源平盛衰記

Genpei jōsuiki

不明 Anonymous

『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十
摩巻 第三十

真盛被討付朱買臣錦袴並新豊県翁事

平家の侍、武蔵国住人(ぢゆうにん)長井(ながゐの)斎藤別当真盛は、我七十有余(いうよ)に年闌たり、今は後栄期する事なし、終に遁べき身にあらず、何国にても死なん命は同事と思切つて、赤地の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に黒糸威(くろいとをどし)の冑を著、十八差たる石打の征矢負て、只一人進出て、死生不知にぞ戦ける。木曾の手に、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)手塚太郎光盛と云者あり。真盛に目を懸て歩せよる。真盛も亦手塚に目を懸て進で懸り、手塚近寄て、誰人ぞ只一人残留て軍し給ふは、大将軍が侍か、心にくし名乗れ、角申は信濃国(しなののくに)諏訪郡住人(ぢゆうにん)手塚太郎金刺光盛と云者也、能敵ぞ名乗給へや組給へと云懸て、互に駒を早めたり。真盛申けるは、戯呼猿者ありと聞、思様あり名乗まじ、汝を嫌には非ず、只首を取て源氏の見参に入よ、能所領の値なるべし、徒に淵瀬に捨べからず、木曾殿(きそどの)は見知給はんずる也、思ひ切たれば一人留て戦也、敵は嫌まじ、軍の習は勝負をするこそ面白けれ、寄合手塚と云儘に、弓をば捨て無下に近寄合す。手塚が郎等、主に組せじとて、馬手に並べて中に隔たり。真盛押並てむずと組。己は手塚が郎等にや、余すまじと云まゝ、鎧の押付の板をつかまへ、左の手にて手綱かいくり、左右の鐙を強く踏で引落し、馬の腹に引付て提もて行。足は地より一尺計挙りたり。手塚是を見て、郎等を討せじとて馳並て、敵の鎧の袖に掴み付て、曳音を出して鐙を越、我先にぞ落たりける。真盛二人の敵にあひしらはんとせし程に、三人組合て馬より下へ落たりけり。真盛手塚が郎等を押へて刀を抜頸を掻。手塚其間に、真盛が弓手の草摺引上て、柄も拳も透とさし、軈(やが)て上に乗得頸を掻、水もたまらず切にけり。手塚敵の首を郎等に持せて、木曾の前に持て行申けるは、光盛癖者の頸取て候、名乗れと申せば、存る旨あり名乗まじ、木曾殿(きそどの)は御覧じ知べしと計にて名乗らず、侍かと見れば錦の直垂を著たり、大将軍かと思へば列く者なし、京家西国(さいこく)の者かとすれば坂東声也き、若き者かと思へば面の皺七十余に畳めり、老者かとすれば鬢鬚黒して盛と見ゆ、何者(なにもの)の首なるらんと申。木曾打案じて、哀武蔵(むさし)の斎藤別当にや有らん、但其は一年少目に見しかば、白髪の糟尾に生たりしかば、今は殊外に白髪に成ぬらんに、鬢鬚の黒きは何やらん、面の老様はさもやと覚ゆ、実に不審也、樋口は古同僚、見知たるらんとて召れたり。髻を取引仰て、一目打見てはら/\と泣、穴無慙や真盛にて候けりと申。何に鬢鬚の黒はと問給へば、樋口、されば其事思出られ侍り、真盛日比(ひごろ)申置候しは、弓矢取者は、老体にて軍の陣に向はんには、髪に墨を塗らんと思ふ也、其故は、合戦ならぬ時だにも、若き人は白髪を見てあなづる心あり、況軍場にして、進まんとすれば古老気なしと悪み、退時は今は分に叶ずと謗、実に若人と先を諍も憚あり、敵も甲斐なき者に思へり、悲き者は老の白髪に侍、されば俊成卿述懐の歌に、

  沢に生る若菜ならねど徒に年をつむにも袖はぬれけり

と読侍るとかや。人は聊の物語(ものがたり)の伝にも、後の形見に言をば残置べき事に侍り。云しに違はず墨を塗て候けり。年来内外なく申しゝ事の哀さに、樋口次郎兼光、水を取寄せて自是を洗たれば、白髪尉にぞ成にける。さてこそ一定真盛とは知にけれ。大国の許由は、耳を潁川の水に濯て名を後代に留、我朝の真盛は、髪を戦場の墨に染て、悲を万人に催けり。木曾宣(のたまひ)けるは、親父帯刀先生をば悪源太義平が討たりける時、義仲(よしなか)は二歳に成けるを、畠山に仰て、尋出して必失べしと伝へたりけるに、如何が稚者に刀を立んとて、我は不知由にて、情深く此斎藤別当が許へ遣して養へと云ければ、請取養はんとしけるが、七箇日置て、東国は皆源氏の家人也、我人に憑まれて此児を養立ざらんも人ならず、育おかんもあたりいぶせしと案じなして、木曾へ遣しける志、偏(ひとへ)に真盛が恩にあり、一樹の陰一河の流と云ためしも有なれば、真盛も義仲(よしなか)が為には七箇日の養父、危敵中を計ひ出しける其志、争忘べきなれば、此首よく孝養せよとて、さめ/゛\と泣ければ、兵共(つはものども)も各袖を絞りけり。抑真盛石打の征矢を負、錦の鎧直垂(よろひひたたれ)を著事は、今度北国へ下ける時、内大臣(ないだいじん)に申けるは、真盛東国の討手に下向して、矢一も不射(いず)蒲原より帰上し事、老の恥と存候き。今度北陸道に罷下なば、年闌身衰て侍共、真先蒐て討死勿論也。真盛所領に付て、近年武蔵に居住なれ共、本は越前国住人(ぢゆうにん)にて、北国は旧里也。先祖利仁将軍三人の男を生、嫡男在越前、斎藤と云。次男在加賀、富樫と云。三男在越中、井口と云、彼等子孫繁昌して国中(こくぢゆう)互に相親しむ。されば三箇国の宗徒の者共、内戚外戚に付て、親類一門ならざる者なし、真盛討死して候はば、当国他国の者共集て、別当は何をか著たる、如何なる装束をかしたると見沙汰せん事恥かし、故郷へは錦袴を著て帰と云事に侍れば、今度生国の下向に、錦直垂に石打征矢御免を蒙候はん、且は最後の御恩也と所望申ければ、初は免し給はざりけるが、既打立処に、真盛思切たる顔気色、且は哀に思ひ、且は軍を勧んが為に、内大臣(ないだいじん)の我料とて被秘蔵たりけるを、取出て下し給へり。真盛畏給(たまひ)て、千秋万歳の心地してぞ著たりける。是を聞ける大名小名、袖を絞ぬはなかりけり。

 < 昔大国に朱買臣と云人有き。家貧にして始て書を読ければ、其才身に余つゝ、漢武帝に召れて侍中と云官に居て、大に栄え富ければ、住馴し会稽の故郷へ下りしに、錦袴を著たりけり。見る人文徳の空からざる事を思へり。真盛も此事を思出けるにや、最後の所望も哀也。免し給ふも情あり。彼は文を以て著し、是は武を以て給る、文武の勧賞とり/゛\也。>

昔天宝に兵を召て、雲南万里に馳向。彼雲南に湯の如くなる流あり、是を濾水と名く。軍兵徒より渉る時、十人が二三人は死ければ、村南村北に哭する音絶ず。児は爺嬢に別、夫は妻に別れたり。昔も今も蛮に征者千万なれ共、一人も不帰ければ、新豊県に男あり、兵に駈れて雲南に行けるが、彼戦を恐つゝ、歳二十四にて、夜深人定て、自大石を把て己が臂(ひぢ)を打折、弓を張旗を挙に叶はねば、行ことを免れて再故郷に帰けり。骨砕筋傷て悲しけれ共、六十年を送りけり。雨降風吹陰り寒夜は痛て眠れざれ共、是を悔しと不思、悦処は老らくの八十八まで生事を。是は異国の事なれ共、此国の歌人よめるとか。

  一枝ををらではいかで桜花八十余(あまり)の春にあふべき

新豊県老翁は八十八、命を惜て臂(ひぢ)を折、斎藤別当真盛は七十三、名を惜て命を捨つ。武きも賢きも、人の心とり/゛\也。

平氏侍共亡事

平家は棟と憑み給へる真盛討れて大に力落、成合を引て篠原宿に著。源氏同押寄たり。平家不堪して山に入、極楽林、小野寺林、須河林に乱入ければ、源氏続てひら責に攻む。福田、熊坂、江沼辺をも責越て、浜路迄こそ追懸たれ。平家並松と云所にて返合て、暫し支て戦けり。源平互に乱合、両方より射違たる矢は降雨の如也。是にして平家三十(さんじふ)余騎(よき)討れて並松を引。源氏勝に乗て余すな/\と追懸、余に手繁追ければ、平家の大将軍に、参河守知度と云は入道の子也。口惜事哉、御方に思切者共がなければこそ直責には攻られて大勢は討るらめとて、返合て散々(さんざん)に戦給へる程に、筒に矢十二射立られて、討死して失給(たま)ひぬ。連く侍には、飛騨の大夫判官(たいふはんぐわん)景高、是は大臣殿の乳母子(めのとご)にて若の事あらば一所にて手取組んと契深かりしか共、参河守の討れ給(たま)ひける悲さに、散々(さんざん)に戦て、是も一所に討れにけり。越中権頭範高、我一人と戦けるが、矢員射尽て、敵に頸骨射させて自害して臥にけり。越中二郎判官盛綱、州浜判官高能、上総介忠清(ただきよ)、子息太郎判官忠綱(ただつな)、尾張守貞安、摂津判官盛澄等も、思々に戦て所々に臥にけり。武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもん)有国は、手勢三百(さんびやく)余騎(よき)にて戦けるが、大勢に被取籠て半時ばかり打合程に、有国馬を射させて歩立に成、右には太刀、左には長刀を持て切合ける程に、太刀打折て後は長刀を十文字に持て開き、大勢の中に走入、先馬の足を薙ぐ。主が馬よりはね落さるゝ処を、落しも立てず頸を薙、弓手に走、妻手に走、四廻五廻切廻かとすれば、敵三十(さんじふ)余人(よにん)切伏て、我身も痛手を負ければ、新中納言殿(ちゆうなごんどの)の侍に、武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)有国と名乗て、腹掻切て失にけり。巣山兵衛高頼も、手の際戦て討れにけり。東国の者には、ましほの四郎と伊藤九郎も、此にして亡ぬ。河に流海に入て死ぬるは不知、安宅、篠原、並松の間に、竿結渡して、切懸たる首三千七百六十人とぞ注たる。虜には兼康(かねやす)、斉明計也。此斉明は林、富樫と同心に、木曾に腹黒あらじと起請書たりし者が、燧城にて返忠して源氏を背き、忽(たちまち)に冥罰を蒙るとぞ覚えたる。

去四月下向には、平家十万余騎(よき)なりしに、燧、長畝、三条野、並松、塩越、須河山、長並、一松、安宅、松原、宮越、倶梨伽羅、志雄山、竹浜所々の合戦に亡つゝ、七万余騎(よき)は失にけり。可然人々も馬にも乗らず、物具(もののぐ)を捨て、北国の浦伝、仙道の山伝して、今六月の上洛には三万(さんまん)余騎(よき)には過ざりけり。

平家今度は数を尽して被下けるに、角討れぬるこそ無慙なれ。尽流漁、多雖得魚、明年無魚、焼林狩、多雖得獣、明年無獣云本文あり。されば後を存じて、壮健ならん兵をば少々都に可残置ける者をと云人も有けり。内大臣(ないだいじん)も棟と憑れたりし弟の参河守も討れぬ。高橋判官長綱も討れぬ。一所にて如何にもならんと契給(たま)ひし乳母子(めのとご)の大夫判官(たいふはんぐわん)景高も討れぬ。旁大に力落てぞおぼされける。。飛騨守景家(かげいへ)が申けるは、相憑つる子息の景高に別ぬ。今は出家の暇給(たまひ)て、彼が後世を吊侍ばやと申けるこそ哀なれ。有国、兼康(かねやす)、真盛なんども不帰、此者共こそ、野末山の奥にても、一人当千(いちにんたうぜん)と憑もしく思召(おぼしめし)けるに、大底亡にければ、内府も心弱ぞ思はれける。凡今度討たる者共、父母兄弟妻子眷属等が泣悲事不斜(なのめならず)、家々(いへいへ)には門戸を閉、声々に愁歎せり。彼村南村北に哭しける雲南征伐も、角やと被思知(おもひしられ)たり。五日北国賊徒の事、院(ゐんの)御所(ごしよ)にて議定あり。左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣(ないだいじん)実定、皇后宮大夫実房、堀川(ほりかはの)大納言(だいなごん)忠親(ただちか)、梅小路中納言長方、此人々を被召けり。兼実忠親(ただちか)両人は不参給。右大臣は大蔵卿(おほくらのきやう)泰経を御使にて、只よく/\御祈祷(ごきたう)あるべき也、東寺に秘法あり、加様の時に被行べきにやとぞ被申たる。左大臣経宗公は、不叶までも関々を固らるべきかと被申たり。

長方卿は、今已(すで)に源氏等(げんじら)称起義兵歟、逆徒強大、官軍敗績、更於本朝無可比之跡、承平将門(まさかど)、康平貞任、不及十之一、非同日之論歟、漢家動匈奴、或侵辺郷、或有僣号、窺敵国之勢致和親之礼、合道合法歟、早被遣庁使、尤可被和仰歟、不用詔使歟、被敗官軍、武将之恥朝家之■ (きず)、軽重如何、所残之儀只在此事と被申ければ、当座の人々、皆此儀に同ぜられけり。議奏の趣、誠に工にぞ聞えける。

赤山堂布施論事

〔同(おなじき)〕十一日に、源氏追討の御祈(おんいのり)とて、延暦寺(えんりやくじ)にて薬師経(やくしきやう)の千僧の御読経被行、御布施には手作の布一端(いつたん)宛、供米袋一づつ被副たり。院より別当左中弁兼光朝臣、仰承て催沙汰あり。行事は主典代庁官、御布施の供米を、西坂本、赤山の堂にて是を引けり。山の下僧共を以て請取ける間に、取者は一人して袋の四つ五つ、布の七八端も取けり。取らざる者、一にもあたらで手を空する者もあり。何一にも当ざる者は腹立して■ (ののしり)行。取得たる者は小頭振て悦ぶ。取べき者とらずば、取まじきが取得たるをこそ瞋いさかふべきに、さはなくて散々(さんざん)に悪口し、行事主典代と、法師原(ほふしばら)と事を出して、上を下に取合、主典代庁官等が烏帽子(えぼし)打落、衣装剥取なんどして浅間敷(あさましき)喧嘩に及び、結句は主典代を搦て、本鳥放なる者を大講堂(だいかうだう)の庭に引居たり。大衆是を見て、事穏便ならずとて追下しけり。総て平家の行ふと行ふ神事仏事に、失礼のなき事はなし。仏神の擁護にかゝはらずと云事あらはれたり。

太神宮行幸願付広嗣謀叛並玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)事

同日蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)仰を承て、祭主神祇大副大中臣親俊を殿上の口に召て、兵革平がば太神宮へ行幸有べき由、申させ給(たま)ひけるぞせめての御事と覚えて哀なる。

伊勢太神宮と申は、天神第七代、伊弉諾、伊弉冊尊の御子、地神最初御神也。高天原より天降御座(おはします)。垂仁天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)廿五年と申し丙辰三月に、伊勢国(いせのくに)渡会郡五十鈴河上に、下津磐根に大宮柱広敷立て、祝始奉移しより後は、宗■(そうべう)社稷の天照太神(てんせうだいじん)に御座(おはしま)せば、崇敬奉らせ給ふ事、吾朝六十余州の三千七百五十(さんぜんしちひやくごじふ)余社(よしや)の、大小の神祇冥道にも勝れ坐しか共、代々の帝(みかど)の行幸はなかりしに、奈良帝の御宇(ぎよう)、右大臣淡海公不比等の御孫、式部卿(しきぶきやう)宇合御子、右近衛権少将兼太宰少弐藤原広嗣と云人御座(おはしまし)き。天平十二年十月に、肥後国松浦郡にて謀叛を起し、一万人の凶賊を相語て、帝を傾奉らんと云聞え有しかば、花洛の騒不斜(なのめならず)、大野東人と申し人を大将軍として、官兵二万(にまん)余騎(よき)を被相副て、広嗣誅罰の為に被下遣けり。又様々の御祈(おんいのり)有ける中に、同(おなじき)十一月に始て太神宮へ行幸あり。今度其例と聞えけり。

 < 彼広嗣の謀叛を発しける故は、聖武皇帝の御宇(ぎよう)に、玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)とて貴き僧座しき。戒行全く持て、慈悲普く及ぼし、智行兼備して済度隔なし。一天唱道国家珍宝也。遣唐使吉備大臣と入唐して、五千(ごせん)余巻(よくわん)の一切経を渡し、法相唯識の法門を将来せり。皇帝皇后深御帰依を致し給へり。常に玉簾の内に召れて、后宮掌を合御座(おはしま)す。広嗣后の宮に参給たりけるに、玄肪(げんばう)婚遊し給へり。広嗣奏して申さく、玄肪(げんばう)后宮を犯し奉る、其咎尤重しと。帝更に用給はず。広嗣又后宮に参たりける時、玄肪(げんばう)又皇后と、枕を並て臥給へり。重て奏して云、玄肪(げんばう)只今(ただいま)后宮と席を一にし給へり、叡覧に及ばば重科自露顕せんと申。帝忍て幸成て、御簾の隙より叡覧あり。光明皇后は十一面観音と現じ、玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)は千手観音と顕て、共に慈悲の御顔を並て、同く済度の方便を語給へり。皇帝弥叡信を発御座て、広嗣は国家を乱すべき臣也、一天の国師たる貴き僧を讒し申条、罪科深しとて、西海の波に被流たりければ、怨を成て謀叛を起す。凡夫の眼前には、非梵行婚家と見奉れ共、賢帝の叡覧には、大悲薩■[*土+垂](さつた)の善巧方便と拝み給ふも穴貴と。>彼広嗣討れて後、亡霊荒て恐しき事共多く有ける中に、同(おなじき)十八年六月に、太宰府観音堂造立供養あり。玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)導師たり。高座に上て啓白し給(たま)ひけるに、俄(にはか)に空掻曇雷電して、黒雲高座に巻下し、導師を取て天に騰。次年の六月に、彼僧正(そうじやう)の生しき首を興福寺(こうぶくじ)の南大門に落して、空に咄と笑声しけり。此寺は法相大乗の砌(みぎり)也。此宗は玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)の渡したれば、広嗣の悪霊玄肪(げんばう)を怨て角しけるこそ怖しけれ。此僧正(そうじやう)入唐の時、唐人其名を難じて云、玄肪(げんばう)とは還て亡と云音あり、日本(につぽん)に帰渡て必事に逢べき人也、只唐土に留給へかしと云けれ共、故卿を恋しがりければ帰朝したりけるが、角亡けるこそ不思議なれ。広嗣の怨霊荒て、加様に浅間敷(あさましき)事共ありければ神と奉崇。今の松浦の明神と申は是也けり。

加茂斉院八幡臨時祭事

抑係る兵乱の時は、昔も御願(ごぐわん)を被立けり。嵯峨(さがの)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)大同五年〈 庚寅 〉、平城(へいじやう)の先帝内侍典の勧めに依て、世を乱給しかば、其祈に、始て帝の第三皇女有智内親王(ないしんわう)を、賀茂の斉に立奉らせ給(たま)ひき。是より斉院は始れり。朱雀院御宇(ぎよう)天慶二年〈 己亥 〉、将門(まさかど)純友が謀叛の時、其祈に八幡の臨時祭は始れり。今度左様の例共尋られける内、大神宮の行幸も御願(ごぐわん)に立られけり。

平家延暦寺(えんりやくじ)願書事

去(さる)程(ほど)に、木曾(きそ)義仲(よしなか)所々の合戦に打勝て、六月上旬には、東山北陸二の道を二手に分て責上る。東山道の先陣は尾張国墨俣川に著。北陸道の先陣は越前国府に著ぬと聞えければ、平家今は防戦に力尽ぬ、仏神の加被にあらずは、争か彼凶賊を鎮べきとて、平家の一族は、公卿も殿上人(てんじやうびと)も同心に願書を捧げ、山門の衆徒、日吉の神恩を憑むべき由被申たり。其状に云、敬白

  可以延暦寺(えんりやくじ)帰依准氏寺以日吉社尊崇如氏社一向仰天台仏法(ぶつぽふ)事

右当家一族之輩、殊有祈請旨趣、何者(いかんとなれば)、叡山(えいさん)者桓武天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、伝経大師入唐帰朝之後、弘円頓教法於斯処、伝舎那大戒於其中以来、専為仏法(ぶつぽふ)繁昌之霊崛、久備鎮護国家之道場、方今伊豆国(いづのくにの)流人、前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)、不悔身過、還嘲朝憲、加之与姦謀叛、致同心之源氏等(げんじら)、義仲(よしなか)行家以下、結党有数、隣境遠境抄掠数国、年貢土貢、押領万物、因茲且追累代勲功之跡且任当時弓馬之芸、速追討賊徒、可降伏凶党之由、苟銜勅命、頻企征伐、爰魚鱗鶴翼之陣、官軍不得利、星旗電戟之威、逆類似乗勝、若非仏神之加被、争鎮叛逆之凶乱、是以一向帰天台之仏法(ぶつぽふ)、不退仰日吉之神恩、而已、何況忝憶臣等(しんら)之嚢祖、可謂本願余裔、弥可崇重、弥可恭敬、自今已後、山門有慶為一門之慶、社家有鬱為一家之鬱、付善付悪、成喜成憂、各伝子孫、永不失墜。藤氏者以春日社興福寺(こうぶくじ)、為氏社氏寺、久帰依法相大乗之宗、平家者以日吉社延暦寺(えんりやくじ)、如氏社氏寺、新値遇円実頓悟之教、彼者昔遺跡也、為家思栄幸、是者今祈誓也、為君請追罰、仰願山王七社(しちしや)王子眷属、東西満山護法聖衆、十二大願医王善逝、日光月光十二神将(じふにじんじやう)、照無二之丹誠、垂唯一之玄応、然則邪謀逆心之賊、速平党於軍門、暴悪残害之徒、必伝首於京都、我等(われら)之苦請仏神其捨諸、仍当家公卿等、異口同音作礼而請所如件、敬白。

     寿永二年七月 日

        従三位行右近衛権中将平朝臣            資盛

        従三位平朝臣                   通盛

        従三位行右近衛権中将平朝臣            維盛

        正三位行左近衛権中将兼但馬権守平朝臣       重衡

        正三位行右衛門督(うゑもんのかみ)兼侍従平朝臣           清宗

        参議正三位皇太后宮(くわうたいごうぐう)権大夫兼修理(しゆりの)大夫(だいぶ)備前権守平朝臣 経盛

        従二位(じゆにゐ)行権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)平朝臣              知盛

        従二位(じゆにゐ)行中納言平朝臣               教盛

        正二位(しやうにゐ)行権大納言(ごんだいなごん)兼陸奥出羽按察使平朝臣      頼盛(よりもり)

        前内大臣(ないだいじん)従一位(じゆいちゐ)平朝臣               宗盛

又近江国佐々木庄、領家預所得分等、且為朝家安穏、且為資故(こ)入道菩提、併所廻向千僧供料候也、件庄早為沙汰、可令知行給候、恐々謹言。

     七月十九日                       平宗盛謹上 座主僧正(そうじやう)御房

とぞ書れたりける。是を聞ける人々は、宿老(しゆくらう)も若輩も皆涙をぞ流しける。去共年頃日頃(ひごろ)の振舞、神慮にも不叶、人望にも背けるにや、本より角こそとて、事の体をば憐けれ共、靡く衆徒はなかりけり。七月十二日の夜半計に、六波羅の辺大に騒ぐ。何と聞分たる事はなし。京中も又静ならず、資財雑具東西に運隠し、貴賎上下魂を消し、こは何としつる事ぞとて周章(あわて)けり。帝都は名利の地、鶏鳴て安き思ひなしといへば、治れる代すら猶如此、況乱たる時なれば理也。一天四海の騒、東は坂東八箇国、西は鎮西九箇国、北陸南海畿内辺土まで静ならず、三界無安猶如火宅、衆苦充満甚可怖畏、釈尊の金言也、なじかは一毫も違ふべき、深き山の奥の奥、人なき谷の底までも忍入、浮世の庵を結ども、今度生死を離れつゝ、無為の都に還らばやと、心ある人は歎けり。明ても聞ば、美濃源氏に佐渡左衛門尉(さゑもんのじよう)重実と云者あり。鎮西八郎為朝が保元の軍破て後、近江国石山寺に隠れ居たりけるを搦出して、公家に進たりければ、右衛門尉に成したりけるを、源氏の名折不審也とて、一門に擯出せられて源氏に背かれぬ。平家に諂て当国八島と云所に有けるが、只乗替一騎(いつき)相具して勢多を廻、夜半計に六波羅へ馳来て、北国の源氏近江国まで責上て、道を切塞ぎ人を通さず、在々所々に火を懸て焼払(やきはら)ふ。御用心有べきと申たりけるに依也。

貞能(さだよし)自西国(さいこく)上洛事

十八日(じふはちにち)に、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)鎮西より上洛、西国(さいこく)の輩謀叛の聞え在に依て、彼をしづめん為に、去々年下向之処に、菊地城郭(じやうくわく)を構て楯籠る。貞能(さだよし)九国の軍兵を催て是を責れ共、輙く落難き城にて、官兵度々追落さる、重々評定あり。兵糧米を尽さん為に城を守れとて、四方を打囲て夜昼是を守る。日数積て兵糧尽ければ、菊地終に降人に向ふ。菊地降人なれば原田も降人になる。菊地原田参ると云ければ、臼杵、戸槻も皆随にけり。此間貞能(さだよし)九国に兵糧米を宛催す。庁官一人、宰府使一人、貞能(さだよし)が使一人、両三人が従類八十余人(よにん)、権門勢家の庄園を云ず、神社仏寺料所をも不嫌譴責しければ、人民の歎不斜(なのめならず)、其積り十万余石に及べり。貞能(さだよし)は菊地、原田等を召具して、今日未時に入洛、八条を東へ、河原を北へ、六波羅の宿所に著、其(その)勢(せい)千騎(せんぎ)には過ず。前内大臣(ないだいじん)宗盛、車を七条が末に立て見給へり。其中に鎧武者二百(にひやく)余騎(よき)ありけるに、薩摩前司親頼、薄襖の生絹、魚綾の直垂に赤威の鎧著、白葦毛の馬に乗て、貞能(さだよし)が屋形の口をぞ打たりける。頭刑部卿(ぎやうぶきやう)憲方卿孫、相模守頼憲が子也。勧修寺の嫡々、させる武勇の家に非ず。文筆を以て君に奉仕べき人の、こは何事ぞやとて、見人是をあざみけり。多の武士よりも、薩摩前司をぞ人は見ける。

西国(さいこく)は角平げたれ共、東国北国は不随。源氏の大勢、既(すで)に都へ責上と聞えければ、平家今は禦に力尽たり、今は都に跡をも留め難しとぞ見えたりける。大臣は此有様(ありさま)を聞見給(たまひ)て、一門の人々催集て仰けるは、敵は既攻近付ぞ、御方の軍兵勢尽たり。叶ぬまでも院内を引具し進、西国(さいこく)へ落て一間戸もたすかりなばやと思也と宣へば、新中納言知盛被申けるは、西国(さいこく)へ落下らば助るべき歟、臣等(しんら)が嚢祖桓武天皇(てんわう)、此帝都を立給(たまひ)てより以来廿余代、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)より武勇に携て八代、未一度も名を折ず、先祖の君の執し思召(おぼしめし)し都也、名将勇士の末葉なり、縦都にては塵灰と成とも如何はせん、思召(おぼしめし)可寄ことに非、是は何と有べきと宣へば、平(へい)大納言(だいなごん)教盛、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛同心にて、子細にや及侍る、運の尽ぬる上は我朝にも限らず、異国のためし是多し、始ある者は終りあり。盛にしては又衰、今更申に及ばざれ共、後の代までも名は惜事也、終に辺土にて亡んより、矢種のあらん程は射尽しなんず、叶はざらん時は家々(いへいへ)に火を懸て自害するより外の事あらじと宣へば、一門の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、郎等侍に至までも、旁の御義可然候とぞ同じける。去共大臣殿は、心得(こころえ)ず気にぞ宣(のたまひ)ける。

維盛兼言事

〔去(さる)程(ほど)に〕権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛は北国の軍に被討洩て、適帰上給たりけれ共、有が有共おぼさねば夢に夢見る心地して、北方に宣(のたまひ)けるは、維盛は一門の人々に相具して都を出なんとする也、いかならん野末山の奥までも具し奉べきにこそあれ共、少き者は余多(あまた)あり、何国に落留べし共なき旅の空に出て、西海の波の上に漂はん事も労しく心憂し、向後も源氏道を塞ぎ、待儲て討捕んとするなれば、穏しからん事有難し、終には敵の為に亡され、骸を淵瀬にこそ沈めんずらめ、されば世になき者と聞なし給ふとも、穴賢御様(おんさま)などやつし給ふなよ、如何ならん人にも見え給(たまひ)て、少き者共をも孚、御身をも助け給へ、見奉らん者の、誰か情を懸奉らざらん、思ひ儲ぬ事、指当ては御心元なからんずれば兼て申也とて泣給へば、哀自程に世に物思ふ者侍らず、父大納言(だいなごん)に奉後しより以来、明晩は心苦き事をのみ見聞孤子と成、誰憐誰育、無慙と云父もなく母もなし、今は御方より外奉憑方なし、日比(ひごろ)小夜の寝覚眤事も、皆偽に成はてぬ、いつより替給へる御心ぞや、心憂や先世の契にや侍けん、人一人こそ哀不便と思召(おぼしめす)とも、又見ん人はいかゞはあらんずらん、始て人に見えん共思はぬ者をや、被打捨奉て、堪て有べし共覚えずとて、涙も関敢給はねば、三位中将も共に泣給(たまひ)て、人は十四、我は十六と申しゝより見始奉て、互に志浅からず、今年は十年に成とこそ覚候へ、誠に先の世の契にや、此世一の事ならずと思へば、火の中水の底にも同入、限ある別の道也とも、後れ先立じとこそは思しか共、責ての痛しさに角は申也、加様に打口説給事、理なきにはあらね共、後には賢ぞと思合せ給べし、痛くな歎給そ、立離奉らん歎に打副て心苦からんずればとて、袖を顔に当泣給へば、若君姫君の左右に坐しけるも、女房達(にようばうたち)の御前に並居たりけるも、皆袂(たもと)を絞けり。若君は十、六代御前、姫君は八、夜叉御前とぞ申ける。共にわりなく美御貌にぞ御座(おはしまし)ける。

平家兵被向宇治勢多事

七月十二日には、源氏近江国に責入て人をも通さずと聞えければ、同二十一日、新三位中将資盛大将軍として、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)等(ら)を相具して二千(にせん)余騎(よき)、宇治路(うぢぢ)より田原路を廻て、近江国へ指下さる。今日は宇治に留る。同(おなじき)二十二日に、新中納言知盛、本三位中将重衡大将軍として三千(さんぜん)余騎(よき)、勢多より近江国へ発向す。今夜は山階に宿す。京中に聞えけるは、十郎蔵人行家は、伊勢国(いせのくに)を廻て大和国(やまとのくに)へ入、足利判官代(はんぐわんだい)は、丹波路より京へ入、多田(ただの)蔵人行綱は、摂津国(つのくに)を押領して、河尻を打塞と聞ければ、こは如何せん、国々道々塞で、漏れて出べき方なしと歎けり。

木曾山門牒状事

木曾は北陸道を攻靡し、越前の国府に有けるが、軍の評議あり。誠や平家深く山門の大衆を憑む、衆徒又平家に同心之由聞ゆ、縦湖上に船を浮べ、浜路に駒をはやむ共、大衆坂本に下集て防には、輙く攻上り難し、又勢多の長橋引て支へんもゆゝしき大事、此事如何が有べきと云けるに、大夫房進出て申けるは、覚明当初京都に在し時、山法師の心根は能聞及き、平家たとひ所領をよせ財宝を抛ち、山門を語ふ共、三千衆徒一同に平家を引思事よも候はじ、源氏に志思ふ大衆もなどかなかるべき、先牒状を遣て試侍べし、事の体は聞えなんと申。可然とて、覚明則書札を書。其状に云、

源(みなもとの)義仲(よしなか)謹言

   奉親王宣欲令停止平家逆乱事

右平治已来(このかた)、平家跨張之間、貴賎撃手緇素、戴足、忝進止帝位、恣虜掠諸国、或追捕権門勢家、悉令及恥辱、或搦捕月卿(げつけい)雲客(うんかく)、無令知行方、就中(なかんづく)治承三年十一月、移法皇之仙居於鳥羽南宮、遷博陸之配所於夷夏西鎮、如之不侵蒙咎、無罪失命、積功奪国、抽忠解官之輩、不可勝計者歟、然而衆人不言、道路以目之処、去治承四年五月中旬、打囲親王家、欲断刹利種之日、百皇治天之御運未尽其時本朝守護之神冥、尚在本宮故、奉保仙駕於園城寺(をんじやうじ)、其時義仲(よしなか)兄源仲家依難忘芳恩、同以奉扈従(こしよう)、翌日青鳥飛来、令旨密通、有可参加之催、忝>奉厳命、欲企予参之処、平家聞此事、前(さきの)右大将(うだいしやう)喚籠義仲(よしなか)之乳人(めのと)中原兼遠之身、其上怨敵満国中(こくぢゆう)、郎従無相順、心身迷山野、東西不覚之間、未致参洛之時、有御僉議(ごせんぎ)云、園城寺(をんじやうじ)為体、地形平均不能禦敵、仍欲奉進仙蹕於南都故城、令遂合戦於宇治橋辺之刻、頼政卿(よりまさのきやう)父子三人、仲綱(なかつな)、兼綱以下、卒爾打立、事与心相違之間、東国之郎従、一人而雖無相順者、依惜家名、捨命禦戦之庭被討者多、相遁者少、骸埋竜門原上之土、名施鳳凰城都之宮畢、哀哉令旨数度之約、一時難参会、悲哉同門親眤之契、一旦絶面謁、然者(しかれば)於平家者、公私欲散会稽之恥者也、幸被下令旨、於東山東海之武士、令決雌雄於越後越前国之凶党、平家之軍兵等、刎首終命之者不知幾千万、前(さきの)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)同義仲(よしなか)等、自奉親王宣以後、尾張参河遠江伊豆駿河安房上総下総上野下野武蔵相模常陸出羽陸奥甲斐信濃越後越中能登加賀越前等惣二十三箇国、既打従畢、於東山道先陣者、令打立尾張国墨俣河辺、北陸道先陣者、已著于越前国府、責討平家悪党計也、抑貴山被同心親王善政否、令与力平家悪逆(あくぎやく)否、若令与力彼党者、定相禦親王御使歟、我等(われら)不慮対天台之衆徒、不期企非分之合戦事、至無益哉、忍辱之衣上鎮著甲冑、慈悲之心中猥巧闘戦者、僧侶之行儀不可然、速翻平家値遇之僉議(せんぎ)、被修当家安穏之祈祷、是則仰叡山(えいさん)之仏法(ぶつぽふ)、優浄行之■蒭(ひつすう)之思切故也、若猶無承引者、自滅慈覚之門徒(もんと)、定有衆徒之後悔者歟、如此触申事、全非畏衆徒之武勇、偏只尊常住之三宝故也、伝聞仏法(ぶつぽふ)護皇法皇法崇仏法(ぶつぽふ)、依之(これによつて)興福園城(をんじやう)両寺(りやうじ)之大衆、奉親王御方之故、為平家悪行、始自園城寺(をんじやうじ)坊舎、南都七大諸寺堂社僧坊等、併被焼払(やきはら)云々、其中東大寺(とうだいじ)者聖武天皇(てんわうの)御願(ごぐわん)也、我朝第一之奇特也、金銅盧遮那仏像(るしやなぶつぞう)、鳥瑟忽帰華王之本土、堂閣空沂蒼海之波涛、八万四千(はちまんしせん)之相好、秋月隠四重之雲、四十一地之珱珞、夜星漂十悪之風矣、毎聞此事不覚之涙洗面、随分之歎焦胸、専雖在俗武士之心、盍思仏法(ぶつぽふ)摩滅之悲哉。縦不仏法(ぶつぽふ)破滅者、唯貴山計也、但台嶺四明之洞孤静、園城(をんじやう)三井之流半竭、根本中堂(こんぼんちゆうだう)之燈独耀七大諸寺之光忽消、三千之僧侶豈不懐此愁哉、一山之衆徒寧不歎此事乎、存此道理被随令旨者、弥恭敬十二願王、共帰依三千浄行、夫八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)者、三代聖朝権化、賀茂平野明神者、二世皇帝之応跡哉、守其子孫、神慮有何疑、何況叡山(えいさんの)衆徒、殊護持国家者先蹤也、彼恵亮摧脳、尊意振剣、捨身命奉祈聖朝安穏之旨、勝利在人口者哉、或詔書云、朕是右丞相之末葉也、何背慈覚大師之門跡、是則慈慧大僧正(だいそうじやう)修験所致也、早遂彼先規、上祈請百皇無為之由、被廻万民豊饒之計者、七社(しちしや)権現之威光益盛、三塔衆徒之願力弥新歟、爰義仲(よしなか)以不肖之身誤打廻廿余箇国(よかこく)、�渭之間、云神社仏寺之御領、云権門勢家之庄園、不遂乃貢之運上、誠是自然之恐戦也、申而有余、謝而難遁、側聞自諸国七道所済年貢、併号兵粮米、自平家点取之云云、縦雖有弁済之深志、全不為領主之依怙、仍密歎路頭之難、断平家之兵粮米、努々莫処将門(まさかど)純友之類、神不禀非者、忝令知見心中之精勤耳、宜以此等趣、内令達三千之衆徒、外被聞九重之貴賎者、生前之所望也、一期之懇志也、義仲(よしなか)恐惶謹言。   

  寿永二年七月十日            源(みなもとの)義仲(よしなか)

  進上  恵光坊律師御房

とぞ書たりける。木曾は此状山門へ上て後、如何様(いかさま)にも都近責上べしとて、越前の国府を立今城に著。敦賀山を右になし、能美山を越、柳瀬に打立て高月河原を打渡し、大橋の村、八幡の里、湖上遥(はるか)に見渡して、平方、朝妻、筑摩の浦々を過ぬれば、千本の松原を打通、東大道に出にけり。先陣は近江国三上山の麓、野州の河原に陣を取。軍兵在々所々家々(いへいへ)宿々に充満たり。木曾は返状到来の程、馬の草飼よしとて、蒲生に陣を取て日数を経、兵粮米なかりければ、使者を百済寺へ遣て乞之。住侶衆議して五百石の兵米を送る。木曾其志を感じて、当寺の御油料とて押立五郷を寄進せり。

覚明語山門事

爰(ここ)に白井法橋幸明と云僧あり。三塔第一の悪者、衾の宣旨を蒙て、山門には安堵し難くて、当山千僧供の料所、愛智郡胡桃庄に忍居たりけるが、大夫房覚明、木曾に付て都へ上と聞て、木曾の陣に行向て相尋ければ、覚明白井法橋を請入て見参す。木曾是を見て何者(なにもの)ぞと問。是は山門に白井法橋幸明とて、三塔には名ある大悪僧にて侍り、覚明上洛と聞て、見参の為に見え来る由を申。木曾幸明を召て見参して宣(のたま)ひけるは、山門の衆徒、平家の語ひを得て源氏を背く由、其聞えあるに依て、子細を注して案内を通し畢ぬ、未是非の左右なし、衆徒の事深く御房を憑申、速に登山して当家同心の秘計を廻し給へ、大衆の同心子細なくば、此河原に遠火を焼べし、山上又遠火を合せよ、其を以験として、天台山に攀上て同心に平家を攻べしと語ふ。幸明思けるは、我身当時衾の宣旨を蒙れり、当今平家の御外戚也、源氏に忠を尽て平家を追落なば、自身の難も遁なんと思ひて、仰承候ぬ、心中粗略を存じ候はず、秘計仕べきとて、急ぎ忍登て、同時の大悪僧に、慈雲坊法橋寛覚、三上阿闍梨(あじやり)珍慶と云者を相語て大衆を起し、大講堂(だいかうだう)の庭に三塔会合して僉議(せんぎ)あり。木曾が書状此砌(みぎり)に披露あり。衆徒は書状披覧の後、木曾(きそ)義仲(よしなか)申状、何体たるべきぞやと云処に、大衆僉議(せんぎ)して云、当山は是桓武天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)、平家先祖の草創として、帝王三十三代、星霜四百(しひやく)余歳(よさい)也、住持仏法(ぶつぽふ)の勤行廃退なく、百王擁護の祈誓いまに新也、就中(なかんづく)平家、誓願を医王山王の照覧に立て、所願(しよぐわん)於三塔三千の依怙によす、一門合掌して深く冥慮の護念を憑み、諸卿連署して強に与力を衆徒に乞、然者(しかれば)争平家懇念之志を失て、義仲(よしなか)卒爾の語に随べきやと云大衆も有けり。此儀不可然と云衆徒もあり。又大衆僉議(せんぎ)して云、我山は此鎮護国家の道場として、百王臣公を長生に祈、四海卒土を泰平と唱、而を平家故太政大臣(だいじやうだいじん)入道浄海、当代御外戚の威に募て、非巡の栄花に誇り不当の高位を黷す、加之悪逆(あくぎやく)甚して、或雲客(うんかく)卿相(けいしやう)の重臣を配流し、或天子陛下の儲君を誅戮し、或禅定法皇を、鳥羽の故宮に押籠奉て宸襟を動し、或堂塔経巻を、南都園城(をんじやう)に焼払(やきはらひ)て法命を断絶す、依之(これによつて)四夷乱起て、一天安事なし、入道既(すで)に悶絶して薨去畢ぬ。積悪家門に伝り災害子孫に及べり。諸寺諸山平家を背、東国北国源氏に随ふ。是を以て討手を諸国に分遣せ共、軍兵勝負の勇をえず。是偏(ひとへ)に仏神擁護を加へず、運命既末に及故也。源家は近年度々の合戦に討勝て、管領の国の外、七道諸国皆以て帰伏す。然者(しかれば)我山独り、宿運の傾く平家に同心して、運命の開くる源氏を背べきや。就中(なかんづく)書札の如くは道理此旨を顕す、今に於ては須く平家安穏の祈を改て、源氏贔屓の思に住せらるべき歟哉と僉議(せんぎ)したりければ、満山の大衆も、尤々(もつとももつとも)と同じければ、さらば返状有べしとて下遣す。又遠火を合せよとて、惣持院の大庭に遠火を焼。愛智河原にも遠火を焼たりけり。

山門僉議(せんぎ)牒状事

木曾山門の遠火を悦処に衆徒の返状あり。覚明木曾殿(きそどの)の前に■跪(ひざまづき)て是を読。其状に云、

七月十日御書状、同(おなじき)十六日(じふろくにち)到来披閲之処、数日鬱念一時解散、夫源家者自古携武弓、奉朝廷振威勢禦王敵、抑平氏背朝章、起兵乱、軽皇威、好謀叛、不被征伐平家者、争保仏法(ぶつぽふ)哉、愛源家被制伏彼類之間、追捕取本寺千僧供物、依侵損末社之神輿、衆徒等(しゆとら)深懐訴訟、欲達案内之処、青鳥飛来、幸投書札、於今者、永翻平家安穏之祈精、速可随源家合力之僉議(せんぎ)也、是則歎朝威之陵遅、悲仏法(ぶつぽふ)之破滅故也、夫漢家貞元之暦円宗興隆、本朝延暦(えんりやく)之天、一乗弘宣之後、桓武天皇(てんわう)興平安城、親崇敬一代五時之仏法(ぶつぽふ)、伝教(でんげう)大師(だいし)開天台山、遠奉祈百皇無為御願(ごぐわん)以来、守金輪守玉体、偏在三千之丹心、翻天変払地夭、唯是一山之効験也、因茲代々賢王(けんわう)、皆仰羅洞之精誠、世々重臣、悉恃台岳之信心、所請一条院御宇(ぎよう)、偏恃慈覚大師門徒(もんと)之綸言明白也、九条右丞相、並御堂入道大相国(たいしやうこく)、発願文曰、雖居黄閣之重臣、願為白衣(はくえ)之弟子、子々孫々(ししそんぞん)、久固帝王皇后之基、代々世々、永伝大師遣弟之道、同施賢王(けんわう)無為之徳、加之永治二年、鳥羽法皇参叡山(えいさん)御願文(ごぐわんもん)曰、昔践九五之尊位、今列三千之禅徒、倩思之感涙難押、静案之、随喜尤深、星霜四百廻、皇徳三十代、天朝久保十善之位、徳化普施四海之民、守国守家之道場也、為公為臣之聖跡也、運上本寺千僧供物、改作末社神輿、末寺庄園、併如旧被安堵者、三千合掌而祈玉体於東海之光、一山揚声而傾平家於南山之色、凶徒傾首来詣、怨敵束手乞降、十乗床之上、鎮扇五日之風、三密壇之前、遥濯十旬之雨、者依衆徒僉議(せんぎ)、執達如件。   

  寿永二年七月日             大衆等(だいしゆら)と書たりけり。

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Last Modified: Thursday, January 09, 2014
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