- 役名==九郎判官義經。
- 武藏坊辨慶。
- 龜井六郎重清。
- 駿河次郎清繁。
- 佐藤四郎兵衞忠信。
- 逸見の藤 太。
- 義經妾、靜御前。
本舞臺、三間の間、上の方へ寄せて、朱の大鳥居、これに稻荷社と云ふ額を 掛け、上に杉の大樹、下の方、玉垣、石燈籠、下の柱松の立ち樹、好き所に臺附きの 松の樹、すべて伏見稻荷社の體。ドンチヤンにて、幕明く。
[ト書]
ト奧にて
大勢
エイ/\ワウ。
[ト書]
ト鬨の聲を上げる。
[唄]
吹く風に、連れて聞ゆる鬨の聲、物凄まじき景色かな、昨日は北闕の 守護、今日は都の落人の、身となり給ふ九郎義經、。。數多の武士も散り%\になり、 龜井六郎駿河の次郎、主從三人大和路へ、夜深に急ぐ旅の空。
[ト書]
ト好き時分、向うより、義經、紺羽織、胸當、手甲、脛當、毛沓にて、金の采を 持ち出て來り、後より次郎、半切れ胸當、小手脛當の形、重ね草鞋にて出て來る。
[唄]
後振り返れば堀川の、御所も一時の雲煙り、浮世は夢の伏見道、稻荷 の宮居に差かくれば、龜井の六郎、遲ればせに馳せ付け。
[ト書]
ト本道より、六郎、半切れ小手、脛當の形、重ね草鞋にて、帛紗包みの鼓を持ち 出で來り、舞臺へ來て
六郎
正しくあの鯨波は鎌倉勢、後を見するも殘念なり。お許しを蒙むりて、一合戰 仕らん。
義經
いやとよ重清、都にて舅川越太郎が云ひし、鎌倉どのゝ憤り、明白に云ひ開き、 卿の君の敢へなき最期も、義經が身の云ひ譯なるに、早まつて辨慶が、海野の太郎を 討つたゆゑ、止む事を得ず、都を開きしは、親兄の禮を思ふゆゑ。この後は猶以て、 鎌倉勢に刃向はゞ、主從の縁もこれ限り。
[唄]
仰せに二人も腕撫で擦り、拳を握つて扣ゆる折柄、義經の御後を、慕 ひ焦れて靜御前、こけつ轉びつ來りしが、それと見るより縋り付き。
[ト書]
ト向うより靜御前、前幕の形にて出で來り
靜
エヽ、胴慾な我が君さま。
[唄]
暫し涙に咽びしが。
[靜]
武藏どのを制せよと、わたしを遣つたその後で、早御所をお立ちと聞き、二里三 里遲れうとも、追ひ付くは女の念力、ようも/\慘たらしう、この靜を捨て置いて、 二人の衆も聞えませぬ。わしも一緒に行くやうに、執成し云うて下さんせいなア。
[唄]
歎けば共に義經も、情に弱る御心、見て取つて駿河の次郎。
次郎
主君にも道すがら、噂なきにはあらねども、行く道筋は敵の中、取分けて落ち行 く先は、多武の峯の十字坊、女儀を同道なされては、寺中の思惑如何あらん。
[唄]
透かし宥むる時しもあれ、武藏坊辨慶、息を切つて馳せ着き。
[ト書]
ト向うより辨慶、前幕の形にて、走り出て來り、舞臺へ來て
辨慶
土佐坊、海野を仕舞つて退けんと、都に殘り、思はず遲參仕る。
[唄]
云ひも敢へずに御大將、扇を持つて丁々と、なぐり情も荒法師、目鼻 も分かず叩き立て。
義經
坊主、びくとも動いて見よ。義經が手討ちにせん。
[唄]
御怒りの顏色に、思ひがけなき武藏坊、はつと恐れ入りにける。
辨慶
この間大内にて、朝方どのに惡口せしとて御勘當、永々出仕せざりしが、靜さま の詫び言で、御免あつたは昨日今日。その勘當のぬくもりが、手の中にほの/\と、 まだ冷め切らぬ其うちに、又もや御機嫌を損なうたさうなれど、辨慶が身に取つて、 不調法せし覺え更になし。
義經
ヤア、覺えないとは云はれまい。鎌倉どのと義經が兄弟の不和を取結ばんと、川 越が實義、卿の君が最期を無下にして、義經が討手に上りし、鎌倉勢をなぜ切つた。 これでも、汝が誤まりでないか。サア、返答せよ。ドヾどうぢや。
[唄]
はつたと睨んで宣へば、武藏は返す詞もなく、頭も上げず居たりしが。
辨慶
憚りながら、その事を、存ぜぬにてはあらねども、正しく御所の討手として、上 つたる土佐坊、如何に御意が重いとて、主君を狙ふを、まじ/\と、見て居る者のあ るべきか。さある時は日本に、忠義の武士は絶え果てなん。誤まりならば幾重にも、 お詫び言仕らん。如何に御家來なればとて、あんまり酷い叱りやう。これと云ふも我 が君の、漂泊より起つた事。エヽ、口惜しい。
[唄]
無念々々と拳を握り、ついに泣かぬ辨慶が、足らぬ泪をこぼせしは、 忠義ゆゑとぞ知られける、靜も武藏が心を察し。
靜
あれ程に云うてぢや程に、どうぞマア、御料簡遊ばして遣はされませいなア。
[唄]
和らかな詫び言の、その尾に付いて、龜井、駿河、御免々々と詫びけ れば、義經面を和らげ給ひ。
義經
母が病氣で故郷へ歸りし、四郎兵衞忠信を、我が供に召連れなば、武藏が詫び は聞かねども、行く先が敵となつて、一人にても好き郎黨を、力にする時節なれば、 この度は赦し置く。以後をキツと嗜なみ居らう。
[唄]
仰せに辨慶、ハツとばかりに頭を下げ、坊主頭を撫で廻し。
辨慶
これに懲りよ武藏坊。アヽ、靜さま、重ね%\の詫び言、いかいお世話でござ りまする。
靜
マア、お詫びが濟んでめでたい。これからはこの靜が、君の御供をするやうに、 執成し頼む武藏どの。
[唄]
思ひ詰めたるその風情。
辨慶
いま詫び言頼んだとて、當り眼な返報、義理にも、アツと申したけれど、この辨 慶その意を得ぬ。御家來さへ後先に、引分れた忍びの旅。落ち付く所は兼ねて聞く多 武の峯、これ以て女は叶はず、夕に變る人心なれば十字坊の所存も計り難し。これよ り道を引違へ、山崎越えに津の國尼ケ崎、大物の浦より御船に召し、豐前の尾形をお 頼みあらうも知れず、それなれば長の船路、猶以てお供はなるまい。フツツリと思ひ 切つて、都にとゞまり、君の御左右を待ち給へ。
[唄]
云ふにワツと泣き出し。
靜
ハアヽヽ。
[ト書]
ト泣き落し。
[靜]
今までお側に居た時さへ、片時お目にかゝらねば、身も世もあられぬこの靜。い つ又逢はれる事ぢややら、行く先知れぬ長の旅、後に殘つて一日も、なんと待つて居 られうぞ。如何なる憂き目に逢ふとても、ちつともいとはぬ、武藏どの、連れて行て 下さんせいなア。
[唄]
泪ながら我が君に、ひし/\と抱き付き、離れがたなき風情なり、靜 が別れに判官も、目をしばたゝき在せしが。
義經
只今武藏が云ふ通り、行く先知らぬ旅なれば、都に殘り義經が、迎ひの船を相待 つべし……ソレ。
[唄]
龜井に持たせし錦の袋、それこなたへと取出し。
[義經]
その品これへ。
[ト書]
ト龜井に持たせし皷を取り
[義經]
これこそ年來義經が、望みをかけし初音の皷、この度法皇より下し給はり、我が 手には入りながら、一手も打つ事なり難きに、兄頼朝を討てとある、院宣のこの皷、 打たねば違勅の科遁がれず、打つては正しく鎌倉どのに敵對も同然、二つの是非を分 け兼ねたるこの皷、身をも離さず持つたれども、また逢ふまでの印とも、思うて朝夕 慰めよ。
[ト書]
ト皷を靜に渡す。
[唄]
渡し給へば手に取上げ、今まではさり共と、思ふ願ひの綱も切れ、皷 をひしと身に添へて、かつぱと伏して泣き居たる、龜井の六郎進み出で。
六郎
長詮議に時移り、土佐坊が殘黨ばら、討つて來なば御大事。イザ。
[唄]
重清に諫められ、涙と共に立ち給へば、靜は其まゝ我が君の、御袖に 縋り付き。
靜
自ら一人振り捨てられ、焦れ死に死なんより、淵川へなと身を投げて、死ぬる/ \、死ぬるわいなう。
[唄]
泣き叫べば、人々も持て餘し。
次郎
過ちあつては我が君の、御名の瑕瑾。
[唄]
なんと詮方駿河の次郎、立寄つて會釋もなく、取つて引退け。
[次郎]
幸ひの縛り繩。
[唄]
皷の調べ引解き、靜の小腕手ばしこく、過ちさせぬ小手縛り、道の枯 木に皷と共に、がんじ絡みに括し付け。
[ト書]
ト皷の調べを解き、これにて靜を括り、皷と共に臺付きの松の木へ繋ぎ
[次郎]
サア、邪魔は拂うたり。イザ。
三人
お立ちあられませう。
[唄]
いざさせ給へと諸ともに、道を早めて急ぎ行く。
[ト書]
ト義經先に龜井、駿河、辨慶付いて、鳥居の内へ入る。靜殘り
[唄]
後に靜は身を
もがき、我が君の後影、見ては 泣き、泣いては見。
靜
エヽ、胴慾な駿河どの、情にてかけられた、縛り繩が恨めしい。引けば悲しやお 形見の、鼓が損ねう、なんとせう。解いて死なせて下されいなう。
[唄]
聲をばかりに泣き叫ぶは、目も當てられぬ次第なり、落ち行く義經遁 がさじと、土佐が郎黨逸見の藤太、數多の雜兵、銘々松明、腰提灯、道を照らして追 ひ駈けしが、枯木の蔭に女の泣き聲、何者ならんと立寄つて。
[ト書]
ト向うより、藤太、半切れ、小手、脛當の形、大小、襷、鉢卷、重ね草鞋にて出 て來る。後より軍兵四人、弓張り提灯、十手を持ち、出て來り、舞臺へ來て、靜を見 付け
藤太
ヤア、此奴こそ音に聞く、義經が妾の靜と云ふ白拍子。繩までかけて宛行うたは、 巧し/\。この皷も義經重寶せし、初音と云ふ皷ならん。この道筋に判官も、隱がれ 居るに疑ひなし。福徳の三年目、エヽ、忝ない。
[唄]
藤太手早く繩切り解き、皷を奪ひ取り、引立て行かんとする所へ、四 郎兵衞忠信、君の御跡慕ひ來て、斯くと見るより飛びかゝり、藤 太が肩骨ひツ掴み、初音の皷を奪ひ返し、宙に引ツ提げ二三間、取つて投げ退け、靜 を圍ひ、ふんぢかつて立つたるは、心地よくこそ見えにけれ。
[ト書]
ト向うより、忠信、半切れ、胸當、小手、臑當の形。重ね草鞋にて出で來り、ツ カ/\と寄つて、藤太を取つて見事に投げ退け、靜を圍ひ、見得。
靜
ヤア、忠信どの、好い所へ、ようマア來て下さんしたなア。
[ト書]
ト喜ぶ。藤太、起上がり
藤太
さては忠信、好き敵。搦め取つて高名せん。者ども、ソリヤ。
軍兵
やらぬワ。
[ト書]
ト取卷く。
忠信
ヤア、殊勝らしい、うんざいめら。ならば、手柄に搦めて見よ。
[唄]
云はせも置かず双方より、捕つたとかゝるを引外し、首筋掴んで、え いやつと、右と左へもんどり打たせ、隙間もなく後より、大勢拔きつれ切つてかゝれ ば、心得たりと拔き合せ、茅花の穗先と閃めく刀を、飛鳥の如く飛び越え跳ね越え駈 け廻り、肩身肩骨薙ぎ廻れば、わつとばかりに逃げ退きたり。
[ト書]
ト軍兵皆々かゝる。忠信、立廻り、トヾ軍兵下座へ逃げて入る。遲れて逃げる逸 見の藤太が首掴んで、
だうと投げ、足下に蹈まへ
忠信
汝等が分際で、この皷を取らんとは、胴より厚き面の皮、打破つてくれう。
[唄]
ぼん/\と蹈みのめせば、ギヤツとばかりを最期にて、其まゝ息は絶 え果てたり。
[ト書]
ト忠信、藤太を蹈み殺す。
[唄]
鳥居の元の木蔭より、義經主從駈け出でゝ。
[ト書]
ト鳥居の内より、義經、次郎、六郎、辨慶出て
義經
珍らしや忠信。
[唄]
仰せを聞くよりハツとばかり、こは存じよらぬ見參と飛び退つて手を 突けば、龜井、駿河、武藏坊、互ひに無事を語り合ふ、忠信重ねて頭を下げ。
忠信
先づは變らぬ君の尊顏、拜し申して拙者も安堵某も母が病氣見舞ひの爲、お 暇賜はり、生國出羽に罷り下り、長々の介抱、程なく母も本腹 いたし、罷り上らんと存ずるうち、君腰越より追ひ歸され、鎌倉どの御兄弟、 御仲不知と承るより、取る物も取り敢へず、都へ歸る道すがら、土佐坊君の討手と聞 き、夜を日についで堀川の御所へ今晩駈け付けしに、はや都を開かせ給ふと、聞くよ りこれまで御後慕ひ、思ひがけなき靜さまの、御難儀を救ひしは、我が存念の屆きし ところ。
[唄]
申上れば、御喜悦あり。
義經
ムウ、我れも當社へ參詣して、今の働らきを見屆けたり。鎌倉武士に刃向ふなと、 堅く申しつけたれど、土佐坊討たれし上からは、その家來を忠信が、討つたるとて構 ひなし。今に始めぬ汝が手柄、天晴れ/\。取分けて兄繼信も、我が矢面に立つて討 死したるは、稀代の忠臣その弟の忠信なれば、我が腹心を分けしも同然、今より我が 姓名を讓り、清和天皇の後胤、源の九郎義經と名乘り、まさかの時は判官に、成り替 つて敵を欺むき、後代に名を止めよ。即ち當座の褒美を得させん。
[唄]
家來に持たせし、御着長、忠信にたびければ、ハツとばかりに押頂き、 頭を土に摺り付け/\。
[ト書]
ト駿河に持たせし鎧と、忠信の前へ直す。
忠信
土佐坊づれの家來を、追ひ散らせしとあつて、御着長を下し賜はるその上に、 御姓名まで賜はるは、生々世世の面目、武士の冥加に叶ひし仕合せ、有り難う存じ奉 りまする。
[唄]
天を拜し地を拜し、喜び涙に暮れければ、判官重ねて。
義經
我れはこれより、九州へ立越え、豐前の尾形に心を寄せん。汝は靜を同道して、 都に止まり、萬事よろしく計らうてよからう……ナニ靜、便りもあらば音づれん。さ らば。
[唄]
さらば/\と立ち給へば、今が誠の別れかと、立寄る靜を、武藏坊、 龜井、駿河立ち隔て、押隔つれば忠信も我が君に暇乞ひ、互ひに無事をうなづき合ひ、 嘆く靜を押退けて、心強くも主從四人、山崎越えに尼ケ崎、大物指して出で給ふ。
[ト書]
ト義經先に、六郎、次郎、辨慶下座へ入る。忠信、靜殘つて後を見送り、思ひ入 れ。
[唄]
これなう暫し待つてたべと、行くを制し留むれば、御行方を打守り。
靜
御顏を見るやうで、戀しいわいなう。
[ト書]
ト泣き落す。
[唄]
戀しいわいのと地に平伏し、正體もなく泣きければ。
忠信
オヽ、道理々々、さりながら、別れも暫し、この皷、君の筐とあるからは、君 と思うて肌身に添へ、憂さをお晴らしなされませ。
[唄]
下し賜はる御着長、ゆらりと肩にひツかたげ、宥め宥めて手を取れば、 靜は泣く/\筐の皷、肌身に添へ、盡きぬ名殘に咽せ返り、涙と共に道筋を、辿り/ \て。
[ト書]
ト忠信は鎧、靜は皷を持つて、兩人花道より入る。
幕
- 役名==九郎判官義經。
- 武藏坊辨慶。
- 龜井六郎重清。
- 片岡八郎清繁。
- 娘お安實ハ若君。
- 銀平女房。
- お柳實ハ典侍の局。
- 渡海屋銀平實ハ新中納言知盛。
本舞臺、三間の間、二重舞臺。眞中に暖簾口、上の方、赤壁、これにいろ/ \の帳面。この上、誂らへの神棚、神酒徳利、燈明、下の方、戸棚、この所に菰包み の荷物を重ね、ズツと上手に、九尺の障子屋體、いつもの所に門口。爰におため、お とく、前垂れ掛けにて、爼板に向ひ、大根を切つて居る。上にお安、寢て居る。蒲團 かけあり、門口の側に灘助、梶六、太郎藏、五郎太、船頭の拵らへにて、右菰包みの 荷物を舞臺へ下ろして居る。すべて船問屋の體。てんつゝにて、幕明く。
とく
マア/\、皆さん一服
ため
のましやんせいなア。
灘助
イヤ、とてもの事に、この荷物を積込んでしまふべい。
梶六
それ/\、さうして緩くりしてのまう。
太郎
おためさんや、おとくどんの顏を見ながら
五郎
煙草にして、小當りもよからう。
兩人
又そんな、てんがうばつかり。
灘助
てんがうさまは六月だ。
梶六
囃すもお好き。
太郎
おきやアがれ。
[ト書]
ト此うち四人、荷を門口に運び
灘助
さうして、もう荷はこれきりかよ。
とく
サア、西國へ行く分は、それぎりでござんすが
ため
旦那さんの仰しやるには、まだ牛窓へ行く大事の荷物が
とく
中の間にござんすわいなア。
太郎
そんなら、もう一返り來ずばなるまい。
灘助
さうサ、おいらは殘つて、その荷物を調べるうち
梶六
二人は、舟場の遣繰りをするが好い。
五郎
何にしろ、マア、此奴を積込んでしまふべい。
太郎
それがいゝ。サア、やらかせ。
[ト書]
ト灘助、梶六手傳ひ、太郎藏、五郎太、荷を擔ぎ上げ
灘助
そんなら、早く頼むぜ。
梶六
ドレ、奧の荷を調べよう。
[ト書]
ト始終此うちてんつゝ、活け殺しにて、灘助、梶六、暖簾口へ、太郎藏、五郎太、 荷を擔ぎ向うへ、双方入る。兩人の女、料理拵らへして居て
とく
成る程、聲の大きな衆ぢやぞいなア。
ため
その大聲にも構はず、お安さんが爰に好う寐入つて
とく
サア、風でも引かせ申してはと、わたしが、蒲團をかけるも知らず
ため
後生樂のものぢやぞいなア。
[ト書]
ト云ひながら介抱して居る。合ひ方になり、障子の内より、辨慶、やつし山伏に て、風呂敷包みを背負ひ、出て來る。靜かに兩車の音。
辨慶
イカサマ、今日は日和だと思つたら、又ぼろ付いて來たさうだ。
[ト書]
ト女中みて
とく
オヽ、これはお客僧さま。さぞマア、御退屈でござりませう。
ため
さうして、おツ付け御膳を出しますのに、どこへお出でなされまする。
辨慶
イヤモウ、川留めに逢つた旅人のやうだと、好く云ひますが、西國への日和待ち で、連れ共もケロリンカン。わしもあんまりホツとした。内に只居やうより、西町へ 行つて、買ひ物でもして來ようと思つて。
とく
左樣でござりますか。併し、出船の雲が見えるかして、荷物を船へ積みましたれ ば、晴れ申すと、直ぐに出船。お手間を取らずに、早う戻つて。
辨慶
ムウ、さういふ事なら歸り途、船場へ廻つて來ようわいの。
ため
それでもあなた折角と、外のお客へは鳥貝鱠なれどお出家さまの事ぢやに依つて、 わざ/\と精進料理、ちつと待つてお上がりなされて。
辨慶
イヤ/\、愚僧は山伏なれば、精進には及ばぬ。鳥貝、鱠の方がよからう。
とく
でも、山伏樣なら、今日は二十八日。
ため
不動さまの御縁日。
辨慶
オヽ、ほんに、それ/\、大事の精進であつたわいの。マア、何にしろ、行つて 來ませう。
[ト書]
ト云ひながら、お安を跨ぎにかゝる。ドロ/\。
[辨慶]
アイタヽヽヽヽヽ。
[ト書]
ト足を擦つて、思ひ入れ。
兩人
どうなされました/\。
辨慶
イヤ、お娘が爰に寐て居たを、ツイ跨ぎ越したれば、俄かに足がすくばつて。
兩人
エ。
[ト書]
ト兩人、顏見合せて、思ひ入れ。
辨慶
アヽ、聞えた/\。なんぼ小さうても女の子、虫が知らして、しやき張つたもの と見えたわえ。
兩人
何をマア、わつけもない。
三人
ハヽヽヽヽ。
辨慶
ドレ、大降りのないうち
兩人
早うお歸りなされませ。
辨慶
ドリヤ、行つて來ようか。
[ト書]
ト唄になり、山下駄を穿き、はつてう笠を冠つて向うへ入る。下女兩人、見送り、 思ひ入れあつて
とく
ほんに、此やうな所に、お寐ぢやによつて、今のやうな。
ため
サア/\、ちやつとお目を、覺ましなされませ/\。
[ト書]
ト兩人抱き起す。お安目を覺まし
やす
ほんに、二人がお料理するを見て居ながら、ツイ眠たうなつて。
とく
サア/\、お目が覺めたなら、今朝お習ひの清書を母樣のお側で。
ため
好うお書きなされて、旦那さんのお歸りに、お目にかけたら、それこそ又
兩人
御褒美でござりませう。
やす
そんなら、いつものやうに、母樣に字配りしてもらはうか。
兩人
サア、お出でなされませ。
[ト書]
ト兩人、お安を連れ、合ひ方にて奧へ入る。
[唄]
かゝる所へ誰れとも知らぬ、鎌倉武士、家來引具し入り來り。
[ト書]
トこの淨瑠璃のうち、向うより、相模五郎、旅形の侍ひにて、供侍ひ二三人、付 添ひ出て、直ぐに門口へ來り
五郎
亭主に逢はう。いづれに居る。
家來
亭主、出ませい/\。
[ト書]
ト喚く。奧より、おとく、おため、走り出て來ながら
兩人
ハイ/\、何の御用でござりまする。
五郎
其方どもは、なんだ。
兩人
この家の召仕ひでござりまする。
五郎
ヤア、慮外な奴。下女端下の存じた事でない。亭主を出せ/\。
兩人
イエ、旦那は他行、私しどもに何なりと。
五郎
ヤア、又しても無禮な奴。大切な御用、他行とあらば呼びにやれ。遲いと曲事だ ぞ、早くしろ。
家來
キリ/\致せ。
[唄]
權威にほこり詈しるにぞ、女房は驚ろき、奧より立出で。
[ト書]
トこの淨瑠璃にて、奧より典侍の局、好みの女房の拵らへにて、出て來り
典侍
これは/\、どなた樣かは存じませぬが、女子どもが、端ないは、お免し下さり ませ。併し、二人が申します通り、主は問屋廻りに出ましたで、宿にではござりませ ぬが、私しで濟む事なら、何の御用でござりまするな。
五郎
して、其方は何者だ。
典侍
主銀平が女房でござりまする。
五郎
女房とあらば、云ひ聞かさん。身共は北條が家來、相模五郎と云ふ者。この度義 經、尾形を頼み、九州へ逃げ下るとの風聞に依つて、鎌倉どのゝ仰せを請け、主人時 政の名代として、討手に只今下れども、打續きし雨風にて、船一艘も調はず、幸ひこ の家に借り置きたる船、日和次第に出船と聞いたるゆゑ、その船身共が借り受けて、 艪を押切つて下らん爲、罷り越した。旅人あらばぼいまくり、座敷を明けて休息させ い。サヽ、早く致せ早く致せ。
[唄]
權威を見せてのしあがれば、女房はハツと返答に、當惑しながら側へ 寄り。
典侍
それはマア/\、御大切な御用に船が無うて、さぞ御難儀。此方のお客も二三日 以前から、日和待ちして御逗留、今更船を斷わりまして、あなたの御用にも立て難う ござります。殊に先樣もお武家方なりや、御同船とも申されますまい。爰は御料簡遊 ばして、今夜の所を、お待ちなされましたら、其うちには日和も直り、何艘も何艘も、 入船の中を調べて。
五郎
ヤイ/\默れ、默り居らう。一日でも逗留がなれば、この家へは云ひ付けぬ。所 の守護へ權付けに云ひ付けるワ。奧に居る、その侍ひめが怖うて、おのれらが口から 云ひ憎いなら、身共が逢つて、直に云うてくれん。
典侍
アヽモシ、お待ち遊ばしませ。お急きなさるは御尤もなれど、 あなたを奧へやりまして、直に御相談させましては、船宿の難儀、押付け主も歸りま せう。マア、それまでお待ちなされて。
五郎
ヤア、何をそれまで便々と。こりや聞えた。なんだな。奧の武士に逢はさぬは、 察するところ平家の餘類か。但し義經の由縁の者。家來ども、ソレ、拔かるな。
家來
ハア。
五郎
奧へ蹈ん込み、吟味せん。
[ト書]
ト立ちかへるを、局、引留め
典侍
アヽモシ、それではマア、主にお逢ひなされた上で
五郎
何を女郎め。最早誰れに逢はうより、直に相對。そこ退け。
[唄]
止むる女房を跳ね退け、突き退け、また取付くを荒氣なく。
[ト書]
ト五郎、侍ひ、奧へ行かうとするを、局、いろ/\支へる。下女兩人留めるを、 供の侍ひ、引捕へる。この立廻りのうち、雨車になり、向うより銀平、好みの拵らへ、 傘をさして出で來る。
[唄]
蹈み倒し蹴倒すを、戻りかゝつて見る、走り入つて彼の侍ひが、腕を 取つて。
[ト書]
ト此うち銀平、直ぐに舞臺へ來り、この體を見るより其まゝ内へ入り、女房を圍 ひ、五郎が手をグツと捻ぢ上げる。
五郎
アイタヽヽヽヽヽ。
銀平
イヤ、眞平御免下さりませ。私しは即ちこの家の亭主、渡海屋の銀平。見ますれ ば、女どもが、何か定めし不調法、御立腹のその樣子、私しめに一通り、仰しやつて 下さりませ。
[ト書]
ト五郎を突き放す。五郎、思ひ入れ。
五郎
ムウ、すりやおのれが、この家の亭主か。亭主なら云うて聞かさう。身は北條の 家來なるが、義經の討手を蒙むり、奧の武士が借りたる船、此方 へ借らん爲、奧へ蹈ん込み、身が直に、その武士に逢はうと云へば、われの女房が遮 つて、止むるゆゑ、今の仕儀だワ。
銀平
ヘイ。憚りながら、そりやあなたが御無理のやうに存ぜられます。なぜと仰しや りませ。人の借りて置いた船を、無理に借りようと仰しやりますは、マア御無理ぢや アござりませぬか。その上に又、宿借りの座敷へ蹈ん込まうとなさるゆゑ、女どもが お留め申すを、蹈んだり蹴たりなされますは、ちとお侍ひ樣には、似合はぬやうに存 じます。一夜でも宿を致しますれば商ひ、旦那、その座敷へ蹈ん込ませましては、ど うもお客人へ私しが立ちませぬ。爰の所を御料簡なされまして、お歸りなされて下さ りませ。
五郎
イヤ、うぬ、素町人めが。鎌倉武士に向つて、歸れとは推參千萬。是非とも奧へ 踏ん込んで……うぬ、留立てせば手は見せぬぞ。
[ト書]
ト刀へ手を掛け、思ひ入れ。
銀平
アヽモシ、それはお前樣、御短氣でござりませう。私しも船問屋ではござれ、聞 きはづつて居りまする。惣別、刀脇差では、人を切るものぢやアないさうにござりま する。お侍ひ樣方の二腰は、身の要害、人の粗忽、狼藉を防ぐ爲の道具とやら、さる に依つて、武士の武の字は、戈を止めるとやら、書きますさうにござりますぞえ。
五郎
ヤア、小癪なる事を吐かしたな。その頬桁を、切り下げくれん。
[唄]
拔打ちに切りつくるを引ツ外し、相模が利腕むんづと取り。
銀平
こりやモウ、料簡がならぬわえ。町人の家は武士の城廓、敷居の内へ泥臑を踏み 込むさへあるに、この刀で、ダヽ誰れを切る氣だ。その上に又、平家の餘類の、イヤ 義經の由縁なんのと、旅人を脅すのか。よし又判官どのにもせよ、大物に隱れない、 眞綱の銀平が、お圍まひ申したらなんとする。サア、眞綱が扣へた。侍ひめ、ならば ビクとも動いて見い、素頭微塵にはしらかし、命を取楫、この世の出船。キリ/\爰 を、なくなるまいか。
[唄]
刀もぎ取り、宙に引提げ持つて出で、門の敷居に、もんどり打たせば、 死入るばかりの痛みを怺へ、顏をしかめて起上がり。
五郎
ヤイ、亭主め、侍ひを捕へて、よく酷い目に合せたな。この返報には、うぬが首 を。
[ト書]
ト思ひ入れ。
銀平
どうしたと。
[ト書]
ト立ちかゝる。
五郎
家來ども。サア、來い/\。
[唄]
暴風に遭うたる小船の如く、尻に帆かけて主從は、後をも見ずして逃 げ失せける。
銀平
ハヽヽヽ。口程にもない侍ひめだ。
典侍
ほんに、好い所へ戻つて、好い態であつたわいな。併し又、どうならうかと、ひ や/\思うて居ましたわいな。
銀平
なにサ/\。とは云ふものゝ、今のもやくやを、定めし奧のお客人が。
典侍
サア、大方お聞きなされたであらうわいな。
[ト書]
ト銀平、莨盆取寄せ、莨のみ、局、下女兩人捨ぜりふ。
[唄]
女夫がひそめく話し聲、洩れ聞えてや、一間の障子押開き、義經公、 旅の艱苦に、窶れ果てたる御顏ばせ、駿河、龜井も後に從ひ立出づる。
[ト書]
トこの淨瑠璃のうち、障子屋體より、義經先に次郎、六郎付添ひ出で來る。銀平 見て
銀平
それ/\、お客樣が/\。
典侍
これはマア/\、端近う。
[ト書]
ト兩人云ひながら、此方へ來て、膝を直し、皆々思ひ入れ。
義經
隱すより顯るゝはなしと、兄頼朝の不興を受け、世を忍ぶ我が身の上、尾形を頼 み下らんと、この所に逗留せしに、其方よくも計り知り、時政よりの家來を退け、今 の難儀を救ひしは、町人に似合はぬ働らき、我れ一の谷を攻めし時、鷲の尾と云へる 木樵の童に、山道の案内させしに、山家には剛なる者。武士となして召使ひしが、そ れに優つた汝が働らき、天晴れ、世が世の義經なら、武士に引上げ、召使はんに、斯 く漂ひの身となつて、あるに甲斐なき事どもぢやなア。
[唄]
武勇烈しき大將の、身を悔みたる御詞、駿河、龜井も諸ともに、無念 の拳を握りける。
銀平
これは/\、有り難いそのお詞。イヤモウ、私しもこの界隈では、眞綱の銀平と 申して、少しばかりは人に知られて居りますれど、高が町人、只今の腕立ても、畢竟 申さば竈將軍、些細な事がお目にとまつて、我れ/\づれに御褒美の御意。冥加至極 もござりませぬ。殊に君の御顏を見覺え奉るは、先頃八島へ赴むき給ふ時、渡邊福島 より、兵船の役にさゝれ、私しが手船も御用に達し、一度ならずこの度も、不思議に お宿仕りまするも、恐れながら深き御縁でござりませう。さるによつて、お爲を存じ 申し上げたきは、いま歸りし北條が家來、取つて返さば御大事。一時も早う御乘船が、 よろしからうと存じまする。
[唄]
云ひもあへぬに、駿河の次郎。
次郎
サア、我れ/\もその思案なれど、この天氣にては、御出船如何あらんと、その 儀を。
銀平
アヽイヤ、そこに拔かりがござりませうか。弓矢打ち物は、お前樣方の御商賣。 船と日和を見る事は、私しどもの又商賣。昨日今日は巽、夜中になれば雨も上がり、 明け方には朝嵐に變つて、御出船にはひんぬき上々の日和、數年の功で、そこらはキ ツと見極めて置きましたて。
[唄]
見透かすやうに云ひけるは、その道々と知られける。
次郎
オヽ、銀平出かしたり。其方慥かに申す上は、氣遣ひあるまい。雨の晴れ間に片 時も早く。
六郎
主君の御供仕らん。
義經
ナニサマ、船中の事は、銀平よろしく計らひ得させよ。
銀平
ハツ、只今も申す通り、幼少より船の事はよく、鍛錬仕れば、御安堵あつて御乘 船、御見送りの爲、私しも手船にて、須磨明石のあたりまで、御供いたすでござりま せう。元船の在る所は、五丁餘り沖の方。船は即ち日吉丸、思ひ立つ日が吉日、吉祥、 兩具の用意仕り、後より追ツ着き奉りませう……女房はあなた方に、わざとお口を祝 はせ申して、女子どもは濱邊まで御案内申せ。
兩人
ハイ/\、畏まりました。
銀平
左樣なら、御免下さりませ。
[唄]
挨拶そこ/\銀平は、納戸の内へ入りければ。
[ト書]
ト銀平、奧へ入る。下女兩人、此うち銚子、杯、鉢肴など持つてくる。局よろし く
典侍
サア、何もなし、お粗末にはござりまするが、船路の旅を恙なう、おめで鯛の
[1]
むしり肴で、わざとお祝ひ遊ばさ れませ。
次郎
これは/\、要らぬ事を、銀平の心配。
六郎
殊に女房の心遣ひ、我が君
兩人
お取上げ遊ばしませい。
義經
主が厚き志し、門出を祝うて一献酌まん。
[ト書]
ト杯を取上げる。
女房
サヽ、お一つ召上がりませう。
[ト書]
ト注ぐを呑んで
義經
サヽ、其方達も、一つ/\。
[ト書]
ト杯を廻す。
兩人
然らば頂戴仕りませう。
[ト書]
ト杯を頂く。これより酒事、捨ぜりふにて、ちよつとあつて
義經
最早船場へ赴むかん。
次郎
それがよろしうござりませう。イザ、御案内を。
典侍
ハイ/\。ソレ、女子ども。
兩人
畏まりました。
[ト書]
ト雨車。局、思ひ入れあつて
典侍
小雨ながらも、大切なお身の上、暫しのうちもお姿を。
[唄]
隱れ簑笠、憚りながら。
[ト書]
ト簑笠を取出し、義經に着せる。
義經
オヽ、過分々々。
[唄]
龜井駿河も諸ともに、簑笠取つて着せ參らせ、二人も手早く紐引締め、 いざさせ給へと主從三人、女が案内に打連れて、船場へこそは。
[ト書]
トこの淨瑠璃、雨車にて、おとく、おため、傘をさし先に立ち、義經、次郎、六 郎、向うへ入る。局、見送るうち、奧より灘助、梶六、薦包みや長持など持ち出て來 り
灘助
おかみ樣、親方が云ひ付けた、牛窓へ行く中の間の荷物。
梶六
これで、殘りはごんせぬかな。
典侍
オヽ、こりや、二人の衆。そりや大切の荷物、麁相のないやう、まだ行李もある であらう。
灘助
オツト、あれも一緒か。ドレ、もう一遍。
梶六
此奴らも、來さうなものだ。
[ト書]
ト雨車、風の音にて、兩人、奧へ入る。向うより太郎藏、五郎太走り出て、門口 へ來り
太郎
牛窓の荷はまだかな。
五郎
艀舟の支度は、すつぱりだ。
典侍
オヽ、いま噂して居ましたわいな。
[ト書]
ト此うち灘助、梶六、奧より、薦包みの行李を持ち出で
灘助
サア、これ切りだ……丁度いゝ、ちよつとそこまで。
兩人
合點だ。
[ト書]
ト四人、長持を門口へ運び
灘助
サア、荷はもうこれでよし。
梶六
爰でこそ、一服のんで、と云つたところが
太郎
あの女中衆は、どこへ行きました。
典侍
今お客を船場まで
灘助
送りにか。
五郎
ホイ、しけた。
典侍
イヤ、しけと云へば、此方に知れぬ事ぢやが、此やうな日和でも、船を出さるゝ ものかいな。
灘助
さればサ。わしらも、この商賣をして居るが、なかなかこの天氣ぢやア、また二 三日は上がるまいと思ふのに。
梶六
爰の親方、銀平どのゝ云ふには、この日和は、夜中にやアぐわらりと上がつて、 朝東風に變つた所で、直ぐに出船。
太郎
その時急に、荷を積むの、船拵らへのと云つちやア手遲れ。
五郎
なんでも、今のうち荷を積み込んで、船も支度をして置けとの事。
灘助
それも、これまで云はしやる通り
梶六
違ひがないゆゑ、此やうに
皆々
支度をするのだ。
典侍
さうかいな。そんなら、大方銀平どのが、キツと日和を見極めた所が
灘助
あればこそ、云ひ付ける通り
梶六
手配り用意も
皆々
充分でござります。
典侍
そんなら、隨分氣を付けて。
四人
サア、運んでしまふべい。
[唄]
おつと合點と船子ども、てんでに荷物を艀舟まで、行く道すがら。
[ト書]
ト四人よろしく、右の荷を擔ぎ、向うへ入る。これに構はず
[唄]
門送りして女子ども、息急き内へ入相時。
[ト書]
ト此うち向うより、おとく、おため戻つて來る。時の鐘、直ぐに内へ入る。
兩人
ハイ、お見送り申しました。
典侍
ヤレ/\、マア、お客方も御機嫌好う、立たせ申されば、二人は奧の片付けもの
兩人
畏まりました。
[ト書]
ト時の鐘、どらにて兩人奧へ入る。局、思ひ入れあつて
典侍
兎や斯うするうちもう日暮れ。ドレ、次手にお燈明を。
[唄]
火打鳴らして油さし、神棚の上に灯を照らせば。
[ト書]
ト燧箱を出し神棚より、燈へ火を灯す。この時奧よりお安、清書双紙を持ち出て 來り。
やす
母樣、清書をしましたわいなア。
典侍
オヽ、お安か。ようしやつた。父さんに見せませうが、今夜は侍ひ衆を元船まで 送つてなれば、其方も寐るまで爰に居や。ほんに、こちの人とした事が、千里萬里も 行くやうに身拵らへ。もう日も暮れた。用意が好くば行かしやんせぬか。
[唄]
呼べど、くつとも應へなし。
[典侍]
返事せぬは、もし晝の草臥れで、轉寐ではあるまいか。コレ、銀平どの/\。
[謠]
抑々これは、桓武天皇九代の後胤、平の知盛の幽 靈なり。
[ト書]
ト鳴り物入り、謠切れると後コイヤイ、上手の障子引拔くと、内に銀平、本行知 盛の拵らへ、長刀を構へ、床几にかゝり居て
銀平
渡海屋銀平とは假の名、新中納言知盛と、實名を顯はす上は。
[唄]
恐れありと娘の手を取り、上座に移し奉り。
[ト書]
ト大小の合ひ方、浪の音。
[銀平]
君は正しく、安徳君にて渡らせ給へど、源氏に世を狹められ、所詮勝つべき軍な らねば、知盛諸とも海底に沈みしと欺むき、密かに供奉なし、この年月、お乳の人を 妻と云ひ、御介添の二人の侍從を下女となし、勿體なくも我が子と呼び奉り、時節を 待ちし甲斐あつて、九郎判官義經を、今宵のうちに討取つて、年來の本望達せん事。 アラ喜ばしや、嬉しやなア、典侍の局も、喜ばれよ。
[唄]
勇める顏色、威あつて猛く、平家の大將知盛と、その骨柄に顯はれし。
典侍
さては常々のお願ひ、今宵と思し召し立ち給ふな。ハハア、勇ましや、さりなが ら、九郎は鋭き男子とやら。仕損じばし給ふな。
知盛
なにサ/\、そのゆゑにこそ手段を巡らし、最前北條が家來、相模五郎と云はせ しも、我が手の者、討手と僞はり狼藉させ、我れ義經に荷擔人の體を見せ、今宵の難 風を日和と僞はり、船中にて討取る計略なれども、知盛こそ生き殘つて、義經を討つ たるなどゝ、忽ちに沙汰あつでは、末々君を御養育の妨げともなり、また重ねて頼朝 に仇も報はれず、さるによつて某、人數を手配りして、艀舟にて後よりぼツ付き、義 經と海上にて戰はゞ、西國にて亡びたる、平家の惡靈知盛が幽靈なりと、雨風を幸ひ に、彼れらが眼を眩まさん爲、我が出立ちも朧げに、怪しく見する白糸縅、白柄の長 刀、追ツ取りのべ、九郎が首取り立歸らんと、その軍用の品取まとめ、彼の牛窓へと 積みたる荷物は、皆これかゝる手段の物の具。
典侍
斯ばかり深き御計らひ。必定勝利に疑ひなし。
[唄]
局が喜び、知盛思惟し。
知盛
勝負の場所は、この大物、何條勝利とは思へども、もし自然この沖に當つて、提 灯松明一度に消えなば、我れ討死の合ひ圖と心得、君にもお覺悟させ參らせ、御亡骸 見苦しからぬやうナ、……兼ねてこの事、心得召され。
典侍
アヽモシ、後氣遣はずと、好い吉左右を知らせてたべ。
知盛
云ふにや及ぶ。斯くまで仕込みし我が計略。たとへ義經天地を潜る術ありとも、 やわか仕損じ申さんや。一門の仇、鬱憤晴らす時節到來。
[ト書]
トばた/\になり、向うより灘助、梶六、白の四天の拵らへにて、松明を持ち、 走り出で、直ぐに舞臺へ來り
兩人
お迎ひ。
[ト書]
ト兩人よろしく住ふ。此うち局、以前の銚子と、三方へ載せたる土器を取上げ、 思ひ入れあつて、お安に飮ませ
典侍
めでたき出陣。
[ト書]
ト知盛へ三方の土器を渡し
[典侍]
知盛卿、イザ、御杯。
知盛
ハツ。
[ト書]
ト局、酌して、知盛飮み
[知盛]
實に天杯をうながされ、嚴命蒙り、義戰の旗上げ。
[ト書]
ト此うち八ツの太鼓鳴る、知盛、思ひ入れあつて
[知盛]
八ツの太鼓も、御年の數を象る、合ひ圖の知らせ……オオそれよ……一天四海を 治め給へば。
[ト書]
ト知盛諷ひながら、陣扇を持ち立上がり
[謠]
國も動かぬこの君の惠みの/\、治まる御代こそめでたけれ。
[ト書]
トこの文句一杯に舞ふ事あつて納まる。
[知盛]
ハヽヽヽヽ。
典侍
めでたき門出。
知盛
追ツ付け勝鬨。
やす
知盛、早う。
知盛
ハツ。
[唄]
飛ぶが如くに。
[ト書]
ト風の音、カケリになり、三重にて、知盛思ひ入れ。灘助、梶六、先に松明を振 り立て向うへ一散に入る。局、後を見送り、舟玉の札箱より、太刀を出してお安に渡 す。
三重にて
幕
本舞臺、上手に寄せて中足、二間の二重、一面に伊豫簾を下ろし、下手向う は浪手摺り、この前に高き岩組、蘆原、浪の音にて道具納まる。
[唄]
夜も早次第に更け渡り、雨風烈しく聞ゆれば、賤が伏屋も大内の、昔 に返る御裝束、初めの姿引かへて、神の御末の御粧ひ、いと尊くも見え給ふ。
[ト書]
ト伊豫簾上がる。おとく、おため、官女の姿にて後に扣へ、典侍局は十二單衣、 お安は冠姿束にてよろしく扣へゐる。
[ト書]
ト床の合ひ方にて
典侍
斯くやごとなきお身、如何に計略なればとて、我が娘と呼びなして、賤の姿にや つさせ申せし、畏れ多さ勿體なき、これ皆、平家不善の罪、積ると知らで人々は榮華 に月日を送るうち、さてこそ壽永の
[唄]
秋風に、木の葉も共に散る花の、須磨の内裏を攻め落され、云ひ甲斐 なくも一門方。
[典侍]
知教、教經お二人の、諫めも耳に入らばこそ。
[唄]
崩れ立つたる味方の勢ひ、引立てられて兩卿も、思はず船に打乘つて、 波の哀れや海の上、陸には源氏、平家は皆、赤間ケ關や壇の浦、軍の勝敗試さんと、 日の丸畫きし陣扇、船の
へさきに押泣て ゝ。
[典侍]
これ射給へと玉虫が。
[唄]
招けば敵より武者一騎。
[典侍]
那須の與市宗高と。
[唄]
名乘つて海へざんぶと乘り入り、弓矢番ひし折しもあれ、北風烈しく 荒波に、船を搖り上げ搖り落し。
[典侍]
扇も更に定らねば
[唄]
これはと與市も躊躇ふうち。
[典侍]
沖には平家、陸には源氏の諸軍勢、鳴りを靜めて、見物す。
[唄]
宗高一世の浮沈ぞと、心に神を念じけん、少し風間を得たりや應、切 つて放せば過たず、要射切つて、バラバラバラ、扇は空へヒラ/\/\、夕日に映り て皆紅ゐ、水は白波立田川、秋の紅葉と流るれば、敵も味方も一同に、射たりや/\ と譽むる聲、海に響きて凄まじく。その時、二位の尼君には、はや世は斯くと思しけ ん、君を抱き參らせて、既に入水とありけるを、知盛卿の計らひにて、密かに供奉し、 それよりも、この大物に忍ばせ申し、折を窺ふ今宵の手段、味方の勝利疑ひなし。君 にも今に知盛の、吉左右あらん、御待ちあれ、二人も心付けられよ。
兩人
畏まりました。
[唄]
そよとの音も知らせかと胸轟ろかす鉦太鼓、すはや軍の眞最中と、君 のお側に引添うて、知らせを今やと待つ折柄、知盛の郎黨相模の五郎、息吐きあへず、 馳せ着けば。
[ト書]
トどんちやん烈しく、向うよりバタ/\にて、五郎、早打ちの拵らへにて、走り 出で來る。局見て
典侍
ヤレ、待ち兼ねし相模の五郎。樣子はどうぢや、なんとなんと。
五郎
ハツ、兼ねて主君の手段の如く、暮れ六ツ過ぎより味方の小船を乘り出し、義經 が打乘つたる、元船間近く、漕ぎ寄せしに
[唄]
折しも烈しき武庫山颪しに、連れて降りくる雨雷。
[五郎]
時こそ來れと味方の軍勢、みな海中に
[唄]
飛び込み/\、西國にて亡びし平家の一門、義經に恨みをなさんと、 聲々に呼はれば。
[五郎]
敵に用意やしたりけん
[唄]
提灯松明バラ/\と、味方の船に乘り移り、爰を先途と戰へば。 味方の駈武者大半打たれ、事危ふく見えて候ふ。某は取つて返し、主君の御先途見屆 け申さん。はや、おさらば。
[唄]
申しもあへず、駈り行く。
[ト書]
ト五郎、注進の振りあつて、トヾ向うへ入る。
典侍
ヤア/\、すりや一大事に及びしか。さるにても、知盛の御身の上こそ氣遣はし。
とく
定かにそれと、戰ひの
ため
たとへ黒白は分らずとも
典侍
沖の樣子は如何ならん。
[唄]
一間の障子、押明くれば。
[ト書]
ト典侍、兩人へ思ひ入れ。兩人、外へ見付けの障子を明けると、後打拔き、波手 摺り、二重にして、遠見に兵船の模樣、高張りを灯し、誂らへの通りある。局お安を 抱き上げ立ち身。侍女兩人も引添ひ、海面を見やつて、思ひ入れ。
[唄]
提灯松明星の如く、天を焦せば漫々たる、海も一目に見え渡り、數多 の兵船、やり違へ/\、船櫓を小楯に取り、敵も味方も入り亂れ、船を跳び越え跳び 越えて、追ひつ捲りつ、えい/\聲にて、切り結ぶ、人影までもあり/\と、戰ふ 聲々風に連れ、手に取るやうに聞ゆるにぞ。
典侍
アレ/\、御覽ぜ。あの中に、知盛の在すらん。
[唄]
やよ何所にと伸び上がり、見給ふうちに。
[ト書]
ト兵船、提灯を段々に消す。
[典侍]
ヤヽヽヽ、提灯松明次第々々に、消え失せて、沖もひつそと、靜まりしは。
[唄]
これこそ知盛が討死の合ひ圖かと、あまり呆れて泣かれもせず、途方 に暮れて立つたる所に、入江丹藏、朱になつて立歸り。
[ト書]
ト花道より丹藏、手負ひにて駈け出で
丹藏
我が君、典侍のお局さま。
[ト書]
ト本舞臺へ來て平伏する。
典侍
さ云ふは入江の丹藏ならずや。して/\樣子は、如何なるぞ。
丹藏
さればに候ふ、義經主從手痛く働らき、既に危ふく見えけるが。
[唄]
味方の手段白浪と、思ひの外に、さとくも察し。
[丹藏]
御主君知盛公、大勢に取卷かれ
[唄]
風波烈しく切り立つれば、あしらひ給へど多勢に無勢運の底なる命の 引汐。
[丹藏]
必定海に飛び入つて、はや御最期と存ずれば、お局にも早、お覺悟の御用意あれ。 拙者はこれより御主君の、冥土の御供仕らん。早、おさらば。
[唄]
云ひもあへず諸肌くつろげ、持つたる刀を突き立てゝ、汐の深味へ飛 び込めば。
典侍
ヤヽヽヽ、さては知盛卿も、敢へなく討たれ給ひしか。
兩人
お局樣。
典侍
ホイ。
[唄]
はつとばかりにと
だうと伏し、前後も知らず 泣きけるが、局は歎きの中よりも、御顏つく%\打守り。
[典侍]
二歳餘り見苦しき、この茅屋を玉の臺と、思し召しての御住居、朝夕の供御まで も、下々と同じやうに、さもしい物、それさへ君の御心では、殿上にての榮華とも、 思うてお暮らしなされしに、知盛亡び給ひては、賤が伏家に御身一つ、置き奉る事さ へも、ならぬやうに成り果てゝ
[唄]
遂にはこの浦の土となり給ふかや。
とく
上なき御身にかばかりも
ため
悲しい事の數々が
典侍
續けば續くものかいなう。
[唄]
口説き立て/\、身も浮くばかり歎きしが。
[典侍]
アヽ、由なき悔み事、今は云うても何かせん。いでお覺悟を。オヽ、さうぢや。
[唄]
涙ながら御手を取り、泣く/\濱邊に出でけるが、いと尋常なる御姿、 この海に沈めんかと、思へば目もくれ心もくれ、身もわな/\とぞ顫ひける、君は賢 しく在ませど、死ぬる事とは露知り給はず。
やす
コレナウ乳母、覺悟々々と云うて、何國へ連れて行くのぢや。
典侍
オヽ、さう思し召すは理り。ようお聞き遊ばせや。この日の本にはな、源氏の武 士蔓つて、恐ろしい國、この浪の下こそ、極樂淨土と云うて、結構な都がござります る。その都には、祖母君、二位の尼御を始め、平家の一門あの知盛も在すれば、君に もそこへ御出であり、物憂き世界の苦しみを、免がれさせ給へや。
[唄]
宥め申せば、打悄れ給ひ。
やす
そりや、嬉しいやうなれど、あの恐ろしい浪の下へ、只一人行くのかや。
典侍
アヽ、勿體ない、なんのマア。このお乳が美しう育て上げたる君樣を、只お一人、 あの漫々たる千尋の底へやりまして、なんと身も世もあられませう。このお乳がどこ までも、お供いたしまするわいなう。
やす
それなら嬉しい。其方さへ行きやるなら、何國へなりと行くわいなう。
典侍
オヽ、よう云うて給はつたなア。
[唄]
引寄せ/\、抱き締め。
[典侍]
火に入り水に溺るゝも、前の世の約束なれば。
[唄]
未來の誓ひまし/\て。
[典侍]
もうこの上は、天照大神へ、お暇乞ひ遊ばせや。
[唄]
東に向はせ參らすれば、美しき御手を合せ、伏拜み給ふ、御有り樣、 見奉れば、氣も消え%\。
[典侍]
オヽ、ようお暇乞ひ遊ばした。佛の御國は、こなたぞや
[唄]
指さす方には向せ給ひ。
やす
今ぞ知る、御裳裾川の流れには、浪の底にも都ありとは。
[唄]
詠じ給へば。
典侍
ソレ、硯。
[ト書]
ト侍女手早く、硯箱持つて來り、局へ差出す。
[典侍]
今一度とつくり。
やす
今ぞ知る、御裳裾川の流れには、浪の底にも都ありとは。
[ト書]
と局、これをサラ/\と檜扇へ認め、吟じ見て
典侍
オヽ、お出かしなされた、ようお詠み遊ばしたなアその昔、月花の御遊の折から、 斯樣にお歌を詠み給はばなんぼう喜び給はんに、今際の際にこれが、マア、云ふに甲 斐なき御製ぢやなア。
[唄]
口説き立て/\、涙の限り、聲の限り、歎き口説くぞ道理なる。
[典侍]
アヽ、歎いても詮なき事、片時も早う、極樂への御門出を急がん。
[唄]
若君しつかと抱き上げて、磯打つ波に、裳裾を浸し、海の面を見渡し /\。
[ト書]
ト好き時分より、中の舞を打込み、局、岩組みへ上り、キツとなつて
[典侍]
如何に八大龍王、恒河の鱗屑、君の御幸、守護し給へ。
[唄]
ざんぶと打込む御製の扇、渦く浪に飛び入らんとする所に、いつの間 にかは、九郎義經、龜井、駿河も駈け寄つて、君を奪ひ取り、局官女を引立つて、一 間の内へ
[ト書]
ト局、お安を抱へ、海へ飛び入らんとする所へ、屋體より、義經、陣立ての形、 次郎、六郎、凛々しき拵らへにて、付添ひ走り出て、直ぐに義經、お安を奪ひ取り、 局を引立て、次郎、六郎、同じく侍女二人を引立て、皆々屋體の内へ入る。三重にて、 返し。
本舞臺、一面の浪の遠見、眞中に大岩。上下は岩の張り物にて道具納まる。
[唄]
かゝる所へ知盛は、大童に戰ひなし。
[ト書]
トこの淨瑠璃のうち、ドンチヤンのあしらひ、向うより、知盛、好みの拵らへ、 長刀を突き、出て來る。引下がつて、辨慶、半切れの形にて、付いて出る。花道にて、 知盛、思ひ入れあつて
知盛
我が君は何所にまします。お乳の人、典侍の局。
[唄]
呼はり/\、
だうと伏し。
[知盛]
エヽ、無念、口惜しや。ナニこれしきの手に、弱りはせじ。
[唄]
弱りはせじと、長刀杖に立ちあがり。
[知盛]
お乳の人、我が君樣。
[唄]
よろぼひ/\、駈け廻れば、一間を蹈み明け、九郎判官、君を右手の 小脇にひん抱き、局を引附け、突ツ立ち給へば。
[ト書]
トこの淨瑠璃のうち、義經、お安を抱き、典侍の局、側に、次郎、六郎付添ひ出 る。知盛キツと見て
[知盛]
あら珍らしや、如何に義經。
[謠]
思ひぞ出づる浦浪の、聲をしるべに出で船の、知盛が沈みしその有樣 に、また義經をも海に沈めんと夕浪に浮べる長刀取り直し、巴浪の紋あたりを拂ひ。
[知盛]
サア/\、勝負々々。
[唄]
勝負々々と詰め寄れば、義經少しも騒ぎ給はず。
義經
ヤア知盛、さな急かれそ。義經が云ふ事あり。
[唄]
靜々と歩み出で。
[ト書]
ト肥前節になり
[義經]
其方、西海にて入水と僞はり、君を供奉なし、この所に忍び、一門の仇を報はん とは、天晴れ/\。我れこの家に逗留せしより、並々ならぬ人相骨柄、察するところ 平家にて、何某ならんと思ふゆゑ、辨慶に云ひ含め、その事計り知つたるゆゑ、艀舟 の船頭を海へ切り込み、裏海へ船を廻し、夙よりこれへ入込んで、始終詳しく見屆け て、君も我が手に入つたれども、日の本をしろし召す君何條義經が擒となすいはれあ らん。恐れあり/\、君の御身は義經が、守護し奉れば、氣遣はれな、知盛。
[唄]
聞く嬉しさは典侍の局。
典侍
オヽ、あの詞に違ひなく、先程より義經どの、段々の情にて、我が君の御身の上 は、知るべの方へ渡さんとの、武士の堅い誓言。喜んでたべ、知盛卿。
[唄]
聞くに凝つたる氣も逆立ち、局を取つて突きのけ。
知盛
チエヽ殘念や、口惜しや。我れ一門の仇を報はんと心魂を碎きしに、今宵暫時に 手段顯はれ、身の上を知られしは、天命々々。まつた、義經、君を助け奉るは、天恩 を思ふゆゑ、これ以て知盛が恩に被るべきいはれなし。サア、今こそ汝を一太刀恨み、 亡魂へ、イデ手向けん。
[唄]
痛手によろめく足蹈みしめ、長刀追ツ取り立向ふ。辨慶押隔て、打ち 物業にて叶ふまじと、珠數サラ/\と押揉んで。
辨慶
如何に知盛、斯くあらんと期したるゆゑ、我れも疾より、船手へ廻り、計略の裏 を缺いたれば、最早惡念發起なせ。
[唄]
持つたるいらたか知盛の、首へヒラリと投げかくれば。
知盛
ムウ、さてはこの珠數かけたるは、知盛に出家とな。エヽ、穢らはし/\。そも 四姓始まつて、討つては討たれ、討たれては討つは、源平の慣ひ、生き變り死に變り、 恨をなさで置くべきか。
[唄]
思ひ込んだる無念の顏色、眼血走り、髮逆立ち、この世からなる惡靈 の、相を顯はすばかりなり、君は始終を聞し召し、知盛に向はせ給ひ。
やす
我れを供奉し、長々の介抱は、其方が情。今日また麿を助けしは、義經が情なれ ば、仇に思ふな、知盛。
[唄]
勿體なくも御涙を、浮べ給へば典侍の局、共に涙に暮れながら、用意 の懷劍咽喉に突き立て、名殘り惜しげに、御顏を打守り/\。
典侍
よう仰しやつた、いつまでも義經の志し、必らず忘れ給ふなや。源氏は平家の仇 敵と、後々までも、このお乳が、仇し心も付けうかと、人々に疑はれん。さあれば生 きてお爲にならぬ。君の御事、くれ%\も、頼み置くは義經公。
[唄]
さらばとばかりこの世の暇、敢へなく息は絶えにける。思ひ設けぬ局 の最期、君は猶更知盛も、重なる憂き目に、勇氣も碎け、暫し詞もなかりしが、御座 近く、涙をハラハラと流し。
[ト書]
トこの淨瑠璃のうち、典侍の局、自害して落入ると、知盛、思ひ入れあつて
知盛
ハヽア、果報はいみじく、尊き君と生れさせ給へども、西海の波に漂よひ、海に 望めども、汐にて水に渇せしは、これ餓鬼道。
[唄]
或る時は風波に遭ひ、お召しの船を荒磯に吹き上げられ今も命を失は んと。
[知盛]
多くの官女が泣き叫ぶは
[唄]
阿鼻叫喚、陸に源平戰ふは、取りも直さず、修羅道の苦しみ、又は源 氏の陣所々々に、夥多の駒の嘶くは畜生道。
[知盛]
いま賤しき御身となり、人間の浮き艱難目前にして、六道の苦しみを受け給ふ、 これと云ふも、父清盛、外戚の望みあるに依つて、姫宮を男の子と云ひ觸らし、權威 を以て御位につけ、天道を欺むきし、その惡逆、積り/\て、一門我が子の身に報い しか。
[唄]
是非もなや。
[知盛]
我れ斯く深手を負うたれば、長らへ果てぬこの知盛、今この海に身を沈め、末代 に名を殘さん。大物の沖にて、判官に仇なせしは、知盛が怨靈なりと、傳へよや。 サヽ、息あるうちに片時も早く、君の供奉を、頼む/\。
義經
ホウ、我れはこれより九州の、尾形の方へ赴むくなり。君の御身は義經が、何所 までも供奉なさん。
[唄]
御手を取つて出で給へば、龜井、駿河、武藏坊、御後に引添うたり、 知盛ニツコと打笑みて。
知盛
昨日の仇は今日の味方、アラ心安や、嬉しやなア。これぞこの世の暇乞ひ。
やす
知盛。さらば。
知盛
ハツ。
[唄]
振返つて御顏を、見奉るも目は涙、見返り給ふ別れの門出、留まるこ なたは冥土の出船。
[知盛]
三途の海の瀬踏みせん。
[唄]
碇を取つて頭に擔ぎ、渦卷く波に飛び入つて、敢へなく消えたる忠臣 義心、その亡骸は大物の、千尋の底に朽ち果てゝ、名は引汐に搖られ流れ、搖られ流 れて、後白浪とぞ。
[ト書]
トこの淨瑠璃のうち、義經先にお安を抱き上げ、次郎、六郎、辨慶付いて、花道 へ來る。知盛碇を持つて、よろしく岩臺の上に上がる。
皆々
さらば。
[唄]
なりにける。
[ト書]
ト段切、知盛、浪間へ飛び込む。
幕
[ト書]
ト直ぐに出端を打ちかける。これにて花道の人數、皆皆向うへ入る。知らせにつ き
シヤギリ
[1] In our copy-text the character in green was New Nelson 2137 or Nelson 1891.
- 役名==彌助實ハ三位中將維盛。
- 若葉の内侍。
- 六代君。
- 鮨屋、彌左衞門。
- 同女房、おつぢ。
- 同娘、お里。
- 梶原平三景時。
- 權太女房、小せ ん。
- 一子、善太。
- いがみの權太。
本舞臺、三間の間、二重舞臺、見附け赤壁、納戸口。上の方、押入れ、まい ら戸、これに錠前卸しあり、下の方、鮨桶大分積み重ね、いつもの所に門口、釣瓶鮨 といふ看板をかけ、舞臺に、おつぢ、やつし女房、前垂れ襷がけにて、鮨を積んで居 る。お里、振り袖、やつし前垂れを締め、竹の皮に鮨を包み居る。門口に鮨買ひの仕 出し、二人立ちかゝり、てんつゝにて幕明く。
[唄]
立歸る、春は來ねども花咲かず、娘がつけた鮨ならば、なれがよかろ と買ひに來る、風味も吉野下市に、賣り廣めたる所の名物、釣瓶鮨屋の彌左衞門、留 守の内にも商賣に、拔け目も内儀が早漬けに、娘お里が片襷、裾に前垂れほや/\と、 愛に愛持つ鮎の鮨、押へて締めてなれさする、旨い盛りの振り袖が、釣瓶鮨とは物ら しく、締木に栓を打込んで、桶片付けて
[ト書]
ト此うち、仕出し鮨を買ひ、捨ぜりふにて、向うへ入る。兩人、そこら片付け
さと
申し母さん、昨日父さんの仰しやるには、晩には内の彌助と祝言さす程に、世間 晴れて、女夫になれと云はしやんしたが、日が暮れてもお歸りないは、嘘かいなア。
つぢ
オヽ、アノ云やる事わいの。なんの嘘であらうぞ。器量の好いを見込みに、熊野 詣でから連れて戻つて、氣も心も知ると、彌助と云ふ我が名を讓り、主は彌左衞門と 改めて、内の事任せて置かしやるは、其方と娶はす兼ねての心。 今日は俄かに役所から、親仁どのを呼びに來て、思はぬ隙入り、迎ひにやろにも人は なし。
さと
サイナ、折惡う彌助どのも、方々から鮨の誂らへ、仕込みの桶 が足るまいと、空き桶を取りに行かれましたりや、もう戻らるゝであらうわいな。
[唄]
噂半ばへ空桶荷ひ、戻る男の取なりも、悧巧で伊達で、色も香も、知 る人ぞ知る優男、娘が好いた厚鬢に、冠り着せても憎からず、内へ入る間も待ち兼ね て、お里は嬉しく。
[ト書]
ト向うより彌助、やつし袖なし羽織の形にて、鮨の空桶を擔ひ、出で來り、舞臺 へ來て、門口へ入る。
[さと]
アレ、彌助さん、戻らんしたか。エヽモウ、待ち兼ねたわいな。なぜマア此やう に、遲かつたのぢやえ。もしやどこそへ寄つてかと、氣が廻つて、大抵案じた事ぢや ないわいな。
[唄]
女房顏して云うて見る、流石鮨屋の娘とて、早い馴れとぞ見えにける。 母はにこ/\笑ひを含み。
つぢ
彌助どの、氣にかけて下さんな。この吉野の里は、辨天の教へに依つて、夫を神 とも佛とも、戴いて居よとある、天女の掟、その代り、悋氣も深い、また有やうは親 の孫、瓜の蔓にではござらぬわいの。
彌助
これはマア、却つて迷惑。段々お世話の上へ、大切なお娘御まで下され、お禮の 申しやうもござりませぬ。さりながら、兎角お前には、彌助どの/\と、どの付けを なされて、さりとては氣の毒、矢ツ張り彌助、どうせい斯うせいと、お心安う、ナア 申し。
つぢ
イヤ/\、それは免して下され。
彌助
そりや又なぜでござります。
つぢ
さればいの。彌助という名は、これまで連合ひの呼び名、どの付けせずに、どう せい斯うせいとは、勿體なうて云ひ憎い。慣れたどの付け、さして下されいの。
[唄]
實に夫をば大切に、思ふ掟を幸ひに、娘へこれを聞けがしの、母の慈 悲とぞ聞えける。
[つぢ]
ほんにわしとした事が、奧に、まだ仕掛けの用、暫らく店を、頼みましたぞや。
[唄]
母は納戸へ入りにける。
[ト書]
トおつぢ、思ひ入れあつて奧へ入る。
さと
コレ、彌助、父さんも母さんも、其方と今宵、祝言させうと仰しやるに依つて、 これからは、お里さまお里さまと、さま附けは止めにして、女房どものお里、と呼び 捨てにしてたもいなう。
彌助
イヤ/\、滅相もない事仰しやりませ。どうして御主人の娘御を、呼び捨てにな りませうぞ。
さと
其やうな事云はずと、云うて見や。
彌助
それでも、どのやうに致します事やら。
さと
そんなら、わたしが教へてあげうほどに、よく覺えて置きなさんせ。
彌助
ハイ/\、どうぞお教へなされて下さりませ。
さと
斯うやつて、内へ歸つて來たら、オホン、女房ともの お里、いま戻つた、斯う云ふのぢやわいなア。
[ト書]
ト仕方して教へる。
彌助
左樣なら、斯う戻つて、女房とものお里さま、いま戻 つた。
さと
アレ、矢ツ張り樣ぢやわいなア。
彌助
そんなら、女房どものお里、いま戻つた。
さと
オヽ嬉し。
[唄]
割りなき仲と見えにける。この家の惣領、いがみの權太。
[ト書]
トてんつゝになり、向うより權太、スタ/\出て
權太
阿母は内にか。
[ト書]
ト内へ入る。お里、思ひ入れ。
お里
兄さん……ようお出でなさんした。
權太
なんだ、その面は。よく來たが恟りか。わりやア彌助と、巧い事をして居るさう な。コレ、彌助もよく聞け。いま追ひ出されて居ても、爰の内の物は、竈の下の灰ま でおれが物だ。今日は親仁の毛蟲が、役所へ行たと聞いたによつて、ちつと阿母に云 ふ事があつて來た。二人ながら奧へ行け。行つて阿母を、ちよつと呼んで來い。エヽ、 行きやアがれ。
[唄]
睨み廻され、ウヂ/\と、これにと云うて立つ彌助、娘も共に引添う て、一間へこそは入りにけれ。母は一間を立出でゝ。
[ト書]
ト彌助、お里、暖簾口へ入る。おつぢ出て思ひ入れ。
つぢ
わりや權太郎ぢやないか。ほんにマア、目に見るさへも腹が立つ……とつとゝお のれ、うせ居らぬか……南無阿彌陀佛々々々々々々。
權太
モシ/\、お母さん、ちよつと待つておくんなさいまし。
[ト書]
トおつぢ、思ひ入れ。
つぢ
何にもわれに用は無い……どうなとしをれ。
[ト書]
ト奧へ行きかける。
權太
アヽ、モシ/\、ちよつと待つて下さいまし。
[ト書]
ト云ひながら側へ寄る。
つぢ
コリヤヤイ、おのれはマア、勘當受けをつた内へ、ノサ/\と遠慮もなう、第一 世間へ聞えが惡い。サヽ、どこへなと、早う行き居らぬか。
權太
ちよつとのうちは、いゝぢやねえか。偶々來たのに、そんなに邪慳に云ひなさん な。コレ、母さん、聞いてくんなさい。イヤモウ、おれも今度と云ふ今度は、コツキ リ上を明けやした。イヤサ、ホツカリしたよ。アヽ、恐しい恐しい、無頼漢仲間の友 達連れ合ひ、頭無しまで借り込んで、今ぢやア首も作り付けのやうだ。誠にみじめ觀 念佛が聞いて呆れらア。人を付け。おれが體が、始末におへなくした。
つぢ
こりや又親仁どのゝ留守を考へ、無心に來たか。性懲りもない椀 白者、其おのれが心から、嫁御があつても足踏み一つさす事ならぬ。聞きやこ の村へ來て居るげなが、互ひに知らねば、摺り合つても嫁姑の明き盲目、眼潰れと 人々に、云はれるが面目ない。エヽ不所存者め。
[唄]
目に角を、立て替つたる機嫌にぐんにやり、直ぐではゆかぬと、いが みの權太、思案し替へて。
權太
申し、母者人、今晩參つたは、無心ではござりませぬ。お暇乞ひに參りました。
つぢ
そりやマアなんで。
權太
私しは遠い所へ參ります程に、親仁樣もお前樣も、隨分おまめでござりませ。
[唄]
悄れかゝれば、母は驚ろき。
つぢ
遠い所は、そりやどこへ。どうした譯で、何に行くのぢや。
[唄]
根問ひは親の騙され小口、サアしてやつたと眼を瞬き
權太
親の物は子の物と、お前にこそ無心申せ、いつに人の物を箸片し、いがんだ事も 致しませぬに、不孝の罪か、昨夜わしは、大盗人にあひました。
つぢ
や……、なんと云やる。
權太
サア、その中には、代官所へ上げる年貢、銀三貫目といふもの盗み取られ、云ひ 譯もなく仕樣もなく、お仕置にあふよりはと、覺悟極めて居りまする。情ない目にあ ひました。
[唄]
かます袖をば顏に當て、しやくり上げても出ぬ涙、鼻が邪魔して眼の 縁へ、屆かぬ舌ぞ恨めしき、甘い中にも分けて母親、實と思ひ目を摺り。
つぢ
鬼神に横道なしと、年貢金を盗まれ、死なうと覺悟は、まだ出かした。災難にあ ふも親の罰、よう思ひ知れよ。
權太
アイ/\、思ひ知つては居りますけれど、どうで死なねばなりますまい。
つぢ
コリヤ、ヤイ。
權太
ハイ/\。
つぢ
常のおのれが性根ゆゑ、これも騙りか知らねども、しやうぶ分けにと思うた金、 親仁どのに隱して遣らう。これでほつとり、性根を直し居れ。
權太
アイ/\/\。
[唄]
そろ/\戸棚へ、子の蔭で、親も盗みをする。母の、甘い錠さへ明け 兼ねる。
[ト書]
ト二重舞臺へ上がり
つぢ
南無三、こりや錠が卸りてあるが、鍵がなうては。
權太
そりやア、雁首で、コチ/\が好うござります。
つぢ
オヽ、器用な子ぢやの。
[ト書]
ト腰より煙管を出す。
[唄]
仕馴れたる、おのが手業を教へる不孝、親は我が子が可愛さに、地獄 の種の三貫目、後をくろめて持つて出て。
[ト書]
ト權太、煙管にて錠を叩き明ける。おつぢ、戸棚より銀包みを三貫目通り出し
つぢ
アヽコレ、なんぞに包んでやりたいものぢや。
[ト書]
ト思ひ入れ。
[唄]
限りない程甘い親、うまい和郎ぢやといがみの權太、鮨の空き桶好い 入れ物、これへ/\と親子して、金をつけたる黄金鮨、蓋しめ栓しめ。
權太
アヽモシ、これがようござります。
[ト書]
ト鮨の空き桶を持ち來る。兩人してこれへ金を入れる。
つぢ
サアよいワ。これで目立たぬ。早う持つて行け。
[ト書]
ト桶を權太へ渡す。
[唄]
親子が工合の最中へ、苦い父親彌左衞門、これも疵持の足の裏、アタ フタとして門口を。
[ト書]
ト向うより彌左衞門出て來て、門口へ來て
彌左
いま戻つたぞよ。明けいよ/\。エヽ、明けぬかい。
[ト書]
ト門口を叩く。兩人、アタフタ思ひ入れ。
權太
南無三、親仁だ。
[ト書]
トうろたへる。
[唄]
内にはてんだううろたへ廻り、その桶を爰へ/\と、空き桶と共に並 べて、親子はヒソ/\、奧と口とへ引分かれ、息を詰めてぞ入りにける。
[ト書]
ト右の桶を空き桶と一緒に併べ、暖簾口へ入る。
彌左
なぜ明けぬぞい。早う明けぬかい。
[唄]
頻りに叩けば奧より彌助、走り出て、戸を明ける、内入り惡く、あた りを見廻し。
[ト書]
ト奧より彌助出で來り、捨ぜりふにて門口を明ける。、彌左衞門、内へ入り
[彌左]
コリヤ、又どいつも寢て居るか。云ひ付けた鮨どもは仕込んであるか。
[唄]
鮨桶を、提げたり、明けたり、くわつたくわた。
[彌左]
こりや思ふほど仕事が出來ぬわい……マヽ、茶を一つ。
彌助
ハイ/\。
[ト書]
ト暖簾口へ入る。彌左衞門、思ひ入れあつて、腰より幕前の手拭に包みし、切り 首を取出し、鮨の空き桶へ隱し、蓋をして居る。奧より彌助、茶を汲み出て來り
[彌助]
ハイ、お茶おあがりなされませ。
[ト書]
ト差出す。彌左衞門、恟りして
彌左
オヽ……ムウ、茶か。
[ト書]
ト桶を片寄せ、茶碗を取つて、茶を呑み
[彌左]
さうして、女房どもやお里めは、何をして居るぞ。
彌助
阿母樣もお里さまも、奧に仕事をなされてゞござりまする……これへお呼び申し ませう。
[ト書]
ト奧へ行かうとするを、彌左衞門、留めて
彌左
アヽコレ。
[ト書]
トあたりを見廻し、門口を締め
[彌左]
先づ/\。
[ト書]
ト彌助を二重舞臺へ直す。
[唄]
内外見廻し、表を締め、上座へ直し、手をつかへ。
[ト書]
ト合ひ方。
彌左
君の親御、小松の内府重盛公の、御恩を受けたる某何卒御子維盛卿の、御行くへ をと思ふ折柄、熊野浦にてお出逢ひ申し、月代を勸め、この家へお供申したれども、 人目を憚り、下部の奉公、餘りと申せば勿體なさ。女房ばかりに仔細を語り、今宵祝 言と申すも、心は娘をお宮仕へ。彌助々々と賤しき我が名をお讓り申したも、彌々助 くるといふ文字の縁起。人は知らじと存ぜしに、今日鎌倉より、梶原平三景時來つて、 維盛卿を圍まひあると退引きさせぬ詮議、烏を鷺と云ひ拔けては歸れども、邪智深い 梶原、もしや吟味に參らるゝも知れずと、心企みは致しは置けど、油斷は怪我の基。 明日からでも、我が隱居所、上市村へお越しあられませう。
[唄]
申し上ぐれば維盛卿。
彌助
父重盛の厚恩を、受けたる者は幾萬人、數限りなきその中に、おとこがやうな者 あらうか。昔は如何なる者なるぞ。
[唄]
訊ね給へば。
彌左
私しめは平家盛りの折柄、唐土育王山へ祠堂金をお渡しなさるゝ時、音頭の瀬戸 にて、三千兩の金盗み取られ、役目の難儀、切腹にも及ばん所、有り難いは重盛さま、 日の本の金、唐土へ渡す我れこそは、日の本の盗賊と、御身の上を悔み給ひ、重ねて なんの崇りもなく、お暇を下され、親里へ立歸つて、由緒ある鮨商賣、今日を安樂に 暮らせども、忰權太郎めが盗み騙り、殺生の報いぞと、思ひ知つたる身の懺悔、お恥 かしうござります。
[唄]
語るに付けて維盛も、榮華の昔父の事、思ひ出され御膝に、落つる涙 も痛はしき、娘お里は今宵待つ、月の桂の殿もうけ、寢道具抱へ立出づれば、主はハ ツと泣く目を隱し。
[ト書]
ト暖簾口よりお里、絹布團、二つ枕持ち出し來る。兩人、思ひ入れ。
彌左
コレ、彌助、いま云ひ聞かした通り、上市村へ行く事を、必らずともに忘れまい ぞ。今宵はお里と、爰にゆるり。嚊とおれとは離れ座敷、遠いが花の香がなうて、ア、 氣樂にあらう、ハヽヽヽヽ。
[唄]
打笑ひ、奧へ行くのも娘は嬉しく。
[ト書]
ト彌左衞門、奧へ入る。彌助、お里殘り
さと
ほんにマア、粹な父さん。離れ座敷は隣り知らず、餅搗きませうと、オヽをかし ……ホヽヽヽヽ、此方は爰に天井拔け、寢て花せう。
[唄]
蒲團敷く、維盛卿はつく%\と、身の上、又は都の空、若葉の内侍や 若君の、事のみ思ひ出されて、心も澄まず氣も浮かず、打悄れ給ひしを、思はせぶり と、お里は立寄り。
[さと]
これはマア……エヽ、辛氣な。何案じてぢやぞいなア。二世も三世も固めの枕、 二つ並べて、こちや寢よう。モシ、お月さんも、もう寢たぞえ。
[唄]
先へころりと轉び寢は、戀の罠とぞ見えにけり、維盛枕に寄り添ひ給 ひ。
[ト書]
トお里、二枚折り屏風を立て、蒲團着て寢る。
彌助
これまでこそ假の情、夫婦となれば二世の縁、結ぶに辛き一つの云ひ譯、何を隱 さう某は、國に殘せし妻子あり、貞女兩夫に見えずの、掟は夫も同じ事、二世の固め は、免してたも。
[唄]
流石小松の嫡子とて、解けたやうでもどこやらに、親御の氣風殘りけ る、神ならず佛ならねば、それぞとも、知らぬ道をば行き迷ふ、若葉の内侍は若君を、 宿ある方に預け置き、手負ひの事も頼まんと、思ひ寄る身も縁の端、この家を見かけ、 戸を打ち叩き。
[ト書]
ト向うより若葉の内侍、六代の手を引き出で來り、門口へ來て
若葉
頼みませう……一夜の宿を頼むわいの。
[唄]
一夜の宿を乞ひ給へば、維盛は、好い退き汐と表の方、叩く扉に聲を 寄せ。
彌助
この内は鮨商賣、宿屋ではござらぬわいの。
[唄]
愛想の無いが愛想となり。
若葉
イヤ申し、幼ないを連れた旅の女、是非に一夜を頼むわいの。
[唄]
是非に一夜とのたまふにぞ斷わり云うて歸さんと、戸を押し開き月影 に、見れば内侍と六代君、ハツと戸をさし、内の樣子、娘の手前も訝かしく、そろ/ \立寄り見給へば、早くも結ぶ夢の體、表に内侍は不思議の思ひ。
若葉
今のはどうやら我が夫に、似たと思へど、形かたち、頭も青き下男。よもやマア。
[唄]
よもやと思ひ給ふうち、戸を押し開いて維盛卿。
彌助
若葉の内侍か、六代か。
若葉
さては我が夫。
六代
父樣かいなう。
[唄]
なう懷かしやと取縋り、詞は無うて三人が、泣くより外の事ぞなき。
彌助
先づ/\内へ。
[唄]
先づ/\内へと、密かに伴ひ。
[彌助]
今宵は取分け、都の事を思ひ暮らして居たりしが、親子ともに息災で、不思議の 對面、さりながら、某この家に居る事を、誰が知らせしぞ。殊に又、はる%\の旅の 空供を連れぬは、何とも以て。
[唄]
訊ね給へば若葉の君。
若葉
都でお別れ申してより、須磨や八島の軍を案じ、一門殘らず討死と、聞く悲しさ も嵯峨の奧、泣いてばつかり暮らせしに、高野とやらんに在すると、云ふ者があるゆ ゑに、小金吾召連れお行くてを、志す道、追手に出逢ひ。
[唄]
可哀や金吾は深手の別れ、頼みの力も無い中に。
[若葉]
巡り逢うたは嬉しいが、三位中將維盛さまが、袖の無いお羽織に、このお頭は何 事ぢやいなう。
[唄]
むせび絶入り給ふにぞ、面目なさに維盛も、額に手を當て袖を當て、 伏し沈みてぞ在します、泪の内にも若葉の君、臥したる娘に目を付け給ひ。
若葉
若い女中の寢入り端、殊に枕も二つあり、定めてお伽の人ならん。斯くゆるがし きお暮らしなら、都の事も思し召し、風の便りもあるべきに、打捨て給ふは、お胴慾 でござりまするわいなう。
彌助
それも心にかゝりしかど、文の落ち散る恐れあり、分けてこの家の彌左衞門、父 重盛への恩報じと、我れを助けてこれまでに、重々厚き夫婦が情、何がな一禮返禮と、 思ふ折柄、娘の戀路、つれなく云はゞ過ちあらん、却つて恩が仇なりと、假の契りは 結べども、女は嫉妬に大事を漏らすと、彌左衞門にも口留めして、我が身の上を明か さず、仇な枕も、親への義理。
[唄]
義理にこれまで契りしと、語り給へば臥したる娘、堪え兼ねしか聲上 げて、ワツとばかりに泣き出だす、こは何ゆゑと驚ろく内侍、若君引連れ、逃げ退か んとし給へば。
[ト書]
トお里、起き上がり
さと
ア、モシ、マア、お待ちなされて下さりませ。
[唄]
涙と共に、お里は駈け寄り。
[さと]
先づ/\これへ。
[唄]
内侍若君上座へ直し。
[さと]
私しは里と申して、この家の娘。いたづら者、憎い奴と、思し召されん申し譯、 過ぎつる春の頃、色珍らしい草中へ、繪にあるやうな殿御のお出で。
[唄]
維盛さまとは露知らず、女の淺い心から。
[さと]
可愛らしい、愛しらしいと
[唄]
思ひ染めたが戀の元。
[さと]
父も聞えず母さんも、夢にも知らして下さんしたら、例へ焦れて死ぬればとて。
[唄]
雲井に近き御方へ、鮨屋の娘か惚れらりよか。
[さと]
一生連れ添ふ殿御ぢやと、思ひ込んで居るものを、二世の固めは、親への義理に 誓つたとは、情ないお情に。
[唄]
あづかりましたと
だうと伏し、身を慄はして 泣きければ、維盛卿は氣の毒と、内侍も道理の詫び涙、乾く間もなき折からに、村の 役人駈け來り、戸を叩いて。
[ト書]
ト向うより、宿役人出で來り、舞臺へ來て、門口を叩き
役人
コレ/\、いま爰へ鎌倉から、梶原平三さまがお出でなさる。内を掃除して置か つしやれ。必らず麁相のないやうに、さつしやれや。
[唄]
云ひ捨てゝこそ立歸る。人々ハツと泣く目も晴れ、如何はせんと俄の 仰天、お里はさそくに心付き。
[ト書]
ト宿役人、引返して入る。
さと
先づ/\親の隱居屋敷、上市村へ、早う/\。
[唄]
と氣をあせる。
彌助
實にその事は彌左衞門、我れにも教へ置きしかど、とても開かぬ平家の運命、檢 使を引受け潔う、腹掻き切らん、さうぢや。
[ト書]
ト腹切らうとする。内侍、留めて
若葉
コレ、お待ち遊ばせ。この若のいたいけ盛りを、思し召し、一先づ爰を。
[唄]
と無理矢理に、引立て給へは維盛も、子に引 かさるゝ後ろ髮、是非なくその場を落ち給ふ、御運の程ぞ危ふけれ。
[ト書]
ト彌助、内侍、六代の手を引き三人とも向うへ入る。
[唄]
樣子を聞いたかいがみの權太、勝手口より跳り出で。
[ト書]
ト暖簾口より、權太、ツカ/\と出で來たり
權太
お觸れのあつた、内侍、六代、維盛彌助め、ふん縛つてくれべいか。
[唄]
尻引ツからげ駈け出すを。
さと
コレ、待つて下さんせ。兄さん、これはわたしが一生の願ひ。どうぞ見遁がして 下さんせいなア。
[ト書]
ト縋る。
權太
べら坊め、大金になる仕事だワ。エヽ、退きやアがれ。
[唄]
縋るを蹴飛ばし毆り飛ばし、最前置きし金の鮨桶、これ忘れてはと引 ツ提げて、後を慕うて追うて行く。
[ト書]
ト權太、お里を蹴飛ばし、以前の鮨桶を引ツ抱へ、門口へ出て、一散に向うへ入 る。
さと
申し、父さん……母さんイなう。
[唄]
呼ぶ聲に、彌左衞門、母も駈出で。
[ト書]
ト奧より彌左衞門、おつぢ、出で來り
兩人
ヤア、娘、何事ぢやぞいの。
さと
申し、先刻都から、維盛さまの御臺若君、尋ねさまよひお出であり、積る話しの その中へ、詮議に來ると知らせを聞き、三人連れて上市へ、落しまするを情ない、兄 さんが聞いて居て、討取るか生捕つて褒美にすると、たつた今、追ひ駈けてござんし たわいなう。
[唄]
云ふより恟り彌左衞門。
彌左
そりや一大事ぢや。ソレ、脇差寄越せ。
[ト書]
トお里、戸棚より脇差を持つて來て、彌左衞門に渡す
[唄]
嗜みの朱鞘の脇差、腰にぼツ込み、駈け出す向うへ。
[ト書]
ト彌左衞門、一腰を差し、ツカ/\と花道へかゝる。
[唄]
矢筈の提灯、梶原平三景時、家來數多に十手持たせ、道を塞いで。
[ト書]
ト時の太鼓になり、向うより景時、陣羽織、手甲、臑當うしろ鉢卷、凛々しき形 にて、重ね草鞋にて、采を持ち出で來る。軍兵二人、袖なし羽織 を着たる形にて矢筈の紋付き、高張り提灯を持ち、後より摺込み四天の捕り手四人付 き、出で來り、花道にて、彌左衞門に行き合ひ、キツとなつて
景時
ヤア、老ぼれめ、何所へ行く。逃げるとて逃がさうか。
[唄]
追取り卷かれて、ハツと吐胸、先も氣遣ひ、爰も遁がれず、七轉八倒、 心は早鐘、時に時つく如くなり。
[景時]
ヤア、比奴横道者。おのれ今日、維盛が事詮議すれば、存ぜぬ知らぬと云ひ拔け る。其まゝにして歸せしは、思ひ寄らず踏み込まう爲、この家に維盛隱まひある事、 所の者より地頭へ訴へ、早速鎌倉へ早打ち、取るものも、取り敢へず來れども、油斷 の體は、おのれを取逃がすまい爲。サア、首討つて渡すか。但し違背に及ぶか。返答 ぶて。ドヽどうだ。
[唄]
責め付けられ、叶はぬ所と胸を据ゑ。
彌左
成る程、一旦は隱まひないとは申したれども、餘り御詮議が強いゆゑ、隱しても 隱されず、はや先達て首討ちましてござります。御覽に入れるでござりませう。何を 申すも爰は門中。マヽヽ、これへお通り下さりませ。
[ト書]
ト皆々舞臺へ來り、内へ入る。
[唄]
伴ひ入れば母娘、どうなる事と氣遣ふうち、鮨桶引ツ提げ、彌左衞門、 靜々出でゝ向うに直し。
[ト書]
ト梶原、上の方へ通る。彌左衞門、桶を取出し、梶原の前へ直し
彌左
三位維盛の首、お受取り下されい。
[唄]
蓋を取らんとする所へ、女房駈け寄り、ちやつと押へ。
つち
アヽコレ、親仁どの、この桶の中には、わしがちやつと大事の物を入れて置いた。 こなさん、明けてどうさつしやる。
彌左
オヽ、われは知るまい。この桶には、最前維盛卿のお首を討つて、入れて置いた。
つぢ
イヤ/\、この桶には、こなたに見せられぬ物があるわいの。
彌左
エヽ、おのれが、何にも知らぬからぢや。
つぢ
イヤ、こなたが知らぬゆゑぢやわいの。
[ト書]
ト兩人爭ふ。
[唄]
爭ひ果てねば梶原平三。
景時
ヤイ/\、さては此奴等、云ひ合せ、巧んだな、拵らへたな。 ソレ、者ども、括れ。
家來
ハツ……動くな。
[ト書]
ト取卷く。
[唄]
縛れ括れと下知の下、捕つた/\と取卷く所に。
權太
維盛夫婦、餓鬼めまで、いがみの權太が、生捕りました。
[唄]
討取つたりと呼はる聲、ハツとばかりに彌左衞門、女房娘も氣は狂亂、 いがみの權太は嚴めしく、若君内侍を猿縛り、宙に引立て目通りに、どつかと引据ゑ。
[ト書]
ト權太、鮨桶を抱へ、内侍六代を縛つて出てくる。
[權太]
親仁の賣僧が三位維盛を、熊野浦より連れ歸り、道にて頭を剃りこぼち、青二才 にして彌助と名を替へ、この節は嫌らしい聟詮索。生捕つて面恥と存じたに、思ひの 外手強い奴、村の者の手を借りて、やう/\と討取つて、首に致して持參仕りました。 御實檢下さりませう。
[ト書]
ト桶を景時の前へ差出す。景時、首を見る事あり
景時
成る程、月代を剃りこぼち、彌助と云ふとは存じながら、先達て云はぬは、彌左 衞門めに、思ひ迷ひをさゝう爲。聞き及んだいがみの權太、惡者と聞きしが、お上へ 對しては忠義の者。出かした/\……内侍六代生捕つたな。ハテ、好い器量。夢野の 鹿で思はずも、女鹿子鹿の手に入るは、天晴れの働らき。褒美には、親彌左衞門めが 命赦してくれう。
權太
アヽモシ、親の命位を赦してもらはうと思つて、この働らきは致しませぬ。
景時
ムウ、すりや、親の命は取られても、褒美が欲しいか。
權太
ハテ、親の命は親と相對、私しにば、どうぞお金をお願ひ申します。
景時
ハテ、小氣味の好い奴。褒美くれん。
[唄]
着せし羽織、脱いで渡せば佛頂面。
[ト書]
ト景時、着せし陣羽織を脱ぐ。家來取つて、好き所へ置く。
[景時]
コリヤ、その羽織は頼朝公のお召替へ。何時でも鎌倉へ持參せば、金銀と釣替へ。 そくたくの合ひ紋。
權太
成る程、當時は騙りが流行るから、こりや二重取りをさせぬ分別。ハテ、好くし たものだなア。
[唄]
繩付き渡せば受取つて、首を器に納めさせ。
[ト書]
ト内侍、六代を渡す。捕り手受取り、兩人、繩を扣へる。首桶を持ちし捕り手、 右の切り首を取つて、首桶へ納め、景時は悠々と下へ來り
景時
コリヤ、權太、彌左衞門一家の奴等は、暫らく汝に預けるぞ。
權太
お氣遣ひなされますな。貧乏動ぎもさせる事ぢやアござりませぬ。
景時
ハテサテ、健氣な……繩付きを引ツ立てい。
家來
ハア。
[唄]
褒めそやして梶原平三、縄付き引立て立歸る。
[ト書]
ト三重、時の太鼓になり、提灯持ち先に景時、花道へかヽる。後より内侍、六代、 捕り手兩人、この繩を扣へ、後より同じく捕り手、首桶を引ツ抱へ、この人數花道へ 入る。權太、門口より後見送り
權太
アヽ、コレ/\、その次手に、褒美の金を忘れて下さりますな。お頼み申します。
[唄]
見送る隙間、油斯見合せ彌左衞門、憎さも憎しと引ツ抱へ、グツと突 ツ込む恨みの刃、ウンと仰向に反り返る見るに親子はハアはつと、憎いながらも悲し さの、母は思はず駈け寄つて。
[ト書]
ト彌左衞門、一腰を拔き、權太の脇腹へグツと突き立てる。
つぢ
コレ、天命知れや、不孝の罪、思ひ知れ。
[唄]
思ひ知れやと云ひながら、先立つものは涙にて、伏し沈みてぞ泣き居 たる、彌左衞門齒噛みをなし。
彌左
泣くな女房、なに吠える。不便なの可哀いのと云うて、こんな奴を生けて置けば、 世界の人の大きな難儀ぢやわい。門端も蹈ますなと、云ひ付け置いたに、内へ引入れ、 大事の/\維盛さまを殺し、内侍さまや若君を、よう鎌倉へ渡したな。腹が立つて/ \、涙がこぼれて、胸が裂けるわい。三千世界に子を殺す、親と云ふのはおればかり、 天晴れ手柄な因果者に、ようしをつたな。
權太
コレ、親仁どの、こなたの力で、維盛を、助ける事は、叶はぬ/\。
彌左
コリヤヤイ、今日幸ひと別れ道の、傍らに手負ひの死人、好い身替りと首討つて 戻り、この中に隱し置いた。コリヤ、これを見居れ。
[唄]
鮨桶取つて打明ければ、グワラリと出たる三貫目。
[ト書]
ト以前の鮨桶を明ける。中より、隱せし三貫目、バラバラと出る。彌左衞門、恟 りして
[彌左]
ヤア、こりや金ぢや。こりやどうぢや。
[唄]
呆れ果てたるばかりなり、手負ひは顏を打眺め。
權太
おいとしや、親仁樣。私しが性根の惡さに、御相談の相手もなく、前髮の首を惣 髮にして渡さうとは、料簡違ひの危ない所、梶原程の侍ひが、彌助と云うて青二才の、 男に仕立てある事を、知らいで討手に來ませうか。それと云はぬは彼方も企み。維盛 さま御夫婦の、路銀にせんと盗んだ金、重いを證據に取違へた鮨桶、明けて見たれば 中には首、ハツと思へどこれ幸ひ、月代剃つて突き付けたは、矢ツ張りお前が、仕込 みの首。
彌左
ムウ、その又根性で、御臺若君に繩をかけ、なぜ鎌倉へ渡したぞ。
權太
オヽ、そのお二人と見えたのは、この權太めが女房、忰。
彌左
ヤア。して/\、維盛さま御夫婦、若君は何所に。
權太
オヽ、逢はせませう。
[唄]
袖より取出す一文笛、吹き立つれば、折よしと維盛卿内侍は茶汲みの 姿となり、若君連れて駈け付け給ひ。
[ト書]
ト權太、袖より一文笛を出して吹く。下の方より、維盛。内侍は小せん、六代は 善太の形に着替へ、出で來り
維盛
彌左衞門夫婦の衆、權太郎へ一禮を。
[ト書]
ト權太を見て
若葉
ヤア、手を負うたか。ホイ。
[ト書]
ト恟りする。
[唄]
手を負うたかと驚ろくも、お替りないかと恟りも、一度に興をさまし ける、母は悲しさ手負ひに取付き。
つぢ
斯程正しき性根にて、人に踈まれ誹らるゝ、身持ちはなぜにしてくれた。常が常 なら連合ひも、むざと手疵も負はせまい、酷い事ぢや、酷いわいなう。
[唄]
悔み歎けば權太郎。
權太
ヤレ、そのお悔み、無用々々。常が常なら梶原が、身替り喰うては歸りませぬ。 まだそれさへも疑うて、親の命を褒美にくれう、忝ないと云ふと早、詮議に詮議をか ける所存。いがみと見たゆゑ油斷して、一杯喰うて歸りしは、災ひも三年と、惡い性 根の年の明け時、生れ付いて諸勝負に魂ひ奪はれ、今日もあなたを二十兩、騙り取つ たる荷物の内、恭々しくも高位の繪姿、彌助に顏の生寫し、合點ゆかねど母人へ、金 の無心を囮に入込み、忍んで聞けば維盛卿、御身に迫る難儀の段々。爰で性根を改め ずば、いつ親人の御機嫌に、あづかる時節もあるまいと、打つて替へたる惡事の裏。 維盛さまの首はあつても、内侍若君の代りに立つる人もなく、途方に暮れし折柄に、 女房小せんが忰を連れ、親御の勘當、古主への忠義、なにうろたへる事がある、わし と善太をコレ斯うと、手を廻すれば忰めも、母さんと一緒にと、共に廻した縛り繩、 かけても/\手が外れ、結んだ繩もしやら解け、いがんだおれが直ぐな子を、持つた は何の因果ぞと、思うては泣き、諦めては泣き、後手にしたその時は、心は鬼でも蛇 心でも、堪え堪えし血の涙、可哀や不便や女房も、ワツと一聲、その時は、この血を 吐きましたわいの。
[唄]
血を吐きましたと語るにぞ、力み返つて彌左衞門。
彌左
聞えぬぞや權太郎、孫めに繩をかける時、血を吐く程の悲しさを、常に持つては なぜくれぬ。廣い世界に嫁一人、孫と云ふのは彼奴一人、子供が大勢遊んで居れば、 親の顏を目印に、苦みの走つた子があるかと、尋ねて見ては、コレ/\子供衆、權太 が子供は居ませぬかと、問へば子供は、どの權太、家名は何と尋ねられ、おれが口か らまんざらに、いがみの權とはえゝ云はず、惡者の子ぢやゆゑに、跳ね出されて居る であらうと、思ふ程猶其方が憎さ。いま直る根性が、半歳ばかり前に直つたら、ナウ、 婆。
つぢ
親仁どの……嫁や孫の顏、見覺えて置かうのに。
彌左
オヽ/\/\、おれも、そればつかりが。
[唄]
そればつかりがと咽せ返り、ワツとばかりに泣き沈む、心ぞ思ひやら れたり、内侍は始終御涙、維盛卿は身に迫る、いとゞ思ひに掻き暮れ給ひ。
惟盛
彌左衞門が歎ぎ、さる事なれども、逢うて別れ、逢はで死するも皆因縁。汝が討 つて歸りたる、首は主馬の小金吾とて、内侍が供せし譜代の家來。生きて盡せし忠義 は薄く、死んで身替る忠勤厚し、これも不思議の因縁づく。
[唄]
語り給へば。
彌左
てもさても、そんなら、これも鎌倉の奴等が仕業であらう。
維盛
オヽ、云ふにや及ぶ、右大將頼朝が威勢に蔓る無得心。一太刀恨みぬ、殘念至極。
[唄]
怒りに交る御涙、實にお道理と彌左衞門、梶原が預けたる、陣羽織を 取出し。
彌左
オヽ、幸ひ頼朝が着替へとて、褒美の合ひ紋に殘し置きしこの羽織、ズタ/\に 引ツ裂いても、御一門の數には足られど、一裂きづゝ御手向け……サア、遊ばせ。
[ト書]
ト以前の陣羽織を取つて差出す。
維盛
ナニ、頼朝の着替へとや。
[ト書]
ト羽織を取つて
[維盛]
晋の豫讓が試しを引き、衣を刺して一門の、恨みを晴らさん、思ひ知れ。
[唄]
御佩力に手をかけて、羽織を取つて引上げ給へば、裏に模樣か歌の下 の句。
[ト書]
ト羽織を取つて、裏に目を付け
[維盛]
「内や床しき、内ぞ床しき」と、二ツ並べて書きたるは……ハテ心得ぬ。この歌 は小町が詠歌、雲の上にありし昔に替らねど、見し玉垂れの内や床しきとありけるを、 その返しとて、人も知つたるこの歌を、物々しく書きたるは心得ず。殊に梶原は、和 歌に心を寄せし武士、内や床しきとは、この羽織の、縫ひ目の内ぞ床しき。
[唄]
襟際付け際切り解き。
[ト書]
ト維盛、短刀にて、羽織の裏を切り解く。中より淨土袈裟、法衣、水晶の數珠、 出る。維盛取上げ
維盛
こりやコレ、袈裟衣、珠數まで添へて、入れ置いたは。
彌左
こりやどうぢや。
[唄]
こは如何にと呆れる人々、維盛卿。
惟盛
ホウ、さもさうず、さもあらん。保元平治のその昔、我が父小松の重盛、池の禪 尼と云ひ合せ、死罪に極まる頼朝を、命助けて伊東へ流人、その恩報じと維盛を、助 けて出家させよとの、鸚鵡返しか恩返しか。ハア、敵ながらも頼朝は、天晴れな大將。
[唄]
見し玉垂れの内よりも、心の内の床しさや。
[ト書]
ト衣を取上げ
[惟盛]
これとても父重盛のお庇。エヽ、忝ない。
[唄]
喜び給ふぞ道理なる、人々ハツと喜び涙、手負ひの權太は這ひ出で摺 り寄り。
權太
及ばぬ智惠で梶原を、誑かつたと思ひしが、彼方が何も皆合點。思へばこれまで 騙つたも、殘す命をかたらるゝ、種と知らざる淺ましさ。
[唄]
悔みに近き終り際。
維盛
維盛もこれまでは、佛を騙つて輪廻を離れず、離れる時は今この時。
[唄]
髻りフツツと切り給へば、内侍若君取縋り。
[ト書]
ト維盛、小さ刀を出し、髮を切る。
若葉
共に尼とも姿を替へ
さと
せめてはお宮仕へなりと
若葉
お許しなされて
兩人
下さりませせ。
[唄]
願へば叶はず、打拂ひ/\。
維盛
内侍は高雄の文覺へ、六代が事頼まれよ。お里は兄に成り替り、親へ孝行肝要な るぞ。
[唄]
立出で給へば彌左衞門。
彌左
女中の供は、年寄りの役。
[唄]
諸ともに旅用意、手負ひを痛はる母親が。
つぢ
アコレ、つれない親仁どの、權太郎が最期も近し。死目に會うて下されいの。
[唄]
留めるにせき上げ彌左衞門。
彌左
現在血を分けた忰を手にかけ、どう死目に會はれうぞ。死んだを見ては一足も、 歩かるゝものかいの。息ある内は叶はぬとても、助かる事もあらうかと思ふが、せめ ての力草。留める其方が、胴慾ぢやわいなう。
[唄]
云うて泣き出す父親に、母は取分け、娘は猶、不便不便と維盛の、首 には輪袈裟、手に衣。
維盛
手向けの文も阿褥多羅。
彌左
三藐三菩提。
若葉
高雄。
維盛
高野へ
さと
引分くる。
彌左
夫婦の別れに
つぢ
親子の名殘り。
[唄]
手負ひを見送る顏と顏、思ひはいづれ大和路や、芳野に殘る名物に、 維盛彌助といふ鮨屋、今は榮ふる花の里、その名も高く。
[ト書]
ト維盛、花道。若葉六代、彌左衞門付いて東の歩みへかゝる。段切れにて、
よろしく幕
[唄]
あらはせり。
[ト書]
ト幕の外。三重になり、双方、揚げ幕へ入る。
シヤギリ
- 役名=愛妾、靜御前。
- 馬士、高名の六藏。
- 子供、太郎松。
- 同、おちよぼ。
- 庄屋、三之助。
- 佐藤四郎兵衞忠信。
本舞臺、三間の間、一面の淺黄幕。上の方に高札場それより下にかけて板松、 好き所に、
これより芳野道と書いた、榜示杭。爰に百姓四人、股 引がけ或ひは脚絆にて、鍬鋤を持ち、こなたに庄屋三之助、尻からげにて、煙管を持 ち、立ちかゝり、話して居る體。馬士唄にて、幕明く。
百姓
ヤレ/\、小旦那、この間は行き逢ひませぬな。
皆々
どこへマアござりました。
三之
イヤ、長谷の町まで用があつて、いま歸りでござるて。
皆々
そりや御苦勞でござりました。
三之
その御苦勞で宿老も、この間は粉になりました。今日も長谷で、鎌倉のお役人樣 にお目にかゝつたが、これからわれが方へ、段々に廻つて行くとある事ゆゑ、イエモ ウ、維盛や若葉の御詮議なら、その事はもう濟んでしまひましたと云つたれば、イヤ /\、今度は義經の妾靜御前の事だといふ事で。
[ト書]
ト云ひながら懷より書き物を出す。
百姓
ヘエ、その靜御前とやらを、どうしますな。
三之
サア、そりやア、マア、讀んで見ると知れるげな。どうでこの村方へも、廻るで ござらうが、お觸れ書のほまち物に、一遍聞いて置かつしやい。
[ト書]
ト書き物を廣げ、逆さまに見る。
皆々
アヽ、モシ/\、それぢやア、逆さまだ/\。
三之
ハテ、そりやア合點だが、こりやアこなた衆が、無筆ぢやアないかと試して見た のだ。
百姓
要らぬお世話だ。
皆々
サア/\、讀んで聞かさつしやい/\。
[ト書]
トせたげる。三之助、困つた思ひ入れ。此うち又、馬士唄になり、向うより六藏、 馬士の形にて、腰へ沓を付け、咥へ煙管にて出で來り、直ぐに舞臺へ來る。三之助を 見付け
六藏
こりやア下市の小旦那、三之助さま、何をしてござります。
三之
オヽ、六藏か。おれが長谷まで行つた歸り道で、お觸れ書を受取つたから、支配 下ではなけれども、この豐浦村の甚太郎は馴染みゆゑ、皆の衆へも結縁のため、それ を讀んで聞かさうと思つてよ。
六藏
そして、そのお觸れは、マア、なんの事でござんすえ。
三之
さればサ、義經のお妾、靜御前とやらが、この道へ來たとの事。捕まへて出せば、 御褒美を下さるげな。委細はこの書いた物を讀むと知れるさうな。
六藏
アノ、そんならそれを讀むと……ドレ。
[ト書]
ト取る。
三之
コレ/\、六藏、おぬしやア馬方で居ながら、それが讀めるか。
六藏
サア、むづかしくない字さへありやア、どうか斯うか讀みますのサ。
皆々
そりやア隅にやア置かれない。
三之
眞中へ出て讀むが好い。
[ト書]
ト引ツ張つて六藏を眞中へ出す。六藏、書き物を披き
六藏
エヘン……淨瑠璃名題、戀と忠義の道行を、新曲初音の旅。
皆々
ヤアヽ。
[ト書]
ト膽を潰す。
三之
イヨ、六藏さま、東西々々。
六藏
淨瑠璃太夫、常磐津太夫誰れ/\、三味線岸澤誰れ誰れ。相勤めます役人。
三之
ハテ、見かけに依らないものだ。
六藏
瀬川菊之丞、坂東玉三郎、坂東三津五郎、座元市村羽左衞門。
皆々
ヤンヤ/\。
三之
みんな讀んだの。
六藏
この位の事はお茶の子だ。併し、この中に、坂東三津右衞門がありさうなものだ が、よい/\、たとへ名は無くつても、靜と見たなら、淨瑠璃へ出かけて、引ツ捕ま へて褒美の金。
百姓
さう巧く行けば好いが。
三之
それ/\、忠信とやらいふ強い侍ひが付いて居るとの事。なまじい手を出して、 怪我でもせぬやうにするがよいぞえ。
百姓
さうだ。觸らぬ神に祟りなし。
皆々
此方は畑の仕事にかゝりませう。
六藏
ハテ、爰らが一六勝負、氣の弱い衆達だ。
三之
そんなら六藏、おれは歸るから、褒美を貰つたら、裾分けをしやい。
皆々
蟲の好い。
三之
サア、そこらまで一緒に行きませう。
[ト書]
ト始終、馬士唄の合ひ方にて、三之助、百姓、捨ぜりふ云ひながら、向うへ入る。 六藏殘つて
六藏
とても、あんなひやうたくれめ等にゆかない仕事。なんでも靜を捕まへて、義經 が在所を訴人すりやア、また褒美。こいつは兩手に旨い物、奇妙。
[ト書]
ト大きな聲して、我れ知らず云ひ。
[六藏]
藤八五文のやうだ。ハヽヽヽヽ。
[ト書]
ト馬士唄になり、こなしあつて、下座へ入る。矢張りこの鳴り物にて、チヨン/ \と高札場板松とも引いて取り、淺黄幕切つて落す。
本舞臺、三間の間、高足の草土手、舞臺先より花道へかけて、土手板、これ に春草のあしらひ。日覆より櫻の吊り枝を下し、この草土手に常磐津連中居並び、こ の道具に納まると、直ぐに淨瑠璃。
[唄]
昔を今になす由も、假名で和らぐ歌姫の、里は芳野の中道や、その名 所も茂りあふ、春の山邊を打連れて。
[ト書]
ト摺り鉦入り、草笛の浮いた合ひ方になり、向うより、太郎松、さら毛の鬘、や つし、手甲、脚絆、草鞋の形にて、鉢卷を締め、鎌を差し、櫻の枝を折り添へし柴を 擔ひ、後よりおちよぼ、同じさら毛の鬘、田舎娘の振り袖を後へ挾み、手覆、脚絆の 形にて、これも柴を脊負ひ、出で來り、兩人花道へ留る。
[唄]
氣儘お轉婆、我まゝ育ち、賤の手業も習ふより、馴れた道もせ脇ひら も、水の溜りて岩角木の根、思はず躓きあいたしこ、文にや及ばぬちよと袖引きやれ さ、晩の合ひ圖に目で覺る、鄙の小唄もませた同士、やがて性根に奈良柴に、花折り 添へて、くる/\と、遊びまじくら擔ひ來て。
[ト書]
ト兩人、振りあつて、舞臺へ來り
おち
コレ、太郎松さんお前の花は見事ぢやが、どうぞわたしに下さんせぬか。
太郎
なんの、おちよぼ、それ程好い花持つて居ながら、まだこの花が欲しいかや。
おち
サア、わしが花より、その花が美しいゆゑ、それでアノ。
太郎
そんなら爰で、その花とわしが花とを、蟲拳で
おち
ほんに、こりや好からうわいな。
[ト書]
ト兩人柴を下ろし、互ひに櫻を出して、虫拳をする。直ぐに淨 瑠璃
[唄]
都を後にはる%\と、戀と忠義を一筋に。
[ト書]
ト三味線入りの次第になり、向うより靜御前、裲襠の上より抱へを締め、皷を脊 負ひ、市女笠を持ち、銀張りの杖を突いて出て
[唄]
靜と云へど人傳の、噂よ杖よ栞にて、心が道を急がれて、早くも君に 青丹よし、奈良の一夜の枕にも、せめて筐の皷の音、可愛い/\の袱紗物、明けて云 はれぬ思ひより、包むに餘る床しさを、いつか/\と遣る瀬なく慕ひ行く手に、やう /\と、辿りてこそは着き給ふ。
[ト書]
ト振りあつて、舞臺へ來り、此うち太郎松、おちよぼ、虫拳をして居て
太郎
わしが勝ぢや/\。
おち
イエ/\、わしが。
[ト書]
ト兩人、花を持つて、云ひかゝり、喧嘩の模樣。靜御前、來かゝり、これを見て、 中へ分け入り
靜
アヽ、コレ/\、何か知らぬが、そのお二人の諍ひを、貰ひませうわいの。
おち
アイ/\、見れば美しいお女中樣が、取さへて下さる事ぢやに依つて
太郎
それ/\、もう喧嘩しやア致しませぬ。
おち
矢ツ張りこれから
太郎
中好し小よし。
[ト書]
ト兩人、指切りをする
靜
それがよい/\。さうして爰から、アノ芳野へは、どれ程あるや。
おち
アイ、これから先は僅かな道。そんならお前は都から、花を見にお出でかえ。
靜
サア。
[ト書]
ト思ひ入れ
おち
初めてお出でのお方なら、お山のあらまし、わたしらが。
靜
ほんに、それが聞きたいわいなう。
おち
そんならお話し
兩人
申しませうか。
[唄]
流れては、妹脊の山のなか/\に、詠めもよしや芳野川、越えて六つ 田と夕しでの、神のお好が麓より、咲き初めて百町程、奧の院まで皆櫻。
[唄]
これは/\と右に取り、四手掛けの宮七曲り、爰で見るのが日本が花、 アレ御船山、藤井坂、景色も一入吉水院 そこらで先を燈籠の辻、見上ぐ るこなたの花矢櫓、うつかり立の尾、子守りの神脊に小櫻おんぶして、あの山越えて 谷越えて たが岩倉や躑躅が岡 櫻本には勝手の明神 昔花見の幕の内、ころりんしやんの琴のつれ 天女とやらが袖 振る山、五節の舞とか云ふわいな お江戸流行りはしん%\舞 金峯山には山伏の、逆の峯入り順の峯。
[ト書]
ト誂らへの手踊りになり
[唄]
今を盛りとめでたい花が、咲いたよしの そりやどこに こちのお山に黄金の花が、やろか一枝家土産に 嘘であろ 嘘ぢやごんせぬ、南無藏王權現さんと拜まんせ さうぢやかえ 有り難や、振りも好い中、中好しの、二人はこれにと云ひ捨てゝ、家路へこそは。
[ト書]
ト兩人よろしくあつて、銘々、柴を擔ひ、下座へ入る。靜御前、後見送り、思ひ 入れあつて
靜
マア、ほんに子供といふものは、話して居ると思ふうち。ても、せうどのない者 ではある。それはさうと忠信どのは、先刻にから何してぞ。それ/\、斯う云ふ折の 道の伽、我が君さまより賜はる皷、せめて心を……オオ、さうぢや。
[ト書]
ト靜御前、包みより皷を取出す。
[唄]
帛紗解く/\初音の皷、せめて調べて現にも、三ツ地か長地の道もせ を、遲れ走せなる忠信が。
[ト書]
ト雷序の頭ばかり打ち、直ぐに三味線入りの宮神樂にて、向うより忠信、着流し、 おしよぼからげの形、手甲、股引、草鞋にて、鎧の包みを背負ひ、簑笠を持ち出で來 り、花道に留る。
[唄]
しやんと出立も、小切り目に、輕い取形、風呂數を、仰せは重き君は 今、彼所に菫咲きまさる、蒲丹英の野を懷かしみ、靜が皷の音に連れて、白茅笹原谷 峯越えて、若葉隱れに歩み來る。
[ト書]
ト振りあつて、舞臺へ來る。靜御前、見て
靜
オヽ、忠信どの、今かいなう。
忠信
これは/\、靜さま、さぞお待遠にござりませう。女中のお足と思ひの外、よう マアおひろひなされまするな。
靜
サア、慣はぬ旅も我が君に、早うお目にかゝりたさ、それゆゑ道も自から。
忠信
イカサマ、さう思し召すもお道理/\。これと申すも侫人どもの、讒言をお用ひ あつて、現在の弟君を、憎ませ給ふ鎌倉どのが聞えませぬて。
靜
サア、それにつけて我が君さまの、芳野にお忍び遊ばされるは、憂きが中にも自 らは、吉瑞であらうかと、心の内で嬉しいわいな。
忠信
ムウ、義經公が、芳野にお出でなさるゝを吉瑞であらうと仰しやるは。
靜
サア、その譯は。
[唄]
語るも恐れ大友の、王子の爲に襲はれて、都を遠く清見原、國栖の翁 を頼みにて、芳野に御身を忍ぶ艸 オヽそれよ、暫しは居候ふ置き候ふと て、まさかにも、お茶漬ばかり上げられず、鮎の煮浸し腹赤の御贄、釣の魚より生物 の、ぶゑんのおむすが初物に、ちつくりお箸もかけまくも、山家の縁なればこそ、お 手を枕に寢した時は、冥加ないのもどこへやら、現ない程愛しさに、帶さへ解いて島 田髷、猶いやましの御契り それより程も夏たけて萩の錦の御旗を、飜へ したる花紅葉、色に心もお互ひに、そこが一目の關ケ原、眞劍勝負と入り亂れ、矢立 さながら雨霰、堪つたものではないわいな、遂に王子は打負け給ひ、天武の御代と太 平に、治まる御代こそめでたけれ。
[ト書]
ト兩人よろしくあつて
兩人
ハヽヽヽヽ。
靜
ほんに氣輕な忠信どの、併し、なんぼ其やうに諫められても、我が君さまは、矢 ツ張り暫しも忘られぬわいなう。
忠信
ハテ、その御辛抱も僅か一日。それまでは、マアマア、これをなと、義經公と思 し召し、お氣をお晴らしなされませ。
[ト書]
ト包みを解いて、鎧を出す。
[唄]
姓名添へて賜はりし、御着長を取出し、君と敬ひ奉る、靜は鼓を御顏 と、准へて上に沖の石 人こそ知らね君と我が、縁は深き堀川に、御所へ 召されしその始め、見上げていつそいつよりも、扇に心春の蝶。
[ト書]
ト唄かゝりにて、靜、扇の手になる
[唄]
菜種菜の花咲き亂れ、花に枝葉に假寢の枕、しどけないのが蝶の癖、 女夫らしいぢやないかいな、袖にひらひら、エヽ辛氣らし 餘所目もほん に白拍子。 御痛はしや義經公、壽永三年の戰ひも、既に危ふき八島の浦、 こは御大事と兄繼信、矢面にこそ立ち塞がる オヽ聞き傳ふその時に、平 家の方にも名高き強弓、能登の守教經と、名乘りも敢へずよツぴいて、放つ矢先は繼 信が、胸板發矢と眞逆さま、敢へなき最期に忠臣の、屍は埋めど名は朽ちず、この御 鎧を賜はりしも、皆これ兄が忠義の餘慶君恩などて報ぜんと、筐の品々取納め、いざ させ給への後から、それと馬方六藏が。
[ト書]
トこの淨瑠璃のうち、下座より六藏出て來て、靜御前を見て、思ひ入れあつて、 後より
六藏
やらぬワ。
[ト書]
ト靜御前にかゝる。靜、恟り振り切る。忠信、ちやつと隔て、靜を圍つて
忠信
こりやア、やらぬとは何をするのだ。
六藏
オヽ、やらないのぢやアない。やるのだ。馬をやらう/\。
忠信
ムウ、そんなら馬をやらうと思つて。
六藏
それサ。これから先は芦原峠、女中さんを乘せてござい。廉くやるべい。どうだ な/\。
忠信
イヤ/\、馬に所望はないて。
靜
それ/\、わしや馬は嫌ひぢやわいの。
六藏
ハテ、さう云はずと女中さん、見れば見る程。
忠信
どうしたと。
[ト書]
トきつと云ふ、六藏思ひ入れ。
[唄]
さても見事なじよなめき樣よ、豆が出來たらおらが馬に、エヽコレ、 耳の早い奴、腹へ太鼓を、こりやどうも、奈良饅頭より味さうな、その腰付きを畜生 め、どうどうどうどう、どうでごんすと立寄れば。
[ト書]
ト靜の側へ寄るを、忠信引退けて
忠信
イヽヤ、さう口先で乘せかけても、その手には乘るまいワ。
六藏
さう云やアよいワ。この高名の六藏が乘るだけだ。この仕事に乘らずに、先へ行 かれるなら行つて見やれ。落人め。
忠信
なんと。
[ト書]
ト兩人、思ひ入れ。
六藏
義經の妾、靜御前に違ひない。乘せて行つて駄賃より、褒美にするワ。渡して行 け。
忠信
ハヽヽヽヽ。忠信がお供した、靜さまを渡せとは、身の程知らぬ蠅虫めが。
六藏
オヽ、そこを斯うして。
[ト書]
トまた靜御前へ立ちかゝるを、忠信、ちよつと立廻つて。
兩人
ドツコイ。
[ト書]
トこれより所作ダテになる。
[唄]
最早お立ちよ小氣味よい程やツつけろ、雪が櫻か櫻が雪か、も一つ杯 引ツかけろ、青に切つてやつてくりよ、浮に浮れて品も柳の宿おじやれ、泊らんせ/ \、派手なよね衆に袖を引かれた。
[ト書]
トよろしく立廻りあつて、六藏が腕を捻ぢ上げ
忠信
イザ、お構ひなく、靜さま。
靜
忠信どの。
[ト書]
ト六藏、ムウと思ひ入れ。
忠信
ござりませい。
[唄]
譽れの程を三芳野の、麓を。
[ト書]
ト此うち靜、花道へかゝる。六藏、振り解いて行かうとするを、忠信、引戻して、 ポンと當る。六藏、タヂタヂとなる。忠信、ツカ/\と花道へ行く。ちよつと辭儀す る。六藏見事に宙返りとする。途端、靜、思ひ入れ。
[唄]
指してぞ。
[ト書]
ト勢ひ三重にかぶせ、片シヤギリになり、靜御前先に忠信、花道へ入る。
幕
[唄]
急ぎ行く。
[ト書]
トあとシヤギリ。
- 役名==九郎判官義經。
- 佐藤四郎兵衞忠信。
- 忠信
實ハ源九郎狐。
- 龜井六郎重清。
- 駿河次郎清 繁。
- 川連法眼。
- 同妻、飛鳥。
- 横川の禪司覺範 實ハ能登守教經。
本舞臺、三間の間、一面の山幕、櫻の吊り枝、舞臺所々に、山の梢を見せ、 すべて芳野山の體。爰に芳野の衆徒四人、いづれも衆徒頭巾、黒の衣の露を取り、太 刀、臑當、草鞋にて立ちかゝり居る。山颪し、谺の合ひ方にて、幕明く。
衆徒
時に何れも、今日の會合に、川連どのゝ詞、何とも以て、その意を得ぬ儀と存 じたるゆゑ、横川の禪司覺範どのへ、密訴に及びしに。
同
左やう/\、覺範どのゝ詞では、いよ/\義經は隱まつてあるに相違なきゆゑ
同
今宵を過さず、川連が館へ押寄せ、夜討にして義經が首討つて
同
鎌倉へ渡して、頼朝の恩賞にあづかれとの指圖。殊に夜討の駈引、覺範どのゝ指 揮に從ひ
同
山科の荒法橋は、燈籠ケ辻より一文字に押寄せ、梵鐘三ツ四ツ打ち立てゝ、敵を 騒がす合ひ圖の手配り。
同
また梅本の鬼佐渡は、如意輪寺の裏の手を、眞直ぐに六地藏の橋を引き、敵の逃 ぐるを待ちかけて、散々に討つて落し
同
覺範どのには、新坊谷の坊に火をかけ、聖天山より無二無三に駈け散らして、勝 利を得んと、評定これに一決して
同
各々合ひ圖の時を待つて、もし敵方に用意のあつては、一山の瑕瑾ゆな、我れ/ \四人は裏傳ひ。
同
川連が館へ忍び、拔けがけなして、法眼始め
同
手に立つ奴ばら、片ツ端
同
切つて/\切りまくり
同
義經が素頭取つて、鎌倉の
皆々
恩賞にあづからん。
衆徒
何れも、これより法眼が、館へ忍んで必ずとも。
三人
云ふにや及ぶ。手柄は仕勝ち。
衆徒
然らば何れも。
三人
合點だ。
[ト書]
ト山颪しになり、皆々勇み立ち、靜々と下座へ入る。チヨンと山幕切つて落す。 ト直ぐ淨瑠璃になる。
本舞臺、三間の間、一面に結構なる高足、二重舞臺見附け一面に金襖、正面、 瓦燈口。上の方、塗り骨綟張りの障子を斜に見切り、高欄、渡り金鐵物、上り段好み あり、誂らへの通り飾り付け、下の方、萩垣、櫻の立ち木、これに砧を仕かけ、すべ て川連館の體。琴唄にて幕明く。
[唄]
鶯の聲なかりせば雪消えぬ、山里いかで春を知らまし、春は來ながら 春ならぬ、九郎判官義經を、御慰めの琴三味や、川連法眼が奧座敷、音締めも世上忍 び駒、柱に立てる雁金も、春を見捨てぬ志し、實に頼もしき待遇なり。
[ト書]
ト向う揚げ幕にて
呼び
お歸り。
[唄]
今朝より他出の法眼、心に一物ある顏に、悠々と立歸れば、妻の飛鳥 は出で迎ひ。
[ト書]
ト向うより、法眼、袴長絹にて、中啓を持ち、出で來る。上手の障子を明け、妻 飛鳥、裲襠衣裳にて出で迎へ、兩人二重舞臺へ住ひ
飛鳥
我が夫には殊なう早いお歸り。今日の御評定、一山のお仕置か。但しは又、奧の お客義經さまの、御事でござりますかな。
法眼
オヽ、義經の事とも。
飛鳥
ムウ。さては芳野一山は、味方と申すやうな事でござりまするか。
法眼
成る程/\、衆徒の中にも、歸り坂の藥醫坊、山科の荒法橋、梅本の鬼佐渡等、 別しては横川の覺範、一端立つて、義經に味方と云ふは、我が心を探り見ると知つた るゆゑ、この法眼は鎌倉方と、云ひ放つて歸つたわやい。
飛鳥
ムウ。鎌倉方と仰しやつたは、衆徒の心を此方からも、探つて見るお心よな。
法眼
イヤ、この法眼、今日より心を改め、義經とは敵味方。
飛鳥
エヽ、アノお前は義經さまと。
法眼
オヽ、鎌倉どのへ討つて出す氣。疑はしくば、これを見よ。
[唄]
懷中の書翰投げ出せば、手に取上げ、文言殘らず讀み終り。
[ト書]
ト法眼、懷中より一通の書面を出して見せる。飛鳥、手に取つて見て、思ひ入れ。
飛鳥
こりや、義經公この山に、お忍びある事、鎌倉へ知れたやうな文體。
法眼
如何にも、汝が云ふ如く、天に口なし、人を以て云はしむる。告げ知らせし者な くして、小舅萩の左衞門より斯く云うて越すべきや。内通せられて知れたる上は、遁 がれなき判官どの。人に手柄をさせんより、我が手にかけて討つ所存。
飛鳥
エヽ、そりやお前、眞實でござりますか。
法眼
如何にも。
飛鳥
イヤ、ほんに/\、こなさんは、義經を切る心か。
法眼
くどい/\。
飛鳥
ハアヽ……さうぢや。
[唄]
夫が刀拔くより早く、自害と見ゆる、女房が、持つたる刃物引ツたく り。
[ト書]
ト飛鳥、法眼、刀を持つて、自害せんとする。法眼留めて
法眼
こりや、何んとする。なんで死ぬる。
[唄]
云ふ顏きつと打守り
飛鳥
なんで死ぬとは法眼どの、なぜ隔てゝは下さんす。恩賞の下し文、千萬遍來たと ても、一旦の契約を變ずるこなたの氣質ぢやないが、鎌倉どのゝ忠臣、萩の左衞門が 妹飛鳥、義經公の御隱れ家、兄の方へ知らせたかと、この状が來たゆゑに、疑うての 心ぢやの。覺えない云ひ譯を、マザ/\として居られうか。疑ふよりは一思ひに、殺 して下され。法眼どの。
[唄]
恨み涙ぞ誠なる、法眼始終聞き濟まし、以前の一通取るより早く、 寸々に引ツ裂き/\。
[ト書]
トこれにて法眼、今の状を寸々に引裂き捨て
法眼
僞りに命は捨てまじ。女房を疑うたは、未練には似たれとも、義經公へ拔け目な き我が忠節、衆徒らが胸中探り次第、心引き見るこの似せ状、引ツ裂き捨つれば安堵 して、自害をとまれ、女房飛鳥。
[唄]
解ける心は春の雪、恨みも消えてなかりけり。
[ト書]
ト奧にて
義經
法眼歸られしな。それへ參つて面談いたさん。
[唄]
面談ざうと義經公、奧の間より出させ給ひ。
[ト書]
ト管絃になり、奧より義經、壺折り衣裳にて、中啓を持ち、出で來り、褥の上に 座す。蒔繪の脇息、刀掛けに刀をかける。
[義經]
鞍馬山のよしみを忘れず、段々の厚志、殊に兼ねて申し談ぜし衆徒の評定、委細 あれにて承る。妻女の心底、祝着詞に述べ難し。過分に存ずる。
法眼
こは有り難き御諚。師の坊の命と云ひ、只ならぬこなた樣、疎略なき心底、御存 知の上は、身に餘る喜び、この上やあるべき。武藏坊どのは、奧州秀衡方へ遣はされ、 御家臣とても少なければ、龜井、駿河なんどが如く、思し召し下されませう。
[ト書]
ト花道より菖蒲革の足輕、一人出で來り
足輕
ハツ、申し上げまする。佐藤四郎兵衞忠信どの、君の御行くへを尋ね、お出でご ざりまする。これへ通し申さんや、如何計らひませうな。
義經
ナニ、忠信が參りしとや。對面なさん、これへと申せ。
足輕
ハツ。
[ト書]
ト引返して入る。
法眼
忠信どの入來とあれば、君にも何かと御物語り、暫らく奧へ。
飛鳥
左樣ならば我が君さま。
義經
法眼夫婦。
法眼
後程お目にかゝりませう。
[唄]
法眼夫婦は立つて行く。
[ト書]
ト法眼、飛鳥、奧へ入る。義經殘る。
[唄]
案内に連れて入り來る、佐藤四郎兵衞忠信、御座の間のこなたに出で、 絶えて久しき主君の顏、見るも無念の溜め涙、さし俯向いて詞なし、大將御機嫌斜め ならず。
[ト書]
ト向うより、忠信、好みの形にて、出で來り、直ぐに舞臺下の方へ來り、平伏す る。義經、思ひ入れ。
義經
汝に別れ爰かしこ、鎌倉どのゝ御詮議強く、身の置き所なかりしに、東光坊の弟 子、川連法眼に隱まはれ、心ならざる春を迎へ、暫らくの命をつぐ。我が姓名を讓り し其方、命全たくある事、我が運の盡きざるところ、頼もしゝ喜ばし。その砌り預け たる、靜は如何なりしぞや。
[唄]
御尋ねありければ、忠信不審げに承り。
忠信
こは存じがけなき仰せ。八島の平家一時に亡び、天下一統の凱歌を上げ給ふ折柄、 告げ來る母の病氣、聞し召し及ばれ、お暇賜はつて、本國出羽へ歸りしは、去年三月、 程なく別れし母が中陰、忌中に合戰の疵口起り、破傷風といふ病となり、既に命も危 ふき半、御兄弟の御仲裂け、堀川の御所沒落と承る口惜しさ。胸を射る程重なる病氣、 無念さ餘つて腹切らんと存ぜしが、せめては主君の御顏ばせ、今 一度拜し參らせんと、念願叶ひて本腹と申し、初立ちの長旅、忍びの道中、恙なくこ の館へ御入りと承り、只今參つた忠信に、姓名を賜はり、靜御前を預けしなんど、御 諚の趣き身に取つて、かつふつ覺えござりませぬ。
[唄]
云はせも敢へず、氣早の大將。
義經
ヤア、とぼけな忠信。堀川の館を立退きし時、折好く汝、國より歸り、靜が難儀 を救ひしゆゑ、我が着長を汝に與へ、九郎義經といふ姓名を讓り、靜を預け別れしに、 其方、世になき我れを見限りて、靜を鎌倉へ渡し、義經が在所探しに來たか。只今國 より歸りしとは、まざ/\しき僞はり表裏。漂泊しても、うつけぬ義經、謀らんとは、 奇怪至極。不忠二心の人外、アレ引ツ括つて面縛せよ。龜井は居らぬか。駿河、參れ。
[唄]
聲に駈け來る勇士の面々、裾端折つて忠信が、弓手右手に反り打かけ。
[ト書]
ト下座より、次郎、六郎出で來り
次郎
委細あれにて皆聞いた。サア、腕廻せ、四郎忠信。
六郎
靜御前のお行くへ、サア、明白に白状せよ。
忠信
サ、それは。
次郎
但し踏み付け繩かけうか。
忠信
サア。
次郎
白状するか。
忠信
サア。
兩人
サア。
三人
サア/\/\。
兩人
なんと/\。
[唄]
なんと/\に難儀の最中。
[ト書]
トばた/\にて、向うより足輕、走り出て來り
足輕
靜御前の御供にて、四郎兵衞忠信どの、御出でにござりまする。
[ト書]
ト引返して入る。皆々思ひ入れ。
義經
ナニ、忠信これにある上に、又ぞろ忠信來りしとは、ハテ心得ぬ。
忠信
ムウ、我が名を騙る胡亂者。引ツ括つて大將への面晴れ。さうだ。
[ト書]
ト行かうとする。兩人、留めて
六郎
ヤア、ならぬ/\。詮議の濟まぬ其うちは。
次郎
動かす事、罷りならぬ。
[唄]
兩人向うを支へたり。
義經
イヤ、さなせぞ兩人。忠信これにある上に、また忠信が靜を同道。何にもせよ、 仔細ぞあらん。片時も早くこれへ通せ、重清、早く。
六郎
ハツ
[唄]
あつと龜井は次の間へ。
[ト書]
ト六郎、向うへ一敬に入る。
[唄]
我が身危ぶむ忠信は、默して樣子を窺へば、別れ程經し君が顏、見た さ逢ひたさとつかはと、川連が奧の間に、歩み來る間もとけしなく
[ト書]
ト向うより、靜御前、袱紗包みの皷を持ち、出で來り、舞臺へ來て
靜
ヤア、我が君樣、お懷かしう、ござりましたわいなア。
[唄]
人目いとはず縋り付き、戀し床しの溜め/\を、涙の色に知らせたり。
義經
オヽ、女心に慕ふは尤も。別れし時云ひ聞かせし如く、人の情にあづかる義經、 輪廻きたなき振舞ひならねば、つれなくももてなしたり。して、同道せし忠信は、何 所に居るぞ。
靜
忠信どのは、たつた今お次まで同道せしが、爰へは未だ參られませぬか……オヽ、 それ/\、ても早う爰へ來てぢや。一緒にお目見得するものを、ちつとの間に先へ拔 けがけ。まだ軍場かと思うてか。ほんに、まん勝ちな人ではある。
[唄]
恨み口なる詞に不審、一倍晴れぬ四郎忠信。
忠信
アイヤ、靜さま、我が君もその如く、覺えなき御尋ね。拙者めは今の先、出羽の 國より戻りがけ、去年お暇申してから、お目にかゝるは只今始めて。
靜
エヽ、あの人の、じやら/\と、てんがうばつかり。
忠信
イヤ、てんがうではござりませぬ。大眞實。
靜
アレ、また眞顏で騙すのか。
[唄]
何氣も媚めく詞のうち、立戻る龜井六郎。
[ト書]
ト向うより、六郎、立戻つて來り
六郎
靜さま同道の忠信、引立て來らんと存ぜしところ、次の間にも有り合さず、玄關 長屋、所々方々尋ねましたるところ、皆暮れ相知れませぬやうにござりまする。
[唄]
申すに心迷ひ給ひ。
義經
ムウ、コレ靜、爰に居るは、其方を預けたる忠信ならず、只今國より歸りしと、 物語りするうち、靜と同道との案内、二人ある中にも見えざるは不審者、面體似たる 似せ者ならずや。靜、心は付かざるにや。
[唄]
仰せのうちに忠信を、つれ%\と打眺め。
靜
さう仰しやれば、どうやら小袖も形も違うてある。お待ち遊ばせや……それか… …オヽ、さうぢや。思ひ當る。
[唄]
事がある。
[靜]
君が筐と別れし時、賜はりし初音の鼓、御覽遊ばせ、此やうに、肌身も放さず手 に觸れて、忠信の介抱受け、八幡山崎小倉の里、所々に身を忍び居たりしに、折々に 留守のうち、君戀しさのこの鼓、打つて慰む度々、忠信歸らぬ事もなく、その音を感 に堪える事、ほんに酒の過ぎた人同然、打止めばキヨロリと何氣ない顏付きは、よく よく鼓が好きと初手は思ひ、二度三度四度目には、ても變つた事、五度目には不思議 立ち、六度目には怖氣立ち、それよりは打たざりしが、君は爰にと聞き付けて、心急 く道、忠信に離れた時、鼓の事思ひ出し、打てば不思議や目の前に、來るともなく見 えたるは、女心の迷ひ目かと、思うて連れ立ち來りしに、又この場の不思議。こりや マア、どう云ふ事でござりますぞいな。
[唄]
申し上ぐれば義經公。
義經
ムウ、鼓を打てば歸り來るとは、それぞ好き詮議の近道……忠信に尋ね問ふべき 仔細もあれば、奧の廣間へ引据ゑよ。
次郎
ハツ、忠信、お立ちやれ。
[唄]
龜井駿河も忠信に、引添うてこそ入りにける。
[ト書]
ト忠信、次郎、六郎、下座へ入る。
義經
イヤナニ靜、この詮議は、其方に申し付ける。その鼓を以て、同道なしたる忠信 を詮議せよ……もしも怪しき事あらば、この刀で、打つて捨てよ。
[ト書]
ト刀掛けに掛けたる一腰を取つて差出す。
靜
ハツ。
[ト書]
ト刀を受取る。
義經
我が手で打たれぬ鼓の妙音、心得たか。
靜
畏まりましてござりまする。
義經
しかと詮議を申し付けたぞ。
[唄]
帳臺深く入り給ふ。
[ト書]
ト義經奧へ入る。靜御前、殘る。
[唄]
靜は君の仰せを受け、手に取上げて引き結ぶ、しんき深紅と絢ひ交ぜ の、調べ結んで胴掛けて、手の中締めて肩に上げ、手品も優に打ち鳴らす、聲清らか に澄み渡り、心耳を澄ます妙音は、世に類なき初音の鼓、彼の洛陽に聞えたる、會稽 城門の越の鼓、斯くやと思ふ春風に、誘はれ來る佐藤忠信、靜が前に兩手を突き、音 に聽き惚れしその風情、すわやと見れば、打ち止まず、猶も樣子を調べの音色、聽入 り聽入る餘念の體、怪しき者とは見て取る靜、折よしと鼓を止め。
[ト書]
ト此うち靜、皷を取出し、胴を掛けて打つ。好き時分、向うより忠信出て來り、 舞臺へ來て、聽き惚れ居る。
靜
遲かりし忠信どの、我が君樣の殊ないお待兼ね。サア/\奧へ。
[唄]
詞にハツとは云ひながら、座を立ち遲れ、差し俯むく油斷を見濟まし、 切り付けるを、ヒラリと飛び退き、飛びしさり。
忠信
こりや靜さま、なんとなされます。
[唄]
咎められて機轉の笑ひ。
靜
ホヽヽヽ。オヽ、あの人のけうとい顏わいの。久し振りの靜が舞、見ようと御意 遊ばすゆゑ、八島の軍物語りを。
[唄]
舞の稽古と鼓を早め、斯くて源平入り亂れ、船は陸路へ、陸は磯へ漕 ぎよせ打出し打ち鳴らす、皷に又も聽入つて、餘念他愛もなき所を。
[靜]
忠信やらぬ。
[唄]
切りかゝる、太刀筋負はしてかい潜るを、付け入る柄元、しつかと取 り。
忠信
こりや靜さま、何科あつて騙し打。切らるゝ覺え、かつてござらぬ。
[唄]
刀たぐつて投げつくれば。
靜
ヤア、覺えないとは卑怯な一言。似せ忠信の詮議せよと、仰せを受けしこの靜。 云はずば斯うして云はさうか。
[唄]
皷を押取りはた/\/\、女のか弱き腕先に、打ち立てられて、ハア はつと、あやまり入つたる忠信に、皷打ちつけ、サア白状、サア/\/\と詰めかけ られ、一言半句も詞なく、只平伏して居たりしが、やう/\に頭を擡げ、初音の皷手 に取上げ、さも恭々しく押頂き、靜の前に直し置き、靜々立つて廣庭へ、下りる姿も 悄々と、見すぼらしげに手をつかへ。
忠信
今日が日まで隱しおほせ、人に知らせぬ身の上なれども、今日國より歸つたる、 誠の忠信に御不審かゝり、難儀とあるゆゑ、據ろなく、身の上を申し上ぐる、始まり は、それなる初音の鼓、桓武天皇の御宇、内裏に雨乞ひありし時、この大和の國に、 千年功經る牡狐、牡狐、二疋の狐を狩り出し、その狐の生皮を 以て、拵らへたるその鼓、雨の神を諫めの神樂、日に向ひてこれを打てば、鼓は元よ り浪の音、狐は陰の獸ゆゑ、水を發して降る雨に、民百姓は喜びの、聲を初めて上げ しより、初音の鼓と號け給ふ。その皷は私しが親、私しめは、その皷の子でござりま する。
[唄]
語るにゾツと怖氣立ち、騒ぐ心を押靜め。
靜
ムウ、其方の親はこの皷、その子ぢやと云やるからは、さては其方は、狐ぢやの。
[ト書]
トこれにて忠信、狐の姿に引拔く。
忠信
ハツ、成る程、雨の怒りに、兩親の狐を捕られ、殺されたその時は、親子の差別 も悲しい事も、辨へなき、まだ子狐、藻をかつく程年もたけ、鳥居の數も重なれど、 一日親をも養はず、生みの恩を送らねば、豕狼にも劣りしゆゑ、六萬四千の狐の下座 に付き、只野狐と下げしまれ、官上りの願も叶はず、親に不孝な子があれば、畜生よ 野良狐よと、人間では、仰しやれども。
[唄]
鳩の子は親鳥より、枝を下がつて禮儀を述べ、烏は親の養ひを、育み 返すも皆孝行、鳥でさへその通り、まして人の詞に通じ、人の情も知れる狐。
[忠信]
なんぼ愚痴無智の畜生でも、孝行と云ふ事を、知らいでなんと致しませう。とは 云ふものゝ親はなし、まだも頼みはその皷、千年功經る威徳には、皮に魂ひ止まつて、 性根入つたは即ち親、附添うて守護するは、まだこの上の孝行と思へど、淺ましや禁 中に、留め置き給へば、八百萬神宿直の御座、恐れあれば寄り付かれず。
[唄]
頼みの綱も切れ果しは。
[忠信]
前世に誰れを罪せしそ。人の爲に怨みする者、狐と生れ來ると云ふ、因果の經文 怨めしく、日に三度、夜に三度、五臟を絞る血の涙。
[唄]
火焔と見ゆる狐火は、胸を燃やする焔ぞや。
[忠信]
斯程業因深き身も、天道樣のお惠みで、不思議に初音の皷、義經公の御手に入り、 内裏を出れば恐れもなし、ハハア嬉しや喜ばしやと、その日より付添ふは、義經公の 御庇、稻荷の森にて忠信が、有り合はさばとの御悔み、せめて御恩を送らんと、その 忠信に成り代り、靜さまの御難儀を救ひました御褒美とあつて、勿體なや畜生に、清 和天皇の後胤、源九郎義經といふ、御姓名を賜はりしは、空恐ろしき身の冥加。これ と云ふも我が親に、孝行が盡したい、親大事と思ひ込んだ心が届き、大將の御名を下 されしは、人間の果を請けたる同然。いよ/\親が猶大切、片時も離れず付添ふ皷。
[唄]
靜さまは又我が君を、戀ひ慕ふ調の音、變らぬ音色と聞ゆれども。
[忠信]
この耳へは兩親が、物云ふ聲と聞ゆるゆゑ、呼び返されて幾度か、戻つた事もご ざりました。只今の皷の音は、私しゆゑに忠信どの、君の御不審蒙むつて、暫らくも 忠臣を苦しま は汝が科、早く歸れと父母の、教への詞に力なく、元の古巣へ歸りま する。今までは大將の、御目を掠めました段、お情には靜さま、お詑びなされて下さ りませ。
[唄]
縁の下より伸び上がり、我が親皷に打向ひ、交す詞のしり聲も、涙な がらの暇乞ひ、人間よりは睦ましゝ。
[忠信]
親仁樣、母樣、お詞を背きませず、私しはモウお暇申しまする、とは云ひながら、 お名殘惜しかるまいか。兩親に別れた折は何にも知らず、一日々々經つに付け、暫し もお側に居たい、産みの恩が送りたいと、思ひ暮らして泣き明かし、焦れた月日は四 百年、雨乞ひゆゑに殺されしと、思へば照る日が怨めしく。
[唄]
曇らぬ雨は我が涙。
[忠信]
願ひ叶ふが嬉しさに、年月馴染みし妻狐、中に儲けし我が子狐、不便さ餘つて幾 度か、引かるゝ心を胴慾に、荒野に捨てゝ出でながら、飢ゑはせぬか、凍えはせぬか、 若し狩人に捕はれはせぬか。我が親を慕ふ程、我が子も丁度このやうに、我れを慕は うかと、案じ過しがせらるるは。
[唄]
切つても切れぬ輪廻の絆、愛着の鎖に繋ぎ留められて。
[忠信]
肉も骨も身も碎くる程、悲しい妻子を振り捨てゝ、去年の春から付添うて丸一年、 經つや經たずに去ねとあるとて、なんとマア、アツと申して參られませうかいの/\。 お詞背かば不孝となり、盡した心も水の泡、切なさが餘つて、歸るこの身は何たる業。 まだせめてもの思ひ出に。大將の賜はつたる、源九郎を我が名にして、末世末代呼ば るゝとも、この悲しさは何とせん。靜さま、御推量なされて下さりませ。
[唄]
泣きつ口説いつ身悶えし、
だうと伏して泣き 叫ぶ、大和の國の源九郎狐と、云ひ傳へしも哀れなり、靜は流石女氣の、彼れが誠に 目もうるみ、一間の方に打向ひ。
靜
我が君さま、お聞き遊ばされましたか。
[唄]
申す内より障子を開き。
[ト書]
ト奧より、義經出で來り
義經
オヽ、詳しく聞き届けた。さては人間にてはなかりしな。今までは義經も、狐と は知らざりし。不便な彼れが心ぢやなア。
[唄]
不便の心とありければ、頭をうな垂れ禮をなし、御大將を伏拜み/\、 座立ちは立ちながら、皷の方を懷かしげに、見返り/\行くとなく、消ゆるともなく 春霞。
[ト書]
ト忠信、揚げ幕へ入る。
[唄]
人目朧に見えざれば、大將哀れと思し召し。
[義經]
あれ呼び返せ、皷打て、音に連れ、又も歸り來らん、皷々。
[唄]
靜は又も取上げて、打てば不思諸や音は出で ず、こはこは不思議と取直し、打てども/\こは如何に、上とも平とも音せねば。
靜
ムウ、さては魂ひ殘すこの皷、親子の別れを悲しんで、音を留めしよな。人なら ぬ身もそれ程に、子ゆゑに物を思ふかいなう。
[唄]
打悄るれば義經公。
義經
我れとても、生類の、恩愛の節儀、身に迫る。一日の孝もなく、父頼朝を長田に 打たれ。
[唄]
日蔭鞍馬に成長し、せめては兄の頼朝にと、身を西海の浮き沈み、忠 勤仇なる御憎しみ、親とも思ふ兄親に。
[義經]
見捨てられたる義經が、名を讓りたる源九郎は、前世の業、我れも業、そもいつ の世の宿縁にて、かゝる業因なりけるぞや。
[唄]
身につまされし御涙に、靜はワツと泣き出せば、目にこそ見えね庭 の面、我が身の上と大將の御身の上を一口には、勿體涙に源九郎、 ワツと叫べば我れと我が、姿を包む春霞、晴れて形を顯はせり。
[ト書]
ト薄どろ/\になり、下の方の砧を卷上げる。狐忠信顯はれる。
[唄]
義經公御座を立ち給ひ、手づから皷取上げて。
義經
ヤヨ、源九郎、汝靜を預かり、永々の介抱、詞には述べ難し。禁廷より賜はりし、 大切の品なれど、切なる汝が心を感じ、これを汝に得さするぞや。
忠信
ナニ、その皷を下されんとや。
義經
如何にも。
[ト書]
ト皷を受取り
忠信
ハア。有り難や、忝なや。焦れ慕ふ親皷、辭退申さず頂戴せん。重ね%\深き御 恩の御禮、今より君の影身になり、御身の危ふき時は、一方を防ぎ奉らん。返す返す も嬉しやなア。
[ト書]
ト雷序になり
[忠信]
オヽそれよ、我が身の上に取紛れ、申す事怠つたり。一山の惡僧ばら、今宵この 館を、夜討にせんと企てたり。押寄せさするまでもなく、我れ轉變の通力にて、衆徒 を殘らず訛つて、この館へ引入れ/\。
[唄]
眞向、立割り車切り、又一時にかゝりし時、蜘蛛手かか繩十文字、或 ひは右袈裟左袈裟、上を拂へば沈んで受け、裾を拂へばひらりと飛び、けいせう祕術 は得たりや得たり。
[忠信]
御手に入つて亡ぼすべし、必らず御油斷、遊ばしまするな。
[唄]
皷を取つて禮を爲し、飛ぶが如くに行く末の、後をくらまし失せにけ る。
[ト書]
トどろ/\、雷序にて、忠信、皷を持つて、砧にて消える。
義經
源九郎が通力にて、計らず知りし今宵の夜討。これより奧にて何かの用意。靜、 來やれ。
[唄]
打連れ、奧へ入り給ふ。
[ト書]
ト管絃にて義經、靜を連れ、奧へ入る。知らせにつき、舞臺へ網代幕を振り落ず。
ドロ/\、雷序になり、所々へ狐火出る。小狐一疋出て、向うを招く。これ より化かされの合ひ方になり、向うより藥醫坊、荒法橋、鬼佐渡、いづれも化かされ の衆從の形にて出で來り、これよりをかしみの仕草、いろ/\あつて、トヾ皆々上手 に入る。鳴り物打上げ知らせにて、道具幕切つて落す
本舞臺、一面の櫻の林。上下、網代塀。日覆より櫻の吊り枝。奧庭の模樣よ ろしく、道具納まる。
[大ザツマ]
それ芳野の花爛まんと、吹雪に紛れ山風に、連 れて群がる數多の狐火、斯くと白刃の大薙刀、石突土に突き鳴らし、衆徒の大將横川 の覺範、茫然として彳めり。
[ト書]
ト大太鼓入り、セリ上げの鳴り物になり、ドロ/\、狐火。覺範、胸當、手甲、 臑當、緋の衣、頭巾姿、重ね草鞋を穿き、大薙刀にて小狐を踏まへ、セリ上がる。
覺範
ハテ、訝かしやなア。樹下石上の勤行に、日夜怠慢なきが如く、一門の仇報はん と、川連が館へ來かゝる道眠るともなく彳みしは、さては野干が仕業よな。いで息の 根をとめてくれん。
[唄]
いで一討と薙ぎ立つれど、通力自在の古狐、あなたこなたを飛びかは す、さながら野邊の狐火が、風に揉まるる如くなり、猶も鋭き薙刀の、手練に流石の 野狐も、あしらひ兼ねしか忽ちに、掻き消す如く失せにけり。
[ト書]
トこの淨瑠璃のうち、狐引拔き、源九郎狐好みの姿になり、覺範と立廻りあつて 消える。
[唄]
覺範あとを見送つて
[覺範]
益なき事にて思はぬ隙取り……ヤア/\、川連どのは何所にある。客僧これまで 參つたり、奧へ推參申さんや。とく/\對面いたされよ。
[唄]
呼はり/\歩み行く、後の方に聲あつて。
義經
ヤア/\、平家の大將、能登守教經待て。
[唄]
聲かけられて、キツと見返り。
[ト書]
ト花道にて覺範、思ひ入れあつて
覺範
ムウ、聲あつて形なきは、我れを呼ぶにはあらざりしか。覺えなき名に驚ろきて、 思はぬ氣後れ。人無くて、恥かゝざりし。
[唄]
獨り言して行く所を。
義經
ヤア/\、横川の禪司覺範とは假の名、誠は平家の大將、能登守教經へ、九郎判 官義經。
忠信
佐藤四郎兵衞忠信。
六郎
龜井六郎重清。
次郎
駿河の次郎清繁。
義經
いま改めて見參。
皆々
見參。
覺範
何がなんと。
[ト書]
トつツかけになり、上手より義經、次郎は安徳君を抱き、後に六郎、軍兵大勢附 いて出る。向うより誠の忠信、槍を持ち、出で來り、覺範を舞臺へ押し戻し、キツと 見得。
覺範
ヤア、この覺範を教經とは、何を以て、何を證據に。
義經
愚かや教經。
[ト書]
ト肥前節になり
[義經]
紅の旗じるしは、衆徒にやつせど隱れなし。安徳君は義經が、知盛より預かり奉 り、大切に守護なしあるワ。
忠信
過ぎし八島の戰ひに、打ち洩らしたる汝ゆゑ、時節を待つてこの年月、思ひ設け し甲斐あつて、計らず出會ふ兄の仇。
六郎
まつた一味の惡僧ばら、源九郎が通力にて、殘らず打取る上からは、
次郎
最早遁かれぬ尋常に、その名を明かして
皆々
降參々々。
覺範
ヤア、いまはしき降參呼はり、斯くなる上は何をか包まん、横川の禪司 覺範と、變名なせし我れこそは、桓武天皇九代の後胤、門脇中納 言教盛が嫡男、能登守教經。月近く寄つて、面像拜み奉れエヽ。
[ト書]
ト頭巾を脱ぎ、引拔いてキツト見得。
皆々
さてこそなア。
覺範
斯く本名を現はす上は、片ツ端から死人の山だ。覺悟なせ。
義經
ヤレ待て教經。いま打取るは易けれど、君御安泰にまします上、我が身替りに相 果てし、繼信への追善に、この場は一旦見遁がし得させん。
覺範
流石は義經、よく申した。この場は此まゝ別るゝとも
忠信
また重ねての再會には
六郎
折も芳野の花櫓。
次郎
花々しき勝負を遂げん。
義經
先づそれまでは、能登守教經。
覺範
方々
皆々
さらば。
[ト書]
ト和歌になり、覺範眞中に、皆々見得よく居並び、キツと見得。
覺範
先づ今日はこれぎり。
義經千本櫻(終り)
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