源太胸には苦慮あれども幾干か此に慰められて猪口把りさまに二三杯、後一杯を漫く飮んで汝も飮れと與ふれば、お吉一口、つけて、置き、燒きかけの海苔疊み折つて。追付三子の來さうなものと魚屋の名を獨語しつ、猪口を返して酌せし後、上々吉と腹に思へば動かす舌も滑かに。それはさうと今日の首尾は、大丈夫此方のものとは極めて居ても知らせて下さらぬ中は無駄な苦勞を妾は爲ます、お上人樣は何と仰せか、またのつそり奴は如何なつたか、左樣眞面目顏でむつつりとして居られては心配でなりませぬと云はれて源太は高笑ひ。案じて貰ふ事は無い、御慈悲の深い上人樣は何の道我を好漢にして下さるのよ、ハヽヽ、なあお吉、弟を可愛がれば好い兄ではないか、腹の饑つたものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらねばならぬ場合もある、他の怖いことは一厘無いが、強いばかりが男兒では無いなあ、ハヽヽ、ぢつと堪忍して無理に弱くなるのも男兒だ、嗚呼立派な男兒だ、五重塔は名譽の工事、たゞ我一人で物の見事に千年壞れぬ名物を萬人の眼に殘したいが、他の手も智慧も寸分交ぜず川越の源太が手腕だけで遺したいが、嗚呼癇癪を堪忍するのが、えゝ、男兒だ、男兒だ、成程好い男兒
だ、上人樣に虚言は無い、折角望みをかけた工事を半分他に呉るのはつく%\忌々しいけれど、嗚呼、辛いが、えゝ兄だ、ハヽヽ、お吉、我はのつそりに半口與つて二人で塔を建てようとおもふわ、何と立派な弱い男兒か、賞めて呉れ賞めて呉れ、汝にでも賞めて貰はなくては餘り張合ひの無い話だ、ハヽヽと嬉しさうな顏もせで意味の無い聲ばかりはずませて笑へば、お吉は夫の氣を量りかね。上人樣が何と仰やつたか知らぬが妾にはさつぱり分らず些も面白くない話、唐
遍朴の彼のつそりめに半口與るとは何いふ譯、日頃の氣性にも似合はない、與るものならば未練氣なしに悉皆與つて仕舞ふが好いし、固より此方で取る筈なれば要りもせぬ助太刀頼んで一人の首を二人で切る樣な卑劣なことをするにも當らないではありませぬか、冷水で洗つたやうな清潔な腹を有つて居ると他にも云はれ自分でも常々云うて居た汝が、今日に限つて何という煮切ない分別、女の妾から見ても意地の足らない愚圖々々思案、賞めませぬ賞めませぬ、何して中々賞められませぬ、高が相手は此方の恩を受けて居るのつそり奴、一體ならば此方の仕事を先潛りする太い奴と高飛車に叱りつけて、ぐうの音も出させぬやうに爲れば成
るのつそり奴を、左樣甘やかして胸の燒る連名工事を何で爲るに當る筈のあらうぞ、甘いばかりが立派の事か、弱いばかりが好い男兒か、妾の蟲には受け取れませぬ、何なら妾が一ト走りのつそり奴のところに行つて重々恐れ入りましたと、思ひ切らせて謝罪らせて兩手を突かせて來ませうかと、女賢しき夫思ひ、源太は聞いて冷笑ひ。何が汝に解るものか、我の爲ることを好いとおもうて居てさへ呉るればそれで可いのよ。
色も香も無く一言に默つて居よと遣り込められて、聽かぬ氣のお吉顏ふり上げ、何か云ひ出したげなりしが、自己よりは一倍きかぬ氣の夫の制するものを、押返して何程云ふとも機嫌を損ずる事こそはあれ口答への甲斐は露無きを經驗あつて知り居れば、連添ふものに心の奧を語り明して相談かけざる夫を恨めしくはおもひながら、其處は怜悧の女の分別早く。何も妾が遮つて女の癖に要らざる嘴を出すではなけれど、つい氣にかゝる仕事の話故思はず樣子の聞きたくて、餘計な事も胸の狹いだけに饒舌つた譯と、自分が眞實籠めし言葉を態と極々輕う
爲て仕舞うて、何處までも夫の分別に從ふやう表面を粧ふも幾許か夫の腹の底に在る煩悶を殺いで遣りたさよりの眞實。源太もこれに角張りかゝつた顏をやはらげ。何事も皆天運ぢや、此方の料簡さへ温順に和しく有つて居たなら又好い事の廻つて來ようと、此樣おもつて見れば、のつそりに半口與るも却つて好い心持、世間は氣次第で忌々しくも面白くもなるもの故、出來るだけは卑劣な
銹を根性に着けず、瀟洒と世を綺麗に渡りさへすれば其で好いわ、と云ひさしてぐいと仰飮ぎ、後は芝居の噂やら弟子共が行状の噂、眞に罪無き雜話を下物に、酒も過ぎぬほど心よく飮んで、下卑た體裁ではあれど、とり膳睦まじく飯を喫了り、多分もう十兵衞が來さうなものと何事もせず待ちかくるに、時は空しく經過て障子の日
かげ一尺動けど尚見えず、二尺も移れど尚見えず、是非先方より頭を低くし身を縮めて此方へ相談に來り、何卒半分なりと仕事を割與て下されと今日の上人樣の御慈愛深き御言葉を頼りに泣きついても頼みをかくべきに、何として如是は遲きや、思ひ斷めて望を捨て、既早相談にも及ばずとて獨り我家に燻り居るか、それともまた此方より行くを待つて居る歟、若しも此方の行くを待つて居るといふ
ことならば、餘り増長した料簡なれど、まさかに其樣な高慢氣も出すまい、例ののつそりで悠長に構へて居るだけの事ならむが、扨も氣の長い男め迂濶にも程のあれと煙草ばかり徒らに喫かし居て待つには短き日も隨分長かりしに、それさへ暮れて群烏塒に歸る頃となれば流石に心おもしろからず、漸く癇癪の起り/\て耐へきれずなりし潮先、据られし晩食の膳に對ふと其儘、云ひ譯ばかりに箸をつけて茶さへ緩りとは飮まず。お吉、十兵衞めがところに一寸行て來る、行違ひになつて不在へ來ば待たして置けと、云ふ言葉さへとげ/\しく、怒りを含んで立出かゝれば、氣にはかゝれど何とせん方もなく、女房は送つて出したる後にて、たゞ溜息をするのみなり。
澁つて開きかぬる雨戸に一トしほ源太は癇癪の火の手を亢らせつつ力まかせにがち/\引き退け。十兵衞家にかと云ひさまに突と這入れば、聲色知つたるお浪早くもそれと悟つて、恩ある其人の敵に今は立ち居る十兵衞に連添へる身の面を對すこと辛く、女氣の纖弱くも胸を動悸つかせながら。まあ親方樣と唯一言我知らず
云ひ出したる限り、挨拶さへどぎまぎして急には二の句の出ざる中、煤けし紙に針の孔、油染みなんど多き行燈の小蔭に悄然と坐り込める十兵衞を見かけて源太にずつと通られ、周章て火鉢の前に請ずる機轉の遲鈍も正直ばかりで世態を知悉ぬ姿なるべし。十兵衞は不束に一禮して重げに口を開き。明日の朝參上らうとおもうて居りましたといへば、じろりと其顏下眼に睨み、態と泰然たる源太。應、左樣いふ其方の心算であつたか、此方は例の氣短故、今しがたまで待つて居たが何時になつて汝の來るか知れたことでは無いとして、出掛けて來ただけ馬鹿であつたか、ハヽヽ、然し十兵衞、汝は今日の上人樣の彼お言葉を何と聞たか兩人で熟く/\相談して來よと云はれた擧句に長者の二人の兒の御話、それで態々相談に來たが、汝も大抵分別は既定めて居るであらう、我も隨分蟲持ちだが悟つて見れば彼譬諭の通り、尖りあふのは互に詰らぬこと、まんざら敵同士でもないに身勝手ばかりは我も云はぬ、つまりは和熟した決定のところが欲い故に我慾は十分折つて摧いて、思案を凝らして來たものの、尚汝の料簡も腹藏の無いところを聞きたく、其上にまた何樣とも爲ようと、我も男兒なりや汚い謀計を腹
には持たぬ、眞實に如是おもうて來たわ、と言葉を少時とゞめて十兵衞が顏を見るに俯伏たまま、たゞ唯、唯と答ふるのみにて、亂鬢の中に五六本の白髮が瞬く燈火の光を受けてちらりちらりと見ゆるばかり、お浪は既寢し猪之助が枕の方につい坐つて呼吸さへせぬやら此もまた靜まりかへり居る淋しさ、却つて遠くに賣りあるく鍋燒饂飩の呼び聲の幽に外方より家の中に浸みこみ來るほどなりけり。源太はいよ/\氣を靜め、語氣なだらかに説き出すは。まあ遠慮もなく外見もつくらず我の方から打明けようが、何と十兵衞斯しては呉れぬか、折角汝も望をかけ、天晴名譽の仕事をして持つたる腕の光をあらはし、慾徳では無い職人の本望を見事に遂げて、末代に十兵衞といふ男が意匠ぶり細工ぶり此視て知れと殘さうつもりであらうが、察しも付かう我とても其は同じこと、さらに有るべき普請では無し、取り外つては一生にまた出逢ふことの覺束ないなれば、源太は源太で我が意匠ぶり細工ぶりを是非遺したいは、理窟を自分のためにつけて云へば我はまあ感應寺の出入り、汝は何の縁もないなり、我は先口、汝は後なり、我は頼まれて設計まで爲たに汝は頼まれはせず、他の口から云うたらばまた、我は受
負うても相應、汝が身柄では不相應と誰しも難をするであらう、だとて我が今理窟を味方にするでもない、世間を味方にするでもない、汝が手腕の有りながら不幸で居るといふも知つて居る、汝が平素薄命を口へこそ出さね腹の底では何の位泣て居るといふも知つて居る、我を汝の身にしては堪忍の出來ぬほど悲い一生といふも知つて居る、夫故にこそ去年一昨年何にもならぬことではあるがまあ出來るだけの世話は爲たつもり、然し恩に被せるとおもうて呉れるな、上人樣だとて汝の清潔な腹の中を御洞察になつたればこそ汝の薄命を氣の毒とおもはれたればこそ今日のやうな御諭し、我も汝が慾かなんぞで對岸にまはる奴ならば、我の仕事に邪魔を入れる猪口才な死節野郎と一
釿に腦天打缺かずには置かぬが、つく%\汝の身を察すれば寧仕事も呉れたいやうな氣のするほど、というて我も慾は捨て斷れぬ、仕事は眞實何あつても爲たいわ、そこで十兵衞、聞いて貰ひにくく云うても退けにくい相談ぢやがまあ如是ぢや、堪忍して承知して呉れ、五重塔は二人で建てう、我を主にして汝不足でもあらうが副になつて力を假したはくれまいか、不足ではあらうが、まあ厭でもあらうが、源太が頼む、聽ては呉れ
まいか、頼む頼む、頼むのぢや、默つて居るのは聽て呉れぬか、お浪さんも我の云ふことの了つたなら何卒口を副て聽て貰つては下さらぬかと、脆くも涙になりゐる女房にまで頼めば。お、お、親方樣、えゝありがたうござりまする、何處に此樣な御親切の相談かけて下さる方のまた有らうか、何故御禮をば云はれぬかと、左の袖は露時雨、涙に重くなしながら夫の膝を右の手で搖り動しつ掻口説けど、先刻より無言の佛となりし十兵衞何とも猶言はず、再度三度かきくどけど默々として猶言はざりしが、やがて垂れたる首を擡げ。何も十兵衞それは厭でござりまする、と無愛想に放つ一言、吐胸をついて驚く女房。なんとと一聲烈しく鋭く、頸首反らす一二寸、眼に角たててのつそりを驀向よりして瞰下す源太。
人情の花も失さず義理の幹も確然立てて、普通のものには出來ざるべき親切の相談を一方ならぬ實意の有ればこそ源太の懸けて呉れしに、如何に伐つて抛げ出したやうな性質が爲する返答なればとて、十兵衞厭でござりまするとは餘りなる挨拶、他の情愛の全で了らぬ土人形でも
斯は云ふまじきを、さりとては恨めしいほど沒義道な、口惜いほど無分別な、如何すれば其樣に無茶なる夫の料簡と、お浪は呆れもし驚きもし、我身の急に絞木にかけて絞らるゝ如き心地のして、思はず知らず夫にすり寄り。それはまあ何といふこと、親方樣が彼程に彼方此方のためを計つて、見るかげもない此方連、云はゞ一ト足に蹴落して御仕舞ひなさるゝことも爲さらば成る此方連に、大抵ではない御情をかけて下され、御自分一人で爲さりたい仕事をも、分與て遣らう半口乘せて呉れうと、身に浸みるほどありがたい御親切の御相談、しかも御招喚にでもなつてでのことか、座蒲團さへあげることの成らぬ此樣なところへ態々御來臨になつての御話、それを無にして勿體ない、十兵衞厭でござりまするとは冥利の盡きた我儘勝手、親方樣の御親切の分らぬ筈は無からうに、胴慾なも無遠慮なも大方程度のあつたもの、これ此妾の今着て居るのも去年の冬の取り付きに袷姿の寒げなを氣の毒がられてお吉樣の縫直して着よと下されたのとは汝の眼には映らぬか、一方ならぬ御恩を受けて居ながら親方樣の對岸へ廻るさへあるにそれを小癪なとも恩知らずなとも仰やらず、何處までも弱いものを愛護うて下さる
御慈仁深い御分別にも頼り縋らいで、一概に厭ぢやとは假令ば眞底から厭にせよ記憶のある人間の口から出せた言葉でござりまするか、親方樣の手前お吉樣の所思をも能く篤りと考へて見て下され、妾はもはや是から先何の顏さげて厚ケ間敷お吉樣の御眼にかゝることの成るものぞ、親方樣は御胸の廣うて、あゝ十兵衞夫婦は譯の分らぬ愚者なりや是も非もないと其儘何とも思しめされず唯打捨て下さるか知らねど、世間は汝を何と云はう、恩知らずめ義理知らずめ人情解せぬ畜生め、彼奴は犬ぢや烏ぢやと萬人の指甲に彈かれものとなるは必定、犬や烏と身をなして仕事を爲たとて何の功名、慾をかわくな齷齪するなと常々妾に諭された自分の言葉に對しても恥かしうはおもはれぬか、何卒柔順に親方樣の御異見について下さりませ、天に聳ゆる生雲塔は誰々二人で作つたと親方樣と諸共に肩を並べて世に稱はるれば汝の苦勞の甲斐も立ち親方樣の有難い御芳志も知るゝ道理、妾も何の樣に嬉しかろか喜ばしかろか、若し左樣なれば不足といふは藥にしたくも無い筈なるに、汝は天魔に魅られて其をまだ/\不足ぢやとおもはるゝのか、嗚呼情無い、妾が云はずと知れてゐる汝自身の身の程を、身の分際を忘れてか
と泣聲になり掻口説く女房の頭は低く垂れて、髷にさゝれし縫針の孔が銜へし一條の絲ゆらゆらと振ふにも千々に碎くる心の態の知られていとど可憫しきに、眼を瞑ぎ居し十兵衞は、其時例の濁聲出し。喧しいわお浪、默つて居よ、我の話の邪魔になる、親方樣聞て下され。
思ひの中に激すればや、じた/\と慄ひ出す膝の頭を、緊乎と寄せ合せて其上に兩手突張り、身を固くして十兵衞は。情無い親方樣、二人で爲うとは情無い、十兵衞に半分仕事を讓つて下されうとは御慈悲のやうで情無い、厭でござります、厭でござります、塔の建てたいは山々でも既十兵衞は斷念て居りまする、御上人樣の御諭を聞いてからの歸り道、すつぱり思ひあきらめました、身の程にも無い考を持つたが間違ひ、嗚呼私が馬鹿でござりました、のつそりは何處迄ものつそりで馬鹿にさへなつて居れば其で可い譯、溝板でもたゝいて一生を終りませう、親方樣堪忍して下され、私が惡い、塔を建てうとは既申しませぬ、見ず知らずの他の人ではなし御恩になつた親方樣の一人で立派に建てらるゝを餘所ながら視て喜びませう、と元氣無
げに云ひ出づるを、走り氣の源太悠々とは聽て居ず、づいと身を進て。馬鹿を云へ十兵衞、餘り道理が分らな過ぎる、上人樣の御諭は汝一人に聽けというて爲れたではない我が耳にも入れられたわ、汝の腹でも聞たらば我の胸でも受取つた、汝一人に重石を背負つて左樣沈まれて仕舞うては、源太が男になれるかやい、詰らぬ思案に身を退て、馬鹿にさへなつて居れば可いとは分別が摯實過ぎて至當とは云はれまいぞ、應左樣ならば我が爲ると得たり賢で引受けては上人樣にも恥かしく第一源太が折角磨いた侠氣も其處で廢つて仕舞ふし、汝は固より虻蜂取らず、智慧の無いにも程のあるもの、そしては二人が何可からう、さあ其故に美しく二人で仕事を爲うといふに、少しは氣まづいところが有つてもそれはお互ひ、汝が不足な程は此方にも面白くないのあるは知れきつた事なれば双方忍耐仕交として忍耐の出來ぬ譯はない筈、何もわざ/\骨を折つて汝が馬鹿になつて仕舞ひ、幾日の心配を煙と消し、天晴な手腕を寢せ殺しにするにも當らない、なう十兵衞、我の云ふのが腑に落ちたら思案を飜然と仕變へて呉れ、源太は無理は云はぬつもりだ、これさ何故默つて居る、不足か不承知か、承知しては呉れないか、えゝ我
の料簡をまだ呑み込んでは呉れないか、十兵衞、あんまり情無いではないか、何とか云うて呉れ、不承知か不承知か、えゝ情無い默つて居られては解らない、我の云ふのが不道理か、それとも不足で腹立ててか、と義には強くて情には弱く、意地も立つれば親切も飽くまで徹す江戸ツ子腹の源太は柔和く問ひかくれば、聞居るお浪は嬉しさの骨身に浸みて。親方樣、あゝ有り難うござりますると口には出さねど舌よりも眞實を語る涙をも溢らす眼に返辭せぬ夫の方を氣遣ひて、見れば男は露一厘身動きなさず無言にて思案の頭重く低れ、ぽろり/\と膝の上に散らす涙珠の零ちて聲あり。源太も今は無言となり少時ひとり考へしが。十兵衞汝はまだ解らぬか、それとも不足とおもふのか、成程折角望んだことを二人でするは口惜かろ、然も源太を心にして副になるのは口惜かろ、えゝ負けてやれ斯樣して遣らう、源太は副になつても可い汝を心に立てるほどに、さあ/\清く承知して二人で爲うと合點せいと、己が望みは無理に折り、思ひきつてぞ云ひ放つ。とツ、とんでも無い親方樣、假令十兵衞氣が狂へばとて何して其樣は出來ますものぞ、勿體ないと周章て云ふに。左樣なら我の異見につくかと唯一言に返されて、其はと
窮るをまた追つ掛け。汝を心に立てようか、乃至それでも不足か、と烈しく問はれて度を失ふ傍にて女房が氣もわくせき。親方樣の御異見に何故まあ早く付かれぬと責むるが如く恨みわび、言葉そゞろに勸むれば十兵衞つひに絶體絶命下げたる頭を徐に上げ圓の眼を剥き出して。一ツの仕事を二人でするはよしや十兵衞心になつても副になつても、厭なりや何しても出來ませぬ、親方一人で御建なされ、私は馬鹿で終りまする、と皆まで云はせず源太は怒つて。これほど事を分けて云ふ我の親切を無にしても歟。唯、ありがたうはござりまするが、虚言は申せず、厭なりや出來ませぬ。汝よく云つた源太の言葉にどうでもつかぬ歟。是非ないことでござります。やあ覺えて居よ此のつそりめ、他の情の分らぬ奴、其樣の事云へた義理か、よしよし汝に口は利かぬ、一生溝でもいぢつて暮せ、五重塔は氣の毒ながら汝に指もさゝせまい、源太一人で立派に建てる、成らば手柄に非點でも打て。
えい、ありがたうござります、滅法界に醉ひました、もう飮やせぬと、空辭誼は五月蠅ほど
仕ながら猪口もつ手を後へは退かぬが可笑き上戸の常態、清吉既馳走酒に十分醉たれど遠慮に三分の眞面目をとゞめて殊勝らしく坐り込み。親方の不在に斯樣爛醉ては濟みませぬ、姉御と對酌では夕暮を躍るやうになつてもなりませんからな、アハヽ無暗に嬉しくなつて來ました、もう行きませう、はめを外すと親方の御眼玉だ、だが然し姉御、内の親方には眼玉を貰つても私は嬉しいとおもつて居ます、なにも姉御の前だからとて輕薄を云ふではありませぬが、眞實に内の親方は茶袋よりもありがたいとおもつて居ます、日外の凌雲院の仕事の時も鐵や慶を對にして詰らぬことから喧嘩を初め鐵が肩先へ大怪我をさした其後で鐵が親から泣き込まれ、嗚呼惡かつた氣の毒なことをしたと後悔しても此方も貧的、何樣してやるにも遣り樣なく、困りきつて逃亡とまで思つたところを、默つて親方から療治手當も爲てやつて下された上、かけら半分叱言らしいことを私に云はれず、たゞ物和しく、清や汝喧嘩は時のはずみで仕方は無いが氣の毒とおもつたら謝罪つて置け、鐵が親の氣持も好からうし汝の寢覺も好といふものだと、心付けて下すつた其時は嗚呼何樣して此樣に仁慈深かろと有難くて有難くて私は泣きまし
た、鐵に謝罪る譯は無いが親方の一言に堪忍して我も謝罪に行きましたが、それから異なもので何時となく鐵とは仲好になり今では何方にでも萬一したことの有れば骨も拾つて遣らうか貰はうかといふ位の交際になつたも皆親方の御蔭、それに引變へ茶袋なんぞは無暗に叱言を云ふばかりで、やれ喧嘩をするな遊興をするなと下らぬ事の小五月蠅く耳の傍で口説きます、ハハヽいやはや話になつたものではありませぬ、え、茶袋とは母親の事です、なに酷くはありませぬ茶袋で澤山です、然も澁をひいた番茶の方です、アツハヽヽ、ありがたうござります、もう行きませう、えゝまた一本、
つけたから飮んで行けと仰るのですか、あゝありがたい、茶袋だと此方で一本といふところを反對にもう廢せと云ひますわ、あゝ好い心持になりました、歌ひたくなりましたな、歌へるかとは情ない、松づくしなぞは彼女に賞められたほどでと罪の無いことを云へばお吉も笑ひを含んで。そろ/\惚氣は恐ろしいなどと調戲ひ居るところへ歸つて來たりし源太。おゝ丁度よい清吉居たか、お吉飮まうぞ、支度させい、清吉今夜は醉ひ潰れろ、胴魔聲の松づくしでも聞てやろ。や、親方に立聞して居られたな。
清吉醉うては
しまりなくなり、碎けた源太が談話ぶり捌けたお吉が接待ぶりに何時しか遠慮も打忘れ、擬されて辭まず受けては突と干し酒盞の數重ぬるまゝに、平常から可愛らしき紅ら顏を一層澤々と、實の熟つた丹波王母珠ほど紅うして、罪も無き高笑ひやら、相手もなしの空示威、朋輩の誰の噂彼の噂、自己が假聲の何處其處で喝采を獲たる自慢、奪られぬ奪られるの云ひ爭ひの末何樓の獅顏火鉢を盗り出さむとして朋友の仙の野郎が大失策を仕た話、五十間で地廻りを擲つた事など縁に引かれ圖に乘つて其から其へと饒舌り散らす中不圖のつそりの噂に火が飛べば、とろりとなりし眼を急に見張つて、ぐにやりとして居し肩を聳だて、冷たうなつた飮みかけの酒を異しく脣まげながら汲ひ干し。一體あんな馬鹿野郎を親方の可愛がるといふが私には頭から解りませぬ、仕事といへば馬鹿丁寧で捗びは一向つきはせず、柱一本鴨居一ツで
うそをいへば鉋を三度も礪ぐやうな緩漫な奴、何を一ツ頼んでも間に合つた例が無く、赤松の爐縁一ツに三日の手間を取るといふのは多分あゝいふ手合だらうと仙が笑つたも無理は有りませ
ぬ、それを親方が贔屓にしたので、一時は正直のところ濟みませんが私も金も仙も六もあんまり親方の腹が大きすぎて其程でもないものを買ひ込み過ぎて居るでは無いか、念入りばかりで氣に入るなら我等も是から羽目板にも仕上げ鉋、のろり/\と十分清めて碁盤肌にでも削らうかと僻見を云つた事もありました、第一彼奴は交際知らずで女郎買一度一所にせず好鬪鷄鍋つゝき合つた事も無い唐
偏朴、何時か大師へ一同が行く時も、まあ親方の身邊について居るものを一人ばかり仲間はづれにするでも無いこと私が親切に誘つてやつたに、我は貧乏で行かれないと云つた切りの挨拶は、なんと愛想も義理も知らな過ぎるではありませんか、錢が無ければ女房の一枚着を曲げ込んでも交際は交際で立てるが朋友づく、それも解らない白痴の癖に段段親方の恩を被て、私や金と同じことに今では如何か一人立ち、然も憚りながら青洟垂らして辨當箱の持運び木片を擔いでひよろ/\歸る餓鬼の頃から親方の手について居た私や仙とは違つて奴は渡り者、次第を云へば私等より一倍深く親方を有難い忝ないと思つて居なけりやならぬ筈、親方、姉御、私は悲しくなつて來ました、私は若しもの事があれば親方や姉御のためと云
や黒煙の煽りを食つても飛び込むぐらゐの料簡は持つて居るに、畜生ツ、あゝ人情無い野郎め、のつそりめ、彼奴は火の中へは恩を背負つても入りきるまい、碌な根性は有つて居まい、あゝ人情無い畜生めだと醉が圖らず云ひ出せし不平の中に潛り込んで、めそ/\めそ/\泣き出せばお吉は夫の顏を見て、例の癖が出て來たかと困つた風情は仕ながらも自己の胸にものつそりの憎さがあれば幾分かは清が言葉を道理と聞く傾きもあるなるべし。源太は腹に戸締の無きほど愚魯ならざれば、猪口を擬しつけ高笑ひし。何を云ひ出した清吉、寢惚るな我の前だわ、泣いても初まらぬぞ、其手で女でも口説きやれ、隨分ころりと來るであらう、汝が惚けた小蝶さまの御部屋では無い、アツハヽヽと戲言を云へば尚眞面目に、
ずゝだまほどの涙を拂ふ其手をぺたりと刺身皿の中につゝこみ、しやくり上げ歔欷して泣き出し。あゝ情無い親方、私を醉漢あしらひは情無い、醉つては居ませぬ、小蝶なんぞは飮べませぬ、左樣いへば、彼奴の面が何處かのつそりに似て居るやうで口惜くて情無い、のつそりは憎い奴、親方の對を張つて大それた五重塔を生意氣にも建てようなんとは憎い奴憎い奴、親方が和し過ぎるので増長した謀
反人め、謀反人も明智のやうなは道理だと伯龍は講釋しましたが彼奴のやうなは大惡無道、親方は何日のつそりの頭を鐵扇で打ちました、何日蘭丸にのつそりの領地を與ると云ひました、私は今に若も彼奴が親方の言葉に甘えて名を列べて塔を建てれば打捨つては置けませぬ、擲き殺して狗に呉れます、此樣いふやうに擲き殺してと明徳利の横面突然打き飛ばせば碎片は散つて皿小鉢跳り出すやちん鏘然。馬鹿野郎めと親方に大喝されて其儘にぐづりと坐り沈靜く居るかと思へば散かりし還原海苔の上に額おしつけ既鼾聲なり。源太はこれに打笑ひ。愛嬌のある阿呆めに掻卷かけて遣れと云ひつゝ手酌にぐいと引かけて酒氣を吹くこと良久しく。怒つて歸つて來はしたものの、彼樣では高が清吉同然、さて分別がまだ要るわ。
源太が怒つて歸りし後、腕拱きて茫然たる夫の顏をさし覗きて吐息つく%\お浪は歎じ。親方樣は怒らする、仕事は畢竟手に入らず、夜の眼も合さず雛形まで製造へた幾日の骨折も苦勞も無益にした擧句の果に他の氣持を惡うして、恩知らず人情無しと人の口端にかゝるのは餘りと
いへば情無い、女の差出た事をいふと唯一口に云はるゝか知らねど、正直律儀も程のあるもの、親方様が彼程に云うて下さる異見について一緒に仕たとて恥辱にはなるまいに、偏僻張つて何の詰らぬ意氣地立て、それを誰が感心なと褒ませう。親方樣の御料簡につけば第一御恩ある親方の御心持もよい譯、またお前の名も上り苦勞骨折の甲斐も立つ譯、三方四方みな好いに何故其氣にはなられぬか、少しもお前の料簡が私の腹には合點ぬ、能くまあ思案仕直して親方樣の御異見につい從うては下されぬか、お前が分別さへ更れば私が直にも親方樣のところへ行き何にか彼にか謝罪云うて一生懸命精一杯打たれても擲かれても動くまい程覺悟をきめ、謝罪つて謝罪つて謝罪り貫いたら御情深い親方樣がまさかに何日まで怒つてばかりも居られまい、一時の料簡違ひは堪忍して下さる事もあらう、分別仕更て意地張らずに親方樣の云はれた通り仕て見る氣にはなられぬかと、夫思ひの一筋に口説くも女の道理なれど、十兵衞はなほ眼も動かさず。あゝもう云うてくれるな、あゝ、五重塔とも云うてくれるな、よしない事を思ひたつて成ほど恩知らずとも云はれう人情なしとも云はれう、それも十兵衞の分別が足らいで出來したこ
と、今更何共是非が無い、然し汝の云ふやうに思案仕更るは何しても厭、十兵衞が仕事に手下は使はうが助言は頼むまい、人の仕事の手下になつて使はれはせうが助言はすまい、桝組も椽配りも我が爲る日には我の勝手、何處から何處まで一寸たりとも人の指揮は決して受けぬ、善いも惡いも一人で背負つて立つ、他の仕事に使はれゝば唯正直の手間取りとなつて渡されただけの事するばかり、生意氣な差出口は夢にもすまい、自分が主でも無い癖に自己が葉色を際立てゝ異つた風を誇顏の寄生木は十兵衞の蟲が好かぬ、人の仕事に寄生木となるも厭なら我が仕事に寄生木を容るゝも蟲が嫌へば是非がない、和しい源太親方が義理人情を囓み碎いて態々慫慂て下さるは我にも解つてありがたいが、なまじい我の心を生して寄生木あしらひは情無い、十兵衞は馬鹿でものつそりでもよい、寄生木になつて榮えるは嫌ぢや、矮小な下草になつて枯れもせう、大樹を頼まば肥料にもならうが、たゞ寄生木になつて高く止まる奴等を日頃いくらも見ては卑い奴めと心中で蔑視げて居たに今我が自然親方の情に甘えて其になるのは如何あつても小恥しうてなりきれぬわ、いつその事に親方の指揮のとほり、此を削れ彼を挽き割れと使は
るゝなら嬉しけれどなまじ情が却つて悲しい、汝も定めて解らぬ奴と恨みもせうが堪忍して呉れ、えゝ是非がない、解らぬところが十兵衞だ、此處がのつそりだ、馬鹿だ、白痴漢だ、何と云はれても仕方は無いわ、あゝツ火も小くなつて寒うなつた、もう/\寢てでも仕舞はうよと、聽けば一々道理の述懐、お浪もかへす言葉なく無言となれば尚寒き一室を照せる行燈も灯花に暗うなりにけり。
其夜は源太床に入りても中々眠らず、一番鷄二番鷄を耳たしかに聞いて朝も平日よりは夙う起き、含嗽手水に見ぬ夢を洗つて熱茶一杯に酒の殘り香を拂ふ折しも、むく/\と起き上つたる清吉寢惚眼をこすり/\怪訝顏してまごつくに、お吉とも%\噴飯して笑ひ、清吉昨夜は如何したかと、嬲れば急に危坐つて無茶苦茶に頭を下げ。つい御馳走になり過ぎて何時か知らず寢て仕舞ひました、姉御、昨夜私は何か惡いことでも爲は仕ませぬかと心配相に尋ぬるも可笑く、まあ何でも好いわ、飯でも食つて仕事に行きやれと和しく云はれてます/\畏れ、恍然として腕を組み頻りに考へ込む風情、正直なるが
可愛らし。
清吉を出しやりたる後源太は尚も考にひとり沈みて、日頃の快活とした調子に似もやらず、碌々お吉に口さへきかで思案に思案を凝らせしが、あゝ解つたと獨り言するかと思へば愍然なと溜息つき、えゝ抛ようかと云ふかとおもへば何して呉れうと腹立つ樣子を傍にてお吉の見る辛さ、問ひ慰めむと口を出せば默つて居よとやりこめられ、詮方なさに胸の中にて空しく心をいたむるばかり、源太は其等に關ひもせず、夕暮方まで考へ考へ、漸く思ひ定めやしけむ衝と身を起して衣服をあらため、感應寺に行き、上人に見えて昨夜の始終をば隱すことなく物語りし末。一旦は私も餘り解らぬ十兵衞の答に腹を立てしものの歸つてよく/\考ふれば、假令ば私一人して立派に塔は建つるにせよ、それでは折角御諭しを受けた甲斐無く、源太がまた我慾にばかり強いやうで男兒らしうも無い話、というて十兵衞は十兵衞の思はくを滅多に捨はすまじき樣子、彼も全く自己を押へて讓れば、源太も自己を押へて彼に仕事をさせ下されと讓らねばならぬ義理人情、いろ/\愚昧な考を使つて漸く案じ出したことにも十兵衞が乘らねば仕方なく、それを怒つても恨んでも是非の
無い譯、既此上には變つた分別も私には出ませぬ、唯願ふはお上人樣、假令ば十兵衞一人に仰せつけられますればとて私かならず何とも思ひますまいほどに、十兵衞になり私になり二人共々になり何樣とも仰せつけられて下さりませ、御口づからの事なれば十兵衞も私も互に爭ふ心は捨て居りまするほどに露さら故障はござりませぬ、我等二人の相談には餘つて願ひにまゐりましたと實意を面に現しつゝ願へば上人ほく/\笑はれ。左樣ぢやろ左樣ぢやろ、流石に汝も見上げた男ぢや、好い/\、其心掛一つで既う生雲塔見事に建てたより立派に汝はなつて居る、十兵衞も先刻に來て同じ事を云うて歸つたわ、彼も可愛い男ではないか、なう源太、可愛がつて遣れ可愛がつて遣れ、と心あり氣に云はるゝ言葉を源太早くも合點して。えゝ、可愛がつて遣りますともと、いと清しげに答れば、上人滿面皺にして悦び玉ひつ。好いわ好いわ、嗚呼、氣味のよい男兒ぢやなと眞から底から褒美られて、勿體なさはありながら源太おもはず頭をあげ。お蔭で男兒になれましたか、と一語に無限の感慨を含めて喜ぶ男泣き、既此時は十兵衞が仕事に助力せむ心の世に美しくも湧きたるなるべし。
十兵衞感應寺にいたりて朗圓上人に見え、涙ながらに辭退の旨云うて歸りし其日の味氣無さ、煙草呑むだけの氣も動かずに力無く、茫然としてつく%\我が身の薄命浮世の渡りぐるしき事など思ひ廻せば思ひ廻すほど嬉しからず、時刻になりて食う飯の味が今更異れるではなけれど箸持つ手さへ躊躇ひ勝にて舌が美味うは受けとらぬに平常は六碗七碗を快う喫ひしも僅に一碗二碗で終へ、茶ばかり却つて多く飮むも心に不悦の有る人の免れ難き慣例なり。主人が浮かねば女房も何の罪なき頑要ざかりの猪之まで自然と浮き立たず、淋しき貧家のいとゞ淋しく、希望も無ければ快樂も一點あらで日を暮らし、暖味のない夢に物寂た夜を明かしけるが、お浪曉天の鐘に眼覺めて、猪之と一所に寐たる床より密と出るも、朝風の寒いに火の無い中から起すまじ、も少し睡させて置かうとの慈しき親の心なるに、何も彼も知らいでたわい無く寐て居し平生とは違ひ、如何せしことやら忽ち飛び起き、襦袢一つで夜具の上跳ね廻り跳ね廻り。厭ぢやい、厭ぢやい、父樣を打つちや厭ぢやいと、蕨のやうな手を眼にあてゝ何かは知らず
泣き出せば。えゝこれ猪之は何したものぞと吃驚しながら抱き止むるに抱かれながらも猶泣き止まず。誰も父樣を打ちは仕ませぬ、夢でも見たか、それそこに父樣はまだ寐て居らるゝと顏を押向け知らすれば不思議さうに覗き込で漸く安心しは仕てもまだ疑惑の晴れぬ樣子。猪之や何にも有りはし無いわ、夢を見たのぢや、さあ寒いに風邪をひいてはなりませぬ、床に這入つて寐て居るがよいと、引き倒すやうにして横にならせ、掻卷かけて隙間無きやう上から押しつけて遣る母の顏を見ながら眼をぱつちり。あゝ怖かつた、今他所の怖い人が。おゝおゝ、如何か仕ましたか。大きな、大きな鐵槌で、默つて坐つて居る父樣の、頭を打つて、幾度も打つて、頭が半分碎れたので坊は大變吃驚した。えゝ鶴龜鶴龜、厭なこと、延喜でも無いことを云ふと眉を皺むる折も折、戸外を通る納豆賣りの、戰へ聲に覺えある奴が、ちエツ忌々しい草鞋が切れたと打獨語きて行き過ぐるに女房ます/\氣色を惡くし、臺所に出て釜の下を焚きつくれば、思ふ如く燃えざる薪も腹立しく、引窓の滑よく明かぬも今更のやうに焦れつたく、嗚呼何となく厭な日と思ふも心からぞとは知りながら猶氣になる事のみ氣にすればにや多けれど、また云
ひ出さば笑はれむと自分で呵つて平日よりは笑顏をつくり言葉にも活氣をもたせ、溌々として夫をあしらひ子をあしらへど根が態とせし僞飾なれば却つて笑ひの尻聲が憂愁の響きを遺して去る光景の悲しげなるところへ。十兵衞殿お宅かと押柄に大人びた口きゝながら這入り來る小坊主高慢にちよこんと上り込み。御用あるにつき直と來らるべしと前後無しの棒口上。お浪も不審、十兵衞も分らぬことに思へども辭みもならねば、既感應寺の門くゞるさへ無益しくは考へつゝも何御用ぞと、行つて問へば、天地顛倒こりや何ぢや、夢か現か眞實か、圓道右に爲右衞門左に朗圓上人中央に坐したまうて、圓道言葉おごそかに。此度建立なるところの生雲塔の一切工事川越源太に任せられべき筈のところ方丈思しめし寄らるゝことあり格別の御詮議例外の御慈悲をもつて、十兵衞其方に確と御任せ相成る、辭退の儀は決して無用なり、早々ありがたく御受申せと云ひ渡さるゝそれさへあるに、上人皺枯れたる御聲にて。これ十兵衞よ、思ふ存分仕遂げて見い、好う仕上らば嬉しいぞよと、荷擔に餘る冥加の御言葉、のつそりハツと俯伏せしまゝ五體を濤と動がして。十兵衞めが生命はさ、さ、さし出しまする、と云ひし限り咽塞が
りて言語絶え、岑閑とせし廣座敷に何をか語る呼吸の響き幽にしてまた人の耳に徹しぬ。
紅蓮白蓮の香ゆかしく衣袂に裾に薫り來て、浮葉に露の玉動ぎ、立葉に風の軟吹ける面白の夏の眺望は、赤蜻蛉菱藻を嬲り初霜向うが岡の樹梢を染めてより全然と無くなりたれど、赭色になりて荷の莖ばかり情無う立てる間に世を忍び氣の白鷺が徐々と歩む姿もをかしく、紺青色に暮れて行く天に漸く輝り出す星を背中に擦つて飛ぶ雁の鳴き渡る音も趣味ある不忍の池の景色を下物の外の下物にして、客に酒をば龜の子ほど飮まする蓬莱屋の裏二階に、氣持の好ささうな顏して欣然と人を待つ男一人、唐棧揃ひの淡泊づくりに住吉張の銀煙管おとなしきは職人らしき侠氣の風の言語擧動に見えながら毫末も下卑ぬ上品質、いづれ親方々々と多くのものに立らるゝ棟梁株とは豫てから知り居る馴染のお傳といふ女が。嘸お待ち遠でござりませうと膳を置つゝ云ふ世辭を、待つ退屈さに捕へて。待遠で/\堪りきれぬ、ほんとに人の氣も知らないで何をして居るであらうと云へば。それでもお化粧に手間の取れまするが無理は無い
筈と云ひさしてホヽと笑ふ慣れきつた返しの太刀筋。アハヽヽそれも道理ぢや、今に來たらば能く見て呉れ、まあ恐らく此地邊に類は無らう、といふものだ。阿呀、恐ろしい、何を散財つて下さります、而して親方、といふものは御師匠さまですか。いゝや。娘さんですか。いゝや。後家樣。いゝや。お婆さんですか。馬鹿を云へ、可哀想に。では赤ん坊。比奴め人をからかふな、ハヽハヽヽ。ホヽホヽヽと下らなく笑ふところへ襖の外から、お傳さんと名を呼んで御連樣と知らすれば、立上つて唐紙明けにかゝりながら一寸後向いて人の顏へ異に眼を呉れ無言で笑ふは御嬉しかろと調戲つて焦らして底悦喜さする冗談なれど、源太は却つて心から可笑く思ふとも知らずにお傳はすいと明くればのろりと入り來る客は色ある新造どころか香も艷もなき無骨男、ぼう/\頭髮のごり/\腮髯、面は汚れて衣服は垢づき破れたる見るから厭氣のぞつとたつ程な樣子に、流石呆れて挨拶さへどぎまぎせしまゝ急には出ず、源太は笑を含みながら。さあ十兵衞此處へ來て呉れ、關ふことは無い大胡坐で樂に居て呉れと、おづ/\し居るを無理に坐に据ゑ、頓て膳部も具備りし後、さてあらためて飮み干したる酒盃とつて源太は擬し、沈
默で居る十兵衞に對ひ。十兵衞、先刻に富松を態々遣つて、此樣な處に來て貰つたは、何でも無い、實は仲直り仕て貰ひたくてだ、何か汝とわつさり飮んで互ひの胸を和熟させ、過日の夜の我が云うた彼云ひ過ぎも忘れて貰ひたいとおもふからの事、聞て呉れ、斯樣いふ譯だ、過日の夜は實は我も餘り汝を解らぬ奴と一途に思つて腹も立つた、恥しいが肝癪も起し業も沸し、汝の頭を打碎いて遣りたいほどにまでも思うたが、然し幸福に源太の頭が惡玉にばかり乘取られず、清吉めが家へ來て醉つた擧句に云ひちらした無茶苦茶を、嗚呼料簡の小い奴は詰らぬ事を理窟らしく恥かしくも無く云ふものだと、聞て居るさへ可笑くて堪らなさに不圖左樣思つた其途端、其夜汝の家で陳べ立つて來た我の云ひ草に氣が付いて見れば清吉が言葉と似たり寄つたり、えゝ間違つた一時の腹立に捲き込まれたか殘念、源太男が廢る、意地が立たぬ、上人の蔑視も恐ろしい、十兵衞が何も彼も捨て辭退するものを斜に取つて逆意地たてれば大間違ひ、とは思つても餘り汝の解らな過ぎるが腹立しく、四方八方何處から何處まで考へて、此處を推せば其處に襞積が出る、彼點を立てれば此點に無理があると、まあ我の智慧分別ありたけ
盡して、我の爲ばかり籌るでは無く云うたことを、無下に云ひ消されたが忌々しくて忌々しくて隨分堪忍も仕かねたが、扨いよ/\料簡を定めて上人樣の御眼にかゝり、所存を申し上げて見れば、好い/\と仰せられた唯の一言に雲霾は既無くなつて、清しい風が大空を吹いて居るやうな心持になつたは、昨日はまた上人樣から態々の御招で、行つて見たれば我を御賞美の御言葉數々の其上、いよ/\十兵衞に普請一切申しつけたが蔭になつて助けてやれ、皆汝の善根福種になるぢや、十兵衞が手には職人もあるまい、彼がいよ/\取掛る日には何人も傭ふ其中に汝が手下の者も交らう、必ず猜忌邪曲など起さぬやうに其等には汝から能く云ひ含めて遣るがよいとの細い御諭し、何から何まで見透して御慈悲深い上人樣のありがたさにつくづく我折つて歸つて來たが、十兵衞、過日の云ひ過ごしは堪忍して呉れ、斯樣した我の心意氣が解つて呉れたら從來通り淨く睦じく交際つて貰はう、一切が斯樣定つて見れば何と思つた彼と思つたは皆夢の中の物詮議、後に遺して面倒こそあれ無益いこと、此不忍の池水にさらりと流して我も忘れう十兵衞汝も忘れて呉れ、木材の引合ひ、鳶人足への渡りなんど、まだ顏を賣込ん
で居ぬ汝には一寸仕憎からうが其等には我の顏も貸さうし手も貸さう、丸丁、山六、遠州屋、好い問屋は皆馴染で無うては先方が此方を呑んでならねば萬事齒痒いことの無いやう我を自由に出しに使へ、め組の頭の鋭二といふは短氣なは汝も知つて居るであらうが、骨は黒鐵性根玉は憚りながら火の玉だと平常云ふだけ、扨じつくり頼めばぐつと引受け一寸退かぬ頼母しい男、塔は何より地行が大事、空風火水の四ツを受ける地盤の固めを彼にさせれば、火の玉鋭二が根性だけでも不動が臺座の岩より固く基礎確と据さすると諸肌ぬいで仕て呉るゝは必定、彼にも頓て紹介せう、既此樣なつた曉には源太が望みは唯一ツ、天晴十兵衞汝が能く仕出來しさへすりや其で好のぢや、唯々塔さへ能く成れば其に越した嬉しいことは無い、苟且にも百年千年末世に殘つて云はゞ我等の弟子筋の奴等が眼にも入るものに、へまがあつては悲しからうではないか、情無いではなからうか、源太十兵衞時代には此樣な下らぬ建物に、泣たり笑つたり仕たさうなと云はれる日には、なあ十兵衞、二人が舎利も魂魄も粉灰にされて消し飛ばさるるは、拙な細工で世に出ぬは恥も却つて少ないが遺したものを弟子め等に笑はる日には馬鹿親
父が息子に異見さるゝと同じく、親に意見を食ふ子より何段増して恥かしかろ、生礫刑より死んだ後鹽漬の上礫刑になるやうな目にあつてはならぬ、初めは我も是程に深くも思ひ寄らなんだが汝が我の對面にたつた、其意氣張から、十兵衞に塔建てさせ見よ源太に劣りにすまいといふか、源太が建てゝ見せくれう何十兵衞に劣らうぞ、と腹の底には木を鑽つて出した火で觀る先の先、我意は何も無くなつた、唯だ好く成て呉れさへすれば汝も名譽我も悦び、今日は是だけ云ひたいばかり、嗚呼十兵衞其大きな眼を濕ませて聽て呉れたか嬉しいやいと、磨いて礪いで礪ぎ出して純粹江戸ツ子粘り氣無し、一で無ければ六と出る、忿怒の裏の温和さも飽まで強き源太が言葉に、身動きさへせで聞き居し十兵衞、何も云はず疊に食ひつき。親方、堪忍して下され口がきけませぬ、十兵衞には口がきけませぬ、こ、こ、此通り、あゝ有り難うござりますると愚魯しくもまた眞實に唯平伏して泣き居たり。
言葉は無くても眞情は見ゆる十兵衞が擧動に源太は悦び、春風湖を渡つて霞日を蒸すともいふべき温和の景色を面にあらはし、尚もやさし
き語氣圓暢に。斯樣打解けて仕舞うた上は互に不妙ことも無く、上人樣の思召にも叶ひ我等の一分も皆立つといふもの、嗚呼何にせよ好い心持、十兵衞汝も過してくれ、我も十分今日こそ醉はうと、云ひつゝ立つて違棚に載せて置たる風呂敷包とりおろし、結び目といて二束にせし書類いだし、十兵衞が前に置き。我にあつては要なき此品の、一ツは面倒な材木の委細い當りを調べたのやら人足輕子其他種々の入目を幾晩かかゝつて漸く調べあげた積り書、又一ツは彼處を何して此處を斯してと工夫に工夫した下繪圖、腰屋根の地割だけのもあり、平地割だけなるもあり、初重の仕形だけのもあり、二手先または三手先、出組ばかりなるもあり、雲形波形唐草生類彫物のみを書きしもあり、何より彼より面倒なる眞柱から内法長押腰長押切目長押に半長押、縁板縁かつら龜腹柱高欄垂木桝肘木、貫やら角木の割合算法、墨繩の引きやう規尺の取り樣、餘さず洩さず記せしもあり、中には我の爲しならで家に秘めたる先祖の遺品、外へは出せぬ繪圖もあり、京都やら奈良の堂塔を寫しとりたるものもあり、此等は悉皆汝に預くる、見たらば何かの足しにもなろと、自己が精神を籠めたるものを惜氣もなしに讓りあたふる胸の廣
さの頼母しきを解せぬといふにはあらざれど、のつそりもまた一ト氣性、他の巾着で我が口濡らすやうな事は好まず。親方まことに有り難うはござりまするが、御親切は頂戴いたも同然、これは其方に御納めをと、心は左程に無けれども言葉に膠の無さ過ぎる返辭をすれば源太大きに悦ばず。此品をば汝は要らぬと云ふのかと慍を底に匿して問ふに、のつそり左樣とは氣もつかねば。別段拜借いたしてもと、一句迂濶り答ふる途端鋭き氣性の源太は堪らず、親切の上親切を盡して我が智慧思案を凝らせし繪圖まで與らむといふものを無下に返すか慮外なり、何程自己が手腕の好て他の好情を無にするか、そも/\最初に汝めが我が對岸へ廻はりし時にも腹は立ちしがぢつと堪へて爭はず、普通大體のものならば我が庇蔭被たる身をもつて一つ仕事に手を入るゝか打擲いても飽かぬ奴と怒つて怒つて何にも爲べきを、可愛きものにおもへばこそ一言半句の厭味も云はず、唯々自然の成行に任せ置きしを忘れし歟、上人樣の御諭しを受けての後も分別に分別渇らしてわざ/\出掛け、汝のために相談をかけてやりしも勝手の意地張り、大體ならぬものとても堪忍なるべきところならぬをよく/\汝を最惜がればぞ踏み耐
へたるとも知らざる歟、汝が運の好きのみにて汝が手腕の好きのみにて汝が心の正直のみにて上人樣より今度の工事命けられしと思ひ居る歟、此品をば與つて此源太が恩がましくでも思ふと思ふか、乃至は既慢氣の萌して頭から何の詰らぬ者と人の繪圖をも易く思ふか、取らぬとあるに強はせじ、餘りといへば人情なき奴、ああ有り難うござりますると喜び受けて此中の仕樣を一所二所は用ひし上に彼箇所は御蔭で美う行きましたと後で挨拶するほどの事はあつても當然なるに、開けて見もせず覗きもせず、知れ切つたると云はぬばかりに愛想も菅もなく要らぬとは汝十兵衞よくも撥ねたの、此源太が仕た圖の中に汝の知つた者のみ有らうや、汝等が工風の輪の外に源太が跳り出ずに有らうか、見るに足らぬと其方で思はば汝が手筋も知れてある、大方高の知れた塔建たぬ前から眼に映つて氣の毒ながら非難もある、既堪忍の緒も斷れたり、卑劣い返報は爲まいなれど源太が烈しい意趣返報は爲る時爲さで置くべき歟、酸くなるほどに今までは口もきいたが既きかぬ、一旦思ひ捨つる上は口きくほどの未練も有たぬ、三年なりとも十年なりとも返報するに十分な事のあるまで物蔭から眼を光らして睨みつめ無言でぢつと待つ
てゝ呉れうと、氣性が違へば思はくも一二度終に三度めで無殘至極に齟齬ひ、いと物靜に言葉を低めて。十兵衞殿、と殿の字を急につけ出し、丁寧に。要らぬといふ圖は仕舞ひましよ、汝一人で建つる塔定めて立派に出來やうが地震か風の有らう時壞るゝことは有るまいな、と輕くは云へど深く嘲ける語に十兵衞も快よからず。のつそりでも恥辱は知つて居りますと底力味ある楔を打てば。中々見事な一言ぢや、忘れぬやうに記憶えて居よう、と釘をさしつゝ恐ろしく睥みて後は物云はず、頓て忽ち立ち上つて。嗚呼飛んでも無いことを忘れた、十兵衞殿寛りと遊んで居て呉れ、我は歸らねばならぬこと思ひ出したと風の如くに其座を去り、あれといふ間に推量勘定、幾金か遺して風と出つ、直其足で同じ町の某家が閾またぐや否。厭だ厭だ、厭だ厭だ、詰らぬ下らぬ馬鹿々々しい、愚圖々々せずと酒もて來い、蝋燭いぢつて其が食へるか、鈍癡め、肴で酒が飮めるか、小兼春吉お房蝶子四の五の云はせず掴んで來い、臑の達者な若い衆頼も、我家へ行て清、仙、鐵、政、誰でも彼でも直に遊びに遣こすようと、いふ片手間にぐい/\仰飮る間も無く入り來る女共に。今晩なぞとは手ぬるいぞと驀向から焦躁を吹つ掛けて。飮め、
酒は車懸り、猪口は巴と廻せ廻せ、お房外見をするな、春婆大人ぶるな、えゝお蝶め其でも血が循環つて居るのか頭上に鼬花火載せて火をつけるぞ、さあ歌へ、ぢやん/\と行れ、小兼め氣持の好い聲を出す、あぐり踊るか、かぐりもつと跳ねろ、やあ清吉來たか鐵も來たか、何でも好い滅茶々々に騒げ、我に嬉しい事が有るのだ、無禮講に遣れ/\と、大將無法の元氣なれば後れて來たる仙も政も煙に卷かれて浮かれたち、天井拔けうが根太拔けうが拔けたら此方の御手のものと飛ぶやら舞ふやら唸るやら、潮來出島もしをらしからず、甚句に鬨の聲を湧かし、かつぽれに滑つて轉倒び、手品の太鼓を杯洗で鐵がたゝけば清吉はお房が傍に寢轉んで銀釵にお前其樣に酢ばかり飮んでを稽古する馬鹿騒ぎの中で、一料簡あり顏の政が木遣を丸めたやうな聲しながら、北に峨々たる青山をと異なことを吐き出す勝手三昧、やつちやもつちやの末は拳も下卑て乳房の脹れた奴が臍の下に紙幕張るほどになれば。さあもう此處は切り上げてと源太が一言、それから先は何處へやら。
たかの飛ぶ時他所視はなさず、鶴なら鶴の一
點張りに雲をも穿ち風にも逆つて目ざす獲物の咽喉佛把攫までは合點せざるものなり。
十兵衞いよ/\五重塔の工事するに定まつてより寐ても起きても其事三昧、朝の飯喫ふにも心の中では塔を噬み、夜の夢結ぶにも魂魄は九輪の頂を繞るほどなれば、況して仕事にかゝつては、妻のあることも忘れ果て、子のあることも忘れ果て、昨日の我を念頭に浮べもせず、明日の我を想ひもなさず、唯一ト
釿ふりあげて木を伐るときは滿身の力を其に籠め、一枚の圖をひく時には一心の誠を其に注ぎ、五尺の身體こそ犬鳴き鷄歌ひ權兵衞が家に吉慶あれば木工右衞門が所に悲哀ある俗世に在りもすれ、精神は紛たる因縁に奪られで必死とばかり勤め勵めは、前の夜源太に面白からず思はれしことの氣にかからぬにはあらざれど、日頃ののつそり益々長じて、既何處にか風吹きたりし位に自然輕う取り做し、頓ては頓と打ち忘れ、唯々仕事にのみ掛りしは
おろかなるだけ情に鈍くて、一條道より外へは駈けぬ老牛の癡に似たりけり。
金箔銀箔瑠璃眞珠水精以上合せて五寶、丁子沈香白膠薫陸白檀以上合せて五香、其他五藥五穀まで備へて大土祖神埴山彦神埴山媛神あらゆる鎭護の神々を祭る地鎭の式もすみ、
地曳土取故障なく、さて龍伏は其月の生氣の方より右旋りに次第据ゑ行き、五星を祭り釿初めの大禮には鍛冶の道をば創められし天の目一箇の命、番匠の道闢かれし手置帆負の命彦狭知の命より思兼の命天兒屋の命太玉の命、木の神といふ句々廼馳の神まで七神祭りて、其次の清鉋の禮も首尾よく濟み、東方提頭頼
咤持國天王、西方尾
ろ叉廣目天王、南方毘留動叉増長天、北方毘沙門多聞天王、四天にかたどる四方の柱千年萬年動ぐなと祈り定むる柱立式、天星色星多願の玉女三神、貪狼巨門等北斗の七星を祭りて願ふ永久案護、順に柱の假轄を三ツづゝ打つて脇司に打ち緊めさする十兵衞は、幾干の苦心も此處まで運べば垢穢顏にも光の出るほど喜悦に氣の勇み立ち、動きなき下津盤根の太柱と式にて唱ふる古歌さへも、何とはなしにつく%\嬉しく。身を立つる世のためしぞと其下の句を吟ずるにも莞爾しつゝ二度し、壇に向うて禮拜恭み、拍手の音清く響かし一切成就の祓を終る此處の光景には引きかへて、源太が家の物淋しさ、主人は男の心強く、思ひを外には現さねど、お吉は何程さばけたりとて流石女の胸小さく、出入るものに感應寺の塔の地曳の今日濟みたり柱立式昨日濟みしと聞く度ご
とに忌々敷、嫉妬の火炎衝き上がりて、汝十兵衞恩知らずめ、良人の心の廣いのをよい事にして付上り、うま/\名を揚げ身を立るか、よし名の揚り身の立たば差詰禮にも來べき筈を知らぬ顏して鼻高々と其日々々を送りくさる歟、餘りに性質の好過ぎたる良人も良人なら面憎きのつそりめもまたのつそりめと、折にふれては八重縱横に癇癪の蟲跳ね廻らし、自己が小鬢の後毛上げても、えゝ焦つたいと罪の無き髮を掻きむしり、一文貰ひに乞食が來ても甲張り聲に酷く謝絶りなどしけるが、或日源太が不在のところへ心易き醫者道益といふ饒舌坊主遊びに來りて四方八方の話の末、或人に連れられて過般蓬莱屋へまゐりましたがお傳といふ女からきゝました一部始終、いやどうも此方の棟梁は違つたもの、えらいもの、男兒は左樣あり度と感服いたしましたと御世辭半分何の氣なしに云ひ出でし詞を、手繰つて其夜の仔細をきけば、知らずに居てさへ口惜しきに、知つては重々憎き十兵衞、お吉いよ/\腹を立ちぬ。
清吉汝は腑甲斐無い、意氣も察しも無い男、何故私には打明けて過般の夜の始末をば今まで
話して呉れ無かつた、私に聞かして氣の毒と異に遠慮をしたものか、餘りといへば狹隘な根性、よしや仔細を聽たとてまさか私が狼狽まはり動轉するやうなことはせぬに、女と輕しめて何事も知らせずに置き隱し立して置く良人の料簡は兎も角も、汝等まで私を聾に盲目にして濟して居るとは餘りな仕打、また親方の腹の中がみすみす知れて居ながらに平氣の平左で酒に浮かれ女郎買の供するばかりが男の能でもあるまいに長閑氣で斯して遊びに來るとは、清吉汝もおめでたいの、平生は不在でも飮ませるところだが今日は私は關へない、海苔一枚燒いて遣るも厭なら下らぬ世間咄の相手するも蟲が嫌ふ、飮みたくば勝手に臺所へ行つて呑口ひねりや、談話が仕たくば猫でも相手に爲るがよいと、何も知らぬ清吉、道益が歸りし跡へ偶然行き合はせて散々にお吉が不機嫌を浴せかけられ、譯も了らず驚きあきれて、へどもどなしつゝ段々と樣子を問へば自己も知らずに今の今まで居し事なれど、聞けば何程何あつても堪忍の成らぬのつそりの憎さ、生命と頼む我が親方に重々恩を被た身をもつて無遠慮過ぎた十兵衞めが處置振り、飽まで親切眞實の親方の顏蹈みつけたる憎さも憎し何して呉れう、ムヽ親方と十兵衞とは
相撲にならぬ身分の差ひ、のつそり相手に爭つては夜光の璧を小礫に擲付けるやうなものなれば腹は十分立たれても分別強く堪へて堪へて、誰にも彼にも鬱憤を洩さず知らさず居らるゝなるべし、えゝ親方は情無い、他の奴は兎も角、清吉だけには知らしても可ささうなものを、親方と十兵衞では此方が損、我とのつそりなら損は無い、よし、十兵衞め、たゞ置かうやと逸りきつたる鼻先思案。姉後、知らぬ中は是非が無い、堪忍して下され、樣子知つては憚りながら既叱られては居りますまい、此清吉が女郎買の供するばかりを能の野郎か野郎で無いか見て居て下され、左樣ならばと、後聲烈しく云ひ捨て格子戸がらり明つ放し、草履も穿かず後も見ず風より疾く駈け去れば、お吉今さら氣遣はしく、つゞいて追掛け呼びとむる二タ聲三聲、四聲めには既影さへも見えずなつたり。
材を釿る斧の音、板削る鉋の音、孔を鑿るやら釘打つやら、丁々かち/\響忙しく、木片は飛んで疾風に木の葉の飜へるが如く鋸屑舞つて晴天に雪の降る感應寺境内普請場の景況賑やかに、紺の腹掛頸筋に喰ひ込むやうなを懸けて
小股の切り上がつた股引いなせに、つゝかけ草履の勇み姿、さも怜悧氣に働くもあり、汚れ手拭肩にして日當りの好き場所に蹲踞み、悠々然と鑿を
とぐ衣服の垢穢き爺もあり、道具搜しにまごつく小童、頻りに木を挽割日傭取り、人さまざまの骨折り氣遣ひ、汗かき息張る其中に、惣棟梁ののつそり十兵衞、皆の仕事を監督りかたがた、墨壺墨さし矩尺もつて胸三寸にある切組を實物にする指圖命令、斯樣截れ彼樣穿れ、此處を何樣して何樣やつて其處に是だけ勾配有たせよ、孕みが何寸凹みが何分と口でも知らせ墨繩でも云はせ、面倒なるは板片に矩尺の仕樣を書いても示し、鵜の目鷹の目油斷無く必死となりて自ら勵み、今しも一人の若佼に彫物の畫を描き與らむと餘念も無しに居しところへ、野猪よりも尚疾く塵土を蹴立てゝ飛び來し清吉。忿怒の面火玉の如くし逆釣つたる眼を一段視開き。畜生、のつそり、くたばれと大喝すれば十兵衞驚き、振り向く途端に驀向より岩も裂けよと打下すはぎら/\するまで
とぎ澄ませし釿を縱に其柄にすげたる大工に取つての刀なれば、何かは堪らむ避くる間足らず左の耳を殺ぎ落され肩先少し切り割かれしが、仕損じたりと又蹈込んで打つを逃げつゝ抛げ付くる釘箱才槌墨壺
矩尺、利器の無さに防ぐ術なく、身を翻へして退く機に足を突込む道具箱、ぐざと踏み貰く五寸釘、思はず轉ぶを得たりやと笠にかゝつて清吉が振り冠つたる釿の刃先に夕日の光の閃りと宿つて空に知られぬ電光の疾しや遲しや其時此時、背面の方に乳虎一聲、馬鹿めと叫ぶ男あつて二間丸太に論も無く兩臑脆く薙ぎ倒せば、倒れて益々怒る
[1]清吉。忽ち勃然と起きむとする襟元把つて、やい我だわ、血迷ふな此馬鹿め、と何の苦も無く釿もぎ取り捨てながら上からぬつと出す顏は、八方睨みの大眼一文字口怒り鼻、渦卷縮れの兩鬢は不動を欺くばかりの相形。やあ火の玉の親分か、譯がある、打捨つて置いて呉れ、と力を限り拂ひ除けむと
もがき焦燥るを、蠑螺の如き拳固で鎭壓め。えゝ、じたばたすれば拳殺すぞ、馬鹿め。親分、情無い、此處を此處を放して呉れ。馬鹿め。えゝ分らねえ、親分、彼奴を活しては置かれねえのだ。馬鹿野郎め、べそをかくのか、從順く仕なければ尚打つぞ。親分酷い。馬鹿め、やかましいわ、拳殺すぞ。あんまり分らねえ、親分。馬鹿め。それ打つぞ。親分。馬鹿め。放して。馬鹿め。親分。馬鹿め。放して。馬鹿め。親。馬鹿め。放。馬鹿め。お。馬鹿め/\/\/\、醜態を見ろ、從順くなつ
たらう、野郎我の家へ來い、やい何樣した、野郎、やあ此奴は死んだな、詰らなく弱い奴だな、やあい、誰奴か來い、肝心の時は逃げ出して今頃十兵衞が周圍に蟻のやうに群つて何の役に立つ、馬鹿ども、此方には亡者が出來かゝつて居るのだ、鈍遲め、水でも汲んで來て打注けて遣れい、落ちた耳を拾つて居る奴があるものか、白痴め、汲んで來たか、關ふことは無い、一時に手桶の水不殘面へ打付ろ、此樣野郎は脆く生るものだ、それ占めた、清吉ツ、確乎しろ、意氣地の無え、どれ/\此奴は我が背負つて行つて遣らう、十兵衞が肩の疵は淺からうな、むゝ、よし/\、馬鹿ども左樣なら。
暴風雨のために準備狂ひし落成式もいよ/\濟みし日、上人わざ/\源太を呼び玉ひて十兵衞と共に塔に上られ、心あつて雛僧に持たせられし御筆に墨汁したゝか含ませ。我此塔に銘じて得させむ、十兵衞も見よ源太も見よと宣ひつつ、江都の住人十兵衞之を造り川越源太郎之を成す、年月日とぞ筆太に記し了られ、滿面に笑を湛へて振り顧り玉へば、兩人ともに言葉なく、たゞ平伏して拜謝みけるが、それより寶塔長へに天に聳えて、西より瞻れば或時飛椽素月を吐き、東より望めば勾欄夕に紅日を呑んで、百有餘年の今になるまで、譚は活きて遺りける。