源平盛衰記

Genpei jōsuiki

不明 Anonymous

『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十四
宇巻 第二十四

大嘗会(だいじやうゑ)儀式附新嘗会事

今年は大嘗会(だいじやうゑ)可被遂行歟と云議定ありけれ共、大嘗会(だいじやうゑ)は、十月の末に東河に御幸して御禊(ごけい)あり。大内の北野に斎場所を造て神服神供を調へ、竜尾の壇の上に廻立殿を立て御湯を召。同壇に大嘗宮を造て神膳を備。清暑堂にして神楽あり、御遊(ぎよいう)あり。去共新都の有様(ありさま)、大極殿(だいこくでん)もなければ大礼(たいれい)行べき所もなし。豊楽院もなければ、宴会も難行と、諸卿定め申されければ延にけり。新嘗会にて只五節計ぞ如形有ける。抑五節と申は、昔浄見原(きよみはらの)天皇(てんわう)の其かみ、吉野の河に御幸して御心を澄し、琴を弾給(たま)ひしに、神女二人天降りて、

  をとめこが乙女さびすも唐玉ををとめさびすも其唐玉を

と、五声歌給つゝ五度袖を翻す、是ぞ五節の始なる。遷都の事、太政(だいじやう)入道(にふだう)宣(のたまひ)けるは、旧都は山門と云南都と云程近して、聊の事もあれば、大衆日吉の神輿を先として下り、神人春日の御榊を捧て上る。加様の事もうるさし。新都は山重り江を隔、道遠く境遥なれば、彼態たやすかるべからずとて、身の安からん為に計出たりといはれけり。懸けれ共、諸寺諸山を始て貴賎上下の歎也。

山門都返奏状事

殊には山門三千衆徒僉議(せんぎ)して、都帰り有べき由、三箇度(さんがど)まで奏状を捧て、天聴を驚し奉る。其状に云、延暦寺(えんりやくじ)衆徒等(しゆとら)誠惶誠恐謹言、

  請被特蒙天恩停止遷都子細状

右釈尊以遣教、付属国王者、仏法(ぶつぽふ)皇法之徳、互護持故也、就中(なかんづく)延暦(えんりやく)年中、桓武天皇(てんわう)、伝教(でんげう)大師(だいし)、深結契約聖主則興此都、親崇一乗(いちじよう)円宗、大師亦開当山、忽備百王御願(ごぐわん)、其後歳及四百廻、仏日久耀四明之峯、世過三十八代、天朝各保十善之徳、上代宮城、無如此者歟、蓋山洛占隣、彼是相助故也、而今朝議忽変俄有遷幸、是惣四海之愁別、一山之歎也、先山僧等(さんそうら)、峯嵐雖閑、恃花洛以送日、谷雪雖烈瞻王城以継夜、若洛陽隔遠路、往還不容易者、豈不辞姑山之月交辺鄙之雲哉、〈 是一 〉、門徒(もんと)上綱等各従公請遠抛旧居之後、徳音難通、恩凶易絶之時、一門小学等寧留山門哉、〈 是二 〉、住山者之為体也、遥去故郷之輩出帝京、而蒙撫育、家在王都之類、以近隣而為便宜麓若変荒野者、峰豈留人跡乎、悲哉数百歳之法燈、今時忽消、歎哉千万輩之禅林、此時将滅、〈 是三 〉、但当寺是、鎮護国家之道場、特為一天之固、霊験殊勝之伽藍(がらん)、独秀万山之中所之魔滅、何無衆徒之愁歎矣、法之淪亡、豈非朝家之怖畏哉、〈 是四 〉、況七社(しちしや)権現之宝前、是万人拝覲之霊場也、若王宮遠隔神社、不近者、瑞籬之月前、鳳輦勿臨叢祠之露下、鳩集永絶、若参詣疎、礼奠違例者、啻非無冥応、恐又残神恨乎、〈 是五 〉、凡当都者是輙不可捨之勝地也、昔聖徳太子(しやうとくたいし)、相此地云、所有王気、必建都城云々、大聖遠鑑、誰忽緒之、況青竜、白虎、悉備、朱雀、玄武、勿闕、天然吉処、不可不執、〈 是六 〉、彼月氏霊山、則攀王城東北、大聖之明崛也、日或叡岳、又峙帝都丑寅、護国之霊地也、忝同天竺之勝境、久払鬼門之凶害、地形奇特、誰不惜乎、〈 是七 〉、況賀茂、八幡、比叡、春日、平野、大原(おほはら)、松尾、稲荷、祇園、北野、鞍馬、清水、広隆、仁和寺(にんわじ)、如此神社仏寺等者、或大聖鑑機縁垂跡、或権者相勝地占砌(みぎり)則、是護国護山之崇廟也、将又勝敵勝軍之霊像也、遶王城之八方、利洛中万人貴賎、参詣帰依成市、仏神利生感応如在、何避霊応之砌(みぎり)、忽趣無仏之境哉、設新建精舎、縦奉請神明、世及濁乱、人非大権大聖、感降不必有之、〈 是八 〉、況此等神社仏寺之中、或有諸家(しよけ)氏寺、修不退勤行、子胤相続、自興仏法(ぶつぽふ)之所也、如此之倫、憖(なまじひに)従公務、強別私宅者、豈非抑人之善心、是天下愁歎、不可不痛、〈 是九 〉、南都北山之僧徒、忝従公請之時、朝出蓬壺、暮帰練若、宮城遠隔往還云何、若捨本尊者多痛、若背王命者有怖、進退惟谷、東西既暗、〈 是十 〉、憶昔国豊民厚、興都無傷、今国乏民窮、遷幸有煩、是以或有忽別親属、企旅宿者、或有纔(わづかに)破私宅、不堪運載者、愁歎之声已動天地、仁恩之至、豈不顧之、七道諸国之調貢、万物運上之便宜、西河東津、有便無煩、若移余処、定有後悔歟、又大将軍至酉方、角已塞、何背陰陽、忽遠東西、山門禅徒、専思玉体安穏、愚意之所及、争不鳴諌鼓、但俄有遷都、是依何事乎、若由凶徒乱逆者、兵革既静、朝廷何勤、若由鬼物怪異者、可帰三宝以謝夭災、可撫万民以資皇徳、何動本宮、故奇、仏神囲遶之砌(みぎり)、剰企遠行態、犯人民悩乱之咎、抑退国之怨敵、払朝之夭危、従昔以来、偏山門営也、或本師祖師、誓護百王、或医王山王、擁護一天、所謂(いはゆる)恵亮摧脳、尊意振剣、凡捨身事君、無如我山、古今勝験、載在人口、今何有遷都欲滅此所哉、況堯雲舜星之耀一朝、天枝、帝葉之伝万代則是九条右丞相願力也、豈非慈恵大僧正(だいそうじやう)之加持哉、聖朝詔云、朕是右丞相之末葉也、何背慈覚大師之門跡、今云何忘前蹤、不顧本山滅亡哉、山僧(さんそう)之訴訟、雖不必当理、且以所功労、久蒙裁許来矣、況於此鬱望者、非独衆徒之愁、且奉為聖朝、兼又為兆民哉加之於今度事、殊抽愚忠、一門園城(をんじやう)雖相招仰勅宣(ちよくせん)、万人誹謗、難宛閭巷伏祈、御願(ごぐわん)何固勤労、還欲滅一処、運功蒙罰、豈可然哉、縦雖無別天感、欲蒙此裁許、当山之存亡、只在此左右故也、望請、天恩再廻叡慮被止件遷都者、三千人(さんぜんにん)胸火忽滅、百万衆徳水不乏、衆徒等(しゆとら)不耐悲歎之至、誠惶誠恐謹言。  

  治承四年十一月日とぞ書たりける。

都返僉議(せんぎの)事

十一月廿日、太政(だいじやう)入道(にふだう)、雲客(うんかく)卿相(けいしやう)を被催て、山門の奏状に付て僉議(せんぎ)有べきとて披露之次に問給ければ、抑遷都事、山門度々奏聞に及、縦衆徒いかに申共、地形の勝劣諸卿の人望に依べし、旧都と新都と得失甲乙、各無矯飾評定有べしと宣ふ。当座の公卿良久口を閉て有けるが、入道の気色に入らんとにや各被申けるは、福原新都地形無双に侍り、北には神明垂跡(すいしやく)、生田、広田、西宮(にしのみや)、各甍を並たり。尽せぬ御代の験とて、雀松原、みかげの松、千世に替ぬ緑也。雲井に曝布引の滝、白玉岩間に連れり。後を顧れば、翠嶺の雲を挟あり、暁の嵐の漠々たるを吐。前に望ば蒼海の天をひたせるあり、夕陽の沈々たるを呑り。湖水漫々としては、遠帆雲の浪に漕紛、巨海茫々としては、眺望煙波に眼遮れり。月の名を得る須磨明石、淡路島山面白や、蛍火みづから燃なる、葦屋の里の夏の暮、何もとり/゛\に心澄たる所也と、口々僉議(せんぎ)しければ、入道ほくそ咲てぞ御座(おはしまし)ける。此言皆矯飾也。たとへば大国に秦の趙高大臣と云し者、己が威勢を知謀叛を起さん為に、始皇帝(しくわうてい)の子二世王の御もとに、鹿を将参つゝ、此馬御覧ぜよと申ければ、王は是馬に非鹿にこそと宣(のたまひ)けるを、諸臣は趙高が威に恐て、皆馬也とぞ申ける。去ば末座の公卿のおはしけるが、新都をほめけるを聞て、秦趙高が事を思出て、

  鹿を指て馬と云人も有ければ鴨をもをしと思ふなるべし

と。勧修寺宰相宗房卿は、公卿の末座におはしけるが、都還の御事は、山門の奏状に道理至極せり、爰か不被垂叡信、目出かりし都ぞかし、王城鎮守(ちんじゆ)の社々は、四方に光を和げ、霊験殊勝の寺々は、上下に居を占給へり、延暦(えんりやく)園城(をんじやう)の法水は、本の都に波清、東大興福の恵燈も、旧にし京に光を益、四神(ししん)相応の帝都也、数代自愛の花洛也、五畿七道(ごきしちだう)に便あり、百姓万民も煩なし、勝劣雲泥を隔て、旧新水火を論ず、早速に都還有べきにやと申たりければ、新都を嘆たりける諸卿、苦々しく思はれける上に、入道座を立障子をはたと立て内に入給にけり。さしも執し思給(たま)ひつる都を、無代に申つる者哉、入道の腹立あらは也、宗房卿いかなる目にかあはんずらんと、各舌を巻いて怖恐ける程に、十一月廿一日の朝、俄(にはか)に都遷有べしとて廻文あり。公卿も殿上人(てんじやうびと)も、上下の北面賤の女賤の男に至るまで、手をすり額をつきて悦合へり。山門の訴訟は、昔も今も大事も小事も不空、いかなる非法非例なれ共、聖代明時必ず御理あり。況此程の道理、入道いかに横紙を破給ふとても、争か靡き給はざるべきなれば、山門の奏状により宗房の言に付て、其事既(すで)に一定也、古郷に残留て、さびしさを歎ける輩も、是を聞てはあな目出の山門の御事やとて、首を傾掌を合つゝ、叡山(えいさん)に向てぞ拝み悦などしける。

両院主上還御事

廿一日の朝廻文有て、軈(やが)て主上、一院、新院、女院、みな福原を立せ御座(おはしま)す。さしも新都をほめ給ける公卿殿上人(てんじやうびと)も、都還に成ければ、言と心と引替て、我先にとぞ急ける。二十三日に摂津国(つのくに)源氏、豊島郡住人(ぢゆうにん)豊島冠者、俄(にはか)に東国へ落下る由聞えけり。頼朝(よりとも)同意の為也。入道の謂けるは、哀兼て聞たりせばとゞめてまし、妬き者哉とくやしめども無力。同日入道前関白(くわんばく)〈 基房 〉松殿と申、備前国湯迫の配所より帰上給へり。都の有様(ありさま)も未落定ありければ、嵯峨(さが)の辺にぞ立入せ給(たま)ひける。

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廿五日に両院木津に著せ御座(おはします)。御所もなかりければ、御舟に奉りて見苦き御有様(おんありさま)也。廿六日(にじふろくにち)に、主上は五条(ごでう)内裏へ行幸、一院は法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に御幸、新院は六波羅の池殿に入せ給(たま)ひて、あすこも爰も草滋り、浅猿(あさまし)げにぞ籬も荒たるなる。山門の童部(わらんべ)小法師原(こぼふしばら)までも、哀天狗の■(ののしり)笑と聞えければ、太政(だいじやう)入道(にふだう)鼻うそあきてぞ思はれける。平家の一門皆上ければ、まして他家の人々は留まる者なし。怪の女童、甲斐もなき下�までも嬉く思て、劣じ/\と走つゞきて上形勢(ありさま)、哀に面白き見物也。世にもあり人共かずへらるゝ輩皆移りたりしかば、其ゆかりの女房侍共、雑色、中間、小舎人まで下り、殿々家々悉運下して、此五六箇月の間に造立て、資財雑物共、今日迄も歩より舟より漕寄持寄つるに、又物狂敷いつしか角有ければ、家をこぼち返さんまでは思ひもよらず、何もかも打捨て上けり。又何者(なにもの)か云出したりけるやらん、残り留らん者をば、鬼共が来てとり食はんずると云ひのゝしりければ、懸る濁れる世には、さる事も有なんとて、劣らじ負じと逃上けり。又いかなる跡なし者の立たりけるやらん、太政(だいじやう)入道(にふだう)の福原の門前に札に書て、

  人くらふ鬼とてよそになき物を生なぶりする醜女入道

と、故京に上る嬉さは去事に侍れど、こはいかに、落付ていかにすべき共覚えず、帰旅にて、纔(わづか)にゆかり/\を尋ねてぞ暫立宿りける。さても都還の後、宗房卿の一門会合の次に、抑入道のさしも執し思ひ給へる福原の都也、諸人皆新都をほめしに、宰相殿は何心おはしてか、只一人謗給けるぞと問ければ、宗房卿宣(のたまひ)けるは、君も臣も諸事に於て思立時は、心をゆるして人に不問、思煩ふ事には、必人に問合す。されば入道の心のはやる儘に、都遷とて下給たれ共、人の歎も多て、さすが故郷には及ばず、栖侘給たる折節(をりふし)、山門の訴訟あり、人のいへかし都帰せんと思ふ心の内あらは也と推量て、角は申たりとぞいはれける。ゆゝしくかしこくぞ思申給たりける。

頼朝(よりとも)廻文附近江源氏追討使事

源氏追討の為に東国へ下りし討手の使、空く帰上りて後は、東国北国の源氏等(げんじら)、いとゞ勝にのる間、国国の兵日に随て多なびき付ければ、間近き近江国山本柏木など云ふ源氏さへ、平家を背いて人をもとほさずと聞えけり。斯りける程に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)の廻文とて披露しける。案文に云、

被最勝親王勅命、併召具東山東海北陸道、堪武勇之輩、可追討清盛(きよもり)入道並従類叛逆輩云云、早守令旨、可有用意、美濃尾張両国源氏等(げんじら)者、催勤東山東海之軍兵可相侍、北陸道勇士者、参向勢田之辺、相待御上洛、可供奉洛陽也、御即位無相違者、誰不執行国務哉、依親王御気色(おんきしよく)、執達如件。    

治承四年十一月日、 前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源朝臣在判とあり。平家是を見て、こはいかに、親王とは何れの事ぞとて騒ぎ合ひけり。

十一月十一日に、先近江源氏追討の為に発向の大将軍には、左兵衛督知盛、少将資盛、越前守通盛、左馬頭(さまのかみ)行盛、薩摩守忠度、左少将清経、侍には、筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)を始て、古京の軍兵七千(しちせん)余騎(よき)、路次の者共駈具して、一万(いちまん)余騎(よき)に及べり。同(おなじき)十三日山本冠者、柏木判官代(はんぐわんだい)等を攻落して、軈(やが)て美濃尾張へ打越て、先近国を打靡けて、関東へ向べき由聞えければ、太政(だいじやう)入道(にふだう)少し色なほりて見え給(たま)ひけり。

坂東落書事

治承四年の冬、何者(なにもの)かしたりけん、坂東に落書あり。其状に云、

  早為一天泰平万人安穏可追討平家一族事

右倩案、治承四年〈 歳次庚子 〉者、相当蔭子平将門(まさかど)被追討之時代、何当此時而、令黙止哉、謹見此浄海法師之乱悪、殆過彼将軍将門(まさかど)之謀叛、百千万億也、昔将門(まさかど)者、於都城之外而企濫行、今浄海者、於洛陽之内発謀叛、所謂(いはゆる)捕納言宰相、而繋縛其身、搦関白(くわんばく)大臣、而配流遠域、加之或追籠当今聖主、奪位而譲于子孫、或責出新本天皇(てんわう)、入楼而留於理政矣、此叛逆絶古今、前代未聞(ぜんだいみもん)之処、若称院宣、若号令旨、恣下行之、何王之治天、何院之宣旨哉、皆是自由之漏宣也、抑自平治元年以降、数平氏持世既廿一年也、是則改一昔之代、而相当源氏、可持世之時乎、而今思事情、平氏捧赤色持世、是火之性也、今既果報之薪尽而、敢無可令放光之予、又平氏謂以平治之年号而持世、治承者上下之文字具水、以黒色之水、可滅赤色之火表也、昔承平今治承、以三水之字作年号品、本末以水失火事、不可有相違者也、兼又今年支干、金与水也、取色白与黒也、爰尋其先蹤者、八幡殿之家捧白色、白則金性也、刑部殿之家捧黒色、黒則水性也、水与金和合、持長生之相也、兼又浄海者生年〈 戊戌 〉六十三、支干共是土也、土冬季死、水冬季王、然者(しかれば)当冬季、而平氏可滅亡之時節也、被討平氏之条、更不可有其疑者哉、就中(なかんづく)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、百王守護八十一代也、今其誓不可誤給、此時不思立、何日散愁忿乎、嗚呼(ああ)当冬季而水為王相、滅火有其徳、敢不可尽思慮、更不可延時日、七道諸国之人、神社仏閣之族、挙唱源氏勝軍、機感相応、入洛時至、早進発于王宮、静天下、奉改於国主、全世上也、凡如風聞者、平氏与財産而相語山僧(さんそう)、抛賄賂而招集国賊、可成与力責東国之旨有議定云云、是則王城発向及遅々故也、今年若不被遂其志者、敵軍振珍宝、而成多勢、諸人耽貪欲、而有変改者、後悔屡出来歟、仍為仏為神為朝為民、可被討平家一族之謀臣矣、以送此状而己。

    治承四年十一月日とぞ書たりける。

斯りければ、源氏いとゞ憑しく覚えて、平家追討の計り事の外は他事なかりけり。

南都合戦同焼失附胡徳楽河南浦楽事

南都の大衆蜂起騒動して不静ければ、公家より御使を遣して、何事を計申て角騒動するぞ、子細あらば奏聞を経べしと、被仰下たれば、別の風情なし、只清盛(きよもり)法師に不会候、乃至名字をも不聞候と申。太政(だいじやう)入道(にふだう)不安思て、大衆をおどさんとて、備中国住人(ぢゆうにん)妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)を、大和国(やまとのくに)の検非違所(けんびゐしよ)に成して、数百騎(すひやくき)の兵を相副て下遣たれ共、大衆其にも恐れず、蜂起して押寄、散々打落し、兼康(かねやす)が家子郎等の頸廿六斬て、猿沢の池の端に懸たり。兼康(かねやす)■々(はうはう)都へ逃上る、面目なくぞ見えし。是のみならず南都には清盛(きよもり)入道は平氏の中の糟糖也。武家に取ては塵芥也。いかにといへば、祖父正盛は、正しく大蔵卿(おほくらのきやう)為房(ためふさ)の、加賀国知行の時、検非違所(けんびゐしよ)に被召仕き。又修理(しゆりの)大夫(だいぶ)顕季卿の、播磨守にて国務の時は、厩の別当に被召仕き。されば父忠盛が昇殿をゆるされしをば、白川院(しらかはのゐん)【*白河院】御越度とこそ万人唇をば返しか。遠からず法皇の御前にて、山僧(さんそう)澄憲には伊勢平氏と笑れたりしか共、諍ひ所なければ口を閉て不開き。人は身の程をこそ振舞に、成出者が事行ひ、過分也とぞ申ける。又其上に法師の首を造て、毬打の玉を打が如く、杖を以てあち打こち打、蹴たり踏たり様々にしけり。大衆児共、態と此玉なに物ぞと問ば、是は当時世に聞え給ふ太政(だいじやう)入道(にふだう)の首なりと答。いかに其をば便なく角はするぞといへば、いらふまじき政道の奉行に、仏神に首をはなたれたりとぞ申ける。抑此入道大相国(たいしやうこく)と申は、忝(かたじけなく)も当今の御外祖父也、位高威勢も大にして、天下重之国土偏靡けり、輙も傾申べきに非ず。言易洩者、招禍之媒、事の不慎者、取敗之道と云本文あり、よく/\可慎者を、さまでの振舞空恐し、いかゞ有べかるらん、如何様(いかさま)にも南都の大衆に、天狗のよく付たるにこそ、只今(ただいま)災害を招なんど、上下私語(ささやき)ける程に、入道此事聞給(たま)ひ、あまりに腹を立て、躍あがり/\宣(のたま)ひけるは、さもあらずとよ、日本国中(につぽんごくぢゆう)に、此一門を左程に咒咀すべき者やはある、いか様にも南都には謀叛人の籠りたると覚ゆ、追討使を遣て可攻とぞ披露せられける。南都の大衆此事を聞て、落籠たる謀叛人は誰がしぞ、一天の君を始奉り、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)奉流失、天下を乱て、今はのこる処なく振舞て、無実を構へ仏法(ぶつぽふ)を亡さんとや、目醒しき事也。恐くは木を離たる猿の迎や、儲せよとて、木津川に広さ一町計の浮橋渡して、左右に高欄を立てたりけり。南都大衆いかなればかく太政(だいじやう)入道(にふだう)をば悪むらんと云ければ、或人の申けるは、理也、摂禄の臣より始て、南家、北家、花山、閑院、日野、勧修寺、前官当職の公卿殿上人(てんじやうびと)、十之八九は藤氏として、春日大明神(かすがだいみやうじん)の氏人也。代々の国母、仙院、多は此家より出給へり。皇王と云、臣公と云我朝を政事専此氏に在、而平家世を取て、万乗の世務を妨奉り、諸卿の理政を無代にすれば、為国為人、春日大明神(かすがだいみやうじん)衆徒に替入せ給(たまひ)て、角騒動するにや有らん、いか様にも南都の失る歟、平家の滅るか、子細あらんといふ程に、廿六日(にじふろくにち)に、蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣大将軍として、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)の山庄、東山若松の亭にして勢汰へあり、著到あり、其(その)勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)、南都を可攻と披露あり。大衆是を聞て東大寺(とうだいじ)の大鐘ならし、蜂起騒動して、大和、山城の悪党、吉野十津川の者共を招集て、奈良坂、般若路、二の道を伐塞ぎ、爰かしこに落しを堀、管植、在々所々に城郭(じやうくわく)を構て逆木を引、掻楯をかき、老少行学、甲冑を著し弓箭を帯して相待けり。

廿八日に、重衡三万(さんまん)余騎(よき)を二手につくり、奈良坂、般若路より推寄せて時を造る。衆徒用意の事なれば、時を合て散々(さんざん)に防戦けり。大衆も軍兵も、互に命を惜ず戦ひけるが、平家の大勢責重りければ、衆徒禦ぎ兼て引退。軍兵勝に乗て、二の道を打破て寺中に乱入て、爰彼こに充満たり。播磨国住人(ぢゆうにん)、福井庄下司次郎大夫俊方と云ふ者、重衡朝臣の下知に依て、楯を破て続松として、酒野在家より火を懸たり。師走廿日あまりの事なれば、折節(をりふし)乾の風烈して、黒煙寺内に吹覆。大衆猛火に責られ、炎に咽ければ、不堪して蜘の子を散が如く落行けり。坂四郎永覚と云ける悪僧は、長七尺(しちしやく)計なる法師の骨太に逞が、心も剛に身も軽し、打物取ては鬼神にも劣らじと云けり。強弓(つよゆみ)の矢継早く開間かずへの手だり也。十五大寺、七大寺には、並者なき恐しき者也けるが、褐直垂に萌黄の腹巻に袖付て、三尺の長刀の氷の如くなる持て、同宿十二人左右の脇に立て、手階の門より打出て、引詰々々射ける矢に、多く寄武者討れけり。矢種尽ければ、長刀十文字に持てひらいて、敵の中に打入つて散々(さんざん)に戦ひければ、兵も多く討れ、同宿もあまた討捕れて、我身も痛手少々負ければ、今は不堪や思ひけん、春日の奥へぞ引退。猛火寺中に吹覆ければ、東大寺(とうだいじ)、興福両寺(りやうじ)の仏閣諸堂諸院一宇も残らず、瑜伽(ゆが)、唯識両部の法門、因明内明一巻も不免、三論、花厳の経釈、大乗小乗の聖教悉(ことごと)く焼にけり。我身を助けんとせし程に、大師先徳の秘仏も、年来住持の本尊も、亡ぬるこそ悲けれ。月比日比(ひごろ)兵乱有べしと聞えければ、若や助かるとて、山階寺の中大仏殿の上に橋を構て、児共童部(わらんべ)老僧尼公、いくらと云事もなく上り隠たりける程に、猛火御堂に懸ければ、不劣々々と下るゝ程に、階踏折て下に成者は押殺、上成者も高より落重りければ、暫しは息つき居たれ共、終には皆死にけり。残留る輩、なにを搦へ、なにを歩てか降り下るべきぞ。あやしの小屋ならばこそ手を捧ても助、足を取ても落すべきに、日本(につぽん)第一の伽藍(がらん)也、閻浮無双の大堂なれば、梁だにも十丈に余れり。今更俄(にはか)に助べき支度なし。余(あまり)の悲さに思ひ切り飛落る者も有けれ共、砕けて塵とぞ成りにける。一人もなじかは可残。火の燃ちか付に随て、喚叫音、山も響き天もひゞくらんと覚えたり。叫喚大叫喚の罪人も、角やと覚えて哀也。警固の大衆は兵杖に当て身を滅し、修学の碩徳は火災に咽て命を失ふ。貴賎の死骸、七仏の煙に交り、男女の遺骨、諸堂の灰に埋れり。無慙と云も疎也。興福寺(こうぶくじ)は是淡海公の御願(ごぐわん)、藤氏累代の氏寺也。此寺は元、天智天皇(てんわう)即位八年、嫡室鏡の女王、大織冠の御為に、山城国宇治郡山階郷に被建山階寺て名付しを、天武天皇(てんわう)即位元年に、大和国(やまとのくに)高市郡に移され、元明天皇(てんわう)即位二年に、同国添上郡春日の勝地に被移て、寺号を改て興福寺(こうぶくじ)と名。法相大乗の教を弘通せり。代々の王臣国母の御願(ごぐわん)あり。

中金堂と申は、入鹿大臣朝家をあやぶめ奉らんとせし時、皇極天皇(てんわう)発願して、被造立丈六釈迦三尊(さんぞん)也。眉間の水精は唐国より被渡たり。此玉左見にも右見にも、釈迦三尊(さんぞん)の影うるはしく移りし玉也。此像の御頭の中には、大織冠の御髻の中に、年来戴き給(たま)ひける銀の三寸の釈迦像を被籠たり。

東金堂と申は、神亀三年〈 丙寅 〉秋七月に、聖武皇帝の伯母、日本根子高瑞浄足姫御悩(ごなう)の時、玉体安穏の為にとて造られたりし薬師(やくしの)像を安置せり。又敏達天皇(てんわう)即位八年〈 己亥 〉冬十月、新羅国より渡給へる金銅の釈迦、観音、虚空蔵の三尊(さんぞん)も、此御堂に御座(おはしま)す。

西金堂と申は、聖武天皇(てんわう)の后、光明皇后の御母橘大夫人の御為に、天平六年〈 甲戌 〉正月に造、供養し給へる丈六の釈迦の像を被居たり。天竺の乾陀羅国大王、生身の観音を拝んと云願あり。夢中に告を得たり。是より東海に小島あり、日本国(につぽんごく)と名く。彼国の皇后光明女を可拝と、夢さめて後、西天、日域雲を隔て、大小諸国の境遠行拝せん事難叶、生身を移さん為にとて仏師を差遣せり。工匠子細を奏聞しければ、后仰て云、我母の為に阿弥陀如来(あみだによらい)造立の志あり、然而いまだ工を得ざる処に、幸に今天竺の仏師を得たり、願は仏像を造て妾が素願をはたせと、工匠奏し申さく、仏々平等にして利益無差ども、釈迦は穢土を教主として慈悲の一子に覆護せり。靡耶の生所を知んとて、大菩提心を発しつゝ、二六の難行行畢て、無上正覚成就(じやうじゆ)せり。十月胎内の報恩の為に、九旬■利(たうり)の安居せり。されば母に孝養の志深きは釈尊に過ずと奏しければ、可然とて被造たる仏也。皇后此仏を拝し給しに、いまだ眉間の玉も不入、仏像額より光を放ち給しかば、此仏には眉間の玉はなし。自然涌出の観世音も、此御堂にぞ安置せる。伝法院の修円僧都(そうづ)と云人、寿広、已講を相具して尾張国より上りしに、賀茂坂の辺、すがたの池の辺を通けるに、已講々々と呼声しけり。音に付て行見れば、田中に十一面観音像御座(おはします)。貴忝(かたじけな)く思ひつつ、懐き上げ負奉て、南都に帰上りつゝ、先南大門に奉居、何の御堂にか入奉べしと大衆僉議(せんぎ)して、金堂より始て、扉を開て入奉らんとて、千万人集て是を舁奉れども更に動給はず。西金堂と申時軽々と挙て、如飛してこそ此寺には入給へ。一度歩を運人、二世の願をぞ成就(じやうじゆ)しける。

南円堂と申は、八角宝形の伽藍(がらん)也。丈六不空羂索観音を安置せり。此観音と申は、長岡右大臣内麿の藤氏の変徴を歎て、弘法大師に誂て造給へる霊像也。仏をば造て堂をば立給はで薨給(たま)ひたりけるを、先考の志願を遂んとて、閑院大臣冬嗣公の、弘仁四年〈 丁酉 〉御堂の壇を築れしに、春日大明神(かすがだいみやうじん)老翁と現じて匹夫の中に相交り、土を運び給(たま)ひつゝ一首の御詠あり。

  補陀落の南の岸に堂たてて北の藤なみ今ぞ栄ゆる

と。補陀落山と申は、観音の浄土(じやうど)にて八角山也。彼山には藤並ときはに有しとか。件の山を表して八角には造けり。北の藤並と申は、淡海公の御子に、南家、北家、式家、京家とて四人の公達御座(おはしまし)けり。何れも藤氏なれ共、二男にて北家、房前の御末の繁昌し給ふべきの歌也。弘法大師は来て鎮壇の法を被行。此堂供養の日、他性の人六人まで失しかば、代々の御幸にも源氏は不向砌(みぎり)也。奈良の都の八重桜、東金堂に栄えたり。浄名大士は、講堂(かうだう)に奄羅園を変じけり。維摩大会(たいゑ)は五百(ごひやく)余歳(よさい)も過にけり。声大唐に聞え、会は興福に留る。国之為国者此会の力也、朝之為朝者此会故也と、北野天神の記し置給へるも憑しや。されば此大会(たいゑ)の講、近は帝釈宮の礼に付、常楽会の内梵都卒天より伝れり。此戒壇と申は行基菩薩の建立(こんりふ)、済度利生の真影あり。清涼院と申は、清水の学窓大聖文殊の霊応あり。一乗院は、又定照僧都(そうづ)の聖跡、顕密兼学の道場也。貞松房の松室、応和の風香、興静僧都(そうづ)の喜多院、本院の礎不傾。斯る目出(めでた)き所々より始て、瑠璃を並し四面の廊、朱丹を彩二階(にかい)の楼、空輪雲に輝し五重(ごぢゆう)の塔婆、稽古窓閑なる三面の僧坊、大乗院、松陽院、東北院、発志院、五大院、伝法院、真言院、円成院、一言主、弁才天、竜蔵惣宮、住吉(すみよし)、鐘楼、経蔵、宝蔵、大湯屋に至迄、忽(たちまち)に煙と成こそ哀なれ。

鳥羽院(とばのゐんの)御宇(ぎよう)、春日の御幸の次に興福寺(こうぶくじ)に御入堂あり。伶人舞楽を奏しけるに、胡徳楽と云楽に、河南浦の庖丁を舞澄したりけり。胡徳楽とは酒を飲楽也。河南浦とは鯉を切舞也。叡感の余りに、是を鳥羽の御所に移して叡覧あらばやと被思召(おぼしめされ)ければ、還御の後彼儀式を鳥羽殿(とばどの)に被移て、伶人是を奏しけれ共、南都にて叡覧有しには無下に劣て、無興ぞ思召(おぼしめさ)れける。理や彼寺は、淡海公竜宮城の上に被立たる寺なれば、底より匂通つゝ、吹笛も打楽も澄渡りてぞ聞えける。斯る目出たき伽藍(がらん)の亡びぬるこそ悲しけれ。

東大寺(とうだいじ)と申すは、一閻浮提無二無三の梵閣、鳳甍高く聳て半天の空より抽で、八宗の教法、広敷広学の僧庵、鸞台遥(はるか)に構て一片霞を隔たり。濫觴を尋れば、月氏より日域に及で、大権の芳契多世を経たり。知識を訪へば、聖主より凡庶に至まで、真乗の結縁万方に普し。就中(なかんづく)本願皇帝発起の叡念は、大悲普現の観自在弘誓の海是深く、良弁僧正(そうじやう)懇篤の祈誓は、等覚補処の慈氏尊、因円の月満なんとす。三世の覚母は行基菩薩として東垂に現じて、衆生をして普く一分の善縁を結ばしめ、菩提僧正(そうじやう)は西域より来て、金容を拝して正く五眼の功徳を開けり。誠に此四隅四行の薩■[*土+垂](さつた)、因円合成して、中央中台の遮那の果満顕現じ給ふ。大日本国(だいにつぽんごく)開闢の主、天照太神(てんせうだいじん)の御本地、今の大仏尊是也。天児屋根尊(あまのこやねのみこと)は左面の観世音也。太玉尊は右脇の虚空蔵菩薩也。又金光最勝時会の式、王法正論鎮護の儀也。凡伽藍(がらん)の建立(こんりふ)也に異にして冥顕にかたどり、尊像の安置併国家の標相なり。是を以て本願聖武皇帝の御起文には、代々の国王を以て我(わが)寺(てら)の壇越とせん、我(わが)寺(てら)興復せば天下も興復し、我(わが)寺(てら)衰弊せば天下も衰弊すべし。若敬て勤行せば、世々に福を累て終に子孫を隆やかし、共に宮城を出て早く覚岸に登らんと云々。万機の理乱四海の安危、此寺の興衰により、今生の禍福未来の昇沈、其人の信否にむくゆ、是則我朝の惣国分寺として、金光明四天王護国之寺と号す、誠にゆゑある哉。当大伽藍(だいがらん)御建立(ごこんりふ)以前に、聖武天皇(てんわう)行基菩薩を勅使として、潜に伊勢太神官に祈誓申されしかば、御託宣(ごたくせん)に、実相真如の日輪は照生死長夜之闇、本有常住の月輪は、掃無明煩悩之雲、我遇難遇之大願、建立聖皇大仏殿故と〈 取詮 〉ありき。菩薩歓喜の涙に咽つゝ、此由奏し給(たま)ひしかば、叡信いよ/\深く、竭仰ます/\切にして、又宇佐宮へ勅使を被立て、同叡願の趣を被申しかば、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御体正く現じ給、御音を出させ給(たま)ひて、吾国家を護り王位を守る、>志楯戈の如し、早く国内の神祇を卒して、共に吾君の知識たらんと、新にみことのり有ければ、歓喜の懇情深くして、則行基菩薩に勅して知識の宣を一天四海に被下しかば、玉簾の内より柴枢の下に至るまで、上下男女其縁を結ばずと云事なし。されば天平十七年に土木の造縁を始られしに、或は力士変化の牛来て料材を運、或は久米の仙人通力を起て大木を飛し、或は雷神磐石を砕て船筏を下き。三明(さんみやう)六通の羅漢は五百の工匠と成て大小の諸材を削、四海八方の冥衆は数万の夫役を勤て遠近の公事に従へり。鎮守(ちんじゆ)権現と申は則八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)是也。神託に任て、勧賞の為に、勅使百官を宇佐宮に立られたりければ、天平勝宝元年十一月〈 己酉 〉日、御影向あり。則尊神と天皇(てんわう)ともろ共に、大仏殿に御参の有りて、一万僧会(いちまんぞうゑ)を被行しに、大内に天下泰平と云文字現じけるに依て、又天平宝字と改元あり。神明の霊感、種々顕て、影向の軌則巍々たり。其より已来(このかた)当寺に跡を垂御座(おはしまし)て、昼夜に大仏を拝し、八宗の教法を護給へり。其後大仏供養の御沙汰(ごさた)あり、導師行基菩薩と被定たりけるを、菩薩奏して宣く、御願(ごぐわん)は大仏の事也、我身は小国の比丘也、大会(たいゑ)の唱導更に相応せず、昔霊山浄土(じやうど)の同聞衆に大羅漢御座、其名を婆羅門尊者と云。南天竺にあり、来て供養をのぶべしと有しかば、帝勅して云、天竺日本(につぽん)境異也、いかゞ招請せんと被仰下ければ、菩薩其期に臨で難波浦に行向、閼伽の折敷に花を盛、香を焼海上に浮たり。西を指て流行。暫ありて閼伽の備も乱ずして難波浦に著。小舟一艘相副り。舟中に梵僧一人あり。浜に上りたりければ、行基待受て手を取くみ、微咲して歌を唱て云、

  霊山の釈迦の御前にちぎりてし真如朽せず相みつる哉

梵僧返事して、

  迦毘羅衛に共に契しかひありて文殊のみ顔相みつる哉

と返事ありき。則天平宝字四年四月八日御供養有けるに、皇帝忝(かたじけなく)も御自諸師請定の勅書を被出き。開眼師菩提僧正(そうじやう)、講師隆尊律師、咒願師大唐の道■(だうちん)律師、都合一万廿六人(いちまんにじふろくにん)なり。菩提僧正(そうじやう)仏前にすゝみ、筆を取て開眼し給に、其筆に縄を付て諸人同く取付。是皆開眼の縁をむすばしめんと也。此時僧正(そうじやう)白き衣服を著し、六牙の白象に乗じて、大会(たいゑ)の庭に来給へりと見人多かりけり。普賢大士の化現と云事は疑なし。凡供養の日、奇特の事共多くありける内に、王城に童子あり、生産より成人に至るまで終に物云事なし。父母唖子うみたりと歎けるに、彼唖童は法会の庭にのぞみ、天皇(てんわうの)御前に跪、南謨阿梨耶婆盧枳帝、檪鉢羅耶、菩提薩■(さた)婆耶と唱拝し奉て、かき消やうに失にけり。又南大門の木像の獅子すゞろに吠■(ほえののしり)けり。是只事に非ず、併御願(ごぐわん)の忝(かたじけな)き事を感じけるにや、誠に不思議也し事共也。其より以来、年序四百(しひやく)余歳(よさい)、星霜遥(はるか)に重て帰敬弥新也。金銅十六丈の盧遮那仏(るしやなぶつ)は、実報寂光常在不滅の生身になぞらへ、玉殿十一間の宝楼閣は、花蔵界会、奇麗無元尽の荘厳に模せり。烏瑟高顕て半天の雲に細に、白毫露て瑩て、満月の粧明か也し尊像也。五十六億七千万歳の遥(はるか)の後、人寿八万、竜華三会の時までも全身の如来(によらい)とこそ奉拝しに、御頭は落て大地にあり、御身は涌て湯の如し。悲哉烏瑟忽(たちまち)に花王の本土に帰し、堂閣空蒼海の波涛に泝ことを。八万四千(はちまんしせん)の相好は、秋の月四重の雲に隠れ、四十一地の珱珞は、夜の星十悪の風に漂はす。遥(はるか)に伝へ聞すら、猶悲みの涙せきあへず、況親奉見けん人々の心中、推量れていと悲し。

大講堂(だいかうだう)と申は、天平勝宝年中に御建立(ごこんりふ)、本尊は五丈の千手の霊像也。一万僧会(いちまんぞうゑ)にて供養を遂られし時、天人天降りつつ花を仏前に散し奉る。其香発越として法会の庭に匂、九重の中に薫じけり。聖武皇帝叡感の余りに、楽人に仰て、始たる楽を奏すべしと勅定有ければ、伶人等俄(にはか)に十天楽を作始て是を奏しき、類少き不思議也。醍醐天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)延喜十七年十一月、当堂并に三面の僧坊焼失せし時、黒煙一天に覆て日の光不見けり。東大寺(とうだいじ)の炎上(えんしやう)にあらずば角は有べからずとて、御門大に驚き騒がせ給(たま)ひて、寮の御馬に召れて俄(にはか)に行幸ありけり。是ぞ騎馬の行幸の始なる。其後承平五年に造畢供養せられけり。

戒壇院と申は、本願皇帝、栄叡普照寺に勅して大唐に遣されしかば、則楊州の竜興寺の鑑真和尚(くわしやう)に謁して申さく、昔我大日本国(だいにつぽんごく)に上宮太子と申人御座(おはしまし)き。吾薨去の後二百年を過て、必当国に律儀広まるべしと示し給(たま)ひき。今其時代にあたれり、願は日域に東流し給へと請ぜしに、和尚(くわしやう)承諾し て渡海せんと宣に、門徒(もんと)の僧諫制して云、海上漫々として風波茫々たり、生身を全して法を此にして弘め給へと申ければ、和尚(くわしやう)弟子に語て云、身命を軽して仏法(ぶつぽふ)を重くするは如来(によらい)遺弟の法也、日本(につぽん)は仏法(ぶつぽふ)有縁の国なれば、行て戒律を弘むべしと有けるを、門弟等留め兼て、袈裟にて頭を裹み、顔を隠して和尚(くわしやう)の渡海を留けり。裹頭の大衆と云は是より又始れり。然共和尚(くわしやうの)志猶たゆみ給はず。され共天皇(てんわう)深く御歎あり。欽明天皇(てんわう)十三年に、釈迦の遺法此国に伝るといへ共、いまだ出家具戒の義そなはらず。盧遮那仏(るしやなぶつ)の造立の志は戒法興行の為なり。十地の階級によりて、報身能化の形異なれ共、ことさら戒波羅密の教主を選て、千葉台上の尊像を顕し奉る事は、戒師を異朝に尋て、仏法(ぶつぽふ)を此国に弘めんが為也とて、重て遣唐使を渡さる。懇に勅請有しかば、法進思詫等の門弟四十余人(よにん)を具足し、仏舎利三千粒、白檀の千手の像、天台止観等の法門、戒壇円経、并中天竺那蘭陀寺の戒壇の土、此外仏像経論等を持して、大唐の天宝十三年に唐朝を辞し、本朝の天平勝宝六年二月に来朝し、始て大仏殿に参詣して、礼拝讃歎し給(たまひ)て、又和尚(くわしやう)遥(はるか)に蒼海を凌て来朝せり。皇帝大に叡感ありて、授戒伝律、偏(ひとへ)に大徳に任る由、勅し給しかば、天平勝宝六年四月に、始て盧遮那仏殿(るしやなぶつでん)の御前にして、和尚(くわしやう)伝来の戒壇の土にして壇を築て、天皇(てんわう)皇后登壇受戒あり。其後霊福澄修等五百(ごひやく)余人(よにん)登壇受戒しき。さて那蘭陀寺の戒壇の土にひとしき地味を本朝に被尋しに、今の戒壇院地味同きに依て、高房中納言を勅使として、天平勝宝七年九月に戒壇院を造畢し、同き十月十三日に、大和尚(だいくわしやう)を導師として御供養ありき。同き廿日受戒会を行ひ始られてより已来(このかた)、恒例の大法会たりき。真言院と申は、養老年中に中天竺の善無畏三蔵来朝の当初、八十日が間遊士修練し給し芳躅なり。其間に良弁義淵等、大虚空蔵等の秘法を受て密教稍伝持せり。然共根機普熟せざりけるにや、三蔵所持の毘盧舎那経をば、大和国(やまとのくに)高市郡久米寺の東塔の柱の底に納て、無畏三蔵は帰唐し給にけり。其後弘法大師出世し給(たまひ)て、内外平満の教こと/゛\く通達し給(たまひ)て後、諸仏内証の不二法門あるべしとて、当伽藍(がらん)盧遮那仏(るしやなぶつ)の前にして祈請申されしかば、夢想(むさう)の告有て、彼久米寺の大経を感得し、勅定を蒙て、渡海入唐し、青竜寺の大和尚(だいくわしやう)に謁して、三密五智の瓶水を受。真乗秘密の奥蔵を伝て、大同年中に帰朝し給(たまひ)て、法水を四海に流し、甘雨を一天にそゝぎしかば、東大寺(とうだいじ)の別当に被補き。勅命に依て此寺に移り居て、三蔵修練の芳跡を慕、大唐青竜の風範を写して、灌頂(くわんぢやう)壇を立て増息の法を修し給へり。密経相応也に異なる聖跡也。凡大仏殿、同き四面の廻廊より始て、講堂(かうだう)三面の僧坊、鐘楼、経蔵、食堂、大湯屋、東西七重の大塔、八幡宮、気比の社、気多の宮、五百(ごひやく)余所、八大菩薩(はちだいぼさつ)、戒壇院、真言院、尊師僧正(そうじやう)、東南院、南都七寺の本院家、三論の本所也。五師子の如意もなつかしく、光智僧都(そうづ)の尊勝院、花厳円宗の本所也。村上帝の御願(ごぐわん)とか。堪照僧都(そうづ)の吉祥院、五重(ごぢゆう)唯識窓深、珍海已講の禅那院、八不の堪水底澄めり。知足院と申は法相一宗の本所也。鑑真建立(こんりふ)の唐禅院、律宗天台の本所とか、神社仏閣悉(ことごと)く焼にけり。梵釈四王、竜神(りゆうじん)八部、冥官冥衆に至るまで、定て驚騒給らんとぞ覚えし。三笠山の松の風、遮遺の煙に音咽、春日野草の露、魔滅の灰に色替れり。昔釈尊の非滅々々を唱へしに、双林風痛で其色忽(たちまち)に変じ、抜提河水咽で其流れ又濁りけんも限あれば、菩薩聖衆、人天大会(たいゑ)の悲み角やと思知れたり。日本(につぽん)我朝は申に及ばず、天竺震旦にも加程の法滅は類稀にぞ覚えける。若く盛にして身の力ある輩は山林に逃籠、吉野十津河の方へ落失にけれ共、行歩にも叶はぬ老僧身もたへず、事宜き修学者達は、其数を知ず切殺され打殺されにけり。尼公の首をも多切たりけるとかや。大仏殿にて焼死る者千七百(せんしちひやく)余人(よにん)、山階寺にて五百(ごひやく)余人(よにん)、在々所々、坊舎堂塔にて二百(にひやく)余人(よにん)、戦場にして被討大衆七百(しちひやく)余人(よにん)、都合一万二千(いちまんにせん)余人(よにん)とぞ聞えし。其内に四百(しひやく)余人(よにん)が首、法華寺の鳥居の前に切懸たり。十二月廿九日に、重衡朝臣、南都の大衆の頸三百(さんびやく)余を相具して帰上る。首共さのみ多しとて少々は道に捨けり。重衡上洛して首渡すべき由奏申けれ共、東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)回禄の浅猿(あさまし)さに、其沙汰に及ざりければ、穀蔵院南の堀をば、南都の大衆の頸にて埋けり。一院新院摂政(せつしやう)殿下、一天四海貴賎男女歎悲みけれ共、入道(にふだう)相国(しやうこく)ばかりは、南都の衆徒等(しゆとら)さてこそよとぞ宣(のたま)ひける。後世いかならんと聞も身毛竪けり。

仏法(ぶつぽふ)破滅事

仏法(ぶつぽふ)破滅の人を尋るに、天竺には提婆達多、仏を妬て血を出し、仏法(ぶつぽふ)修行の和合僧を破し、証果の尼を殺して三逆を犯し、阿育大王の太子弗沙密多、寺塔を破壊し聖教を亡す。震旦には秦始皇(しくわう)、僧尼を埋み書籍を焼、唐武宗、会昌太子、三宝を滅き。これは異国の事也、只伝聞ばかり也。我朝には、如来(によらい)滅後一千五百一年(いつせんごひやくいちねん)を経て、第三十代帝欽明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)十三年、〈 壬申 〉十月十三日に、百済国の聖明王より、始て金銅の釈迦像並経論等を渡し給ける。同日に阿弥陀(あみだ)の三尊(さんぞん)浪に浮びて、摂津国(つのくに)難波浦に著給(たま)ひたりしを、用明天皇(てんわう)の御子聖徳太子(しやうとくたいし)、仏法(ぶつぽふ)を興ぜんとし給しに、守屋大臣我国の神明を敬はんが為に、教法の貴事を不知して、是を破滅せんとせしか共、終に太子の御為に誅せられけり。其外は帝王五十二代、年序六百廿九年、いまだ三宝を背き堂塔を滅す王臣を聞かず。仏法(ぶつぽふ)独弘まらず、王臣の帰依によるべし。国土自ら安からず、仏陀の冥助に持たれけり。されば人の世にある、誰か仏法(ぶつぽふ)を無代にし逆罪を相招く。縦僧こそ悪からめ、仏法(ぶつぽふ)何の咎か御座(おはしま)すべき。神社仏寺数を尽し、三論法相残なく煙と成るこそ悲しけれ。されば弘憲僧正(そうじやう)は、落る涙に墨染の湿たる袖に筆を染めて、法滅の記をぞ書給へる。

謹考、天竺震旦大仏雖多、皆是木石なり。未聞金銅十六丈之盧遮那とぞ被注たる。誠に閻浮無双の仏像也。日域第一の奇特なり。一時が程に回禄、かなしと云も疎なり。

興福寺(こうぶくじ)焼失の時、不思議の事ありき。寺院の内の坤の角に、一言主の明神とて、葛城の神を祝奉たる社あり。其神の前に大なる木■子(もくげんじ)の木あり、彼焼亡の火、此木の空に移て煙立けり。軍しづまりて後、大衆の沙汰にて水を汲て、木の空に入る事隙なかりけれ共、其煙いつとなく絶ず。今はいかゞせんとて、水を入る時もあり入ざる時もあり。遥(はるか)に七十余日を経て、太政(だいじやう)の入道(にふだう)病付たりと云ひける日より、煙おびたゞしく立けるが、入道七日と云に死給(たま)ひたりける日よりして、彼けぶり立ず、火かき消すやうに失にけり。さしも久しく燃たりけれ共、枝葉もとの如く栄たり。誠に世の不思議とぞ覚ゆる。

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Last Modified: Thursday, January 09, 2014
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