源平盛衰記

Genpei jōsuiki

不明 Anonymous

『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十三
和巻 第十三

新院自厳島還御事

治承四年四月七日、新院自厳島還御、以其次太政(だいじやう)入道(にふだう)の御座(おはしまし)ける福原へ御幸有て、八日被勧賞行。左少将資盛四位(しゐの)従上、丹波守清邦、五位上下也。今日福原を出させ御座(おはしまし)て、寺江と云所に御留あり。九日は御京入、新帝始めて大内へ依有遷幸、公卿殿上人(てんじやうびと)其へ参給ければ、新院御迎には、左大臣公能の子息に、右宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実守一人に、殿上の侍臣五人、鳥羽草津へ参向ふ。厳島まで御伴に参たる人々は、舟津に留て、さがりて京へは入給へり。新院都を立離、八重の塩路を遥々(はるばる)と思召(おぼしめし)立御志、神明も争御納受(ごなふじゆ)なかるべき。御願(ごぐわん)成就(じやうじゆ)疑あらじとぞ覚し。法皇かく被打籠まし/\て、幽なる御有様(おんありさま)、御心苦く思召(おぼしめし)て、此大明神(だいみやうじん)に祈申たらば、神明の御計として、入道(にふだう)の謀叛の心も和ぎ、法皇も御心安(おんこころやすき)事もやとて、御参ありと申す人もあり。又入道の崇給へば、御同心なる御色をあらはし御座(おはしま)すにこそと申す人も有けれども、世間には御夢想(ごむさう)のつげ故とぞ披露しける。

入道信厳島並垂迹事

抑入道の厳島を崇給ける事は、鳥羽院(とばのゐんの)御宇(ぎよう)、清盛(きよもり)安芸守たりし時、以彼国高野の大塔造営すべき由院宣を賜て、渡辺党に、遠藤六頼賢に仰て、六箇年に被組立たりけり。清盛(きよもり)則高野に参て、大塔奉拝休給たりける夜の夢に、七十有余(いうよ)の老僧の、八字の霜を眉に垂、滄海の波面に畳て、かせ杖の二俣なるさきに、鉄入たるを突て、入道に申けるは、此大塔造営こそ、返々目出覚し、又所望申度事(こと)侍。安芸厳島と、越前気比とは、西海北陸境異なれども、金剛(こんがう)胎蔵の両界として、目出(めでた)き所にて侍也。気比の社は繁昌せり。厳島は荒廃して候。此事大に歎思ふ、相構て崇修理し給へ。さらば我身の栄花をも開、子孫の繁昌疑なしと云かけて出給ふ。是は何なる人にて御座るやらん、あれ見て参とて、貞能(さだよし)を付て遣しけるに、三町(さんちやう)計御座(おはしまし)て、彼老僧御堂の中へ入給ぬと語申と見て、夢覚畢。清盛(きよもり)此事は、弘法大師の御託宣(ごたくせん)にやとぞ、被思ける。又此夢に驚、娑婆世界の思出にとて、高野の金堂に曼陀羅(まんだら)を書給(たま)ひけるが、西の曼陀羅(まんだら)をば正妙とて、院にも召れ、入道も仕給ける絵師を以て被書。東の曼陀羅(まんだら)をば、清盛(きよもり)の自筆に書給。九尊の中尊の宝冠をば、脳より血を出して被書たり。誠の志とぞ人感じ申ける。清盛(きよもり)高野下向の後に、院参(ゐんざん)して右の夢想(むさう)を奏聞す。任を延て厳島を可修理由被仰下。依之(これによつて)清盛(きよもり)社々を造替し、古にし鳥居を立改、廻廊百廿間造り瑩き、内侍神女に至までも、もてなしかしづき給けり。修理の功終て、清盛(きよもり)彼社に参詣あり。大明神(だいみやうじん)内侍に移て有御託宣(ごたくせん)。やや安芸守殿、高野にて夢に告知せ奉しは、此大明神(だいみやうじん)也。夢の告不空、角懇に奉崇敬事、返々神妙(しんべう)、神約なれば、子孫までも可守とて、明神あがらせ給にけり。掲焉也し事共也。懸ければ入道俗体の昔より、出家の今に至まで、信仰帰依怠らず。されば子息兄弟、太政大臣(だいじやうだいじん)大将に至り、国郡庄園朝恩に飽満給へり。されば神明の御計にて、入道の心も和らぎ、法皇もくつろがせ給ふ御事を御祈誓の為に、賀茂八幡両社の御幸より前に、新院厳島の御幸は有けるにこそと人申けり。

抑厳島明神と申は、推古天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、〈 癸丑 〉端正五年十一月十二日、内舎人佐伯鞍職と云者、為網鉤恩賀、島の辺に経回しけるに、西方より紅の帆挙たる船見え来る。船中に瓶あり。瓶の内に鋒を立て、赤幣を付たり。瓶内に三人の貴女あり。其形端厳にして人類に不同。託宣して云、吾為百王守護離本所近王城、御宝殿并(ならびに)廻廊百八十間造立して、我を厳島大明神(だいみやうじん)と崇べしと宣へば、鞍職言く、何なる験有てか可経官奏と。明神答云、王城の艮の天に、客星異光有て出現せん、公家殊に驚て可成怪時に、烏鳥多集て、共に榊の枝を食へんと宣(のたまひ)けり。即摂津国(つのくに)難波の王城に、俄(にはか)に千万の烏、榊の枝を食へて禁裏に鳴集る。鞍職奏して申、是は大明神(だいみやうじん)の現瑞也と。天皇(てんわう)叡信の余、御俸田百八十町、御修理、杣山八千町、御寄進の宣旨を被下の上、同年十二月廿八日に、重て被宣下云、自今位後、拝任当国之吏、毎任可捧上分田、不可軽神威、及末代社頭破壊顛倒之時は、当任の国司、経官奏、点国中(こくぢゆう)之杣可修理、其間材木檜皮等不可運上京都云云。御垂跡(すいしやく)者、天照太神(てんせうだいじん)之孫、娑竭羅竜王(りゆうわう)之娘也、本地を申せば、大宮(おほみや)は是大日、弥陀、普賢、弥勒、中宮は、十一面観音、客人宮、仏法(ぶつぽふ)護持多門天。眷属神等、釈迦、薬師(やくし)、不動、地蔵也。惣八幡別宮とぞ申ける。御託宣(ごたくせん)文云、法身恒寂静、清浄無二相、為度衆生故、示現大明神(だいみやうじん)、御祓の時には、必此文を誦すと申。法性不二の色身は、寂光浄土(じやうど)に居すれども、和光(わくわう)同塵(どうぢん)の垂跡(すいしやく)は、巨海の流類に交れり。 治承四年四月廿二日、新帝御即位あり。此御事大極殿(だいこくでん)にて被行事なれども、去し治承元年に焼にしかば、後三条院(ごさんでうのゐん)延久の例に任て、官庁にて有べかりしを、右の大臣兼実計申させ給けるは、官庁は凡人に取ば、公文所也。大極殿(だいこくでん)なからん上は、紫宸殿にて可被行と被仰けるに依、即其にてぞ有ける。康保四年十一月十一日、冷泉院御即位は、紫宸殿にて被行けり。其例いかが有べき。唯後三条院(ごさんでうのゐん)の御例に任て、太政官の庁にて、有べき物をと、人々被申けれども、右の大臣の恩計也ければ、子細に不及けり。中宮は弘徽殿より仁寿殿へ移らせ給(たまひ)て、高御倉へ参らせ給(たま)ひける有様(ありさま)目出ぞ在ける。され共ひそか事には、様々の御さとしども有けるとかや。

平家の人々、宗盛三十三(さんじふさん)の重厄の慎とて、去年より大納言(だいなごん)并(ならびに)大将を辞給(たまひ)て出仕なし。小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)薨じ給しかば、維盛、資盛、清経など色にて籠給へり。本意なかりし事也。左兵衛督知盛、蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣計ぞ出仕有ける。後朝蔵人左衛門権佐定長、太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所に参じて、昨日の御即位に御失礼もなく目出く難有由、細々と四五枚に書注して、二位殿(にゐどの)の御方へ進たりければ、入道殿(にふだうどの)も二位殿(にゐどの)も、咲まけてぞ御座(おはしまし)ける。

高倉宮(たかくらのみや)廻宣附源氏汰事

一院第二の御子、以仁王と申は、御母は春宮(とうぐうの)大夫公実息男、加賀大納言(だいなごん)季成卿御娘とかや。三条高倉に御座(おはしまし)ければ、高倉宮(たかくらのみや)とぞ申ける。去永万(えいまん)元年十二月十六日(じふろくにち)に、御歳十五と申しに、大宮御所にて忍て御元服(ごげんぶく)有しが、既(すで)に三十に成せ給ぬれども、親王の宣旨をだにも不被下して、沈てぞ御座(おはしまし)ける。

御手跡も厳く、御才覚も優に御座(おはしまし)けり。御位に即せ給たらば、末代の賢王(けんわう)とも申つべしなど、人々申しけれども、女院には御継子にて渡らせ給ければ、被打籠つゝ、春は花下にてかたむく日影を歎暮し、秋は月前にて明行空を怨み明し、詩歌管絃に御心を慰め、等閑に年月を過させ給けり。治承四年卯月九日夜深人定て後、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)頼政(よりまさ)、潜に彼宮の御所に参て申けるは、君は天照太神(てんせうだいじん)四十八代の御苗裔、太上法皇第二御子にて渡らせ給へば、太子にも立帝位にも即せ給べきに、親王の宣旨をだにも御免無くて、既御年三十に成せ給ぬ。御心憂と思召(おぼしめし)候はずや。平家は栄花身に余り、悪行年久成て、運命末に望めり。子孫相続して、朝に仕へん事難く見え侍り。当時いかなる御計もなくば、いつをか期せさせ給べき。慎み過させ給とも、終には安穏に果させ給はん事も有がたし。物盛して衰へ、月盈侍虧。此天道非人事、爰に清盛(きよもり)人道、偏(ひとへ)に振武勇之威、忽(たちまち)に忘君臣之礼、不恐万乗尊高之君、不憚三台重任之臣、只任愛憎心猥取断割之刑、所悪滅三族、所好先五宗逞思於一身之心腑、懸毀於万人之脣吻、天譴己到人望、早背量時立制文之道也、乗間討敵兵之術也、頼政(よりまさ)依非其器、雖迷其術、武略禀家、兵法伝身、倩顧六戦之義、今案必勝之勝之法加於己、不得止、謂之応兵、争恨小故、不勝憤怒、謂之忿兵、利土地求貨宝、謂之貪兵、恃国家之大、矜民人之衆、謂之驕兵、此類皆背義背礼、必敗必亡、求乱誅暴、謂之義兵、此類己叶道叶法、百戦百勝、上応天意下得地利、挙義兵、討逆臣、奉慰法皇之叡慮、被釈群臣(ぐんしん)之怨望、専在此時、不可経日、急被下令旨、早可被召源氏等(げんじら)、入道七十有余(いうよ)、年闌侍れども、子息家人余多(あまた)候へば、一方の御固と可被憑思召(おぼしめさるべし)、悦を成し馳参らんずる源氏等(げんじら)、国々に多候とて、申連けるは、京都には、出羽判官光信男、伊賀守光基、出羽蔵人光重、出羽冠者光義、熊野には、六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)入道為義(ためよし)が子に、新宮十郎義盛、平治の乱より彼に隠れ居たりしが、折節(をりふし)上洛して此にあり。摂津国(つのくに)には、多田(ただの)蔵人行綱、同次郎知実、同三郎高頼、大和国(やまとのくに)には、宇野七郎親治が子に宇野太郎有治、同次郎清治、同三郎義治、同四郎業治、近江国には、山木冠者義清、柏木判官代(はんぐわんだい)義康、錦織冠者義広、美濃尾張には、山田次郎重弘、河辺太郎重直、同三郎重房、泉太郎重満、浦野四郎重遠、葦敷次郎重頼、其子太郎重助、同三郎重隆、木田三郎重長、関田判官代(はんぐわんだい)重国、八島先生斉助、同次郎時清、甲斐国には、逸見冠者義清、同太郎清光、武田太郎信義、同弟に、加々美次郎遠光、安田三郎義定、一条次郎忠頼、同弟板垣三郎兼信、武田兵衛有義、同弟伊沢五郎信光、小笠原次郎長清、信濃国(しなののくに)には、岡田冠者親義、同太郎重義、平賀冠者盛義、同太郎義信、帯刀先生義賢が子に木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)、伊豆国(いづのくに)には、左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が三男に前兵衛権佐(ひやうゑのごんのすけ)頼朝(よりとも)、常盤国には、為義(ためよし)が子、義朝(よしとも)が養子に、信太三郎先生義憲、佐竹冠者昌義、子息太郎忠義、次郎義宗、四郎義高、五郎義季、陸奥国には、義朝(よしとも)が末子に、九郎冠者義経とて候。此等は皆六孫王の苗裔、多田(ただの)新発(しんぼち)満仲(まんぢゆう)が後胤、頼義(らいぎ)義家(よしいへ)が遺孫也。家子郎等駈具せば、日本国に誰かは相従集らざるべき、其に昔は大衆をも防、凶徒(きようと)をも退け、預朝賞宿望をも遂し事は、源平何も勝劣なかりき。而当時は雲泥の交を隔て、主従の礼よりも猶異也。僅(わづか)に甲斐なき命ばかり生たれ共、国々の民百姓と成て、所々に隠居て侍るが、国には目代(もくだい)に随ひ、庄には預所に仕て、公事雑役に駈立られ、夜も昼も安事なし。いか計かは心憂思らん。君思召(おぼしめし)立て、令旨をだにも下させ給はば、且は奉公の忠を存じ、且は宿望を遂んが為に悦をなし、夜を日に続てむらがり上り、平家を亡さん事、時日をばよも廻し候はじ。法皇の鳥羽殿(とばどの)に御年を経て、打籠られさせ給(たまひ)て、幽なる御住居(おんすまひ)、御心うき御事をも休め進させ給たらば、御至考にてこそ侍らめ。伊勢太神宮も正八幡宮(しやうはちまんぐう)も、必御恵を垂させ給ふべし。天神地祇も争か思召(おぼしめし)可捨、急思召(おぼしめし)立て、平家を亡し、御位にも即せ給なば、源氏等(げんじら)遠き御守護と成進せ候べしと、細々と申上けり。宮はつらつらと聞召(きこしめし)て、此事如何が有べかるらん、主上は清盛(きよもり)入道外孫、平家尤後見たり。御代は高倉院(たかくらのゐん)聞召、兄弟国をあらそはん事、恐なきに非、保元の先蹤憚あり。抑源氏御命に相従つて急ぎ馳上り、平家を打亡さん事も難知。此事身の上の至極、天下の珍事也。偏(ひとへ)に浮言を信ぜんは、思慮なきに相似たり。然而今一々宣説処、已に兵法をえて、能弁人理、文武事異なれども、通達旨同、欺て益なし。昔微子去殷而入周、項伯叛楚而帰漢、周勃迎代王黜少帝、霍光尊孝宣、廃昌邑、是皆覩存亡之符、見廃興事成功於一時、垂業於万代、時至ぬれば運の速なる事可無言、抑少納言惟長とて、相人あり。是は左大臣俊家の息男、阿古丸大納言(だいなごん)宗通の孫、備後前司季通の子息なり。此の人の相したる事は一事も不違ければ、時の人相少納言(さうせうなごん)と申。其人此宮をば位に即せ給べき相御座、天下の事思召(おぼしめし)捨させ給べからずと申し事思召(おぼしめし)出て、帝位を践べき時の至にもや、頼政(よりまさ)入道もかくは申らめ、又天照太神(てんせうだいじん)の御計にてもや有らんとて、不敵に思召(おぼしめし)立て、国々の宗徒の源氏等(げんじら)に、廻宣の令旨をぞ被下ける。其状に云、

下 東山東海北陸三道、諸国軍兵等所

  早可追討清盛(きよもり)法師并(ならびに)従類叛逆輩事

右前伊豆守(いづのかみ)上五位下行源朝臣仲綱(なかつな)宣、奉最勝親王勅、併清盛(きよもり)法師并(ならびに)宗盛等(むねもりら)、職威勢蔑帝王、起凶徒(きようと)、亡国家、悩乱百官万民、掠領五畿七道(ごきしちだう)、閉籠皇院、流罪臣公、断命流身、沈淵入楼、盗財領国、奪官授職、無功恣許賞、非罪猥配過、依之(これによつて)巫女不留宮室、忠臣不仕仙洞、或召誡於諸寺之高僧禁獄修学之浄侶、或賜下於叡岳之絹米、相具謀叛之粮食、断百王之跡、抑一人之頂違逆帝皇破滅仏法(ぶつぽふ)、見其振舞、誠絶古代者也、于時天地悉悲、臣民皆愁矣、仍一院第二皇子、尋天武皇帝之旧儀追討、王位推取之輩訪上宮太子之古跡、打亡、仏法(ぶつぽふ)破滅之類也、唯非憑人力之構、偏所仰天照之理矣、因之(これによつて)如有三宝仏神之威、何無四岳合力之忠哉、然則源家家人、藤氏氏人、兼三道諸国之内、堪勇士者、同令与力、可追討清盛(きよもり)法師并(ならびに)従類、若於不同心者、可行配流追禁之罪過、若於有勝功者、先預諸国之使、兼御即位之後必随乞可賜勧賞也、諸国宣承知、依宣行之。  治承四年四月九日      伊豆守(いづのかみ)正五位下源朝臣とぞ在ける。伊豆国(いづのくに)流人、前の兵衛佐(ひやうゑのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)は源家の嫡々なればとて、別令旨を被下。其状云、

下 東国源氏并(ならびに)官兵等所

  応早且任廻宣状、且以前(いぜん)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)為大将軍令参洛事

右 宣旨意趣者、我為百王孫、雖期宝祚、猶依聖運遅々、未至即位、而清盛(きよもり)入道、以一旦冥怪、令治天下、誇非分権威、欲絶皇法之処、依有仏神之守護、不遂梟敵之姦望、未及王法失亡之条明矣。謹仰厳旨可責清盛(きよもり)也、速致同心、励微力、果其意趣必進帝位者、朝恩争可空哉、然者(しかれば)依清盛(きよもり)武勢、下知既致都洛空役、我与皇恩、以東北武勢、何不治天下哉、旁各可仰景迹也、若於背宣命者、早可致伐責之状如件以宣。

 治承四年四月九日       前(さきの)右少史小槻宿禰とぞ、被下ける。挿絵挿絵

抑令旨の御使、誰か可勤と仰ければ、三位(さんみ)入道(にふだう)申けるは、外人は憚有べし、新宮十郎義盛、折節(をりふし)在京に侍れば、被召て使節を可被仰含かと。可然とて義盛を召。事の次第委被下知ければ、十郎畏て、平治年中より新宮に隠籠て、夜昼安き心なし、いかゞして素懐をとげて、再家門の恥をきよめんと存る処に、今蒙厳命条、併身の幸に侍、一門誰か子細を申べき。速に東国に罷下て、同姓の源氏、年来の家人を催上候べしとて、御前を立処に、三位(さんみ)入道(にふだう)申けるは、令旨の御使を勤候はんには、無官(むくわん)にては其恐有べしと申せば、然るべしとて当座に蔵人になされけり。十郎蔵人は、義盛を改名して行家と名乗。九日令旨を給(たまひ)て、十日の夜半に藤笈を肩にかけ、柿の衣に装束して、熊野にて見習たれば、山伏の学をして、海道に係つて下けり。先近江国には、山本、柏木、錦織に角と知せて、令旨の案を書与へて、美濃尾張へこゆ。山田、河辺、泉、浦野、葦敷、関田、八島に触廻り、又案書を与へて、信濃へ越ゆ。岡田、平賀、木曾次郎に相ふれ、又案書与へて、甲斐へこし、武田、小笠原、逸見、一条、板垣、安田、伊沢に相ふれて、案書与て伊豆国(いづのくに)北条に打越えて、右兵衛佐殿(うひやうゑのすけどの)に角と云。佐殿は廻宣披見の後宣(のたまひ)けるは、平家追討の令旨を被下事、当家の面目に侍り。尤一門同心して、家人を相催し、上洛仕るべし。但頼朝(よりとも)別心を不存といへども、当時勅勘の者に侍、身に当て令旨を給らずば、軍兵引率其憚ありと宣へば、行家は其事兼て御沙汰(ごさた)ありき、別したる令旨とて、笈の中より取出てこれをわたす。佐殿は手洗口〔に〕漱て、是を請取て、頷許〔に〕入てぞ御座(おはしまし)ける。行家は伊豆より常陸へ越て、兄なれば信太に知せ、佐竹に告て、案書を与へて、甥なれば告んとて、奥州(あうしう)へこそ下にけれ。

頼朝(よりとも)施行事

〔去(さる)程(ほど)に〕兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、別して令旨を給ける間、国々の源氏等(げんじら)に被施行。其状云、

被最勝親王勅命、併召具東山東海北陸道堪武勇之輩、可追討清盛(きよもり)入道并(ならびに)従類叛逆輩之由、廻宣二通如此、早守令旨、可有用意、美濃尾張両国源氏等(げんじら)者、勧催東山東海便宜之軍兵可相待、北陸道勇士者、参向勢多辺、相待上洛、可被供奉洛陽也、御即位無相違者、誰不執行国務哉、依廻宣之状、執達如件。

   治承四年五月日          前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源朝臣

とぞ被書たる。係ければ国々の源氏、背者一人もなし。

鳥羽殿(とばどの)鼬沙汰事

一院は年を経て、月を重ぬるに付ても、新(しん)大納言(だいなごん)成親父子が如く、遠国遥(はるか)の島にも放遷さんずるやらんと思召(おぼしめし)けるに、城南離宮にして、春もすぎ、夏にも成りぬれば、さていかなるべきやらんと御心ぼそく思召(おぼしめし)て、御転読の御経も、弥心肝に銘じて、被思召(おぼしめされ)ける。五月十二日の午刻に、赤く大なる鼬の、何くより来り参りたり共、御覧ぜざりけるに、御前に参り、二三返走り廻り、大にぎゝめきて、法皇に向ひ参て、踊上々々、目影なんどして失にけり。大に浅間しく思召(おぼしめし)て、禽獣鳥類の恠をなす事、先蹤多しといへ共、此獣は殊に様有べしと覚たり。去ば爰(ここ)に籠置たるも猶飽足らず思うて、入道が、朕を死罪などに行ふべき計などの有にやと思召(おぼしめす)に付ては、南無(なむ)一乗(いちじよう)守護、普賢大士、十羅刹女、助させ給へと、御祈念有りけるぞ悲き。源蔵人仲兼と申者あり。後には近江守とぞ申ける。法皇の鳥羽殿(とばどの)に遷され御座(おはしまし)て、参り寄人もなき事を歎けるが、思に堪ず如何なる咎に合とてもいかゞはせんと思て、忍つゝ参たり。法皇御覧じて、哀あれはいかにして参たるぞとて、軈御涙(おんなみだ)をのごはせ給ふ。さても只今(ただいま)然々恠異あり、急ぎ聞召たく思召(おぼしめす)に、折節(をりふし)参りあへる事、神妙(しんべう)神妙(しんべう)とて、御占形を賜つて、泰親がもとへと勅定あり。仲兼急京へ馳上り、陰陽頭泰親が、樋口京極の宿所に行向て、以御占形勅定をのぶ。泰親相伝の文書よく/\披て見、今月今日午時の御さとし、今三日が中の還御の御悦、後大なる御歎也と勘申たり。仲兼先嬉くて、件の勘文を以つて、鳥羽の御所に帰参して、此由を奏す。法皇はいさ/\何故にか、左程の御悦はと被思召(おぼしめされ)ける程(ほど)に、

法皇自鳥羽殿(とばどの)還御事

法皇の御事、大将強に被歎申けるによつて、入道さま/゛\の悪事思直て、同(おなじき)十四日に鳥羽殿(とばどの)より八条烏丸御所へ還入進す。是にも軍兵御車の前後に打囲てぞ候ける。十二日の先表、同(おなじき)十四日の還御、三箇日の中の御悦と占申たりける事、つゆ違はず。後の大なる御歎とは、又いかなる事の有べきやらんと御心苦く思召(おぼしめし)ける。法皇は去年の十一月より御意ならず、鳥羽殿(とばどの)に籠らせ給(たま)ひて、今年五月十四日に御出ありしかば、幽なりし御住居(おんすまひ)引替て、御心広く思召(おぼしめし)ける程に、還御の日しも、第二御子高倉宮(たかくらのみや)の御謀叛(ごむほん)の御企ありとて、京中の貴賤静ならず。去四月九日潜に令旨をば被下たれども、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)父子、十郎蔵人の外には知人もなし。蔵人は関東へ下向しぬ。いかにして洩にけるやらん、浅間しとも云計なし。

熊野新宮軍事

此事のあらはれける事は、十郎蔵人東国下向の時、内々新宮へ申下ける事は、平家は悪行年積て、法皇を鳥羽の御所に押籠奉て、忽(たちまち)に逆臣となるに依て、彼輩追討すべきよし宮の令旨を給(たま)ひて、同姓の源氏年来の家人を催促の為に、関東へ下向す、早く家人等(けにんら)に相ふれて、内々用意有て、行家が上洛を相待べしと云下たりければ、那智新宮の者共、寄合寄合かくす/\と私語(ささやき)けれども、国内通計の事なれば、平家の祈の師に、本宮の大江法眼これをきき、新宮十郎義盛こそ、高倉宮(たかくらのみや)令旨を給はり東国に下り、白旗白弓袋になりかへり、平家を亡さんとするなるが、那智新宮大衆等(だいしゆら)、源氏の方人せんとて用意有けれ、いざや推寄滅さんとて、大江法眼大将軍として、三千(さんぜん)余騎(よき)舟に乗て、新宮の渚(なぎさ)へおしよせけり。新宮那智の大衆此事を聞て、那智の執行正寺司権寺司、羅■(らご)羅法橋、高坊の法眼等、同心して大衆二千(にせん)余人(よにん)、新宮の渚(なぎさ)に陣をとる。大江法眼押寄て、互に時を作る事三箇度(さんがど)也。三目のかぶらやなりやむ事なく、太刀長刀のひらめく影電の如し。源氏の方には角こそ切れ、平家の方には角こそ射とて、軍よばひ六種震動の如し。互に半時も退かず、一日一夜火の出る程こそ戦たれ。され共大江法眼軍に負、相語ふ輩遁るる者は少く、討るゝ者は多かりけり。那智新宮大衆、軍に勝て、貝鐘を鳴し、平家運傾て、源氏繁昌し給べき軍始に、神軍さして勝たりと、悦の時三度までこそ造けれ。和泉国住人(ぢゆうにん)に、佐野法橋と云者、大江法眼には甥也けるが、軍には負ぬ、山に逃籠て息つき居たり。内の消息(せうそく)を書て福原へ奉りけるは、君未知召れず候や、新宮十郎義盛、高倉宮(たかくらのみや)の令旨を給り、東国に下向して源氏等(げんじら)を催促して、平家を亡し奉らんとて、白旗白弓袋に成返れる間、那智新宮の義盛に同意の由承て、大江法眼御方として、新宮の渚(なぎさ)におしよせて、一日一夜戦ひ侍しかども、軍敗ぬ、御用心有べくや候らんと告たりけり。平家これをきゝ給(たまひ)て、面目なしとぞ笑れける。太政(だいじやう)入道(にふだう)は不安おぼして、数万騎の軍兵をそろへて、福原より上洛す。六波羅には公卿殿上人(てんじやうびと)ひしと並居給(たま)ひたりけるに、入道宣(のたまひ)けるは、大方発まじきは弓取の青道心にて有けり。永暦元年に切べかりし頼朝(よりとも)を宥おき、今係大事を被仰下こそ安からね。所詮東国の勢の馳上らぬ前に、宮を取奉て、土佐の畑へ流し奉るべしとぞ被定ける。上卿には三条大納言(だいなごん)実房、職事には蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)行隆、別当平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)仰を蒙て、検非違使(けんびゐし)源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱、出羽判官光長、博士判官兼成等を召て、以仁王を土佐の畑へ移奉べきよし仰含。官人の中に兼綱と云は、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)の子息也。親父の入道が勧と云事をば、平家未知けり。急告んと思て、入道の本へ角と云。浅ましと云も理に過たり。即宮へ此由を申入けり。宮は五月の空の五月雨の、雲間の月を詠つゝ、御心を澄しうそぶいて、何の行末も思召(おぼしめし)知らぬ折節(をりふし)に、入道の状ありとて、長兵衛尉信連取次て、佐大夫宗信に奉る。披見れば、御謀叛(ごむほん)の披露有て、官人兼綱、光長、兼成等御所に参り候、急ぎ御所を出させ給(たまひ)て、如意越に三井寺(みゐでら)へ入せ給へ、入道も軈馳参候べしと申入たりければ、宗信こはいかゞせんと思て、御所に参り、わなゝく/\忍音に読上たり。宮聞召あへず、御心も心ならずあきれ迷せ給(たま)ひ、こはいかゞ有べき、よき様に相計へ宗信と仰けれども、只振わなゝきたる計にて、申遣したる事なし。信連を御前に召て、然々の御事あり、計へとぞ仰ける。此信連と云は、年来の侍にも非ず、此御所に候ける事は、本妻は日吉社の神子也けり。宮御所に候ける青女房に思付て、二心なく通ける折節(をりふし)候会たりける也。年来の者也とても、打解させ給ふべきに非ず、況かりそめの信連なれば、御慎(おんつつし)み有べきにてこそ在けれども、俄事也ける上、信連心際さか/\しかりければ、かく仰けるにこそ。信連は蒙仰、痛く御騒あるべからず、別の御事候はじとて、局町に走入、女房の薄衣一面、笠取出して、宮を女房の形に仕立進せて、佐大夫宗信にけしかける直衣小袴きせ奉、黒丸と云御中間に、表差したる袋持せて、御所を出し進する。俄忍の御事に、ゆゝしく計申たりけり。去ば余所目には、青侍体の者が、女を迎て行ぞと見えける。三井寺(みゐでら)へと志、東山を差てぞ落させ給ける。佐大夫宗信と云は、六条宰相宗保卿の孫、左衛門佐家保子息也。五月の空のくせなれば、雲井の月もおぼろにて、行さきも又幽也。三条高倉を上に出過させ給けるに、ひろらかなる溝あり。宮安々と超させ給たり。大路通る人立留てあやしげにて、はしたなく越たる女房かなとぞ、つぶやきける。佐大夫これを聞て、弥膝振心迷て歩れず、取敢ざりし事なれば、御所中(ごしよぢゆう)などは取したゝむるに及ばず。希代の宝物共も打捨させ御座、御厨子に被残ける、御反古ども、なからん跡までもいかゞと被思召(おぼしめさる)、御笛御琵琶御遊(ぎよいう)の具足、源氏、狭衣、古今、万葉、歌双紙等、何も/\御心に懸らずしもはなけれ共、其中に小枝と聞えし、漢竹の御笛の、殊御秘蔵ありけるをば、何の浦へも御身にそへんとこそ、兼ては被思召(おぼしめされ)けるに、余りの御心迷に、常の御所の御枕に残し留められけるこそ御心にかけて、立帰ても取まほしく思召(おぼしめし)て、延もやらせ給はず、御伴に候ける信連を召て、加程に成御有様(おんありさま)にては、何事か御心に懸べきなれども、小枝をしも忘ぬる事の口惜さよ、いかゞせんと仰有ければ、信連さる男にて、最安き御事にて侍とて走帰、御所中(ごしよぢゆう)大概取したゝめて、此笛を取、二条高倉にて追付進て献之、宮御涙(おんなみだ)を流させ給(たま)ひ、よにも御嬉しげに被思召(おぼしめされ)たり。信連二条川原にて申けるは、日来は何の所〔の〕浦までも御伴と存じ 候しかども、只今(ただいま)官人等が御所に参向はんずるに、物一言申者もなからざらん事、無下に口惜く覚侍。信連はいかになかりける歟、又臆病して逃けるかなど、平家の申沙汰せんも遺恨なるべし。弓箭取者の習、仮にも名こそ惜候へとて、暇を申ければ、宮は誠に申処さることなれども、汝に離れては痛く便なかるべし。野の末山の奥までも参らん事こそ本意なれと被仰下けれども、信連はいづくに〔て〕も、命は君に進せ侍るべし。なからん跡までも君の御為我ため、よき名をこそ残したく候へと、強て申しければ、力不及重て仰けるは、我とてもいつまでと思召(おぼしめせ)ば、再び御覧ぜん事有難し、来世にこそ行会してと被仰もあへず、御涙(おんなみだ)を流させ給ければ、信連も消入様には覚けれども、角心弱ては叶ふまじと思切、涙を推て帰にけり。御所中(ごしよぢゆう)走廻て、見苦き物ども取したゝめて後、青狩衣の下に萌黄の糸威の腹巻著て、烏帽子(えぼし)の尻、盆の窪に押入て、狩衣の小袂(こたもと)より手を出し、衛府の太刀の身をば心得(こころえ)て造りたりけるを佩て、くらきこともなき剛者也ければ、唯一人中門の内にたゝずみてぞ、今か今かと待たりける。

高倉宮(たかくらのみや)信連戦事

五月十四日の夜の曙に、官人三人向たり。源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱は、存る旨ありと覚て、遥(はるか)の門外にひかへたり。光長兼成両人は、馬に乗ながら門内に打ち入て申けるは、君代を乱させ給べき謀叛の聞あるに依て、可奉迎取由、蒙別当の宣罷向へり。光長、兼成、兼綱、是に侍り、速に御出有るべきと高声に申ければ、信連立出て、当時の忍の御所に入せ給(たまひ)て、此御所は御留守也、此子細を伝奏仕べきと申ければ、博士判官こはいかに、此御所ならでは、何所に渡らせ給べきぞ、虚言ぞ、足がるども乱入りてさがし奉れと下知す。下知に随ひて、下郎等乱入つて、狼藉不斜(なのめならず)。信連腹を立て、奇怪なる田舎検非違使共(けんびゐしども)が申様哉、我君今こそ勅勘ならんからに、一院第二王子にて御座、馬に乗ながら門内に打入るをだに、不思議と見処に、さがせと下知する事こそ狼藉なれ、にくき官人共が振舞哉とて、薄青の単へ狩衣の紐引切抛て、音にも聞、目にも見よ、宮の侍に長兵衛尉長谷部信連とは我事也とて、太刀をぬき刎て蒐。兼成が下部に金武と云放免あり。究竟の大力、大腹巻に左右の小手指、打刀を抜て向会けり。其をば打捨て、御所中(ごしよぢゆう)へみだれのぼる兵、五十(ごじふ)余人(よにん)が中に打入りて、竪横に禦ければ、木葉を風の吹が如し。庭へさとぞ追散す。信連御所の案内は能知たり、彼に追つめて丁と切、是に追つめてはたと切、唯電などの如くなれば、面を向る者なし。程なく十余人(よにん)は被討にけり。信連が太刀は心得(こころえ)てうたせたりければ、石金を破とも、左右なく折返るべしとは思はざりけれ共、余に強く打程に、度々曲けるを、押なほし/\戦程に、結句つば本より折にけり。今は自害せんと思て、腰をさがせども、刀も落てなかりけり。力不及大床に立て、宮の侍に長兵衛尉信連こゝに有、太刀も刀も折失て、勝負の道に力なし、我と思はん者寄合て、信連討捕勲功の賞に預やと、高声に云けれ共、手なみは先に見つ、太刀刀のなしと云は、敵をたばかるにこそ、虚言ぞ、左右なく寄て過すなとて、たゞ遠矢に射、主は誰ともしらず、信連左の股を射させたり。其矢を抜て捨たれば、>尻を止て猶もゝにあり。打かゞめて柱に当てねぢぬきて思けるは、角て犬死をせんより、敵に組食付ても死なんと思て、なへぐ/\小門の脇へ走出て、信連是に有と云ければ、寄手の者ども、声に恐れてさつと引。金武は加様の剛の者、打刀にては叶はずとて、鞘にさし、小長刀を、茎短に取なして寄合さゝんとしけるを、信連持たる物はなし、手をはたけて飛て係、長刀にのりはづめ、又右の股をさゝれつゝ、是にして被虜。其後官人御所中(ごしよぢゆう)に乱入て、天井を破板じきを放て、さがせども/\宮も御渡なし。人一人もなかりければ、唯信連計を居廻して、縄を付て六波羅へ参らんと云。信連は云甲斐なき者共かな、まてとよ、侍程の者に、なは懸事やある、況や靭負尉(ゆぎへのじよう)に於てをや、無下なる田舎検非違使共(けんびゐしども)かな、争か実に知べき、己等に物教へんとて云ける。我朝に三種の神器の内に、内侍所と申御事有り。昔天照太神(てんせうだいじん)の御時、百王の末の帝までも、我御形を見まゐらせんとて移し留め御座御鏡也。さて絃袋と云は、又後の内侍所の御貌を形どれり。其故に百官悉(ことごと)く朝に雖奉召仕、衛府の官は浅位なれば、地下にして致奉公直人に紛べきに依て、内侍所の御貌を学て、絃袋を賜て、左右の兵衛尉 赤皮、左右の衛門尉 藍皮 是を以て、侍の品を知、国王の御宝なれば、可遁非分難笠注しなれ。さればこそ官をも一けがすは有難き朝恩にてあれ、縄を付ずとても、信連誤なければ、参て申べしと云ければ、さてはとて唯追立て、六波羅の大庭に引居たり。前(さきの)右大将(うだいしやう)は御簾を半ば巻上て、大口計に白衣(はくえ)にて、長押に尻懸、大床に足差出して、謀叛の次第并狼藉の様、拷木に懸けて、可召問と宣へば、信連余御前の怱々なるに、雑人を被退候へ、不預拷問とも、御尋(おんたづね)に付て、所存をば申べし、いかに預推問、骨身をば微塵に被砕と云共、無事申さじと存ざらん事は申まじ。但今夜の狼藉の事身に誤なし、先所存にて侍れば申候、侍品の者が、朝に奉召仕時、奉公私なければ諸大夫にあがり、其より殿上を免され奉ること其例是多し。就中(なかんづく)信連不肖の身也と申せども、私に主を憑て、諸亭にうでくびをにぎらず、久く宮の御所に召仕て、奉公年積れり、普通の侍に思召(おぼしめし)准ふべからず、御座席こそ無骨に覚え侍れと申。是は大将白衣(はくえ)にて、長押に尻係たる事を咎申なるべし、大将も苦々しく覚されけり。次に夜の事誠の御使と存侍れば、争忝(かたじけなく)も宣旨を忽緒し奉べき。此間宮は忍たる御出とて、三条殿をば出させ給ぬ。御留守の間にて侍を、夜々(よなよな)強盗等が伺と承間、五月闇にてはあり、信連毎夜に用心して、不覚せじと御所中(ごしよぢゆう)を見巡つる程に、未暁かけて物具足したる者が、数は不知御所中(ごしよぢゆう)へ乱入、何者(なにもの)ぞ狼藉也と咎め申つれば、是は宣旨の御使と造声して名乗。宮は御出也、此御所当時御留守也と申せども、さないはせそ、唯打入とて、乱入間、只今(ただいま)何故に宣旨の御使とて、係る貌にて此御所へは参るべし、夜々(よなよな)伺と聞に合て、是は強盗めらが、言を替てたばかり入にこそ。誠や盗人は君の渡せ給ふなど申て、人の心をたぶらかすなんど承候へば、是もさにやと存る処に、只入に打入し間、散々(さんざん)に切殺し追出し侍き。今こそ実とも承はり存れ、大方は宣旨の御使に参ける、検非違使(けんびゐし)、思慮なかりけり。加程の御事に侍ける上は、巨細をのべ、宣旨の御使某と名乗申さんには、争狼藉をも仕り侍るべき。又唯一人候ける信連に被追立、度々逃出逃出しけるも云甲斐なし、衛府の官をけがす侍に、縄付けむなど申し行ひつる事、無下に骨法を不知けり。侍けがしに御恩塞に、一人也とも故実の者こそ召仕れめと、憚る処なくこそ申たれ。大将弥腹立して、兎角の陳答に及ばず、疾々川原に引出して、首を刎よと宣(のたまひ)けり。信連重て申けるは、是は命を惜咎を申ひらかんとには非ず、仮令此御所へ、思懸ぬ夜中に、物具(もののぐ)したる者が、宣旨の御使とて乱入らんをば、宣旨の言に恐、侍共が防戦追出たらんをば、不覚とや仰すべき、唯有の儘の事に侍ると云ければ、平家の侍共がこれを聞きて、げにも道理なり、誠に我主の御所へ、物具(もののぐ)して、怪気なる者が夜陰に打入たらんをば、縦ひ宣旨共いへ、院宣ともいへ、後は知ず、弓矢取の習なれば、一旦は防戦んずるぞかし、其を見ながら逃失んをば、ほむる主はよもあらじ、我等(われら)もさこそ振舞はんずれ、此信連は心きは恥しき者にて、而も大剛の者、度々はがねを顕して、一度も不覚せずとこそ聞、中にも本所に候ける時、末座の衆事を仕出して、狼藉不斜(なのめならず)、一�二�も制し兼て、座を立騒けるに、信連是をしづめけれ共、猶散々(さんざん)の事也ければ、寄合て末座の主従二人、左右の脇に挟み、一しめ/\て罷出、其座の狼藉をしづめたりければ、時に取て高名第一と云れき。又大炊御門京極なる、常葉殿御所へ、大和強盗が打入て、家内の資財をぬすみとり、多の人を切殺して出けるを、家主声を立て、盗よ/\と叫けれども、音を合する者なし。大番衆も追ざりけるに、信連左右の小手に腹巻著て太刀を抜、京極大路>に出合つゝ、散々(さんざん)に戦ひけるが、強盗四人切留、一人には寄合て組で搦めんとせし程に、頬をつき貫かれながら搦留たりけり。其時の刀の跡ぞかし、当時までも頬にある疵は、されば度々名を顕したる、剛者を、忽(たちまち)に被切事不便也、信連体の者をこそ御所中(ごしよぢゆう)にも召仕はせ給ふべけれなど、人々申合ければ、大将げにもとや覚しけん、死罪をば宥て、且く左の獄に被入けり。平家滅亡の後、京都に安堵せずして、伯耆国へ落下り、金持の辺に経廻しけるを、鎌倉殿(かまくらどの)聞給(たまひ)て、当国の守護に仰て、去文治二年の頃、関東へ召下されて、剛者のたね継せんとて、由利小藤太が後家に合て被召仕けり。御恩の始に鎌倉殿(かまくらどの)御自筆に、仮名の御下文にて、能登国大屋の庄をば、鈴の庄と号す、彼所を賜たりけるとかや。治承の昔は平家に命を被助、文治の今は源氏に恩を蒙れり、武勇の名望有難とぞ申ける。高倉宮(たかくらのみや)をば取逃し進たりと披露あり、六波羅京中騒動せり。何者(なにもの)か云たりけるやらん。宮は山門に籠らせ給(たまひ)て、深衆徒を憑ませ給間、大衆是を警固し進せて、平家追討の為に、山門の衆徒、既西坂本、切堤、賀茂の川原、二条三条辺まで下たりと聞えければ、平家の一門右大将(うだいしやう)已下、軍兵東西に馳さわぐ事不斜(なのめならず)、去共僻事也ければ静りにけり。よく天狗の荒たりとぞ見えし。此宮と申は、法皇の第二の御子にて御座(おはしま)せば、よその御事に非ず。法皇鳥羽殿(とばどの)より還御の日しも、係御事聞召ば、又いかなる目にかあはんずらん、朕は思召(おぼしめし)よらぬ事なれ共、入道此事に依て、よもたゞあらじ、中々鳥羽殿(とばどの)にて御心閑に御座(おはします)べかりける事を、由なき都へ還出にけるとぞ被思召(おぼしめされ)けるぞ、責ての御事と哀也。三日の内の御悦、後には大なる御歎とは此事にや。清明五代の苗裔、当世無双の重巫也、指の神子といはれたる、泰親なれば、なじかは勘へ損ずべき。

太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)は、嫡子小松内府重盛(しげもり)、去年八月に失給しかば、分方なき次男にて、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛に世を譲給たりける。一番手合に、宮取にがし進せたり、不覚し給たり、云甲斐なしと沙汰すと聞えければ、誠口惜き事にぞ被思ける。

高倉宮(たかくらのみや)籠三井寺(みゐでら)事

同(おなじき)十五日に、高倉宮(たかくらのみや)は三井寺(みゐでら)に、逃籠らせ給ふよし聞えけり。通べき道ならねば、御馬にだにものせ奉らず、僅(わづか)に人一両人ぞ御伴には候ける。峨々として高き山、鬱々としてしげき峯、道もなき御木の本を、夜しも渡らせ給ければ、白くいつくしき御足は、むばらの為に紅を絞り、黒く翠なる御髪は、さゝがにの糸にぞまとはりける。角て通夜這々寺に入せ給けん、さこそは悲く覚しけめ。昔浄見原(きよみはら)の天皇(てんわう)、大伴の王子に被責て、芳野山へ逃入せ給たりけん有様(ありさま)、角やとぞ哀なる。三井寺(みゐでら)にかゝぐり著せ給(たまひ)て、甲斐なき命の惜さに、打憑来れり。衆徒助よとぞ泣々(なくなく)仰ありける。大衆は哀に忝(かたじけな)く思進せて、蜂起僉議(せんぎ)して法輪院に御所しつらひ、懐き入進せて、乗円坊阿闍梨(あじやり)慶秀、修定坊阿闍梨(あじやり)定海なんど云、古悪僧等、門徒(もんと)の大衆引率して、御前に候て、様々労り守護し進けり。

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Last Modified: Thursday, January 09, 2014
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