源平盛衰記

Genpei jōsuiki

不明 Anonymous

『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十四
榎巻 第三十四

木曾可追討由付木曾怠状挙山門事

〔去(さる)程(ほど)に〕法皇は、世上の狼藉人民の侘■(たせい)歎思召(おぼしめし)て、壱岐判官知康を以て、木曾が許へ被仰下けるは、武士洛中に充満て資財を追捕の間、人民歎々て不安堵由其聞あり、速に狼藉を可鎮なりと。知康木曾が許に行向て、院宣の趣申含けり。木曾御返事(おんへんじ)をば申さず、さしもの院宣の御使に、小袴に懸直垂、烏帽子(えぼし)に手綱うたせて、鬢もかゝずして申けることは、や殿、和主を鼓判官と京中の童部(わらんべ)までも申は、人に被打給たるか、又はられ給けるかと問ければ、判官苦笑てぞ帰ける。此知康は究竟のしてていの上手にて、鼓判官と異名に呼けるを、木曾聞きて角申けるとかや。遠国の夷といへ共情をしり礼儀をば弁るぞかし。木曾は竪固の田舎人の山賎にて、院宣をも事ともせず、散々(さんざん)に振舞れけば、平家には事の外に替劣して思召(おぼしめし)ける。後には山々寺々に乱入て、堂舎を壊仏像を破焼ければ、兎角云に及ばず、神社にも憚らず権門にも恐れず、狼藉いとゞ不留ければ、義仲(よしなか)を追討して都の狼藉を可被鎮由、知康申行けり。然べき御気色(おんきしよく)なりければ、人にも不被仰合して、ひしひしと事定りぬ。法皇は天台座主(てんだいざす)明雲(めいうん)僧正(そうじやう)、寺の長吏八条宮を、法住寺(ほふぢゆうじ)の御所に招請じ御坐(おはしまし)て、延暦(えんりやく)園城の悪僧等を可召進由仰けり。公卿殿上人(てんじやうびと)も御催あり。又諸寺諸山の執行別当に仰て、兵を被召ければ、日比(ひごろ)木曾に深く契たりける源氏共にも、思々に参籠る。山門の大衆法皇の勅定とて、座主僧正(そうじやう)より被催促ければ、山上坂本の騒動不斜(なのめならず)。

木曾は北国所々の合戦に打勝て都へ上らんとせし時、越前国府より牒状をあげ衆徒を語てこそ、天台山に上り平家を責落たりしかば、いつまで憑まんと思ひけるに、惣じては洛中貴賎の歎、別而は山門庄園の煩なる間に、大衆院宣に随奉て木曾を可討と聞えければ、義仲(よしなか)怠状を以て山門に上り、其状に云、

山上貴所義仲(よしなか)謹解、

叡山(えいさんの)大衆、忝振上神輿於山上、猥構城郭(じやうくわく)於東西、更不開修学之窓、偏専兵杖之営、尋其根源者、義仲(よしなか)住梟悪心、可追捕山上坂本之由、有風聞云云、此条極僻事也、且満山三宝護法聖衆、可令垂知見給、自企参洛之日、宜仰医王山王之加護、顕憑三塔三千之与力、今何始可致忽緒哉、雖有帰依之志、全無違背之思者也、但於京中、搦捕山僧之由有其聞云云、此条深恐怖、号山僧好狼藉之輩在之、仍為糾真偽、粗尋承間、自然狼藉出来歟、更不満避儀、惣如山上風聞者、義仲(よしなか)卒軍兵、可令登山云云、如洛中浮説者、衆徒企蜂起、可被下洛、是偏天魔之所為歟、不可及自他信用、且以此旨、可令披露山上給之状如件。     十一月十三日                   伊予守源(みなもとの)義仲(よしなか)上

進上 天台座主(てんだいざす)御房とぞ書たりける。

山門の衆徒これにも不鎮、いよ/\蜂起の由聞えけり。

法住寺(ほふぢゆうじ)城郭(じやうくわく)合戦事

若殿上人(てんじやうびと)諸大夫北面の者共などは、興ある事に思て、はや軍の出来ぞかしと申あへり。少しも物に心得(こころえ)たる人々は、こは浅増(あさましき)事哉とて歎給へり。院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)を城郭(じやうくわく)に構て、官兵参集る。山門園城(をんじやう)の大衆、上下北面の輩の外は、物の用に立べき兵ありとも覚ず。堀川(ほりかは)商人に、向飛礫の印地、冠者原、乞食法師、加様の者共を被召たれば、合戦の様も争か可習、風吹ば転倒れぬべき者共也。危ぞ見えける。御方の笠注には、青松葉を甲の鉢にさし、冑の袖に付などして、ゆゝしく軽骨也。壱岐判官知康は御方の大将軍にて、赤地の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、脇楯ばかりに、廿四指たる征矢負、門外に床子に尻懸て軍の事行し、万の仏像並に大師の御影を集て、御所の四方の築地の腹に繙懸たり。征矢一筋抜出して、さらり/\と爪遣て、哀只今(ただいま)此矢にて、白痴が頸の骨を射貫ばやとぞ勇ける。凡事に於て嗚呼がましき事云ばかりなし。天子の賢御眼を以て、加様の者被召仕、天下の大事に及事よと申人も多し。

 < 昔周武王、殷紂を誅せんとせしに、冬の天なりければ、雲■ (かくし)雪降事丈に余れり。武王危く見えけるに、五の車二の馬に乗る人、門外に来て皇を助て云、誅紂努怠事なかれと云て去ぬ。武王怪て人をして是を見るに、深雪の中に車馬の跡是なし。図知海神天の使として来れるなるべしと云て、終に紂を誅する事を得たり。漢高祖は、韓信が軍に囲れて危ありけるに、天俄(にはか)に霧を降して闇を成す。高祖希有にして逃事を得たり。皆是人の為に恵を成し、天の加護を蒙るゆゑ也。木曾人倫の為に煩を致し、仏神に於て憚を恐ざりければ、其咎難遁して、法皇の御憤(おんいきどほり)もいよ/\深く、知康が讒奏も日に随て軽からず。 >

木曾は蒙勅勘由聞て申けるは、平家非巡の官に昇、君をもなみし奉り臣をも流し失ふ、天下騒動して人民安事なし。而を義仲(よしなか)上洛して後、逆臣を攻落て君の御世になし奉る、是希代の奉公にあらずや。それに何の過怠ありてか可被誅、但東西道塞て京都へ物上らねば、餓疲て死ぬべし、命を生て君を守護し奉らん為に、兵粮米の料に、徳人共が持余たる米共を少々とらんに、何の苦〔事〕か有べき、武士と云は、殊に馬を労て敵をも責城をも落す、馬弱しては高名なし。されば其飲み物の料に、青田青麦を刈らんに僻事ならず。院宮々原の御所へも参らず、公卿殿上人(てんじやうびと)の家にも入ず、兵粮米とては支度し給はず、五万余騎(よき)の勢にてはあり、兵共(つはものども)が我命を全して君の御大事(おんだいじ)にあひ進せんとて、片辺に付、少々入取せんも悪からず、上下異といへ共、物くはでははたらかれず、馬牛強といへ共、はみ物なければ道ゆかず、されば御制止も折に依べし、院強に不可咎給、たゞし推するに、是は鼓めが讒奏と覚ゆ、其鼓に於ては、押寄て打破て捨べき物をとて■(はかみ)をして、急げ殿原々々と下知しつゝ、鎧小具足取出してひしめきければ、今井樋口諌申けるは、十善の君に向奉りて弓を引矢を放給はん事、神明豈ゆるし給はんや、只幾度も誤なき由を申させ給(たまひ)て、頸を延て参給へ、縦知康に御宿意あらば、>本意を遂給はん事いと易き事也、私の意趣を以て院(ゐんの)御所(ごしよ)を責られん事、よく/\御計ひ有べしと教訓しけれ共、木曾は張魂の男にて、云たちぬる事をひるがへらぬ者也。我年来多の軍をして、信濃国(しなののくに)おへあひの軍より始て、横田河原、礪波山、安宅、篠原、西国(さいこく)には、備前国福輪寺畷に至まで、一度も敵に後を見せず、十善帝王にて御座ども、甲をぬぎ弓をはづして、おめ/\と降人には参まじ、左右なく参て鼓めに頸打きられなば、悔とも益有まじ、義仲(よしなか)に於ては是ぞ最後の軍なる、よし/\殿原、直人を敵にせんよりは、国王を敵に取進せたらんこそ弓矢取身の面目よとて更不用けり。知康は軍の行事承て、甲をば著ず鎧計を著て、四天王の貌を絵に書て冑におし、左の手には突鉾、右の手に金剛鈴を振て、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の四面の築垣の上を、東西南北渡行て、時々はうれしや水とはやし舞などしければ、見人、知康には別の風情なし、よく天狗の付たるにこそと申けり。木曾が軍の吉例には、陣を七手に分ちつゝ、末は一手二手にも行合けり。一手は今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)三百(さんびやく)余騎(よき)にて、御所の東瓦坂の方へ搦手にまはる。一手は信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)を大将軍にて、八条が末の西表の門へ向ふ。一手は西河原に陣取、一手は木曾(きそ)義仲(よしなか)、四百(しひやく)余騎(よき)にて七条が末北門の内、大和大路、西門へぞ追手にとて向ける。折節(をりふし)勢もなかりければ、都合千余騎(よき)には過ざりけり。

十一月十九日辰時に矢合と聞ければ、大将軍知康騒■ (ののしり)ける程に、西北両門より押寄てどと時を造る。今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)、東の門より攻寄て、同時を合たり。々々(いつき)にも形のごとくの時を合す。軍兵門前近く責寄て見れば、諸の仏像を築地の腹に掛並たり。乞食法師が勧進所かとぞ笑ける。知康築地の上にて、如何に己等は夷の身として、忝(かたじけなく)も十善の君に向ひ進せて弓ひかんとは仕るぞ、宣旨をだにも読かくれば、王事靡塩して、枯たる草木猶華さきみなる、末代と云とも皇法豈むなしからんや、されば汝等(なんぢら)が放たん矢は、還て己が身に立べし、是より放たん矢は、征矢とがり矢をぬいて射とも、己等が鎧をとほさん事、紙を貫よりもあだなるべし、穴無慙や阿弥陀仏(あみだぶつ)々々々々(あみだぶつ)と云ければ、木曾大に笑て、さないはせそ、あの奴射殺せ。其奴にがすなとて散々(さんざん)に射ければ、知康は築地の上より引入ぬ。木曾時刻な廻しそ、火責にせよと下知しければ、軈御所の北の在家に火を懸たり。冬の空の習にて、北風烈く吹ければ、猛火御所にぞ懸ける。参籠たりける公卿殿上人(てんじやうびと)、僧俗の官兵共、肝魂も身にそはず、足萎手振ければ、うですくみて弓も引れず、指はたらかで太刀もぬかれず、たま/\長刀をとる者は、逆に突て足を貫て倒死。爰に転び彼に臥て、被踏殺蹴殺さる。西には大手責懸る、北には猛火燃来る、東には搦手待請たり。哀なる哉黒白二の鼠、木の根を嚼がごとく也。遁て行べき方ぞなき。去とては南面の門を開て我先に/\と迷出、八条が末へ西面の門をば、山法師の固たりけれ共、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)に被破ければ、蜘の子を散すが如く落失ぬ。金剛鈴の知康も、人より先に落けるが、余に周章(あわて)て金剛鈴を捨思もなくして、手に持ながらからり/\と鳴けるを、兵共(つはものども)が、あの鈴持たる男こそ事起しよ、逃すな射よ切れと云ければ、敵の方へ後様に抛遣て、いづちへか落けん不見けり七条が末をば、摂津国(つのくに)源氏多田(ただの)蔵人、豊島冠者大田太郎等固たりけれ共、大将軍の知康落にければ、是も兎角免出て七条を西へ落行けり。兼て其辺の在地人に触ける事は、落武者の通らんを一人も漏さず討殺せ、是は院宣ぞと云たりければ、七条の大路の北南の家々(いへいへ)の上に楯突櫓掻て、落武者をば、木曾が方の者ぞと心得(こころえ)て散々(さんざん)に射、弓矢なき者は襲の石木を以て打ければ、如何に是は御方の兵ぞ、■(あやまち)すなと云けれ共、ひた打に打ければ多く打殺れけり。摂津国(つのくに)源氏等(げんじら)、郎等あまた射殺され打殺されて、我身は家の檐に立寄て物具(もののぐ)脱捨て、這々落てぞ罷ける。

明雲(めいうん)八条宮人々被討付信西相明雲(めいうん)事

天台座主(てんだいざす)明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)は、馬にめさんとし給(たま)ひけるを、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)、能引て放矢に、御腰の骨を射させて真逆に落給(たま)ひ、立もあがり給はざりけるを、親忠が郎等落重なつて御頸を取。寺の長吏八条宮も、根井小弥太が放矢に、左の御耳の根を、横首木に射させて倒給ふ。是をも落重なつて御首(おんくび)を取。哀と云も疎也。御室も此有様(ありさま)を御覧じて、如何すべきと仰有けるに、只御出候へと勧申ければ、御車に召て出させ給ふ。木曾是を見て、能引竪めて既(すで)に射奉らんとしけるを、今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)、何とて知進たりけるやらん、あれは御室の召れたる御車也、■(あやまり)し給ふなといへば、木曾弓を緩て、御室とは如何なる人ぞと問。兼平(かねひら)、僧の中の王にて、貴き人にてわたらせ給ふと答。木曾さては仏や、仏は何の料に軍の城(じやう)には籠給(たま)ひけるぞとは云ながら、穴貴々々と申て、楯(たての)六郎(ろくらう)を付て戦場を送出し奉。あぶなかりける御事也。 法皇は御所に火懸ければ、御輿に召て南面の門より御出有り。武士責懸て御輿に矢を進せければ、御力者(おんりきしや)共は流石(さすが)命の惜ければ這々逃失ぬ。公卿殿上人(てんじやうびと)も被立阻て散々(さんざん)に成けるを、此彼に打伏られて、赤裸に剥取られ、御伴に可参様もなし。豊後少将宗長と云人、木蘭地の直垂、小袴にくゝりあげて、只一人御伴に候けり。少し強力の人にて御輿に離進せず。武士なほ弓を引矢を放ければ、宗長高声に、是は法皇の御渡なり、誤仕なと■(ののし)りければ、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)が弟に、八島四郎行綱と云者、馬より飛下て御車に移載進らせて、五条内裏(ごでうだいり)へ渡し入進らせけり。軈守護し奉る。宗長計ぞ御伴には候ける。御幸の有様(ありさま)推量るべし。

主上の御沙汰(ごさた)し進らする人もなし。御所は猛火と燃上る。庭上は兵乱入たり、如何すべき様もなかりけるに、七条侍従信清、紀伊守範光、只二人付進せて、汀(みぎは)にぞ有ける御船に乗せ奉り、池の中へさし出す。懸りければ、御舟へ矢の参る事降雨の如し。信清声を高して、是は内の渡らせ給なり、如何に角狼藉をば仕るぞと宣(のたまひ)ければ、木曾は国王を内と申進する事をば不知ける間、内とは己等が妻を云ぞと心得(こころえ)て、内とは妻が事にや、女とても所をや置べき、只皆射殺せと下知しければ、いとど矢をぞ進せける。信清心得(こころえ)て船底に主上を懐進せて、高声に、御船には国王の渡らせ給ふぞやと叫びけるにこそ武士も鎮たりけれ。去共猶船の中にかゝへ進せて、夜に入て坊城殿へ渡入進せつゝ、其より閑院殿へ行幸なる。儀式作法は中々不及申ぞありける。河内守光助、弟に源蔵人仲兼は南門を禦けるを、錦織冠者義広が落とて、主上も法皇も、皆此御所を出させ給(たまひ)て他所へ御幸成ぬ。今は何をか守護し給ふべきと云。さては誠にも誰をか守進すべきとて、河内守は東の山に引籠、山階へ出て醍醐路に懸て落にけり。源蔵人は法住寺(ほふぢゆうじ)に出て、南を指て落行けり。爰(ここ)に仲兼が郎等に、河内国住人(ぢゆうにん)、草香党に加賀房と云法師武者有。黒糸威(くろいとをどし)の鎧に葦毛の馬に乗たりけり。主の馬に押並て申けるは、此馬余に沛艾にして乗たまるべしとも覚ず、御馬に召替させ給(たま)ひなんやと歎云ければ、さもせよとて蔵人の乗りたりける栗毛の馬の下尾白かりけるに乗替て、主従八騎にて落程に、敵三十(さんじふ)余騎(よき)にて瓦坂に十文字に行合て、あますまじとて散々(さんざん)に射。仲兼は加賀坊が乗替たる荒馬の口強に乗、鞭を打て、主従三騎は敵の中を蒐破て通にけり。可然事と云ながら、加賀坊は敵に禦留られて、同僚共に五騎(ごき)の者共討れにけり。我馬にだに乗たりせば、今度の命は生なまし。仲兼は馬を早めて打程に、木幡にて、時の摂政(せつしやう)近衛殿(このゑどの)の御車に追付進せたり。摂政殿(せつしやうどの)は、あれは仲兼歟、御伴に人のなきに、御身近く候へと仰あり。宇治殿へ送入れ進せて河内国へ下けり。仲兼が家子に信濃次郎頼直と云者は、大勢に被押阻て打具せざりければ、蔵人が跡目を尋て、南を指て行程に、栗毛の馬の下尾白きが、所々に血付などして道の側にいなゝき居たり。頼直是を見て、加賀坊に乗替たるをば争か知べきなれば、穴心憂、蔵人殿は早討れ給(たま)ひにけり、一所にて如何にもならばやとこそ思しにとて、舎人男を相尋て、いかに此馬は何れの勢の中より走出たるぞ、主の敵なれば、同は其(その)勢(せい)に蒐合て、命を捨んと云ふ。舎人も乗替たるをば不知、馬の出所をば見たりければ、しか/゛\の勢と教ふ。頼直唯一人、三十(さんじふ)余騎(よき)の勢に返合て、是は源蔵人仲兼の家の子に、信濃次郎頼直と云者也、主を討せて命を可惜にあらずと云て、散々(さんざん)に戦けるが、敵四騎討捕て、我身も敵に討れにけり。播磨中将雅賢は、指る武勇の家にあらず、天性不用の人にて、面白事に被思ければ、兵杖を帯して参籠給へり。滋目結の直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の腹巻をぞ被著たりける。殿上の四面の下侍を出て、西の妻戸を押破て被出けるを、楯(たての)六郎(ろくらう)、頸骨を志て能引竪て兵と放つ。折烏帽子(をりえぼし)の上を射貫、其矢妻戸に篦中射籠たり。其時いと騒ず■て、我は播磨中将と云者ぞ、■(あやまり)すなと宣へば、楯(たての)六郎(ろくらう)馬より飛下て、生捕にして宿所に誡置。越前守信行は、布衣にくくりおろして座しけるが、共に具したりける侍も雑色も落失て一人もなし。二方よりは武士責来御所、御所は猛火燃覆へり。大方すべき様もなかりければ、大垣の有けるを、こえん/\とせられけるを、主は誰にてか有けん、後より前へ射とほして、空様に倒て焼給(たま)ひけるこそ無慙なれ。主水正近業は、清大外記頼業真人が子也。薄青の狩衣にくゝり上、葦毛の馬に乗て、七条河原を西へ馳けるを、今井(いまゐの)四郎(しらう)馳並て、妻手の脇を射たりければ、馬より逆に落にけり。狩衣の下に腹巻をぞ著たりける。こは思懸ざる挙動哉、明経道の博士也、兵具を帯する事然べからず、飾兵者不祥之器といへり、老子経をば見ざりけるやらんと、人々傾き申けり。

刑部卿(ぎやうぶきやう)三位頼輔は、迷出て七条河原を逃給(たま)ひけるを、何者(なにもの)にてか有けん、歩立なる男の太刀を抜て、あますまじとて追懸ければ、逃ば中々悪かりなんと思て、戯呼誰人にて御座ぞ、誤し給ふな、是は刑部卿(ぎやうぶきやう)三位頼輔と申者にて侍ぞ、弓矢を取て武士に手向する者にあらず、只君の御伴に参るばかりと也と、閑々(しづしづ)と云たりければ、太刀をば鞘に納て表下剥取て、命ばかりは助り給ぬ。烏帽子(えぼし)さへ落失にければ、すべき方なくして、左手を以て前を拘へ、右手を以て本鳥をとらへ、裸にて野中の卒都婆の様にて立給へり。さしも浅増(あさまし)き最中に、人々皆腸を断。十一月十九日、如法朝の事なれば、さこそ河風さむかりけめ。此三位の兄公に、越前法橋章救と云人あり。彼法橋の中間法師、軍は如何成ぬらんとて立出て見廻ける程に、河原中に裸にて立たる者あり。何者(なにもの)ぞと思、立寄て見たれば三位にてぞ御座(おはしま)しける。穴浅増(あさまし)とは思ひながらもすべき様なければ、我著たりける薄黒染の衣の、脛高なるを脱て打懸たり。三位是を空に著て頬冠し給たりければ、衣短うして腰まはりを過ず。墨の衣の中より、顔ばかり指出して脛あらは也。中々直裸なりつるよりをかしかりければ、上下万人とよみ也。中間法師に相具して、兄公の法橋の宿所、六条油小路へ御座(おはしま)しけり。従者の法師も小袖一に白衣(はくえ)なり。主の三位も衣計にほうかぶりして空也。人目を立て指をさして笑ければ、中間法師もよしなき御伴哉、早急ぎ行給へかしと思けるに、三位はいそがれず、閑々(しづしづ)と歩て此小路はいとこと云ぞ、あの大道は何と云ぞ、此平門は誰か許ぞ、あの棟門は何者(なにもの)が家ぞなど問給ければ、中間法師、余りに寒く侍り、人目も見苦きに、急ぎ御宿所へ入せ給へと申せば、三位は寒しとはなにぞ、何事か見苦き、加様の乱たる世に作法あるまじ、よき次に京中修行せんと宣て、少し巧に造りたる家門、若は前栽造などしたる所へは立入給(たまひ)て、枯たる薄衰たる菊を詠たり。家の造様讃毀り給へば、余に不有有様(ありさま)也。乱たる折節(をりふし)なれば、家ごとに、何者(なにもの)ぞ無骨、罷出よと嗔ければ、三位はいや/\事かけじ、是は刑部卿(ぎやうぶきやう)三位頼輔と云者の、世には隠なし、知らねば咎も道理なれ共、よし/\苦からじとぞ宣(のたまひ)けるにこそ中間法師はいとゞ悲く思けれ。実に此人一人に不限、をかしく浅猿(あさまし)き事多かりけり。寒き比なり、衣一も著たる者をば剥取、裸になしたれば、男も女も見苦く、心憂事のみ有。名をも惜み、恥をも知たる者は皆討れぬ。さなきは加様にのみ有て遁出けり。

京検非違使(けんびゐし)に源判官光長、今は伯耆守に成たりけり。其子の判官光恒、父子散々(さんざん)に戦て討れにけり。近江前司為清も討れぬ。其外甲斐なき命いきたる人々は、公卿も殿上人(てんじやうびと)も、都の外に逃隠れて、世のしづまるをぞ相待ける。

法住寺殿(ほふぢゆうじどの)はさしも執し思召(おぼしめし)、被造琢たりけれ共、一時が程に焼亡す。人々の家々(いへいへ)も、門を並軒を碾たりけれ共、一宇も残らず焼にけり。

廿日卯時に木曾六条河原に出て、昨日十九日に所切頸共、竹結渡して懸並べつゝ、千余騎(よき)の兵馬の鼻を東へ立、悦の時とて三箇度(さんがど)作り叫けり。洛中白河響き渡りければ、又如何なる事の出来ぬるぞやとて京中の貴賎騒あへり。懸並べたる頸三百四十、是を見て泣叫者多かりけり。定て父母妻子などにてこそありけめ。

越前守信行朝臣、近江前司為清、主水正近業などの首も其中にあり。寺の長吏八条宮の三綱に、大進法橋行清と云者、宮も討れさせ給ぬと聞て、濃墨染の衣につぼみ笠著て六条河原へ行、頸共見廻けるに、天台座主(てんだいざす)明雲(めいうん)僧正(そうじやう)の御首(おんくび)、八条宮の御頸、一所にぞ掛たりける。行清法橋目くれ心迷して衣の袖を顔にあて、忍の涙に咽びけり。さこそ悲かりけめと被推量て哀也。御頸にとりも付ばやと思ふ程也けれども、流石(さすが)人目も怖しく、泣々(なくなく)宿所に帰ぬ。夜深人定て後、又六条河原に行て、二の御首(おんくび)を盗取て東山に行、年比知たる墓の僧に誂て焼せつゝ、高野山に登り奥院に納承り、五輪(ごりん)卒都婆を彫立て、我身も高野山に登り、奥院に閉籠、二人の御得脱をぞ祈ける。亡魂如何に嬉しとおぼしけん。此二僧と申し奉るは、一寺一山の和尚(くわしやう)として、真言天台の奥■を極め、仏法(ぶつぽふ)王法の導師として、天長地久の御願(ごぐわん)を祈御座(おはしまし)き。悲哉邪見の毒箭忍辱の衣を破事を、哀哉放逸の利剣慈悲の粧を侵事を。遠く天竺を考るに、竜樹菩薩は弘経大士也。引正太子に被失、伽留陀夷は証果の尊者也。舎衛商人に被殺、神通第一目連、竹杖外道に被亡、満足十号の釈尊、提婆達多に打れ給けり。近く我朝を聞ば、修敏僧都(そうづ)は秘密上乗の行者なりしか共、弘法大師に調伏せられ、守屋大臣は朝家三公の重臣たりしか共、太子聖霊に誅罰せられ給き。此等皆宿罪怨憎の報とは云ながら、二宗の法燈忽(たちまち)に消両寺(りやうじ)の智水速に乾きぬるこそ悲けれと、上下涙を流しけり。

後白川院【*後白河院】(ごしらかはのゐん)御登山の時、少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)御伴に候けり。前唐院の重宝、衆徒存知なかりけれ共、信西才覚吐などしたりけり。其次に明雲(めいうん)僧正(そうじやう)、我にいかなる相か有と御尋(おんたづね)あり。信西、三千の貫首一天の明匠に御座(おはしま)す上は、子細不及申と答ふ。重たる仰に、我に兵杖の相ありやと尋給ければ、世俗の家を出て慈悲の室に入御座ぬ、災夭何の恐か有べきなれ共、兵杖の相ありやとの御詞怪く侍し、是即兵死の御相ならんと申たりけるが、はたして角成給(たま)ひけるこそ哀なれ。

或陰陽師の申けるは、一山の貫長顕密の法燈に御座(おはしま)す上は、僧家の棟梁いみじけれ共、御名こそ■ (あやまり)付せ給ひたりけれ。日月の文字を並て下に雲を覆へり。月日は明に照べきを雲にさへらるゝ難あり。かゝればこの災にもあひ給ふにや。

或人の云けるは、延暦寺(えんりやくじ)止観院〈 中堂(ちゆうだう)と云 〉の傍に、前唐院の宝蔵に天台の一箱とて、白布にて裹たる方一尺計の櫃あり。其中に黄紙に書たる文一巻あり。其文に座主の次第を注したり。一生不犯の座主拝堂の日、宣旨を申て彼箱を開て其注文を見るに、我名字の所まで是を見て、奥をば見ずして、本の如く端へ巻返て被納置習と承る。先座主も、仁安二年二月十五日に当職に被補給ふ。生年五十三とかや。明雲(めいうん)と云御名字を披き見給(たまひ)て、衣の袖に涙を裹て出堂と承。根本(こんぼん)大師兼て注し置給へる名字なり。凡夫の是非すべき事にあらず、只宿罪こそ悲しけれ。されば一代の釈迦は頭痛背痛を遁給はず、五百の釈子は瑠璃王の害を不免りけり。

法皇御歎並木曾縦逸付四十九人止官職事

故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の末の子に、宰相憲修と云人は、此世の有様(ありさま)合戦の次第心憂覚ける上、木曾、法皇をも五条(ごでう)の内裏に押籠進らせ、兵稠く守り進らすと聞給ければ、如何して今一度君をも可奉見と思ける余に、俗をばよも入じ、出家したらば免さんずらんとて、俄(にはか)に髻をきり入道し、墨染の袈裟衣著て、五条内裏(ごでうだいり)へ参て、門守の者に歎仰られければ、僧なれば苦からじとて入奉る。御前に参たりければ、あれは如何と御尋(おんたづね)あり。しかじかと答申す。まめやかの志哉と感じ思召(おぼしめし)て、嬉にも御涙(おんなみだ)、つらきにも御涙(おんなみだ)、御身をはなれて不尽けり。宰相入道も涙に咽給へり。良有て法皇、今度の軍に、僧俗多く亡ぬと聞召つれば、誰々も■(おぼつか)なく思召(おぼしめし)つるに、汝別の事なかりける嬉さよ、さても又討れける輩、慥に誰々なるらんとて御涙(おんなみだ)を流させ給ふ。宰相入道も袖を絞て、明雲(めいうん)僧正(そうじやう)、八条宮、信行、為清、近業等も討れけり、能盛、親盛、痛手負て万死一生と承、討れ給ふ人々の首は、六条河原に竿を渡し、懸並たりとこそ承候へと奏しければ、法皇穴無慙の事共哉、まのあたり斯憂目を見べしとは不思召(おぼしめさ)、中にも明雲(めいうん)僧正(そうじやう)は、非業の死にすべき者には非ず、朕如何にも成べかりけるに、はや替にけりとて、又竜顔より御涙(おんなみだ)を流し御座(おはしま)しけるこそ悲けれ。

木曾は法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の軍に打勝て、万事思さまなれば、今井樋口已下の兵共召集て、やゝ殿原、今は義仲(よしなか)何に成とも我心也、国王にならんとも院にならん共心なるべし、公卿殿上人(てんじやうびと)にならんと思はん人々は所望すべし、乞によりてすべしなどと云けるこそ浅猿(あさまし)けれ。先我身のならん様を思煩うたり国王にならんとすれば少き童也、若く成事叶まじ、院にならんとすれば老法師也、今更入道すべきにも非ず、摂政(せつしやう)こそ年の程も事の様も成ぬべき者よ、今は摂政殿(せつしやうどの)といへ殿原と云、今井(いまゐの)四郎(しらう)よに悪く思て、摂政殿(せつしやうどの)と申進するは、大織冠の御末、藤原氏の人こそする事にて候へ、二条殿、九条殿、近衛殿(このゑどの)など申は彼藤原氏の御子孫也、殿は源氏の最中に御座、たやすくも左様の事宣て、春日大明神(かすがだいみやうじん)の罰蒙給ふなと云。さては何にか成べきと暫く案じて、よき事あり、院の御厩の別当に成て、思さまに馬取のらんも所得也とて、押て別当に成てけり。

廿一日に摂政(せつしやう)を奉止、基通の御事也。近衛殿(このゑどの)と申。其代に松殿基房御子に、権大納言(ごんだいなごん)師家の十三に成給(たまひ)けるを内大臣(ないだいじん)に奉成、軈摂政(せつしやう)の詔書を被下けり。折節(をりふし)大臣の闕なかりければ、後徳大寺(ごとくだいじの)左大将実定の内大臣(ないだいじん)にて座しけるを、暫く借て成給ふ。時人、昔こそかるの大臣は有しに、今もかるの大臣おはしけりとぞ笑ける。加様の事は大宮大相国(たいしやうこく)伊通こそ宣(のたま)ひしに、其人おはせね共又申人も有けり。木曾近衛殿(このゑどの)を奉止て師家をなし奉ける事は、松殿最愛の御女(おんむすめ)、みめ形いと厳く御座(おはしまし)けるを、女御后にもと御労有けるに、美人の由伝聞て、木曾推て御聟に成たりける故に、御兄公とて角計ひなし進せけるとぞ聞えし。浅増(あさまし)き事共也。

廿八日に三条中納言朝方卿以下、文官武官諸国の受領、都合四十九人官職を止む。其内に公卿五人とぞ聞えし。僧には権少僧都(ごんのせうそうづ)範玄、法勝寺(ほつしようじ)執行安能も所帯を被没官き。平家は四十二人を解官 したりしに、木曾は四十九人の官職を止む。平家の悪行には越過せりとぞつぶやきける。

公朝時成関東下向付知康芸能事

東国北国の乱逆によつて、東八箇国の正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)、此三箇年進送なし。平家都を落ぬと聞給(たまひ)て、鎌倉より千人(せんにん)の兵士をさして済進せられけるに、舎弟(しやてい)に蒲御曹司範頼、九郎御曹司義経上洛と聞ゆ。京よりは北面に候ける橘内判官公朝、藤左衛門尉(さゑもんのじよう)時成二人、木曾が狼藉法住寺(ほふぢゆうじ)の合戦、御所の回禄申さん為に、夜を日に継で下向す。範頼義経兄弟共に、熱田大郡司の許に御座(おはしま)すと聞えて、橘内判官推参して此由を申。九郎御曹司宣(のたまひ)けるは、年貢運上の為に、鎌倉殿(かまくらどの)の使節として範頼義経上洛の処に、木曾が狼藉御所の焼失、浮説に依て承侍り、又関東より大勢攻上と聞て、木曾今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)に仰て、鈴鹿、不破二の関を固と聞る間、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に申合ずして、木曾が郎等と軍すべきに非、仍閭巷の説に付て、飛脚を鎌倉へ立候ぬ、其返事に随はん為に暫し爰(ここ)に逗留す、されば別の使有べからず、御辺(ごへん)馳下て巨細を可被申と宣(のたまひ)ければ、橘内判官熱田より鎌倉へ下向す。俄の事成ける上、法住寺(ほふぢゆうじ)の軍に下人共も逃失てなかりければ、子息に橘内所公茂とて、十五歳に成ける小冠者を具足して関東に下著す。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)見参して、木曾が狼藉法住寺殿(ほふぢゆうじどの)焼失、委是を申。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)大に驚申されけるは、木曾奇怪ならば、蒙勅定誅すべし、知康が申状に依て合戦の御結構(ごけつこう)、勿体なく覚、知康不執申ば御所の焼失あるべからず、斯る輩を仙洞に被召仕者、向後も僻事出来べし、壱岐判官が所行、返々不思議に候、木曾(きそ)義仲(よしなか)は重代の武者、当家の弓取也、北面の輩流石(さすが)不可及敵対歟、依一旦我執及仙洞回禄之条、驚承処也。所詮義仲(よしなか)に於ては追討時刻を不可廻と。壱岐判官は是をば角とも不知して、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に、法住寺(ほふぢゆうじ)の合戦の事申ん為に鎌倉へ下向。佐殿は是を聞給(たまひ)て、侍共に、知康が云いれん事不可執次と誡仰られければ、知康近習の侍と覚しき者、ことにうでくび把て、やゝ申候はん/\と彼此に云けれ共、誰も聞入る者なし。日数も積ければ、侍推参して候けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は簾中より見出して坐しけるが、子息左衛門督頼家の、未少く十万殿と申ける時招寄給(たまひ)て、あの知康は九重第一の手鼓と、一二との上手ときく。是にて鼓と一二と有べしといへとて、手鼓に、砂金十二両取副て奉り給たれば、十万殿是を持て、簾中より出て知康にたびて、一二と鼓と有べしと勧給ければ、知康畏て賜て、先鼓を取て、始には居ながら打けるが、後には跪き、直垂を肩脱て様々打て、結句は座を起て、十六間の侍を打廻て、柱の本ごとに無尽の手を踊し躍したり。宛転たり。腰を廻し肩を廻して打たりければ、女房男房心を澄し、落涙する者も多かりけり。其後又十二両の金を取て云、砂金は我朝の重宝也、輙争か玉に取べきと申て懐中する儘に、庭上に走下て、同程なる石を四とり持て、目より下にて、片手を以数百千の一二を突、左右の手にて数百万をつき、様々乱舞しておう/\音を挙て、よく一時突たりければ、其座に有ける大名小名、興に入てゑつぼの会也けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)も見給(たまひ)て、誠鼓とひふとは名を得たる者と云に合て、其験ありけりとて感じ入給へり。鼓判官と呼れけるも理也。などひふ判官とはいはざりけるやらん、とまで宣(のたまひ)けり。其後始て被見参たり。知康は可然事に思て合戦の次第を語申けれ共、佐殿兼て聞給たりければ、此段には其気色不可然して、是非の返事なければ、知康見参はし奉たれ共、竿を呑すくみてぞ在ける。され共人は能の有べき事也。知康をば、さしも憤深思はれて勘当の身也けるに、鼓と一二と二の能に依て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)見参し給けるぞやさしく有難き。知康はさても有べきならねば、上洛せんとて稲村まで出たりけるが、能々案じて、都へ上たりとても、今は君に召仕へ奉らん事有難とて道より引返し、忍て鎌倉に居たりけるとかや。

範頼義経上洛付頼朝(よりとも)遣山門牒状事

〔去(さる)程(ほど)に〕兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)は、木曾が狼藉奇怪也、早可追討とて、蒲御曹司範頼、九郎御曹司義経両人を大将軍として、数万騎の軍兵を被差副、範頼、義経上洛と披露す。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、牒状を山門に送られて、木曾を可追討之由、旨趣を被載たり。其状に云、

牒 延暦寺(えんりやくじの)衙(が)  

 欲被且告七社(しちしやの)明神、且祈三塔仏法(ぶつぽふ)追討謀叛賊徒義仲(よしなか)并与力輩状

牒、遠尋往昔、近思今来、天地開闢以降、世途之間、依仏神之鎮護、天子治政、依天子之敬礼、仏神増光、云仏神、云天子、互奉守之故也、于茲云源氏、云平氏、以両家之奉公者、為鎮海内之夷敵、為討国土之姦士也、而当家親父之時、依不慮之勧誘、蒙叛逆之勅罪、其刻頼朝(よりとも)被宥幼稚、預于配流、然而平氏独歩洛陽之棲、恣究爵官之位、家之繁昌身之富貴(ふつき)、誇両箇之朝恩、執一天之権威、忽蔑如法皇、剰奉誅親王、因茲頼朝(よりとも)為君為世、為追討凶徒(きようと)、仰年来之郎従、起東国之武士、去治承以後、忝蒙勅命、欲励勲功之間、先以山道北陸之余勢、令襲雲霞群集之逆党之処、平氏早退散、落向西海浪、爰義仲(よしなか)等、称朝敵追討、而先申賜勧賞、次押領所帯、無程逐平氏之跡、専逆意之企、去十一月十九日、奉襲一院、焼払仙洞、追討重臣、剥奪衣裳、就中(なかんづく)当山座主、并(ならびに)御弟子宮、令入其烈云々、叛逆之甚、古今無比類者也、仍催上東国之兵、可追討彼逆徒也、獲其首雖無疑、且祈誓仏神之冥助、且為乞衆徒之与力、殊欲被引率矣、仍牒送如件。以牒。    

 寿永二年十二月二十一日              前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源朝臣

とぞ被書たりける。三塔会合僉議(せんぎ)して、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に与す。

木曾擬与平家並維盛歎事

平家は室山、水島二箇度の合戦に打勝て、木曾追討の為に西国(さいこく)より責上ると聞えけり。左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)は、東西に詰立られて如何せんと案じけるが、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に始終中よかるまじ、今は平家と一に成て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)をせめんと思子細を、讃岐の屋島へ申たりければ、大臣殿は大に悦給(たま)ひけり。祈祈りの甲斐有て、帝運のかさねてひらけ、再び故郷に御幸あらん事目出ければ、申処本意に思召(おぼしめし)、御迎に可参と宣(のたまひ)けるを、新中納言の被計申けるは、都に帰上らん事は実に嬉しけれ共、木曾が為に花洛を被攻落、今又義仲(よしなか)と一にならん事不可然、頼朝(よりとも)が存じ思はん処恥かしかるべし、弓矢取身は後の代までも名こそ惜けれ、十善の君角て御渡あれば、冑を脱弓を平めて降人に参り、帝王を守護し奉るべしと仰あるべしとこそ存ずれと宣(のたまひ)ければ、最此儀然べしとて、其定に返事せられけり。木曾是を聞て、降人とは何事ぞ、武士の身と生て、手を合膝をかゞめて敵に向はん事、身の恥家の疵なり、昔より源平力を並て士卒勢を諍、今更平家に降を不可乞、頼朝(よりとも)返りきかん事も後代の人の口も、面目なしとて不降けり。

木曾都へ打入て後は、在々所々を追捕して、貴賎上下安堵せず、神領寺領を押領して、国衙(こくが)庄園牢籠せり。はては法住寺(ほふぢゆうじ)の御所を焼亡して、法皇を押籠奉り、高僧侍臣を討害し、公卿殿上人(てんじやうびと)を誡置、四十九人の官職を止めなんと、平家伝聞て、寄合々々口々に被申けるは、君も臣も山門も南都も、此一門を背て源氏の世になしたれども、人の歎はいやまし/\なりと嬉事におぼして、興に入てぞ笑勇給へる。権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛は、月日の過行儘には、明も晩も故郷のみ恋く思ければ、仮初なる人をも語ひ給はず、与三兵衛重景、石童丸など御傍近く臥て、さても此人々は如何なる形勢(ありさま)にて、いかにしてか御座らん、誰かは哀れ糸惜共云らん、我身の置き所だにあらじに、少き者共をさへ引具て、いか計の事思ふらん、振捨て出し心づよさも去事にて、急迎へとらじとすかし置し事も程経れば、如何に恨めしく思ふらんなんど宣(のたまひ)つゞけて、御涙(おんなみだ)せきあへず流し給けるぞ糸惜き。北方は此有様(ありさま)伝聞給(たまひ)て、只いかならん人をも語ひ給(たま)ひ、旅の心をも慰め給へかし、さりとても愚なるべきかは、心苦くこそとて、常は引かづき臥給ふ。尽せぬ物とては是も御涙(おんなみだ)ばかりなり。

木曾内裏守護付光武誅王莽(わうまう)事

木曾は五条内裏(ごでうだいり)に候て、稠く法皇を守護し奉る間、上下恐を成て参寄人なし。合戦の時の虜の人人も誡置たりければ、只今(ただいま)いかなる目にかあはんと肝魂を消す。此木曾押て松殿の御聟に成たりければ、松殿いみじとは思召(おぼしめ)さゞりけれ共、法皇の御事御痛敷思召(おぼしめし)、内々義仲(よしなか)を被召て、角は有まじき事ぞ、人臣として朝家を我意にし、悪事を以て政道をあざむき奉る事、昔より今に至るまでなき事也。適野心を挟輩、忽(たちまち)に亡ずと云事なし、但平家の故清盛(きよもり)入道は、深く仏法(ぶつぽふ)を敬ひ神明に帰し、希代の大善根共余多(あまた)修したりしかばこそ一天四海を掌に把て二十余年までも持ちたりしか、大果報の者也き。上古にも類少く、末代にもためし難有し、其猶法皇を悩し奉公家を蔑にせしかば、天の責を蒙て速に亡にき、子孫に至まで都に跡を留ず、西海の浪に漂ふ、滅亡今明にあり、畏ても恐べし。国王と申は未存知なしや、忝(かたじけなく)も天神七代地神五代の御末を継御座(おはしまし)て、百王今に盛也、天照太神(てんせうだいじん)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)以下、六十余州の大小神祇、日夜に是を守護し奉り、諸寺諸山の顕密の僧侶、朝夕に専祈念し奉。貞任宗任が、遥奥州(あうしう)にして朝威を背し、法性房の祈誓に依終に降伏せられ、北野天神の火雷火神と顕御座(おはしまし)て恨をなし給しも、全く金体には近付給はざりき、皆是神明の擁護仏法(ぶつぽふ)の効験也、されば君を背奉り、叡慮を動し奉る悪行をのみ振舞ては、終によかるべし共覚えず、急宥め進すべき也など、片山里の荒武士の、耳近に聞知様に書口説、こま/゛\と被仰たりければ、木曾も流石(さすが)木石ならねば理と思て、誡置たる人々をもゆるし、騒しき事をも止てけり。

十二月十日、法皇は五条内裏(ごでうだいり)より、大善大夫業忠が六条西洞院(にしのとうゐん)の家に御幸なる。軈其(その)日(ひ)より、歳末の御懺法被始行けり。松殿の御教訓の末にやと覚たり。

十三日に木曾除目行て、思様に官共成けり。我身は左馬頭(さまのかみ)兼伊予守なりし上に、院の御厩別当に成て、丹波国五箇の庄知行し、畿内近国の庄園、院宮々原の御領、神田仏田をいはず、思ふさまに管領して、憚なく振舞けり。

昔王莽(わうまう)と云し者、臣下の身として漢平帝を討、位を奪十八年を持けり。四海を我儘に行て、人の歎を知ざりければ、人民多く憂へけり。高祖九代の孫、字文叔と云人王莽(わうまう)を亡して終に位に昇にけり。後漢の光武皇帝とは此事也。

木曾冠者(きそのくわんじや)、位を取までこそなけれ共、平家都を落て後、天下を我意にする事彼王莽(わうまう)に異ならず、只今(ただいま)亡なんと危ぶみながら、今年も既(すで)に暮にけり。東は近江、西は摂津国(つのくに)、東西の乱逆道塞て、公の御調も奉らず、年貢所当も上らざりければ、京中の貴賎上下、小魚の泡にいきつくが如く、旱上られて、今日歟明日歟の命也とぞ歎悲ける。

京屋島朝拝無之付義仲(よしなか)将軍宣事

 < 寿永三年四月十六日(じふろくにち)、改元とあつて云元暦。>

元暦元年正月一日、院は去年の十二月十日、五条内裏(ごでうだいり)より、六条西の洞院(とうゐん)の業忠が家に御座(おはしまし)有けれ共、彼家板葺の門、三間の寝殿、階隠なかりければ、礼儀行はれ難して、拝礼も被止けり、又朝拝もなし。節会計ぞ被行ける。院の拝礼なければ、殿下の拝礼も不被行。

平家は讃岐国屋島の礒に春を迎て、年の始成けれ共、元日元三の儀式事宜からず、主上御座(おはしまし)けれ共四方拝もなし、朝拝もなし小朝拝もなし、節会も不被行、氷の様も参らず、■ (はらか)も不奏。世は乱たりしかども、都にては角はなかりし物をと哀也。青陽の春も来しかば、花の朝月の夜、詩歌管絃、鞠小弓、扇合、絵合、さま/゛\の後遊覧召出て、男女さしつどひては只泣より外の事ぞなき。同六日義仲(よしなか)正五位下に叙す、官位既(すで)に頼朝(よりとも)にすゝむ。是凶害の源、招乱のはしにやと後おそろし。

同九日平氏和親の由を申請、依之(これによつて)仙洞より所存を可由之由、義仲(よしなか)が許へ被仰遣けり。此事義仲(よしなか)許容せざりけるにや。

十日木曾、平氏為追討西国(さいこく)へ下らんとて門出すと聞えし程に、東国より蒲御曹司、九郎御曹司両人を大将軍として、数万騎の軍兵を差上すと兼ては聞しか共、さしもやと思けるに、範頼義経等既(すで)に美濃国に著、著到勢汰して、不破関にて二手に分て、宇治、勢多より可攻入と聞えければ、義仲(よしなか)西国(さいこく)の止発向。又平家、四国西国(さいこく)の軍兵を卒して、福原まで責上て、既(すで)に都へ打入らんとする由聞えければ、木曾安堵の思ぞなかりける。

同(おなじき)十一日左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)、可為征夷大将軍之由被宣下。是は木曾ひたすら荒夷にて、礼儀を乱り法度を失て、心の儘に振舞ければ、必洛中にして僻事出来なん。されば東国の武士替入らんまでの御計也けり。是をば木曾争か知べきなれば、只今(ただいま)亡んずる義仲(よしなか)が、大に畏り喜びけるこそ哀なれ。

同(おなじき)十七日(じふしちにち)備前守行家、河内国に住して在叛心之由聞えければ、木曾彼を追討の為に樋口兼光を差遣す。其(その)勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)也。同(おなじき)十九日に、石川城に寄て合戦す。蔵人判官家光、為兼光被討捕にけり。行家軍敗て逃落て、高野にぞ籠ける。虜三十人、切て懸る頸七十人とぞ聞えし。

東国兵馬汰並佐々木賜生■(いけずきを)付象王太子事

折節(をりふし)関東にはと披露しけるは、院は去年十一月一日西国(さいこく)へ御門出と聞えけり。是は木曾(きそ)義仲(よしなか)、都にて狼藉不斜(なのめならず)、人民牢籠して貴賎安事なし。平家は官位高く、太政大臣(だいじやうだいじん)左右の大将にあがり、兼官兼職して卿上(けいしやう)雲客(うんかく)に列りき。只奢れるばかりにこそ有しか共、流石(さすが)君臣上下の誼を箴し、礼節仁義の法を篤くせりき、無下に替劣したる源氏なりけり、旧臣ゆかしとて思召(おぼしめし)立とぞ聞ける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)大に驚給へり。木曾と平家と一になり、九国四国、南海西海与力同心せば、天下を静めん事たやすかるべからず、先義仲(よしなか)を追討して逆鱗をやすめ奉り、其後平家を亡すべしとて、六万余騎(よき)を差上す。鎌倉殿(かまくらどの)の侍所にて評定あり。合戦の習、敵に向城を落すは案の内なり、大河を前にあて兵を落さん事、ゆゆしき大事也、都に近き近江国には勢多の橋、其流の末に、山城国には宇治橋、二の難所あり、定て橋は引ぬらん、河は底深して流荒し、なべての馬の渡すべき川に非ず、其上河中に乱杭逆〔茂〕木打、水の底に大綱張流かけぬらん、よき馬共を支度して、宇治勢多を渡して高名あるべしとぞ被議ける。懸りければ、大名小名、党も高家も面々に其用意あり。上総国住人(ぢゆうにん)、介八郎広経は礒と云馬を引せて参たり。下総国住人(ぢゆうにん)千葉介経胤は、薄桜と云馬を引く。武蔵国住人(ぢゆうにん)平山武者所季重は、目糟馬とて引く。同国渋谷庄司重国は、子師丸とて引たり。畠山庄司次郎重忠は、秩父鹿毛、大黒人、妻高山葦毛とて引たり。相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)三浦和田小太郎義盛は、鴨の上毛、白浪とて引たり。伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)北条四郎時政は、荒礒とて引たり。熊谷二郎直実は、権太栗毛とて引たり。大将軍九郎御曹司は、薄墨、青海波とて被引たり。同蒲御曹司は、一霞、月輪とて被引たり。是等は皆曲進退の逸物、六鈴沛艾の駿馬、強き事は獅子象の如く、早き事は吹風の如し。されば越後越中の境なる姫早川と利根川(とねがは)と、駿河国には、富士川と天中、大井川なんど云ふ大河を渡せし馬共也。まして宇治、勢多を思ふに物の数にやとぞ各勇申ける。此中に佐々木、梶原、馬に事をぞ闕たりける。折節(をりふし)秘蔵御馬三匹也、生■(いけずき)、磨墨、若白毛とぞ申ける。陸奥国三戸立の馬、秀衡が子に元能冠者が進たる也。太逞が、尾髪あくまで足たり。此馬鼻強して人を釣ければ、異名には町君と被付たり。生■(いけずき)とは黒栗毛の馬、高さ八寸、太く逞が尾の前ちと白かりけり。当時五歳、猶もいでくべき馬也。是も陸奥国七戸立の馬、鹿笛を金焼にあてたれば少も紛べくもなし。馬をも人をも食ければ生■(いけずき)と名たり。梶原源太景季、佐殿の御前に参て、君も御存知ある御事に候へ共、弓矢取身の敵に向ふ習は、能馬に過たる事なし、健馬に乗ぬれば、大河をも渡し巌石をも落し、蒐も引もたやすかるべし、力は樊■(はんくわい)、張良が如くつよく、心は将門(まさかど)、純友が如くに猛けれ共、乗たる馬弱ければ自然の犬死をもし、永き恥をも見事に侍り、されば生■(いけずき)を下し預て、今度宇治河(うぢがは)の先陣つとめて木曾殿(きそどの)を傾奉り候ばやと、傍若無人に憚所なく申たり。佐殿良案じ給けるは、我土肥の杉山に七人隠居たりしに、梶原に被助て今世に出る事も、難忘思なり、賜ばやと思召(おぼしめし)けるが、又案じて、蒲冠者も人してこそ所望申つれ、景季が推参の所望頗狼藉也、又是程の大事に、馬に事闕たりと申を、たばでも如何有べきと、左右を案じて宣(のたまひ)けるは、景季慥承れ、此馬をば大名小名八箇国の者共、内外につけて所望ありき、就中(なかんづく)大将軍に差遣す蒲冠者が、ひらに罷預んと云き、然(しかれども)而源平の合戦未落居、木曾追討の為に東国の軍兵大旨上洛す、知ぬ、平家と木曾と一に成て大なる騒と成なば、頼朝(よりとも)も打上らん時は馬なくてもいかゞはせん、其時の料にと思て誰々にも不給き、是は生■(いけずき)にも相劣らずとて磨墨をたびにけり。景季は生■(いけずき)をこそ給らね共、磨墨誠に逸物也ければ、咲を含み畏て罷出。黒漆の鞍を置、舎人余多(あまた)付て、気色してこそ引せたれ。

明日の辰の始に、近江国住人(ぢゆうにん)佐々木四郎高綱、佐殿の館に早参して、所存ある体と覚たり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)宣(のたまひ)けるは、如何御辺(ごへん)は此間は近江に在国と聞ば、志あらば、軍兵上洛に付て京へぞ上給はんずらんと相存るに、いつ下向ぞと問給。高綱申けるは、其事に侍り、去年十月の頃より江州(がうしう)佐々木庄に居住の処に、かゝる騒動と承れば、誠に近きに付て京へこそ打上るべきに、軍の習、命を君に奉て戦場に罷出る事なれば、再帰参すべしと存べきに非、今一度見参にも入御暇をも申さん為、又いづくの討手に向へ共、慥の仰をも蒙らん料に、正月五日の卯刻に、佐々木の館を打出て、三箇日の程に、鎌倉に下著し侍り、且は下向せずして、自由の京上も其恐ありと存、旁の所存によりて罷下れり、志は加様にはこび奉りたれ共、一匹持侍りつる馬は馳損じぬ、親き者と云知音と申人々、面々に打立間、誰に馬一匹をも尋乞べしとも覚ねば、如何仕侍るべきと心労して、大名小名既(すで)に上りぬれ共、今までは角て候也と申。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、聞敢ず、下向今に始ざる志神妙(しんべう)々々(しんべう)、抑木曾朝威を軽くし奉るに依て、追討の為に軍兵を指上す、宇治勢多の橋定めて引て侍らん、宇治川(うぢがは)の先陣被渡なんやと有ければ、高綱申けるは、近江生立の者にて候へば、間近き宇治川(うぢがは)、深さ浅さ淵瀬までも委存知仕て候、彼手に向候はば、宇治川(うぢがは)の先陣は高綱と申す。佐殿は、去治承四年八月下旬の比、石橋の合戦に大場三郎に被追落、遁難かりしに、殿原兄弟返合て、禦矢射て頼朝(よりとも)が命を被助き、其時は日本(につぽん)半分とこそ思しかども、世未落居指たる事なし、相構て今度宇治河(うぢがは)の先陣勤て高名し給へ、必可相計也、頼朝(よりとも)が随分秘蔵の生■(いけずき)、御辺(ごへん)に奉預と直に蒙仰。高綱は今生の大御恩、希代の面目家門勝事、何事か可如之と思ければ、畏入て馬を給(たまはつ)ていでんとする処に、佐殿宣(のたまひ)けるは、此馬所望の人あまた有つる中に、舎弟(しやてい)蒲冠者も申き、殊梶原源太直参して真平に申つれ共、若の事あらば乗て出んずればとてたばざりき、其旨を被存よと仰ければ、高綱聊もそゞろかず、座席になほりて畏り、宇治川(うぢがは)の先陣勿論に候、高綱若軍以前に死ぬと聞召さば、先陣は早人に被渡けりと可被思召(おぼしめさるべし)、軍場にて存命と聞召ば、宇治河(うぢがは)の先陣高綱渡しけりと思召(おぼしめさ)れよ、もし他人に先を蒐られて本意を遂ずば、敵は嫌まじ、河端にても河中にても、引組で落勝負を決すべしと申定て出にけり。由井の浜に打出て聞ければ、大勢は大底昨日夜部に鎌倉を出たりと云。さては駿河国浮島原の辺にては追付なんと思ひて、十七騎にて打て殿原々々とて、稲村、腰越、片瀬川、砥上原、八松原馳過て、相模河を打渡、大磯、小磯、逆和宿、湯本、足柄越過て、引懸々々打程に、其(その)日(ひ)は二日路を一日路に著、河宿に著にけり。尋れば案に違はず、大勢駿河国浮島原に引たりと云。正月十日余(あまり)の事なれば、富士のすそのの雪汁に、富士の河水増りつゝ、東西の岸を浸したれば、輙く渡すべき様なし。九郎御曹司、兵共(つはものども)に此川の水増りたり、如何すべきと宣へば、口々に申様は、宇治勢多を渡さん故実の為にも、先此河をこそ渡て可見なれ、されば馬筏を組で渡し候はばやと申。蒲御曹司宣(のたまひ)けるは、軍の談議をば土肥次郎に申合べしとこそ佐殿は仰有りしかば、彼をめせとて被召たり。如何に土肥殿、此河の水出たるをば何とかすべき、宇治勢多ならしに、馬筏を組で渡て心見ばやと申者多し、被相計よと仰ければ、実平畏て申けるは、敵をだに目に懸たらば、馬筏にても急渡すべし、此河は渚(なぎさ)近して、水の早き事征矢をつくよりも猶早し、一引も被引落なば馬も人も不可助、佐殿も、木曾定て宇治勢多の橋は引たるらん、其川を可渡とこそ御評定は有しか、富士川の深き流に、馬をも人をも失ては何詮かは在べき、敵に逢てこそ命をば捨め、徒に水に流て身を失べきにあらず、此は雪汁の水なれば、急とへる事不可有、明日水に心得(こころえ)たらん者を以て、瀬踏せさせて閑かに渡すべきなりと申せば、此義可然とて、大勢雲霞の如くに其辺に下居たり。梶原源太は、磨墨に増る馬もや有らんと思ひて、大名の中を廻て馬共を見に、九郎御曹司の青海波七寸(しちすん)、蒲御曹司の月輪七寸(しちすん)二分、和田小太郎の白波七寸(しちすん)五分、畠山の秩父鹿毛七寸(しちすん)八分、此等を始として大名、小名五十匹、三十匹、五匹一匹引せたり。され共磨墨に倍る馬なし。源太大きに悦、一重あがりたる所に居て、引廻々々愛し居たり。余(あまり)の嬉しさに、人が嘆よかし引出物せんと思処に、村山党の大将に金子十郎家忠、折節(をりふし)爰を通りけり。招寄て、如何に金子殿、此馬何法の馬にて候ぞ、御覧ぜよと云。金子は元より勇狂じたる男也、打見て誑れ笑。これは佐殿の磨墨にや、御辺(ごへん)の親父梶原殿、御内には一人にて御座、されば御辺(ごへん)此御馬賜り給にけり、此程の馬をば能とも悪きとも中々詞を加る事沙汰の外に侍り、只時の■(きら)、徐の人目こそ浦山敷(うらやましく)候へと嘆たりければ、源太大に悦て、小桜を黄に返したる鎧に、太刀一振取副て引く。源太は舎人三人付て、靡よはたけよ飼労れとて、他事なく是を愛しけり。佐々木四郎高綱は、生■(いけずき)に黄覆輪の鞍置、白き轡、二引両の手綱結て、舎人六人付て浮島原を西へ向てぞ引せたる。原中の宿を過、平々たる春野なれば生■(いけずき)不斜(なのめならず)勇み、身振して三声(みこゑ)四声啼たり。鐘をつくが如く也ければ、遥二里を隔たる田子の浦へぞ響たる。畠山是を聞て、こはいかに、生■(いけずき)が鳴音のするは、誰人の給(たまひ)て将来るやらんと云。半沢六郎申けるは、是程の大勢の中に、数千匹逸物共多く侍、何の馬にてか侍らん、大様の御事と覚候、其上生■(いけずき)は、蒲梶原殿などの被申けれ共御免なしと承る、さては誰人か給べきといへば、人々げ>にもと思ひて、あざ咲てぞ有ける。畠山重忠は、一度も聞損ずまじ、人にたびたばずは不知、一定生■(いけずき)が音也、只今(ただいま)思合よと云もはてねば、生■(いけずき)は東の方より、舎人六人ひきもためず、白泡かませて出来たり。さてこそ畠山をば、神に通じたるやらんとも申けれ。源太は磨墨ほめ愛して居たる処を、舎人共生■(いけずき)引てぞ通ける。ゆゝしく見えつる磨墨も、勝る生■(いけずき)に逢たれば、無下にうててぞ見えたりける。源太是を見て、蒲御曹司の賜歟、九郎御曹司の給歟、よき次とて院へ進せらるゝかと思て、郎等を以て、其御馬は何方へ参り、如何なる人の馬ぞと問す。舎人是は佐々木殿の御馬と申す。佐々木殿とは誰ぞ、三郎殿か四郎殿かと問。四郎殿の御馬と答。源太此事をきゝ、口惜事にこそ、景季再三所望申つるに御免なき馬を、高綱にたびける事の遺恨さよ、佐々木にたぶ程ならば、先の所望に付て景季に給べし、景季に給はぬ程ならば、後の所望也、高綱に給べからず、大将軍たる人の、源平の大事を前に拘へて、悪も偏頗し給へり、是程の御気色(おんきしよく)にてはいかでも有なん、千世を栄べき世中に非ず、思へば電光朝露の如く也、いつ死なんも同事、日比(ひごろ)佐々木に宿意なし、時に取て日の敵也、高綱さる剛者なれば、無左右よもせられじ、互に引組で落重り、腰の刀にて指違、恥ある侍二人失、鎌倉殿(かまくらどの)に大損とらせ奉らん、高綱景季二人は、一人当千(いちにんたうぜん)の兵をやと思て相待処に、佐々木争か角とは知べきなれば、十七騎にてさしくつろげて歩せ来たる。源太は最後と思ひつゝ磨墨に乗、太刀も持ず、刀ばかりぞ指たりける。遥(はるか)に佐々木に目を懸て真横に歩せ塞高綱。是を見て、郎等共(らうどうども)に申けるは、爰(ここ)に引へたるは梶原源太と覚えたり、あの景気を見に、馬の立様人を待様、直事とは覚えず、生■(いけずき)ゆゑに、一定高綱に組まんと思意趣あるらん、鎌倉殿(かまくらどの)の意せよとは此事にこそ、組で落るものならば、指違てぞ死なんずらん、但梶原佐々木、公の馬を論じて命をすてん事、人目実事面目なし、陳じてみんに不叶して、梶原我に組ならば、心あれとさゝやきて、打通んとする処に、源太打並て云けるは、如何に佐々木殿、遥(はるか)に不奉見参、あの御馬は上より給(たまひ)てかと云懸て押並ぶ。高綱にこと打咲て申様、実に久不奉見参、去年十月の比より近江に侍りつるが、近きに付て京へ打べかりつれ共、暇申さでは其恐有り、又何方へ向へとの仰を蒙らんと存て、三日に鎌倉へ馳下らんと打程に、只一匹持たりつる馬は疲損じぬ、さては乗替なし、如何すべきと思煩、御厩の馬一匹申預らばやと存て、内内伺きけば、磨墨は御辺(ごへん)の賜はらせ給けり、生■(いけずき)は御辺(ごへん)も蒲殿も再三御所望有けれ共、御許なしと承る、さて高綱などが給らん事難叶、中々申さんも尾籠也と存て心労せし程に、由井浜の勢汰にもはづれぬ、さて又馬なしとて留べき事にも非ず、如何せんと案ずる程に、抑是は君の御大事(おんだいじ)也、後の御勘当は左右もあれ、盗て乗んと思て、御厩小平に心を入盗出して、夜にまぎれ酒匂の宿まで遣して、此暁引せたり、只今(ただいま)にや御使走て、不思議也と云御気色(おんきしよく)にや預らんと閑心なし、若御勘当もあらん時は、可然様に見参に入給へとぞ陳じたる。源太誠と心得(こころえ)て、げに/\佐々木殿、輙も盗出し給へり、此定ならば景季も盗べかりけり、正直にては能馬はまうくまじかりけりと狂言して、打連てこそ上りけれ。

 < 譬へば中天竺に象王太子と云し人、百の象を飼給けるが、異国の軍の起けるに、彼をせめんとて、九十九匹を官兵に分ち給、今一匹をば秘蔵して置れたりけるを、八封と云召人の有けるが、此有様(ありさま)を見て、我身はとても可被切者也、されば太子の秘蔵の象に乗、敵の陣に入り戦はんに、死たらば後世の物語(ものがたり)、敵を亡したらば君の為に忠臣たるべし、後日に陳申さんと思て、窃に盗出し、朝敵を亡して還て勧賞を蒙る事ありといへり。高綱が陣答は、彼ためしにこそ似たりけれ。>

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Last Modified: Thursday, January 09, 2014
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