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Japanese Text Initiative
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世阿彌
作
源氏物の一つにて。六條の御息所の事を作れる謠なり。御息所は。 何がし東宮の御 息所なりしが。東宮早世し給ひて後。京の六條京極といふ處に住み給ひ しをもて。六條 の御息所と呼ばれ給ひ。忘れ形見の姫宮一人持ち給へり。いつよりの事 にか光源氏の 君。忍び忍びに通ひ給ひて。御息所と深き御中にならせ給ひしに。それ もやうやう疎々 しくなり行きたる頃。本より源氏の君には葵上と申す御本妻ありて。左 大臣の娘にて勢 も強かりしが。ある年加茂祭見に出でたりし時。同じく御息所も出で給 ひし其御車を。 葵上の車も同じ所に立てんとするより。事起りて。その下人共。轅も打 ち折りなどしつ つ。さんざんに恥見せ參らせたる事あり。兼ねての嫉妬心の上に。此恨 みまで加はり て。御息所の生靈は懐妊したる葵上を惱まし遂に取り殺しぬ。源氏は餘 りの事に覺へ て。御息所を疎んじ。いよいよ御中枯れがれになりて。頼み少なく見え しかば。其頃姫 宮の齋宮に立ちて伊勢の國に下らんとし給ふに。御身もつきそひ行かん とて。姫宮の御 身を清めゐ給ふ野の宮に。御母御息所も籠りゐ給ひしを。源氏の君の訪 れ給ひしは。九 月七日の事なりき。此一段の物語は榊巻にあり。
「是は 諸國一見の僧にて 候。我 此ほどは 都に候 ひ て。洛陽の名所舊 跡殘りなく一見仕りて 候。又秋 も末になり候 へば。 嵯峨野の方ゆか しく候ふあひだ。立 ちこえ一見せばやと思ひ候 。是なる森 を人に尋 ねて候へば。野 の宮の舊跡 とかや申し候ふ ほどに。 逆縁ながら一見 せばやと思ひ候 。われ此森に來 て見れば。黒 木の鳥居小柴垣。昔にかはらぬ 有樣なり。こはそも何といひたる事やら ん。よしよしかかる時節に參りあひて。拝み 申すぞありがたき。
「伊勢 の神垣隔てなく。法 の教への道 すぐに。ここに尋ねて 宮所。こころも澄める 夕べかな。こころも澄める夕べかな。
「花に 馴れ來 し野の宮 の。花に馴れ來し 野の宮の。秋より後 は如何ならん。
「をりしもあれ物のさびしき秋暮れて。 猶しをりゆく袖の 露。身 を碎くなる夕 まぐれ。 心の色 はおのづ から。千草の花にうつ ろひて。衰ふる 身のならひかな。
「人こ そ知らね今日ごと に。昔の跡に 立ち歸 り。
「野の 宮の。森の木枯秋ふけて。森の木枯秋ふけて。身にしむ色 の消えかへり。思へば 古へを。何と 忍ぶの草衣。 來てしもあらぬ假 の世に。行 き歸るこそ恨 みなれ。行き歸るこそ恨みなれ。
「われ此森 の陰に居 て古へを思ひ。 心を澄 ますをりふ し。いとなまめける女性一人忽然と 來り給ふ は。いかなる 人にてましますぞ。
「いかなる者 ぞと問はせ給ふ 。そなたをこそ問ひ參らすべけれ。是は 古へ齋 宮に立たせ給ひ し人の。假 に移ります野 の宮なり。然 れども 其後は此事たえ ぬれども。長月七日の 今日は又。昔 を思ふ年々 に。人こそ知 らね宮どころを 清め。御神事をなす所に。行方 も知らぬ御事 なるが。 來り給ふははば かりあり。とくとく歸り給へとよ。
「いやいや是 は苦しからぬ。身 の行末もさだめなき。 世を捨人 の數なるべし。さてさてここは舊 りにし跡を今日 毎に。昔を思ひ 給ふ。いはれは いかなる事やらん。
「光 る源氏この所に 詣で給ひしは。 長月七日のけふ日 に當れり。其時 いささか持ち 給ひし榊の枝 を。いがきの内にさし 置き給へ ば。御息所とりあへず。神垣 はしるしの杉もなき 物を。いかにまがへて折 れる榊ぞと。よみ給ひ しも今日ぞかし。
「げに面白 き言の葉 の。今持ち給ふ 榊の枝 も。昔にかはらぬ色よ なふ。
「昔にかは らぬ色ぞとは。 榊のみこそ常磐の陰の。
「杜 の下道秋暮れて。
「紅葉 かつ散り。
「淺茅 が原も。
「うらがれの。草葉に荒 るる野の宮 の。草葉に荒 るる野の宮の。跡なつかしきここ にしも。其長月の七 日の日も。今日 にめぐり 來にけり。ものはかなしや小柴垣。いとかりそめの御 住居。今も火 燒屋のかすかなる。光は 我思ひ内 にある。 色や外に 見えつらん。あらさびし宮所。あらさびし此 みやどころ。
「猶々御息 所のいはれ懇に 御物語り候へ。
「そもそも 此御息所と申すは。桐壷の帝 の御弟。前坊 と申し奉 りしが。時めく花 の色香まで。妹脊の 心あさからざりしに。
「會者定離 のならひもとよりも。
「驚 くべしや夢の世 と。ほどなくおくれ給ひけり。
「さてしもあらぬ身の露 の。
「光 る源氏のわりなくも。 忍び忍びに行 き通ふ。
「心 の末のなどやらん。
「また絶々 の中になりしに。
「つらき物 には。さすがに思ひ果て給は ず。遥けき野 の宮に。分 け入り給ふ 御心。いと物あはれ なりけりや。秋の花みな衰 へて。 虫の聲もかれ がれに。松吹く風 の響きまでも。さびしき 道すがら。秋の 哀しみも果な し。かくて君ここに。詣でさせ給ひつ つ。情けをかけて 樣々の。言葉の露も色々 の。御心の内 ぞあはれ なる。
「其後桂 の御祓。
「白木綿 かけて河波の。 身は浮草のよるべなき。 心の水 に誘はれて。ゆくへも鈴鹿川 。八十瀬の波 にぬれぬれず。伊勢まで 誰か思は んの。 言の葉は 添ひゆく事 も。ためしなき物を 親と子の。多 氣の都路におもむきし。 心こそ恨 みなりけ れ。
「げにやいはれを聞くからに。唯人な らぬ御氣色。其名 を名のり給へ や。
「名 のりても。かひなき身とてはづか しの。漏りてやよそに知ら れまし。よしさらば其名も。なき 身ぞと問 はせ給へや。
「なき身 と聞けば不思議 やな。さては此世をはかな くも。
「去 りて久しき跡の 名の。
「御息所 は。
「我 なりと。
「夕暮 れの秋の風 。森の木 の間の夕月夜 。影かすかなる 木の下の。黒 木の鳥居の二 柱に。立ちかくれて 失せにけり。跡立 ちかくれ失せにけり。(中入)
「かたしくや。 森の木陰の苔衣 。森の木陰の苔衣。同じ 色なる草 むしろ。思ひを述 べて夜もすがら。彼御跡を 弔ふとかや。彼御跡を弔ふとかや。
「野の 宮の。秋の千草の花車 。われも 昔にめぐり來にけ り。
「ふしぎやな月 のひかりも幽かなる。 車の音 の近づく方 を。見れば網代 の下すだれ。思 ひかけざ る有様なり。いかさま 疑ふ所もなく。 御息所にてましますか。さもあれ如何なる 車やらん。
「いかなる車 と問はせ給へ ば。思ひ出 でたり其昔。加茂 の祭の車あらそひ 。主は誰とも 白露の。
「所せ きまで立てならぶる。
「物見車 のさまざまに。殊に時めく葵 の上の。
「御車 とて人を拂ひ。 立ちさわぎたる其 なかに。
「身は 小車の遣る方も。なしと答へて 立て置 きたる。
「車の 前後に。
「ばつと寄 りて。
「人々轅 に取り附 きつつ。人だまひの奥に押 しやられて。 物見車の力もな き。身のほどぞ思ひ 知られたる。よしや 思へば何 事も。 報いの罪によ も洩れじ。身 は猶牛の小車 の。めぐりめぐり來ていつまでぞ。 妄執を晴 らし給へや。妄執を晴らし給へや。
「昔 を思ふ花の 袖。
「月 にと返す氣色か な。(序の舞)
「野 の宮の。月も 昔や思ふらん。
「影淋 しくも杜の下露 。杜の下露。
「身 の置き處も あはれ昔の。
「庭 のたたずまひ。
「よそにぞかはる。
「氣色 も假なる。
「小柴垣 。
「露 うちはらひ。訪はれし 我も其人も。唯 夢の世とふりゆく跡なるに。誰松虫の 音はりんりんとして。 風茫々たる野の宮の夜 すがら。な つかしや。(破の舞)ここはもとより忝 くも。 神風や。伊勢 の内外の。鳥居 に出で入 る。姿は生死 の道を。神 は受けずや思 ふらんと。また車にうち 乘りて。火宅の 門をや出でぬ らん。火宅の門 。