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Japanese Text Initiative
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世阿彌
作
逢坂山の盲人蝉丸は琵琶の秘曲を傳へたれば。いかで之を聽かばやと思ひ。三年の間。 夜々しのびしのびに通ひて。つひに其志を遂げたる事。今昔物語などに見ゆ。之を翻案 して。逆髪といふ狂女の姉宮に訪はれたる事の。あはれなる物語に作りかへたるなるべ し。彼物語には。蝉丸を宇多天皇の皇子。式部卿敦實親王の宮の雑色とし。平家物語源 平盛衰記などには延喜の皇子とせり。曰く。「ここは昔し。延喜第四の皇子蝉丸の。關 の嵐に心を澄まし。琵琶を弾き給ひしに。博雅の三位といひし人。風の吹く日も吹かぬ 日も。雨の降る夜も降らぬ夜も。三年が間歩みを運び。立ち聞きて。彼三曲を傳へけ ん。藁屋の床の古へも。思ひやられてあはれなり。」と。
「定めなき 世の中々に。定めなき 世の中々に。憂き事や 頼みなるらん。
「是は延喜第四の御子。蝉丸の宮にておはします。 實にや何事も報い有りける浮世かな。前世の戒行いみじくて。今皇子 とは爲り給へども。 襁襁の内よりなどや らん。兩眼盲ひましまして。蒼天に月日の光りなく。闇夜に燈暗うして。五更の雨も止む事なし。明かし暮らさせ給ふ所に。帝如何なる叡慮やらん。密に具足し奉り。逢坂山に捨て置き申し。御髪をおろし奉れとの。 綸言出でて歸らね ば。御痛はしさは限 りなけれども。勅諚なれば 力なく。
「足弱車忍路 を。雲井のよそに廻 らして。
「東雲の。 空も名殘の都路を。空も名殘の都路を。今日出 て初めて又い つか。歸らん事も 片糸の。よるべなき身 の行方。さなきだに 世の中は。浮木 の龜の年を 經て。盲龜の闇路たどり行く。迷ひの雲も立ちのぼる。逢坂山に 着きにけり。逢坂山に着きにけり。
「如何に 清貫。
「御前に 候。
「さて我を ば此山に捨て置くべきか。
「さん候宣旨 にて候ふ程 に。是までは御供申し て候へども。何くに 捨て置き申すべきやらん。さるにても我君 は。堯舜より此方 。國を治め 民を憐れむ御事なるに。かやうの叡廬 は何と申し たる御事やらん。かかる思 ひもよらぬ事は候は じ。
「あら愚の 清貫が言ひ事やな。本より盲目の身と生るる事。前世の戒行拙き故なり。されば父帝も。 山野に捨てさせ 給ふ事。御情なきには似たれど も。此世にて過去の 業障を果し。後の世を助けんとの御謀。是こそ誠の親の慈悲よ。あら歎くまじの勅諚やな。
「宣旨に て候ふ程に。御髪をおろし奉り候。
「是は 何と云ひたる事ぞ。
「是は 御出家とめでたき御事 にて渡らせ給ひ 候。
「實にや かうくわん髻を切 り。半だんに枕す と。唐のせいしが申 しけるも。かやうの姿にて 有りけるぞや。
「此御有樣 にては。中々盜人の 恐れも有るべければ。御衣を賜はつて簑と云ふものを參らせ上げ候。
「是は 雨による田簑の 島とよみ置きつる。 蓑と云ふ物か。
「又雨露 の御爲めなれば。同 じく笠を參らする。
「是は 御侍御笠と申せとよ み置きつる。笠と 云ふ物よなふ。
「又此杖 は御道しるべ。御手 に持たせ給ふべし。
「實に 實に是も突くからに。千年の坂をも越えなんと。彼遍昭がよみし杖か。
「それは千年 の坂行く杖 。
「ここは所 も逢坂山の。
「關の 戸ざしの藁屋の 竹の。
「杖柱と も頼みつる。
「父帝に は。
「捨てられ て。
「かかる憂 き世に逢坂 の。知るも知らぬも 是見よや。延喜の 皇子の。成り行く果てぞ悲しき。行人征馬の 數々。上り下りの旅衣。袖をしをりて村雨の。 振り捨て難き名殘かな。振り捨 て難き名殘かな。さりとては。いつを限りに有明の。盡きぬ涙を押さえつつ。早歸るさに爲りぬれ ば。皇子は跡に 唯獨り。御身に 添ふ物のとては。 琵琶を抱きて 杖を持ち。臥し轉びてぞ泣き給ふ。臥し轉びて ぞ泣き給ふ。
「是は 延喜段四の御子。 逆髪とは我事なり。 我皇子とは生るれど も。いつの因果の故 やらん。心より心 より狂亂して。邊土遠卿 の狂人と爲 つて。翠の髪 は空さまに生ひ 上つて。撫 づれども下らず。 如何にあれなる童部どもは何を笑ふぞ。何我髪の逆さまなるが をかしいとや。實に實 に逆さまなる事 はをかしいよな。さては我髪よりも。汝等が身にて我を笑ふこそ逆さまなれ。面白し 面白し。是等は 皆人間目前の境界 なり。夫れ花の 種は地に埋もつて千林の梢に上り。月の影は天にかかつて萬水の 底に沈む。 是等をば皆何れか 順と見逆なりと 謂はん。我は 皇子なれども庶人 に下り。髪は 身上より生ひ 上つて星霜 を載く。是皆順逆 の二つなり。面白 や。柳の髪 をも風は梳 るに。
「風にも 解かれず。
「手にも 分けられず。
「かなぐり捨 つるみての袂。
「拔頭の 舞かやあさましや。
「花の 都を立ち出でて。花の都を立ち出でて。憂 き音に鳴く か鴨河や。末白河を 打ち渡り。粟田口にも着きしか ば。今は誰をか 松坂や。關の 此方と思ひしに。 跡になるや音羽山 の。名殘惜しの都 や。松虫鈴虫きりぎりすの。鳴くや夕陰の山科の。里人も咎むなよ。狂女なれど 心は。清瀧川と 知るべし。
「逢坂 の。關の清水に 影見えて。
「今や 引くらん望月の。 駒の歩も近づくか。水も走井の影見れば。我ながらあさましや。髪 はおどろを載き。 黛も亂れ黒 みて。實に逆髪 の影うつる。水 を鏡と夕波 の。現なの我姿 や。
「第一第二 の絃は索々 として秋の風。 松を拂つて竦韻落つ。第三第四の 宮は。我蝉丸が 調べも四つの。 折柄なりける村雨 かな。あら心凄の夜 すがらやな。世の 中はとにもかくにも有りぬべし。宮も藁屋も果てしければ。
「不思議 やな是なる藁屋の 内よりも。撥音けた かき琵琶の音聞ゆ。 そも是程の賤か 屋にも。かかる調 べの有りけるよと。思ふ につけてなどやらん。世になつかしき心地して。藁屋の雨の足音もせで。ひそ かに立ちより聞き 居たり。
「誰そや 此藁屋の外面に 音するは。此程をり をりとぶらはれつる。博雅の三位にてましますか。
「近づき 聲をよくよく聞け ば。弟の宮の聲なりけり。なふ逆髪こ そ參りたれ。蝉丸は 内にましますか。
「何逆髪 とは姉宮かと。驚き 藁屋の戸を明くれば。
屬気