『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十三
衛巻 第四十三
湛増同意源氏附平家志度道場詣並成直降人事
熊野別当湛増法眼は、頼朝には外戚の姨聟也。年来は平家致安穏祈祷けるが、国中悉源氏に志を運。湛増一人背ても後難あり、今更平家をすてん事も昔の好を忘に似たり、如何あるべからんと進退思煩ふ。所詮非可及人力、可任神明冥覧とて、田部の新宮にて臨時の御神楽を始む。神明託巫女曰、白鳩は白旗に付と。湛増猶不信之、同新宮御前にて、赤は平家白は源氏とて、七番の鶏を合けるに、赤鶏白鶏を見て、一番も不番逃にけり。此上は奉任神慮とて、熊野三山、金峯、吉野、十津河、死生不知の兵共を語集、若一王子の御正体を奉下、榊枝に飾付、日月山端を出るが如し。旗紋、楯面には金剛童子を画に顕す、見るに身毛竪けり。兵船二百余艘を調て、紀伊国田部湊より漕渡て源氏に加る。
河野四郎通信は、元来源氏に志有ければ、所々の軍に家子郎等多く討れたりけれ共、千余騎の軍兵を卒して、伊予国より馳来て勢を合す。懸りければ、判官弥力付て、荒手の兵入替々々責ければ、平家遂に被責落て、二十一日の巳刻には、屋島の渚を漕出て、塩に引れ浪に諍、何を指とはなけれ共、風に任動行こそ悲けれ。先帝を奉始て、女院二位殿、女房男房宗徒の人々は、讃岐志度へぞ御座ける。
源氏は屋島軍に討勝て、三箇日逗留して四国の勢を招。判官伊勢三郎義盛を召て、河野四郎追討のために、成良が嫡子伝内左衛門尉成直、三千余騎にて伊予へ越えたり、召捕て進せよと下知す。依命起座。義盛は究竟の山賊海賊、古盗人の謀賢き男也。先下�男を一人出し立て、次第脛巾、簔笠に旅籠持て、伝内左衛門に伺遇て云べき様委教て、一日路を先立て伊予国へ越。義盛は三千騎を従へんとて、十七騎の勢を具して、一日路さかりて向けり。人々嗚呼々々敷思ける。成直は河野が館へ推寄たれ共、通信をば漏つ、家子郎等多く討捕、館に火懸て、首をば兼て進り、虜共あまた編連て、屋島も■とて、伊予より讃岐へ帰けり。道に夫男に遇。伝内左衛門尉、己は何所よりいづくへ通る者ぞと問。屋島より伊予へ罷る者にて候と答。偖屋島には何事かあると問。夫男答て云様は、伊予国河野四郎殿の伯父、福良新三郎殿頸実検の日、源氏九郎判官と名乗て、雲霞の勢屋島の内裏へ押寄て、夥き軍にて候しが、源氏の為に内裏を被焼て、平家は船に乗て、下会々々戦給し程に、平家は無勢に御座、源氏は大勢なれば、平家軍に負て、大臣殿父子、小松殿公達生捕れ給ぬ、桜間大夫殿は十七日阿波勝浦の軍に虜と披露あり、民部太輔殿は、軍破て降人に被参けり、其外の人々死るも被捕も、いくらも有と聞え候き、能登殿こそ由々しく御座けれ、源氏も其手に多く討れて、終には小船に乗て漕出し、海に沈み給ぬとて上下嘆奉候き、東国の勢はさる事にて、熊野別当とて二百艘の兵船を漕、河野四郎殿は、千余騎にて屋島へ被馳き、其外五十騎百騎、四国九国より馳集て、阿波讃岐の浦々は軍兵にて候。判官は暫逗留して、平家の方人を平ぐべしとぞ承つる、其外の事は不知と申て過ぬ。伝内左衛門此言を聞より、心弱く思て、一所にて何とも成べかりける者を、無由伊予へ越てけり、父降人に参給ける事は、成直を今一度見もし見えん為歟、但下�の説不足信用、実否を聞んとて馬を打て行程に、讃岐国三木郡、琴造の宮と云所にて、伊勢三郎と伝内左衛門と行会たり。義盛鐙踏張弓杖つき、あれは伝内左衛門尉と見は僻事歟、是は源氏の郎等に伊勢三郎義盛と云者也、平家は屋島の軍に負て、内裏以下人々の家々皆焼ぬ、大臣殿父子、小松殿の公達、恥あるは大底被虜給ぬ、汝が父民部大輔は、頸を延て降人に参ず、桜間大夫勝浦にて虜る、此二人義盛預。汝が父は降人なれば頸をば可継、桜間大夫は死罪難遁、種々歎申間、御恩に申かへんと存ず、能登殿こそ由々敷振舞給たりしが、判官殿乳母子佐藤三郎兵衛、鎌田藤次を始として、多の郎等討れぬ、結句舟に乗海に入給ぬ、実の大将軍と覚き、抑汝源氏に可奉随か、猶意趣あるか、民部大輔の降人に参る事、今一度汝を見んとの恩愛の情と存ず、父をも見故郷にかへらんと思はば義盛につけ、命をば可申請、角云をそむき給はば通し侍るまじと云。弓取直し矢束を解。成直は夫男が詞、義盛口上無相違と思ければ、父左様に参ける上は、成直以て同事とて、弓を弛し甲を脱て義盛に随。伊勢三郎申けるは、降人として軍兵を引卒す、不審可相貽と云。成直郎等に暇をたび、其より散々に返す。義盛謀澄して判官の許へ将向。十七騎の勢にて三千余騎を従る事、古今無類。判官は参上神妙也、成直己が頸をも継で父をも見んと思はば、状を父が許へ音信よと宣ふ。成直畏て状を遣す。源平の合戦勝劣雲泥也、後勘有恐、前降源家、早住同心之思、必遂面謁之志と。阿波民部成良は、平家の軍如何にも叶べくも不見ければ、心を源氏に懸たりけるに、成直虜れぬと聞ければ、判官に通じて阿波国へ渡ぬ。彼国の住人等、成良が命を守て皆随属源氏。此三箇年の間は平家に忠を尽して、度々軍にも父子共に忠を致しけるに、忽に心替しぬ。平家運尽とはいひながら無慙なり。
二月十七日は阿波勝浦の軍、二十一日には屋島を責落し、二十二日には讃岐志度を被攻けり。二十三日に梶原已下の兵屋島の渚に著。諍終のちぎりぎの風情なりとて、人皆口をすくむ。
源氏は讃岐屋島にあり。平家は屋島の城を被落、同国志度へ移たりけれども、爰をも被攻出て、長門国引島に著。如何が有べかるらんと■なし。其をも漕出して、浦伝島伝に落行けり。白鳥丹生の社をも漕過て、筑前国箱崎津に著給ぬ。九国の輩源氏に心を通じて、彼津をも可責由聞えければ、平家かしこをも出給ぬ。何れの所を宿と不定れば、浪と共に諍て、漕れ行こそ哀なれ。
住吉鏑並神功責新羅附住吉諏訪並諸神一階事
元暦二年二月十六日夜の子刻に、住吉社第三神殿より、鏑矢の声出て西を指て出行ぬと、当番の神人、并祝等是を聞由、神主長盛、并権祝有遠奏状を進する。賊徒滅亡神兵の力ありと叡信を被垂ければ、御剣已下色々の幣帛、種々の神宝即長盛有遠を召て奉進あり。昔第十五代帝仲哀天皇の后、神功皇后御宇、新羅の西戎我国を背く由聞えければ、皇后可責異賊旨、天照太神に被申、謹で無懈とて、二人の荒みさきを差副給へり。皇后懐胎月満て産月也。纜を解給時、御産の気出来給。皇后仰云、胎内王子慥に聞しめせ、為守妾本朝新羅の異賊を責んとて、遥に海上に浮、若今生給はば、必水中の鱗と成給ふべし、君吾国の主と成て、百王の位に即せ給ふべくば、異賊を随へ、本朝に帰て誕生し給へと宣命し給ければ、御産気止りて、異国へ渡り給しに、二人荒みさき艫舳に立て守奉しかば、新羅高麗の西戎を平げて日本に帰、筑前国にして御産あり。其よりして其所を宇美庄と云。即宮を造て宇美明神と名く。皇子位に即給ふ、応神天皇是也。神と顕給ては、宇佐八幡大菩薩と申。二人の荒みさき、一人は摂津国住吉郡に留給ふ、今の住吉大明神是也。巨海の浪に交ては水畜を利益し、禁闕の窓に臨では玉体を守護せり。社は千木の片殺神寂、松の緑生替、形は皓々たる老翁也。幾万世を経給けん。一人は信濃国諏訪郡に跡を垂、即諏訪明神是也。昔柏原天皇、皇子に沙門開城と申人御座き。是は摂津国勝尾寺の善仲、善算、両上人に随て、出家受戒の御弟子也。金字如法の大般若経を為書写、奉祈三宝、得清浄水思召けるに、形夜叉の如して、一すくひの水を進むる者あり。皇子怪みて、汝何者ぞ、此水大清浄也やと問給ふ。夜叉答て申さく、我は是信濃国諏訪南宮也、八幡大菩薩の厳命を賜て、西天白鷺池の水を汲、一夜が程に往還来れりと申。彼水を硯に入、六箇年の間六百巻を書写せしに、一度入て後、其水終に不尽けり、不思議なりし事也。道場建立し、件の経を安置して、遥に慈尊の出世を待故に、弥勒寺と名けたり。
水尾天皇臨幸の時、改寺号勝尾寺と申。懸る現人神達なれば、新羅征伐之時は、天照太神も被差副けるにこそ。昔の征伐今の神託、御憑敷ぞ思召。
同三月三日平家追討の御祈に、諸国の明神に被奉授一階之由、被宣下けり。凡兵革の祈祷、天下安穏をために、諸国の神明に一階を増さらるゝ事、代々之例也。
仁明天皇御宇、嘉祥四年正月に、天下諸神不論有位無位、共叙正六位上云官府を被下より以降、朱雀院御宇天慶三年正月諸国諸神奉増一階、白河院御宇、永保元年二月、同奉増一階。崇徳院御宇、永治元年七月、同奉増一階。高倉院御宇治承四年十二月、同奉増一階、仍今度もかように被行けり。
源平侍遠矢附成良返忠事
平家は屋島をば落ぬ、九国へは入られず、寄方もなく浮宕て、長門、壇浦、赤間、門司関、引島に著て波上に漂、船中に送日給ふ。源氏は阿波国勝浦に著。所々の軍に討勝て、屋島の内裏を追落し、平家の船の行に任て陸より責追。焼野雉の隠なく、鷹の責るに不異。源氏は於井津部井津と云所に著。平家の陣を去事二十余町也。
同三月二十四日、九郎判官義経已下の軍兵、七百余艘にて夜の陵晨に責寄す。平家待請たり。五百余艘の兵船を漕向へ、矢合して戦。源平両方の軍兵十万余人なれば、互に時を発す声鏑矢の鳴違音、上は蒼天に聞え、下は海底に響らんとぞれける。
参川守範頼、千葉介常胤、稲毛、榛谷、海老名、中条、相馬、大田、大胡、広瀬、小代、中村、久下、塩谷、三万余騎にて九国地に著、前をきる。籠中の鳥出難く、網代■免れんや。海には船を浮たり、陸には轡並たり、東西南北塞て、漏べき方こそなかりけれ。
権中納言知盛卿、船の舳に立出て被申けるは、軍は今日を限、各退く心有べからず、自昔至于今まで、軍敗運尽ぬれば、名将勇士も、或路人の為に被獲、或為行客囚、是皆難去死を遁んと思故也、各命を此時に失て、必名を後の世に留よ、東国の奴原にわるびれて見ゆな、何の科にか命をも可惜、心を一にして義経を取て海に入よ、今度の合戦の執心此事にありと被申ければ、近く候ける武蔵三郎左衛門有国、各此仰奉れやと申。悪七兵衛景清が、中坂東の者共は、馬上にてこそ口は聞候へ共、船軍は未練なるべし、只魚の木に登らん如くなるべし、必失寸歩可抛弓箭、一々に取て海に入なんと申。由々敷ぞ聞し。越中次郎兵衛盛嗣申けるは、九郎冠者が軍将として上ると承し間、縁に付て其様を尋聞しかば、面長して身短く、色白して歯出たり。身を窄してよき鎧をきず、日々朝夕に物具を替ふと云き、得其意くまん/\と申。人々口々に、九郎は心こそ猛共、勢が小あるなれば、其冠者何事か有べき、目にかれてんには寄合、片脇に掻挟でつと海へ入なんと申。伊賀平内左衛門家長は、あゝ世は不思議の事哉、金商人が従者して奥州へ下たりける者が、源氏の大将軍して、君に向ひ進矢を放事よ、御運の尽させ給ふと云ながら、口惜事哉と/\と。
権中納言知盛卿、大臣殿の前へ進で被申けるは、今日の合戦兵の景気勇ありて見え候、但成良は一定心替したりと覚ゆ、頸を切侍ばやと宣へば、大臣殿は、そも実否を聞定てこそ、若僻事ならば不便也とて不詳ければ、度々被諌申成良を召。木蘭地直垂に、洗革の冑著て、大臣殿の前に蹲踞せり。成良こそ先々の様に事をもおきてね、今日はわるびれて見ゆ、若臆し侍るか、四国の者どもに軍よくせよと下知すべしと被仰ければ、なじかは臆し侍べきとて立ぬ。知盛卿は太刀の管に手を懸て、頸を打ばやと思召けれ共、免し給はねば力なし。肥後国住人菊地次郎高直、原田大夫種直等は、平家に相従たりければ、三百余艘先陣に漕向へ、弓の上手大矢共をそろへて散々に射ければ、源氏の兵多く討れて舟共指退。平家は勝ぬとて、阿波国住人新居紀三郎行俊、唐鼓の上にのぼりて、責鼓を打て■けり。
判官は軍負色に見えければ、塩瀬の水に口を漱、目を塞て合掌、八幡大菩薩を祈念し奉る。加神明擁護給、白鳩二羽飛来て、判官の旗の上にぞ居たりける。源平共にあれ/\と云程に、東の方より一村の黒雲たなびき来て、軍場の上にかゝる。雲中より白旗一流おり下て、判官の旗頭ひらめきて雲と共に去ぬ。源氏は合掌拝之、平家は身毛竪て心細く覚しける。
源氏の軍兵等、此等の霊瑞を拝ければ勇■て、或船に乗移て、漕寄々々戦者もあり。或は陸を歩せて、指詰々々射者もあり。強弓精兵矢継早の手だり共、不劣不負と散々に射ければ、平家乱合て戦、勝劣更に不見。三浦平太郎義盛、船には不乗浦路を歩せ、敵の舟をさしつめ/\射けるこそ物に当るも健く、遠も行けれ。
前権中納言知盛卿乗給へる船、三町余を隔て澳に浮ぶ。三浦義盛十三束二伏の白箆に、山鳥の尾を以矯たりけるを、羽本一寸ばかり置て、三浦小太郎義盛と焼絵したりけるを、能引て兵と放つ。知盛卿の舷に立て動けり。中納言此矢を抜せて、舌振して立給へり。三浦は遠矢射澄したりと思て、鐙踏張弓杖つき立上つて、扇をひらいて平家を招。其矢射返せとの心也。中納言是を見給て、平家の侍の中に、此矢可射返者はなきかと被尋けるが、阿波国住人新居紀四郎宗長、手は少し亭なれ共、遠矢は四国第一とて被召たり。宗長三浦が箭をさらり/\と爪遺て、此箭箆姓弱矢つか短し、私の矢にて仕侍べしとて、黒塗の箭の十四束なるを、只今漆をちと削のけ、新居紀四郎宗長と書付て、舳屋形の前ほばしらの下に立て、暫固て兵と放つ。三浦義盛が弓杖に懸けて居たりける甲の鉢射削、後四段計に引へたる三浦石左近と云ふ者が、弓手の小かひな射通す。源氏軍兵等、嗚呼、義盛無益して遠矢射て、源氏の名折ぞ/\と云ければ、判官宗長が矢を取て、これ返すべき者やあると被尋ければ、土肥次郎実平が申けるは、東八箇国には此矢に射勝べき者不覚、甲斐源太殿の末子に、浅利与一殿ぞ遠矢は名誉し給たると挙す。さらば奉呼とて招寄。判官宣ひけるは、三浦義盛遠矢射損じて、答の矢被射たり、時の恥に侍、其返給ひなんやといはれければ、与一は宗長が矢を取て、さらりさらりと爪遣て、此は箆誘も尋常に、普通には越侍、但遠忠が為には不相応、私の具足にて仕べしとて判官の前を立。其日の装束には、魚綾の直垂に、折烏帽子を引立て、黄河原毛馬に、白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。白木弓の握太なるを召寄て、白篦十四束二伏に誘たる、切府に鵠の霜降破合て矯たる征矢一手取り添て、遠矢の舟はいづれぞと問。舳屋形の前に扇披きつかひて、鎧武者の立たる船と教ふ。遠忠能引固て兵と放つ。宗長が遠箭射澄たりと存て、ほばしらにより懸り、小扇ひらき仕ける鎧の■板かけずつと射とほし、其矢はぬけて海上五段計にさと入。宗長ほばしらの本に倒る。其後源平の遠矢はなかりけり。三浦義盛遠矢射劣て、此恥を雪んと思、小船に乗、楯突向て漕廻々々、面に立平家の侍共、差詰々々射倒す。元来精兵の手だりなれば、簇に廻者なし。源氏方に斉院次官親能と名乗■懸て戦ふ。平家方には誰とは不知武者一人、舷に立て、あゝ親能は右筆ばかりは取も習たるらん、弓矢の道は不知者をと云たりければ、敵も御方もはつと笑。親能赤面してぞ侍りける。
源氏は大勢也、勝に乗て攻戦。平家は小勢也、今日を限と振舞けり。帝釈修羅の闘諍、争かこれには勝るべき。平家は船を二三重に構たり。唐船には、軍将の乗たる体にて軍兵を乗たり。兵船には大臣殿已下、可然人々被乗たり。源氏軍将の唐船を攻ん時、兵船源氏の船を指廻して、中に一人も取籠不洩うたんとの謀也。民部大輔成良は、さしも平家に忠を致しか共、忽に心替して、四国の軍兵三百余艘漕却て、軍の見物して居たり。平家強らば源氏をいん、源氏勝色ならば平家を射んとぞ強健たる。天をも可度地をも可度、只不可度は人の心と、誠哉成良。
源氏、海には櫓械を並て兵船数を不知、陸には轡を並て其勢雲霞の如。平家如何にも難叶見えける上、子息伝内左衛門が事も悲ければ、成良判官へ使を立て申けるは、唐船には、大将軍の乗たる様にて軍兵を被乗たり、兵船には、大臣殿已下の公達召れたり、唐船を責させて、源氏を中に取こめんと支度し侍、御意有べき中言して、成良が一類、相従四国の者共、三百余艘漕寄つゝ、指合て平家を射。成良は心替者なり、頸を切ばやと中納言のよく宣ける者をと、大臣殿後悔し給けれ共云がひなし。
知盛船掃除附占海鹿並宗盛取替子事
〔去程に、〕源氏の兵共いとゞ力を得て、平家の船に漕寄々々乱乗。遠をば射近をば斬、竪横散々に責。水手かんどり、櫓をすて梶を捨て船を直すに及ず、被射伏被切伏、船底倒れ水の底に入。中納言は、女院二位殿などの乗給へる御船に参られたりければ、女房達、こはいかに成侍ぬるぞと宣ければ、今は兎も角も申にことば不足、兼て思儲し事也、めづらしき東男共をこそ御覧ぜんずらめとて打笑給。手自船の掃除して、見苦き物共海に取入、こゝ拭へかしこ払へなど宣ふ。さほどの事に成侍なる閑なるに戯言哉とて、女房達声々をめき叫給。此に海鹿と云大魚二三百もやあるやらん、塩ふき立て食て来る。安部晴延と云小博士を召て、いかなるべきぞと尋給ふ。晴延占文披いて、此海鹿食返ば源氏有疑、食通ば御方に無憑と申けるに、此魚一も不食返。平家の船の下をついくぐり、ついくゞり食て過ぬ。小博士今はかう候とて、涙をはら/\と流ければ、人々声を立てぞをめき給ふ。二位殿は今を限にこそと聞給ければ、宗盛は入道大相国の子にも非ず、又我子にもなし、されば小松内府が心にも似ず、思おくれたるぞとよ、海に入自害などもせで、虜れて憂目などをや見んずらん、心憂こそ覚れとぞ宣ける。宗盛、入道の子に成ける故は、二位殿重盛を嫡子に儲て後、又懐妊したりけるに、入道、弓矢取身は男子こそ宝よ、嫡子に一人あれば心苦、必弟儲て給へ、とぎにせさせんと云。二位殿不斜仏神に祈申、月満じて生れたれば女子也、音なせそ如何がせんとて、方々取替子を尋ける程に、清水寺の北坂に、唐笠を張て商ふ僧あり。憖に僧綱に成たりければ、異名に唐笠法橋と云ける者が許に、男子を産たりけるに取替つゝ、入道に男子儲たる由告たれば、大に悦で、産所もはてざりけれ共、嬉さには穢事も忘て女房の許に行、あゝ目出々々とぞ悦給ける。入道世に有し程は、露の言葉にも出し給はず、壇浦にてぞ初角語給ける。
二位禅尼入海並平家亡虜人々附京都注進事
二位殿今は限と見はて給にければ、練色の二衣引纏、白袴のそば高く挟て、先帝を奉懐、帯にて我身に結合進せ、宝剣を腰にさし、神璽を脇に挟て艇に臨給。先帝は八にぞ成せ給ける。御年の程よりはねびとゝのほらせ給て、御形あてにうつくしく、御髪黒くふさやかにして、御背に懸給へる御貌、無類ぞ見えさせ給ける。御心迷たる御気色にて、こはいづこへ行べきぞと被仰けるこそ悲けれ。二位殿は兵共が御船に矢を進せ候へば、別の御船へ行幸なし進せ候とて、
と宣ひもはてず海に入給ければ、八条殿同つゞきて入給にけり。国母建礼門院を始奉て、先帝御乳母、帥典侍、大納言典侍已下の女房達、船の艫舳に臥まろび、声を調て叫給も夥し。軍喚にぞ似たりける。浮もや上らせ給と暫しは見奉けれ共、二位殿も八条殿も、深沈て不見給。昔は一天の主として、殿をば長生と祝、門をば不老と名けしか共、今は雲上の竜下て、忽に海中の鱗と成給こそ悲けれ。哀哉花に喩し十善の御粧、無常の風に匂を失ひ、悲哉月に瑩し万乗の玉体、蒼海の浪に影を沈御座事を。無常元来定なし、有待誰かは恃有なれ共、清涼紫宸の玉台を振棄て、闘戦兵革の船中に行幸して、未十歳にだにも満せ給はぬ御齢に、忽に波の底に入給けん、哀と云も疎也。女院は後奉らじと、御焼石と御硯の箱とを左右の御袂に宿し入、御身を重くしてつゞきて海に入せ給ひけるを、渡辺源次兵衛尉番が子に、源五馬允眤と云者、急飛入て奉潜上けるを、眤が郎等熊手を下て御髪をから巻て御船へ引入奉。弥生の末の事なれば、藤重の十二単の御衣を召れたり。翡翠の御髪より始て、皆塩垂御座ぞ御痛しき。帥典侍も同飛入給けるを、衣のすそと御袴とを舷に射付られ給て、沈み遣給はざりけるを、源次兵衛番奉取上。眤はもしやの時とて、鎧唐櫃の底に持たりける唐綾の白小袖一重取出して女院に進たりけるぞ、夷なれ共情あり。眤は近くは不参寄、程を隔畏て、君は女院にて渡らせ御座かと、度々尋申ければ、御覧じ馴ぬ夷の有様、恐しく思召けれ共、御言をば出させ給はず、二度打うなづかせ給けり。眤御船を漕て、女院をば判官の船に渡入奉。近衛殿の北政所も、海へ飛入せ給けるを、人々取留奉。判官伊勢三郎義盛を以、海には大事の人々入せ給たるを、取上進せたらん者共、狼藉仕るなと下知しければ、義盛小船に乗て触廻。此彼より女房達をば判官の船へ送渡奉る。
兵共先帝の御船へ乱入て、大なる唐櫃の鎖ねぢ破、中なる箱を取出し、箱のからげ緒切解て、蓋をあけん/\としければ、忽に目眩鼻血たる。平大納言時忠卿見給て、内侍所の御箱也、狼藉也と宣へば、判官是を聞て制止を加ふ。武士共御船を罷出ぬ。即平大納言に申て、如元御唐櫃に奉納入。末代といへ共かく霊験の御座こそ目出けれ。神璽は海上に浮給たりけるを、片岡太郎経春取上奉る。前左馬頭行盛は其盛子、前左少将有盛は小松大臣の息男、共に太政入道の孫也。同船して御座けるが、軍の様今を限と思ければ、甲を脱捨鎧の袖切落、身軽して舷に進み出、有盛先陣に在て源氏の兵と射合けり。行盛は暫最後所作と覚くて、船の舳頭にして、提婆品をぞ読給ふ。一品既に終ければ、西に向て廻向して、有盛と立並、簇をそろへて射けるにこそ数の兵も亡びけれ。熊井太郎忠元、江田源三弘基已下の輩、舟を押廻て両方より乗移ければ、行盛、有盛弓をば棄、剣を抜、不弱心不■命艫舳に廻て散々に戦、首をならべて討死してぞ亡にける。勇兵の振舞尤くぞ覚ける。行盛提婆品を読給ひける事は、父基盛大和守に任じて上洛時、宇治河のはたに下て、水練して游けるに、水に流て死けり。其後基盛の女房夢に見えけるは、我思かけず宇治左大臣頼長の為にとられて河の底
に沈ぬ、法華経にあらずば得道しがたし、追善には提婆品読誦書写して廻向せよと見えたりければ、此夢を阿翁入道殿に語たれば、不便なりとて福原の経島に御堂を立て、八人の持経者を置て、毎日に法華経を転読し、殊に提婆品をば極信に被読けり。行盛其此は幼少也、成人して是を聞、毎日に不懈此品をよみ給けるが、今日は未読給はざりけるやらん、又今を最後と思召けるにや、最貴哀にぞ覚えける。
源氏の郎等に後藤三範綱は、平家の船に飛入て、弓をば捨て打物抜て走廻けるを、越中次郎兵衛盛嗣、寄合組で重り、上に成下になり、船中を五ころび六ころびしければ、互に刀を抜隙もなかりける処に、盛嗣を助とて悪七兵衛景清、範綱をばさしてけり。前能登守教経は、元来心剛に身健にして、有進事無退事。軍敗ぬと見えければ思切、死生不知に振舞。是ぞ聞ゆる能登守とて、我先我先にと諍て懸けれ共、少も面も振ず戦。矢ごろに廻者をば指詰々々指詰射けるに、更にあだ矢なし。近付者をば引寄、提て海へ抛入ければ、面を向がたし。太刀にて切は少く水にはまるは多し。前中納言知盛卿是を見て、由なき事し給者かな、此輩は皆歩兵にこそ侍める、強に目にたて給べきにあらず、自害をもし給へかしと宣へば、偖は九郎冠者に組とにこそ、其は存る処也。如何がはせんと伺廻処に、判官の船と能登守の船と、すり合て通りけり。能登守可然とて、判官の船に乗移、甲をば脱棄大童になり、鎧の袖草摺ちぎり捨、軽々と身を認て、何れ九郎ならんと馳廻る。判官兼て存知して、兎角違て組じ/\と紛れ行。さすが大将軍と覚て、鎧に小長刀突て武者一人あり。能登守懸目て、軍将義経と見るは僻事歟、故太政入道の弟、門脇中納言教盛の二男に、能登守教経と名乗、にこと笑飛懸る。判官は組では不叶と思て、尻足踏でぞやすらひける。大将軍を組せじとて、郎等共が立隔々々しけれ共、除奴原人々敷とて、海の中へ蹴入取入つと寄。既に判官に組んとしければ、判官早態人に勝たり、小長刀を脇に挟み、さしくゞりて、弓長二つばかりなる隣の船へつと飛移、長刀取直て、舷に莞爾と笑て立たり。能登守は力こそ勝たりけれ共、早態は判官に及ねば、力なくして舟に留あゝ飛たり/\と嘆。其後能登守、今を限と狂廻ければ面を向難し。爰に安芸太郎時家と云者あり。是は安芸国住人にもなし、安芸守が子息にも非ず、阿波国住人安芸大領と云者が子也。三十人が力持たりと聞ゆ。郎等二人あり、同三十人づつ力あり。時家二人の郎等に云けるは、我等三人心を一にしてくまんには、鬼神と云共負まじ、能登殿強しと云共、やは三人には勝給べき、三人取つて合すれば九十人が力也、私の力態は人の証拠にたゝず、能登守に組で力をも人に知せ、剛の名をも極めんと思ふは如何にといへば、郎等子細にや及べきとて、三人一度に傾■打て懸る。能登守は、源氏の郎等に名もあり力あればこそ教経には懸るらめ、是ぞ軍の最後なると思ければ、閑々と相待処に、三人鼻を並透間もなくつと寄。一人をば海中へたふと蹴入、二人をば左右の脇に掻挟で、一凍々て、いざおのれら教経が御伴申せ、南無阿弥陀仏/\とて海の底へぞ沈ける。
< 異説には自害云云。 >
宗盛公、子息清宗二人は海にも入ず自害をもせず、船中を兎違角違々行給ければ、侍共余に悪く思て、通様にて海に奉突入。人は鎧の上に碇を置、冑の上に鎧を重て、身を重してゐればこそ沈むに、是はすはだにて、而も究竟の水練也。清宗は父沈給はば我も沈んとおぼし、宗盛は子沈ば我も沈んと思て、二人ながら沈ず、竪ざま横ざま立游、犬游して沈み給はざりけるを、伊勢三郎義盛船を押寄せて、右衛門督を熊手に懸て引上。大臣殿此様を見て、態義盛が船近く游寄て、被取上給にけり。飛騨三郎左衛門景経見是て、何者なれば我君をば奉取ぞと云て、太刀を抜て打てかゝる処に、義盛が童主を不討と中に隔り戦けるが、童一の刀に甲を被打落て、二の刀に頸を切落されぬ。即義盛に打懸。危見えけるに、堀弥太郎親弘固て放矢に、景経が内甲を射。ひるむ処を親弘弓を捨て得たりと懐く。上になり下になりころびける処を、親弘が郎等落合て、景経が首をとる。此三郎左衛門と云は、大臣殿の乳母子也。目の当見給へば、さこそ悲く覚しけめ。前内大臣宗盛は、苟も為征夷之将、忽囚匹夫之手、永懸■於万人之唇、独残恥於累祖之跡、無慙と云も疎也。
前修理大夫経盛卿は、船を遁去て入南山、自害して被堀埋にけり。去難不去死、骨を埋共、不埋名。
前平中納言教盛、同新中納言知盛卿は、一所に御座けるが、伊賀平内左衛門を被召て、いかに家長見るべき事は見つ、先帝を始進せて、一門の人々自害し海に入ぬ、今までも角あれば、強面命を惜むに似たり、大臣殿は如何に成給ぬるやらんと問給。家長涙を流して、大臣殿右衛門督殿二人は、一度に海に入給たりつるを、敵熊手にかけ奉て、二所ながら引上取進せ候ぬ、景経も討死候ぬと申ければ、知盛卿は穴心憂、など深は沈給はざりけるぞと二度宣て、涙をはら/\と流て、今は何をか可見聞、家長日比の約束はいかにと仰られければ、今更君に離奉て、いづちへ行べきに候はず、御伴なりと申せば、知盛卿余に嬉しげに思て、平中納言教盛卿と冑脱捨て、西に向念仏申て、両人被自害ければ、有国家長已下侍八人、同枕に自害して伏ぬ。知盛卿は不辱猛将之聞、教盛卿は不劣武勇之名、共亡命於西海、互伝誉於東路たる。
< 一説云、知盛、教盛両人は、腹巻の上に鎧を著、身を重して手を取組、海に入給ければ、侍共八人同続て入にけり。源氏の兵共哀とみる処に、年三十計の男の、木蘭地直垂に黒糸威の腹巻に、二所籐の塗籠たる弓の真中取、甲をも著ず箙も負ず、矢二三執添て、赤銅作の太刀帯て、中納言の海へ入給へるせがいへつと出来、海を睨て立たり。源氏其意をば不知、目を澄て是を見、あはれよき侍共をば召仕給ける者哉、或ひは虜、或海に沈て、主は一人もなけれ共、事に遇べき事様也、何者に目を懸伺居たるらんと私語見けれども、近付寄者なければ、仕出せる事はなし。良久海を睨て後、弓矢をざぶと投入つゝ、我身も海につと入、又も浮まで沈にけり。こは何としつる事ぞと、取々不審を成けるに、或人の申けるは、此者は一定中納言の侍なり、中納言さる謀賢人にて、身をばよく認て入たりとも、若浮上事もあらば、敵の手に懸ずして汝射殺と約束せられたりけると覚る。大臣父子沈もやらで、敵に虜れ給へるをも心憂こそ覚しけめ、さればこそ主の入たる処を睨で、別に子細はなくして共に海には沈らめ。哀此人に世を譲たらば、たとひ運の極也とも、都にて如何にも成給なましと、惜まぬ者はなかりけり。 >
赤旗赤符海上に充満て、紅葉を嵐の吹散したるが如し。海水も血に変じて、渚々に寄波、薄紅にして流ける。主を失へる船は、風に随塩に引れて、越路の雁行を乱れるが如、膚を離たる衣は、水に浮波に諍て、蜀江の錦色を洗かと疑る。玉楼金殿の昔の栄花、船中の浪の底、今の有様、思並て哀なり。
< 元暦二年の春の暮、如何なる年如何なる日ぞ、一人海底に沈、百官水泡と消ゆ。 >
豊後国八代宮の神主に、七郎兵衛尉某と云者父子は、平家に被催軍しける程に、壇浦の軍敗て遁べき方なし、自害をせばやと思て、子息の大夫を招て、平家ははや亡ぬ、我等囚〔びと〕に成なば一定可被誅、旧里に帰今一度妻子をも見ばやと思、又可自害歟それ計へと云。子息大夫申けるは、我等必しも平家重代の侍に非、又心より発て軍せず、十善帝王御座とて、被駈催一旦参ず、強に罪深からず、只旧里に返退て、無■由を陳じ申給へ、但只今舟を漕行ば、落人とてよも不被生、年来の水練此時にあり、水底を游給へと云。可然とて鎧物具脱棄て裸に成、褌かき、父子共水底に飛入て、豊前国柳浦を志て游行。門司が浦より柳浦までは、海の面五十余町の処也。今二十町計不行著して、父の兵衛尉子息大夫を呼返して云、去共と思つれ共、我左の足を引入/\する者あり、今は故郷に游著ん事難叶、去ばこそ汝にも游後ると云。大夫は疲給たるにこそ、何物かは足を引侍べき、只我肩に懸給へといへば、我身こそ死ぬ共、汝をさへ沈めん事不便也、如何にも足が重ければ叶はじと云へば、大夫水底に入て足を捕て見れば、余に周章、髄当の片方の緒をば解て、今片方を不解けるが、水にしとみて重かりけり。引切て角といへば、さては游んとて、二時計に柳浦へ游上る。宿所に帰て妻子を見悦事極なし。世静て鎌倉に下陳じ申ければ、難遁罪科なれ共、社官に被咎行事、思へば神慮難量とて、八十五町の神田相違なく、如元被補神主職罷下にけり。
平家亡て、猪俣近平六と、常陸の八田左衛門知家と乗たる船の本へ、つきうす一つゆられ来。機嫌なしと笑けるに、近平六、平家の臼と見ゆる也けりと云。八田知家、年来の憑も今はつきはててと付、人々興に入てぞ笑ひける。
同四月四日、九郎判官義経合戦の次第注進して、以飛脚院御所へ奏申けり。注進状には、去三月廿四日午刻、於長門国壇浦、平氏悉討取、大将軍前内大臣已下虜、神璽、内侍所、無為可帰入御座、宝剣厳島神主景弘仰、探求海底、虜人、建礼門院、若宮冷泉局、大納言典侍、帥典侍、前内大臣、前平中納言時忠卿、前右衛門督清宗卿、前内蔵頭信基朝臣、前左中将時実朝臣、前兵部少輔尹明、蔵人大夫親房、全真僧都、能円法師、自害人、前中納言教盛卿、同知盛卿、前修理大夫経盛卿、〈 登山自害掘埋 〉前能登守教経、戦死者、前左馬頭行盛朝臣、前左少将有盛朝臣、入海中人、先帝、准后、八条局、侍虜、美濃守則清、左衛門尉信康、阿波民部大輔成良、降人、前安芸守景弘、〈 厳島神主 〉民部大輔景信、雅楽助貞経、〈 貞能男 〉伝内左衛門尉則長、矢野右馬允家村、同舎弟高村、相模国住人熊代三郎家直とぞ注し申たりける。法皇大に有御感、貴賎悦あへり。使節広綱を御坪に召れて、合戦の次第委有御尋。叡感の余り広綱左兵衛尉に補す。
同日に徳大寺内大臣定実、院御所六条殿へ被参たり。以大蔵卿泰経卿、神鏡神璽は無為に御座。宝剣は厳島神主仰景弘、探求海底之由、義経言上す。虜前内大臣已下の罪科、何様に可被行哉と被仰下ければ、実定畏て、璽鏡事、弁官并近衛司等を雖可被指遣、定て及遅怠歟、先為軍将沙汰、奉渡淀辺事由を奏せば、供奉人等参向して奉迎之条可宜歟、生捕の輩が罪の所致、唯可被決叡慮かとぞ被申ける。同五日猶依御不審、北面下�に、藤判官信盛を西国へ被下遣。信盛宿所に不帰、鞭を上て急馳下る。権亮三位中将北方伝聞給ては、賢ぞ身抛給ける、つひの別は同事と云ながら、今迄もながらへて角聞なさば、如何計かは悲しからましと、今こそ思知れけれ。
奉始建礼門院、北政所、帥典侍、大納言典侍以下、或は討れ或は捕れたる人々北方、上�下�船底に臥まろび、声を調てをめき叫給へり。人目をも見ぬ人々の、不見馴武士の手に懸て、都へ帰上給しは、王昭君が夷の手に被渡て、胡国へ行し悲さも、争か是には勝るべき。
抑依諸国七道合戦、公家も武家も騒動し、諸寺諸山も破滅す。春夏は旱魃して、秋冬は大風洪水、適雖致東作之業、終不及西収之勤、三月無雨、寒風起麦黄不秀、多横はる。九月に霜降て、秋早寒ければ、秋の穂不熟して青苗皆乾、兵乱打つづきて、口中の食を奪取ば、天下の人民及餓死。僅命を生たる者も、譜代相伝の田地を棄、恩愛慈育の子孫にわかれ、家を出ても身を助けんと逃隠、境を越ても命を生んと迷行ければ、浪人街■にさすらひ、愁の音こゝかしこに充満たり。
安徳帝不吉瑞並義経上洛事
此帝をば安徳天皇と申て、御位を受させ給て、様々の不思議御座けり。受禅の日は、昼御座御茵の縁、犬食損、夜の御殿の御帳の中に鳩入籠り、御即位の時は、高御厨子の後に、女房俄に絶入し、御禊の日は、白子帳の前に夫男上居き。惣じて御在位三箇年の間に、天変地震打続て無隙、諸寺諸山よりさとしを奏する事頻也。堯の日光を失、舜の雨潤なし。山賊、海賊、闘諍、合戦、天行、飢饉、疫病、焼亡、大風、洪水、三災七難残事なし。貞観の旱、永祚の風、承平の煙塵、正暦の疾疫、上代にも有けれ共、彼は其一事計也。此御代の様は不及伝聞、御裳濯河の御流、懸るべしやと人傾申けり。漢高祖は太公の子、秦王を討て即位、秦始皇は呂不韋が子、荘襄王の譲を得、舜王は瞽■が息堯王天下を任たり。人臣の位を受、猶以帝位を全せり。先帝は人皇八十代帝、高倉院の后立の皇子に御座せば、天照太神も定て入替らせ給、正八幡宮も必守護し奉るらんに、いかに角は申けり。是を聞人云、異国には実にさる様し多し、我朝には、人臣の子として位を践事なし、此帝高倉院の后立の皇子と申ながら、故清盛入道、天照太神の御計をも不知、高倉院の御恙もましまさぬに御位を奉退、推て奉即位。其身帝祖といはれ、非摂政関白、恣に天下を執行、君をも臣をも蔑如にし、諸寺仏閣焼払、上下男女多亡しかば、人の歎神の怒、末の露もとのしづくに帰る様に、平家の悪行君に帰し、天地の心にも違、冥慮の恵にも背にあり。
< 不患位之不貴、而患徳之不崇、不恥禄之不夥、而恥智之不博云といへり。先帝も猶帝徳の至ましまさゞりけるを、入道横に計申たれば、懸る不思議多して天下も不治、終に亡御座けりとぞ申ける。 >
同十六日、九郎判官義経虜の人々を相具して、播磨国明石浦に著。名にしおふ名所なる上、今夜はことに月隈なくさえつゝ秋の空にも不劣、深行儘に女房達頭さしつどへて、旅寝の空の旅なれば、夢に夢見る心地にて、終夜打まどろむ事もなし。唯顔に袖を当て、忍音をのみぞ泣れける。時忠卿の北方帥典侍、つく/゛\と泣明し給にも、
判官情ふかき人にて、
と。帥典侍は、妹背の契の悲さに、思残す事もおはせず、時忠卿も虜れて程近く御座なれ共、相見る事もなければ、昔語も恋しくて、
と、時忠卿も、身は所々に隔たれ共、通ふ心なりければ、
と、二人の心中被推量て哀なり。昔北野天神の移され給ふとて、此所に留給ひ、
と詠じ給ひける御心の中、帥典侍の、月よ雲井の物語せよの心の中、取々に哀也。故郷に還上る事の嬉しかるべけれ共、指も眤まじき人々、多は水の底に入ぬ。適生残たるは此彼に被誡、憂名を流す。縦都に上たり共、家々は一年都落に焼ぬ。何処に落留誰育べきに非ず。雲上の昔の楽、旅枕の今の歎、思も並て、月よ雲井物語と口ずさみ給て、涙に咽給へば、人皆袖を絞けり。判官は東男なれ共、物めでし情ある人にて、様々慰労けり。
神鏡神璽還幸事
同二十一日、神鏡神璽還幸事、院御所にして議定あり。左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣実定、皇后宮大夫実房、中御門大納言宗家、堀川大納言忠親、前源中納言雅頼、左衛門督実家、源中納言通親、新藤中納言雅長、左大弁兼光ぞ被参たりける。頭中将通資朝臣、諸道勘文を左大臣に下しければ、次第に伝下す。左大弁読之。群議之趣雖事多、神鏡神璽入御事、供奉之人鳥羽に参向して奉渡朝所、朝所より儀を整て、可幸大内とぞ、被定申ける。



