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Japanese Text Initiative
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世阿彌
作
本朝事跡考にいはく。「むかし神女飛び來りて。羽衣を松の枝に懸け。漁人之を取 りたり。神女衣を失ひて飛ぶ能はず。屡々之を求むるにあたへず。遂に相約して衣を神 女に授く。悦びて飛び去る。其後又來る。ここに於て土人祠を立てて之を奉ず。」。本 朝神社考にいはく。「風土記に。古老傳へて言ふ。昔神女あり。天より降り來りて羽衣 を松の枝に曝らす。漁人拾ひ得て之を見るに。其の輕軟なること言ふべからず。謂はゆ る六銖衣か。織女機中の物か。神女之を乞へども漁人興へず。神女天に上らんと欲して 羽衣なし。ここに於て遂に漁人と夫婦と爲る。蓋し已むを得ざるなり。其後一旦。 女羽衣を取り雲に乘りて去る。其漁人亦登仙す。」鴨長明の海道記にいはく。「むかし 稻河太夫といふ人。天人濱松の下に樂を調べて舞ひけるを見て。學び舞ひけり。かの天 女人の見るやと思ひて。飛び去りて雲に入る。其跡を見れば。一つの面形を落せり。太 夫拾ひ取りて濱松寺の寳物とす。それより此寺に舞樂しらべて法會を執行す。その太夫 が子孫舞人氏とす。二月十二日常樂會とて。寺中の大榮なり。」丹波風土記にいはく。 此沼山の頂に井あり。其名を眞井といふ。今既に沼と成る。此井に天女八人降り來たり 水に浴す。時に老夫婦あり。其名を和奈佐老夫。和奈佐老婦と曰ふ。此老等この井に至 りて。 窩 に天女一人の衣裳を取り藏す。即ち衣裳ある者皆飛び上る。但だ衣裳なき女娘 一人。即ち身を水に隱して獨り愧を懷き居る。ここに老夫天女に謂うて曰く。吾兒な し。請ふ天女娘。汝兒と爲れ。天女答て曰く。妾獨り人間に留まる。何ぞ敢て從はざら ん。請ふ衣裳を許せ。老夫曰く。天女娘何ぞ疑心を存ず。天女のいはく。凡そ天人の 志。信を以て本と爲す。何ぞ疑心多くして衣裳を許さざる。老夫答へて曰く。疑多く信 なきは卒土の常。故に此心を以て許さざるのみと。遂に許す。云々。後老夫婦等天女に 謂うて曰く。汝は吾兒に非ず。暫く借り住むのみ。早く出で去るべし。此に於て天女天 に仰ぎて哭慟し。地に俯して哀吟し。即ち老夫等に謂うて曰く 、妾私意を以て來るに 非ず。是れ老夫等の願ふ所。何ぞ厭惡の心を發し。忽に 出去の痛を存ずると。老夫ま すます瞋を發し去らん事を願ふ。天女涙を流して門外に退き。郷人に謂うて曰く。久し く人間に沈み。天に還るを得ず。また親なし。故に由つて居る所を知らず。吾いかにせ んやと。涙を拭うて磋歎し。天を仰ぎて歌うて曰く。天の原ふりさげみれば霞立ち。家 路まどひて行方知らずも。」新井白石の樂對にいはく。「東遊といふ事は。和舞の内に して。風俗の部の第一なり。其事の始は。駿河の有渡郡有渡濱に神女降りて。舞ひ遊ぶ 事ありしに起れると傳ふるなり。されば又 之を駿河舞とも申し。能因法師が。有渡濱 に天の羽衣昔着て。振りけん袖や今日の事ぶり。などよみしも。その事をよめるな り。」などいふ種々の傳説を取り集めて作れるなり。もとより右に引ける書は。謠の作 より後なるものあれば。その書の本文に因りてといふには非ず。本文の材料たりし語り 傳へを本としていへるのみ。
「 風早 の。三穗の浦 回をこぐ舟の。浦人さわぐ浪路か な。
「 是は 三保の松原 に。白龍と申 す漁夫にて候 。
「 萬里の 好山に 雲忽に おこり。 一樓の 明月 に 雨はじめて 晴れり。げにのどかなる 時しもや。 春のけしき 松原 の。 浪立ちつづく 朝霞。 月ものこりの 天の 原。 及なき 身のながめ にも。 心そらなるけしきかな。
「わすれめや。山路 をわけて清見がた。はるかに三保の松原に。たち つれいざやかよはん。
「風向ふ。 雲の浮浪たつ と見て。雲の浮浪たつと見て。釣せで人やかへるら ん。待てしばし春 ならば。吹くものどけき朝風の。松は 常盤の聲ぞ かし。波は音 なき朝なぎに。釣人おほき小舟か な。釣人おほき小舟かな。
「われ三保の 松原にあがり。浦 のけしきをながむる所に。虚空に花ふり音樂きこえ。靈香四方 に薫ず。是 ただことと思はぬ所に。これなる松 にうつくしき衣かかれり。よりてみれば色香たへにして常 の衣にあらず。いかさま取りてかへり古き 人にも見 せ。家の寳 となさばやと存じ 候。
「なふその衣 はこなたのにて候。何 しにめされ候ふぞ。
「是はひろひた る衣にて候ふ 程に取 りて歸り候ふ よ。
「それは天人の 羽衣とて。たやすく人 間にあたふべき物にあらず。本のごとくに置き 給へ。
「そも此衣の 御ぬしとは。さては天人にてましますかや。さもあらば末世の奇特にとど めおき。國の寳 となすべきなり。衣をかへす事あるまじ。
「かなしやな羽衣 なくては飛行の道も絶え。天上にかへらんことも叶 ふまじ。さりとては返したび給へ。
「此御詞を 聞くよりも。いよいよ白龍力を得。 本より此身 は心なき。天 の羽衣とりかくし。かなふまじとて立ちのけば。
「今はさなが ら天人も。羽根 なき鳥の如 くにて。あがらんとすれば衣なし。
「地にまた 住めば下界 なり。
「とやあらんかくやあらんと悲しめど。
「白龍衣をかへ さねば。
「力及ば ず。
「せんかたも。
「涙の露の玉鬘。かざし の花もしをしをと。天人の五衰も。 目のまへに見 えてあさましや。
「天の原ふりさけみれば霞た つ。雲路まどひてゆくへ知らずも。
「住み 馴れし空に いつしかゆく雲の。 羨ましきけしきかな。
「迦陵頻迦の なれなれし。迦陵頻迦のなれなれし。聲今さらに わづかなる。鴈金のかへりゆく。天路を聞けばなつ かしや。千鳥鴎の 沖つ浪。ゆくか歸るか春風の。 空に吹く までなつかしや。空に吹くまでなつかしや。
「いかに 申 し 候。 御姿 を 見たてまつれば。あまりに 御痛はしく 候ふ 程に。 衣をかへし 申さうずるにて 候。
「あらうれしやこなたへ給はり候へ。
「しばらく。うけた まはり及びたる天人の舞樂。ただ今ここ にて奏し給は ば。衣をか へし申すべし。
「うれしやさては天 上にかへらん事をえたり。此よろこびにとてもさらば。人間の御遊のかた みの舞。月宮 をめぐらす舞曲あり。ただ今ここにて奏し つつ。世のうき 人に傳ふべしさりながら。衣なくては叶ふ まじ。さりとては先かへし給へ。
「いや此衣をかへし なば。舞曲をなさで其ままに。天にや あがり給ふべき。
「いや疑ひは 人間にあり。天 に僞りなき 物を。
「あら耻かし やさらばとて。羽衣を返しあたふれば。
「少女は 衣を着しつ つ。霓裳羽衣の曲 をなし。
「天の羽衣風に和し。
「雨に濕ふ花の袖。
「一曲をかな で。
「舞ふとか や。
「東遊の 駿河舞。東遊の駿河舞。此時や始めなるら ん。
「それ 久堅の 天といつぱ。 二神 出世のいにしへ。 十方世界をさだめし に。 空はかぎりもなければとて。 久方のそらとは 名 づけたり。
「しかるに月宮 殿のありさま。玉斧の修理とこしなへにして。
「白衣黒衣の 天人の。數 を三五にわかつて。一月夜々の天乙女 。奉仕をさだめ役 をなす。
「我も數ある天乙女。
「月の桂の身を分けて。假に 東の駿河舞 。世に傳へ たる曲とかや。
「春霞。た なびきにけり久かたの。月の桂も花やさく。げに花 かづら。色めくは 春のしるしかや。おもしろや天ならで。 ここも妙なり天 津風。雲の通路吹きとぢよ。乙女 の姿しばし留まりて。此松原 の。春のいろを三保が崎。 月清見潟富士の 雪。いづれや春のあけぼの。たぐひ浪も松風 も。のどかなる浦のありさま。そのうへ天地は。何 を隔てん玉垣 の。内外の神の御末にて。 月も曇ら ぬ日の本 や。
「 君が 代は。 天の 羽衣 まれに 來て。
「撫づとも 盡きぬ嚴ぞ と。聞くも妙 なり東歌。 聲そへてかずかずの。笙笛琴箜篌。孤雲の外に滿ち滿ちて。 落日の紅 は。蘇命路の山 をうつして。緑は浪に浮島が。 払ふ嵐に 花ふりて。げに 雪をめぐらす。白雲の袖ぞ妙なる。
「南無歸命月天子 。本地大勢至。
「東遊の 舞の曲。( 序の舞)
「あるひは。 天つ御空の 緑の衣。
「又は春立つ霞の衣。
「色香も 妙なり乙女 の裳。左右左左右 颯々の。花をかざしの天の羽袖。なびく もかへすも舞の袖 。 (破の舞)
「東あそびの かずかずに。東あそびのかずかずに。その名も 月の色人 は。三五夜中の空 に又。滿願 眞如の影となり。御願圓滿國土成就。七 寳充滿の寳を降らし。國土に 是をほどこし給 ふ。さるほどに時うつつて。天の羽衣浦風 に。たなびきたなびく三保の松原。浮島が 雲の。足高山 や富士の 高嶺。かすかになりて天つみそらの。 霞にまぎれて失 せにけり。