書]

ト、此せりふを萬次郎林平聞いて、あの刀を取返してくれといふこなしよろしく



岩次

然らば宿許へ同道いたし、金子と引替へに致さう。



主鈴

左樣仕りませう。サア、お出でなされい。



岩次

御免下され。お先へ參る。



[ト書]

ト主鈴岩次連れ立ち、臆病口へ行かうとする。



林平

アイヤ/\、御兩所ども、ちとお待ち下さりませう。



岩次

手前の事でござるかな。



林平

如何にも左樣でござります。



岩次

お留めなされしは、何ぞ御用でもござるかな。



林平

イヤ、別儀でもござりませぬが、青井下坂の刀をお求めなさるとの儀。その刀は元、手前主人が、遠國より參りて求めました一振り、ちと仔細あつて人手に渡りしが、今その刀を外へやつては、主人の一命にもかゝはりまする。何卒その刀、此方へ所望させては下さるまいか。



岩次

そりやお心安い事。拙者はこの刀に限らず、名作でさへあればよい。御入用なれば隨分御勝手になされい。



林平

ナニ、お聞入れ下さりまするか。先づは大慶。して又、あなたは御得心かな。



主鈴

イヤモウ、いづれへ遣はてしも、構ひはござらぬ。



林平

然らばその刀、ちよつと拜見仰せつけては下されぬか。



主鈴

何より心安い事。サゝ、御覽なされい。



[ト書]

ト主鈴、刀を林平に渡す。林平取つて萬次郎に見せる。



林平

お旦那、これ御覽なされませ。



[ト書]

ト萬次郎受取り、改め見て



萬次

こりや下坂の刀ではないわいなう。



林平

すりや、これではござりませぬか。



主鈴

アコレ/\、麁相仰せられな。下坂の刀に相違ない證據、折紙が此方にござる。これ見さつしやれ。



[ト書]

ト折紙を出して林平に見せる。林平見て



林平

ハヽヽ、それで化の皮が現はれた。その折紙は此方に所持して居るわい。



主鈴

ハヽヽ、下坂の折紙が、二枚あらうやうはござらぬわい。



萬次

イヤ/\、その折紙は、身共が爰に持つてゐるが、なんとこれでもあらうがふか。



[ト書]

ト折紙を出して見せる。



岩次

ドレ、見せ下され。



[ト書]

ト双方の折紙を取つて比べて



[岩次]

ムウ、ハテよく似せ居つたな。



林平

して、この下坂は、いつ頃より所持めされたな。



主鈴

三年以前より、手前所持したして居りまする。



林平

ムウ、それでガラリと脈が上がつた。當春當所支配人より詮議して、手に入つたる、刀、人手に渡したは後の月、年月が相違いたしたわい。



主鈴

すりや、當所の支配人は知つてござるか。



林平

知れた事だ。



主鈴

南無三、しまうた。



[ト書]

ト逃げようとする主鈴を、岩次引ツ捕へ



岩次

うぬ、憎い奴。おのれ、騙りに相違ない。すんでの事に五十枚騙らうとひろいだ、大盗人め、うぬがやうな奴は、カウ/\/\。



[ト書]

ト岩次この間に折紙を摺り替へ、萬次郎の出せし本統の折紙を懷中する。刀にて主鈴を背打ちに打ち据ゑる事よろしく



主鈴

アイタヽヽヽ、ハイ/\、お赦しなされて下さりませ/\。ハイ/\、フトした出來心でござります。あなたが佐野屋にござつて、刀をお求めなさるゝと聞いたゆゑの思ひ付き。これといふのも一人の母者人が大病、人參代に詰つたからの騙り事。どうぞ御料簡なされて下さりませ。



岩次

まだ/\野太い奴の、うぬ、眞ツ二つに。



[ト書]

ト切らうとするを、萬次郎、割つて入り



萬次

マア/\、お待ちなされませ。憎い奴とは申しながら、親孝行とあれば、命は助けておやりなされませ。



主鈴

ハイ/\、命ばかりは、お助けなされて下さりませ。



岩次

うぬ、助け憎い奴なれども、お侍ひの御挨拶に免じ赦してくれる。さて、貴公のお庇で、すんでの事に騙らるゝ所を遁がれまして。サア、この折紙は二枚ともに、貴殿へお渡し申す。サヽ、しつかりとお受取り下されい。



[ト書]

ト折紙を林平に渡す。この時臆病口より家來一人出で來り



家來

ハツ、萬次郎さま、これにござりまするか。主人左膳お待ち兼ねゆゑ、お迎ひに參りましてござりまする。



萬次

成る程、それへ參らう。イヤナニ御浪人、あの者の事は幾重にもお赦されて下されい。



林平

ハテ、彼奴の事はお構ひなされず、早うお出でなされませ。



萬次

左樣ならば御浪人、重ねてお目にかゝりませう。林平、來やれ。



[ト書]

ト唄になり、萬次郎林平、家來を連れ臆病口へ入る。



北六

サア、うぬにはまだ詮議がある。



主鈴

アヽ、お免されませ/\。



[ト書]

ト主鈴を連れ行かうとする。大藏丈四郎橋がゝりより出で、四人顏を見合せ



大丈

岩次どの。首尾はどうぢや。



岩次

コリヤ。



[ト書]

トあたりへこなし。



大丈

して、貴殿は如何でござるな。



岩次

まんまと折紙は摺り替へて、この通りぢや。



[ト書]

ト懷中より出して見せる。



大丈

うまい/\。



岩次

これといふのも、按摩の氣吟、大儀々々。



主鈴

もうよろしうござりまするか。



[ト書]

ト衣裳上下を脱ぐ。下に木綿の袷、大小上下を衣裳と一緒に引ツ括り、肩に引ツかける。



岩次

ソレ、骨折り代ぢや。大儀であつた。この場を早く早く早く。



[ト書]

ト岩次、紙入れより金を一分出してやる。主鈴取つて



主鈴

こりやお金、エヽ、有り難い。こんな用なら何時なりと。



岩次

物數云はずと、早う行け/\。



[ト書]

ト主鈴、金を戴き、按摩の笛を吹きながら、橋がゝりへ入る。



[岩次]

先づ一方は片付いた。して、いよ/\刀の持ち主の行くへは知れぬか。



大藏

されば、胴脈の金兵衞といふ奴に、預け置いたが、此奴かいくれ行くへが知れませぬ。



岩次

これとても、遠くは行かう筈はない。金さへやれば取戻される。して、阿波からの便りはなかりしか。



丈四

追ひ/\大學さまから、角太郎さまへの書状が參れば、詳しい樣子は知れまする。



岩次

よし/\。まだ話す事もある。何かは宿屋で。コリヤ。



[ト書]

ト兩人へ囁く。



大丈

心得ました。



[ト書]

ト兩人呑み込み、思ひ入れあつて、臆病口へ入る。あと本釣り鐘、暮れ六つゴンと打つ。



岩次

何かの手筈も、金儲けの晝ではない、もう暮れ六ツ。ドリヤ、宿屋へ行つて休まうか。



[ト書]

ト在郷唄になり、岩次、キツとこなし、橋がゝりへ入る。返し。

造り物、三間の間、常足の二重、上手附け屋體。見付け暖簾口、上下鼠壁、軒口に講中の印札掛けあり、すべて山田妙見町宿屋の體。爰に角太郎、ぶツ裂き羽織、野袴、大小、代官の拵らへにて立ちかゝり居る。前の拵らへにて左膳これを留めてゐる見得。下手に百姓大勢ワヤ/\云つて、角太郎に詰めかけ居る。


百姓

濟まぬぞ/\。



角太

慮外な奴、手は見せぬぞ。それへ直れ。眞ツ二つに。



多作

なんぼお代官でも、云ふ事は云はにやアなりませぬわいの。



角太

ヤア、その頬桁を。



[ト書]

トこの時、左膳支へて



左膳

イヤ、角太郎どの、お待ちなされい。見ますれば百姓どもを相手に、立ち騒いて見苦しい。斯樣な事もあらんかと、自身に見廻る藤浪左膳。コリヤ、百姓ども、樣子があらう、身共へ申せ。



多作

さてはあなたが、藤浪さまでござりまするか。さうとは存ぜず無體の段、眞平御免下さりませう。



左膳

その斷りには及ばぬ。サア、早くその譯を云へ、どうぢや。



皆々

サア/\、多作どの、こなた、云はつしやれ/\。



多作

ハイ/\、私しどもは、御神領一萬石の百姓でござりまするが、紀州領と前々から水論がござりまして、この後のお役人の御挨拶で、其まゝに捨て置きましてござりましたが、あの角太郎さまがお捌きで、紀州領へ御贔屓のお捌き。



角太

ヤイ/\、そりや何ほざく。この角太郎が贔屓の沙汰とは、憎い奴の。



左膳

ハテ、云ふ事は云はしたがよい。さうして、どうぢや。



多作

この水論に負けましては、私ども難儀いたしまするゆゑ、お願ひ申し上げましたれば、金子三百兩出せ、あの方へ挨拶してやらうとあるゆゑ、その金を差上げましてござりまする。又もやその上に私しどもの田地に、角太郎さまが棹入れうと仰しやりまするゆゑ、お免されて下さりませと、お詫び申しましたを、慮外者とあつて、庄屋をお咎めでござりまするゆゑのせり合ひ。ハイ/\、どうぞよろしうお願ひ申し上げまする。



左膳

オヽ、聞き屆けた。ナニ、角太郎どの、お身は百姓どもより、金子をば何ゆゑあつて取り召された。



角太

イヤアノ、その儀は斯樣でござりまする。此方の領分は長袖の事、相手は大名、禍ひは下からと、主と主との遺恨になつてはと、双方を檢め、あの方の侍ひ分へ賄賂を以て、事を無難に納めうと存じ、その金を百姓どもより取りましたのでござる。



左膳

して、その賄賂を致して、水論には勝つたか。どうぢや/\。



多作

イヤ、矢張り其まゝでござりまする。



角太

サア、そこでござります。鎌倉の執權職、巡檢に恐れ、賄賂を取る者一人もござらぬゆゑ、その金子を百姓どもへ返さうと思うてゐる所でござる。



左膳

して又、神領へ棹を入れるとは、其許が一存か。



角太

サア、それもさう聞けば、間違ひがござる。手前武將のお目鏡を以て、當所の代官を勤むる身が、國中を知らいではと存じ、棹を入れるではない、大樣を心得の爲當つて見ようと存じての事サ。



左膳

こりやさうありさうな事ぢや。この神領は昔より、藤浪が家の支配、例へ武將の御意でも、いざとあつて關白職へ申し上げなば、いづこへ飛沫が行かうも知れぬ。ムウ、ハヽヽヽ。然らば右の金子を、百姓どもへお返しあるか。



角太

ムウ、如何にもキツと返濟仕るて。



左膳

さうなくてな叶はぬ。コリヤ、百姓ども、いま聞く通り、金子は角太郎どのより返すとある。これより棹入れなぞは決してない。安堵して立歸れ。



畔六

エヽ、有り難うござります。コレ、皆の衆、聞かつしやつたか。藤浪さまのお捌きで、金は返して下さるといなう。



多作

その上棹入れる事はないと仰しやる。世界の理屈といふ石子詰めには敵はぬ事ぢや。



角太

エヽ、無駄を云はずと、キリ/\うせう。



皆々

理屈に詰まつて、腹立てるのか。



皆々

ヨウ、石子に詰められて樣々。



角太

その舌の根を。



皆々

ハイ/\/\。



[ト書]

ト角太郎キツとなるを、左膳留める。百姓皆々ワヤワヤ云うて橋がゝりへ入る。



左膳

ハテサテ、百姓づれに見苦しい。今の一條も詮議いたさば其方の身の上。所存あつて今日は赦す。以後はキツと嗜みめされ。



角太

イヤハヤ、段々あやまり入りましてござる。



[ト書]

ト角太郎、悄氣るこなし。在郷唄になり、向うより貢、着流し大小の拵らへ、宿駕籠に乘り、雲助兩人これを舁き出て來る。



雲助

ハイ、頼みますぞ。ハイ/\。



[ト書]

ト舞臺へ來り下手へ立てる。



[雲助]

オツト下ろせ。ハイ親方、急げと仰しやるゆゑ、早追ひにして、一散につけましてござります。



[ト書]

ト駕籠の垂れを上げる。内より貢出る。




オヽ、早かつた/\。大儀々々。



[ト書]

ト錢三百文出してやる。



[貢]

殘りの所は酒手ぢや。持つて行け。



兩人

エヽ、忝なうごんす。



[ト書]

ト兩人の駕籠屋、橋がゝりへ入る。



左膳

そちや貢ではないか。




オヽ、藤浪さま、これにござりまするか。



左膳

其方の歸りを相待ち居つたわい。




オヽ、貢さん、戻らしやんしたか。あんまりお前の戻りの遲さに、わたしや迎ひに來てゐたわいなア。



[ト書]

ト榊、奧から出て來る。




それはよう迎ひにおぢやつたなう。



左膳

貢、これへ/\。




ハツ。



[ト書]

ト貢、三尺脚絆なぞを取り、よき所へ住ふ。榊これを直したり、茶を汲んで來たり、始終女房のやうな事をしてゐる。



左膳

して、申しつけしお客人に、對面いたしたか。




さればの儀でござります。御意の通り松坂まで參りましたところ、未だお出もなく、それゆゑ津の本陣へ參りしが、早お立ちの所(即ちあなた樣の御紙面を渡し、御返事を受取りまして立歸りました。即ちお客人は直ぐに、東海道へお越しなされましてござりまする。



左膳

オヽ、さうあらう。



[ト書]

トこの間角太郎目を付けて聞いてゐる。




即ちこれが御返書。



[ト書]

ト左膳に文箱を渡し



[貢]

まだ外に御口上は。



左膳

アヽコレ、



[ト書]

ト角太郎に目くばせして教へる。



角太

アイヤ藤浪どの、見れば御内々のお話しもある樣子拙者はお先へ歸り、百姓どもへ金子を返して遣しませう。



[ト書]

ト下へ降りる。



左膳

それようござらう。身は用事もあれば、後より歸らう。



角太

然らばお先へ。



[ト書]

ト唄になり、貢へ心殘して橋がゝりへ入る。



左膳

コリヤ榊、其方は先へ歸れ。



[ト書]

ト榊、貢に見惚れてゐる。



[左膳]

コリヤ/\榊々、コリヤ榊々。



[ト書]

ト大きな聲でいふ。




ハイ、御用でござりますかえ。



左膳

貢は用事があれば、後より歸す。其方は先へ歸れ。



[ト書]

ト件の状を開き讀んでゐる。




ほんに其方は先へ去んでたも。誰れぞちよつと頼みませうぞや。



[ト書]

ト手を鳴らす、奧より男一人出て來る。




何ぞ御用でざざりまするかな。




大儀ながら、この娘を、福岡孫太夫まで送つて下され。




ハイ/\、畏りました。




イエ/\大事ござんせぬ。わたしや待つてゐて、お前と一緒に去ぬわいなア。



左膳

ハテ、歸れと云はゞ、先へ歸れ。



[ト書]

トきつといふ、榊氣味惡さうにして




ハイ、そんなら先へ歸ります。貢さま、どつこへも寄らず、早う戻つて下さんせ。




ハテ、どこへ寄るものかいなう。




サア、お出でなされませ。




オヽ、せはしない人ではあるわいなう。



[ト書]

ト榊、男に連れられて橋がゝりへ入る。



左膳

貢、近う/\。して、口上の趣きは。




ハツ、この度伊勢參宮と云ひ立て、鎌倉へ參り直訴いたす思案、もしこの願ひ叶はずば、再び國へは歸らぬ心底、伜萬次郎、殿の御意を受け、青江下坂の刀をその地へ求めに參り、今に歸らず、もし身持ち惰弱もあらは某に成り替り、萬次郎を勘當なされて、下坂の刀は貴殿御詮議なされよとの、御口上でござりまする。



左膳

ハヽア天晴れ、流石は阿波の家老、今田九郎右衞門程あつて、義臣と云ひ忠臣と云ひ、ハテ、阿波どのには善い家來を持たれたなア。




藤浪さま、今度の願ひ叶はずば、再び國へ歸らぬとは、氣遣はしい。何ゆゑの儀でござりまするな。



左膳

貢、そちや何ゆゑ、それを尋ぬるぞ。




何をお隱し申しませう、手前親は元、今田九郎右衞門さまの御家來の由、過ぎ行かれし母が話し、仔細あつて幼少の時、志州の鳥羽へ引越して人となり、いま福岡孫太夫どのの養子の私し、即ちお家へ御奉公そのあなたのお妹御は、古主九郎右衞門さまの嫁君、かれこれ重なるお主筋、案じまするも、これゆゑでござりまする。



左膳

ハテ、思ひがけなき其方が身の上。始めて聞いて驚ろき入つた。然らば古主と云ひ、いま某が縁ある、九郎右衞門が家の爲ならば、身が頼む一大事、何によらず勤むるか。




これはお詞とも覺えませぬ。御主人の御意と申し、殊に古主の爲とあるからは、一命に關はる事たりとも。



左膳

しかと左樣か。




御意に及ばず。



左膳

ムウ、その魂ひを見るからは、申し付くるその仔細は、これを見よ。



[ト書]

ト貢が持つて來た状を出し見せる。貢、開き見て恟りのこなし。左膳始終あたりへ氣を付ける。




ムウ、すりや、阿波の伯父大學さまの野心に依つて。



左膳

サア、その如く國を押領せんとの企み、禍ひを除かんと、參宮の體にもてなし、九郎右衞門は鎌倉に下り、伯父大學を押籠め隱居の願ひ。其方が親孫太夫を、鎌倉表へ遣はせしも一家の某、御前體を首尾よく致さんと、内縁ある評定衆へ密事の使ひ。サ、頼みといふはの事、右萬次郎は忠臣の家へ繼ぐべき身なれども、放埓にして一旦手に入りし下坂の刀を、質物に入れし不所存者、その刀の持ち主相知れず、某匿ひ置いては、家中の思惑、他門の聞え。何卒其方、某になり代り、萬次郎を匿ひ、右の刀を詮議仕出し、歸國させてくれなば、某が志も相立ち、妹に連る萬次郎は古主の片割れ、身共へ忠義、頼みといふのは、この事ぢやわい。




私しをお見立てなされ、一大事を明かして、御主人樣の御身の上。例へこの身はししびしほになりましても、下坂の刀を尋ね出し、萬次郎さまを歸國いたさせませう。お氣遣ひなされまするな。



左膳

先づは安堵。併し、鎌倉表の首尾相知れるまでは、只何事も大學へ聞えては一大事、必らず他言無用。




何しに他言いたしませう。



左膳

この上は汝に逢はす人こそあり、萬次郎、これへ參れ。



[ト書]

ト奧へこなし。暖簾の内にて



萬次

ハア。



[ト書]

ト奧より萬次郎、林平付いて出て來る。



左膳

イヤナニ萬次郎、それに居るは福岡貢とて身が家來、其方にも所縁の者、下坂の事もこれなる貢を頼み取返し歸國いたすやうに致せ。




さてはあなたが萬次郎さまでござりまするか。私しはあなたの御親父……マア、斯樣なお話は追つての事。して、その刀は何者に、お預けなされましたな。



萬次

サア、わしは知らぬが、家來の計らひにて、山田の町人に預けたが、その預けた者は出奔して行くへ知れぬゆゑ、折紙ばかり此方にあるわいなう。




して、その折紙は持つてござりますか。



萬次

林平、最前の折紙出してたも。



林平

ネイ。



[ト書]

ト折紙二枚出して貢に渡す。貢、開き見て




こりや二枚の折紙、どう致したのでござります。



萬次

こなたには分るまい。ドレ/\。わしが見分けてやりませう。



[ト書]

ト双方とも、よく/\見て恟り。



[萬次]

ヤヽ、こりや二枚の折紙が、眞赤な似せ物。ヤヽヽ。



林平

ナニ、折紙が似せ物とな。ヤヽヽ。




さうしてマア、どういふ事で、折紙が二枚あるのでござりまするぞ。



林平

さればの事でござります。下坂の刀詮議せうと思ふ矢先、黒上主鈴といふ御師が、下坂の刀を浪人者に賣らうと申すをば聞き付け、その刀を此方へ賣つてくれいと望みしところ。




アイヤ、その黒上主鈴と申す御師は、この伊勢中にはござりませぬが、ハヽア、大方それは騙りでござりませう。



萬次

サア、その騙りめが折紙を持つてゐたゆゑ、ツイ此方の折紙をば出して見せたれば。




ハヽア、さてはその時の浪人者も同類で、摺り替へられたに違ひはござりませぬ。



林平

そんなら、其奴も騙りの同類。ムウ、さうぢや。



[ト書]

トきつとこなし。逸散に花道へ行くを



左膳

コリヤ待て、林平。血相變へていづくへ參る。



林平

騙りを捕へて一詮議。



左膳

ハテ、さほどの企みをする者が、汝が詮議に參らうかと、氣を長々と待つて居らうか。今は急く場合ではない。扣へて居らう。



林平

ムウ。



[ト書]

ト齒ぎしみして後へ戻る。



左膳

金銀に眼をかけず、折紙を望むからは、下坂の名刀を望むものゝ仕業に相違ない。その書状に、先達て大學が家來、徳島岩次といふ奴、當所へ入込みしと九郎右衞門が知らせ。察するところ、手を廻して下坂の刀を奪ひ取り、萬次郎に罪を拵らへ、親九郎右衞門に蟄居させん企みと見えた。




して、その徳島岩次といふ奴を、御存じでござりまするか。



萬次

年の頃は廿八九、中肉にて色白く、眼中鋭く、慥か左の眉の上に、黒子があつたと思つたわいの。




それさへ聞いて置けば、ようござりまする。



左膳

いま聞く通り、大學も當所へは犬を入れ置けば、油斷はならぬ。まだ外に、とくと談する仔細もあれば




爰は端近、奧へ參つて



萬次

何かの仔細を




左樣なれば藤浪さま。



左膳

兩人ともに、奧へ來やれ。



[ト書]

ト唄になり、左膳、萬次郎、貢、奧へ入る。林平は殘り



林平

エヽ、口惜しい。おらが付いて居りながら、騙られてはどうも申し譯がない。どうぞ騙りめを詮議したいものぢやなア。



[ト書]

ト手を組み思案してゐる。奧より足音する。これにて林平、思ひ入れあつて小隱れする。奧より大藏丈四郎出で來り



大藏

丈四郎どの。



丈四

大藏どの、最前からの樣子をば



大藏

殘らず聞いた。角太郎さまへこの事申し上げたいものぢやが。



[ト書]

トこの時、下手より角太郎出て來て、兩人を見て



角太

大藏、丈四郎。



兩人

角太郎さま。



大藏

申し合せた通り、たうとう萬次郎は馬鹿者に仕立てました。



丈四

下坂の刀がなければ差詰め勘當、親の九郎右衞門はこれを云ひ立て、蟄居いたさ手筈も上首尾。



角太

して、下坂の一腰は。



大藏

山田の町人、胴脈の金兵衞と申す者に預け置きましたが、出奔して行くへが知れませぬ。



角太

大馬鹿め、身共に渡して置けばよいのに。大學どのと心を合し、江戸表の首尾は身共が取繕ひ、事成就せば九郎右衞門が所領は、身共が拜領する約束。邪魔になるは藤浪め、今宵のうちにぶツ放す。して、その折紙は。



丈四

手を廻して騙り取り、岩次どのが持つて居らるゝ。



角太

それもよし/\。この一通は大學どのより、岩次どのへの書翰、手渡してくりやれ。



大藏

心得ました。



[ト書]

ト大藏、手紙を受取る。



角太

して、藤浪めは。



丈四

アノ奧の間に。



角太

コリヤ。



[ト書]

ト大藏丈四郎に囁く。この間林平聞いてゐる。



[角太]

合點が行たか。



大丈

心得ました。



角太

丈四郎、來やれ。



[ト書]

ト角太郎丈四郎、奧へ忍び入る。大藏、思ひ入れ。



大藏

夜明けぬうちに、この状を。ムウ、さうぢや。



[ト書]

ト行かうとする。この時、林平出て立ち塞がり



林平

大藏待て。その状おれに見せさつしやい。



大藏

何を、うぬらに見せる状ではない。そこ退け。



林平

イヽヤ、大學さまより、密事の書状。



[ト書]

ト取りにかゝる。



大藏

何を小癪な。



[ト書]

ト兩人、状を取り合ひ立廻り。大藏、下手へ逃げて入る。林平、追ひ駈け入る。奧より萬次郎、左膳、貢、小田原提灯を持ち出で來る。



萬次

左樣なら藤浪さま、何かとよろしくお頼み申しまする。



左膳

いま申し付くる通り、萬次郎が儀、貢、頼んだぞよ。




お氣遣ひなされまするな。二見村には私しが知るべもござりますれば、當分あの方へ預けてお置き申しまして、キツと歸國いたさせまする。サア、夜の明けぬ間に少しも早うお越しなされませ。



[ト書]

ト小田原提灯に火を移し、貢と萬次郎、下へ降りる。



萬次

藤浪さまには、隨分御無事で。



左膳

堅固でゐやれ。




サア、お出でなされませ。



[ト書]

ト唄になり、貢、萬次郎、向うへ入る。バタ/\になりて、下手より林平、手紙の半分を持ち、逸散に出で來り



林平

藤浪さまには、爰にござりましたか。



左膳

あわたゞしい、何事ぢや。



林平

ハツ、只今大學さまの密書をば、大藏が所持なせしを、此方へ取らうとする、彼方はやるまいと、爭ふはずみに引ちぎれて、まツこの通り。



[ト書]

ト左膳に片割れを渡す。左膳見て思ひ入れ。



左膳

宛名はちぎれてなけれども、詮議の手がゝり、萬次郎にツついて手渡しせい。



[ト書]

ト林平に渡す。



林平

して、萬次郎さまは。



左膳

貢が供して、二見村へ。



林平

心得ました。



[ト書]

ト行かうとする所へ、丈四郎角太郎出て



丈四

その状、此方へ。



[ト書]

ト丈四郎林平にかゝる。立廻りあつて



角太

藤浪覺悟。



[ト書]

ト左膳へ切つてかゝる。左膳、角太郎を刀にて押へ



左膳

少しも早く。



林平

ハツ。



[ト書]

ト丈四郎を見事に投げ退け、逸散に手紙を持ち、向うへ入る。左膳見送つて



左膳

下郎に似合はぬ。



角丈

なにを。



[ト書]

ト三人立廻つて、キツパリと好き見得にて、この道具上手へ引く。

造り物、一面の二見ケ浦の夜の景色、松の吊り枝にて、七五三を張りし二見ケ岩、磯端の模樣、本釣り鐘、浪の音にて納まる。


[ト書]

ト矢張り、浪の音にて、貢先に小田原提灯を下げ、萬次郎を案内して出て來る。




磯端で道が惡うござります。お氣をお附けなれませ。併し、もう七ツ半でもござりませう。夜の明けぬうち行きたいものぢやが。



[ト書]

ト兩人捨ぜりふにて本舞臺へ來る。



萬次

ほんに貢、今よう思うて見れば、あの大藏丈四郎めが、下坂の刀を質に入れさし居つたが、それにマア、宵から顏出しもせぬは、合點がゆかぬわいなう。




ハテ、それも私しが詮議いたしまする。お氣遣ひなされまするな。



[ト書]

トこの時、以前の大藏、手紙の半分を持ち、花道より逸散に走り出で、貢に行き當り、萬次郎と顏見合して



大藏

ヤア、萬次郎か。



萬次

ムウ、大藏ぢやないか。



大藏

こりや堪らぬ。



[ト書]

ト逸散に臆病口へ入る。




何の事か、とんと狂氣の沙汰ぢや。



萬次

コレ/\、今のが大藏といふ、刀を質に置いた者ぢやわいなう。




そんなら今のが。



[ト書]

ト云ふうち、林平、逸散に出て貢に行き當り、萬次郎と顏見合せ



林平

萬次郎さまか。



萬次

オヽ、林平ぢやないか。



林平

いま爰へ大藏めが參りませなんだか、



萬次

たつた今この道筋へ。



林平

刀の手がゝり、この一通。



[ト書]

ト萬次郎、手紙を私、行きかゝるを



萬次

さうして樣子は。



林平

それ云つてゐる間はごさらぬ。おのれ大藏。



[ト書]

ト林平、逸散に臆病口へ入る。




何の事ぢや、これも半狂氣ぢや。



萬次

マア、この状讀んで見やいなう。




飛札を持つて申し遣はし候ふ、いよ/\その地にて下坂の刀手に入り候はゞ、早速歸國あるべく候ふ。後は破れて、宛名はなけれど、詮議の手がゝり、よい物が手に入つた。



[ト書]

ト此うち丈四郎走り出で、萬次郎を見て



丈四

萬次郎、うぬを。



[ト書]

ト萬次郎に切つてかつるを、貢止めて




萬次郎さまに切りかける、うぬには、詮議があるわい。



丈四

何、ちよこざいな。



[ト書]

ト振り解き、立廻りのうち、萬次郎、提灯を持ち、うろついてゐる。臆病口より、林平大藏、状を奪ひ合ひ出て來る。



萬次

林平、最前の状の片割れは。



林平

その片割れは。



大藏

なにを。



[ト書]

ト切つてかゝる。貢、丈四郎を投げ退け、大藏が持つてゐる状を引取りしが、手紙見えぬゆゑ萬次郎へこなし。




萬次郎さま、その提灯を。



[ト書]

ト萬次郎思ひ入れあつて、提灯を差出す。この時丈四郎、提灯を切り落す。大藏は貢に切りかゝる。いづれもくらがりの見得になる。



[貢]

萬次郎さま、お危なうござります。



[ト書]

ト矢張り右鳴り物にて、大藏は状を取らうとする。林平は大藏丈四郎を捕へようとする。丈四郎、萬次郎を切らうとする。貢は萬次郎に怪我をさすまいとする。この探り合ひ、危ふき立廻りあつて、トヾ貢、大藏丈四郎をしつかり捕へ、林平、萬次郎と探り合ひ



林平

若旦那か。



萬次

林平か、




奴どの、爰は危ない。萬次郎さまにお供して、この場を早う。



林平

合點ぢや。



[ト書]

ト三重になり、萬次郎の手を引き、逸散に向うへ入る大藏丈四郎「ソレ」と行かうとする。貢、兩人をちよつと透かし見て




萬次郎さま、お出でなされましたか。アヽ嬉しや、それで落ちついた。さてこの状の宛名が讀みたいものぢやが、もう夜が明けさうなものぢやが。



[ト書]

ト状を透かし見る。丈四郎大藏起き上がり



大丈

それを。



[ト書]

ト切つてかゝる。立廻りのうち、夜明け烏、所々に鳴く。正面の向うへ、四尺餘りの紅張りの日の出、だんだんに出る。




ありやモウ夜明け。



大丈

なにを。




嬉しや、日の出が。



[ト書]

ト丈四郎を押へ、大藏を捻ぢ上げし見得、状を開き



[貢]

ナニ、宛名は、徳島岩次どの、蜂須賀大學より。



[ト書]

ト兩人振りほどき、起き上がるを見事に投げ退ける。又かゝるを見得よく押へ



[貢]

讀めた。



[ト書]

ト膝を叩くを、チヨンと木を入れる。兩人おこつくを大藏を投げ、丈四郎を捻ぢ上げる見得、鳴り物一セイ浪の音にてよろしくキザミ。

ひやうし幕

三幕目
油屋の場

  1. 役名==福岡貢。


  2. 料理人、喜助。


  3. 今田萬次郎。


  4. 徳島岩次實ハ藍玉屋北六。


  5. 藍玉屋北六實ハ徳島岩次。


  6. 次郎助。


  7. 若い者、丈八。


  8. 同、佐助。


  9. 油屋、おきの。


  10. 油屋、お紺。


  11. 同、お岸。


  12. 同、お鹿。


  13. 同、おきぬ。


  14. 仲居、萬野。


  15. 同、千野。


  16. 同、吉野。


造り物平舞臺、向う茶屋暖簾、上の方中二階、前に三重段梯子かゝり、格子、門口に油屋と云ふ掛け行燈に灯ともしあり、騒ぎ唄にて幕明けると、向うより客次郎助、女郎おきぬ、仲居千野、同吉野、粹の丈八、同定七連れ立ち出る。奧より油屋おきの出る。


次郎

戻つたぞよ/\。



皆々

お歸りなされたぞえ/\。



きの

オヽ、次郎助さん、今でござりましたかいなア。



次郎

さいばいの、今日は古市の芝居見物に行たところが、何が初日の事ぢやによつて、果が遲うて今になつた。



定七

おきのさま、お前もお出でるとよいに。



丈八

今日の初日は、えらいはずみであつたになア。



きの

さうして、岩次さまやお紺さまは、まだでござりますかえ。



千野

岩次さまは、お紺さまと二人、芝居茶屋の大坂屋で呑んで居やしやんすわいなア。



吉野

わたし等は先へ去ね、後からお紺さまと連れ立つて去ぬると云うてゞござんした。



次郎

ハテ、お紺と二人大坂屋で、コツソリと旨い目せうと云ふ企みを睨んだゆゑ、我れら粹をきかして戻つたてや。



きの

そりや、ようお歸りなされ [1]した。



次郎

さうして北六どのは。



きの

今日は芝居へもお出でなされず、日がな一日おきしとたつた二人奧座敷で。



次郎

いづれを見ても戀の世界ぢやなア。



きの

今宵は舞の會をお望みなされましたによつて、その用意を致して居りました。岩次さまも芝居から直ぐにお歸りなされませと、先刻に使ひをあげましたがなア。



千野

アイ、その使ひは來ましてござんす。追つツけ去なうと仰しやつてゞござんした。



次郎

ドレ、そんなら又奧で、舞を見物して呑まうかい。



きの

さうなされませいなア。



皆々

サア/\、お出でなされませ。



[ト書]

ト騒ぎ唄にて皆々奧へ入る。跡合ひ方になると、萬次郎、着流し手拭頬被りして向うより出て來て、門口より内を覗くこなし。此うち奧よりお岸出る。



きし

どつこへも行きやせぬわいなア。ちよつと表を見て來るのぢやわいなア。



[ト書]

ト云ひ/\出て、出合ひ頭に萬次郎と顏見合し



萬次

ヤア、お岸か。



きし

ヤア、萬次郎さま、逢ひたかつたわいなア。



[ト書]

ト走り寄り抱きつく。



萬次

わしも其方に逢ひたうても、先度の別れより貢の世話になつてゐるによつて。



きし

何を嘘ばつかり、この四五日はどこへ行かしやんしたやら、お行くへがしれぬと云うて、ほんに貢さまは狂氣のやうになつて、毎晩々々お前を尋ねにござんす。お前はマア、どこへ入つてゐやしやんしたぞいなア。



萬次

そんならおれが行くへを毎晩々々尋ねに。



きし

あんまりうろつかしやんすのが、いとしいわいなア。



萬次

それ程までにおれが事を。



[ト書]

ト向うを見て



[萬次]

貢、堪忍してたも。譯を云うて出なんだがおれが誤り。コレ、お岸、皆の者にそゝのかされ、大切な下坂の刀、質に置いたはおれが放埓、それゆゑにこの流浪、殊に折紙まで盗み取られ、何卒この二品を取返さうと、樣々に苦勞をしてたもるあの貢、せめて一品なと助けうと思うて、山田の金兵衞が所へ行たら、ちやんと駈落ち。なんでもこの伊勢中は元より、鳥羽と云ふ所まで歩いて搜せども、かいくれ所在が知れぬ。詮方盡きて戻つて來れど、この四五日も戻らなんだ事ぢやによつて、貢の手前も氣の毒さに、マア、其方に逢うて樣子を聞いてから、貢に逢はうと思うて來たのぢやわいの。



きし

よう戻つて下さんした。もう追ツつけ貢さんが、また尋ねにござんす程に、待つてゐて、連れ立つて去なんせいなア。



萬次

そんならさうせうわいの。



[ト書]

トこの時奧より



萬野

お岸さま/\。



きし

エヽ、惡い所へ萬野が來るわいなア。



萬野

どうせうぞ/\。



きし

お前を見付けたら、また北六に惡告げをするわいなア。お前は大林寺に待つて居て、もそつとしてから來て下さんせ。



萬次

とんなら追ツつけ來る程に、貢がおぢやつたら待たして置いてたもや。



きし

そりや合點でござんす。さうしてアノ



[ト書]

ト抱きつきながら囁く。



萬次

サア、わしも其方に。



[ト書]

ト囁くうち萬野、奧より出て來て



萬野

お岸さま/\、



[ト書]

ト云ひ/\門口へ行くと大きな聲で云ふ。お岸恟りする。萬次郎逃げそゝくれ小蔭へ隱れる。萬野見ぬこなしにて



萬野

お岸さま、お前爰に何してぢやい。



きし

サア、わしやアノ、オヽ、それ/\、螢が飛んで來たに寄つて、あんまりしほらしさに、詠めて居たわいの。



萬野

螢が來たかえ。



きし

アイ。



萬野

成る程、晝は顏出しがならぬ身の上。夜になるとウロウロと飛んで來る螢め。



[ト書]

ト萬次郎の方を尻目にかけて



[萬野]

コレお岸さま、あんな蟲を見ずと、ちやつと内へ入らしやんせ。女郎の甘味を吸ひにうせる、ならずの螢めが。



[ト書]

ト萬次郎氣色する。お岸顏にて押へる。



[萬野]

何ぢや/\。その面なんぢや。螢め、夜に入つてまい/\と、人の門口へ飛んでうせて、女郎の甘味を吸ひにうせると、引ツ捕まへて蹈み躙つてこますぞ。



[ト書]

トまた萬次郎腹立てるを、お岸顏にて押へる。



[萬野]

何をびこしやこさらすと、わしが又引ツ捕まへて



[ト書]

ト行かうとするをお岸、萬野を留めて



きし

コレ、萬野、もう螢は飛んだわいの。



萬野

エヽ。



きし

先刻の時飛んで行けばよい事を、ちやつと大林寺の方へ飛んで行て、また後に爰らへ飛んで來たがよいわいの。



[ト書]

ト萬次郎にかけて云ふ。萬次郎領き手拭にて顏隱し、向うへチヨコ/\走りて入る。お岸胸撫で下ろす。萬野この體を見て



萬野

エヽ、命冥加な螢ぢやな。



北六

萬野々々、お岸はどこへ行た/\。



[ト書]

ト云ひ/\奧より出で、後より次郎助おきぬ千野吉野附き出る、お岸を連れ萬野、内へ入る。



萬野

あんな惡い蟲に構はず、お客の側へ行かしやんせ。



[ト書]

トお岸を北六の方へ突きやる。北六直ぐにお岸が手を捕へ。



北六

お岸、おれ一人奧に置いて、拔けそとは聞えぬわいやい。今日も行きたい芝居へも行かず、わが身と二人寢ようとすりや、腹が痛いの頭痛がするのと、其やうに酷うあしらうたものぢやない。よく/\に思へばこそ、阿波三界からこの伊勢に流連して居るのもわが身ゆゑ。風來者の萬次郎とは違ふ。藍玉屋北六、阿波一番での金持ち。應とさへ云ふと、請け出して伴れて去ぬるが、なんと次郎助、さうでないか。



次郎

さうとも/\。應とさへ云へばその身の仕合せ、打出すと云ふものぢや。帶も解いてぐつたりと抱かれて寢て、好い果報に逢うたがよいわいの。



萬野

コレお岸さん、お前は果報が嫌ひかいなア。



きし

アイ、否でござんす。なんぼう果報が嬉しとて、否なお客に請出さるゝ事は、好かんわいなア。



北六

エゝ、忌々しい。ならず者の萬次郎めに心中立てが胸が惡い。ドレ、その酒々。



千吉

またあがるかいなア。



北六

けたいぢや/\。いつそ飮んで/\、飮み据ゑてこますのぢや。



次郎

それがよかろ。暴れ飮みにして、暴れ次第に取つてしめたがよいてや。



次郎

オヽ、お岸を斯う側へ引付けて、否がる代りに何杯も助けさせて、酒責めにしてこまそ。



きし

イヽヤ、わしや、えゝ飮まぬわいなア。



千吉

お岸さまは下戸ぢやわいな。



きぬ

もう堪忍してあげなんせいなア。



北六

イヽエ、飮まさにや聞かぬ。サア酌げ/\。



[ト書]

ト騒ぎ唄になる。お岸を引付け錫の鉢を差出す。萬野酒を酌ぐと、向うよりお紺、着付け派手なる前垂れ。右はこの地の風にて伊勢女中餘所行の形にて出で來る、後より岩次、阿波侍ひの着付け羽織大小にて出で來たる。



岩次

オヽイ/\、お紺、マア待てやい。



こん

イヽエ、わしや早う去んで、舞の會が見たうござんすわいなア。



岩次

サア、見たくば一緒に見るわいやい。わればかり行かうとは胴慾ぢや。なぜ手を引合うて行てくれぬぞいやい。



[ト書]

トお紺が手を取る。



こん

それでもそんな事をすると、人が見て笑ふ。



岩次

なんの別に、客が女郎と手を引いて歩くを、誰れが笑ふもので、殊に夜に入つてあれば、構ふ事はないてや。



こん

それでもわしや耻かしいわいなア、



[ト書]

ト振り放し本舞臺へ來る。



岩次

コリヤ、マア、待てサ/\。



[ト書]

ト云ひ/\後より來る。此うち北六一杯飮んで、お岸に飮め/\といぢつて居る。萬野もこみ付けて飮まさうとする。お岸嫌がる。おきぬ千野吉野、挨拶の捨ぜりふある。お紺ズツと入る。



きし

ヤアお紺さま、戻らしやんしたかいなア。



[ト書]

トお紺の側へ行く。



こん

舞の會があると聞いて、戻つて來たわいなア。



[ト書]

ト云ふうち岩次も續いて内へ入り



北六

オヽ、岩次さま



次郎

今お歸りなされましたか。



岩次

オヽサ、舞の會があると北六が使ひゆゑ。



北六

イヽヤ、直さまとは云はさぬ。芝居果から大坂屋の内で、お紺とたつた二人で、出來ましたな/\。



岩次

何を云ふぞいやい。此方が出來てもあつちが出來さし居らぬわい。



次郎

イヤ、さうは拔けさせぬ。この次郎助や皆を先へ戻したは、曰くがなけにや叶はぬ。



萬野

イヤ、また岩さまが思ひ込み遊ばしたも尤も。外の色里でない餘所行きの前垂れ姿、なんとどうも云へぬぢやござりませぬか。お紺さまもマア、岩さまのお側へお出でなさんせいなア。



こん

オヽ萬野、岩さんの側へ行きたけりや、わしが行くほどに、あんまり差出て下さんすないの。



萬野

がをれどの、女郎さん方も氣儘には困り入るぢや。



[ト書]

ト奧よりおきの出て



きの

オヽ、岩さま、お歸りなされましたか。北さま、もう舞が始まりますぞえ。アノマア初手が葵の上、その後が保名物狂ひ、その後が伊勢音頭の座敷踊、どうで今夜は夜明しでござりまする。サア皆、奧へお出でなされませ。



岩次

身共はその以前音頭が望みだ。國元の土産に致す。お紺、其方が手で文句を書き留めてくれい。サア、一緒に行かう/\。



[ト書]

トお紺が手を取るを、素氣なう振り放す。岩次ムツとして、刀の柄に手を掛ける。



きの

ソレ、萬野、お腰の物をお預かり申しや。



萬野

アイ/\。申し岩さま、お腰の物は、わたしがお預かり申します。



[ト書]

ト腰の物に手を掛ける。



岩次

でも。



萬野

ハテ、里の習ひ是非がない。何事もわたしにお任せなされ。よいやうに致しますわいなア。



[ト書]

ト岩次の大小を取る。



きの

サア、お紺もお岸も、皆一緒に奧へ/\。



皆々

サア、ござんせいなア。



[ト書]

ト騒ぎ唄になる。この一件皆々奧へ入ると、直ぐに葵の上の唄になる。向うより貢、黒羽二重の袷、黒縮緬の單衣羽織に、右の下へ下坂の刀を差し、足早にツカツカと出て來て花道に立ちとまり




此やうに毎晩尋ねても、萬次郎さまのお行くへ知れぬと云ふは。イヤ/\、どう思うても油屋へ見えねばならぬ。マア、なんでも油屋へ行て。



[ト書]

トこなしありて本舞臺へ來て、門口へ入らうとする。奧よりお岸出て



きし

ヤア、貢さま。




お岸どの、



きし

コレ、萬次郎さまがござんしたわいなア。




ヤア。して、どこにござる。



きし

サイナア、もそつと先にござんしたによつて、この間からお前が、毎夜々々尋ねてござんす事を云うてゐるうち、意地惡の萬野が出て、何のかのと惡體口を云ふゆゑ、もしひよつと萬次郎さまの短氣でも起れば惡いと思うて、大林寺の裏門の方へ、ちつとの間やりましてござんすわいなア。




ムウ、そんなら大林寺の裏門に。



[ト書]

ト行かうとするを留めて



きし

コレイナア、まだ何やかや云ひ殘した事もあり、萬次郎さまも、わたしに用があると云はしやんしたれば、是非追ツつけ戻つて見えるわいなア。




ハテ、其やうにべん/\とした事ぢやない。この四五日行くへの知れぬも、元は下坂の刀ゆゑ。その下坂の刀が手に入つたわいの。



きし

エヽ。




即ちこれに差してゐるのが下坂の刀ぢや。これを一時も早う、萬次郎さまのお手へ渡さうと思うて、毎晩毎晩尋ねてゐるのぢや。マア、大林寺へ行て。



[ト書]

トまた行かうとするを留めて



きし

お前が行かしやんした跡へ、萬次郎さまがござんして、わたしが逢へばよけれども、また間違うて、せんぐり跡へ/\と、尋ね廻らねばならぬわいなア。




イカサマ、そこもあるわい、



きし

どの道わしに逢ひにござんすほどに、ちつとの間待つてあげまして下さんせいなア。




そんならさうせずはなるまいが、エヽコレ、氣の揉める事ではあるぞ。



きし

そりや道理でござんすが、わたしも大抵氣の揉める事ぢやござんせぬ。コレ、貢さま、アノ奧へ來て居る阿波の客が、わたしもお紺さまも身請けして、明日は國へ連れて去ぬると云うて居るわいなア。




すりや、お紺もこなたも身請けして。



きし

アイ。




明日は本國阿波へ出立。



きし

どうぞお紺さんもわたしも行かぬ。好い思案はあるまいかいなア。




ムウ。



[ト書]

ト手を組み思案するこなし。奧より千野吉野走り出て



千吉

お岸さま/\、爰にかいなア。



きし

オヽ、千野吉野、何ぢやぞいなう。



吉野

何ぢやどころかいなア。舞の會の始まつてあるのに、お岸はどこへ行たと、北さまがやかましう云うてござんすわいなア。



千野

オヽ、どなたぢやと思うたら貢さま、ようお出でなされましたなア。




そんなら奧の舞の會があるか。



千野

アイ、伊勢音頭で座敷踊がござんす。



吉野

阿波のお客のお望みでござんす。



千野

また御機嫌が損じたらやかましい。サア、お岸さん、ござんせ/\。



きし

サア、行くわいなう。申し貢さま、今の思案を頼んだぞえ。



千吉

サア、ござんせいなア。



[ト書]

ト兩人無理に伴れて入る。此うち始終合ひ方にて、貢こなしあつて




先達て藤浪さまのお心添を以て、仰せ下されし本國阿波の伯父御、蜂須賀どのの謀叛に荷擔の武士、徳島岩次、城下の町人藍玉屋の北六、この者ども窃かに伊勢へ入込み、萬次郎どのに害をなし、殿より仰せ付けられし下坂の刀を奪ひ取り、萬次郎さまの越度より、殿をば取つて罪に落し、阿波一國を押領せんとの伯父御の企み。折紙を騙り取つたも皆この手筋。引ツ捕へて詮議とは思へども、何を云うても岩次と云ふ侍ひ、藍玉屋北六と云ふ町人、兩人ともに人相恰好、藤浪さまより聞いたるとは拔群の相違。何にもせよ、これには仔細のありさうな事。その上お岸お紺兩人とも身請けして、明日は本國へ歸るとの事。もし彼奴等が伯父御大學どのゝ廻し者ならば、國へ歸しては、先達て騙り取つたる折紙を、伯父大學へ渡すは治定。さすれば折角手に入つたこの下坂の刀も、折紙なくては何の詮なき鈍刀同然。その折紙は正しう阿波の岩次と云ふ侍ひが。こりや今夜は爰を動かれぬわいやい。



[ト書]

トこなしあつて、



萬野

何ぢや、貢さま來てぢや。ドレ/\、わしが逢うて、お斷わりを云ふはいな。



[ト書]

ト云ひ/\奧より出で、



[萬野]

オヽ、貢さま、お出でなされ。




萬野、この間は逢はぬなう。



萬野

毎晩々々お出でる噂は聞いたれど、この間は阿波のお客で、とんと座敷が離されぬによつて、ようお目にかかりませぬが、貢さま、アヽ、お氣の毒ぢや、今夜もお紺さまはな。




そんなら矢ツ張り阿波の客で。



萬野

アイ、今日は芝居の初日で、お客と連れ立つて見物に行かしやんしたが、戻りに大坂屋で立てぢやといな。




そんならお紺は、まだ戻らぬか。



萬野

アイ、まだでござんす。



[ト書]

トこなしあつて云ふ。




エヽ、ちよつとお紺に逢ひたいものぢやが、萬野、どうぞ働らいてはくれぬかい。



萬野

そりやモウ、お馴染のお客樣の事ぢやによつて、どうぞしてあげたいけれど、お客は阿波のお侍ひ、モウモウねちみやくで、粹と云ふものはこれ程もござんせぬ。所詮ちよつとの首尾もなりますまい。マア、今夜はお歸りなさんせ。




サア、そんならお紺には逢はれずば逢はいでも大事ないが、ちつと爰で待ち合さねばならぬ事もあり、コレ、萬野なんと、奧の舞の會を見ても大事あるまいか。



萬野

イエ/\、そりやなりませぬ。奧のお客は猶席狹いお方でござんすによつて、外のお客と座敷を一緒にしたら、大抵やかましい事ぢやござんせぬ。舞の場へ顏出しやなぞしておくれなえ。わたしらが迷惑するわいなア。お前、今宵中待つて居たとて、所詮お紺さまには逢はれぬほどに、ちやつと/\去になされ。一文にもならぬ客に付合うてゐるのも鬱陶しいものぢや。



[ト書]

ト貢ムツとするこなし。



[萬野]

ホヽヽヽ、わたしとしたことが、ひよつかすか。貢さん、必らず氣にさへておくれなえ、シタガ、其やうに爰にゐたきや、誰れぞ代りの女郎さんを呼ばしやんせいなア。




そりやモウ、どうなりとせうが。



萬野

ムウ、代りを呼びなさるか。ヤレ/\、ようお出でたなア。そんならマア酒でも出さうわいな。



[ト書]

トそこに在るとさん銚子を持つて出る。



[萬野]

貢さま、お遊びなさるなら、お腰の物を、預かりませう。




アノ腰の物を。



萬野

オヽこの里の習ひを知らぬか何ぞのやうに、ドレ、お預かり申しませう。



[ト書]

ト貢が一腰に手をかくるを突き退け。




イヤ、腰の物は滅多に預けぬ。



萬野

そんなら去にされ。




ヤア。



萬野

ハテ、伊勢の茶屋の腰の物を預けるは昔から。それに預けられぬとあれば、此方もお客にはしにくうござんすほどに、早うお歸りなさんせ。




イヤサ、ちつと爰に。



萬野

用があるなら、腰の物を預かりませう、




でも、この。



萬野

預ける事が否ならお歸り。




サア。



萬野

預かりませうか。




サア。



萬野

お歸りなさるか。




サア/\/\。



萬野

エヽ、埓の明かぬ。キリ/\去んでもらひませうぞ。



[ト書]

ト慳貪に云ふ。貢ギツクリ思案のこなし。



喜助

イヤ、その腰の物、私しが預かりませう。



[ト書]

ト喜助、料理人の姿にて出る。




オヽ、料理人の喜助。



喜助

貢さま、毎晩お出でなさるゝさうにござりまするが、私しもこの間は居續けのお客樣で、一向忙しうござりまして、お目にかゝりませぬ。



萬野

コレ、喜助どん、そんならこなたが預かるか。



喜助

ハテ、貢さまも今でこそ、藤浪さまの御家來なれど、元はお歴々のお侍ひ樣と聞き及んでゐる。ぢやによつて、輕はずみに女子のこなさんへは、お渡しなされまいと推量して、身こそ卑しい料理人の喜助なれども、男の端くれ、おれが預かる。ハイ、私しがお預かり申しますからは、お氣遣ひはござりませぬ。




ムウ、然らば其方に預ける大事の一腰、麁末のないにやうに頼むぞよ。



喜助

しつかりと預かりましてござりまする。



萬野

ドレ、そんなら小口の茶の間へやりますやうに、喜助どん、後から連れましてごんせ。お紺さまの代りに、わしがよい女郎を世話してあげようか。



[ト書]

ト奧へ入る。喜助こなし、門口を見る事あつて



喜助

イヤ、申し貢さま、憚りながら、ちよつと申し上げたい事がござりまする。




おれにか。



喜助

どうぞちよつとあれへ。




オヽ。



[ト書]

ト合ひ方になる。貢喜助向うへ出で下に居て



[貢]

喜助、何の用ぢや。



喜助

ハイ、いま改めて申し上げまするは如何なれども、私しが親どもは、あなたの御親父樣の仲間奉公。親旦那のお供して、阿波より志州の鳥羽へ御逼塞。それゆゑ親どもも奉公を引き、この伊勢に僅かの暮らし、老病の枕元へ私しを呼び寄せ、いま福岡孫太夫どのゝ御養子貢さまは、我れ/\親子が古主の若旦那、隨分蔭ながら心を付けて忠義を盡せと親どもの遺言。この事はあなたにも、よう御存知の儀、申し出しましたは、及ばずながら此やうに、毎日毎晩遊所へお出でなされましては、お身の禍ひを招く道理。もしひよつとあなたの越度にもならうかと、古主を大切に存じますから、ちよこざいな御意見、貢さま、必らずお心に障へられて下さりますな。




下樣に似合はぬ、古主を忘れぬ其方が意見、惡うは聞かぬ。忝ない。その心を存じて居るゆゑ。それその一腰も其方に預ける。何を隱さう、その一腰は、この度本國、阿波より、今田萬次郎さまへ、殿の御意を以て求め歸れとある、青井下坂の刀。



喜助

エ、アノこれが。



[ト書]

トこの事萬野出かけ聞いて、恟りしてツイと入る。




伯母者人の志しを以て、貢が手に入つたこの刀を、萬次郎さまに持たせ、本國へお供申さうとは思へども、刀の折紙を騙り取られ、この詮議をせう爲に、毎晩々々これへ來るのぢや。必らず放埓ではないほどに、心遣ひは無用々々。



喜助

ムウ、そんならこの折紙を騙つた奴が、この油屋の。




サア、しかとは知れねど、もしやと思ふは彼の



[ト書]

ト喜助に囁き。



[貢]

ぢやて。



喜助

そんならアノ。




コリヤ、大事の詮議、密かに/\。



[ト書]

ト喜助氣を變へ



喜助

申し、奧で一つあがりませぬか。




イカサマ飮まうか。



喜助

サア、お出でなされませ。



[ト書]

ト奧にて小袖物狂ひの靱猿の唄になり、貢喜助、奧へ入る。矢張り右の合ひ方に皷入る。奧より萬野次郎助北六、右三人窺ひ出で向うへ出で



萬野

申し、今の樣子お聞きなされましたか。



北六

貢が差いて居る一腰が青井下坂とは、これを盗めと云はぬばかりの今夜の首尾。



次郎

この次郎助が盗んで、國元へ高ふけりとしませうか。



北六

イヤ/\、それでは詮議の足がつく。ハテ、どうしたものであらうな。



萬野

そりや斯うせうわいな。わたしが盗んで爰を駈落ち。ハテ、二三日も影を隱すワ。其うちにお前方は、國元へお歸りなさんせ。そこへわたしが下坂を持つて下つて、お渡し申したらよいぢやないかいな。



北六

さう手番ひが行けばよいぢやて。



次郎

萬野、あぢようやるかよ。



萬野

やらいでわいな。申し、あぢようやつた、ズツシリとおくれるであらうな。



北六

そりや知れた事いやい。内外の事まで打明けて置いたわれが事、此方の望み成就したら、褒美どころぢやない。阿波へ引取つて、一生樂々と暮らさすわいやい。



萬野

エ、有り難い。それ聞いたら、一倍精を出さねばなるまいわいな。



次郎

そんなら貢めが逃げぬうち。



萬野

イヽエ、滅多に去ぬ事ぢやござんせぬ。奧の舞のドサクサの間に、やりかけうわいな。



北次

早う/\。



萬野

合點でござんす。



[ト書]

ト矢張り右の合ひ方にて、三人こなしあつて入ると、入違うて岩次、我が刀と貢が腰の物を兩手に持ち窺ひ出で



岩次

まだな事を云ふ奴等ぢや。この刀の寸尺が丁度合ふを幸ひ、身を入れ替へて置きやよい事を、馬鹿らしい。



[ト書]

ト云ひ/\兩方の目釘を拔き、刀の身を入れ替へる。この時喜助ソツと出かけ、この體を見て恟りし、又ちやつとすツ込む。岩次、右の刀を入れ替へて、元のやうにして兩手に持ち



[岩次]

貢めが去にをる時、その先刻の預けた刀をくれいと吐かすワ。我が物ぢやによつて取つて差し居るワ。去に居つた跡に殘つたこれ、この刀の身は青井下坂。うまいうまい。



[ト書]

トこなしあつて岩次、二腰を持ち奧へ入ると、貢奧より出で




このまた萬次郎さまはモウ見えさうなものぢやが。



[ト書]

ト云ふうち奧より女郎お鹿、着付け、扱帶にて、手に小杉を持ち、出て來て



しか

貢さん、どこへ行きぢやいなア。マア下に坐りいなア。



[ト書]

ト貢が手を取り下に置き、煙草盆引寄せ煙草をのむ。




お鹿、變る事もないか。



[しか]

アイ、よう問うて下さんした。



[ト書]

ト吸ひつけて煙管を貢へ差出す。貢取つてのむ。



しか

貢さん、キツと嬉しいぞえ。



[ト書]

ト貢合點のゆかぬこなしあつて又心付き




ムウ、そんなら萬野がアノこなたを。



しか

アイ、お紺さんと云ふ馴染のあるお前に、何のかのと云うたは、皆わたしが惡性なれど、どうも思ひ切られぬ。度々あげた文の御返事、見る度毎にわたしが嬉しさ、推しておくれいなア。



[ト書]

ト聞いて貢、合點のゆかぬこなしにて




何ぢやゝらどぎ/\とをかしい物の云ひやう、こなたの方から状の來た覺えもなし、此方から返事した覺えは猶ないぞや。



しか

エヽ。



[ト書]

ト驚ろきたるこなしにて氣を替へて



[しか]

ホヽヽヽ。オヽ笑止。わたしとした事が、なんのマア今爰で、改めて臺詞せいでもよい事を、お紺さんと譯をつけて、わたしに逢うてやらうと、云うて下さんした時の嬉しさ。どうなりとしてお氣に入らうと思うて、云うておこしなさる度毎に、一度も只の返事をあげなんだが、ちつとなりと可愛がつてもらひたさでござんすわいなア。




とんと合點がゆかぬ。一體そりや何を云ふのぢや。



しか

何を云はうぞいなア。一體お前に、わたしが云うてあげた事、得心しておくれぢやないかいなア。




何をいの。



しか

イエ/\、其やうにしら%\しう云はしやんすな。お前の方から返事をおこさしやんしたぢやないかいなア。




何日いの。



しか

慥かな返事をおこして置いて、今更そんな事は云はしやんすは、そりや胴慾でござんす/\わいなア。



[ト書]

ト貢の膝に取付き泣くを突き退け




さま%\の事を云ふわいの。



[ト書]

トこの時奧より



岩次

サア/\、來やれ/\。



[ト書]

ト岩次、お紺が手を引き、後より北六、おきしを伴れ次郎助おきぬ定七丈八千野吉野出る。貢、お紺を見て




お紺。



こん

貢さま、きつう派手な事ぢやなア。



岩次

ハテ、それをナニ其方が構ふ事。サア、爰で呑まう呑まう。



千吉

アイ/\。



[ト書]

トとさん銚子を持つて行く。上の方へお紺岩次北六お岸次郎助おきぬ丈八定七千野吉野クルリと並ぶ。舞臺先皆々の眞中に貢お鹿ゐる。




そんならわがみは内に居たか。



こん

知れたこといなア。




ムウ、内に居るものを、まだ戻らぬと、なんの爲に嘘をつかすのぢや。



こん

わしや知らぬわいな。そりやお前の心がらぢやわいな。




おれが心がらとは。



こん

この間爰にござんすお客樣で、間違うて逢はぬを幸ひ、ちやんとモウ代りを呼んで、ほんに殿達ほど水臭いものはない。岩さま、さうでござんせうなア。



岩次

ハテ、滅相な。身共はあんなむちやはせぬてや。ナウ、さうぢやないか。



北六

さうとも/\。こちらがやうに、一人を此やうに守つてゐる者は少いてや。



次郎

ちよこ/\顏を替へるも、また面白からうわい。



定七

イエ/\、あれもこれも掃き歩くと、箒客ぢやと異名をつけまする。



皆々

なんぢや箒。



[ト書]

ト貢の顏を見て、ハヽヽヽと笑ふ。貢ムツとして又こなしあり




イヤコレお紺、この鹿はおれが方から呼んだのぢやない。この間からわがみにちよつと逢はねばならぬによつて、毎晩々々來て見れば、流連客で逢はれぬゆゑ、今夜待ち合して逢はうと思うて、萬野を頼み、奧の舞を見せてくれいと云へば、ならぬと云ふ。酒一つ呑まうと云や、誰なりと呼べと云ふ。呼ばねば今夜は去んでくれいと、追ひ出すやうに云ふによつて、是非なく誰れなと酒の相手に呼べと云うたら、この鹿をおこした。何にも譯のある事ぢやない。わが身に逢はうと、ほんのせう事なしに呼んだぢやわいの。



[ト書]

ト聞いてお鹿ムツとして



しか

コレ、貢さま。



[ト書]

ト貢が胸倉を取つて



[しか]

お紺さまの前ぢやと思うて、そんな事云はしやんすと、皆樣の聞いてぢや手前でなりと、有やうに云はにやならぬわいな。ならぬわいな。



[ト書]

ト振り廻す。貢又お鹿を突き退け




有やうに云ふとは何を云ふのぢや。



しか

云はいでかいな。コレ、皆樣も聞いて下さんせ。わたしや此お方に惚れました。アイ、文付けました。その時貢さん、なぜに否ぢやと云うて下さんせぬ、生中そもじの志し嬉しいの、イヤ近いうちに逢うて、しつぽりと話しせうのと、可愛らしい返事して置きながら、今さら覺えがないとは、そりやお前卑怯でござんす。さもしいわいなア。




ほんにマア、まざ/\しい事を云ふわい。



こん

如何にわたしへの當付けぢやと云うて、お鹿さんを呼ぶとは、ほんにあんまりの事で、なん、と皆さんをかしいぢやないかいなア。



北六

イカサマ、蓼喰ふ蟲も好き%\と云はうか。



次郎

餘ほどのへちもの喰ひ。



丈八

ほんに、こりやをかしうござります。



皆々

ハヽヽ。



[ト書]

ト笑ふ。お鹿腹立ち、ズツと行き、お紺が側へとんと坐る。



しか

お紺さん、お前の目からは成る程をかしうござんせう。アイ、わたしが顏が皆さんもをかしからう。シタガ何ぼう不器量でも、見事人並に商ひもして通る。また切れることも切れやんす。コリヤ、この首で商ひをするのぢやない。云ふに云はれぬよい所があるゆゑ、ついぞお客に一度もはかれた事はないわいなア。その大勢のお客さま方へ、無心のたら/\云ひさかして、身付きの着替へもござんした、簪まで工面のなりたけ仕盡して、ほんに今では、わたしや貢さまゆゑに、大體不自由な目をしてゐるわいなア。



[ト書]

ト貢お鹿を引廻して




大概な事は女子と思ひ聞捨てにもせうが、大勢の中で貢に金をやつたとは、そりや何日、ドヽどう云ふ事で金をおこした。聞捨でにならぬ。サ、その譯云へ/\。



[ト書]

ト焦いて云ふ。



しか

イヽエ、譯を云はうより慥かな證據は、お前からおごさんした文見せうか。




オヽ、見よう。



しか

いま取つて來る。待つてゐさんせ。



[ト書]

ト奧へ走り入る。



岩次

アヽ、爰で又呑まうと思ふたら、しゆんだ臺詞で理に入つた。コリヤ、その枕おこせ。



吉野

アイ/\。



[ト書]

ト枕持つて行く。岩次横になる。



北六

ハテ、この臺詞を肴に呑めるではないか。



きし

そんな意地の惡い事は云はぬものぢやわいなア。



[ト書]

トお鹿、状三本程持つて走り出で



しか

慥かな證據は、今、讀んで聞かすぞえ。



[ト書]

ト文を開き讀み、此うちお紺、寢轉んで岩次に凭れかかり、煙草のんでゐる。



[しか]

ようぞやお文下され、淺からぬ御しんもじのほど嬉しく存じ候ふ、左やうに候へば、ちと/\手支へ致し候ふ事候ふまゝ、御無心ながら金子五兩おこし下され候へば山々喜び申し候ふ、この文には五兩。又この文には三雨、又は二兩と、ほんに文の來る度々に、無心を云うておこさんせぬ事はないぞえ。その度々に一兩も斷わり云うた事はないわいなア。



[ト書]

トこの文讀むうち貢、お紺が顏見ると、お紺ツンと顏を背け煙草をのんでゐる、貢お岸と顏見合せ、お岸氣の毒なこなし。貢方々の顏を見たりいろ/\あつて




ドレ。



[ト書]

ト文を取つて殘らず見て



[貢]

こりやおれが手ぢやない、似せ筆ぢや。



しか

エヽ。




元より金の無心云うた覺えはない。一體こりや誰れを頼んだのぢや。



しか

中立ちは仲居の萬野でござんす。




萬野を爰へ呼べ。



しか

呼ばいでかいな。萬野々々。



丈定

萬野々々。



萬野

アイ/\。



[ト書]

ト奧より萬野出る。貢、萬野を引付け




萬野、マア、下に居や。コレ、其方が仲立ちで、お鹿から文の來た覺えもなし、ました金を取つた覺えはないが、なんであんな事云はんすのぢや/\。



[ト書]

トお鹿、萬野を引付け



しか

コレ萬野、其方を頼んだは、今やこの頃の事ぢやないぞや。後の月の初め、マア文をやれと云やつたによつて、耻かしながら書いてやつたら、直ぐに返事が來て、その次へコレ/\、五兩の無心状。それから後へ二兩三兩、云うて來る度々に、皆其方に渡したが、その金は、どうしやつた/\。



萬野

コレお鹿さま、何をウカ/\した事お云ひぢやぞいなア。お前から受取つた金は、殘らず貢さんに渡したわいなア。




ヤイ/\萬野、どこに金を受取つた。



萬野

ソレお前に。




ヤア。



萬野

エヽ、しら%\しいこと云ひないな。お前があれ程受取つて置きながら、アヽ聞えた、お紺さまがそこに居なさるによつて、それで其やうにとぼけかいなア。そりやお前、無得心ぢやぞえ。折角お鹿さまがあげなさつた金を取らぬとは、あんまりしらにせではあるわいの。




覺えもない貢に、わりや云ひかけをするのぢやな。



萬野

覺えのない者がこの無心状。




こりや、おれが手蹟ぢやないわい。



萬野

サイナ、お前の方で人に書かしておこさんした事、わしが知ろかいなア。



[ト書]

トずつけり云ふ、貢堪え兼ね、萬野の方へ行かうとする。



きし

アヽコレ。



[ト書]

ト留めに行かうとするを北六、お岸を留め



北六

何にもわれが構ふ事はないわい。



萬野

お前の云ひ譯がないとて、わしが知らうか。サア、どうなとさんせ/\。



[ト書]

ト體を貢に突きつける。貢掴みつかうとしてこなし、氣を變へ




女を相手にするは大人氣ない。この禮は重ねて云ふ。萬野、さう心得てゐい。



[ト書]

ト胸を靜め坐る。



しか

萬野、今の一言で其方の疑ひ晴れた。ほんに女郎が客を騙すはお定まり、それに女郎を騙すとは、アノ爰な男傾城めが。



[ト書]

ト貢を睨めつける。



北六

ハヽヽヽ、皆聞いたか。おいらは田舍者なれど、藍玉を商ふお庇で、見ん事金も澤山に持つてゐる。こちらが國で云ふには、伊勢と云ふ所は、無性に錢金を欲しがると聞いたに違はず、お山を騙して金を取るとは、ハテ變つた流行なア。



次郎

取分け御師の中で薄い奴等は、錢金見るとヒリ/\と震ひさらす。大方あれが伊勢乞食と云ふのであらうぞい。



丈八

アヽ、おれも男がよか女郎を騙して、金貰ふになア。



北六

ても、厚い奴等ぢやなア。



皆々

ヘヽヽヽハヽヽヽ。



[ト書]

ト皆々貢を見て笑ふ。



しか

ほんにマア、どうしたら腹が癒ようぞ。いつそ喰ひついてこまそ。



[ト書]

ト貢に武者振りつくを取つて引付け




身不肖なれども福岡貢、女を騙かり、金を取る所存はない。馬鹿な奴の。



[ト書]

トお鹿を取つて突き放す。



こん

イヽエ、滅多に潔白には云はれますまい。




そりやなぜ。



こん

お鹿さんと譯もなし、金も借らしやんせぬお前が、なんで今夜、お鹿さんを呼ばしやんした。




それもアノ萬野が。



こん

サイナア、今夜お鹿さんを呼ばしやんしたばつかりで、お鹿さんと譯もあり、無心状を遣らしやんしたも、金を取らしやんしたも、皆お前ぢや。




ヤア。



こん

とサア、斯う云ふわたしから思ふもの、外のお方は猶の事。




でも。



こん

それ程手詰めの金なら、マアわたしに云うてくれたがよい。僅かな金を見とむない仕方、所詮わたしに云うても埓は明くまいと思うての事かえ。そりやモウ腑甲斐ないわたしでござんすによつて、さう思はしやんすも尤もでござんす。忝なうござんす。よう隔てゝおくれた。きつと禮云うたぞえ。これから隨分、お鹿さんをいとしほがらしやんせ。わたしへの面當てぢやと云うて、同じ内の女郎を捕へ、何のかのと、まだその上の金の無心。ほんに見下げ果てたと云はうか。殊に女郎は互ひに張りのあるもの、欺されたの騙られたのと、大勢の中で聲山立てゝ、側で聞いて居るその辛さ、ほんにあんまりさもしい事さしやんしたと思や、口惜しいやら耻かしいやら、わしや今爰へ消えたうござんしたわいなア。



[ト書]

トこなしあつて泣く。




イヤサ、例へどのやうな事があつたとて、女を騙し金を取るやうな、貢と思ふかい。



こん

イエ/\、もう何にも云うて下さんすな。聞きたうござんせぬ。お前の方から隔てゝ置いて、今さら何を云はしやんしても、わたしが耳へは入らぬわいなア。




サヽヽヽ、その腹立ちも尤もぢや。こりや正しうあの萬野めが仕業、と云うて女の事、云へば云ふ程馬鹿になる。何にも云ふ事はない。追ツつけ國へ歸ると元の身に立歸る。その時其方を請け出し、武士の女房。



こん

否でござんす。




ヤア。



こん

お前、國へ去んで侍ひになると云はしやんすが、わしやその侍ひがき、つい嫌ひでござんす。




ナニ、侍ひ嫌ひぢや。



こん

アイ、わたしが父樣も元は侍ひ、朋輩の讒言とやらで永々の浪人、常々云はしやんすには、コリヤ必らず侍ひと二世の約束などすなと、くれ%\とのお詞。それぢやによつて、わしや侍ひは否でござんす。




そんなら初めからさう云はぬ。今となつてなんで侍ひが否になつた。



こん

ハテ、初めから云はうにも、お前は御師、何時なりとわたしが身儘になつたら、御師を止めさせまして町家住居、町人と女夫になれば、父樣のお詞も立つ。わしや侍ひが嫌ひ、町人がよいわいなア。



[ト書]

ト貢こなしあつて




ムウ、おがぐすも云へば云はるゝと、出來ぬ事を云ふは、こりや何ぞ急に思案が變つたな。そんならいよいよ女房になる事は否ぢやな。



こん

イヽエ、否ぢやないぞえ。ハテ、侍ひを止めて町人にならしやんしたら、例へ貧しい暮らしでも得心でござんすほどに、町人になつて下さんすか。




ぢやと云うてそれがマア。



こん

ならぬかえ。お前がならにや、わたしも否でござんす。ナア岩さま、さうぢやないかいな。コレ、寢た顏せずとお聞きいなア。



[ト書]

ト岩次に凭れかゝり、こなしある。貢この體を見てこなしある。




よいワ。われが侍ひ嫌ひなら、おれも町人は嫌ひぢや。否な侍ひに今までよう附合うてくれた。忝ない、禮はまた緩りと云はう。



[ト書]

トずつと立つ。



こん

そんならいよ/\、これ限りでござんすぞえ。




念には及ばぬ。勝手にしをれやい。



[ト書]

トお紺の方へ行かうとするを萬野留めて



萬野

コレ、大事のお客の付いたお紺さま、指でもさえてもらひますまい。こなたのやうな無法者は間夫客にはせぬ。キリ/\去んでもらひませうぞ。




オヽ去ぬる。例へ居いと云うても爰んは居ぬ。先刻に預けて置いた腰の物をおこせ。



[ト書]

ト喜助刀を持つて出で



喜助

オツト、お預かり申したはこの喜助、ちやつと差いてお歸りなされませ。



[ト書]

ト岩次が刀を貢に渡す。貢腹立ち紛れに引ツたくりて差す。



萬野

エヽ、去ぬるならキリ/\去んだがよいわいの。



[ト書]

ト表へ突き出す。



しか

コレ、わしを騙した譯立てさんせ。



[ト書]

ト貢に取付く。




エヽ、知らぬわい。



[ト書]

ト蹴飛ばし



[貢]

マア、萬次郎さまに逢うて。



[ト書]

ト云ひ/\向うへ走り入る。喜助後より門口へ付いて行く。花道際にて貢が後を見送り、マアあれでよいと云ふこなしあつて、ちよつと天を拜し、ツイと奧へ入る。



萬野

ほんにマア、きつい短氣者ではあるぞ。



しか

たうとうわしをさゝほさにしくさつた。



きし

アヽ、どうぞ今のお方に逢うて下さんしたらよいが。



北六

エヽ、又ならずが事か。コリヤ、わいら、お岸を奧へ伴れて行て寢所へ入れて置け。そこへ行くぞ。



千吉

畏まりました。



丈定

サア、お鹿さまもお出で。



しか

わしも奧で酒でも飮も。



萬野

よいわいな。わしが臺詞してやるわいな。



千吉

サア/\ござんせいなア。



[ト書]

ト合ひ方になる。千野吉野お岸を連れて入る。丈八定七お鹿萬野入る。岩次起きて、三人お紺が側へ寄り



岩次

お紺でかした。よう貢を退いてくれたなア。



こん

そんなら今の樣子を。



岩次

寢た顏で殘らず聞いた。



北六

貢と今の詞詰め。



次郎

えらいものぢや。



岩次

貢とさへ手を切つたら、身共が請け出し、國元へ連れて歸り、コリヤ、徳島岩次さまと云ふ、お侍ひの奧樣だ。喜べ/\。



こん

オヽ辛氣。今云うたを、何と聞かしやんしたぞいなア。



岩次

何と聞いたとは。



こん

わしや侍ひは大嫌ひでござんすわいなア。



岩次

サア、それは貢と手を切る爲の僞はりでないか。



こん

イヽエ。



岩次

そんなら眞實に侍ひは嫌ひか。



こん

アイ、ほんまに侍ひは嫌ひでござんす。申し、お前もわたしを請け出し、女房にせうと思うてなら、侍ひを止めて町人になつて下さんせ。



岩次

ハテ、變つた物好き。お紺、すりやこの岩次、武士を捨て、町人になつたらば、いよ/\そちや女房になるわいなア。



岩次

しかとさうぢやぞよ。



こん

オヽくど。



[ト書]

ト岩次北六次郎助、三人顏見合し、



北六

戀が叶うて、さぞ滿足にあらうな。



(こん)

岩次さま、お紺があの心底を聞いては、こりや化の皮を顯はさねばなりませぬ。



北六

オヽ、町人ならば女夫にならうとは、よい壺へ持ち込んだそれが仕合せ。身共が指圖の通り、よく岩次に成りおほせた。でかした/\。



岩次

この褒美には國へ歸りましたら、藍玉を買ひ込んで、ズツシリと儲けまする。此お願ひ、御前よろしう頼み上げまする。



北六

氣遣ひしやるな。伯父大學どのは身共次第。その願ひは聞き屆けて遣はさう。



岩次

エヽ、有り難うござります。



北六

お紺、其方が望みの通り、北六は町人。



次郎

藍玉屋の女房に、お紺とはキツシリと嵌つた。



北六

エヽ、爰な。



岩次

あやかり者め。



[ト書]

ト脊中を叩く。



こん

マア/\待つておくれいな。わしやとんと合點がゆかぬ。藍玉屋の北六さまと云ふは、お前ぢやないかいな。



北六

さればサア、藍玉屋の北六と云ふ町人になつて居たには、深い樣子ある事サ。



こん

ムウ、そんなら阿波の御家中、徳島岩次さまと云うたは。



岩次

誠はお出入りの町人、藍玉屋の北六ぢや。



こん

何の爲に其やうに、入れ替つて居やしやんしたのぢやえ。



岩次

これには段々曰く因縁、藍玉屋北六が岩次さまと入れ替つて、この伊勢に逗留するその譯は、あの貢めが古主今田萬次郎め、殿の仰せを請けて、青井下坂の刀を求めに、この伊勢へ出立、又おいらは伯父御大學さまに頼まれ、その下坂の刀を横合から引ツたくつて、國へ持つて去んで、伯父御の手から武將へ差上げさつしやると、大學さまは上首尾、殿は不首尾。その誤りで萬次郎めはれこさ。併し、伊勢支配藤浪、萬次郎とは縁者、そこで阿波淡路と隔てゝ、また萬次郎が岩次さまを、ろく/\に知らぬを幸ひ、道中から入れ替つて、この北六が岩次さまに成りおほせ、まんまと伊勢路へ入込んだ。所に萬次郎が身の上を世話する福岡貢め、此奴ぐるめにしまうてくれうと、樣々に手を廻して、大方十が九ツ、二人ながら命はない。時にあの貢めを、此やうに意趣遺恨を含む、元はと云へばお紺、われぢやて。逗留のうちにフト油屋へ來て、われを見ると、えらう惚れたによつて、とつくりと萬野に聞けば、あれと深い馴染みぢやげな。それからモウ/\、けたいが惡うなつて、おのれ貢めを片付け、われを女房にせうと思うた、願ひが叶うて此やうに、有り難い事はないわいやい。



こん

とんとそれで樣子が知れたわいなア。アノ、そんなら、いよ/\わたしを國へ連れて去んで、女房に持つて下さんすかえ。



北六

ソリヤ北六、お紺が方から女房に持つてくれるかと、詞詰めだぞよ/\。



次郎

今までヒン/\したとは引替へて、お紺の方から急き來たぞや/\。



岩次

こりやモウどうも堪えきれぬわいやい。



[ト書]

トお紺に抱きつき



[岩次]

岩次さま、この喜びに金はなんぼでも續けまする。お前もお岸を請け出さつしやりませ。



北六

そりや過分な。これまで段々世話になる其方ゆゑ、身共も遠慮いたして居つた。さうしてたもれば、身が戀も叶ふといふものだ。



こん

イヤ、北六さまえ。



岩次

ヤア/\。



こん

わしやまだお前に、問ひたい事がござんすわいなア。



岩次

何なりと、問うたり/\。



こん

外の事でもござんせぬが、お前の懷に大事さんにしてゐやしやんす袱紗包み、ありや何でござんすえ。



岩次

ヤアあれか。



こん

何やら書いた物さうな。ちよつとわたしに見せて下さんせぬかえ。



岩次

イヤ、ありや女子の見る物ぢやない。ありやソレ、オヽさうぢや。琴平さまの守ぢやわいの、



こん

ても、きつい嘘々。



岩次

なんで/\。



こん

あのやうに肌身離さず、大事にかけてゐやしやんすからは、ありやどうでもお前の色さんの起證と、わしや思ふわいな。



岩次

ハテ滅相な。



こん

さうでなか見せて下さんせ。



岩次

でも、これはどうも。



こん

見せさしやんせぬは、矢ツ張り起證ぢや。



岩次

なんのマア。



こん

見せとむなか措かしやんせ。ようござんす。其やうにお前の心にかけごがありや、わたしがなんぼう誠を盡したとて、何の役に立たぬ事。エヽ/\、辛氣な事ではあるわいなア。



[ト書]

ト腹の立つこなし。岩次、眞面目になる。北六次郎助氣の毒がり



北六

コレサ北六、お紺があのやうに實を盡すに、なぜ物を隱すぞい。その懷中な袱紗包み、出して見せてやりやいなう。



次郎

心が變らぬうちに、出した/\。



岩次

エヽ、二人ながらやかましい。コレ、この懷な袱紗包みは彼の折紙。



北次

ヤア。



岩次

ナ、折ナ、紙々のお札やお守でござるわいなう。



北六

ムウ、それなれば迂濶に出されぬも尤も。



こん

よいわいなア。見せられぬものを、見ようと云うはわたしが無理ぢや。北六さん、もうわたしや請け出さるる事は否でござんす。女房になりやせぬぞえ。變替へつてござんす程に、そう思うて下さんせ。こんな所に居ると、一倍腹が立つ。こちや二階へ行て、ドリヤ寐ようか。



[ト書]

ト二階へ行かうとするを、岩次とめて



岩次

コリヤ待つてくれ。てもさても、女郎に似合ぬ悋氣深い奴。大事の物なれど其方の疑ひ晴らしに、袱紗口渡す程に、爰で明けるともしひよつと、外の者が見ては大事ぢや。二階へ持つて行て、ソツと明けて見やいの。



[ト書]

ト渡す。



こん

そんなら、二階へ行て



岩次

明けて見て疑ひ晴らしや。



こん

待つてゐるぞえ。



岩次

早う行きや。



こん

アイ。



[ト書]

ト唄になり、お紺、右の袱紗包み持つて中二階へ上がる。



北六

時に北六、あの折紙があつても、肝心の下坂がなくては、明日出立もならぬ。今夜中に貢めを殺らして、下坂を奪ひ取る、手短かな思案をせずばなるまいてや。



岩次

オツト、そこらはぬからぬ、我れらがあぢようしておいた。



北次

あぢよう出來たか/\。



岩北

生文珠が智惠を振うた/\。



北次

出來た/\。



[ト書]

ト奧より萬野、大小を持つて出て



萬野

コレ、してやつたぞ/\。



三人

何ぢや。



萬野

先刻にお紺さまと貢と、口舌の後が喧嘩になり、何が去ぬると云うて預けた腰の物を、おこせと云ふ所へ、喜助が持つて出て渡したは、岩さまのお刀、貢はうろたへ眼で、岩次さまの刀を差いて、ツイと去にをつたわいな、跡に殘つたはこの刀、こりや貢が差いて居つた下坂の刀。なんと手を濡らさず、此方へせしめたは、めでたいぢやござんせぬか。



[ト書]

トこれを聞いて岩次、大いに仰天のこなし。北六喜び刀取つて見て



北六

成る程、こりや北六の刀とは相違。すりや貢めが取違へ、此方の刀を差いて青井下坂を置いてうせたか。



次郎

折紙と云ひ、下坂まで手に入れると云ふは



北六

これも萬野が働らき。



萬野

えらからうがな。



北次

えらい/\。



萬野

祝うて一つ打たうかいな。



三人

ヤア、しやん/\、も一つせい、しやん/\、祝うて三度、おしやんしやんのしやん。



[ト書]

ト此のうち岩次、皆を突き退け



岩次

エヽ、違うたわいやい/\。



[ト書]

もがく。



次萬

何が違うた。



岩次

先刻に貴達樣の知らぬうちに、貢めが預けた下坂の刀と此方の刀と二腰とも、ソツと盗んで出で、丁度寸尺の合ふを幸ひ、貢が下坂の刀の身を、此方の鞘へはめて置いたれば、その刀の身は矢ツ張り此方ので、貢めが取違へた差いて去にをつたが、誠の下坂ぢや。



三人

ヤアヽ。



[ト書]

ト恟り。



岩次

折角物した物を、また元々へ戻してのけた。



北六

エヽ、忌々しい。



[ト書]

ト持たる刀を打ちつける。



岩次

活文珠を、らりにしくさつた。



萬野

大事ござんせぬ。仕樣がござんす。コレ、喜助どん喜助どん。



喜助

オイ/\。



[ト書]

ト奧より出る。



萬野

コレ、こなたも大概の事したがよいわいの。



喜助

何ぢやいの。



萬野

コレ、岩次さまのお刀と、貢の刀と取違へて渡したぞや。



喜助

エヽ。



萬野

行て取返してござんせ/\。



喜助

ようござりまする。わたしが一走り行て取返して參りませう。



北六

コリヤ、この貢が刀を持ち行き、其方が麁相でござると云つて、此方の刀と取替へて戻り居らう。



喜助

ハイ/\、畏りました。



皆々

早う/\。



喜助

オツトまかしよとな。



[ト書]

ト刀を腰に差し、尻からげ花道の眞中程まで行き、舞臺を見送り、皆々の顏を見て舌を出し、ニツタリと笑ひ、いかい白痴めと云ふこなし。向うへ走り入る。萬野、思ひ出したこなしにて



萬野

アヽ、鈍な事をしたわいな/\。



三人

何ぢや/\。



萬野

よう思へば、あの喜助は、貢が家來筋と、チラリと聞いたわいな。



三人

ヤア。



萬野

下坂の刀と知つて、取違へた顏で貢に渡しくさつたわいな。



三人

ヤア。



萬野

よい/\、わしが行て取返して參じませう。



北六

イカサマ、此方の顏出しては後日の邪魔。



岩次

追ひかけうにも腰が腑拔け玉になつた。



萬野

お前方は思ふ色さまを抱いてゐさんせ。その間にわしは。



北六

そんなら北六。



岩次

我れらは先へ御免々々。



次郎

萬野、一時も早う/\。



萬野

合點でござんす/\。



[ト書]

ト萬野向うへ走り入る。北六次郎助は奧へ入る。岩次は二階へ上がる。



[ト書]

トこれより川崎音頭になり、内にて踊り子大勢の聲々にて、よい/\/\よいやさ、と掛け聲するを、向うよりバタ/\にて貢、一散に走り出で、ツカ/\と内へ入り




喜助、萬野々々。



[ト書]

ト方々を呼び喚き



[貢]

ムウ、此やうに呼んでも、二人ながら出て來ぬは、さては二人とも、件の奴等と一つになり、此方の心急くまゝ似せ物を掴ませ居つたのぢやわいやい。



[ト書]

ト云ふうちお紺、二階の障子を明け



こん

貢さん、又ござんしたか。




おこん。



[ト書]

ト下よりキツと見上げる。



こん

わしやどうあつても侍ひは否でござんす。書いて置いたこの起證、これ取つて置かしやんせ。



[ト書]

ト卷紙の中へ件の折紙を入れ抛りつける。貢取上げ開き、折紙を見て恟り。




すりやコレ。



[ト書]

トお紺ピツシヤリと障子を鎖す。貢行燈の明りにてとくと見る。



[貢]

こりや先達て騙り取られた誠の折紙。エヽ忝ない。



[ト書]

ト懷へ入れ右の状を見て。



(こん)

人目繁く候ふゆゑ退き文と見せ認め參らせ候ふ、先程はお鹿づらと譯あるやうに申し、その上金まで騙し取りになされ候ふやう申し候へども、さら/\お前に覺えのない事は、わたしがよう存じ居りまゐらせ候ふ、皆これは萬野とお鹿が馴合ひ、お前に惚れたと云ふも、金を遣つたと云ふも皆嘘にて、誠の事は阿波の客に頼まれ、お前に無實の難を云ひ掛け、顏の立たぬやうにして、わたしに愛想を盡かさせ、お前と手を切らせ、國へ連れて去なうと云ふ企みにて候ふ、その事推量いたし候ふゆゑ、わざとお鹿づらの事を云ひあがり、その上俄に侍ひは否ぢやと難題を申し掛け、わざと縁を切るやうに見せかけ候ふを、阿波の客も心を緩し、いつぞや萬次郎さまの騙られなさつた折紙を取返し遣はしまゐらせ候ふ、また折紙持つてゐ候ふ徳島岩次と云ふ侍ひは嘘にて、實は藍玉屋北六と云ふ者にてござ候ふ、また北六と申す者は徳島岩次と云ふ侍ひにて、皆國元の伯父御の廻し者とやら、わざと町人と入れ替つてゐたのに候ふ、眞實縁を切る心にてはござなく候ふまま、必らず/\御心變らせ下されまじく候ふ、願ひ上げまゐらせ候ふ、かしく。




ムウ、すりや彼奴等が身の上を聞いて知らさう爲、まつたこの折紙を取返さうばつかりに、素氣なう云うたか。お紺、さうとは知らず蹈み打擲、堪えてくれ。其方が志し過分なぞや。マア、折紙は手に入つた。これから下坂の詮議、腹立ち紛れ氣の急く儘、そこへ付け込んで外の刀を渡し居つたは、大方萬野めが仕業に極まつた。



[ト書]

ト向うより萬野バタ/\にて走り出で貢を見付け



萬野

ヤア、この刀を。



[ト書]

ト貢が一腰に手をかけるを留めて




萬野、此方の一腰も返さず、よう似せ物を渡したなア。身が刀を出せ/\。



萬野

オヽ、何云ひぢやいなア。お前の刀は喜助が預かつたぢやないかいなア。それをわしが知らうかいなア。マア、その刀はお客樣のぢや。此方へおこさんせ。



[ト書]

ト取りにかゝるを兩方より引ツ張り




おれが刀から出し居れやい。



萬野

知らぬわいなア。




知らぬとは野太い奴の。



[ト書]

ト持つたる刀の鞘とも萬野を叩く。



[貢]

出し居れ/\。出し居らうて。



[ト書]

トさん%\に叩き据ゑると、仕掛けにて鞘割れて思はず萬野を切る。萬野ひやりとするゆゑ、撫でゝ見て、血だらけになりしゆゑ恟りして



萬野

アヽ、切つた/\/\。



[ト書]

ト貢キツとなつて




おどね立てな。



[ト書]

トぽんと切る。萬野、一刀に死ぬる。次郎助、奧より寢ぼけ顏にて欠伸しながら出る。此うち貢刀を搜しに奧へ行かうとする。次郎助、萬野の死骸に、躓き見て



次郎

ヤア、切つたワ。



[ト書]

ト云ふ聲に貢切つて行く。次郎助いろ/\うろたへ逃げ廻り、トヾ一刀切られ逃げて入る。これより貢、正面の暖簾を下ろすと、内にけん箪笥のやうな戸棚あり、この鏡戸を外し、内にある刀掛けに客の腰の物三本掛けあり、これを持ち出でゝ行燈の火にて一々改め見てさうでないと投げ捨て、また血刀提げて二階へ行かうとする。此うち北六奧より出で、貢を後抱に抱き、よろしく立廻りあつて、トヾ貢、北六が眞向を切り割る。北六ウンとこける。此うち岩次二階より下りて、貢に切りかゝるを、立廻りにて岩次が片腕を切り落す。岩次ウンと倒ける。北六起上がつて又貢にかゝるを切り立つる。北六二階へ上がる。貢後より北六が尻こぶたを切る。切られながら二階に逃げ込む。貢續いて二階へ追ひかけ入る。チヨン/\引き道具。

此うち始終奧にて川崎音頭踊の掛け聲、右切る度々に本蘇袍にて見え物凄く、道具段々東へ引いて中二階廻るなり、それより後は奧座敷へ行く廊下の見え、この廊下のよき所に大きな手水鉢に、餘り高うない小柴垣これともに引出す。廊下の留りは奧座敷の體、道具とまると中二階よりお紺飛び降り、廊下を走り、あちこちとうろたえる事ありて庭へ飛び降り、柴垣へ隱れると、北六これも中二階より廊下へ飛び下り、手水鉢の後へ隱れると、二階の内よりワツと云うてお鹿、一かせ切られ、飛んで下り廊下へ逃げるを、貢續いて飛び下り、廊下にてお鹿を切り殺す。これよりまた定七丈八出て切らるゝと、踊り子大勢、花笠緋縮緬の拵らへにて奧より逃げて出る。


皆々

あれい/\/\/\。



[ト書]

ト廊下を走る。貢この者どもへ拔身を觸まいと身を避けるこなし。このあとへ千野吉野おきぬ逃げて出て、これも避けるこなしにて、怪我にちよつと手を負はせるこなしよろしくあつて、皆々逃げて入る。おきの、後より出る。



きの

貢さま、待たしやんせ。



[ト書]

ト抱き留めるを、ハテ退かしやれと振り解く。機にておきのが横腹を突く。ウンと倒ける。貢見て南無三寶と心緩む所を、北六縁の下より貢が足に取付き下ろさうとする。貢、北六を蹴飛ばし續いて庭へ飛び降り、立廻りにて又北六を一かせ切る。北六、切られながら柴垣へ逃げ込む。お紺驚ろき逃げて出るを、北六と思ひ疊みかけて切り付けるをお紺、あつちこつちと逃げ廻りトヾ身を縮め手を上げて震うてゐる。貢、拔身を振り上げながらお紺を見て、ギツクリとなつて、ヂツと心を落しつける體。お紺慄ひ/\貢が後へ廻り、脊中を撫りおろす。貢氣を落し付け、顏にてお紺に先へ逃げいとして見せる。お紺いらへ、この體を見て、先へは逃げぬとかぶり振り泣くを、貢、足手纏ひぢやと呵るこなし。そんなら先へ行く早うござんせと、兩方物云はずに始終こなしにて、お紺慄ひ/\前後見送り見送り向うへ入る。貢ツカ/\と花道の角へ行き、お紺が後を、見送る。此お紺が足音、貢と思ひ、北六、顏も體を眞赤に蘇枋だらけになつて、柴垣よりヌツと出で、手水鉢へヨロ/\と取付き、切られて聲の出ぬこなしにて。



北六

人殺しぢや。



[ト書]

ト悲しい聲にて云ふ。貢これにてキツと拔身を構へ、北六を見る。北六、身を縮める。貢見えよく幕。

但しこの幕引くと直ぐに雷、夕立の音凄まじく鳴る。此うち道具飾り替へ、早幕にて明けると、鳥羽の伯母の内になるなり。

[1] A character here is illegible.