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Japanese Text Initiative
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世阿彌
作
皇居の御庭掃の老人。女御に思を懸け申したれども成らぬを歎きて。遂に身を投 げ。亡靈となりて恨みに出づる事を作る。衣の綾に作れる鼓を誠の鼓と思ひ。打てども 鳴らぬ事あるによりて綾鼓と名づく。
「是は 筑前の國木 の丸の皇 居に仕へ奉 る臣下にて候。さても此所 に桂の池 とて名池の候ふに。常は 御遊の御座候 。ここに御庭掃の老人の候ふ が。女御の御姿 を見參らせ。しづ心なき戀とな りて候。此事 を聞し 召し及ばれ。戀には上下を 分かぬ習ひ なれば。不便に思し召さるる 間。彼池 の邊の 桂木の枝に鼓を掛け。 老人に打 たせられ。彼鼓の聲皇居に聞 えば。其時女御の御姿ま見え 給はんとの御事 にて候ふ程に。彼老人 を召して申 し聞かせばやと存じ候。
「如何に 老人。汝 が戀の事 を忝なくも聞 し召し及 ばれ。不便に思し召さるる 間。桂 の池の桂木 の枝に 掛け置かれたる鼓を。老人參 りて打ち候へ 。彼鼓の聲皇居に聞え ば。今一度女御の御姿をまみえさせ給はんとの御事なり。急ぎ參りて 鼓を仕 り候へ。
「仰せ 畏つて承 り候。さらば參 りて鼓を 仕り候ふべし。
「此方へ 來り候へ。 此鼓の事 にてあるぞ急いで仕り候へ。
「實にや 承り及ぶ 月宮の月 の桂こそ。名 に立てる 桂木なれ。是は正しき池邊の 枝に。かかる鼓 の聲出でば。それこそ戀の束ねなれ と。夕べの鐘 の聲添へて。又打ち添ふる 日並の數 。
「後の 暮ぞと頼 め置く。後の暮ぞと頼め置く。時の鼓を打たうよ。
「さなきだに闇 の夜鶴の 老の身に。
「思ひを添ふるはかなさよ。
「時の移るも白波の。
「鼓は何とて鳴らざ らん。
「後 の世の近 くなるをば驚かで。老いに添へた る戀慕の秋 。
「露も涙もそぼちつつ。心 からなる花のしづくの。草の袂に色添へて。何 を忍ぶの亂戀 。
「忘れん と思ふ心こそ。
「忘れぬよ りは思ひなれ。
「然るに 世の中 は。人間萬事塞翁が馬なれや。隙行 く日數移るなる。年去り時は 來れども。 終に行くべき道芝の。露 の命の限 りをば。誰に問はましあぢきなや。などされば是程に。知 らばさのみに迷ふらん。
「驚けと てや東雲の。
「眠りを 覺ます時守 の。打つや鼓の數しげ く。音に立 たば待つ人の。面影若 しや御衣の綾の。鼓と は知らずして。老の衣手力添 えて。打てども聞えぬは。若 しも老耳の故やらんと。聞 けども聞けど も。池の波窓 の雨。いづれも打つ音はす れども。音せぬ物は此鼓 の。怪しの太 鼓や。なにとて音は出でぬぞ。
「思ひ や打ちも忘るると。綾 の鼓の音 も我も。出でぬを人や 待つらん。
「出でも せぬ。雨夜の月 を待ちかぬる。心の闇を晴らすべき。時 の鼓も 鳴らばこそ。
「時の鼓の移る日の。昨日今日 とは思へども。
「頼めし 人は夢 にだに。
「見えぬ 思ひに明暮 の。
「鼓も 鳴らず。
「人も見えず。こは何 と鳴神も。思ふ中をば 避れぬとこそ聞 きし物をなどされば。かほどに縁なかるらんと。 身を恨み人をかこち。かくては 何の爲 め。生けらん物を池水 に。身を投 げて失せにけり。憂き身を 投げて失 せにけり。(中 入)
「如何に 申し上げ 候。彼老人鼓 の鳴らぬ 事を恨み。桂の池に身を投げ空しくなりて候 。かやうの者の執心も餘りに 恐ろしう候へ ば。そと御出で有つて御覽ぜ られ候へ。
「如何に 人々聞くかさて。あの波の打つ音が。鼓の聲に似たるは 如何に。あらおもしろの鼓の聲や。あ ら面白や。
「不思議やな 女御の御姿 。さも現なく見え給ふは。 如何なる事 にてあるやらん。
「現なきこそ 理なれ。綾 の鼓は鳴 る物か。 鳴らぬを打てといひし事は。我現 なき始めなれと。
「夕波さわぐ 池の面に。
「猶打ち 添ふる。
「聲ありて。
「池水の 藻屑となりし老の波。
「又立ち歸る執心の恨み。
「恨みとも歎きとも。いへば中々おろかなる。
「一念嗔恚の邪婬の恨み。晴まれじや晴まれじや。心の雲水の。魔境の鬼と 今ぞなる。
「小山田 の苗代水は絶 えすとも。心の池の言ひは 放さじとこそ思 ひしに。などしもされば情なく。鳴らぬ鼓の 聲立てよとは。心を盡くし 果てよとや。 心盡くしの木の間の月の。
「桂にかけ たる綾の鼓 。
「鳴る 物か鳴 る物か打 ちて見給へ。
「打てや 打てやと攻鼓。よせ拍子とうとう。打ち給へ打ち給へと て。しもとを振り上げ責め奉れば。鼓は鳴らで悲しや悲しやと。叫びまします女御の御聲 。あらさて懲りやさてこりや。
「冥途のぜ つき阿防羅刹。 冥途のぜつき阿防羅刹の。呵責もかくやらんと。 身を責め骨を碎く。 火車の責 めといふとも。是にはま さらじ恐ろしや。さて何となるべき因果 ぞや。
「因果れ きせんは目のあたり。
「れきせんは目 のあたり。知られたり白波の。池の 邊の桂木 に。掛けし鼓の時もわか ず。打ち弱 り心盡きて。池水に身を 投げて。波 の藻屑と沈みし身 の。程もなく 死靈となつて。女御に付き崇つ て。しもとも波も打ちたたく。池 の氷の東頭は。風渡 り雨落ちて。紅蓮大紅蓮となつて。身の毛もよ だつ波の上 に。鯉魚が躍る惡蛇と なつて。まことは冥途の鬼といふとも。かくやと思ひ白波 の。あら恨めしや女御やとて。戀 の淵にぞ 入りにける。