(前編)
一
新橋を渡る時、発車を知らせる二番目の鈴が、霧とまではいえない九月の朝の、煙った空気に包まれて聞こえて来た。葉子は平気でそれを聞いたが、車夫は宙を飛んだ。そして車が、鶴屋という町のかどの宿屋を曲がって、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりを駆けぬける時、停車場の入り口の大戸をしめようとする駅夫と争いながら、八分がたしまりかかった戸の所に突っ立ってこっちを見まもっている青年の姿を見た。
「まあおそくなってすみませんでした事……まだ間に合いますかしら」
と葉子がいいながら階段をのぼると、青年は粗末な麦稈帽子をちょっと脱いで、黙ったまま青い切符を渡した。
「おやなぜ一等になさらなかったの。そうしないといけないわけがあるからかえてくださいましな」
といおうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけあいている改札口へと急いだ。改札はこの二人の乗客を苦々しげに見やりながら、左手を延ばして待っていた。二人がてんでんに切符を出そうとする時、
「若奥様、これをお忘れになりました」
といいながら、羽被の紺の香いの高くするさっき[#「さっき」に傍点]の車夫が、薄い大柄なセルの膝掛けを肩にかけたままあわてたように追いかけて来て、オリーヴ色の絹ハンケチに包んだ小さな物を渡そうとした。
「早く早く、早くしないと出っちまいますよ」改札がたまらなくなって癇癪声をふり立てた。
青年の前で「若奥様」と呼ばれたのと、改札ががみ[#「がみ」に傍点]がみどなり立てたので、針のように鋭い神経はすぐ彼女をあまのじゃく[#「あまのじゃく」に傍点]にした。葉子は今まで急ぎ気味であった歩みをぴったり[#「ぴったり」に傍点]止めてしまって、落ち付いた顔で、車夫のほうに向きなおった。
「そう御苦労よ。家に帰ったらね、きょうは帰りがおそくなるかもしれませんから、お嬢さんたちだけで校友会にいらっしゃいってそういっておくれ。それから横浜の近江屋――西洋小間物屋の近江屋が来たら、きょうこっちから出かけたからっていうようにってね」
車夫はきょと[#「きょと」に傍点]きょとと改札と葉子とをかたみがわりに見やりながら、自分が汽車にでも乗りおくれるようにあわてていた。改札の顔はだんだん険しくなって、あわや通路をしめてしまおうとした時、葉子はするするとそのほうに近よって、
「どうもすみませんでした事」
といって切符をさし出しながら、改札の目の先で花が咲いたようにほほえんで見せた。改札はばかになったような顔つきをしながら、それでもおめ[#「おめ」に傍点]おめと切符に孔を入れた。
プラットフォームでは、駅員も見送り人も、立っている限りの人々は二人のほうに目を向けていた。それを全く気づきもしないような物腰で、葉子は親しげに青年と肩を並べて、しずしずと歩きながら、車夫の届けた包み物の中には何があるかあててみろとか、横浜のように自分の心をひく町はないとか、切符を一緒にしまっておいてくれろとかいって、音楽者のようにデリケートなその指先で、わざとらしく幾度か青年の手に触れる機会を求めた。列車の中からはある限りの顔が二人を見迎え見送るので、青年が物慣れない処女のようにはにかんで、しかも自分ながら自分を怒っているのが葉子にはおもしろくながめやられた。
いちばん近い二等車の昇降口の所に立っていた車掌は右の手をポッケットに突っ込んで、靴の爪先で待ちどおしそうに敷き石をたたいていたが、葉子がデッキに足を踏み入れると、いきなり耳をつんざくばかりに呼び子を鳴らした。そして青年(青年は名を古藤といった)が葉子に続いて飛び乗った時には、機関車の応笛が前方で朝の町のにぎやかなさざめき[#「さざめき」に傍点]を破って響き渡った。
葉子は四角なガラスをはめた入り口の繰り戸を古藤が勢いよくあけるのを待って、中にはいろうとして、八分通りつまった両側の乗客に稲妻のように鋭く目を走らしたが、左側の中央近く新聞を見入った、やせた中年の男に視線がとまると、はっ[#「はっ」に傍点]と立ちすくむほど驚いた。しかしその驚きはまたたく暇もないうちに、顔からも足からも消えうせて、葉子は悪びれもせず、取りすましもせず、自信ある女優が喜劇の舞台にでも現われるように、軽い微笑を右の頬だけに浮かべながら、古藤に続いて入り口に近い右側の空席に腰をおろすと、あでやかに青年を見返りながら、小指をなんともいえないよい形に折り曲げた左手で、鬢の後れ毛をかきなでるついでに、地味に装って来た黒のリボンにさわってみた。青年の前に座を取っていた四十三四の脂ぎった商人体の男は、あたふた[#「あたふた」に傍点]と立ち上がって自分の後ろのシェードをおろして、おりふし横ざしに葉子に照りつける朝の光線をさえぎった。
紺の飛白に書生下駄をつっかけた青年に対して、素性が知れぬほど顔にも姿にも複雑な表情をたたえたこの女性の対照は、幼い少女の注意をすらひかずにはおかなかった。乗客一同の視線は綾をなして二人の上に乱れ飛んだ。葉子は自分が青年の不思議な対照になっているという感じを快く迎えてでもいるように、青年に対してことさら親しげな態度を見せた。
品川を過ぎて短いトンネルを汽車が出ようとする時、葉子はきびしく自分を見すえる目を眉のあたりに感じておもむろにそのほうを見かえった。それは葉子が思ったとおり、新聞に見入っているかのやせた男だった。男の名は木部孤※[1]といった。葉子が車内に足を踏み入れた時、だれよりも先に葉子に目をつけたのはこの男であったが、だれよりも先に目をそらしたのもこの男で、すぐ新聞を目八分にさし上げて、それに読み入って素知らぬふりをしたのに葉子は気がついていた。そして葉子に対する乗客の好奇心が衰え始めたころになって、彼は本気に葉子を見つめ始めたのだ。葉子はあらかじめこの刹那に対する態度を決めていたからあわても騒ぎもしなかった。目を鈴のように大きく張って、親しい媚びの色を浮かべながら、黙ったままで軽くうなずこうと、少し肩と顔とをそっちにひねって、心持ち上向きかげんになった時、稲妻のように彼女の心に響いたのは、男がその好意に応じてほほえみかわす様子のないという事だった。実際男の一文字眉は深くひそんで、その両眼はひときわ鋭さを増して見えた。それを見て取ると葉子の心の中はかっ[#「かっ」に傍点]となったが、笑みかまけたひとみはそのままで、するすると男の顔を通り越して、左側の古藤の血気のいい頬のあたりに落ちた。古藤は繰り戸のガラス越しに、切り割りの崕をながめてつくねん[#「つくねん」に傍点]としていた。
「また何か考えていらっしゃるのね」
葉子はやせた木部にこれ見よがしという物腰ではなやかにいった。
古藤はあまりはずんだ葉子の声にひかされて、まんじり[#「まんじり」に傍点]とその顔を見守った。その青年の単純な明らさまな心に、自分の笑顔の奥の苦い渋い色が見抜かれはしないかと、葉子は思わずたじろ[#「たじろ」に傍点]いだほどだった。
「なんにも考えていやしないが、陰になった崕の色が、あまりきれいだもんで……紫に見えるでしょう。もう秋がかって来たんですよ。」
青年は何も思っていはしなかったのだ。
「ほんとうにね」
葉子は単純に応じて、もう一度ちらっ[#「ちらっ」に傍点]と木部を見た。やせた木部の目は前と同じに鋭く輝いていた。葉子は正面に向き直るとともに、その男のひとみの下で、悒鬱な険しい色を引きしめた口のあたりにみなぎらした。木部はそれを見て自分の態度を後悔すべきはずである。
二
葉子は木部が魂を打ちこんだ初恋の的だった。それはちょうど日清戦争が終局を告げて、国民一般はだれかれの差別なく、この戦争に関係のあった事柄や人物やに事実以上の好奇心をそそられていたころであったが、木部は二十五という若い齢で、ある大新聞社の従軍記者になってシナに渡り、月並みな通信文の多い中に、きわだって観察の飛び離れた心力のゆらいだ文章を発表して、天才記者という名を博してめでたく凱旋したのであった。そのころ女流キリスト教徒の先覚者として、キリスト教婦人同盟の副会長をしていた葉子の母は、木部の属していた新聞社の社長と親しい交際のあった関係から、ある日その社の従軍記者を自宅に招いて慰労の会食を催した。その席で、小柄で白皙で、詩吟の声の悲壮な、感情の熱烈なこの少壮従軍記者は始めて葉子を見たのだった。
葉子はその時十九だったが、すでに幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手ぎわよく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは充分に持っていた。十五の時に、袴をひもで締める代わりに尾錠で締めるくふうをして、一時女学生界の流行を風靡したのも彼女である。その紅い口びるを吸わして首席を占めたんだと、厳格で通っている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮き名を負わせたのも彼女である。上野の音楽学校にはいってヴァイオリンのけいこを始めてから二か月ほどの間にめきめき上達して、教師や生徒の舌を巻かした時、ケーべル博士一人は渋い顔をした。そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と無愛想にいってのけた。それを聞くと「そうでございますか」と無造作にいいながら、ヴァイオリンを窓の外にほうりなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。キリスト教婦人同盟の事業に奔走し、社会では男まさりのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高いそして意志の弱い良人を全く無視して振る舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇指と食指との間にちゃん[#「ちゃん」に傍点]と押えて、一歩もひけ[#「ひけ」に傍点]を取らなかったのも彼女である。葉子の目にはすべての人が、ことに男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男をかなり近くまで潜り込ませて置いて、もう一歩という所で突っ放した。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏みにじるという事を直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても、自分との関係の絶頂がどこにあるかを見ぬいていて、そこに来かかると情け容赦もなくその男を振り捨ててしまった。そうして捨てられた多くの男は、葉子を恨むよりも自分たちの獣性を恥じるように見えた。そして彼らは等しく葉子を見誤っていた事を悔いるように見えた。なぜというと、彼らは一人として葉子に対して怨恨をいだいたり、憤怒をもらしたりするものはなかったから。そして少しひがんだ者たちは自分の愚を認めるよりも葉子を年不相当にませた女と見るほうが勝手だったから。
それは恋によろしい若葉の六月のある夕方だった。日本橋の釘店にある葉子の家には七八人の若い従軍記者がまだ戦塵の抜けきらないようなふうをして集まって来た。十九でいながら十七にも十六にも見れば見られるような華奢な可憐な姿をした葉子が、慎みの中にも才走った面影を見せて、二人の妹と共に給仕に立った。そしてしいられるままに、ケーベル博士からののしられたヴァイオリンの一手も奏でたりした。木部の全霊はただ一目でこの美しい才気のみなぎりあふれた葉子の容姿に吸い込まれてしまった。葉子も不思議にこの小柄な青年に興味を感じた。そして運命は不思議ないたずらをするものだ。木部はその性格ばかりでなく、容貌――骨細な、顔の造作の整った、天才風に蒼白いなめらかな皮膚の、よく見ると他の部分の繊麗な割合に下顎骨の発達した――までどこか葉子のそれに似ていたから、自意識の極度に強い葉子は、自分の姿を木部に見つけ出したように思って、一種の好奇心を挑発せられずにはいなかった。木部は燃えやすい心に葉子を焼くようにかきいだいて、葉子はまた才走った頭に木部の面影を軽く宿して、その一夜の饗宴はさりげなく終わりを告げた。
木部の記者としての評判は破天荒といってもよかった。いやしくも文学を解するものは木部を知らないものはなかった。人々は木部が成熟した思想をひっさげて世の中に出て来る時の華々しさをうわさし合った。ことに日清戦役という、その当時の日本にしては絶大な背景を背負っているので、この年少記者はある人々からは英雄の一人とさえして崇拝された。この木部がたびたび葉子の家を訪れるようになった。その感傷的な、同時にどこか大望に燃え立ったようなこの青年の活気は、家じゅうの人々の心を捕えないでは置かなかった。ことに葉子の母が前から木部を知っていて、非常に有為多望な青年だとほめそやしたり、公衆の前で自分の子とも弟ともつかぬ態度で木部をもてあつかったりするのを見ると、葉子は胸の中でせせら笑った。そして心を許して木部に好意を見せ始めた。木部の熱意が見る見る抑えがたく募り出したのはもちろんの事である。
かの六月の夜が過ぎてからほどもなく木部と葉子とは恋という言葉で見られねばならぬような間柄になっていた。こういう場合葉子がどれほど恋の場面を技巧化し芸術化するに巧みであったかはいうに及ばない。木部は寝ても起きても夢の中にあるように見えた。二十五というそのころまで、熱心な信者で、清教徒風の誇りを唯一の立場としていた木部がこの初恋においてどれほど真剣になっていたかは想像する事ができる。葉子は思いもかけず木部の火のような情熱に焼かれようとする自分を見いだす事がしばしばだった。
そのうちに二人の間柄はすぐ葉子の母に感づかれた。葉子に対してかねてからある事では一種の敵意を持ってさえいるように見えるその母が、この事件に対して嫉妬とも思われるほど厳重な故障を持ち出したのは、不思議でないというべき境を通り越していた。世故に慣れきって、落ち付き払った中年の婦人が、心の底の動揺に刺激されてたくらみ出すと見える残虐な譎計は、年若い二人の急所をそろそろとうかがいよって、腸も通れと突き刺してくる。それを払いかねて木部が命限りにもがくのを見ると、葉子の心に純粋な同情と、男に対する無条件的な捨て身な態度が生まれ始めた。葉子は自分で造り出した自分の穽にたわいもなく酔い始めた。葉子はこんな目もくらむような晴れ晴れしいものを見た事がなかった。女の本能が生まれて始めて芽をふき始めた。そして解剖刀のような日ごろの批判力は鉛のように鈍ってしまった。葉子の母が暴力では及ばないのを悟って、すかしつなだめつ、良人までを道具につかったり、木部の尊信する牧師を方便にしたりして、あらん限りの知力をしぼった懐柔策も、なんのかいもなく、冷静な思慮深い作戦計画を根気よく続ければ続けるほど、葉子は木部を後ろにかばいながら、健気にもか弱い女の手一つで戦った。そして木部の全身全霊を爪の先想いの果てまで自分のものにしなければ、死んでも死ねない様子が見えたので、母もとうとう我を折った。そして五か月の恐ろしい試練の後に、両親の立ち会わない小さな結婚の式が、秋のある午後、木部の下宿の一間で執り行なわれた。そして母に対する勝利の分捕り品として、木部は葉子一人のものとなった。
木部はすぐ葉山に小さな隠れ家のような家を見つけ出して、二人はむつまじくそこに移り住む事になった。葉子の恋はしかしながらそろそろと冷え始めるのに二週間以上を要しなかった。彼女は競争すべからぬ関係の競争者に対してみごとに勝利を得てしまった。日清戦争というものの光も太陽が西に沈むたびごとに減じて行った。それらはそれとしていちばん葉子を失望させたのは同棲後始めて男というものの裏を返して見た事だった。葉子を確実に占領したという意識に裏書きされた木部は、今までおくび[#「おくび」に傍点]にも葉子に見せなかった女々しい弱点を露骨に現わし始めた。後ろから見た木部は葉子には取り所のない平凡な気の弱い精力の足りない男に過ぎなかった。筆一本握る事もせずに朝から晩まで葉子に膠着し、感傷的なくせに恐ろしくわがままで、今日今日の生活にさえ事欠きながら、万事を葉子の肩になげかけてそれが当然な事でもあるような鈍感なお坊ちゃんじみた生活のしかたが葉子の鋭い神経をいらいらさせ出した。始めのうちは葉子もそれを木部の詩人らしい無邪気さからだと思ってみた。そしてせっせ[#「せっせ」に傍点]せっせと世話女房らしく切り回す事に興味をつないでみた。しかし心の底の恐ろしく物質的な葉子にどうしてこんな辛抱がいつまでも続こうぞ。結婚前までは葉子のほうから迫ってみたにも係わらず、崇高と見えるまでに極端な潔癖屋だった彼であったのに、思いもかけぬ貪婪な陋劣な情欲の持ち主で、しかもその欲求を貧弱な体質で表わそうとするのに出っくわすと、葉子は今まで自分でも気がつかずにいた自分を鏡で見せつけられたような不快を感ぜずにはいられなかった。夕食を済ますと葉子はいつでも不満と失望とでいらいらしながら夜を迎えねばならなかった。木部の葉子に対する愛着が募れば募るほど、葉子は一生が暗くなりまさるように思った。こうして死ぬために生まれて来たのではないはずだ。そう葉子はくさ[#「くさ」に傍点]くさしながら思い始めた。その心持ちがまた木部に響いた。木部はだんだん監視の目をもって葉子の一挙一動を注意するようになって来た。同棲してから半か月もたたないうちに、木部はややもすると高圧的に葉子の自由を束縛するような態度を取るようになった。木部の愛情は骨にしみるほど知り抜きながら、鈍っていた葉子の批判力はまた磨きをかけられた。その鋭くなった批判力で見ると、自分と似よった姿なり性格なりを木部に見いだすという事は、自然が巧妙な皮肉をやっているようなものだった。自分もあんな事を想い、あんな事をいうのかと思うと、葉子の自尊心は思う存分に傷つけられた。
ほかの原因もある。しかしこれだけで充分だった。二人が一緒になってから二か月目に、葉子は突然失踪して、父の親友で、いわゆる物事のよくわかる高山という医者の病室に閉じこもらしてもらって、三日ばかりは食う物も食わずに、浅ましくも男のために目のくらんだ自分の不覚を泣き悔やんだ。木部が狂気のようになって、ようやく葉子の隠れ場所を見つけて会いに来た時は、葉子は冷静な態度でしらじらしく面会した。そして「あなたの将来のおためにきっとなりませんから」と何げなげにいってのけた。木部がその言葉に骨を刺すような諷刺を見いだしかねているのを見ると、葉子は白くそろった美しい歯を見せて声を出して笑った。
葉子と木部との間柄はこんなたわいもない場面を区切りにしてはかなくも破れてしまった。木部はあらんかぎりの手段を用いて、なだめたり、すかしたり、強迫までしてみたが、すべては全く無益だった。いったん木部から離れた葉子の心は、何者も触れた事のない処女のそれのようにさえ見えた。
それから普通の期間を過ぎて葉子は木部の子を分娩したが、もとよりその事を木部に知らせなかったばかりでなく、母にさえある他の男によって生んだ子だと告白した。実際葉子はその後、母にその告白を信じさすほどの生活をあえてしていたのだった。しかし母は目ざとくもその赤ん坊に木部の面影を探り出して、キリスト信徒にあるまじき悪意をこのあわれな赤ん坊に加えようとした。赤ん坊は女中部屋に運ばれたまま、祖母の膝には一度も乗らなかった。意地の弱い葉子の父だけは孫のかわいさからそっと赤ん坊を葉子の乳母の家に引き取るようにしてやった。そしてそのみじめな赤ん坊は乳母の手一つに育てられて定子という六歳の童女になった。
その後葉子の父は死んだ。母も死んだ。木部は葉子と別れてから、狂瀾のような生活に身を任せた。衆議院議員の候補に立ってもみたり、純文学に指を染めてもみたり、旅僧のような放浪生活も送ったり、妻を持ち子を成し、酒にふけり、雑誌の発行も企てた。そしてそのすべてに一々不満を感ずるばかりだった。そして葉子が久しぶりで汽車の中で出あった今は、妻子を里に返してしまって、ある由緒ある堂上華族の寄食者となって、これといってする仕事もなく、胸の中だけにはいろいろな空想を浮かべたり消したりして、とかく回想にふけりやすい日送りをしている時だった。
三
その木部の目は執念くもつきまつわった。しかし葉子はそっちを見向こうともしなかった。そして二等の切符でもかまわないからなぜ一等に乗らなかったのだろう。こういう事がきっとあると思ったからこそ、乗り込む時もそういおうとしたのだのに、気がきかないっちゃないと思うと、近ごろになく起きぬけからさえざえしていた気分が、沈みかけた秋の日のように陰ったりめいったりし出して、冷たい血がポンプにでもかけられたように脳のすきまというすきまをかたく閉ざした。たまらなくなって向かいの窓から景色でも見ようとすると、そこにはシェードがおろしてあって、例の四十三四の男が厚い口びるをゆるくあけたままで、ばかな顔をしながらまじまじと葉子を見やっていた。葉子はむっ[#「むっ」に傍点]としてその男の額から鼻にかけたあたりを、遠慮もなく発矢と目でむちうった。商人は、ほんとうにむちうたれた人が泣き出す前にするように、笑うような、はにかんだような、不思議な顔のゆがめかたをして、さすがに顔をそむけてしまった。その意気地のない様子がまた葉子の心をいらいらさせた。右に目を移せば三四人先に木部がいた。その鋭い小さな目は依然として葉子を見守っていた。葉子は震えを覚えるばかりに激昂した神経を両手に集めて、その両手を握り合わせて膝の上のハンケチの包みを押えながら、下駄の先をじっ[#「じっ」に傍点]と見入ってしまった。今は車内の人が申し合わせて侮辱でもしているように葉子には思えた。古藤が隣座にいるのさえ、一種の苦痛だった。その瞑想的な無邪気な態度が、葉子の内部的経験や苦悶と少しも縁が続いていないで、二人の間には金輸際理解が成り立ち得ないと思うと、彼女は特別に毛色の変わった自分の境界に、そっとうかがい寄ろうとする探偵をこの青年に見いだすように思って、その五分刈りにした地蔵頭までが顧みるにも足りない木のくずかなんぞのように見えた。
やせた木部の小さな輝いた目は、依然として葉子を見つめていた。
なぜ木部はかほどまで自分を侮辱するのだろう。彼は今でも自分を女とあなどっている。ちっぽけな才力を今でも頼んでいる。女よりも浅ましい熱情を鼻にかけて、今でも自分の運命に差し出がましく立ち入ろうとしている。あの自信のない臆病な男に自分はさっき媚びを見せようとしたのだ。そして彼は自分がこれほどまで誇りを捨てて与えようとした特別の好意を眦を反して退けたのだ。
やせた木部の小さな目は依然として葉子を見つめていた。
この時突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っていた二人の中年の紳士の口から起こった。その笑い声と葉子となんの関係もない事は葉子にもわかりきっていた。しかし彼女はそれを聞くと、もう欲にも我慢がしきれなくなった。そして右の手を深々と帯の間にさし込んだまま立ち上がりざま、
「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの」
と捨てるように古藤にいい残して、いきなり[#「いきなり」に傍点]繰り戸をあけてデッキに出た。
だいぶ高くなった日の光がぱっと大森田圃に照り渡って、海が笑いながら光るのが、並み木の向こうに広すぎるくらい一どきに目にはいるので、軽い瞑眩をさえ覚えるほどだった。鉄の手欄にすがって振り向くと、古藤が続いて出て来たのを知った。その顔には心配そうな驚きの色が明らさまに現われていた。
「ひどく痛むんですか」
「ええかなりひどく」
と答えたがめんどうだと思って、
「いいからはいっていてください。おおげさに見えるといやですから……大丈夫あぶなかありませんとも……」
といい足した。古藤はしいてとめようとはしなかった。そして、
「それじゃはいっているがほんとうにあぶのうござんすよ……用があったら呼んでくださいよ」
とだけいって素直にはいって行った。
「Simpleton!」
葉子は心の中でこうつぶやくと、焼き捨てたように古藤の事なんぞは忘れてしまって、手欄に臂をついたまま放心して、晩夏の景色をつつむ引き締まった空気に顔をなぶらした。木部の事も思わない。緑や藍や黄色のほか、これといって輪郭のはっきり[#「はっきり」に傍点]した自然の姿も目に映らない。ただ涼しい風がそよそよと鬢の毛をそよがして通るのを快いと思っていた。汽車は目まぐるしいほどの快速力で走っていた。葉子の心はただ渾沌と暗く固まった物のまわりを飽きる事もなく幾度も幾度も左から右に、右から左に回っていた。こうして葉子にとっては長い時間が過ぎ去ったと思われるころ、突然頭の中を引っかきまわすような激しい音を立てて、汽車は六郷川の鉄橋を渡り始めた。葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として夢からさめたように前を見ると、釣り橋の鉄材が蛛手になって上を下へと飛びはねるので、葉子は思わずデッキのパンネルに身を退いて、両袖で顔を抑えて物を念じるようにした。
そうやって気を静めようと目をつぶっているうちに、まつ毛を通し袖を通して木部の顔とことにその輝く小さな両眼とがまざまざと想像に浮かび上がって来た。葉子の神経は磁石に吸い寄せられた砂鉄のように、堅くこの一つの幻像の上に集注して、車内にあった時と同様な緊張した恐ろしい状態に返った。停車場に近づいた汽車はだんだんと歩度をゆるめていた。田圃のここかしこに、俗悪な色で塗り立てた大きな広告看板が連ねて建ててあった。葉子は袖を顔から放して、気持ちの悪い幻像を払いのけるように、一つ一つその看板を見迎え見送っていた。所々に火が燃えるようにその看板は目に映って木部の姿はまたおぼろになって行った。その看板の一つに、長い黒髪を下げた姫が経巻を持っているのがあった。その胸に書かれた「中将湯」という文字を、何げなしに一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生児の定子の事を思い出した。そしてその父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと焼きつくように現われ出た。
その現われ出た木部の顔を、いわば心の中の目で見つめているうちに、だんだんとその鼻の下から髭が消えうせて行って、輝くひとみの色は優しい肉感的な温かみを持ち出して来た。汽車は徐々に進行をゆるめていた。やや荒れ始めた三十男の皮膚の光沢は、神経的な青年の蒼白い膚の色となって、黒く光った軟らかい頭の毛がきわ立って白い額をなでている。それさえがはっきり[#「はっきり」に傍点]見え始めた。列車はすでに川崎停車場のプラットフォームにはいって来た。葉子の頭の中では、汽車が止まりきる前に仕事をし遂さねばならぬというふうに、今見たばかりの木部の姿がどんどん若やいで行った。そして列車が動かなくなった時、葉子はその人のかたわらにでもいるように恍惚とした顔つきで、思わず知らず左手を上げて――小指をやさしく折り曲げて――軟らかい鬢の後れ毛をかき上げていた。これは葉子が人の注意をひこうとする時にはいつでもする姿態である。
この時、繰り戸がけたたましくあいたと思うと、中から二三人の乗客がどやどやと現われ出て来た。
しかもその最後から、涼しい色合いのインバネスを羽織った木部が続くのを感づいて、葉子の心臓は思わずはっ[#「はっ」に傍点]と処女の血を盛ったようにときめいた。木部が葉子の前まで来てすれすれにそのそばを通り抜けようとした時、二人の目はもう一度しみじみと出あった。木部の目は好意を込めた微笑にひたされて、葉子の出ようによっては、すぐにも物をいい出しそうに口びるさえ震えていた。葉子も今まで続けていた回想の惰力に引かされて、思わずほほえみかけたのであったが、その瞬間燕返しに、見も知りもせぬ路傍の人に与えるような、冷刻な驕慢な光をそのひとみから射出したので、木部の微笑は哀れにも枝を離れた枯れ葉のように、二人の間をむなしくひらめいて消えてしまった。葉子は木部のあわてかたを見ると、車内で彼から受けた侮辱にかなり小気味よく酬い得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなった。木部はやせたその右肩を癖のように怒らしながら、急ぎ足に濶歩して改札口の所に近づいたが、切符を懐中から出すために立ち止まった時、深い悲しみの色を眉の間にみなぎらしながら、振り返ってじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の横顔に目を注いだ。葉子はそれを知りながらもとより侮蔑の一瞥をも与えなかった。
木部が改札口を出て姿が隠れようとした時、今度は葉子の目がじっ[#「じっ」に傍点]とその後ろ姿を逐いかけた。木部が見えなくなった後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。そしてその目にはさびしく涙がたまっていた。
「また会う事があるだろうか」
葉子はそぞろに不思議な悲哀を覚えながら心の中でそういっていたのだった。
四
列車が川崎駅を発すると、葉子はまた手欄によりかかりながら木部の事をいろいろと思いめぐらした。やや色づいた田圃の先に松並み木が見えて、その間から低く海の光る、平凡な五十三次風な景色が、電柱で句読を打ちながら、空洞のような葉子の目の前で閉じたり開いたりした。赤とんぼも飛びかわす時節で、その群れが、燧石から打ち出される火花のように、赤い印象を目の底に残して乱れあった。いつ見ても新開地じみて見える神奈川を過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいたころには、八時を過ぎた太陽の光が、紅葉坂の桜並み木を黄色く見せるほどに暑く照らしていた。
煤煙でまっ黒にすすけた煉瓦壁の陰に汽車が停まると、中からいちばん先に出て来たのは、右手にかのオリーヴ色の包み物を持った古藤だった。葉子はパラソルを杖に弱々しくデッキを降りて、古藤に助けられながら改札口を出たが、ゆるゆる歩いている間に乗客は先を越してしまって、二人はいちばんあとになっていた。客を取りおくれた十四五人の停車場づきの車夫が、待合部屋の前にかたまりながら、やつれて見える葉子に目をつけて何かとうわさし合うのが二人の耳にもはいった。「むすめ」「らしゃめん」というような言葉さえそのはしたない言葉の中には交じっていた。開港場のがさつ[#「がさつ」に傍点]な卑しい調子は、すぐ葉子の神経にびり[#「びり」に傍点]びりと感じて来た。
何しろ葉子は早く落ち付く所を見つけ出したかった。古藤は停車場の前方の川添いにある休憩所まで走って[#底本では「走つて」、22-18]行って見たが、帰って来るとぶり[#「ぶり」に傍点]ぶりして、駅夫あがりらしい茶店の主人は古藤の書生っぽ姿をいかにもばかにしたような断わりかたをしたといった。二人はしかたなくうるさく付きまつわる車夫を追い払いながら、潮の香の漂った濁った小さな運河を渡って、ある狭いきたない町の中ほどにある一軒の小さな旅人宿にはいって行った。横浜という所には似もつかぬような古風な外構えで、美濃紙のくすぶり返った置き行燈には太い筆つきで相模屋と書いてあった。葉子はなんとなくその行燈に興味をひかれてしまっていた。いたずら好きなその心は、嘉永ごろの浦賀にでもあればありそうなこの旅籠屋に足を休めるのを恐ろしくおもしろく思った。店にしゃがんで、番頭と何か話しているあばずれ[#「あばずれ」に傍点]たような女中までが目にとまった。そして葉子が体よく物を言おうとしていると、古藤がいきなり取りかまわない調子で、
「どこか静かな部屋に案内してください」
と無愛想に先を越してしまった。
「へいへい、どうぞこちらへ」
女中は二人をまじまじと見やりながら、客の前もかまわず、番頭と目を見合わせて、さげすんだらしい笑いをもらして案内に立った。
ぎし[#「ぎし」に傍点]ぎしと板ぎしみのするまっ黒な狭い階子段を上がって、西に突き当たった六畳ほどの狭い部屋に案内して、突っ立ったままで荒っぽく二人を不思議そうに女中は見比べるのだった。油じみた襟元を思い出させるような、西に出窓のある薄ぎたない部屋の中を女中をひっくるめてにらみ回しながら古藤は、
「外部よりひどい……どこか他所にしましょうか」
と葉子を見返った。葉子はそれには耳もかさずに、思慮深い貴女のような物腰で女中のほうに向いていった。
「隣室も明いていますか……そう。夜まではどこも明いている……そう。お前さんがここの世話をしておいで?……なら余の部屋もついでに見せておもらいしましょうかしらん」
女中はもう葉子には軽蔑の色は見せなかった。そして心得顔に次の部屋との間の襖をあける間に、葉子は手早く大きな銀貨を紙に包んで、
「少しかげんが悪いし、またいろいろお世話になるだろうから」
といいながら、それを女中に渡した。そしてずっ[#「ずっ」に傍点]と並んだ五つの部屋を一つ一つ見て回って、掛け軸、花びん、団扇さし、小屏風、机というようなものを、自分の好みに任せてあてがわれた部屋のとすっかり[#「すっかり」に傍点]取りかえて、すみからすみまできれいに掃除をさせた。そして古藤を正座に据えて小ざっぱり[#「小ざっぱり」に傍点]した座ぶとんにすわると、にっこりほほえみながら、
「これなら半日ぐらい我慢ができましょう」
といった。
「僕はどんな所でも平気なんですがね」
古藤はこう答えて、葉子の微笑を追いながら安心したらしく、
「気分はもうなおりましたね」
と付け加えた。
「えゝ」
と葉子は何げなく微笑を続けようとしたが、その瞬間につと思い返して眉をひそめた。葉子には仮病を続ける必要があったのをつい忘れようとしたのだった。それで、
「ですけれどもまだこんななんですの。こら動悸が」
といいながら、地味な風通の単衣物の中にかくれたはなやかな襦袢の袖をひらめかして、右手を力なげに前に出した。そしてそれと同時に呼吸をぐっ[#「ぐっ」に傍点]とつめて、心臓と覚しいあたりにはげしく力をこめた。古藤はすき通るように白い手くびをしばらくなで回していたが、脈所に探りあてると急に驚いて目を見張った。
「どうしたんです、え、ひどく不規則じゃありませんか……痛むのは頭ばかりですか」
「いゝえ、お腹も痛みはじめたんですの」
「どんなふうに」
「ぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と錐ででももむように……よくこれがあるんで困ってしまうんですのよ」
古藤は静かに葉子の手を離して、大きな目で深々と葉子をみつめた。
「医者を呼ばなくっても我慢ができますか」
葉子は苦しげにほほえんで見せた。
「あなただったらきっとできないでしょうよ。……慣れっこですからこらえて見ますわ。その代わりあなた永田さん……永田さん、ね、郵船会社の支店長の……あすこに行って船の切符の事を相談して来ていただけないでしょうか。御迷惑ですわね。それでもそんな事までお願いしちゃあ……ようござんす、わたし、車でそろそろ行きますから」
古藤は、女というものはこれほどの健康の変調をよくもこうまで我慢をするものだというような顔をして、もちろん自分が行ってみるといい張った。
実はその日、葉子は身のまわりの小道具や化粧品を調えかたがた、米国行きの船の切符を買うために古藤を連れてここに来たのだった。葉子はそのころすでに米国にいるある若い学士と許嫁の間柄になっていた。新橋で車夫が若奥様と呼んだのも、この事が出入りのものの間に公然と知れわたっていたからの事だった。
それは葉子が私生子を設けてからしばらく後の事だった。ある冬の夜、葉子の母の親佐が何かの用でその良人の書斎に行こうと階子段をのぼりかけると、上から小間使いがまっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に駆けおりて来て、危うく親佐にぶっ突かろうとしてそのそばをすりぬけながら、何か意味のわからない事を早口にいって[#底本では「いつて」、26-10]走り去った。その島田髷や帯の乱れた後ろ姿が、嘲弄の言葉のように目を打つと、親佐は口びるをかみしめたが、足音だけはしとやか[#「しとやか」に傍点]に階子段を上がって、いつもに似ず書斎の戸の前に立ち止まって、しわぶきを一つして、それから規則正しく間をおいて三度戸をノックした。
こういう事があってから五日とたたぬうちに、葉子の家庭すなわち早月家は砂の上の塔のようにもろくもくずれてしまった。親佐はことに冷静な底気味わるい態度で夫婦の別居を主張した。そして日ごろの柔和に似ず、傷ついた[#底本では「傷ついに」と誤り]牡牛のように元どおりの生活を回復しようとひしめく良人や、中にはいっていろいろ言いなそうとした親類たちの言葉を、きっぱり[#「きっぱり」に傍点]としりぞけてしまって、良人を釘店のだだっ広い住宅にたった一人残したまま、葉子ともに三人の娘を連れて、親佐は仙台に立ちのいてしまった。木部の友人たちが葉子の不人情を怒って、木部のとめるのもきかずに、社会から葬ってしまえとひしめいているのを葉子は聞き知っていたから、ふだんならば一も二もなく父をかばって母に楯をつくべきところを、素直に母のするとおりになって、葉子は母と共に仙台に埋もれに行った。母は母で、自分の家庭から葉子のような娘の出た事を、できるだけ世間に知られまいとした。女子教育とか、家庭の薫陶とかいう事をおりあるごとに口にしていた親佐は、その言葉に対して虚偽という利子を払わねばならなかった。一方をもみ消すためには一方にどん[#「どん」に傍点]と火の手をあげる必要がある。早月母子が東京を去るとまもなく、ある新聞は早月ドクトルの女性に関するふしだら[#「ふしだら」に傍点]を書き立てて、それにつけての親佐の苦心と貞操とを吹聴したついでに、親佐が東京を去るようになったのは、熱烈な信仰から来る義憤と、愛児を父の悪感化から救おうとする母らしい努力に基づくものだ。そのために彼女はキリスト教婦人同盟の副会長という顕要な位置さえ投げすてたのだと書き添えた。
仙台における早月親佐はしばらくの間は深く沈黙を守っていたが、見る見る周囲に人を集めて華々しく活動をし始めた。その客間は若い信者や、慈善家や、芸術家たちのサロンとなって、そこからリバイバルや、慈善市や、音楽会というようなものが形を取って生まれ出た。ことに親佐が仙台支部長として働き出したキリスト教婦人同盟の運動は、その当時野火のような勢いで全国に広がり始めた赤十字社の勢力にもおさおさ劣らない程の盛況を呈した。知事令夫人も、名だたる素封家の奥さんたちもその集会には列席した。そして三か年の月日は早月親佐を仙台には無くてはならぬ名物の一つにしてしまった。性質が母親とどこか似すぎているためか、似たように見えて一調子違っているためか、それとも自分を慎むためであったか、はたの人にはわからなかったが、とにかく葉子はそんなはなやかな雰囲気に包まれながら、不思議なほど沈黙を守って、ろくろく晴れの座などには姿を現わさないでいた。それにもかかわらず親佐の客間に吸い寄せられる若い人々の多数は葉子に吸い寄せられているのだった。葉子の控え目なしおらしい様子がいやが上にも人のうわさを引く種となって、葉子という名は、多才で、情緒の細やかな、美しい薄命児をだれにでも思い起こさせた。彼女の立ちすぐれた眉目形は花柳の人たちさえうらやましがらせた。そしていろいろな風聞が、清教徒風に質素な早月の佗住居の周囲を霞のように取り巻き始めた。
突然小さな仙台市は雷にでも打たれたようにある朝の新聞記事に注意を向けた。それはその新聞の商売がたきである或る新聞の社主であり主筆である某が、親佐と葉子との二人に同時に慇懃を通じているという、全紙にわたった不倫きわまる記事だった。だれも意外なような顔をしながら心の中ではそれを信じようとした。
この日髪の毛の濃い、口の大きい、色白な一人の青年を乗せた人力車が、仙台の町中を忙しく駆け回ったのを注意した人はおそらくなかったろうが、その青年は名を木村といって、日ごろから快活な活動好きな人として知られた男で、その熱心な奔走の結果、翌日の新聞紙の広告欄には、二段抜きで、知事令夫人以下十四五名の貴婦人の連名で早月親佐の冤罪が雪がれる事になった。この稀有の大げさな広告がまた小さな仙台の市中をどよめき渡らした。しかし木村の熱心も口弁も葉子の名を広告の中に入れる事はできなかった。
こんな騒ぎが持ち上がってから早月親佐の仙台における今までの声望は急に無くなってしまった。そのころちょうど東京に居残っていた早月が病気にかかって薬に親しむ身となったので、それをしお[#「しお」に傍点]に親佐は子供を連れて仙台を切り上げる事になった。
木村はその後すぐ早月母子を追って東京に出て来た。そして毎日入りびたるように早月家に出入りして、ことに親佐の気に入るようになった。親佐が病気になって危篤に陥った時、木村は一生の願いとして葉子との結婚を申し出た。親佐はやはり母だった。死期を前に控えて、いちばん気にせずにいられないものは、葉子の将来だった。木村ならばあのわがままな、男を男とも思わぬ葉子に仕えるようにして行く事ができると思った。そしてキリスト教婦人同盟の会長をしている五十川女史に後事を託して死んだ。この五十川女史のまあまあというような不思議なあいまいな切り盛りで、木村は、どこか不確実ではあるが、ともかく葉子を妻としうる保障を握ったのだった。
五
郵船会社の永田は夕方でなければ会社から退けまいというので、葉子は宿屋に西洋物店のものを呼んで、必要な買い物をする事になった。古藤はそんならそこらをほッつき[#「ほッつき」に傍点]歩いて来るといって、例の麦稈帽子を帽子掛けから取って立ち上がった。葉子は思い出したように肩越しに振り返って、
「あなたさっきパラソルは骨が五本のがいいとおっしゃってね」
といった。古藤は冷淡な調子で、
「そういったようでしたね」
と答えながら、何か他の事でも考えているらしかった。
「まあそんなにとぼけて……なぜ五本のがお好き?」
「僕が好きというんじゃないけれども、あなたはなんでも人と違ったものが好きなんだと思ったんですよ」
「どこまでも人をおからかいなさる……ひどい事……行っていらっしゃいまし」
と情を迎えるようにいって向き直ってしまった。古藤が縁側に出るとまた突然呼びとめた。障子にはっきり[#「はっきり」に傍点]立ち姿をうつしたまま、
「なんです」
といって古藤は立ち戻る様子がなかった。葉子はいたずら者らしい笑いを口のあたりに浮かべていた。
「あなたは木村と学校が同じでいらしったのね」
「そうですよ、級は木村の……木村君のほうが二つも上でしたがね」
「あなたはあの人をどうお思いになって」
まるで少女のような無邪気な調子だった。古藤はほほえんだらしい語気で、
「そんな事はもうあなたのほうがくわしいはずじゃありませんか……心のいい活動家ですよ」
「あなたは?」
葉子はぽん[#「ぽん」に傍点]と高飛車に出た。そしてにやり[#「にやり」に傍点]としながらがっくり[#「がっくり」に傍点]と顔を上向きにはねて、床の間の一蝶のひどい偽い物を見やっていた。古藤がとっさの返事に窮して、少しむっ[#「むっ」に傍点]とした様子で答え渋っているのを見て取ると、葉子は今度は声の調子を落として、いかにもたよりないというふうに、
「日盛りは暑いからどこぞでお休みなさいましね。……なるたけ早く帰って来てくださいまし。もしかして、病気でも悪くなると、こんな所で心細うござんすから……よくって」
古藤は何か平凡な返事をして、縁板を踏みならしながら出て行ってしまった。
朝のうちだけからっ[#「からっ」に傍点]と破ったように晴れ渡っていた空は、午後から曇り始めて、まっ白な雲が太陽の面をなでて通るたびごとに暑気は薄れて、空いちめんが灰色にかき曇るころには、膚寒く思うほどに初秋の気候は激変していた。時雨らしく照ったり降ったりしていた雨の脚も、やがてじめじめと降り続いて、煮しめたようなきたない部屋の中は、ことさら湿りが強く来るように思えた。葉子は居留地のほうにある外国人相手の洋服屋や小間物屋などを呼び寄せて、思いきったぜいたくな買い物をした。買い物をして見ると葉子は自分の財布のすぐ貧しくなって行くのを怖れないではいられなかった。葉子の父は日本橋ではひとかどの門戸を張った医師で、収入も相当にはあったけれども、理財の道に全く暗いのと、妻の親佐が婦人同盟の事業にばかり奔走していて、その並み並みならぬ才能を、少しも家の事に用いなかったため、その死後には借金こそ残れ、遺産といってはあわれなほどしかなかった。葉子は二人の妹をかかえながらこの苦しい境遇を切り抜けて来た。それは葉子であればこそし遂せて来たようなものだった。だれにも貧乏らしいけしきは露ほども見せないでいながら、葉子は始終貨幣一枚一枚の重さを計って支払いするような注意をしていた。それだのに目の前に異国情調の豊かな贅沢品を見ると、彼女の貪欲は甘いものを見た子供のようになって、前後も忘れて懐中にありったけの買い物をしてしまったのだ。使いをやって正金銀行で換えた金貨は今鋳出されたような光を放って懐中の底にころがっていたが、それをどうする事もできなかった。葉子の心は急に暗くなった。戸外の天気もその心持ちに合槌を打つように見えた。古藤はうまく永田から切符をもらう事ができるだろうか。葉子自身が行き得ないほど葉子に対して反感を持っている永田が、あの単純なタクトのない古藤をどんなふうに扱ったろう。永田の口から古藤はいろいろな葉子の過去を聞かされはしなかったろうか。そんな事を思うと葉子は悒鬱が生み出す反抗的な気分になって、湯をわかさせて入浴し、寝床をしかせ、最上等の三鞭酒を取りよせて、したたかそれを飲むと前後も知らず眠ってしまった。
夜になったら泊まり客があるかもしれないと女中のいった五つの部屋はやはり空のままで、日がとっぷりと暮れてしまった。女中がランプを持って来た物音に葉子はようやく目をさまして、仰向いたまま、すすけた天井に描かれたランプの丸い光輪をぼんやりとながめていた。
その時じたッ[#「じたッ」に傍点]じたッとぬれた足で階子段をのぼって来る古藤の足音が聞こえた。古藤は何かに腹を立てているらしい足どりでずかずかと縁側を伝って来たが、ふと立ち止まると大きな声で帳場のほうにどなった。
「早く雨戸をしめないか……病人がいるんじゃないか。……」
「この寒いのになんだってあなたも言いつけないんです」
今度はこう葉子にいいながら、建て付けの悪い障子をあけていきなり[#「いきなり」に傍点]中にはいろうとしたが、その瞬間にはっ[#「はっ」に傍点]と驚いたような顔をして立ちすくんでしまった。
香水や、化粧品や、酒の香をごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]にした暖かいいきれ[#「いきれ」に傍点]がいきなり古藤に迫ったらしかった。ランプがほの暗いので、部屋のすみずみまでは見えないが、光の照り渡る限りは、雑多に置きならべられたなまめかしい女の服地や、帽子や、造花や、鳥の羽根や、小道具などで、足の踏みたて場もないまでになっていた。その一方に床の間を背にして、郡内のふとんの上に掻巻をわきの下から羽織った、今起きかえったばかりの葉子が、はでな長襦袢一つで東ヨーロッパの嬪宮の人のように、片臂をついたまま横になっていた。そして入浴と酒とでほんのり[#「ほんのり」に傍点]ほてった顔を仰向けて、大きな目を夢のように見開いてじっ[#「じっ」に傍点]と古藤を見た。その枕もとには三鞭酒のびんが本式に氷の中につけてあって、飲みさしのコップや、華奢な紙入れや、かのオリーヴ色の包み物を、しごき[#「しごき」に傍点]の赤が火の蛇のように取り巻いて、その端が指輪の二つはまった大理石のような葉子の手にもてあそばれていた。
「お遅うござんした事。お待たされなすったんでしょう。……さ、おはいりなさいまし。そんなもの足ででもどけてちょうだい、散らかしちまって」
この音楽のようなすべすべした調子の声を聞くと、古藤は始めて illusion から目ざめたふうではいって来た。葉子は左手を二の腕がのぞき出るまでずっ[#「ずっ」に傍点]と延ばして、そこにあるものを一払いに払いのけると、花壇の土を掘り起こしたようにきたない畳が半畳ばかり現われ出た。古藤は自分の帽子を部屋のすみにぶちなげて置いて、払い残された細形の金鎖を片づけると、どっか[#「どっか」に傍点]とあぐらをかいて正面から葉子を見すえながら、
「行って来ました。船の切符もたしかに受け取って来ました」
といってふところの中を探りにかかった。葉子はちょっと改まって、
「ほんとにありがとうございました」
と頭を下げたが、たちまち roughish な目つきをして、
「まあそんな事はいずれあとで、ね、……何しろお寒かったでしょう、さ」
といいながら飲み残りの酒を盆の上に無造作に捨てて、二三度左手をふってしずくを切ってから、コップを古藤にさしつけた。古藤の目は何かに激昂しているように輝いていた。
「僕は飲みません」
「おやなぜ」
「飲みたくないから飲まないんです」
この角ばった返答は男を手もなくあやし慣れている葉子にも意外だった。それでそのあとの言葉をどう継ごうかと、ちょっとためらって古藤の顔を見やっていると、古藤はたたみかけて口をきった。
「永田ってのはあれはあなたの知人ですか。思いきって尊大な人間ですね。君のような人間から金を受け取る理由はないが、とにかくあずかって置いて、いずれ直接あなたに手紙でいってあげるから、早く帰れっていうんです、頭から。失敬なやつだ」
葉子はこの言葉に乗じて気まずい心持ちを変えようと思った。そしてまっしぐらに何かいい出そうとすると、古藤はおっかぶせるように言葉を続けて、
「あなたはいったいまだ腹が痛むんですか」
ときっぱり[#「きっぱり」に傍点]いって堅くすわり直した。しかしその時に葉子の陣立てはすでにでき上がっていた。初めのほほえみをそのままに、
「えゝ、少しはよくなりましてよ」
といった。古藤は短兵急に、
「それにしてもなかなか元気ですね」
とたたみかけた。
「それはお薬にこれを少しいただいたからでしょうよ」
と三鞭酒を指さした。
正面からはね返された古藤は黙ってしまった。しかし葉子も勢いに乗って追い迫るような事はしなかった。矢頃を計ってから語気をかえてずっ[#「ずっ」に傍点]と下手になって、
「妙にお思いになったでしょうね。わるうございましてね。こんな所に来ていて、お酒なんか飲むのはほんとうに悪いと思ったんですけれども、気分がふさいで来ると、わたしにはこれよりほかにお薬はないんですもの。さっきのように苦しくなって来ると私はいつでも湯を熱めにして浴ってから、お酒を飲み過ぎるくらい飲んで寝るんですの。そうすると」
といって、ちょっといいよどんで見せて、
「十分か二十分ぐっすり[#「ぐっすり」に傍点]寝入るんですのよ……痛みも何も忘れてしまっていい心持ちに……。それから急に頭がかっ[#「かっ」に傍点]と痛んで来ますの。そしてそれと一緒に気がめいり出して、もうもうどうしていいかわからなくなって、子供のように泣きつづけると、そのうちにまた眠たくなって一寝入りしますのよ。そうするとそのあとはいくらかさっぱり[#「さっぱり」に傍点]するんです。……父や母が死んでしまってから、頼みもしないのに親類たちからよけいな世話をやかれたり、他人力なんぞをあてにせずに妹二人を育てて行かなければならないと思ったりすると、わたしのような、他人様と違って風変わりな、……そら、五本の骨でしょう」
とさびしく笑った。
「それですものどうぞ堪忍してちょうだい。思いきり泣きたい時でも知らん顔をして笑って通していると、こんなわたしみたいな気まぐれ者になるんです。気まぐれでもしなければ生きて行けなくなるんです。男のかたにはこの心持ちはおわかりにはならないかもしれないけれども」
こういってるうちに葉子は、ふと木部との恋がはかなく破れた時の、われにもなく身にしみ渡るさびしみや、死ぬまで日陰者であらねばならぬ私生子の定子の事や、計らずもきょうまのあたり見た木部の、心からやつれた面影などを思い起こした。そしてさらに、母の死んだ夜、日ごろは見向きもしなかった親類たちが寄り集まって来て、早月家には毛の末ほども同情のない心で、早月家の善後策について、さも重大らしく勝手気ままな事を親切ごかしにしゃべり[#「しゃべり」に傍点]散らすのを聞かされた時、どうにでもなれという気になって、暴れ抜いた事が、自分にさえ悲しい思い出となって、葉子の頭の中を矢のように早くひらめき通った。葉子の顔には人に譲ってはいない自信の色が現われ始めた。
「母の初七日の時もね、わたしはたて続けにビールを何杯飲みましたろう。なんでもびんがそこいらにごろごろころがりました。そしてしまいには何がなんだか夢中になって、宅に出入りするお医者さんの膝を枕に、泣き寝入りに寝入って、夜中をあなた二時間の余も寝続けてしまいましたわ。親類の人たちはそれを見ると一人帰り二人帰りして、相談も何もめちゃくちゃになったんですって。母の写真を前に置いといて、わたしはそんな事までする人間ですの。おあきれになったでしょうね。いやなやつでしょう。あなたのような方から御覧になったら、さぞいやな気がなさいましょうねえ」
「えゝ」
と古藤は目も動かさずにぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に答えた。
「それでもあなた」
と葉子は切なさそうに半ば起き上がって、
「外面だけで人のする事をなんとかおっしゃるのは少し残酷ですわ。……いゝえね」
と古藤の何かいい出そうとするのをさえぎって、今度はきっ[#「きっ」に傍点]とすわり直った。
「わたしは泣き言をいって他人様にも泣いていただこうなんて、そんな事はこれんばかりも思やしませんとも……なるならどこかに大砲のような大きな力の強い人がいて、その人が真剣に怒って、葉子のような人非人はこうしてやるぞといって、わたしを押えつけて心臓でも頭でもくだけて飛んでしまうほど折檻をしてくれたらと思うんですの。どの人もどの人もちゃん[#「ちゃん」に傍点]と自分を忘れないで、いいかげんに怒ったり、いいかげんに泣いたりしているんですからねえ。なんだってこう生温いんでしょう。
義一さん(葉子が古藤をこう名で呼んだのはこの時が始めてだった)あなたがけさ、心の正直ななんとかだとおっしゃった木村に縁づくようになったのも、その晩の事です。五十川が親類じゅうに賛成さして、晴れがましくもわたしをみんなの前に引き出しておいて、罪人にでもいうように宣告してしまったのです。わたしが一口でもいおうとすれば、五十川のいうには母の遺言ですって。死人に口なし。ほんとに木村はあなたがおっしゃったような人間ね。仙台であんな事があったでしょう。あの時知事の奥さんはじめ母のほうはなんとかしようが娘のほうは保証ができないとおっしゃったんですとさ」
いい知らぬ侮蔑の色が葉子の顔にみなぎった。
「ところが木村は自分の考えを押し通しもしないで、おめおめと新聞には母だけの名を出してあの広告をしたんですの。
母だけがいい人になればだれだってわたしを……そうでしょう。そのあげくに木村はしゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあとわたしを妻にしたいんですって、義一さん、男ってそれでいいものなんですか。まあね物の譬えがですわ。それとも言葉ではなんといってもむだだから、実行的にわたしの潔白を立ててやろうとでもいうんでしょうか」
そういって激昂しきった葉子はかみ捨てるようにかん高くほゝ[#「ほゝ」に傍点]と笑った。
「いったいわたしはちょっとした事で好ききらいのできる悪い質なんですからね。といってわたしはあなたのような生一本でもありませんのよ。
母の遺言だから木村と夫婦になれ。早く身を堅めて地道に暮らさなければ母の名誉をけがす事になる。妹だって裸でお嫁入りもできまいといわれれば、わたし立派に木村の妻になって御覧にいれます。その代わり木村が少しつらいだけ。
こんな事をあなたの前でいってはさぞ気を悪くなさるでしょうが、真直なあなただと思いますから、わたしもその気で何もかも打ち明けて申してしまいますのよ。わたしの性質や境遇はよく御存じですわね。こんな性質でこんな境遇にいるわたしがこう考えるのにもし間違いがあったら、どうか遠慮なくおっしゃってください。
あゝいやだった事。義一さん、わたしこんな事はおくびにも出さずに今の今までしっかり胸にしまって我慢していたのですけれども、きょうはどうしたんでしょう、なんだか遠い旅にでも出たようなさびしい気になってしまって……」
弓弦を切って放したように言葉を消して葉子はうつむいてしまった。日はいつのまにかとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と暮れていた。じめじめと降り続く秋雨に湿った夜風が細々と通って来て、湿気でたるんだ障子紙をそっ[#「そっ」に傍点]とあおって通った。古藤は葉子の顔を見るのを避けるように、そこらに散らばった服地や帽子などをながめ回して、なんと返答をしていいのか、いうべき事は腹にあるけれども言葉には現わせないふうだった。部屋は息気苦しいほどしん[#「しん」に傍点]となった。
葉子は自分の言葉から、その時のありさまから、妙にやる瀬ないさびしい気分になっていた。強い男の手で思い存分両肩でも抱きすくめてほしいようなたよりなさを感じた。そして横腹に深々と手をやって、さし込む痛みをこらえるらしい姿をしていた。古藤はややしばらくしてから何か決心したらしくまとも[#「まとも」に傍点]に葉子を見ようとしたが、葉子の切なさそうな哀れな様子を見ると、驚いた顔つきをしてわれ知らず葉子のほうにいざり寄った。葉子はすかさず豹のようになめらかに身を起こしていち早くもしっかり古藤のさし出す手を握っていた。そして、
「義一さん」
と震えを帯びていった声は存分に涙にぬれているように響いた。古藤は声をわななかして、
「木村はそんな人間じゃありませんよ」
とだけいって黙ってしまった。
だめだったと葉子はその途端に思った。葉子の心持ちと古藤の心持ちとはちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]になっているのだ。なんという響きの悪い心だろうと葉子はそれをさげすんだ。しかし様子にはそんな心持ちは少しも見せないで、頭から肩へかけてのなよやかな線を風の前のてっせん[#「てっせん」に傍点]の蔓のように震わせながら、二三度深々とうなずいて見せた。
しばらくしてから葉子は顔を上げたが、涙は少しも目にたまってはいなかった。そしていとしい弟でもいたわるようにふとんから立ち上がりざま、
「すみませんでした事、義一さん、あなた御飯はまだでしたのね」
といいながら、腹の痛むのをこらえるような姿で古藤の前を通りぬけた。湯でほんのりと赤らんだ素足に古藤の目が鋭くちらっ[#「ちらっ」に傍点]と宿ったのを感じながら、障子を細目にあけて手をならした。
葉子はその晩不思議に悪魔じみた誘惑を古藤に感じた。童貞で無経験で恋の戯れにはなんのおもしろみもなさそうな古藤、木村に対してといわず、友だちに対して堅苦しい義務観念の強い古藤、そういう男に対して葉子は今までなんの興味をも感じなかったばかりか、働きのない没情漢と見限って、口先ばかりで人間並みのあしらいをしていたのだ。しかしその晩葉子はこの少年のような心を持って肉の熟した古藤に罪を犯させて見たくってたまらなくなった。一夜のうちに木村とは顔も合わせる事のできない人間にして見たくってたまらなくなった。古藤の童貞を破る手を他の女に任せるのがねたましくてたまらなくなった。幾枚も皮をかぶった古藤の心のどん底に隠れている欲念を葉子の蠱惑力で掘り起こして見たくってたまらなくなった。
気取られない範囲で葉子があらん限りの謎を与えたにもかかわらず、古藤が堅くなってしまってそれに応ずるけしきのないのを見ると葉子はますますいらだった。そしてその晩は腹が痛んでどうしても東京に帰れないから、いやでも横浜に宿ってくれといい出した。しかし古藤は頑としてきかなかった。そして自分で出かけて行って、品もあろう事かまっ赤な毛布を一枚買って帰って来た。葉子はとうとう我を折って最終列車で東京に帰る事にした。
一等の客車には二人のほかに乗客はなかった。葉子はふとした出来心から古藤をおとしいれようとした目論見に失敗して、自分の征服力に対するかすかな失望と、存分の不快とを感じていた。客車の中ではまたいろいろと話そうといって置きながら、汽車が動き出すとすぐ、古藤の膝のそばで毛布にくるまったまま新橋まで寝通してしまった。
新橋に着いてから古藤が船の切符を葉子に渡して人力車を二台傭って、その一つに乗ると、葉子はそれにかけよって懐中から取り出した紙入れを古藤の膝にほうり出して、左の鬢をやさしくかき上げながら、
「きょうのお立て替えをどうぞその中から……あすはきっといらしってくださいましね……お待ち申しますことよ……さようなら」
といって自分ももう一つの車に乗った。葉子の紙入れの中には正金銀行から受け取った五十円金貨八枚がはいっている。そして葉子は古藤がそれをくずして立て替えを取る気づかいのないのを承知していた。
六
葉子が米国に出発する九月二十五日はあすに迫った。二百二十日の荒れそこねたその年の天気は、いつまでたっても定まらないで、気違い日和ともいうべき照り降りの乱雑な空あいが続き通していた。
葉子はその朝暗いうちに床を離れて、蔵の陰になつた自分の小部屋にはいって、前々から片づけかけていた衣類の始末をし始めた。模様や縞の派手なのは片端からほどいて丸めて、次の妹の愛子にやるようにと片すみに重ねたが、その中には十三になる末の妹の貞世に着せても似合わしそうな大柄なものもあった。葉子は手早くそれをえり分けて見た。そして今度は船に持ち込む四季の晴れ着を、床の間の前にあるまっ黒に古ぼけたトランクの所まで持って行って、ふたをあけようとしたが、ふとそのふたのまん中に書いてあるY・Kという白文字を見て忙しく手を控えた。これはきのう古藤が油絵の具と画筆とを持って来て書いてくれたので、かわききらないテレビンの香がまだかすかに残っていた。古藤は、葉子・早月の頭文字Y・Sと書いてくれと折り入って葉子の頼んだのを笑いながら退けて、葉子・木村の頭文字Y・Kと書く前に、S・Kとある字をナイフの先で丁寧に削ったのだった。S・Kとは木村貞一のイニシャルで、そのトランクは木村の父が欧米を漫遊した時使ったものなのだ。その古い色を見ると、木村の父の太っ腹な鋭い性格と、波瀾の多い生涯の極印がすわっているように見えた。木村はそれを葉子の用にと残して行ったのだった。木村の面影はふと葉子の頭の中を抜けて通った。空想で木村を描く事は、木村と顔を見合わす時ほどの厭わしい思いを葉子に起こさせなかった。黒い髪の毛をぴったり[#「ぴったり」に傍点]ときれいに分けて、怜かしい中高の細面に、健康らしいばら色を帯びた容貌や、甘すぎるくらい人情におぼれやすい殉情的な性格は、葉子に一種のなつかしさをさえ感ぜしめた。しかし実際顔と顔とを向かい合わせると、二人は妙に会話さえはずまなくなるのだった。その怜かしいのがいやだった。柔和なのが気にさわった。殉情的なくせに恐ろしく勘定高いのがたまらなかった。青年らしく土俵ぎわまで踏み込んで事業を楽しむという父に似た性格さえこましゃくれて見えた。ことに東京生まれといってもいいくらい都慣れた言葉や身のこなしの間に、ふと東北の郷土の香いをかぎ出した時にはかんで捨てたいような反感に襲われた。葉子の心は今、おぼろげな回想から、実際膝つき合わせた時にいやだと思った印象に移って行った。そして手に持った晴れ着をトランクに入れるのを控えてしまった。長くなり始めた夜もそのころにはようやく白み始めて、蝋燭の黄色い焔が光の亡骸のように、ゆるぎもせずにともっていた。夜の間静まっていた西風が思い出したように障子にぶつかって、釘店の狭い通りを、河岸で仕出しをした若い者が、大きな掛け声でがらがらと車をひきながら通るのが聞こえ出した。葉子はきょう一日に目まぐるしいほどあるたくさんの用事をちょっと胸の中で数えて見て、大急ぎでそこらを片づけて、錠をおろすものには錠をおろし切って、雨戸を一枚繰って、そこからさし込む光で大きな手文庫からぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]つまった男文字の手紙を引き出すと風呂敷に包み込んだ。そしてそれをかかえて、手燭を吹き消しながら部屋を出ようとすると、廊下に叔母が突っ立っていた。
「もう起きたんですね……片づいたかい」
と挨拶してまだ何かいいたそうであった。両親を失ってからこの叔母夫婦と、六歳になる白痴の一人息子とが移って来て同居する事になったのだ。葉子の母が、どこか重々しくって男々しい風采をしていたのに引きかえ、叔母は髪の毛の薄い、どこまでも貧相に見える女だった。葉子の目はその帯しろ裸な、肉の薄い胸のあたりをちらっ[#「ちらっ」に傍点]とかすめた。
「おやお早うございます……あらかた片づきました」
といってそのまま二階に行こうとすると、叔母は爪にいっぱい垢のたまった両手をもやもやと胸の所でふりながら、さえぎるように立ちはだかって、
「あのお前さんが片づける時にと思っていたんだがね。あすのお見送りに私は着て行くものが無いんだよ。おかあさんのもので間に合うのは無いだろうかしらん。あすだけ借りればあとはちゃんと始末をして置くんだからちょっと見ておくれでないか」
葉子はまたかと思った。働きのない良人に連れ添って、十五年の間丸帯一つ買ってもらえなかった叔母の訓練のない弱い性格が、こうさもしくなるのをあわれまないでもなかったが、物怯じしながら、それでいて、欲にかかるとずうずうしい、人のすきばかりつけねらう仕打ちを見ると、虫唾が走るほど憎かった。しかしこんな思いをするのもきょうだけだと思って部屋の中に案内した。叔母は空々しく気の毒だとかすまないとかいい続けながら錠をおろした箪笥を一々あけさせて、いろいろと勝手に好みをいった末に、りゅう[#「りゅう」に傍点]とした一揃えを借る事にして、それから葉子の衣類までをとやかくいいながら去りがてにいじくり回した。台所からは、みそ汁の香いがして、白痴の子がだらしなく泣き続ける声と、叔父が叔母を呼び立てる声とが、すがすがしい朝の空気を濁すように聞こえて来た。葉子は叔母にいいかげんな返事をしながらその声に耳を傾けていた。そして早月家の最後の離散という事をしみじみと感じたのであった。電話はある銀行の重役をしている親類がいいかげんな口実を作って只持って行ってしまった。父の書斎道具や骨董品は蔵書と一緒に糶売りをされたが、売り上げ代はとうとう葉子の手にははいらなかった。住居は住居で、葉子の洋行後には、両親の死後何かに尽力したという親類の某が、二束三文で譲り受ける事に親族会議で決まってしまった。少しばかりある株券と地所とは愛子と貞世との教育費にあてる名儀で某々が保管する事になった。そんな勝手放題なまねをされるのを葉子は見向きもしないで黙っていた。もし葉子が素直な女だったら、かえって食い残しというほどの遺産はあてがわれていたに違いない。しかし親族会議では葉子を手におえない女だとして、他所に嫁入って行くのをいい事に、遺産の事にはいっさい関係させない相談をしたくらいは葉子はとうに感づいていた。自分の財産となればなるべきものを一部分だけあてがわれて、黙って引っ込んでいる葉子ではなかった。それかといって長女ではあるが、女の身として全財産に対する要求をする事の無益なのも知っていた。で「犬にやるつもりでいよう」と臍を堅めてかかったのだった。今、あとに残ったものは何がある。切り回しよく見かけを派手にしている割合に、不足がちな三人の姉妹の衣類諸道具が少しばかりあるだけだ。それを叔母は容赦もなくそこまで切り込んで来ているのだ。白紙のようなはかない寂しさと、「裸になるならきれいさっぱり[#「さっぱり」に傍点]裸になって見せよう」という火のような反抗心とが、むちゃくちゃに葉子の胸を冷やしたり焼いたりした。葉子はこんな心持ちになって、先ほどの手紙の包みをかかえて立ち上がりながら、うつむいて手ざわりのいい絹物をなで回している叔母を見おろした。
「それじゃわたしまだほかに用がありますししますから錠をおろさずにおきますよ。ごゆっくり御覧なさいまし。そこにかためてあるのはわたしが持って行くんですし、ここにあるのは愛と貞にやるのですから別になすっておいてください」
といい捨てて、ずんずん部屋を出た。往来には砂ほこりが立つらしく風が吹き始めていた。
二階に上がって見ると、父の書斎であった十六畳の隣の六畳に、愛子と貞世とが抱き合って眠っていた。葉子は自分の寝床を手早くたたみながら愛子を呼び起こした。愛子は驚いたように大きな美しい目を開くと半分夢中で飛び起きた。葉子はいきなり[#「いきなり」に傍点]厳重な調子で、
「あなたはあすからわたしの代わりをしないじゃならないんですよ。朝寝坊なんぞしていてどうするの。あなたがぐず[#「ぐず」に傍点]ぐずしていると貞ちゃんがかわいそうですよ。早く身じまいをして下のお掃除でもなさいまし」
とにらみつけた。愛子は羊のように柔和な目をまばゆそうにして、姉をぬすみ見ながら、着物を着かえて下に降りて行った。葉子はなんとなく性の合わないこの妹が、階子段を降りきったのを聞きすまして、そっと貞世のほうに近づいた。面ざしの葉子によく似た十三の少女は、汗じみた顔には下げ髪がねばり付いて、頬は熱でもあるように上気している。それを見ると葉子は骨肉のいとしさに思わずほほえませられて、その寝床にいざり寄って、その童女を羽がいに軽く抱きすくめた。そしてしみじみとその寝顔にながめ入った。貞世の軽い呼吸は軽く葉子の胸に伝わって来た。その呼吸が一つ伝わるたびに、葉子の心は妙にめいって行った。同じ胎を借りてこの世に生まれ出た二人の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、果ては寂しい、ただ寂しい涙がほろほろととめどなく流れ出るのだった。
一家の離散を知らぬ顔で、女の身そらをただひとり米国の果てまでさすらって行くのを葉子は格別なんとも思っていなかった。振り分け髪の時分から、飽くまで意地の強い目はしのきく性質を思うままに増長さして、ぐんぐんと世の中をわき目もふらず押し通して二十五になった今、こんな時にふと過去を振り返って見ると、いつのまにかあたりまえの女の生活をすりぬけて、たった一人見も知らぬ野ずえに立っているような思いをせずにはいられなかった。女学校や音楽学校で、葉子の強い個性に引きつけられて、理想の人ででもあるように近寄って来た少女たちは、葉子におど[#「おど」に傍点]おどしい同性の恋をささげながら、葉子に inspire されて、われ知らず大胆な奔放な振る舞いをするようになった。そのころ「国民文学」や「文学界」に旗挙げをして、新しい思想運動を興そうとした血気なロマンティックな青年たちに、歌の心を授けた女の多くは、おおかた葉子から血脈を引いた少女らであった。倫理学者や、教育家や、家庭の主権者などもそのころから猜疑の目を見張って少女国を監視し出した。葉子の多感な心は、自分でも知らない革命的ともいうべき衝動のためにあてもなく揺ぎ始めた。葉子は他人を笑いながら、そして自分をさげすみながら、まっ暗な大きな力に引きずられて、不思議な道に自覚なく迷い入って、しまいにはまっしぐらに走り出した。だれも葉子の行く道のしるべをする人もなく、他の正しい道を教えてくれる人もなかった。たまたま大きな声で呼び留める人があるかと思えば、裏表の見えすいたぺてん[#「ぺてん」に傍点]にかけて、昔のままの女であらせようとするものばかりだった。葉子はそのころからどこか外国に生まれていればよかったと思うようになった。あの自由らしく見える女の生活、男と立ち並んで自分を立てて行く事のできる女の生活……古い良心が自分の心をさいなむたびに、葉子は外国人の良心というものを見たく思った。葉子は心の奥底でひそかに芸者をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った。こんな心持ちで年を取って行く間に葉子はもちろんなんどもつまずいてころんだ。そしてひとりで膝の塵を払わなければならなかった。こんな生活を続けて二十五になった今、ふと今まで歩いて来た道を振り返って見ると、いっしょに葉子と走っていた少女たちは、とうの昔に尋常な女になり済ましていて、小さく見えるほど遠くのほうから、あわれむようなさげすむような顔つきをして、葉子の姿をながめていた。葉子はもと来た道に引き返す事はもうできなかった。できたところで引き返そうとする気はみじんもなかった。「勝手にするがいい」そう思って葉子はまたわけもなく不思議な暗い力に引っぱられた。こういうはめ[#「はめ」に傍点]になった今、米国にいようが日本にいようが少しばかりの財産があろうが無かろうが、そんな事は些細な話だった。境遇でも変わったら何か起こるかもしれない。元のままかもしれない。勝手になれ。葉子を心の底から動かしそうなものは一つも身近には見当たらなかった。
しかし一つあった。葉子の涙はただわけもなくほろほろと流れた。貞世は何事も知らずに罪なく眠りつづけていた。同じ胎を借りてこの世に生まれ出た二人の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、この子もやがては自分が通って来たような道を歩くのかと思うと、自分をあわれむとも妹をあわれむとも知れない切ない心に先だたれて、思わずぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と貞世を抱きしめながら物をいおうとした。しかし何をいい得ようぞ。喉もふさがってしまっていた。貞世は抱きしめられたので始めて大きく目を開いた。そしてしばらくの間、涙にぬれた姉の顔をまじまじとながめていたが、やがて黙ったまま小さい袖でその涙をぬぐい始めた。葉子の涙は新しくわき返った。貞世は痛ましそうに姉の涙をぬぐいつづけた。そしてしまいにはその袖を自分の顔に押しあてて何か言い言いしゃくり上げながら泣き出してしまった。
七
葉子はその朝横浜の郵船会社の永田から手紙を受け取った。漢学者らしい風格の、上手な字で唐紙牋に書かれた文句には、自分は故早月氏には格別の交誼を受けていたが、あなたに対しても同様の交際を続ける必要のないのを遺憾に思う。明晩(すなわちその夜)のお招きにも出席しかねる、と剣もほろろに書き連ねて、追伸に、先日あなたから一言の紹介もなく訪問してきた素性の知れぬ青年の持参した金はいらないからお返しする。良人の定まった女の行動は、申すまでもないが慎むが上にもことに慎むべきものだと私どもは聞き及んでいる。ときっぱり書いて、その金額だけの為替が同封してあった。葉子が古藤を連れて横浜に行ったのも、仮病をつかって宿屋に引きこもったのも、実をいうと船商売をする人には珍しい厳格なこの永田に会うめんどうを避けるためだった。葉子は小さく舌打ちして、為替ごと手紙を引き裂こうとしたが、ふと思い返して、丹念に墨をすりおろして一字一字考えて書いたような手紙だけずた[#「ずた」に傍点]ずたに破いて屑かごに突っ込んだ。
葉子は地味な他行衣に寝衣を着かえて二階を降りた。朝食は食べる気がなかった。妹たちの顔を見るのも気づまりだった。
姉妹三人のいる二階の、すみからすみまできちん[#「きちん」に傍点]と小ぎれいに片付いているのに引きかえて、叔母一家の住まう下座敷は変に油ぎってよごれていた。白痴の子が赤ん坊同様なので、東の縁に干してある襁褓から立つ塩臭いにおいや、畳の上に踏みにじられたままこびりついている飯粒などが、すぐ葉子の神経をいらいらさせた。玄関に出て見ると、そこには叔父が、襟のまっ黒に汗じんだ白い飛白を薄寒そうに着て、白痴の子を膝の上に乗せながら、朝っぱらから柿をむいてあてがっていた。その柿の皮があかあかと紙くずとごったになって敷き石の上に散っていた。葉子は叔父にちょっと挨拶をして草履をさがしながら、
「愛さんちょっとここにおいで。玄関が御覧、あんなによごれているからね、きれいに掃除しておいてちょうだいよ。――今夜はお客様もあるんだのに……」
と駆けて来た愛子にわざとつんけん[#「つんけん」に傍点]いうと、叔父は神経の遠くのほうであてこすられたのを感じたふうで、
「おヽ、それはわしがしたんじゃで、わしが掃除しとく。構うてくださるな、おいお俊――お俊というに、何しとるぞい」
とのろま[#「のろま」に傍点]らしく呼び立てた。帯しろ裸の叔母がそこにやって来て、またくだらぬ口論をするのだと思うと、泥の中でいがみ合う豚かなんぞを思い出して、葉子は踵の塵を払わんばかりにそこそこ家を出た。細い釘店の往来は場所柄だけに門並みきれいに掃除されて、打ち水をした上を、気のきいた風体の男女が忙しそうに往き来していた。葉子は抜け毛の丸めたのや、巻煙草の袋のちぎれたのが散らばって箒の目一つない自分の家の前を目をつぶって駆けぬけたいほどの思いをして、ついそばの日本銀行にはいってありったけの預金を引き出した。そしてその前の車屋で始終乗りつけのいちばん立派な人力車を仕立てさして、その足で買い物に出かけた。妹たちに買い残しておくべき衣服地や、外国人向きの土産品や、新しいどっしり[#「どっしり」に傍点]したトランクなどを買い入れると、引き出した金はいくらも残ってはいなかった。そして午後の日がやや傾きかかったころ、大塚窪町に住む内田という母の友人を訪れた。内田は熱心なキリスト教の伝道者として、憎む人からは蛇蝎のように憎まれるし、好きな人からは予言者のように崇拝されている天才肌の人だった。葉子は五つ六つのころ、母に連れられて、よくその家に出入りしたが、人を恐れずにぐん[#「ぐん」に傍点]ぐん思った事をかわいらしい口もとからいい出す葉子の様子が、始終人から距てをおかれつけた内田を喜ばしたので、葉子が来ると内田は、何か心のこだわった時でもきげんを直して、窄った眉根を少しは開きながら、「また子猿が来たな」といって、そのつやつやしたおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]をなで回したりなぞした。そのうち母がキリスト教婦人同盟の事業に関係して、たちまちのうちにその牛耳を握り、外国宣教師だとか、貴婦人だとかを引き入れて、政略がましく事業の拡張に奔走するようになると、内田はすぐきげんを損じて、早月親佐を責めて、キリストの精神を無視した俗悪な態度だといきまいたが、親佐がいっこうに取り合う様子がないので、両家の間は見る見る疎々しいものになってしまった。それでも内田は葉子だけには不思議に愛着を持っていたと見えて、よく葉子のうわさをして、「子猿」だけは引き取って子供同様に育ててやってもいいなぞといったりした。内田は離縁した最初の妻が連れて行ってしまったたった[#「たった」に傍点]一人の娘にいつまでも未練を持っているらしかった。どこでもいいその娘に似たらしい所のある少女を見ると、内田は日ごろの自分を忘れたように甘々しい顔つきをした。人が怖れる割合に、葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その峻烈な性格の奥にとじこめられて小さくよどんだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られないようななつかしみを感ずる事があった。葉子は母に黙って時々内田を訪れた。内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の部屋に通して笑い話などをした。時には二人だけで郊外の静かな並み木道などを散歩したりした。ある時内田はもう娘らしく生長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の私のただ一人の道伴れだ」などといった。葉子は不思議な甘い心持ちでその言葉を聞いた。その記憶は長く忘れ得なかった。
それがあの木部との結婚問題が持ち上がると、内田は否応なしにある日葉子を自分の家に呼びつけた。そして恋人の変心を詰り責める嫉妬深い男のように、火と涙とを目からほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も心から激昂させられた。「だれがもうこんなわがままな人の所に来てやるものか」そう思いながら、生垣の多い、家並みのまばらな、轍の跡のめいりこんだ小石川の往来を歩き歩き、憤怒の歯ぎしりを止めかねた。それは夕闇の催した晩秋だった。しかしそれと同時になんだか大切なものを取り落としたような、自分をこの世につり上げてる糸の一つがぷつん[#「ぷつん」に傍点]と切れたような不思議なさびしさの胸に逼るのをどうする事もできなかった。
「キリストに水をやったサマリヤの女の事も思うから、この上お前には何もいうまい――他人の失望も神の失望もちっと[#「ちっと」に傍点]は考えてみるがいい、……罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」
そんな事があってから五年を過ぎたきょう、郵便局に行って、永田から来た為替を引き出して、定子を預かってくれている乳母の家に持って行こうと思った時、葉子は紙幣の束を算えながら、ふと内田の最後の言葉を思い出したのだった。物のない所に物を探るような心持ちで葉子は人力車を大塚のほうに走らした。
五年たっても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり[#「めっきり」に傍点]延びた垣添いの桐の木とが目立つばかりだった。砂きしみのする格子戸をあけて、帯前を整えながら出て来た柔和な細君と顔を合わせた時は、さすがに懐旧の情が二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」といったが、その瞬間にはっ[#「はっ」に傍点]とためらったような様子になって、急いで内田の書斎にはいって行った。しばらくすると嘆息しながら物をいうような内田の声が途切れ途切れに聞こえた。「上げるのは勝手だがおれが会う事はないじゃないか」といったかと思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたん[#「ぱたん」に傍点]と閉じる音がした。葉子は自分の爪先を見つめながら下くちびるをかんでいた。
やがて細君がおどおどしながら立ち現われて、まずと葉子を茶の間に招じ入れた。それと入れ代わりに、書斎では内田が椅子を離れた音がして、やがて内田はずかずかと格子戸をあけて出て行ってしまった。
葉子は思わずふらふらッと立ち上がろうとするのを、何気ない顔でじっ[#「じっ」に傍点]とこらえた。せめては雷のような激しいその怒りの声に打たれたかった。あわよくば自分も思いきりいいたい事をいってのけたかった。どこに行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた葉子には、何か真味な力で打ちくだかれるなり、打ちくだくなりして見たかった。それだったのに思い入って内田の所に来て見れば、内田は世の常の人々よりもいっそう冷ややかに酷く思われた。
「こんな事をいっては失礼ですけれどもね葉子さん、あなたの事をいろいろにいって来る人があるもんですからね、あのとおりの性質でしょう。どうもわたしにはなんともいいなだめようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議なほどだとわたし思いますの。このごろはことさらだれにもいわれないようなごた[#「ごた」に傍点]ごたが家の内にあるもんですから、よけいむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]していて、ほんとうにわたしどうしたらいいかと思う事がありますの」
意地も生地も内田の強烈な性格のために存分に打ち砕かれた細君は、上品な顔立てに中世紀の尼にでも見るような思いあきらめた表情を浮かべて、捨て身の生活のどん底にひそむさびしい不足をほのめかした。自分より年下で、しかも良人からさんざん悪評を投げられているはずの葉子に対してまで、すぐ心が砕けてしまって、張りのない言葉で同情を求めるかと思うと、葉子は自分の事のように歯がゆかった。眉と口とのあたりにむごたらしい軽蔑の影が、まざまざと浮かび上がるのを感じながら、それをどうする事もできなかった。葉子は急に青味を増した顔で細君を見やったが、その顔は世故に慣れきった三十女のようだった。(葉子は思うままに自分の年を五つも上にしたり下にしたりする不思議な力を持っていた。感情次第でその表情は役者の技巧のように変わった)
「歯がゆくはいらっしゃらなくって」
と切り返すように内田の細君の言葉をひったくって、
「わたしだったらどうでしょう。すぐおじさんとけんかして出てしまいますわ。それはわたし、おじさんを偉い方だとは思っていますが、わたしこんなに生まれついたんですからどうしようもありませんわ。一から十までおっしゃる事をはい[#「はい」に傍点]はいと聞いていられませんわ。おじさんもあんまりでいらっしゃいますのね。あなたみたいな方に、そう笠にかからずとも、わたしでもお相手になさればいいのに……でもあなたがいらっしゃればこそおじさんもああやってお仕事がおできになるんですのね。わたしだけは除け物ですけれども、世の中はなかなかよくいっていますわ。……あ、それでもわたしはもう見放されてしまったんですものね、いう事はありゃしません。ほんとうにあなたがいらっしゃるのでおじさんはお仕合わせですわ。あなたは辛抱なさる方。おじさんはわがままでお通しになる方。もっともおじさんにはそれが神様の思し召しなんでしょうけれどもね。……わたしも神様の思し召しかなんかでわがままで通す女なんですからおじさんとはどうしても茶碗と茶碗ですわ。それでも男はようござんすのね、わがままが通るんですもの。女のわがままは通すよりしかたがないんですからほんとうに情けなくなりますのね。何も前世の約束なんでしょうよ……」
内田の細君は自分よりはるか年下の葉子の言葉をしみじみと聞いているらしかった。葉子は葉子でしみじみと細君の身なりを見ないではいられなかった。一昨日あたり結ったままの束髪だった。癖のない濃い髪には薪の灰らしい灰がたかっていた。糊気のぬけきった単衣も物さびしかった。その柄の細かい所には里の母の着古しというような香いがした。由緒ある京都の士族に生まれたその人の皮膚は美しかった。それがなおさらその人をあわれにして見せた。
「他人の事なぞ考えていられやしない」しばらくすると葉子は捨てばちにこんな事を思った。そして急にはずんだ調子になって、
「わたしあすアメリカに発ちますの、ひとりで」
と突拍子もなくいった。あまりの不意に細君は目を見張って顔をあげた。
「まあほんとうに」
「はあほんとうに……しかも木村の所に行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」
細君がうなずいてなお仔細を聞こうとすると、葉子は事もなげにさえぎって、
「だからきょうはお暇乞いのつもりでしたの。それでもそんな事はどうでもようございますわ。おじさんがお帰りになったらよろしくおっしゃってくださいまし、葉子はどんな人間になり下がるかもしれませんって……あなたどうぞおからだをお大事に。太郎さんはまだ学校でございますか。大きくおなりでしょうね。なんぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」
といいながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち上がった。
玄関に送って出た細君の目には涙がたまっていた。それを見ると、人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が無理無体にしぼり出させるようなものだと思い直すと、心臓の鼓動が止まるほど葉子の心はかっ[#「かっ」に傍点]となった。そして口びるを震わしながら、
「もう一言おじさんにおっしゃってくださいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度ぐらいは人の尤も許して上げてくださいましって。……もっともこれは、あなたのおために申しますの。わたしはだれにあやまっていただくのもいやですし、だれにあやまるのもいやな性分なんですから、おじさんに許していただこうとは頭から思ってなどいはしませんの。それもついでにおっしゃってくださいまし」
口のはたに戯談らしく微笑を見せながら、そういっているうちに、大濤がどすん[#「どすん」に傍点]どすんと横隔膜につきあたるような心地がして、鼻血でも出そうに鼻の孔がふさがった。門を出る時も口びるはなおくやしそうに震えていた。日は植物園の森の上に舂いて、暮れがた近い空気の中に、けさから吹き出していた風はなぎた。葉子は今の心と、けさ早く風の吹き始めたころに、土蔵わきの小部屋で荷造りをした時の心とをくらべて見て、自分ながら同じ心とは思い得なかった。そして門を出て左に曲がろうとしてふと道ばたの捨て石にけつまずいて、はっ[#「はっ」に傍点]と目がさめたようにあたりを見回した。やはり二十五の葉子である。いヽえ昔たしかに一度けつまずいた事があった。そう思って葉子は迷信家のようにもう一度振り返って捨て石を見た。その時に日は……やはり植物園の森のあのへんにあった。そして道の暗さもこのくらいだった。自分はその時、内田の奥さんに内田の悪口をいって、ペテロとキリストとの間に取りかわされた寛恕に対する問答を例に引いた。いヽえ、それはきょうした事だった。きょう意味のない涙を奥さんがこぼしたように、その時も奥さんは意味のない涙をこぼした。その時にも自分は二十五……そんな事はない。そんな事のあろうはずがない……変な……。それにしてもあの捨て石には覚えがある。あれは昔からあすこにちゃん[#「ちゃん」に傍点]とあった。こう思い続けて来ると、葉子は、いつか母と遊びに来た時、何か怒ってその捨て石にかじり付いて動かなかった事をまざまざと心に浮かべた。その時は大きな石だと思っていたのにこれんぼっちの石なのか。母が当惑して立った姿がはっきり目先に現われた。と思うとやがてその輪郭が輝き出して、目も向けられないほど耀いたが、すっ[#「すっ」に傍点]と惜しげもなく消えてしまって、葉子は自分のからだが中有からどっしり[#「どっしり」に傍点]大地におり立ったような感じを受けた。同時に鼻血がどくどく口から顎を伝って胸の合わせ目をよごした。驚いてハンケチを袂から探り出そうとした時、
「どうかなさいましたか」
という声に驚かされて、葉子は始めて自分のあとに人力車がついて来ていたのに気が付いた。見ると捨て石のある所はもう八九町後ろになっていた。
「鼻血なの」
と応えながら葉子は初めてのようにあたりを見た。そこには紺暖簾を所せまくかけ渡した紙屋の小店があった。葉子は取りあえずそこにはいって、人目を避けながら顔を洗わしてもらおうとした。
四十格好の克明らしい内儀さんがわが事のように金盥に水を移して持って来てくれた。葉子はそれで白粉気のない顔を思う存分に冷やした。そして少し人心地がついたので、帯の間から懐中鏡を取り出して顔を直そうとすると、鏡がいつのまにかま二つに破れていた。先刻けつまずいた拍子に破れたのかしらんと思ってみたが、それくらいで破れるはずはない。怒りに任せて胸がかっ[#「かっ」に傍点]となった時、破れたのだろうか。なんだかそうらしくも思えた。それともあすの船出の不吉を告げる何かの業かもしれない。木村との行く末の破滅を知らせる悪い辻占かもしれない。またそう思うと葉子は襟元に凍った針でも刺されるように、ぞくぞくとわけのわからない身ぶるいをした。いったい自分はどうなって行くのだろう。葉子はこれまでの見窮められない不思議な自分の運命を思うにつけ、これから先の運命が空恐ろしく心に描かれた。葉子は不安な悒鬱な目つきをして店を見回した。帳場にすわり込んだ内儀さんの膝にもたれて、七つほどの少女が、じっ[#「じっ」に傍点]と葉子の目を迎えて葉子を見つめていた。やせぎすで、痛々しいほど目の大きな、そのくせ黒目の小さな、青白い顔が、薄暗い店の奥から、香料や石鹸の香につつまれて、ぼんやり浮き出たように見えるのが、何か鏡の破れたのと縁でもあるらしくながめられた。葉子の心は全くふだんの落ち付きを失ってしまったようにわく[#「わく」に傍点]わくして、立ってもすわってもいられないようになった。ばかなと思いながらこわいものにでも追いすがられるようだった。
しばらくの間葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を立ち去る事もしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれという捨てばちな気になって元気を取り直しながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気にもなれなかった。これから定子に会いに行ってよそながら別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ物憂かった。定子に会ったところがどうなるものか。自分の事すら次の瞬間には取りとめもないものを、他人の事――それはよし自分の血を分けた大切な独子であろうとも――などを考えるだけがばかな事だと思った。そしてもう一度そこの店から巻紙を買って、硯箱を借りて、男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくなったから、この後とも定子をよろしく頼む。当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単にしたためて、永田から送ってよこした為替の金を封入して、その店を出た。そしていきなり[#「いきなり」に傍点]そこに待ち合わしていた人力車の上の膝掛けをはぐって、蹴込みに打ち付けてある鑑札にしっかり[#「しっかり」に傍点]目を通しておいて、
「わたしはこれから歩いて行くから、この手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから……お金ですよ、少しどっさり[#「どっさり」に傍点]あるから大事にしてね」
と車夫にいいつけた。車夫はろくに見知りもないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今さらのようにきょと[#「きょと」に傍点]きょとと見やりながら空俥を引いて立ち去った。大八車が続けさまに田舎に向いて帰って行く小石川の夕暮れの中を、葉子は傘を杖にしながら思いにふけって歩いて行った。
こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子のこめかみをちかちかと痛めた。葉子は人力車の行くえを見失っていた。そして自分ではまっすぐに釘店のほうに急ぐつもりでいた。ところが実際は目に見えぬ力で人力車に結び付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっ[#「はっ」に傍点]と気がついた時にはいつのまにか、乳母が住む下谷池の端の或る曲がり角に来て立っていた。
そこで葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちどまってしまった。短くなりまさった日は本郷の高台に隠れて、往来には厨の煙とも夕靄ともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプの灯がことに赤くちらほらちらほらとともっていた。通り慣れたこの界隈の空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚をなでた。心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子の頬の膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんす[#「めれんす」に傍点]の弾力のある軟らかい触感を感じていた。葉子の膝はふうわり[#「ふうわり」に傍点]とした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がり角の朽ちかかった黒板塀を透して、木部から稟けた笑窪のできる笑顔が否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。葉子は思わず片頬に微笑を浮かべてあたりをぬすむように見回した。とちょうどそこを通りかかった内儀さんが、何かを前掛けの下に隠しながらじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。
葉子は悪事でも働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。そしてこそ[#「こそ」に傍点]こそとそこを立ちのいて不忍の池に出た。そして過去も未来も持たない人のように、池の端につくねん[#「つくねん」に傍点]と突っ立ったまま、池の中の蓮の実の一つに目を定めて、身動きもせずに小半時立ち尽くしていた。
八
日の光がとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と隠れてしまって、往来の灯ばかりが足もとのたよりとなるころ、葉子は熱病患者のように濁りきった頭をもてあまして、車に揺られるたびごとに眉を痛々しくしかめながら、釘店に帰って来た。
玄関にはいろいろの足駄や靴がならべてあったが、流行を作ろう、少なくとも流行に遅れまいというはなやかな心を誇るらしい履物といっては一つも見当たらなかった。自分の草履を始末しながら、葉子はすぐに二階の客間の模様を想像して、自分のために親戚や知人が寄って別れを惜しむというその席に顔を出すのが、自分自身をばかにしきったことのようにしか思われなかった。こんなくらいなら定子の所にでもいるほうがよほどましだった。こんな事のあるはずだったのをどうしてまた忘れていたものだろう。どこにいるのもいやだ。木部の家を出て、二度とは帰るまいと決心した時のような心持ちで、拾いかけた草履をたたきに戻そうとしたその途端に、
「ねえさんもういや……いや」
といいながら、身を震わしてやにわに胸に抱きついて来て、乳の間のくぼみに顔を埋めながら、成人のするような泣きじゃくり[#「じゃくり」に傍点]をして、
「もう行っちゃいやですというのに」
とからく[#「からく」に傍点]言葉を続けたのは貞世だった。葉子は石のように立ちすくんでしまった。貞世は朝からふきげんになってだれのいう事も耳には入れずに、自分の帰るのばかりを待ちこがれていたに違いないのだ。葉子は機械的に貞世に引っぱられて階子段をのぼって行った。
階子段をのぼりきって見ると客間はしん[#「しん」に傍点]としていて、五十川女史の祈祷の声だけがおごそかに聞こえていた。葉子と貞世とは恋人のように抱き合いながら、アーメンという声の一座の人々からあげられるのを待って室にはいった。列座の人々はまだ殊勝らしく頭をうなだれている中に、正座近くすえられた古藤だけは昂然と目を見開いて、襖をあけて葉子がしとやかにはいって来るのを見まもっていた。
葉子は古藤にちょっと目で挨拶をして置いて、貞世を抱いたまま末座に膝をついて、一同に遅刻のわびをしようとしていると、主人座にすわり込んでいる叔父が、わが子でもたしなめるように威儀を作って、
「なんたらおそい事じゃ。きょうはお前の送別会じゃぞい。……皆さんにいこうお待たせするがすまんから、今五十川さんに祈祷をお頼み申して、箸を取っていただこうと思ったところであった……いったいどこを……」
面と向かっては、葉子に口小言一ついいきらぬ器量なしの叔父が、場所もおりもあろうにこんな場合に見せびらかしをしようとする。葉子はそっち[#「そっち」に傍点]に見向きもせず、叔父の言葉を全く無視した態度で急に晴れやかな色を顔に浮かべながら、
「ようこそ皆様……おそくなりまして。つい行かなければならない所が二つ三つありましたもんですから……」
とだれにともなくいっておいて、するすると立ち上がって、釘店の往来に向いた大きな窓を後ろにした自分の席に着いて、妹の愛子と自分との間に割り込んで来る貞世の頭をなでながら、自分の上にばかり注がれる満座の視線を小うるさそうに払いのけた。そして片方の手でだいぶ乱れた鬢のほつれをかき上げて、葉子の視線は人もなげに古藤のほうに走った。
「しばらくでしたのね……とうとう明朝になりましてよ。木村に持って行くものは、一緒にお持ちになって?……そう」
と軽い調子でいったので、五十川女史と叔父とが切り出そうとした言葉は、物のみごとにさえぎられてしまった。葉子は古藤にそれだけの事をいうと、今度は当の敵ともいうべき五十川女史に振り向いて、
「おばさま、きょう途中でそれはおかしな事がありましたのよ。こうなんですの」
といいながら男女をあわせて八人ほど居ならんだ親類たちにずっと目を配って、
「車で駆け通ったんですから前も後もよくはわからないんですけれども、大時計のかどの所を広小路に出ようとしたら、そのかどにたいへんな人だかりですの。なんだと思って見てみますとね、禁酒会の大道演説で、大きな旗が二三本立っていて、急ごしらえのテーブルに突っ立って、夢中になって演説している人があるんですの。それだけなら何も別に珍しいという事はないんですけれども、その演説をしている人が……だれだとお思いになって……山脇さんですの」
一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の言葉に耳をそばだてていた。先刻しかつめらしい顔をした叔父はもう白痴のように口をあけたままで薄笑いをもらしながら葉子を見つめていた。
「それがまたね、いつものとおりに金時のように首筋までまっ赤ですの。『諸君』とかなんとかいって大手を振り立ててしゃべっているのを、肝心の禁酒会員たちはあっけに取られて、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人がわい[#「わい」に傍点]わいとおもしろがってたかっているのも全くもっともですわ。そのうちに、あ、叔父さん、箸をおつけになるように皆様におっしゃってくださいまし」
叔父があわてて口の締まりをして仏頂面に立ち返って、何かいおうとすると、葉子はまたそれには頓着なく五十川女史のほうに向いて、
「あの肩の凝りはすっかり[#「すっかり」に傍点]おなおりになりまして」
といったので、五十川女史の答えようとする言葉と、叔父のいい出そうとする言葉は気まずくも鉢合わせになって、二人は所在なげに黙ってしまった。座敷は、底のほうに気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の中で身構えをしていた。五十川女史のそばにすわって、神経質らしく眉をきらめかす中老の官吏は、射るようないまいましげな眼光を時々葉子に浴びせかけていたが、いたたまれない様子でちょっと居ずまいをなおすと、ぎくしゃく[#「ぎくしゃく」に傍点]した調子で口をきった。
「葉子さん、あなたもいよいよ身のかたまる瀬戸ぎわまでこぎ付けたんだが……」
葉子はすきを見せたら切り返すからといわんばかりな緊張した、同時に物を物ともしないふうでその男の目を迎えた。
「何しろわたしども早月家の親類に取ってはこんなめでたい事はまずない。無いには無いがこれからがあなたに頼み所だ。どうぞ一つわたしどもの顔を立てて、今度こそは立派な奥さんになっておもらいしたいがいかがです。木村君はわたしもよく知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍しくはき[#「はき」に傍点]はきできるし、若いに似合わぬ物のわかった仁だ。こんなことまで比較に持ち出すのはどうか知らないが、木部氏のような実行力の伴わない夢想家は、わたしなどは初めから不賛成だった。今度のはじたい[#「じたい」に傍点]段が違う。葉子さんが木部氏の所から逃げ帰って来た時には、わたしもけしからんといった実は一人だが、今になって見ると葉子さんはさすがに目が高かった。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村という仁なりゃ、立派に成功して、第一流の実業家に成り上がるにきまっている。これからはなんといっても信用と金だ。官界に出ないのなら、どうしても実業界に行かなければうそだ。擲身報国は官吏たるものの一特権だが、木村さんのようなまじめな信者にしこたま[#「しこたま」に傍点]金を造ってもらわんじゃ、神の道を日本に伝え広げるにしてからが容易な事じゃありませんよ。あなたも小さい時から米国に渡って新聞記者の修業をすると口ぐせのように妙な事をいったもんだが(ここで一座の人はなんの意味もなく高く笑った。おそらくはあまりしかつめらしい空気を打ち破って、なんとかそこに余裕をつけるつもりが、みんなに起こったのだろうけれども、葉子にとってはそれがそうは響かなかった。その心持ちはわかっても、そんな事で葉子の心をはぐらかそうとする彼らの浅はかさがぐっ[#「ぐっ」に傍点]と癪にさわった)新聞記者はともかくも……じゃない、そんなものになられては困りきるが(ここで一座はまたわけもなくばからしく笑った)米国行きの願いはたしかにかなったのだ。葉子さんも御満足に違いなかろう。あとの事はわたしどもがたしかに引き受けたから心配は無用にして、身をしめて妹さん方のしめし[#「しめし」に傍点]にもなるほどの奮発を頼みます……えゝと、財産のほうの処分はわたしと田中さんとで間違いなく固めるし、愛子さんと貞世さんのお世話は、五十川さん、あなたにお願いしようじゃありませんか、御迷惑ですが。いかがでしょう皆さん(そういって彼は一座を見渡した。あらかじめ申し合わせができていたらしく一同は待ち設けたようにうなずいて見せた)どうじゃろう葉子さん」
葉子は乞食の嘆願を聞く女王のような心持ちで、○○局長といわれるこの男のいう事を聞いていたが、財産の事などはどうでもいいとして、妹たちの事が話題に上るとともに、五十川女史を向こうに回して詰問のような対話を始めた。なんといっても五十川女史はその晩そこに集まった人々の中ではいちばん年配でもあったし、いちばんはばかられているのを葉子は知っていた。五十川女史が四角を思い出させるような頑丈な骨組みで、がっしり[#「がっしり」に傍点]と正座に居直って、葉子を子供あしらいにしようとするのを見て取ると、葉子の心は逸り熱した。
「いゝえ、わがままだとばかりお思いになっては困ります。わたしは御承知のような生まれでございますし、これまでもたびたび御心配かけて来ておりますから、人様同様に見ていただこうとはこれっぱかりも思ってはおりません」
といって葉子は指の間になぶっていた楊枝を老女史の前にふい[#「ふい」に傍点]と投げた。
「しかし愛子も貞世も妹でございます。現在わたしの妹でございます。口幅ったいと思し召すかもしれませんが、この二人だけはわたしたとい米国におりましても立派に手塩にかけて御覧にいれますから、どうかお構いなさらずにくださいまし。それは赤坂学院も立派な学校には違いございますまい。現在私もおばさまのお世話であすこで育てていただいたのですから、悪くは申したくはございませんが、わたしのような人間が、皆様のお気に入らないとすれば……それは生まれつきもございましょうとも、ございましょうけれども、わたしを育て上げたのはあの学校でございますからねえ。何しろ現在いて見た上で、わたしこの二人をあすこに入れる気にはなれません。女というものをあの学校ではいったいなんと見ているのでござんすかしらん……」
こういっているうちに葉子の心には火のような回想の憤怒が燃え上がった。葉子はその学校の寄宿舎で一個の中性動物として取り扱われたのを忘れる事ができない。やさしく、愛らしく、しおらしく、生まれたままの美しい好意と欲念との命ずるままに、おぼろげながら神というものを恋しかけた十二三歳ごろの葉子に、学校は祈祷と、節欲と、殺情とを強制的にたたき込もうとした。十四の夏が秋に移ろうとしたころ、葉子はふと思い立って、美しい四寸幅ほどの角帯のようなものを絹糸で編みはじめた。藍の地に白で十字架と日月とをあしらった模様だった。物事にふけりやすい葉子は身も魂も打ち込んでその仕事に夢中になった。それを造り上げた上でどうして神様の御手に届けよう、というような事はもとより考えもせずに、早く造り上げてお喜ばせ申そうとのみあせって、しまいには夜の目もろくろく合わさなくなった。二週間に余る苦心の末にそれはあらかた[#「あらかた」に傍点]でき上がった。藍の地に簡単に白で模様を抜くだけならさしたる事でもないが、葉子は他人のまだしなかった試みを加えようとして、模様の周囲に藍と白とを組み合わせにした小さな笹縁のようなものを浮き上げて編み込んだり、ひどく伸び縮みがして模様が歪形にならないように、目立たないようにカタン糸を編み込んで見たりした。出来上がりが近づくと葉子は片時も編み針を休めてはいられなかった。ある時聖書の講義の講座でそっ[#「そっ」に傍点]と机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見つけられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じやすい乙女心にどうしてこの夢よりもはかない目論見を白状する事ができよう。教師はその帯の色合いから推して、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。そして葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。そして恋というものを生来知らぬげな四十五六の醜い容貌の舎監は、葉子を監禁同様にして置いて、暇さえあればその帯の持ち主たるべき人の名を迫り問うた。
葉子はふと心の目を開いた。そしてその心はそれ以来峰から峰を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま翻弄した。青年はまもなく自殺同様な死に方をした。一度生血の味をしめた虎の子のような渇欲が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからの事である。
「古藤さん愛と貞とはあなたに願いますわ。だれがどんな事をいおうと、赤坂学院には入れないでくださいまし。私きのう田島さんの塾に行って、田島さんにお会い申してよくお頼みして来ましたから、少し片付いたらはばかりさまですがあなた御自身で二人を連れていらしってください。愛さんも貞ちゃんもわかりましたろう。田島さんの塾にはいるとね、ねえさんと一緒にいた時のようなわけには行きませんよ……」
「ねえさんてば……自分でばかり物をおっしゃって」
といきなり[#「いきなり」に傍点]恨めしそうに、貞世は姉の膝をゆすりながらその言葉をさえぎった。
「さっきからなんど書いたかわからないのに平気でほんとにひどいわ」
一座の人々から妙な子だというふうにながめられているのにも頓着なく、貞世は姉のほうに向いて膝の上にしなだれかかりながら、姉の左手を長い袖の下に入れて、その手のひらに食指で仮名を一字ずつ書いて手のひらで拭き消すようにした。葉子は黙って、書いては消し書いては消しする字をたどって見ると、
「ネーサマハイイコダカラ『アメリカ』ニイツテハイケマセンヨヨヨヨ」
と読まれた。葉子の胸はわれ知らず熱くなったが、しいて笑いにまぎらしながら、
「まあ聞きわけのない子だこと、しかたがない。今になってそんな事をいったってしかたがないじゃないの」
とたしなめ諭すようにいうと、
「しかたがあるわ」
と貞世は大きな目で姉を見上げながら、
「お嫁に行かなければよろしいじゃないの」
といって、くるり[#「くるり」に傍点]と首を回して一同を見渡した。貞世のかわいい目は「そうでしょう」と訴えているように見えた。それを見ると一同はただなんという事もなく思いやりのない笑いかたをした。叔父はことに大きなとんきょ[#「とんきょ」に傍点]な声で高々と笑った。先刻から黙ったままでうつむいてさびしくすわっていた愛子は、沈んだ恨めしそうな目でじっ[#「じっ」に傍点]と叔父をにらめたと思うと、たちまちわくように涙をほろほろと流して、それを両袖でぬぐいもやらず立ち上がってその部屋をかけ出した。階子段の所でちょうど下から上がって来た叔母と行きあったけはいがして、二人が何かいい争うらしい声が聞こえて来た。
一座はまた白け渡った。
「叔父さんにも申し上げておきます」
と沈黙を破った葉子の声が妙に殺気を帯びて響いた。
「これまで何かとお世話様になってありがとうこざいましたけれども、この家もたたんでしまう事になれば、妹たちも今申したとおり塾に入れてしまいますし、この後はこれといって大して御厄介はかけないつもりでございます。赤の他人の古藤さんにこんな事を願ってはほんとうにすみませんけれども、木村の親友でいらっしゃるのですから、近い他人ですわね。古藤さん、あなた貧乏籤を背負い込んだと思し召して、どうか二人を見てやってくださいましな。いいでしょう。こう親類の前ではっきり[#「はっきり」に傍点]申しておきますから、ちっとも御遠慮なさらずに、いいとお思いになったようになさってくださいまし。あちらへ着いたらわたしまたきっとどうともいたしますから。きっとそんなに長い間御迷惑はかけませんから。いかが、引き受けてくださいまして?」
古藤は少し躊躇するふうで五十川女史を見やりながら、
「あなたはさっきから赤坂学院のほうがいいとおっしゃるように伺っていますが、葉子さんのいわれるとおりにしてさしつかえないのですか。念のために伺っておきたいのですが」
と尋ねた。葉子はまたあんなよけいな事をいうと思いながらいらいらした。五十川女史は日ごろの円滑な人ずれのした調子に似ず、何かひどく激昂した様子で、
「わたしは亡くなった親佐さんのお考えはこうもあろうかと思った所を申したまでですから、それを葉子さんが悪いとおっしゃるなら、その上とやかく言いともないのですが、親佐さんは堅い昔風な信仰を持った方ですから、田島さんの塾は前からきらいでね……よろしゅうございましょう、そうなされば。わたしはとにかく赤坂学院が一番だとどこまでも思っとるだけです」
といいながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじまじとながめた。葉子は貞世を抱いたまましゃん[#「しゃん」に傍点]と胸をそらして目の前の壁のほうに顔を向けていた、たとえばばら[#「ばら」に傍点]ばらと投げられるつぶて[#「つぶて」に傍点]を避けようともせずに突っ立つ人のように。
古藤は何か自分一人で合点したと思うと、堅く腕組みをしてこれも自分の前の目八分の所をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめた。
一座の気分はほとほと動きが取れなくなった。その間でいちばん早くきげんを直して相好を変えたのは五十川女史だった。子供を相手にして腹を立てた、それを年がいないとでも思ったように、気を変えてきさく[#「きさく」に傍点]に立ちじたくをしながら、
「皆さんいかが、もうお暇にいたしましたら……お別れする前にもう一度お祈りをして」
「お祈りをわたしのようなもののためになさってくださるのは御無用に願います」
葉子は和らぎかけた人々の気分にはさらに頓着なく、壁に向けていた目を貞世に落として、いつのまにか寝入ったその人の艶々しい顔をなでさすりながらきっぱり[#「きっぱり」に傍点]といい放った。
人々は思い思いな別れを告げて帰って行った。葉子は貞世がいつのまにか膝の上に寝てしまったのを口実にして人々を見送りには立たなかった。
最後の客が帰って行ったあとでも、叔父叔母は二階を片づけには上がってこなかった。挨拶一つしようともしなかった。葉子は窓のほうに頭を向けて、煉瓦の通りの上にぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と立つ灯の照り返しを見やりながら、夜風にほてった顔を冷やさせて、貞世を抱いたまま黙ってすわり続けていた。間遠に日本橋を渡る鉄道馬車の音が聞こえるばかりで、釘店の人通りは寂しいほどまばらになっていた。
姿は見せずに、どこかのすみで愛子がまだ泣き続けて鼻をかんだりする音が聞こえていた。
「愛さん……貞ちゃんが寝ましたからね、ちょっとお床を敷いてやってちょうだいな」
われながら驚くほどやさしく愛子に口をきく自分を葉子は見いだした。性が合わないというのか、気が合わないというのか、ふだん愛子の顔さえ見れば葉子の気分はくずされてしまうのだった。愛子が何事につけても猫のように従順で少しも情というものを見せないのがことさら憎かった。しかしその夜だけは不思議にもやさしい口をきいた。葉子はそれを意外に思った。愛子がいつものように素直に立ち上がって、洟をすすりながら黙って床を取っている間に、葉子はおりおり往来のほうから振り返って、愛子のしとやかな足音や、綿を薄く入れた夏ぶとんの畳に触れるささやかな音を見入りでもするようにそのほうに目を定めた。そうかと思うとまた今さらのように、食い荒らされた食物や、敷いたままになっている座ぶとんのきたならしく散らかった客間をまじまじと見渡した。父の書棚のあった部分の壁だけが四角に濃い色をしていた。そのすぐそばに西洋暦が昔のままにかけてあった。七月十六日から先ははがされずに残っていた。
「ねえさま敷けました」
しばらくしてから、愛子がこうかすかに隣でいった。葉子は、
「そう御苦労さまよ」
とまたしとやかに応えながら、貞世を抱きかかえて立ち上がろうとすると、また頭がぐらぐらッとして、おびただしい鼻血が貞世の胸の合わせ目に流れ落ちた。
九
底光りのする雲母色の雨雲が縫い目なしにどんより[#「どんより」に傍点]と重く空いっぱいにはだかって、本牧の沖合いまで東京湾の海は物すごいような草色に、小さく波の立ち騒ぐ九月二十五日の午後であった。きのうの風が凪いでから、気温は急に夏らしい蒸し暑さに返って、横浜の市街は、疫病にかかって弱りきった労働者が、そぼふる雨の中にぐったりとあえいでいるように見えた。
靴の先で甲板をこつ[#「こつ」に傍点]こつとたたいて、うつむいてそれをながめながら、帯の間に手をさし込んで、木村への伝言を古藤はひとり言のように葉子にいった。葉子はそれに耳を傾けるような様子はしていたけれども、ほんとうはさして注意もせずに、ちょうど自分の目の前に、たくさんの見送り人に囲まれて、応接に暇もなげな田川法学博士の目じりの下がった顔と、その夫人のやせぎすな肩との描く微細な感情の表現を、批評家のような心で鋭くながめやっていた。かなり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送り人とで縁日のようににぎわっていた。葉子の見送りに来たはずの五十川女史は先刻から田川夫人のそばに付ききって、世話好きな、人のよい叔母さんというような態度で、見送り人の半分がたを自身で引き受けて挨拶していた。葉子のほうへは見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二三間離れた所に、蜘蛛のような白痴の子を小婢に背負わして、自分は葉子から預かった手鞄と袱紗包みとを取り落とさんばかりにぶら下げたまま、花々しい田川家の家族や見送り人の群れを見てあっけに取られていた。葉子の乳母は、どんな大きな船でも船は船だというようにひどく臆病そうな青い顔つきをして、サルンの入り口の戸の陰にたたずみながら、四角にたたんだ手ぬぐいをまっ赤になった目の所に絶えず押しあてては、ぬすみ見るように葉子を見やっていた。その他の人々はじみ[#「じみ」に傍点]な一団になって、田川家の威光に圧せられたようにすみのほうにかたまっていた。
葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから船の中で紹介してやるといい聞かせられていた。田川といえば、法曹界ではかなり名の聞こえた割合に、どこといって取りとめた特色もない政客ではあるが、その人の名はむしろ夫人のうわさのために世人の記憶にあざやかであった。感受力の鋭敏なそしてなんらかの意味で自分の敵に回さなければならない人に対してことに注意深い葉子の頭には、その夫人の面影は長い事宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人は我の強い、情の恣ままな、野心の深い割合に手練の露骨な、良人を軽く見てややともすると笠にかかりながら、それでいて良人から独立する事の到底できない、いわば心の弱い強がり家ではないかしらんというのだった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、辞書でも繰り当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを胸の中でほほえまずにはいられなかった。
「なんだか話が混雑したようだけれども、それだけいって置いてください」
ふと葉子は幻想から破れて、古藤のいうこれだけの言葉を捕えた。そして今まで古藤の口から出た伝言の文句はたいてい聞きもらしていたくせに、空々しげにもなくしんみり[#「しんみり」に傍点]とした様子で、
「確かに……けれどもあなたあとから手紙ででも詳しく書いてやってくださいましね。間違いでもしているとたいへんですから」
と古藤をのぞき込むようにしていった。古藤は思わず笑いをもらしながら、「間違うとたいへんですから」という言葉を、時おり葉子の口から聞くチャームに満ちた子供らしい言葉の一つとでも思っているらしかった。そして、
「何、間違ったって大事はないけれども……だが手紙は書いて、あなたの寝床の枕の下に置いときましたから、部屋に行ったらどこにでもしまっておいてください。それから、それと一緒にもう一つ……」
といいかけたが、
「何しろ忘れずに枕の下を見てください」
この時突然「田川法学博士万歳」という大きな声が、桟橋からデッキまでどよみ渡って聞こえて来た。葉子と古藤とは話の腰を折られて互いに不快な顔をしながら、手欄から下のほうをのぞいて見ると、すぐ目の下に、そのころ人の少し集まる所にはどこにでも顔を出す轟という剣舞の師匠だか撃剣の師匠だかする頑丈な男が、大きな五つ紋の黒羽織に白っぽい鰹魚縞の袴をはいて、桟橋の板を朴の木下駄で踏み鳴らしながら、ここを先途とわめいていた。その声に応じて、デッキまではのぼって来ない壮士体の政客や某私立政治学校の生徒が一斉に万歳を繰り返した。デッキの上の外国船客は物珍しさにいち早く、葉子がよりかかっている手欄のほうに押し寄せて来たので、葉子は古藤を促して、急いで手欄の折れ曲がったかどに身を引いた。田川夫婦もほほえみながら、サルンから挨拶のために近づいて来た。葉子はそれを見ると、古藤のそばに寄り添ったまま、左手をやさしく上げて、鬢のほつれをかき上げながら、頭を心持ち左にかしげてじっ[#「じっ」に傍点]と田川の目を見やった。田川は桟橋のほうに気を取られて急ぎ足で手欄のほうに歩いていたが、突然見えぬ力にぐっ[#「ぐっ」に傍点]と引きつけられたように、葉子のほうに振り向いた。
田川夫人も思わず良人の向くほうに頭を向けた。田川の威厳に乏しい目にも鋭い光がきらめいては消え、さらにきらめいて消えたのを見すまして、葉子は始めて田川夫人の目を迎えた。額の狭い、顎の固い夫人の顔は、軽蔑と猜疑の色をみなぎらして葉子に向かった。葉子は、名前だけをかねてから聞き知って慕っていた人を、今目の前に見たように、うやうやしさと親しみとの交じり合った表情でこれに応じた。そしてすぐそのばから、夫人の前にも頓着なく、誘惑のひとみを凝らしてその良人の横顔をじっ[#「じっ」に傍点]と見やるのだった。
「田川法学博士夫人万歳」「万歳」「万歳」
田川その人に対してよりもさらに声高な大歓呼が、桟橋にいて傘を振り帽子を動かす人々の群れから起こった。田川夫人は忙しく葉子から目を移して、群集に取っときの笑顔を見せながら、レースで笹縁を取ったハンケチを振らねばならなかった。田川のすぐそばに立って、胸に何か赤い花をさして型のいいフロック・コートを着て、ほほえんでいた風流な若紳士は、桟橋の歓呼を引き取って、田川夫人の面前で帽子を高くあげて万歳を叫んだ。デッキの上はまた一しきりどよめき渡った。
やがて甲板の上は、こんな騒ぎのほかになんとなく忙しくなって来た。事務員や水夫たちが、物せわしそうに人中を縫うてあちこちする間に、手を取り合わんばかりに近よって別れを惜しむ人々の群れがここにもかしこにも見え始めた。サルン・デッキから見ると、三等客の見送り人がボーイ長にせき立てられて、続々舷門から降り始めた。それと入れ代わりに、帽子、上着、ズボン、ネクタイ、靴などの調和の少しも取れていないくせに、むやみに気取った洋装をした非番の下級船員たちが、ぬれた傘を光らしながら駆けこんで来た。その騒ぎの間に、一種生臭いような暖かい蒸気が甲板の人を取り巻いて、フォクスルのほうで、今までやかましく荷物をまき上げていた扛重機の音が突然やむと、かーんとするほど人々の耳はかえって遠くなった。隔たった所から互いに呼びかわす水夫らの高い声は、この船にどんな大危険でも起こったかと思わせるような不安をまき散らした。親しい間の人たちは別れの切なさに心がわくわくしてろくに口もきかず、義理一ぺんの見送り人は、ややともするとまわりに気が取られて見送るべき人を見失う。そんなあわただしい抜錨の間ぎわになった。葉子の前にも、急にいろいろな人が寄り集まって来て、思い思いに別れの言葉を残して船を降り始めた。葉子はこんな混雑な間にも田川のひとみが時々自分に向けられるのを意識して、そのひとみを驚かすようななまめいたポーズや、たよりなげな表情を見せるのを忘れないで、言葉少なにそれらの人に挨拶した。叔父と叔母とは墓の穴まで無事に棺を運んだ人夫のように、通り一ぺんの事をいうと、預かり物を葉子に渡して、手の塵をはたかんばかりにすげなく、まっ先に舷梯を降りて行った。葉子はちらっ[#「ちらっ」に傍点]と叔母の後ろ姿を見送って驚いた。今の今までどことて似通う所の見えなかった叔母も、その姉なる葉子の母の着物を帯まで借りて着込んでいるのを見ると、はっ[#「はっ」に傍点]と思うほどその姉にそっくり[#「そっくり」に傍点]だった。葉子はなんという事なしにいやな心持ちがした。そしてこんな緊張した場合にこんなちょっとした事にまでこだわる自分を妙に思った。そう思う間もあらせず、今度は親類の人たちが五六人ずつ、口々に小やかましく何かいって、あわれむような妬むような目つきを投げ与えながら、幻影のように葉子の目と記憶とから消えて行った。丸髷に結ったり教師らしい地味な束髪に上げたりしている四人の学校友だちも、今は葉子とはかけ隔たった境界の言葉づかいをして、昔葉子に誓った言葉などは忘れてしまった裏切り者の空々しい涙を見せたりして、雨にぬらすまいと袂を大事にかばいながら、傘にかくれてこれも舷梯を消えて行ってしまった。最後に物おじする様子の乳母が葉子の前に来て腰をかがめた。葉子はとうとう行き詰まる所まで来たような思いをしながら、振り返って古藤を見ると、古藤は依然として手欄に身を寄せたまま、気抜けでもしたように、目を据えて自分の二三間先をぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]ながめていた。
「義一さん、船の出るのも間が無さそうですからどうか此女……わたしの乳母ですの……の手を引いておろしてやってくださいましな。すべりでもすると怖うござんすから」
と葉子にいわれて古藤は始めてわれに返った。そしてひとり言のように、
「この船で僕もアメリカに行って見たいなあ」
とのんきな事をいった。
「どうか桟橋まで見てやってくださいましね。あなたもそのうちぜひいらっしゃいましな……義一さんそれではこれでお別れ。ほんとうに、ほんとうに」
といいながら葉子はなんとなく親しみをいちばん深くこの青年に感じて、大きな目で古藤をじっと見た。古藤も今さらのように葉子をじっと見た。
「お礼の申しようもありません。この上のお願いです。どうぞ妹たちを見てやってくださいまし。あんな人たちにはどうしたって頼んではおけませんから。……さようなら」
「さようなら」
古藤は鸚鵡返しに没義道にこれだけいって、ふいと手欄を離れて、麦稈帽子を目深にかぶりながら、乳母に付き添った。
葉子は階子の上がり口まで行って二人に傘をかざしてやって、一段一段遠ざかって行く二人の姿を見送った。東京で別れを告げた愛子や貞世の姿が、雨にぬれた傘のへんを幻影となって見えたり隠れたりしたように思った。葉子は不思議な心の執着から定子にはとうとう会わないでしまった。愛子と貞世とはぜひ見送りがしたいというのを、葉子はしかりつけるようにいってとめてしまった。葉子が人力車で家を出ようとすると、なんの気なしに愛子が前髪から抜いて鬢をかこうとした櫛が、もろくもぽきり[#「ぽきり」に傍点]と折れた。それを見ると愛子は堪え堪えていた涙の堰を切って声を立てて泣き出した。貞世は初めから腹でも立てたように、燃えるような目からとめどなく涙を流して、じっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見つめてばかりいた。そんな痛々しい様子がその時まざまざと葉子の目の前にちらついたのだ。一人ぽっちで遠い旅に鹿島立って行く自分というものがあじきなくも思いやられた。そんな心持ちになると忙しい間にも葉子はふと田川のほうを振り向いて見た。中学校の制服を着た二人の少年と、髪をお下げにして、帯をおはさみ[#「おはさみ」に傍点]にしめた少女とが、田川と夫人との間にからまってちょうど告別をしているところだった。付き添いの守りの女が少女を抱き上げて、田川夫人の口びるをその額に受けさしていた。葉子はそんな場面を見せつけられると、他人事ながら自分が皮肉でむちうたれるように思った。竜をも化して牝豚にするのは母となる事だ。今の今まで焼くように定子の事を思っていた葉子は、田川夫人に対してすっかり反対の事を考えた。葉子はそのいまいましい光景から目を移して舷梯のほうを見た。しかしそこにはもう乳母の姿も古藤の影もなかった。
たちまち船首のほうからけたたましい銅鑼の音が響き始めた。船の上下は最後のどよめきに揺らぐように見えた。長い綱を引きずって行く水夫が帽子の落ちそうになるのを右の手でささえながら、あたりの空気に激しい動揺を起こすほどの勢いで急いで葉子のかたわらを通りぬけた。見送り人は一斉に帽子を脱いで舷梯のほうに集まって行った。その際になって五十川女史ははた[#「はた」に傍点]と葉子の事を思い出したらしく、田川夫人に何かいっておいて葉子のいる所にやって来た。
「いよいよお別れになったが、いつぞやお話しした田川の奥さんにおひきあわせしようからちょっと」
葉子は五十川女史の親切ぶりの犠牲になるのを承知しつつ、一種の好奇心にひかされて、そのあとについて行こうとした。葉子に初めて物をいう田川の態度も見てやりたかった。その時、
「葉子さん」
と突然いって、葉子の肩に手をかけたものがあった。振り返るとビールの酔いのにおいがむせかえるように葉子の鼻を打って、目の心まで紅くなった知らない若者の顔が、近々と鼻先にあらわれていた。はっ[#「はっ」に傍点]と身を引く暇もなく、葉子の肩はびしょぬれになった酔いどれの腕でがっしりと巻かれていた。
「葉子さん、覚えていますかわたしを……あなたはわたしの命なんだ。命なんです」
といううちにも、その目からはほろほろと煮えるような涙が流れて、まだうら若いなめらかな頬を伝った。膝から下がふらつくのを葉子にすがって危うくささえながら、
「結婚をなさるんですか……おめでとう……おめでとう……だがあなたが日本にいなくなると思うと……いたたまれないほど心細いんだ……わたしは……」
もう声さえ続かなかった。そして深々と息気をひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を伏せてさめざめと男泣きに泣き出した。
この不意な出来事はさすがに葉子を驚かしもし、きまりも悪くさせた。だれだとも、いつどこであったとも思い出す由がない。木部孤※[2]と別れてから、何という事なしに捨てばちな心地になって、だれかれの差別もなく近寄って来る男たちに対して勝手気ままを振る舞ったその間に、偶然に出あって偶然に別れた人の中の一人でもあろうか。浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったであろうか。とにかく葉子には少しも思い当たる節がなかった。葉子はその男から離れたい一心に、手に持った手鞄と包み物とを甲板の上にほうりなげて、若者の手をやさしく振りほどこうとして見たが無益だった。親類や朋輩たちの事あれがしな目が等しく葉子に注がれているのを葉子は痛いほど身に感じていた。と同時に、男の涙が薄い単衣の目を透して、葉子の膚にしみこんで来るのを感じた。乱れたつやつやしい髪のにおいもつい鼻の先で葉子の心を動かそうとした。恥も外聞も忘れ果てて、大空の下ですすり泣く男の姿を見ていると、そこにはかすかな誇りのような気持ちがわいて来た。不思議な憎しみといとしさがこんがらかって葉子の心の中で渦巻いた。葉子は、
「さ、もう放してくださいまし、船が出ますから」
ときびしくいって置いて、かんで含めるように、
「だれでも生きてる間は心細く暮らすんですのよ」
とその耳もとにささやいて見た。若者はよくわかったというふうに深々とうなずいた。しかし葉子を抱く手はきびしく震えこそすれ、ゆるみそうな様子は少しも見えなかった。
物々しい銅鑼の響きは左舷から右舷に回って、また船首のほうに聞こえて行こうとしていた。船員も乗客も申し合わしたように葉子のほうを見守っていた。先刻から手持ちぶさたそうにただ立って成り行きを見ていた五十川女史は思いきって近寄って来て、若者を葉子から引き離そうとしたが、若者はむずかる子供のように地だんだ[#「だんだ」に傍点]を踏んでますます葉子に寄り添うばかりだった。船首のほうに群がって仕事をしながら、この様子を見守っていた水夫たちは一斉に高く笑い声を立てた。そしてその中の一人はわざと船じゅうに聞こえ渡るようなくさめをした。抜錨の時刻は一秒一秒に逼っていた。物笑いの的になっている、そう思うと葉子の心はいとしさから激しいいとわしさに変わって行った。
「さ、お放しください、さ」
ときわめて冷酷にいって、葉子は助けを求めるようにあたりを見回した。
田川博士のそばにいて何か話をしていた一人の大兵な船員がいたが、葉子の当惑しきった様子を見ると、いきなり大股に近づいて来て、
「どれ、わたしが下までお連れしましょう」
というや否や、葉子の返事も待たずに若者を事もなく抱きすくめた。若者はこの乱暴にかっ[#「かっ」に傍点]となって怒り狂ったが、その船員は小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右わきにかいこんで、やすやすと舷梯を降りて行った。五十川女史はあたふた[#「あたふた」に傍点]と葉子に挨拶もせずにそのあとに続いた。しばらくすると若者は桟橋の群集の間に船員の手からおろされた。
けたたましい汽笛が突然鳴りはためいた。田川夫妻の見送り人たちはこの声で活を入れられたようになって、どよめき渡りながら、田川夫妻の万歳をもう一度繰り返した。若者を桟橋に連れて行った、かの巨大な船員は、大きな体躯を猿のように軽くもてあつかって、音も立てずに桟橋からずしずしと離れて行く船の上にただ一条の綱を伝って上がって来た。人々はまたその早業に驚いて目を見張った。
葉子の目は怒気を含んで手欄からしばらくの間かの若者を見据えていた。若者は狂気のように両手を広げて船に駆け寄ろうとするのを、近所に居合わせた三四人の人があわてて引き留める、それをまたすり抜けようとして組み伏せられてしまった。若者は組み伏せられたまま左の腕を口にあてがって思いきりかみしばりながら泣き沈んだ。その牛のうめき声のような泣き声が気疎く船の上まで聞こえて来た。見送り人は思わず鳴りを静めてこの狂暴な若者に目を注いだ。葉子も葉子で、姿も隠さず手欄に片手をかけたまま突っ立って、同じくこの若者を見据えていた。といって葉子はその若者の上ばかりを思っているのではなかった。自分でも不思議だと思うような、うつろな余裕がそこにはあった。古藤が若者のほうには目もくれずにじっ[#「じっ」に傍点]と足もとを見つめているのにも気が付いていた。死んだ姉の晴れ着を借り着していい心地になっているような叔母の姿も目に映っていた。船のほうに後ろを向けて(おそらくそれは悲しみからばかりではなかったろう。その若者の挙動が老いた心をひしいだに違いない)手ぬぐいをしっかり[#「しっかり」に傍点]と両眼にあてている乳母も見のがしてはいなかった。
いつのまに動いたともなく船は桟橋から遠ざかっていた。人の群れが黒蟻のように集まったそこの光景は、葉子の目の前にひらけて行く大きな港の景色の中景になるまでに小さくなって行った。葉子の目は葉子自身にも疑われるような事をしていた。その目は小さくなった人影の中から乳母の姿を探り出そうとせず、一種のなつかしみを持つ横浜の市街を見納めにながめようとせず、凝然として小さくうずくまる若者ののらしい黒点を見つめていた。若者の叫ぶ声が、桟橋の上で打ち振るハンケチの時々ぎら[#「ぎら」に傍点]ぎらと光るごとに、葉子の頭の上に張り渡された雨よけの帆布の端から余滴がぽつり[#「ぽつり」に傍点]ぽつりと葉子の顔を打つたびに、断続して聞こえて来るように思われた。
「葉子さん、あなたは私を見殺しにするんですか……見殺しにするん……」
一〇
始めての旅客も物慣れた旅客も、抜錨したばかりの船の甲板に立っては、落ち付いた心でいる事ができないようだった。跡始末のために忙しく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの興奮にじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられないような顔つきをして、乗客は一人残らず甲板に集まって、今まで自分たちがそば近く見ていた桟橋のほうに目を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように手欄によりかかって、静かな春雨のように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、波止場のほうをながめていたが、けれどもそのひとみにはなんにも映ってはいなかった。その代わり目と脳との間と覚しいあたりを、親しい人や疎い人が、何かわけもなくせわしそうに現われ出て、銘々いちばん深い印象を与えるような動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりして注意するともなくその姿に注意をしていた。そしてこの半睡の状態が破れでもしたらたいへんな事になると、心のどこかのすみでは考えていた。そのくせ、それを物々しく恐れるでもなかった。からだまでが感覚的にしびれるような物うさを覚えた。
若者が現われた。(どうしてあの男はそれほどの因縁もないのに執念く付きまつわるのだろうと葉子は他人事のように思った)その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやくまぶしい光の中で、ブロンドのようにきらめいた。かみしめたその左の腕から血がぽた[#「ぽた」に傍点]ぽたとしたたっていた。そのしたたりが腕から離れて宙に飛ぶごとに、虹色にきらきらと巴を描いて飛び跳った。
「……わたしを見捨てるん……」
葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時、目がさめたようにふっ[#「ふっ」に傍点]とあらためて港を見渡した。そして、なんの感じも起こさないうちに、熟睡からちょっと驚かされた赤児が、またたわいなく眠りに落ちて行くように、再び夢ともうつつともない心に返って行った。港の景色はいつのまにか消えてしまって、自分で自分の腕にしがみ付いた若者の姿が、まざまざと現われ出た。葉子はそれを見ながらどうしてこんな変な心持ちになるのだろう。血のせいとでもいうのだろうか。事によるとヒステリーにかかっているのではないかしらんなどとのんきに自分の身の上を考えていた。いわば悠々閑々と澄み渡った水の隣に、薄紙一重の界も置かず、たぎり返って渦巻き流れる水がある。葉子の心はその静かなほうの水に浮かびながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分というものを他人事のようにながめやっているようなものだった。葉子は自分の冷淡さにあきれながら、それでもやっぱり驚きもせず、手欄によりかかってじっ[#「じっ」に傍点]と立っていた。
「田川法学博士」
葉子はまたふといたずら者らしくこんなことを思っていた。が、田川夫妻が自分と反対の舷の籐椅子に腰かけて、世辞世辞しく近寄って来る同船者と何か戯談口でもきいているとひとりで決めると、安心でもしたように幻想はまたかの若者にかえって行った。葉子はふと右の肩に暖かみを覚えるように思った。そこには若者の熱い涙が浸み込んでいるのだ。葉子は夢遊病者のような目つきをして、やや頭を後ろに引きながら肩の所を見ようとすると、その瞬間、若者を船から桟橋に連れ出した船員の事がはっ[#「はっ」に傍点]と思い出されて、今まで盲いていたような目に、まざまざとその大きな黒い顔が映った。葉子はなお夢みるような目を見開いたまま、船員の濃い眉から黒い口髭のあたりを見守っていた。
船はもうかなり速力を早めて、霧のように降るともなく降る雨の中を走っていた。舷側から吐き出される捨て水の音がざあ[#「ざあ」に傍点]ざあと聞こえ出したので、遠い幻想の国から一足飛びに取って返した葉子は、夢ではなく、まがいもなく目の前に立っている船員を見て、なんという事なしにぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とほんとうに驚いて立ちすくんだ。始めてアダムを見たイヴのように葉子はまじまじと珍しくもないはずの一人の男を見やった。
「ずいぶん長い旅ですが、何、もうこれだけ日本が遠くなりましたんだ」
といってその船員は右手を延べて居留地の鼻を指さした。がっしりした肩をゆすって、勢いよく水平に延ばしたその腕からは、強くはげしく海上に生きる男の力がほとばしった。葉子は黙ったまま軽くうなずいた、胸の下の所に不思議な肉体的な衝動をかすかに感じながら。
「お一人ですな」
塩がれた強い声がまたこう響いた。葉子はまた黙ったまま軽くうなずいた。
船はやがて乗りたての船客の足もとにかすかな不安を与えるほどに速力を早めて走り出した。葉子は船員から目を移して海のほうを見渡して見たが、自分のそばに一人の男が立っているという、強い意識から起こって来る不安はどうしても消す事ができなかった。葉子にしてはそれは不思議な経験だった。こっちから何か物をいいかけて、この苦しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれができなかった。今何か物をいったらきっとひどい不自然な物のいいかたになるに決まっている。そうかといってその船員には無頓着にもう一度前のような幻想に身を任せようとしてもだめだった。神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼーっと煙った霧雨のかなたさえ見とおせそうに目がはっきり[#「はっきり」に傍点]して、先ほどのおっかぶさるような暗愁は、いつのまにかはかない出来心のしわざとしか考えられなかった。その船員は傍若無人に衣嚢の中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックしながら、時々思い出したように顔を引いて眉をしかめながら、襟の折り返しについたしみを、親指の爪でごしごしと削ってははじいていた。
葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しく働き出した。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく大股ではいり込んで来る邪魔者でも避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと手欄から離れて自分の船室のほうに階子段を降りて行こうとした。
「どこにおいでです」
後ろから、葉子の頭から爪先までを小さなものででもあるように、一目に籠めて見やりながら、その船員はこう尋ねた。葉子は、
「船室まで参りますの」
と答えないわけには行かなかった。その声は葉子の目論見に反して恐ろしくしとやかな響きを立てていた。するとその男は大股で葉子とすれすれになるまで近づいて来て、
「船室ならば永田さんからのお話もありましたし、おひとり旅のようでしたから、医務室のわきに移しておきました。御覧になった前の部屋より少し窮屈かもしれませんが、何かに御便利ですよ。御案内しましょう」
といいながら葉子をすり抜けて先に立った。何か芳醇な酒のしみ[#「しみ」に傍点]と葉巻煙草とのにおいが、この男固有の膚のにおいででもあるように強く葉子の鼻をかすめた。葉子は、どしん[#「どしん」に傍点]どしんと狭い階子段を踏みしめながら降りて行くその男の太い首から広い肩のあたりをじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらそのあとに続いた。
二十四五脚の椅子が食卓に背を向けてずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならべてある食堂の中ほどから、横丁のような暗い廊下をちょっとはいると、右の戸に「医務室」と書いた頑丈な真鍮の札がかかっていて、その向かいの左の戸には「No.12 早月葉子殿」と白墨で書いた漆塗りの札が下がっていた。船員はつか[#「つか」に傍点]つかとそこにはいって、いきなり勢いよく医務室の戸をノックすると、高いダブル・カラーの前だけをはずして、上着を脱ぎ捨てた船医らしい男が、あたふたと細長いなま白い顔を突き出したが、そこに葉子が立っているのを目ざとく見て取って、あわてて首を引っ込めてしまった。船員は大きなはばかりのない声で、
「おい十二番はすっかり[#「すっかり」に傍点]掃除ができたろうね」
というと、医務室の中からは女のような声で、
「さしておきましたよ。きれいになってるはずですが、御覧なすってください。わたしは今ちょっと」
と船医は姿を見せずに答えた。
「こりゃいったい船医の私室なんですが、あなたのためにお明け申すっていってくれたもんですから、ボーイに掃除するようにいいつけておきましたんです。ど、きれいになっとるかしらん」
船員はそうつぶやきながら戸をあけて一わたり中を見回した。
「むゝ、いいようです」
そして道を開いて、衣嚢から「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と書いた大きな名刺を出して葉子に渡しながら、
「わたしが事務長をしとります。御用があったらなんでもどうか」
葉子はまた黙ったままうなずいてその大きな名刺を手に受けた。そして自分の部屋ときめられたその部屋の高い閾を越えようとすると、
「事務長さんはそこでしたか」
と尋ねながら田川博士がその夫人と打ち連れて廊下の中に立ち現われた。事務長が帽子を取って挨拶しようとしている間に、洋装の田川夫人は葉子を目ざして、スカーツの絹ずれの音を立てながらつか[#「つか」に傍点]つかと寄って来て眼鏡の奥から小さく光る目でじろり[#「じろり」に傍点]と見やりながら、
「五十川さんがうわさしていらしった方はあなたね。なんとかおっしゃいましたねお名は」
といった。この「なんとかおっしゃいましたね」という言葉が、名もないものをあわれんで見てやるという腹を充分に見せていた。今まで事務長の前で、珍しく受け身になっていた葉子は、この言葉を聞くと、強い衝動を受けたようになってわれに返った。どういう態度で返事をしてやろうかという事が、いちばんに頭の中で二十日鼠のようにはげしく働いたが、葉子はすぐ腹を決めてひどく下手に尋常に出た。「あ」と驚いたような言葉を投げておいて、丁寧に低くつむりを下げながら、
「こんな所まで……恐れ入ります。わたし早月葉と申しますが、旅には不慣れでおりますのにひとり旅でございますから……」
といってひとみを稲妻のように田川に移して、
「御迷惑ではこざいましょうが何分よろしく願います」
とまたつむりを下げた。田川はその言葉の終わるのを待ち兼ねたように引き取って、
「何不慣れはわたしの妻も同様ですよ。 何しろこの船の中には女は二人ぎりだからお互いです」
とあまりなめらかにいってのけたので、妻の前でもはばかるように今度は態度を改めながら事務長に向かって、
「チャイニース・ステアレージには何人ほどいますか日本の女は」
と問いかけた。事務長は例の塩から声で
「さあ、まだ帳簿もろくろく整理して見ませんから、しっかり[#「しっかり」に傍点]とはわかり兼ねますが、何しろこのごろはだいぶふえました。三四十人もいますか。奥さんここが医務室です。何しろ九月といえば旧の二八月の八月ですから、太平洋のほうは暴ける事もありますんだ。たまにはここにも御用ができますぞ。ちょっと船医も御紹介しておきますで」
「まあそんなに荒れますか」
と田川夫人は実際恐れたらしく、葉子を顧みながら少し色をかえた。事務長は事もなげに、
「暴けますんだずいぶん」
と今度は葉子のほうをまともに見やってほほえみながら、おりから部屋を出て来た興録という船医を三人に引き合わせた。
田川夫妻を見送ってから葉子は自分の部屋にはいった。さらぬだにどこかじめじめするような船室には、きょうの雨のために蒸すような空気がこもっていて、汽船特有な西洋臭いにおいがことに強く鼻についた。帯の下になった葉子の胸から背にかけたあたりは汗がじんわりにじみ出たらしく、むし[#「むし」に傍点]むしするような不愉快を感ずるので、狭苦しい寝台を取りつけたり、洗面台を据えたりしてあるその間に、窮屈に積み重ねられた小荷物を見回しながら、帯を解き始めた。化粧鏡の付いた箪笥の上には、果物のかごが一つと花束が二つ載せてあった。葉子は襟前をくつろげながら、だれからよこしたものかとその花束の一つを取り上げると、そのそばから厚い紙切れのようなものが出て来た。手に取って見ると、それは手札形の写真だった。まだ女学校に通っているらしい、髪を束髪にした娘の半身像で、その裏には「興録さま。取り残されたる千代より」としてあった。そんなものを興録がしまい忘れるはずがない。わざと忘れたふうに見せて、葉子の心に好奇心なり軽い嫉妬なりをあおり立てようとする、あまり手もとの見えすいたからくり[#「からくり」に傍点]だと思うと、葉子はさげすんだ心持ちで、犬にでもするようにぽい[#「ぽい」に傍点]とそれを床の上にほうりなげた。一人の旅の婦人に対して船の中の男の心がどういうふうに動いているかをその写真一枚が語り貌だった、葉子はなんという事なしに小さな皮肉な笑いを口びるの所に浮かべていた。
寝台の下に押し込んである平べったいトランクを引き出して、その中から浴衣を取り出していると、ノックもせずに突然戸をあけたものがあった。葉子は思わず羞恥から顔を赤らめて、引き出した派手な浴衣を楯に、しだらなく脱ぎかけた長襦袢の姿をかくまいながら立ち上がって振り返って見ると、それは船医だった。はなやかな下着を浴衣の所々からのぞかせて、帯もなくほっそりと途方に暮れたように身を斜にして立った葉子の姿は、男の目にはほしいままな刺激だった。懇意ずくらしく戸もたたかなかった興録もさすがにどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]して、はいろうにも出ようにも所在に窮して、閾に片足を踏み入れたまま当惑そうに立っていた。
「飛んだふうをしていまして御免くださいまし。さ、おはいり遊ばせ。なんぞ御用でもいらっしゃいましたの」
と葉子は笑いかまけたようにいった。興録はいよいよ度を失いながら、
「いゝえ何、今でなくってもいいのですが、元のお部屋のお枕の下にこの手紙が残っていましたのを、ボーイが届けて来ましたんで、早くさし上げておこうと思って実は何したんでしたが……」
といいながら衣嚢から二通の手紙を取り出した。手早く受け取って見ると、一つは古藤が木村にあてたもの、一つは葉子にあてたものだった。興録はそれを手渡すと、一種の意味ありげな笑いを目だけに浮かべて、顔だけはいかにももっともらしく葉子を見やっていた。自分のした事を葉子もしたと興録は思っているに違いない。葉子はそう推量すると、かの娘の写真を床の上から拾い上げた。そしてわざと裏を向けながら見向きもしないで、
「こんなものがここにも落ちておりましたの。お妹さんでいらっしゃいますか。おきれいですこと」
といいながらそれをつき出した。
興録は何かいいわけのような事をいって部屋を出て行った。と思うとしばらくして医務室のほうから事務長のらしい大きな笑い声が聞こえて来た。それを聞くと、事務長はまだそこにいたかと、葉子はわれにもなくはっ[#「はっ」に傍点]となって、思わず着かえかけた着物の衣紋に左手をかけたまま、うつむきかげんになって横目をつかいながら耳をそばだてた。破裂するような事務長の笑い声がまた聞こえて来た。そして医務室の戸をさっ[#「さっ」に傍点]とあけたらしく、声が急に一倍大きくなって、
「Devil take it! No tame creature then,eh?」と乱暴にいう声が聞こえたが、それとともにマッチをする音がして、やがて葉巻をくわえたままの口ごもりのする言葉で、
「もうじき検疫船だ。準備はいいだろうな」
といい残したまま事務長は船医の返事も待たずに行ってしまったらしかった。かすかなにおいが葉子の部屋にも通って来た。
葉子は聞き耳をたてながらうなだれていた顔を上げると、正面をきって何という事なしに微笑をもらした。そしてすぐぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてあたりを見回したが、われに返って自分一人きりなのに安堵して、いそいそと着物を着かえ始めた。
一一
絵島丸が横浜を抜錨してからもう三日たった。東京湾を出抜けると、黒潮に乗って、金華山沖あたりからは航路を東北に向けて、まっしぐらに緯度を上って行くので、気温は二日目あたりから目立って涼しくなって行った。陸の影はいつのまにか船のどの舷からもながめる事はできなくなっていた。背羽根の灰色な腹の白い海鳥が、時々思い出したようにさびしい声でなきながら、船の周囲を群れ飛ぶほかには、生き物の影とては見る事もできないようになっていた。重い冷たい潮霧が野火の煙のように濛々と南に走って、それが秋らしい狭霧となって、船体を包むかと思うと、たちまちからっ[#「からっ」に傍点]と晴れた青空を船に残して消えて行ったりした。格別の風もないのに海面は色濃く波打ち騒いだ。三日目からは船の中に盛んにスティームが通り始めた。
葉子はこの三日というもの、一度も食堂に出ずに船室にばかり閉じこもっていた。船に酔ったからではない。始めて遠い航海を試みる葉子にしては、それが不思議なくらいたやすい旅だった。ふだん以上に食欲さえ増していた。神経に強い刺激が与えられて、とかく鬱結しやすかった血液も濃く重たいなりにもなめらかに血管の中を循環し、海から来る一種の力がからだのすみずみまで行きわたって、うずうずするほどな活力を感じさせた。もらし所のないその活気が運動もせずにいる葉子のからだから心に伝わって、一種の悒鬱に変わるようにさえ思えた。
葉子はそれでも船室を出ようとはしなかった。生まれてから始めて孤独に身を置いたような彼女は、子供のようにそれが楽しみだ[#「た」?、96-8]かったし、また船中で顔見知りのだれかれができる前に、これまでの事、これからの事を心にしめて考えてもみたいとも思った。しかし葉子が三日の間船室に引きこもり続けた心持ちには、もう少し違ったものもあった。葉子は自分が船客たちから激しい好奇の目で見られようとしているのを知っていた。立役は幕明きから舞台に出ているものではない。観客が待ちに待って、待ちくたぶれそうになった時分に、しずしずと乗り出して、舞台の空気を思うさま動かさねばならぬのだ。葉子の胸の中にはこんなずるがしこいいたずらな心も潜んでいたのだ。
三日目の朝電燈が百合の花のしぼむように消えるころ葉子はふと深い眠りから蒸し暑さを覚えて目をさました。スティームの通って来るラディエターから、真空になった管の中に蒸汽の冷えたしたたりが落ちて立てる激しい響きが聞こえて、部屋の中は軽く汗ばむほど暖まっていた。三日の間狭い部屋の中ばかりにいてすわり疲れ寝疲れのした葉子は、狭苦しい寝台の中に窮屈に寝ちぢまった自分を見いだすと、下になった半身に軽いしびれを覚えて、からだを仰向けにした。そして一度開いた目を閉じて、美しく円味を持った両の腕を頭の上に伸ばして、寝乱れた髪をもてあそびながら、さめぎわの快い眠りにまた静かに落ちて行った。が、ほどもなくほんとうに目をさますと、大きく目を見開いて、あわてたように腰から上を起こして、ちょうど目通りのところにあるいちめんに水気で曇った眼窓を長い袖で押しぬぐって、ほてった頬をひやひやするその窓ガラスにすりつけながら外を見た、夜はほんとうには明け離れていないで、窓の向こうには光のない濃い灰色がどんより[#「どんより」に傍点]と広がっているばかりだった。そして自分のからだがずっ[#「ずっ」に傍点]と高まってやがてまた落ちて行くなと思わしいころに、窓に近い舷にざあっ[#「ざあっ」に傍点]とあたって砕けて行く波濤が、単調な底力のある震動を船室に与えて、船はかすかに横にかしいだ。葉子は身動きもせずに目にその灰色をながめながら、かみしめるように船の動揺を味わって見た。遠く遠く来たという旅情が、さすがにしみじみと感ぜられた。しかし葉子の目には女らしい涙は浮かばなかった。活気のずんずん回復しつつあった彼女には何かパセティックな夢でも見ているような思いをさせた。
葉子はそうしたままで、過ぐる二日の間暇にまかせて思い続けた自分の過去を夢のように繰り返していた。連絡のない終わりのない絵巻がつぎつぎに広げられたり巻かれたりした。キリストを恋い恋うて、夜も昼もやみがたく、十字架を編み込んだ美しい帯を作って献げようと一心に、日課も何もそっちのけにして、指の先がささくれるまで編み針を動かした可憐な少女も、その幻想の中に現われ出た。寄宿舎の二階の窓近く大きな花を豊かに開いた木蘭の香いまでがそこいらに漂っているようだった。国分寺跡の、武蔵野の一角らしい櫟の林も現われた。すっかり少女のような無邪気な素直な心になってしまって、孤※[3]の膝に身も魂も投げかけながら、涙とともにささやかれる孤※[4]の耳うちのように震えた細い言葉を、ただ「はいはい」と夢心地にうなずいてのみ込んだ甘い場面は、今の葉子とは違った人のようだった。そうかと思うと左岸の崕の上から広瀬川を越えて青葉山をいちめんに見渡した仙台の景色がするすると開け渡った。夏の日は北国の空にもあふれ輝いて、白い礫の河原の間をまっさおに流れる川の中には、赤裸な少年の群れが赤々とした印象を目に与えた。草を敷かんばかりに低くうずくまって、はなやかな色合いのパラソルに日をよけながら、黙って思いにふける一人の女――その時には彼女はどの意味からも女だった――どこまでも満足の得られない心で、だんだんと世間から埋もれて行かねばならないような境遇に押し込められようとする運命。確かに道を踏みちがえたとも思い、踏みちがえたのは、だれがさした事だと神をすらなじってみたいような思い。暗い産室も隠れてはいなかった。そこの恐ろしい沈黙の中から起こる強い快い赤児の産声――やみがたい母性の意識――「われすでに世に勝てり」とでもいってみたい不思議な誇り――同時に重く胸を押えつける生の暗い急変。かかる時思いも設けず力強く迫って来る振り捨てた男の執着。あすをも頼み難い命の夕闇にさまよいながら、切れ切れな言葉で葉子と最後の妥協を結ぼうとする病床の母――その顔は葉子の幻想を断ち切るほどの強さで現われ出た。思い入った決心を眉に集めて、日ごろの楽天的な性情にも似ず、運命と取り組むような真剣な顔つきで大事の結着を待つ木村の顔。母の死をあわれむとも悲しむとも知れない涙を目にはたたえながら、氷のように冷え切った心で、うつむいたまま、口一つきかない葉子自身の姿……そんな幻像があるいはつぎつぎに、あるいは折り重なって、灰色の霧の中に動き現われた。そして記憶はだんだんと過去から現在のほうに近づいて来た。と、事務長の倉地の浅黒く日に焼けた顔と、その広い肩とが思い出された。葉子は思いもかけないものを見いだしたようにはっ[#「はっ」に傍点]となると、その幻像はたわいもなく消えて、記憶はまた遠い過去に帰って行った。それがまただんだん現在のほうに近づいて来たと思うと、最後にはきっと倉地の姿が現われ出た。
それが葉子をいらいらさせて、葉子は始めて夢現の境からほんとうに目ざめて、うるさいものでも払いのけるように、眼窓から目をそむけて寝台を離れた。葉子の神経は朝からひどく興奮していた。スティームで存分に暖まって来た船室の中の空気は息気苦しいほどだった。
船に乗ってからろくろく運動もせずに、野菜気の少ない物ばかりをむさぼり食べたので、身内の血には激しい熱がこもって、毛のさきへまでも通うようだった。寝台から立ち上がった葉子は瞑眩を感ずるほどに上気して、氷のような冷たいものでもひし[#「ひし」に傍点]と抱きしめたい気持ちになった。で、ふらふらと洗面台のほうに行って、ピッチャーの水をなみなみと陶器製の洗面盤にあけて、ずっぷり[#「ずっぷり」に傍点]ひたした手ぬぐいをゆるく絞って、ひやっ[#「ひやっ」に傍点]とするのを構わず、胸をあけて、それを乳房と乳房との間にぐっ[#「ぐっ」に傍点]とあてがってみた。強いはげしい動悸が押えている手のひらへ突き返して来た。葉子はそうしたままで前の鏡に自分の顔を近づけて見た。まだ夜の気が薄暗くさまよっている中に、頬をほてらしながら深い呼吸をしている葉子の顔が、自分にすら物すごいほどなまめかしく映っていた。葉子は物好きらしく自分の顔に訳のわからない微笑をたたえて見た。
それでもそのうちに葉子の不思議な心のどよめきはしずまって行った。しずまって行くにつれ、葉子は今までの引き続きでまた瞑想的な気分に引き入れられていた。しかしその時はもう夢想家ではなかった。ごく実際的な鋭い頭が針のように光ってとがっていた。葉子はぬれ手ぬぐいを洗面盤にほうりなげておいて、静かに長椅子に腰をおろした。
笑い事ではない。いったい自分はどうするつもりでいるんだろう。そう葉子は出発以来の問いをもう一度自分に投げかけてみた。小さい時からまわりの人たちにはばかられるほど才はじけて、同じ年ごろの女の子とはいつでも一調子違った行きかたを、するでもなくして来なければならなかった自分は、生まれる前から運命にでも呪われているのだろうか。それかといって葉子はなべての女の順々に通って行く道を通る事はどうしてもできなかった。通って見ようとした事は幾度あったかわからない。こうさえ行けばいいのだろうと通って来て見ると、いつでも飛んでもなく違った道を歩いている自分を見いだしてしまっていた。そしてつまずいては倒れた。まわりの人たちは手を取って葉子を起こしてやる仕方も知らないような顔をしてただばからしくあざわらっている。そんなふうにしか葉子には思えなかった。幾度ものそんな苦い経験が葉子を片意地な、少しも人をたよろうとしない女にしてしまった。そして葉子はいわば本能の向かせるように向いてどんどん歩くよりしかたがなかった。葉子は今さらのように自分のまわりを見回して見た。いつのまにか葉子はいちばん近しいはずの人たちからもかけ離れて、たった一人で崕のきわに立っていた。そこでただ一つ葉子を崕の上につないでいる綱には木村との婚約という事があるだけだ。そこに踏みとどまればよし、さもなければ、世の中との縁はたちどころに切れてしまうのだ。世の中に活きながら世の中との縁が切れてしまうのだ。木村との婚約で世の中は葉子に対して最後の和睦を示そうとしているのだ。葉子に取って、この最後の機会をも破り捨てようというのはさすがに容易ではなかった。木村といふ首桎を受けないでは生活の保障が絶え果てなければならないのだから。葉子の懐中には百五十ドルの米貨があるばかりだった。定子の養育費だけでも、米国に足をおろすや否や、すぐに木村にたよらなければならないのは目の前にわかっていた。後詰めとなってくれる親類の一人もないのはもちろんの事、ややともすれば親切ごかしに無いものまでせびり取ろうとする手合いが多いのだ。たまたま葉子の姉妹の内実を知って気の毒だと思っても、葉子ではというように手出しを控えるものばかりだった。木村――葉子には義理にも愛も恋も起こり得ない木村ばかりが、葉子に対するただ一人の戦士なのだ。あわれな木村は葉子の蠱惑に陥ったばかりで、早月家の人々から否応なしにこの重い荷を背負わされてしまっているのだ。
どうしてやろう。
葉子は思い余ったその場のがれから、箪笥の上に興録から受け取ったまま投げ捨てて置いた古藤の手紙を取り上げて、白い西洋封筒の一端を美しい指の爪で丹念に細く破り取って、手筋は立派ながらまだどこかたどたどしい手跡でペンで走り書きした文句を読み下して見た。
[#ここから引用文、本文より一字下げ]
「あなたはおさんどん[#「おさんどん」に傍点]になるという事を想像してみる事ができますか。おさんどん[#「おさんどん」に傍点]という仕事が女にあるという事を想像してみる事ができますか。僕はあなたを見る時はいつでもそう思って不思議な心持ちになってしまいます。いったい世の中には人を使って、人から使われるという事を全くしないでいいという人があるものでしょうか。そんな事ができうるものでしょうか。僕はそれをあなたに考えていただきたいのです。
あなたは奇態な感じを与える人です。あなたのなさる事はどんな危険な事でも危険らしく見えません。行きづまった末にはこうという覚悟がちゃん[#「ちゃん」に傍点]とできているように思われるからでしょうか。
僕があなたに始めてお目にかかったのは、この夏あなたが木村君と一緒に八幡に避暑をしておられた時ですから、あなたについては僕は、なんにも知らないといっていいくらいです。僕は第一一般的に女というものについてなんにも知りません。しかし少しでもあなたを知っただけの心持ちからいうと、女の人というものは僕に取っては不思議な謎です。あなたはどこまで行ったら行きづまると思っているんです。あなたはすでに木村君で行きづまっている人なんだと僕には思われるのです。結婚を承諾した以上はその良人に行きづまるのが女の人の当然な道ではないでしょうか。木村君で行きづまってください。木村君にあなたを全部与えてください。木村君の親友としてこれが僕の願いです。
全体同じ年齢でありながら、あなたからは僕などは子供に見えるのでしょうから、僕のいう事などは頓着なさらないかと思いますが、子供にも一つの直覚はあります。そして子供はきっぱり[#「きっぱり」に傍点]した物の姿が見たいのです。あなたが木村君の妻になると約束した以上は、僕のいう事にも権威があるはずだと思います。
僕はそうはいいながら一面にはあなたがうらやましいようにも、憎いようにも、かわいそうなようにも思います。あなたのなさる事が僕の理性を裏切って奇怪な同情を喚び起こすようにも思います。僕は心の底に起こるこんな働きをもしいて押しつぶして理屈一方に固まろうとは思いません。それほど僕は道学者ではないつもりです。それだからといって、今のままのあなたでは、僕にはあなたを敬親する気は起こりません。木村君の妻としてあなたを敬親したいから、僕はあえてこんな事を書きました。そういう時が来るようにしてほしいのです。
木村君の事を――あなたを熱愛してあなたのみに希望をかけている木村君の事を考えると僕はこれだけの事を書かずにはいられなくなります。
古藤義一[#行末より三字上げ]
木村葉子様」
[#引用文ここまで]
それは葉子に取ってはほんとうの子供っぽい言葉としか響かなかった。しかし古藤は妙に葉子には苦手だった。今も古藤の手紙を読んで見ると、ばかばかしい事がいわれているとは思いながらも、いちばん大事な急所を偶然のようにしっかり[#「しっかり」に傍点]捕えているようにも感じられた。ほんとうにこんな事をしていると、子供と見くびっている古藤にもあわれまれるはめ[#「はめ」に傍点]になりそうな気がしてならなかった。葉子はなんという事なく悒鬱になって古藤の手紙を巻きおさめもせず膝の上に置いたまま目をすえて、じっ[#「じっ」に傍点]と考えるともなく考えた。
それにしても、新しい教育を受け、新しい思想を好み、世事にうといだけに、世の中の習俗からも飛び離れて自由でありげに見える古藤さえが、葉子が今立っている崕のきわから先には、葉子が足を踏み出すのを憎み恐れる様子を明らかに見せているのだ。結婚というものが一人の女に取って、どれほど生活という実際問題と結び付き、女がどれほどその束縛の下に悩んでいるかを考えてみる事さえしようとはしないのだ。そう葉子は思ってもみた。
これから行こうとする米国という土地の生活も葉子はひとりでにいろいろと想像しないではいられなかった。米国の人たちはどんなふうに自分を迎え入れようとはするだろう。とにかく今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、何の関りもない社会の中に乗り込むのはおもしろい。和服よりもはるかに洋服に適した葉子は、そこの交際社会でも風俗では米国人を笑わせない事ができる。歓楽でも哀傷でもしっくり[#「しっくり」に傍点]と実生活の中に織り込まれているような生活がそこにはあるに違いない。女のチャームというものが、習慣的な絆から解き放されて、その力だけに働く事のできる生活がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれば女でも男の手を借りずに自分をまわりの人に認めさす事のできる生活がそこにはあるに違いない。女でも胸を張って存分呼吸のできる生活がそこにはあるに違いない。少なくとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。葉子はそんな事を空想するとむず[#「むず」に傍点]むずするほど快活になった。そんな心持ちで古藤の言葉などを考えてみると、まるで老人の繰り言のようにしか見えなかった。葉子は長い黙想の中から活々と立ち上がった。そして化粧をすますために鏡のほうに近づいた。
木村を良人とするのになんの屈託があろう。木村が自分の良人であるのは、自分が木村の妻であるというほどに軽い事だ。木村という仮面……葉子は鏡を見ながらそう思ってほほえんだ。そして乱れかかる額ぎわの髪を、振り仰いで後ろになでつけたり、両方の鬢を器用にかき上げたりして、良工が細工物でもするように楽しみながら元気よく朝化粧を終えた。ぬれた手ぬぐいで、鏡に近づけた目のまわりの白粉をぬぐい終わると、口びるを開いて美しくそろった歯並みをながめ、両方の手の指を壺の口のように一所に集めて爪の掃除が行き届いているか確かめた。見返ると船に乗る時着て来た単衣のじみな着物は、世捨て人のようにだらり[#「だらり」に傍点]と寂しく部屋のすみの帽子かけにかかったままになっていた。葉子は派手な袷をトランクの中から取り出して寝衣と着かえながら、それに目をやると、肩にしっかり[#「しっかり」に傍点]としがみ付いて、泣きおめいた彼の狂気じみた若者の事を思った。と、すぐそのそばから若者を小わきにかかえた事務長の姿が思い出された。小雨の中を、外套も着ずに、小荷物でも運んで行ったように若者を桟橋の上におろして、ちょっと五十川女史に挨拶して船から投げた綱にすがるや否や、静かに岸から離れてゆく船の甲板の上に軽々と上がって来たその姿が、葉子の心をくすぐるように楽しませて思い出された。
夜はいつのまにか明け離れていた。眼窓の外は元のままに灰色はしているが、活々とした光が添い加わって、甲板の上を毎朝規則正しく散歩する白髪の米人とその娘との足音がこつ[#「こつ」に傍点]こつ快活らしく聞こえていた。化粧をすました葉子は長椅子にゆっくり腰をかけて、両足をまっすぐにそろえて長々と延ばしたまま、うっとり[#「うっとり」に傍点]と思うともなく事務長の事を思っていた。
その時突然ノックをしてボーイがコーヒーを持ってはいって来た。葉子は何か悪い所でも見つけられたようにちょっとぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、延ばしていた足の膝を立てた。ボーイはいつものように薄笑いをしてちょっと頭を下げて銀色の盆を畳椅子の上においた。そしてきょうも食事はやはり船室に運ぼうかと尋ねた。
「今晩からは食堂にしてください」
葉子はうれしい事でもいって聞かせるようにこういった。ボーイはまじめくさって「はい」といったが、ちらりと葉子を上目で見て、急ぐように部屋を出た。葉子はボーイが部屋を出てどんなふうをしているかがはっきり[#「はっきり」に傍点]見えるようだった。ボーイはすぐににこ[#「にこ」に傍点]にこと不思議な笑いをもらしながらケーク・ウォークの足つきで食堂のほうに帰って行ったに違いない。ほどもなく、
「え、いよいよ御来迎?」
「来たね」
というような野卑な言葉が、ボーイらしい軽薄な調子で声高に取りかわされるのを葉子は聞いた。
葉子はそんな事を耳にしながらやはり事務長の事を思っていた。「三日も食堂に出ないで閉じこもっているのに、なんという事務長だろう、一ぺんも見舞いに来ないとはあんまりひどい」こんな事を思っていた。そしてその一方では縁もゆかりもない馬のようにただ頑丈な一人の男がなんでこう思い出されるのだろうと思っていた。
葉子は軽いため息をついて何げなく立ち上がった。そしてまた長椅子に腰かける時には棚の上から事務長の名刺を持って来てながめていた。「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と明朝ではっきり[#「はっきり」に傍点]書いてある。葉子は片手でコーヒーをすすりながら、名刺を裏返してその裏をながめた。そしてまっ白なその裏に何か長い文句でも書いであるかのように、二重になる豊かな顎を襟の間に落として、少し眉をひそめながら、長い間まじろぎもせず見つめていた。
一二
その日の夕方、葉子は船に来てから始めて食堂に出た。着物は思いきって地味なくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくっていた。二十を越すや越さずに見える、目の大きな、沈んだ表情の彼女の襟の藍鼠は、なんとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、その向かいが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣に取ってあった。そのほかの船客も大概はすでに卓に向かっていた。葉子の足音が聞こえると、いち早く目くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ち付かぬ様子をし出したのは事務長と向かい合って食卓の他の一端にいた鬚の白いアメリカ人の船長であった。あわてて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を葉子に通らせて、顔をまっ赤にして座に返った。葉子はしとやかに人々の物数奇らしい視線を受け流しながら、ぐるっ[#「ぐるっ」に傍点]と食卓を回って自分の席まで行くと、田川博士はぬすむように夫人の顔をちょっとうかがっておいて、肥ったからだをよけるようにして葉子を自分の隣にすわらせた。
すわりずまいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たいひとみの光を浴びているのを心地悪いほどに感じた。やがてきちん[#「きちん」に傍点]とつつましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、まず第一に田川夫人のほうに目をやってそっと挨拶すると、今までの角々しい目にもさすがに申しわけほどの笑みを見せて、夫人が何かいおうとした瞬間、その時までぎごちなく話を途切らしていた田川博士も事務長のほうを向いて何かいおうとしたところであったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は思わず同時に顔を見合わせた。一座の人々も、日本人といわず外国人といわず、葉子に集めていたひとみを田川夫妻のほうに向けた。「失礼」といってひかえた博士に夫人はちょっと頭を下げておいて、みんなに聞こえるほどはっきり澄んだ声で、
「とんと食堂においでがなかったので、お案じ申しましたの、船にはお困りですか」
といった。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段落として会釈するのをそう不快には思わぬくらいだった。二人の間の挨拶はそれなりで途切れてしまったので、田川博士はおもむろに事務長に向かってし続けていた話の糸目をつなごうとした。
「それから……その……」
しかし話の糸口は思うように出て来なかった。事もなげに落ち付いた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起こっているのを、葉子はすぐ見て取った。思いどおりに一座の気分を動揺させる事ができるという自信が裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。そしてボーイ長のさしずでボーイらが手器用に運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士のほうの話に耳を立てた。
葉子が食堂に現われて自分の視界にはいってくると、臆面もなくじっ[#「じっ」に傍点]と目を定めてその顔を見やった後に、無頓着にスプーンを動かしながら、時々食卓の客を見回して気を配っていた事務長は、下くちびるを返して鬚の先を吸いながら、塩さびのした太い声で、
「それからモンロー主義の本体は」
と話の糸目を引っぱり出しておいて、まともに博士を打ち見やった。博士は少し面伏せな様子で、
「そう、その話でしたな。モンロー主義もその主張は初めのうちは、北米の独立諸州に対してヨーロッパの干渉を拒むというだけのものであったのです。ところがその政策の内容は年と共にだんだん変わっている。モンローの宣言は立派に文字になって残っているけれども、法律というわけではなし、文章も融通がきくようにできているので、取りようによっては、どうにでも伸縮する事ができるのです。マッキンレー氏などはずいぶん極端にその意味を拡張しているらしい。もっともこれにはクリーブランドという人の先例もあるし、マッキンレー氏の下にはもう一人有力な黒幕があるはずだ。どうです斎藤君」
と二三人おいた斜向いの若い男を顧みた。斎藤と呼ばれた、ワシントン公使館赴任の外交官補は、まっ赤になって、今まで葉子に向けていた目を大急ぎで博士のほうにそらして見たが、質問の要領をはっきり捕えそこねて、さらに赤くなって術ない身ぶりをした。これほどな席にさえかつて臨んだ習慣のないらしいその人の素性がそのあわてかたに充分に見えすいていた。博士は見下したような態度で暫時その青年のどぎまぎした様子を見ていたが、返事を待ちかねて、事務長のほうを向こうとした時、突然はるか遠い食卓の一端から、船長が顔をまっ赤にして、
「You mean Teddy the roughrider?」
といいながら子供のような笑顔を人々に見せた。船長の日本語の理解力をそれほどに思い設けていなかったらしい博士は、この不意打ちに今度は自分がまごついて、ちょっと返事をしかねていると、田川夫人がさそく[#「さそく」に傍点]にそれを引き取って、
「Good hit for you,Mr. Captain !」
と癖のない発音でいってのけた。これを聞いた一座は、ことに外国人たちは、椅子から乗り出すようにして夫人を見た。夫人はその時人の目にはつきかねるほどの敏捷さで葉子のほうをうかがった。葉子は眉一つ動かさずに、下を向いたままでスープをすすっていた。
慎み深く大さじを持ちあつかいながら、葉子は自分に何かきわ立った印象を与えようとして、いろいろなまねを競い合っているような人々のさまを心の中で笑っていた。実際葉子が姿を見せてから、食堂の空気は調子を変えていた。ことに若い人たちの間には一種の重苦しい波動が伝わったらしく、物をいう時、彼らは知らず知らず激昂したような高い調子になっていた。ことにいちばん年若く見える一人の上品な青年――船長の隣座にいるので葉子は家柄の高い生まれに違いないと思った――などは、葉子と一目顔を見合わしたが最後、震えんばかりに興奮して、顔を得上げないでいた。それだのに事務長だけは、いっこう動かされた様子が見えぬばかりか、どうかした拍子に顔を合わせた時でも、その臆面のない、人を人とも思わぬような熟視は、かえって葉子の視線をたじろがした。人間をながめあきたような気倦るげなその目は、濃いまつ毛の間から insolent な光を放って人を射た。葉子はこうして思わずひとみをたじろがすたびごとに事務長に対して不思議な憎しみを覚えるとともに、もう一度その憎むべき目を見すえてその中に潜む不思議を存分に見窮めてやりたい心になった。葉子はそうした気分に促されて時々事務長のほうにひきつけられるように視線を送ったが、そのたびごとに葉子のひとみはもろくも手きびしく追い退けられた。
こうして妙な気分が食卓の上に織りなされながらやがて食事は終わった。一同が座を立つ時、物慣らされた物腰で、椅子を引いてくれた田川博士にやさしく微笑を見せて礼をしながらも、葉子はやはり事務長の挙動を仔細に見る事に半ば気を奪われていた。
「少し甲板に出てごらんになりましな。寒くとも気分は晴れ晴れしますから。わたしもちょと部屋に帰ってショールを取って出て見ます」
こう葉子にいって田川夫人は良人と共に自分の部屋のほうに去って行った。
葉子も部屋に帰って見たが、今まで閉じこもってばかりいるとさほどにも思わなかったけれども、食堂ほどの広さの所からでもそこに来て見ると、息気づまりがしそうに狭苦しかった。で、葉子は長椅子の下から、木村の父が使い慣れた古トランク――その上に古藤が油絵の具でY・Kと書いてくれた古トランクを引き出して、その中から黒い駝鳥の羽のボアを取り出して、西洋臭いそのにおいを快く鼻に感じながら、深々と首を巻いて、甲板に出て行って見た。窮屈な階子段をややよろよろしながらのぼって、重い戸をあけようとすると外気の抵抗がなかなか激しくって押しもどされようとした。きりっ[#「きりっ」に傍点]と搾り上げたような寒さが、戸のすきから縦に細長く葉子を襲った。
甲板には外国人が五六人厚い外套にくるまって、堅いティークの床をかつかつと踏みならしながら、押し黙って勢いよく右往左往に散歩していた。田川夫人の姿はそのへんにはまだ見いだされなかった。塩気を含んだ冷たい空気は、室内にのみ閉じこもっていた葉子の肺を押し広げて、頬には血液がちくちくと軽く針をさすように皮膚に近く突き進んで来るのが感ぜられた。葉子は散歩客には構わずに甲板を横ぎって船べりの手欄によりかかりながら、波また波と果てしもなく連なる水の堆積をはるばるとながめやった。折り重なった鈍色の雲のかなたに夕日の影は跡形もなく消えうせて、闇は重い不思議な瓦斯のように力強くすべての物を押しひしゃげていた。雪をたっぷり含んだ空だけが、その間とわずかに争って、南方には見られぬ暗い、燐のような、さびしい光を残していた。一種のテンポを取って高くなり低くなりする黒い波濤のかなたには、さらに黒ずんだ波の穂が果てしもなく連なっていた。船は思ったより激しく動揺していた。赤いガラスをはめた檣燈が空高く、右から左、左から右へと広い角度を取ってひらめいた。ひらめくたびに船が横かしぎになって、重い水の抵抗を受けながら進んで行くのが、葉子の足からからだに伝わって感ぜられた。
葉子はふらふらと船にゆり上げゆり下げられながら、まんじりともせずに、黒い波の峰と波の谷とがかわるがわる目の前に現われるのを見つめていた。豊かな髪の毛をとおして寒さがしんしんと頭の中にしみこむのが、初めのうちは珍しくいい気持ちだったが、やがてしびれるような頭痛に変わって行った。……と急に、どこをどう潜んで来たとも知れない、いやなさびしさが盗風のように葉子を襲った。船に乗ってから春の草のように萌え出した元気はぽっきり[#「ぽっきり」に傍点]と心を留められてしまった。こめかみがじんじんと痛み出して、泣きつかれのあとに似た不愉快な睡気の中に、胸をついて嘔き気さえ催して来た。葉子はあわててあたりを見回したが、もうそこいらには散歩の人足も絶えていた。けれども葉子は船室に帰る気力もなく、右手でしっかり[#「しっかり」に傍点]と額を押えて、手欄に顔を伏せながら念じるように目をつぶって見たが、いいようのないさびしさはいや増すばかりだった。葉子はふと定子を懐妊していた時のはげしい悪阻の苦痛を思い出した。それはおりから痛ましい回想だった。……定子……葉子はもうその笞には堪えないというように頭を振って、気を紛らすために目を開いて、とめどなく動く波の戯れを見ようとしたが、一目見るやぐらぐらと眩暈を感じて一たまりもなくまた突っ伏してしまった。深い悲しいため息が思わず出るのを留めようとしてもかいがなかった。「船に酔ったのだ」と思った時には、もうからだじゅうは不快な嘔感のためにわなわなと震えていた。
「嘔けばいい」
そう思って手欄から身を乗り出す瞬間、からだじゅうの力は腹から胸もとに集まって、背は思わずも激しく波打った。そのあとはもう夢のようだった。
しばらくしてから葉子は力が抜けたようになって、ハンカチで口もとをぬぐいながら、たよりなくあたりを見回した。甲板の上も波の上のように荒涼として人気がなかった。明るく灯の光のもれていた眼窓は残らずカーテンでおおわれて暗くなっていた。右にも左にも人はいない。そう思った心のゆるみにつけ込んだのか、胸の苦しみはまた急によせ返して来た。葉子はもう一度手欄に乗り出してほろほろと熱い涙をこぼした。たとえば高くつるした大石を切って落としたように、過去というものが大きな一つの暗い悲しみとなって胸を打った。物心を覚えてから二十五の今日まで、張りつめ通した心の糸が、今こそ思い存分ゆるんだかと思われるその悲しい快さ。葉子はそのむなしい哀感にひたりながら、重ねた両手の上に額を乗せて手欄によりかかったまま重い呼吸をしながらほろほろと泣き続けた。一時性貧血を起こした額は死人のように冷えきって、泣きながらも葉子はどうかするとふっ[#「ふっ」に傍点]と引き入れられるように、仮睡に陥ろうとした。そうしてははっ[#「はっ」に傍点]と何かに驚かされたように目を開くと、また底の知れぬ哀感がどこからともなく襲い入った。悲しい快さ。葉子は小学校に通っている時分でも、泣きたい時には、人前では歯をくいしばっていて、人のいない所まで行って隠れて泣いた。涙を人に見せるというのは卑しい事にしか思えなかった。乞食が哀れみを求めたり、老人が愚痴をいうのと同様に、葉子にはけがらわしく思えていた。しかしその夜に限っては、葉子はだれの前でも素直な心で泣けるような気がした。だれかの前でさめざめと泣いてみたいような気分にさえなっていた。しみじみとあわれんでくれる人もありそうに思えた。そうした気持ちで葉子は小娘のようにたわいもなく泣きつづけていた。
その時甲板のかなたから靴の音が聞こえて来た。二人らしい足音だった。その瞬間まではだれの胸にでも抱きついてしみじみ泣けると思っていた葉子は、その音を聞きつけるとはっ[#「はっ」に傍点]というまもなく、張りつめたいつものような心になってしまって、大急ぎで涙を押しぬぐいながら、踵を返して自分の部屋に戻ろうとした。が、その時はもうおそかった。洋服姿の田川夫妻がはっきり[#「はっきり」に傍点]と見分けがつくほどの距離に進みよっていたので、さすがに葉子もそれを見て見ぬふりでやり過ごす事は得しなかった。涙をぬぐいきると、左手をあげて髪のほつれ[#「ほつれ」に傍点]をしなをしながらかき上げた時、二人はもうすぐそばに近寄っていた。
「あらあなたでしたの。わたしどもは少し用事ができておくれましたが、こんなにおそくまで室外にいらしってお寒くはありませんでしたか。気分はいかがです」
田川夫人は例の目下の者にいい慣れた言葉を器用に使いながら、はっきり[#「はっきり」に傍点]とこういってのぞき込むようにした。夫妻はすぐ葉子が何をしていたかを感づいたらしい。葉子はそれをひどく不快に思った。
「急に寒い所に出ましたせいですかしら、なんだか頭がぐらぐらいたしまして」
「お嘔しなさった……それはいけない」
田川博士は夫人の言葉を聞くともっともというふうに、二三度こっくり[#「こっくり」に傍点]とうなずいた。厚外套にくるまった肥った博士と、暖かそうなスコッチの裾長の服に、ロシア帽を眉ぎわまでかぶった夫人との前に立つと、やさ形の葉子は背たけこそ高いが、二人の娘ほどにながめられた。
「どうだ一緒に少し歩いてみちゃ」
と田川博士がいうと、夫人は、
「ようございましょうよ、血液がよく循環して」と応じて葉子に散歩を促した。葉子はやむを得ず、かつかつと鳴る二人の靴の音と、自分の上草履の音とをさびしく聞きながら、夫人のそばにひき添って甲板の上を歩き始めた。ギーイときしみながら船が大きくかしぐのにうまく中心を取りながら歩こうとすると、また不快な気持ちが胸先にこみ上げて来るのを葉子は強く押し静めて事もなげに振る舞おうとした。
博士は夫人との会話の途切れ目を捕えては、話を葉子に向けて慰め顔にあしらおうとしたが、いつでも夫人が葉子のすべき返事をひったくって物をいうので、せっかくの話は腰を折られた。葉子はしかし結句それをいい事にして、自分の思いにふけりながら二人に続いた。しばらく歩きなれてみると、運動ができたためか、だんだん嘔き気は感ぜぬようになった。田川夫妻は自然に葉子を会話からのけものにして、二人の間で四方山のうわさ話を取りかわし始めた。不思議なほどに緊張した葉子の心は、それらの世間話にはいささかの興味も持ち得ないで、むしろその無意味に近い言葉の数々を、自分の瞑想を妨げる騒音のようにうるさく思っていた。と、ふと田川夫人が事務長と言ったのを小耳にはさんで、思わず針でも踏みつけたようにぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、黙想から取って返して聞き耳を立てた。自分でも驚くほど神経が騒ぎ立つのをどうする事もできなかった。
「ずいぶんしたたか者らしゅうございますわね」
そう夫人のいう声がした。
「そうらしいね」
博士の声には笑いがまじっていた。
「賭博が大の上手ですって」
「そうかねえ」
事務長の話はそれぎりで絶えてしまった。葉子はなんとなく物足らなくなって、また何かいい出すだろうと心待ちにしていたが、その先を続ける様子がないので、心残りを覚えながら、また自分の心に帰って行った。
しばらくすると夫人がまた事務長のうわさをし始めた。
「事務長のそばにすわって食事をするのはどうもいやでなりませんの」
「そんなら早月さんに席を代わってもらったらいいでしょう」
葉子は闇の中で鋭く目をかがやかしながら夫人の様子をうかがった。
「でも夫婦がテーブルにならぶって法はありませんわ……ねえ早月さん」
こう戯談らしく夫人はいって、ちょっと葉子のほうを振り向いて笑ったが、べつにその返事を待つというでもなく、始めて葉子の存在に気づきでもしたように、いろいろと身の上などを探りを入れるらしく聞き始めた。田川博士も時々親切らしい言葉を添えた。葉子は始めのうちこそつつましやかに事実にさほど遠くない返事をしていたものの、話がだんだん深入りして行くにつれて、田川夫人という人は上流の貴夫人だと自分でも思っているらしいに似合わない思いやりのない人だと思い出した。それはあり内の質問だったかもしれない。けれども葉子にはそう思えた。縁もゆかりもない人の前で思うままな侮辱を加えられるとむっ[#「むっ」に傍点]とせずにはいられなかった。知った所がなんにもならない話を、木村の事まで根はり葉はり問いただしていったいどうしようという気なのだろう。老人でもあるならば、過ぎ去った昔を他人にくどくどと話して聞かせて、せめて慰むという事もあろう。「老人には過去を、若い人には未来を」という交際術の初歩すら心得ないがさつ[#「がさつ」に傍点]な人だ。自分ですらそっと手もつけないで済ませたい血なまぐさい身の上を……自分は老人ではない。葉子は田川夫人が意地にかかってこんな悪戯をするのだと思うと激しい敵意から口びるをかんだ。
しかしその時田川博士が、サルンからもれて来る灯の光で時計を見て、八時十分前だから部屋に帰ろうといい出したので、葉子はべつに何もいわずにしまった。三人が階子段を降りかけた時、夫人は、葉子の気分にはいっこう気づかぬらしく、――もしそうでなければ気づきながらわざと気づかぬらしく振る舞って、
「事務長はあなたのお部屋にも遊びに見えますか」
と突拍子もなくいきなり問いかけた。それを聞くと葉子の心は何という事なしに理不尽な怒りに捕えられた。得意な皮肉でも思い存分に浴びせかけてやろうかと思ったが、胸をさすりおろしてわざと落ち付いた調子で、
「いゝえちっとも[#「ちっとも」に傍点]お見えになりませんが……」
と空々しく聞こえるように答えた。夫人はまだ葉子の心持ちには少しも気づかぬふうで、
「おやそう。わたしのほうへはたびたびいらして困りますのよ」
と小声でささやいた。「何を生意気な」葉子は前後なしにこう心のうちに叫んだが一言も口には出さなかった。敵意――嫉妬ともいい代えられそうな――敵意がその瞬間からすっかり[#「すっかり」に傍点]根を張った。その時夫人が振り返って葉子の顔を見たならば、思わず博士を楯に取って恐れながら身をかわさずにはいられなかったろう、――そんな場合には葉子はもとよりその瞬間に稲妻のようにすばしこく隔意のない顔を見せたには違いなかろうけれども。葉子は一言もいわずに黙礼したまま二人に別れて部屋に帰った。
室内はむっ[#「むっ」に傍点]とするほど暑かった。葉子は嘔き気はもう感じてはいなかったが、胸もとが妙にしめつけられるように苦しいので、急いでボアをかいやって床の上に捨てたまま、投げるように長椅子に倒れかかった。
それは不思議だった。葉子の神経は時には自分でも持て余すほど鋭く働いて、だれも気のつかないにおいがたまらないほど気になったり、人の着ている着物の色合いが見ていられないほど不調和で不愉快であったり、周囲の人が腑抜けな木偶のように甲斐なく思われたり、静かに空を渡って行く雲の脚が瞑眩がするほどめまぐるしく見えたりして、我慢にもじっ[#「じっ」に傍点]としていられない事は絶えずあったけれども、その夜のように鋭く神経のとがって来た事は覚えがなかった。神経の末梢が、まるで大風にあったこずえのようにざわざわと音がするかとさえ思われた。葉子は足と足とをぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]とからみ合わせてそれに力をこめながら、右手の指先を四本そろえてその爪先を、水晶のように固い美しい歯で一思いに激しくかんで見たりした。悪寒のような小刻みな身ぶるいが絶えず足のほうから頭へと波動のように伝わった。寒いためにそうなるのか、暑いためにそうなるのかよくわからなかった。そうしていらいらしながらトランクを開いたままで取り散らした部屋の中をぼんやり見やっていた。目はうるさくかすんでいた。ふと落ち散ったものの中に葉子は事務長の名刺があるのに目をつけて、身をかがめてそれを拾い上げた。それを拾い上げるとま二つに引き裂いてまた床になげた。それはあまりに手答えなく裂けてしまった。葉子はまた何かもっとうん[#「うん」に傍点]と手答えのあるものを尋ねるように熱して輝く目でまじまじとあたりを見回していた。と、カーテンを引き忘れていた。恥ずかしい様子を見られはしなかったかと思うと胸がどきん[#「どきん」に傍点]としていきなり立ち上がろうとした拍子に、葉子は窓の外に人の顔を認めたように思った。田川博士のようでもあった。田川夫人のようでもあった。しかしそんなはずはない、二人はもう部屋に帰っている。事務長……
葉子は思わず裸体を見られた女のように固くなって立ちすくんだ。激しいおののきが襲って来た。そして何の思慮もなく床の上のボアを取って胸にあてがったが、次の瞬間にはトランクの中からショールを取り出してボアと一緒にそれをかかえて、逃げる人のように、あたふた[#「あたふた」に傍点]と部屋を出た。
船のゆらぐごとに木と木とのすれあう不快な音は、おおかた船客の寝しずまった夜の寂寞の中にきわ立って響いた。自動平衡器の中にともされた蝋燭は壁板に奇怪な角度を取って、ゆるぎもせずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と光っていた。
戸をあけて甲板に出ると、甲板のあなたはさっきのままの波また波の堆積だった。大煙筒から吐き出される煤煙はまっ黒い天の川のように無月の空を立ち割って水に近く斜めに流れていた。
一三
そこだけは星が光っていないので、雲のある所がようやく知れるぐらい思いきって暗い夜だった。おっかぶさって来るかと見上くれば、目のまわるほど遠のいて見え、遠いと思って見れば、今にも頭を包みそうに近く逼ってる鋼色の沈黙した大空が、際限もない羽をたれたように、同じ暗色の海原に続く所から波がわいて、闇の中をのたうちまろびながら、見渡す限りわめき騒いでいる。耳を澄まして聞いていると、水と水とが激しくぶつかり合う底のほうに、
「おーい、おい、おい、おーい」
というかと思われる声ともつかない一種の奇怪な響きが、舷をめぐって叫ばれていた。葉子は前後左右に大きく傾く甲板の上を、傾くままに身を斜めにしてからく重心を取りながら、よろけよろけブリッジに近いハッチの物陰までたどりついて、ショールで深々と首から下を巻いて、白ペンキで塗った板囲いに身を寄せかけて立った、たたずんだ所は風下になっているが、頭の上では、檣からたれ下がった索綱の類が風にしなってうなり[#「うなり」に傍点]を立て、アリュウシャン群島近い高緯度の空気は、九月の末とは思われぬほど寒く霜を含んでいた。気負いに気負った葉子の肉体はしかしさして寒いとは思わなかった。寒いとしてもむしろ快い寒さだった。もうどんどんと冷えて行く着物の裏に、心臓のはげしい鼓動につれて、乳房が冷たく触れたり離れたりするのが、なやましい気分を誘い出したりした。それにたたずんでいるのに足が爪先からだんだんに冷えて行って、やがて膝から下は知覚を失い始めたので、気分は妙に上ずって来て、葉子の幼い時からの癖である夢ともうつつとも知れない音楽的な錯覚に陥って行った。五体も心も不思議な熱を覚えながら、一種のリズムの中に揺り動かされるようになって行った。何を見るともなく凝然と見定めた目の前に、無数の星が船の動揺につれて光のまたたきをしながら、ゆるいテンポをととのえてゆらりゆらりと静かにおどると、帆綱のうなりが張り切ったバスの声となり、その間を「おーい、おい、おい、おーい……」と心の声とも波のうめき[#「うめき」に傍点]ともわからぬトレモロが流れ、盛り上がり、くずれこむ波また波がテノルの役目を勤めた。声が形となり、形が声となり、それから一緒にもつれ合う姿を葉子は目で聞いたり耳で見たりしていた。なんのために夜寒を甲板に出て来たか葉子は忘れていた。夢遊病者のように葉子はまっしぐらにこの不思議な世界に落ちこんで行った。それでいて、葉子の心の一部分はいたましいほど醒めきっていた。葉子は燕のようにその音楽的な夢幻界を翔け上がりくぐりぬけてさまざまな事を考えていた。
屈辱、屈辱……屈辱――思索の壁は屈辱というちかちかと寒く光る色で、いちめんに塗りつぶされていた。その表面に田川夫人や事務長や田川博士の姿が目まぐるしく音律に乗って動いた。葉子はうるさそうに頭の中にある手のようなもので無性に払いのけようと試みたがむだだった。皮肉な横目をつかって青味を帯びた田川夫人の顔が、かき乱された水の中を、小さな泡が逃げてでも行くように、ふらふらとゆらめきながら上のほうに遠ざかって行った。まずよかったと思うと、事務長の insolent な目つきが低い調子の伴音となって、じっ[#「じっ」に傍点]と動かない中にも力ある震動をしながら、葉子の眼睛の奥を網膜まで見とおすほどぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と見すえていた。「なんで事務長や田川夫人なんぞがこんなに自分をわずらわすだろう。憎らしい。なんの因縁で……」葉子は自分をこう卑しみながらも、男の目を迎え慣れた媚びの色を知らず知らず上まぶたに集めて、それに応じようとする途端、日に向かって目を閉じた時に綾をなして乱れ飛ぶあの不思議な種々な色の光体、それに似たものが繚乱として心を取り囲んだ。星はゆるいテンポでゆらりゆらりと静かにおどっている。「おーい、おい、おい、おーい」……葉子は思わずかっ[#「かっ」に傍点]と腹を立てた。その憤りの膜の中にすべての幻影はすーっと吸い取られてしまった。と思うとその憤りすらが見る見るぼやけて、あとには感激のさらにない死のような世界が果てしもなくどんより[#「どんより」に傍点]とよどんだ。葉子はしばらくは気が遠くなって何事もわきまえないでいた。
やがて葉子はまたおもむろに意識の閾に近づいて来ていた。
煙突の中の黒い煤の間を、横すじかいに休らいながら飛びながら、上って行く火の子のように、葉子の幻想は暗い記憶の洞穴の中を右左によろめきながら奥深くたどって行くのだった。自分でさえ驚くばかり底の底にまた底のある迷路を恐る恐る伝って行くと、果てしもなく現われ出る人の顔のいちばん奥に、赤い着物を裾長に着て、まばゆいほどに輝き渡った男の姿が見え出した。葉子の心の周囲にそれまで響いていた音楽は、その瞬間ぱったり[#「ぱったり」に傍点]静まってしまって、耳の底がかーん[#「かーん」に傍点]とするほど空恐ろしい寂莫の中に、船の舳のほうで氷をたたき破るような寒い時鐘の音が聞こえた。「カンカン、カンカン、カーン」……。葉子は何時の鐘だと考えてみる事もしないで、そこに現われた男の顔を見分けようとしたが、木村に似た容貌がおぼろに浮かんで来るだけで、どう見直して見てもはっきり[#「はっきり」に傍点]した事はもどかしいほどわからなかった。木村であるはずはないんだがと葉子はいらいらしながら思った。「木村はわたしの良人ではないか。その木村が赤い着物を着ているという法があるものか。……かわいそうに、木村はサン・フランシスコから今ごろはシヤトルのほうに来て、私の着くのを一日千秋の思いで待っているだろうに、わたしはこんな事をしてここで赤い着物を着た男なんぞを見つめている。千秋の思いで待つ? それはそうだろう。けれどもわたしが木村の妻になってしまったが最後、千秋の思いでわたしを待ったりした木村がどんな良人に変わるかは知れきっている。憎いのは男だ……木村でも倉地でも……また事務長なんぞを思い出している。そうだ、米国に着いたらもう少し落ち着いて考えた生きかたをしよう。木村だって打てば響くくらいはする男だ。……あっちに行ってまとまった金ができたら、なんといってもかまわない、定子を呼び寄せてやる。あ、定子の事なら木村は承知の上だったのに。それにしても木村が赤い着物などを着ているのはあんまりおかしい……」ふと葉子はもう一度赤い着物の男を見た。事務長の顔が赤い着物の上に似合わしく乗っていた。葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そしてその顔をもっとはっきり[#「はっきり」に傍点]見つめたいために重い重いまぶたをしいて押し開く努力をした。
見ると葉子の前にはまさしく、角燈を持って焦茶色のマントを着た事務長が立っていた。そして、
「どうなさったんだ今ごろこんな所に、……今夜はどうかしている……岡さん、あなたの仲間がもう一人ここにいますよ」
といいながら事務長は魂を得たように動き始めて、後ろのほうを振り返った。事務長の後ろには、食堂で葉子と一目顔を見合わすと、震えんばかりに興奮して顔を得上げないでいた上品なかの青年が、まっさおな顔をして物におじたようにつつましく立っていた。
目はまざまざと開いていたけれども葉子はまだ夢心地だった。事務長のいるのに気づいた瞬間からまた聞こえ出した波濤の音は、前のように音楽的な所は少しもなく、ただ物狂おしい騒音となって船に迫っていた。しかし葉子は今の境界がほんとうに現実の境界なのか、さっき不思議な音楽的の錯覚にひたっていた境界が夢幻の中の境界なのか、自分ながら少しも見さかいがつかないくらいぼんやりしていた。そしてあの荒唐な奇怪な心の adventure をかえってまざまざとした現実の出来事でもあるかのように思いなして、目の前に見る酒に赤らんだ事務長の顔は妙に蠱惑的な気味の悪い幻像となって、葉子を脅かそうとした。
「少し飲み過ぎたところにためといた仕事を詰めてやったんで眠れん。で散歩のつもりで甲板の見回りに出ると岡さん」
といいながらもう一度後ろに振り返って、
「この岡さんがこの寒いに手欄からからだを乗り出してぽかん[#「ぽかん」に傍点]と海を見とるんです。取り押えてケビンに連れて行こうと思うとると、今度はあなたに出っくわす。物好きもあったもんですねえ。海をながめて何がおもしろいかな。お寒かありませんか、ショールなんぞも落ちてしまった」
どこの国なまりともわからぬ一種の調子が塩さびた声であやつられるのが、事務長の人となりによくそぐって聞こえる。葉子はそんな事を思いながら事務長の言葉を聞き終わると、始めてはっきり[#「はっきり」に傍点]目がさめたように思った。そして簡単に、
「いゝえ」
と答えながら上目づかいに、夢の中からでも人を見るようにうっとり[#「うっとり」に傍点]と事務長のしぶとそうな顔を見やった。そしてそのまま黙っていた。
事務長は例の insolent な目つきで葉子を一目に見くるめながら、
「若い方は世話が焼ける……さあ行きましょう」
と強い語調でいって、からからと傍若無人に笑いながら葉子をせき立てた。海の波の荒涼たるおめきの中に聞くこの笑い声は diabolic なものだった。「若い方」……老成ぶった事をいうと葉子は思ったけれども、しかし事務長にはそんな事をいう権利でもあるかのように葉子は皮肉な竹篦返しもせずに、おとなしくショールを拾い上げて事務長のいうままにそのあとに続こうとして驚いた。ところが長い間そこにたたずんでいたものと見えて、磁石で吸い付けられたように、両足は固く重くなって一寸も動きそうにはなかった。寒気のために感覚の痲痺しかかった膝の関節はしいて曲げようとすると、筋を絶つほどの痛みを覚えた。不用意に歩き出そうとした葉子は、思わずのめり出さした上体をからく後ろにささえて、情けなげに立ちすくみながら、
「ま、ちょっと」
と呼びかけた。事務長の後ろに続こうとした岡と呼ばれた青年はこれを聞くといち早く足を止めて葉子のほうを振り向いた。
「始めてお知り合いになったばかりですのに、すぐお心安だてをしてほんとうになんでございますが、ちょっとお肩を貸していただけませんでしょうか。なんですか足の先が凍ったようになってしまって……」
と葉子は美しく顔をしかめて見せた。岡はそれらの言葉が拳となって続けさまに胸を打つとでもいったように、しばらくの間どぎまぎ躊躇していたが、やがて思い切ったふうで、黙ったまま引き返して来た。身のたけも肩幅も葉子とそう違わないほどな華車なからだをわなわなと震わせているのが、肩に手をかけないうちからよく知れた。事務長は振り向きもしないで、靴のかかとをこつこつと鳴らしながら早二三間のかなたに遠ざかっていた。
鋭敏な馬の皮膚のようにだちだちと震える青年の肩におぶいかかりながら、葉子は黒い大きな事務長の後ろ姿を仇かたきでもあるかのように鋭く見つめてそろそろと歩いた。西洋酒の芳醇な甘い酒の香が、まだ酔いからさめきらない事務長の身のまわりを毒々しい靄となって取り巻いていた。放縦という事務長の心の臓は、今不用心に開かれている。あの無頓着そうな肩のゆすりの陰にすさまじい desire の火が激しく燃えているはずである。葉子は禁断の木の実を始めてくいかいだ原人のような渇欲をわれにもなくあおりたてて、事務長の心の裏をひっくり返して縫い目を見窮めようとばかりしていた。おまけに青年の肩に置いた葉子の手は、華車とはいいながら、男性的な強い弾力を持つ筋肉の震えをまざまざと感ずるので、これらの二人の男が与える奇怪な刺激はほしいままにからまりあって、恐ろしい心を葉子に起こさせた。木村……何をうるさい、よけいな事はいわずと黙って見ているがいい。心の中をひらめき過ぎる断片的な影を葉子は枯れ葉のように払いのけながら、目の前に見る蠱惑におぼれて行こうとのみした。口から喉はあえぎたいほどにひからびて、岡の肩に乗せた手は、生理的な作用から冷たく堅くなっていた。そして熱をこめてうるんだ目を見張って、事務長の後ろ姿ばかりを見つめながら、五体はふらふらとたわいもなく岡のほうによりそった。吐き出す気息は燃え立って岡の横顔をなでた。事務長は油断なく角燈で左右を照らしながら甲板の整頓に気を配って歩いている。
葉子はいたわるように岡の耳に口をよせて、
「あなたはどちらまで」
と聞いてみた。その声はいつものように澄んではいなかった。そして気を許した女からばかり聞かれるような甘たるい親しさがこもっていた。岡の肩は感激のために一入震えた。頓には返事もし得ないでいたようだったが、やがて臆病そうに、
「あなたは」
とだけ聞き返して、熱心に葉子の返事を待つらしかった。
「シカゴまで参るつもりですの」
「僕も……わたしもそうです」
岡は待ち設けたように声を震わしながらきっぱり[#「きっぱり」に傍点]と答えた。
「シカゴの大学にでもいらっしゃいますの」
岡は非常にあわてたようだった。なんと返事をしたものか恐ろしくためらうふうだったが、やがてあいまいに口の中で、
「えゝ」
とだけつぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ……葉子は闇の中で目をかがやかしてほほえんだ。そして岡をあわれんだ。
しかし青年をあわれむと同時に葉子の目は稲妻のように事務長の後ろ姿を斜めにかすめた。青年をあわれむ自分は事務長にあわれまれているのではないか。始終一歩ずつ上手を行くような事務長が一種の憎しみをもってながめやられた。かつて味わった事のないこの憎しみの心を葉子はどうする事もできなかった。
二人に別れて自分の船室に帰った葉子はほとんど delirium の状態にあった。眼睛は大きく開いたままで、盲目同様に部屋の中の物を見る事をしなかった。冷えきった手先はおどおどと両の袂をつかんだり離したりしていた。葉子は夢中でショールとボアとをかなぐり捨て、もどかしげに帯だけほどくと、髪も解かずに寝台の上に倒れかかって、横になったまま羽根枕を両手でひし[#「ひし」に傍点]と抱いて顔を伏せた。なぜと知らぬ涙がその時堰を切ったように流れ出した。そして涙はあとからあとからみなぎるようにシーツを湿しながら、充血した口びるは恐ろしい笑いをたたえてわなわなと震えていた。
一時間ほどそうしているうちに泣き疲れに疲れて、葉子はかけるものもかけずにそのまま深い眠りに陥って行った。けばけばしい電燈の光はその翌日の朝までこのなまめかしくもふしだらな葉子の丸寝姿を画いたように照らしていた。
一四
なんといっても船旅は単調だった。たとい日々夜々に一瞬もやむ事なく姿を変える海の波と空の雲とはあっても、詩人でもないなべての船客は、それらに対して途方に暮れた倦怠の視線を投げるばかりだった。地上の生活からすっかり[#「すっかり」に傍点]遮断された船の中には、ごく小さな事でも目新しい事件の起こる事のみが待ち設けられていた。そうした生活では葉子が自然に船客の注意の焦点となり、話題の提供者となったのは不思議もない。毎日毎日凍りつくような濃霧の間を、東へ東へと心細く走り続ける小さな汽船の中の社会は、あらわには知れないながら、何かさびしい過去を持つらしい、妖艶な、若い葉子の一挙一動を、絶えず興味深くじっ[#「じっ」に傍点]と見守るように見えた。
かの奇怪な心の動乱の一夜を過ごすと、その翌日から葉子はまたふだんのとおりに、いかにも足もとがあやうく見えながら少しも破綻を示さず、ややもすれば他人の勝手になりそうでいて、よそからは決して動かされない女になっていた。始めて食堂に出た時のつつましやかさに引きかえて、時には快活な少女のように晴れやかな顔つきをして、船客らと言葉をかわしたりした。食堂に現われる時の葉子の服装だけでも、退屈に倦じ果てた人々には、物好きな期待を与えた。ある時は葉子は慎み深い深窓の婦人らしく上品に、ある時は素養の深い若いディレッタントのように高尚に、またある時は習俗から解放された adventuress とも思われる放胆を示した。その極端な変化が一日の中に起こって来ても、人々はさして怪しく思わなかった。それほど葉子の性格には複雑なものが潜んでいるのを感じさせた。絵島丸が横浜の桟橋につながれている間から、人々の注意の中心となっていた田川夫人を、海気にあって息気をふき返した人魚のような葉子のかたわらにおいて見ると、身分、閲歴、学殖、年齢などといういかめしい資格が、かえって夫人を固い古ぼけた輪郭にはめこんで見せる結果になって、ただ神体のない空虚な宮殿のような空いかめしい興なさを感じさせるばかりだった。女の本能の鋭さから田川夫人はすぐそれを感づいたらしかった。夫人の耳もとに響いて来るのは葉子のうわさばかりで、夫人自身の評判は見る見る薄れて行った。ともすると田川博士までが、夫人の存在を忘れたような振る舞いをする、そう夫人を思わせる事があるらしかった。食堂の卓をはさんで向かい合う夫妻が他人同士のような顔をして互い互いにぬすみ見をするのを葉子がすばやく見て取った事などもあった。といって今まで自分の子供でもあしらうように振る舞っていた葉子に対して、今さら夫人は改まった態度も取りかねていた。よくも仮面をかぶって人を陥れたという女らしいひねくれ[#「ひねくれ」に傍点]た妬みひがみが、明らかに夫人の表情に読まれ出した。しかし実際の処置としては、くやしくても虫を殺して、自分を葉子まで引き下げるか、葉子を自分まで引き上げるよりしかたがなかった。夫人の葉子に対する仕打ちは戸板をかえすように違って来た。葉子は知らん顔をして夫人のするがままに任せていた。葉子はもとより夫人のあわてたこの処置が夫人には致命的な不利益であり、自分には都合のいい仕合わせであるのを知っていたからだ。案のじょう、田川夫人のこの譲歩は、夫人に何らかの同情なり尊敬なりが加えられる結果とならなかったばかりでなく、その勢力はますます下り坂になって、葉子はいつのまにか田川夫人と対等で物をいい合っても少しも不思議とは思わせないほどの高みに自分を持ち上げてしまっていた。落ち目になった夫人は年がいもなくしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]になっていた。恐ろしいほどやさしく親切に葉子をあしらうかと思えば、皮肉らしくばか丁寧に物をいいかけたり、あるいは突然路傍の人に対するようなよそよそしさを装って見せたりした。死にかけた蛇ののたうち回るのを見やる蛇使いのように、葉子は冷ややかにあざ笑いながら、夫人の心の葛藤を見やっていた。
単調な船旅にあき果てて、したたか刺激に飢えた男の群れは、この二人の女性を中心にして知らず知らず渦巻きのようにめぐっていた。田川夫人と葉子との暗闘は表面には少しも目に立たないで戦われていたのだけれども、それが男たちに自然に刺激を与えないではおかなかった。平らな水に偶然落ちて来た微風のひき起こす小さな波紋ほどの変化でも、船の中では一かどの事件だった。男たちはなぜともなく一種の緊張と興味とを感ずるように見えた。
田川夫人は微妙な女の本能と直覚とで、じりじりと葉子の心のすみずみを探り回しているようだったが、ついにここぞという急所をつかんだらしく見えた。それまで事務長に対して見下したような丁寧さを見せていた夫人は、見る見る態度を変えて、食卓でも二人は、席が隣り合っているからという以上な親しげな会話を取りかわすようになった。田川博士までが夫人の意を迎えて、何かにつけて事務長の室に繁く出入りするばかりか、事務長はたいていの夜は田川夫妻の部屋に呼び迎えられた。田川博士はもとより船の正客である。それをそらすような事務長ではない。倉地は船医の興録までを手伝わせて、田川夫妻の旅情を慰めるように振る舞った。田川博士の船室には夜おそくまで灯がかがやいて、夫人の興ありげに高く笑う声が室外まで聞こえる事が珍しくなかった。
葉子は田川夫人のこんな仕打ちを受けても、心の中で冷笑っているのみだった。すでに自分が勝ち味になっているという自覚は、葉子に反動的な寛大な心を与えて、夫人が事務長を※[5]にしようとしている事などはてんで問題にはしまいとした。夫人はよけいな見当違いをして、痛くもない腹を探っている、事務長がどうしたというのだ。母の胎を出るとそのままなんの訓練も受けずに育ち上がったようなぶしつけ[#「ぶしつけ」に傍点]な、動物性の勝った、どんな事をして来たのか、どんな事をするのかわからないようなたかが事務長になんの興味があるものか。あんな人間に気を引かれるくらいなら、自分はとうに喜んで木村の愛になずいているのだ。見当違いもいいかげんにするがいい。そう歯がみをしたいくらいな気分で思った。
ある夕方葉子はいつものとおり散歩しようと甲板に出て見ると、はるか遠い手欄の所に岡がたった一人しょんぼりとよりかかって、海を見入っていた。葉子はいたずら者らしくそっ[#「そっ」に傍点]と足音を盗んで、忍び忍び近づいて、いきなり岡と肩をすり合わせるようにして立った。岡は不意に人が現われたので非常に驚いたふうで、顔をそむけてその場を立ち去ろうとするのを、葉子は否応なしに手を握って引き留めた。岡が逃げ隠れようとするのも道理、その顔には涙のあとがまざまざと残っていた。少年から青年になったばかりのような、内気らしい、小柄な岡の姿は、何もかも荒々しい船の中ではことさらデリケートな可憐なものに見えた。葉子はいたずらばかりでなく、この青年に一種の淡々しい愛を覚えた。
「何を泣いてらしったの」
小首を存分傾けて、少女が少女に物を尋ねるように、肩に手を置きそえながら聞いてみた。
「僕……泣いていやしません」
岡は両方の頬を紅く彩って、こういいながらくるり[#「くるり」に傍点]とからだをそっぽう[#「そっぽう」に傍点]に向け換えようとした。それがどうしても少女のようなしぐさだった。抱きしめてやりたいようなその肉体と、肉体につつまれた心。葉子はさらにすり寄った。
「いゝえいゝえ泣いてらっしゃいましたわ」
岡は途方に暮れたように目の下の海をながめていたが、のがれる術のないのを覚って、大っぴらにハンケチをズボンのポケットから出して目をぬぐった。そして少し恨むような目つきをして、始めてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子を見た。口びるまでが苺のように紅くなっていた。青白い皮膚に嵌め込まれたその紅さを、色彩に敏感な葉子は見のがす事ができなかった。岡は何かしら非常に興奮していた。その興奮してぶるぶる震えるしなやかな手を葉子は手欄ごとじっ[#「じっ」に傍点]と押えた。
「さ、これでおふき遊ばせ」
葉子の袂からは美しい香りのこもった小さなリンネルのハンケチが取り出された。
「持ってるんですから」
岡は恐縮したように自分のハンケチを顧みた。
「何をお泣きになって……まあわたしったらよけいな事まで伺って」
「何いいんです……ただ海を見たらなんとなく涙ぐんでしまったんです。からだが弱いもんですからくだらない事にまで感傷的になって困ります。……なんでもない……」
葉子はいかにも同情するように合点合点した。岡が葉子とこうして一緒にいるのをひどくうれしがっているのが葉子にはよく知れた。葉子はやがて自分のハンケチを手欄の上においたまま、
「わたしの部屋へもよろしかったらいらっしゃいまし。またゆっくりお話ししましょうね」
となつこくいってそこを去った。
岡は決して葉子の部屋を訪れる事はしなかったけれども、この事のあって後は、二人はよく親しく話し合った。岡は人なじみの悪い、話の種のない、ごく初心な世慣れない青年だったけれども、葉子はわずかなタクトですぐ隔てを取り去ってしまった。そして打ち解けて見ると彼は上品な、どこまでも純粋な、そして慧かしい青年だった。若い女性にはそのはにかみや[#「はにかみや」に傍点]な所から今まで絶えて接していなかったので、葉子にはすがり付くように親しんで来た。葉子も同性の恋をするような気持ちで岡をかわいがった。
そのころからだ、事務長が岡に近づくようになったのは。岡は葉子と話をしない時はいつでも事務長と散歩などをしていた。しかし事務長の親友とも思われる二三の船客に対しては口もきこうとはしなかった。岡は時々葉子に事務長のうわさをして聞かした。そして表面はあれほど粗暴のように見えながら、考えの変わった、年齢や位置などに隔てをおかない、親切な人だといったりした。もっと交際してみるといいともいった。そのたびごとに葉子は激しく反対した。あんな人間を岡が話し相手にするのは実際不思議なくらいだ。あの人のどこに岡と共通するような優れた所があろうなどとからかった。
葉子に引き付けられたのは岡ばかりではなかった。午餐が済んで人々がサルンに集まる時などは団欒がたいてい三つくらいに分かれてできた。田川夫妻の周囲にはいちばん多数の人が集まった。外国人だけの団体から田川のほうに来る人もあり、日本の政治家実業家連はもちろんわれ先にそこに馳せ参じた。そこからだんだん細く糸のようにつながれて若い留学生とか学者とかいう連中が陣を取り、それからまただんだん太くつながれて、葉子と少年少女らの群れがいた。食堂で不意の質問に辟易した外交官補などは第一の連絡の綱となった。衆人の前では岡は遠慮するようにあまり葉子に親しむ様子は見せずに不即不離の態度を保っていた。遠慮会釈なくそんな所で葉子になれ親しむのは子供たちだった。まっ白なモスリンの着物を着て赤い大きなリボンを装った少女たちや、水兵服で身軽に装った少年たちは葉子の周囲に花輪のように集まった。葉子がそういう人たちをかたみがわり[#「かたみがわり」に傍点]に抱いたりかかえたりして、お伽話などして聞かせている様子は、船中の見ものだった。どうかするとサルンの人たちは自分らの間の話題などは捨てておいてこの可憐な光景をうっとり[#「うっとり」に傍点]見やっているような事もあった。
ただ一つこれらの群れからは全く没交渉な一団があった。それは事務長を中心にした三四人の群れだった。いつでも部屋の一隅の小さな卓を囲んで、その卓の上にはウイスキー用の小さなコップと水とが備えられていた。いちばんいい香いの煙草の煙もそこから漂って来た。彼らは何かひそひそと語り合っては、時々傍若無人な高い笑い声を立てた。そうかと思うとじっと田川の群れの会話に耳を傾けていて、遠くのほうから突然皮肉の茶々を入れる事もあった。だれいうとなく人々はその一団を犬儒派と呼びなした。彼らがどんな種類の人でどんな職業に従事しているかを知る者はなかった。岡などは本能的にその人たちを忌みきらっていた。葉子も何かしら気のおける連中だと思った。そして表面はいっこう無頓着に見えながら、自分に対して充分の観察と注意とを怠っていないのを感じていた。
どうしてもしかし葉子には、船にいるすべての人の中で事務長がいちばん気になった。そんなはず、理由のあるはずはないと自分をたしなめてみてもなんのかいもなかった。サルンで子供たちと戯れている時でも、葉子は自分のして見せる蠱惑的な姿態がいつでも暗々裡に事務長のためにされているのを意識しないわけには行かなかった。事務長がその場にいない時は、子供たちをあやし楽しませる熱意さえ薄らぐのを覚えた。そんな時に小さい人たちはきまってつまらなそうな顔をしたりあくびをしたりした。葉子はそうした様子を見るとさらに興味を失った。そしてそのまま立って自分の部屋に帰ってしまうような事をした。それにも係わらず事務長はかつて葉子に特別な注意を払うような事はないらしく見えた。それが葉子をますます不快にした。夜など甲板の上をそぞろ歩きしている葉子が、田川博士の部屋の中から例の無遠慮な事務長の高笑いの声をもれ聞いたりなぞすると、思わずかっ[#「かっ」に傍点]となって、鉄の壁すら射通しそうな鋭いひとみを声のするほうに送らずにはいられなかった。
ある日の午後、それは雲行きの荒い寒い日だった。船客たちは船の動揺に辟易して自分の船室に閉じこもるのが多かったので、サルンががら明きになっているのを幸い、葉子は岡を誘い出して、部屋のかどになった所に折れ曲がって据えてあるモロッコ皮のディワンに膝と膝を触れ合わさんばかり寄り添って腰をかけて、トランプをいじって遊んだ。岡は日ごろそういう遊戯には少しも興味を持っていなかったが、葉子と二人きりでいられるのを非常に幸福に思うらしく、いつになく快活に札をひねくった。その細いしなやかな手からぶきっちょう[#「ぶきっちょう」に傍点]に札が捨てられたり取られたりするのを葉子はおもしろいものに見やりながら、断続的に言葉を取りかわした。
「あなたもシカゴにいらっしゃるとおっしゃってね、あの晩」
「えゝいいました。……これで切ってもいいでしょう」
「あらそんなものでもったいない……もっと低いものはおありなさらない?……シカゴではシカゴ大学にいらっしゃるの?」
「これでいいでしょうか……よくわからないんです」
「よくわからないって、そりゃおかしゅうござんすわね、そんな事お決めなさらずに米国にいらっしゃるって」
「僕は……」
「これでいただきますよ……僕は……何」
「僕はねえ」
「えゝ」
葉子はトランプをいじるのをやめて顔を上げた。岡は懺悔でもする人のように、面を伏せて紅くなりながら札をいじくっていた。
「僕のほんとうに行く所はボストンだったのです。そこに僕の家で学資をやってる書生がいて僕の監督をしてくれる事になっていたんですけれど……」
葉子は珍しい事を聞くように岡に目をすえた。岡はますますいい憎そうに、
「あなたにおあい申してから僕もシカゴに行きたくなってしまったんです」
とだんだん語尾を消してしまった。なんという可憐さ……葉子はさらに岡にすり寄った。岡は真剣になって顔まで青ざめて来た。
「お気にさわったら許してください……僕はただ……あなたのいらっしゃる所にいたいんです、どういうわけだか……」
もう岡は涙ぐんでいた。葉子は思わず岡の手を取ってやろうとした。
その瞬間にいきなり事務長が激しい勢いでそこにはいって来た。そして葉子には目もくれずに激しく岡を引っ立てるようにして散歩に連れ出してしまった。岡は唯々としてそのあとにしたがった。
葉子はかっ[#「かっ」に傍点]となって思わず座から立ち上がった。そして思い存分事務長の無礼を責めようと身構えした。その時不意に一つの考えが葉子の頭をひらめき通った。「事務長はどこかで自分たちを見守っていたに違いない」
突っ立ったままの葉子の顔に、乳房を見せつけられた子供のようなほほえみがほのかに浮かび上がった。
一五
葉子はある朝思いがけなく早起きをした。米国に近づくにつれて緯度はだんだん下がって行ったので、寒気も薄らいでいたけれども、なんといっても秋立った空気は朝ごとに冷え冷えと引きしまっていた。葉子は温室のような船室からこのきりっ[#「きりっ」に傍点]とした空気に触れようとして甲板に出てみた。右舷を回って左舷に出ると計らずも目の前に陸影を見つけ出して、思わず足を止めた。そこには十日ほど念頭から絶え果てていたようなものが海面から浅くもれ上がって続いていた。葉子は好奇な目をかがやかしながら、思わず一たんとめた足を動かして手欄に近づいてそれを見渡した。オレゴン松がすくすくと白波の激しくかみよせる岸べまで密生したバンクーバー島の低い山なみがそこにあった。物すごく底光りのするまっさおな遠洋の色は、いつのまにか乱れた波の物狂わしく立ち騒ぐ沿海の青灰色に変わって、その先に見える暗緑の樹林はどんより[#「どんより」に傍点]とした雨空の下に荒涼として横たわっていた。それはみじめな姿だった。距りの遠いせいか船がいくら進んでも景色にはいささかの変化も起こらないで、荒涼たるその景色はいつまでも目の前に立ち続いていた。古綿に似た薄雲をもれる朝日の光が力弱くそれを照らすたびごとに、煮え切らない影と光の変化がかすかに山と海とをなでて通るばかりだ。長い長い海洋の生活に慣れた葉子の目には陸地の印象はむしろきたないものでも見るように不愉快だった。もう三日ほどすると船はいやでもシヤトルの桟橋につながれるのだ。向こうに見えるあの陸地の続きにシヤトルはある。あの松の林が切り倒されて少しばかりの平地となった所に、ここに一つかしこに一つというように小屋が建ててあるが、その小屋の数が東に行くにつれてだんだん多くなって、しまいには一かたまりの家屋ができる。それがシヤトルであるに違いない。うらさびしく秋風の吹きわたるその小さな港町の桟橋に、野獣のような諸国の労働者が群がる所に、この小さな絵島丸が疲れきった船体を横たえる時、あの木村が例のめまぐるしい機敏さで、アメリカ風になり済ましたらしい物腰で、まわりの景色に釣り合わない景気のいい顔をして、船梯子を上って来る様子までが、葉子には見るように想像された。
「いやだいやだ。どうしても木村と一緒になるのはいやだ。私は東京に帰ってしまおう」
葉子はだだっ子らしく今さらそんな事を本気に考えてみたりしていた。
水夫長と一人のボーイとが押し並んで、靴と草履との音をたてながらやって来た。そして葉子のそばまで来ると、葉子が振り返ったので二人ながら慇懃に、
「お早うございます」
と挨拶した。その様子がいかにも親しい目上に対するような態度で、ことに水夫長は、
「御退屈でございましたろう。それでもこれであと三日になりました。今度の航海にはしかしお陰様で大助かりをしまして、ゆうべからきわだってよくなりましてね」
と付け加えた。
葉子は一等船客の間の話題の的であったばかりでなく、上級船員の間のうわさの種であったばかりでなく、この長い航海中に、いつのまにか下級船員の間にも不思議な勢力になっていた。航海の八日目かに、ある老年の水夫がフォクスルで仕事をしていた時、錨の鎖に足先をはさまれて骨をくじいた。プロメネード・デッキで偶然それを見つけた葉子は、船医より早くその場に駆けつけた。結びっこぶのように丸まって、痛みのためにもがき苦しむその老人のあとに引きそって、水夫部屋の入り口まではたくさんの船員や船客が物珍しそうについて来たが、そこまで行くと船員ですらが中にはいるのを躊躇した。どんな秘密が潜んでいるかだれも知る人のないその内部は、船中では機関室よりも危険な一区域と見なされていただけに、その入り口さえが一種人を脅かすような薄気味わるさを持っていた。葉子はしかしその老人の苦しみもがく姿を見るとそんな事は手もなく忘れてしまっていた。ひょっとすると邪魔物扱いにされてあの老人は殺されてしまうかもしれない。あんな齢までこの海上の荒々しい労働に縛られているこの人にはたよりになる縁者もいないのだろう。こんな思いやりがとめどもなく葉子の心を襲い立てるので、葉子はその老人に引きずられてでも行くようにどんどん水夫部屋の中に降りて行った。薄暗い腐敗した空気は蒸れ上がるように人を襲って、陰の中にうよ[#「うよ」に傍点]うよとうごめく群れの中からは太く錆びた声が投げかわされた。闇に慣れた水夫たちの目はやにわに葉子の姿を引っ捕えたらしい。見る見る一種の興奮が部屋のすみずみにまでみちあふれて、それが奇怪なののしり声となって物すごく葉子に逼った。だぶだぶのズボン一つで、節くれ立った厚みのある毛胸に一糸もつけない大男は、やおら人中から立ち上がると、ずかずか葉子に突きあたらんばかりにすれ違って、すれ違いざまに葉子の顔を孔のあくほどにらみつけて、聞くにたえない雑言を高々とののしって、自分の群れを笑わした。しかし葉子は死にかけた子にかしずく母のように、そんな事には目もくれずに老人のそばに引き添って、臥安いように寝床を取りなおしてやったり、枕をあてがってやったりして、なおもその場を去らなかった。そんなむさ苦しいきたない所にいて老人がほったらかしておかれるのを見ると、葉子はなんという事なしに涙があとからあとから流れてたまらなかった。葉子はそこを出て無理に船医の興録をそこに引っぱって来た。そして権威を持った人のように水夫長にはっきりしたさしずをして、始めて安心して悠々とその部屋を出た。葉子の顔には自分のした事に対して子供のような喜びの色が浮かんでいた。水夫たちは暗い中にもそれを見のがさなかったと見える。葉子が出て行く時には一人として葉子に雑言をなげつけるものがいなかった。それから水夫らはだれいうとなしに葉子の事を「姉御姉御」と呼んでうわさするようになった。その時の事を水夫長は葉子に感謝したのだ。
葉子はしんみにいろいろと病人の事を水夫長に聞きただした。実際水夫長に話しかけられるまでは、葉子はそんな事は思い出しもしていなかったのだ。そして水夫長に思い出させられて見ると、急にその老水夫の事が心配になり出したのだった。足はとうとう不具になったらしいが痛みはたいていなくなったと水夫長がいうと葉子は始めて安心して、また陸のほうに目をやった。水夫長とボーイとの足音は廊下のかなたに遠ざかって消えてしまった。葉子の足もとにはただかすかなエンジンの音と波が舷を打つ音とが聞こえるばかりだった。
葉子はまた自分一人の心に帰ろうとしてしばらくじっ[#「じっ」に傍点]と単調な陸地に目をやっていた。その時突然岡が立派な西洋絹の寝衣の上に厚い外套を着て葉子のほうに近づいて来たのを、葉子は視角の一端にちらりと捕えた。夜でも朝でも葉子がひとりでいると、どこでどうしてそれを知るのか、いつのまにか岡がきっと身近に現われるのが常なので、葉子は待ち設けていたように振り返って、朝の新しいやさしい微笑を与えてやった。
「朝はまだずいぶん冷えますね」
といいながら、岡は少し人になれた少女のように顔を赤くしながら葉子のそばに身を寄せた。葉子は黙ってほほえみながらその手を取って引き寄せて、互いに小さな声で軽い親しい会話を取りかわし始めた。
と、突然岡は大きな事でも思い出した様子で、葉子の手をふりほどきながら、
「倉地さんがね、きょうあなたにぜひ願いたい用があるっていってましたよ」
といった。葉子は、
「そう……」
とごく軽く受けるつもりだったが、それが思わず息気苦しいほどの調子になっているのに気がついた。
「なんでしょう、わたしになんぞ用って」
「なんだかわたしちっとも知りませんが、話をしてごらんなさい。あんなに見えているけれども親切な人ですよ」
「まだあなただまされていらっしやるのね。あんな高慢ちきな乱暴な人わたしきらいですわ。……でも先方で会いたいというのなら会ってあげてもいいから、ここにいらっしゃいって、あなた今すぐいらしって呼んで来てくださいましな。会いたいなら会いたいようにするがようござんすわ」
葉子は実際激しい言葉になっていた。
「まだ寝ていますよ」
「いいから構わないから起こしておやりになればよござんすわ」
岡は自分に親しい人を親しい人に近づける機会が到来したのを誇り喜ぶ様子を見せて、いそいそと駆けて行った。その後ろ姿を見ると葉子は胸に時ならぬときめき[#「ときめき」に傍点]を覚えて、眉の上の所にさっ[#「さっ」に傍点]と熱い血の寄って来るのを感じた。それがまた憤ろしかった。
見上げると朝の空を今まで蔽うていた綿のような初秋の雲は所々ほころびて、洗いすました青空がまばゆく切れ目切れ目に輝き出していた。青灰色によごれていた雲そのものすらが見違えるように白く軽くなって美しい笹縁をつけていた。海は目も綾な明暗をなして、単調な島影もさすがに頑固な沈黙ばかりを守りつづけてはいなかった。葉子の心は抑えよう抑えようとしても軽くはなやかにばかりなって行った。決戦……と葉子はその勇み立つ心の底で叫んだ。木村の事などはとうの昔に頭の中からこそぎ取るように消えてしまって、そのあとにはただ何とはなしに、子供らしい浮き浮きした冒険の念ばかりが働いていた。自分でも知らずにいたような weird な激しい力が、想像も及ばぬ所にぐんぐんと葉子を引きずって行くのを、葉子は恐れながらもどこまでもついて行こうとした。どんな事があっても自分がその中心になっていて、先方をひき付けてやろう。自分をはぐらかすような事はしまいと始終張り切ってばかりいたこれまでの心持ちと、この時わくがごとく持ち上がって来た心持ちとは比べものにならなかった。あらん限りの重荷を洗いざらい思いきりよく投げすててしまって、身も心も何か大きな力に任しきるその快さ心安さは葉子をすっかり夢心地にした。そんな心持ちの相違を比べて見る事さえできないくらいだった。葉子は子供らしい期待に目を輝かして岡の帰って来るのを待っていた。
「だめですよ。床の中にいて戸も明けてくれずに、寝言みたいな事をいってるんですもの」
といいながら岡は当惑顔で葉子のそばに現われた。
「あなたこそだめね。ようござんすわ、わたしが自分で行って見てやるから」
葉子にはそこにいる岡さえなかった。少し怪訝そうに葉子のいつになくそわそわした様子を見守る青年をそこに捨ておいたまま葉子は険しく細い階子段を降りた。
事務長の部屋は機関室と狭い暗い廊下一つを隔てた所にあって、日の目を見ていた葉子には手さぐりをして歩かねばならぬほど勝手がちがっていた。地震のように機械の震動が廊下の鉄壁に伝わって来て、むせ返りそうな生暖かい蒸気のにおいと共に人を不愉快にした。葉子は鋸屑を塗りこめてざらざらと手ざわりのいやな壁をなでて進みながらようやく事務室の戸の前に来て、あたりを見回して見て、ノックもせずにいきなりハンドルをひねった。ノックをするひまもないようなせかせか[#「せかせか」に傍点]した気分になっていた。戸は音も立てずにやすやすとあいた。「戸もあけてくれずに……」との岡の言葉から、てっきり[#「てっきり」に傍点]鍵がかかっていると思っていた葉子にはそれが意外でもあり、あたりまえにも思えた。しかしその瞬間には葉子はわれ知らずはっ[#「はっ」に傍点]となった。ただ通りすがりの人にでも見付けられまいとする心が先に立って、葉子は前後のわきまえもなく、ほとんど無意識に部屋にはいると、同時にぱたん[#「ぱたん」に傍点]と音をさせて戸をしめてしまった。
もうすべては後悔にはおそすぎた。岡の声で今寝床から起き上がったらしい事務長は、荒い棒縞のネルの筒袖一枚を着たままで、目のはれぼったい顔をして、小山のような大きな五体を寝床にくねらして、突然はいって来た葉子をぎっ[#「ぎっ」に傍点]と見守っていた。とうの昔に心の中は見とおしきっているような、それでいて言葉もろくろくかわさないほどに無頓着に見える男の前に立って、葉子はさすがにしばらくはいい出づべき言葉もなかった。あせる気を押し鎮め押ししずめ、顔色を動かさないだけの沈着を持ち続けようとつとめたが、今までに覚えない惑乱のために、頭はぐら[#「ぐら」に傍点]ぐらとなって、無意味だと自分でさえ思われるような微笑をもらす愚かさをどうする事もできなかった。倉地は葉子がその朝その部屋に来るのを前からちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知り抜いてでもいたように落ち付き払って、朝の挨拶もせずに、
「さ、おかけなさい。ここが楽だ」
といつものとおりな少し見おろした親しみのある言葉をかけて、昼間は長椅子がわりに使う寝台の座を少し譲って待っている。葉子は敵意を含んでさえ見える様子で立ったまま、
「何か御用がおありになるそうでございますが……」
固くなりながらいって、あゝまた見えすく事をいってしまったとすぐ後悔した。事務長は葉子の言葉を追いかけるように、
「用はあとでいいます。まあおかけなさい」
といってすましていた。その言葉を聞くと、葉子はそのいいなり放題になるよりしかたがなかった。「お前は結局はここにすわるようになるんだよ」と事務長は言葉の裏に未来を予知しきっているのが葉子の心を一種捨てばちなものにした。「すわってやるものか」という習慣的な男に対する反抗心はただわけもなくひしがれていた。葉子はつか[#「つか」に傍点]つかと進みよって事務長と押し並んで寝台に腰かけてしまった。
この一つの挙動が――このなんでもない一つの挙動が急に葉子の心を軽くしてくれた。葉子はその瞬間に大急ぎで今まで失いかけていたものを自分のほうにたぐり戻した。そして事務長を流し目に見やって、ちょっとほほえんだその微笑には、さっきの微笑の愚かしさが潜んでいないのを信ずる事ができた。葉子の性格の深みからわき出るおそろしい自然さがまとまった姿を現わし始めた。
「何御用でいらっしゃいます」
そのわざとらしい造り声の中にかすかな親しみをこめて見せた言葉も、肉感的に厚みを帯びた、それでいて賢しげに締まりのいい二つの口びるにふさわしいものとなっていた。
「きょう船が検疫所に着くんです、きょうの午後に。ところが検疫医がこれなんだ」
事務長は朋輩にでも打ち明けるように、大きな食指を鍵形にまげて、たぐるような格好をして見せた。葉子がちょっと判じかねた顔つきをしていると、
「だから飲ましてやらんならんのですよ。それからポーカーにも負けてやらんならん。美人がいれば拝ましてもやらんならん」
となお手まねを続けながら、事務長は枕もとにおいてある頑固なパイプを取り上げて、指の先で灰を押しつけて、吸い残りの煙草に火をつけた。
「船をさえ見ればそうした悪戯をしおるんだから、海坊主を見るようなやつです。そういうと頭のつるり[#「つるり」に傍点]とした水母じみた入道らしいが、実際は元気のいい意気な若い医者でね。おもしろいやつだ。一つ会ってごらん。わたしでからがあんな所に年じゅう置かれればああなるわさ」
といって、右手に持ったパイプを膝がしらに置き添えて、向き直ってまともに葉子を見た。しかしその時葉子は倉地の言葉にはそれほど注意を払ってはいない様子を見せていた。ちょうど葉子の向こう側にある事務テーブルの上に飾られた何枚かの写真を物珍しそうにながめやって、右手の指先を軽く器用に動かしながら、煙草の煙が紫色に顔をかすめるのを払っていた。自分を囮にまで使おうとする無礼もあなたなればこそなんともいわずにいるのだという心を事務長もさすがに推したらしい。しかしそれにも係わらず事務長は言いわけ一ついわず、いっこう平気なもので、きれいな飾り紙のついた金口煙草の小箱を手を延ばして棚から取り上げながら、
「どうです一本」
と葉子の前にさし出した。葉子は自分が煙草をのむかのまぬかの問題をはじき飛ばすように、
「あれはどなた?」と写真の一つに目を定めた。
「どれ」
「あれ」葉子はそういったままで指さしはしない。
「どれ」と事務長はもう一度いって、葉子の大きな目をまじまじと見入ってからその視線をたどって、しばらく写真を見分けていたが、
「はああれか。あれはねわたしの妻子ですんだ。荊妻と豚児どもですよ」
といって高々と笑いかけたが、ふと笑いやんで、険しい目で葉子をちらっと見た。
「まあそう。ちゃんとお写真をお飾りなすって、おやさしゅうござんすわね」
葉子はしんなり[#「しんなり」に傍点]と立ち上がってその写真の前に行った。物珍しいものを見るという様子をしてはいたけれども、心の中には自分の敵がどんな獣物であるかを見きわめてやるぞという激しい敵愾心が急に燃えあがっていた。前には芸者ででもあったのか、それとも良人の心を迎えるためにそう造ったのか、どこか玄人じみたきれいな丸髷の女が着飾って、三人の少女を膝に抱いたりそばに立たせたりして写っていた。葉子はそれを取り上げて孔のあくほどじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらテーブルの前に立っていた。ぎこちない沈黙がしばらくそこに続いた。
「お葉さん」(事務長は始めて葉子をその姓で呼ばずにこう呼びかけた)突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動きもできないように抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のような assault に出る事を直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、その assault を、心ばかりでなく、肉体的な好奇心をもって待ち受けていたのだったが、かくまで突然、なんの前ぶれもなく起こって来ようとは思いも設けなかったので、女の本然の羞恥から起こる貞操の防衛に駆られて、熱しきったような冷えきったような血を一時に体内に感じながら、かかえられたまま、侮蔑をきわめた表情を二つの目に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷ややかな目の光は仮初めの男の心をたじろがすはずだった。事務長の顔は振り返った葉子の顔に息気のかかるほどの近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷なひとみには目もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強くあおり立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を充分回復した健康な男の容貌の中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力がこもっていると葉子は始終感ずるのだった)葉子は倉地に存分な軽侮の心持ちを見せつけながらも、その顔を鼻の先に見ると、男性というものの強烈な牽引の力を打ち込まれるように感ぜずにはいられなかった。息気せわしく吐く男のため息は霰のように葉子の顔を打った。火と燃え上がらんばかりに男のからだからは desire の焔がぐんぐん葉子の血脈にまで広がって行った。葉子はわれにもなく異常な興奮にがたがた震え始めた。
× × ×
ふと倉地の手がゆるんだので葉子は切って落とされたようにふらふらとよろけながら、危うく踏みとどまって目を開くと、倉地が部屋の戸に鍵をかけようとしているところだった。鍵が合わないので、
「糞っ」
と後ろ向きになってつぶやく倉地の声が最後の宣告のように絶望的に低く部屋の中に響いた。
倉地から離れた葉子はさながら母から離れた赤子のように、すべての力が急にどこかに消えてしまうのを感じた。あとに残るものとては底のない、たよりない悲哀ばかりだった。今まで味わって来たすべての悲哀よりもさらに残酷な悲哀が、葉子の胸をかきむしって襲って来た。それは倉地のそこにいるのすら忘れさすくらいだった。葉子はいきなり寝床の上に丸まって倒れた。そしてうつぶしになったまま痙攣的に激しく泣き出した。倉地がその泣き声にちょっとためらって立ったまま見ている間に、葉子は心の中で叫びに叫んだ。
「殺すなら殺すがいい。殺されたっていい。殺されたって憎みつづけてやるからいい。わたしは勝った。なんといっても勝った。こんなに悲しいのをなぜ早く殺してはくれないのだ。この哀しみにいつまでもひたっていたい。早く死んでしまいたい。……」
一六
葉子はほんとうに死の間をさまよい歩いたような不思議な、混乱した感情の狂いに泥酔して、事務長の部屋から足もとも定まらずに自分の船室に戻って来たが、精も根も尽き果ててそのままソファの上にぶっ倒れた。目のまわりに薄黒い暈のできたその顔は鈍い鉛色をして、瞳孔は光に対して調節の力を失っていた。軽く開いたままの口びるからもれる歯並みまでが、光なく、ただ白く見やられて、死を連想させるような醜い美しさが耳の付け根までみなぎっていた。雪解時の泉のように、あらん限りの感情が目まぐるしくわき上がっていたその胸には、底のほうに暗い悲哀がこちん[#「こちん」に傍点]とよどんでいるばかりだった。
葉子はこんな不思議な心の状態からのがれ出ようと、思い出したように頭を働かして見たが、その努力は心にもなくかすかなはかないものだった。そしてその不思議に混乱した心の状態もいわばたえきれぬほどの切なさは持っていなかった。葉子はそんなにしてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と目をさましそうになったり、意識の仮睡に陥ったりした。猛烈な胃痙攣を起こした患者が、モルヒネの注射を受けて、間歇的に起こる痛みのために無意識に顔をしかめながら、麻薬の恐ろしい力の下に、ただ昏々と奇怪な仮睡に陥り込むように、葉子の心は無理無体な努力で時々驚いたように乱れさわぎながら、たちまち物すごい沈滞の淵深く落ちて行くのだった。葉子の意志はいかに手を延ばしても、もう心の落ち行く深みには届きかねた。頭の中は熱を持って、ただぼーと黄色く煙っていた。その黄色い煙の中を時々紅い火や青い火がちかちかと神経をうずかして駆け通った。息気づまるようなけさの光景や、過去のあらゆる回想が、入り乱れて現われて来ても、葉子はそれに対して毛の末ほども心を動かされはしなかった。それは遠い遠い木魂のようにうつろにかすかに響いては消えて行くばかりだった。過去の自分と今の自分とのこれほどな恐ろしい距りを、葉子は恐れげもなく、成るがままに任せて置いて、重くよどんだ絶望的な悲哀にただわけもなくどこまでも引っぱられて行った。その先には暗い忘却が待ち設けていた。涙で重ったまぶたはだんだん打ち開いたままのひとみを蔽って行った。少し開いた口びるの間からは、うめくような軽い鼾がもれ始めた。それを葉子はかすかに意識しながら、ソファの上にうつむきになったまま、いつとはなしに夢もない深い眠りに陥っていた。
どのくらい眠っていたかわからない。突然葉子は心臓でも破裂しそうな驚きに打たれて、はっ[#「はっ」に傍点]と目を開いて頭をもたげた。ずき/\/\と頭の心が痛んで、部屋の中は火のように輝いて面も向けられなかった。もう昼ごろだなと気が付く中にも、雷とも思われる叫喚が船を震わして響き渡っていた。葉子はこの瞬間の不思議に胸をどきつかせながら聞き耳を立てた。船のおののきとも自分のおののきとも知れぬ震動が葉子の五体を木の葉のようにもてあそんだ。しばらくしてその叫喚がややしずまったので、葉子はようやく、横浜を出て以来絶えて用いられなかった汽笛の声である事を悟った。検疫所が近づいたのだなと思って、襟もとをかき合わせながら、静かにソファの上に膝を立てて、眼窓から外面をのぞいて見た。けさまでは雨雲に閉じられていた空も見違えるようにからっ[#「からっ」に傍点]と晴れ渡って、紺青の色の日の光のために奥深く輝いていた。松が自然に美しく配置されて生え茂った岩がかった岸がすぐ目の先に見えて、海はいかにも入り江らしく可憐なさざ波をつらね、その上を絵島丸は機関の動悸を打ちながら徐かに走っていた。幾日の荒々しい海路からここに来て見ると、さすがにそこには人間の隠れ場らしい静かさがあった。
岸の奥まった所に白い壁の小さな家屋が見られた。そのかたわらには英国の国旗が微風にあおられて青空の中に動いていた。「あれが検疫官のいる所なのだ」そう思った意識の活動が始まるや否や、葉子の頭は始めて生まれ代わったようにはっきり[#「はっきり」に傍点]となって行った。そして頭がはっきり[#「はっきり」に傍点]して来るとともに、今まで切り放されていたすべての過去があるべき姿を取って、明瞭に現在の葉子と結び付いた。葉子は過去の回想が今見たばかりの景色からでも来たように驚いて、急いで眼窓から顔を引っ込めて、強敵に襲いかかられた孤軍のように、たじろぎながらまたソファの上に臥倒れた。頭の中は急に叢がり集まる考えを整理するために激しく働き出した。葉子はひとりでに両手で髪の毛の上からこめかみの所を押えた。そして少し上目をつかって鏡のほうを見やりながら、今まで閉止していた乱想の寄せ来るままに機敏にそれを送り迎えようと身構えた。
葉子はとにかく恐ろしい崕のきわまで来てしまった事を、そしてほとんど無反省で、本能に引きずられるようにして、その中に飛び込んだ事を思わないわけには行かなかった。親類縁者に促されて、心にもない渡米を余儀なくされた時に自分で選んだ道――ともかく木村と一緒になろう。そして生まれ代わったつもりで米国の社会にはいりこんで、自分が見つけあぐねていた自分というものを、探り出してみよう。女というものが日本とは違って考えられているらしい米国で、女としての自分がどんな位置にすわる事ができるか試してみよう。自分はどうしても生まるべきでない時代に、生まるべきでない所に生まれて来たのだ。自分の生まるべき時代と所とはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になおっても恥ずかしくないほどの力を持つ事ができるはずなのだ。生きているうちにそこをさがし出したい。自分の周囲にまつわって来ながらいつのまにか自分を裏切って、いつどんな所にでも平気で生きていられるようになり果てた女たちの鼻をあかさしてやろう。若い命を持ったうちにそれだけの事をぜひしてやろう。木村は自分のこの心の企みを助ける事のできる男ではないが、自分のあとについて来られないほどの男でもあるまい。葉子はそんな事も思っていた。日清戦争が起こったころから葉子ぐらいの年配の女が等しく感じ出した一種の不安、一種の幻滅――それを激しく感じた葉子は、謀叛人のように知らず知らず自分のまわりの少女たちにある感情的な教唆を与えていたのだが、自分自身ですらがどうしてこの大事な瀬戸ぎわを乗り抜けるのかは、少しもわからなかった。そのころの葉子は事ごとに自分の境遇が気にくわないでただいらいらしていた。その結果はただ思うままを振る舞って行くよりしかたがなかった。自分はどんな物からもほんとうに訓練されてはいないんだ。そして自分にはどうにでも働く鋭い才能と、女の強味(弱味ともいわばいえ)になるべき優れた肉体と激しい情緒とがあるのだ。そう葉子は知らず知らず自分を見ていた。そこから盲滅法に動いて行った。ことに時代の不思議な目ざめを経験した葉子に取っては恐ろしい敵は男だった。葉子はそのためになんどつまずいたかしれない。しかし、世の中にはほんとうに葉子を扶け起こしてくれる人がなかった。「わたしが悪ければ直すだけの事をして見せてごらん」葉子は世の中に向いてこういい放ってやりたかった。女を全く奴隷の境界に沈め果てた男はもう昔のアダムのように正直ではないんだ。女がじっと[#「じっと」に傍点]している間は慇懃にして見せるが、女が少しでも自分で立ち上がろうとすると、打って変わって恐ろしい暴王になり上がるのだ。女までがおめおめと男の手伝いをしている。葉子は女学校時代にしたたかその苦い杯をなめさせられた。そして十八の時木部孤※[6]に対して、最初の恋愛らしい恋愛の情を傾けた時、葉子の心はもう処女の心ではなくなっていた。外界の圧迫に反抗するばかりに、一時火のように何物をも焼き尽くして燃え上がった仮初めの熱情は、圧迫のゆるむとともにもろくも萎えてしまって、葉子は冷静な批評家らしく自分の恋と恋の相手とを見た。どうして失望しないでいられよう。自分の一生がこの人に縛りつけられてしなびて行くのかと思う時、またいろいろな男にもてあそばれかけて、かえって男の心というものを裏返してとっくり[#「とっくり」に傍点]と見きわめたその心が、木部という、空想の上でこそ勇気も生彩もあれ、実生活においては見下げ果てたほど貧弱で簡単な一書生の心としいて結びつかねばならぬと思った時、葉子は身ぶるいするほど失望して木部と別れてしまったのだ。
葉子のなめたすべての経験は、男に束縛を受ける危険を思わせるものばかりだった。しかしなんという自然のいたずらだろう。それとともに葉子は、男というものなしには一刻も過ごされないものとなっていた。砒石の用法を謬った患者が、その毒の恐ろしさを知りぬきながら、その力を借りなければ生きて行けないように、葉子は生の喜びの源を、まかり違えば、生そのものを虫ばむべき男というものに、求めずにはいられないディレンマに陥ってしまったのだ。
肉欲の牙を鳴らして集まって来る男たちに対して、(そういう男たちが集まって来るのはほんとうは葉子自身がふりまく香いのためだとは気づいていて)葉子は冷笑しながら蜘蛛のように網を張った。近づくものは一人残らずその美しい四つ手網にからめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になっていた。ただあの妖力ある女郎蜘蛛のように、生きていたい要求から毎日その美しい網を四つ手に張った。そしてそれに近づきもし得ないでののしり騒ぐ人たちを、自分の生活とは関係のない木か石ででもあるように冷然と尻目にかけた。
葉子はほんとうをいうと、必要に従うというほかに何をすればいいのかわからなかった。
葉子に取っては、葉子の心持ちを少しも理解していない社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。葉子の目から見た親類という一群れはただ貪欲な賤民としか思えなかった。父はあわれむべく影の薄い一人の男性に過ぎなかった。母は――母はいちばん葉子の身近にいたといっていい。それだけ葉子は母と両立し得ない仇敵のような感じを持った。母は新しい型にわが子を取り入れることを心得てはいたが、それを取り扱う術は知らなかった。葉子の性格が母の備えた型の中で驚くほどするすると生長した時に、母は自分以上の法力を憎む魔女のように葉子の行く道に立ちはだかった。その結果二人の間には第三者から想像もできないような反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘のお陰で曲折のおもしろさと醜さとを加えた。しかしなんといっても母は母だった。正面からは葉子のする事なす事に批点を打ちながらも、心の底でいちばんよく葉子を理解してくれたに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななつかしみを覚えるのだった。
母が死んでからは、葉子は全く孤独である事を深く感じた。そして始終張りつめた心持ちと、失望からわき出る快活さとで、鳥が木から木に果実を探るように、人から人に歓楽を求めて歩いたが、どこからともなく不意に襲って来る不安は葉子を底知れぬ悒鬱の沼に蹴落とした。自分は荒磯に一本流れよった流れ木ではない。しかしその流れ木よりも自分は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯れ葉ではない。しかしその枯れ葉より自分はうらさびしい。こんな生活よりほかにする生活はないのかしらん。いったいどこに自分の生活をじっ[#「じっ」に傍点]と見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子はしみじみ思う事がないでもなかった。けれどもその結果はいつでも失敗だった。葉子はこうしたさびしさに促されて、乳母の家を尋ねたり、突然大塚の内田にあいに行ったりして見るが、そこを出て来る時にはただ一入の心のむなしさが残るばかりだった。葉子は思い余ってまた淫らな満足を求めるために男の中に割ってはいるのだった。しかし男が葉子の目の前で弱味を見せた瞬間に、葉子は驕慢な女王のように、その捕虜から面をそむけて、その出来事を悪夢のように忌みきらった。冒険の獲物はきまりきって取るにも足らないやくざものである事を葉子はしみじみ思わされた。
こんな絶望的な不安に攻めさいなめられながらも、その不安に駆り立てられて葉子は木村という降参人をともかくその良人に選んでみた。葉子は自分がなんとかして木村にそり[#「そり」に傍点]を合わせる努力をしたならば、一生涯木村と連れ添って、普通の夫婦のような生活ができないものでもないと一時思うまでになっていた。しかしそんなつぎはぎ[#「つぎはぎ」に傍点]な考えかたが、どうしていつまでも葉子の心の底を虫ばむ不安をいやす事ができよう。葉子が気を落ち付けて、米国に着いてからの生活を考えてみると、こうあってこそと思い込むような生活には、木村はのけ物になるか、邪魔者になるほかはないようにも思えた。木村と暮らそう、そう決心して船に乗ったのではあったけれども、葉子の気分は始終ぐらつき通しにぐらついていたのだ。手足のちぎれた人形をおもちゃ箱にしまったものか、いっそ捨ててしまったものかと躊躇する少女の心に似たぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]なためらいを葉子はいつまでも持ち続けていた。
そういう時突然葉子の前に現われたのが倉地事務長だった。横浜の桟橋につながれた絵島丸の甲板の上で、始めて猛獣のようなこの男を見た時から、稲妻のように鋭く葉子はこの男の優越を感受した。世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをしている男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生まれて来た人間なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地をあわれみもし畏れもした。今までだれの前に出ても平気で自分の思う存分を振る舞っていた葉子は、この男の前では思わず知らず心にもない矯飾を自分の性格の上にまで加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのとちょうど反対の動作をしていた。無条件的な服従という事も事務長に対してだけはただ望ましい事にばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命は始めてほんとうに燃え上がるのだ。こんな不思議な、葉子にはあり得ない欲望すらが少しも不思議でなく受け入れられた。そのくせ表面では事務長の存在をすら気が付かないように振る舞った。ことに葉子の心を深く傷つけたのは、事務長の物懶げな無関心な態度だった。葉子がどれほど人の心をひきつける事をいった時でも、した時でも、事務長は冷然として見向こうともしなかった事だ。そういう態度に出られると、葉子は、自分の事は棚に上げておいて、激しく事務長を憎んだ。この憎しみの心が日一日と募って行くのを非常に恐れたけれども、どうしようもなかったのだ。
しかし葉子はとうとうけさの出来事にぶっ突かってしまった。葉子は恐ろしい崕のきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の目の前で今まで住んでいた世界はがらっ[#「がらっ」に傍点]と変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは木っ葉みじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事でもする。どんな屈辱でも蜜と思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!
葉子の心はこんなに順序立っていたわけではない。しかし葉子は両手で頭を押えて鏡を見入りながらこんな心持ちを果てしもなくかみしめた。そして追想は多くの迷路をたどりぬいた末に、不思議な仮睡状態に陥る前まで進んで来た。葉子はソファを牝鹿のように立ち上がって、過去と未来とを断ち切った現在刹那のくらむばかりな変身に打ちふるいながらほほえんだ。
その時ろくろくノックもせずに事務長がはいって来た。葉子のただならぬ姿には頓着なく、
「もうすぐ検疫官がやって来るから、さっきの約束を頼みますよ。資本入らずで大役が勤まるんだ。女というものはいいものだな。や、しかしあなたのはだいぶ資本がかかっとるでしょうね。……頼みますよ」と戯談らしくいった。
「はあ」葉子はなんの苦もなく親しみの限りをこめた返事をした。その一声の中には、自分でも驚くほどな蠱惑の力がこめられていた。
事務長が出て行くと、葉子は子供のように足なみ軽く小さな船室の中を小跳りして飛び回った。そして飛び回りながら、髪をほごしにかかって、時々鏡に映る自分の顔を見やりながら、こらえきれないようにぬすみ笑いをした。
一七
事務長のさしがね[#「さしがね」に傍点]はうまい坪にはまった。検疫官は絵島丸の検疫事務をすっかり[#「すっかり」に傍点]年とった次位の医官に任せてしまって、自分は船長室で船長、事務長、葉子を相手に、話に花を咲かせながらトランプをいじり通した。あたりまえならば、なんとかかとか必ず苦情の持ち上がるべき英国風の小やかましい検疫もあっさり[#「あっさり」に傍点]済んで放蕩者らしい血気盛りな検疫官は、船に来てから二時間そこそこできげんよく帰って行く事になった。
停まるともなく進行を止めていた絵島丸は風のまにまに少しずつ方向を変えながら、二人の医官を乗せて行くモーター・ボートが舷側を離れるのを待っていた。折り目正しい長めな紺の背広を着た検疫官はボートの舵座に立ち上がって、手欄から葉子と一緒に胸から上を乗り出した船長となお戯談を取りかわした。船梯子の下まで医官を見送った事務長は、物慣れた様子でポッケットからいくらかを水夫の手につかませておいて、上を向いて相図をすると、船梯子はきり[#「きり」に傍点]きりと水平に巻き上げられて行く、それを事もなげに身軽く駆け上って来た。検疫官の目は事務長への挨拶もそこそこに、思いきり派手な装いを凝らした葉子のほうに吸い付けられるらしかった。葉子はその目を迎えて情をこめた流眄を送り返した。検疫官がその忙しい間にも何かしきりに物をいおうとした時、けたたましい汽笛が一抹の白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からはすさまじい推進機の震動が起こり始めた。このあわただしい船の別れを惜しむように、検疫官は帽子を取って振り動かしながら、噪音にもみ消される言葉を続けていたが、もとより葉子にはそれは聞こえなかった。葉子はただにこにことほほえみながらうなずいて見せた。そしてただ一時のいたずらごころから髪にさしていた小さな造花を投げてやると、それがあわよく検疫官の肩にあたって足もとにすべり落ちた。検疫官が片手に舵綱をあやつりながら、有頂点になってそれを拾おうとするのを見ると、船舷に立ちならんで物珍しげに陸地を見物していたステヤレージの男女の客は一斉に手をたたいてどよめいた。葉子はあたりを見回した。西洋の婦人たちは等しく葉子を見やって、その花々しい服装から軽率らしい挙動を苦々しく思うらしい顔つきをしていた。それらの外国人の中には田川夫人もまじっていた。
検疫官は絵島丸が残して行った白沫の中で、腰をふらつかせながら、笑い興ずる群集にまで幾度も頭を下げた。群集はまた思い出したように漫罵を放って笑いどよめいた。それを聞くと日本語のよくわかる白髪の船長は、いつものように顔を赤くして、気の毒そうに恥ずかしげな目を葉子に送ったが、葉子がはした[#「はした」に傍点]ない群集の言葉にも、苦々しげな船客の顔色にも、少しも頓着しないふうで、ほほえみ続けながらモーター・ボートのほうを見守っているのを見ると、未通女らしくさらにまっ赤になってその場をはずしてしまった。
葉子は何事も屈託なくただおもしろかった。からだじゅうをくすぐるような生の歓びから、ややもするとなんでもなく微笑が自然に浮かび出ようとした。「けさから私はこんなに生まれ代わりました御覧なさい」といってだれにでも自分の喜びを披露したいような気分になっていた。検疫官の官舎の白い壁も、そのほうに向かって走って行くモーター・ボートも見る見る遠ざかって小さな箱庭のようになった時、葉子は船長室でのきょうの思い出し笑いをしながら、手欄を離れて心あてに事務長を目で尋ねた。と、事務長は、はるか離れた船艙の出口に田川夫妻と鼎になって、何かむずかしい顔をしながら立ち話をしていた。いつもの葉子ならば三人の様子で何事が語られているかぐらいはすぐ見て取るのだが、その日はただ浮き浮きした無邪気な心ばかりが先に立って、だれにでも好意のある言葉をかけて、同じ言葉で酬いられたい衝動に駆られながら、なんの気なしにそっちに足を向けようとして、ふと気がつくと、事務長が「来てはいけない」と激しく目に物を言わせているのが覚れた。気が付いてよく見ると田川夫人の顔にはまごうかたなき悪意がひらめいていた。
「またおせっかいだな」
一秒の躊躇もなく男のような口調で葉子はこう小さくつぶやいた。「構うものか」そう思いながら葉子は事務長の目使いにも無頓着に、快活な足どりでいそいそと田川夫妻のほうに近づいて行った。それを事務長もどうすることもできなかった。葉子は三人の前に来ると軽く腰をまげて後れ毛をかき上げながら顔じゅうを蠱惑的なほほえみにして挨拶した。田川博士の頬にはいち早くそれに応ずる物やさしい表情が浮かぼうとしていた。
「あなたはずいぶんな乱暴をなさる方ですのね」
いきなり震えを帯びた冷ややかな言葉が田川夫人から葉子に容赦もなく投げつけられた。それは底意地の悪い挑戦的な調子で震えていた。田川博士はこのとっさの気まずい場面を繕うため何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめようとするらしかったが、夫人の悪意はせき立って募るばかりだった。しかし夫人は口に出してはもうなんにもいわなかった。
女の間に起こる不思議な心と心との交渉から、葉子はなんという事なく、事務長と自分との間にけさ起こったばかりの出来事を、輪郭だけではあるとしても田川夫人が感づいているなと直覚した。ただ一言ではあったけれども、それは検疫官とトランプをいじった事を責めるだけにしては、激し過ぎ、悪意がこめられ過ぎていることを直覚した。今の激しい言葉は、その事を深く根に持ちながら、検疫医に対する不謹慎な態度をたしなめる言葉のようにして使われているのを直覚した。葉子の心のすみからすみまでを、溜飲の下がるような小気味よさが小おどりしつつ走せめぐった。葉子は何をそんなに事々しくたしなめられる事があるのだろうというような少ししゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあした無邪気な顔つきで、首をかしげながら夫人を見守った。
「航海中はとにかくわたし葉子さんのお世話をお頼まれ申しているんですからね」
初めはしとやかに落ち付いていうつもりらしかったが、それがだんだん激して途切れがちな言葉になって、夫人はしまいには激動から息気をさえはずましていた。その瞬間に火のような夫人のひとみと、皮肉に落ち付き払った葉子のひとみとが、ぱったり出っくわして小ぜり合いをしたが、また同時に蹴返すように離れて事務長のほうに振り向けられた。
「ごもっともです」
事務長は虻に当惑した熊のような顔つきで、柄にもない謹慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情に返って、
「わたしも事務長であって見れば、どのお客様に対しても責任があるのだで、御迷惑になるような事はせんつもりですが」
ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこし出した。
「そうむきになるほどの事でもないじゃありませんか。たかが早月さんに一度か二度愛嬌をいうていただいて、それで検疫の時間が二時間から違うのですもの。いつでもここで四時間の以上もむだにせにゃならんのですて」
田川夫人がますますせき込んで、矢継ぎ早にまくしかけようとするのを、事務長は事もなげに軽々とおっかぶせて、
「それにしてからがお話はいかがです、部屋で伺いましょうか。ほかのお客様の手前もいかがです。博士、例のとおり狭っこい所ですが、甲板ではゆっくりもできませんで、あそこでお茶でも入れましょう。早月さんあなたもいかがです」
と笑い笑い言ってからくるりッ[#「くるりッ」に傍点]と葉子のほうに向き直って、田川夫妻には気が付かないように頓狂な顔をちょっとして見せた。
横浜で倉地のあとに続いて船室への階子段を下る時始めて嗅ぎ覚えたウイスキーと葉巻とのまじり合ったような甘たるい一種の香いが、この時かすかに葉子の鼻をかすめたと思った。それをかぐと葉子の情熱のほむらが一時にあおり立てられて、人前では考えられもせぬような思いが、旋風のごとく頭の中をこそいで通るのを覚えた。男にはそれがどんな印象を与えたかを顧みる暇もなく、田川夫妻の前ということもはばからずに、自分では醜いに違いないと思うような微笑が、覚えず葉子の眉の間に浮かび上がった。事務長は小むずかしい顔になって振り返りながら、
「いかがです」ともう一度田川夫妻を促した。しかし田川博士は自分の妻のおとなげないのをあわれむ物わかりのいい紳士という態度を見せて、態よく事務長にことわりをいって、夫人と一緒にそこを立ち去った。
「ちょっといらっしゃい」
田川夫妻の姿が見えなくなると、事務長はろくろく葉子を見むきもしないでこういいながら先に立った。葉子は小娘のようにいそいそとそのあとについて、薄暗い階子段にかかると男におぶいかかるようにしてこぜわしく降りて行った。そして機関室と船員室との間にある例の暗い廊下を通って、事務長が自分の部屋の戸をあけた時、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と明るくなった白い光の中に、nonchalant な diabolic な男の姿を今さらのように一種の畏れとなつかしさとをこめて打ちながめた。
部屋にはいると事務長は、田川夫人の言葉でも思い出したらしくめんどうくさそうに吐息一つして、帳簿を事務テーブルの上にほうりなげておいて、また戸から頭だけつき出して、「ボーイ」と大きな声で呼び立てた。そして戸をしめきると、始めてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子に向きなおった。そして腹をゆすり上げて続けさまに思い存分笑ってから、
「え」と大きな声で、半分は物でも尋ねるように、半分は「どうだい」といったような調子でいって、足を開いて akimbo をして突っ立ちながら、ちょいと無邪気に首をかしげて見せた。
そこにボーイが戸の後ろから顔だけ出した。
「シャンペンだ。船長の所にバーから持って来さしたのが、二三本残ってるよ。十の字三つぞ(大至急という軍隊用語)。……何がおかしいかい」
事務長は葉子のほうを向いたままこういったのであるが、実際その時ボーイは意味ありげににやにや[#「にやにや」に傍点]薄笑いをしていた。
あまりに事もなげな倉地の様子を見ていると葉子は自分の心の切なさに比べて、男の心を恨めしいものに思わずにいられなくなった。けさの記憶のまだ生々しい部屋の中を見るにつけても、激しく嵩ぶって来る情熱が妙にこじれて、いても立ってもいられないもどかしさが苦しく胸に逼るのだった。今まではまるきり眼中になかった田川夫人も、三等の女客の中で、処女とも妻ともつかぬ二人の二十女も、果ては事務長にまつわりつくあの小娘のような岡までが、写真で見た事務長の細君と一緒になって、苦しい敵意を葉子の心にあおり立てた。ボーイにまで笑いものにされて、男の皮を着たこの好色の野獣のなぶりものにされているのではないか。自分の身も心もただ一息にひしぎつぶすかと見えるあの恐ろしい力は、自分を征服すると共にすべての女に対しても同じ力で働くのではないか。そのたくさんの女の中の影の薄い一人の女として彼は自分を扱っているのではないか。自分には何物にも代え難く思われるけさの出来事があったあとでも、ああ平気でいられるそののんきさはどうしたものだろう。葉子は物心がついてから始終自分でも言い現わす事のできない何物かを逐い求めていた。その何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかり[#「しっかり」に傍点]とつかむ事はどうしてもできず、そのくせいつでもその力の下に傀儡のようにあてもなく動かされていた。葉子はけさの出来事以来なんとなく思いあがっていたのだ。それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。しかしそれも今から思えば幻影に過ぎないらしくもある。自分に特別な注意も払っていなかったこの男の出来心に対して、こっちから進んで情をそそるような事をした自分はなんという事をしたのだろう。どうしたらこの取り返しのつかない自分の破滅を救う事ができるのだろうと思って来ると、一秒でもこのいまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。しかし同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついていた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらい事だった。どうしてもはっきり[#「はっきり」に傍点]と事務長の心を握るまでは……葉子は自分の心の矛盾に業を煮やしながら、自分をさげすみ果てたような絶望的な怒りの色を口びるのあたりに宿して、黙ったまま陰鬱に立っていた。今までそわそわと小魔のように葉子の心をめぐりおどっていたはなやかな喜び――それはどこに行ってしまったのだろう。
事務長はそれに気づいたのか気がつかないのか、やがてよりかかりのないまるい事務いすに尻をすえて、子供のような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を見て、恐ろしい大胆な悪事を赤児同様の無邪気さで犯しうる質の男だと思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつ先を越されているのかしらんという不安までが心の平衡をさらに狂わした。
「田川博士は馬鹿ばかで、田川の奥さんは利口ばかというんだ。はゝゝゝゝ」
そういって笑って、事務長は膝がしらをはっし[#「はっし」に傍点]と打った手をかえして、机の上にある葉巻をつまんだ。
葉子は笑うよりも腹だたしく、腹だたしいよりも泣きたいくらいになっていた。口びるをぶるぶると震わしながら涙でもたまったように輝く目は剣を持って、恨みをこめて事務長を見入ったが、事務長は無頓着に下を向いたまま、一心に葉巻に火をつけている。葉子は胸に抑えあまる恨みつらみをいい出すには、心があまりに震えて喉がかわききっているので、下くちびるをかみしめたまま黙っていた。
倉地はそれを感づいているのだのにと葉子は置きざりにされたようなやり所のないさびしさを感じていた。
ボーイがシャンペンとコップとを持ってはいって来た。そして丁寧にそれを事務テーブルの上に置いて、さっきのように意味ありげな微笑をもらしながら、そっ[#「そっ」に傍点]と葉子をぬすみ見た。待ち構えていた葉子の目はしかしボーイを笑わしてはおかなかった。ボーイはぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として飛んでもない事をしたというふうに、すぐ慎み深い給仕らしく、そこそこに部屋を出て行った。
事務長は葉巻の煙に顔をしかめながら、シャンペンをついで盆を葉子のほうにさし出した。葉子は黙って立ったまま手を延ばした。何をするにも心にもない作り事をしているようだった。この短い瞬間に、今までの出来事でいいかげん乱れていた心は、身の破滅がとうとう来てしまったのだというおそろしい予想に押しひしがれて、頭は氷で巻かれたように冷たく気うとくなった。胸から喉もとにつきあげて来る冷たいそして熱い球のようなものを雄々しく飲み込んでも飲み込んでも涙がややともすると目がしらを熱くうるおして来た。薄手のコップに泡を立てて盛られた黄金色の酒は葉子の手の中で細かいさざ波を立てた。葉子はそれを気取られまいと、しいて左の手を軽くあげて鬢の毛をかき上げながら、コップを事務長のと打ち合わせたが、それをきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に願でもほどけたように今までからく持ちこたえていた自制は根こそぎくずされてしまった。
事務長がコップを器用に口びるにあてて、仰向きかげんに飲みほす間、葉子は杯を手にもったまま、ぐびりぐびりと動く男の喉を見つめていたが、いきなり自分の杯を飲まないまま盆の上にかえして、
「よくもあなたはそんなに平気でいらっしゃるのね」
と力をこめるつもりでいったその声はいくじなくも泣かんばかりに震えていた。そして堰を切ったように涙が流れ出ようとするのを糸切り歯でかみきるばかりにしいてくいとめた。
事務長は驚いたらしかった。目を大きくして何かいおうとするうちに、葉子の舌は自分でも思い設けなかった情熱を帯びて震えながら動いていた。
「知っています。知っていますとも……。あなたはほんとに……ひどい方ですのね。わたしなんにも知らないと思ってらっしゃるのね。えゝ、わたしは存じません、存じません、ほんとに……」
何をいうつもりなのか自分でもわからなかった。ただ激しい嫉妬が頭をぐらぐらさせるばかりに嵩じて来るのを知っていた。男がある機会には手傷も負わないで自分から離れて行く……そういういまいましい予想で取り乱されていた。葉子は生来こんなみじめなまっ暗な思いに捕えられた事がなかった。それは生命が見す見す自分から離れて行くのを見守るほどみじめでまっ暗だった。この人を自分から離れさすくらいなら殺してみせる、そう葉子はとっさに思いつめてみたりした。
葉子はもう我慢にもそこに立っていられなくなった。事務長に倒れかかりたい衝動をしいてじっとこらえながら、きれいに整えられた寝台にようやく腰をおろした。美妙な曲線を長く描いてのどかに開いた眉根は痛ましく眉間に集まって、急にやせたかと思うほど細った鼻筋は恐ろしく感傷的な痛々しさをその顔に与えた。いつになく若々しく装った服装までが、皮肉な反語のように小股の切れあがったやせ形なその肉を痛ましく虐げた。長い袖の下で両手の指を折れよとばかり組み合わせて、何もかも裂いて捨てたいヒステリックな衝動を懸命に抑えながら、葉子は唾も飲みこめないほど狂おしくなってしまっていた。
事務長は偶然に不思議を見つけた子供のような好奇なあきれた顔つきをして、葉子の姿を見やっていたが、片方のスリッパを脱ぎ落としたその白足袋の足もとから、やや乱れた束髪までをしげしげと見上げながら、
「どうしたんです」
といぶかるごとく聞いた。葉子はひったくるようにさそく[#「さそく」に傍点]に返事をしようとしたけれども、どうしてもそれができなかった。倉地はその様子を見ると今度はまじめになった。そして口の端まで持って行った葉巻をそのままトレイの上に置いて立ち上がりながら、
「どうしたんです」
ともう一度聞きなおした。それと同時に、葉子も思いきり冷酷に、
「どうもしやしません」
という事ができた。二人の言葉がもつれ返ったように、二人の不思議な感情ももつれ合った。もうこんな所にはいない、葉子はこの上の圧迫には堪えられなくなって、はなやかな裾を蹴乱しながらまっしぐらに戸口のほうに走り出ようとした。事務長はその瞬間に葉子のなよやかな肩をさえぎりとめた。葉子はさえぎられて是非なく事務テーブルのそばに立ちすくんだが、誇りも恥も弱さも忘れてしまっていた。どうにでもなれ、殺すか死ぬかするのだ、そんな事を思うばかりだった。こらえにこらえていた涙を流れるに任せながら、事務長の大きな手を肩に感じたままで、しゃくり上げて恨めしそうに立っていたが、手近に飾ってある事務長の家族の写真を見ると、かっと気がのぼせて前後のわきまえもなく、それを引ったくるとともに両手にあらん限りの力をこめて、人殺しでもするような気負いでずた[#「ずた」に傍点]ずたに引き裂いた。そしてもみくたになった写真の屑を男の胸も透れと投げつけると、写真のあたったその所にかみつきもしかねまじき狂乱の姿となって、捨て身に武者ぶりついた。事務長は思わず身を退いて両手を伸ばして走りよる葉子をせき止めようとしたが、葉子はわれにもなく我武者にすり入って、男の胸に顔を伏せた。そして両手で肩の服地を爪も立てよとつかみながら、しばらく歯をくいしばって震えているうちに、それがだんだんすすり泣きに変わって行って、しまいににはさめざめと声を立てて泣きはじめた。そしてしばらくは葉子の絶望的な泣き声ばかりが部屋の中の静かさをかき乱して響いていた。
突然葉子は倉地の手を自分の背中に感じて、電気にでも触れたように驚いて飛びのいた。倉地に泣きながらすがりついた葉子が倉地からどんなものを受け取らねばならぬかは知れきっていたのに、優しい言葉でもかけてもらえるかのごとく振る舞った自分の矛盾にあきれて、恐ろしさに両手で顔をおおいながら部屋のすみに退って行った。倉地はすぐ近寄って来た。葉子は猫に見込まれたカナリヤのように身もだえしながら部屋の中を逃げにかかったが、事務長は手もなく追いすがって、葉子の二の腕を捕えて力まかせに引き寄せた。葉子も本気にあらん限りの力を出してさからった。しかしその時の倉地はもうふだんの倉地ではなくなっていた。けさ写真を見ていた時、後ろから葉子を抱きしめたその倉地が目ざめていた。怒った野獣に見る狂暴な、防ぎようのない力があらしのように男の五体をさいなむらしく、倉地はその力の下にうめきもがきながら、葉子にまっしぐらにつかみかかった。
「またおれをばかにしやがるな」
という言葉がくいしばった歯の間から雷のように葉子の耳を打った。
あゝこの言葉――このむき出しな有頂点な興奮した言葉こそ葉子が男の口から確かに聞こうと待ち設けた言葉だったのだ。葉子は乱暴な抱擁の中にそれを聞くとともに、心のすみに軽い余裕のできたのを感じて自分というものがどこかのすみに頭をもたげかけたのを覚えた。倉地の取った態度に対して作為のある応対ができそうにさえなった。葉子は前どおりすすり泣きを続けてはいたが、その涙の中にはもう偽りのしずくすらまじっていた。
「いやです放して」
こういった言葉も葉子にはどこか戯曲的な不自然な言葉だった。しかし倉地は反対に葉子の一語一語に酔いしれて見えた。
「だれが離すか」
事務長の言葉はみじめにもかすれおののいていた。葉子はどんどん失った所を取り返して行くように思った。そのくせその態度は反対にますますたよりなげなやる瀬ないものになっていた。倉地の広い胸と太い腕との間に羽がいに抱きしめられながら、小鳥のようにぶるぶると震えて、
「ほんとうに離してくださいまし」
「いやだよ」
葉子は倉地の接吻を右に左によけながら、さらに激しくすすり泣いた。倉地は致命傷を受けた獣のようにうめいた。その腕には悪魔のような血の流れるのが葉子にも感ぜられた。葉子は程を見計らっていた。そして男の張りつめた情欲の糸が絶ち切れんばかりに緊張した時、葉子はふと泣きやんできっ[#「きっ」に傍点]と倉地の顔を振り仰いだ。その目からは倉地が思いもかけなかった鋭い強い光が放たれていた。
「ほんとうに放していただきます」
ときっぱり[#「きっぱり」に傍点]いって、葉子は機敏にちょっとゆるんだ倉地の手をすりぬけた。そしていち早く部屋を横筋かいに戸口まで逃げのびて、ハンドルに手をかけながら、
「あなたはけさこの戸に鍵をおかけになって、……それは手籠めです……わたし……」
といって少し情に激してうつむいてまた何かいい続けようとするらしかったが、突然戸をあけて出て行ってしまった。
取り残された倉地はあきれてしばらく立っているようだったが、やがて英語で乱暴な呪詛を口走りながら、いきなり部屋を出て葉子のあとを追って来た。そしてまもなく葉子の部屋の所に来てノックした。葉子は鍵をかけたまま黙って答えないでいた。事務長はなお二三度ノックを続けていたが、いきなり何か大声で物をいいながら船医の興録の部屋にはいるのが聞こえた。
葉子は興録が事務長のさしがね[#「さしがね」に傍点]でなんとかいいに来るだろうとひそかに心待ちにしていた。ところがなんともいって来ないばかりか、船医室からは時々あたりをはばからない高笑いさえ聞こえて、事務長は容易にその部屋を出て行きそうな気配もなかった。葉子は興奮に燃え立ついらいらした心でそこにいる事務長の姿をいろいろ想像していた。ほかの事は一つも頭の中にははいって来なかった。そしてつくづく自分の心の変わりかたの激しさに驚かずにはいられなかった。「定子! 定子!」葉子は隣にいる人を呼び出すような気で小さな声を出してみた。その最愛の名を声にまで出してみても、その響きの中には忘れていた夢を思い出したほどの反応もなかった。どうすれば人の心というものはこんなにまで変わり果てるものだろう。葉子は定子をあわれむよりも、自分の心をあわれむために涙ぐんでしまった。そしてなんの気なしに小卓の前に腰をかけて、大切なものの中にしまっておいた、そのころ日本では珍しいファウンテン・ペンを取り出して、筆の動くままにそこにあった紙きれに字を書いてみた。
[#ここより引用文、本文より一字下げ]
「女の弱き心につけ入りたもうはあまりに酷きお心とただ恨めしく存じ参らせ候妾の運命はこの船に結ばれたる奇しきえにしや候いけん心がらとは申せ今は過去のすべて未来のすべてを打ち捨ててただ目の前の恥ずかしき思いに漂うばかりなる根なし草の身となり果て参らせ候を事もなげに見やりたもうが恨めしく恨めしく死」
[#引用文ここまで]
となんのくふうもなく、よく意味もわからないで一瀉千里に書き流して来たが、「死」という字に来ると、葉子はペンも折れよといらいらしくその上を塗り消した。思いのままを事務長にいってやるのは、思い存分自分をもてあそべといってやるのと同じ事だった。葉子は怒りに任せて余白を乱暴にいたずら書きでよごしていた。
と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて来た。葉子はわれにもなく頭を上げて、しばらく聞き耳を立ててから、そっ[#「そっ」に傍点]と戸口に歩み寄ったが、あとはそれなりまた静かになった。
葉子は恥ずかしげに座に戻った。そして紙の上に思い出すままに勝手な字を書いたり、形の知れない形を書いてみたりしながら、ずきん[#「ずきん」に傍点]ずきんと痛む頭をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と肘をついた片手で押えてなんという事もなく考えつづけた。
念が届けば木村にも定子にもなんの用があろう。倉地の心さえつかめばあとは自分の意地一つだ。そうだ。念が届かなければ……念が届かなければ……届かなければあらゆるものに用がなくなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。……どうして……私はどうして……けれども……葉子はいつのまにか純粋に感傷的になっていた。自分にもこんなおぼこ[#「おぼこ」に傍点]な思いが潜んでいたかと思うと、抱いてなでさすってやりたいほど自分がかわゆくもあった。そして木部と別れて以来絶えて味わわなかったこの甘い情緒に自分からほだされおぼれて、心中でもする人のような、恋に身をまかせる心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。
やがて酔いつぶれた人のように頭をもたげた時は、とうに日がかげって部屋の中にははなやかに電燈がともっていた。
いきなり船医の部屋の戸が乱暴に開かれる音がした。葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。その時葉子の部屋の戸にどたり[#「どたり」に傍点]と突きあたった人の気配がして、「早月さん」と濁って塩がれた事務長の声がした。葉子は身のすくむような衝動を受けて、思わず立ち上がってたじろぎながら部屋のすみに逃げかくれた。そしてからだじゅうを耳のようにしていた。
「早月さんお願いだ。ちょっとあけてください」
葉子は手早く小机の上の紙を屑かごになげすてて、ファウンテン・ペンを物陰にほうりこんだ。そしてせかせかとあたりを見回したが、あわてながら眼窓のカーテンをしめきった。そしてまた立ちすくんだ、自分の心の恐ろしさにまどいながら。
外部では握り拳で続けさまに戸をたたいている。葉子はそわそわと裾前をかき合わせて、肩越しに鏡を見やりながら涙をふいて眉をなでつけた。
「早月さん!![#「!!」は横一列]」
葉子はややしばしとつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]躊躇していたが、とうとう決心して、何かあわてくさって、鍵をがちがち[#「がちがち」に傍点]やりながら戸をあけた。
事務長はひどく酔ってはいって来た。どんなに飲んでも顔色もかえないほどの強酒な倉地が、こんなに酔うのは珍しい事だった。締めきった戸に仁王立ちによりかかって、冷然とした様子で離れて立つ葉子をまじまじと見すえながら、
「葉子さん、葉子さんが悪ければ早月さんだ。早月さん……僕のする事はするだけの覚悟があってするんですよ。僕はね、横浜以来あなたに惚れていたんだ。それがわからないあなたじゃないでしょう。暴力? 暴力がなんだ。暴力は愚かなこった。殺したくなれば殺しても進んぜるよ」
葉子はその最後の言葉を聞くと瞑眩を感ずるほど有頂天になった。
「あなたに木村さんというのが付いてるくらいは、横浜の支店長から聞かされとるんだが、どんな人だか僕はもちろん知りませんさ。知らんが僕のほうがあなたに深惚れしとる事だけは、この胸三寸でちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知っとるんだ。それ、それがわからん? 僕は恥も何もさらけ出していっとるんですよ。これでもわからんですか」
葉子は目をかがやかしながら、その言葉をむさぼった。かみしめた。そしてのみ込んだ。
こうして葉子に取って運命的な一日は過ぎた。
一八
その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟橋に"Car to the Town.Fare 15¢"と大きな白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の眼窓から見やられた。米国への上陸が禁ぜられているシナの苦力がここから上陸するのと、相当の荷役とで、船の内外は急に騒々しくなった。事務長は忙しいと見えてその夜はついに葉子の部屋に顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなればなるほど葉子はたとえようのない平和を感じた。生まれて以来、葉子は生に固着した不安からこれほどまできれいに遠ざかりうるものとは思いも設けていなかった。しかもそれが空疎な平和ではない。飛び立っておどりたいほどの ecstasy を苦もなく押えうる強い力の潜んだ平和だった。すべての事に飽き足った人のように、また二十五年にわたる長い苦しい戦いに始めて勝って兜を脱いだ人のように、心にも肉にも快い疲労を覚えて、いわばその疲れを夢のように味わいながら、なよなよとソファに身を寄せて灯火を見つめていた。倉地がそこにいないのが浅い心残りだった。けれどもなんといっても心安かった。ともすれば微笑が口びるの上をさざ波のようにひらめき過ぎた。
けれどもその翌日から一等船客の葉子に対する態度は手のひらを返したように変わってしまった。一夜の間にこれほどの変化をひき起こす事のできる力を、葉子は田川夫人のほかに想像し得なかった。田川夫人が世に時めく良人を持って、人の目に立つ交際をして、女盛りといい条、もういくらか下り坂であるのに引きかえて、どんな人の配偶にしてみても恥ずかしくない才能と容貌とを持った若々しい葉子のたよりなげな身の上とが、二人に近づく男たちに同情の軽重を起こさせるのはもちろんだった。しかし道徳はいつでも田川夫人のような立場にある人の利器で、夫人はまたそれを有利に使う事を忘れない種類の人であった。そして船客たちの葉子に対する同情の底に潜む野心――はかない、野心ともいえないほどの野心――もう一ついい換ゆれば、葉子の記憶に親切な男として、勇悍な男として、美貌な男として残りたいというほどな野心――に絶望の断定を与える事によって、その同情を引っ込めさせる事のできるのも夫人は心得ていた。事務長が自己の勢力範囲から離れてしまった事も不快の一つだった。こんな事から事務長と葉子との関係は巧妙な手段でいち早く船中に伝えられたに違いない。その結果として葉子はたちまち船中の社交から葬られてしまった。少なくとも田川夫人の前では、船客の大部分は葉子に対して疎々しい態度をして見せるようになった。中にもいちばんあわれなのは岡だった。だれがなんと告げ口したのか知らないが、葉子が朝おそく目をさまして甲板に出て見ると、いつものように手欄によりかかって、もう内海になった波の色をながめていた彼は、葉子の姿を認めるや否や、ふいとその場をはずして、どこへか影を隠してしまった。それからというもの、岡はまるで幽霊のようだった。船の中にいる事だけは確かだが、葉子がどうかしてその姿を見つけたと思うと、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。そのくせ葉子は思わぬ時に、岡がどこかで自分を見守っているのを確かに感ずる事がたびたびだった。葉子はその岡をあわれむ事すらもう忘れていた。
結句船の中の人たちから度外視されるのを気安い事とまでは思わないでも、葉子はかかる結果にはいっこう無頓着だった。もう船はきょうシヤトルに着くのだ。田川夫人やそのほかの船客たちのいわゆる「監視」の下に苦々しい思いをするのもきょう限りだ。そう葉子は平気で考えていた。
しかし船がシヤトルに着くという事は、葉子にほかの不安を持ちきたさずにはおかなかった。シカゴに行って半年か一年木村と連れ添うほかはあるまいとも思った。しかし木部の時でも二か月とは同棲していなかったとも思った。倉地と離れては一日でもいられそうにはなかった。しかしこんな事を考えるには船がシヤトルに着いてからでも三日や四日の余裕はある。倉地はその事は第一に考えてくれているに違いない。葉子は今の平和をしいてこんな問題でかき乱す事を欲しなかったばかりでなくとてもできなかった。
葉子はそのくせ、船客と顔を見合わせるのが不快でならなかったので、事務長に頼んで船橋に上げてもらった。船は今瀬戸内のような狭い内海を動揺もなく進んでいた。船長はビクトリアで傭い入れた水先案内と二人ならんで立っていたが、葉子を見るといつものとおり顔をまっ赤にしながら帽子を取って挨拶した。ビスマークのような顔をして、船長より一がけも二がけも大きい白髪の水先案内はふと振り返ってじっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見たが、そのまま向き直って、
「Charmin' little lassie ! wha' is that ?」
とスコットランド風な強い発音で船長に尋ねた。葉子にはわからないつもりでいったのだ。船長があわてて何かささやくと、老人はからからと笑ってちょっと首を引っ込ませながら、もう一度振り返って葉子を見た。
その毒気なくからからと笑う声が、恐ろしく気に入ったばかりでなく、かわいて晴れ渡った秋の朝の空となんともいえない調和をしていると思いながら葉子は聞いた。そしてその老人の背中でもなでてやりたいような気になった。船は小動ぎもせずにアメリカ松の生え茂った大島小島の間を縫って、舷側に来てぶつかるさざ波の音ものどかだった。そして昼近くなってちょっとした岬をくるり[#「くるり」に傍点]と船がかわすと、やがてポート・タウンセンドに着いた。そこでは米国官憲の検査が型ばかりあるのだ。くずした崕の土で埋め立てをして造った、桟橋まで小さな漁村で、四角な箱に窓を明けたような、生々しい一色のペンキで塗り立てた二三階建ての家並みが、けわしい斜面に沿うて、高く低く立ち連なって、岡の上には水上げの風車が、青空に白い羽根をゆるゆる動かしながら、かったんこっとん[#「かったんこっとん」に傍点]とのんきらしく音を立てて回っていた。鴎が群れをなして猫に似た声でなきながら、船のまわりを水に近くのどかに飛び回るのを見るのも、葉子には絶えて久しい物珍しさだった。飴屋の呼び売りのような声さえ町のほうから聞こえて来た。葉子はチャート・ルームの壁にもたれかかって、ぽかぽかとさす秋の日の光を頭から浴びながら、静かな恵み深い心で、この小さな町の小さな生活の姿をながめやった。そして十四日の航海の間に、いつのまにか海の心を心としていたのに気がついた。放埒な、移り気な、想像も及ばぬパッションにのたうち回ってうめき悩むあの大海原――葉子は失われた楽園を慕い望むイヴのように、静かに小さくうねる水の皺を見やりながら、はるかな海の上の旅路を思いやった。
「早月さん、ちょっとそこからでいい、顔を貸してください」
すぐ下で事務長のこういう声が聞こえた。葉子は母に呼び立てられた少女のように、うれしさに心をときめかせながら、船橋の手欄から下を見おろした。そこに事務長が立っていた。
「One more over there,look!」
こういいながら、米国の税関吏らしい人に葉子を指さして見せた。官吏はうなずきながら手帳に何か書き入れた。
船はまもなくこの漁村を出発したが、出発するとまもなく事務長は船橋にのぼって来た。
「Here we are! Seatle is as good as reached now.」
船長にともなく葉子にともなくいって置いて、水先案内と握手しながら、
「Thanks to you.」
と付け足した。そして三人でしばらく快活に四方山の話をしていたが、ふと思い出したように葉子を顧みて、
「これからまた当分は目が回るほど忙しくなるで、その前にちょっと御相談があるんだが、下に来てくれませんか」
といった。葉子は船長にちょっと挨拶を残して、すぐ事務長のあとに続いた。階子段を降りる時でも、目の先に見える頑丈な広い肩から一種の不安が抜け出て来て葉子に逼る事はもうなかった。自分の部屋の前まで来ると、事務長は葉子の肩に手をかけて戸をあけた。部屋の中には三四人の男が濃く立ちこめた煙草の煙の中に所狭く立ったり腰をかけたりしていた。そこには興録の顔も見えた。事務長は平気で葉子の肩に手をかけたままはいって行った。
それは始終事務長や船医と一かたまりのグループを作って、サルンの小さなテーブルを囲んでウイスキーを傾けながら、時々他の船客の会話に無遠慮な皮肉や茶々を入れたりする連中だった。日本人が着るといかにもいや味に見えるアメリカ風の背広も、さして取ってつけたようには見えないほど、太平洋を幾度も往来したらしい人たちで、どんな職業に従事しているのか、そういう見分けには人一倍鋭敏な観察力を持っている葉子にすら見当がつかなかった。葉子がはいって行っても、彼らは格別自分たちの名前を名乗るでもなく、いちばん安楽な椅子に腰かけていた男が、それを葉子に譲って、自分は二つに折れるように小さくなって、すでに一人腰かけている寝台に曲がりこむと、一同はその様子に声を立てて笑ったが、すぐまた前どおり平気な顔をして勝手な口をきき始めた。それでも一座は事務長には一目置いているらしく、また事務長と葉子との関係も、事務長から残らず聞かされている様子だった。葉子はそういう人たちの間にあるのを結句気安く思った。彼らは葉子を下級船員のいわゆる「姉御」扱いにしていた。
「向こうに着いたらこれで悶着ものだぜ。田川の嚊め、あいつ、一味噌すらずにおくまいて」
「因業な生まれだなあ」
「なんでも正面からぶっ突かって、いさくさいわせず決めてしまうほかはないよ」
などと彼らは戯談ぶった口調で親身な心持ちをいい現わした。事務長は眉も動かさずに、机によりかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録のほかに三人いた。その中の一人は甲斐絹のどてら[#「どてら」に傍点]を着ていた。
「このままこの船でお帰りなさるがいいね」
とそのどてら[#「どてら」に傍点]を着た中年の世渡り巧者らしいのが葉子の顔を窺い窺いいうと、事務長は少し屈託らしい顔をして物懶げに葉子を見やりながら、
「わたしもそう思うんだがどうだ」
とたずねた。葉子は、
「さあ……」
と生返事をするほかなかった。始めて口をきく幾人もの男の前で、とっかは[#「とっかは」に傍点]物をいうのがさすがに億劫だった。興録は事務長の意向を読んで取ると、分別ぶった顔をさし出して、
「それに限りますよ。あなた一つ病気におなりなさりゃ世話なしですさ。上陸したところが急に動くようにはなれない。またそういうからだでは検疫がとやかくやかましいに違いないし、この間のように検疫所でまっ裸にされるような事でも起これば、国際問題だのなんだのって始末におえなくなる。それよりは出帆まで船に寝ていらっしゃるほうがいいと、そこは私が大丈夫やりますよ。そしておいて船の出ぎわになってやはりどうしてもいけないといえばそれっきりのもんでさあ」
「なに、田川の奥さんが、木村っていうのに、味噌さえしこたますってくれればいちばんええのだが」
と事務長は船医の言葉を無視した様子で、自分の思うとおりをぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]にいってのけた。
木村はそのくらいな事で葉子から手を引くようなはきはきした気象の男ではない。これまでもずいぶんいろいろなうわさが耳にはいったはずなのに「僕はあの女の欠陥も弱点もみんな承知している。私生児のあるのももとより知っている。ただ僕はクリスチャンである以上、なんとでもして葉子を救い上げる。救われた葉子を想像してみたまえ。僕はその時いちばん理想的な better half を持ちうると信じている」といった事を聞いている。東北人のねんじりむっつり[#「ねんじりむっつり」に傍点]したその気象が、葉子には第一我慢のしきれない嫌悪の種だったのだ。
葉子は黙ってみんなのいう事を聞いているうちに、興録の軍略がいちばん実際的だと考えた。そしてなれなれしい調子で興録を見やりながら、
「興録さん、そうおっしゃればわたし仮病じゃないんですの。この間じゅうから診ていただこうかしらと幾度か思ったんですけれども、あんまり大げさらしいんで我慢していたんですが、どういうもんでしょう……少しは船に乗る前からでしたけれども……お腹のここが妙に時々痛むんですのよ」
というと、寝台に曲がりこんだ男はそれを聞きながらにやりにやり笑い始めた。葉子はちょっとその男をにらむようにして一緒に笑った。
「まあ機の悪い時にこんな事をいうもんですから、痛い腹まで探られますわね……じゃ興録さん後ほど診ていただけて?」
事務長の相談というのはこんなたわいもない事で済んでしまった。
二人きりになってから、
「ではわたしこれからほんとうの病人になりますからね」
葉子はちょっと倉地の顔をつついて、その口びるに触れた。そしてシヤトルの市街から起こる煤煙が遠くにぼんやり望まれるようになったので、葉子は自分の部屋に帰った。そして洋風の白い寝衣に着かえて、髪を長い編み下げにして寝床にはいった。戯談のようにして興録に病気の話をしたものの、葉子は実際かなり長い以前から子宮を害しているらしかった。腰を冷やしたり、感情が激昂したりしたあとでは、きっと収縮するような痛みを下腹部に感じていた。船に乗った当座は、しばらくの間は忘れるようにこの不快な痛みから遠ざかる事ができて、幾年ぶりかで申し所のない健康のよろこびを味わったのだったが、近ごろはまただんだん痛みが激しくなるようになって来ていた。半身が痲痺したり、頭が急にぼーっと遠くなる事も珍しくなかった。葉子は寝床にはいってから、軽い疼みのある所をそっ[#「そっ」に傍点]と平手でさすりながら、船がシヤトルの波止場に着く時のありさまを想像してみた。しておかなければならない事が数かぎりなくあるらしかったけれども、何をしておくという事もなかった。ただなんでもいいせっせ[#「せっせ」に傍点]と手当たり次第したくをしておかなければ、それだけの心尽くしを見せて置かなければ、目論見どおり首尾が運ばないように思ったので、一ぺん横になったものをまたむくむくと起き上がった。
まずきのう着た派手な衣類がそのまま散らかっているのを畳んでトランクの中にしまいこんだ。臥る時まで着ていた着物は、わざとはなやかな長襦袢や裏地が見えるように衣紋竹に通して壁にかけた。事務長の置き忘れて行ったパイプや帳簿のようなものは丁寧に抽き出しに隠した。古藤が木村と自分とにあてて書いた二通の手紙を取り出して、古藤がしておいたように、枕の下に差しこんだ。鏡の前には二人の妹と木村との写真を飾った。それから大事な事を忘れていたのに気がついて、廊下越しに興録を呼び出して薬びんや病床日記を調えるように頼んだ。興録の持って来た薬びんから薬を半分がた痰壺に捨てた。日本から木村に持って行くように託された品々をトランクから取り分けた。その中からは故郷を思い出させるようないろいろな物が出て来た。香いまでが日本というものをほのかに心に触れさせた。
葉子は忙しく働かしていた手を休めて、部屋のまん中に立ってあたりを見回して見た。しぼんだ花束が取りのけられてなくなっているばかりで、あとは横浜を出た時のとおりの部屋の姿になっていた。旧い記憶が香のようにしみこんだそれらの物を見ると、葉子の心はわれにもなくふとぐらつきかけたが、涙もさそわずに淡く消えて行った。
フォクスルで起重機の音がかすかに響いて来るだけで、葉子の部屋は妙に静かだった。葉子の心は風のない池か沼の面のようにただどんよりとよどんでいた。からだはなんのわけもなくだるく物懶かった。
食堂の時計が引きしまった音で三時を打った。それを相図のように汽笛がすさまじく鳴り響いた。港にはいった相図をしているのだなと思った。と思うと今まで鈍く脈打つように見えていた胸が急に激しく騒ぎ動き出した。それが葉子の思いも設けぬ方向に動き出した。もうこの長い船旅も終わったのだ。十四五の時から新聞記者になる修業のために来たい来たいと思っていた米国に着いたのだ。来たいとは思いながらほんとうに来ようとは夢にも思わなかった米国に着いたのだ。それだけの事で葉子の心はもうしみじみとしたものになっていた。木村は狂うような心をしいて押ししずめながら、船の着くのを埠頭に立って涙ぐみつつ待っているだろう。そう思いながら葉子の目は木村や二人の妹の写真のほうにさまよって行った。それとならべて写真を飾っておく事もできない定子の事までが、哀れ深く思いやられた。生活の保障をしてくれる父親もなく、膝に抱き上げて愛撫してやる母親にもはぐれたあの子は今あの池の端のさびしい小家で何をしているのだろう。笑っているかと想像してみるのも悲しかった。泣いているかと想像してみるのもあわれだった。そして胸の中が急にわくわくとふさがって来て、せきとめる暇もなく涙がはらはらと流れ出た。葉子は大急ぎで寝台のそばに駆けよって、枕もとにおいといたハンケチを拾い上げて目がしらに押しあてた。素直な感傷的な涙がただわけもなくあとからあとから流れた。この不意の感情の裏切りにはしかし引き入れられるような誘惑があった。だんだん底深く沈んで哀しくなって行くその思い、なんの思いとも定めかねた深い、わびしい、悲しい思い。恨みや怒りをきれいにぬぐい去って、あきらめきったようにすべてのものをただしみじみとなつかしく見せるその思い。いとしい定子、いとしい妹、いとしい父母、……なぜこんななつかしい世に自分の心だけがこう哀しく一人ぼっちなのだろう。なぜ世の中は自分のようなものをあわれむしかたを知らないのだろう。そんな感じの零細な断片がつぎつぎに涙にぬれて胸を引きしめながら通り過ぎた。葉子は知らず知らずそれらの感じにしっかり[#「しっかり」に傍点]すがり付こうとしたけれども無益だった。感じと感じとの間には、星のない夜のような、波のない海のような、暗い深い際涯のない悲哀が、愛憎のすべてをただ一色に染めなして、どんよりと広がっていた。生を呪うよりも死が願われるような思いが、逼るでもなく離れるでもなく、葉子の心にまつわり付いた。葉子は果ては枕に顔を伏せて、ほんとうに自分のためにさめざめと泣き続けた。
こうして小半時もたった時、船は桟橋につながれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。葉子は物懶げに頭をもたげて見た。ハンケチは涙のためにしぼるほどぬれて丸まっていた。水夫らが繋ぎ綱を受けたりやったりする音と、鋲釘を打ちつけた靴で甲板を歩き回る音とが入り乱れて、頭の上はさながら火事場のような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽くした子供のようなぼんやりした取りとめのない心持ちで、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。
と突然戸外で事務長の、
「ここがお部屋です」
という声がした。それがまるで雷か何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]となった。準備をしておくつもりでいながらなんの準備もできていない事も思った。今の心持ちは平気で木村に会える心持ちではなかった。おろおろしながら立ちは上がったが、立ち上がってもどうする事もできないのだと思うと、追いつめられた罪人のように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがば[#「がば」に傍点]と伏さってしまった。
戸があいた。
「戸があいた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の中でうめいた。そして息気もとまるほど身内がしゃちこ[#「しゃちこ」に傍点]ばってしまっていた。
「早月さん、木村さんが見えましたよ」
事務長の声だ。あゝ事務長の声だ。事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁のほうに顔を向けた。……事務長の声だ……。
「葉子さん」
木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて来た。葉子は気が狂いそうだった。とにかく二人の顔を見る事はどうしてもできない。葉子は二人に背ろを向けますます壁のほうにもがきよりながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。たちまち高くたちまち低いその震え声は笑っているようにさえ聞こえた。
「出て……お二人ともどうか出て……この部屋を……後生ですから今この部屋を……出てくださいまし……」
木村はひどく不安げに葉子によりそってその肩に手をかけた。木村の手を感ずると恐怖と嫌悪とのために身をちぢめて壁にしがみついた。
「痛い……いけません……お腹が……早く出て……早く……」
事務長は木村を呼び寄せて何かしばらくひそひそ話し合っているようだったが、二人ながら足音を盗んでそっと部屋を出て行った。葉子はなおも息気も絶え絶えに、
「どうぞ出て……あっちに行って……」
といいながら、いつまでも泣き続けた。
一九
しばらくの間食堂で事務長と通り一ぺんの話でもしているらしい木村が、ころを見計らって再度葉子の部屋の戸をたたいた時にも、葉子はまだ枕に顔を伏せて、不思議な感情の渦巻きの中に心を浸していたが、木村が一人ではいって来たのに気づくと、始めて弱々しく横向きに寝なおって、二の腕まで袖口のまくれたまっ白な手をさし延べて、黙ったまま木村と握手した。木村は葉子の激しく泣いたのを見てから、こらえこらえていた感情がさらに嵩じたものか、涙をあふれんばかり目がしらにためて、厚ぼったい口びるを震わせながら、痛々しげに葉子の顔つきを見入って突っ立った。
葉子は、今まで続けていた沈黙の惰性で第一口をきくのが物懶かったし、木村はなんといい出したものか迷う様子で、二人の間には握手のまま意味深げな沈黙が取りかわされた。その沈黙はしかし感傷的という程度であるにはあまりに長く続き過ぎたので、外界の刺激に応じて過敏なまでに満干のできる葉子の感情は今まで浸っていた痛烈な動乱から一皮一皮平調に還って、果てはその底に、こう嵩じてはいとわしいと自分ですらが思うような冷ややかな皮肉が、そろそろ頭を持ち上げるのを感じた。握り合わせたむずかゆ[#「むずかゆ」に傍点]いような手を引っ込めて、目もとまでふとんをかぶって、そこから自分の前に立つ若い男の心の乱れを嘲笑ってみたいような心にすらなっていた。長く続く沈黙が当然ひき起こす一種の圧迫を木村も感じてうろたえたらしく、なんとかして二人の間の気まずさを引き裂くような、心の切なさを表わす適当の言葉を案じ求めているらしかったが、とうとう涙に潤った低い声で、もう一度、
「葉子さん」
と愛するものの名を呼んだ。それは先ほど呼ばれた時のそれに比べると、聞き違えるほど美しい声だった。葉子は、今まで、これほど切な情をこめて自分の名を呼ばれた事はないようにさえ思った。「葉子」という名にきわ立って伝奇的な色彩が添えられたようにも聞こえた。で、葉子はわざと木村と握り合わせた手に力をこめて、さらになんとか言葉をつがせてみたくなった。その目も木村の口びるに励ましを与えていた。木村は急に弁力を回復して、
「一日千秋の思いとはこの事です」
とすらすらとなめらかにいってのけた。それを聞くと葉子はみごと期待に背負投げをくわされて、その場の滑稽に思わずふき出そうとしたが、いかに事務長に対する恋におぼれきった女心の残虐さからも、さすがに木村の他意ない誠実を笑いきる事は得しないで、葉子はただ心の中で失望したように「あれだからいやになっちまう」とくさくさしながら喞った。
しかしこの場合、木村と同様、葉子も格好な空気を部屋の中に作る事に当惑せずにはいられなかった。事務長と別れて自分の部屋に閉じこもってから、心静かに考えて置こうとした木村に対する善後策も、思いよらぬ感情の狂いからそのままになってしまって、今になってみると、葉子はどう木村をもてあつかっていいのか、はっきりした目論見はできていなかった。しかし考えてみると、木部孤※[7]と別れた時でも、葉子には格別これという謀略があったわけではなく、ただその時々にわがままを振る舞ったに過ぎなかったのだけれども、その結果は葉子が何か恐ろしく深い企みと手練を示したかのように人に取られていた事も思った。なんとかして漕ぎ抜けられない事はあるまい。そう思って、まず落ち付き払って木村に椅子をすすめた。木村が手近にある畳み椅子を取り上げて寝台のそばに来てすわると、葉子はまたしなやかな手を木村の膝の上において、男の顔をしげしげと見やりながら、
「ほんとうにしばらくでしたわね。少しおやつれになったようですわ」
といってみた。木村は自分の感情に打ち負かされて身を震わしていた。そしてわくわくと流れ出る涙が見る見る目からあふれて、顔を伝って幾筋となく流れ落ちた。葉子は、その涙の一しずくが気まぐれにも、うつむいた男の鼻の先に宿って、落ちそうで落ちないのを見やっていた。
「ずいぶんいろいろと苦労なすったろうと思って、気が気ではなかったんですけれども、わたしのほうも御承知のとおりでしょう。今度こっちに来るにつけても、それは困って、ありったけのものを払ったりして、ようやく間に合わせたくらいだったもんですから……」
なおいおうとするのを木村は忙しく打ち消すようにさえぎって、
「それは充分わかっています」
と顔を上げた拍子に涙のしずくがぽたり[#「ぽたり」に傍点]と鼻の先からズボンの上に落ちたのを見た。葉子は、泣いたために妙に脹れぼったく赤くなって、てらてらと光る木村の鼻の先が急に気になり出して、悪いとは知りながらも、ともするとそこへばかり目が行った。
木村は何からどう話し出していいかわからない様子だった。
「わたしの電報をビクトリヤで受け取ったでしょうね」
などともてれ[#「てれ」に傍点]隠しのようにいった。葉子は受け取った覚えもないくせにいいかげんに、
「えゝ、ありがとうございました」
と答えておいた。そして一時も早くこんな息気づまるように圧迫して来る二人の間の心のもつれからのがれる術はないかと思案していた。
「今始めて事務長から聞いたんですが、あなたが病気だったといってましたが、いったいどこが悪かったんです。さぞ困ったでしょうね。そんな事とはちっとも知らずに、今が今まで、祝福された、輝くようなあなたを迎えられるとばかり思っていたんです。あなたはほんとうに試練の受けつづけというもんですね。どこでした悪いのは」
葉子は、不用意にも女を捕えてじかづけ[#「じかづけ」に傍点]に病気の種類を聞きただす男の心の粗雑さを忌みながら、当たらずさわらず、前からあった胃病が、船の中で食物と気候との変わったために、だんだん嵩じて来て起きられなくなったようにいい繕った。木村は痛ましそうに眉を寄せながら聞いていた。
葉子はもうこんな程々な会話には堪えきれなくなって来た。木村の顔を見るにつけて思い出される仙台時代や、母の死というような事にもかなり悩まされるのをつらく思った。で、話の調子を変えるためにしいていくらか快活を装って、
「それはそうとこちらの御事業はいかが」
と仕事とか様子とかいう代わりに、わざと事業という言葉をつかってこう尋ねた。
木村の顔つきは見る見る変わった。そして胸のポッケットにのぞかせてあった大きなリンネルのハンケチを取り出して、器用に片手でそれをふわり[#「ふわり」に傍点]と丸めておいて、ちん[#「ちん」に傍点]と鼻をかんでから、また器用にそれをポケットに戻すと、
「だめです」
といかにも絶望的な調子でいったが、その目はすでに笑っていた。サンフランシスコの領事が在留日本人の企業に対して全然冷淡で盲目であるという事、日本人間に嫉視が激しいので、サンフランシスコでの事業の目論見は予期以上の故障にあって大体失敗に終わった事、思いきった発展はやはり想像どおりの米国の西部よりも中央、ことにシカゴを中心として計画されなければならぬという事、幸いに、サンフランシスコで自分の話に乗ってくれるある手堅いドイツ人に取り次ぎを頼んだという事、シヤトルでも相当の店を見いだしかけているという事、シカゴに行ったら、そこで日本の名誉領事をしているかなりの鉄物商の店にまず住み込んで米国における取り引きの手心をのみ込むと同時に、その人の資本の一部を動かして、日本との直取り引きを始める算段であるという事、シカゴの住まいはもう決まって、借りるべきフラットの図面まで取り寄せてあるという事、フラットは不経済のようだけれども部屋の明いた部分を又貸しをすれば、たいして高いものにもつかず、住まい便利は非常にいいという事……そういう点にかけては、なかなか綿密に行き届いたもので、それをいかにも企業家らしい説服的な口調で順序よく述べて行った。会話の流れがこう変わって来ると、葉子は始めて泥の中から足を抜き上げたような気軽な心持ちになって、ずっ[#「ずっ」に傍点]と木村を見つめながら、聞くともなしにその話に聞き耳を立てていた。木村の容貌はしばらくの間に見違えるほど refine されて、元から白かったその皮膚は何か特殊な洗料で底光りのするほどみがきがかけられて、日本人とは思えぬまでなめらかなのに、油できれいに分けた濃い黒髪は、西洋人の金髪にはまた見られぬような趣のある対照をその白皙の皮膚に与えて、カラーとネクタイの関係にも人に気のつかぬ凝りかたを見せていた。
「会いたてからこんな事をいうのは恥ずかしいですけれども、実際今度という今度は苦闘しました。ここまで迎いに来るにもろくろく旅費がない騒ぎでしょう」
といってさすがに苦しげに笑いにまぎらそうとした。そのくせ木村の胸にはどっしり[#「どっしり」に傍点]と重そうな金鎖がかかって、両手の指には四つまで宝石入りの指輪がきらめいていた。葉子は木村のいう事を聞きながらその指に目をつけていたが、四つの指輪の中に婚約の時取りかわした純金の指輪もまじっているのに気がつくと、自分の指にはそれをはめていなかったのを思い出して、何くわぬ様子で木村の膝の上から手を引っ込めて顎までふとんをかぶってしまった。木村は引っ込められた手に追いすがるように椅子を乗り出して、葉子の顔に近く自分の顔をさし出した。
「葉子さん」
「何?」
また Love-scene か。そう思って葉子はうんざり[#「うんざり」に傍点]したけれども、すげなく顔をそむけるわけにも行かず、やや当惑していると、おりよく事務長が型ばかりのノックをしてはいって来た。葉子は寝たまま、目でいそいそと事務長を迎えながら、
「まあようこそ……先ほどは失礼。なんだかくだらない事を考え出していたもんですから、ついわがままをしてしまってすみません……お忙しいでしょう」
というと、事務長はからかい[#「からかい」に傍点]半分の冗談をきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に、
「木村さんの顔を見るとえらい事を忘れていたのに気がついたで。木村さんからあなたに電報が来とったのを、わたしゃビクトリヤのどさくさ[#「どさくさ」に傍点]でころり[#「ころり」に傍点]忘れとったんだ。すまん事でした。こんな皺になりくさった」
といいながら、左のポッケットから折り目に煙草の粉がはさまってもみくちゃ[#「くちゃ」に傍点]になった電報紙を取り出した。木村はさっき葉子がそれを見たと確かにいったその言葉に対して、怪訝な顔つきをしながら葉子を見た。些細な事ではあるが、それが事務長にも関係を持つ事だと思うと、葉子もちょっとどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]せずにはいられなかった。しかしそれはただ一瞬間だった。
「倉地さん、あなたはきょう少しどうかなすっていらっしゃるわ。それはその時ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と拝見したじゃありませんか」
といいながらすばやく[#「すばやく」に傍点]目くばせすると、事務長はすぐ何かわけがあるのを気取ったらしく、巧みに葉子にばつ[#「ばつ」に傍点]を合わせた。
「何? あなた見た?……おゝそうそう……これは寝ぼけ返っとるぞ、はゝゝゝ」
そして互いに顔を見合わせながら二人はしたたか笑った。木村はしばらく二人をかたみがわりに見くらべていたが、これもやがて声を立てて笑い出した。木村の笑い出すのを見た二人は無性におかしくなってもう一度新しく笑いこけた。木村という大きな邪魔者を目の前に据えておきながら、互いの感情が水のように苦もなく流れ通うのを二人は子供らしく楽しんだ。
しかしこんないたずらめいた事のために話はちょっと途切れてしまった。くだらない事に二人からわき出た少し仰山すぎた笑いは、かすかながら木村の感情をそこねたらしかった。葉子は、この場合、なお居残ろうとする事務長を遠ざけて、木村とさし向かいになるのが得策だと思ったので、程もなくきまじめな顔つきに返って、枕の下を探って、そこに入れて置いた古藤の手紙を取り出して木村に渡しながら、
「これをあなたに古藤さんから。古藤さんにはずいぶんお世話になりましてよ。でもあの方のぶま[#「ぶま」に傍点]さかげんったら、それはじれっ[#「じれっ」に傍点]たいほどね。愛や貞の学校の事もお頼みして来たんですけれども心もとないもんよ。きっと今ごろはけんか腰になってみんなと談判でもしていらっしゃるでしょうよ。見えるようですわね」
と水を向けると、木村は始めて話の領分が自分のほうに移って来たように、顔色をなおしながら、事務長をそっちのけ[#「そっちのけ」に傍点]にした態度で、葉子に対しては自分が第一の発言権を持っているといわんばかりに、いろいろと話し出した。事務長はしばらく風向きを見計らって立っていたが突然部屋を出て行った。葉子はすばやくその顔色をうかがうと妙にけわしくなっていた。
「ちょっと失礼」
木村の癖で、こんな時まで妙によそよそしく断わって、古藤の手紙の封を切った。西洋罫紙にペンで細かく書いた幾枚かのかなり厚いもので、それを木村が読み終わるまでには暇がかかった。その間、葉子は仰向けになって、甲板で盛んに荷揚げしている人足らの騒ぎを聞きながら、やや暗くなりかけた光で木村の顔を見やっていた。少し眉根を寄せながら、手紙に読みふける木村の表情には、時々苦痛や疑惑やの色が往ったり来たりした。読み終わってからほっ[#「ほっ」に傍点]としたため息とともに木村は手紙を葉子に渡して、
「こんな事をいってよこしているんです。あなたに見せても構わないとあるから御覧なさい」
といった。葉子はべつに読みたくもなかったが、多少の好奇心も手伝うのでとにかく目を通して見た。
[#ここより引用文、本文より一字下げ]
「僕は今度ぐらい不思議な経験をなめた事はない。兄が去って後の葉子さんの一身に関して、責任を持つ事なんか、僕はしたいと思ってもできはしないが、もし明白にいわせてくれるなら、兄はまだ葉子さんの心を全然占領したものとは思われない」
「僕は女の心には全く触れた事がないといっていいほどの人間だが、もし僕の事実だと思う事が不幸にして事実だとすると、葉子さんの恋には――もしそんなのが恋といえるなら――だいぶ余裕があると思うね」
「これが女の tact というものかと思ったような事があった。しかし僕にはわからん」
「僕は若い女の前に行くと変にどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]してしまってろくろく物もいえなくなる。ところが葉子さんの前では全く異った感じで物がいえる。これは考えものだ」
「葉子さんという人は兄がいうとおりに優れた天賦を持った人のようにも実際思える。しかしあの人はどこか片輪じゃないかい」
「明白にいうと僕はああいう人はいちばんきらいだけれども、同時にまたいちばんひきつけられる、僕はこの矛盾を解きほごしてみたくってたまらない。僕の単純を許してくれたまえ。葉子さんは今までのどこかで道を間違えたのじゃないかしらん。けれどもそれにしてはあまり平気だね」
「神は悪魔に何一つ与えなかったが Attraction だけは与えたのだ。こんな事も思う。……葉子さんの Attraction はどこから来るんだろう。失敬失敬。僕は乱暴をいいすぎてるようだ」
「時々は憎むべき人間だと思うが、時々はなんだかかわいそうでたまらなくなる時がある。葉子さんがここを読んだら、おそらく唾でも吐きかけたくなるだろう。あの人はかわいそうな人のくせに、かわいそうがられるのがきらいらしいから」
「僕には結局葉子さんが何がなんだかちっとも[#「ちっとも」に傍点]わからない。僕は兄が彼女を選んだ自信に驚く。しかしこうなった以上は、兄は全力を尽くして彼女を理解してやらなければいけないと思う。どうか兄らの生活が最後の栄冠に至らん事を神に祈る」
[#引用文ここまで]
こんな文句が断片的に葉子の心にしみて行った。葉子は激しい侮蔑を小鼻に見せて、手紙を木村に戻した。木村の顔にはその手紙を読み終えた葉子の心の中を見とおそうとあせるような表情が現われていた。
「こんな事を書かれてあなたどう思います」
葉子は事もなげにせせら笑った。
「どうも思いはしませんわ。でも古藤さんも手紙の上では一枚がた男を上げていますわね」
木村の意気込みはしかしそんな事ではごまかされそうにはなかったので、葉子はめんどうくさくなって少し険しい顔になった。
「古藤さんのおっしゃる事は古藤さんのおっしゃる事。あなたはわたしと約束なさった時からわたしを信じわたしを理解してくださっていらっしゃるんでしょうね」
木村は恐ろしい力をこめて、
「それはそうですとも」
と答えた。
「そんならそれで何もいう事はないじゃありませんか。古藤さんなどのいう事――古藤さんなんぞにわかられたら人間も末ですわ――でもあなたはやっぱり[#「やっぱり」に傍点]どこかわたしを疑っていらっしゃるのね」
「そうじゃない……」
「そうじゃない事があるもんですか。わたしは一たんこうと決めたらどこまでもそれで通すのが好き。それは生きてる人間ですもの、こっちのすみあっちのすみと小さな事を捕えてとがめだてを始めたら際限はありませんさ。そんなばかな事ったらありませんわ。わたしみたいな気随なわがまま者はそんなふうにされたら窮屈で窮屈で死んでしまうでしょうよ。わたしがこんなになったのも、つまり、みんなで寄ってたかってわたしを疑い抜いたからです。あなただってやっぱり[#「やっぱり」に傍点]その一人かと思うと心細いもんですのね」
木村の目は輝いた。
「葉子さん、それは疑い過ぎというもんです」
そして自分が米国に来てからなめ尽くした奮闘生活もつまりは葉子というものがあればこそできたので、もし葉子がそれに同情と鼓舞とを与えてくれなかったら、その瞬間に精も根も枯れ果ててしまうに違いないという事を繰り返し繰り返し熱心に説いた。葉子はよそよそしく聞いていたが、
「うまくおっしゃるわ」
と留めをさしておいて、しばらくしてから思い出したように、
「あなた田川の奥さんにおあいなさって」
と尋ねた。木村はまだあわなかったと答えた。葉子は皮肉な表情をして、
「いまにきっとおあいになってよ。一緒にこの船でいらしったんですもの。そして五十川のおばさんがわたしの監督をお頼みになったんですもの。一度おあいになったらあなたはきっとわたしなんぞ見向きもなさらなくなりますわ」
「どうしてです」
「まあおあいなさってごらんなさいまし」
「何かあなた批難を受けるような事でもしたんですか」
「えゝえゝたくさんしましたとも」
「田川夫人に? あの賢夫人の批難を受けるとは、いったいどんな事をしたんです」
葉子はさも愛想が尽きたというふうに、
「あの賢夫人!」
といいながら高々と笑った。二人の感情の糸はまたももつれてしまった。
「そんなにあの奥さんにあなたの御信用があるのなら、わたしから申しておくほうが早手回しですわね」
と葉子は半分皮肉な半分まじめな態度で、横浜出航以来夫人から葉子が受けた暗々裡の圧迫に尾鰭をつけて語って来て、事務長と自分との間に何かあたりまえでない関係でもあるような疑いを持っているらしいという事を、他人事でも話すように冷静に述べて行った。その言葉の裏には、しかし葉子に特有な火のような情熱がひらめいて、その目は鋭く輝いたり涙ぐんだりしていた。木村は電火にでも打たれたように判断力を失って、一部始終をぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と聞いていた。言葉だけにもどこまでも冷静な調子を持たせ続けて葉子はすべてを語り終わってから、
「同じ親切にも真底からのと、通り一ぺんのと二つありますわね。その二つがどうかしてぶつかり合うと、いつでもほんとうの親切のほうが悪者扱いにされたり、邪魔者に見られるんだからおもしろうござんすわ。横浜を出てから三日ばかり船に酔ってしまって、どうしましょうと思った時にも、御親切な奥さんは、わざと御遠慮なさってでしょうね、三度三度食堂にはお出になるのに、一度もわたしのほうへはいらしってくださらないのに、事務長ったら幾度もお医者さんを連れて来るんですもの、奥さんのお疑いももっともといえばもっともですの。それにわたしが胃病で寝込むようになってからは、船中のお客様がそれは同情してくださって、いろいろとしてくださるのが、奥さんには大のお気に入らなかったんですの。奥さんだけがわたしを親切にしてくださって、ほかの方はみんな寄ってたかって、奥さんを親切にして上げてくださる段取りにさえなれば、何もかも無事だったんですけれどもね、中でも事務長の親切にして上げかたがいちばん足りなかったんでしょうよ」
と言葉を結んだ。木村は口びるをかむように聞いていたが、いまいましげに、
「わかりましたわかりました」
合点しながらつぶやいた。
葉子は額の生えぎわの短い毛を引っぱっては指に巻いて上目でながめながら、皮肉な微笑を口びるのあたりに浮かばして、
「おわかりになった? ふん、どうですかね」
と空うそぶいた。
木村は何を思ったかひどく感傷的な態度になっていた。
「わたしが悪かった。わたしはどこまでもあなたを信ずるつもりでいながら、他人の言葉に多少とも信用をかけようとしていたのが悪かったのです。……考えてください、わたしは親類や友人のすべての反対を犯してここまで来ているのです。もうあなたなしにはわたしの生涯は無意味です。わたしを信じてください。きっと十年を期して男になって見せますから……もしあなたの愛からわたしが離れなければならんような事があったら……わたしはそんな事を思うに堪えない……葉子さん」
木村はこういいながら目を輝かしてすり寄って来た。葉子はその思いつめたらしい態度に一種の恐怖を感ずるほどだった。男の誇りも何も忘れ果て、捨て果てて、葉子の前に誓いを立てている木村を、うまうま偽っているのだと思うと、葉子はさすがに針で突くような痛みを鋭く深く良心の一隅に感ぜずにはいられなかった。しかしそれよりもその瞬間に葉子の胸を押しひしぐように狭めたものは、底のない物すごい不安だった。木村とはどうしても連れ添う心はない。その木村に……葉子はおぼれた人が岸べを望むように事務長を思い浮かべた。男というものの女に与える力を今さらに強く感じた。ここに事務長がいてくれたらどんなに自分の勇気は加わったろう。しかし……どうにでもなれ。どうかしてこの大事な瀬戸を漕ぎぬけなければ浮かぶ瀬はない。葉子は大それた謀反人の心で木村の caress を受くべき身構え心構えを案じていた。
二〇
船の着いたその晩、田川夫妻は見舞いの言葉も別れの言葉も残さずに、おおぜいの出迎え人に囲まれて堂々と威儀を整えて上陸してしまった。その余の人々の中にはわざわざ葉子の部屋を訪れて来たものが数人はあったけれども、葉子はいかにも親しみをこめた別れの言葉を与えはしたが、あとまで心に残る人とては一人もいなかった。その晩事務長が来て、狭っこい boudoir のような船室でおそくまでしめじめと打ち語った間に、葉子はふと二度ほど岡の事を思っていた。あんなに自分を慕っていはしたが岡も上陸してしまえば、詮方なくボストンのほうに旅立つ用意をするだろう。そしてやがて自分の事もいつとはなしに忘れてしまうだろう。それにしてもなんという上品な美しい青年だったろう。こんな事をふと思ったのもしかし束の間で、その追憶は心の戸をたたいたと思うとはかなくもどこかに消えてしまった。今はただ木村という邪魔な考えが、もやもやと胸の中に立ち迷うばかりで、その奥には事務長の打ち勝ちがたい暗い力が、魔王のように小動ぎもせずうずくまっているのみだった。
荷役の目まぐるしい騒ぎが二日続いたあとの絵島丸は、泣きわめく遺族に取り囲まれたうつろな死骸のように、がらん[#「がらん」に傍点]と静まり返って、騒々しい桟橋の雑鬧の間にさびしく横たわっている。
水夫が、輪切りにした椰子の実でよごれた甲板を単調にごし/\ごし/\とこする音が、時というものをゆるゆるすり減らすやすり[#「やすり」に傍点]のように日がな日ねもす聞こえていた。
葉子は早く早くここを切り上げて日本に帰りたいという子供じみた考えのほかには、おかしいほどそのほかの興味を失ってしまって、他郷の風景に一瞥を与える事もいとわしく、自分の部屋の中にこもりきって、ひたすら発船の日を待ちわびた。もっとも木村が毎日米国という香いを鼻をつくばかり身の回りに漂わせて、葉子を訪れて来るので、葉子はうっかり[#「うっかり」に傍点]寝床を離れる事もできなかった。
木村は来るたびごとにぜひ米国の医者に健康診断を頼んで、大事なければ思いきって検疫官の検疫を受けて、ともかくも上陸するようにと勧めてみたが、葉子はどこまでもいや[#「いや」に傍点]をいいとおすので、二人の間には時々危険な沈黙が続く事も珍しくなかった。葉子はしかし、いつでも手ぎわよくその場合場合をあやつって、それから甘い歓語を引き出すだけの機才を持ち合わしていたので、この一か月ほど見知らぬ人の間に立ちまじって、貧乏の屈辱を存分になめ尽くした木村は、見る見る温柔な葉子の言葉や表情に酔いしれるのだった。カリフォルニヤから来る水々しい葡萄やバナナを器用な経木の小籃に盛ったり、美しい花束を携えたりして、葉子の朝化粧がしまったかと思うころには木村が欠かさず尋ねて来た。そして毎日くどくどと興録に葉子の容態を聞きただした。興録はいいかげんな事をいって一日延ばしに延ばしているのでたまらなくなって木村が事務長に相談すると、事務長は興録よりもさらに要領を得ない受け答えをした、しかたなしに木村は途方に暮れて、また葉子に帰って来て泣きつくように上陸を迫るのであった。その毎日のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を夜になると葉子は事務長と話しあって笑いの種にした。
葉子はなんという事なしに、木村を困らしてみたい、いじめてみたいというような不思議な残酷な心を、木村に対して感ずるようになって行った。事務長と木村とを目の前に置いて、何も知らない木村を、事務長が一流のきびきびした悪辣な手で思うさま翻弄して見せるのをながめて楽しむのが一種の痼疾のようになった。そして葉子は木村を通して自分の過去のすべてに血のしたたる復讐をあえてしようとするのだった。そんな場合に、葉子はよくどこかでうろ覚えにしたクレオパトラの插話を思い出していた。クレオパトラが自分の運命の窮迫したのを知って自殺を思い立った時、幾人も奴隷を目の前に引き出さして、それを毒蛇の餌食にして、その幾人もの無辜の人々がもだえながら絶命するのを、眉も動かさずに見ていたという插話を思い出していた。葉子には過去のすべての呪詛が木村の一身に集まっているようにも思いなされた。母の虐げ、五十川女史の術数、近親の圧迫、社会の環視、女に対する男の覬覦、女の苟合などという葉子の敵を木村の一身におっかぶせて、それに女の心が企み出す残虐な仕打ちのあらん限りをそそぎかけようとするのであった。
「あなたは丑の刻参りの藁人形よ」
こんな事をどうかした拍子に面と向かって木村にいって、木村が怪訝な顔でその意味をくみかねているのを見ると、葉子は自分にもわけのわからない涙を目にいっぱいためながらヒステリカルに笑い出すような事もあった。
木村を払い捨てる事によって、蛇が殻を抜け出ると同じに、自分のすべての過去を葬ってしまうことができるようにも思いなしてみた。
葉子はまた事務長に、どれほど木村が自分の思うままになっているかを見せつけようとする誘惑も感じていた。事務長の目の前ではずいぶん乱暴な事を木村にいったりさせたりした。時には事務長のほうが見兼ねて二人の間をなだめにかかる事さえあるくらいだった。
ある時木村の来ている葉子の部屋に事務長が来合わせた事があった。葉子は枕もとの椅子に木村を腰かけさせて、東京を発った時の様子をくわしく話して聞かせている所だったが、事務長を見るといきなり[#「いきなり」に傍点]様子をかえて、さもさも木村を疎んじたふうで、
「あなたは向こうにいらしってちょうだい」
と木村を向こうのソファに行くように目でさしずして、事務長をその跡にすわらせた。
「さ、あなたこちらへ」
といって仰向けに寝たまま上目をつかって見やりながら、
「いいお天気のようですことね。……あの時々ごーっ[#「ごーっ」に傍点]と雷のような音のするのは何?……わたしうるさい」
「トロですよ」
「そう……お客様がたんとおありですってね」
「さあ少しは知っとるものがあるもんだで」
「ゆうベもその美しいお客がいらしったの? とうとうお話にお見えにならなかったのね」
木村を前に置きながら、この無謀とさえ見える言葉を遠慮会釈もなくいい出すのには、さすがの事務長もぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたらしく、返事もろくろくしないで木村のほうに向いて、
「どうですマッキンレーは。驚いた事が持ち上がりおったもんですね」
と話題を転じようとした。この船の航海中シヤトルに近くなったある日、当時の大統領マッキンレーは凶徒の短銃に斃れたので、この事件は米国でのうわさの中心になっているのだった。木村はその当時の模様をくわしく新聞紙や人のうわさで知り合わせていたので、乗り気になってその話に身を入れようとするのを、葉子はにべもなくさえぎって、
「なんですねあなたは、貴夫人の話の腰を折ったりして、そんなごまかし[#「ごまかし」に傍点]くらいではだまされてはいませんよ。倉地さん、どんな美しい方です。アメリカ生粋の人ってどんななんでしょうね。わたし、見たい。あわしてくださいましな今度来たら。ここに連れて来てくださるんですよ。ほかのものなんぞなんにも見たくはないけれど、こればかりはぜひ見とうござんすわ。そこに行くとね、木村なんぞはそりゃあやぼなもんですことよ」
といって、木村のいるほうをはるかに下目で見やりながら、
「木村さんどう? こっちにいらしってからちっと[#「ちっと」に傍点]は女のお友だちがおできになって? Lady Friend というのが?」
「それができんでたまるか」
と事務長は木村の内行を見抜いて裏書きするように大きな声でいった。
「ところができていたらお慰み、そうでしょう? 倉地さんまあこうなの。木村がわたしをもらいに来た時にはね。石のように堅くすわりこんでしまって、まるで命の取りやりでもしかねない談判のしかたですのよ。そのころ母は大病で臥せっていましたの。なんとか母におっしゃってね、母に。わたし、忘れちゃならない言葉がありましたわ。えゝと……そうそう(木村の口調を上手にまねながら)『わたし、もしほかの人に心を動かすような事がありましたら神様の前に罪人です』ですって……そういう調子ですもの」
木村は少し怒気をほのめかす顔つきをして、遠くから葉子を見つめたまま口もきかないでいた。事務長はからからと笑いながら、
「それじゃ木村さん今ごろは神様の前にいいくらかげん罪人になっとるでしょう」
と木村を見返したので、木村もやむなく苦りきった笑いを浮かべながら、
「おのれをもって人を計る筆法ですね」
と答えはしたが、葉子の言葉を皮肉と解して、人前でたしなめるにしてはやや軽すぎるし、冗談と見て笑ってしまうにしては確かに強すぎるので、木村の顔色は妙にぎこち[#「ぎこち」に傍点]なくこだわ[#「こだわ」に傍点]ってしまっていつまでも晴れなかった。葉子は口びるだけに軽い笑いを浮かべながら、胆汁のみなぎったようなその顔を下目で快げにまじまじとながめやった。そして苦い清涼剤でも飲んだように胸のつかえを透かしていた。
やがて事務長が座を立つと、葉子は、眉をひそめて快からぬ顔をした木村を、しいてまたもとのように自分のそば近くすわらせた。
「いやなやつっちゃないの。あんな話でもしていないと、ほかになんにも話の種のない人ですの……あなたさぞ御迷惑でしたろうね」
といいながら、事務長にしたように上目に媚びを集めてじっ[#「じっ」に傍点]と木村を見た。しかし木村の感情はひどくほつれて、容易に解ける様子はなかった。葉子を故意に威圧しようとたくらむわざとな改まりかたも見えた。葉子はいたずら者らしく腹の中でくすくす笑いながら、木村の顔を好意をこめた目つきでながめ続けた。木村の心の奥には何かいい出してみたいくせに、なんとなく腹の中が見すかされそうで、いい出しかねている物があるらしかったが、途切れがちながら話が小半時も進んだ時、とてつ[#「とてつ」に傍点]もなく、
「事務長は、なんですか、夜になってまであなたの部屋に話しに来る事があるんですか」
とさりげなく尋ねようとするらしかったが、その語尾はわれにもなく震えていた。葉子は陥穽にかかった無知な獣を憫み笑うような微笑を口びるに浮かべながら、
「そんな事がされますものかこの小さな船の中で。考えてもごらんなさいまし。さきほどわたしがいったのは、このごろは毎晩夜になると暇なので、あの人たちが食堂に集まって来て、酒を飲みながら大きな声でいろんなくだらない話をするんですの。それがよくここまで聞こえるんです。それにゆうべあの人が来なかったからからか[#「からか」に傍点]ってやっただけなんですのよ。このごろは質の悪い女までが隊を組むようにしてどっさり[#「どっさり」に傍点]船に来て、それは騒々しいんですの。……ほゝゝゝあなたの苦労性ったらない」
木村は取りつく島を見失って、二の句がつげないでいた。それを葉子はかわいい目を上げて、無邪気な顔をして見やりながら笑っていた。そして事務長がはいって来た時途切らした話の糸口をみごとに忘れずに拾い上げて、東京を発った時の模様をまた仔細に話しつづけた。
こうしたふうで葛藤は葉子の手一つで勝手に紛らされたりほごされたりした。
葉子は一人の男をしっかり[#「しっかり」に傍点]と自分の把持の中に置いて、それが猫が鼠でも弄ぶるように、勝手に弄ぶって楽しむのをやめる事ができなかったと同時に、時々は木村の顔を一目見たばかりで、虫唾が走るほど厭悪の情に駆り立てられて、われながらどうしていいかわからない事もあった。そんな時にはただいちずに腹痛を口実にして、一人になって、腹立ち紛れにあり合わせたものを取って床の上にほうったりした。もう何もかもいってしまおう。弄ぶにも足らない木村を近づけておくには当たらない事だ。何もかも明らかにして気分だけでもさっぱり[#「さっぱり」に傍点]したいとそう思う事もあった。しかし同時に葉子は戦術家の冷静さをもって、実際問題を勘定に入れる事も忘れはしなかった。事務長をしっかり[#「しっかり」に傍点]自分の手の中に握るまでは、早計に木村を逃がしてはならない。「宿屋きめずに草鞋を脱ぐ」……母がこんな事を葉子の小さい時に教えてくれたのを思い出したりして、葉子は一人で苦笑いもした。
そうだ、まだ木村を逃がしてはならぬ。葉子は心の中に書き記してでも置くように、上目を使いながらこんな事を思った。
またある時葉子の手もとに米国の切手のはられた手紙が届いた事があった。葉子は船へなぞあてて手紙をよこす人はないはずだがと思って開いて見ようとしたが、また例のいたずらな心が動いて、わざと木村に開封させた。その内容がどんなものであるかの想像もつかないので、それを木村に読ませるのは、武器を相手に渡して置いて、自分は素手で格闘するようなものだった。葉子はそこに興味を持った。そしてどんな不意な難題が持ち上がるだろうかと、心をときめかせながら結果を待った。その手紙は葉子に簡単な挨拶を残したまま上陸した岡から来たものだった。いかにも人柄に不似合いな下手な字体で、葉子がひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると上陸を見合わせてそのまま帰るという事を聞いたが、もしそうなったら自分も断然帰朝する。気違いじみたしわざとお笑いになるかもしれないが、自分にはどう考えてみてもそれよりほかに道はない。葉子に離れて路傍の人の間に伍したらそれこそ狂気になるばかりだろう。今まで打ち明けなかったが、自分は日本でも屈指な豪商の身内に一人子と生まれながら、からだが弱いのと母が継母であるために、父の慈悲から洋行する事になったが、自分には故国が慕われるばかりでなく、葉子のように親しみを覚えさしてくれた人はないので、葉子なしには一刻も外国の土に足を止めている事はできぬ。兄弟のない自分には葉子が前世からの姉とより思われぬ。自分をあわれんで弟と思ってくれ。せめては葉子の声の聞こえる所顔の見える所にいるのを許してくれ。自分はそれだけのあわれみを得たいばかりに、家族や後見人のそしりもなんとも思わずに帰国するのだ。事務長にもそれを許してくれるように頼んでもらいたい。という事が、少し甘い、しかし真率な熱情をこめた文体で長々と書いてあったのだった。
葉子は木村が問うままに包まず岡との関係を話して聞かせた。木村は考え深く、それを聞いていたが、そんな人ならぜひあって話をしてみたいといい出した。自分より一段若いと見ると、かくばかり寛大になる木村を見て葉子は不快に思った。よし、それでは岡を通して倉地との関係を木村に知らせてやろう。そして木村が嫉妬と憤怒とでまっ黒になって帰って来た時、それを思うままあやつってまた元の鞘に納めて見せよう。そう思って葉子は木村のいうままに任せて置いた。
次の朝、木村は深い感激の色をたたえて船に来た。そして岡と会見した時の様子をくわしく物語った。岡はオリエンタル・ホテルの立派な一室にたった一人でいたが、そのホテルには田川夫妻も同宿なので、日本人の出入りがうるさいといって困っていた。木村の訪問したというのを聞いて、ひどくなつかしそうな様子で出迎えて、兄でも敬うようにもてなして、やや落ち付いてから隠し立てなく真率に葉子に対する自分の憧憬のほどを打ち明けたので、木村は自分のいおうとする告白を、他人の口からまざまざと聞くような切な情にほだされて、もらい泣きまでしてしまった。二人は互いに相あわれむというようななつかしみを感じた。これを縁に木村はどこまでも岡を弟とも思って親しむつもりだ。が、日本に帰る決心だけは思いとどまるように勧めて置いたといった。岡はさすがに育ちだけに事務長と葉子との間のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を想像に任せて、はした[#「はした」に傍点]なく木村に語る事はしなかったらしい。木村はその事についてはなんともいわなかった。葉子の期待は全くはずれてしまった。役者下手なために、せっかくの芝居が芝居にならずにしまった事を物足らなく思った。しかしこの事があってから岡の事が時々葉子の頭に浮かぶようになった。女にしてもみまほしいかの華車な青春の姿がどうかするといとしい思い出となって、葉子の心のすみに潜むようになった。
船がシヤトルに着いてから五六日たって、木村は田川夫妻にも面会する機会を造ったらしかった。そのころから木村は突然わき目にもそれと気が付くほど考え深くなって、ともすると葉子の言葉すら聞き落としてあわてたりする事があった。そしてある時とうとう一人胸の中には納めていられなくなったと見えて、
「わたしにゃあなたがなぜあんな人と近しくするかわかりませんがね」
と事務長の事をうわさのようにいった。葉子は少し腹部に痛みを覚えるのをことさら誇張してわき腹を左手で押えて、眉をひそめながら聞いていたが、もっともらしく幾度もうなずいて、
「それはほんとうにおっしゃるとおりですから何も好んで近づきたいとは思わないんですけれども、これまでずいぶん世話になっていますしね、それにああ見えていて思いのほか親切気のある人ですから、ボーイでも水夫でもこわがりながらなついていますわ。おまけにわたしお金まで借りていますもの」
とさも当惑したらしくいうと、
「あなたお金は無しですか」
木村は葉子の当惑さを自分の顔にも現わしていた。
「それはお話ししたじゃありませんか」
「困ったなあ」
木村はよほど困りきったらしく握った手を鼻の下にあてがって、下を向いたまましばらく思案に暮れていたが、
「いくらほど借りになっているんです」
「さあ診察料や滋養品で百円近くにもなっていますかしらん」
「あなたは金は全く無しですね」
木村はさらに繰り返していってため息をついた。
葉子は物慣れぬ弟を教えいたわるように、
「それに万一わたしの病気がよくならないで、ひとまず日本へでも帰るようになれば、なおなお帰りの船の中では世話にならなければならないでしょう。……でも大丈夫そんな事はないとは思いますけれども、さきざきまでの考えをつけておくのが旅にあればいちばん大事ですもの」
木村はなおも握った手を鼻の下に置いたなり、なんにもいわず、身動きもせず考え込んでいた。
葉子は術なさそうに木村のその顔をおもしろく思いながらまじ[#「まじ」に傍点]まじと見やっていた。
木村はふと顔を上げてしげしげと葉子を見た。何かそこに字でも書いてありはしないかとそれを読むように。そして黙ったまま深々と嘆息した。
「葉子さん。わたしは何から何まであなたを信じているのがいい事なのでしょうか。あなたの身のためばかり思ってもいうほうがいいかとも思うんですが……」
「ではおっしゃってくださいましななんでも」
葉子の口は少し親しみをこめて冗談らしく答えていたが、その目からは木村を黙らせるだけの光が射られていた。軽はずみな事をいやしくもいってみるがいい、頭を下げさせないでは置かないから。そうその目はたしかにいっていた。
木村は思わず自分の目をたじろがして黙ってしまった。葉子は片意地にも目で続けさまに木村の顔をむちうった。木村はその笞の一つ一つを感ずるようにどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]した。
「さ、おっしゃってくださいまし……さ」
葉子はその言葉にはどこまでも好意と信頼とをこめて見せた。木村はやはり躊躇していた。葉子はいきなり手を延ばして木村を寝台に引きよせた。そして半分起き上がってその耳に近く口を寄せながら、
「あなたみたいに水臭い物のおっしゃりかたをなさる方もないもんね。なんとでも思っていらっしゃる事をおっしゃってくださればいいじゃありませんか。……あ、痛い……いゝえさして痛くもないの。何を思っていらっしゃるんだかおっしゃってくださいまし、ね、さ。なんでしょうねえ。伺いたい事ね。そんな他人行儀は……あ、あ、痛い、おゝ痛い……ちょっとここのところを押えてくださいまし。……さし込んで来たようで……あ、あ」
といいながら、目をつぶって、床の上に寝倒れると、木村の手を持ち添えて自分の脾腹を押えさして、つらそうに歯をくいしばってシーツに顔を埋めた。肩でつく息気がかすかに雪白のシーツを震わした。
木村はあたふたしながら、今までの言葉などはそっちのけにして介抱にかかった。
二一
絵島丸はシヤトルに着いてから十二日目に纜を解いて帰航するはずになっていた。その出発があと三日になった十月十五日に、木村は、船医の興録から、葉子はどうしてもひとまず帰国させるほうが安全だという最後の宣告を下されてしまった。木村はその時にはもう大体覚悟を決めていた。帰ろうと思っている葉子の下心をおぼろげながら見て取って、それを翻す事はできないとあきらめていた。運命に従順な羊のように、しかし執念く将来の希望を命にして、現在の不満に服従しようとしていた。
緯度の高いシヤトルに冬の襲いかかって来るさまはすさまじいものだった。海岸線に沿うてはるか遠くまで連続して見渡されるロッキーの山々はもうたっぷり[#「たっぷり」に傍点]と雪がかかって、穏やかな夕空に現われ慣れた雲の峰も、古綿のように形のくずれた色の寒い霰雲に変わって、人をおびやかす白いものが、今にも地を払って降りおろして来るかと思われた。海ぞいに生えそろったアメリカ松の翠ばかりが毒々しいほど黒ずんで、目に立つばかりで、濶葉樹の類は、いつのまにか、葉を払い落とした枝先を針のように鋭く空に向けていた。シヤトルの町並みがあると思われるあたりからは――船のつながれている所から市街は見えなかった――急に煤煙が立ち増さって、せわしく冬じたくを整えながら、やがて北半球を包んで攻め寄せて来るまっ白な寒気に対しておぼつかない抵抗を用意するように見えた。ポッケットに両手をさし入れて、頭を縮め気味に、波止場の石畳を歩き回る人々の姿にも、不安と焦躁とのうかがわれるせわしい自然の移り変わりの中に、絵島丸はあわただしい発航の準備をし始めた。絞盤の歯車のきしむ音が船首と船尾とからやかましく冴え返って聞こえ始めた。
木村はその日も朝から葉子を訪れて来た。ことに青白く見える顔つきは、何かわくわくと胸の中に煮え返る想いをまざまざと裏切って、見る人のあわれを誘うほどだった。背水の陣と自分でもいっているように、亡父の財産をありったけ金に代えて、手っ払いに日本の雑貨を買い入れて、こちらから通知書一つ出せば、いつでも日本から送ってよこすばかりにしてあるものの、手もとにはいささかの銭も残ってはいなかった。葉子が来たならばと金の上にも心の上にもあて[#「あて」に傍点]にしていたのがみごとにはずれてしまって、葉子が帰るにつけては、なけなしの所からまたまたなんとかしなければならないはめ[#「はめ」に傍点]に立った木村は、二三日のうちに、ぬか喜びも一時の間で、孤独と冬とに囲まれなければならなかったのだ。
葉子は木村が結局事務長にすがり寄って来るほかに道のない事を察していた。
木村ははたして事務長を葉子の部屋に呼び寄せてもらった。事務長はすぐやって来たが、服なども仕事着のままで何かよほどせわしそうに見えた。木村はまあといって倉地に椅子を与えて、きょうはいつものすげない態度に似ず、折り入っていろいろと葉子の身の上を頼んだ。事務長は始めの忙しそうだった様子に引きかえて、どっしり[#「どっしり」に傍点]と腰を据えて正面から例の大きく木村を見やりながら、親身に耳を傾けた。木村の様子のほうがかえってそわそわしくながめられた。
木村は大きな紙入れを取り出して、五十ドルの切手を葉子に手渡しした。
「何もかも御承知だから倉地さんの前でいうほうが世話なしだと思いますが、なんといってもこれだけしかできないんです。こ、これです」
といってさびしく笑いながら、両手を出して広げて見せてから、チョッキをたたいた。胸にかかっていた重そうな金鎖も、四つまではめられていた指輪の三つまでもなくなっていて、たった、一つ婚約の指輪だけが貧乏臭く左の指にはまっているばかりだった。葉子はさすがに「まあ」といった。
「葉子さん、わたしはどうにでもします。男一匹なりゃどこにころがり込んだからって、――そんな経験もおもしろいくらいのものですが、これんばかりじゃあなたが足りなかろうと思うと、面目もないんです。倉地さん、あなたにはこれまででさえいいかげん世話をしていただいてなんともすみませんですが、わたしども二人はお打ち明け申したところ、こういうていたらく[#「ていたらく」に傍点]なんです。横浜へさえおとどけくださればその先はまたどうにでもしますから、もし旅費にでも不足しますようでしたら、御迷惑ついでになんとかしてやっていただく事はできないでしょうか」
事務長は腕組みをしたまままじまじ[#「まじまじ」に傍点]と木村の顔を見やりながら聞いていたが、
「あなたはちっとも持っとらんのですか」
と聞いた。木村はわざと快活にしいて声高く笑いながら、
「きれいなもんです」
とまたチョッキをたたくと、
「そりゃいかん。何、船賃なんぞいりますものか。東京で本店にお払いになればいいんじゃし、横浜の支店長も万事心得とられるんだで、御心配いりませんわ。そりゃあなたお持ちになるがいい。外国にいて文なしでは心細いもんですよ」
と例の塩辛声でややふきげんらしくいった。その言葉には不思議に重々しい力がこもっていて、木村はしばらくかれこれと押し問答をしていたが、結局事務長の親切を無にする事の気の毒さに、直な心からなおいろいろと旅中の世話を頼みながら、また大きな紙入れを取り出して切手をたたみ込んでしまった。
「よしよしそれで何もいう事はなし。早月さんはわしが引き受けた」
と不敵な微笑を浮かべながら、事務長は始めて葉子のほうを見返った。
葉子は二人を目の前に置いて、いつものように見比べながら二人の会話を聞いていた。あたりまえなら、葉子はたいていの場合、弱いものの味方をして見るのが常だった。どんな時でも、強いものがその強味を振りかざして弱い者を圧迫するのを見ると、葉子はかっ[#「かっ」に傍点]となって、理が非でも弱いものを勝たしてやりたかった。今の場合木村は単に弱者であるばかりでなく、その境遇もみじめなほどたよりない苦しいものである事は存分に知り抜いていながら、木村に対しての同情は不思議にもわいて来なかった。齢の若さ、姿のしなやかさ、境遇のゆたかさ、才能のはなやかさというようなものをたよりにする男たちの蠱惑の力は、事務長の前では吹けば飛ぶ塵のごとく対照された。この男の前には、弱いものの哀れよりも醜さがさらけ出された。
なんという不幸な青年だろう。若い時に父親に死に別れてから、万事思いのままだった生活からいきなり[#「いきなり」に傍点]不自由な浮世のどん底にほうり出されながら、めげもせずにせっせ[#「せっせ」に傍点]と働いて、後ろ指をさされないだけの世渡りをして、だれからも働きのある行く末たのもしい人と思われながら、それでも心の中のさびしさを打ち消すために思い入った恋人は仇し男にそむいてしまっている。それをまたそうとも知らずに、その男の情けにすがって、消えるに決まった約束をのがすまいとしている。……葉子はしいて自分を説服するようにこう考えてみたが、少しも身にしみた感じは起こって来ないで、ややもすると笑い出したいような気にすらなっていた。
「よしよしそれで何もいう事はなし。早月さんはわしが引き受けた」
という声と不敵な微笑とがどやす[#「どやす」に傍点]ように葉子の心の戸を打った時、葉子も思わず微笑を浮かべてそれに応じようとした。が、その瞬間、目ざとく木村の見ているのに気がついて、顔には笑いの影はみじんも現わさなかった。
「わしへの用はそれだけでしょう。じゃ忙しいで行きますよ」
とぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]にいって事務長が部屋を出て行ってしまうと、残った二人は妙にてれて、しばらくは互いに顔を見合わすのもはばかって黙ったままでいた。
事務長が行ってしまうと葉子は急に力が落ちたように思った。今までの事がまるで芝居でも見て楽しんでいたようだった。木村のやる瀬ない心の中が急に葉子に逼って来た。葉子の目には木村をあわれむとも自分をあわれむとも知れない涙がいつのまにか宿っていた。
木村は痛ましげに黙ったままでしばらく葉子を見やっていたが、
「葉子さん今になってそう泣いてもらっちゃわたしがたまりませんよ。きげんを直してください。またいい日も回って来るでしょうから。神を信ずるもの――そういう信仰が今あなたにあるかどうか知らないが――おかあさんがああいう堅い信者でありなさったし、あなたも仙台時分には確かに信仰を持っていられたと思いますが、こんな場合にはなおさら同じ神様から来る信仰と希望とを持って進んで行きたいものだと思いますよ。何事も神様は知っていられる……そこにわたしはたゆまない希望をつないで行きます」
決心した所があるらしく力強い言葉でこういった。何の希望! 葉子は木村の事については、木村のいわゆる神様以上に木村の未来を知りぬいているのだ。木村の希望というのはやがて失望にそうして絶望に終わるだけのものだ。何の信仰! 何の希望! 木村は葉子が据えた道を――行きどまりの袋小路を――天使の昇り降りする雲の梯のように思っている。あゝ何の信仰!
葉子はふと同じ目を自分に向けて見た。木村を勝手気ままにこづき回す威力を備えた自分はまただれに何者に勝手にされるのだろう。どこかで大きな手が情けもなく容赦もなく冷然と自分の運命をあやつっている。木村の希望がはかなく断ち切れる前、自分の希望がいち早く断たれてしまわないとどうして保障する事ができよう。木村は善人だ。自分は悪人だ。葉子はいつのまにか純な感情に捕えられていた。
「木村さん。あなたはきっと、しまいにはきっと祝福をお受けになります……どんな事があっても失望なさっちゃいやですよ。あなたのような善い方が不幸にばかりおあいになるわけがありませんわ。……わたしは生まれるときから呪われた女なんですもの。神、ほんとうは神様を信ずるより……信ずるより憎むほうが似合っているんです……ま、聞いて……でも、わたし卑怯はいやだから信じます……神様はわたしみたいなものをどうなさるか、しっかり[#「しっかり」に傍点]目を明いて最後まで見ています」
といっているうちにだれにともなくくやしさが胸いっぱいにこみ上げて来るのだった。
「あなたはそんな信仰はないとおっしゃるでしょうけれども……でもわたしにはこれが信仰です。立派な信仰ですもの」
といってきっぱり[#「きっぱり」に傍点]思いきったように、火のように熱く目にたまったままで流れずにいる涙を、ハンケチでぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と押しぬぐいながら、黯然と頭をたれた木村に、
「もうやめましょうこんなお話。こんな事をいってると、いえばいうほど先が暗くなるばかりです。ほんとに思いきって不仕合わせな人はこんな事をつべこべ[#「つべこべ」に傍点]と口になんぞ出しはしませんわ。ね、いや、あなたは自分のほうからめいってしまって、わたしのいった事ぐらいでなんですねえ、男のくせに」
木村は返事もせずにまっさおになってうつむいていた。
そこに「御免なさい」というかと思うと、いきなり[#「いきなり」に傍点]戸をあけてはいって来たものがあった。木村も葉子も不意を打たれて気先をくじかれながら、見ると、いつぞや錨綱で足をけがした時、葉子の世話になった老水夫だった。彼はとうとう跛脚になっていた。そして水夫のような仕事にはとても役に立たないから、幸いオークランドに小農地を持ってとにかく暮らしを立てている甥を尋ねて厄介になる事になったので、礼かたがた暇乞いに来たというのだった。葉子は紅くなった目を少し恥ずかしげにまたたかせながら、いろいろと慰めた。
「何ねこう老いぼれちゃ、こんな稼業をやってるがてんで[#「てんで」に傍点]うそなれど、事務長さんとボンスン(水夫長)とがかわいそうだといって使ってくれるで、いい気になったが罰あたったんだね」
といって臆病に笑った。葉子がこの老人をあわれみいたわるさまはわき目もいじらしかった。日本には伝言を頼むような近親さえない身だというような事を聞くたびに、葉子は泣き出しそうな顔をして合点合点していたが、しまいには木村の止めるのも聞かず寝床から起き上がって、木村の持って来た果物をありったけ籃につめて、
「陸に上がればいくらもあるんだろうけれども、これを持っておいで。そしてその中に果物でなくはいっているものがあったら、それもお前さんに上げたんだからね、人に取られたりしちゃいけませんよ」
といってそれを渡してやった。
老人が来てから葉子は夜が明けたように始めて晴れやかなふだんの気分になった。そして例のいたずららしいにこにこした愛矯を顔いちめんにたたえて、
「なんという気さく[#「さく」に傍点]なんでしょう。わたし、 あんなおじいさんのお内儀さんになってみたい……だからね、いいものをやっちまった」
きょとり[#「きょとり」に傍点]としてまじ[#「まじ」に傍点]まじ木村のむっつり[#「むっつり」に傍点]とした顔を見やる様子は大きな子供とより思えなかった。
「あなたからいただいたエンゲージ・リングね、あれをやりましてよ。だってなんにもないんですもの」
なんともいえない媚びをつつむおとがい[#「おとがい」に傍点]が二重になって、きれいな歯並みが笑いのさざ波のように口びるの汀に寄せたり返したりした。
木村は、葉子という女はどうしてこうむら[#「むら」に傍点]気で上すべりがしてしまうのだろう、情けないというような表情を顔いちめんにみなぎらして、何かいうべき言葉を胸の中で整えているようだったが、急に思い捨てたというふうで、黙ったままでほっ[#「ほっ」に傍点]と深いため息をついた。
それを見ると今まで珍しく押えつけられていた反抗心が、またもや旋風のように葉子の心に起こった。「ねち[#「ねち」に傍点]ねちさったらない」と胸の中をいらいらさせながら、ついでの事に少しいじめてやろうというたくらみが頭をもたげた。しかし顔はどこまでも前のままの無邪気さで、
「木村さんお土産を買ってちょうだいな。愛も貞もですけれども、親類たちや古藤さんなんぞにも何かしないじゃ顔が向けられませんもの。今ごろは田川の奥さんの手紙が五十川のおばさんの所に着いて、東京ではきっと大騒ぎをしているに違いありませんわ。発つ時には世話を焼かせ、留守は留守で心配させ、ぽかん[#「ぽかん」に傍点]としてお土産一つ持たずに帰って来るなんて、木村もいったい木村じゃないかといわれるのが、わたし、死ぬよりつらいから、少しは驚くほどのものを買ってちょうだい。先ほどのお金で相当のものが買れるでしょう」
木村は駄々児をなだめるようにわざとおとなしく、
「それはよろしい、買えとなら買いもしますが、わたしはあなたがあれをまとまったまま持って帰ったらと思っているんです。たいていの人は横浜に着いてから土産を買うんですよ。そのほうが実際格好ですからね。持ち合わせもなしに東京に着きなさる事を思えば、土産なんかどうでもいいと思うんですがね」
「東京に着きさえすればお金はどうにでもしますけれども、お土産は……あなた横浜の仕入れものはすぐ知れますわ……御覧なさいあれを」
といって棚の上にある帽子入れのボール箱に目をやった。
「古藤さんに連れて行っていただいてあれを買った時は、ずいぶん吟味したつもりでしたけれども、船に来てから見ているうちにすぐあきてしまいましたの。それに田川の奥さんの洋服姿を見たら、我慢にも日本で買ったものをかぶったり着たりする気にはなれませんわ」
そういってるうちに木村は棚から箱をおろして中をのぞいていたが、
「なるほど型はちっと古いようですね。だが品はこれならこっち[#「こっち」に傍点]でも上の部ですぜ」
「だからいやですわ。流行おくれとなると値段の張ったものほどみっともないんですもの」
しばらくしてから、
「でもあのお金はあなた御入用ですわね」
木村はあわてて弁解的に、
「いゝえ、あれはどの道あなたに上げるつもりでいたんですから……」
というのを葉子は耳にも入れないふうで、
「ほんとにばかねわたしは……思いやりもなんにもない事を申し上げてしまって、どうしましょうねえ。……もうわたしどんな事があってもそのお金だけはいただきません事よ。こういったらだれがなんといったってだめよ」
ときっぱり[#「きっぱり」に傍点]いい切ってしまった。木村はもとより一度いい出したらあとへは引かない葉子の日ごろの性分を知り抜いていた。で、言わず語らずのうちに、その金は品物にして持って帰らすよりほかに道のない事を観念したらしかった。
* * *
その晩、事務長が仕事を終えてから葉子の部屋に来ると、葉子は何か気に障えたふうをしてろくろくもてなしもしなかった。
「とうとう形がついた。十九日の朝の十時だよ出航は」
という事務長の快活な言葉に返事もしなかった。男は怪訝な顔つきで見やっている。
「悪党」
としばらくしてから、葉子は一言これだけいって事務長をにらめた。
「なんだ?」
と尻上がりにいって事務長は笑っていた。
「あなたみたいな残酷な人間はわたし始めて見た。木村を御覧なさいかわいそうに。あんなに手ひどくしなくったって……恐ろしい人ってあなたの事ね」
「何?」
とまた事務長は尻上がりに大きな声でいって寝床に近づいて来た。
「知りません」
と葉子はなお怒って見せようとしたが、いかにも刻みの荒い、単純な、他意のない男の顔を見ると、からだのどこかが揺られる気がして来て、わざと引き締めて見せた口びるのへんから思わずも笑いの影が潜み出た。
それを見ると事務長は苦い顔と笑った顔とを一緒にして、
「なんだいくだらん」
といって、電燈の近所に椅子をよせて、大きな長い足を投げ出して、夕刊新聞を大きく開いて目を通し始めた。
木村とは引きかえて事務長がこの部屋に来ると、部屋が小さく見えるほどだった。上向けた靴の大きさには葉子は吹き出したいくらいだった。葉子は目でなでたりさすったりするようにして、この大きな子供みたような暴君の頭から足の先までを見やっていた。ごわっ[#「ごわっ」に傍点]ごわっと時々新聞を折り返す音だけが聞こえて、積み荷があらかた片付いた船室の夜は静かにふけて行った。
葉子はそうしたままでふと木村を思いやった。
木村は銀行に寄って切手を現金に換えて、店の締まらないうちにいくらか買い物をして、それを小わきにかかえながら、夕食もしたためずに、ジャクソン街にあるという日本人の旅店に帰り着くころには、町々に灯がともって、寒い靄と煙との間を労働者たちが疲れた五体を引きずりながら歩いて行くのにたくさん出あっているだろう。小さなストーブに煙の多い石炭がぶしぶし燃えて、けばけばしい電灯の光だけが、むちうつようにがらん[#「がらん」に傍点]とした部屋の薄ぎたなさを煌々と照らしているだろう。その光の下で、ぐらぐらする椅子に腰かけて、ストーブの火を見つめながら木村が考えている。しばらく考えてからさびしそうに見るともなく部屋の中を見回して、またストーブの火にながめ入るだろう。そのうちにあの涙の出やすい目からは涙がほろほろととめどもなく流れ出るに違いない。
事務長が音をたてて新聞を折り返した。
木村は膝頭に手を置いて、その手の中に顔を埋めて泣いている。祈っている。葉子は倉地から目を放して、上目を使いながら木村の祈りの声に耳を傾けようとした。途切れ途切れな切ない祈りの声が涙にしめって確かに……確かに聞こえて来る。葉子は眉を寄せて注意力を集注しながら、木村がほんとうにどう葉子を思っているかをはっきり見窮めようとしたが、どうしても思い浮かべてみる事ができなかった。
事務長がまた新聞を折り返す音を立てた。
葉子ははっ[#「はっ」に傍点]として淀みにささえられた木の葉がまた流れ始めたように、すらすらと木村の所作を想像した。それがだんだん岡の上に移って行った。哀れな岡! 岡もまだ寝ないでいるだろう。木村なのか岡なのかいつまでもいつまでも寝ないで火の消えかかったストーブの前にうずくまっているのは……ふけるままにしみ込む寒さはそっと床を伝わって足の先からはい上がって来る。男はそれにも気が付かぬふうで椅子の上にうなだれている。すべての人は眠っている時に、木村の葉子も事務長に抱かれて安々と眠っている時に……。
ここまで想像して来ると小説に読みふけっていた人が、ほっとため息をしてばたん[#「ばたん」に傍点]と書物をふせるように、葉子も何とはなく深いため息をしてはっきり[#「はっきり」に傍点]と事務長を見た。葉子の心は小説を読んだ時のとおり無関心の Pathos をかすかに感じているばかりだった。
「おやすみにならないの?」
と葉子は鈴のように涼しい小さい声で倉地にいってみた。大きな声をするのもはばかられるほどあたりはしん[#「しん」に傍点]と静まっていた。
「う」
と返事はしたが事務長は煙草をくゆらしたまま新聞を見続けていた。葉子も黙ってしまった。
ややしばらくしてから事務長もほっ[#「ほっ」に傍点]とため息をして、
「どれ寝るかな」
といいながら椅子から立って寝床にはいった。葉子は事務長の広い胸に巣食うように丸まって少し震えていた。
やがて子供のようにすやすやと安らかないびきが葉子の口びるからもれて来た。
倉地は暗闇の中で長い間まんじりともせず大きな目を開いていたが、やがて、
「おい悪党」
と小さな声で呼びかけてみた。
しかし葉子の規則正しく楽しげな寝息は露ほども乱れなかった。
真夜中に、恐ろしい夢を葉子は見た。よくは覚えていないが、葉子は殺してはいけないいけないと思いながら人殺しをしたのだった。一方の目は尋常に眉の下にあるが、一方のは不思議にも眉の上にある、その男の額から黒血がどくどくと流れた。男は死んでも物すごくにやりにやりと笑い続けていた。その笑い声が木村木村と聞こえた。始めのうちは声が小さかったがだんだん大きくなって数もふえて来た。その「木村木村」という数限りもない声がうざうざと葉子を取り巻き始めた。葉子は一心に手を振ってそこからのがれようとしたが手も足も動かなかった。
| | | | | | | 木村…… |
| | | | | | 木村 |
| | | | 木村 | | | 木村…… |
| | | 木村 | | | 木村 |
| 木村 | | | 木村 | | | 木村…… |
| | | 木村 | | | 木村 |
| | | | 木村 | | | 木村…… |
| | | | | | 木村 |
| | | | | | | 木村…… |
ぞっ[#「ぞっ」に傍点]として寒気を覚えながら、葉子は闇の中に目をさました。恐ろしい凶夢のなごりは、ど、ど、ど……と激しく高くうつ心臓に残っていた。葉子は恐怖におびえながら一心に暗い中をおどおどと手探りに探ると事務長の胸に触れた。
「あなた」
と小さい震え声で呼んでみたが男は深い眠りの中にあった。なんともいえない気味わるさがこみ上げて来て、葉子は思いきり男の胸をゆすぶってみた。
しかし男は材木のように感じなく熟睡していた。
(前編 了)
(後編)
二二
どこかから菊の香がかすかに通って来たように思って葉子は快い眠りから目をさました。自分のそばには、倉地が頭からすっぽり[#「すっぽり」に傍点]とふとんをかぶって、いびきも立てずに熟睡していた。料理屋を兼ねた旅館のに似合わしい華手な縮緬の夜具の上にはもうだいぶ高くなったらしい秋の日の光が障子越しにさしていた。葉子は往復一か月の余を船に乗り続けていたので、船脚の揺らめきのなごりが残っていて、からだがふらりふらりと揺れるような感じを失ってはいなかったが、広い畳の間に大きな軟らかい夜具をのべて、五体を思うまま延ばして、一晩ゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と眠り通したその心地よさは格別だった。仰向けになって、寒からぬ程度に暖まった空気の中に両手を二の腕までむき出しにして、軟らかい髪の毛に快い触覚を感じながら、何を思うともなく天井の木目を見やっているのも、珍しい事のように快かった。
やや小半時もそうしたままでいると、帳場でぼんぼん時計が九時を打った。三階にいるのだけれどもその音はほがらかにかわいた空気を伝って葉子の部屋まで響いて来た。と、倉地がいきなり[#「いきなり」に傍点]夜具をはねのけて床の上に上体を立てて目をこすった。
「九時だな今打ったのは」
と陸で聞くとおかしいほど大きな塩がれ声でいった。どれほど熟睡していても、時間には鋭敏な船員らしい倉地の様子がなんの事はなく葉子をほほえました。
倉地が立つと、葉子も床を出た。そしてそのへんを片づけたり、煙草を吸ったりしている間に(葉子は船の中で煙草を吸う事を覚えてしまったのだった)倉地は手早く顔を洗って部屋に帰って来た。そして制服に着かえ始めた。葉子はいそいそとそれを手伝った。倉地特有な西洋風に甘ったるいような一種のにおいがそのからだにも服にもまつわっていた。それが不思議にいつでも葉子の心をときめかした。
「もう飯を食っとる暇はない。またしばらく忙しいで木っ葉みじんだ。今夜はおそいかもしれんよ。おれたちには天長節も何もあったもんじゃない」
そういわれてみると葉子はきょうが天長節なのを思い出した。葉子の心はなおなお寛濶になった。
倉地が部屋を出ると葉子は縁側に出て手欄から下をのぞいて見た。両側に桜並み木のずっ[#「ずっ」に傍点]とならんだ紅葉坂は急勾配をなして海岸のほうに傾いている、そこを倉地の紺羅紗の姿が勢いよく歩いて行くのが見えた。半分がた散り尽くした桜の葉は真紅に紅葉して、軒並みに掲げられた日章旗が、風のない空気の中にあざやかにならんでいた。その間に英国の国旗が一本まじってながめられるのも開港場らしい風情を添えていた。
遠く海のほうを見ると税関の桟橋に繋われた四艘ほどの汽船の中に、葉子が乗って帰った絵島丸もまじっていた。まっさおに澄みわたった海に対してきょうの祭日を祝賀するために檣から檣にかけわたされた小旌がおもちゃのようにながめられた。
葉子は長い航海の始終を一場の夢のように思いやった。その長旅の間に、自分の一身に起こった大きな変化も自分の事のようではなかった。葉子は何がなしに希望に燃えた活々した心で手欄を離れた。部屋には小ざっぱり[#「小ざっぱり」に傍点]と身じたくをした女中が来て寝床をあげていた。一間半の大床の間に飾られた大花活けには、菊の花が一抱え分もいけられていて、空気が動くたびごとに仙人じみた香を漂わした。その香をかぐと、ともするとまだ外国にいるのではないかと思われるような旅心が一気にくだけて、自分はもう確かに日本の土の上にいるのだという事がしっかり[#「しっかり」に傍点]思わされた。
「いいお日和ね。今夜あたりは忙しんでしょう」
と葉子は朝飯の膳に向かいながら女中にいってみた。
「はい今夜は御宴会が二つばかりございましてね。でも浜の方でも外務省の夜会にいらっしゃる方もございますから、たんと込み合いはいたしますまいけれども」
そう応えながら女中は、昨晩おそく着いて来た、ちょっと得体の知れないこの美しい婦人の素性を探ろうとするように注意深い目をやった。葉子は葉子で「浜」という言葉などから、横浜という土地を形にして見るような気持ちがした。
短くなってはいても、なんにもする事なしに一日を暮らすかと思えば、その秋の一日の長さが葉子にはひどく気になり出した。明後日東京に帰るまでの間に、買い物でも見て歩きたいのだけれども、土産物は木村が例の銀行切手をくずしてあり余るほど買って持たしてよこしたし、手もとには哀れなほどより金は残っていなかった。ちょっとでもじっ[#「じっ」に傍点]としていられない葉子は、日本で着ようとは思わなかったので、西洋向きに注文した華手すぎるような綿入れに手を通しながら、とつ追いつ考えた。
「そうだ古藤に電話でもかけてみてやろう」
葉子はこれはいい思案だと思った。東京のほうで親類たちがどんな心持ちで自分を迎えようとしているか、古藤のような男に今度の事がどう響いているだろうか、これは単に慰みばかりではない、知っておかなければならない大事な事だった。そう葉子は思った。そして女中を呼んで東京に電話をつなぐように頼んだ。
祭日であったせいか電話は思いのほか早くつながった。葉子は少しいたずららしい微笑を笑窪のはいるその美しい顔に軽く浮かべながら、階段を足早に降りて行った。今ごろになってようやく床を離れたらしい男女の客がしどけないふうをして廊下のここかしこで葉子とすれ違った。葉子はそれらの人々には目もくれずに帳場に行って電話室に飛び込むとぴっしり[#「ぴっしり」に傍点]と戸をしめてしまった。そして受話器を手に取るが早いか、電話に口を寄せて、
「あなた義一さん? あゝそう。義一さんそれは滑稽なのよ」
とひとりで[#「ひとりで」に傍点]にすらすらといってしまってわれながら葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。その時の浮き浮きした軽い心持ちからいうと、葉子にはそういうより以上に自然な言葉はなかったのだけれども、それではあまりに自分というものを明白にさらけ出していたのに気が付いたのだ。古藤は案のじょう答え渋っているらしかった。とみには返事もしないで、ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と聞こえているらしいのに、ただ「なんです?」と聞き返して来た。葉子にはすぐ東京の様子を飲み込んだように思った。
「そんな事どうでもよござんすわ。あなたお丈夫でしたの」
といってみると「えゝ」とだけすげない返事が、機械を通してであるだけにことさらすげなく響いて来た。そして今度は古藤のほうから、
「木村……木村君はどうしています。あなた会ったんですか」
とはっきり[#「はっきり」に傍点]聞こえて来た。葉子はすかさず、
「はあ会いましてよ。相変わらず丈夫でいます。ありがとう。けれどもほんとうにかわいそうでしたの。義一さん……聞こえますか。明後日私東京に帰りますわ。もう叔母の所には行けませんからね、あすこには行きたくありませんから……あのね、透矢町のね、双鶴館……つがいの鶴……そう、おわかりになって?……双鶴館に行きますから……あなた来てくだされる?……でもぜひ聞いていただかなければならない事があるんですから……よくって?……そうぜひどうぞ。明々後日の朝? ありがとうきっと[#「きっと」に傍点]お待ち申していますからぜひですのよ」
葉子がそういっている間、古藤の言葉はしまいまで奥歯に物のはさまったように重かった。そしてややともすると葉子との会見を拒もうとする様子が見えた。もし葉子の銀のように澄んだ涼しい声が、古藤を選んで哀訴するらしく響かなかったら、古藤は葉子のいう事を聞いてはいなかったかもしれないと思われるほどだった。
朝から何事も忘れたように快かった葉子の気持ちはこの電話一つのために妙にこじれてしまった。東京に帰れば今度こそはなかなか容易ならざる反抗が待ちうけているとは十二分に覚悟して、その備えをしておいたつもりではいたけれども、古藤の口うらから考えてみると面とぶつかった実際は空想していたよりも重大であるのを思わずにはいられなかった。葉子は電話室を出るとけさ始めて顔を合わした内儀に帳場格子の中から挨拶されて、部屋にも伺いに来ないでなれなれしく言葉をかけるその仕打ちにまで不快を感じながら、匆々三階に引き上げた。
それからはもうほんとうになんにもする事がなかった。ただ倉地の帰って来るのばかりがいらいらするほど待ちに待たれた。品川台場沖あたりで打ち出す祝砲がかすかに腹にこたえるように響いて、子供らは往来でそのころしきりにはやった南京花火をぱち[#「ぱち」に傍点]ぱちと鳴らしていた。天気がいいので女中たちははしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]きった冗談などを言い言いあらゆる部屋を明け放して、仰山らしくはたきや箒の音を立てた。そしてただ一人この旅館では居残っているらしい葉子の部屋を掃除せずに、いきなり[#「いきなり」に傍点]縁側にぞうきんをかけたりした。それが出て行けがしの仕打ちのように葉子には思えば思われた。
「どこか掃除の済んだ部屋があるんでしょう。しばらくそこを貸してくださいな。そしてここもきれいにしてちょうだい。部屋の掃除もしないでぞうきんがけなぞしたってなんにもなりはしないわ」
と少し剣を持たせていってやると、けさ来たのとは違う、横浜生まれらしい、悪ずれのした中年の女中は、始めて縁側から立ち上がって小めんどうそうに葉子を畳廊下一つを隔てた隣の部屋に案内した。
けさまで客がいたらしく、掃除は済んでいたけれども、火鉢だの、炭取りだの、古い新聞だのが、部屋のすみにはまだ置いたままになっていた。あけ放した障子からかわいた暖かい光線が畳の表三分ほどまでさしこんでいる、そこに膝を横くずしにすわりながら、葉子は目を細めてまぶしい光線を避けつつ、自分の部屋を片づけている女中の気配に用心の気を配った。どんな所にいても大事な金目なものをくだらないものと一緒にほうり出しておくのが葉子の癖だった。葉子はそこにいかにも伊達で寛濶な心を見せているようだったが、同時に下らない女中ずれが出来心でも起こしはしないかと思うと、細心に監視するのも忘れはしなかった。こうして隣の部屋に気を配っていながらも、葉子は部屋のすみにきちょうめんに折りたたんである新聞を見ると、日本に帰ってからまだ新聞というものに目を通さなかったのを思い出して、手に取り上げて見た。テレビン油のような香いがぷんぷんするのでそれがきょうの新聞である事がすぐ察せられた。はたして第一面には「聖寿万歳」と肉太に書かれた見出しの下に貴顕の肖像が掲げられてあった。葉子は一か月の余も遠のいていた新聞紙を物珍しいものに思ってざっと目をとおし始めた。
一面にはその年の六月に伊藤内閣と交迭してできた桂内閣に対していろいろな注文を提出した論文が掲げられて、海外通信にはシナ領土内における日露の経済的関係を説いたチリコフ伯の演説の梗概などが見えていた。二面には富口という文学博士が「最近日本におけるいわゆる婦人の覚醒」という続き物の論文を載せていた。福田という女の社会主義者の事や、歌人として知られた与謝野晶子女史の事などの名が現われているのを葉子は注意した。しかし今の葉子にはそれが不思議に自分とはかけ離れた事のように見えた。
三面に来ると四号活字で書かれた木部孤※[8]という字が目に着いたので思わずそこを読んで見る葉子はあっ[#「あっ」に傍点]と驚かされてしまった。
○某大汽船会社船中の大怪事
事務長と婦人船客との道ならぬ恋――
船客は木部孤※[9]の先妻
こういう大業な標題がまず葉子の目を小痛く射つけた。
[#ここから1字下げ]
「本邦にて最も重要なる位置にある某汽船会社の所有船○○丸の事務長は、先ごろ米国航路に勤務中、かつて木部孤※[10]に嫁してほどもなく姿を晦ましたる莫連女某が一等船客として乗り込みいたるをそそのかし、その女を米国に上陸せしめずひそかに連れ帰りたる怪事実あり。しかも某女といえるは米国に先行せる婚約の夫まである身分のものなり。船客に対して最も重き責任を担うべき事務長にかかる不埒の挙動ありしは、事務長一個の失態のみならず、その汽船会社の体面にも影響する由々しき大事なり。事の仔細はもれなく本紙の探知したる所なれども、改悛の余地を与えんため、しばらく発表を見合わせおくべし。もしある期間を過ぎても、両人の醜行改まる模様なき時は、本紙は容赦なく詳細の記事を掲げて畜生道に陥りたる二人を懲戒し、併せて汽船会社の責任を問う事とすべし。読者請う刮目してその時を待て」
[#ここで字下げ終わり]
葉子は下くちびるをかみしめながらこの記事を読んだ。いったい何新聞だろうと、その時まで気にも留めないでいた第一面を繰り戻して見ると、麗々と「報正新報」と書してあった。それを知ると葉子の全身は怒りのために爪の先まで青白くなって、抑えつけても抑えつけてもぶるぶると震え出した。「報正新報」といえば田川法学博士の機関新聞だ。その新聞にこんな記事が現われるのは意外でもあり当然でもあった。田川夫人という女はどこまで執念く卑しい女なのだろう。田川夫人からの通信に違いないのだ。「報正新報」はこの通信を受けると、報道の先鞭をつけておくためと、読者の好奇心をあおるためとに、いち早くあれだけの記事を載せて、田川夫人からさらにくわしい消息の来るのを待っているのだろう。葉子は鋭くもこう推した。もしこれがほかの新聞であったら、倉地の一身上の危機でもあるのだから、葉子はどんな秘密な運動をしても、この上の記事の発表はもみ消さなければならないと胸を定めたに相違なかったけれども、田川夫人が悪意をこめてさせている仕事だとして見ると、どの道書かずにはおくまいと思われた。郵船会社のほうで高圧的な交渉でもすればとにかく、そのほかには道がない。くれぐれも憎い女は田川夫人だ……こういちずに思いめぐらすと葉子は船の中での屈辱を今さらにまざまざと心に浮かべた。
「お掃除ができました」
そう襖越しにいいながらさっきの女中は顔も見せずにさっさ[#「さっさ」に傍点]と階下に降りて行ってしまった。葉子は結局それを気安い事にして、その新聞を持ったまま、自分の部屋に帰った。どこを掃除したのだと思われるような掃除のしかたで、はたきまでが違い棚の下におき忘られていた。過敏にきちょうめんできれい好きな葉子はもうたまらなかった。自分でてきぱき[#「てきぱき」に傍点]とそこいらを片づけて置いて、パラソルと手携げを取り上げるが否やその宿を出た。
往来に出るとその旅館の女中が四五人早じまいをして昼間の中を野毛山の大神宮のほうにでも散歩に行くらしい後ろ姿を見た。そそくさ[#「そそくさ」に傍点]と朝の掃除を急いだ女中たちの心も葉子には読めた。葉子はその女たちを見送るとなんという事なしにさびしく思った。
帯の間にはさんだままにしておいた新聞の切り抜きが胸を焼くようだった。葉子は歩き歩きそれを引き出して手携げにしまいかえた。旅館は出たがどこに行こうというあて[#「あて」に傍点]もなかった葉子はうつむいて紅葉坂をおりながら、さしもしないパラソルの石突きで霜解けになった土を一足一足突きさして歩いて行った。いつのまにかじめじめした薄ぎたない狭い通りに来たと思うと、はしなくもいつか古藤と一緒に上がった相模屋の前を通っているのだった。「相模屋」と古めかしい字体で書いた置き行燈の紙までがその時のままですすけていた。葉子は見覚えられているのを恐れるように足早にその前を通りぬけた。
停車場前はすぐそこだった。もう十二時近い秋の日ははなやかに照り満ちて、思ったより数多い群衆が運河にかけ渡したいくつかの橋をにぎやかに往来していた。葉子は自分一人がみんなから振り向いて見られるように思いなした。それがあたりまえの時ならば、どれほど多くの人にじろじろと見られようとも度を失うような葉子ではなかったけれども、たった今いまいましい新聞の記事を見た葉子ではあり、いかにも西洋じみた野暮くさい綿入れを着ている葉子であった。服装に塵ほどでも批点の打ちどころがあると気がひけてならない葉子としては、旅館を出て来たのが悲しいほど後悔された。
葉子はとうとう税関波止場の入り口まで来てしまった。その入り口の小さな煉瓦造りの事務所には、年の若い監視補たちが二重金ぼたんの背広に、海軍帽をかぶって事務を取っていたが、そこに近づく葉子の様子を見ると、きのう上陸した時から葉子を見知っているかのように、その飛び放れて華手造りな姿に目を定めるらしかった。物好きなその人たちは早くも新聞の記事を見て問題となっている女が自分に違いないと目星をつけているのではあるまいかと葉子は何事につけても愚痴っぽくひけ目になる自分を見いだした。葉子はしかしそうしたふうに見つめられながらもそこを立ち去る事ができなかった。もしや倉地が昼飯でも食べにあの大きな五体を重々しく動かしながら船のほうから出て来はしないかと心待ちがされたからだ。
葉子はそろそろと海洋通りをグランド・ホテルのほうに歩いてみた。倉地が出て来れば、倉地のほうでも自分を見つけるだろうし、自分のほうでも後ろに目はないながら、出て来たのを感づいてみせるという自信を持ちながら、後ろも振り向かずにだんだん波止場から遠ざかった。海ぞいに立て連ねた石杭をつなぐ頑丈な鉄鎖には、西洋人の子供たちが犢ほどな洋犬やあま[#「あま」に傍点]に付き添われて事もなげに遊び戯れていた。そして葉子を見ると心安立てに無邪気にほほえんで見せたりした。小さなかわいい子供を見るとどんな時どんな場合でも、葉子は定子を思い出して、胸がしめつけられるようになって、すぐ涙ぐむのだった。この場合はことさらそうだった。見ていられないほどそれらの子供たちは悲しい姿に葉子の目に映った。葉子はそこから避けるように足を返してまた税関のほうに歩み近づいた。監視課の事務所の前を来たり往ったりする人数は絡繹として絶えなかったが、その中に事務長らしい姿はさらに見えなかった。葉子は絵島丸まで行って見る勇気もなく、そこを幾度もあちこちして監視補たちの目にかかるのもうるさかったので、すごすごと税関の表門を県庁のほうに引き返した。
二三
その夕方倉地がほこりにまぶれ汗にまぶれて紅葉坂をすたすたと登って帰って来るまでも葉子は旅館の閾をまたがずに桜の並み木の下などを徘徊して待っていた。さすがに十一月となると夕暮れを催した空は見る見る薄寒くなって風さえ吹き出している。一日の行楽に遊び疲れたらしい人の群れにまじってふきげんそうに顔をしかめた倉地は真向に坂の頂上を見つめながら近づいて来た。それを見やると葉子は一時に力を回復したようになって、すぐ跳り出して来るいたずら心のままに、一本の桜の木を楯に倉地をやり過ごしておいて、後ろから静かに近づいて手と手とが触れ合わんばかりに押しならんだ。倉地はさすがに不意をくってまじまじと寒さのために少し涙ぐんで見える大きな涼しい葉子の目を見やりながら、「どこからわいて出たんだ」といわんばかりの顔つきをした。一つ船の中に朝となく夜となく一緒になって寝起きしていたものを、きょう始めて半日の余も顔を見合わさずに過ごして来たのが思った以上に物さびしく、同時にこんな所で思いもかけず出あったが予想のほかに満足であったらしい倉地の顔つきを見て取ると、葉子は何もかも忘れてただうれしかった。そのまっ黒によごれた手をいきなり引っつかんで熱い口びるでかみしめて労ってやりたいほどだった。しかし思いのままに寄り添う事すらできない大道であるのをどうしよう。葉子はその切ない心を拗ねて見せるよりほかなかった。
「わたしもうあの宿屋には泊まりませんわ。人をばかにしているんですもの。あなたお帰りになるなら勝手にひとりでいらっしゃい」
「どうして……」
といいながら倉地は当惑したように往来に立ち止まってしげしげと葉子を見なおすようにした。
「これじゃ(といってほこりにまみれた両手をひろげ襟頸を抜き出すように延ばして見せて渋い顔をしながら)どこにも行けやせんわな」
「だからあなたはお帰りなさいましといってるじゃありませんか」
そう冒頭をして葉子は倉地と押し並んでそろそろ歩きながら、女将の仕打ちから、女中のふしだら[#「ふしだら」に傍点]まで尾鰭をつけて讒訴けて、早く双鶴館に移って行きたいとせがみにせがんだ。倉地は何か思案するらしくそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を見い見い耳を傾けていたが、やがて旅館に近くなったころもう一度立ち止まって、
「きょう双鶴館から電話で部屋の都合を知らしてよこす事になっていたがお前聞いたか……(葉子はそういいつけられながら今まですっかり[#「すっかり」に傍点]忘れていたのを思い出して、少しくてれたように首を振った)……ええわ、じゃ電報を打ってから先に行くがいい。わしは荷物をして今夜あとから行くで」
そういわれてみると葉子はまた一人だけ先に行くのがいやでもあった。といって荷物の始末には二人のうちどちらか一人居残らねばならない。
「どうせ二人一緒に汽車に乗るわけにも行くまい」
倉地がこういい足した時葉子は危うく、ではきょうの「報正新報」を見たかといおうとするところだったが、はっ[#「はっ」に傍点]と思い返して喉の所で抑えてしまった。
「なんだ」
倉地は見かけのわりに恐ろしいほど敏捷に働く心で、顔にも現わさない葉子の躊躇を見て取ったらしくこうなじるように尋ねたが、葉子がなんでもないと応えると、少しも拘泥せずに、それ以上問い詰めようとはしなかった。
どうしても旅館に帰るのがいやだったので、非常な物足らなさを感じながら、葉子はそのままそこから倉地に別れる事にした。倉地は力のこもった目で葉子をじっ[#「じっ」に傍点]と見てちょっとうなずくとあとをも見ないでどんどんと旅館のほうに濶歩して行った。葉子は残り惜しくその後ろ姿を見送っていたが、それになんという事もない軽い誇りを感じてかすかにほほえみながら、倉地が登って来た坂道を一人で降りて行った。
停車場に着いたころにはもう瓦斯の灯がそこらにともっていた。葉子は知った人にあうのを極端に恐れ避けながら、汽車の出るすぐ前まで停車場前の茶店の一間に隠れていて一等室に飛び乗った。だだっ広いその客車には外務省の夜会に行くらしい三人の外国人が銘々、デコルテーを着飾った婦人を介抱して乗っているだけだった。いつものとおりその人たちは不思議に人をひきつける葉子の姿に目をそばだてた。けれども葉子はもう左手の小指を器用に折り曲げて、左の鬢のほつれ毛を美しくかき上げるあの嬌態をして見せる気はなくなっていた。室のすみに腰かけて、手携げとパラソルとを膝に引きつけながら、たった一人その部屋の中にいるもののように鷹揚に構えていた。偶然顔を見合わせても、葉子は張りのあるその目を無邪気に(ほんとうにそれは罪を知らない十六七の乙女の目のように無邪気だった)大きく見開いて相手の視線をはにかみもせず迎えるばかりだった。先方の人たちの年齢がどのくらいで容貌がどんなふうだなどという事も葉子は少しも注意してはいなかった。その心の中にはただ倉地の姿ばかりがいろいろに描かれたり消されたりしていた。
列車が新橋に着くと葉子はしとやか[#「しとやか」に傍点]に車を出たが、ちょうどそこに、唐桟に角帯を締めた、箱丁とでもいえばいえそうな、気のきいた若い者が電報を片手に持って、目ざとく葉子に近づいた。それが双鶴館からの出迎えだった。
横浜にも増して見るものにつけて連想の群がり起こる光景、それから来る強い刺激……葉子は宿から回された人力車の上から銀座通りの夜のありさまを見やりながら、危うく幾度も泣き出そうとした。定子の住む同じ土地に帰って来たと思うだけでももう胸はわくわくした。愛子も貞世もどんな恐ろしい期待に震えながら自分の帰るのを待ちわびているだろう。あの叔父叔母がどんな激しい言葉で自分をこの二人の妹に描いて見せているか。構うものか。なんとでもいうがいい。自分はどうあっても二人を自分の手に取り戻してみせる。こうと思い定めた上は指もささせはしないから見ているがいい。……ふと人力車が尾張町のかどを左に曲がると暗い細い通りになった。葉子は目ざす旅館が近づいたのを知った。その旅館というのは、倉地が色ざたでなくひいきにしていた芸者がある財産家に落籍されて開いた店だというので、倉地からあらかじめかけ合っておいたのだった。人力車がその店に近づくに従って葉子はその女将というのにふとした懸念を持ち始めた。未知の女同志が出あう前に感ずる一種の軽い敵愾心が葉子の心をしばらくは余の事柄から切り放した。葉子は車の中で衣紋を気にしたり、束髪の形を直したりした。
昔の煉瓦建てをそのまま改造したと思われる漆喰塗りの頑丈な、角地面の一構えに来て、煌々と明るい入り口の前に車夫が梶棒を降ろすと、そこにはもう二三人の女の人たちが走り出て待ち構えていた。葉子は裾前をかばいながら車から降りて、そこに立ちならんだ人たちの中からすぐ女将を見分ける事ができた。背たけが思いきって低く、顔形も整ってはいないが、三十女らしく分別の備わった、きかん[#「きかん」に傍点]気らしい、垢ぬけのした人がそれに違いないと思った。葉子は思い設けた以上の好意をすぐその人に対して持つ事ができたので、ことさら快い親しみを持ち前の愛嬌に添えながら、挨拶をしようとすると、その人は事もなげにそれをさえぎって、
「いずれ御挨拶は後ほど、さぞお寒うございましてしょう。お二階へどうぞ」
といって自分から先に立った。居合わせた女中たちは目はし[#「はし」に傍点]をきかしていろいろと世話に立った。入り口の突き当たりの壁には大きなぼん[#「ぼん」に傍点]ぼん時計が一つかかっているだけでなんにもなかった。その右手の頑丈な踏み心地のいい階子段をのぼりつめると、他の部屋から廊下で切り放されて、十六畳と八畳と六畳との部屋が鍵形に続いていた。塵一つすえずにきちん[#「きちん」に傍点]と掃除が届いていて、三か所に置かれた鉄びんから立つ湯気で部屋の中は軟らかく暖まっていた。
「お座敷へと申すところですが、御気さくにこちらでおくつろぎくださいまし……三間ともとってはございますが」
そういいながら女将は長火鉢の置いてある六畳の間へと案内した。
そこにすわってひととおりの挨拶を言葉少なに済ますと、女将は葉子の心を知り抜いているように、女中を連れて階下に降りて行ってしまった。葉子はほんとうにしばらくなりとも一人になってみたかったのだった。軽い暖かさを感ずるままに重い縮緬の羽織を脱ぎ捨てて、ありたけの懐中物を帯の間から取り出して見ると、凝りがちな肩も、重苦しく感じた胸もすがすがしくなって、かなり強い疲れを一時に感じながら、猫板の上に肘を持たせて居ずまいをくずしてもたれかかった。古びを帯びた蘆屋釜から鳴りを立てて白く湯気の立つのも、きれいにかきならされた灰の中に、堅そうな桜炭の火が白い被衣の下でほんのり[#「ほんのり」に傍点]と赤らんでいるのも、精巧な用箪笥のはめ込まれた一間の壁に続いた器用な三尺床に、白菊をさした唐津焼きの釣り花活けがあるのも、かすかにたきこめられた沈香のにおいも、目のつんだ杉柾の天井板も、細っそりと磨きのかかった皮付きの柱も、葉子に取っては――重い、硬い、堅い船室からようやく解放されて来た葉子に取ってはなつかしくばかりながめられた。こここそは屈強の避難所だというように葉子はつくづくあたりを見回した。そして部屋のすみにある生漆を塗った桑の広蓋を引き寄せて、それに手携げや懐中物を入れ終わると、飽く事もなくその縁から底にかけての円味を持った微妙な手ざわりを愛で慈しんだ。
場所がらとてそこここからこの界隈に特有な楽器の声が聞こえて来た。天長節であるだけにきょうはことさらそれがにぎやかなのかもしれない。戸外にはぽくり[#「ぽくり」に傍点]やあずま下駄の音が少し冴えて絶えずしていた。着飾った芸者たちがみがき上げた顔をびりびりするような夜寒に惜しげもなく伝法にさらして、さすがに寒気に足を早めながら、招ばれた所に繰り出して行くその様子が、まざまざと履き物の音を聞いたばかりで葉子の想像には描かれるのだった。合い乗りらしい人力車のわだちの音も威勢よく響いて来た。葉子はもう一度これは屈強な避難所に来たものだと思った。この界隈では葉子は眦を反して人から見られる事はあるまい。
珍しくあっさり[#「あっさり」に傍点]した、魚の鮮しい夕食を済ますと葉子は風呂をつかって、思い存分髪を洗った。足しない船の中の淡水では洗っても洗ってもねち[#「ねち」に傍点]ねちと垢の取り切れなかったものが、さわれば手が切れるほどさば[#「さば」に傍点]さばと油が抜けて、葉子は頭の中まで軽くなるように思った。そこに女将も食事を終えて話相手になりに来た。
「たいへんお遅うございますこと、今夜のうちにお帰りになるでしょうか」
そう女将は葉子の思っている事を魁けにいった。「さあ」と葉子もはっきり[#「はっきり」に傍点]しない返事をしたが、小寒くなって来たので浴衣を着かえようとすると、そこに袖だたみにしてある自分の着物につくづく愛想が尽きてしまった。このへんの女中に対してもそんなしつっこい[#「しつっこい」に傍点]けばけばしい柄の着物は二度と着る気にはなれなかった。そうなると葉子はしゃにむにそれがたまらなくなって来るのだ。葉子はうんざり[#「うんざり」に傍点]した様子をして自分の着物から女将に目をやりながら、
「見てくださいこれを。この冬は米国にいるのだとばかり決めていたので、あんなものを作ってみたんですけれども、我慢にももう着ていられなくなりましたわ。後生。あなたの所に何かふだん着のあいたのでもないでしょうか」
「どうしてあなた。わたしはこれでござんすもの」
と女将は剽軽にも気軽くちゃん[#「ちゃん」に傍点]と立ち上がって自分の背たけの低さを見せた。そうして立ったままでしばらく考えていたが、踊りで仕込み抜いたような手つきではた[#「はた」に傍点]と膝の上をたたいて、
「ようございます。わたし一つ倉地さんをびっくら[#「びっくら」に傍点]さして上げますわ。わたしの妹分に当たるのに柄といい年格好といい、失礼ながらあなた様とそっくり[#「そっくり」に傍点]なのがいますから、それのを取り寄せてみましょう。あなた様は洗い髪でいらっしゃるなり……いかが、わたしがすっかり[#「すっかり」に傍点]仕立てて差し上げますわ」
この思い付きは葉子には強い誘惑だった。葉子は一も二もなく勇み立って承知した。
その晩十一時を過ぎたころに、まとめた荷物を人力車四台に積み乗せて、倉地が双鶴館に着いて来た。葉子は女将の入れ知恵でわざと玄関には出迎えなかった。葉子はいたずら者らしくひとり笑いをしながら立て膝をしてみたが、それには自分ながら気がひけたので、右足を左の腿の上に積み乗せるようにしてその足先をとんび[#「とんび」に傍点]にしてすわってみた。ちょうどそこにかなり酔ったらしい様子で、倉地が女将の案内も待たずにずしん[#「ずしん」に傍点]ずしんという足どりではいって来た。葉子と顔を見合わした瞬間には部屋を間違えたと思ったらしく、少しあわてて身を引こうとしたが、すぐ櫛巻きにして黒襟をかけたその女が葉子だったのに気が付くと、いつもの渋いように顔をくずして笑いながら、
「なんだばかをしくさって」
とほざくようにいって、長火鉢の向かい座にどっか[#「どっか」に傍点]とあぐらをかいた。ついて来た女将は立ったまましばらく二人を見くらべていたが、
「ようよう……変てこなお内裏雛様」
と陽気にかけ声をして笑いこけるようにぺちゃん[#「ぺちゃん」に傍点]とそこにすわり込んだ。三人は声を立てて笑った。
と、女将は急にまじめに返って倉地に向かい、
「こちらはきょうの報正新報を……」
といいかけるのを、葉子はすばやく目でさえぎった。女将はあぶない土端場で踏みとどまった。倉地は酔眼を女将に向けながら、
「何」
と尻上がりに問い返した。
「そう早耳を走らすとつんぼと間違えられますとさ」
と女将は事もなげに受け流した。三人はまた声を立てて笑った。
倉地と女将との間に一別以来のうわさ話がしばらくの間取りかわされてから、今度は倉地がまじめになった。そして葉子に向かってぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に、
「お前もう寝ろ」
といった。葉子は倉地と女将とをならべて一目見たばかりで、二人の間の潔白なのを見て取っていたし、自分が寝てあとの相談というても、今度の事件を上手にまとめようというについての相談だという事がのみ込めていたので、素直に立って座をはずした。
中の十畳を隔てた十六畳に二人の寝床は取ってあったが、二人の会話はおりおりかなりはっきり[#「はっきり」に傍点]もれて来た。葉子は別に疑いをかけるというのではなかったが、やはりじっ[#「じっ」に傍点]と耳を傾けないではいられなかった。
何かの話のついでに入用な事が起こったのだろう、倉地はしきりに身のまわりを探って、何かを取り出そうとしている様子だったが、「あいつの手携げに入れたかしらん」という声がしたので葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。あれには「報正新報」の切り抜きが入れてあるのだ。もう飛び出して行ってもおそいと思って葉子は断念していた。やがてはたして二人は切り抜きを見つけ出した様子だった。
「なんだあいつも知っとったのか」
思わず少し高くなった倉地の声がこう聞こえた。
「道理でさっき[#「さっき」に傍点]私がこの事をいいかけるとあの方が目で留めたんですよ。やはり先方でもあなたに知らせまいとして。いじらしいじゃありませんか」
そういう女将の声もした。そして二人はしばらく黙っていた。
葉子は寝床を出てその場に行こうかとも思った。しかし今夜は二人に任せておくほうがいいと思い返してふとんを耳までかぶった。そしてだいぶ夜がふけてから倉地が寝に来るまで快い安眠に前後を忘れていた。
二四
その次の朝女将と話をしたり、呉服屋を呼んだりしたので、日がかなり高くなるまで宿にいた葉子は、いやいやながら例のけばけばしい綿入れを着て、羽織だけは女将が借りてくれた、妹分という人の烏羽黒の縮緬の紋付きにして旅館を出た。倉地は昨夜の夜ふかしにも係わらずその朝早く横浜のほうに出かけたあとだった。きょうも空は菊日和とでもいう美しい晴れかたをしていた。
葉子はわざと宿で車を頼んでもらわずに、煉瓦通りに出てからきれいそうな辻待ちを傭ってそれに乗った。そして池の端のほうに車を急がせた。定子を目の前に置いて、その小さな手をなでたり、絹糸のような髪の毛をもてあそぶ事を思うと葉子の胸はわれにもなくただわくわくとせき込んで来た。眼鏡橋を渡ってから突き当たりの大時計は見えながらなかなかそこまで車が行かないのをもどかしく思った。膝の上に乗せた土産のおもちゃや小さな帽子などをやきもき[#「やきもき」に傍点]しながらひねり回したり、膝掛けの厚い地をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と握り締めたりして、はやる心を押ししずめようとしてみるけれどもそれをどうする事もできなかった。車がようやく池の端に出ると葉子は右、左、と細い道筋の角々でさしずした。そして岩崎の屋敷裏にあたる小さな横町の曲がりかどで車を乗り捨てた。
一か月の間来ないだけなのだけれども、葉子にはそれが一年にも二年にも思われたので、その界隈が少しも変化しないで元のとおりなのがかえって不思議なようだった。じめじめした小溝に沿うて根ぎわの腐れた黒板塀の立ってる小さな寺の境内を突っ切って裏に回ると、寺の貸し地面にぽっつり[#「ぽっつり」に傍点]立った一戸建ての小家が乳母の住む所だ。没義道に頭を切り取られた高野槇が二本旧の姿で台所前に立っている、その二本に干し竿を渡して小さな襦袢や、まる洗いにした胴着が暖かい日の光を受けてぶら下がっているのを見ると葉子はもうたまらなくなった。涙がぽろぽろとたわいもなく流れ落ちた。家の中では定子の声がしなかった。葉子は気を落ち着けるために案内を求めずに入り口に立ったまま、そっと垣根から庭をのぞいて見ると、日あたりのいい縁側に定子がたった一人、葉子にはしごき帯を長く結んだ後ろ姿を見せて、一心不乱にせっせ[#「せっせ」に傍点]と少しばかりのこわれおもちゃをいじくり回していた。何事にまれ真剣な様子を見せつけられると、――わき目もふらず畑を耕す農夫、踏み切りに立って子を背負ったまま旗をかざす女房、汗をしとどにたらしながら坂道に荷車を押す出稼ぎの夫婦――わけもなく涙につまされる葉子は、定子のそうした姿を一目見たばかりで、人間力ではどうする事もできない悲しい出来事にでも出あったように、しみじみとさびしい心持ちになってしまった。
「定ちゃん」
涙を声にしたように葉子は思わず呼んだ。定子がびっくりして後ろを振り向いた時には、葉子は戸をあけて入り口を駆け上がって定子のそばにすり寄っていた。父に似たのだろう痛々しいほど華車作りな定子は、どこにどうしてしまったのか、声も姿も消え果てた自分の母が突然そば近くに現われたのに気を奪われた様子で、とみには声も出さずに驚いて葉子を見守った。
「定ちゃんママだよ。よく丈夫でしたね。そしてよく一人でおとなにして……」
もう声が続かなかった。
「ママちゃん」
そう突然大きな声でいって定子は立ち上がりざま台所のほうに駆けて行った。
「婆やママちゃんが来たのよ」
という声がした。
「え!」
と驚くらしい婆やの声が裏庭から聞こえた。と、あわてたように台所を上がって、定子を横抱きにした婆やが、かぶっていた手ぬぐいを頭からはずしながらころがり込むようにして座敷にはいって来た。二人は向き合ってすわると両方とも涙ぐみながら無言で頭を下げた。
「ちょっと定ちゃんをこっちにお貸し」
しばらくしてから葉子は定子を婆やの膝から受け取って自分のふところに抱きしめた。
「お嬢さま……私にはもう何がなんだかちっとも[#「ちっとも」に傍点]わかりませんが、私はただもうくやしゅうございます。……どうしてこう早くお帰りになったんでございますか……皆様のおっしゃる事を伺っているとあんまり[#「あんまり」に傍点]業腹でございますから……もう私は耳をふさいでおります。あなたから伺ったところがどうせこう年を取りますと腑に落ちる気づかいはございません。でもまあおからだがどうかと思ってお案じ申しておりましたが、御丈夫で何よりでございました……何しろ定子様がおかわいそうで……」
葉子におぼれきった婆やの口からさもくやしそうにこうした言葉がつぶやかれるのを、葉子はさびしい心持ちで聞かねばならなかった。耄碌したと自分ではいいながら、若い時に亭主に死に別れて立派に後家を通して後ろ指一本さされなかった昔気質のしっかり[#「しっかり」に傍点]者だけに、親類たちの陰口やうわさで聞いた葉子の乱行にはあきれ果てていながら、この世でのただ一人の秘蔵物として葉子の頭から足の先までも自分の誇りにしている婆やの切ない心持ちは、ひしひしと葉子にも通じるのだった。婆やと定子……こんな純粋な愛情の中に取り囲まれて、落ち着いた、しとやか[#「しとやか」に傍点]な、そして安穏な一生を過ごすのも、葉子は望ましいと思わないではなかった。ことに婆やと定子とを目の前に置いて、つつましやかな過不足のない生活をながめると、葉子の心は知らず知らずなじんで行くのを覚えた。
しかし同時に倉地の事をちょっとでも思うと葉子の血は一時にわき立った。平穏な、その代わり死んだも同然な一生がなんだ。純粋な、その代わり冷えもせず熱しもしない愛情がなんだ。生きる以上は生きてるらしく生きないでどうしよう。愛する以上は命と取りかえっこをするくらいに愛せずにはいられない。そうした衝動が自分でもどうする事もできない強い感情になって、葉子の心を本能的に煽ぎ立てるのだった。この奇怪な二つの矛盾が葉子の心の中には平気で両立しようとしていた。葉子は眼前の境界でその二つの矛盾を割合に困難もなく使い分ける不思議な心の広さを持っていた。ある時には極端に涙もろく、ある時には極端に残虐だった。まるで二人の人が一つの肉体に宿っているかと自分ながら疑うような事もあった。それが時にはいまいましかった、時には誇らしくもあった。
「定ちゃま。ようこざいましたね、ママちゃんが早くお帰りになって。お立ちになってからでもお聞き分けよくママのマの字もおっしゃらなかったんですけれども、どうかするとこうぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]考えてでもいらっしゃるようなのがおかわいそうで、一時はおからだでも悪くなりはしないかと思うほどでした。こんなでもなかなか心は働いていらっしゃるんですからねえ」
と婆やは、葉子の膝の上に巣食うように抱かれて、黙ったまま、澄んだひとみで母の顔を下からのぞくようにしている定子と葉子とを見くらべながら、述懐めいた事をいった。葉子は自分の頬を、暖かい桃の膚のように生毛の生えた定子の頬にすりつけながら、それを聞いた。
「お前のその気象でわからないとおいいなら、くどくどいったところがむだかもしれないから、今度の事については私なんにも話すまいが、家の親類たちのいう事なんぞはきっと気にしないでおくれよ。今度の船には飛んでもない一人の奥さんが乗り合わしていてね、その人がちょっとした気まぐれからある事ない事取りまぜてこっちにいってよこしたので、事あれかしと待ち構えていた人たちの耳にはいったんだから、これから先だってどんなひどい事をいわれるかしれたもんじゃないんだよ。お前も知ってのとおり私は生まれ落ちるとからつむじ曲がりじゃあったけれども、あんなに周囲からこづき回されさえしなければこんなになりはしなかったのだよ。それはだれよりもお前が知ってておくれだわね。これからだって私は私なりに押し通すよ。だれがなんといったって構うもんですか。そのつもりでお前も私を見ていておくれ。広い世の中に私がどんな失策をしでかしても、心から思いやってくれるのはほんとうにお前だけだわ。……今度からは私もちょいちょい来るだろうけれども、この上ともこの子を頼みますよ。ね、定ちゃん。よく婆やのいう事を聞いていい子になってちょうだいよ。ママちゃんはここにいる時でもいない時でも、いつでもあなたを大事に大事に思ってるんだからね。……さ、もうこんなむずかしいお話はよしてお昼のおしたくでもしましょうね。きょうはママちゃんがおいしいごちそうをこしらえて上げるから定ちゃんも手伝いしてちょうだいね」
そういって葉子は気軽そうに立ち上がって台所のほうに定子と連れだった。婆やも立ち上がりはしたがその顔は妙に冴えなかった。そして台所で働きながらややともすると内所で鼻をすすっていた。
そこには葉山で木部孤※[11]と同棲していた時に使った調度が今だに古びを帯びて保存されたりしていた。定子をそばにおいてそんなものを見るにつけ、少し感傷的になった葉子の心は涙に動こうとした。けれどもその日はなんといっても近ごろ覚えないほどしみじみとした楽しさだった。何事にでも器用な葉子は不足がちな台所道具を巧みに利用して、西洋風な料理と菓子とを三品ほど作った。定子はすっかり[#「すっかり」に傍点]喜んでしまって、小さな手足をまめまめしく働かしながら、「はいはい」といって庖丁をあっちに運んだり、皿をこっちに運んだりした。三人は楽しく昼飯の卓についた。そして夕方まで水入らずにゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]暮らした。
その夜は妹たちが学校から来るはずになっていたので葉子は婆やの勧める晩飯も断わって夕方その家を出た。入り口の所につくねん[#「つくねん」に傍点]と立って姿やに両肩をささえられながら姿の消えるまで葉子を見送った定子の姿がいつまでもいつまでも葉子の心から離れなかった。夕闇にまぎれた幌の中で葉子は幾度かハンケチを目にあてた。
宿に着くころには葉子の心持ちは変わっていた。玄関にはいって見ると、女学校でなければ履かれないような安下駄のきたなくなったのが、お客や女中たちの気取った履き物の中にまじって脱いであるのを見て、もう妹たちが来て待っているのを知った。さっそくに出迎えに出た女将に、今夜は倉地が帰って来たら他所の部屋で寝るように用意をしておいてもらいたいと頼んで、静々と二階へ上がって行った。
襖をあけて見ると二人の姉妹はぴったり[#「ぴったり」に傍点]とくっつき[#「くっつき」に傍点]合って泣いていた。人の足音を姉のそれだとは充分に知りながら、愛子のほうは泣き顔を見せるのが気まりが悪いふうで、振り向きもせずに一入うなだれてしまったが、貞世のほうは葉子の姿を一目見るなり、はねるように立ち上がって激しく泣きながら葉子のふところに飛びこんで来た。葉子も思わず飛び立つように貞世を迎えて、長火鉢のかたわらの自分の座にすわると、貞世はその膝に突っ伏してすすり上げすすり上げ可憐な背中に波を打たした。これほどまでに自分の帰りを待ちわびてもい、喜んでもくれるのかと思うと、骨肉の愛着からも、妹だけは少なくとも自分の掌握の中にあるとの満足からも、葉子はこの上なくうれしかった。しかし火鉢からはるか離れた向こう側に、うやうやしく居ずまいを正して、愛子がひそひそと泣きながら、規則正しくおじぎをするのを見ると葉子はすぐ癪にさわった。どうして自分はこの妹に対して優しくする事ができないのだろうとは思いつつも、葉子は愛子の所作を見ると一々気にさわらないではいられないのだ。葉子の目は意地わるく剣を持って冷ややかに小柄で堅肥りな愛子を激しく見すえた。
「会いたてからつけ[#「つけ」に傍点]つけいうのもなんだけれども、なんですねえそのおじぎのしかたは、他人行儀らしい。もっと打ち解けてくれたっていいじゃないの」
というと愛子は当惑したように黙ったまま目を上げて葉子を見た。その目はしかし恐れても恨んでもいるらしくはなかった。小羊のような、まつ毛の長い、形のいい大きな目が、涙に美しくぬれて夕月のようにぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]とならんでいた。悲しい目つきのようだけれども、悲しいというのでもない。多恨な目だ。多情な目でさえあるかもしれない。そう皮肉な批評家らしく葉子は愛子の目を見て不快に思った。大多数の男はあんな目で見られると、この上なく詩的な霊的な一瞥を受け取ったようにも思うのだろう。そんな事さえ素早く考えの中につけ加えた。貞世が広い帯をして来ているのに、愛子が少し古びた袴をはいているのさえさげすまれた。
「そんな事はどうでもようござんすわ。さ、お夕飯にしましょうね」
葉子はやがて自分の妄念をかき払うようにこういって、女中を呼んだ。
貞世は寵児らしくすっかりはしゃぎきっていた。二人が古藤につれられて始めて田島の塾に行った時の様子から、田島先生が非常に二人をかわいがってくれる事から、部屋の事、食物の事、さすがに女の子らしく細かい事まで自分一人の興に乗じて談り続けた。愛子も言葉少なに要領を得た口をきいた。
「古藤さんが時々来てくださるの?」
と聞いてみると、貞世は不平らしく、
「いゝえ、ちっとも」
「ではお手紙は?」
「来てよ、ねえ愛ねえさま。二人の所に同じくらいずつ来ますわ」
と、愛子は控え目らしくほほえみながら上目越しに貞世を見て、
「貞ちゃんのほうに余計来るくせに」
となんでもない事で争ったりした。愛子は姉に向かって、
「塾に入れてくださると古藤さんが私たちに、もうこれ以上私のして上げる事はないと思うから、用がなければ来ません。その代わり用があったらいつでもそういっておよこしなさいとおっしゃったきりいらっしゃいませんのよ。そうしてこちらでも古藤さんにお願いするような用はなんにもないんですもの」
といった。葉子はそれを聞いてほほえみながら古藤が二人を塾につれて行った時の様子を想像してみた。例のようにどこの玄関番かと思われる風体をして、髪を刈る時のほか剃らない顎ひげを一二分ほども延ばして、頑丈な容貌や体格に不似合いなはにかんだ口つきで、田島という、男のような女学者と話をしている様子が見えるようだった。
しばらくそんな表面的なうわさ話などに時を過ごしていたが、いつまでもそうはしていられない事を葉子は知っていた。この年齢の違った二人の妹に、どっちにも堪念の行くように今の自分の立場を話して聞かせて、悪い結果をその幼い心に残さないようにしむけるのはさすがに容易な事ではなかった。葉子は先刻からしきりにそれを案じていたのだ。
「これでも召し上がれ」
食事が済んでから葉子は米国から持って来たキャンディーを二人の前に置いて、自分は煙草を吸った。貞世は目を丸くして姉のする事を見やっていた。
「ねえさまそんなもの吸っていいの?」
と会釈なく尋ねた。愛子も不思議そうな顔をしていた。
「えゝこんな悪い癖がついてしまったの。けれどもねえさんにはあなた方の考えてもみられないような心配な事や困る事があるものだから、つい憂さ晴らしにこんな事も覚えてしまったの。今夜はあなた方にわかるようにねえさんが話して上げてみるから、よく聞いてちょうだいよ」
倉地の胸に抱かれながら、酔いしれたようにその頑丈な、日に焼けた、男性的な顔を見やる葉子の、乙女というよりももっと子供らしい様子は、二人の妹を前に置いてきちん[#「きちん」に傍点]と居ずまいを正した葉子のどこにも見いだされなかった。その姿は三十前後の、充分分別のある、しっかり[#「しっかり」に傍点]した一人の女性を思わせた。貞世もそういう時の姉に対する手心を心得ていて、葉子から離れてまじめにすわり直した。こんな時うっかり[#「うっかり」に傍点]その威厳を冒すような事でもすると、貞世にでもだれにでも葉子は少しの容赦もしなかった。しかし見た所はいかにも慇懃に口を開いた。
「わたしが木村さんの所にお嫁に行くようになったのはよく知ってますね。米国に出かけるようになったのもそのためだったのだけれどもね、もともと木村さんは私のように一度先にお嫁入りした人をもらうような方ではなかったんだしするから、ほんとうはわたしどうしても心は進まなかったんですよ。でも約束だからちゃん[#「ちゃん」に傍点]と守って行くには行ったの。けれどもね先方に着いてみるとわたしのからだの具合がどうもよくなくって上陸はとてもできなかったからしかたなしにまた同じ船で帰るようになったの。木村さんはどこまでもわたしをお嫁にしてくださるつもりだから、わたしもその気ではいるのだけれども、病気ではしかたがないでしょう。それに恥ずかしい事を打ち明けるようだけれども、木村さんにもわたしにも有り余るようなお金がないものだから、行きも帰りもその船の事務長という大切な役目の方にお世話にならなければならなかったのよ。その方が御親切にもわたしをここまで連れて帰ってくださったばかりで、もう一度あなた方にもあう事ができたんだから、わたしはその倉地という方――倉はお倉の倉で、地は地球の地と書くの。三吉というお名前は貞ちゃんにもわかるでしょう――その倉地さんにはほんとうにお礼の申しようもないくらいなんですよ。愛さんなんかはその方の事で叔母さんなんぞからいろいろな事を聞かされて、ねえさんを疑っていやしないかと思うけれども、それにはまたそれでめんどうなわけのある事なのだから、夢にも人のいう事なんぞをそのまま受け取ってもらっちゃ困りますよ。ねえさんを信じておくれ、ね、よござんすか。わたしはお嫁なんぞに行かないでもいい、あなた方とこうしているほどうれしい事はないと思いますよ。木村さんのほうにお金でもできて、わたしの病気がなおりさえすれば結婚するようになるかもしれないけれども、それはいつの事ともわからないし、それまではわたしはこうしたままで、あなた方と一緒にどこかにお家を持って楽しく暮らしましょうね。いいだろう貞ちゃん。もう寄宿なんぞにいなくってもようござんすよ」
「おねえさまわたし寄宿では夜になるとほんとうは泣いてばかりいたのよ。愛ねえさんはよくお寝になってもわたしは小さいから悲しかったんですもの」
そう貞世は白状するようにいった。さっきまではいかにも楽しそうにいっていたその可憐な同じ口びるから、こんな哀れな告白を聞くと葉子は一入しんみり[#「しんみり」に傍点]した心持ちになった。
「わたしだってもよ。貞ちゃんは宵の口だけくすくす泣いてもあとはよく寝ていたわ。ねえ様、私は今まで貞ちゃんにもいわないでいましたけれども……みんなが聞こえよがしにねえ様の事をかれこれいいますのに、たまに悪いと思って貞ちゃんと叔母さんの所に行ったりなんぞすると、それはほんとうにひどい……ひどい事をおっしゃるので、どっち[#「どっち」に傍点]に行ってもくやしゅうございましたわ。古藤さんだってこのごろはお手紙さえくださらないし……田島先生だけはわたしたち二人をかわいそうがってくださいましたけれども……」
葉子の思いは胸の中で煮え返るようだった。
「もういい堪忍してくださいよ。ねえさんがやはり至らなかったんだから。おとうさんがいらっしゃればお互いにこんないやな目にはあわないんだろうけれども(こういう場合葉子はおくび[#「おくび」に傍点]にも母の名は出さなかった)親のないわたしたちは肩身が狭いわね。まああなた方はそんなに泣いちゃだめ。愛さんなんですねあなたから先に立って。ねえさんが帰った以上はねえさんになんでも任して安心して勉強してくださいよ。そして世間の人を見返しておやり」
葉子は自分の心持ちを憤ろしくいい張っているのに気がついた。いつのまにか自分までが激しく興奮していた。
火鉢の火はいつか灰になって、夜寒がひそやかに三人の姉妹にはいよっていた。もう少し睡気を催して来た貞世は、泣いたあとの渋い目を手の甲でこすりながら、不思議そうに興奮した青白い姉の顔を見やっていた。愛子は瓦斯の灯に顔をそむけながらしくしくと泣き始めた。
葉子はもうそれを止めようとはしなかった。自分ですら声を出して泣いてみたいような衝動をつき返しつき返し水落の所に感じながら、火鉢の中を見入ったまま細かく震えていた。
生まれかわらなければ回復しようのないような自分の越し方行く末が絶望的にはっきり[#「はっきり」に傍点]と葉子の心を寒く引き締めていた。
それでも三人が十六畳に床を敷いて寝てだいぶたってから、横浜から帰って来た倉地が廊下を隔てた隣の部屋に行くのを聞き知ると、葉子はすぐ起きかえってしばらく妹たちの寝息気をうかがっていたが、二人がいかにも無心に赤々とした頬をしてよく寝入っているのを見窮めると、そっとどてら[#「どてら」に傍点]を引っかけながらその部屋を脱け出した。
二五
それから一日置いて次の日に古藤から九時ごろに来るがいいかと電話がかかって来た。葉子は十時すぎにしてくれと返事をさせた。古藤に会うには倉地が横浜に行ったあとがいいと思ったからだ。
東京に帰ってから叔母と五十川女史の所へは帰った事だけを知らせては置いたが、どっちからも訪問は元よりの事一言半句の挨拶もなかった。責めて来るなり慰めて来るなり、なんとかしそうなものだ。あまりといえば人を踏みつけにしたしわざだとは思ったけれども、葉子としては結句それがめんどうがなくっていいとも思った。そんな人たちに会っていさくさ[#「いさくさ」に傍点]口をきくよりも、古藤と話しさえすればその口裏から東京の人たちの心持ちも大体はわかる。積極的な自分の態度はその上で決めてもおそくはないと思案した。
双鶴館の女将はほんとうに目から鼻に抜けるように落ち度なく、葉子の影身になって葉子のために尽くしてくれた。その後ろには倉地がいて、あのいかにも疎大らしく見えながら、人の気もつかないような綿密な所にまで気を配って、采配を振っているのはわかっていた。新聞記者などがどこをどうして探り出したか、始めのうちは押し強く葉子に面会を求めて来たのを、女将が手ぎわよく追い払ったので、近づきこそはしなかったが遠巻きにして葉子の挙動に注意している事などを、女将は眉をひそめながら話して聞かせたりした。木部の恋人であったという事がひどく記者たちの興味をひいたように見えた。葉子は新聞記者と聞くと、震え上がるほどいやな感じを受けた。小さい時分に女記者になろうなどと人にも口外した覚えがあるくせに、探訪などに来る人たちの事を考えるといちばん賤しい種類の人間のように思わないではいられなかった。仙台で、新聞社の社長と親佐と葉子との間に起こった事として不倫な捏造記事(葉子はその記事のうち、母に関してはどのへんまでが捏造であるか知らなかった。少なくとも葉子に関しては捏造だった)が掲載されたばかりでなく、母のいわゆる寃罪は堂々と新聞紙上で雪がれたが、自分のはとうとうそのままになってしまった、あの苦い経験などがますます葉子の考えを頑なにした。葉子が「報正新報」の記事を見た時も、それほど田川夫人が自分を迫害しようとするなら、こちらもどこかの新聞を手に入れて田川夫人に致命傷を与えてやろうかという(道徳を米の飯と同様に見て生きているような田川夫人に、その点に傷を与えて顔出しができないようにするのは容易な事だと葉子は思った)企みを自分ひとりで考えた時でも、あの記者というものを手なずけるまでに自分を堕落させたくないばかりにその目論見を思いとどまったほどだった。
その朝も倉地と葉子とは女将を話相手に朝飯を食いながら新聞に出たあの奇怪な記事の話をして、葉子がとうにそれをちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知っていた事などを談り合いながら笑ったりした。
「忙しいにかまけて、あれはあのままにしておったが……一つはあまり短兵急にこっち[#「こっち」に傍点]から出しゃばると足もとを見やがるで、……あれはなんとかせんとめんどうだて」
と倉地はがらっ[#「がらっ」に傍点]と箸を膳に捨てながら、葉子から女将に目をやった。
「そうですともさ。下らない、あなた、あれであなたのお職掌にでもけち[#「けち」に傍点]が付いたらほんとうにばかばかしゅうござんすわ。報正新報社にならわたし御懇意の方も二人や三人はいらっしゃるから、なんならわたしからそれとなくお話ししてみてもようございますわ。わたしはまたお二人とも今まであんまり平気でいらっしゃるんで、もうなんとかお話がついたのだとばかり思ってましたの」
と女将は怜しそうな目に真味な色を見せてこういった。倉地は無頓着に「そうさな」といったきりだったが、葉子は二人の意見がほぼ一致したらしいのを見ると、いくら女将が巧みに立ち回ってもそれをもみ消す事はできないといい出した。なぜといえばそれは田川夫人が何か葉子を深く意趣に思ってさせた事で、「報正新報」にそれが現われたわけは、その新聞が田川博士の機関新聞だからだと説明した。倉地は田川と新聞との関係を始めて知ったらしい様子で意外な顔つきをした。
「おれはまた興録のやつ……あいつはべらべらしたやつで、右左のはっきり[#「はっきり」に傍点]しない油断のならぬ男だから、あいつの仕事かとも思ってみたが、なるほどそれにしては記事の出かたが少し早すぎるて」
そういってやおら立ち上がりながら次の間に着かえに行った。
女中が膳部を片づけ終わらぬうちに古藤が来たという案内があった。
葉子はちょっと当惑した。あつらえておいた衣類がまだできないのと、着具合がよくって、倉地からもしっくり[#「しっくり」に傍点]似合うとほめられるので、その朝も芸者のちょいちょい着らしい、黒繻子の襟の着いた、伝法な棒縞の身幅の狭い着物に、黒繻子と水色匹田の昼夜帯をしめて、どてら[#「どてら」に傍点]を引っかけていたばかりでなく、髪までやはり櫛巻きにしていたのだった。えゝ、いい構うものか、どうせ鼻をあかさせるならのっけ[#「のっけ」に傍点]からあかさせてやろう、そう思って葉子はそのままの姿で古藤を待ち構えた。
昔のままの姿で、古藤は旅館というよりも料理屋といったふうの家の様子に少し鼻じろみながらはいって来た。そうして飛び離れて風体の変わった葉子を見ると、なおさら勝手が違って、これがあの葉子なのかというように、驚きの色を隠し立てもせずに顔に現わしながら、じっ[#「じっ」に傍点]とその姿を見た。
「まあ義一さんしばらく。お寒いのね。どうぞ火鉢によってくださいましな。ちょっと御免くださいよ」そういって、葉子はあでやかに上体だけを後ろにひねって、広蓋から紋付きの羽織を引き出して、すわったままどてら[#「どてら」に傍点]と着直した。なまめかしいにおいがその動作につれてひそやかに部屋の中に動いた。葉子は自分の服装がどう古藤に印象しているかなどを考えてもみないようだった。十年も着慣れたふだん着できのうも会ったばかりの弟のように親しい人に向かうようなとりなし[#「とりなし」に傍点]をした。古藤はとみには口もきけないように思い惑っているらしかった。多少垢になった薩摩絣の着物を着て、観世撚の羽織紐にも、きちん[#「きちん」に傍点]とはいた袴にも、その人の気質が明らかに書き記してあるようだった。
「こんなでたいへん変な所ですけれどもどうか気楽になさってくださいまし。それでないとなんだか改まってしまってお話がしにくくっていけませんから」
心置きない、そして古藤を信頼している様子を巧みにもそれとなく気取らせるような葉子の態度はだんだん古藤の心を静めて行くらしかった。古藤は自分の長所も短所も無自覚でいるような、そのくせどこかに鋭い光のある目をあげてまじまじと葉子を見始めた。
「何より先にお礼。ありがとうございました妹たちを。おととい二人でここに来てたいへん喜んでいましたわ」
「なんにもしやしない、ただ塾に連れて行って上げただけです。お丈夫ですか」
古藤はありのままをありのままにいった。そんな序曲的な会話を少し続けてから葉子はおもむろに探り知っておかなければならないような事柄に話題を向けて行った。
「今度こんなひょん[#「ひょん」に傍点]な事でわたしアメリカに上陸もせず帰って来る事になったんですが、ほんとうをおっしゃってくださいよ、あなたはいったいわたしをどうお思いになって」
葉子は火鉢の縁に両肘をついて、両手の指先を鼻の先に集めて組んだりほどいたりしながら、古藤の顔に浮かび出るすべての意味を読もうとした。
「えゝ、ほんとうをいいましょう」
そう決心するもののように古藤はいってからひと膝乗り出した。
「この十二月に兵隊に行かなければならないものだから、それまでに研究室の仕事を片づくものだけは片づけて置こうと思ったので、何もかも打ち捨てていましたから、このあいだ横浜からあなたの電話を受けるまでは、あなたの帰って来られたのを知らないでいたんです。もっとも帰って来られるような話はどこかで聞いたようでしたが。そして何かそれには重大なわけがあるに違いないとは思っていましたが。ところがあなたの電話を切るとまもなく木村君の手紙が届いて来たんです。それはたぶん絵島丸より一日か二日早く大北汽船会社の船が着いたはずだから、それが持って来たんでしょう。ここに持って来ましたが、それを見て僕は驚いてしまったんです。ずいぶん長い手紙だからあとで御覧になるなら置いて行きましょう。簡単にいうと(そういって古藤はその手紙の必要な要点を心の中で整頓するらしくしばらく黙っていたが)木村君はあなたが帰るようになったのを非常に悲しんでいるようです。そしてあなたほど不幸な運命にもてあそばれる人はない。またあなたほど誤解を受ける人はない。だれもあなたの複雑な性格を見窮めて、その底にある尊い点を拾い上げる人がないから、いろいろなふうにあなたは誤解されている。あなたが帰るについては日本でも種々さまざまな風説が起こる事だろうけれども、君だけはそれを信じてくれちゃ困る。それから……あなたは今でも僕の妻だ……病気に苦しめられながら、世の中の迫害を存分に受けなければならないあわれむべき女だ。他人がなんといおうと君だけは僕を信じて……もしあなたを信ずることができなければ僕を信じて、あなたを妹だと思ってあなたのために戦ってくれ……ほんとうはもっと最大級の言葉が使ってあるのだけれども大体そんな事が書いてあったんです。それで……」
「それで?」
葉子は目の前で、こんがらがった糸が静かにほごれて行くのを見つめるように、不思議な興味を感じながら、顔だけは打ち沈んでこう促した。
「それでですね。僕はその手紙に書いてある事とあなたの電話の『滑稽だった』という言葉とをどう結び付けてみたらいいかわからなくなってしまったんです。木村の手紙を見ない前でもあなたのあの電話の口調には……電話だったせいかまるでのんきな冗談口のようにしか聞こえなかったものだから……ほんとうをいうとかなり不快を感じていた所だったのです。思ったとおりをいいますから怒らないで聞いてください」
「何を怒りましょう。ようこそはっきり[#「はっきり」に傍点]おっしゃってくださるわね。あれはわたしもあとでほんとうにすまなかったと思いましたのよ。木村が思うようにわたしは他人の誤解なんぞそんなに気にしてはいないの。小さい時から慣れっこになってるんですもの。だから皆さんが勝手なあて推量なぞをしているのが少しは癪にさわったけれども、滑稽に見えてしかたがなかったんですのよ。そこにもって来て電話であなたのお声が聞こえたもんだから、飛び立つようにうれしくって思わずしらずあんな軽はずみな事をいってしまいましたの。木村から頼まれて私の世話を見てくださった倉地という事務長の方もそれはきさく[#「きさく」に傍点]な親切な人じゃありますけれども、船で始めて知り合いになった方だから、お心安立てなんぞはできないでしょう。あなたのお声がした時にはほんとうに敵の中から救い出されたように思ったんですもの……まあしかしそんな事は弁解するにも及びませんわ。それからどうなさって?」
古藤は例の厚い理想の被の下から、深く隠された感情が時々きらきらとひらめくような目を、少し物惰げに大きく見開いて葉子の顔をつれづれと見やった。初対面の時には人並みはずれて遠慮がちだったくせに、少し慣れて来ると人を見徹そうとするように凝視するその目は、いつでも葉子に一種の不安を与えた。古藤の凝視にはずうずうしいという所は少しもなかった。また故意にそうするらしい様子も見えなかった。少し鈍と思われるほど世事にうとく、事物のほんとうの姿を見て取る方法に暗いながら、まっ正直に悪意なくそれをなし遂げようとするらしい目つきだった。古藤なんぞに自分の秘密がなんであばかれてたまるものかと多寡をくくりつつも、その物軟らかながらどんどん人の心の中にはいり込もうとするような目つきにあうと、いつか秘密のどん底を誤たずつかまれそうな気がしてならなかった。そうなるにしてもしかしそれまでには古藤は長い間忍耐して待たなければならないだろう、そう思って葉子は一面小気味よくも思った。
こんな目で古藤は、明らかな疑いを示しつつ葉子を見ながら、さらに語り続けた所によれば、古藤は木村の手紙を読んでから思案に余って、その足ですぐ、まだ釘店の家の留守番をしていた葉子の叔母の所を尋ねてその考えを尋ねてみようとしたところが、叔母は古藤の立場がどちらに同情を持っているか知れないので、うっかり[#「うっかり」に傍点]した事はいわれないと思ったか、何事も打ち明けずに、五十川女史に尋ねてもらいたいと逃げを張ったらしい。古藤はやむなくまた五十川女史を訪問した。女史とは築地のある教会堂の執事の部屋で会った。女史のいう所によると、十日ほど前に田川夫人の所から船中における葉子の不埒を詳細に知らしてよこした手紙が来て、自分としては葉子のひとり旅を保護し監督する事はとても力に及ばないから、船から上陸する時もなんの挨拶もせずに別れてしまった。なんでもうわさで聞くと病気だといってまだ船に残っているそうだが、万一そのまま帰国するようにでもなったら、葉子と事務長との関係は自分たちが想像する以上に深くなっていると断定してもさしつかえない。せっかく依頼を受けてその責めを果たさなかったのは誠にすまないが、自分たちの力では手に余るのだから推恕していただきたいと書いてあった。で、五十川女史は田川夫人がいいかげんな捏造などする人でないのをよく知っているから、その手紙を重だった親類たちに示して相談した結果、もし葉子が絵島丸で帰って来たら、回復のできない罪を犯したものとして、木村に手紙をやって破約を断行させ、一面には葉子に対して親類一同は絶縁する申し合わせをしたという事を聞かされた。そう古藤は語った。
「僕はこんな事を聞かされて途方に暮れてしまいました。あなたはさっきから倉地というその事務長の事を平気で口にしているが、こっちではその人が問題になっているんです。きょうでも僕はあなたにお会いするのがいいのか悪いのかさんざん迷いました。しかし約束ではあるし、あなたから聞いたらもっと事柄もはっきり[#「はっきり」に傍点]するかと思って、思いきって伺う事にしたんです。……あっちにたった一人いて五十川さんから恐ろしい手紙を受け取らなければならない木村君を僕は心から気の毒に思うんです。もしあなたが誤解の中にいるんなら聞かせてください。僕はこんな重大な事を一方口で判断したくはありませんから」
と話を結んで古藤は悲しいような表情をして葉子を見つめた。小癪な事をいうもんだと葉子は心の中で思ったけれども、指先でもてあそびながら少し振り仰いだ顔はそのままに、あわれむような、からかうような色をかすかに浮かべて、
「えゝ、それはお聞きくださればどんなにでもお話はしましょうとも。けれども天からわたしを信じてくださらないんならどれほど口をすっぱくしてお話をしたってむだね」
「お話を伺ってから信じられるものなら信じようとしているのです僕は」
「それはあなた方のなさる学問ならそれでようござんしょうよ。けれども人情ずくの事はそんなものじゃありませんわ。木村に対してやましいことはいたしませんといったってあなたがわたしを信じていてくださらなければ、それまでのものですし、倉地さんとはお友だちというだけですと誓った所が、あなたが疑っていらっしゃればなんの役にも立ちはしませんからね。……そうしたもんじゃなくって?」
「それじゃ五十川さんの言葉だけで僕にあなたを判断しろとおっしゃるんですか」
「そうね。……それでもようございましょうよ。とにかくそれはわたしが御相談を受ける事柄じゃありませんわ」
そういってる葉子の顔は、言葉に似合わずどこまでも優しく親しげだった。古藤はさすがに怜しく、こうもつれて来た言葉をどこまでも追おうとせずに黙ってしまった。そして「何事も明らさまにしてしまうほうがほんとうはいいのだがな」といいたげな目つきで、格別虐げようとするでもなく、葉子が鼻の先で組んだりほどいたりする手先を見入った。そうしたままでややしばらくの時が過ぎた。
十一時近いこのへんの町並みはいちばん静かだった。葉子はふと雨樋を伝う雨だれの音を聞いた。日本に帰ってから始めて空はしぐれていたのだ。部屋の中は盛んな鉄びんの湯気でそう寒くはないけれども、戸外は薄ら寒い日和になっているらしかった。葉子はぎごちない二人の間の沈黙を破りたいばかりに、ひょっ[#「ひょっ」に傍点]と首をもたげて腰窓のほうを見やりながら、
「おやいつのまにか雨になりましたのね」
といってみた。古藤はそれには答えもせずに、五分刈りの地蔵頭をうなだれて深々とため息をした。
「僕はあなたを信じきる事ができればどれほど幸いだか知れないと思うんです。五十川さんなぞより僕はあなたと話しているほうがずっ[#「ずっ」に傍点]と気持ちがいいんです。それはあなたが同じ年ごろで、――たいへん美しいというためばかりじゃないと(その時古藤はおぼこらしく顔を赤らめていた)思っています。五十川さんなぞはなんでも物を僻目で見るから僕はいやなんです。けれどもあなたは……どうしてあなたはそんな気象でいながらもっと大胆に物を打ち明けてくださらないんです。僕はなんといってもあなたを信ずる事ができません。こんな冷淡な事をいうのを許してください。しかしこれにはあなたにも責めがあると僕は思いますよ。……しかたがない僕は木村君にきょうあなたと会ったこのままをいってやります。僕にはどう判断のしようもありませんもの……しかしお願いしますがねえ。木村君があなたから離れなければならないものなら、一刻でも早くそれを知るようにしてやってください。僕は木村君の心持ちを思うと苦しくなります」
「でも木村は、あなたに来たお手紙によるとわたしを信じきってくれているのではないんですか」
そう葉子にいわれて、古藤はまた返す言葉もなく黙ってしまった。葉子は見る見る非常に興奮して来たようだった。抑え抑えている葉子の気持ちが抑えきれなくなって激しく働き出して来ると、それはいつでも惻々として人に迫り人を圧した。顔色一つ変えないで元のままに親しみを込めて相手を見やりながら、胸の奥底の心持ちを伝えて来るその声は、不思議な力を電気のように感じて震えていた。
「それで結構。五十川のおばさんは始めからいやだいやだというわたしを無理に木村に添わせようとして置きながら、今になってわたしの口から一言の弁解も聞かずに、木村に離縁を勧めようという人なんですから、そりゃわたし恨みもします。腹も立てます。えゝ、わたしはそんな事をされて黙って引っ込んでいるような女じゃないつもりですわ。けれどもあなたは初手からわたしに疑いをお持ちになって、木村にもいろいろ御忠告なさった方ですもの、木村にどんな事をいっておやりになろうともわたしにはねっから[#「ねっから」に傍点]不服はありませんことよ。……けれどもね、あなたが木村のいちばん大切な親友でいらっしゃると思えばこそ、わたしは人一倍あなたをたよりにしてきょうもわざわざこんな所まで御迷惑を願ったりして、……でもおかしいものね、木村はあなたも信じわたしも信じ、わたしは木村も信じあなたも信じ、あなたは木村は信ずるけれどもわたしを疑って……そ、まあ待って……疑ってはいらっしゃりません。そうです。けれども信ずる事ができないでいらっしゃるんですわね……こうなるとわたしは倉地さんにでもおすがりして相談相手になっていただくほかしようがありません。いくらわたし娘の時から周囲から責められ通しに責められていても、今だに女手一つで二人の妹まで背負って立つ事はできませんからね。……」
古藤は二重に折っていたような腰を立てて、少しせきこんで、
「それはあなたに不似合いな言葉だと僕は思いますよ。もし倉地という人のためにあなたが誤解を受けているのなら……」
そういってまだ言葉を切らないうちに、もうとうに横浜に行ったと思われていた倉地が、和服のままで突然六畳の間にはいって来た。これは葉子にも意外だったので、葉子は鋭く倉地に目くばせしたが、倉地は無頓着だった。そして古藤のいるのなどは度外視した傍若無人さで、火鉢の向こう座にどっかとあぐらをかいた。
古藤は倉地を一目見るとすぐ倉地と悟ったらしかった。いつもの癖で古藤はすぐ極度に固くなった。中断された話の続きを持ち出しもしないで、黙ったまま少し伏し目になってひかえていた。倉地は古藤から顔の見えないのをいい事に、早く古藤を返してしまえというような顔つきを葉子にして見せた。葉子はわけはわからないままにその注意に従おうとした。で、古藤の黙ってしまったのをいい事に、倉地と古藤とを引き合わせる事もせずに自分も黙ったまま静かに鉄びんの湯を土びんに移して、茶を二人に勧めて自分も悠々と飲んだりしていた。
突然古藤は居ずまいをなおして、
「もう僕は帰ります。お話は中途ですけれどもなんだか僕はきょうはこれでおいとまがしたくなりました。あとは必要があったら手紙を書きます」
そういって葉子にだけ挨拶して座を立った。葉子は例の芸者のような姿のままで古藤を玄関まで送り出した。
「失礼しましてね、ほんとうにきょうは。もう一度でようございますからぜひお会いになってくださいましな。一生のお願いですから、ね」
と耳打ちするようにささやいたが古藤はなんとも答えず、雨の降り出したのに傘も借りずに出て行った。
「あなたったらまずいじゃありませんか、なんだってあんな幕に顔をお出しなさるの」
こうなじるようにいって葉子が座につくと、倉地は飲み終わった茶わんを猫板の上にとん[#「とん」に傍点]と音をたてて伏せながら、
「あの男はお前、ばかにしてかかっているが、話を聞いていると妙に粘り強い所があるぞ。ばかもあのくらいまっすぐにばかだと油断のできないものなのだ。も少し話を続けていてみろ、お前のやり繰りでは間に合わなくなるから。いったいなんでお前はあんな男をかまいつける必要があるんか、わからないじゃないか。木村にでも未練があれば知らない事」
こういって不敵に笑いながら押し付けるように葉子を見た。葉子はぎくり[#「ぎくり」に傍点]と釘を打たれたように思った。倉地をしっかり[#「しっかり」に傍点]握るまでは木村を離してはいけないと思っている胸算用を倉地に偶然にいい当てられたように思ったからだ。しかし倉地がほんとうに葉子を安心させるためには、しなければならない大事な事が少なくとも一つ残っている。それは倉地が葉子と表向き結婚のできるだけの始末をして見せる事だ。手っ取り早くいえばその妻を離縁する事だ。それまではどうしても木村をのがしてはならない。そればかりではない、もし新聞の記事などが問題になって、倉地が事務長の位置を失うような事にでもなれば、少し気の毒だけれども木村を自分の鎖から解き放さずにおくのが何かにつけて便宜でもある。葉子はしかし前の理由はおくびにも出さずにあとの理由を巧みに倉地に告げようと思った。
「きょうは雨になったで出かけるのが大儀だ。昼には湯豆腐でもやって寝てくれようか」
そういって早くも倉地がそこに横になろうとするのを葉子はしいて起き返らした。
二六
「水戸とかでお座敷に出ていた人だそうですが、倉地さんに落籍されてからもう七八年にもなりましょうか、それは穏当ないい奥さんで、とても商売をしていた人のようではありません。もっとも水戸の士族のお娘御で出るが早いか倉地さんの所にいらっしゃるようになったんだそうですからそのはずでもありますが、ちっともすれていらっしゃらないでいて、気もおつきにはなるし、しとやかでもあり、……」
ある晩双鶴館の女将が話に来て四方山のうわさのついでに倉地の妻の様子を語ったその言葉は、はっきり[#「はっきり」に傍点]と葉子の心に焼きついていた。葉子はそれが優れた人であると聞かされれば聞かされるほど妬ましさを増すのだった。自分の目の前には大きな障害物がまっ暗に立ちふさがっているのを感じた。嫌悪の情にかきむしられて前後の事も考えずに別れてしまったのではあったけれども、仮にも恋らしいものを感じた木部に対して葉子がいだく不思議な情緒、――ふだんは何事もなかったように忘れ果ててはいるものの、思いも寄らないきっかけ[#「きっかけ」に傍点]にふと胸を引き締めて巻き起こって来る不思議な情緒、――一種の絶望的なノスタルジア――それを葉子は倉地にも倉地の妻にも寄せて考えてみる事のできる不幸を持っていた。また自分の生んだ子供に対する執着。それを男も女も同じ程度にきびしく感ずるものかどうかは知らない。しかしながら葉子自身の実感からいうと、なんといってもたとえようもなくその愛着は深かった。葉子は定子を見ると知らぬ間に木部に対して恋に等しいような強い感情を動かしているのに気がつく事がしばしばだった。木部との愛着の結果定子が生まれるようになったのではなく、定子というものがこの世に生まれ出るために、木部と葉子とは愛着のきずなにつながれたのだとさえ考えられもした。葉子はまた自分の父がどれほど葉子を溺愛してくれたかをも思ってみた。葉子の経験からいうと、両親共いなくなってしまった今、慕わしさなつかしさを余計感じさせるものは、格別これといって情愛の徴を見せはしなかったが、始終軟らかい目色で自分たちを見守ってくれていた父のほうだった。それから思うと男というものも自分の生ませた子供に対しては女に譲らぬ執着を持ちうるものに相違ない。こんな過去の甘い回想までが今は葉子の心をむちうつ笞となった。しかも倉地の妻と子とはこの東京にちゃん[#「ちゃん」に傍点]と住んでいる。倉地は毎日のようにその人たちにあっているのに相違ないのだ。
思う男をどこからどこまで自分のものにして、自分のものにしたという証拠を握るまでは、心が責めて責めて責めぬかれるような恋愛の残虐な力に葉子は昼となく夜となく打ちのめされた。船の中での何事も打ち任せきったような心やすい気分は他人事のように、遠い昔の事のように悲しく思いやられるばかりだった。どうしてこれほどまでに自分というものの落ちつき所を見失ってしまったのだろう。そう思う下から、こうしては一刻もいられない。早く早くする事だけをしてしまわなければ、取り返しがつかなくなる。どこからどう手をつければいいのだ。敵を斃さなければ、敵は自分を斃すのだ。なんの躊躇。なんの思案。倉地が去った人たちに未練を残すようならば自分の恋は石や瓦と同様だ。自分の心で何もかも過去はいっさい焼き尽くして見せる。木部もない、定子もない。まして木村もない。みんな捨てる、みんな忘れる。その代わり倉地にも過去という過去をすっかり忘れさせずにおくものか。それほどの蠱惑の力と情熱の炎とが自分にあるかないか見ているがいい。そうしたいちずの熱意が身をこがすように燃え立った。葉子は新聞記者の来襲を恐れて宿にとじこもったまま、火鉢の前にすわって、倉地の不在の時はこんな妄想に身も心もかきむしられていた。だんだん募って来るような腰の痛み、肩の凝り。そんなものさえ葉子の心をますますいらだたせた。
ことに倉地の帰りのおそい晩などは、葉子は座にも居たたまれなかった。倉地の居間になっている十畳の間に行って、そこに倉地の面影を少しでも忍ぼうとした。船の中での倉地との楽しい思い出は少しも浮かんで来ずに、どんな構えとも想像はできないが、とにかく倉地の住居のある部屋に、三人の娘たちに取り巻かれて、美しい妻にかしずかれて杯を干している倉地ばかりが想像に浮かんだ。そこに脱ぎ捨ててある倉地のふだん着はますます葉子の想像をほしいままにさせた。いつでも葉子の情熱を引っつかんでゆすぶり立てるような倉地特有の膚の香い、芳醇な酒や、煙草からにおい出るようなその香いを葉子は衣類をかき寄せて、それに顔を埋めながら、痲痺して行くような気持ちでかぎにかいだ。その香いのいちばん奥に、中年の男に特有なふけ[#「ふけ」に傍点]のような不快な香い、他人ののであったなら葉子はひとたまりもなく鼻をおおうような不快な香いをかぎつけると、葉子は肉体的にも一種の陶酔を感じて来るのだった。その倉地が妻や娘たちに取り巻かれて楽しく一夕を過ごしている。そう思うとあり合わせるものを取って打ちこわすか、つかんで引き裂きたいような衝動がわけもなく嵩じて来るのだった。
それでも倉地が帰って来ると、それは夜おそくなってからであっても葉子はただ子供のように幸福だった。それまでの不安や焦躁はどこにか行ってしまって、悪夢から幸福な世界に目ざめたように幸福だった。葉子はすぐ走って行って倉地の胸にたわいなく抱かれた。倉地も葉子を自分の胸に引き締めた。葉子は広い厚い胸に抱かれながら、単調な宿屋の生活の一日中に起こった些細な事までを、その表情のゆたかな、鈴のような涼しい声で、自分を楽しませているもののごとく語った。倉地は倉地でその声に酔いしれて見えた。二人の幸福はどこに絶頂があるのかわからなかった。二人だけで世界は完全だった。葉子のする事は一つ一つ倉地の心がするように見えた。倉地のこうありたいと思う事は葉子があらかじめそうあらせていた。倉地のしたいと思う事は、葉子がちゃん[#「ちゃん」に傍点]とし遂げていた。茶わんの置き場所まで、着物のしまい所まで、倉地は自分の手でしたとおりを葉子がしているのを見いだしているようだった。
「しかし倉地は妻や娘たちをどうするのだろう」
こんな事をそんな幸福の最中にも葉子は考えない事もなかった。しかし倉地の顔を見ると、そんな事は思うも恥ずかしいような些細な事に思われた。葉子は倉地の中にすっかり[#「すっかり」に傍点]とけ込んだ自分を見いだすのみだった。定子までも犠牲にして倉地をその妻子から切り放そうなどいうたくらみはあまりにばからしい取り越し苦労であるのを思わせられた。
「そうだ生まれてからこのかたわたしが求めていたものはとうとう来ようとしている。しかしこんな事がこう手近にあろうとはほんとうに思いもよらなかった。わたしみたいなばかはない。この幸福の頂上が今だとだれか教えてくれる人があったら、わたしはその瞬間に喜んで死ぬ。こんな幸福を見てから下り坂にまで生きているのはいやだ。それにしてもこんな幸福でさえがいつかは下り坂になる時があるのだろうか」
そんな事を葉子は幸福に浸りきった夢心地の中に考えた。
葉子が東京に着いてから一週間目に、宿の女将の周旋で、芝の紅葉館と道一つ隔てた苔香園という薔薇専門の植木屋の裏にあたる二階建ての家を借りる事になった。それは元紅葉館の女中だった人がある豪商の妾になったについて、その豪商という人が建ててあてがった一構えだった。双鶴館の女将はその女と懇意の間だったが、女に子供が幾人かできて少し手ぜま過ぎるので他所に移転しようかといっていたのを聞き知っていたので、女将のほうで適当な家をさがし出してその女を移らせ、そのあとを葉子が借りる事に取り計らってくれたのだった。倉地が先に行って中の様子を見て来て、杉林のために少し日当たりはよくないが、当分の隠れ家としては屈強だといったので、すぐさまそこに移る事に決めたのだった。だれにも知れないように引っ越さねばならぬというので、荷物を小わけして持ち出すのにも、女将は自分の女中たちにまで、それが倉地の本宅に運ばれるものだといって知らせた。運搬人はすべて芝のほうから頼んで来た。そして荷物があらかた[#「あらかた」に傍点]片づいた所で、ある夜おそく、しかもびしょびしょと吹き降りのする寒い雨風のおりを選んで葉子は幌車に乗った。葉子としてはそれほどの警戒をするには当たらないと思ったけれども、女将がどうしてもきかなかった。安全な所に送り込むまではいったんお引き受けした手まえ、気がすまないといい張った。
葉子があつらえておいた仕立ておろしの衣類を着かえているとそこに女将も来合わせて脱ぎ返しの世話を見た。襟の合わせ目をピンで留めながら葉子が着がえを終えて座につくのを見て、女将はうれしそうにもみ手をしながら、
「これであすこに大丈夫着いてくださりさえすればわたしは重荷が一つ降りると申すものです。しかしこれからがあなたは御大抵じゃこざいませんね。あちらの奥様の事など思いますと、どちらにどうお仕向けをしていいやらわたしにはわからなくなります。あなたのお心持ちもわたしは身にしみてお察し申しますが、どこから見ても批点の打ちどころのない奥様のお身の上もわたしには御不憫で涙がこぼれてしまうんでございますよ。でね、これからの事についちゃわたしはこう決めました。なんでもできます事ならと申し上げたいんでございますけれども、わたしには心底をお打ち明け申しました所、どちら様にも義理が立ちませんから、薄情でもきょうかぎりこのお話には手をひかせていただきます。……どうか悪くお取りになりませんようにね……どうもわたしはこんなでいながら甲斐性がございませんで……」
そういいながら女将は口をきった時のうれしげな様子にも似ず、襦袢の袖を引き出すひまもなく目に涙をいっぱいためてしまっていた。葉子にはそれが恨めしくも憎くもなかった。ただ何となく親身な切なさが自分の胸にもこみ上げて来た。
「悪く取るどころですか。世の中の人が一人でもあなたのような心持ちで見てくれたら、わたしはその前に泣きながら頭を下げてありがとうございますという事でしょうよ。これまでのあなたのお心尽くしでわたしはもう充分。またいつか御恩返しのできる事もありましょう。……それではこれで御免くださいまし。お妹御にもどうか着物のお礼をくれぐれもよろしく」
少し泣き声になってそういいながら、葉子は女将とその妹分にあたるという人に礼心に置いて行こうとする米国製の二つの手携げをしまいこんだ違い棚をちょっと見やってそのまま座を立った。
雨風のために夜はにぎやかな往来もさすがに人通りが絶え絶えだった。車に乗ろうとして空を見上げると、雲はそう濃くはかかっていないと見えて、新月の光がおぼろに空を明るくしている中をあらし模様の雲が恐ろしい勢いで走っていた。部屋の中の暖かさに引きかえて、湿気を充分に含んだ風は裾前をあおってぞくぞくと膚に逼った。ばたばたと風になぶられる前幌を車夫がかけようとしているすきから、女将がみずみずしい丸髷を雨にも風にも思うまま打たせながら、女中のさしかざそうとする雨傘の陰に隠れようともせず、何か車夫にいい聞かせているのが大事らしく見やられた。車夫が梶棒をあげようとする時女将が祝儀袋をその手に渡すのが見えた。
「さようなら」
「お大事に」
はばかるように車の内外から声がかわされた。幌にのしかかって来る風に抵抗しながら車は闇の中を動き出した。
向かい風がうなり[#「うなり」に傍点]を立てて吹きつけて来ると、車夫は思わず車をあおらせて足を止めるほどだった。この四五日火鉢の前ばかりにいた葉子に取っては身を切るかと思われるような寒さが、厚い膝かけの目まで通して襲って来た。葉子は先ほど女将の言葉を聞いた時にはさほどとも思っていなかったが、少しほどたった今になってみると、それがひしひしと身にこたえるのを感じ出した。自分はひょっ[#「ひょっ」に傍点]とするとあざむかれている、もてあそびものにされている。倉地はやはりどこまでもあの妻子と別れる気はないのだ。ただ長い航海中の気まぐれから、出来心に自分を征服してみようと企てたばかりなのだ。この恋のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]が葉子から持ち出されたものであるだけに、こんな心持ちになって来ると、葉子は矢もたてもたまらず自分にひけ目を覚えた。幸福――自分が夢想していた幸福がとうとう来たと誇りがに喜んだその喜びはさもしいぬか喜びに過ぎなかったらしい。倉地は船の中でと同様の喜びでまだ葉子を喜んではいる。それに疑いを入れよう余地はない。けれども美しい貞節な妻と可憐な娘を三人まで持っている倉地の心がいつまで葉子にひかされているか、それをだれが語り得よう、葉子の心は幌の中に吹きこむ風の寒さと共に冷えて行った。世の中からきれいに離れてしまった孤独な魂がたった一つそこには見いだされるようにも思えた。どこにうれしさがある、楽しさがある。自分はまた一つの今までに味わわなかったような苦悩の中に身を投げ込もうとしているのだ。またうまうまといたずら者の運命にしてやられたのだ。それにしてももうこの瀬戸ぎわから引く事はできない。死ぬまで……そうだ死んでもこの苦しみに浸りきらずに置くものか。葉子には楽しさが苦しさなのか、苦しさが楽しさなのか、全く見さかいがつかなくなってしまっていた。魂を締め木にかけてその油でもしぼりあげるようなもだえの中にやむにやまれぬ執着を見いだしてわれながら驚くばかりだった。
ふと車が停まって梶棒がおろされたので葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と夢心地からわれに返った。恐ろしい吹き降りになっていた。車夫が片足で梶棒を踏まえて、風で車のよろめくのを防ぎながら、前幌をはずしにかかると、まっ暗だった前方からかすかに光がもれて来た。頭の上ではざあざあと降りしきる雨の中に、荒海の潮騒のような物すごい響きが何か変事でもわいて起こりそうに聞こえていた。葉子は車を出ると風に吹き飛ばされそうになりながら、髪や新調の着物のぬれるのもかまわず空を仰いで見た。漆を流したような雲で固くとざされた雲の中に、漆よりも色濃くむらむらと立ち騒いでいるのは古い杉の木立ちだった。花壇らしい竹垣の中の灌木の類は枝先を地につけんばかりに吹きなびいて、枯れ葉が渦のようにばらばらと飛び回っていた。葉子はわれにもなくそこにべったり[#「べったり」に傍点]すわり込んでしまいたくなった。
「おい早くはいらんかよ、ぬれてしまうじゃないか」
倉地がランプの灯をかばいつつ家の中からどなるのが風に吹きちぎられながら聞こえて来た。倉地がそこにいるという事さえ葉子には意外のようだった。だいぶ離れた所でどたん[#「どたん」に傍点]と戸か何かはずれたような音がしたと思うと、風はまた一しきりうなり[#「うなり」に傍点]を立てて杉叢をこそいで通りぬけた。車夫は葉子を助けようにも梶棒を離れれば車をけし飛ばされるので、提灯の尻を風上のほうに斜に向けて目八分に上げながら何か大声に後ろから声をかけていた。葉子はすごすごとして玄関口に近づいた。一杯きげんで待ちあぐんだらしい倉地の顔の酒ほてりに似ず、葉子の顔は透き通るほど青ざめていた。なよなよとまず敷き台に腰をおろして、十歩ばかり歩くだけで泥になってしまった下駄を、足先で手伝いながら脱ぎ捨てて、ようやく板の間に立ち上がってから、うつろな目で倉地の顔をじっ[#「じっ」に傍点]と見入った。
「どうだった寒かったろう。まあこっちにお上がり」
そう倉地はいって、そこに出合わしていた女中らしい人に手ランプを渡すと華車な少し急な階子段をのぼって行った。葉子は吾妻コートも脱がずにいいかげんぬれたままで黙ってそのあとからついて行った。
二階の間は電燈で昼間より明るく葉子には思われた。戸という戸ががたぴし[#「がたぴし」に傍点]と鳴りはためいていた。板葺きらしい屋根に一寸釘でもたたきつけるように雨が降りつけていた。座敷の中は暖かくいきれて、飲み食いする物が散らかっているようだった。葉子の注意の中にはそれだけの事がかろうじてはいって来た。そこに立ったままの倉地に葉子は吸いつけられるように身を投げかけて行った。倉地も迎え取るように葉子を抱いたと思うとそのままそこにどっか[#「どっか」に傍点]とあぐらをかいた。そして自分のほてった頬を葉子のにすり付けるとさすがに驚いたように、
「こりゃどうだ冷えたにも氷のようだ」
といいながらその顔を見入ろうとした。しかし葉子は無性に自分の顔を倉地の広い暖かい胸に埋めてしまった。なつかしみと憎しみとのもつれ合った、かつて経験しない激しい情緒がすぐに葉子の涙を誘い出した。ヒステリーのように間歇的にひき起こるすすり泣きの声をかみしめてもかみしめてもとめる事ができなかった。葉子はそうしたまま倉地の胸で息気を引き取る事ができたらと思った。それとも自分のなめているような魂のもだえの中に倉地を巻き込む事ができたらばとも思った。
いそいそと世話女房らしく喜び勇んで二階に上がって来る葉子を見いだすだろうとばかり思っていたらしい倉地は、この理由も知れぬ葉子の狂体に驚いたらしかった。
「どうしたというんだな、え」
と低く力をこめていいながら、葉子を自分の胸から引き離そうとするけれども、葉子はただ無性にかぶりを振るばかりで、駄々児のように、倉地の胸にしがみついた。できるならその肉の厚い男らしい胸をかみ破って、血みどろになりながらその胸の中に顔を埋めこみたい――そういうように葉子は倉地の着物をかんだ。
徐かにではあるけれども倉地の心はだんだん葉子の心持ちに染められて行くようだった。葉子をかき抱く倉地の腕の力は静かに加わって行った。その息気づかいは荒くなって来た。葉子は気が遠くなるように思いながら、締め殺すほど引きしめてくれと念じていた。そして顔を伏せたまま涙のひまから切れ切れに叫ぶように声を放った。
「捨てないでちょうだいとはいいません……捨てるなら捨ててくださってもようござんす……その代わり……その代わり……はっきり[#「はっきり」に傍点]おっしゃってください、ね……わたしはただ引きずられて行くのがいやなんです……」
「何をいってるんだお前は……」
倉地のかんでふくめるような声が耳もと近く葉子にこうささやいた。
「それだけは……それだけは誓ってください……ごまかすのはわたしはいや……いやです」
「何を……何をごまかすかい」
「そんな言葉がわたしはきらいです」
「葉子!」
倉地はもう熱情に燃えていた。しかしそれはいつでも葉子を抱いた時に倉地に起こる野獣のような熱情とは少し違っていた。そこにはやさしく女の心をいたわるような影が見えた。葉子はそれをうれしくも思い、物足らなくも思った。
葉子の心の中は倉地の妻の事をいい出そうとする熱意でいっぱいになっていた。その妻が貞淑な美しい女であると思えば思うほど、その人が二人の間にはさまっているのが呪わしかった。たとい捨てられるまでも一度は倉地の心をその女から根こそぎ奪い取らなければ堪念ができないようなひたむきに狂暴な欲念が胸の中でははち切れそうに煮えくり返っていた。けれども葉子はどうしてもそれを口の端に上せる事はできなかった。その瞬間に自分に対する誇りが塵芥のように踏みにじられるのを感じたからだ。葉子は自分ながら自分の心がじれったかった。倉地のほうから一言もそれをいわないのが恨めしかった。倉地はそんな事はいうにも足らないと思っているのかもしれないが……いゝえそんな事はない、そんな事のあろうはずはない。倉地はやはり二股かけて自分を愛しているのだ。男の心にはそんなみだらな未練があるはずだ。男の心とはいうまい、自分も倉地に出あうまでは、異性に対する自分の愛を勝手に三つにも四つにも裂いてみる事ができたのだ。……葉子はここにも自分の暗い過去の経験のために責めさいなまれた。進んで恋のとりことなったものが当然陥らなければならないたとえようのないほど暗く深い疑惑はあとからあとから口実を作って葉子を襲うのだった。葉子の胸は言葉どおりに張り裂けようとしていた。
しかし葉子の心が傷めば傷むほど倉地の心は熱して見えた。倉地はどうして葉子がこんなにきげんを悪くしているのかを思い迷っている様子だった。倉地はやがてしいて葉子を自分の胸から引き放してその顔を強く見守った。
「何をそう理屈もなく泣いているのだ……お前はおれを疑っているな」
葉子は「疑わないでいられますか」と答えようとしたが、どうしてもそれは自分の面目にかけて口には出せなかった。葉子は涙に解けて漂うような目を恨めしげに大きく開いて黙って倉地を見返した。
「きょうおれはとうとう本店から呼び出されたんだった。船の中での事をそれとなく聞きただそうとしおったから、おれは残らずいってのけたよ。新聞におれたちの事が出た時でもが、あわてるがものはないと思っとったんだ。どうせいつかは知れる事だ。知れるほどなら、大っぴらで早いがいいくらいのものだ。近いうちに会社のほうは首になろうが、おれは、葉子、それが満足なんだぞ。自分で自分の面に泥を塗って喜んでるおれがばかに見えような」
そういってから倉地は激しい力で再び葉子を自分の胸に引き寄せようとした。
葉子はしかしそうはさせなかった。素早く倉地の膝から飛びのいて畳の上に頬を伏せた。倉地の言葉をそのまま信じて、素直にうれしがって、心を涙に溶いて泣きたかった。しかし万一倉地の言葉がその場のがれの勝手な造り事だったら……なぜ倉地は自分の妻や子供たちの事をいっては聞かせてくれないのだ。葉子はわけのわからない涙を泣くより術がなかった。葉子は突っ伏したままでさめざめと泣き出した。
戸外のあらしは気勢を加えて、物すさまじくふけて行く夜を荒れ狂った。
「おれのいうた事がわからんならまあ見とるがいいさ。おれはくどい事は好かんからな」
そういいながら倉地は自分を抑制しようとするようにしいて落ち着いて、葉巻を取り上げて煙草盆を引き寄せた。
葉子は心の中で自分の態度が倉地の気をまずくしているのをはらはらしながら思いやった。気をまずくするだけでもそれだけ倉地から離れそうなのがこの上なくつらかった。しかし自分で自分をどうする事もできなかった。
葉子はあらしの中にわれとわが身をさいなみながらさめざめと泣き続けた。
二七
「何をわたしは考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事はついぞない事だのに」
葉子はその夜倉地と部屋を別にして床についた。倉地は階上に、葉子は階下に。絵島丸以来二人が離れて寝たのはその夜が始めてだった。倉地が真心をこめた様子でかれこれいうのを、葉子はすげなくはねつけて、せっかくとってあった二階の寝床を、女中に下に運ばしてしまった。横になりはしたがいつまでも寝つかれないで二時近くまで言葉どおりに輾転反側しつつ、繰り返し繰り返し倉地の夫婦関係を種々に妄想したり、自分にまくしかかって来る将来の運命をひたすらに黒く塗ってみたりしていた。それでも果ては頭もからだも疲れ果てて夢ばかりな眠りに陥ってしまった。
うつらうつらとした眠りから、突然たとえようのないさびしさにひしひしと襲われて、――それはその時見た夢がそんな暗示になったのか、それとも感覚的な不満が目をさましたのかわからなかった――葉子は暗闇の中に目を開いた。あらしのために電線に故障ができたと見えて、眠る時にはつけ放しにしておいた灯がどこもここも消えているらしかった。あらしはしかしいつのまにか凪ぎてしまって、あらしのあとの晩秋の夜はことさら静かだった。山内いちめんの杉森からは深山のような鬼気がしんしんと吐き出されるように思えた。こおろぎが隣の部屋のすみでかすれがすれに声を立てていた。わずかなしかも浅い睡眠には過ぎなかったけれども葉子の頭は暁前の冷えを感じて冴え冴えと澄んでいた。葉子はまず自分がたった一人で寝ていた事を思った。倉地と関係がなかったころはいつでも一人で寝ていたのだが、よくもそんな事が長年にわたってできたものだったと自分ながら不思議に思われるくらい、それは今の葉子を物足らなく心さびしくさせていた。こうして静かな心になって考えると倉地の葉子に対する愛情が誠実であるのを疑うべき余地はさらになかった。日本に帰ってから幾日にもならないけれども、今まではとにかく倉地の熱意に少しも変わりが起こった所は見えなかった。いかに恋に目がふさがっても、葉子はそれを見きわめるくらいの冷静な眼力は持っていた。そんな事は充分に知り抜いているくせに、おぞましくも昨夜のようなばかなまねをしてしまった自分が自分ながら不思議なくらいだった。どんなに情に激した時でもたいていは自分を見失うような事はしないで通して来た葉子にはそれがひどく恥ずかしかった。船の中にいる時にヒステリーになったのではないかと疑った事が二三度ある――それがほんとうだったのではないかしらんとも思われた。そして夜着にかけた洗い立てのキャリコの裏の冷え冷えするのをふくよかな頤に感じながら心の中で独語ちた。
「何をわたしは考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事はついぞない事だのに」
そういいながら葉子は肩だけ起き直って、枕もとの水を手さぐりでしたたか飲みほした。氷のように冷えきった水が喉もとを静かに流れ下って胃の腑に広がるまではっきり[#「はっきり」に傍点]と感じられた。酒も飲まないのだけれども、酔後の水と同様に、胃の腑に味覚ができて舌の知らない味を味わい得たと思うほど快く感じた。それほど胸の中は熱を持っていたに違いない。けれども足のほうは反対に恐ろしく冷えを感じた。少しその位置を動かすと白さをそのままな寒い感じがシーツから逼って来るのだった。葉子はまたきびしく倉地の胸を思った。それは寒さと愛着とから葉子を追い立てて二階に走らせようとするほどだった。しかし葉子はすでにそれをじっ[#「じっ」に傍点]とこらえるだけの冷静さを回復していた。倉地の妻に対する処置は昨夜のようであっては手ぎわよくは成し遂げられぬ。もっと冷たい知恵に力を借りなければならぬ――こう思い定めながら暁の白むのを知らずにまた眠りに誘われて行った。
翌日葉子はそれでも倉地より先に目をさまして手早く着がえをした。自分で板戸を繰りあけて見ると、縁先には、枯れた花壇の草や灌木が風のために吹き乱された小庭があって、その先は、杉、松、その他の喬木の茂みを隔てて苔香園の手広い庭が見やられていた。きのうまでいた双鶴館の周囲とは全く違った、同じ東京の内とは思われないような静かな鄙びた自然の姿が葉子の目の前には見渡された。まだ晴れきらない狭霧をこめた空気を通して、杉の葉越しにさしこむ朝の日の光が、雨にしっとり[#「しっとり」に傍点]と潤った庭の黒土の上に、まっすぐな杉の幹を棒縞のような影にして落としていた。色さまざまな桜の落ち葉が、日向では黄に紅に、日影では樺に紫に庭をいろどっていた。いろどっているといえば菊の花もあちこちにしつけられていた。しかし一帯の趣味は葉子の喜ぶようなものではなかった。塵一つさえないほど、貧しく見える瀟洒な趣味か、どこにでも金銀がそのまま捨ててあるような驕奢な趣味でなければ満足ができなかった。残ったのを捨てるのが惜しいとかもったいないとかいうような心持ちで、余計な石や植木などを入れ込んだらしい庭の造りかたを見たりすると、すぐさまむしり取って目にかからない所に投げ捨てたく思うのだった。その小庭を見ると葉子の心の中にはそれを自分の思うように造り変える計画がうずうずするほどわき上がって来た。
それから葉子は家の中をすみからすみまで見て回った。きのう玄関口に葉子を出迎えた女中が、戸を繰る音を聞きつけて、いち早く葉子の所に飛んで来たのを案内に立てた。十八九の小ぎれいな娘で、きびきびした気象らしいのに、いかにも蓮っ葉でない、主人を持てば主人思いに違いないのを葉子は一目で見ぬいて、これはいい人だと思った。それはやはり双鶴館の女将が周旋してよこした、宿に出入りの豆腐屋の娘だった。つや(彼女の名はつやといった)は階子段下の玄関に続く六畳の茶の間から始めて、その隣の床の間付きの十二畳、それから十二畳と廊下を隔てて玄関とならぶ茶席風の六畳を案内し、廊下を通った突き当たりにある思いのほか手広い台所、風呂場を経て張り出しになっている六畳と四畳半(そこがこの家を建てた主人の居間となっていたらしく、すべての造作に特別な数寄が凝らしてあった)に行って、その雨戸を繰り明けて庭を見せた。そこの前栽は割合に荒れずにいて、ながめが美しかったが、葉子は垣根越しに苔香園の母屋の下の便所らしいきたない建て物の屋根を見つけて困ったものがあると思った。そのほかには台所のそばにつやの四畳半の部屋が西向きについていた。女中部屋を除いた五つの部屋はいずれもなげし[#「なげし」に傍点]付きになって、三つまでは床の間さえあるのに、どうして集めたものかとにかく掛け物なり置き物なりがちゃん[#「ちゃん」に傍点]と飾られていた。家の造りや庭の様子などにはかなりの注文も相当の眼識も持ってはいたが、絵画や書の事になると葉子はおぞましくも鑑識の力がなかった。生まれつき機敏に働く才気のお陰で、見たり聞いたりした所から、美術を愛好する人々と膝をならべても、とにかくあまりぼろ[#「ぼろ」に傍点]らしいぼろ[#「ぼろ」に傍点]は出さなかったが、若い美術家などがほめる作品を見てもどこが優れてどこに美しさがあるのか葉子には少しも見当のつかない事があった。絵といわず字といわず、文学的の作物などに対しても葉子の頭はあわれなほど通俗的であるのを葉子は自分で知っていた。しかし葉子は自分の負けじ魂から自分の見方が凡俗だとは思いたくなかった。芸術家などいう連中には、骨董などをいじくって古味というようなものをありがたがる風流人と共通したような気取りがある。その似而非気取りを葉子は幸いにも持ち合わしていないのだと決めていた。葉子はこの家に持ち込まれている幅物を見て回っても、ほんとうの値打ちがどれほどのものだかさらに見当がつかなかった。ただあるべき所にそういう物のあることを満足に思った。
つやの部屋のきちんと手ぎわよく片づいているのや、二三日空家になっていたのにも係わらず、台所がきれいにふき掃除がされていて、布巾などが清々しくからからにかわかしてかけてあったりするのは一々葉子の目を快く刺激した。思ったより住まい勝手のいい家と、はきはきした清潔ずきな女中とを得た事がまず葉子の寝起きの心持ちをすがすがしくさせた。
葉子はつやのくんで出したちょうどいいかげんの湯で顔を洗って、軽く化粧をした。昨夜の事などは気にもかからないほど心は軽かった。葉子はその軽い心を抱きながら静かに二階に上がって行った。何とはなしに倉地に甘えたいような、わびたいような気持ちでそっ[#「そっ」に傍点]と襖を明けて見ると、あの強烈な倉地の膚の香いが暖かい空気に満たされて鼻をかすめて来た。葉子はわれにもなく駆けよって、仰向けに熟睡している倉地の上に羽がいにのしかかった。
暗い中で倉地は目ざめたらしかった。そして黙ったまま葉子の髪や着物から花べんのようにこぼれ落ちるなまめかしい香りを夢心地でかいでいるようだったが、やがて物たるげに、
「もう起きたんか。何時だな」
といった。まるで大きな子供のようなその無邪気さ。葉子は思わず自分の頬を倉地のにすりつけると、寝起きの倉地の頬は火のように熱く感ぜられた。
「もう八時。……お起きにならないと横浜のほうがおそくなるわ」
倉地はやはり物たるげに、袖口からにょきん[#「にょきん」に傍点]と現われ出た太い腕を延べて、短い散切り頭をごしごしとかき回しながら、
「横浜?……横浜にはもう用はないわい。いつ首になるか知れないおれがこの上の御奉公をしてたまるか。これもみんなお前のお陰だぞ。業つくばりめ」
といっていきなり[#「いきなり」に傍点]葉子の首筋を腕にまいて自分の胸に押しつけた。
しばらくして倉地は寝床を出たが、昨夜の事などはけろり[#「けろり」に傍点]と忘れてしまったように平気でいた。二人が始めて離れ離れに寝たのにも一言もいわないのがかすかに葉子を物足らなく思わせたけれども、葉子は胸が広々としてなんという事もなく喜ばしくってたまらなかった。で、倉地を残して台所におりた。自分で自分の食べるものを料理するという事にもかつてない物珍しさとうれしさとを感じた。
畳一畳がた日のさしこむ茶の間の六畳で二人は朝餉の膳に向かった。かつては葉山で木部と二人でこうした楽しい膳に向かった事もあったが、その時の心持ちと今の心持ちとを比較する事もできないと葉子は思った。木部は自分でのこのこと台所まで出かけて来て、長い自炊の経験などを得意げに話して聞かせながら、自分で米をといだり、火をたきつけたりした。その当座は葉子もそれを楽しいと思わないではなかった。しかししばらくのうちにそんな事をする木部の心持ちがさもしくも思われて来た。おまけに木部は一日一日とものぐさになって、自分では手を下しもせずに、邪魔になる所に突っ立ったままさしずがましい事をいったり、葉子には何らの感興も起こさせない長詩を例の御自慢の美しい声で朗々と吟じたりした。葉子はそんな目にあうと軽蔑しきった冷ややかなひとみでじろり[#「じろり」に傍点]と見返してやりたいような気になった。倉地は始めからそんな事はてんで[#「てんで」に傍点]しなかった。大きな駄々児のように、顔を洗うといきなり[#「いきなり」に傍点]膳の前にあぐらをかいて、葉子が作って出したものを片端からむしゃむしゃときれいに片づけて行った。これが木部だったら、出す物の一つ一つに知ったかぶりの講釈をつけて、葉子の腕まえを感傷的にほめちぎって、かなりたくさんを食わずに残してしまうだろう。そう思いながら葉子は目でなでさするようにして倉地が一心に箸を動かすのを見守らずにはいられなかった。
やがて箸と茶わんとをからり[#「からり」に傍点]となげ捨てると、倉地は所在なさそうに葉巻をふかしてしばらくそこらをながめ回していたが、いきなり[#「いきなり」に傍点]立ち上がって尻っぱしょり[#「ぱしょり」に傍点]をしながら裸足のまま庭に飛んで降りた。そしてハーキュリーズが針仕事でもするようなぶきっちょう[#「ぶきっちょう」に傍点]な様子で、狭い庭を歩き回りながら片すみから片づけ出した。まだびしゃ[#「びしゃ」に傍点]びしゃするような土の上に大きな足跡が縦横にしるされた。まだ枯れ果てない菊や萩などが雑草と一緒くたに情けも容赦もなく根こぎにされるのを見るとさすがの葉子もはらはらした。そして縁ぎわにしゃがんで柱にもたれながら、時にはあまりのおかしさに高く声をあげて笑いこけずにはいられなかった。
倉地は少し働き疲れると苔香園のほうをうかがったり、台所のほうに気を配ったりしておいて、大急ぎで葉子のいる所に寄って来た。そして泥になった手を後ろに回して、上体を前に折り曲げて、葉子の鼻の先に自分の顔を突き出してお壺口をした。葉子もいたずららしく周囲に目を配ってその顔を両手にはさみながら自分の口びるを与えてやった。倉地は勇み立つようにしてまた土の上にしゃがみこんだ。
倉地はこうして一日働き続けた。日がかげるころになって葉子も一緒に庭に出てみた。ただ乱暴な、しょう事なしのいたずら仕事とのみ思われたものが、片づいてみるとどこからどこまで要領を得ているのを発見するのだった。葉子が気にしていた便所の屋根の前には、庭のすみにあった椎の木が移してあったりした。玄関前の両側の花壇の牡丹には、藁で器用に霜がこいさえしつらえてあった。
こんなさびしい杉森の中の家にも、時々紅葉館のほうから音曲の音がくぐもるように聞こえて来たり、苔香園から薔薇の香りが風の具合でほんのり[#「ほんのり」に傍点]とにおって来たりした。ここにこうして倉地と住み続ける喜ばしい期待はひと向きに葉子の心を奪ってしまった。
平凡な人妻となり、子を生み、葉子の姿を魔物か何かのように冷笑おうとする、葉子の旧友たちに対して、かつて葉子がいだいていた火のような憤りの心、腐っても死んでもあんなまねはして見せるものかと誓うように心であざけったその葉子は、洋行前の自分というものをどこかに置き忘れたように、そんな事は思いも出さないで、旧友たちの通って来た道筋にひた走りに走り込もうとしていた。
二八
こんな夢のような楽しさがたわいもなく一週間ほどはなんの故障もひき起こさずに続いた。歓楽に耽溺しやすい、従っていつでも現在をいちばん楽しく過ごすのを生まれながら本能としている葉子は、こんな有頂天な境界から一歩でも踏み出す事を極端に憎んだ。葉子が帰ってから一度しか会う事のできない妹たちが、休日にかけてしきりに遊びに来たいと訴え来るのを、病気だとか、家の中が片づかないとか、口実を設けて拒んでしまった。木村からも古藤の所か五十川女史の所かにあててたよりが来ているには相違ないと思ったけれども、五十川女史はもとより古藤の所にさえ住所が知らしてないので、それを回送してよこす事もできないのを葉子は知っていた。定子――この名は時々葉子の心を未練がましくさせないではなかった。しかし葉子はいつでも思い捨てるようにその名を心の中から振り落とそうと努めた。倉地の妻の事は何かの拍子につけて心を打った。この瞬間だけは葉子の胸は呼吸もできないくらい引き締められた。それでも葉子は現在目前の歓楽をそんな心痛で破らせまいとした。そしてそのためには倉地にあらん限りの媚びと親切とをささげて、倉地から同じ程度の愛撫をむさぼろうとした。そうする事が自然にこの難題に解決をつける導火線にもなると思った。
倉地も葉子に譲らないほどの執着をもって葉子がささげる杯から歓楽を飲み飽きようとするらしかった。不休の活動を命としているような倉地ではあったけれども、この家に移って来てから、家を明けるような事は一度もなかった。それは倉地自身が告白するように破天荒な事だったらしい。二人は、初めて恋を知った少年少女が世間も義理も忘れ果てて、生命さえ忘れ果てて肉体を破ってまでも魂を一つに溶かしたいとあせる、それと同じ熱情をささげ合って互い互いを楽しんだ。楽しんだというよりも苦しんだ。その苦しみを楽しんだ。倉地はこの家に移って以来新聞も配達させなかった。郵便だけは移転通知をして置いたので倉地の手もとに届いたけれども、倉地はその表書きさえ目を通そうとはしなかった。毎日の郵便はつやの手によって束にされて、葉子が自分の部屋に定めた玄関わきの六畳の違い棚にむなしく積み重ねられた。葉子の手もとには妹たちからのほかには一枚のはがきさえ来なかった。それほど世間から自分たちを切り放しているのを二人とも苦痛とは思わなかった。苦痛どころではない、それが幸いであり誇りであった。門には「木村」とだけ書いた小さい門札が出してあった。木村という平凡な姓は二人の楽しい巣を世間にあばくような事はないと倉地がいい出したのだった。
しかしこんな生活を倉地に長い間要求するのは無理だということを葉子はついに感づかねばならなかった。ある夕食の後倉地は二階の一間で葉子を力強く膝の上に抱き取って、甘い私語を取りかわしていた時、葉子が情に激して倉地に与えた熱い接吻の後にすぐ、倉地が思わず出たあくびをじっ[#「じっ」に傍点]とかみ殺したのをいち早く見て取ると、葉子はこの種の歓楽がすでに峠を越した事を知った。その夜は葉子には不幸な一夜だった。かろうじて築き上げた永遠の城塞が、はかなくも瞬時の蜃気楼のように見る見るくずれて行くのを感じて、倉地の胸に抱かれながらほとんど一夜を眠らずに通してしまった。
それでも翌日になると葉子は快活になっていた。ことさら快活に振る舞おうとしていたには違いないけれども、葉子の倉地に対する溺愛は葉子をしてほとんど自然に近い容易さをもってそれをさせるに充分だった。
「きょうはわたしの部屋でおもしろい事して遊びましょう。いらっしゃいな」
そういって少女が少女を誘うように牡牛のように大きな倉地を誘った。倉地は煙ったい顔をしながら、それでもそのあとからついて来た。
部屋はさすがに葉子のものであるだけ、どことなく女性的な軟らか味を持っていた。東向きの腰高窓には、もう冬といっていい十一月末の日が熱のない強い光を射つけて、アメリカから買って帰った上等の香水をふりかけた匂い玉からかすかながらきわめて上品な芳芬を静かに部屋の中にまき散らしていた。葉子はその匂い玉の下がっている壁ぎわの柱の下に、自分にあてがわれたきらびやか[#「きらびやか」に傍点]な縮緬の座ぶとんを移して、それに倉地をすわらせておいて、違い棚から郵便の束をいくつとなく取りおろして来た。
「さあけさは岩戸のすきから世の中をのぞいて見るのよ。それもおもしろいでしょう」
といいながら倉地に寄り添った。倉地は幾十通とある郵便物を見たばかりでいいかげんげんなり[#「げんなり」に傍点]した様子だったが、だんだんと興味を催して来たらしく、日の順に一つの束からほどき始めた。
いかにつまらない事務用の通信でも、交通遮断の孤島か、障壁で高く囲まれた美しい牢獄に閉じこもっていたような二人に取っては予想以上の気散じだった。倉地も葉子もありふれた文句にまで思い存分の批評を加えた。こういう時の葉子はそのほとばしるような暖かい才気のために世にすぐれておもしろ味の多い女になった。口をついて出る言葉言葉がどれもこれも絢爛な色彩に包まれていた。二日目の所には岡から来た手紙が現われ出た。船の中での礼を述べて、とうとう葉子と同じ船で帰って来てしまったために、家元では相変わらずの薄志弱行と人毎に思われるのが彼を深く責める事や、葉子に手紙を出したいと思ってあらゆる手がかりを尋ねたけれども、どうしてもわからないので会社で聞き合わせて事務長の住所を知り得たからこの手紙を出すという事や、自分はただただ葉子を姉と思って尊敬もし慕いもしているのだから、せめてその心を通わすだけの自由が与えてもらいたいという事だのが、思い入った調子で、下手な字体で書いてあった。葉子は忘却の廃址の中から、生々とした少年の大理石像を掘りあてた人のようにおもしろがった。
「わたしが愛子の年ごろだったらこの人と心中ぐらいしているかもしれませんね。あんな心を持った人でも少し齢を取ると男はあなたみたいになっちまうのね」
「あなたとはなんだ」
「あなたみたいな悪党に」
「それはお門が違うだろう」
「違いませんとも……御同様にというほうがいいわ。私は心だけあなたに来て、からだはあの人にやるとほんとはよかったんだが……」
「ばか! おれは心なんぞに用はないわい」
「じゃ心のほうをあの人にやろうかしらん」
「そうしてくれ。お前にはいくつも心があるはずだから、ありったけくれてしまえ」
「でもかわいそうだからいちばん小さそうなのを一つだけあなたの分に残して置きましょうよ」
そういって二人は笑った。倉地は返事を出すほうに岡のその手紙を仕分けた。葉子はそれを見て軽い好奇心がわくのを覚えた。
たくさんの中からは古藤のも出て来た。あて名は倉地だったけれども、その中からは木村から葉子に送られた分厚な手紙だけが封じられていた。それと同時な木村の手紙があとから二本まで現われ出た。葉子は倉地の見ている前で、そのすべてを読まないうちにずたずたに引き裂いてしまった。
「ばかな事をするじゃない。読んで見るとおもしろかったに」
葉子を占領しきった自信を誇りがな微笑に見せながら倉地はこういった。
「読むとせっかくの昼御飯がおいしくなくなりますもの」
そういって葉子は胸くその悪いような顔つきをして見せた。二人はまたたわいなく笑った。
報正新報社からのもあった。それを見ると倉地は、一時はもみ消しをしようと思ってわたり[#「わたり」に傍点]をつけたりしたのでこんなものが来ているのだがもう用はなくなったので見るには及ばないといって、今度は倉地が封のままに引き裂いてしまった。葉子はふと自分が木村の手紙を裂いた心持ちを倉地のそれにあてはめてみたりした。しかしその疑問もすぐ過ぎ去ってしまった。
やがて郵船会社からあてられた江戸川紙の大きな封書が現われ出た。倉地はちょっと眉に皺をよせて少し躊躇したふうだったが、それを葉子の手に渡して葉子に開封させようとした。何の気なしにそれを受け取った葉子は魔がさしたようにはっ[#「はっ」に傍点]と思った。とうとう倉地は自分のために……葉子は少し顔色を変えながら封を切って中から卒業証書のような紙を二枚と、書記が丁寧に書いたらしい書簡一封とを探り出した。
はたしてそれは免職と、退職慰労との会社の辞令だった。手紙には退職慰労金の受け取り方に関する注意が事々しい行書で書いてあるのだった。葉子はなんといっていいかわからなかった。こんな恋の戯れの中からかほどな打撃を受けようとは夢にも思ってはいなかったのだ。倉地がここに着いた翌日葉子にいって聞かせた言葉はほんとうの事だったのか。これほどまでに倉地は真身になってくれていたのか。葉子は辞令を膝の上に置いたまま下を向いて黙ってしまった。目がしらの所が非常に熱い感じを得たと思った、鼻の奥が暖かくふさがって来た。泣いている場合ではないと思いながらも、葉子は泣かずにはいられないのを知り抜いていた。
「ほんとうに私がわるうございました……許してくださいまし……(そういううちに葉子はもう泣き始めていた)……私はもう日陰の妾としてでも囲い者としてでもそれで充分に満足します。えゝ、それでほんとうにようござんす。わたしはうれしい……」
倉地は今さら何をいうというような平気な顔で葉子の泣くのを見守っていたが、
「妾も囲い者もあるかな、おれには女はお前一人よりないんだからな。離縁状は横浜の土を踏むと一緒に嬶に向けてぶっ飛ばしてあるんだ」
といってあぐらの膝で貧乏ゆすりをし始めた。さすがの葉子も息気をつめて、泣きやんで、あきれて倉地の顔を見た。
「葉子、おれが木村以上にお前に深惚れしているといつか船の中でいって聞かせた事があったな。おれはこれでいざとなると心にもない事はいわないつもりだよ。双鶴館にいる間もおれは幾日も浜には行きはしなんだのだ。たいていは家内の親類たちとの談判で頭を悩ませられていたんだ。だがたいていけりがついたから、おれは少しばかり手回りの荷物だけ持って一足先にここに越して来たのだ。……もうこれでええや。気がすっぱり[#「すっぱり」に傍点]したわ。これには双鶴館のお内儀も驚きくさるだろうて……」
会社の辞令ですっかり[#「すっかり」に傍点]倉地の心持ちをどん底から感じ得た葉子は、この上倉地の妻の事を疑うべき力は消え果てていた。葉子の顔は涙にぬれひたりながらそれをふき取りもせず、倉地にすり寄って、その両肩に手をかけて、ぴったり[#「ぴったり」に傍点]と横顔を胸にあてた。夜となく昼となく思い悩みぬいた事がすでに解決されたので、葉子は喜んでも喜んでも喜び足りないように思った。自分も倉地と同様に胸の中がすっきり[#「すっきり」に傍点]すべきはずだった。けれどもそうは行かなかった。葉子はいつのまにか去られた倉地の妻その人のようなさびしい悲しい自分になっているのを発見した。
倉地はいとしくってならぬようにエボニー色の雲のようにまっ黒にふっくり[#「ふっくり」に傍点]と乱れた葉子の髪の毛をやさしくなで回した。そしていつもに似ずしんみり[#「しんみり」に傍点]した調子になって、
「とうとうおれも埋れ木になってしまった。これから地面の下で湿気を食いながら生きて行くよりほかにはない。――おれは負け惜しみをいうはきらいだ。こうしている今でもおれは家内や娘たちの事を思うと不憫に思うさ。それがない事ならおれは人間じゃないからな。……だがおれはこれでいい。満足この上なしだ。……自分ながらおれはばかになり腐ったらしいて」
そういって葉子の首を固くかきいだいた。葉子は倉地の言葉を酒のように酔い心地にのみ込みながら「あなただけにそうはさせておきませんよ。わたしだって定子をみごとに捨てて見せますからね」と心の中で頭を下げつつ幾度もわびるように繰り返していた。それがまた自分で自分を泣かせる暗示となった。倉地の胸に横たえられた葉子の顔は、綿入れと襦袢とを通して倉地の胸を暖かく侵すほど熱していた。倉地の目も珍しく曇っていた。そうして泣き入る葉子を大事そうにかかえたまま、倉地は上体を前後に揺すぶって、赤子でも寝かしつけるようにした。戸外ではまた東京の初冬に特有な風が吹き出たらしく、杉森がごう[#「ごう」に傍点]ごうと鳴りを立てて、枯れ葉が明るい障子に飛鳥のような影を見せながら、からからと音を立ててかわいた紙にぶつかった。それは埃立った、寒い東京の街路を思わせた。けれども部屋の中は暖かだった。葉子は部屋の中が暖かなのか寒いのかさえわからなかった。ただ自分の心が幸福にさびしさに燃えただれているのを知っていた。ただこのままで永遠は過ぎよかし。ただこのままで眠りのような死の淵に陥れよかし。とうとう倉地の心と全く融け合った自分の心を見いだした時、葉子の魂の願いは生きようという事よりも死のうという事だった。葉子はその悲しい願いの中に勇み甘んじておぼれて行った。
二九
この事があってからまたしばらくの間、倉地は葉子とただ二人の孤独に没頭する興味を新しくしたように見えた。そして葉子が家の中をいやが上にも整頓して、倉地のために住み心地のいい巣を造る間に、倉地は天気さえよければ庭に出て、葉子の逍遙を楽しませるために精魂を尽くした。いつ苔香園との話をつけたものか、庭のすみに小さな木戸を作って、その花園の母屋からずっ[#「ずっ」に傍点]と離れた小逕に通いうる仕掛けをしたりした。二人は時々その木戸をぬけて目立たないように、広々とした苔香園の庭の中をさまよった。店の人たちは二人の心を察するように、なるべく二人から遠ざかるようにつとめてくれた。十二月の薔薇の花園はさびしい廃園の姿を目の前に広げていた。可憐な花を開いて可憐な匂いを放つくせにこの灌木はどこか強い執着を持つ植木だった。寒さにも霜にもめげず、その枝の先にはまだ裏咲きの小さな花を咲かせようともがいているらしかった。種々な色のつぼみがおおかた葉の散り尽くしたこずえにまで残っていた。しかしその花べんは存分に霜にしいたげられて、黄色に変色して互いに膠着して、恵み深い日の目にあっても開きようがなくなっていた。そんな間を二人は静かな豊かな心でさまよった。風のない夕暮れなどには苔香園の表門を抜けて、紅葉館前のだらだら坂を東照宮のほうまで散歩するような事もあった。冬の夕方の事とて人通りはまれで二人がさまよう道としてはこの上もなかった。葉子はたまたま行きあう女の人たちの衣装を物珍しくながめやった。それがどんなに粗末な不格好な、いでたち[#「いでたち」に傍点]であろうとも、女は自分以外の女の服装をながめなければ満足できないものだと葉子は思いながらそれを倉地にいってみたりした。つやの髪から衣服までを毎日のように変えて装わしていた自分の心持ちにも葉子は新しい発見をしたように思った。ほんとうは二人だけの孤独に苦しみ始めたのは倉地だけではなかったのか。ある時にはそのさびしい坂道の上下から、立派な馬車や抱え車が続々坂の中段を目ざして集まるのにあう事があった。坂の中段から紅葉館の下に当たる辺に導かれた広い道の奥からは、能楽のはやし[#「はやし」に傍点]の音がゆかしげにもれて来た。二人は能楽堂での能の催しが終わりに近づいているのを知った。同時にそんな事を見たのでその日が日曜日である事にも気がついたくらい二人の生活は世間からかけ離れていた。
こうした楽しい孤独もしかしながら永遠には続き得ない事を、続かしていてはならない事を鋭い葉子の神経は目ざとくさとって行った。ある日倉地が例のように庭に出て土いじりに精を出している間に、葉子は悪事でも働くような心持ちで、つやにいいつけて反古紙を集めた箱を自分の部屋に持って来さして、いつか読みもしないで破ってしまった木村からの手紙を選り出そうとする自分を見いだしていた。いろいろな形に寸断された厚い西洋紙の断片が木村の書いた文句の断片をいくつもいくつも葉子の目にさらし出した。しばらくの間葉子は引きつけられるようにそういう紙片を手当たり次第に手に取り上げて読みふけった。半成の画が美しいように断簡にはいい知れぬ情緒が見いだされた。その中に正しく織り込まれた葉子の過去が多少の力を集めて葉子に逼って来るようにさえ思え出した。葉子はわれにもなくその思い出に浸って行った。しかしそれは長い時が過ぎる前にくずれてしまった。葉子はすぐ現実に取って返していた。そしてすべての過去に嘔き気のような不快を感じて箱ごと台所に持って行くとつやに命じて裏庭でその全部を焼き捨てさせてしまった。
しかしこの時も葉子は自分の心で倉地の心を思いやった。そしてそれがどうしてもいい徴候でない事を知った。そればかりではない。二人は霞を食って生きる仙人のようにしては生きていられないのだ。職業を失った倉地には、口にこそ出さないが、この問題は遠からず大きな問題として胸に忍ばせてあるのに違いない。事務長ぐらいの給料で余財ができているとは考えられない。まして倉地のように身分不相応な金づかいをしていた男にはなおの事だ。その点だけから見てもこの孤独は破られなければならぬ。そしてそれは結局二人のためにいい事であるに相違ない。葉子はそう思った。
ある晩それは倉地のほうから切り出された。長い夜を所在なさそうに読みもしない書物などをいじくっていたが、ふと思い出したように、
「葉子。一つお前の妹たちを家に呼ぼうじゃないか……それからお前の子供っていうのもぜひここで育てたいもんだな。おれも急に三人まで子を失くしたらさびしくってならんから……」
飛び立つような思いを葉子はいち早くもみごとに胸の中で押ししずめてしまった。そうして、
「そうですね」
といかにも興味なげにいってゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と倉地の顔を見た。
「それよりあなたのお子さんを一人なり二人なり来てもらったらいかが。……わたし奥さんの事を思うといつでも泣きます(葉子はそういいながらもう涙をいっぱいに目にためていた)。けれどわたしは生きてる間は奥さんを呼び戻して上げてくださいなんて……そんな偽善者じみた事はいいません。わたしにはそんな心持ちはみじんもありませんもの。お気の毒なという事と、二人がこうなってしまったという事とは別物ですものねえ。せめては奥さんがわたしを詛い殺そうとでもしてくだされば少しは気持ちがいいんだけれども、しとやかにしてお里に帰っていらっしゃると思うとつい身につまされてしまいます。だからといってわたしは自分が命をなげ出して築き上げた幸福を人に上げる気にはなれません。あなたがわたしをお捨てになるまではね、喜んでわたしはわたしを通すんです。……けれどもお子さんならわたしほんとうにちっとも[#「ちっとも」に傍点]構いはしない事よ。どうお呼び寄せになっては?」
「ばかな。今さらそんな事ができてたまるか」倉地はかんで捨てるようにそういって横を向いてしまった。ほんとうをいうと倉地の妻の事をいった時には葉子は心の中をそのままいっていたのだ。その娘たちの事をいった時にはまざまざとした虚言をついていたのだ。葉子の熱意は倉地の妻をにおわせるものはすべて憎かった。倉地の家のほうから持ち運ばれた調度すら憎かった。ましてその子が呪わしくなくってどうしよう。葉子は単に倉地の心を引いてみたいばかりに怖々ながら心にもない事をいってみたのだった。倉地のかんで捨てるような言葉は葉子を満足させた。同時に少し強すぎるような語調が懸念でもあった。倉地の心底をすっかり[#「すっかり」に傍点]見て取ったという自信を得たつもりでいながら、葉子の心は何か機につけてこうぐらついた。
「わたしがぜひというんだから構わないじゃありませんか」
「そんな負け惜しみをいわんで、妹たちなり定子なりを呼び寄せようや」
そういって倉地は葉子の心をすみずみまで見抜いてるように、大きく葉子を包みこむように見やりながら、いつもの少し渋いような顔をしてほほえんだ。
葉子はいい潮時を見計らって巧みにも不承不承そうに倉地の言葉に折れた。そして田島の塾からいよいよ妹たち二人を呼び寄せる事にした。同時に倉地はその近所に下宿するのを余儀なくされた。それは葉子が倉地との関係をまだ妹たちに打ち明けてなかったからだ。それはもう少し先に適当な時機を見計らって知らせるほうがいいという葉子の意見だった。倉地にもそれに不服はなかった。そして朝から晩まで一緒に寝起きをするよりは、離れた所に住んでいて、気の向いた時にあうほうがどれほど二人の間の戯れの心を満足させるかしれないのを、二人はしばらくの間の言葉どおりの同棲の結果として認めていた。倉地は生活をささえて行く上にも必要であるし、不休の活動力を放射するにも必要なので解職になって以来何か事業の事を時々思いふけっているようだったが、いよいよ計画が立ったのでそれに着手するためには、当座の所、人々の出入りに葉子の顔を見られない所で事務を取るのを便宜としたらしかった。そのためにも倉地がしばらくなりとも別居する必要があった。
葉子の立場はだんだんと固まって来た。十二月の末に試験が済むと、妹たちは田島の塾から少しばかりの荷物を持って帰って来た。ことに貞世の喜びといってはなかった。二人は葉子の部屋だった六畳の腰窓の前に小さな二つの机を並べた。今までなんとなく遠慮がちだったつやも生まれ代わったように快活なはきはきした少女になった。ただ愛子だけは少しもうれしさを見せないで、ただ慎み深く素直だった。
「愛ねえさんうれしいわねえ」
貞世は勝ち誇るもののごとく、縁側の柱によりかかってじっと冬枯れの庭を見つめている姉の肩に手をかけながらより添った。愛子は一所をまたたきもしないで見つめながら、
「えゝ」
と歯切れ悪く答えるのだった。貞世はじれったそうに愛子の肩をゆすりながら、
「でもちっとも[#「ちっとも」に傍点]うれしそうじゃないわ」
と責めるようにいった。
「でもうれしいんですもの」
愛子の答えは冷然としていた。十畳の座敷に持ち込まれた行李を明けて、よごれ物などを選り分けていた葉子はその様子をちらと見たばかりで腹が立った。しかし来たばかりのものをたしなめるでもないと思って虫を殺した。
「なんて静かな所でしょう。塾よりもきっと静かよ。でもこんなに森があっちゃ夜になったらさびしいわねえ。わたしひとりでお便所に行けるかしらん。……愛ねえさん、そら、あすこに木戸があるわ。きっと隣のお庭に行けるのよ。あの庭に行ってもいいのおねえ様。だれのお家むこうは?……」
貞世は目にはいるものはどれも珍しいというようにひとりでしゃべっては、葉子にとも愛子にともなく質問を連発した。そこが薔薇の花園であるのを葉子から聞かされると、貞世は愛子を誘って庭下駄をつっかけた。愛子も貞世に続いてそっちのほうに出かける様子だった。
その物音を聞くと葉子はもう我慢ができなかった。
「愛さんお待ち。お前さん方のものがまだ片づいてはいませんよ。遊び回るのは始末をしてからになさいな」
愛子は従順に姉の言葉に従って、その美しい目を伏せながら座敷の中にはいって来た。
それでもその夜の夕食は珍しくにぎやかだった。貞世がはしゃぎきって、胸いっぱいのものを前後も連絡もなくしゃべり[#「しゃべり」に傍点]立てるので愛子さえも思わずにやり[#「にやり」に傍点]と笑ったり、自分の事を容赦なくいわれたりすると恥ずかしそうに顔を赤らめたりした。
貞世はうれしさに疲れ果てて夜の浅いうちに寝床にはいった。明るい電燈の下に葉子と愛子と向かい合うと、久しくあわないでいた骨肉の人々の間にのみ感ぜられる淡い心置きを感じた。葉子は愛子にだけは倉地の事を少し具体的に知らしておくほうがいいと思って、話のきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に少し言葉を改めた。
「まだあなた方にお引き合わせがしてないけれども倉地っていう方ね、絵島丸の事務長の……(愛子は従順に落ち着いてうなずいて見せた)……あの方が今木村さんに成りかわってわたしの世話を見ていてくださるのよ。木村さんからお頼まれになったものだから、迷惑そうにもなく、こんないい家まで見つけてくださったの。木村さんは米国でいろいろ事業を企てていらっしゃるんだけれども、どうもお仕事がうまく行かないで、お金が注ぎ込みにばかりなっていて、とてもこっちには送ってくだされないの、わたしの家はあなたも知ってのとおりでしょう。どうしてもしばらくの間は御迷惑でも倉地さんに万事を見ていただかなければならないのだから、あなたもそのつもりでいてちょうだいよ。ちょく[#「ちょく」に傍点]ちょくここにも来てくださるからね。それにつけて世間では何かくだらないうわさをしているに違いないが、愛さんの塾なんかではなんにもお聞きではなかったかい」
「いゝえ、わたしたちに面と向かって何かおっしゃる方は一人もありませんわ。でも」
と愛子は例の多恨らしい美しい目を上目に使って葉子をぬすみ見るようにしながら、
「でも何しろあんな新聞が出たもんですから」
「どんな新聞?」
「あらおねえ様御存じなしなの。報正新報に続き物でおねえ様とその倉地という方の事が長く出ていましたのよ」
「へーえ」
葉子は自分の無知にあきれるような声を出してしまった。それは実際思いもかけぬというよりは、ありそうな事ではあるが今の今まで知らずにいた、それに葉子はあきれたのだった。しかしそれは愛子の目に自分を非常に無辜らしく見せただけの利益はあった。さすがの愛子も驚いたらしい目をして姉の驚いた顔を見やった。
「いつ?」
「今月の始めごろでしたかしらん。だもんですから皆さん方の間ではたいへんな評判らしいんですの。今度も塾を出て来年から姉の所から通いますと田島先生に申し上げたら、先生も家の親類たちに手紙やなんかでだいぶお聞き合わせになったようですのよ。そしてきょうわたしたちを自分のお部屋にお呼びになって『わたしはお前さん方を塾から出したくはないけれども、塾に居続ける気はないか』とおっしゃるのよ。でもわたしたちはなんだか塾にいるのが肩身が……どうしてもいやになったもんですから、無理にお願いして帰って来てしまいましたの」
愛子はふだんの無口に似ずこういう事を話す時にはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と筋目が立っていた。葉子には愛子の沈んだような態度がすっかり[#「すっかり」に傍点]読めた。葉子の憤怒は見る見るその血相を変えさせた。田川夫人という人はどこまで自分に対して執念を寄せようとするのだろう。それにしても夫人の友だちには五十川という人もあるはずだ。もし五十川のおばさんがほんとうに自分の改悛を望んでいてくれるなら、その記事の中止なり訂正なりを、夫田川の手を経てさせる事はできるはずなのだ。田島さんもなんとかしてくれようがありそうなものだ。そんな事を妹たちにいうくらいならなぜ自分に一言忠告でもしてはくれないのだ(ここで葉子は帰朝以来妹たちを預かってもらった礼をしに行っていなかった自分を顧みた。しかし事情がそれを許さないのだろうぐらいは察してくれてもよさそうなものだと思った)それほど自分はもう世間から見くびられ除け者にされているのだ。葉子は何かたたきつけるものでもあれば、そして世間というものが何か形を備えたものであれば、力の限り得物をたたきつけてやりたかった。葉子は小刻みに震えながら、言葉だけはしとやかに、
「古藤さんは」
「たまにおたよりをくださいます」
「あなた方も上げるの」
「えゝたまに」
「新聞の事を何かいって来たかい」
「なんにも」
「ここの番地は知らせて上げて」
「いゝえ」
「なぜ」
「おねえ様の御迷惑になりはしないかと思って」
この小娘はもうみんな知っている、と葉子は一種のおそれと警戒とをもって考えた。何事も心得ながら白々しく無邪気を装っているらしいこの妹が敵の間諜のようにも思えた。
「今夜はもうお休み。疲れたでしょう」
葉子は冷然として、灯の下にうつむいてきちん[#「きちん」に傍点]とすわっている妹を尻目にかけた。愛子はしとやかに頭を下げて従順に座を立って行った。
その夜十一時ごろ倉地が下宿のほうから通って来た。裏庭をぐるっと回って、毎夜戸じまりをせずにおく張り出しの六畳の間から上がって来る音が、じれながら鉄びんの湯気を見ている葉子の神経にすぐ通じた。葉子はすぐ立ち上がって猫のように足音を盗みながら急いでそっちに行った。ちょうど敷居を上がろうとしていた倉地は暗い中に葉子の近づく気配を知って、いつものとおり、立ち上がりざまに葉子を抱擁しようとした。しかし葉子はそうはさせなかった。そして急いで戸を締めきってから、電灯のスイッチをひねった。火の気のない部屋の中は急に明るくなったけれども身を刺すように寒かった。倉地の顔は酒に酔っているように赤かった。
「どうした顔色がよくないぞ」
倉地はいぶかるように葉子の顔をまじまじと見やりながらそういった。
「待ってください、今わたしここに火鉢を持って来ますから。妹たちが寝ばなだからあすこでは起こすといけませんから」
そういいながら葉子は手あぶりに火をついで持って来た。そして酒肴もそこにととのえた。
「色が悪いはず……今夜はまたすっかり[#「すっかり」に傍点]向かっ腹が立ったんですもの。わたしたちの事が報正新報にみんな出てしまったのを御存じ?」
「知っとるとも」
倉地は不思議でもないという顔をして目をしばだたいた。
「田川の奥さんという人はほんとうにひどい人ね」
葉子は歯をかみくだくように鳴らしながらいった。
「全くあれは方図のない利口ばかだ」
そう吐き捨てるようにいいながら倉地の語る所によると、倉地は葉子に、きっとそのうち掲載される「報正新報」の記事を見せまいために引っ越して来た当座わざと新聞はどれも購読しなかったが、倉地だけの耳へはある男(それは絵島丸の中で葉子の身を上を相談した時、甲斐絹のどてら[#「どてら」に傍点]を着て寝床の中に二つに折れ込んでいたその男であるのがあとで知れた。その男は名を正井といった)からつやの取り次ぎで内秘に知らされていたのだそうだ。郵船会社はこの記事が出る前から倉地のためにまた会社自身のために、極力もみ消しをしたのだけれども、新聞社ではいっこう応ずる色がなかった。それから考えるとそれは当時新聞社の慣用手段のふところ金をむさぼろうという目論見ばかりから来たのでない事だけは明らかになった。あんな記事が現われてはもう会社としても黙ってはいられなくなって、大急ぎで詮議をした結果、倉地と船医の興録とが処分される事になったというのだ。
「田川の嬶のいたずらに決まっとる。ばかにくやしかったと見えるて。……が、こうなりゃ結局パッとなったほうがいいわい。みんな知っとるだけ一々申し訳をいわずと済む。お前はまたまだそれしきの事にくよくよしとるんか。ばかな。……それより妹たちは来とるんか。寝顔にでもお目にかかっておこうよ。写真――船の中にあったね――で見てもかわいらしい子たちだったが……」
二人はやおらその部屋を出た。そして十畳と茶の間との隔ての襖をそっと明けると、二人の姉妹は向かい合って別々の寝床にすやすやと眠っていた。緑色の笠のかかった、電灯の光は海の底のように部屋の中を思わせた。
「あっちは」
「愛子」
「こっちは」
「貞世」
葉子は心ひそかに、世にも艶やかなこの少女二人を妹に持つ事に誇りを感じて暖かい心になっていた。そして静かに膝をついて、切り下げにした貞世の前髪をそっ[#「そっ」に傍点]となであげて倉地に見せた。倉地は声を殺すのに少なからず難儀なふうで、
「そうやるとこっちは、貞世は、お前によく似とるわい。……愛子は、ふむ、これはまたすてきな美人じゃないか。おれはこんなのは見た事がない……お前の二の舞いでもせにゃ結構だが……」
そういいながら倉地は愛子の顔ほどもあるような大きな手をさし出して、そうしたい誘惑を退けかねるように、紅椿のような紅いその口びるに触れてみた。
その瞬間に葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。倉地の手が愛子の口びるに触れた時の様子から、葉子は明らかに愛子がまだ目ざめていて、寝たふりをしているのを感づいたと思ったからだ。葉子は大急ぎで倉地に目くばせしてそっとその部屋を出た。
三〇
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「僕が毎日――毎日とはいわず毎時間あなたに筆を執らないのは執りたくないから執らないのではありません。僕は一日あなたに書き続けていてもなお飽き足らないのです。それは今の僕の境界では許されない事です。僕は朝から晩まで機械のごとく働かねばなりませんから。
あなたが米国を離れてからこの手紙はたぶん七回目の手紙としてあなたに受け取られると思います。しかし僕の手紙はいつまでも暇をぬすんで少しずつ書いているのですから、僕からいうと日に二度も三度もあなたにあてて書いてるわけになるのです。しかしあなたはあの後一回の音信も恵んではくださらない。
僕は繰り返し繰り返しいいます。たといあなたにどんな過失どんな誤謬があろうとも、それを耐え忍び、それを許す事においては主キリスト以上の忍耐力を持っているのを僕は自ら信じています。誤解しては困ります。僕がいかなる人に対してもかかる力を持っているというのではないのです。ただあなたに対してです。あなたはいつでも僕の品性を尊く導いてくれます。僕はあなたによって人がどれほど愛しうるかを学びました。あなたによって世間でいう堕落とか罪悪とかいう者がどれほどまで寛容の余裕があるかを学びました。そうしてその寛容によって、寛容する人自身がどれほど品性を陶冶されるかを学びました。僕はまた自分の愛を成就するためにはどれほどの勇者になりうるかを学びました。これほどまでに僕を神の目に高めてくださったあなたが、僕から万一にも失われるというのは想像ができません。神がそんな試練を人の子に下される残虐はなさらないのを僕は信じています。そんな試練に堪えるのは人力以上ですから。今の僕からあなたが奪われるというのは神が奪われるのと同じ事です。あなたは神だとはいいますまい。しかしあなたを通してのみ僕は神を拝む事ができるのです。
時々僕は自分で自分をあわれんでしまう事があります。自分自身だけの力と信仰とですべてのものを見る事ができたらどれほど幸福で自由だろうと考えると、あなたをわずらわさなければ一歩を踏み出す力をも感じ得ない自分の束縛を呪いたくもなります。同時にそれほど慕わしい束縛は他にない事を知るのです。束縛のない所に自由はないといった意味であなたの束縛は僕の自由です。
あなたは――いったん僕に手を与えてくださると約束なさったあなたは、ついに僕を見捨てようとしておられるのですか。どうして一回の音信も恵んではくださらないのです。しかし僕は信じて疑いません。世にもし真理があるならば、そして真理が最後の勝利者ならばあなたは必ず僕に還ってくださるに違いないと。なぜなれば、僕は誓います。――主よこの僕を見守りたまえ――僕はあなたを愛して以来断じて他の異性に心を動かさなかった事を。この誠意があなたによって認められないわけはないと思います。
あなたは従来暗いいくつかの過去を持っています。それが知らず知らずあなたの向上心を躊躇させ、あなたをやや絶望的にしているのではないのですか。もしそうならあなたは全然誤謬に陥っていると思います。すべての救いは思いきってその中から飛び出すほかにはないのでしょう。そこに停滞しているのはそれだけあなたの暗い過去を暗くするばかりです。あなたは僕に信頼を置いてくださる事はできないのでしょうか。人類の中に少なくも一人、あなたのすべての罪を喜んで忘れようと両手を広げて待ち設けているもののあるのを信じてくださる事はできないでしょうか。
こんな下らない理屈はもうやめましょう。
昨夜書いた手紙に続けて書きます。けさハミルトン氏の所から至急に来いという電話がかかりました。シカゴの冬は予期以上に寒いのです。仙台どころの比ではありません。雪は少しもないけれども、イリー湖を多湖地方から渡って来る風は身を切るようでした。僕は外套の上にまた大外套を重ね着していながら、風に向いた皮膚にしみとおる風の寒さを感じました。ハミルトン氏の用というのは来年セントルイスに開催される大規模な博覧会の協議のため急にそこに赴くようになったから同行しろというのでした。僕は旅行の用意はなんらしていなかったが、ここにアメリカニズムがあるのだと思ってそのまま同行する事にしました。自分の部屋の戸に鍵もかけずに飛び出したのですからバビコック博士の奥さんは驚いているでしょう。しかしさすがに米国です。着のみ着のままでここまで来ても何一つ不自由を感じません。鎌倉あたりまで行くのにも膝かけから旅カバンまで用意しなければならないのですから、日本の文明はまだなかなかのものです。僕たちはこの地に着くと、停車場内の化粧室で髭をそり、靴をみがかせ、夜会に出ても恥ずかしくないしたくができてしまいました。そしてすぐ協議会に出席しました。あなたも知っておらるるとおりドイツ人のあのへんにおける勢力は偉いものです。博覧会が開けたら、われわれは米国に対してよりもむしろこれらのドイツ人に対して褌裸一番する必要があります。ランチの時僕はハミルトン氏に例の日本に買い占めてあるキモノその他の話をもう一度しました。博覧会を前に控えているのでハミルトン氏も今度は乗り気になってくれまして、高島屋と連絡をつけておくためにとにかく品物を取り寄せて自分の店でさばかしてみようといってくれました。これで僕の財政は非常に余裕ができるわけです。今まで店がなかったばかりに、取り寄せても荷厄介だったものですが、ハミルトン氏の店で取り扱ってくれれば相当に売れるのはわかっています。そうなったら今までと違ってあなたのほうにも足りないながら仕送りをして上げる事ができましょう。さっそく電報を打っていちばん早い船便で取り寄せる事ににしましたから不日着荷する事と思っています。
今は夜もだいぶふけました。ハミルトン氏は今夜も饗応に呼ばれて出かけました。大きらいなテーブル・スピーチになやまされているのでしょう。ハミルトン氏は実にシャープなビジネスマンライキな人です。そして熱心な正統派の信仰を持った慈善家です。僕はことのほか信頼され重宝がられています。そこから僕のライフ・キャリヤアを踏み出すのは大なる利益です。僕の前途には確かに光明が見え出して来ました。
あなたに書く事は底止なく書く事です。しかしあすの奮闘的生活(これは大統領ルーズベルトの著書の "Strenuous Life" を訳してみた言葉です。今この言葉は当地の流行語になっています)に備えるために筆を止めねばなりません。この手紙はあなたにも喜びを分けていただく事ができるかと思います。
きのうセントルイスから帰って来たら、手紙がかなり多数届いていました。郵便局の前を通るにつけ、郵便箱を見るにつけ、脚夫に行きあうにつけ、僕はあなたを連想しない事はありません。自分の机の上に来信を見いだした時はなおさらの事です。僕は手紙の束の間をかき分けてあなたの手跡を見いだそうとつとめました。しかし僕はまた絶望に近い失望に打たれなければなりませんでした。僕は失望はしましょう。しかし絶望はしません。できません葉子さん、信じてください。僕はロングフェローのエヴァンジェリンの忍耐と謙遜とをもってあなたが僕の心をほんとうに汲み取ってくださる時を待っています。しかし手紙の束の中からはわずかに僕を失望から救うために古藤君と岡君との手紙が見いだされました。古藤君の手紙は兵営に行く五日前に書かれたものでした。いまだにあなたの居所を知る事ができないので、僕の手紙はやはり倉地氏にあてて回送していると書いてあります。古藤君はそうした手続きを取るのをはなはだしく不快に思っているようです。岡君は人にもらし得ない家庭内の紛擾や周囲から受ける誤解を、岡君らしく過敏に考え過ぎて弱い体質をますます弱くしているようです。書いてある事にはところどころ僕の持つ常識では判断しかねるような所があります。あなたからいつか必ず消息が来るのを信じきって、その時をただ一つの救いとして待っています。その時の感謝と喜悦とを想像で描き出して、小説でも読むように書いてあります。僕は岡君の手紙を読むと、いつでも僕自身の心がそのまま書き現わされているように思って涙を感じます。
なぜあなたは自分をそれほどまで韜晦しておられるのか、それには深いわけがある事と思いますけれども、僕にはどちらの方面から考えても想像がつきません。
日本からの消息はどんな消息も待ち遠しい。しかしそれを見終わった僕はきっと憂鬱に襲われます。僕にもし信仰が与えられていなかったら、僕は今どうなっていたかを知りません。
前の手紙との間に三日がたちました。僕はバビコック博士夫婦と今夜ライシアム座にウェルシ嬢の演じたトルストイの「復活」を見物しました。そこにはキリスト教徒として目をそむけなければならないような場面がないではなかったけれども、終わりのほうに近づいて行っての荘厳さは見物人のすべてを捕捉してしまいました。ウェルシ嬢の演じた女主人公は真に迫りすぎているくらいでした。あなたがもしまだ「復活」を読んでいられないのなら僕はぜひそれをお勧めします。僕はトルストイの「懺悔」をK氏の邦文訳で日本にいる時読んだだけですが、あの芝居を見てから、暇があったらもっと深くいろいろ研究したいと思うようになりました。日本ではトルストイの著書はまだ多くの人に知られていないと思いますが、少なくとも「復活」だけは丸善からでも取り寄せて読んでいただきたい、あなたを啓発する事が必ず多いのは請け合いますから。僕らは等しく神の前に罪人です。しかしその罪を悔い改める事によって等しく選ばれた神の僕となりうるのです。この道のほかには人の子の生活を天国に結び付ける道は考えられません。神を敬い人を愛する心の萎えてしまわないうちにお互いに光を仰ごうではありませんか。
葉子さん、あなたの心に空虚なり汚点なりがあっても万望絶望しないでくださいよ。あなたをそのままに喜んで受け入れて、――苦しみがあればあなたと共に苦しみ、あなたに悲しみがあればあなたと共に悲しむものがここに一人いる事を忘れないでください。僕は戦って見せます。どんなにあなたが傷ついていても、僕はあなたをかばって勇ましくこの人生を戦って見せます。僕の前に事業が、そして後ろにあなたがあれば、僕は神の最も小さい僕として人類の祝福のために一生をささげます。
あゝ、筆も言語もついに無益です。火と熱する誠意と祈りとをこめて僕はここにこの手紙を封じます。この手紙が倉地氏の手からあなたに届いたら、倉地氏にもよろしく伝えてください。倉地氏に迷惑をおかけした金銭上の事については前便に書いておきましたから見てくださったと思います。願わくは神われらと共に在したまわん事を。
明治三十四年十二月十三日」
[#ここで字下げ終わり]
倉地は事業のために奔走しているのでその夜は年越しに来ないと下宿から知らせて来た。妹たちは除夜の鐘を聞くまでは寝ないなどといっていたがいつのまにかねむくなったと見えて、あまり静かなので二階に行って見ると、二人とも寝床にはいっていた。つやには暇が出してあった。葉子に内所で「報正新報」を倉地に取り次いだのは、たとい葉子に無益な心配をさせないためだという倉地の注意があったためであるにもせよ、葉子の心持ちを損じもし不安にもした。つやが葉子に対しても素直な敬愛の情をいだいていたのは葉子もよく心得ていた。前にも書いたように葉子は一目見た時からつやが好きだった。台所などをさせずに、小間使いとして手回りの用事でもさせたら顔かたちといい、性質といい、取り回しといいこれほど理想的な少女はないと思うほどだった。つやにも葉子の心持ちはすぐ通じたらしく、つやはこの家のために陰日向なくせっせ[#「せっせ」に傍点]と働いたのだった。けれども新聞の小さな出来事一つが葉子を不安にしてしまった。倉地が双鶴館の女将に対しても気の毒がるのを構わず、妹たちに働かせるのがかえっていいからとの口実のもとに暇をやってしまったのだった。で勝手のほうにも人気はなかった。
葉子は何を原因ともなくそのころ気分がいらいらしがちで寝付きも悪かったので、ぞくぞくしみ込んで来るような寒さにも係わらず、火鉢のそばにいた。そして所在ないままにその日倉地の下宿から届けて来た木村の手紙を読んで見る気になったのだ。
葉子は猫板に片肘を持たせながら、必要もないほど高価だと思われる厚い書牋紙に大きな字で書きつづってある木村の手紙を一枚一枚読み進んだ。おとなびたようで子供っぽい、そうかと思うと感情の高潮を示したと思われる所も妙に打算的な所が離れ切らないと葉子に思わせるような内容だった。葉子は一々精読するのがめんどうなので行から行に飛び越えながら読んで行った。そして日付けの所まで来ても格別な情緒を誘われはしなかった。しかし葉子はこの以前倉地の見ている前でしたようにずたずたに引き裂いて捨ててしまう事はしなかった。しなかったどころではない、その中には葉子を考えさせるものが含まれていた。木村は遠からずハミルトンとかいう日本の名誉領事をしている人の手から、日本を去る前に思いきってして行った放資の回収をしてもらえるのだ。不即不離の関係を破らずに別れた自分のやりかたはやはり図にあたっていたと思った。「宿屋きめずに草鞋を脱」ぐばかをしない必要はもうない、倉地の愛は確かに自分の手に握り得たから。しかし口にこそ出しはしないが、倉地は金の上ではかなりに苦しんでいるに違いない。倉地の事業というのは日本じゅうの開港場にいる水先案内業者の組合を作って、その実権を自分の手に握ろうとするのらしかったが、それが仕上がるのは短い日月にはできる事ではなさそうだった。ことに時節が時節がら正月にかかっているから、そういうものの設立にはいちばん不便な時らしくも思われた。木村を利用してやろう。
しかし葉子の心の底にはどこかに痛みを覚えた。さんざん木村を苦しめ抜いたあげくに、なおあの根の正直な人間をたぶらかしてなけなしの金をしぼり取るのは俗にいう「つつもたせ」の所業と違ってはいない。そう思うと葉子は自分の堕落を痛く感ぜずにはいられなかった。けれども現在の葉子にいちばん大事なものは倉地という情人のほかにはなかった。心の痛みを感じながらも倉地の事を思うとなお心が痛かった。彼は妻子を犠牲に供し、自分の職業を犠牲に供し、社会上の名誉を犠牲に供してまで葉子の愛におぼれ、葉子の存在に生きようとしてくれているのだ。それを思うと葉子は倉地のためになんでもして見せてやりたかった。時によるとわれにもなく侵して来る涙ぐましい感じをじっ[#「じっ」に傍点]とこらえて、定子に会いに行かずにいるのも、そうする事が何か宗教上の願がけで、倉地の愛をつなぎとめる禁厭のように思えるからしている事だった。木村にだっていつかは物質上の償い目に対して物質上の返礼だけはする事ができるだろう。自分のする事は「つつもたせ」とは形が似ているだけだ。やってやれ。そう葉子は決心した。読むでもなく読まぬでもなく手に持ってながめていた手紙の最後の一枚を葉子は無意識のようにぽたり[#「ぽたり」に傍点]と膝の上に落とした。そしてそのままじっ[#「じっ」に傍点]と鉄びんから立つ湯気が電燈の光の中に多様な渦紋を描いては消え描いては消えするのを見つめていた。
しばらくしてから葉子は物うげに深い吐息を一つして、上体をひねって棚の上から手文庫を取りおろした。そして筆をかみながらまた上目でじっ[#「じっ」に傍点]と何か考えるらしかった。と、急に生きかえったようにはき[#「はき」に傍点]はきなって、上等のシナ墨を眼の三つまではいったまんまるい硯にすりおろした。そして軽く麝香の漂うなかで男の字のような健筆で、精巧な雁皮紙の巻紙に、一気に、次のようにしたためた。
[#ここから1字下げ]
「書けばきり[#「きり」に傍点]がございません。伺えばきり[#「きり」に傍点]がございません。だから書きもいたしませんでした。あなたのお手紙もきょういただいたものまでは拝見せずにずたずたに破って捨ててしまいました。その心をお察しくださいまし。
うわさにもお聞きとは存じますが、わたしはみごとに社会的に殺されてしまいました。どうしてわたしがこの上あなたの妻と名乗れましょう。自業自得と世の中では申します。わたしも確かにそう存じています。けれども親類、縁者、友だちにまで突き放されて、二人の妹をかかえてみますと、わたしは目もくらんでしまいます。倉地さんだけがどういう御縁かお見捨てなくわたしども三人をお世話くださっています。こうしてわたしはどこまで沈んで行く事でございましょう。ほんとうに自業自得でございます。
きょう拝見したお手紙もほんとうは読まずに裂いてしまうのでございましたけれども……わたしの居所をどなたにもお知らせしないわけなどは申し上げるまでもございますまい。
この手紙はあなたに差し上げる最後のものかと思われます。お大事にお過ごし遊ばしませ。陰ながら御成功を祈り上げます。
ただいま除夜の鐘が鳴ります。
大晦日の夜
木 村 様 葉より」
[#ここで字下げ終わり]
葉子はそれを日本風の状袋に収めて、毛筆で器用に表記を書いた。書き終わると急にいらいらし出して、いきなり[#「いきなり」に傍点]両手に握ってひと思いに引き裂こうとしたが、思い返して捨てるようにそれを畳の上になげ出すと、われにもなく冷ややかな微笑が口じりをかすかに引きつらした。
葉子の胸をどきん[#「どきん」に傍点]とさせるほど高く、すぐ最寄りにある増上寺の除夜の鐘が鳴り出した。遠くからどこの寺のともしれない鐘の声がそれに応ずるように聞こえて来た。その音に引き入れられて耳を澄ますと夜の沈黙の中にも声はあった。十二時を打つぼんぼん時計、「かるた」を読み上げるらしいはしゃい[#「はしゃい」に傍点]だ声、何に驚いてか夜なきをする鶏……葉子はそんな響きを探り出すと、人の生きているというのが恐ろしいほど不思議に思われ出した。
急に寒さを覚えて葉子は寝じたくに立ち上がった。
三一
寒い明治三十五年の正月が来て、愛子たちの冬期休暇も終わりに近づいた。葉子は妹たちを再び田島塾のほうに帰してやる気にはなれなかった。田島という人に対して反感をいだいたばかりではない。妹たちを再び預かってもらう事になれば葉子は当然挨拶に行って来べき義務を感じたけれども、どういうものかそれがはばかられてできなかった。横浜の支店長の永井とか、この田島とか、葉子には自分ながらわけのわからない苦手の人があった。その人たちが格別偉い人だとも、恐ろしい人だとも思うのではなかったけれども、どういうものかその前に出る事に気が引けた。葉子はまた妹たちが言わず語らずのうちに生徒たちから受けねばならぬ迫害を思うと不憫でもあった。で、毎日通学するには遠すぎるという理由のもとにそこをやめて、飯倉にある幽蘭女学校というのに通わせる事にした。
二人が学校に通い出すようになると、倉地は朝から葉子の所で退校時間まで過ごすようになった。倉地の腹心の仲間たちもちょいちょい出入りした。ことに正井という男は倉地の影のように倉地のいる所には必ずいた。例の水先案内業者組合の設立について正井がいちばん働いているらしかった。正井という男は、一見放漫なように見えていて、剃刀のように目はしのきく人だった。その人が玄関からはいったら、そのあとに行って見ると履き物は一つ残らずそろえてあって、傘は傘で一隅にちゃん[#「ちゃん」に傍点]と集めてあった。葉子も及ばない素早さで花びんの花のしおれかけたのや、茶や菓子の足しなくなったのを見て取って、翌日は忘れずにそれを買いととのえて来た。無口のくせにどこかに愛矯があるかと思うと、ばか笑いをしている最中に不思議に陰険な目つきをちらつかせたりした。葉子はその人を観察すればするほどその正体がわからないように思った。それは葉子をもどかしくさせるほどだった。時々葉子は倉地がこの男と組合設立の相談以外の秘密らしい話合いをしているのに感づいたが、それはどうしても明確に知る事ができなかった。倉地に聞いてみても、倉地は例ののんきな態度で事もなげに話題をそらしてしまった。
葉子はしかしなんといっても自分が望みうる幸福の絶頂に近い所にいた。倉地を喜ばせる事が自分を喜ばせる事であり、自分を喜ばせる事が倉地を喜ばせる事である、そうした作為のない調和は葉子の心をしとやかに快活にした。何にでも自分がしようとさえ思えば適応しうる葉子に取っては、抜け目のない世話女房になるくらいの事はなんでもなかった。妹たちもこの姉を無二のものとして、姉のしてくれる事は一も二もなく正しいものと思うらしかった。始終葉子から継子あつかいにされている愛子さえ、葉子の前にはただ従順なしとやかな少女だった。愛子としても少なくとも一つはどうしてもその姉に感謝しなければならない事があった。それは年齢のお陰もある。愛子はことしで十六になっていた。しかし葉子がいなかったら、愛子はこれほど美しくはなれなかったに違いない。二三週間のうちに愛子は山から掘り出されたばかりのルビーと磨きをかけ上げたルビーとほどに変わっていた。小肥りで背たけは姉よりもはるかに低いが、ぴち[#「ぴち」に傍点]ぴちと締まった肉づきと、抜け上がるほど白い艶のある皮膚とはいい均整を保って、短くはあるが類のないほど肉感的な手足の指の先細な所に利点を見せていた。むっくり[#「むっくり」に傍点]と牛乳色の皮膚に包まれた地蔵肩の上に据えられたその顔はまた葉子の苦心に十二分に酬いるものだった。葉子がえりぎわを剃ってやるとそこに新しい美が生まれ出た。髪を自分の意匠どおりに束ねてやるとそこに新しい蠱惑がわき上がった。葉子は愛子を美しくする事に、成功した作品に対する芸術家と同様の誇りと喜びとを感じた。暗い所にいて明るいほうに振り向いた時などの愛子の卵形の顔形は美の神ビーナスをさえ妬ます事ができたろう。顔の輪郭と、やや額ぎわを狭くするまでに厚く生えそろった黒漆の髪とは闇の中に溶けこむようにぼかされて、前からのみ来る光線のために鼻筋は、ギリシャ人のそれに見るような、規則正しく細長い前面の平面をきわ立たせ、潤いきった大きな二つのひとみと、締まって厚い上下の口びるとは、皮膚を切り破って現われ出た二対の魂のようになまなましい感じで見る人を打った。愛子はそうした時にいちばん美しいように、闇の中にさびしくひとりでいて、その多恨な目でじっ[#「じっ」に傍点]と明るみを見つめているような少女だった。
葉子は倉地が葉子のためにして見せた大きな英断に酬いるために、定子を自分の愛撫の胸から裂いて捨てようと思いきわめながらも、どうしてもそれができないでいた。あれから一度も訪れこそしないが、時おり金を送ってやる事と、乳母から安否を知らさせる事だけは続けていた。乳母の手紙はいつでも恨みつらみで満たされていた。日本に帰って来てくださったかいがどこにある。親がなくて子が子らしく育つものか育たぬものかちょっとでも考えてみてもらいたい。乳母もだんだん年を取って行く身だ。麻疹にかかって定子は毎日毎日ママの名を呼び続けている、その声が葉子の耳に聞こえないのが不思議だ。こんな事が消息のたびごとにたどたどしく書き連ねてあった。葉子はいても立ってもたまらないような事があった。けれどもそんな時には倉地の事を思った。ちょっと倉地の事を思っただけで、歯をくいしばりながらも、苔香園の表門からそっ[#「そっ」に傍点]と家を抜け出る誘惑に打ち勝った。
倉地のほうから手紙を出すのは忘れたと見えて、岡はまだ訪れては来なかった。木村にあれほど切な心持ちを書き送ったくらいだから、葉子の住所さえわかれば尋ねて来ないはずはないのだが、倉地にはそんな事はもう念頭になくなってしまったらしい。だれも来るなと願っていた葉子もこのごろになってみると、ふと岡の事などを思い出す事があった。横浜を立つ時に葉子にかじり付いて離れなかった青年を思い出す事などもあった。しかしこういう事があるたびごとに倉地の心の動きかたをもきっと推察した。そしてはいつでも願をかけるようにそんな事は夢にも思い出すまいと心に誓った。
倉地がいっこうに無頓着なので、葉子はまだ籍を移してはいなかった。もっとも倉地の先妻がはたして籍を抜いているかどうかも知らなかった。それを知ろうと求めるのは葉子の誇りが許さなかった。すべてそういう習慣を天から考えの中に入れていない倉地に対して今さらそんな形式事を迫るのは、自分の度胸を見すかされるという上からもつらかった。その誇りという心持ちも、度胸を見すかされるという恐れも、ほんとうをいうと葉子がどこまでも倉地に対してひけ目になっているのを語るに過ぎないとは葉子自身存分に知りきっているくせに、それを勝手に踏みにじって、自分の思うとおりを倉地にしてのけさす不敵さを持つ事はどうしてもできなかった。それなのに葉子はややともすると倉地の先妻の事が気になった。倉地の下宿のほうに遊びに行く時でも、その近所で人妻らしい人の往来するのを見かけると葉子の目は知らず知らず熟視のためにかがやいた。一度も顔を合わせないが、わずかな時間の写真の記憶から、きっとその人を見分けてみせると葉子は自信していた。葉子はどこを歩いてもかつてそんな人を見かけた事はなかった。それがまた妙に裏切られているような感じを与える事もあった。
航海の初期における批点の打ちどころのないような健康の意識はその後葉子にはもう帰って来なかった。寒気が募るにつれて下腹部が鈍痛を覚えるばかりでなく、腰の後ろのほうに冷たい石でも釣り下げてあるような、重苦しい気分を感ずるようになった。日本に帰ってから足の冷え出すのも知った。血管の中には血の代わりに文火でも流れているのではないかと思うくらい寒気に対して平気だった葉子が、床の中で倉地に足のひどく冷えるのを注意されたりすると不思議に思った。肩の凝るのは幼少の時からの痼疾だったがそれが近ごろになってことさら激しくなった。葉子はちょい[#「ちょい」に傍点]ちょい按摩を呼んだりした。腹部の痛みが月経と関係があるのを気づいて、葉子は婦人病であるに相違ないとは思った。しかしそうでもないと思うような事が葉子の胸の中にはあった。もしや懐妊では……葉子は喜びに胸をおどらせてそう思ってもみた。牝豚のように幾人も子を生むのはとても耐えられない。しかし一人はどうあっても生みたいものだと葉子は祈るように願っていたのだ。定子の事から考えると自分には案外子運があるのかもしれないとも思った。しかし前の懐妊の経験と今度の徴候とはいろいろな点で全く違ったものだった。
一月の末になって木村からははたして金を送って来た。葉子は倉地が潤沢につけ届けする金よりもこの金を使う事にむしろ心安さを覚えた。葉子はすぐ思いきった散財をしてみたい誘惑に駆り立てられた。
ある日当たりのいい日に倉地とさし向かいで酒を飲んでいると苔香園のほうから藪うぐいすのなく声が聞こえた。葉子は軽く酒ほてりのした顔をあげて倉地を見やりながら、耳ではうぐいすのなき続けるのを注意した。
「春が来ますわ」
「早いもんだな」
「どこかへ行きましょうか」
「まだ寒いよ」
「そうねえ……組合のほうは」
「うむあれが片づいたら出かけようわい。いいかげんくさ[#「くさ」に傍点]くさしおった」
そういって倉地はさもめんどうそうに杯の酒を一煽りにあおりつけた。
葉子はすぐその仕事がうまく運んでいないのを感づいた。それにしてもあの毎月の多額な金はどこから来るのだろう。そうちらっ[#「ちらっ」に傍点]と思いながら素早く話を他にそらした。
三二
それは二月初旬のある日の昼ごろだった。からっ[#「からっ」に傍点]と晴れた朝の天気に引きかえて、朝日がしばらく東向きの窓にさす間もなく、空は薄曇りに曇って西風がゴウゴウと杉森にあたって物すごい音を立て始めた。どこにか春をほのめかすような日が来たりしたあとなので、ことさら世の中が暗澹と見えた。雪でもまくしかけて来そうに底冷えがするので、葉子は茶の間に置きごたつを持ち出して、倉地の着がえをそれにかけたりした。土曜だから妹たちは早びけだと知りつつも倉地はものぐさそうに外出のしたくにかからないで、どてらを引っかけたまま火鉢のそばにうずくまっていた。葉子は食器を台所のほうに運びながら、来たり行ったりするついでに倉地と物をいった。台所に行った葉子に茶の間から大きな声で倉地がいいかけた。
「おいお葉(倉地はいつのまにか葉子をこう呼ぶようになっていた)おれはきょうは二人に対面して、これから勝手に出はいりのできるようにするぞ」
葉子は布巾を持って台所のほうからいそいそと茶の間に帰って来た。
「なんだってまたきょう……」
そういってつき膝をしながらちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台をぬぐった。
「いつまでもこうしているが気づまりでようないからよ」
「そうねえ」
葉子はそのままそこにすわり込んで布巾をちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台にあてがったまま考えた。ほんとうはこれはとうに葉子のほうからいい出すべき事だったのだ。妹たちのいないすきか、寝てからの暇をうかがって、倉地と会うのは、始めのうちこそあいびき[#「あいびき」に傍点]のような興味を起こさせないでもないと思ったのと、葉子は自分の通って来たような道はどうしても妹たちには通らせたくないところから、自分の裏面をうかがわせまいという心持ちとで、今までついずるずるに妹たちを倉地に近づかせないで置いたのだったが、倉地の言葉を聞いてみると、そうしておくのが少し延び過ぎたと気がついた。また新しい局面を二人の間に開いて行くにもこれは悪い事ではない。葉子は決心した。
「じゃきょうにしましょう。……それにしても着物だけは着かえていてくださいましな」
「よし来た」
と倉地はにこ[#「にこ」に傍点]にこしながらすぐ立ち上がった。葉子は倉地の後ろから着物を羽織っておいて羽がいに抱きながら、今さらに倉地の頑丈な雄々しい体格を自分の胸に感じつつ、
「それは二人ともいい子よ。かわいがってやってくださいましよ。……けれどもね、木村とのあの事だけはまだ内証よ。いいおりを見つけて、わたしから上手にいって聞かせるまでは知らんふりをしてね……よくって……あなたはうっかり[#「うっかり」に傍点]するとあけすけ[#「あけすけ」に傍点]に物をいったりなさるから……今度だけは用心してちょうだい」
「ばかだなどうせ知れる事を」
「でもそれはいけません……ぜひ」
葉子は後ろから背延びをしてそっ[#「そっ」に傍点]と倉地の後ろ首を吸った。そして二人は顔を見合わせてほほえみかわした。
その瞬間に勢いよく玄関の格子戸ががらっ[#「がらっ」に傍点]とあいて「おゝ寒い」という貞世の声が疳高く聞こえた。時間でもないので葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として倉地から飛び離れた。次いで玄関口の障子があいた。貞世は茶の間に駆け込んで来るらしかった。
「おねえ様雪が降って来てよ」
そういっていきなり[#「いきなり」に傍点]茶の間の襖をあけたのは貞世だった。
「おやそう……寒かったでしょう」
とでもいって迎えてくれる姉を期待していたらしい貞世は、置きごたつにはいってあぐらをかいている途方もなく大きな男を姉のほかに見つけたので、驚いたように大きな目を見張ったが、そのまますぐに玄関に取って返した。
「愛ねえさんお客様よ」
と声をつぶすようにいうのが聞こえた。倉地と葉子とは顔を見合わしてまたほほえみかわした。
「ここにお下駄があるじゃありませんか」
そう落ち付いていう愛子の声が聞こえて、やがて二人は静かにはいって来た。そして愛子はしとやかに貞世はぺちゃん[#「ぺちゃん」に傍点]とすわって、声をそろえて「ただいま」といいながら辞儀をした。愛子の年ごろの時、厳格な宗教学校で無理じいに男の子のような無趣味な服装をさせられた、それに復讐するような気で葉子の装わした愛子の身なりはすぐ人の目をひいた。お下げをやめさせて、束髪にさせた項とたぼ[#「たぼ」に傍点]の所には、そのころ米国での流行そのままに、蝶結びの大きな黒いリボンがとめられていた。古代紫の紬地の着物に、カシミヤの袴を裾みじかにはいて、その袴は以前葉子が発明した例の尾錠どめになっていた。貞世の髪はまた思いきって短くおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]に切りつめて、横のほうに深紅のリボンが結んであった。それがこの才はじけた童女を、膝までぐらいな、わざと短く仕立てた袴と共に可憐にもいたずらいたずらしく見せた。二人は寒さのために頬をまっ紅にして、目を少し涙ぐましていた。それがことさら二人に別々な可憐な趣を添えていた。
葉子は少し改まって二人を火鉢の座から見やりながら、
「お帰りなさい。きょうはいつもより早かったのね。……お部屋に行ってお包みをおいて袴を取っていらっしゃい、その上でゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]お話しする事があるから……」
二人の部屋からは貞世がひとりではしゃい[#「はしゃい」に傍点]でいる声がしばらくしていたが、やがて愛子は広い帯をふだん着と着かえた上にしめて、貞世は袴をぬいだだけで帰って来た。
「さあここにいらっしゃい。(そういって葉子は妹たちを自分の身近にすわらせた)このお方がいつか双鶴館でおうわさした倉地さんなのよ。今まででも時々いらしったんだけれどもついにお目にかかるおりがなかったわね。これが愛子これが貞世です」
そういいながら葉子は倉地のほうを向くともうくすぐったい[#「くすぐったい」に傍点]ような顔つきをせずにはいられなかった。倉地は渋い笑いを笑いながら案外まじめに、
「お初に(といってちょっと頭を下げた)二人とも美しいねえ」
そういって貞世の顔をちょっ[#「ちょっ」に傍点]と見てからじっ[#「じっ」に傍点]と目を愛子にさだめた。愛子は格別恥じる様子もなくその柔和な多恨な目を大きく見開いてまんじり[#「まんじり」に傍点]と倉地を見やっていた。それは男女の区別を知らぬ無邪気な目とも見えた。先天的に男というものを知りぬいてその心を試みようとする淫婦の目とも見られない事はなかった。それほどその目は奇怪な無表情の表情を持っていた。
「始めてお目にかかるが、愛子さんおいくつ」
倉地はなお愛子を見やりながらこう尋ねた。
「わたし始めてではございません。……いつぞやお目にかかりました」
愛子は静かに目を伏せてはっきり[#「はっきり」に傍点]と無表情な声でこういった。愛子があの年ごろで男の前にはっきり[#「はっきり」に傍点]ああ受け答えができるのは葉子にも意外だった。葉子は思わず愛子を見た。
「はて、どこでね」
倉地もいぶかしげにこう問い返した。愛子は下を向いたまま口をつぐんでしまった。そこにはかすかながら憎悪の影がひらめいて過ぎたようだった。葉子はそれを見のがさなかった。
「寝顔を見せた時にやはり彼女は目をさましていたのだな。それをいうのかしらん」
とも思った。倉地の顔にも思いかけずちょっとどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]したらしい表情が浮かんだのを葉子は見た。
「なあに……」激しく葉子は自分で自分を打ち消した。
貞世は無邪気にも、この熊のような大きな男が親しみやすい遊び相手と見て取ったらしい。貞世がその日学校で見聞きして来た事などを例のとおり残らず姉に報告しようと、なんでも構わず、なんでも隠さず、いってのけるのに倉地が興に入って合槌を打つので、ここに移って来てから客の味を全く忘れていた貞世はうれしがって倉地を相手にしようとした。倉地はさんざん貞世と戯れて、昼近く立って行った。
葉子は朝食がおそかったからといって、妹たちだけが昼食の膳についた。
「倉地さんは今、ある会社をお立てになるのでいろいろ御相談事があるのだけれども、下宿ではまわりがやかましくって困るとおっしゃるから、これからいつでもここで御用をなさるようにいったから、きっとこれからもちょく[#「ちょく」に傍点]ちょくいらっしゃるだろうが、貞ちゃん、きょうのように遊びのお相手にばかりしていてはだめよ。その代わり英語なんぞでわからない事があったらなんでもお聞きするといい、ねえさんよりいろいろの事をよく知っていらっしゃるから……それから愛さんは、これから倉地さんのお客様も見えるだろうから、そんな時には一々ねえさんのさしずを待たないではきはきお世話をして上げるのよ」
と葉子はあらかじめ二人に釘をさした。
妹たちが食事を終わって二人であと始末をしているとまた玄関の格子が静かにあく音がした。
貞世は葉子の所に飛んで来た。
「おねえ様またお客様よ。きょうはずいぶんたくさんいらっしゃるわね。だれでしょう」
と物珍しそうに玄関のほうに注意の耳をそばだてた。葉子もだれだろうといぶかった。ややしばらくして静かに案内を求める男の声がした。それを聞くと貞世は姉から離れて駆け出して行った。愛子が襷をはずしながら台所から出て来た時分には、貞世はもう一枚の名刺を持って葉子の所に取って返していた。金縁のついた高価らしい名刺の表には岡一と記してあった。
「まあ珍しい」
葉子は思わず声を立てて貞世と共に玄関に走り出た。そこには処女のように美しく小柄な岡が雪のかかった傘をつぼめて、外套のしたたりを紅をさしたように赤らんだ指の先ではじきながら、女のようにはにかんで立っていた。
「いい所でしょう。おいでには少しお寒かったかもしれないけれども、きょうはほんとにいいおりからでしたわ。隣に見えるのが有名な苔香園、あすこの森の中が紅葉館、この杉の森がわたし大好きですの。きょうは雪が積もってなおさらきれいですわ」
葉子は岡を二階に案内して、そこのガラス戸越しにあちこちの雪景色を誇りがに指呼して見せた。岡は言葉少なながら、ちかちかとまぶしい印象を目に残して、降り下り降りあおる雪の向こうに隠見する山内の木立ちの姿を嘆賞した。
「それにしてもどうしてあなたはここを……倉地から手紙でも行きましたか」
岡は神秘的にほほえんで葉子を顧みながら「いゝえ」といった。
「そりゃおかしい事……それではどうして」
縁側から座敷へ戻りながらおもむろに、
「お知らせがないもので上がってはきっといけないとは思いましたけれども、こんな雪の日ならお客もなかろうからひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると会ってくださるかとも思って……」
そういういい出しで岡が語るところによれば、岡の従妹に当たる人が幽蘭女学校に通学していて、正月の学期から早月という姉妹の美しい生徒が来て、それは芝山内の裏坂に美人屋敷といって界隈で有名な家の三人姉妹の中の二人であるという事や、一番の姉に当たる人が「報正新報」でうわさを立てられた優れた美貌の持ち主だという事やが、早くも口さがない生徒間の評判になっているのを何かのおりに話したのですぐ思い当たったけれども、一日一日と訪問を躊躇していたのだとの事だった。葉子は今さらに世間の案外に狭いのを思った。愛子といわず貞世の上にも、自分の行跡がどんな影響を与えるかも考えずにはいられなかった。そこに貞世が、愛子がととのえた茶器をあぶなっかしい[#「あぶなっかしい」に傍点]手つきで、目八分に持って来た。貞世はこの日さびしい家の内に幾人も客を迎える物珍しさに有頂天になっていたようだった。満面に偽りのない愛嬌を見せながら、丁寧にぺっちゃん[#「ぺっちゃん」に傍点]とおじぎをした。そして顔にたれかかる黒髪を振り仰いで頭を振って後ろにさばきながら、岡を無邪気に見やって、姉のほうに寄り添うと大きな声で「どなた」と聞いた。
「一緒にお引き合わせしますからね、愛さんにもおいでなさいといっていらっしゃい」
二人だけが座に落ち付くと岡は涙ぐましいような顔をしてじっ[#「じっ」に傍点]と手あぶりの中を見込んでいた。葉子の思いなしかその顔にも少しやつれ[#「やつれ」に傍点]が見えるようだった。普通の男ならばたぶんさほどにも思わないに違いない家の中のいさくさ[#「いさくさ」に傍点]などに繊細すぎる神経をなやまして、それにつけても葉子の慰撫をことさらにあこがれていたらしい様子は、そんな事については一言もいわないが、岡の顔にははっきり[#「はっきり」に傍点]と描かれているようだった。
「そんなにせい[#「せい」に傍点]たっていやよ貞ちゃんは。せっかち[#「せっかち」に傍点]な人ねえ」
そう穏かにたしなめるらしい愛子の声が階下でした。
「でもそんなにおしゃれ[#「おしゃれ」に傍点]しなくったっていいわ。おねえ様が早くっておっしゃってよ」
無遠慮にこういう貞世の声もはっきり[#「はっきり」に傍点]聞こえた。葉子はほほえみながら岡を暖かく見やった。岡もさすがに笑いを宿した顔を上げたが、葉子と見かわすと急に頬をぽっ[#「ぽっ」に傍点]と赤くして目を障子のほうにそらしてしまった。手あぶりの縁に置かれた手の先がかすかに震うのを葉子は見のがさなかった。
やがて妹たち二人が葉子の後ろに現われた。葉子はすわったまま手を後ろに回して、
「そんな人のお尻の所にすわって、もっとこっちにお出なさいな。……これが妹たちですの。どうかお友だちにしてくださいまし。お船で御一緒だった岡一様。……愛さんあなたお知り申していないの……あの失礼ですがなんとおっしゃいますの、お従妹御さんのお名前は」
と岡に尋ねた。岡は言葉どおりに神経を転倒させていた。それはこの青年を非常に醜くかつ美しくして見せた。急いですわり直した居ずまいをすぐ意味もなくくずして、それをまた非常に後悔したらしい顔つきを見せたりした。
「は?」
「あのわたしどものうわさをなさったそのお嬢様のお名前は」
「あのやはり岡といいます」
「岡さんならお顔は存じ上げておりますわ。一つ上の級にいらっしゃいます」
愛子は少しも騒がずに、倉地に対した時と同じ調子でじっ[#「じっ」に傍点]と岡を見やりながら即座にこう答えた。その目は相変わらず淫蕩と見えるほど極端に純潔だった。純潔と見えるほど極端に淫蕩だった。岡は怖じながらもその目から自分の目をそらす事ができないようにまとも[#「まとも」に傍点]に愛子を見て見る見る耳たぶまでをまっ赤にしていた。葉子はそれを気取ると愛子に対していちだんの憎しみを感ぜずにはいられなかった。
「倉地さんは……」
岡は一路の逃げ道をようやく求め出したように葉子に目を転じた。
「倉地さん? たった今お帰りになったばかり惜しい事をしましてねえ。でもあなたこれからはちょく[#「ちょく」に傍点]ちょくいらしってくださいますわね。倉地さんもすぐお近所にお住まいですからいつかごいっしょに御飯でもいただきましょう。わたし日本に帰ってからこの家にお客様をお上げするのはきょうが始めてですのよ。ねえ貞ちゃん。……ほんとうによく来てくださいました事。わたしとうから来ていただきたくってしようがなかったんですけれども、倉地さんからなんとかいって上げてくださるだろうと、そればかりを待っていたのですよ。わたしからお手紙を上げるのはいけませんもの(そこで葉子はわかってくださるでしょうというような優しい目つきを強い表情を添えて岡に送った)。木村からの手紙であなたの事はくわしく伺っていましたわ。いろいろお苦しい事がおありになるんですってね」
岡はそのころになってようやく自分を回復したようだった。しどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]になった考えや言葉もやや整って見えた。愛子は一度しげしげと岡を見てしまってからは、決して二度とはそのほうを向かずに、目を畳の上に伏せてじっ[#「じっ」に傍点]と千里も離れた事でも考えている様子だった。
「わたしの意気地のないのが何よりもいけないんです。親類の者たちはなんといってもわたしを実業の方面に入れて父の事業を嗣がせようとするんです。それはたぶんほんとうにいい事なんでしょう。けれどもわたしにはどうしてもそういう事がわからないから困ります。少しでもわかれば、どうせこんなに病身で何もできませんから、母はじめみんなのいうことをききたいんですけれども……わたしは時々乞食にでもなってしまいたいような気がします。みんなの主人思いな目で見つめられていると、わたしはみんなに済まなくなって、なぜ自分みたいな屑な人間を惜しんでいてくれるのだろうとよくそう思います……こんな事今までだれにもいいはしませんけれども。突然日本に帰って来たりなぞしてからわたしは内々監視までされるようになりました。……わたしのような家に生まれると友だちというものは一人もできませんし、みんなとは表面だけで物をいっていなければならないんですから……心がさびしくってしかたがありません」
そういって岡はすがるように葉子を見やった。岡が少し震えを帯びた、よごれっ気の塵ほどもない声の調子を落としてしんみり[#「しんみり」に傍点]と物をいう様子にはおのずからな気高いさびしみがあった。戸障子をきしませながら雪を吹きまく戸外の荒々しい自然の姿に比べてはことさらそれが目立った。葉子には岡のような消極的な心持ちは少しもわからなかった。しかしあれでいて、米国くんだり[#「くんだり」に傍点]から乗って行った船で帰って来る所なぞには、粘り強い意力が潜んでいるようにも思えた。平凡な青年ならできてもできなくとも周囲のものにおだてあげられれば疑いもせずに父の遺業を嗣ぐまねをして喜んでいるだろう。それがどうしてもできないという所にもどこか違った所があるのではないか。葉子はそう思うと何の理解もなくこの青年を取り巻いてただわいわい騒ぎ立てている人たちがばかばかしくも見えた。それにしてもなぜもっとはき[#「はき」に傍点]はきとそんな下らない障害ぐらい打ち破ってしまわないのだろう。自分ならその財産を使ってから、「こうすればいいのかい」とでもいって、まわりで世話を焼いた人間たちを胸のすき切るまで思い存分笑ってやるのに。そう思うと岡の煮え切らないような態度が歯がゆくもあった。しかしなんといっても抱きしめたいほど可憐なのは岡の繊美なさびしそうな姿だった。岡は上手に入れられた甘露をすすり終わった茶わんを手の先に据えて綿密にその作りを賞翫していた。
「お覚えになるようなものじゃございません事よ」
岡は悪い事でもしていたように顔を赤くしてそれを下においた。彼はいいかげんな世辞はいえないらしかった。
岡は始めて来た家に長居するのは失礼だと来た時から思っていて、機会あるごとに座を立とうとするらしかったが、葉子はそういう岡の遠慮に感づけば感づくほど巧みにもすべての機会を岡に与えなかった。
「もう少しお待ちになると雪が小降りになりますわ。今、こないだインドから来た紅茶を入れてみますから召し上がってみてちょうだい。ふだんいいものを召し上がりつけていらっしゃるんだから、鑑定をしていただきますわ。ちょっと、……ほんのちょっと待っていらしってちょうだいよ」
そういうふうにいって岡を引き止めた。始めの間こそ倉地に対してのようにはなつかなかった貞世もだんだんと岡と口をきくようになって、しまいには岡の穏やかな問いに対して思いのままをかわいらしく語って聞かせたり、話題に窮して岡が黙ってしまうと貞世のほうから無邪気な事を聞きただして、岡をほほえましたりした。なんといっても岡は美しい三人の姉妹が(そのうち愛子だけは他の二人とは全く違った態度で)心をこめて親しんで来るその好意には敵し兼ねて見えた。盛んに火を起こした暖かい部屋の中の空気にこもる若い女たちの髪からとも、ふところからとも、膚からとも知れぬ柔軟な香りだけでも去りがたい思いをさせたに違いなかった。いつのまにか岡はすっかり[#「すっかり」に傍点]腰を落ち着けて、いいようなく快く胸の中のわだかまり[#「わだかまり」に傍点]を一掃したように見えた。
それからというもの、岡は美人屋敷とうわさされる葉子の隠れ家におりおり出入りするようになった。倉地とも顔を合わせて、互いに快く船の中での思い出し話などをした。岡の目の上には葉子の目が義眼されていた。葉子のよしと見るものは岡もよしと見た。葉子の憎むものは岡も無条件で憎んだ。ただ一つその例外となっているのは愛子というものらしかった。もちろん葉子とて性格的にはどうしても愛子といれ合わなかったが、骨肉の情としてやはり互いにいいようのない執着を感じあっていた。しかし岡は愛子に対しては心からの愛着を持ち出すようになっている事が知れた。
とにかく岡の加わった事が美人屋敷のいろどりを多様にした。三人の姉妹は時おり倉地、岡に伴われて苔香園の表門のほうから三田の通りなどに散歩に出た。人々はそのきらびやかな群れに物好きな目をかがやかした。
三三
岡に住所を知らせてから、すぐそれが古藤に通じたと見えて、二月にはいってからの木村の消息は、倉地の手を経ずに直接葉子にあてて古藤から回送されるようになった。古藤はしかし頑固にもその中に一言も自分の消息を封じ込んでよこすような事はしなかった。古藤を近づかせる事は一面木村と葉子との関係を断絶さす機会を早める恐れがないでもなかったが、あの古藤の単純な心をうまくあやつりさえすれば、古藤を自分のほうになずけてしまい、従って木村に不安を起こさせない方便になると思った。葉子は例のいたずら心から古藤を手なずける興味をそそられないでもなかった。しかしそれを実行に移すまでにその興味は嵩じては来なかったのでそのままにしておいた。
木村の仕事は思いのほか都合よく運んで行くらしかった。「日本における未来のピーボデー」という標題に木村の肖像まで入れて、ハミルトン氏配下の敏腕家の一人として、また品性の高潔な公共心の厚い好個の青年実業家として、やがては日本において、米国におけるピーボデーと同様の名声をかちうべき約束にあるものと賞賛したシカゴ・トリビューンの「青年実業家評判記」の切り抜きなどを封入して来た。思いのほか巨額の為替をちょいちょい送ってよこして、倉地氏に支払うべき金額の全体を知らせてくれたら、どう工面しても必ず送付するから、一日も早く倉地氏の保護から独立して世評の誤謬を実行的に訂正し、あわせて自分に対する葉子の真情を証明してほしいなどといってよこした。葉子は――倉地におぼれきっている葉子は鼻の先でせせら笑った。
それに反して倉地の仕事のほうはいつまでも目鼻がつかないらしかった。倉地のいう所によれば日本だけの水先案内業者の組合といっても、東洋の諸港や西部米国の沿岸にあるそれらの組合とも交渉をつけて連絡を取る必要があるのに、日本の移民問題が米国の西部諸州でやかましくなり、排日熱が過度に煽動され出したので、何事も米国人との交渉は思うように行かずにその点で行きなやんでいるとの事だった。そういえば米国人らしい外国人がしばしば倉地の下宿に出入りするのを葉子は気がついていた。ある時はそれが公使館の館員ででもあるかと思うような、礼装をしてみごとな馬車に乗った紳士である事もあり、ある時はズボンの折り目もつけないほどだらしのないふうをした人相のよくない男でもあった。
とにかく二月にはいってから倉地の様子が少しずつすさんで来たらしいのが目立つようになった。酒の量も著しく増して来た。正井がかみつくようにどなられている事もあった。しかし葉子に対しては倉地は前にもまさって溺愛の度を加え、あらゆる愛情の証拠をつかむまでは執拗に葉子をしいたげるようになった。葉子は目もくらむ火酒をあおりつけるようにそのしいたげを喜んで迎えた。
ある夜葉子は妹たちが就寝してから倉地の下宿を訪れた。倉地はたった一人でさびしそうにソウダ・ビスケットを肴にウィスキーを飲んでいた。チャブ台の周囲には書類や港湾の地図やが乱暴に散らけてあって、台の上のからのコップから察すると正井かだれか、今客が帰った所らしかった。襖を明けて葉子のはいって来たのを見ると倉地はいつもになくちょっとけわしい目つきをして書類に目をやったが、そこにあるものを猿臂を延ばして引き寄せてせわしく一まとめにして床の間に移すと、自分の隣に座ぶとんを敷いて、それにすわれと顎を突き出して相図した。そして激しく手を鳴らした。
「コップと炭酸水を持って来い」
用を聞きに来た女中にこういいつけておいて、激しく葉子をまとも[#「まとも」に傍点]に見た。
「葉ちゃん(これはそのころ倉地が葉子を呼ぶ名前だった。妹たちの前で葉子と呼び捨てにもできないので倉地はしばらくの間お葉さんお葉さんと呼んでいたが、葉子が貞世を貞ちゃんと呼ぶのから思いついたと見えて、三人を葉ちゃん、愛ちゃん、貞ちゃんと呼ぶようになった。そして差し向かいの時にも葉子をそう呼ぶのだった)は木村に貢がれているな。白状しっちまえ」
「それがどうして?」
葉子は左の片肘をちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台について、その指先で鬢のほつれをかき上げながら、平気な顔で正面から倉地を見返した。
「どうしてがあるか。おれは赤の他人におれの女を養わすほど腑抜けではないんだ」
「まあ気の小さい」
葉子はなおも動じなかった。そこに婢がはいって来たので話の腰が折られた。二人はしばらく黙っていた。
「おれはこれから竹柴へ行く。な、行こう」
「だって明朝困りますわ。わたしが留守だと妹たちが学校に行けないもの」
「一筆書いて学校なんざあ休んで留守をしろといってやれい」
葉子はもちろんちょっとそんな事をいって見ただけだった。妹たちの学校に行ったあとでも、苔香園の婆さんに言葉をかけておいて家を明ける事は常始終だった。ことにその夜は木村の事について倉地に合点させておくのが必要だと思ったのでいい出された時から一緒する下心ではあったのだ。葉子はそこにあったペンを取り上げて紙切れに走り書きをした。倉地が急病になったので介抱のために今夜はここで泊まる。あすの朝学校の時刻までに帰って来なかったら、戸締まりをして出かけていい。そういう意味を書いた。その間に倉地は手早く着がえをして、書類を大きなシナ鞄に突っ込んで錠をおろしてから、綿密にあくかあかないかを調べた。そして考えこむようにうつむいて上目をしながら、両手をふところにさし込んで鍵を腹帯らしい所にしまい込んだ。
九時すぎ十時近くなってから二人は連れ立って下宿を出た。増上寺前に来てから車を傭った。満月に近い月がもうだいぶ寒空高くこうこうとかかっていた。
二人を迎えた竹柴館の女中は倉地を心得ていて、すぐ庭先に離れになっている二間ばかりの一軒に案内した。風はないけれども月の白さでひどく冷え込んだような晩だった。葉子は足の先が氷で包まれたほど感覚を失っているのを覚えた。倉地の浴したあとで、熱めな塩湯にゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]浸ったのでようやく人心地がついて戻って来た時には、素早い女中の働きで酒肴がととのえられていた。葉子が倉地と遠出らしい事をしたのはこれが始めてなので、旅先にいるような気分が妙に二人を親しみ合わせた。ましてや座敷に続く芝生のはずれの石垣には海の波が来て静かに音を立てていた。空には月がさえていた。妹たちに取り巻かれたり、下宿人の目をかねたりしていなければならなかった二人はくつろいだ姿と心とで火鉢により添った。世の中は二人きりのようだった。いつのまにか良人とばかり倉地を考え慣れてしまった葉子は、ここに再び情人を見いだしたように思った。そして何とはなく倉地をじらしてじらしてじらし抜いたあげくに、その反動から来る蜜のような歓語を思いきり味わいたい衝動に駆られていた。そしてそれがまた倉地の要求でもある事を本能的に感じていた。
「いいわねえ。なぜもっと早くこんな所に来なかったでしょう。すっかり苦労も何も忘れてしまいましたわ」
葉子はすべすべとほてって少しこわばるような頬をなでながら、とろけるように倉地を見た。もうだいぶ酒の気のまわった倉地は、女の肉感をそそり立てるようなにおいを部屋じゅうにまき散らす葉巻をふかしながら、葉子を尻目にかけた。
「それは結構。だがおれにはさっき[#「さっき」に傍点]の話が喉につかえて残っとるて。胸くそが悪いぞ」
葉子はあきれたように倉地を見た。
「木村の事?」
「お前はおれの金を心まかせに使う気にはなれないんか」
「足りませんもの」
「足りなきゃなぜいわん」
「いわなくったって木村がよこすんだからいいじゃありませんか」
「ばか!」
倉地は右の肩を小山のようにそびやかして、上体を斜に構えながら葉子をにらみつけた。葉子はその目の前で海から出る夏の月のようにほほえんで見せた。
「木村は葉ちゃんに惚れとるんだよ」
「そして葉ちゃんはきらってるんですわね」
「冗談は措いてくれ。……おりゃ真剣でいっとるんだ。おれたちは木村に用はないはずだ。おれは用のないものは片っ端から捨てるのが立てまえだ。嬶だろうが子だろうが……見ろおれを……よく見ろ。お前はまだこのおれを疑っとるんだな。あとがまには木村をいつでもなおせるように食い残しをしとるんだな」
「そんな事はありませんわ」
「ではなんで手紙のやり取りなどしおるんだ」
「お金がほしいからなの」
葉子は平気な顔をしてまた話をあとに戻した。そして独酌で杯を傾けた。倉地は少しどもるほど怒りが募っていた。
「それが悪いといっとるのがわからないか……おれの面に泥を塗りこくっとる……こっちに来い(そういいながら倉地は葉子の手を取って自分の膝の上に葉子の上体をたくし込んだ)。いえ、隠さずに。今になって木村に未練が出て来おったんだろう。女というはそうしたもんだ。木村に行きたくば行け、今行け。おれのようなやくざ[#「やくざ」に傍点]を構っとると芽は出やせんから。……お前にはふて腐れがいっち[#「いっち」に傍点]よく似合っとるよ……ただしおれをだましにかかると見当違いだぞ」
そういいながら倉地は葉子を突き放すようにした。葉子はそれでも少しも平静を失ってはいなかった。あでやかにほほえみながら、
「あなたもあんまりわからない……」
といいながら今度は葉子のほうから倉地の膝に後ろ向きにもたれかかった。倉地はそれを退けようとはしなかった。
「何がわからんかい」
しばらくしてから、倉地は葉子の肩越しに杯を取り上げながらこう尋ねた。葉子には返事がなかった。またしばらくの沈黙の時間が過ぎた。倉地がもう一度何かいおうとした時、葉子はいつのまにかしくしくと泣いていた。倉地はこの不意打ちに思わずはっ[#「はっ」に傍点]としたようだった。
「なぜ木村から送らせるのが悪いんです」
葉子は涙を気取らせまいとするように、しかし打ち沈んだ調子でこういい出した。
「あなたの御様子でお心持ちが読めないわたしだとお思いになって? わたしゆえに会社をお引きになってから、どれほど暮らし向きに苦しんでいらっしゃるか……そのくらいはばかでもわたしにはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と響いています。それでもしみったれ[#「しみったれ」に傍点]た事をするのはあなたもおきらい、わたしもきらい……わたしは思うようにお金をつかってはいました。いましたけれども……心では泣いてたんです。あなたのためならどんな事でも喜んでしよう……そうこのごろ思ったんです。それから木村にとうとう手紙を書きました。わたしが木村をなんと思ってるか、今さらそんな事をお疑いになるのあなたは。そんな水臭い回し気をなさるからついくやしくなっちまいます。……そんなわたしだかわたしではないか……(そこで葉子は倉地から離れてきちん[#「きちん」に傍点]とすわり直して袂で顔をおおうてしまった)泥棒をしろとおっしゃるほうがまだ増しです……あなたお一人でくよ[#「くよ」に傍点]くよなさって……お金の出所を……暮らし向きが張り過ぎるなら張り過ぎると……なぜ相談に乗らせてはくださらないの……やはりあなたはわたしを真身には思っていらっしゃらないのね……」
倉地は一度は目を張って驚いたようだったが、やがて事もなげに笑い出した。
「そんな事を思っとったのか。ばかだなあお前は。御好意は感謝します……全く。しかしなんぼやせても枯れても、おれは女の子の二人や三人養うに事は欠かんよ。月に三百や四百の金が手回らんようなら首をくくって死んで見せる。お前をまで相談に乗せるような事はいらんのだよ。そんな陰にまわった心配事はせん事にしようや。こののんき坊のおれまでがいらん気をもませられるで……」
「そりゃうそです」
葉子は顔をおおうたままきっぱり[#「きっぱり」に傍点]と矢継ぎ早にいい放った。倉地は黙ってしまった。葉子もそのまましばらくはなんとも言い出でなかった。
母屋のほうで十二を打つ柱時計の声がかすかに聞こえて来た。寒さもしんしんと募っていたには相違なかった。しかし葉子はそのいずれをも心の戸の中までは感じなかった。始めは一種のたくらみから狂言でもするような気でかかったのだったけれども、こうなると葉子はいつのまにか自分で自分の情におぼれてしまっていた。木村を犠牲にしてまでも倉地におぼれ込んで行く自分があわれまれもした。倉地が費用の出所をついぞ打ち明けて相談してくれないのが恨みがましく思われもした。知らず知らずのうちにどれほど葉子は倉地に食い込み、倉地に食い込まれていたかをしみじみと今さらに思い知った。どうなろうとどうあろうと倉地から離れる事はもうできない。倉地から離れるくらいなら自分はきっと死んで見せる。倉地の胸に歯を立ててその心臓をかみ破ってしまいたいような狂暴な執念が葉子を底知れぬ悲しみへ誘い込んだ。
心の不思議な作用として倉地も葉子の心持ちは刺青をされるように自分の胸に感じて行くらしかった。やや程経ってから倉地は無感情のような鈍い声でいい出した。
「全くはおれが悪かったのかもしれない。一時は全く金には弱り込んだ。しかしおれは早や世の中の底潮にもぐり込んだ人間だと思うと度胸がすわってしまいおった。毒も皿も食ってくれよう、そう思って(倉地はあたりをはばかるようにさらに声を落とした)やり出した仕事があの組合の事よ。水先案内のやつらはくわしい海図を自分で作って持っとる。要塞地の様子も玄人以上ださ。それを集めにかかってみた。思うようには行かんが、食うだけの金は余るほど出る」
葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として息気がつまった。近ごろ怪しげな外国人が倉地の所に出入りするのも心当たりになった。倉地は葉子が倉地の言葉を理解して驚いた様子を見ると、ほとほと悪魔のような顔をしてにやり[#「にやり」に傍点]と笑った。捨てばちな不敵さと力とがみなぎって見えた。
「愛想が尽きたか……」
愛想が尽きた。葉子は自分自身に愛想が尽きようとしていた。葉子は自分の乗った船はいつでも相客もろともに転覆して沈んで底知れぬ泥土の中に深々ともぐり込んで行く事を知った。売国奴、国賊、――あるいはそういう名が倉地の名に加えられるかもしれない……と思っただけで葉子は怖毛をふるって、倉地から飛びのこうとする衝動を感じた。ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした瞬間にただ瞬間だけ感じた。次にどうかしてそんな恐ろしいはめ[#「はめ」に傍点]から倉地を救い出さなければならないという殊勝な心にもなった。しかし最後に落ち着いたのは、その深みに倉地をことさら突き落としてみたい悪魔的な誘惑だった。それほどまでの葉子に対する倉地の心尽くしを、臆病な驚きと躊躇とで迎える事によって、倉地に自分の心持ちの不徹底なのを見下げられはしないかという危惧よりも、倉地が自分のためにどれほどの堕落でも汚辱でも甘んじて犯すか、それをさせてみて、満足しても満足しても満足しきらない自分の心の不足を満たしたかった。そこまで倉地を突き落とすことは、それだけ二人の執着を強める事だとも思った。葉子は何事を犠牲に供しても灼熱した二人の間の執着を続けるばかりでなくさらに強める術を見いだそうとした。倉地の告白を聞いて驚いた次の瞬間には、葉子は意識こそせねこれだけの心持ちに働かれていた。「そんな事で愛想が尽きてたまるものか」と鼻であしらうような心持ちに素早くも自分を落ち着けてしまった。驚きの表情はすぐ葉子の顔から消えて、妖婦にのみ見る極端に肉的な蠱惑の微笑がそれに代わって浮かみ出した。
「ちょっと驚かされはしましたわ。……いいわ、わたしだってなんでもしますわ」
倉地は葉子が言わず語らずのうちに感激しているのを感得していた。
「よしそれで話はわかった。木村……木村からもしぼり上げろ、構うものかい。人間並みに見られないおれたちが人間並みに振る舞っていてたまるかい。葉ちゃん……命」
「命!……命!![#「!!」は横一列] 命!!![#「!!!」は横一列]」
葉子は自分の激しい言葉に目もくるめくような酔いを覚えながら、あらん限りの力をこめて倉地を引き寄せた。膳の上のものが音を立ててくつがえるのを聞いたようだったが、そのあとは色も音もない焔の天地だった。すさまじく焼けただれた肉の欲念が葉子の心を全く暗ましてしまった。天国か地獄かそれは知らない。しかも何もかもみじんにつきくだいて、びりびりと震動する炎々たる焔に燃やし上げたこの有頂天の歓楽のほかに世に何者があろう。葉子は倉地を引き寄せた。倉地において今まで自分から離れていた葉子自身を引き寄せた。そして切るような痛みと、痛みからのみ来る奇怪な快感とを自分自身に感じて陶然と酔いしれながら、倉地の二の腕に歯を立てて、思いきり弾力性に富んだ熱したその肉をかんだ。
その翌日十一時すぎに葉子は地の底から掘り起こされたように地球の上に目を開いた。倉地はまだ死んだもの同然にいぎたなく眠っていた。戸板の杉の赤みが鰹節の心のように半透明にまっ赤に光っているので、日が高いのも天気が美しく晴れているのも察せられた。甘ずっぱく立てこもった酒と煙草の余燻の中に、すき間もる光線が、透明に輝く飴色の板となって縦に薄暗さの中を区切っていた。いつもならばまっ赤に充血して、精力に充ち満ちて眠りながら働いているように見える倉地も、その朝は目の周囲に死色をさえ注していた。むき出しにした腕には青筋が病的に思われるほど高く飛び出てはいずっていた。泳ぎ回る者でもいるように頭の中がぐらぐらする葉子には、殺人者が凶行から目ざめて行った時のような底の知れない気味わるさが感ぜられた。葉子は密やかにその部屋を抜け出して戸外に出た。
降るような真昼の光線にあうと、両眼は脳心のほうにしゃにむに引きつけられてたまらない痛さを感じた。かわいた空気は息気をとめるほど喉を干からばした。葉子は思わずよろけて入り口の下見板に寄りかかって、打撲を避けるように両手で顔を隠してうつむいてしまった。
やがて葉子は人を避けながら芝生の先の海ぎわに出てみた。満月に近いころの事とて潮は遠くひいていた。蘆の枯れ葉が日を浴びて立つ沮洳地のような平地が目の前に広がっていた。しかし自然は少しも昔の姿を変えてはいなかった。自然も人もきのうのままの営みをしていた。葉子は不思議なものを見せつけられたように茫然として潮干潟の泥を見、うろこ雲で飾られた青空を仰いだ。ゆうべの事が真実ならこの景色は夢であらねばならぬ。この景色が真実ならゆうべの事は夢であらねばならぬ。二つが両立しようはずはない。……葉子は茫然としてなお目にはいって来るものをながめ続けた。
痲痺しきったような葉子の感覚はだんだん回復して来た。それと共に瞑眩を感ずるほどの頭痛をまず覚えた。次いで後腰部に鈍重な疼みがむくむくと頭をもたげるのを覚えた。肩は石のように凝っていた。足は氷のように冷えていた。
ゆうべの事は夢ではなかったのだ……そして今見るこの景色も夢ではあり得ない……それはあまりに残酷だ、残酷だ。なぜゆうべをさかいにして、世の中はかるたを裏返したように変わっていてはくれなかったのだ。
この景色のどこに自分は身をおく事ができよう。葉子は痛切に自分が落ち込んで行った深淵の深みを知った。そしてそこにしゃがん[#「しゃがん」に傍点]でしまって、苦い涙を泣き始めた。
懺悔の門の堅く閉ざされた暗い道がただ一筋、葉子の心の目には行く手に見やられるばかりだった。
三四
ともかくも一家の主となり、妹たちを呼び迎えて、その教育に興味と責任とを持ち始めた葉子は、自然自然に妻らしくまた母らしい本能に立ち帰って、倉地に対する情念にもどこか肉から精神に移ろうとする傾きができて来るのを感じた。それは楽しい無事とも考えれば考えられぬ事はなかった。しかし葉子は明らかに倉地の心がそういう状態の下には少しずつ硬ばって行き冷えて行くのを感ぜずにはいられなかった。それが葉子には何よりも不満だった。倉地を選んだ葉子であってみれば、日がたつに従って葉子にも倉地が感じ始めたと同様な物足らなさが感ぜられて行った。落ち着くのか冷えるのか、とにかく倉地の感情が白熱して働かないのを見せつけられる瞬間は深いさびしみを誘い起こした。こんな事で自分の全我を投げ入れた恋の花を散ってしまわせてなるものか。自分の恋には絶頂があってはならない。自分にはまだどんな難路でも舞い狂いながら登って行く熱と力とがある。その熱と力とが続く限り、ぼんやり腰を据えて周囲の平凡な景色などをながめて満足してはいられない。自分の目には絶巓のない絶巓ばかりが見えていたい。そうした衝動は小休みなく葉子の胸にわだかまっていた。絵島丸の船室で倉地が見せてくれたような、何もかも無視した、神のように狂暴な熱心――それを繰り返して行きたかった。
竹柴館の一夜はまさしくそれだった。その夜葉子は、次の朝になって自分が死んで見いだされようとも満足だと思った。しかし次の朝生きたままで目を開くと、その場で死ぬ心持ちにはもうなれなかった。もっと嵩じた歓楽を追い試みようという欲念、そしてそれができそうな期待が葉子を未練にした。それからというもの葉子は忘我渾沌の歓喜に浸るためには、すべてを犠牲としても惜しまない心になっていた。そして倉地と葉子とは互い互いを楽しませそしてひき寄せるためにあらん限りの手段を試みた。葉子は自分の不可犯性(女が男に対して持ついちばん強大な蠱惑物)のすべてまで惜しみなく投げ出して、自分を倉地の目に娼婦以下のものに見せるとも悔いようとはしなくなった。二人は、はた目には酸鼻だとさえ思わせるような肉欲の腐敗の末遠く、互いに淫楽の実を互い互いから奪い合いながらずるずると壊れこんで行くのだった。
しかし倉地は知らず、葉子に取ってはこのいまわしい腐敗の中にも一縷の期待が潜んでいた。一度ぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]とつかみ得たらもう動かないある物がその中に横たわっているに違いない、そういう期待を心のすみからぬぐい去る事ができなかったのだった。それは倉地が葉子の蠱惑に全く迷わされてしまって再び自分を回復し得ない時期があるだろうというそれだった。恋をしかけたもののひけめ[#「ひけめ」に傍点]として葉子は今まで、自分が倉地を愛するほど倉地が自分を愛してはいないとばかり思った。それがいつでも葉子の心を不安にし、自分というものの居すわり所までぐらつかせた。どうかして倉地を痴呆のようにしてしまいたい。葉子はそれがためにはある限りの手段を取って悔いなかったのだ。妻子を離縁させても、社会的に死なしてしまっても、まだまだ物足らなかった。竹柴館の夜に葉子は倉地を極印付きの凶状持ちにまでした事を知った。外界から切り離されるだけそれだけ倉地が自分の手に落ちるように思っていた葉子はそれを知って有頂天になった。そして倉地が忍ばねばならぬ屈辱を埋め合わせるために葉子は倉地が欲すると思わしい激しい情欲を提供しようとしたのだ。そしてそうする事によって、葉子自身が結局自己を銷尽して倉地の興味から離れつつある事には気づかなかったのだ。
とにもかくにも二人の関係は竹柴館の一夜から面目を改めた。葉子は再び妻から情熱の若々しい情人になって見えた。そういう心の変化が葉子の肉体に及ぼす変化は驚くばかりだった。葉子は急に三つも四つも若やいだ。二十六の春を迎えた葉子はそのころの女としてはそろそろ老いの徴候をも見せるはずなのに、葉子は一つだけ年を若く取ったようだった。
ある天気のいい午後――それは梅のつぼみがもう少しずつふくらみかかった午後の事だったが――葉子が縁側に倉地の肩に手をかけて立ち並びながら、うっとり[#「うっとり」に傍点]と上気して雀の交わるのを見ていた時、玄関に訪れた人の気配がした。
「だれでしょう」
倉地は物惰さそうに、
「岡だろう」
といった。
「いゝえきっと正井さんよ」
「なあに岡だ」
「じゃ賭けよ」
葉子はまるで少女のように甘ったれた口調でいって玄関に出て見た。倉地がいったように岡だった。葉子は挨拶もろくろくしないでいきなり[#「いきなり」に傍点]岡の手をしっかり[#「しっかり」に傍点]と取った。そして小さな声で、
「よくいらしってね。その間着のよくお似合いになる事。春らしいいい色地ですわ。今倉地と賭けをしていた所。早くお上がり遊ばせ」
葉子は倉地にしていたように岡のやさ肩に手を回してならびながら座敷にはいって来た。
「やはりあなたの勝ちよ。あなたはあて[#「あて」に傍点]事がお上手だから岡さんを譲って上げたらうまくあたったわ。今御褒美を上げるからそこで見ていらっしゃいよ」
そう倉地にいうかと思うと、いきなり岡を抱きすくめてその頬に強い接吻を与えた。岡は少女のように恥じらってしいて葉子から離れようともがいた。倉地は例の渋いように口もとをねじってほほえみながら、
「ばか!……このごろこの女は少しどうかしとりますよ。岡さん、あなた一つ背中でもどやしてやってください。……まだ勉強か」
といいながら葉子に天井を指さして見せた。葉子は岡に背中を向けて「さあどやしてちょうだい」といいながら、今度は天井を向いて、
「愛さん、貞ちゃん、岡さんがいらしってよ。お勉強が済んだら早くおりておいで」
と澄んだ美しい声で蓮葉に叫んだ。
「そうお」
という声がしてすぐ貞世が飛んでおりて来た。
「貞ちゃんは今勉強が済んだのか」
と倉地が聞くと貞世は平気な顔で、
「ええ今済んでよ」
といった。そこにはすぐはなやかな笑いが破裂した。愛子はなかなか下に降りて来ようとはしなかった。それでも三人は親しくチャブ台を囲んで茶を飲んだ。その日岡は特別に何かいい出したそうにしている様子だったが。やがて、
「きょうはわたし少しお願いがあるんですが皆様きいてくださるでしょうか」
重苦しくいい出した。
「えゝえゝあなたのおっしゃる事ならなんでも……ねえ貞ちゃん(とここまでは冗談らしくいったが急にまじめになって)……なんでもおっしゃってくださいましな、そんな他人行儀をしてくださると変ですわ」
と葉子がいった。
「倉地さんもいてくださるのでかえっていいよいと思いますが古藤さんをここにお連れしちゃいけないでしょうか。……木村さんから古藤さんの事は前から伺っていたんですが、わたしは初めてのお方にお会いするのがなんだか億劫な質なもので二つ前の日曜日までとうとうお手紙も上げないでいたら、その日突然古藤さんのほうから尋ねて来てくださったんです。古藤さんも一度お尋ねしなければいけないんだがといっていなさいました。でわたし、きょうは水曜日だから、用便外出の日だから、これから迎えに行って来たいと思うんです。いけないでしょうか」
葉子は倉地だけに顔が見えるように向き直って「自分に任せろ」という目つきをしながら、
「いいわね」
と念を押した。倉地は秘密を伝える人のように顔色だけで「よし」と答えた。葉子はくるり[#「くるり」に傍点]と岡のほうに向き直った。
「ようございますとも(葉子はそのよう[#「よう」に傍点]にアクセントを付けた)あなたにお迎いに行っていただいてはほんとにすみませんけれども、そうしてくださるとほんとうに結構。貞ちゃんもいいでしょう。またもう一人お友だちがふえて……しかも珍しい兵隊さんのお友だち……」
「愛ねえさんが岡さんに連れていらっしゃいってこの間そういったのよ」
と貞世は遠慮なくいった。
「そうそう愛子さんもそうおっしゃってでしたね」
と岡はどこまでも上品な丁寧な言葉で事のついでのようにいった。
岡が家を出るとしばらくして倉地も座を立った。
「いいでしょう。うまくやって見せるわ。かえって出入りさせるほうがいいわ」
玄関に送り出してそう葉子はいった。
「どうかなあいつ、古藤のやつは少し骨張り過ぎてる……が悪かったら元々だ……とにかくきょうおれのいないほうがよかろう」
そういって倉地は出て行った。葉子は張り出しになっている六畳の部屋をきれいに片づけて、火鉢の中に香をたきこめて、心静かに目論見をめぐらしながら古藤の来るのを待った。しばらく会わないうちに古藤はだいぶ手ごわくなっているようにも思えた。そこを自分の才力で丸めるのが時に取っての興味のようにも思えた。もし古藤を軟化すれば、木村との関係は今よりもつなぎがよくなる……。
三十分ほどたったころ一つ木の兵営から古藤は岡に伴われてやって来た。葉子は六畳にいて、貞世を取り次ぎに出した。
「貞世さんだね。大きくなったね」
まるで前の古藤の声とは思われぬようなおとなびた黒ずんだ声がして、がちゃ[#「がちゃ」に傍点]がちゃと佩剣を取るらしい音も聞こえた。やがて岡の先に立って格好の悪いきたない黒の軍服を着た古藤が、皮類の腐ったような香いをぷんぷんさせながら葉子のいる所にはいって来た。
葉子は他意なく好意をこめた目つきで、少女のように晴れやかに驚きながら古藤を見た。
「まあこれが古藤さん? なんてこわい方になっておしまいなすったんでしょう。元の古藤さんはお額のお白い所だけにしか残っちゃいませんわ。がみ[#「がみ」に傍点]がみとしかったりなすっちゃいやです事よ。ほんとうにしばらく。もう金輪際来てはくださらないものとあきらめていましたのに、よく……よくいらしってくださいました。岡さんのお手柄ですわ……ありがとうございました」
といって葉子はそこにならんですわった二人の青年をかたみがわりに見やりながら軽く挨拶した。
「さぞおつらいでしょうねえ。お湯は? お召しにならない? ちょうど沸いていますわ」
「だいぶ臭くってお気の毒ですが、一度や二度湯につかったってなおりはしませんから……まあはいりません」
古藤ははいって来た時のしかつめらしい様子に引きかえて顔色を軟らがせられていた。葉子は心の中で相変わらずの simpleton だと思った。
「そうねえ何時まで門限は?……え、六時? それじゃもういくらもありませんわね。じゃお湯はよしていただいてお話のほうをたんとしましょうねえ。いかが軍隊生活は、お気に入って?」
「はいらなかった前以上にきらいになりました」
「岡さんはどうなさったの」
「わたしまだ猶予中ですが検査を受けたってきっとだめです。不合格のような健康を持つと、わたし軍隊生活のできるような人がうらやましくってなりません。……からだでも強くなったらわたし、もう少し心も強くなるんでしょうけれども……」
「そんな事はありませんねえ」
古藤は自分の経験から岡を説伏するようにそういった。
「僕もその一人だが、鬼のような体格を持っていて、女のような弱虫が隊にいて見るとたくさんいますよ。僕はこんな心でこんな体格を持っているのが先天的の二重生活をしいられるようで苦しいんです。これからも僕はこの矛盾のためにきっと苦しむに違いない」
「なんですねお二人とも、妙な所で謙遜のしっこをなさるのね。岡さんだってそうお弱くはないし、古藤さんときたらそれは意志堅固……」
「そうなら僕はきょうもここなんかには来やしません。木村君にもとうに決心をさせているはずなんです」
葉子の言葉を中途から奪って、古藤はしたたか自分自身をむちうつように激しくこういった。葉子は何もかもわかっているくせにしら[#「しら」に傍点]を切って不思議そうな目つきをして見せた。
「そうだ、思いきっていうだけの事はいってしまいましょう。……岡君立たないでください。君がいてくださるとかえっていいんです」
そういって古藤は葉子をしばらく熟視してからいい出す事をまとめようとするように下を向いた。岡もちょっと形を改めて葉子のほうをぬすみ見るようにした。葉子は眉一つ動かさなかった。そしてそばにいる貞世に耳うちして、愛子を手伝って五時に夕食の食べられる用意をするように、そして三縁亭から三皿ほどの料理を取り寄せるようにいいつけて座をはずさした。古藤はおどるようにして部屋を出て行く貞世をそっ[#「そっ」に傍点]と目のはずれで見送っていたが、やがておもむろに顔をあげた。日に焼けた顔がさらに赤くなっていた。
「僕はね……(そういっておいて古藤はまた考えた)……あなたが、そんな事はないとあなたはいうでしょうが、あなたが倉地というその事務長の人の奥さんになられるというのなら、それが悪いって思ってるわけじゃないんです。そんな事があるとすりゃそりゃしかたのない事なんだ。……そしてですね、僕にもそりゃわかるようです。……わかるっていうのは、あなたがそうなればなりそうな事だと、それがわかるっていうんです。しかしそれならそれでいいから、それを木村にはっきり[#「はっきり」に傍点]といってやってください。そこなんだ僕のいわんとするのは。あなたは怒るかもしれませんが、僕は木村に幾度も葉子さんとはもう縁を切れって勧告しました。これまで僕があなたに黙ってそんな事をしていたのはわるかったからお断わりをします(そういって古藤はちょっと誠実に頭を下げた。葉子も黙ったまままじめにうなずいて見せた)。けれども木村からの返事は、それに対する返事はいつでも同一なんです。葉子から破約の事を申し出て来るか、倉地という人との結婚を申し出て来るまでは、自分はだれの言葉よりも葉子の言葉と心とに信用をおく。親友であってもこの問題については、君の勧告だけでは心は動かない。こうなんです。木村ってのはそんな男なんですよ(古藤の言葉はちょっと曇ったがすぐ元のようになった)。それをあなたは黙っておくのは少し変だと思います」
「それで……」
葉子は少し座を乗り出して古藤を励ますように言葉を続けさせた。
「木村からは前からあなたの所に行ってよく事情を見てやってくれ、病気の事も心配でならないからといって来てはいるんですが、僕は自分ながらどうしようもない妙な潔癖があるもんだからつい伺いおくれてしまったのです。なるほどあなたは先よりはやせましたね。そうして顔の色もよくありませんね」
そういいながら古藤はじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の顔を見やった。葉子は姉のように一段の高みから古藤の目を迎えて鷹揚にほほえんでいた。いうだけいわせてみよう、そう思って今度は岡のほうに目をやった。
「岡さん。あなた今古藤さんのおっしゃる事をすっかり[#「すっかり」に傍点]お聞きになっていてくださいましたわね。あなたはこのごろ失礼ながら家族の一人のようにこちらに遊びにおいでくださるんですが、わたしをどうお思いになっていらっしゃるか、御遠慮なく古藤さんにお話しなすってくださいましな。決して御遠慮なく……わたしどんな事を伺っても決して決してなんとも思いはいたしませんから」
それを聞くと岡はひどく当惑して顔をまっ赤にして処女のように羞恥かんだ。古藤のそばに岡を置いて見るのは、青銅の花びんのそばに咲きかけの桜を置いて見るようだった。葉子はふと心に浮かんだその対比を自分ながらおもしろいと思った。そんな余裕を葉子は失わないでいた。
「わたしこういう事柄には物をいう力はないように思いますから……」
「そういわないでほんとうに思った事をいってみてください。僕は一徹ですからひどい思い間違いをしていないとも限りませんから。どうか聞かしてください」
そういって古藤も肩章越しに岡を顧みた。
「ほんとうに何もいう事はないんですけれども……木村さんにはわたし口にいえないほど御同情しています。木村さんのようないい方が今ごろどんなにひとりでさびしく思っていられるかと思いやっただけでわたしさびしくなってしまいます。けれども世の中にはいろいろな運命があるのではないでしょうか。そうして銘々は黙ってそれを耐えて行くよりしかたがないようにわたし思います。そこで無理をしようとするとすべての事が悪くなるばかり……それはわたしだけの考えですけれども。わたしそう考えないと一刻も生きていられないような気がしてなりません。葉子さんと木村さんと倉地さんとの関係はわたし少しは知ってるようにも思いますけれども、よく考えてみるとかえってちっとも知らないのかもしれませんねえ。わたしは自分自身が少しもわからないんですからお三人の事なども、わからない自分の、わからない想像だけの事だと思いたいんです。……古藤さんにはそこまではお話ししませんでしたけれども、わたし自分の家の事情がたいへん苦しいので心を打ちあけるような人を持っていませんでしたが……、ことに母とか姉妹とかいう女の人に……葉子さんにお目にかかったら、なんでもなくそれができたんです。それでわたしはうれしかったんです。そうして葉子さんが木村さんとどうしても気がお合いにならない、その事も失礼ですけれども今の所ではわたし想像が違っていないようにも思います。けれどもそのほかの事はわたしなんとも自信をもっていう事ができません。そんな所まで他人が想像をしたり口を出したりしていいものかどうかもわたしわかりません。たいへん独善的に聞こえるかもしれませんが、そんな気はなく、運命にできるだけ従順にしていたいと思うと、わたし進んで物をいったりしたりするのが恐ろしいと思います。……なんだか少しも役に立たない事をいってしまいまして……わたしやはり力がありませんから、何もいわなかったほうがよかったんですけれども……」
そう絶え入るように声を細めて岡は言葉を結ばぬうちに口をつぐんでしまった。そのあとには沈黙だけがふさわしいように口をつぐんでしまった。
実際そのあとには不思議なほどしめやかな沈黙が続いた。たき込めた香のにおいがかすかに動くだけだった。
「あんなに謙遜な岡君も(岡はあわててその賛辞らしい古藤の言葉を打ち消そうとしそうにしたが、古藤がどんどん言葉を続けるのでそのまま顔を赤くして黙ってしまった)あなたと木村とがどうしても折り合わない事だけは少なくとも認めているんです。そうでしょう」
葉子は美しい沈黙をがさつ[#「がさつ」に傍点]な手でかき乱された不快をかすかに物足らなく思うらしい表情をして、
「それは洋行する前、いつぞや横浜に一緒に行っていただいた時くわしくお話ししたじゃありませんか。それはわたしどなたにでも申し上げていた事ですわ」
「そんならなぜ……その時は木村のほかには保護者はいなかったから、あなたとしてはお妹さんたちを育てて行く上にも自分を犠牲にして木村に行く気でおいでだったかもしれませんがなぜ……なぜ今になっても木村との関係をそのままにしておく必要があるんです」
岡は激しい言葉で自分が責められるかのようにはらはらしながら首を下げたり、葉子と古藤の顔とをかたみがわりに見やったりしていたが、とうとう居たたまれなくなったと見えて、静かに座を立って人のいない二階のほうに行ってしまった。葉子は岡の心持ちを思いやって引き止めなかったし、古藤は、いてもらった所がなんの役にも立たないと思ったらしくこれも引き止めはしなかった。さす花もない青銅の花びん一つ……葉子は心の中で皮肉にほほえんだ。
「それより先に伺わしてちょうだいな、倉地さんはどのくらいの程度でわたしたちを保護していらっしゃるか御存じ?」
古藤はすぐぐっ[#「ぐっ」に傍点]と詰まってしまった。しかしすぐ盛り返して来た。
「僕は岡君と違ってブルジョアの家に生まれなかったものですからデリカシーというような美徳をあまりたくさん持っていないようだから、失礼な事をいったら許してください。倉地って人は妻子まで離縁した……しかも非常に貞節らしい奥さんまで離縁したと新聞に出ていました」
「そうね新聞には出ていましたわね。……ようございますわ、仮にそうだとしたらそれが何かわたしと関係のある事だとでもおっしゃるの」
そういいながら葉子は少し気に障えたらしく、炭取りを引き寄せて火鉢に火をつぎ足した。桜炭の火花が激しく飛んで二人の間にはじけた。
「まあひどいこの炭は、水をかけずに持って来たと見えるのね。女ばかりの世帯だと思って出入りの御用聞きまで人をばかにするんですのよ」
葉子はそう言い言い眉をひそめた。古藤は胸をつかれたようだった。
「僕は乱暴なもんだから……いい過ぎがあったらほんとうに許してください。僕は実際いかに親友だからといって木村ばかりをいいようにと思ってるわけじゃないんですけれども、全くあの境遇には同情してしまうもんだから……僕はあなたも自分の立場さえはっきり[#「はっきり」に傍点]いってくださればあなたの立場も理解ができると思うんだけれどもなあ。……僕はあまり直線的すぎるんでしょうか。僕は世の中を sun-clear に見たいと思いますよ。できないもんでしょうか」
葉子はなでるような好意のほほえみを見せた。
「あなたがわたしほんとうにうらやましゅうござんすわ。平和な家庭にお育ちになって素直になんでも御覧になれるのはありがたい事なんですわ。そんな方ばかりが世の中にいらっしゃるとめんどうがなくなってそれはいいんですけれども、岡さんなんかはそれから見るとほんとうにお気の毒なんですの。わたしみたいなものをさえああしてたよりにしていらっしゃるのを見るといじらしくってきょうは倉地さんの見ている前でキスして上げっちまったの。……他人事じゃありませんわね(葉子の顔はすぐ曇った)。あなたと同様はき[#「はき」に傍点]はきした事の好きなわたしがこんなに意地をこじらしたり、人の気をかねたり、好んで誤解を買って出たりするようになってしまった、それを考えてごらんになってちょうだい。あなたには今はおわかりにならないかもしれませんけれども……それにしてももう五時。愛子に手料理を作らせておきましたから久しぶりで妹たちにも会ってやってくださいまし、ね、いいでしょう」
古藤は急に固くなった。
「僕は帰ります。僕は木村にはっきり[#「はっきり」に傍点]した報告もできないうちに、こちらで御飯をいただいたりするのはなんだか気がとがめます。葉子さん頼みます、木村を救ってください。そしてあなた自身を救ってください。僕はほんとうをいうと遠くに離れてあなたを見ているとどうしてもきらいになっちまうんですが、こうやってお話ししていると失礼な事をいったり自分で怒ったりしながらも、あなたは自分でもあざむけないようなものを持っておられるのを感ずるように思うんです。境遇が悪いんだきっと。僕は一生が大事だと思いますよ。来世があろうが過去世があろうがこの一生が大事だと思いますよ。生きがいがあったと思うように生きて行きたいと思いますよ。ころんだって倒れたってそんな事を世間のようにかれこれくよくよせずに、ころんだら立って、倒れたら起き上がって行きたいと思います。僕は少し人並みはずれてばかのようだけれども、ばか者でさえがそうして行きたいと思ってるんです」
古藤は目に涙をためて痛ましげに葉子を見やった。その時電灯が急に部屋を明るくした。
「あなたはほんとうにどこか悪いようですね。早くなおってください。それじゃ僕はこれできょうは御免をこうむります。さようなら」
牝鹿のように敏感な岡さえがいっこう注意しない葉子の健康状態を、鈍重らしい古藤がいち早く見て取って案じてくれるのを見ると、葉子はこの素朴な青年になつかし味を感ずるのだった。葉子は立って行く古藤の後ろから、
「愛さん貞ちゃん古藤さんがお帰りになるといけないから早く来ておとめ申しておくれ」
と叫んだ。玄関に出た古藤の所に台所口から貞世が飛んで来た。飛んで来はしたが、倉地に対してのようにすぐおどりかかる事は得しないで、口もきかずに、少し恥ずかしげにそこに立ちすくんだ。そのあとから愛子が手ぬぐいを頭から取りながら急ぎ足で現われた。玄関のなげしの所に照り返しをつけて置いてあるランプの光をまとも[#「まとも」に傍点]に受けた愛子の顔を見ると、古藤は魅いられたようにその美に打たれたらしく、目礼もせずにその立ち姿にながめ入った。愛子はにこり[#「にこり」に傍点]と左の口じりに笑くぼの出る微笑を見せて、右手の指先が廊下の板にやっとさわるほど膝を折って軽く頭を下げた。愛子の顔には羞恥らしいものは少しも現われなかった。
「いけません、古藤さん。妹たちが御恩返しのつもりで一生懸命にしたんですから、おいしくはありませんが、ぜひ、ね。貞ちゃんお前さんその帽子と剣とを持ってお逃げ」
葉子にそういわれて貞世はすばしこく帽子だけ取り上げてしまった。古藤はおめおめと居残る事になった。
葉子は倉地をも呼び迎えさせた。
十二畳の座敷にはこの家に珍しくにぎやかな食卓がしつらえられた。五人がおのおの座について箸を取ろうとする所に倉地がはいって来た。
「さあいらっしゃいまし、今夜はにぎやかですのよ。ここへどうぞ(そう云って古藤の隣の座を目で示した)。倉地さん、この方がいつもおうわさをする木村の親友の古藤義一さんです。きょう珍しくいらしってくださいましたの。これが事務長をしていらしった倉地三吉さんです」
紹介された倉地は心置きない態度で古藤のそばにすわりながら、
「わたしはたしか双鶴館でちょっとお目にかかったように思うが御挨拶もせず失敬しました。こちらには始終お世話になっとります。以後よろしく」
といった。古藤は正面から倉地をじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらちょっと頭を下げたきり物もいわなかった。倉地は軽々しく出した自分の今の言葉を不快に思ったらしく、苦りきって顔を正面に直したが、しいて努力するように笑顔を作ってもう一度古藤を顧みた。
「あの時からすると見違えるように変わられましたな。わたしも日清戦争の時は半分軍人のような生活をしたが、なかなかおもしろかったですよ。しかし苦しい事もたまにはおありだろうな」
古藤は食卓を見やったまま、
「えゝ」
とだけ答えた。倉地の我慢はそれまでだった。一座はその気分を感じてなんとなく白け渡った。葉子の手慣れたtactでもそれはなかなか一掃されなかった。岡はその気まずさを強烈な電気のように感じているらしかった。ひとり貞世だけはしゃぎ返った。
「このサラダは愛ねえさんがお醋とオリーブ油を間違って油をたくさんかけたからきっと油っこくってよ」
愛子はおだやかに貞世をにらむようにして、
「貞ちゃんはひどい」
といった。貞世は平気だった。
「その代わりわたしがまたお醋をあとから入れたからすっぱすぎる所があるかもしれなくってよ。も少しついでにお葉も入れればよかってねえ、愛ねえさん」
みんなは思わず笑った。古藤も笑うには笑った。しかしその笑い声はすぐしずまってしまった。
やがて古藤が突然箸をおいた。
「僕が悪いためにせっかくの食卓をたいへん不愉快にしたようです。すみませんでした。僕はこれで失礼します」
葉子はあわてて、
「まあそんな事はちっとも[#「ちっとも」に傍点]ありません事よ。古藤さんそんな事をおっしゃらずにしまいまでいらしってちょうだいどうぞ。みんなで途中までお送りしますから」
ととめたが古藤はどうしてもきかなかった。人々は食事なかばで立ち上がらねばならなかった。古藤は靴をはいてから、帯皮を取り上げて剣をつると、洋服のしわを延ばしながら、ちらっと愛子に鋭く目をやった。始めからほとんど物をいわなかった愛子は、この時も黙ったまま、多恨な柔和な目を大きく見開いて、中座をして行く古藤を美しくたしなめるようにじっ[#「じっ」に傍点]と見返していた、それを葉子の鋭い視覚は見のがさなかった。
「古藤さん、あなたこれからきっとたびたびいらしってくださいましよ。まだまだ申し上げる事がたくさん残っていますし、妹たちもお待ち申していますから、きっとですことよ」
そういって葉子も親しみを込めたひとみを送った。古藤はしゃちこ[#「しゃちこ」に傍点]張った軍隊式の立礼をして、さくさくと砂利の上に靴の音を立てながら、夕闇の催した杉森の下道のほうへと消えて行った。
見送りに立たなかった倉地が座敷のほうでひとり言のようにだれに向かってともなく「ばか!」というのが聞こえた。
三五
葉子と倉地とは竹柴館以来たびたび家を明けて小さな恋の冒険を楽しみ合うようになった。そういう時に倉地の家に出入りする外国人や正井などが同伴する事もあった。外国人はおもに米国の人だったが、葉子は倉地がそういう人たちを同座させる意味を知って、そのなめらかな英語と、だれでも――ことに顔や手の表情に本能的な興味を持つ外国人を――蠱惑しないでは置かないはなやかな応接ぶりとで、彼らをとりこにする事に成功した。それは倉地の仕事を少なからず助けたに違いなかった。倉地の金まわりはますます潤沢になって行くらしかった。葉子一家は倉地と木村とから貢がれる金で中流階級にはあり得ないほど余裕のある生活ができたのみならず、葉子は充分の仕送りを定子にして、なお余る金を女らしく毎月銀行に預け入れるまでになった。
しかしそれとともに倉地はますますすさんで行った。目の光にさえもとのように大海にのみ見る寛濶な無頓着なそして恐ろしく力強い表情はなくなって、いらいらとあてもなく燃えさかる石炭の火のような熱と不安とが見られるようになった。ややともすると倉地は突然わけもない事にきびしく腹を立てた。正井などは木っ葉みじんにしかり飛ばされたりした。そういう時の倉地はあらしのような狂暴な威力を示した。
葉子も自分の健康がだんだん悪いほうに向いて行くのを意識しないではいられなくなった。倉地の心がすさめばすさむほど葉子に対して要求するものは燃えただれる情熱の肉体だったが、葉子もまた知らず知らず自分をそれに適応させ、かつは自分が倉地から同様な狂暴な愛撫を受けたい欲念から、先の事もあとの事も考えずに、現在の可能のすべてを尽くして倉地の要求に応じて行った。脳も心臓も振り回して、ゆすぶって、たたきつけて、一気に猛火であぶり立てるような激情、魂ばかりになったような、肉ばかりになったような極端な神経の混乱、そしてそのあとに続く死滅と同然の倦怠疲労。人間が有する生命力をどん底からためし試みるそういう虐待が日に二度も三度も繰り返された。そうしてそのあとでは倉地の心はきっと野獣のようにさらにすさんでいた。葉子は不快きわまる病理的の憂鬱に襲われた。静かに鈍く生命を脅かす腰部の痛み、二匹の小魔が肉と骨との間にはいり込んで、肉を肩にあてて骨を踏んばって、うん[#「うん」に傍点]と力任せに反り上がるかと思われるほどの肩の凝り、だんだん鼓動を低めて行って、呼吸を苦しくして、今働きを止めるかとあやぶむと、一時に耳にまで音が聞こえるくらい激しく動き出す不規則な心臓の動作、もやもやと火の霧で包まれたり、透明な氷の水で満たされるような頭脳の狂い、……こういう現象は日一日と生命に対する、そして人生に対する葉子の猜疑を激しくした。
有頂天の溺楽のあとに襲って来るさびしいとも、悲しいとも、はかないとも形容のできないその空虚さは何よりも葉子につらかった。たといその場で命を絶ってもその空虚さは永遠に葉子を襲うもののようにも思われた。ただこれからのがれるただ一つの道は捨てばちになって、一時的のものだとは知り抜きながら、そしてそのあとにはさらに苦しい空虚さが待ち伏せしているとは覚悟しながら、次の溺楽を逐うほかはなかった。気分のすさんだ倉地も同じ葉子と同じ心で同じ事を求めていた。こうして二人は底止する所のないいずこかへ手をつないで迷い込んで行った。
ある朝葉子は朝湯を使ってから、例の六畳で鏡台に向かったが一日一日に変わって行くような自分の顔にはただ驚くばかりだった。少し縦に長く見える鏡ではあるけれども、そこに映る姿はあまりに細っていた。その代わり目は前にも増して大きく鈴を張って、化粧焼けとも思われぬ薄い紫色の色素がそのまわりに現われて来ていた。それが葉子の目にたとえば森林に囲まれた澄んだ湖のような深みと神秘とを添えるようにも見えた。鼻筋はやせ細って精神的な敏感さをきわ立たしていた。頬の傷々しくこけたために、葉子の顔にいうべからざる暖かみを与える笑くぼを失おうとしてはいたが、その代わりにそこには悩ましく物思わしい張りを加えていた。ただ葉子がどうしても弁護のできないのはますます目立って来た固い下顎の輪郭だった。しかしとにもかくにも肉情の興奮の結果が顔に妖凄な精神美を付け加えているのは不思議だった。葉子はこれまでの化粧法を全然改める必要をその朝になってしみじみと感じた。そして今まで着ていた衣類までが残らず気に食わなくなった。そうなると葉子は矢もたてもたまらなかった。
葉子は紅のまじった紅粉をほとんど使わずに化粧をした。顎の両側と目のまわりとの紅粉をわざと薄くふき取った。枕を入れずに前髪を取って、束髪の髷を思いきり下げて結ってみた。鬢だけを少しふくらましたので顎の張ったのも目立たず、顔の細くなったのもいくらか調節されて、そこには葉子自身が期待もしなかったような廃頽的な同時に神経質的なすごくも美しい一つの顔面が創造されていた。有り合わせのものの中からできるだけ地味な一そろいを選んでそれを着ると葉子はすぐ越後屋に車を走らせた。
昼すぎまで葉子は越後屋にいて注文や買い物に時を過ごした。衣服や身のまわりのものの見立てについては葉子は天才といってよかった。自分でもその才能には自信を持っていた。従って思い存分の金をふところに入れていて買い物をするくらい興の多いものは葉子に取っては他になかった。越後屋を出る時には、感興と興奮とに自分を傷めちぎった芸術家のようにへと[#「へと」に傍点]へとに疲れきっていた。
帰りついた玄関の靴脱ぎ石の上には岡の細長い華車な半靴が脱ぎ捨てられていた。葉子は自分の部屋に行って懐中物などをしまって、湯飲みでなみなみと一杯の白湯を飲むと、すぐ二階に上がって行った。自分の新しい化粧法がどんなふうに岡の目を刺激するか、葉子は子供らしくそれを試みてみたかったのだ。彼女は不意に岡の前に現われようために裏階子からそっ[#「そっ」に傍点]と登って行った。そして襖をあけるとそこに岡と愛子だけがいた。貞世は苔香園にでも行って遊んでいるのかそこには姿を見せなかった。
岡は詩集らしいものを開いて見ていた。そこにはなお二三冊の書物が散らばっていた。愛子は縁側に出て手欄から庭を見おろしていた。しかし葉子は不思議な本能から、階子段に足をかけたころには、二人は決して今のような位置に、今のような態度でいたのではないという事を直覚していた。二人が一人は本を読み、一人が縁に出ているのは、いかにも自然でありながら非常に不自然だった。
突然――それはほんとうに突然どこから飛び込んで来たのか知れない不快の念のために葉子の胸はかきむしられた。岡は葉子の姿を見ると、わざっと寛がせていたような姿勢を急に正して、読みふけっていたらしく見せた詩集をあまりに惜しげもなく閉じてしまった。そしていつもより少しなれなれしく挨拶した。愛子は縁側から静かにこっちを振り向いて平生と少しも変わらない態度で、柔順に無表情に縁板の上にちょっと膝をついて挨拶した。しかしその沈着にも係わらず、葉子は愛子が今まで涙を目にためていたのをつきとめた。岡も愛子も明らかに葉子の顔や髪の様子の変わったのに気づいていないくらい心に余裕のないのが明らかだった。
「貞ちゃんは」
と葉子は立ったままで尋ねてみた。二人は思わずあわてて答えようとしたが、岡は愛子をぬすみ見るようにして控えた。
「隣の庭に花を買いに行ってもらいましたの」
そう愛子が少し下を向いて髷だけを葉子に見えるようにして素直に答えた。「ふゝん」と葉子は腹の中でせせら笑った。そして始めてそこにすわって、じっ[#「じっ」に傍点]と岡の目を見つめながら、
「何? 読んでいらしったのは」
といって、そこにある四六細型の美しい表装の書物を取り上げて見た。黒髪を乱した妖艶な女の頭、矢で貫かれた心臓、その心臓からぽたぽた落ちる血のしたたりがおのずから字になったように図案された「乱れ髪」という標題――文字に親しむ事の大きらいな葉子もうわさで聞いていた有名な鳳晶子の詩集だった。そこには「明星」という文芸雑誌だの、春雨の「無花果」だの、兆民居士の「一年有半」だのという新刊の書物も散らばっていた。
「まあ岡さんもなかなかのロマンティストね、こんなものを愛読なさるの」
と葉子は少し皮肉なものを口じりに見せながら尋ねてみた。岡は静かな調子で訂正するように、
「それは愛子さんのです。わたし今ちょっと拝見しただけです」
「これは」
といって葉子は今度は「一年有半」を取り上げた。
「それは岡さんがきょう貸してくださいましたの。わたしわかりそうもありませんわ」
愛子は姉の毒舌をあらかじめ防ごうとするように。
「へえ、それじゃ岡さん、あなたはまたたいしたリアリストね」
葉子は愛子を眼中にもおかないふうでこういった。去年の下半期の思想界を震憾したようなこの書物と続編とは倉地の貧しい書架の中にもあったのだ。そして葉子はおもしろく思いながらその中を時々拾い読みしていたのだった。
「なんだかわたしとはすっかり[#「すっかり」に傍点]違った世界を見るようでいながら、自分の心持ちが残らずいってあるようでもあるんで……わたしそれが好きなんです。リアリストというわけではありませんけれども……」
「でもこの本の皮肉は少しやせ我慢ね。あなたのような方にはちょっと不似合いですわ」
「そうでしょうか」
岡は何とはなく今にでも腫れ物にさわられるかのようにそわそわしていた。会話は少しもいつものようにははずまなかった。葉子はいらいらしながらもそれを顔には見せないで今度は愛子のほうに槍先を向けた。
「愛さんお前こんな本をいつお買いだったの」
といってみると、愛子は少しためらっている様子だったが、すぐに素直な落ち着きを見せて、
「買ったんじゃないんですの。古藤さんが送ってくださいましたの」
といった。葉子はさすがに驚いた。古藤はあの会食の晩、中座したっきり、この家には足踏みもしなかったのに……。葉子は少し激しい言葉になった。
「なんだってまたこんな本を送っておよこしなさったんだろう。あなたお手紙でも上げたのね」
「えゝ、……くださいましたから」
「どんなお手紙を」
愛子は少しうつむきかげんに黙ってしまった、こういう態度を取った時の愛子のしぶとさ[#「しぶとさ」に傍点]を葉子はよく知っていた。葉子の神経はびり[#「びり」に傍点]びりと緊張して来た。
「持って来てお見せ」
そう厳格にいいながら、葉子はそこに岡のいる事も意識の中に加えていた。愛子は執拗に黙ったまますわっていた。しかし葉子がもう一度催促の言葉を出そうとすると、その瞬間に愛子はつ[#「つ」に傍点]と立ち上がって部屋を出て行った。
葉子はそのすきに岡の顔を見た。それはまた無垢童貞の青年が不思議な戦慄を胸の中に感じて、反感を催すか、ひき付けられるかしないではいられないような目で岡を見た。岡は少女のように顔を赤めて、葉子の視線を受けきれないでひとみをたじろがしつつ目を伏せてしまった。葉子はいつまでもそのデリケートな横顔を注視つづけた。岡は唾を飲みこむのもはばかるような様子をしていた。
「岡さん」
そう葉子に呼ばれて、岡はやむを得ずおずおず頭を上げた。葉子は今度はなじるようにその若々しい上品な岡を見つめていた。
そこに愛子が白い西洋封筒を持って帰って来た。葉子は岡にそれを見せつけるように取り上げて、取るにも足らぬ軽いものでも扱うように飛び飛びに読んでみた。それにはただあたりまえな事だけが書いてあった。しばらく目で見た二人の大きくなって変わったのには驚いたとか、せっかく寄って作ってくれたごちそうをすっかり[#「すっかり」に傍点]賞味しないうちに帰ったのは残念だが、自分の性分としてはあの上我慢ができなかったのだから許してくれとか、人間は他人の見よう見まねで育って行ったのではだめだから、たといどんな境遇にいても自分の見識を失ってはいけないとか、二人には倉地という人間だけはどうかして近づけさせたくないと思うとか、そして最後に、愛子さんは詠歌がなかなか上手だったがこのごろできるか、できるならそれを見せてほしい、軍隊生活の乾燥無味なのには堪えられないからとしてあった。そしてあて名は愛子、貞世の二人になっていた。
「ばかじゃないの愛さん、あなたこのお手紙でいい気になって、下手くそなぬた[#「ぬた」に傍点]でもお見せ申したんでしょう……いい気なものね……この御本と一緒にもお手紙が来たはずね」
愛子はすぐまた立とうとした。しかし葉子はそうはさせなかった。
「一本一本お手紙を取りに行ったり帰ったりしたんじゃ日が暮れますわ。……日が暮れるといえばもう暗くなったわ。貞ちゃんはまた何をしているだろう……あなた早く呼びに行って一緒にお夕飯のしたくをしてちょうだい」
愛子はそこにある書物をひとかかえに胸に抱いて、うつむくと愛らしく二重になる頤で押えて座を立って行った。それがいかにもしおしおと、細かい挙動の一つ一つで岡に哀訴するように見れば見なされた。「互いに見かわすような事をしてみるがいい」そう葉子は心の中で二人をたしなめながら、二人に気を配った。岡も愛子も申し合わしたように瞥視もし合わなかった。けれども葉子は二人がせめては目だけでも慰め合いたい願いに胸を震わしているのをはっきり[#「はっきり」に傍点]と感ずるように思った。葉子の心はおぞましくも苦々しい猜疑のために苦しんだ。若さと若さとが互いにきびしく求め合って、葉子などをやすやすと袖にするまでにその情炎は嵩じていると思うと耐えられなかった。葉子はしいて自分を押ししずめるために、帯の間から煙草入れを取り出してゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]煙を吹いた。煙管の先が端なく火鉢にかざした岡の指先に触れると電気のようなものが葉子に伝わるのを覚えた。若さ……若さ……。
そこには二人の間にしばらくぎごち[#「ぎごち」に傍点]ない沈黙が続いた。岡が何をいえば愛子は泣いたんだろう。愛子は何を泣いて岡に訴えていたのだろう。葉子が数えきれぬほど経験した幾多の恋の場面の中から、激情的ないろいろの光景がつぎつぎに頭の中に描かれるのだった。もうそうした年齢が岡にも愛子にも来ているのだ。それに不思議はない。しかしあれほど葉子にあこがれおぼれて、いわば恋以上の恋ともいうべきものを崇拝的にささげていた岡が、あの純直な上品なそしてきわめて内気な岡が、見る見る葉子の把持から離れて、人もあろうに愛子――妹の愛子のほうに移って行こうとしているらしいのを見なければならないのはなんという事だろう。愛子の涙――それは察する事ができる。愛子はきっと涙ながらに葉子と倉地との間にこのごろ募って行く奔放な放埒な醜行を訴えたに違いない。葉子の愛子と貞世とに対する偏頗な愛憎と、愛子の上に加えられる御殿女中風な圧迫とを嘆いたに違いない。しかもそれをあの女に特有な多恨らしい、冷ややかな、さびしい表現法で、そして息気づまるような若さと若さとの共鳴の中に……。
勃然として焼くような嫉妬が葉子の胸の中に堅く凝りついて来た。葉子はすり寄っておどおどしている岡の手を力強く握りしめた。葉子の手は氷のように冷たかった。岡の手は火鉢にかざしてあったせいか、珍しくほてって臆病らしい油汗が手のひらにしとどににじみ出ていた。
「あなたはわたしがおこわいの」
葉子はさりげなく岡の顔をのぞき込むようにしてこういった。
「そんな事……」
岡はしょう事なしに腹を据えたように割合にしゃん[#「しゃん」に傍点]とした声でこういいながら、葉子の目をゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]見やって、握られた手には少しも力をこめようとはしなかった。葉子は裏切られたと思う不満のためにもうそれ以上冷静を装ってはいられなかった。昔のようにどこまでも自分を失わない、粘り気の強い、鋭い神経はもう葉子にはなかった。
「あなたは愛子を愛していてくださるのね。そうでしょう。わたしがここに来る前愛子はあんなに泣いて何を申し上げていたの?……おっしゃってくださいな。愛子があなたのような方に愛していただけるのはもったいないくらいですから、わたし喜ぶともとがめ立てなどはしません、きっと。だからおっしゃってちょうだい。……いゝえ、そんな事をおっしゃってそりゃだめ、わたしの目はまだこれでも黒うござんすから。……あなたそんな水臭いお仕向けをわたしになさろうというの? まさかとは思いますがあなたわたしにおっしゃった事を忘れなさっちゃ困りますよ。わたしはこれでも真剣な事には真剣になるくらいの誠実はあるつもりです事よ。わたしあなたのお言葉は忘れてはおりませんわ。姉だと今でも思っていてくださるならほんとうの事をおっしゃってください。愛子に対してはわたしはわたしだけの事をして御覧に入れますから……さ」
そう疳走った声でいいながら葉子は時々握っている岡の手をヒステリックに激しく振り動かした。泣いてはならぬと思えば思うほど葉子の目からは涙が流れた。さながら恋人に不実を責めるような熱意が思うざまわき立って来た。しまいには岡にもその心持ちが移って行ったようだった。そして右手を握った葉子の手の上に左の手を添えながら、上下からはさむように押えて、岡は震え声で静かにいい出した。
「御存じじゃありませんか、わたし、恋のできるような人間ではないのを。年こそ若うございますけれども心は妙にいじけて老いてしまっているんです。どうしても恋の遂げられないような女の方にでなければわたしの恋は動きません。わたしを恋してくれる人があるとしたら、わたし、心が即座に冷えてしまうのです。一度自分の手に入れたら、どれほど尊いものでも大事なものでも、もうわたしには尊くも大事でもなくなってしまうんです。だからわたし、さびしいんです。なんにも持っていない、なんにもむなしい……そのくせそう知り抜きながらわたし、何かどこかにあるように思ってつかむ事のできないものにあこがれます。この心さえなくなればさびしくってもそれでいいのだがなと思うほど苦しくもあります。何にでも自分の理想をすぐあてはめて熱するような、そんな若い心がほしくもありますけれども、そんなものはわたしには来はしません……春にでもなって来るとよけい世の中はむなしく見えてたまりません。それをさっきふと愛子さんに申し上げたんです。そうしたら愛子さんがお泣きになったんです。わたし、あとですぐ悪いと思いました、人にいうような事じゃなかったのを……」
こういう事をいう時の岡はいう言葉にも似ず冷酷とも思われるほどたださびしい顔になった。葉子には岡の言葉がわかるようでもあり、妙にからんでも聞こえた。そしてちょっとすかされたように気勢をそがれたが、どんどんわき上がるように内部から襲い立てる力はすぐ葉子を理不尽にした。
「愛子がそんなお言葉で泣きましたって? 不思議ですわねえ。……それならそれでようござんす。……(ここで葉子は自分にも堪え切れずにさめざめと泣き出した)岡さんわたしもさびしい……さびしくって、さびしくって……」
「お察し申します」
岡は案外しんみり[#「しんみり」に傍点]した言葉でそういった。
「おわかりになって?」
と葉子は泣きながら取りすがるようにした。
「わかります。……あなたは堕落した天使のような方です。御免ください。船の中で始めてお目にかかってからわたし、ちっとも[#「ちっとも」に傍点]心持ちが変わってはいないんです。あなたがいらっしゃるんでわたし、ようやくさびしさからのがれます」
「うそ!……あなたはもうわたしに愛想をおつかしなのよ。わたしのように堕落したものは……」
葉子は岡の手を放して、とうとうハンケチを顔にあてた。
「そういう意味でいったわけじゃないんですけれども……」
ややしばらく沈黙した後に、当惑しきったようにさびしく岡は独語ちてまた黙ってしまった。岡はどんなにさびしそうな時でもなかなか泣かなかった。それが彼をいっそうさびしく見せた。
三月末の夕方の空はなごやかだった。庭先の一重桜のこずえには南に向いたほうに白い花べんがどこからか飛んで来てくっついたようにちらほら[#「ちらほら」に傍点]見え出していた、その先には赤く霜枯れた杉森がゆるやかに暮れ初めて、光を含んだ青空が静かに流れるように漂っていた。苔香園のほうから園丁が間遠に鋏をならす音が聞こえるばかりだった。
若さから置いて行かれる……そうしたさびしみが嫉妬にかわってひし[#「ひし」に傍点]ひしと葉子を襲って来た。葉子はふと母の親佐を思った。葉子が木部との恋に深入りして行った時、それを見守っていた時の親佐を思った。親佐のその心を思った。自分の番が来た……その心持ちはたまらないものだった。と、突然定子の姿が何よりもなつかしいものとなって胸に逼って来た。葉子は自分にもその突然の連想の経路はわからなかった。突然もあまりに突然――しかし葉子に逼るその心持ちは、さらに葉子を畳に突っ伏して泣かせるほど強いものだった。
玄関から人のはいって来る気配がした。葉子はすぐそれが倉地である事を感じた。葉子は倉地と思っただけで、不思議な憎悪を感じながらその動静に耳をすました。倉地は台所のほうに行って愛子を呼んだようだった。二人の足音が玄関の隣の六畳のほうに行った。そしてしばらく静かだった。と思うと、
「いや」
と小さく退けるようにいう愛子の声が確かに聞こえた。抱きすくめられて、もがきながら放たれた声らしかったが、その声の中には憎悪の影は明らかに薄かった。
葉子は雷に撃たれたように突然泣きやんで頭をあげた。
すぐ倉地が階子段をのぼって来る音が聞こえた。
「わたし台所に参りますからね」
何も知らなかったらしい岡に、葉子はわずかにそれだけをいって、突然座を立って裏階子に急いだ。と、かけ違いに倉地は座敷にはいって来た。強い酒の香がすぐ部屋の空気をよごした。
「やあ春になりおった。桜が咲いたぜ。おい葉子」
いかにも気さくらしく塩がれた声でこう叫んだ倉地に対して、葉子は返事もできないほど興奮していた。葉子は手に持ったハンケチを口に押し込むようにくわえて、震える手で壁を細かくたたくようにしながら階子段を降りた。
葉子は頭の中に天地の壊れ落ちるような音を聞きながら、そのまま縁に出て庭下駄をはこうとあせったけれどもどうしてもはけないので、はだしのまま庭に出た。そして次の瞬間に自分を見いだした時にはいつ戸をあけたとも知らず物置き小屋の中にはいっていた。
三六
底のない悒鬱がともするとはげしく葉子を襲うようになった。いわれのない激怒がつまらない事にもふと頭をもたげて、葉子はそれを押ししずめる事ができなくなった。春が来て、木の芽から畳の床に至るまですべてのものが膨らんで来た。愛子も貞世も見違えるように美しくなった。その肉体は細胞の一つ一つまで素早く春をかぎつけ、吸収し、飽満するように見えた。愛子はその圧迫に堪えないで春の来たのを恨むようなけだるさ[#「けだるさ」に傍点]とさびしさとを見せた。貞世は生命そのものだった。秋から冬にかけてにょき[#「にょき」に傍点]にょきと延び上がった細々したからだには、春の精のような豊麗な脂肪がしめやかにしみわたって行くのが目に見えた。葉子だけは春が来てもやせた。来るにつけてやせた。ゴム毬の弧線のような肩は骨ばった輪郭を、薄着になった着物の下からのぞかせて、潤沢な髪の毛の重みに堪えないように首筋も細々となった。やせて悒鬱になった事から生じた別種の美――そう思って葉子がたよりにしていた美もそれはだんだん冴え増さって行く種類の美ではない事を気づかねばならなくなった。その美はその行く手には夏がなかった。寒い冬のみが待ち構えていた。
歓楽ももう歓楽自身の歓楽は持たなくなった。歓楽の後には必ず病理的な苦痛が伴うようになった。ある時にはそれを思う事すらが失望だった。それでも葉子はすべての不自然な方法によって、今は振り返って見る過去にばかりながめられる歓楽の絶頂を幻影としてでも現在に描こうとした。そして倉地を自分の力の支配の下につなごうとした。健康が衰えて行けば行くほどこの焦躁のために葉子の心は休まなかった。全盛期を過ぎた伎芸の女にのみ見られるような、いたましく廃頽した、腐菌の燐光を思わせる凄惨な蠱惑力をわずかな力として葉子はどこまでも倉地をとりこにしようとあせりにあせった。
しかしそれは葉子のいたましい自覚だった。美と健康とのすべてを備えていた葉子には今の自分がそう自覚されたのだけれども、始めて葉子を見る第三者は、物すごいほど冴えきって見える女盛りの葉子の惑力に、日本には見られないようなコケットの典型を見いだしたろう。おまけに葉子は肉体の不足を極端に人目をひく衣服で補うようになっていた。その当時は日露の関係も日米の関係もあらしの前のような暗い徴候を現わし出して、国人全体は一種の圧迫を感じ出していた。臥薪嘗胆というような合い言葉がしきりと言論界には説かれていた。しかしそれと同時に日清戦争を相当に遠い過去としてながめうるまでに、その戦役の重い負担から気のゆるんだ人々は、ようやく調整され始めた経済状態の下で、生活の美装という事に傾いていた。自然主義は思想生活の根底となり、当時病天才の名をほしいままにした高山樗牛らの一団はニイチェの思想を標榜して「美的生活」とか「清盛論」というような大胆奔放な言説をもって思想の維新を叫んでいた。風俗問題とか女子の服装問題とかいう議論が守旧派の人々の間にはかまびすしく持ち出されている間に、その反対の傾向は、殻を破った芥子の種のように四方八方に飛び散った。こうして何か今までの日本にはなかったようなものの出現を待ち設け見守っていた若い人々の目には、葉子の姿は一つの天啓のように映ったに違いない。女優らしい女優を持たず、カフェーらしいカフェーを持たない当時の路上に葉子の姿はまぶしいものの一つだ。葉子を見た人は男女を問わず目をそばだてた。
ある朝葉子は装いを凝らして倉地の下宿に出かけた。倉地は寝ごみを襲われて目をさました。座敷のすみには夜をふかして楽しんだらしい酒肴の残りが敗えたようにかためて置いてあった。例のシナ鞄だけはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と錠がおりて床の間のすみに片づけられていた。葉子はいつものとおり知らんふりをしながら、そこらに散らばっている手紙の差し出し人の名前に鋭い観察を与えるのだった。倉地は宿酔を不快がって頭をたたきながら寝床から半身を起こすと、
「なんでけさはまたそんなにしゃれ[#「しゃれ」に傍点]込んで早くからやって来おったんだ」
とそっぽ[#「そっぽ」に傍点]に向いて、あくびでもしながらのようにいった。これが一か月前だったら、少なくとも三か月前だったら、一夜の安眠に、あのたくましい精力の全部を回復した倉地は、いきなり[#「いきなり」に傍点]寝床の中から飛び出して来て、そうはさせまいとする葉子を否応なしに床の上にねじ伏せていたに違いないのだ。葉子はわき目にもこせこせとうるさく見えるような敏捷さでそのへんに散らばっている物を、手紙は手紙、懐中物は懐中物、茶道具は茶道具とどんどん片づけながら、倉地のほうも見ずに、
「きのうの約束じゃありませんか」
と無愛想につぶやいた。倉地はその言葉で始めて何かいったのをかすかに思い出したふうで、
「何しろおれはきょうは忙しいでだめだよ」
といって、ようやく伸びをしながら立ち上がった。葉子はもう腹に据えかねるほど怒りを発していた。
「怒ってしまってはいけない。これが倉地を冷淡にさせるのだ」――そう心の中には思いながらも、葉子の心にはどうしてもそのいう事を聞かぬいたずら好きな小悪魔がいるようだった。即座にその場を一人だけで飛び出してしまいたい衝動と、もっと巧みな手練でどうしても倉地をおびき出さなければいけないという冷静な思慮とが激しく戦い合った。葉子はしばらくの後にかろうじてその二つの心持ちをまぜ合わせる事ができた。
「それではだめね……またにしましょうか。でもくやしいわ、このいいお天気に……いけない、あなたの忙しいはうそですわ。忙しい忙しいっていっときながらお酒ばかり飲んでいらっしゃるんだもの。ね、行きましょうよ。こら見てちょうだい」
そういいながら葉子は立ち上がって、両手を左右に広く開いて、袂が延びたまま両腕からすらり[#「すらり」に傍点]とたれるようにして、やや剣を持った笑いを笑いながら倉地のほうに近寄って行った。倉地もさすがに、今さらその美しさに見惚れるように葉子を見やった。天才が持つと称せられるあの青色をさえ帯びた乳白色の皮膚、それがやや浅黒くなって、目の縁に憂いの雲をかけたような薄紫の暈、霞んで見えるだけにそっ[#「そっ」に傍点]と刷いた白粉、きわ立って赤くいろどられた口びる、黒い焔を上げて燃えるようなひとみ、後ろにさばいて束ねられた黒漆の髪、大きなスペイン風の玳瑁の飾り櫛、くっきりと白く細い喉を攻めるようにきりっ[#「きりっ」に傍点]と重ね合わされた藤色の襟、胸のくぼみにちょっとのぞかせた、燃えるような緋の帯上げのほかは、ぬれたかとばかりからだにそぐって底光りのする紫紺色の袷、その下につつましく潜んで消えるほど薄い紫色の足袋(こういう色足袋は葉子がくふうし出した新しい試みの一つだった)そういうものが互い互いに溶け合って、のどやかな朝の空気の中にぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]と、葉子という世にもまれなほど悽艶な一つの存在を浮き出さしていた。その存在の中から黒い焔を上げて燃えるような二つのひとみが生きて動いて倉地をじっ[#「じっ」に傍点]と見やっていた。
倉地が物をいうか、身を動かすか、とにかく次の動作に移ろうとするその前に、葉子は気味の悪いほどなめらかな足どりで、倉地の目の先に立ってその胸の所に、両手をかけていた。
「もうわたしに愛想が尽きたら尽きたとはっきり[#「はっきり」に傍点]いってください、ね。あなたは確かに冷淡におなりね。わたしは自分が憎うござんす、自分に愛想を尽かしています。さあいってください、……今……この場で、はっきり[#「はっきり」に傍点]……でも死ねとおっしゃい、殺すとおっしゃい。わたしは喜んで……わたしはどんなにうれしいかしれないのに。……ようござんすわ、なんでもわたしほんとうが知りたいんですから。さ、いってください。わたしどんなきつい言葉でも覚悟していますから。悪びれなんかしはしませんから……あなたはほんとうにひどい……」
葉子はそのまま倉地の胸に顔をあてた。そして始めのうちはしめやか[#「しめやか」に傍点]にしめやか[#「しめやか」に傍点]に泣いていたが、急に激しいヒステリー風なすすり泣きに変わって、きたないものにでも触れていたように倉地の熱気の強い胸もとから飛びしざると、寝床の上にがば[#「がば」に傍点]と突っ伏して激しく声を立てて泣き出した。
このとっさの激しい威脅に、近ごろそういう動作には慣れていた倉地だったけれども、あわてて葉子に近づいてその肩に手をかけた。葉子はおびえるようにその手から飛びのいた。そこには獣に見るような野性のままの取り乱しかたが美しい衣装にまとわれて演ぜられた。葉子の歯も爪もとがって見えた。からだは激しい痙攣に襲われたように痛ましく震えおののいていた。憤怒と恐怖と嫌悪とがもつれ合いいがみ合ってのた[#「のた」に傍点]打ち回るようだった。葉子は自分の五体が青空遠くかきさらわれて行くのを懸命に食い止めるためにふとんでも畳でも爪の立ち歯の立つものにしがみついた。倉地は何よりもその激しい泣き声が隣近所の耳にはいるのを恥じるように背に手をやってなだめようとしてみたけれども、そのたびごとに葉子はさらに泣き募ってのがれようとばかりあせった。
「何を思い違いをしとる、これ」
倉地は喉笛をあけっ放した低い声で葉子の耳もとにこういってみたが、葉子は理不尽にも激しく頭を振るばかりだった。倉地は決心したように力任せにあらがう葉子を抱きすくめて、その口に手をあてた。
「えゝ、殺すなら殺してください……くださいとも」
という狂気じみた声をしっ[#「しっ」に傍点]と制しながら、その耳もとにささやこうとすると、葉子はわれながら夢中であてがった倉地の手を骨もくだけよとかんだ。
「痛い……何しやがる」
倉地はいきなり[#「いきなり」に傍点]一方の手で葉子の細首を取って自分の膝の上に乗せて締めつけた。葉子は呼吸がだんだん苦しくなって行くのをこの狂乱の中にも意識して快く思った。倉地の手で死んで行くのだなと思うとそれがなんともいえず美しく心安かった。葉子の五体からはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に力が抜けて行って、震えを立ててかみ合っていた歯がゆるんだ。その瞬間をすかさず倉地はかまれていた手を振りほどくと、いきなり葉子の頬げたをひし[#「ひし」に傍点]ひしと五六度続けさまに平手で打った。葉子はそれがまた快かった。そのびりびりと神経の末梢に答えて来る感覚のためにからだじゅうに一種の陶酔を感ずるようにさえ思った。「もっとお打ちなさい」といってやりたかったけれども声は出なかった。そのくせ葉子の手は本能的に自分の頬をかばうように倉地の手の下るのをささえようとしていた。倉地は両肘まで使って、ばた[#「ばた」に傍点]ばたと裾を蹴乱してあばれる両足のほかには葉子を身動きもできないようにしてしまった。酒で心臓の興奮しやすくなった倉地の呼吸は霰のようにせわしく葉子の顔にかかった。
「ばかが……静かに物をいえばわかる事だに……おれがお前を見捨てるか見捨てないか……静かに考えてもみろ、ばかが……恥さらしなまねをしやがって……顔を洗って出直して来い」
そういって倉地は捨てるように葉子を寝床の上にどん[#「どん」に傍点]とほうり投げた。
葉子の力は使い尽くされて泣き続ける気力さえないようだった。そしてそのまま昏々として眠るように仰向いたまま目を閉じていた。倉地は肩で激しく息気をつきながらいたましく取り乱した葉子の姿をまんじり[#「まんじり」に傍点]とながめていた。
一時間ほどの後には葉子はしかしたった今ひき起こされた乱脈騒ぎをけろり[#「けろり」に傍点]と忘れたもののように快活で無邪気になっていた。そして二人は楽しげに下宿から新橋駅に車を走らした。葉子が薄暗い婦人待合室の色のはげたモロッコ皮のディバンに腰かけて、倉地が切符を買って来るのを待ってる間、そこに居合わせた貴婦人というような四五人の人たちは、すぐ今までの話を捨ててしまって、こそこそと葉子について私語きかわすらしかった。高慢というのでもなく謙遜というのでもなく、きわめて自然に落ち着いてまっすぐに腰かけたまま、柄の長い白の琥珀のパラソルの握りに手を乗せていながら、葉子にはその貴婦人たちの中の一人がどうも見知り越しの人らしく感ぜられた。あるいは女学校にいた時に葉子を崇拝してその風俗をすらまねた連中の一人であるかとも思われた。葉子がどんな事をうわさされているかは、その婦人に耳打ちされて、見るように見ないように葉子をぬすみ見る他の婦人たちの目色で想像された。
「お前たちはあきれ返りながら心の中のどこかでわたしをうらやんでいるのだろう。お前たちの、その物おじしながらも金目をかけた派手作りな衣装や化粧は、社会上の位置に恥じないだけの作りなのか、良人の目に快く見えようためなのか。そればかりなのか。お前たちを見る路傍の男たちの目は勘定に入れていないのか。……臆病卑怯な偽善者どもめ!」
葉子はそんな人間からは一段も二段も高い所にいるような気位を感じた。自分の扮粧がその人たちのどれよりも立ちまさっている自信を十二分に持っていた。葉子は女王のように誇りの必要もないという自らの鷹揚を見せてすわっていた。
そこに一人の夫人がはいって来た。田川夫人――葉子はその影を見るか見ないかに見て取った。しかし顔色一つ動かさなかった(倉地以外の人に対しては葉子はその時でもかなりすぐれた自制力の持ち主だった)田川夫人は元よりそこに葉子がいようなどとは思いもかけないので、葉子のほうにちょっと目をやりながらもいっこうに気づかずに、
「お待たせいたしましてすみません」
といいながら貴婦人らのほうに近寄って行った。互いの挨拶が済むか済まないうちに、一同は田川夫人によりそってひそひそと私語いた。葉子は静かに機会を待っていた。ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたふうで、葉子に後ろを向けていた田川夫人は、肩越しに葉子のほうを振り返った。待ち設けていた葉子は今まで正面に向けていた顔をしとやか[#「しとやか」に傍点]に向けかえて田川夫人と目を見合わした。葉子の目は憎むように笑っていた。田川夫人の目は笑うように憎んでいた。「生意気な」……葉子は田川夫人が目をそらさないうちに、すっく[#「すっく」に傍点]と立って田川夫人のほうに寄って行った。この不意打ちに度を失った夫人は(明らかに葉子がまっ紅になって顔を伏せるとばかり思っていたらしく、居合わせた婦人たちもそのさまを見て、容貌でも服装でも自分らを蹴落とそうとする葉子に対して溜飲をおろそうとしているらしかった)少し色を失って、そっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向こうとしたけれどももうおそかった。葉子は夫人の前に軽く頭を下げていた。夫人もやむを得ず挨拶のまねをして、高飛車に出るつもりらしく、
「あなたはどなた?」
いかにも横柄にさきがけて口をきった。
「早月葉でございます」
葉子は対等の態度で悪びれもせずこう受けた。
「絵島丸ではいろいろお世話様になってありがとう存じました。あのう……報正新報も拝見させていただきました。(夫人の顔色が葉子の言葉一つごとに変わるのを葉子は珍しいものでも見るようにまじ[#「まじ」に傍点]まじとながめながら)たいそうおもしろうございました事。よくあんなにくわしく御通信になりましてねえ、お忙しくいらっしゃいましたろうに。……倉地さんもおりよくここに来合わせていらっしゃいますから……今ちょっと切符を買いに……お連れ申しましょうか」
田川夫人は見る見るまっさおになってしまっていた。折り返していうべき言葉に窮してしまって、拙くも、
「わたしはこんな所であなたとお話しするのは存じがけません。御用でしたら宅へおいでを願いましょう」
といいつつ今にも倉地がそこに現われて来るかとひたすらそれを怖れるふうだった。葉子はわざと夫人の言葉を取り違えたように、
「いゝえどういたしましてわたしこそ……ちょっとお待ちくださいすぐ倉地さんをお呼び申して参りますから」
そういってどんどん待合所を出てしまった。あとに残った田川夫人がその貴婦人たちの前でどんな顔をして当惑したか、それを葉子は目に見るように想像しながらいたずら者らしくほくそ笑んだ。ちょうどそこに倉地が切符を買って来かかっていた。
一等の客室には他に二三人の客がいるばかりだった。田川夫人以下の人たちはだれかの見送りか出迎えにでも来たのだと見えて、汽車が出るまで影も見せなかった。葉子はさっそく倉地に事の始終を話して聞かせた。そして二人は思い存分胸をすかして笑った。
「田川の奥さんかわいそうにまだあすこで今にもあなたが来るかともじ[#「もじ」に傍点]もじしているでしょうよ、ほかの人たちの手前ああいわれてこそこそと逃げ出すわけにも行かないし」
「おれが一つ顔を出して見せればまたおもしろかったにな」
「きょうは妙な人にあってしまったからまたきっとだれかにあいますよ。奇妙ねえ、お客様が来たとなると不思議にたて続くし……」
「不仕合わせなんぞも来出すと束になって来くさるて」
倉地は何か心ありげにこういって渋い顔をしながらこの笑い話を結んだ。
葉子はけさの発作の反動のように、田川夫人の事があってからただ何となく心が浮き浮きしてしようがなかった。もしそこに客がいなかったら、葉子は子供のように単純な愛矯者になって、倉地に渋い顔ばかりはさせておかなかったろう。「どうして世の中にはどこにでも他人の邪魔に来ましたといわんばかりにこうたくさん人がいるんだろう」と思ったりした。それすらが葉子には笑いの種となった。自分たちの向こう座にしかつめらしい顔をして老年の夫婦者がすわっているのを、葉子はしばらくまじ[#「まじ」に傍点]まじと見やっていたが、その人たちのしかつめらしいのが無性にグロテスクな不思議なものに見え出して、とうとう我慢がしきれずに、ハンケチを口にあててきゅっ[#「きゅっ」に傍点]きゅっとふき出してしまった。
三七
天心に近くぽつり[#「ぽつり」に傍点]と一つ白くわき出た雲の色にも形にもそれと知られるようなたけなわな春が、ところどころの別荘の建て物のほかには見渡すかぎり古く寂びれた鎌倉の谷々にまであふれていた。重い砂土の白ばんだ道の上には落ち椿が一重桜の花とまじって無残に落ち散っていた。桜のこずえには紅味を持った若葉がきらきらと日に輝いて、浅い影を地に落とした。名もない雑木までが美しかった。蛙の声が眠く田圃のほうから聞こえて来た。休暇でないせいか、思いのほかに人の雑鬧もなく、時おり、同じ花かんざしを、女は髪に男は襟にさして先達らしいのが紫の小旗を持った、遠い所から春を逐って経めぐって来たらしい田舎の人たちの群れが、酒の気も借らずにしめやか[#「しめやか」に傍点]に話し合いながら通るのに行きあうくらいのものだった。
倉地も汽車の中から自然に気分が晴れたと見えて、いかにも屈託なくなって見えた。二人は停車場の付近にある或る小ぎれいな旅館を兼ねた料理屋で中食をしたためた。日朝様ともどんぶく[#「どんぶく」に傍点]様ともいう寺の屋根が庭先に見えて、そこから眼病の祈祷だという団扇太鼓の音がどんぶく[#「どんぶく」に傍点]どんぶくと単調に聞こえるような所だった。東のほうはその名さながらの屏風山が若葉で花よりも美しく装われて霞んでいた。短く美しく刈り込まれた芝生の芝はまだ萌えていなかったが、所まばらに立ち連なった小松は緑をふきかけて、八重桜はのぼせたように花でうなだれていた。もう袷一枚になって、そこに食べ物を運んで来る女中は襟前をくつろげながら夏が来たようだといって笑ったりした。
「ここはいいわ。きょうはここで宿りましょう」
葉子は計画から計画で頭をいっぱいにしていた。そしてそこに用らないものを預けて、江の島のほうまで車を走らした。
帰りには極楽寺坂の下で二人とも車を捨てて海岸に出た。もう日は稲村が崎のほうに傾いて砂浜はやや暮れ初めていた。小坪の鼻の崕の上に若葉に包まれてたった一軒建てられた西洋人の白ペンキ塗りの別荘が、夕日を受けて緑色に染めたコケットの、髪の中のダイヤモンドのように輝いていた。その崕下の民家からは炊煙が夕靄と一緒になって海のほうにたなびいていた。波打ちぎわの砂はいいほどに湿って葉子の吾妻下駄の歯を吸った。二人は別荘から散歩に出て来たらしい幾組かの上品な男女の群れと出あったが、葉子は自分の容貌なり服装なりが、そのどの群れのどの人にも立ちまさっているのを意識して、軽い誇りと落ち付きを感じていた。倉地もそういう女を自分の伴侶とするのをあながち無頓着には思わぬらしかった。
「だれかひょん[#「ひょん」に傍点]な人にあうだろうと思っていましたがうまくだれにもあわなかってね。向こうの小坪の人家の見える所まで行きましょうね。そうして光明寺の桜を見て帰りましょう。そうするとちょうどお腹がいい空き具合になるわ」
倉地はなんとも答えなかったが、無論承知でいるらしかった。葉子はふと海のほうを見て倉地にまた口をきった。
「あれは海ね」
「仰せのとおり」
倉地は葉子が時々途轍もなくわかりきった事を少女みたいな無邪気さでいう、またそれが始まったというように渋そうな笑いを片頬に浮かべて見せた。
「わたしもう一度あのまっただなかに乗り出してみたい」
「してどうするのだい」
倉地もさすが長かった海の上の生活を遠く思いやるような顔をしながらいった。
「ただ乗り出してみたいの。どーっと見さかいもなく吹きまく風の中を、大波に思い存分揺られながら、ひっくりかえりそうになっては立て直って切り抜けて行くあの船の上の事を思うと、胸がどきどきするほどもう一度乗ってみたくなりますわ。こんな所いやねえ、住んでみると」
そういって葉子はパラソルを開いたまま柄の先で白い砂をざくざくと刺し通した。
「あの寒い晩の事、わたしが甲板の上で考え込んでいた時、あなたが灯をぶら下げて岡さんを連れて、やっていらしったあの時の事などをわたしはわけもなく思い出しますわ。あの時わたしは海でなければ聞けないような音楽を聞いていましたわ。陸の上にはあんな音楽は聞こうといったってありゃしない。おーい、おーい、おい、おい、おい、おーい……あれは何?」
「なんだそれは」
倉地は怪訝な顔をして葉子を振り返った。
「あの声」
「どの」
「海の声……人を呼ぶような……お互いで呼び合うような」
「なんにも聞こえやせんじゃないか」
「その時聞いたのよ……こんな浅い所では何が聞こえますものか」
「おれは長年海の上で暮らしたが、そんな声は一度だって聞いた事はないわ」
「そうお。不思議ね。音楽の耳のない人には聞こえないのかしら。……確かに聞こえましたよ、あの晩に……それは気味の悪いような物すごいような……いわばね、一緒になるべきはずなのに一緒になれなかった……その人たちが幾億万と海の底に集まっていて、銘々死にかけたような低い音で、おーい、おーいと呼び立てる、それが一緒になってあんなぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した大きな声になるかと思うようなそんな気味の悪い声なの……どこかで今でもその声が聞こえるようよ」
「木村がやっているのだろう」
そういって倉地は高々と笑った。葉子は妙に笑えなかった。そしてもう一度海のほうをながめやった。目も届かないような遠くのほうに、大島が山の腰から下は夕靄にぼかされてなくなって、上のほうだけがへ[#「へ」に白丸傍点]の字を描いてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と空に浮かんでいた。
二人はいつか滑川の川口の所まで来着いていた。稲瀬川を渡る時、倉地は、横浜埠頭で葉子にまつわる若者にしたように、葉子の上体を右手に軽々とかかえて、苦もなく細い流れを跳り越してしまったが、滑川のほうはそうは行かなかった。二人は川幅の狭そうな所を尋ねてだんだん上流のほうに流れに沿うてのぼって行ったが、川幅は広くなって行くばかりだった。
「めんどうくさい、帰りましょうか」
大きな事をいいながら、光明寺までには半分道も来ないうちに、下駄全体がめいりこむような砂道で疲れ果ててしまった葉子はこういい出した。
「あすこに橋が見える。とにかくあすこまで行ってみようや」
倉地はそういって海岸線に沿うてむっくり[#「むっくり」に傍点]盛れ上がった砂丘のほうに続く砂道をのぼり始めた。葉子は倉地に手を引かれて息気をせいせいいわせながら、筋肉が強直するように疲れた足を運んだ。自分の健康の衰退が今さらにはっきり[#「はっきり」に傍点]思わせられるようなそれは疲れかただった。今にも破裂するように心臓が鼓動した。
「ちょっと待って弁慶蟹を踏みつけそうで歩けやしませんわ」
そう葉子は申しわけらしくいって幾度か足をとめた。実際そのへんには紅い甲良を背負った小さな蟹がいかめし[#「いかめし」に傍点]い鋏を上げて、ざわざわと音を立てるほどおびただしく横行していた。それがいかにも晩春の夕暮れらしかった。
砂丘をのぼりきると材木座のほうに続く道路に出た。葉子はどうも不思議な心持ちで、浜から見えていた乱橋のほうに行く気になれなかった。しかし倉地がどんどんそっち[#「そっち」に傍点]に向いて歩き出すので、少しすねたようにその手に取りすがりながらもつれ[#「もつれ」に傍点]合って人気のないその橋の上まで来てしまった。
橋の手前の小さな掛け茶屋には主人の婆さんが葭で囲った薄暗い小部屋の中で、こそこそと店をたたむしたくでもしているだけだった。
橋の上から見ると、滑川の水は軽く薄濁って、まだ芽を吹かない両岸の枯れ葦の根を静かに洗いながら音も立てずに流れていた。それが向こうに行くと吸い込まれたように砂の盛れ上がった後ろに隠れて、またその先に光って現われて、穏やかなリズムを立てて寄せ返す海べの波の中に溶けこむように注いでいた。
ふと葉子は目の下の枯れ葦の中に動くものがあるのに気が付いて見ると、大きな麦桿の海水帽をかぶって、杭に腰かけて、釣り竿を握った男が、帽子の庇の下から目を光らして葉子をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめているのだった。葉子は何の気なしにその男の顔をながめた。
木部孤※[12]だった。
帽子の下に隠れているせいか、その顔はちょっと見忘れるくらい年がいっていた。そして服装からも、様子からも、落魄というような一種の気分が漂っていた。木部の顔は仮面のように冷然としていたが、釣り竿の先は不注意にも水に浸って、釣り糸が女の髪の毛を流したように水に浮いて軽く震えていた。
さすがの葉子も胸をどきん[#「どきん」に傍点]とさせて思わず身を退らせた。「おーい、おい、おい、おい、おーい」……それがその瞬間に耳の底をすーっ[#「すーっ」に傍点]と通ってすーっ[#「すーっ」に傍点]と行くえも知らず過ぎ去った。怯ず怯ずと倉地をうかがうと、倉地は何事も知らぬげに、暖かに暮れて行く青空を振り仰いで目いっぱいにながめていた。
「帰りましょう」
葉子の声は震えていた。倉地はなんの気なしに葉子を顧みたが、
「寒くでもなったか、口びるが白いぞ」
といいながら欄干を離れた。二人がその男に後ろを見せて五六歩歩み出すと、
「ちょっとお待ちください」
という声が橋の下から聞こえた。倉地は始めてそこに人のいたのに気が付いて、眉をひそめながら振り返った。ざわざわと葦を分けながら小道を登って来る足音がして、ひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]目の前に木部の姿が現われ出た。葉子はその時はしかしすべてに対する身構えを充分にしてしまっていた。
木部は少しばか丁寧なくらいに倉地に対して帽子を取ると、すぐ葉子に向いて、
「不思議な所でお目にかかりましたね、しばらく」
といった。一年前の木部から想像してどんな激情的な口調で呼びかけられるかもしれないとあやぶんでいた葉子は、案外冷淡な木部の態度に安心もし、不安も感じた。木部はどうかすると居直るような事をしかねない男だと葉子は兼ねて思っていたからだ。しかし木部という事を先方からいい出すまでは包めるだけ倉地には事実を包んでみようと思って、ただにこやかに、
「こんな所でお目にかかろうとは……わたしもほんとうに驚いてしまいました。でもまあほんとうにお珍しい……ただいまこちらのほうにお住まいでございますの?」
「住まうというほどもない……くすぶり[#「くすぶり」に傍点]こんでいますよハヽヽヽ」
と木部はうつろに笑って、鍔の広い帽子を書生っぽらしく阿弥陀にかぶった。と思うとまた急いで取って、
「あんな所からいきなり[#「いきなり」に傍点]飛び出して来てこうなれなれしく早月さんにお話をしかけて変にお思いでしょうが、僕は下らんやくざ[#「やくざ」に傍点]者で、それでも元は早月家にはいろいろ御厄介になった男です。申し上げるほどの名もありませんから、まあ御覧のとおりのやつです。……どちらにおいでです」
と倉地に向いていった。その小さな目には勝れた才気と、敗けぎらいらしい気象とがほとばしってはいたけれども、じじむさい顎ひげと、伸びるままに伸ばした髪の毛とで、葉子でなければその特長は見えないらしかった。倉地はどこの馬の骨かと思うような調子で、自分の名を名乗る事はもとよりせずに、軽く帽子を取って見せただけだった。そして、
「光明寺のほうへでも行ってみようかと思ったのだが、川が渡れんで……この橋を行っても行かれますだろう」
三人は橋のほうを振り返った。まっすぐな土堤道が白く山のきわまで続いていた。
「行けますがね、それは浜伝いのほうが趣がありますよ。防風草でも摘みながらいらっしゃい。川も渡れます、御案内しましょう」
といった。葉子は一時も早く木部からのがれたくもあったが、同時にしんみり[#「しんみり」に傍点]と一別以来の事などを語り合ってみたい気もした。いつか汽車の中であってこれが最後の対面だろうと思った、あの時からすると木部はずっ[#「ずっ」に傍点]とさばけた男らしくなっていた。その服装がいかにも生活の不規則なのと窮迫しているのを思わせると、葉子は親身な同情にそそられるのを拒む事ができなかった。
倉地は四五歩先立って、そのあとから葉子と木部とは間を隔てて並びながら、また弁慶蟹のうざうざいる砂道を浜のほうに降りて行った。
「あなたの事はたいていうわさや新聞で知っていましたよ……人間てものはおかしなもんですね。……わたしはあれから落伍者です。何をしてみても成り立った事はありません。妻も子供も里に返してしまって今は一人でここに放浪しています。毎日釣りをやってね……ああやって水の流れを見ていると、それでも晩飯の酒の肴ぐらいなものは釣れて来ますよハヽヽヽヽ」
木部はまたうつろに笑ったが、その笑いの響きが傷口にでも答えたように急に黙ってしまった。砂に食い込む二人の下駄の音だけが聞こえた。
「しかしこれでいて全くの孤独でもありませんよ。ついこの間から知り合いになった男だが、砂山の砂の中に酒を埋めておいて、ぶらり[#「ぶらり」に傍点]とやって来てそれを飲んで酔うのを楽しみにしているのと知り合いになりましてね……そいつの人生観がばかにおもしろいんです。徹底した運命論者ですよ。酒をのんで運命論を吐くんです。まるで仙人ですよ」
倉地はどんどん歩いて二人の話し声が耳に入らぬくらい遠ざかった。葉子は木部の口から例の感傷的な言葉が今出るか今出るかと思って待っていたけれども、木部にはいささかもそんなふうはなかった。笑いばかりでなく、すべてにうつろな感じがするほど無感情に見えた。
「あなたはほんとうに今何をなさっていらっしゃいますの」
と葉子は少し木部に近よって尋ねた。木部は近寄られただけ葉子から遠のいてまたうつろに笑った。
「何をするもんですか。人間に何ができるもんですか。……もう春も末になりましたね」
途轍もない言葉をしいてくっ付けて木部はそのよく光る目で葉子を見た。そしてすぐその目を返して、遠ざかった倉地をこめて遠く海と空との境目にながめ入った。
「わたしあなたとゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]お話がしてみたいと思いますが……」
こう葉子はしんみり[#「しんみり」に傍点]ぬすむようにいってみた。木部は少しもそれに心を動かされないように見えた。
「そう……それもおもしろいかな。……わたしはこれでも時おりはあなたの幸福を祈ったりしていますよ、おかしなもんですね、ハヽヽヽ(葉子がその言葉につけ入って何かいおうとするのを木部は悠々とおっかぶせて)あれが、あすこに見えるのが大島です。ぽつん[#「ぽつん」に傍点]と一つ雲か何かのように見えるでしょう空に浮いて……大島って伊豆の先の離れ島です、あれがわたしの釣りをする所から正面に見えるんです。あれでいて、日によって色がさまざまに変わります。どうかすると噴煙がぽーっ[#「ぽーっ」に傍点]と見える事もありますよ」
また言葉がぽつん[#「ぽつん」に傍点]と切れて沈黙が続いた。下駄の音のほかに波の音もだんだんと近く聞こえ出した。葉子はただただ胸が切なくなるのを覚えた。もう一度どうしてもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]木部にあいたい気になっていた。
「木部さん……あなたさぞわたしを恨んでいらっしゃいましょうね。……けれどもわたしあなたにどうしても申し上げておきたい事がありますの。なんとかして一度わたしに会ってくださいません? そのうちに。わたしの番地は……」
「お会いしましょう『そのうちに』……そのうちにはいい言葉ですね……そのうちに……。話があるからと女にいわれた時には、話を期待しないで抱擁か虚無かを覚悟しろって名言がありますぜ、ハヽヽヽヽ」
「それはあんまりなおっしゃりかたですわ」
葉子はきわめて冗談のようにまたきわめてまじめのようにこういってみた。
「あんまりかあんまりでないか……とにかく名言には相違ありますまい、ハヽヽヽヽ」
木部はまたうつろに笑ったが、また痛い所にでも触れたように突然笑いやんだ。
倉地は波打ちぎわ近くまで来ても渡れそうもないので遠くからこっち[#「こっち」に傍点]を振り向いて、むずかしい顔をして立っていた。
「どれお二人に橋渡しをして上げましょうかな」
そういって木部は川べの葦を分けてしばらく姿を隠していたが、やがて小さな田舟に乗って竿をさして現われて来た。その時葉子は木部が釣り道具を持っていないのに気がついた。
「あなた釣り竿は」
「釣り竿ですか……釣り竿は水の上に浮いてるでしょう。いまにここまで流れて来るか……来ないか……」
そう応えて案外上手に舟を漕いだ。倉地は行き過ぎただけを忙いで取って返して来た。そして三人はあぶなかしく立ったまま舟に乗った。倉地は木部の前も構わずわきの下に手を入れて葉子をかかえた。木部は冷然として竿を取った。三突きほどでたわいなく舟は向こう岸に着いた。倉地がいちはやく岸に飛び上がって、手を延ばして葉子を助けようとした時、木部が葉子に手を貸していたので、葉子はすぐにそれをつかんだ。思いきり力をこめたためか、木部の手が舟を漕いだためだったか、とにかく二人の手は握り合わされたまま小刻みにはげしく震えた。
「やっ、どうもありがとう」
倉地は葉子の上陸を助けてくれた木部にこう礼をいった。
木部は舟からは上がらなかった。そして鍔広の帽子を取って、
「それじゃこれでお別れします」
といった。
「暗くなりましたから、お二人とも足もとに気をおつけなさい。さようなら」
と付け加えた。
三人は相当の挨拶を取りかわして別れた。一町ほど来てから急に行く手が明るくなったので、見ると光明寺裏の山の端に、夕月が濃い雲の切れ目から姿を見せたのだった。葉子は後ろを振り返って見た。紫色に暮れた砂の上に木部が舟を葦間に漕ぎ返して行く姿が影絵のように黒くながめられた。葉子は白琥珀のパラソルをぱっ[#「ぱっ」に傍点]と開いて、倉地にはいたずら[#「いたずら」に傍点]に見えるように振り動かした。
三四町来てから倉地が今度は後ろを振り返った。もうそこには木部の姿はなかった。葉子はパラソルを畳もうとして思わず涙ぐんでしまっていた。
「あれはいったいだれだ」
「だれだっていいじゃありませんか」
暗さにまぎれて倉地に涙は見せなかったが、葉子の言葉は痛ましく疳走っていた。
「ローマンスのたくさんある女はちがったものだな」
「えゝ、そのとおり……あんな乞食みたいな見っともない恋人を持った事があるのよ」
「さすがはお前だよ」
「だから愛想が尽きたでしょう」
突如としてまたいいようのないさびしさ、哀しさ、くやしさが暴風のように襲って来た。また来たと思ってもそれはもうおそかった。砂の上に突っ伏して、今にも絶え入りそうに身もだえする葉子を、倉地は聞こえぬ程度に舌打ちしながら介抱せねばならなかった。
その夜旅館に帰ってからも葉子はいつまでも眠らなかった。そこに来て働く女中たちを一人一人突慳貪にきびしくたしなめた。しまいには一人として寄りつくものがなくなってしまうくらい。倉地も始めのうちはしぶしぶつき合っていたが、ついには勝手にするがいいといわんばかりに座敷を代えてひとりで寝てしまった。
春の夜はただ、事もなくしめやか[#「しめやか」に傍点]にふけて行った。遠くから聞こえて来る蛙の鳴き声のほかには、日勝様の森あたりでなくらしい梟の声がするばかりだった。葉子とはなんの関係もない夜鳥でありながら、その声には人をばかにしきったような、それでいて聞くに堪えないほどさびしい響きが潜んでいた。ほう、ほう……ほう、ほうほうと間遠に単調に同じ木の枝と思わしい所から聞こえていた。人々が寝しずまってみると、憤怒の情はいつか消え果てて、いいようのない寂寞がそのあとに残った。
葉子のする事いう事は一つ一つ葉子を倉地から引き離そうとするばかりだった。今夜も倉地が葉子から待ち望んでいたものを葉子は明らかに知っていた。しかも葉子はわけのわからない怒りに任せて自分の思うままに振る舞った結果、倉地には不快きわまる失望を与えたに違いない。こうしたままで日がたつに従って、倉地は否応なしにさらに新しい性的興味の対象を求めるようになるのは目前の事だ。現に愛子はその候補者の一人として倉地の目には映り始めているのではないか。葉子は倉地との関係を始めから考えたどってみるにつれて、どうしても間違った方向に深入りしたのを悔いないではいられなかった。しかし倉地を手なずけるためにはあの道をえらぶよりしかたがなかったようにも思える。倉地の性格に欠点があるのだ。そうではない。倉地に愛を求めて行った自分の性格に欠点があるのだ。……そこまで理屈らしく理屈をたどって来てみると、葉子は自分というものが踏みにじっても飽き足りないほどいやな者に見えた。
「なぜわたしは木部を捨て木村を苦しめなければならないのだろう。なぜ木部を捨てた時にわたしは心に望んでいるような道をまっしぐらに進んで行く事ができなかったのだろう。わたしを木村にしいて押し付けた五十川のおばさんは悪い……わたしの恨みはどうしても消えるものか。……といっておめおめとその策略に乗ってしまったわたしはなんというふがいない女だったのだろう。倉地にだけはわたしは失望したくないと思った。今までのすべての失望をあの人で全部取り返してまだ余りきるような喜びを持とうとしたのだった。わたしは倉地とは離れてはいられない人間だと確かに信じていた。そしてわたしの持ってるすべてを……醜いもののすべてをも倉地に与えて悲しいとも思わなかったのだ。わたしは自分の命を倉地の胸にたたきつけた。それだのに今は何が残っている……何が残っている……。今夜かぎりわたしは倉地に見放されるのだ。この部屋を出て行ってしまった時の冷淡な倉地の顔!……わたしは行こう。これから行って倉地にわびよう、奴隷のように畳に頭をこすり付けてわびよう……そうだ。……しかし倉地が冷刻な顔をしてわたしの心を見も返らなかったら……わたしは生きてる間にそんな倉地の顔を見る勇気はない。……木部にわびようか……木部は居所さえ知らそうとはしないのだもの……」
葉子はやせた肩を痛ましく震わして、倉地から絶縁されてしまったもののように、さびしく哀しく涙の枯れるかと思うまで泣くのだった。静まりきった夜の空気の中に、時々鼻をかみながらすすり上げすすり上げ泣き伏す痛ましい声だけが聞こえた。葉子は自分の声につまされてなおさら悲哀から悲哀のどん底に沈んで行った。
ややしばらくしてから葉子は決心するように、手近にあった硯箱と料紙とを引き寄せた。そして震える手先をしいて繰りながら簡単な手紙を乳母にあてて書いた。それには乳母とも定子とも断然縁を切るから以後他人と思ってくれ。もし自分が死んだらここに同封する手紙を木部の所に持って行くがいい。木部はきっとどうしてでも定子を養ってくれるだろうからという意味だけを書いた。そして木部あての手紙には、
[#ここから1字下げ]
「定子はあなたの子です。その顔を一目御覧になったらすぐおわかりになります。わたしは今まで意地からも定子はわたし一人の子でわたし一人のものとするつもりでいました。けれどもわたしが世にないものとなった今は、あなたはもうわたしの罪を許してくださるかとも思います。せめては定子を受け入れてくださいましょう。
葉子の死んだ後
あわれなる定子のママより
定子のおとう様へ」
[#ここで字下げ終わり]
と書いた。涙は巻紙の上にとめどなく落ちて字をにじました。東京に帰ったらためて置いた預金の全部を引き出してそれを為替にして同封するために封を閉じなかった。
最後の犠牲……今までとつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]捨て兼ねていた最愛のものを最後の犠牲にしてみたら、たぶんは倉地の心がもう一度自分に戻って来るかもしれない。葉子は荒神に最愛のものを生牲として願いをきいてもらおうとする太古の人のような必死な心になっていた。それは胸を張り裂くような犠牲だった。葉子は自分の目からも英雄的に見えるこの決心に感激してまた新しく泣きくずれた。
「どうか、どうか、……どうーか」
葉子はだれにともなく手を合わして、一心に念じておいて、雄々しく涙を押しぬぐうと、そっと座を立って、倉地の寝ているほうへと忍びよった。廊下の明りは大半消されているので、ガラス窓からおぼろにさし込む月の光がたよりになった。廊下の半分がた燐の燃えたようなその光の中を、やせ細っていっそう背たけの伸びて見える葉子は、影が歩むように音もなく静かに歩みながら、そっと[#「そっと」に傍点]倉地の部屋の襖を開いて中にはいった。薄暗くともった有明けの下に倉地は何事も知らぬげに快く眠っていた。葉子はそっ[#「そっ」に傍点]とその枕もとに座を占めた。そして倉地の寝顔を見守った。
葉子の目にはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に涙がわくようにあふれ出て、厚ぼったいような感じになった口びるはわれにもなくわなわなと震えて来た。葉子はそうしたままで黙ってなおも倉地を見続けていた。葉子の目にたまった涙のために倉地の姿は見る見るにじんだように輪郭がぼやけてしまった。葉子は今さら人が違ったように心が弱って、受け身にばかりならずにはいられなくなった自分が悲しかった。なんという情けないかわいそうな事だろう。そう葉子はしみじみと思った。
だんだん葉子の涙はすすり泣きにかわって行った。倉地が眠りの中でそれを感じたらしく、うるさそうにうめき声を小さく立てて寝返りを打った。葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として息気をつめた。
しかしすぐすすり泣きはまた帰って来た。葉子は何事も忘れ果てて、倉地の床のそばにきちん[#「きちん」に傍点]とすわったままいつまでもいつまでも泣き続けていた。
三八
「何をそう怯ず怯ずしているのかい。そのボタンを後ろにはめてくれさえすればそれでいいのだに」
倉地は倉地にしては特にやさしい声でこういった、ワイシャツを着ようとしたまま葉子に背を向けて立ちながら。葉子は飛んでもない失策でもしたように、シャツの背部につけるカラーボタンを手に持ったままおろおろしていた。
「ついシャツを仕替える時それだけ忘れてしまって……」
「いいわけなんぞはいいわい。早く頼む」
「はい」
葉子はしとやか[#「しとやか」に傍点]にそういって寄り添うように倉地に近寄ってそのボタンをボタン孔に入れようとしたが、糊が硬いのと、気おくれがしているのでちょっとははいりそうになかった。
「すみませんがちょっと脱いでくださいましな」
「めんどうだな、このままでできようが」
葉子はもう一度試みた。しかし思うようには行かなかった。倉地はもう明らかにいらいらし出していた。
「だめか」
「まあちょっと」
「出せ、貸せおれに。なんでもない事だに」
そういってくるり[#「くるり」に傍点]と振り返ってちょっと葉子をにらみつけながら、ひったくるようにボタンを受け取った。そしてまた葉子に後ろを向けて自分でそれをはめようとかかった。しかしなかなかうまく行かなかった。見る見る倉地の手ははげしく震え出した。
「おい、手伝ってくれてもよかろうが」
葉子があわてて手を出すとはずみにボタンは畳の上に落ちてしまった。葉子がそれを拾おうとする間もなく、頭の上から倉地の声が雷のように鳴り響いた。
「ばか! 邪魔をしろといいやせんぞ」
葉子はそれでもどこまでも優しく出ようとした。
「御免くださいね、わたしお邪魔なんぞ……」
「邪魔よ。これで邪魔でなくてなんだ……えゝ、そこじゃありゃせんよ。そこに見えとるじゃないか」
倉地は口をとがらして顎を突き出しながら、どしん[#「どしん」に傍点]と足をあげて畳を踏み鳴らした。
葉子はそれでも我慢した。そしてボタンを拾って立ち上がると倉地はもうワイシャツを脱ぎ捨てている所だった。
「胸くその悪い……おい日本服を出せ」
「襦袢の襟がかけずにありますから……洋服で我慢してくださいましね」
葉子は自分が持っていると思うほどの媚びをある限り目に集めて嘆願するようにこういった。
「お前には頼まんまでよ……愛ちゃん」
倉地は大きな声で愛子を呼びながら階下のほうに耳を澄ました。葉子はそれでも根かぎり我慢しようとした。階子段をしとやか[#「しとやか」に傍点]にのぼって愛子がいつものように柔順に部屋にはいって来た。倉地は急に相好をくずしてにこやか[#「にこやか」に傍点]になっていた。
「愛ちゃん頼む、シャツにそのボタンをつけておくれ」
愛子は何事の起こったかを露知らぬような顔をして、男の肉感をそそるような堅肉の肉体を美しく折り曲げて、雪白のシャツを手に取り上げるのだった。葉子がちゃん[#「ちゃん」に傍点]と倉地にかしずいてそこにいるのを全く無視したようなずう[#「ずう」に傍点]ずうしい態度が、ひがんでしまった葉子の目には憎々しく映った。
「よけいな事をおしでない」
葉子はとうとうかっ[#「かっ」に傍点]となって愛子をたしなめながらいきなり[#「いきなり」に傍点]手にあるシャツをひったくってしまった。
「きさまは……おれが愛ちゃんに頼んだになぜよけいな事をしくさるんだ」
とそういって威丈高になった倉地には葉子はもう目もくれなかった。愛子ばかりが葉子の目には見えていた。
「お前は下にいればそれでいい人間なんだよ。おさんどん[#「おさんどん」に傍点]の仕事もろくろくできはしないくせによけいな所に出しゃばるもんじゃない事よ。……下に行っておいで」
愛子はこうまで姉にたしなめられても、さからうでもなく怒るでもなく、黙ったまま柔順に、多恨な目で姉をじっ[#「じっ」に傍点]と見て静々とその座をはずしてしまった。
こんなもつれ合ったいさかい[#「いさかい」に傍点]がともすると葉子の家で繰り返されるようになった。ひとりになって気がしずまると葉子は心の底から自分の狂暴な振る舞いを悔いた。そして気を取り直したつもりでどこまでも愛子をいたわって[#「いたわって」に傍点]やろうとした。愛子に愛情を見せるためには義理にも貞世につらく当たるのが当然だと思った。そして愛子の見ている前で、愛するものが愛する者を憎んだ時ばかりに見せる残虐な呵責を貞世に与えたりした。葉子はそれが理不尽きわまる事だとは知っていながら、そう偏頗に傾いて来る自分の心持ちをどうする事もできなかった。それのみならず葉子には自分の鬱憤をもらすための対象がぜひ一つ必要になって来た。人でなければ動物、動物でなければ草木、草木でなければ自分自身に何かなしに傷害を与えていなければ気が休まなくなった。庭の草などをつかんでいる時でも、ふと気が付くと葉子はしゃがん[#「しゃがん」に傍点]だまま一茎の名もない草をたった[#「たった」に傍点]一本摘みとって、目に涙をいっぱいためながら爪の先で寸々に切りさいなんでいる自分を見いだしたりした。
同じ衝動は葉子を駆って倉地の抱擁に自分自身を思う存分しいたげようとした。そこには倉地の愛を少しでも多く自分につなぎたい欲求も手伝ってはいたけれども、倉地の手で極度の苦痛を感ずる事に不満足きわまる満足を見いだそうとしていたのだ。精神も肉体もはなはだしく病に虫ばまれた葉子は抱擁によっての有頂天な歓楽を味わう資格を失ってからかなり久しかった。そこにはただ地獄のような呵責があるばかりだった。すべてが終わってから葉子に残るものは、嘔吐を催すような肉体の苦痛と、しいて自分を忘我に誘おうともがきながら、それが裏切られて無益に終わった、その後に襲って来る唾棄すべき倦怠ばかりだった。倉地が葉子のその悲惨な無感覚を分け前してたとえようもない憎悪を感ずるのはもちろんだった。葉子はそれを知るとさらにいい知れないたよりなさを感じてまたはげしく倉地にいどみかかるのだった。倉地は見る見る一歩一歩葉子から離れて行った。そしてますますその気分はすさんで行った。
「きさまはおれに厭きたな。男でも作りおったんだろう」
そう唾でも吐き捨てるようにいまいましげに倉地があらわ[#「あらわ」に傍点]にいうような日も来た。
「どうすればいいんだろう」
そういって額の所に手をやって頭痛を忍びながら葉子はひとり苦しまねばならなかった。
ある日葉子は思いきってひそかに医師を訪れた。医師は手もなく、葉子のすべての悩みの原因は子宮後屈症と子宮内膜炎とを併発しているからだといって聞かせた。葉子はあまりにわかりきった事を医師がさも知ったかぶりにいって聞かせるようにも、またそののっぺりした白い顔が、恐ろしい運命が葉子に対して装うた仮面で、葉子はその言葉によってまっ暗な行く手を明らかに示されたようにも思った。そして怒りと失望とをいだきながらその家を出た。帰途葉子は本屋に立ち寄って婦人病に関する大部な医書を買い求めた。それは自分の病症に関する徹底的な知識を得ようためだった。家に帰ると自分の部屋に閉じこもってすぐ大体を読んで見た。後屈症は外科手術を施して位置矯正をする事によって、内膜炎は内膜炎を抉掻する事によって、それが器械的の発病である限り全治の見込みはあるが、位置矯正の場合などに施術者の不注意から子宮底に穿孔を生じた時などには、往々にして激烈な腹膜炎を結果する危険が伴わないでもないなどと書いてあった。葉子は倉地に事情を打ち明けて手術を受けようかとも思った。ふだんならば常識がすぐそれを葉子にさせたに違いない。しかし今はもう葉子の神経は極度に脆弱になって、あらぬ方向にばかりわれにもなく鋭く働くようになっていた。倉地は疑いもなく自分の病気に愛想を尽かすだろう。たといそんな事はないとしても入院の期間に倉地の肉の要求が倉地を思わぬほうに連れて行かないとはだれが保証できよう。それは葉子の僻見であるかもしれない、しかしもし愛子が倉地の注意をひいているとすれば、自分の留守の間に倉地が彼女に近づくのはただ一歩の事だ。愛子があの年であの無経験で、倉地のような野性と暴力とに興味を持たぬのはもちろん、一種の厭悪をさえ感じているのは察せられないではない。愛子はきっと倉地を退けるだろう。しかし倉地には恐ろしい無恥がある。そして一度倉地が女をおのれの力の下に取りひしいだら、いかなる女も二度と倉地からのがれる事のできないような奇怪の麻酔の力を持っている。思想とか礼儀とかにわずらわされない、無尽蔵に強烈で征服的な生のままな男性の力はいかな女をもその本能に立ち帰らせる魔術を持っている。しかもあの柔順らしく見える愛子は葉子に対して生まれるとからの敵意を挟んでいるのだ。どんな可能でも描いて見る事ができる。そう思うと葉子はわが身でわが身を焼くような未練と嫉妬のために前後も忘れてしまった。なんとかして倉地を縛り上げるまでは葉子は甘んじて今の苦痛に堪え忍ぼうとした。
そのころからあの正井という男が倉地の留守をうかがっては葉子に会いに来るようになった。
「あいつは犬だった。危うく手をかませる所だった。どんな事があっても寄せ付けるではないぞ」
と倉地が葉子にいい聞かせてから一週間もたたない後に、ひょっこり正井が顔を見せた。なかなかのしゃれ[#「しゃれ」に傍点]者で、寸分のすきもない身なりをしていた男が、どこかに貧窮をにおわすようになっていた。カラーにはうっすり汗じみができて、ズボンの膝には焼けこげの小さな孔が明いたりしていた。葉子が上げる上げないもいわないうちに、懇意ずくらしくどんどん玄関から上がりこんで座敷に通った。そして高価らしい西洋菓子の美しい箱を葉子の目の前に風呂敷から取り出した。
「せっかくおいでくださいましたのに倉地さんは留守ですから、はばかりですが出直してお遊びにいらしってくださいまし。これはそれまでお預かりおきを願いますわ」
そういって葉子は顔にはいかにも懇意を見せながら、言葉には二の句がつげないほどの冷淡さと強さとを示してやった。しかし正井はしゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあとして平気なものだった。ゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]内衣嚢から巻煙草入れを取り出して、金口を一本つまみ取ると、炭の上にたまった灰を静かにかきのけるようにして火をつけて、のどかに香りのいい煙を座敷に漂わした。
「お留守ですか……それはかえって好都合でした……もう夏らしくなって来ましたね、隣の薔薇も咲き出すでしょう……遠いようだがまだ去年の事ですねえ、お互い様に太平洋を往ったり来たりしたのは……あのころがおもしろい盛りでしたよ。わたしたちの仕事もまだにらまれずにいたんでしたから……時に奥さん」
そういって折り入って相談でもするように正井は煙草盆を押しのけて膝を乗り出すのだった。人を侮ってかかって来ると思うと葉子はぐっ[#「ぐっ」に傍点]と癪にさわった。しかし以前のような葉子はそこにはいなかった。もしそれが以前であったら、自分の才気と力量と美貌とに充分の自信を持つ葉子であったら、毛の末ほども自分を失う事なく、優婉に円滑に男を自分のかけた陥穽の中におとしいれて、自縄自縛の苦い目にあわせているに違いない。しかし現在の葉子はたわいもなく敵を手もとまでもぐりこませてしまってただいらいらとあせるだけだった。そういう破目になると葉子は存外力のない自分であるのを知らねばならなかった。
正井は膝を乗り出してから、しばらく黙って敏捷に葉子の顔色をうかがっていたが、これなら大丈夫と見きわめをつけたらしく、
「少しばかりでいいんです、一つ融通してください」
と切り出した。
「そんな事をおっしゃったって、わたしにどうしようもないくらいは御存じじゃありませんか。そりゃ余人じゃなし、できるのならなんとかいたしますけれども、姉妹三人がどうかこうかして倉地に養われている今日のような境界では、わたしに何ができましょう。正井さんにも似合わない的違いをおっしゃるのね。倉地なら御相談にもなるでしょうから面と向かってお話しくださいまし。中にはいるとわたしが困りますから」
葉子は取りつく島もないようにといや味な調子でずけ[#「ずけ」に傍点]ずけとこういった。正井はせせら笑うようにほほえんで金口の灰を静かに灰吹きに落とした。
「もう少しざっくばらん[#「ざっくばらん」に傍点]にいってくださいよきのうきょうのお交際じゃなし。倉地さんとまずくなったくらいは御承知じゃありませんか。……知っていらっしってそういう口のききかたは少しひど過ぎますぜ、(ここで仮面を取ったように正井はふてくされた態度になった。しかし言葉はどこまでも穏当だった。)きらわれたってわたしは何も倉地さんをどうしようのこうしようのと、そんな薄情な事はしないつもりです。倉地さんにけががあればわたしだって同罪以上ですからね。……しかし……一つなんとかならないもんでしょうか」
葉子の怒りに興奮した神経は正井のこの一言にすぐおびえてしまった。何もかも倉地の裏面を知り抜いてるはずの正井が、捨てばちになったら倉地の身の上にどんな災難が降りかからぬとも限らぬ。そんな事をさせては飛んだ事になるだろう。そんな事をさせては飛んだ事になる。葉子はますます弱身になった自分を救い出す術に困じ果てていた。
「それを御承知でわたしの所にいらしったって……たといわたしに都合がついたとしたところで、どうしようもありませんじゃないの。なんぼわたしだっても、倉地と仲たがえをなさったあなたに倉地の金を何する……」
「だから倉地さんのものをおねだりはしませんさ。木村さんからもたんまり[#「たんまり」に傍点]来ているはずじゃありませんか。その中から……たんとたあいいませんから、窮境を助けると思ってどうか」
正井は葉子を男たらしと見くびった態度で、情夫を持ってる妾にでも逼るようなずうずうしい顔色を見せた。こんな押し問答の結果葉子はとうとう正井に三百円ほどの金をむざ[#「むざ」に傍点]むざとせびり取られてしまった。葉子はその晩倉地が帰って来た時もそれをいい出す気力はなかった。貯金は全部定子のほうに送ってしまって、葉子の手もとにはいくらも残ってはいなかった。
それからというもの正井は一週間とおかずに葉子の所に来ては金をせびった。正井はそのおりおりに、絵島丸のサルンの一隅に陣取って酒と煙草とにひたりながら、何か知らんひそひそ話をしていた数人の人たち――人を見ぬく目の鋭い葉子にもどうしてもその人たちの職業を推察し得なかった数人の人たちの仲間に倉地がはいって始め出した秘密な仕事の巨細をもらした。正井が葉子を脅かすために、その話には誇張が加えられている、そう思って聞いてみても、葉子の胸をひやっ[#「ひやっ」に傍点]とさせる事ばかりだった。倉地が日清戦争にも参加した事務長で、海軍の人たちにも航海業者にも割合に広い交際がある所から、材料の蒐集者としてその仲間の牛耳を取るようになり、露国や米国に向かってもらした祖国の軍事上の秘密はなかなか容易ならざるものらしかった。倉地の気分がすさんで行くのももっともだと思われるような事柄を数々葉子は聞かされた。葉子はしまいには自分自身を護るためにも正井のきげんを取りはずしてはならないと思うようになった。そして正井の言葉が一語一語思い出されて、夜なぞになると眠らせぬほどに葉子を苦しめた。葉子はまた一つの重い秘密を背負わなければならぬ自分を見いだした。このつらい意識はすぐにまた倉地に響くようだった。倉地はともすると敵の間諜ではないかと疑うような険しい目で葉子をにらむようになった。そして二人の間にはまた一つの溝がふえた。
そればかりではなかった。正井に秘密な金を融通するためには倉地からのあてがい[#「あてがい」に傍点]だけではとても足りなかった。葉子はありもしない事を誠しやかに書き連ねて木村のほうから送金させねばならなかった。倉地のためならとにもかくにも、倉地と自分の妹たちとが豊かな生活を導くためにならとにもかくにも、葉子に一種の獰悪な誇りをもってそれをして、男のためになら何事でもという捨てばちな満足を買い得ないではなかったが、その金がたいてい正井のふところに吸収されてしまうのだと思うと、いくら間接には倉地のためだとはいえ葉子の胸は痛かった。木村からは送金のたびごとに相変わらず長い消息が添えられて来た。木村の葉子に対する愛着は日を追うてまさるとも衰える様子は見えなかった。仕事のほうにも手違いや誤算があって始めの見込みどおりには成功とはいえないが、葉子のほうに送るくらいの金はどうしてでも都合がつくくらいの信用は得ているから構わずいってよこせとも書いてあった。こんな信実な愛情と熱意を絶えず示されるこのごろは葉子もさすがに自分のしている事が苦しくなって、思いきって木村にすべてを打ちあけて、関係を絶とうかと思い悩むような事が時々あった。その矢先なので、葉子は胸にことさら痛みを覚えた。それがますます葉子の神経をいらだたせて、その病気にも影響した。そして花の五月が過ぎて、青葉の六月になろうとするころには、葉子は痛ましくやせ細った、目ばかりどぎつい[#「どぎつい」に傍点]純然たるヒステリー症の女になっていた。
三九
巡査の制服は一気に夏服になったけれども、その年の気候はひどく不順で、その白服がうらやましいほど暑い時と、気の毒なほど悪冷えのする日が入れ代わり立ち代わり続いた。したがって晴雨も定めがたかった。それがどれほど葉子の健康にさし響いたかしれなかった。葉子は絶えず腰部の不愉快な鈍痛を覚ゆるにつけ、暑くて苦しい頭痛に悩まされるにつけ、何一つからだに申し分のなかった十代の昔を思い忍んだ。晴雨寒暑というようなものがこれほど気分に影響するものとは思いもよらなかった葉子は、寝起きの天気を何よりも気にするようになった。きょうこそは一日気がはればれするだろうと思うような日は一日もなかった。きょうもまたつらい一日を過ごさねばならぬというそのいまわしい予想だけでも葉子の気分をそこなうには充分すぎた。
五月の始めごろから葉子の家に通う倉地の足はだんだん遠のいて、時々どこへとも知れぬ旅に出るようになった。それは倉地が葉子のしつっこい挑みと、激しい嫉妬と、理不尽な疳癖の発作とを避けるばかりだとは葉子自身にさえ思えない節があった。倉地のいわゆる事業には何かかなり致命的な内場破れが起こって、倉地の力でそれをどうする事もできないらしい事はおぼろげながらも葉子にもわかっていた。債権者であるか、商売仲間であるか、とにかくそういう者を避けるために不意に倉地が姿を隠さねばならぬらしい事は確かだった。それにしても倉地の疎遠は一向に葉子には憎かった。
ある時葉子は激しく倉地に迫ってその仕事の内容をすっかり[#「すっかり」に傍点]打ち明けさせようとした。倉地の情人である葉子が倉地の身に大事が降りかかろうとしているのを知りながら、それに助力もし得ないという法はない、そういって葉子はせがみにせがんだ。
「こればかりは女の知った事じゃないわい。おれが喰い込んでもお前にはとばっちり[#「とばっちり」に傍点]が行くようにはしたくないで、打ち明けないのだ。どこに行っても知らない知らないで一点張りに通すがいいぜ。……二度と聞きたいとせがんでみろ、おれはうそほん[#「うそほん」に傍点]なしにお前とは手を切って見せるから」
その最後の言葉は倉地の平生に似合わない重苦しい響きを持っていた。葉子が息気をつめてそれ以上をどうしても迫る事ができないと断念するほど重苦しいものだった。正井の言葉から判じても、それは女手などでは実際どうする事もできないものらしいので葉子はこれだけは断念して口をつぐむよりしかたがなかった。
堕落といわれようと、不貞といわれようと、他人手を待っていてはとても自分の思うような道は開けないと見切りをつけた本能的の衝動から、知らず知らず自分で選び取った道の行く手に目もくらむような未来が見えたと有頂天になった絵島丸の上の出来事以来一年もたたないうちに、葉子が命も名もささげてかかった新しい生活は見る見る土台から腐り出して、もう今は一陣の風さえ吹けば、さしもの高楼ももんどり[#「もんどり」に傍点]打って地上にくずれてしまうと思いやると、葉子はしばしば真剣に自殺を考えた。倉地が旅に出た留守に倉地の下宿に行って「急用ありすぐ帰れ」という電報をその行く先に打ってやる。そして自分は心静かに倉地の寝床の上で刃に伏していよう。それは自分の一生の幕切れとしては、いちばんふさわしい行為らしい。倉地の心にもまだ自分に対する愛情は燃えかすれながらも残っている。それがこの最後によって一時なりとも美しく燃え上がるだろう。それでいい、それで自分は満足だ。そう心から涙ぐみながら思う事もあった。
実際倉地が留守のはずのある夜、葉子はふらふらとふだん空想していたその心持ちにきびしく捕えられて前後も知らず家を飛び出した事があった。葉子の心は緊張しきって天気なのやら曇っているのやら、暑いのやら寒いのやらさらに差別がつかなかった。盛んに羽虫が飛びかわして往来の邪魔になるのをかすかに意識しながら、家を出てから小半町裏坂をおりて行ったが、ふと自分のからだがよごれていて、この三四日湯にはいらない事を思い出すと、死んだあとの醜さを恐れてそのまま家に取って返した。そして妹たちだけがはいったままになっている湯殿に忍んで行って、さめかけた風呂につかった。妹たちはとうに寝入っていた。手ぬぐい掛けの竹竿にぬれた手ぬぐいが二筋だけかかっているのを見ると、寝入っている二人の妹の事がひしひしと心に逼るようだった。葉子の決心はしかしそのくらいの事では動かなかった。簡単に身じまいをしてまた家を出た。
倉地の下宿近くなった時、その下宿から急ぎ足で出て来る背たけの低い丸髷の女がいた。夜の事ではあり、そのへんは街灯の光も暗いので、葉子にはさだかにそれとわからなかったが、どうも双鶴館の女将らしくもあった。葉子はかっ[#「かっ」に傍点]となって足早にそのあとをつけた。二人の間は半町とは離れていなかった。だんだん二人の間に距離がちぢまって行って、その女が街灯の下を通る時などに気を付けて見るとどうしても思ったとおりの女らしかった。さては今まであの女を真正直に信じていた自分はまんま[#「まんま」に傍点]と詐られていたのだったか。倉地の妻に対しても義理が立たないから、今夜以後葉子とも倉地の妻とも関係を絶つ。悪く思わないでくれと確かにそういった、その義侠らしい口車にまんま[#「まんま」に傍点]と乗せられて、今まで殊勝な女だとばかり思っていた自分の愚かさはどうだ。葉子はそう思うと目が回ってその場に倒れてしまいそうなくやしさ恐ろしさを感じた。そして女の形を目がけてよろよろとなりながら駆け出した。その時女はそのへんに辻待ちをしている車に乗ろうとする所だった。取りにがしてなるものかと、葉子はひた走りに走ろうとした。しかし足は思うようにはかど[#「はかど」に傍点]らなかった。さすがにその静けさを破って声を立てる事もはばかられた。もう十間というくらいの所まで来た時車はがらがらと音を立てて砂利道を動きはじめた。葉子は息気せき切ってそれに追いつこうとあせったが、見る見るその距離は遠ざかって、葉子は杉森で囲まれたさびしい暗闇の中にただ一人取り残されていた。葉子はなんという事なくその辻車のいた所まで行って見た。一台よりいなかったので飛び乗ってあとを追うべき車もなかった。葉子はぼんやりそこに立って、そこに字でも書き残してあるかのように、暗い地面をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめていた。確かにあの女に違いなかった。背格好といい、髷の形といい、小刻みな歩きぶりといい、……あの女に違いなかった。旅行に出るといった倉地は疑いもなくうそ[#「うそ」に傍点]を使って下宿にくすぶっているに違いない。そしてあの女を仲人に立てて先妻とのより[#「より」に傍点]を戻そうとしているに決まっている。それに何の不思議があろう。長年連れ添った妻ではないか。かわいい三人の娘の母ではないか。葉子というものに一日一日疎くなろうとする倉地ではないか。それに何の不思議があろう。……それにしてもあまりといえばあまりな仕打ちだ。なぜそれならそうと明らかにいってはくれないのだ。いってさえくれれば自分にだって恋する男に対しての女らしい覚悟はある。別れろとならばきれいさっぱりと別れても見せる。……なんという踏みつけかただ。なんという恥さらしだ。倉地の妻はおおそれた貞女ぶった顔を震わして、涙を流しながら、「それではお葉さんという方にお気の毒だから、わたしはもう亡いものと思ってくださいまし……」……見ていられぬ、聞いていられぬ。……葉子という女はどんな女だか、今夜こそは倉地にしっかり思い知らせてやる……。
葉子は酔ったもののようにふらふらした足どりでそこから引き返した。そして下宿屋に来着いた時には、息気苦しさのために声も出ないくらいになっていた。下宿の女たちは葉子を見ると「またあの気狂いが来た」といわんばかりの顔をして、その夜の葉子のことさらに取りつめた顔色には注意を払う暇もなく、その場をはずして姿を隠した。葉子はそんな事には気もかけずに物すごい笑顔でことさららしく帳場にいる男にちょっと頭を下げて見せて、そのままふらふらと階子段をのぼって行った。ここが倉地の部屋だというその襖の前に立った時には、葉子は泣き声に気がついて驚いたほど、われ知らずすすり上げて泣いていた。身の破滅、恋の破滅は今夜の今、そう思って荒々しく襖を開いた。
部屋の中には案外にも倉地はいなかった。すみからすみまで片づいていて、倉地のあの強烈な膚の香いもさらに残ってはいなかった。葉子は思わずふらふらとよろけて、泣きやんで、部屋の中に倒れこみながらあたりを見回した。いるに違いないとひとり決めをした自分の妄想が破れたという気は少しも起こらないで、確かにいたものが突然溶けてしまうかどうかしたような気味の悪い不思議さに襲われた。葉子はすっかり[#「すっかり」に傍点]気抜けがして、髪も衣紋も取り乱したまま横ずわりにすわったきりでぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していた。
あたりは深山のようにしーん[#「しーん」に傍点]としていた。ただ葉子の目の前をうるさく[#「うるさく」に傍点]行ったり来たりする黒い影のようなものがあった。葉子は何物という分別もなく始めはただうるさいとのみ思っていたが、しまいにはこらえかねて手をあげてしきりにそれを追い払ってみた。追い払っても追い払ってもそのうるさい黒い影は目の前を立ち去ろうとはしなかった。……しばらくそうしているうちに葉子は寒気がするほどぞっ[#「ぞっ」に傍点]とおそろしくなって気がはっきり[#「はっきり」に傍点]した。
急に周囲には騒がしい下宿屋らしい雑音が聞こえ出した。葉子をうるさがらしたその黒い影は見る見る小さく遠ざかって、電燈の周囲をきり[#「きり」に傍点]きりと舞い始めた。よく見るとそれは大きな黒い夜蛾だった。葉子は神がかりが離れたようにきょとん[#「きょとん」に傍点]となって、不思議そうに居ずまいを正してみた。
どこまでが真実で、どこまでが夢なんだろう……。
自分の家を出た、それに間違いはない。途中から取って返して風呂をつかった、……なんのために? そんなばかな事をするはずがない。でも妹たちの手ぬぐいが二筋ぬれて手ぬぐいかけの竹竿にかかっていた、(葉子はそう思いながら自分の顔をなでたり、手の甲を調べて見たりした。そして確かに湯にはいった事を知った。)それならそれでいい。それから双鶴館の女将のあとをつけたのだったが、……あのへんから夢になったのかしらん。あすこにいる蛾をもやもやした黒い影のように思ったりしていた事から考えてみると、いまいましさから自分は思わず背たけの低い女の幻影を見ていたのかもしれない。それにしてもいるはずの倉地がいないという法はないが……葉子はどうしても自分のして来た事にはっきり[#「はっきり」に傍点]連絡をつけて考える事ができなかった。
葉子は……自分の頭ではどう考えてみようもなくなって、ベルを押して番頭に来てもらった。
「あのう、あとでこの蛾を追い出しておいてくださいな……それからね、さっき……といったところがどれほど前だかわたしにもはっきり[#「はっきり」に傍点]しませんがね、ここに三十格好の丸髷を結った女の人が見えましたか」
「こちら様にはどなたもお見えにはなりませんが……」
番頭は怪訝な顔をしてこう答えた。
「こちら様だろうがなんだろうが、そんな事を聞くんじゃないの。この下宿屋からそんな女の人が出て行きましたか」
「さよう……へ、一時間ばかり前ならお一人お帰りになりました」
「双鶴館のお内儀さんでしょう」
図星をさされたろうといわんばかりに葉子はわざと鷹揚な態度を見せてこう聞いてみた。
「いゝえそうじゃございません」
番頭は案外にもそうきっぱり[#「きっぱり」に傍点]といい切ってしまった。
「それじゃだれ」
「とにかく他のお部屋においでなさったお客様で、手前どもの商売上お名前までは申し上げ兼ねますが」
葉子もこの上の問答の無益なのを知ってそのまま番頭を返してしまった。
葉子はもう何者も信用する事ができなかった。ほんとうに双鶴館の女将が来たのではないらしくもあり、番頭までが倉地とぐる[#「ぐる」に傍点]になっていてしらじらしい虚言をついたようにもあった。
何事も当てにはならない。何事もうそ[#「うそ」に傍点]から出た誠だ。……葉子はほんとうに生きている事がいやになった。
……そこまで来て葉子は始めて自分が家を出て来たほんとうの目的がなんであるかに気づいた。すべてにつまずいて、すべてに見限られて、すべてを見限ろうとする、苦しみぬいた一つの魂が、虚無の世界の幻の中から消えて行くのだ。そこには何の未練も執着もない。うれしかった事も、悲しかった事も、悲しんだ事も、苦しんだ事も、畢竟は水の上に浮いた泡がまたはじけて水に帰るようなものだ。倉地が、死骸になった葉子を見て嘆こうが嘆くまいが、その倉地さえ幻の影ではないか。双鶴館の女将だと思った人が、他人であったように、他人だと思ったその人が、案外双鶴館の女将であるかもしれないように、生きるという事がそれ自身幻影でなくってなんであろう。葉子は覚めきったような、眠りほうけているような意識の中でこう思った。しんしんと底も知らず澄み透った心がただ一つぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりと死のほうに働いて行った。葉子の目には一しずくの涙も宿ってはいなかった。妙にさえて落ち付き払ったひとみを静かに働かして、部屋の中を静かに見回していたが、やがて夢遊病者のように立ち上がって、戸棚の中から倉地の寝具を引き出して来て、それを部屋のまん中に敷いた。そうしてしばらくの間その上に静かにすわって目をつぶってみた。それからまた立ち上がって全く無感情な顔つきをしながら、もう一度戸棚に行って、倉地が始終身近に備えているピストルをあちこち[#「あちこち」に傍点]と尋ね求めた。しまいにそれが本箱の引き出しの中の幾通かの手紙と、書きそこねの書類と、四五枚の写真とがごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]にしまい込んであるその中から現われ出た。葉子は妙に無関心な心持ちでそれを手に取った。そして恐ろしいものを取り扱うようにそれをからだから離して右手にぶら下げて寝床に帰った。そのくせ葉子は露ほどもその凶器におそれをいだいているわけではなかった。寝床のまん中にすわってからピストルを膝の上に置いて手をかけたまましばらくながめていたが、やがてそれを取り上げると胸の所に持って来て鶏頭を引き上げた。
きりっ[#「きりっ」に傍点]
と歯切れのいい音を立てて弾筒が少し回転した。同時に葉子の全身は電気を感じたようにびりっ[#「びりっ」に傍点]とおののいた。しかし葉子の心は水が澄んだように揺がなかった。葉子はそうしたまま短銃をまた膝の上に置いてじっ[#「じっ」に傍点]とながめていた。
ふと葉子はただ一つし残した事のあるのに気が付いた。それがなんであるかを自分でもはっきり[#「はっきり」に傍点]とは知らずに、いわば何物かの余儀ない命令に服従するように、また寝床から立ち上がって戸棚の中の本箱の前に行って引き出しをあけた。そしてそこにあった写真を丁寧に一枚ずつ取り上げて静かにながめるのだった。葉子は心ひそかに何をしているんだろうと自分の動作を怪しんでいた。
葉子はやがて一人の女の写真を見つめている自分を見いだした。長く長く見つめていた。……そのうちに、白痴がどうかしてだんだん真人間にかえる時はそうもあろうかと思われるように、葉子の心は静かに静かに自分で働くようになって行った。女の写真を見てどうするのだろうと思った。早く死ななければいけないのだがと思った。いったいその女はだれだろうと思った。……それは倉地の妻の写真だった。そうだ倉地の妻の若い時の写真だ。なるほど美しい女だ。倉地は今でもこの女に未練を持っているだろうか。この妻には三人のかわいい娘があるのだ。「今でも時々思い出す」そう倉地のいった事がある。こんな写真がいったいこの部屋なんぞにあってはならないのだが。それはほんとうにならないのだ。倉地はまだこんなものを大事にしている。この女はいつまでも倉地に帰って来ようと待ち構えているのだ。そしてまだこの女は生きているのだ。それが幻なものか。生きているのだ、生きているのだ。……死なれるか、それで死なれるか。何が幻だ、何が虚無だ。このとおりこの女は生きているではないか……危うく……危うく自分は倉地を安堵させる所だった。そしてこの女を……このまだ生のあるこの女を喜ばせるところだった。
葉子は一刹那の違いで死の界から救い出された人のように、驚喜に近い表情を顔いちめんにみなぎらして裂けるほど目を見張って、写真を持ったまま飛び上がらんばかりに突っ立ったが、急に襲いかかるやるせない嫉妬の情と憤怒とにおそろしい形相になって、歯がみをしながら、写真の一端をくわえて、「いゝ……」といいながら、総身の力をこめてまっ二つに裂くと、いきなり寝床の上にどう[#「どう」に傍点]と倒れて、物すごい叫び声を立てながら、涙も流さずに叫びに叫んだ。
店のものがあわてて部屋にはいって来た時には、葉子はしおらしい様子をして、短銃を床の下に隠してしまって、しくしくとほんとうに泣いていた。
番頭はやむを得ず、てれ隠しに、
「夢でも御覧になりましたか、たいそうなお声だったものですから、つい御案内もいたさず飛び込んでしまいまして」
といった。葉子は、
「えゝ夢を見ました。あの黒い蛾が悪いんです。早く追い出してください」
そんなわけのわからない事をいって、ようやく涙を押しぬぐった。
こういう発作を繰り返すたびごとに、葉子の顔は暗くばかりなって行った。葉子には、今まで自分が考えていた生活のほかに、もう一つ不可思議な世界があるように思われて来た。そうしてややともすればその両方の世界に出たりはいったりする自分を見いだすのだった。二人の妹たちはただはらはらして姉の狂暴な振る舞いを見守るほかはなかった。倉地は愛子に刃物などに注意しろといったりした。
岡の来た時だけは、葉子のきげんは沈むような事はあっても狂暴になる事は絶えてなかったので、岡は妹たちの言葉にさして重きを置いていないように見えた。
四〇
六月のある夕方だった。もうたそがれ時で、電灯がともって、その周囲におびただしく杉森の中から小さな羽虫が集まってうるさく[#「うるさく」に傍点]飛び回り、やぶ蚊がすさまじく鳴きたてて軒先に蚊柱を立てているころだった。しばらく目で来た倉地が、張り出しの葉子の部屋で酒を飲んでいた。葉子はやせ細った肩を単衣物の下にとがらして、神経的に襟をぐっ[#「ぐっ」に傍点]とかき合わせて、きちん[#「きちん」に傍点]と膳のそばにすわって、華車な団扇で酒の香に寄りたかって来る蚊を追い払っていた。二人の間にはもう元のように滾々と泉のごとくわき出る話題はなかった。たまに話が少しはずんだと思うと、どちらかに差しさわるような言葉が飛び出して、ぷつん[#「ぷつん」に傍点]と会話を杜絶やしてしまった。
「貞ちゃんやっぱり駄々をこねるか」
一口酒を飲んで、ため息をつくように庭のほうに向いて気を吐いた倉地は、自分で気分を引き立てながら思い出したように葉子のほうを向いてこう尋ねた。
「えゝ、しようがなくなっちまいました。この四五日ったらことさらひどいんですから」
「そうした時期もあるんだろう。まあたんといびらないで置くがいいよ」
「わたし時々ほんとうに死にたくなっちまいます」
葉子は途轍もなく貞世のうわさとは縁もゆかりもないこんなひょん[#「ひょん」に傍点]な事をいった。
「そうだおれもそう思う事があるて……。落ち目になったら最後、人間は浮き上がるがめんどうになる。船でもが浸水し始めたら埒はあかんからな。……したが、おれはまだもう一反り反ってみてくれる。死んだ気になって、やれん事は一つもないからな」
「ほんとうですわ」
そういった葉子の目はいらいらと輝いて、にらむように倉地を見た。
「正井のやつが来るそうじゃないか」
倉地はまた話題を転ずるようにこういった。葉子がそうだとさえいえば、倉地は割合に平気で受けて「困ったやつに見込まれたものだが、見込まれた以上はしかたがないから、空腹がらないだけの仕向けをしてやるがいい」というに違いない事は、葉子によくわかってはいたけれども、今まで秘密にしていた事をなんとかいわれやしないかとの気づかいのためか、それとも倉地が秘密を持つのならこっちも秘密を持って見せるぞという腹になりたいためか、自分にもはっきり[#「はっきり」に傍点]とはわからない衝動に駆られて、何という事なしに、
「いゝえ」
と答えてしまった。
「来ない?……そりゃお前いいかげんじゃろう」
と倉地はたしなめるような調子になった。
「いゝえ」
葉子は頑固にいい張ってそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向いてしまった。
「おいその団扇を貸してくれ、あおがずにいては蚊でたまらん……来ない事があるものか」
「だれからそんなばかな事お聞きになって?」
「だれからでもいいわさ」
葉子は倉地がまた歯に衣着せた物の言いかたをすると思うとかっ[#「かっ」に傍点]と腹が立って返辞もしなかった。
「葉ちゃん。おれは女のきげんを取るために生まれて来はせんぞ。いいかげんをいって甘く見くびるとよくはないぜ」
葉子はそれでも返事をしなかった。倉地は葉子の拗ねかたに不快を催したらしかった。
「おい葉子! 正井は来るのか来んのか」
正井の来る来ないは大事ではないが、葉子の虚言を訂正させずには置かないというように、倉地は詰め寄せてきびしく問い迫った。葉子は庭のほうにやっていた目を返して不思議そうに倉地を見た。
「いゝえといったらいゝえとよりいいようはありませんわ。あなたの『いゝえ』とわたしの『いゝえ』は『いゝえ』が違いでもしますかしら」
「酒も何も飲めるか……おれが暇を無理に作ってゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]くつろごうと思うて来れば、いらん事に角を立てて……何の薬になるかいそれが」
葉子はもう胸いっぱい悲しくなっていた。ほんとうは倉地の前に突っ伏して、自分は病気で始終からだが自由にならないのが倉地に気の毒だ。けれどもどうか捨てないで愛し続けてくれ。からだがだめになっても心の続く限りは自分は倉地の情人でいたい。そうよりできない。そこをあわれんでせめては心の誠をささげさしてくれ。もし倉地が明々地にいってくれさえすれば、元の細君を呼び迎えてくれても構わない。そしてせめては自分をあわれんでなり愛してくれ。そう嘆願がしたかったのだ。倉地はそれに感激してくれるかもしれない。おれはお前も愛するが去った妻も捨てるには忍びない。よくいってくれた。それならお前の言葉に甘えて哀れな妻を呼び迎えよう。妻もさぞお前の黄金のような心には感ずるだろう。おれは妻とは家庭を持とう。しかしお前とは恋を持とう。そういって涙ぐんでくれるかもしれない。もしそんな場面が起こり得たら葉子はどれほどうれしいだろう。葉子はその瞬間に、生まれ代わって、正しい生活が開けてくるのにと思った。それを考えただけで胸の中からは美しい涙がにじみ出すのだった。けれども、そんなばかをいうものではない、おれの愛しているのはお前一人だ。元の妻などにおれが未練を持っていると思うのが間違いだ。病気があるのならさっそく病院にはいるがいい、費用はいくらでも出してやるから。こう倉地がいわないとも限らない。それはありそうな事だ。その時葉子は自分の心を立ち割って誠を見せた言葉が、情けも容赦も思いやりもなく、踏みにじられけがされてしまうのを見なければならないのだ。それは地獄の苛責よりも葉子には堪えがたい事だ。たとい倉地が前の態度に出てくれる可能性が九十九あって、あとの態度を採りそうな可能性が一つしかないとしても、葉子には思いきって嘆願をしてみる勇気が出ないのだ。倉地も倉地で同じような事を思って苦しんでいるらしい。なんとかして元のようなかけ隔てのない葉子を見いだして、だんだんと陥って行く生活の窮境の中にも、せめてはしばらくなりとも人間らしい心になりたいと思って、葉子に近づいて来ているのだ。それをどこまでも知り抜きながら、そして身につまされて深い同情を感じながら、どうしても面と向かうと殺したいほど憎まないではいられない葉子の心は自分ながら悲しかった。
葉子は倉地の最後の一言でその急所に触れられたのだった。葉子は倉地の目の前で見る見るしおれてしまった。泣くまいと気張りながら幾度も雄々しく涙を飲んだ。倉地は明らかに葉子の心を感じたらしく見えた。
「葉子! お前はなんでこのごろそう他所他所しくしていなければならんのだ。え?」
といいながら葉子の手を取ろうとした。その瞬間に葉子の心は火のように怒っていた。
「他所他所しいのはあなたじゃありませんか」
そう知らず知らずいってしまって、葉子は没義道に手を引っ込めた。倉地をにらみつける目からは熱い大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。そして、
「あゝ……あ、地獄だ地獄だ」
と心の中で絶望的に切なく叫んだ。
二人の間にはまたもやいまわしい沈黙が繰り返された。
その時玄関に案内の声が聞こえた。葉子はその声を聞いて古藤が来たのを知った。そして大急ぎで涙を押しぬぐった。二階から降りて来て取り次ぎに立った愛子がやがて六畳の間にはいって来て、古藤が来たと告げた。
「二階にお通ししてお茶でも上げてお置き、なんだって今ごろ……御飯時も構わないで……」
とめんどうくさそうにいったが、あれ以来来た事のない古藤にあうのは、今のこの苦しい圧迫からのがれるだけでも都合がよかった。このまま続いたらまた例の発作で倉地に愛想を尽かさせるような事をしでかすにきまっていたから。
「わたしちょっと会ってみますからね、あなた構わないでいらっしゃい。木村の事も探っておきたいから」
そういって葉子はその座をはずした。倉地は返事一つせずに杯を取り上げていた。
二階に行って見ると、古藤は例の軍服に上等兵の肩章を付けて、あぐらをかきながら貞世と何か話をしていた。葉子は今まで泣き苦しんでいたとは思えぬほど美しいきげんになっていた。簡単な挨拶を済ますと古藤は例のいうべき事から先にいい始めた。
「ごめんどうですがね、あす定期検閲な所が今度は室内の整頓なんです。ところが僕は整頓風呂敷を洗濯しておくのをすっかり[#「すっかり」に傍点]忘れてしまってね。今特別に外出を伍長にそっ[#「そっ」に傍点]と頼んで許してもらって、これだけ布を買って来たんですが、縁を縫ってくれる人がないんで弱って駆けつけたんです。大急ぎでやっていただけないでしょうか」
「おやすい御用ですともね。愛さん!」
大きく呼ぶと階下にいた愛子が平生に似合わず、あたふた[#「あたふた」に傍点]と階子段をのぼって来た。葉子はふとまた倉地を念頭に浮かべていやな気持ちになった。しかしそのころ貞世から愛子に愛が移ったかと思われるほど葉子は愛子を大事に取り扱っていた。それは前にも書いたとおり、しいても他人に対する愛情を殺す事によって、倉地との愛がより緊く結ばれるという迷信のような心の働きから起こった事だった。愛しても愛し足りないような貞世につらく当たって、どうしても気の合わない愛子を虫を殺して大事にしてみたら、あるいは倉地の心が変わって来るかもしれないとそう葉子は何がなしに思うのだった。で、倉地と愛子との間にどんな奇怪な徴候を見つけ出そうとも、念にかけても葉子は愛子を責めまいと覚悟をしていた。
「愛さん古藤さんがね、大急ぎでこの縁を縫ってもらいたいとおっしゃるんだから、あなたして上げてちょうだいな。古藤さん、今下には倉地さんが来ていらっしゃるんですが、あなたはおきらいねおあいなさるのは……そう、じゃこちらでお話でもしますからどうぞ」
そういって古藤を妹たちの部屋の隣に案内した。古藤は時計を見い見いせわしそうにしていた。
「木村からたよりがありますか」
木村は葉子の良人ではなく自分の親友だといったようなふうで、古藤はもう木村君とはいわなかった。葉子はこの前古藤が来た時からそれと気づいていたが、きょうはことさらその心持ちが目立って聞こえた。葉子はたびたび来ると答えた。
「困っているようですね」
「えゝ、少しはね」
「少しどころじゃないようですよ僕の所に来る手紙によると。なんでも来年に開かれるはずだった博覧会が来々年に延びたので、木村はまたこの前以上の窮境に陥ったらしいのです。若いうちだからいいようなもののあんな不運な男もすくない。金も送っては来ないでしょう」
なんというぶしつけ[#「ぶしつけ」に傍点]な事をいう男だろうと葉子は思ったが、あまりいう事にわだかまり[#「わだかまり」に傍点]がないので皮肉でもいってやる気にはなれなかった。
「いゝえ相変わらず送ってくれますことよ」
「木村っていうのはそうした男なんだ」
古藤は半ばは自分にいうように感激した調子でこういったが、平気で仕送りを受けているらしく物をいう葉子にはひどく反感を催したらしく、
「木村からの送金を受け取った時、その金があなたの手を焼きただらかすようには思いませんか」
と激しく葉子をまとも[#「まとも」に傍点]に見つめながらいった。そして油でよごれたような赤い手で、せわしなく胸の真鍮ぼたんをはめたりはずしたりした。
「なぜですの」
「木村は困りきってるんですよ。……ほんとうにあなた考えてごらんなさい……」
勢い込んでなおいい募ろうとした古藤は、襖を明け開いたままの隣の部屋に愛子たちがいるのに気づいたらしく、
「あなたはこの前お目にかかった時からすると、またひどくやせましたねえ」
と言葉をそらした。
「愛さんもうできて?」
と葉子も調子をかえて愛子に遠くからこう尋ね「いゝえまだ少し」と愛子がいうのをしお[#「しお」に傍点]に葉子はそちらに立った。貞世はひどくつまらなそうな顔をして、机に両肘を持たせたまま、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と庭のほうを見やって、三人の挙動などには目もくれないふうだった。垣根添いの木の間からは、種々な色の薔薇の花が夕闇の中にもちらほら[#「ちらほら」に傍点]と見えていた。葉子はこのごろの貞世はほんとうに変だと思いながら、愛子の縫いかけの布を取り上げて見た。それはまだ半分も縫い上げられてはいなかった。葉子の疳癪はぎり[#「ぎり」に傍点]ぎり募って来たけれども、しいて心を押ししずめながら、
「これっぽっち[#「これっぽっち」に傍点]……愛子さんどうしたというんだろう。どれねえさんにお貸し、そしてあなたは……貞ちゃんも古藤さんの所に行ってお相手をしておいで……」
「僕は倉地さんにあって来ます」
突然後ろ向きの古藤は畳に片手をついて肩越しに向き返りながらこういった。そして葉子が返事をする暇もなく立ち上がって階子段を降りて行こうとした。葉子はすばやく[#「すばやく」に傍点]愛子に目くばせして、下に案内して二人の用を足してやるようにといった。愛子は急いで立って行った。
葉子は縫い物をしながら多少の不安を感じた。あのなんの技巧もない古藤と、疳癖が募り出して自分ながら始末をしあぐねているような倉地とがまとも[#「まとも」に傍点]にぶつかり合ったら、どんな事をしでかすかもしれない。木村を手の中に丸めておく事もきょう二人の会見の結果でだめになるかもわからないと思った。しかし木村といえば、古藤のいう事などを聞いていると葉子もさすがにその心根を思いやらずにはいられなかった。葉子がこのごろ倉地に対して持っているような気持ちからは、木村の立場や心持ちがあからさま[#「あからさま」に傍点]過ぎるくらい想像ができた。木村は恋するものの本能からとうに倉地と葉子との関係は了解しているに違いないのだ。了解して一人ぽっちで苦しめるだけ苦しんでいるに違いないのだ。それにも係わらずその善良な心からどこまでも葉子の言葉に信用を置いて、いつかは自分の誠意が葉子の心に徹するのを、ありうべき事のように思って、苦しい一日一日を暮らしているに違いない。そしてまた落ち込もうとする窮境の中から血の出るような金を欠かさずに送ってよこす。それを思うと、古藤がいうようにその金が葉子の手を焼かないのは不思議といっていいほどだった。もっとも葉子であってみれば、木村に醜いエゴイズムを見いださないほどのんきではなかった。木村がどこまでも葉子の言葉を信用してかかっている点にも、血の出るような金を送ってよこす点にも、葉子が倉地に対して持っているよりはもっと[#「もっと」に傍点]冷静な功利的な打算が行なわれていると決める事ができるほど木村の心の裏を察していないではなかった。葉子の倉地に対する心持ちから考えると木村の葉子に対する心持ちにはまだすきがあると葉子は思った。葉子がもし木村であったら、どうしておめおめ米国三界にい続けて、遠くから葉子の心を翻す手段を講ずるようなのんきなまねがして済ましていられよう。葉子が木村の立場にいたら、事業を捨てても、乞食になっても、すぐ米国から帰って来ないじゃいられないはずだ。米国から葉子と一緒に日本に引き返した岡の心のほうがどれだけ素直で誠しやかだかしれやしない。そこには生活という問題もある。事業という事もある。岡は生活に対して懸念などする必要はないし、事業というようなものはてんで[#「てんで」に傍点]持ってはいない。木村とはなんといっても立場が違ってはいる。といったところで、木村の持つ生活問題なり事業なりが、葉子と一緒になってから後の事を顧慮してされている事だとしてみても、そんな気持ちでいる木村には、なんといっても余裕があり過ぎると思わないではいられない物足りなさがあった。よし真裸になるほど、職業から放れて無一文になっていてもいい、葉子の乗って帰って来た船に木村も乗って一緒に帰って来たら、葉子はあるいは木村を船の中で人知れず殺して海の中に投げ込んでいようとも、木村の記憶は哀しくなつかしいものとして死ぬまで葉子の胸に刻みつけられていたろうものを。……それはそうに相違ない。それにしても木村は気の毒な男だ。自分の愛しようとする人が他人に心をひかれている……それを発見する事だけで悲惨は充分だ。葉子はほんとうは、倉地は葉子以外の人に心をひかれているとは思ってはいないのだ。ただ少し葉子から離れて来たらしいと疑い始めただけだ。それだけでも葉子はすでに熱鉄をのまされたような焦躁と嫉妬とを感ずるのだから、木村の立場はさぞ苦しいだろう。……そう推察すると葉子は自分のあまりといえばあまりに残虐な心に胸の中がちく[#「ちく」に傍点]ちくと刺されるようになった。「金が手を焼くように思いはしませんか」との古藤のいった言葉が妙に耳に残った。
そう思い思い布の一方を手早く縫い終わって、縫い目を器用にしごきながら目をあげると、そこには貞世がさっきのまま机に両肘をついて、たかって来る蚊も追わずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と庭の向こうを見続けていた。切り下げにした厚い黒漆の髪の毛の下にのぞき出した耳たぶは霜焼けでもしたように赤くなって、それを見ただけでも、貞世は何か興奮して向こうを向きながら泣いているに違いなく思われた。覚えがないではない。葉子も貞世ほどの齢の時には何か知らず急に世の中が悲しく見える事があった。何事もただ明るく快く頼もしくのみ見えるその底からふっ[#「ふっ」に傍点]と悲しいものが胸をえぐってわき出る事があった。取り分けて快活ではあったが、葉子は幼い時から妙な事に臆病がる子だった。ある時家族じゅうで北国のさびしい田舎のほうに避暑に出かけた事があったが、ある晩がらん[#「がらん」に傍点]と客の空いた大きな旅籠屋に宿った時、枕を並べて寝た人たちの中で葉子は床の間に近いいちばん端に寝かされたが、どうしたかげんでか気味が悪くてたまらなくなり出した。暗い床の間の軸物の中からか、置き物の陰からか、得体のわからないものが現われ出て来そうなような気がして、そう思い出すとぞく[#「ぞく」に傍点]ぞくと総身に震えが来て、とても頭を枕につけてはいられなかった。で、眠りかかった父や母にせがんで、その二人の中に割りこましてもらおうと思ったけれども、父や母もそんなに大きくなって何をばかをいうのだといって少しも葉子のいう事を取り上げてはくれなかった。葉子はしばらく両親と争っているうちにいつのまにか寝入ったと見えて、翌日目をさまして見ると、やはり自分が気味の悪いと思った所に寝ていた自分を見いだした。その夕方、同じ旅籠屋の二階の手摺から少し荒れたような庭を何の気なしにじっ[#「じっ」に傍点]と見入っていると、急に昨夜の事を思い出して葉子は悲しくなり出した。父にも母にも世の中のすべてのものにも自分はどうかして見放されてしまったのだ。親切らしくいってくれる人はみんな自分に虚事をしているのだ。いいかげんの所で自分はどん[#「どん」に傍点]とみんなから突き放されるような悲しい事になるに違いない。どうしてそれを今まで気づかずにいたのだろう。そうなった暁に一人でこの庭をこうして見守ったらどんなに悲しいだろう。小さいながらにそんな事を一人で思いふけっているともうとめどなく悲しくなって来て父がなんといっても母がなんといっても、自分の心を自分の涙にひたしきって泣いた事を覚えている。
葉子は貞世の後ろ婆を見るにつけてふと[#「ふと」に傍点]その時の自分を思い出した。妙な心の働きから、その時の葉子が貞世になってそこに幻のように現われたのではないかとさえ疑った。これは葉子には始終ある癖だった。始めて起こった事が、どうしてもいつかの過去にそのまま起こった事のように思われてならない事がよくあった。貞世の姿は貞世ではなかった。苔香園は苔香園ではなかった。美人屋敷は美人屋敷ではなかった。周囲だけが妙にもやもやして心のほうだけが澄みきった水のようにはっきり[#「はっきり」に傍点]したその頭の中には、貞世のとも、幼い時の自分のとも区別のつかないはかなさ悲しさがこみ上げるようにわいていた。葉子はしばらくは針の運びも忘れてしまって、電灯の光を背に負って夕闇に埋もれて行く木立ちにながめ入った貞世の姿を、恐ろしさを感ずるまでになりながら見続けた。
「貞ちゃん」
とうとう黙っているのが無気味になって葉子は沈黙を破りたいばかりにこう呼んでみた。貞世は返事一つしなかった。……葉子はぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。貞世はああしたままで通り魔にでも魅いられて死んでいるのではないか。それとももう一度名前を呼んだら、線香の上にたまった灰が少しの風でくずれ落ちるように、声の響きでほろほろとかき消すようにあのいたいけな姿はなくなってしまうのではないだろうか。そしてそのあとには夕闇に包まれた苔香園の木立ちと、二階の縁側と、小さな机だけが残るのではないだろうか。……ふだんの葉子ならばなんというばかだろうと思うような事をおどおどしながらまじめに考えていた。
その時階下で倉地のひどく激昂した声が聞こえた。葉子ははっ[#「はっ」に傍点]として長い悪夢からでもさめたようにわれに帰った。そこにいるのは姿は元のままだが、やはりまごうかたなき貞世だった。葉子はあわてていつのまにか膝からずり落としてあった白布を取り上げて、階下のほうにきっ[#「きっ」に傍点]と聞き耳を立てた。事態はだいぶ大事らしかった。
「貞ちゃん。……貞ちゃん……」
葉子はそういいながら立ち上がって行って、貞世を後ろから羽がいに抱きしめてやろうとした。しかしその瞬間に自分の胸の中に自然に出来上がらしていた結願を思い出して、心を鬼にしながら、
「貞ちゃんといったらお返事をなさいな。なんの事です拗ねたまね[#「まね」に傍点]をして。台所に行ってあとのすすぎ返しでもしておいで、勉強もしないでぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していると毒ですよ」
「だっておねえ様わたし苦しいんですもの」
「うそをお言い。このごろはあなたほんとうにいけなくなった事。わがままばかししているとねえさんはききませんよ」
貞世はさびしそうな恨めしそうな顔をまっ赤にして葉子のほうを振り向いた。それを見ただけで葉子はすっかり[#「すっかり」に傍点]打ちくだかれていた。水落のあたりをすっ[#「すっ」に傍点]と氷の棒でも通るような心持ちがすると、喉の所はもう泣きかけていた。なんという心に自分はなってしまったのだろう……葉子はその上その場にはいたたまれないで、急いで階下のほうへ降りて行った。
倉地の声にまじって古藤の声も激して聞こえた。
四一
階子段の上がり口には愛子が姉を呼びに行こうか行くまいかと思案するらしく立っていた。そこを通り抜けて自分の部屋に来て見ると、胸毛をあらわ[#「あらわ」に傍点]に襟をひろげて、セルの両袖を高々とまくり上げた倉地が、あぐらをかいたまま、電灯の灯の下に熟柿のように赤くなってこっち[#「こっち」に傍点]を向いて威丈高になっていた。古藤は軍服の膝をきちん[#「きちん」に傍点]と折ってまっすぐに固くすわって、葉子には後ろを向けていた。それを見るともう葉子の神経はびり[#「びり」に傍点]びりと逆立って自分ながらどうしようもないほど荒れすさんで来ていた。「何もかもいやだ、どうでも勝手になるがいい。」するとすぐ頭が重くかぶさって来て、腹部の鈍痛が鉛の大きな球のように腰をしいたげた。それは二重に葉子をいらいらさせた。
「あなた方はいったい何をそんなにいい合っていらっしゃるの」
もうそこには葉子はタクトを用いる余裕さえ持っていなかった。始終腹の底に冷静さを失わないで、あらん限りの表情を勝手に操縦してどんな難関でも、葉子に特有なしかたで切り開いて行くそんな余裕はその場にはとても出て来なかった。
「何をといってこの古藤という青年はあまり礼儀をわきまえんからよ。木村さんの親友親友と二言目には鼻にかけたような事をいわるるが、わしもわしで木村さんから頼まれとるんだから、一人よがりの事はいうてもらわんでもがいいのだ。それをつべこべ[#「つべこべ」に傍点]ろくろくあなたの世話も見ずにおきながら、いい立てなさるので、筋が違っていようといって聞かせて上げたところだ。古藤さん、あなた失礼だがいったいいくつです」
葉子にいって聞かせるでもなくそういって、倉地はまた古藤のほうに向き直った。古藤はこの侮辱に対して口答えの言葉も出ないように激昂して黙っていた。
「答えるが恥ずかしければしいても聞くまい。が、いずれ二十は過ぎていられるのだろう。二十過ぎた男があなたのように礼儀をわきまえずに他人の生活の内輪にまで立ち入って物をいうはばかの証拠ですよ。男が物をいうなら考えてからいうがいい」
そういって倉地は言葉の激昂している割合に、また見かけのいかにも威丈高な割合に、充分の余裕を見せて、空うそぶくように打ち水をした庭のほうを見ながら団扇をつかった。
古藤はしばらく黙っていてから後ろを振り仰いで葉子を見やりつつ、
「葉子さん……まあ、す、すわってください」
と少しどもるようにしいて穏やかにいった。葉子はその時始めて、われにもなくそれまでそこに突っ立ったままぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していたのを知って、自分にかつてないようなとんきょ[#「とんきょ」に傍点]な事をしていたのに気が付いた。そして自分ながらこのごろはほんとうに変だと思いながら二人の間に、できるだけ気を落ち着けて座についた。古藤の顔を見るとやや青ざめて、こめかみの所に太い筋を立てていた。葉子はその時分になって始めて少しずつ自分を回復していた。
「古藤さん、倉地さんは少しお酒を召し上がった所だからこんな時むずかしいお話をなさるのはよくありませんでしたわ。なんですか知りませんけれども今夜はもうそのお話はきれいにやめましょう。いかが?……またゆっくりね……あ、愛さん、あなたお二階に行って縫いかけを大急ぎで仕上げて置いてちょうだい、ねえさんがあらかた[#「あらかた」に傍点]してしまってあるけれども……」
そういって先刻から逐一二人の争論をきいていたらしい愛子を階上に追い上げた。しばらくして古藤はようやく落ち着いて自分の言葉を見いだしたように、
「倉地さんに物をいったのは僕が間違っていたかもしれません。じゃ倉地さんを前に置いてあなたにいわしてください。お世辞でもなんでもなく、僕は始めからあなたには倉地さんなんかにはない誠実な所が、どこかに隠れているように思っていたんです。僕のいう事をその誠実な所で判断してください」
「まあきょうはもういいじゃありませんか、ね。わたし、あなたのおっしゃろうとする事はよっくわかっていますわ。わたし決して仇やおろそかには思っていませんほんとうに。わたしだって考えてはいますわ。そのうちとっくり[#「とっくり」に傍点]わたしのほうから伺っていただきたいと思っていたくらいですからそれまで……」
「きょう聞いてください。軍隊生活をしていると三人でこうしてお話しする機会はそうありそうにはありません。もう帰営の時間が逼っていますから、長くお話はできないけれども……それだから我慢して聞いてください」
それならなんでも勝手にいってみるがいい、仕儀によっては黙ってはいないからという腹を、かすかに皮肉に開いた口びるに見せて葉子は古藤に耳をかす態度を見せた。倉地は知らんふりをして庭のほうを見続けていた。古藤は倉地を全く度外視したように葉子のほうに向き直って、葉子の目に自分の目を定めた。卒直な明らさまなその目にはその場合にすら子供じみた羞恥の色をたたえていた。例のごとく古藤は胸の金ぼたんをはめたりはずしたりしながら、
「僕は今まで自分の因循からあなたに対しても木村に対してもほんとうに友情らしい友情を現わさなかったのを恥ずかしく思います。僕はとうにもっとどうかしなければいけなかったんですけれども……木村、木村って木村の事ばかりいうようですけれども、木村の事をいうのはあなたの事をいうのも同じだと僕は思うんですが、あなたは今でも木村と結婚する気が確かにあるんですかないんですか、倉地さんの前でそれをはっきり[#「はっきり」に傍点]僕に聞かせてください。何事もそこから出発して行かなければこの話は畢寛まわりばかり回る事になりますから。僕はあなたが木村と結婚する気はないといわれても決してそれをどうというんじゃありません。木村は気の毒です。あの男は表面はあんなに楽天的に見えていて、意志が強そうだけれども、ずいぶん涙っぽいほうだから、その失望は思いやられます。けれどもそれだってしかたがない。第一始めから無理だったから……あなたのお話のようなら……。しかし事情が事情だったとはいえ、あなたはなぜいやならいやと……そんな過去をいったところが始まらないからやめましょう。……葉子さん、あなたはほんとうに自分を考えてみて、どこか間違っていると思った事はありませんか。誤解しては困りますよ、僕はあなたが間違っているというつもりじゃないんですから。他人の事を他人が判断する事なんかはできない事だけれども、僕はあなたがどこか不自然に見えていけないんです。よく世の中では人生の事はそう単純に行くもんじゃないといいますが、そうしてあなたの生活なんぞを見ていると、それはごく外面的に見ているからそう見えるのかもしれないけれども、実際ずいぶん複雑らしく思われますが、そうあるべき事なんでしょうか。もっともっと clear に sun-clear に自分の力だけの事、徳だけの事をして暮らせそうなものだと僕自身は思うんですがね……僕にもそうでなくなる時代が来るかもしらないけれども、今の僕としてはそうより考えられないんです。一時は混雑も来、不和も来、けんかも来るかは知れないが、結局はそうするよりしかたがないと思いますよ。あなたの事についても僕は前からそういうふうにはっきり[#「はっきり」に傍点]片づけてしまいたいと思っていたんですけれど、姑息な心からそれまでに行かずともいい結果が生まれて来はしないかと思ったりしてきょうまでどっち[#「どっち」に傍点]つかずで過ごして来たんです。しかしもうこの以上僕には我慢ができなくなりました。
倉地さんとあなたと結婚なさるならなさるで木村もあきらめるよりほかに道はありません。木村に取っては苦しい事だろうが、僕から考えるとどっち[#「どっち」に傍点]つかずで煩悶しているのよりどれだけいいかわかりません。だから倉地さんに意向を伺おうとすれば、倉地さんは頭から僕をばかにして話を真身に受けてはくださらないんです」
「ばかにされるほうが悪いのよ」
倉地は庭のほうから顔を返して、「どこまでばかに出来上がった男だろう」というように苦笑いをしながら古藤を見やって、また知らぬ顔に庭のほうを向いてしまった。
「そりゃそうだ。ばかにされる僕はばかだろう。しかしあなたには……あなたには僕らが持ってる良心というものがないんだ。それだけはばかでも僕にはわかる。あなたがばかといわれるのと、僕が自分をばかと思っているそれとは、意味が違いますよ」
「そのとおり、あなたはばかだと思いながら、どこか心のすみで『何ばかなものか』と思いよるし、わたしはあなたを嘘本なしにばかというだけの相違があるよ」
「あなたは気の毒な人です」
古藤の目には怒りというよりも、ある激しい感情の涙が薄く宿っていた。古藤の心の中のいちばん奥深い所が汚されないままで、ふと目からのぞき出したかと思われるほど、その涙をためた目は一種の力と清さとを持っていた。さすがの倉地もその一言には言葉を返す事なく、不思議そうに古藤の顔を見た。葉子も思わず一種改まった気分になった。そこにはこれまで見慣れていた古藤はいなくなって、その代わりにごまかしのきかない強い力を持った一人の純潔な青年がひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]現われ出たように見えた。何をいうか、またいつものようなありきたりの道徳論を振り回すと思いながら、一種の軽侮をもって黙って聞いていた葉子は、この一言で、いわば古藤を壁ぎわに思い存分押し付けていた倉地が手もなくはじき返されたのを見た。言葉の上や仕打ちの上やでいかに高圧的に出てみても、どうする事もできないような真実さが古藤からあふれ出ていた。それに歯向かうには真実で歯向かうほかはない。倉地はそれを持ち合わしているかどうか葉子には想像がつかなかった。その場合倉地はしばらく古藤の顔を不思議そうに見やった後、平気な顔をして膳から杯を取り上げて、飲み残して冷えた酒をてれかくし[#「てれかくし」に傍点]のようにあおりつけた。葉子はこの時古藤とこんな調子で向かい合っているのが恐ろしくってならなくなった。古藤の目の前でひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると今まで築いて来た生活がくずれてしまいそうな危惧をさえ感じた。で、そのまま黙って倉地のまねをするようだが、平気を装いつつ煙管を取り上げた。その場の仕打ちとしては拙いやりかたであるのを歯がゆくは思いながら。
古藤はしばらく言葉を途切らしていたが、また改まって葉子のほうに話しかけた。
「そう改まらないでください。その代わり思っただけの事をいいかげんにしておかずに話し合わせてみてください。いいですか。あなたと倉地さんとのこれまでの生活は、僕みたいな無経験なものにも、疑問として片づけておく事のできないような事実を感じさせるんです。それに対するあなたの弁解は詭弁とより僕には響かなくなりました。僕の鈍い直覚ですらがそう考えるのです。だからこの際あなたと倉地さんとの関係を明らかにして、あなたから木村に偽りのない告白をしていただきたいんです。木村が一人で生活に苦しみながらたとえようのない疑惑の中にもがいているのを少しでも想像してみたら……今のあなたにはそれを要求するのは無理かもしれないけれども……。第一こんな不安定な状態からあなたは愛子さんや貞世さんを救う義務があると思いますよ僕は。あなただけに限られずに、四方八方の人の心に響くというのは恐ろしい事だとはほんとうにあなたには思えませんかねえ。僕にはそばで見ているだけでも恐ろしいがなあ。人にはいつか総勘定をしなければならない時が来るんだ。いくら借りになっていてもびく[#「びく」に傍点]ともしないという自信もなくって、ずるずるべったりに無反省に借りばかり作っているのは考えてみると不安じゃないでしょうか。葉子さん、あなたには美しい誠実があるんだ。僕はそれを知っています。木村にだけはどうしたわけか別だけれども、あなたはびた[#「びた」に傍点]一文でも借りをしていると思うと寝心地が悪いというような気象を持っているじゃありませんか。それに心の借金ならいくら借金をしていても平気でいられるわけはないと思いますよ。なぜあなたは好んでそれを踏みにじろうとばかりしているんです。そんな情けない事ばかりしていてはだめじゃありませんか。……僕ははっきり[#「はっきり」に傍点]思うとおりをいい現わし得ないけれども……いおうとしている事はわかってくださるでしょう」
古藤は思い入ったふうで、油でよごれた手を幾度もまっ黒に日に焼けた目がしらの所に持って行った。蚊がぶんぶんと攻めかけて来るのも忘れたようだった。葉子は古藤の言葉をもうそれ以上は聞いていられなかった。せっかくそっ[#「そっ」に傍点]として置いた心のよどみがかきまわされて、見まいとしていたきたないものがぬら[#「ぬら」に傍点]ぬらと目の前に浮き出て来るようでもあった。塗りつぶし塗りつぶししていた心の壁にひびが入って、そこから面も向けられない白い光がちら[#「ちら」に傍点]とさすようにも思った。もうしかしそれはすべてあまりおそい。葉子はそんな物を無視してかかるほかに道がないと思った。ごまかしてはいけないと古藤のいった言葉はその瞬間にもすぐ葉子にきびしく答えたけれども、葉子は押し切ってそんな言葉をかなぐり捨てないではいられないと自分からあきらめた。
「よくわかりました。あなたのおっしゃる事はいつでもわたしにはよくわかりますわ。そのうちわたしきっと木村のほうに手紙を出すから安心してくださいまし。このごろはあなたのほうが木村以上に神経質になっていらっしゃるようだけれども、御親切はよくわたしにもわかりますわ。倉地さんだってあなたのお心持ちは通じているに違いないんですけれども、あなたが……なんといったらいいでしょうねえ……あなたがあんまり[#「あんまり」に傍点]真正面からおっしゃるもんだから、つい向っ腹をお立てなすったんでしょう。そうでしょう、ね、倉地さん。……こんないやなお話はこれだけにして妹たちでも呼んでおもしろいお話でもしましょう」
「僕がもっと偉いと、いう事がもっと深く皆さんの心にはいるんですが、僕のいう事はほんとうの事だと思うんだけれどもしかたがありません。それじゃきっと木村に書いてやってください。僕自身は何も物数寄らしくその内容を知りたいとは思ってるわけじゃないんですから……」
古藤がまだ何かいおうとしている時に愛子が整頓風呂敷の出来上がったのを持って、二階から降りて来た。古藤は愛子からそれを受け取ると思い出したようにあわてて時計を見た。葉子はそれには頓着しないように、
「愛さんあれを古藤さんにお目にかけよう。古藤さんちょっと待っていらしってね。今おもしろいものをお目にかけるから。貞ちゃんは二階? いないの? どこに行ったんだろう……貞ちゃん!」
こういって葉子が呼ぶと台所のほうから貞世が打ち沈んだ顔をして泣いたあとのように頬を赤くしてはいって来た。やはり自分のいった言葉に従って一人ぽっちで台所に行ってすすぎ物をしていたのかと思うと、葉子はもう胸が逼って目の中が熱くなるのだった。
「さあ二人でこの間学校で習って来たダンスをして古藤さんと倉地さんとにお目におかけ。ちょっとコティロンのようでまた変わっていますの。さ」
二人は十畳の座敷のほうに立って行った。倉地はこれをきっかけ[#「きっかけ」に傍点]にからっ[#「からっ」に傍点]と快活になって、今までの事は忘れたように、古藤にも微笑を与えながら「それはおもしろかろう」といいつつあとに続いた。愛子の姿を見ると古藤も釣り込まれるふうに見えた。葉子は決してそれを見のがさなかった。
可憐な姿をした姉と妹とは十畳の電燈の下に向かい合って立った。愛子はいつでもそうなようにこんな場合でもいかにも冷静だった。普通ならばその年ごろの少女としては、やり所もない羞恥を感ずるはずであるのに、愛子は少し目を伏せているほかにはしらじらとしていた。きゃっ[#「きゃっ」に傍点]きゃっとうれしがったり恥ずかしがったりする貞世はその夜はどうしたものかただ物憂げにそこにしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]と立った。その夜の二人は妙に無感情な一対の美しい踊り手だった。葉子が「一二三」と相図をすると、二人は両手を腰骨の所に置き添えて静かに回旋しながら舞い始めた。兵営の中ばかりにいて美しいものを全く見なかったらしい古藤は、しばらくは何事も忘れたように恍惚として二人の描く曲線のさまざまに見とれていた。
と突然貞世が両袖を顔にあてたと思うと、急に舞いの輸からそれて、一散に玄関わきの六畳に駆け込んだ。六畳に達しないうちに痛ましくすすり泣く声が聞こえ出した。古藤ははっ[#「はっ」に傍点]とあわててそっちに行こうとしたが、愛子が一人になっても、顔色も動かさずに踊り続けているのを見るとそのまままた立ち止まった。愛子は自分のし遂すべき務めをし遂せる事に心を集める様子で舞いつづけた。
「愛さんちょっとお待ち」
といった葉子の声は低いながら帛を裂くように疳癖らしい調子になっていた。別室に妹の駆け込んだのを見向きもしない愛子の不人情さを憤る怒りと、命ぜられた事を中途半端でやめてしまった貞世を憤る怒りとで葉子は自制ができないほどふるえていた。愛子は静かにそこに両手を腰からおろして立ち止まった。
「貞ちゃんなんですその失礼は。出ておいでなさい」
葉子は激しく隣室に向かってこう叫んだ。隣室から貞世のすすり泣く声が哀れにもまざまざと聞こえて来るだけだった。抱きしめても抱きしめても飽き足らないほどの愛着をそのまま裏返したような憎しみが、葉子の心を火のようにした。葉子は愛子にきびしくいいつけて貞世を六畳から呼び返さした。
やがてその六畳から出て来た愛子は、さすがに不安な面持ちをしていた。苦しくってたまらないというから額に手をあてて見たら火のように熱いというのだ。
葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。生まれ落ちるとから病気一つせずに育って来た貞世は前から発熱していたのを自分で知らずにいたに違いない。気むずかしくなってから一週間ぐらいになるから、何かの熱病にかかったとすれば病気はかなり進んでいたはずだ。ひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると貞世はもう死ぬ……それを葉子は直覚したように思った。目の前で世界が急に暗くなった。電灯の光も見えないほどに頭の中が暗い渦巻きでいっぱいになった。えゝ、いっその事死んでくれ。この血祭りで倉地が自分にはっきり[#「はっきり」に傍点]つながれてしまわないとだれがいえよう。人身御供にしてしまおう。そう葉子は恐怖の絶頂にありながら妙にしん[#「しん」に傍点]とした心持ちで思いめぐらした。そしてそこにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]したまま突っ立っていた。
いつのまに行ったのか、倉地と古藤とが六畳の間から首を出した。
「お葉さん……ありゃ泣いたためばかりの熱じゃない。早く来てごらん」
倉地のあわてるような声が聞こえた。
それを聞くと葉子は始めて事の真相がわかったように、夢から目ざめたように、急に頭がはっきり[#「はっきり」に傍点]して六畳の間に走り込んだ。貞世はひときわ背たけが縮まったように小さく丸まって、座ぶとんに顔を埋めていた。膝をついてそばによって後頸の所にさわってみると、気味の悪いほどの熱が葉子の手に伝わって来た。
その瞬間に葉子の心はでんぐり[#「でんぐり」に傍点]返しを打った。いとしい貞世につらく当たったら、そしてもし貞世がそのために命を落とすような事でもあったら、倉地を大丈夫つかむ事ができると何がなしに思い込んで、しかもそれを実行した迷信とも妄想ともたとえようのない、狂気じみた結願がなんの苦もなくばら[#「ばら」に傍点]ばらにくずれてしまって、その跡にはどうかして貞世を活かしたいという素直な涙ぐましい願いばかりがしみじみと働いていた。自分の愛するものが死ぬか活きるかの境目に来たと思うと、生への執着と死への恐怖とが、今まで想像も及ばなかった強さでひし[#「ひし」に傍点]ひしと感ぜられた。自分を八つ裂きにしても貞世の命は取りとめなくてはならぬ。もし貞世が死ねばそれは自分が殺したんだ。何も知らない、神のような少女を……葉子はあらぬことまで勝手に想像して勝手に苦しむ自分をたしなめるつもりでいても、それ以上に種々な予想が激しく頭の中で働いた。
葉子は貞世の背をさすりながら、嘆願するように哀恕を乞うように古藤や倉地や愛子までを見まわした。それらの人々はいずれも心痛げな顔色を見せていないではなかった。しかし葉子から見るとそれはみんな贋物だった。
やがて古藤は兵営への帰途医者を頼むといって帰って行った。葉子は、一人でも、どんな人でも貞世の身ぢかから離れて行くのをつらく思った。そんな人たちは多少でも貞世の生命を一緒に持って行ってしまうように思われてならなかった。
日はとっぷり[#「とっぷり」に傍点]暮れてしまったけれどもどこの戸締まりもしないこの家に、古藤がいってよこした医者がやって来た。そして貞世は明らかに腸チブスにかかっていると診断されてしまった。
四二
「おねえ様……行っちゃいやあ……」
まるで四つか五つの幼児のように頑是なくわがままになってしまった貞世の声を聞き残しながら葉子は病室を出た。おりからじめじめと降りつづいている五月雨に、廊下には夜明けからの薄暗さがそのまま残っていた。白衣を着た看護婦が暗いだだっ広い廊下を、上草履の大きな音をさせながら案内に立った。十日の余も、夜昼の見さかいもなく、帯も解かずに看護の手を尽くした葉子は、どうかするとふらふらとなって、頭だけが五体から離れてどこともなく漂って行くかとも思うような不思議な錯覚を感じながら、それでも緊張しきった心持ちになっていた。すべての音響、すべての色彩が極度に誇張されてその感覚に触れて来た。貞世が腸チブスと診断されたその晩、葉子は担架に乗せられたそのあわれな小さな妹に付き添ってこの大学病院の隔離室に来てしまったのであるが、その時別れたなりで、倉地は一度も病院を尋ねては来なかったのだ。葉子は愛子一人が留守する山内の家のほうに、少し不安心ではあるけれどもいつか暇をやったつやを呼び寄せておこうと思って、宿もとにいってやると、つやはあれから看護婦を志願して京橋のほうのある病院にいるという事が知れたので、やむを得ず倉地の下宿から年を取った女中を一人頼んでいてもらう事にした。病院に来てからの十日――それはきのうからきょうにかけての事のように短く思われもし、一日が一年に相当するかと疑われるほど長くも感じられた。
その長く感じられるほうの期間には、倉地と愛子との姿が不安と嫉妬との対照となって葉子の心の目に立ち現われた。葉子の家を預かっているものは倉地の下宿から来た女だとすると、それは倉地の犬といってもよかった。そこに一人残された愛子……長い時間の間にどんな事でも起こり得ずにいるものか。そう気を回し出すと葉子は貞世の寝台のかたわらにいて、熱のために口びるがかさ[#「かさ」に傍点]かさになって、半分目をあけたまま昏睡しているその小さな顔を見つめている時でも、思わずかっ[#「かっ」に傍点]となってそこを飛び出そうとするような衝動に駆り立てられるのだった。
しかしまた短く感じられるほうの期間にはただ貞世ばかりがいた。末子として両親からなめるほど溺愛もされ、葉子の唯一の寵児ともされ、健康で、快活で、無邪気で、わがままで、病気という事などはついぞ知らなかったその子は、引き続いて父を失い、母を失い、葉子の病的な呪詛の犠牲となり、突然死病に取りつかれて、夢にもうつつにも思いもかけなかった死と向かい合って、ひたすらに恐れおののいている、その姿は、千丈の谷底に続く崕のきわに両手だけでぶら下がった人が、そこの土がぼろぼろとくずれ落ちるたびごとに、懸命になって助けを求めて泣き叫びながら、少しでも手がかりのある物にしがみつこうとするのを見るのと異ならなかった。しかもそんなはめ[#「はめ」に傍点]に貞世をおとしいれてしまったのは結局自分に責任の大部分があると思うと、葉子はいとしさ悲しさで胸も腸も裂けるようになった。貞世が死ぬにしても、せめては自分だけは貞世を愛し抜いて死なせたかった。貞世をかりにもいじめるとは……まるで天使のような心で自分を信じきり愛し抜いてくれた貞世をかりにも没義道に取り扱ったとは……葉子は自分ながら葉子の心の埒なさ恐ろしさに悔いても悔いても及ばない悔いを感じた。そこまで詮じつめて来ると、葉子には倉地もなかった。ただ命にかけても貞世を病気から救って、貞世が元通りにつやつやしい健康に帰った時、貞世を大事に大事に自分の胸にかき抱いてやって、
「貞ちゃんお前はよくこそなおってくれたね。ねえさんを恨まないでおくれ。ねえさんはもう今までの事をみんな後悔して、これからはあなたをいつまでもいつまでも後生大事にしてあげますからね」
としみじみと泣きながらいってやりたかった。ただそれだけの願いに固まってしまった。そうした心持ちになっていると、時間はただ矢のように飛んで過ぎた。死のほうへ貞世を連れて行く時間はただ矢のように飛んで過ぎると思えた。
この奇怪な心の葛藤に加えて、葉子の健康はこの十日ほどの激しい興奮と活動とでみじめにもそこない傷つけられているらしかった。緊張の極点にいるような今の葉子にはさほどと思われないようにもあったが、貞世が死ぬかなおるかして一息つく時が来たら、どうして肉体をささえる事ができようかと危ぶまないではいられない予感がきびしく葉子を襲う瞬間は幾度もあった。
そうした苦しみの最中に珍しく倉地が尋ねて来たのだった。ちょうど何もかも忘れて貞世の事ばかり気にしていた葉子は、この案内を聞くと、まるで生まれかわったようにその心は倉地でいっぱいになってしまった。
病室の中から叫びに叫ぶ貞世の声が廊下まで響いて聞こえたけれども、葉子はそれには頓着していられないほどむきになって看護婦のあとを追った。歩きながら衣紋を整えて、例の左手をあげて鬢の毛を器用にかき上げながら、応接室の所まで来ると、そこはさすがにいくぶんか明るくなっていて、開き戸のそばのガラス窓の向こうに頑丈な倉地と、思いもかけず岡の華車な姿とがながめられた。
葉子は看護婦のいるのも岡のいるのも忘れたようにいきなり[#「いきなり」に傍点]倉地に近づいて、その胸に自分の顔を埋めてしまった。何よりもかによりも長い長い間あい得ずにいた倉地の胸は、数限りもない連想に飾られて、すべての疑惑や不快を一掃するに足るほどなつかしかった。倉地の胸から触れ慣れた衣ざわりと、強烈な膚のにおいとが、葉子の病的に嵩じた感覚を乱酔さすほどに伝わって来た。
「どうだ、ちっとはいいか」
「おゝこの声だ、この声だ」……葉子はかく思いながら悲しくなった。それは長い間闇の中に閉じこめられていたものが偶然灯の光を見た時に胸を突いてわき出て来るような悲しさだった。葉子は自分の立場をことさらあわれに描いてみたい衝動を感じた。
「だめです。貞世は、かわいそうに死にます」
「ばかな……あなたにも似合わん、そう早う落胆する法があるものかい。どれ一つ見舞ってやろう」
そういいながら倉地は先刻からそこにいた看護婦のほうに振り向いた様子だった。そこに看護婦も岡もいるという事はちゃんと知っていながら、葉子はだれもいないもののような心持ちで振る舞っていたのを思うと、自分ながらこのごろは心が狂っているのではないかとさえ疑った。看護婦は倉地と葉子との対話ぶりで、この美しい婦人の素性をのみ込んだというような顔をしていた。岡はさすがにつつましやかに心痛の色を顔に現わして椅子の背に手をかけたまま立っていた。
「あゝ、岡さんあなたもわざわざお見舞いくださってありがとうございました」
葉子は少し挨拶の機会をおくらしたと思いながらもやさしくこういった。岡は頬を紅らめたまま黙ってうなずいた。
「ちょうど今見えたもんだで御一緒したが、岡さんはここでお帰りを願ったがいいと思うが……(そういって倉地は岡のほうを見た)何しろ病気が病気ですから……」
「わたし、貞世さんにぜひお会いしたいと思いますからどうかお許しください」
岡は思い入ったようにこういって、ちょうどそこに看護婦が持って来た二枚の白い上っ張りのうち少し古く見える一枚を取って倉地よりも先に着始めた。葉子は岡を見るともう一つのたくらみ[#「たくらみ」に傍点]を心の中で案じ出していた。岡をできるだけたびたび山内の家のほうに遊びに行かせてやろう。それは倉地と愛子とが接触する機会をいくらかでも妨げる結果になるに違いない。岡と愛子とが互いに愛し合うようになったら……なったとしてもそれは悪い結果という事はできない。岡は病身ではあるけれども地位もあれば金もある。それは愛子のみならず、自分の将来に取っても役に立つに相違ない。……とそう思うすぐその下から、どうしても虫の好かない愛子が、葉子の意志の下にすっかり[#「すっかり」に傍点]つなぎつけられているような岡をぬすんで行くのを見なければならないのが面憎くも妬ましくもあった。
葉子は二人の男を案内しながら先に立った。暗い長い廊下の両側に立ちならんだ病室の中からは、呼吸困難の中からかすれたような声でディフテリヤらしい幼児の泣き叫ぶのが聞こえたりした。貞世の病室からは一人の看護婦が半ば身を乗り出して、部屋の中に向いて何かいいながら、しきりとこっちをながめていた。貞世の何かいい募る言葉さえが葉子の耳に届いて来た。その瞬間にもう葉子はそこに倉地のいる事なども忘れて、急ぎ足でそのほうに走り近づいた。
「そらもう帰っていらっしゃいましたよ」
といいながら顔を引っ込めた看護婦に続いて、飛び込むように病室にはいって見ると、貞世は乱暴にも寝台の上に起き上がって、膝小僧もあらわになるほど取り乱した姿で、手を顔にあてたままおいおいと泣いていた。葉子は驚いて寝台に近寄った。
「なんというあなたは聞きわけのない……貞ちゃんその病気で、あなた、寝台から起き上がったりするといつまでもなおりはしませんよ。あなたの好きな倉地のおじさんと岡さんがお見舞いに来てくださったのですよ。はっきり[#「はっきり」に傍点]わかりますか、そら、そこを御覧、横になってから」
そう言い言い葉子はいかにも愛情に満ちた器用な手つきで軽く貞世をかかえて床の上に臥かしつけた。貞世の顔は今まで盛んな運動でもしていたように美しく活々と紅味がさして、ふさふさした髪の毛は少しもつれて汗ばんで額ぎわに粘りついていた。それは病気を思わせるよりも過剰の健康とでもいうべきものを思わせた。ただその両眼と口びるだけは明らかに尋常でなかった。すっかり充血したその目はふだんよりも大きくなって、二重まぶたになっていた。そのひとみは熱のために燃えて、おどおどと何者かを見つめているようにも、何かを見いだそうとして尋ねあぐんでいるようにも見えた。その様子はたとえば葉子を見入っている時でも、葉子を貫いて葉子の後ろの方はるかの所にある或る者を見きわめようとあらん限りの力を尽くしているようだった。口びるは上下ともからからになって内紫という柑類の実をむいて天日に干したようにかわいていた。それは見るもいたいたしかった。その口びるの中から高熱のために一種の臭気が呼吸のたびごとに吐き出される、その臭気が口びるの著しいゆがめかたのために、目に見えるようだった。貞世は葉子に注意されて物惰げに少し目をそらして倉地と岡とのいるほうを見たが、それがどうしたんだというように、少しの興味も見せずにまた葉子を見入りながらせっせ[#「せっせ」に傍点]と肩をゆすって苦しげな呼吸をつづけた。
「おねえさま……水……氷……もういっちゃいや……」
これだけかすかにいうともう苦しそうに目をつぶってほろほろと大粒の涙をこぼすのだった。
倉地は陰鬱な雨脚で灰色になったガラス窓を背景にして突っ立ちながら、黙ったまま不安らしく首をかしげた。岡は日ごろのめったに泣かない性質に似ず、倉地の後ろにそっ[#「そっ」に傍点]と引きそって涙ぐんでいた。葉子には後ろを振り向いて見ないでもそれが目に見るようにはっきり[#「はっきり」に傍点]わかった。貞世の事は自分一人で背負って立つ。よけいなあわれみはかけてもらいたくない。そんないらいらしい反抗的な心持ちさえその場合起こらずにはいなかった。過ぐる十日というもの一度も見舞う事をせずにいて、今さらその由々しげな顔つきはなんだ。そう倉地にでも岡にでもいってやりたいほど葉子の心はとげとげしくなっていた。で、葉子は後ろを振り向きもせずに、箸の先につけた脱脂綿を氷水の中に浸しては、貞世の口をぬぐっていた。
こうやってもののやや二十分が過ぎた。飾りけも何もない板張りの病室にはだんだん夕暮れの色が催して来た。五月雨はじめじめと小休みなく戸外では降りつづいていた。「おねえ様なおしてちょうだいよう」とか「苦しい……苦しいからお薬をください」とか「もう熱を計るのはいや」とか時々囈言のように言っては、葉子の手にかじりつく貞世の姿はいつ息気を引き取るかもしれないと葉子に思わせた。
「ではもう帰りましょうか」
倉地が岡を促すようにこういった。岡は倉地に対し葉子に対して少しの間返事をあえてするのをはばかっている様子だったが、とうとう思いきって、倉地に向かって言っていながら少し葉子に対して嘆願するような調子で、
「わたし、きょうはなんにも用がありませんから、こちらに残らしていただいて、葉子さんのお手伝いをしたいと思いますから、お先にお帰りください」
といった。岡はひどく意志が弱そうに見えながら一度思い入っていい出した事は、とうとう仕畢せずにはおかない事を、葉子も倉地も今までの経験から知っていた。葉子は結局それを許すほかはないと思った。
「じゃわしはお先するがお葉さんちょっと……」
といって倉地は入り口のほうにしざって行った。おりから貞世はすやすやと昏睡に陥っていたので、葉子はそっ[#「そっ」に傍点]と自分の袖を捕えている貞世の手をほどいて、倉地のあとから病室を出た。病室を出るとすぐ葉子はもう貞世を看護している葉子ではなかった。
葉子はすぐに倉地に引き添って肩をならべながら廊下を応接室のほうに伝って行った。
「お前はずいぶんと疲れとるよ。用心せんといかんぜ」
「大丈夫……こっちは大丈夫です。それにしてもあなたは……お忙しかったんでしょうね」
たとえば自分の言葉は稜針で、それを倉地の心臓に揉み込むというような鋭い語気になってそういった。
「全く忙しかった。あれからわしはお前の家には一度もよう行かずにいるんだ」
そういった倉地の返事にはいかにもわだかまりがなかった。葉子の鋭い言葉にも少しも引けめを感じているふうは見えなかった。葉子でさえが危うくそれを信じようとするほどだった。しかしその瞬間に葉子は燕返しに自分に帰った。何をいいかげんな……それは白々しさが少し過ぎている。この十日の間に、倉地にとってはこの上もない機会の与えられた十日の間に、杉森の中のさびしい家にその足跡の印されなかったわけがあるものか。……さらぬだに、病み果て疲れ果てた頭脳に、極度の緊張を加えた葉子は、ぐらぐらとよろけた足もとが廊下の板に着いていないような憤怒に襲われた。
応接室まで来て上っ張りを脱ぐと、看護婦が噴霧器を持って来て倉地の身のまわりに消毒薬を振りかけた。そのかすかなにおいがようやく葉子をはっきり[#「はっきり」に傍点]した意識に返らした。葉子の健康が一日一日といわず、一時間ごとにもどんどん弱って行くのが身にしみて知れるにつけて、倉地のどこにも批点のないような頑丈な五体にも心にも、葉子はやりどころのないひがみと憎しみを感じた。倉地にとっては葉子はだんだんと用のないものになって行きつつある。絶えず何か目新しい冒険を求めているような倉地にとっては、葉子はもう散りぎわの花に過ぎない。
看護婦がその室を出ると、倉地は窓の所に寄って行って、衣嚢の中から大きな鰐皮のポケットブックを取り出して、拾円札のかなりの束を引き出した。葉子はそのポケットブックにもいろいろの記憶を持っていた。竹柴館で一夜を過ごしたその朝にも、その後のたびたびのあいびき[#「あいびき」に傍点]のあとの支払いにも、葉子は倉地からそのポケットブックを受け取って、ぜいたくな支払いを心持ちよくしたのだった。そしてそんな記憶はもう二度とは繰り返せそうもなく、なんとなく葉子には思えた。そんな事をさせてなるものかと思いながらも、葉子の心は妙に弱くなっていた。
「また足らなくなったらいつでもいってよこすがいいから……おれのほうの仕事はどうもおもしろくなくなって来おった。正井のやつ何か容易ならぬ悪戯をしおった様子もあるし、油断がならん。たびたびおれがここに来るのも考え物だて」
紙幣を渡しながらこういって倉地は応接室を出た。かなりぬれているらしい靴をはいて、雨水で重そうになった洋傘をばさ[#「ばさ」に傍点]ばさいわせながら開いて、倉地は軽い挨拶を残したまま夕闇の中に消えて行こうとした。間を置いて道わきにともされた電灯の灯が、ぬれた青葉をすべり落ちてぬかるみの中に燐のような光を漂わしていた。その中をだんだん南門のほうに遠ざかって行く倉地を見送っていると葉子はとてもそのままそこに居残ってはいられなくなった。
だれの履き物とも知らずそこにあった吾妻下駄をつっかけて葉子は雨の中を玄関から走り出て倉地のあとを追った。そこにある広場には欅や桜の木がまばらに立っていて、大規模な増築のための材料が、煉瓦や石や、ところどころに積み上げてあった。東京の中央にこんな所があるかと思われるほど物さびしく静かで、街灯の光の届く所だけに白く光って斜めに雨のそそぐのがほのかに見えるばかりだった。寒いとも暑いともさらに感じなく過ごして来た葉子は、雨が襟脚に落ちたので初めて寒いと思った。関東に時々襲って来る時ならぬ冷え日でその日もあったらしい。葉子は軽く身ぶるいしながら、いちずに倉地のあとを追った。やや十四五間も先にいた倉地は足音を聞きつけたと見えて立ちどまって振り返った。葉子が追いついた時には、肩はいいかげんぬれて、雨のしずくが前髪を伝って額に流れかかるまでになっていた。葉子はかすかな光にすかして、倉地が迷惑そうな顔つきで立っているのを知った。葉子はわれにもなく倉地が傘を持つために水平に曲げたその腕にすがり付いた。
「さっきのお金はお返しします。義理ずくで他人からしていただくんでは胸がつかえますから……」
倉地の腕の所で葉子のすがり付いた手はぶるぶると震えた。傘からはしたたりがことさら繁く落ちて、単衣をぬけて葉子の肌ににじみ通った。葉子は、熱病患者が冷たいものに触れた時のような不快な悪寒を感じた。
「お前の神経は全く少しどうかしとるぜ。おれの事を少しは思ってみてくれてもよかろうが……疑うにもひがむにもほどがあっていいはずだ。おれはこれまでにどんな不貞腐れをした。いえるならいってみろ」
さすがに倉地も気にさえているらしく見えた。
「いえないように上手に不貞腐れをなさるのじゃ、いおうったっていえやしませんわね。なぜあなたははっきり[#「はっきり」に傍点]葉子にはあきた、もう用がないとおいいになれないの。男らしくもない。さ、取ってくださいましこれを」
葉子は紙幣の束をわなわなする手先で倉地の胸の所に押しつけた。
「そしてちゃん[#「ちゃん」に傍点]と奥さんをお呼び戻しなさいまし。それで何もかも元通りになるんだから。はばかりながら……」
「愛子は」と口もとまでいいかけて、葉子は恐ろしさに息気を引いてしまった。倉地の細君の事までいったのはその夜が始めてだった。これほど露骨な嫉妬の言葉は、男の心を葉子から遠ざからすばかりだと知り抜いて慎んでいたくせに、葉子はわれにもなく、がみ[#「がみ」に傍点]がみと妹の事までいってのけようとする自分にあきれてしまった。
葉子がそこまで走り出て来たのは、別れる前にもう一度倉地の強い腕でその暖かく広い胸に抱かれたいためだったのだ。倉地に悪たれ口をきいた瞬間でも葉子の願いはそこにあった。それにもかかわらず口の上では全く反対に、倉地を自分からどんどん離れさすような事をいってのけているのだ。
葉子の言葉が募るにつれて、倉地は人目をはばかるようにあたり[#「あたり」に傍点]を見回した。互い互いに殺し合いたいほどの執着を感じながら、それを言い現わす事も信ずる事もできず、要もない猜疑と不満とにさえぎられて、見る見る路傍の人のように遠ざかって行かねばならぬ、――そのおそろしい運命を葉子はことさら痛切に感じた。倉地があたりを見回した――それだけの挙動が、機を見計らっていきなり[#「いきなり」に傍点]そこを逃げ出そうとするもののようにも思いなされた。葉子は倉地に対する憎悪の心を切ないまでに募らしながら、ますます相手の腕に堅く寄り添った。
しばらくの沈黙の後、倉地はいきなり[#「いきなり」に傍点]洋傘をそこにかなぐり捨てて、葉子の頭を右腕で巻きすくめようとした。葉子は本能的に激しくそれにさからった。そして紙幣の束をぬかるみの中にたたきつけた。そして二人は野獣のように争った。
「勝手にせい……ばかっ」
やがてそう激しくいい捨てると思うと、倉地は腕の力を急にゆるめて、洋傘を拾い上げるなり、あとをも向かずに南門のほうに向いてずんずんと歩き出した。憤怒と嫉妬とに興奮しきった葉子は躍起となってそのあとを追おうとしたが、足はしびれたように動かなかった。ただだんだん遠ざかって行く後ろ姿に対して、熱い涙がとめどなく流れ落ちるばかりだった。
しめやかな音を立てて雨は降りつづけていた。隔離病室のある限りの窓にはかん[#「かん」に傍点]かんと灯がともって、白いカーテンが引いてあった。陰惨な病室にそう赤々と灯のともっているのはかえってあたりを物すさまじくして見せた。
葉子は紙幣の束を拾い上げるほか、術のないのを知って、しおしおとそれを拾い上げた。貞世の入院料はなんといってもそれで仕払うよりしようがなかったから。いいようのないくやし涙がさらにわき返った。
四三
その夜おそくまで岡はほんとうに忠実やかに貞世の病床に付き添って世話をしてくれた。口少なにしとやか[#「しとやか」に傍点]によく気をつけて、貞世の欲する事をあらかじめ知り抜いているような岡の看護ぶりは、通り一ぺんな看護婦の働きぶりとはまるでくらべものにならなかった。葉子は看護婦を早く寝かしてしまって、岡と二人だけで夜のふけるまで氷嚢を取りかえたり、熱を計ったりした。
高熱のために貞世の意識はだんだん不明瞭になって来ていた。退院して家に帰りたいとせがんでしようのない時は、そっ[#「そっ」に傍点]と向きをかえて臥かしてから、「さあもうお家ですよ」というと、うれしそうに笑顔をもらしたりした。それを見なければならぬ葉子はたまらなかった。どうかした拍子に、葉子は飛び上がりそうに心が責められた。これで貞世が死んでしまったなら、どうして生き永らえていられよう。貞世をこんな苦しみにおとしいれたものはみんな自分だ。自分が前どおりに貞世に優しくさえしていたら、こんな死病は夢にも貞世を襲って来はしなかったのだ。人の心の報いは恐ろしい……そう思って来ると葉子はだれにわびようもない苦悩に息気づまった。
緑色の風呂敷で包んだ電燈の下に、氷嚢を幾つも頭と腹部とにあてがわれた貞世は、今にも絶え入るかと危ぶまれるような荒い息気づかいで夢現の間をさまようらしく、聞きとれない囈言を時々口走りながら、眠っていた。岡は部屋のすみのほうにつつましく突っ立ったまま、緑色をすかして来る電燈の光でことさら青白い顔色をして、じっ[#「じっ」に傍点]と貞世を見守っていた。葉子は寝台に近く椅子を寄せて、貞世の顔をのぞき込むようにしながら、貞世のために何かし続けていなければ、貞世の病気がますます重るという迷信のような心づかいから、要もないのに絶えず氷嚢の位置を取りかえてやったりなどしていた。
そして短い夜はだんだんにふけて行った。葉子の目からは絶えず涙がはふり落ちた。倉地と思いもかけない別れかたをしたその記憶が、ただわけもなく葉子を涙ぐました。
と、ふっ[#「ふっ」に傍点]と葉子は山内の家のありさまを想像に浮かべた。玄関わきの六畳ででもあろうか、二階の子供の勉強部屋ででもあろうか、この夜ふけを下宿から送られた老女が寝入ったあと、倉地と愛子とが話し続けているような事はないか。あの不思議に心の裏を決して他人に見せた事のない愛子が、倉地をどう思っているかそれはわからない。おそらくは倉地に対しては何の誘惑も感じてはいないだろう。しかし倉地はああいうしたたか[#「したたか」に傍点]者だ。愛子は骨に徹する怨恨を葉子に対していだいている。その愛子が葉子に対して復讐の機会を見いだしたとこの晩思い定めなかったとだれが保証し得よう。そんな事はとうの昔に行なわれてしまっているのかもしれない。もしそうなら、今ごろは、このしめやかな夜を……太陽が消えてなくなったような寒さと闇とが葉子の心におおいかぶさって来た。愛子一人ぐらいを指の間に握りつぶす事ができないと思っているのか……見ているがいい。葉子はいらだちきって毒蛇のような殺気だった心になった。そして静かに岡のほうを顧みた。
何か遠いほうの物でも見つめているように少しぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した目つきで貞世を見守っていた岡は、葉子に振り向かれると、そのほうに素早く目を転じたが、その物すごい不気味さに脊髄まで襲われたふうで、顔色をかえて目をたじろがした。
「岡さん。わたし一生のお頼み……これからすぐ山内の家まで行ってください。そして不用な荷物は今夜のうちにみんな倉地さんの下宿に送り返してしまって、わたしと愛子のふだん使いの着物と道具とを持って、すぐここに引っ越して来るように愛子にいいつけてください。もし倉地さんが家に来ていたら、わたしから確かに返したといってこれを渡してください(そういって葉子は懐紙に拾円紙幣の束を包んで渡した)。いつまでかかっても構わないから今夜のうちにね。お頼みを聞いてくださって?」
なんでも葉子のいう事なら口返答をしない岡だけれどもこの常識をはずれた葉子の言葉には当惑して見えた。岡は窓ぎわに行ってカーテンの陰から戸外をすかして見て、ポケットから巧緻な浮き彫りを施した金時計を取り出して時間を読んだりした。そして少し躊躇するように、
「それは少し無理だとわたし、思いますが……あれだけの荷物を片づけるのは……」
「無理だからこそあなたを見込んでお願いするんですわ。そうねえ、入り用のない荷物を倉地さんの下宿に届けるのは何かもしれませんわね。じゃ構わないから置き手紙を婆やというのに渡しておいてくださいまし。そして婆やにいいつけてあすでも倉地さんの所に運ばしてくださいまし。それなら何もいさくさ[#「いさくさ」に傍点]はないでしょう。それでもおいや? いかが?……ようございます。それじゃもうようございます。あなたをこんなにおそくまでお引きとめしておいて、又候めんどうなお願いをしようとするなんてわたしもどうかしていましたわ。……貞ちゃんなんでもないのよ。わたし今岡さんとお話ししていたんですよ。汽車の音でもなんでもないんだから、心配せずにお休み……どうして貞世はこんなに怖い事ばかりいうようになってしまったんでしょう。夜中などに一人で起きていて囈言を聞くとぞーっとするほど気味が悪くなりますのよ。あなたはどうぞもうお引き取りくださいまし。わたし車屋をやりますから……」
「車屋をおやりになるくらいならわたし行きます」
「でもあなたが倉地さんに何とか思われなさるようじゃお気の毒ですもの」
「わたし、倉地さんなんぞをはばかっていっているのではありません」
「それはよくわかっていますわ。でもわたしとしてはそんな結果も考えてみてからお頼みするんでしたのに……」
こういう押し問答の末に岡はとうとう愛子の迎えに行く事になってしまった。倉地がその夜はきっと愛子の所にいるに違いないと思った葉子は、病院に泊まるものと高をくくっていた岡が突然真夜中に訪れて来たので倉地もさすがにあわてずにはいられまい。それだけの狼狽をさせるにしても快い事だと思っていた。葉子は宿直部屋に行って、しだらなく睡入った当番の看護婦を呼び起こして人力車を頼ました。
岡は思い入った様子でそっ[#「そっ」に傍点]と貞世の病室を出た。出る時に岡は持って来たパラフィン紙に包んである包みを開くと美しい花束だった。岡はそれをそっ[#「そっ」に傍点]と貞世の枕もとにおいて出て行った。
しばらくすると、しとしとと降る雨の中を、岡を乗せた人力車が走り去る音がかすかに聞こえて、やがて遠くに消えてしまった。看護婦が激しく玄関の戸締まりする音が響いて、そのあとはひっそりと夜がふけた。遠くの部屋でディフテリヤにかかっている子供の泣く声が間遠に聞こえるほかには、音という音は絶え果てていた。
葉子はただ一人いたずらに興奮して狂うような自分を見いだした。不眠で過ごした夜が三日も四日も続いているのにかかわらず、睡気というものは少しも襲って来なかった。重石をつり下げたような腰部の鈍痛ばかりでなく、脚部は抜けるようにだるく冷え、肩は動かすたびごとにめり[#「めり」に傍点]めり音がするかと思うほど固く凝り、頭の心は絶え間なくぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりと痛んで、そこからやりどころのない悲哀と疳癪とがこんこんとわいて出た。もう鏡は見まいと思うほど顔はげっそり[#「げっそり」に傍点]と肉がこけて、目のまわりの青黒い暈は、さらぬだに大きい目をことさらにぎら[#「ぎら」に傍点]ぎらと大きく見せた。鏡を見まいと思いながら、葉子はおりあるごとに帯の間から懐中鏡を出して自分の顔を見つめないではいられなかった。
葉子は貞世の寝息をうかがっていつものように鏡を取り出した。そして顔を少し電灯のほうに振り向けてじっと自分を映して見た。おびただしい毎日の抜け毛で額ぎわの著しく透いてしまったのが第一に気になった。少し振り仰いで顔を映すと頬のこけたのがさほどに目立たないけれども、顎を引いて下俯きになると、口と耳との間には縦に大きな溝のような凹みができて、下顎骨が目立っていかめしく現われ出ていた。長く見つめているうちにはだんだん慣れて来て、自分の意識でしいて矯正するために、やせた顔もさほどとは思われなくなり出すが、ふと鏡に向かった瞬間には、これが葉子葉子と人々の目をそばだたした自分かと思うほど醜かった。そうして鏡に向かっているうちに、葉子はその投影を自分以外のある他人の顔ではないかと疑い出した。自分の顔より映るはずがない。それだのにそこに映っているのは確かにだれか見も知らぬ人の顔だ。苦痛にしいたげられ、悪意にゆがめられ、煩悩のために支離滅裂になった亡者の顔……葉子は背筋に一時に氷をあてられたようになって、身ぶるいしながら思わず鏡を手から落とした。
金属の床に触れる音が雷のように響いた。葉子はあわてて貞世を見やった。貞世はまっ赤に充血して熱のこもった目をまんじり[#「まんじり」に傍点]と開いて、さも不思議そうに中有を見やっていた。
「愛ねえさん……遠くでピストルの音がしたようよ」
はっきり[#「はっきり」に傍点]した声でこういったので、葉子が顔を近寄せて何かいおうとすると昏々としてたわいもなくまた眠りにおちいるのだった。貞世の眠るのと共に、なんともいえない無気味な死の脅かしが卒然として葉子を襲った。部屋の中にはそこらじゅうに死の影が満ち満ちていた。目の前の氷水を入れたコップ一つも次の瞬間にはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に倒れてこわれてしまいそうに見えた。物の影になって薄暗い部分は見る見る部屋じゅうに広がって、すべてを冷たく暗く包み終わるかとも疑われた。死の影は最も濃く貞世の目と口のまわりに集まっていた。そこには死が蛆のようににょろ[#「にょろ」に傍点]にょろとうごめいているのが見えた。それよりも……それよりもその影はそろそろと葉子を目がけて四方の壁から集まり近づこうとひしめいているのだ。葉子はほとんどその死の姿を見るように思った。頭の中がシーン[#「シーン」に傍点]と冷え通って冴えきった寒さがぞく[#「ぞく」に傍点]ぞくと四肢を震わした。
その時宿直室の掛け時計が遠くのほうで一時を打った。
もしこの音を聞かなかったら、葉子は恐ろしさのあまり自分のほうから宿直室へ駆け込んで行ったかもしれなかった。葉子はおびえながら耳をそばだてた。宿直室のほうから看護婦が草履をばたばたと引きずって来る音が聞こえた。葉子はほっ[#「ほっ」に傍点]と息気をついた。そしてあわてるように身を動かして、貞世の頭の氷嚢の溶け具合をしらべて見たり、掻巻を整えてやったりした。海の底に一つ沈んでぎらっ[#「ぎらっ」に傍点]と光る貝殻のように、床の上で影の中に物すごく横たわっている鏡を取り上げてふところに入れた。そうして一室一室と近づいて来る看護婦の足音に耳を澄ましながらまた考え続けた。
今度は山内の家のありさまがさながらまざまざと目に見るように想像された。岡が夜ふけにそこを訪れた時には倉地が確かにいたに違いない。そしていつものとおり一種の粘り強さをもって葉子の言伝てを取り次ぐ岡に対して、激しい言葉でその理不尽な狂気じみた葉子の出来心をののしったに違いない。倉地と岡との間には暗々裡に愛子に対する心の争闘が行なわれたろう。岡の差し出す紙幣の束を怒りに任せて畳の上にたたきつける倉地の威丈高な様子、少女にはあり得ないほどの冷静さで他人事のように二人の間のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を伏し目ながらに見守る愛子の一種の毒々しい妖艶さ。そういう姿がさながら目の前に浮かんで見えた。ふだんの葉子だったらその想像は葉子をその場にいるように興奮させていたであろう。けれども死の恐怖に激しく襲われた葉子はなんともいえない嫌悪の情をもってのほかにはその場面を想像する事ができなかった。なんというあさましい人の心だろう。結局は何もかも滅びて行くのに、永遠な灰色の沈黙の中にくずれ込んでしまうのに、目前の貪婪に心火の限りを燃やして、餓鬼同様に命をかみ合うとはなんというあさましい心だろう。しかもその醜い争いの種子をまいたのは葉子自身なのだ。そう思うと葉子は自分の心と肉体とがさながら蛆虫のようにきたなく見えた。……何のために今まであってないような妄執に苦しみ抜いてそれを生命そのもののように大事に考え抜いていた事か。それはまるで貞世が始終見ているらしい悪夢の一つよりもさらにはかないものではないか。……こうなると倉地さえが縁もゆかりもないもののように遠く考えられ出した。葉子はすべてのもののむなしさにあきれたような目をあげて今さららしく部屋の中をながめ回した。なんの飾りもない、修道院の内部のような裸な室内がかえってすがすがしく見えた。岡の残した貞世の枕もとの花束だけが、そしておそらくは(自分では見えないけれども)これほどの忙しさの間にも自分を粉飾するのを忘れずにいる葉子自身がいかにも浮薄なたよりないものだった。葉子はこうした心になると、熱に浮かされながら一歩一歩なんの心のわだかまりもなく死に近づいて行く貞世の顔が神々しいものにさえ見えた。葉子は祈るようなわびるような心でしみじみと貞世を見入った。
やがて看護婦が貞世の部屋にはいって来た。形式一ぺんのお辞儀を睡そうにして、寝台のそばに近寄ると、無頓着なふうに葉子が入れておいた検温器を出して灯にすかして見てから、胸の氷嚢を取りかえにかかった。葉子は自分一人の手でそんな事をしてやりたいような愛着と神聖さとを貞世に感じながら看護婦を手伝った。
「貞ちゃん……さ、氷嚢を取りかえますからね……」
とやさしくいうと、囈言をいい続けていながらやはり貞世はそれまで眠っていたらしく、痛々しいまで大きくなった目を開いて、まじ[#「まじ」に傍点]まじと意外な人でも見るように葉子を見るのだった。
「おねえ様なの……いつ帰って来たの。おかあ様がさっきいらしってよ……いやおねえ様、病院いや帰る帰る……おかあ様おかあ様(そういってきょろ[#「きょろ」に傍点]きょろとあたりを見回しながら)帰らしてちょうだいよう。お家に早く、おかあ様のいるお家に早く……」
葉子は思わず毛孔が一本一本逆立つほどの寒気を感じた。かつて母という言葉もいわなかった貞世の口から思いもかけずこんな事を聞くと、その部屋のどこかにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]立っている母が感ぜられるように思えた。その母の所に貞世は行きたがってあせっている。なんという深いあさましい骨肉の執着だろう。
看護婦が行ってしまうとまた病室の中はしん[#「しん」に傍点]となってしまった。なんともいえず可憐な澄んだ音を立てて水たまりに落ちる雨だれの音はなお絶え間なく聞こえ続けていた。葉子は泣くにも泣かれないような心になって、苦しい呼吸をしながらもうつら[#「うつら」に傍点]うつらと生死の間を知らぬげに眠る貞世の顔をのぞき込んでいた。
と、雨だれの音にまじって遠くのほうに車の轍の音を聞いたように思った。もう目をさまして用事をする人もあるかと、なんだか違った世界の出来事のようにそれを聞いていると、その音はだんだん病室のほうに近寄って来た。……愛子ではないか……葉子は愕然として夢からさめた人のようにきっ[#「きっ」に傍点]となってさらに耳をそばだてた。
もうそこには死生を瞑想して自分の妄執のはかなさをしみじみと思いやった葉子はいなかった。我執のために緊張しきったその目は怪しく輝いた。そして大急ぎで髪のほつれをかき上げて、鏡に顔を映しながら、あちこちと指先で容子を整えた。衣紋もなおした。そしてまたじっ[#「じっ」に傍点]と玄関のほうに聞き耳を立てた。
はたして玄関の戸のあく音が聞こえた。しばらく廊下がごた[#「ごた」に傍点]ごたする様子だったが、やがて二三人の足音が聞こえて、貞世の病室の戸がしめやか[#「しめやか」に傍点]に開かれた。葉子はそのしめやか[#「しめやか」に傍点]さでそれは岡が開いたに違いない事を知った。やがて開かれた戸口から岡にちょっと挨拶しながら愛子の顔が静かに現われた。葉子の目は知らず知らずそのどこまでも従順らしく伏し目になった愛子の面に激しく注がれて、そこに書かれたすべてを一時に読み取ろうとした。小羊のようにまつ毛の長いやさしい愛子の目はしかし不思議にも葉子の鋭い眼光にさえ何物をも見せようとはしなかった。葉子はすぐいらいらして、何事もあばかないではおくものかと心の中で自分自身に誓言を立てながら、
「倉地さんは」
と突然真正面から愛子にこう尋ねた。愛子は多恨な目をはじめてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子のほうに向けて、貞世のほうにそれをそらしながら、また葉子をぬすみ見るようにした。そして倉地さんがどうしたというのか意味が読み取れないというふうを見せながら返事をしなかった。生意気をしてみるがいい……葉子はいらだっていた。
「おじさんも一緒にいらしったかいというんだよ」
「いゝえ」
愛子は無愛想なほど無表情に一言そう答えた。二人の間にはむずかしい沈黙が続いた。葉子はすわれとさえいってやらなかった。一日一日と美しくなって行くような愛子は小肥りなからだをつつましく整えて静かに立っていた。
そこに岡が小道具を両手に下げて玄関のほうから帰って来た。外套をびっしょり[#「びっしょり」に傍点]雨にぬらしているのから見ても、この真夜中に岡がどれほど働いてくれたかがわかっていた。葉子はしかしそれには一言の挨拶もせずに、岡が道具を部屋のすみにおくや否や、
「倉地さんは何かいっていまして?」
と剣を言葉に持たせながら尋ねた。
「倉地さんはおいでがありませんでした。で婆やに言伝てをしておいて、お入り用の荷物だけ造って持って来ました。これはお返ししておきます」
そういって衣嚢の中から例の紙幣の束を取り出して葉子に渡そうとした。
愛子だけならまだしも、岡までがとうとう自分を裏切ってしまった。二人が二人ながら見えすいた虚言をよくもああしらじらしくいえたものだ。おおそれた弱虫どもめ。葉子は世の中が手ぐすね引いて自分一人を敵に回しているように思った。
「へえ、そうですか。どうも御苦労さま。……愛さんお前はそこにそうぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]立ってるためにここに呼ばれたと思っているの? 岡さんのそのぬれた外套でも取ってお上げなさいな。そして宿直室に行って看護婦にそういってお茶でも持っておいで。あなたの大事な岡さんがこんなにおそくまで働いてくださったのに……さあ岡さんどうぞこの椅子に(といって自分は立ち上がった)……わたしが行って来るわ、愛さんも働いてさぞ疲れたろうから……よござんす、よござんすったら愛さん……」
自分のあとを追おうとする愛子を刺し貫くほど睨めつけておいて葉子は部屋を出た。そうして火をかけられたようにかっ[#「かっ」に傍点]と逆上しながら、ほろほろとくやし涙を流して暗い廊下を夢中で宿直室のほうへ急いで行った。
四四
たたきつけるようにして倉地に返してしまおうとした金は、やはり手に持っているうちに使い始めてしまった。葉子の性癖としていつでもできるだけ豊かな快い夜昼を送るようにのみ傾いていたので、貞世の病院生活にも、だれに見せてもひけ[#「ひけ」に傍点]を取らないだけの事を上べばかりでもしていたかった。夜具でも調度でも家にあるものの中でいちばん優れたものを選んで来てみると、すべての事までそれにふさわしいものを使わなければならなかった。葉子が専用の看護婦を二人も頼まなかったのは不思議なようだが、どういうものか貞世の看護をどこまでも自分一人でしてのけたかったのだ。その代わり年とった女を二人傭って交代に病院に来さして、洗い物から食事の事までを賄わした。葉子はとても病院の食事では済ましていられなかった。材料のいい悪いはとにかく、味はとにかく、何よりもきたならしい感じがして箸もつける気になれなかったので、本郷通りにある或る料理屋から日々入れさせる事にした。こんなあんばいで、費用は知れない所に思いのほかかかった。葉子が倉地が持って来てくれた紙幣の束から仕払おうとした時は、いずれそのうち木村から送金があるだろうから、あり次第それから埋め合わせをして、すぐそのまま返そうと思っていたのだった。しかし木村からは、六月になって以来一度も送金の通知は来なかった。葉子はそれだからなおさらの事もう来そうなものだと心待ちをしたのだった。それがいくら待っても来ないとなるとやむを得ず持ち合わせた分から使って行かなければならなかった。まだまだと思っているうちに束の厚みはどんどん減って行った。それが半分ほど減ると、葉子は全く返済の事などは忘れてしまったようになって、あるに任せて惜しげもなく仕払いをした。
七月にはいってから気候はめっきり暑くなった。椎の木の古葉もすっかり[#「すっかり」に傍点]散り尽くして、松も新しい緑にかわって、草も木も青い焔のようになった。長く寒く続いた五月雨のなごりで、水蒸気が空気中に気味わるく飽和されて、さらぬだに急に堪え難く暑くなった気候をますます堪え難いものにした。葉子は自身の五体が、貞世の回復をも待たずにずんずんくずれて行くのを感じないわけには行かなかった。それと共に勃発的に起こって来るヒステリーはいよいよ募るばかりで、その発作に襲われたが最後、自分ながら気が違ったと思うような事がたびたびになった。葉子は心ひそかに自分を恐れながら、日々の自分を見守る事を余儀なくされた。
葉子のヒステリーはだれかれの見さかいなく破裂するようになったがことに愛子に屈強の逃げ場を見いだした。なんといわれてもののしられても、打ち据えられさえしても、屠所の羊のように柔順に黙ったまま、葉子にはまどろしく見えるくらいゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]落ち着いて働く愛子を見せつけられると、葉子の疳癪は嵩じるばかりだった。あんな素直な殊勝げなふうをしていながらしらじらしくも姉を欺いている。それが倉地との関係においてであれ、岡との関係においてであれ、ひょっとすると古藤との関係においてであれ、愛子は葉子に打ち明けない秘密を持ち始めているはずだ。そう思うと葉子は無理にも平地に波瀾が起こしてみたかった。ほとんど毎日――それは愛子が病院に寝泊まりするようになったためだと葉子は自分決めに決めていた――幾時間かの間、見舞いに来てくれる岡に対しても、葉子はもう元のような葉子ではなかった。どうかすると思いもかけない時に明白な皮肉が矢のように葉子の口びるから岡に向かって飛ばされた。岡は自分が恥じるように顔を紅らめながらも、上品な態度でそれをこらえた。それがまたなおさら葉子をいらつかす種になった。
もう来られそうもないといいながら倉地も三日に一度ぐらいは病院を見舞うようになった。葉子はそれをも愛子ゆえと考えずにはいられなかった。そう激しい妄想に駆り立てられて来ると、どういう関係で倉地と自分とをつないでおけばいいのか、どうした態度で倉地をもちあつかえばいいのか、葉子にはほとほと見当がつかなくなってしまった。親身に持ちかけてみたり、よそよそしく取りなしてみたり、その時の気分気分で勝手な無技巧な事をしていながらも、どうしてものがれ出る事のできないのは倉地に対するこちん[#「こちん」に傍点]と固まった深い執着だった。それは情けなくも激しく強くなり増さるばかりだった。もう自分で自分の心根を憫然に思ってそぞろに涙を流して、自らを慰めるという余裕すらなくなってしまった。かわききった火のようなものが息気苦しいまでに胸の中にぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]つまっているだけだった。
ただ一人貞世だけは……死ぬか生きるかわからない貞世だけは、この姉を信じきってくれている……そう思うと葉子は前にも増した愛着をこの病児にだけは感じないでいられなかった。「貞世がいるばかりで自分は人殺しもしないでこうしていられるのだ」と葉子は心の中で独語ちた。
けれどもある朝そのかすかな希望さえ破れねばならぬような事件がまくし上がった。
その朝は暁から水がしたたりそうに空が晴れて、珍しくすがすがしい涼風が木の間から来て窓の白いカーテンをそっ[#「そっ」に傍点]となでて通るさわやかな天気だったので、夜通し貞世の寝台のわきに付き添って、睡くなるとそうしたままでうとうとと居睡りしながら過ごして来た葉子も、思いのほか頭の中が軽くなっていた。貞世もその晩はひどく熱に浮かされもせずに寝続けて、四時ごろの体温は七度八分まで下がっていた。緑色の風呂敷を通して来る光でそれを発見した葉子は飛び立つような喜びを感じた。入院してから七度台に熱の下がったのはこの朝が始めてだったので、もう熱の剥離期が来たのかと思うと、とうとう貞世の命は取り留めたという喜悦の情で涙ぐましいまでに胸はいっぱいになった。ようやく一心が届いた。自分のために病気になった貞世は、自分の力でなおった。そこから自分の運命はまた新しく開けて行くかもしれない。きっと開けて行く。もう一度心置きなくこの世に生きる時が来たら、それはどのくらいいい事だろう。今度こそは考え直して生きてみよう。もう自分も二十六だ。今までのような態度で暮らしてはいられない。倉地にもすまなかった。倉地があれほどある限りのものを犠牲にして、しかもその事業といっている仕事はどう考えてみても思わしく行っていないらしいのに、自分たちの暮らし向きはまるでそんな事も考えないような寛濶なものだった。自分は決心さえすればどんな境遇にでも自分をはめ込む事ぐらいできる女だ。もし今度家を持つようになったらすべてを妹たちにいって聞かして、倉地と一緒になろう。そして木村とははっきり[#「はっきり」に傍点]縁を切ろう。木村といえば……そうして葉子は倉地と古藤とがいい合いをしたその晩の事を考え出した。古藤にあんな約束をしながら、貞世の病気に紛れていたというほかに、てんで真相を告白する気がなかったので今まではなんの消息もしないでいた自分がとがめられた。ほんとうに木村にもすまなかった。今になってようやく長い間の木村の心の苦しさが想像される。もし貞世が退院するようになったら――そして退院するに決まっているが――自分は何をおいても木村に手紙を書く。そうしたらどれほど心が安くそして軽くなるかしれない。……葉子はもうそんな境界が来てしまったように考えて、だれとでもその喜びをわかちたく思った。で、椅子にかけたまま右後ろを向いて見ると、床板の上に三畳畳を敷いた部屋の一隅に愛子がたわいもなくすやすやと眠っていた。うるさがるので貞世には蚊帳をつってなかったが、愛子の所には小さな白い西洋蚊帳がつってあった。その細かい目を通して見る愛子の顔は人形のように整って美しかった。その愛子をこれまで憎み通しに憎み、疑い通しに疑っていたのが、不思議を通り越して、奇怪な事にさえ思われた。葉子はにこにこしながら立って行って蚊帳のそばによって、
「愛さん……愛さん」
そうかなり大きな声で呼びかけた。ゆうべおそく枕についた愛子はやがてようやく睡そうに大きな目を静かに開いて、姉が枕もとにいるのに気がつくと、寝すごしでもしたと思ったのか、あわてるように半身を起こして、そっ[#「そっ」に傍点]と葉子をぬすみ見るようにした。日ごろならばそんな挙動をすぐ疳癪の種にする葉子も、その朝ばかりはかわいそうなくらいに思っていた。
「愛さんお喜び、貞ちゃんの熱がとうとう七度台に下がってよ。ちょっと起きて来てごらん、それはいい顔をして寝ているから……静かにね」
「静かにね」といいながら葉子の声は妙にはずんで高かった。愛子は柔順に起き上がってそっ[#「そっ」に傍点]と蚊帳をくぐって出て、前を合わせながら寝台のそばに来た。
「ね?」
葉子は笑みかまけて愛子にこう呼びかけた。
「でもなんだか、だいぶに蒼白く見えますわね」
と愛子が静かにいうのを葉子はせわしく引ったくって、
「それは電燈の風呂敷のせいだわ……それに熱が取れれば病人はみんな一度はかえって悪くなったように見えるものなのよ。ほんとうによかった。あなたも親身に世話してやったからよ」
そういって葉子は右手で愛子の肩をやさしく抱いた。そんな事を愛子にしたのは葉子としては始めてだった。愛子は恐れをなしたように身をすぼめた。
葉子はなんとなくじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられなかった。子供らしく、早く貞世が目をさませばいいと思った。そうしたら熱の下がったのを知らせて喜ばせてやるのにと思った。しかしさすがにその小さな眠りを揺りさます事はし得ないで、しきりと部屋の中を片づけ始めた。愛子が注意の上に注意をしてこそ[#「こそ」に傍点]との音もさせまいと気をつかっているのに、葉子がわざとするかとも思われるほど騒々しく働くさまは、日ごろとはまるで反対だった。愛子は時々不思議そうな目つきをしてそっ[#「そっ」に傍点]と葉子の挙動を注意した。
そのうちに夜がどんどん明け離れて、電灯の消えた瞬間はちょっと部屋の中が暗くなったが、夏の朝らしく見る見るうちに白い光が窓から容赦なく流れ込んだ。昼になってからの暑さを予想させるような涼しさが青葉の軽いにおいと共に部屋の中にみちあふれた。愛子の着かえた大柄な白の飛白も、赤いメリンスの帯も、葉子の目を清々しく刺激した。
葉子は自分で貞世の食事を作ってやるために宿直室のそばにある小さな庖厨に行って、洋食店から届けて来たソップを温めて塩で味をつけている間も、だんだん起き出て来る看護婦たちに貞世の昨夜の経過を誇りがに話して聞かせた。病室に帰って見ると、愛子がすでに目ざめた貞世に朝じまいをさせていた。熱が下がったのできげんのよかるべき貞世はいっそうふきげんになって見えた。愛子のする事一つ一つに故障をいい立てて、なかなかいう事を聞こうとはしなかった。熱の下がったのに連れて始めて貞世の意志が人間らしく働き出したのだと葉子は気がついて、それも許さなければならない事だと、自分の事のように心で弁疏した。ようやく洗面が済んで、それから寝台の周囲を整頓するともう全く朝になっていた。けさこそは貞世がきっと賞美しながら食事を取るだろうと葉子はいそいそとたけの高い食卓を寝台の所に持って行った。
その時思いがけなくも朝がけに倉地が見舞いに来た。倉地も涼しげな単衣に絽の羽織を羽織ったままだった。その強健な、物を物ともしない姿は夏の朝の気分としっくり[#「しっくり」に傍点]そぐって見えたばかりでなく、その日に限って葉子は絵島丸の中で語り合った倉地を見いだしたように思って、その寛濶な様子がなつかしくのみながめられた。倉地もつとめて葉子の立ち直った気分に同じているらしかった。それが葉子をいっそう快活にした。葉子は久しぶりでその銀の鈴のような澄みとおった声で高調子に物をいいながら二言目には涼しく笑った。
「さ、貞ちゃん、ねえさんが上手に味をつけて来て上げたからソップを召し上がれ。けさはきっとおいしく食べられますよ。今までは熱で味も何もなかったわね、かわいそうに」
そういって貞世の身ぢかに椅子を占めながら、糊の強いナフキンを枕から喉にかけてあてがってやると、貞世の顔は愛子のいうようにひどく青味がかって見えた。小さな不安が葉子の頭をつきぬけた。葉子は清潔な銀の匙に少しばかりソップをしゃくい上げて貞世の口もとにあてがった。
「まずい」
貞世はちらっと[#「ちらっと」に傍点]姉をにらむように盗み見て、口にあるだけのソップをしいて飲みこんだ。
「おやどうして」
「甘ったらしくって」
「そんなはずはないがねえ。どれそれじゃも少し塩を入れてあげますわ」
葉子は塩をたしてみた。けれども貞世はうまいとはいわなかった。また一口飲み込むともういやだといった。
「そういわずとも少し召し上がれ、ね、せっかくねえさんが加減したんだから。第一食べないでいては弱ってしまいますよ」
そう促してみても貞世は金輪際あとを食べようとはしなかった。
突然自分でも思いもよらない憤怒が葉子に襲いかかった。自分がこれほど骨を折ってしてやったのに、義理にももう少しは食べてよさそうなものだ。なんというわがままな子だろう(葉子は貞世が味覚を回復していて、流動食では満足しなくなったのを少しも考えに入れなかった)。
そうなるともう葉子は自分を統御する力を失ってしまっていた。血管の中の血が一時にかっ[#「かっ」に傍点]と燃え立って、それが心臓に、そして心臓から頭に衝き進んで、頭蓋骨はばり[#「ばり」に傍点]ばりと音を立てて破れそうだった。日ごろあれほどかわいがってやっているのに、……憎さは一倍だった。貞世を見つめているうちに、そのやせきった細首に鍬形にした両手をかけて、一思いにしめつけて、苦しみもがく様子を見て、「そら見るがいい」といい捨ててやりたい衝動がむずむずとわいて来た。その頭のまわりにあてがわるべき両手の指は思わず知らず熊手のように折れ曲がって、はげしい力のために細かく震えた。葉子は凶器に変わったようなその手を人に見られるのが恐ろしかったので、茶わんと匙とを食卓にかえして、前だれの下に隠してしまった。上まぶたの一文字になった目をきりっ[#「きりっ」に傍点]と据えてはた[#「はた」に傍点]と貞世をにらみつけた。葉子の目には貞世のほかにその部屋のものは倉地から愛子に至るまですっかり[#「すっかり」に傍点]見えなくなってしまっていた。
「食べないかい」
「食べないかい。食べなければ云々」と小言をいって貞世を責めるはずだったが、初句を出しただけで、自分の声のあまりに激しい震えように言葉を切ってしまった。
「食べない……食べない……御飯でなくってはいやあだあ」
葉子の声の下からすぐこうしたわがままな貞世のすねにすねた声が聞こえたと葉子は思った。まっ黒な血潮がどっ[#「どっ」に傍点]と心臓を破って脳天に衝き進んだと思った。目の前で貞世の顔が三つにも四つにもなって泳いだ。そのあとには色も声もしびれ果ててしまったような暗黒の忘我が来た。
「おねえ様……おねえ様ひどい……いやあ……」
「葉ちゃん……あぶない……」
貞世と倉地の声とがもつれ合って、遠い所からのように聞こえて来るのを、葉子はだれかが何か貞世に乱暴をしているのだなと思ったり、この勢いで行かなければ貞世は殺せやしないと思ったりしていた。いつのまにか葉子はただ一筋に貞世を殺そうとばかりあせっていたのだ。葉子は闇黒の中で何か自分に逆らう力と根限りあらそいながら、物すごいほどの力をふりしぼってたたかっているらしかった。何がなんだかわからなかった。その混乱の中に、あるいは今自分は倉地の喉笛に針のようになった自分の十本の爪を立てて、ねじりもがきながら争っているのではないかとも思った。それもやがて夢のようだった。遠ざかりながら人の声とも獣の声とも知れぬ音響がかすかに耳に残って、胸の所にさし込んで来る痛みを吐き気のように感じた次の瞬間には、葉子は昏々として熱も光も声もない物すさまじい暗黒の中にまっさかさまに浸って行った。
ふと葉子は擽むるようなものを耳の所に感じた。それが音響だとわかるまでにはどのくらいの時間が経過したかしれない。とにかく葉子はがや[#「がや」に傍点]がやという声をだんだんとはっきり[#「はっきり」に傍点]聞くようになった。そしてぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]視力を回復した。見ると葉子は依然として貞世の病室にいるのだった。愛子が後ろ向きになって寝台の上にいる貞世を介抱していた。自分は……自分はと葉子は始めて自分を見回そうとしたが、からだは自由を失っていた。そこには倉地がいて葉子の首根っこに腕を回して、膝の上に一方の足を乗せて、しっかりと抱きすくめていた。その足の重さが痛いほど感じられ出した。やっぱり自分は倉地を死に神のもとへ追いこくろうとしていたのだなと思った。そこには白衣を着た医者も看護婦も見え出した。
葉子はそれだけの事を見ると急に気のゆるむのを覚えた。そして涙がぼろぼろと出てしかたがなくなった。おかしな……どうしてこう涙が出るのだろうと怪しむうちに、やる瀬ない悲哀がどっ[#「どっ」に傍点]とこみ上げて来た。底のないようなさびしい悲哀……そのうちに葉子は悲哀とも睡さとも区別のできない重い力に圧せられてまた知覚から物のない世界に落ち込んで行った。
ほんとうに葉子が目をさました時には、まっさおに晴天の後の夕暮れが催しているころだった。葉子は部屋のすみの三畳に蚊帳の中に横になって寝ていたのだった。そこには愛子のほかに岡も来合わせて貞世の世話をしていた。倉地はもういなかった。
愛子のいう所によると、葉子は貞世にソップを飲まそうとしていろいろにいったが、熱が下がって急に食欲のついた貞世は飯でなければどうしても食べないといってきかなかったのを、葉子は涙を流さんばかりになって執念くソップを飲ませようとした結果、貞世はそこにあったソップ皿を臥ていながらひっくり[#「ひっくり」に傍点]返してしまったのだった。そうすると葉子はいきなり[#「いきなり」に傍点]立ち上がって貞世の胸もとをつかむなり寝台から引きずりおろしてこづき回した。幸いにい合わした倉地が大事にならないうちに葉子から貞世を取り放しはしたが、今度は葉子は倉地に死に物狂いに食ってかかって、そのうちに激しい癪を起こしてしまったのだとの事だった。
葉子の心はむなしく痛んだ。どこにとて取りつくものもないようなむなしさが心には残っているばかりだった。貞世の熱はすっかり[#「すっかり」に傍点]元通りにのぼってしまって、ひどくおびえるらしい囈言を絶え間なしに口走った。節々はひどく痛みを覚えながら、発作の過ぎ去った葉子は、ふだんどおりになって起き上がる事もできるのだった。しかし葉子は愛子や岡への手前すぐ起き上がるのも変だったのでその日はそのまま寝続けた。
貞世は今度こそは死ぬ。とうとう自分の末路も来てしまった。そう思うと葉子はやるかたなく悲しかった。たとい貞世と自分とが幸いに生き残ったとしても、貞世はきっと永劫自分を命の敵と怨むに違いない。
「死ぬに限る」
葉子は窓を通して青から藍に変わって行きつつある初夏の夜の景色をながめた。神秘的な穏やかさと深さとは脳心にしみ通るようだった。貞世の枕もとには若い岡と愛子とがむつまじげに居たり立ったりして貞世の看護に余念なく見えた。その時の葉子にはそれは美しくさえ見えた。親切な岡、柔順な愛子……二人が愛し合うのは当然でいい事らしい。
「どうせすべては過ぎ去るのだ」
葉子は美しい不思議な幻影でも見るように、電気灯の緑の光の中に立つ二人の姿を、無常を見ぬいた隠者のような心になって打ちながめた。
四五
この事があった日から五日たったけれども倉地はぱったり[#「ぱったり」に傍点]来なくなった。たよりもよこさなかった。金も送っては来なかった。あまりに変なので岡に頼んで下宿のほうを調べてもらうと三日前に荷物の大部分を持って旅行に出るといって姿を隠してしまったのだそうだ。倉地がいなくなると刑事だという男が二度か三度いろいろな事を尋ねに来たともいっているそうだ。岡は倉地からの一通の手紙を持って帰って来た。葉子はすぐに封を開いて見た。
[#ここから1字下げ]
「事重大となり姿を隠す。郵便では累を及ぼさん事を恐れ、これを主人に託しおく。金も当分は送れぬ。困ったら家財道具を売れ。そのうちにはなんとかする。読後火中」
[#ここで字下げ終わり]
とだけしたためて葉子へのあて名も自分の名も書いてはなかった。倉地の手跡には間違いない。しかしあの発作以後ますますヒステリックに根性のひねくれてしまった葉子は、手紙を読んだ瞬間にこれは造り事だと思い込まないではいられなかった。とうとう倉地も自分の手からのがれてしまった。やる瀬ない恨みと憤りが目もくらむほどに頭の中を攪き乱した。
岡と愛子とがすっかり[#「すっかり」に傍点]打ち解けたようになって、岡がほとんど入りびたりに病院に来て貞世の介抱をするのが葉子には見ていられなくなって来た。
「岡さん、もうあなたこれからここにはいらっしゃらないでくださいまし。こんな事になると御迷惑があなたにかからないとも限りませんから。わたしたちの事はわたしたちがしますから。わたしはもう他人にたよりたくはなくなりました」
「そうおっしゃらずにどうかわたしをあなたのおそばに置かしてください。わたし、決して伝染なぞを恐れはしません」
岡は倉地の手紙を読んではいないのに葉子は気がついた。迷惑といったのを病気の伝染と思い込んでいるらしい。そうじゃない。岡が倉地の犬でないとどうしていえよう。倉地が岡を通して愛子と慇懃を通わし合っていないとだれが断言できる。愛子は岡をたらし込むぐらいは平気でする娘だ。葉子は自分の愛子ぐらいの年ごろの時の自分の経験の一々が生き返ってその猜疑心をあおり立てるのに自分から苦しまねばならなかった。あの年ごろの時、思いさえすれば自分にはそれほどの事は手もなくしてのける事ができた。そして自分は愛子よりももっと[#「もっと」に傍点]無邪気な、おまけに快活な少女であり得た。寄ってたかって自分をだましにかかるのなら、自分にだってして見せる事がある。
「そんなにお考えならおいでくださるのはお勝手ですが、愛子をあなたにさし上げる事はできないんですからそれは御承知くださいましよ。ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と申し上げておかないとあとになっていさくさ[#「いさくさ」に傍点]が起こるのはいやですから……愛さんお前も聞いているだろうね」
そういって葉子は畳の上で貞世の胸にあてる湿布を縫っている愛子のほうにも振り向いた。うなだれた愛子は顔も上げず返事もしなかったから、どんな様子を顔に見せたかを知る由はなかったが、岡は羞恥のために葉子を見かえる事もできないくらいになっていた。それはしかし岡が葉子のあまりといえば露骨な言葉を恥じたのか、自分の心持ちをあばかれたのを恥じたのか葉子の迷いやすくなった心にはしっかり[#「しっかり」に傍点]と見窮められなかった。
これにつけかれにつけもどかしい事ばかりだった。葉子は自分の目で二人を看視して同時に倉地を間接に看視するよりほかはないと思った。こんな事を思うすぐそばから葉子は倉地の細君の事も思った。今ごろは彼らはのう[#「のう」に傍点]のうとして邪魔者がいなくなったのを喜びながら一つ家に住んでいないとも限らないのだ。それとも倉地の事だ、第二第三の葉子が葉子の不幸をいい事にして倉地のそばに現われているのかもしれない。……しかし今の場合倉地の行くえを尋ねあてる事はちょっとむずかしい。
それからというもの葉子の心は一秒の間も休まらなかった。もちろん今まででも葉子は人一倍心の働く女だったけれども、そのころのような激しさはかつてなかった。しかもそれがいつも表から裏を行く働きかただった。それは自分ながら全く地獄の苛責だった。
そのころから葉子はしばしば自殺という事を深く考えるようになった。それは自分でも恐ろしいほどだった。肉体の生命を絶つ事のできるような物さえ目に触れれば、葉子の心はおびえながらもはっ[#「はっ」に傍点]と高鳴った。薬局の前を通るとずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならんだ薬びんが誘惑のように目を射た。看護婦が帽子を髪にとめるための長い帽子ピン、天井の張ってない湯殿の梁、看護婦室に薄赤い色をして金だらいにたたえられた昇汞水、腐敗した牛乳、剃刀、鋏、夜ふけなどに上野のほうから聞こえて来る汽車の音、病室からながめられる生理学教室の三階の窓、密閉された部屋、しごき帯、……なんでもかでもが自分の肉を喰む毒蛇のごとく鎌首を立てて自分を待ち伏せしているように思えた。ある時はそれらをこの上なく恐ろしく、ある時はまたこの上なく親しみ深くながめやった。一匹の蚊にさされた時さえそれがマラリヤを伝える種類であるかないかを疑ったりした。
「もう自分はこの世の中に何の用があろう。死にさえすればそれで事は済むのだ。この上自身も苦しみたくない。他人も苦しめたくない。いやだいやだと思いながら自分と他人とを苦しめているのが堪えられない。眠りだ。長い眠りだ。それだけのものだ」
と貞世の寝息をうかがいながらしっかり[#「しっかり」に傍点]思い込むような時もあったが、同時に倉地がどこかで生きているのを考えると、たちまち燕返しに死から生のほうへ、苦しい煩悩の生のほうへ激しく執着して行った。倉地の生きてる間に死んでなるものか……それは死よりも強い誘惑だった。意地にかけても、肉体のすべての機関がめちゃめちゃになっても、それでも生きていて見せる。……葉子はそしてそのどちらにもほんとうの決心のつかない自分にまた苦しまねばならなかった。
すべてのものを愛しているのか憎んでいるのかわからなかった。貞世に対してですらそうだった。葉子はどうかすると、熱に浮かされて見さかいのなくなっている貞世を、継母がまま子をいびり抜くように没義道に取り扱った。そして次の瞬間には後悔しきって、愛子の前でも看護婦の前でも構わずにおいおいと泣きくずおれた。
貞世の病状は悪くなるばかりだった。
ある時伝染病室の医長が来て、葉子が今のままでいてはとても健康が続かないから、思いきって手術をしたらどうだと勧告した。黙って聞いていた葉子は、すぐ岡の差し入れ口だと邪推して取った。その後ろには愛子がいるに違いない。葉子が付いていたのでは貞世の病気はなおるどころか悪くなるばかりだ(それは葉子もそう思っていた。葉子は貞世を全快させてやりたいのだ。けれどもどうしてもいびらなければいられないのだ。それはよく葉子自身が知っていると思っていた)。それには葉子をなんとかして貞世から離しておくのが第一だ。そんな相談を医長としたものがいないはずがない。ふむ、……うまい事を考えたものだ。その復讐はきっとしてやる。根本的に病気をなおしてからしてやるから見ているがいい。葉子は医長との対話の中に早くもこう決心した。そうして思いのほか手っ取り早く手術を受けようと進んで返答した。
婦人科の室は伝染病室とはずっと離れた所に近ごろ新築された建て物の中にあった。七月のなかばに葉子はそこに入院する事になったが、その前に岡と古藤とに依頼して、自分の身ぢかにある貴重品から、倉地の下宿に運んである衣類までを処分してもらわなければならなかった。金の出所は全くとだえてしまっていたから。岡がしきりと融通しようと申し出たのもすげなく断わった。弟同様の少年から金まで融通してもらうのはどうしても葉子のプライドが承知しなかった。
葉子は特等を選んで日当たりのいい広々とした部屋にはいった。そこは伝染病室とは比べものにもならないくらい新式の設備の整った居心地のいい所だった。窓の前の庭はまだ掘りくり返したままで赤土の上に草も生えていなかったけれども、広い廊下の冷ややかな空気は涼しく病室に通りぬけた。葉子は六月の末以来始めて寝床の上に安々とからだを横たえた。疲労が回復するまでしばらくの間手術は見合わせるというので葉子は毎日一度ずつ内診をしてもらうだけでする事もなく日を過ごした。
しかし葉子の精神は興奮するばかりだった。一人になって暇になってみると、自分の心身がどれほど破壊されているかが自分ながら恐ろしいくらい感ぜられた。よくこんなありさまで今まで通して来たと驚くばかりだった。寝台の上に臥てみると二度と起きて歩く勇気もなく、また実際できもしなかった。ただ鈍痛とのみ思っていた痛みは、どっち[#「どっち」に傍点]に臥返ってみても我慢のできないほどな激痛になっていて、気が狂うように頭は重くうずいた。我慢にも貞世を見舞うなどという事はできなかった。
こうして臥ながらにも葉子は断片的にいろいろな事を考えた。自分の手もとにある金の事をまず思案してみた。倉地から受け取った金の残りと、調度類を売り払ってもらってできたまとまった金とが何もかにもこれから姉妹三人を養って行くただ一つの資本だった。その金が使い尽くされた後には今のところ、何をどうするという目途は露ほどもなかった。葉子はふだんの葉子に似合わずそれが気になり出してしかたがなかった。特等室なぞにはいり込んだ事が後悔されるばかりだった。といって今になって等級の下がった病室に移してもらうなどとは葉子としては思いもよらなかった。
葉子はぜいたくな寝台の上に横になって、羽根枕に深々と頭を沈めて、氷嚢を額にあてがいながら、かんかんと赤土にさしている真夏の日の光を、広々と取った窓を通してながめやった。そうして物心ついてからの自分の過去を針で揉み込むような頭の中でずっと見渡すように考えたどってみた。そんな過去が自分のものなのか、そう疑って見ねばならぬほどにそれははるかにもかけ隔たった事だった。父母――ことに父のなめるような寵愛の下に何一つ苦労を知らずに清い美しい童女としてすらすらと育ったあの時分がやはり自分の過去なのだろうか。木部との恋に酔いふけって、国分寺の櫟の林の中で、その胸に自分の頭を託して、木部のいう一語一語を美酒のように飲みほしたあの少女はやはり自分なのだろうか。女の誇りという誇りを一身に集めたような美貌と才能の持ち主として、女たちからは羨望の的となり、男たちからは嘆美の祭壇とされたあの青春の女性はやはりこの自分なのだろうか。誤解の中にも攻撃の中にも昂然と首をもたげて、自分は今の日本に生まれて来べき女ではなかったのだ。不幸にも時と所とを間違えて天上から送られた王女であるとまで自分に対する矜誇に満ちていた、あの妖婉な女性はまごうかたなく自分なのだろうか。絵島丸の中で味わい尽くしなめ尽くした歓楽と陶酔との限りは、始めて世に生まれ出た生きがいをしみじみと感じた誇りがなしばらくは今の自分と結びつけていい過去の一つなのだろうか……日はかんかんと赤土の上に照りつけていた。油蝉の声は御殿の池をめぐる鬱蒼たる木立ちのほうからしみ入るように聞こえていた。近い病室では軽病の患者が集まって、何かみだららしい雑談に笑い興じている声が聞こえて来た。それは実際なのか夢なのか。それらのすべては腹立たしい事なのか、哀しい事なのか、笑い捨つべき事なのか、嘆き恨まねばならぬ事なのか。……喜怒哀楽のどれか一つだけでは表わし得ない、不思議に交錯した感情が、葉子の目からとめどなく涙を誘い出した。あんな世界がこんな世界に変わってしまった。そうだ貞世が生死の境にさまよっているのはまちがいようのない事実だ。自分の健康が衰え果てたのも間違いのない出来事だ。もし毎日貞世を見舞う事ができるのならばこのままここにいるのもいい。しかし自分のからだの自由さえ今はきかなくなった。手術を受ければどうせ[#「どうせ」に傍点]当分は身動きもできないのだ。岡や愛子……そこまで来ると葉子は夢の中にいる女ではなかった。まざまざとした煩悩が勃然としてその歯がみした物すごい鎌首をきっ[#「きっ」に傍点]ともたげるのだった。それもよし。近くいても看視のきかないのを利用したくば思うさま利用するがいい。倉地と三人で勝手な陰謀を企てるがいい。どうせ看視のきかないものなら、自分は貞世のためにどこか第二流か第三流の病院に移ろう。そしていくらでも貞世のほうを安楽にしてやろう。葉子は貞世から離れるといちずにそのあわれさが身にしみてこう思った。
葉子はふと[#「ふと」に傍点]つやの事を思い出した。つやは看護婦になって京橋あたりの病院にいると双鶴館からいって来たのを思い出した。愛子を呼び寄せて電話でさがさせようと決心した。
四六
まっ暗な廊下が古ぼけた縁側になったり、縁側の突き当たりに階子段があったり、日当たりのいい中二階のような部屋があったり、納戸と思われる暗い部屋に屋根を打ち抜いてガラスをはめて光線が引いてあったりするような、いわばその界隈にたくさんある待合の建て物に手を入れて使っているような病院だった。つやは加治木病院というその病院の看護婦になっていた。
長く天気が続いて、そのあとに激しい南風が吹いて、東京の市街はほこりまぶれになって、空も、家屋も、樹木も、黄粉でまぶしたようになったあげく、気持ち悪く蒸し蒸しと膚を汗ばませるような雨に変わったある日の朝、葉子はわずかばかりな荷物を持って人力車で加治木病院に送られた。後ろの車には愛子が荷物の一部分を持って乗っていた。須田町に出た時、愛子の車は日本橋の通りをまっすぐに一足先に病院に行かして、葉子は外濠に沿うた道を日本銀行からしばらく行く釘店の横丁に曲がらせた。自分の住んでいた家を他所ながら見て通りたい心持ちになっていたからだった。前幌のすきまからのぞくのだったけれども、一年の後にもそこにはさして変わった様子は見えなかった。自分のいた家の前でちょっと車を止まらして中をのぞいて見た。門札には叔父の名はなくなって、知らない他人の姓名が掲げられていた。それでもその人は医者だと見えて、父の時分からの永寿堂病院という看板は相変わらず玄関の※[13]に見えていた。長三洲と署名してあるその字も葉子には親しみの深いものだった。葉子がアメリカに出発した朝も九月ではあったがやはりその日のようにじめじめと雨の降る日だったのを思い出した。愛子が櫛を折って急に泣き出したのも、貞世が怒ったような顔をして目に涙をいっぱいためたまま見送っていたのもその玄関を見ると描くように思い出された。
「もういい早くやっておくれ」
そう葉子は車の上から涙声でいった。車は梶棒を向け換えられて、また雨の中を小さく揺れながら日本橋のほうに走り出した。葉子は不思議にそこに一緒に住んでいた叔父叔母の事を泣きながら思いやった。あの人たちは今どこにどうしているだろう。あの白痴の子ももうずいぶん大きくなったろう。でも渡米を企ててからまだ一年とはたっていないんだ。へえ、そんな短い間にこれほどの変化が……葉子は自分で自分にあきれるようにそれを思いやった。それではあの白痴の子も思ったほど大きくなっているわけではあるまい。葉子はその子の事を思うとどうしたわけか定子の事を胸が痛むほどきびしくおもい出してしまった。鎌倉に行った時以来、自分のふところからもぎ放してしまって、金輪際忘れてしまおうと堅く心に契っていたその定子が……それはその場合葉子を全く惨めにしてしまった。
病院に着いた時も葉子は泣き続けていた。そしてその病院のすぐ手前まで来て、そこに入院しようとした事を心から後悔してしまった。こんな落魄したような姿をつやに見せるのが堪えがたい事のように思われ出したのだ。
暗い二階の部屋に案内されて、愛子が準備しておいた床に横になると葉子はだれに挨拶もせずにただ泣き続けた。そこは運河の水のにおいが泥臭く通って来るような所だった。愛子は煤けた障子の陰で手回りの荷物を取り出して案配した。口少なの愛子は姉を慰めるような言葉も出さなかった。外部が騒々しいだけに部屋の中はなおさらひっそり[#「ひっそり」に傍点]と思われた。
葉子はやがて静かに顔をあげて部屋の中を見た。愛子の顔色が黄色く見えるほどその日の空も部屋の中も寂れていた。少し黴を持ったようにほこりっぽくぶく[#「ぶく」に傍点]ぶくする畳の上には丸盆の上に大学病院から持って来た薬びんが乗せてあった。障子ぎわには小さな鏡台が、違い棚には手文庫と硯箱が飾られたけれども、床の間には幅物一つ、花活け一つ置いてなかった。その代わりに草色の風呂敷に包み込んだ衣類と黒い柄のパラソルとが置いてあった。薬びんの乗せてある丸盆が、出入りの商人から到来のもので、縁の所に剥げた所ができて、表には赤い短冊のついた矢が的に命中している画が安っぽい金で描いてあった。葉子はそれを見ると盆もあろうにと思った。それだけでもう葉子は腹が立ったり情けなくなったりした。
「愛さんあなた御苦労でも毎日ちょっとずつは来てくれないじゃ困りますよ。貞ちゃんの様子も聞きたいしね。……貞ちゃんも頼んだよ。熱が下がって物事がわかるようになる時にはわたしもなおって帰るだろうから……愛さん」
いつものとおりはき[#「はき」に傍点]はきとした手答えがないので、もうぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりして来た葉子は剣を持った声で、「愛さん」と語気強く呼びかけた。言葉をかけるとそれでも片づけものの手を置いて葉子のほうに向き直った愛子は、この時ようやく顔を上げておとなしく「はい」と返事をした。葉子の目はすかさずその顔を発矢とむちうった。そして寝床の上に半身を肘にささえて起き上がった。車で揺られたために腹部は痛みを増して声をあげたいほどうずいていた。
「あなたにきょうははっきり[#「はっきり」に傍点]聞いておきたい事があるの……あなたはよもや岡さんとひょん[#「ひょん」に傍点]な約束なんぞしてはいますまいね」
「いゝえ」
愛子は手もなく素直にこう答えて目を伏せてしまった。
「古藤さんとも?」
「いゝえ」
今度は顔を上げて不思議な事を問いただすというようにじっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見つめながらこう答えた。そのタクトがあるような、ないような愛子の態度が葉子をいやが上にいらだたした。岡の場合にはどこか後ろめたくて首をたれたとも見える。古藤の場合にはわざとしら[#「しら」に傍点]を切るために大胆に顔を上げたとも取れる。またそんな意味ではなく、あまり不思議な詰問が二度まで続いたので、二度目には怪訝に思って顔を上げたのかとも考えられる。葉子は畳みかけて倉地の事まで問い正そうとしたが、その気分はくだかれてしまった。そんな事を聞いたのが第一愚かだった。隠し立てをしようと決心した以上は、女は男よりもはるかに巧妙で大胆なのを葉子は自分で存分に知り抜いているのだ。自分から進んで内兜を見透かされたようなもどかしさ[#「もどかしさ」に傍点]はいっそう葉子の心を憤らした。
「あなたは二人から何かそんな事をいわれた覚えがあるでしょう。その時あなたはなんと御返事したの」
愛子は下を向いたまま黙っていた。葉子は図星をさしたと思って嵩にかかって行った。
「わたしは考えがあるからあなたの口からもその事を聞いておきたいんだよ。おっしゃいな」
「お二人ともなんにもそんな事はおっしゃりはしませんわ」
「おっしゃらない事があるもんかね」
憤怒に伴ってさしこんで来る痛みを憤怒と共にぐっ[#「ぐっ」に傍点]と押えつけながら葉子はわざと声を和らげた。そうして愛子の挙動を爪の先ほども見のがすまいとした。愛子は黙ってしまった。この沈黙は愛子の隠れ家だった。そうなるとさすがの葉子もこの妹をどう取り扱う術もなかった。岡なり古藤なりが告白をしているのなら、葉子がこの次にいい出す言葉で様子は知れる。この場合うっかり[#「うっかり」に傍点]葉子の口車には乗られないと愛子は思って沈黙を守っているのかもしれない。岡なり古藤なりから何か聞いているのなら、葉子はそれを十倍も二十倍もの強さにして使いこなす術を知っているのだけれども、あいにくその備えはしていなかった。愛子は確かに自分をあなどり出していると葉子は思わないではいられなかった。寄ってたかって大きな詐偽の網を造って、その中に自分を押しこめて、周囲からながめながらおもしろそうに笑っている。岡だろうが古藤だろうが何があて[#「あて」に傍点]になるものか。……葉子は手傷を負った猪のように一直線に荒れて行くよりしかたがなくなった。
「さあお言い愛さん、お前さんが黙ってしまうのは悪い癖ですよ。ねえさんを甘くお見でないよ。……お前さんほんとうに黙ってるつもりかい……そうじゃないでしょう、あればあるなければないで、はっきり[#「はっきり」に傍点]わかるように話をしてくれるんだろうね……愛さん……あなたは心からわたしを見くびってかかるんだね」
「そうじゃありません」
あまり葉子の言葉が激して来るので、愛子は少しおそれを感じたらしくあわててこういって言葉でささえようとした。
「もっとこっち[#「こっち」に傍点]においで」
愛子は動かなかった。葉子の愛子に対する憎悪は極点に達した。葉子は腹部の痛みも忘れて、寝床から跳り上がった。そうしていきなり[#「いきなり」に傍点]愛子のたぶさ[#「たぶさ」に傍点]をつかもうとした。
愛子はふだんの冷静に似ず、葉子の発作を見て取ると、敏捷に葉子の手もとをすり抜けて身をかわした。葉子はふらふらとよろけて一方の手を障子紙に突っ込みながら、それでも倒れるはずみ[#「はずみ」に傍点]に愛子の袖先をつかんだ。葉子は倒れながらそれをたぐり寄せた。醜い姉妹の争闘が、泣き、わめき、叫び立てる声の中に演ぜられた。愛子は顔や手に掻き傷を受け、髪をおどろに乱しながらも、ようやく葉子の手を振り放して廊下に飛び出した。葉子はよろよろとした足取りでそのあとを追ったが、とても愛子の敏捷さにはかなわなかった。そして階子段の降り口の所でつやに食い止められてしまった。葉子はつやの肩に身を投げかけながらおいおいと声を立てて子供のように泣き沈んでしまった。
幾時間かの人事不省の後に意識がはっきり[#「はっきり」に傍点]してみると、葉子は愛子とのいきさつ[#「いきさつ」に傍点]をただ悪夢のように思い出すばかりだった。しかもそれは事実に違いない。枕もとの障子には葉子の手のさし込まれた孔が、大きく破れたまま残っている。入院のその日から、葉子の名は口さがない婦人患者の口の端にうるさくのぼっているに違いない。それを思うと一時でもそこにじっ[#「じっ」に傍点]としているのが、堪えられない事だった。葉子はすぐほかの病院に移ろうと思ってつやにいいつけた。しかしつやはどうしてもそれを承知しなかった。自分が身に引き受けて看護するから、ぜひともこの病院で手術を受けてもらいたいとつやはいい張った。葉子から暇を出されながら、妙に葉子に心を引きつけられているらしい姿を見ると、この場合葉子はつやにしみじみとした愛を感じた。清潔な血が細いしなやかな血管を滞りなく流れ回っているような、すべすべと健康らしい、浅黒いつやの皮膚は何よりも葉子には愛らしかった。始終吹き出物でもしそうな、膿っぽい女を葉子は何よりも呪わしいものに思っていた。葉子はつやのまめやか[#「まめやか」に傍点]な心と言葉に引かされてそこにい残る事にした。
これだけ貞世から隔たると葉子は始めて少し気のゆるむのを覚えて、腹部の痛みで突然目をさますほかにはたわいなく眠るような事もあった。しかしなんといってもいちばん心にかかるものは貞世だった。ささくれて、赤くかわいた口びるからもれ出るあの囈言……それがどうかすると近々と耳に聞こえたり、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と目を開いたりするその顔が浮き出して見えたりした。そればかりではない、葉子の五官は非常に敏捷になって、おまけにイリュウジョンやハルシネーションを絶えず見たり聞いたりするようになってしまった。倉地なんぞはすぐそばにすわっているなと思って、苦しさに目をつぶりながら手を延ばして畳の上を探ってみる事などもあった。そんなにはっきり[#「はっきり」に傍点]見えたり聞こえたりするものが、すべて虚構であるのを見いだすさびしさはたとえようがなかった。
愛子は葉子が入院の日以来感心に毎日訪れて貞世の容体を話して行った。もう始めの日のような狼藉はしなかったけれども、その顔を見たばかりで、葉子は病気が重るように思った。ことに貞世の病状が軽くなって行くという報告は激しく葉子を怒らした。自分があれほどの愛着をこめて看護してもよくならなかったものが、愛子なんぞの通り一ぺんの世話でなおるはずがない。また愛子はいいかげんな気休めに虚言をついているのだ。貞世はもうひょっとすると死んでいるかもしれない。そう思って岡が尋ねて来た時に根掘り葉掘り聞いてみるが、二人の言葉があまりに符合するので、貞世のだんだんよくなって行きつつあるのを疑う余地はなかった。葉子には運命が狂い出したようにしか思われなかった。愛情というものなしに病気がなおせるなら、人の生命は機械でも造り上げる事ができるわけだ。そんなはずはない。それだのに貞世はだんだんよくなって行っている。人ばかりではない、神までが、自分を自然法の他の法則でもてあそぼうとしているのだ。
葉子は歯がみをしながら貞世が死ねかしと祈るような瞬間を持った。
日はたつけれども倉地からはほんとうになんの消息もなかった。病的に感覚の興奮した葉子は、時々肉体的に倉地を慕う衝動に駆り立てられた。葉子の心の目には、倉地の肉体のすべての部分は触れる事ができると思うほど具体的に想像された。葉子は自分で造り出した不思議な迷宮の中にあって、意識のしびれきるような陶酔にひたった。しかしその酔いがさめたあとの苦痛は、精神の疲弊と一緒に働いて、葉子を半死半生の堺に打ちのめした。葉子は自分の妄想に嘔吐を催しながら、倉地といわずすべての男を呪いに呪った。
いよいよ葉子が手術を受けるべき前の日が来た。葉子はそれをさほど恐ろしい事とは思わなかった。子宮後屈症と診断された時、買って帰って読んだ浩澣な医書によって見ても、その手術は割合に簡単なものであるのを知り抜いていたから、その事については割合に安々とした心持ちでいる事ができた。ただ名状し難い焦躁と悲哀とはどう片づけようもなかった。毎日来ていた愛子の足は二日おきになり三日おきになりだんだん遠ざかった。岡などは全く姿を見せなくなってしまった。葉子は今さらに自分のまわりをさびしく見回してみた。出あうかぎりの男と女とが何がなしにひき着けられて、離れる事ができなくなる、そんな磁力のような力を持っているという自負に気負って、自分の周囲には知ると知らざるとを問わず、いつでも無数の人々の心が待っているように思っていた葉子は、今はすべての人から忘られ果てて、大事な定子からも倉地からも見放し見放されて、荷物のない物置き部屋のような貧しい一室のすみっこに、夜具にくるまって暑気に蒸されながらくずれかけた五体をたよりなく横たえねばならぬのだ。それは葉子に取ってはあるべき事とは思われぬまでだった。しかしそれが確かな事実であるのをどうしよう。
それでも葉子はまだ立ち上がろうとした。自分の病気が癒えきったその時を見ているがいい。どうして倉地をもう一度自分のものに仕遂せるか、それを見ているがいい。
葉子は脳心にたぐり込まれるような痛みを感ずる両眼から熱い涙を流しながら、徒然なままに火のような一心を倉地の身の上に集めた。葉子の顔にはいつでもハンケチがあてがわれていた。それが十分もたたないうちに熱くぬれ通って、つやに新しいのと代えさせねばならなかった。
四七
その夜六時すぎ、つやが来て障子を開いてだんだん満ちて行こうとする月が瓦屋根の重なりの上にぽっかりのぼったのをのぞかせてくれている時、見知らぬ看護婦が美しい花束と大きな西洋封筒に入れた手紙とを持ってはいって来てつやに渡した。つやはそれを葉子の枕もとに持って来た。葉子はもう花も何も見る気にはなれなかった。電気もまだ来ていないのでつやにその手紙を読ませてみた。つやは薄明りにすかしすかし読みにくそうに文字を拾った。
[#ここから1字下げ]
「あなたが手術のために入院なさった事を岡君から聞かされて驚きました。で、きょうが外出日であるのを幸いにお見舞いします。
「僕はあなたにお目にかかる気にはなりません。僕はそれほど偏狭に出来上がった人間です。けれども僕はほんとうにあなたをお気の毒に思います。倉地という人間が日本の軍事上の秘密を外国にもらす商売に関係した事が知れるとともに、姿を隠したという報道を新聞で見た時、僕はそんなに驚きませんでした。しかし倉地には二人ほどの外妾があると付け加えて書いてあるのを見て、ほんとうにあなたをお気の毒に思いました。この手紙を皮肉に取らないでください。僕には皮肉はいえません。
「僕はあなたが失望なさらないように祈ります。僕は来週の月曜日から習志野のほうに演習に行きます。木村からのたよりでは、彼は窮迫の絶頂にいるようです。けれども木村はそこを突き抜けるでしょう。
「花を持って来てみました。お大事に。
古 藤 生」
[#ここで字下げ終わり]
つやはつかえつかえそれだけを読み終わった。始終古藤をはるか年下な子供のように思っている葉子は、一種侮蔑するような無感情をもってそれを聞いた。倉地が外妾を二人持ってるといううわさは初耳ではあるけれども、それは新聞の記事であってみればあて[#「あて」に傍点]にはならない。その外妾二人というのが、美人屋敷と評判のあったそこに住む自分と愛子ぐらいの事を想像して、記者ならばいいそうな事だ。ただそう軽くばかり思ってしまった。
つやがその花束をガラスびんにいけて、なんにも飾ってない床の上に置いて行ったあと、葉子は前同様にハンケチを顔にあてて、機械的に働く心の影と戦おうとしていた。
その時突然死が――死の問題ではなく――死がはっきり[#「はっきり」に傍点]と葉子の心に立ち現われた。もし手術の結果、子宮底に穿孔ができるようになって腹膜炎を起こしたら、命の助かるべき見込みはないのだ。そんな事をふと思い起こした。部屋の姿も自分の心もどこといって特別に変わったわけではなかったけれども、どことなく葉子の周囲には確かに死の影がさまよっているのをしっかりと感じないではいられなくなった。それは葉子が生まれてから夢にも経験しない事だった。これまで葉子が死の問題を考えた時には、どうして死を招き寄せようかという事ばかりだった。しかし今は死のほうがそろそろと近寄って来ているのだ。
月はだんだん光を増して行って、電灯に灯もともっていた。目の先に見える屋根の間からは、炊煙だか、蚊遣り火だかがうっすらと水のように澄みわたった空に消えて行く。履き物、車馬の類、汽笛の音、うるさいほどの人々の話し声、そういうものは葉子の部屋をいつものとおり取り巻きながら、そして部屋の中はとにかく整頓して灯がともっていて、少しの不思議もないのに、どことも知れずそこには死がはい寄って来ていた。
葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、血の代わりに心臓の中に氷の水を瀉ぎこまれたように思った。死のうとする時はとうとう葉子には来ないで、思いもかけず死ぬ時が来たんだ。今までとめどなく流していた涙は、近づくあらしの前のそよ風のようにどこともなく姿をひそめてしまっていた。葉子はあわてふためいて、大きく目を見開き、鋭く耳をそびやかして、そこにある物、そこにある響きを捕えて、それにすがり付きたいと思ったが、目にも耳にも何か感ぜられながら、何が何やら少しもわからなかった。ただ感ぜられるのは、心の中がわけもなくただわくわくとして、すがりつくものがあれば何にでもすがりつきたいと無性にあせっている、その目まぐるしい欲求だけだった。葉子は震える手で枕をなで回したり、シーツをつまみ上げてじっ[#「じっ」に傍点]と握り締めてみたりした。冷たい油汗が手のひらににじみ出るばかりで、握ったものは何の力にもならない事を知った。その失望は形容のできないほど大きなものだった。葉子は一つの努力ごとにがっかり[#「がっかり」に傍点]して、また懸命にたよりになるもの、根のあるようなものを追い求めてみた。しかしどこをさがしてみてもすべての努力が全くむだなのを心では本能的に知っていた。
周囲の世界は少しのこだわり[#「こだわり」に傍点]もなくずるずると平気で日常の営みをしていた。看護婦が草履で廊下を歩いて行く、その音一つを考えてみても、そこには明らかに生命が見いだされた。その足は確かに廊下を踏み、廊下は礎に続き、礎は大地に据えられていた。患者と看護婦との間に取りかわされる言葉一つにも、それを与える人と受ける人とがちゃん[#「ちゃん」に傍点]と大地の上に存在していた。しかしそれらは奇妙にも葉子とは全く無関係で没交渉だった。葉子のいる所にはどこにも底がない事を知らねばならなかった。深い谷に誤って落ち込んだ人が落ちた瞬間に感ずるあの焦躁……それが連続してやむ時なく葉子を襲うのだった。深さのわからないような暗い闇が、葉子をただ一人まん中に据えておいて、果てしなくそのまわりを包もうと静かに静かに近づきつつある。葉子は少しもそんな事を欲しないのに、葉子の心持ちには頓着なく、休む事なくとどまる事なく、悠々閑々として近づいて来る。葉子は恐ろしさにおびえて声も得上げなかった。そしてただそこからのがれ出たい一心に心ばかりがあせりにあせった。
もうだめだ、力が尽き切ったと、観念しようとした時、しかし、その奇怪な死は、すうっ[#「すうっ」に傍点]と朝霧が晴れるように、葉子の周囲から消えうせてしまった。見た所、そこには何一つ変わった事もなければ変わった物もない。ただ夏の夕が涼しく夜につながろうとしているばかりだった。葉子はきょとん[#「きょとん」に傍点]として庇の下に水々しく漂う月を見やった。
ただ不思議な変化の起こったのは心ばかりだった。荒磯に波また波が千変万化して追いかぶさって来ては激しく打ちくだけて、まっ白な飛沫を空高く突き上げるように、これといって取り留めのない執着や、憤りや、悲しみや、恨みやが蛛手によれ合って、それが自分の周囲の人たちと結び付いて、わけもなく葉子の心をかきむしっていたのに、その夕方の不思議な経験のあとでは、一筋の透明なさびしさだけが秋の水のように果てしもなく流れているばかりだった。不思議な事には寝入っても忘れきれないほどな頭脳の激痛も痕なくなっていた。
神がかりにあった人が神から見放された時のように、葉子は深い肉体の疲労を感じて、寝床の上に打ち伏さってしまった。そうやっていると自分の過去や現在が手に取るようにはっきり[#「はっきり」に傍点]考えられ出した。そして冷ややかな悔恨が泉のようにわき出した。
「間違っていた……こう世の中を歩いて来るんじゃなかった。しかしそれはだれの罪だ。わからない。しかしとにかく自分には後悔がある。できるだけ、生きてるうちにそれを償っておかなければならない」
内田の顔がふと葉子には思い出された。あの厳格なキリストの教師ははたして葉子の所に尋ねて来てくれるかどうかわからない。そう思いながらも葉子はもう一度内田にあって話をしたい心持ちを止める事ができなかった。
葉子は枕もとのベルを押してつやを呼び寄せた。そして手文庫の中から洋紙でとじた手帳を取り出さして、それに毛筆で葉子のいう事を書き取らした。
[#ここから1字下げ]
「木村さんに。
「わたしはあなたを詐っておりました。わたしはこれから他の男に嫁入ります。あなたはわたしを忘れてくださいまし。わたしはあなたの所に行ける女ではないのです。あなたのお思い違いを充分御自分で調べてみてくださいまし。
「倉地さんに。
「わたしはあなたを死ぬまで。けれども二人とも間違っていた事を今はっきり[#「はっきり」に傍点]知りました。死を見てから知りました。あなたにはおわかりになりますまい。わたしは何もかも恨みはしません。あなたの奥さんはどうなさっておいでです。……わたしは一緒に泣く事ができる。
「内田のおじさんに。
「わたしは今夜になっておじさんを思い出しました。おば様によろしく。
「木部さんに。
「一人の老女があなたの所に女の子を連れて参るでしょう。その子の顔を見てやってくださいまし。
「愛子と貞世に。
「愛さん、貞ちゃん、もう一度そう呼ばしておくれ。それでたくさん。
「岡さんに。
「わたしはあなたをも怒ってはいません。
「古藤さんに。
「お花とお手紙とをありがとう。あれからわたしは死を見ました。
七月二十一日 葉子」
[#ここで字下げ終わり]
つやはこんなぽつり[#「ぽつり」に傍点]ぽつりと短い葉子の言葉を書き取りながら、時々怪訝な顔をして葉子を見た。葉子の口びるはさびしく震えて、目にはこぼれない程度に涙がにじみ出していた。
「もうそれでいいありがとうよ。あなただけね、こんなになってしまったわたしのそばにいてくれるのは。……それだのに、わたしはこんなに零落した姿をあなたに見られるのがつらくって、来た日は途中からほかの病院に行ってしまおうかと思ったのよ。ばかだったわね」
葉子は口ではなつかしそうに笑いながら、ほろほろと涙をこぼしてしまった。
「それをこの枕の下に入れておいておくれ。今夜こそはわたし久しぶりで安々とした心持ちで寝られるだろうよ、あすの手術に疲れないようによく寝ておかないといけないわね。でもこんなに弱っていても手術はできるのかしらん……もう蚊帳をつっておくれ。そしてついでに寝床をもっとそっちに引っぱって行って、月の光が顔にあたるようにしてちょうだいな。戸は寝入ったら引いておくれ。……それからちょっとあなたの手をお貸し。……あなたの手は温かい手ね。この手はいい手だわ」
葉子は人の手というものをこんなになつかしいものに思った事はなかった。力をこめた手でそっと[#「そっと」に傍点]抱いて、いつまでもやさしくそれをなでていたかった。つやもいつか葉子の気分に引き入れられて、鼻をすするまでに涙ぐんでいた。
葉子はやがて打ち開いた障子から蚊帳越しにうっとり[#「うっとり」に傍点]と月をながめながら考えていた。葉子の心は月の光で清められたかと見えた。倉地が自分を捨てて逃げ出すために書いた狂言が計らずその筋の嫌疑を受けたのか、それとも恐ろしい売国の罪で金をすら葉子に送れぬようになったのか、それはどうでもよかった。よしんば妾が幾人あってもそれもどうでもよかった。ただすべてがむなしく見える中に倉地だけがただ一人ほんとうに生きた人のように葉子の心に住んでいた。互いを堕落させ合うような愛しかたをした、それも今はなつかしい思い出だった。木村は思えば思うほど涙ぐましい不幸な男だった。その思い入った心持ちは何事もわだかまりのなくなった葉子の胸の中を清水のように流れて通った。多年の迫害に復讐する時機が来たというように、岡までをそそのかして、葉子を見捨ててしまったと思われる愛子の心持ちにも葉子は同情ができた。愛子の情けに引かされて葉子を裏切った岡の気持ちはなおさらよくわかった。泣いても泣いても泣き足りないようにかわいそうなのは貞世だった。愛子はいまにきっと自分以上に恐ろしい道に踏み迷う女だと葉子は思った。その愛子のただ一人の妹として……もしも自分の命がなくなってしまった後は……そう思うにつけて葉子は内田を考えた。すべての人は何かの力で流れて行くべき先に流れて行くだろう。そしてしまいにはだれでも自分と同様に一人ぼっちになってしまうんだ。……どの人を見てもあわれまれる……葉子はそう思いふけりながら静かに静かに西に回って行く月を見入っていた。その月の輪郭がだんだんぼやけて来て、空の中に浮き漂うようになると、葉子のまつ毛の一つ一つにも月の光が宿った。涙が目じりからあふれて両方のこめかみの所をくすぐるようにする[#「する」に傍点]すると流れ下った。口の中は粘液で粘った。許すべき何人もない。許さるべき何事もない。ただあるがまま……ただ一抹の清い悲しい静けさ。葉子の目はひとりでに閉じて行った。整った呼吸が軽く小鼻を震わして流れた。
つやが戸をたてにそーっ[#「そーっ」に傍点]とその部屋にはいった時には、葉子は病気を忘れ果てたもののように、がたぴし[#「がたぴし」に傍点]と戸を締める音にも目ざめずに安らけく寝入っていた。
四八
その翌朝手術台にのぼろうとした葉子は昨夜の葉子とは別人のようだった。激しい呼鈴の音で呼ばれてつやが病室に来た時には、葉子は寝床から起き上がって、したため終わった手紙の状袋を封じている所だったが、それをつやに渡そうとする瞬間にいきなり[#「いきなり」に傍点]いやになって、口びるをぶるぶる震わせながらつやの見ている前でそれをずた[#「ずた」に傍点]ずたに裂いてしまった。それは愛子にあてた手紙だったのだ。きょうは手術を受けるから九時までにぜひとも立ち会いに来るようにとしたためたのだった。いくら気丈夫でも腹を立ち割る恐ろしい手術を年若い少女が見ていられないくらいは知っていながら、葉子は何がなしに愛子にそれを見せつけてやりたくなったのだ。自分の美しい肉体がむごたらしく傷つけられて、そこから静脈を流れているどす[#「どす」に傍点]黒い血が流れ出る、それを愛子が見ているうちに気が遠くなって、そのままそこに打ち倒れる、そんな事になったらどれほど快いだろうと葉子は思った。幾度来てくれろと電話をかけても、なんとか口実をつけてこのごろ見も返らなくなった愛子に、これだけの復讐をしてやるのでも少しは胸がすく、そう葉子は思ったのだ。しかしその手紙をつやに渡そうとする段になると、葉子には思いもかけぬ躊躇が来た。もし手術中にはしたな[#「はしたな」に傍点]い囈言でもいってそれを愛子に聞かれたら。あの冷刻な愛子が面もそむけずにじっと姉の肉体が切りさいなまれるのを見続けながら、心の中で存分に復讐心を満足するような事があったら。こんな手紙を受け取ってもてんで[#「てんで」に傍点]相手にしないで愛子が来なかったら……そんな事を予想すると葉子は手紙を書いた自分に愛想が尽きてしまった。
つやは恐ろしいまでに激昂した葉子の顔を見やりもし得ないで、おずおずと立ちもやらずにそこにかしこまっていた。葉子はそれがたまらないほど癪にさわった。自分に対してすべての人が普通の人間として交わろうとはしない。狂人にでも接するような仕打ちを見せる。だれも彼もそうだ。医者までがそうだ。
「もう用はないのよ。早くあっちにおいで。お前はわたしを気狂いとでも思っているんだろうね。……早く手術をしてくださいってそういっておいで。わたしはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と死ぬ覚悟をしていますからってね」
ゆうべなつかしく握ってやったつやの手の事を思い出すと、葉子は嘔吐を催すような不快を感じてこういった。きたないきたない何もかもきたない。つやは所在なげにそっ[#「そっ」に傍点]とそこを立って行った。葉子は目でかみつくようにその後ろ姿を見送った。
その日天気は上々で東向きの壁はさわってみたら内部からでもほんのり[#「ほんのり」に傍点]と暖かみを感ずるだろうと思われるほど暑くなっていた。葉子はきのうまでの疲労と衰弱とに似ず、その日は起きるとから黙って臥てはいられないくらい、からだが動かしたかった。動かすたびごとに襲って来る腹部の鈍痛や頭の混乱をいやが上にも募らして、思い存分の苦痛を味わってみたいような捨てばちな気分になっていた。そしてふらふらと少しよろけながら、衣紋も乱したまま部屋の中を片づけようとして床の間の所に行った。懸け軸もない床の間の片すみにはきのう古藤が持って来た花が、暑さのために蒸れたようにしぼみかけて、甘ったるい香を放ってうなだれていた。葉子はガラスびんごとそれを持って縁側の所に出た。そしてその花のかたまり[#「かたまり」に傍点]の中にむずと熱した手を突っ込んだ。死屍から来るような冷たさが葉子の手に伝わった。葉子の指先は知らず知らず縮まって没義道にそれを爪も立たんばかり握りつぶした。握りつぶしてはびんから引き抜いて手欄から戸外に投げ出した。薔薇、ダリア、小田巻、などの色とりどりの花がばらばらに乱れて二階から部屋の下に当たるきたない路頭に落ちて行った。葉子はほとんど無意識に一つかみずつそうやって投げ捨てた。そして最後にガラスびんを力任せにたたきつけた。びんは目の下で激しくこわれた。そこからあふれ出た水がかわききった縁側板に丸い斑紋をいくつとなく散らかして。
ふと見ると向こうの屋根の物干し台に浴衣の類を持って干しに上がって来たらしい女中風の女が、じっ[#「じっ」に傍点]と不思議そうにこっちを見つめているのに気がついた。葉子とは何の関係もないその女までが、葉子のする事を怪しむらしい様子をしているのを見ると、葉子の狂暴な気分はますます募った。葉子は手欄に両手をついてぶる[#「ぶる」に傍点]ぶると震えながら、その女をいつまでもいつまでもにらみつけた。女のほうでも葉子の仕打ちに気づいて、しばらくは意趣に見返すふうだったが、やがて一種の恐怖に襲われたらしく、干し物を竿に通しもせずにあたふた[#「あたふた」に傍点]とあわてて干し物台の急な階子を駆けおりてしまった。あとには燃えるような青空の中に不規則な屋根の波ばかりが目をちかちかさせて残っていた。葉子はなぜにとも知れぬため息を深くついてまんじり[#「まんじり」に傍点]とそのあからさま[#「あからさま」に傍点]な景色を夢かなぞのようにながめ続けていた。
やがて葉子はまたわれに返って、ふくよかな髪の中に指を突っ込んで激しく頭の地をかきながら部屋に戻った。
そこには寝床のそばに洋服を着た一人の男が立っていた。激しい外光から暗い部屋のほうに目を向けた葉子には、ただまっ黒な立ち姿が見えるばかりでだれとも見分けがつかなかった。しかし手術のために医員の一人が迎えに来たのだと思われた。それにしても障子のあく音さえしなかったのは不思議な事だ。はいって来ながら声一つかけないのも不思議だ。と、思うと得体のわからないその姿は、そのまわりの物がだんだん明らかになって行く間に、たった一つだけまっ黒なままでいつまでも輪郭を見せないようだった。いわば人の形をしたまっ暗な洞穴が空気の中に出来上がったようだった。始めの間好奇心をもってそれをながめていた葉子は見つめれば見つめるほど、その形に実質がなくって、まっ暗な空虚ばかりであるように思い出すと、ぞーっ[#「ぞーっ」に傍点]と水を浴びせられたように怖毛をふるった。「木村が来た」……何という事なしに葉子はそう思い込んでしまった。爪の一枚一枚までが肉に吸い寄せられて、毛という毛が強直して逆立つような薄気味わるさが総身に伝わって、思わず声を立てようとしながら、声は出ずに、口びるばかりがかすかに開いてぶるぶると震えた。そして胸の所に何か突きのけるような具合に手をあげたまま、ぴったり[#「ぴったり」に傍点]と立ち止まってしまった。
その時その黒い人の影のようなものが始めて動き出した。動いてみるとなんでもない、それはやはり人間だった。見る見るその姿の輪郭がはっきり[#「はっきり」に傍点]わかって来て、暗さに慣れて来た葉子の目にはそれが岡である事が知れた。
「まあ岡さん」
葉子はその瞬間のなつかしさに引き入れられて、今まで出なかった声をどもるような調子で出した。岡はかすかに頬を紅らめたようだった。そしていつものとおり上品に、ちょっと畳の上に膝をついて挨拶した。まるで一年も牢獄にいて、人間らしい人間にあわないでいた人のように葉子には岡がなつかしかった。葉子とはなんの関係もない広い世間から、一人の人が好意をこめて葉子を見舞うためにそこに天降ったとも思われた。走り寄ってしっかり[#「しっかり」に傍点]とその手を取りたい衝動を抑える事ができないほどに葉子の心は感激していた。葉子は目に涙をためながら思うままの振る舞いをした。自分でも知らぬ間に、葉子は、岡のそば近くすわって、右手をその肩に、左手を畳に突いて、しげしげと相手の顔を見やる自分を見いだした。
「ごぶさたしていました」
「よくいらしってくださってね」
どっち[#「どっち」に傍点]からいい出すともなく二人の言葉は親しげにからみ合った。葉子は岡の声を聞くと、急に今まで自分から逃げていた力が回復して来たのを感じた。逆境にいる女に対して、どんな男であれ、男の力がどれほど強いものであるかを思い知った。男性の頼もしさがしみじみと胸に逼った。葉子はわれ知らずすがり付くように、岡の肩にかけていた右手をすべらして、膝の上に乗せている岡の右手の甲の上からしっかり[#「しっかり」に傍点]と捕えた。岡の手は葉子の触覚に妙に冷たく響いて来た。
「長く長くおあいしませんでしたわね。わたしあなたを幽霊じゃないかと思いましてよ。変な顔つきをしたでしょう。貞世は……あなたけさ病院のほうからいらしったの?」
岡はちょっと返事をためらったようだった。
「いゝえ家から来ました。ですからわたし、きょうの御様子は知りませんが、きのうまでのところではだんだんおよろしいようです。目さえさめていらっしゃると『おねえ様おねえ様』とお泣きなさるのがほんとうにおかわいそうです」
葉子はそれだけ聞くともう感情がもろくなっていて胸が張り裂けるようだった。岡は目ざとくもそれを見て取って、悪い事をいったと思ったらしかった。そして少しあわてたように笑い足しながら、
「そうかと思うと、たいへんお元気な事もあります。熱の下がっていらっしゃる時なんかは、愛子さんにおもしろい本を読んでおもらいになって、喜んで聞いておいでです」
と付け足した。葉子は直覚的に岡がその場の間に合わせをいっているのだと知った。それは葉子を安心させるための好意であるとはいえ、岡の言葉は決して信用する事ができない。毎日一度ずつ大学病院まで見舞いに行ってもらうつやの言葉に安心ができないでいて、だれか目に見たとおりを知らせてくれる人はないかとあせっていた矢先、この人ならばと思った岡も、つや以上にいいかげんをいおうとしているのだ。この調子では、とうに貞世が死んでしまっていても、人たちは岡がいって聞かせるような事をいつまでも自分にいうのだろう。自分にはだれ一人として胸を開いて交際しようという人はいなくなってしまったのだ。そう思うとさびしいよりも、苦しいよりも、かっ[#「かっ」に傍点]と取りのぼせるほど貞世の身の上が気づかわれてならなくなった。
「かわいそうに貞世は……さぞやせてしまったでしょうね?」
葉子は口裏をひくようにこう尋ねてみた。
「始終見つけているせいですか、そんなにも見えません」
岡はハンカチで首のまわりをぬぐって、ダブル・カラーの合わせを左の手でくつろげながら少し息気苦しそうにこう答えた。
「なんにもいただけないんでしょうね」
「ソップと重湯だけですが両方ともよく食べなさいます」
「ひもじがっておりますか」
「いゝえそんなでも」
もう許せないと葉子は思い入って腹を立てた。腸チブスの予後にあるものが、食欲がない……そんなしらじらしい虚構があるものか。みんな虚構だ。岡のいう事もみんな虚構だ。昨夜は病院に泊まらなかったという、それも虚構でなくてなんだろう。愛子の熱情に燃えた手を握り慣れた岡の手が、葉子に握られて冷えるのももっともだ。昨夜はこの手は……葉子はひとみを定めて自分の美しい指にからまれた岡の美しい右手を見た。それは女の手のように白くなめらかだった。しかしこの手が昨夜は、……葉子は顔をあげて岡を見た。ことさらにあざやかに紅いその口びる……この口びるが昨夜は……眩暈がするほど一度に押し寄せて来た憤怒と嫉妬とのために、葉子は危うくその場にあり合わせたものにかみつこうとしたが、からくそれをささえると、もう熱い涙が目をこがすように痛めて流れ出した。
「あなたはよくうそをおつきなさるのね」
葉子はもう肩で息気をしていた。頭が激しい動悸のたびごとに震えるので、髪の毛は小刻みに生き物のようにおののいた。そして岡の手から自分の手を離して、袂から取り出したハンケチでそれを押しぬぐった。目に入る限りのもの、手に触れる限りのものがまたけがらわしく見え始めたのだ。岡の返事も待たずに葉子は畳みかけて吐き出すようにいった。
「貞世はもう死んでいるんです。それを知らないとでもあなたは思っていらっしゃるの。あなたや愛子に看護してもらえばだれでもありがたい往生ができましょうよ。ほんとうに貞世は仕合わせな子でした。……おゝおゝ貞世! お前はほんとに仕合わせな子だねえ。……岡さんいって聞かせてください、貞世はどんな死にかたをしたか。飲みたい死に水も飲まずに死にましたか。あなたと愛子がお庭を歩き回っているうちに死んでいましたか。それとも……それとも愛子の目が憎々しく笑っているその前で眠るように息気を引き取りましたか。どんなお葬式が出たんです。早桶はどこで注文なさったんです。わたしの早桶のより少し大きくしないとはいりませんよ。……わたしはなんというばかだろう早く丈夫になって思いきり貞世を介抱してやりたいと思ったのに……もう死んでしまったのですものねえ。うそです……それからなぜあなたも愛子ももっとしげしげわたしの見舞いには来てくださらないの。あなたはきょうわたしを苦しめに……なぶりにいらしったのね……」
「そんな飛んでもない!」
岡がせきこんで葉子の言葉の切れ目にいい出そうとするのを、葉子は激しい笑いでさえぎった。
「飛んでもない……そのとおり。あゝ頭が痛い。わたしは存分に呪いを受けました。御安心なさいましとも。決してお邪魔はしませんから。わたしはさんざん踊りました。今度はあなた方が踊っていい番ですものね。……ふむ、踊れるものならみごとに踊ってごらんなさいまし。……踊れるものなら、はゝゝ」
葉子は狂女のように高々と笑った。岡は葉子の物狂おしく笑うのを見ると、それを恥じるようにまっ紅になって下を向いてしまった。
「聞いてください」
やがて岡はこういってきっ[#「きっ」に傍点]となった。
「伺いましょう」
葉子もきっ[#「きっ」に傍点]となって岡を見やったが、すぐ口じりにむごたらしい皮肉な微笑をたたえた。それは岡の気先をさえ折るに充分なほどの皮肉さだった。
「お疑いなさってもしかたがありません。わたし、愛子さんには深い親しみを感じております……」
「そんな事なら伺うまでもありませんわ。わたしをどんな女だと思っていらっしゃるの。愛子さんに深い親しみを感じていらっしゃればこそ、けさはわざわざ何日ごろ死ぬだろうと見に来てくださったのね。なんとお礼を申していいか、そこはお察しくださいまし。きょうは手術を受けますから、死骸になって手術室から出て来る所をよっく御覧なさってあなたの愛子に知らせて喜ばしてやってくださいましよ。死にに行く前に篤とお礼を申します。絵島丸ではいろいろ御親切をありがとうございました。お陰様でわたしはさびしい世の中から救い出されました。あなたをおにいさんともお慕いしていましたが、愛子に対しても気恥ずかしくなりましたから、もうあなたとは御縁を断ちます。というまでもない事ですわね。もう時間が来ますからお立ちくださいまし」
「わたし、ちっとも[#「ちっとも」に傍点]知りませんでした。ほんとうにそのおからだで手術をお受けになるのですか」
岡はあきれたような顔をした。
「毎日大学に行くつやはばかですから何も申し上げなかったんでしょうよ。申し上げてもお聞こえにならなかったかもしれませんわね」
と葉子はほほえんで、まっさおになった顔にふりかかる髪の毛を左の手で器用にかき上げた。その小指はやせ細って骨ばかりのようになりながらも、美しい線を描いて折れ曲がっていた。
「それはぜひお延ばしくださいお願いしますから……お医者さんもお医者さんだと思います」
「わたしがわたしだもんですからね」
葉子はしげしげと岡を見やった。その目からは涙がすっかり[#「すっかり」に傍点]かわいて、額の所には油汗がにじみ出ていた。触れてみたら氷のようだろうと思われるような青白い冷たさが生えぎわかけて漂っていた。
「ではせめてわたしに立ち会わしてください」
「それほどまでにあなたはわたしがお憎いの?……麻酔中にわたしのいう囈口でも聞いておいて笑い話の種になさろうというのね。えゝ、ようごさいますいらっしゃいまし、御覧に入れますから。呪いのためにやせ細ってお婆さんのようになってしまったこのからだを頭から足の爪先まで御覧に入れますから……今さらおあきれになる余地もありますまいけれど」
そういって葉子はやせ細った顔にあらん限りの媚びを集めて、流眄に岡を見やった。岡は思わず顔をそむけた。
そこに若い医員がつやをつれてはいって来た。葉子は手術のしたくができた事を見て取った。葉子は黙って医員にちょっと挨拶したまま衣紋をつくろってすぐ座を立った。それに続いて部屋を出て来た岡などは全く無視した態度で、怪しげな薄暗い階子段を降りて、これも暗い廊下を四五間たどって手術室の前まで来た。つやが戸のハンドルを回してそれをあけると、手術室からはさすがにまぶしい豊かな光線が廊下のほうに流れて来た。そこで葉子は岡のほうに始めて振り返った。
「遠方をわざわざ御苦労さま。わたしはまだあなたに肌を御覧に入れるほどの莫連者にはなっていませんから……」
そう小さな声でいって悠々と手術室にはいって行った。岡はもちろん押し切ってあとについては来なかった。
着物を脱ぐ間に、世話に立ったつやに葉子はこうようやくにしていった。
「岡さんがはいりたいとおっしゃっても入れてはいけないよ。それから……それから(ここで葉子は何がなしに涙ぐましくなった)もしわたしが囈言のような事でもいいかけたら、お前に一生のお願いだからね、わたしの口を……口を抑えて殺してしまっておくれ。頼むよ。きっと!」
婦人科病院の事とて女の裸体は毎日幾人となく扱いつけているくせに、やはり好奇な目を向けて葉子を見守っているらしい助手たちに、葉子はやせさらばえた自分をさらけ出して見せるのが死ぬよりつらかった。ふとした出来心から岡に対していった言葉が、葉子の頭にはいつまでもこびり付いて、貞世はもうほんとうに死んでしまったもののように思えてしかたがなかった。貞世が死んでしまったのに何を苦しんで手術を受ける事があろう。そう思わないでもなかった。しかし場合が場合でこうなるよりしかたがなかった。
まっ白な手術衣を着た医員や看護婦に囲まれて、やはりまっ白な手術台は墓場のように葉子を待っていた。そこに近づくと葉子はわれにもなく急におびえが出た。思いきり鋭利なメスで手ぎわよく切り取ってしまったらさぞさっぱり[#「さっぱり」に傍点]するだろうと思っていた腰部の鈍痛も、急に痛みが止まってしまって、からだ全体がしびれるようにしゃちこば[#「しゃちこば」に傍点]って冷や汗が額にも手にもしとどに流れた。葉子はただ一つの慰藉のようにつやを顧みた。そのつやの励ますような顔をただ一つのたよりにして、細かく震えながら仰向けに冷やっとする手術台に横たわった。
医員の一人が白布の口あてを口から鼻の上にあてがった。それだけで葉子はもう息気がつまるほどの思いをした。そのくせ目は妙にさえて目の前に見る天井板の細かい木理までが動いて走るようにながめられた。神経の末梢が大風にあったようにざわざわと小気味わるく騒ぎ立った。心臓が息気苦しいほど時々働きを止めた。
やがて芳芬の激しい薬滴が布の上にたらされた。葉子は両手の脈所を医員に取られながら、その香いを薄気味わるくかいだ。
「ひとーつ」
執刀者が鈍い声でこういった。
「ひとーつ」
葉子のそれに応ずる声は激しく震えていた。
「ふたーつ」
葉子は生命の尊さをしみじみと思い知った。死もしくは死の隣へまでの不思議な冒険……そう思うと血は凍るかと疑われた。
「ふたーつ」
葉子の声はますます震えた。こうして数を読んで行くうちに、頭の中がしんしんと冴えるようになって行ったと思うと、世の中がひとりでに遠のくように思えた。葉子は我慢ができなかった。いきなり右手を振りほどいて力任せに口の所を掻い払った。しかし医員の力はすぐ葉子の自由を奪ってしまった。葉子は確かにそれにあらがっているつもりだった。
「倉地が生きている間――死ぬものか、……どうしてももう一度その胸に……やめてください。狂気で死ぬとも殺されたくはない。やめて……人殺し」
そう思ったのかいったのか、自分ながらどっちとも定めかねながら葉子はもだえた。
「生きる生きる……死ぬのはいやだ……人殺し!……」
葉子は力のあらん限り戦った、医者とも薬とも……運命とも……葉子は永久に戦った。しかし葉子は二十も数を読まないうちに、死んだ者同様に意識なく医員らの目の前に横たわっていたのだ。
四九
手術を受けてから三日を過ぎていた。その間非常に望ましい経過を取っているらしく見えた容態は三日目の夕方から突然激変した。突然の高熱、突然の腹痛、突然の煩悶、それは激しい驟雨が西風に伴われてあらしがかった天気模様になったその夕方の事だった。
その日の朝からなんとなく頭の重かった葉子は、それが天候のためだとばかり思って、しいてそういうふうに自分を説服して、憂慮を抑えつけていると、三時ごろからどんどん熱が上がり出して、それと共に下腹部の疼痛が襲って来た。子宮底穿孔?![#「?!」は横一列] なまじっか医書を読みかじった葉子はすぐそっちに気を回した。気を回してはしいてそれを否定して、一時延ばしに容態の回復を待ちこがれた。それはしかしむだだった。つやがあわてて当直医を呼んで来た時には、葉子はもう生死を忘れて床の上に身を縮み上がらしておいおいと泣いていた。
医員の報告で院長も時を移さずそこに駆けつけた。応急の手あてとして四個の氷嚢が下腹部にあてがわれた。葉子は寝衣がちょっと肌にさわるだけの事にも、生命をひっぱたか[#「ひっぱたか」に傍点]れるような痛みを覚えて思わずきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と絹を裂くような叫び声をたてた。見る見る葉子は一寸の身動きもできないくらい疼痛に痛めつけられていた。
激しい音を立てて戸外では雨の脚が瓦屋根をたたいた。むしむしする昼間の暑さは急に冷え冷えとなって、にわかに暗くなった部屋の中に、雨から逃げ延びて来たらしい蚊がぶーんと長く引いた声を立てて飛び回った。青白い薄闇に包まれて葉子の顔は見る見るくずれて行った。やせ細っていた頬はことさらげっそりとこけて、高々とそびえた鼻筋の両側には、落ちくぼんだ両眼が、中有の中を所きらわずおどおどと何物かをさがし求めるように輝いた。美しい弧を描いて延びていた眉は、めちゃくちゃにゆがんで、眉間の八の字の所に近々と寄り集まった。かさかさにかわききった口びるからは吐く息気ばかりが強く押し出された。そこにはもう女の姿はなかった。得体のわからない動物がもだえもがいているだけだった。
間を置いてはさし込んで来る痛み……鉄の棒をまっ赤に焼いて、それで下腹の中を所きらわずえぐり回すような痛みが来ると、葉子は目も口もできるだけ堅く結んで、息気もつけなくなってしまった。何人そこに人がいるのか、それを見回すだけの気力もなかった。天気なのかあらしなのか、それもわからなかった。稲妻が空を縫って走る時には、それが自分の痛みが形になって現われたように見えた。少し痛みが退くとほっ[#「ほっ」に傍点]と吐息をして、助けを求めるようにそこに付いている医員に目ですがった。痛みさえなおしてくれれば殺されてもいいという心と、とうとう自分に致命的な傷を負わしたと恨む心とが入り乱れて、旋風のようにからだじゅうを通り抜けた。倉地がいてくれたら……木村がいてくれたら……あの親切な木村がいてくれたら……そりゃだめだ。もうだめだ。……だめだ。貞世だって苦しんでいるんだ、こんな事で……痛い痛い痛い……つやはいるのか(葉子は思いきって目を開いた。目の中が痛かった)いる。心配そうな顔をして、……うそだあの顔が何が心配そうな顔なものか……みんな他人だ……なんの縁故もない人たちだ……みんなのんきな顔をして何事もせずにただ見ているんだ……この悩みの百分の一でも知ったら……あ、痛い痛い痛い! 定子……お前はまだどこかに生きているのか、貞世は死んでしまったのだよ、定子……わたしも死ぬんだ死ぬよりも苦しい、この苦しみは……ひどい、これで死なれるものか……こんなにされて死なれるものか……何か……どこか……だれか……助けてくれそうなものだのに……神様! あんまりです……
葉子は身もだえもできない激痛の中で、シーツまでぬれとおるほどな油汗をからだじゅうにかきながら、こんな事をつぎつぎに口走るのだったが、それはもとより言葉にはならなかった。ただ時々痛いというのがむごたらしく聞こえるばかりで、傷ついた牛のように叫ぶほかはなかった。
ひどい吹き降りの中に夜が来た。しかし葉子の容態は険悪になって行くばかりだった。電灯が故障のために来ないので、室内には二本の蝋燭が風にあおられながら、薄暗くともっていた。熱度を計った医員は一度一度そのそばまで行って、目をそばめながら度盛りを見た。
その夜苦しみ通した葉子は明けがた近く少し痛みからのがれる事ができた。シーツを思いきりつかんでいた手を放して、弱々と額の所をなでると、たびたび看護婦がぬぐってくれたのにも係わらず、ぬるぬるするほど手も額も油汗でしとどになっていた。「とても助からない」と葉子は他人事のように思った。そうなってみると、いちばん強い望みはもう一度倉地に会ってただ一目その顔を見たいという事だった。それはしかし望んでもかなえられる事でないのに気づいた。葉子の前には暗いものがあるばかりだった。葉子はほっ[#「ほっ」に傍点]とため息をついた。二十六年間の胸の中の思いを一時に吐き出してしまおうとするように。
やがて葉子はふと[#「ふと」に傍点]思い付いて目でつやを求めた。夜通し看護に余念のなかったつやは目ざとくそれを見て寝床に近づいた。葉子は半分目つきに物をいわせながら、
「枕の下枕の下」
といった。つやが枕の下をさがすとそこから、手術の前の晩につやが書き取った書き物が出て来た。葉子は一生懸命な努力でつやにそれを焼いて捨てろ、今見ている前で焼いて捨てろと命じた。葉子の命令はわかっていながら、つやが躊躇しているのを見ると、葉子はかっ[#「かっ」に傍点]と腹が立って、その怒りに前後を忘れて起き上がろうとした。そのために少しなごんでいた下腹部の痛みが一時に押し寄せて来た。葉子は思わず気を失いそうになって声をあげながら、足を縮めてしまった。けれども一生懸命だった。もう死んだあとにはなんにも残しておきたくない。なんにもいわないで死のう。そういう気持ちばかりが激しく働いていた。
「焼いて」
悶絶するような苦しみの中から、葉子はただ一言これだけを夢中になって叫んだ。つやは医員に促されているらしかったが、やがて一台の蝋燭を葉子の身近に運んで来て、葉子の見ている前でそれを焼き始めた。めら[#「めら」に傍点]めらと紫色の焔が立ち上がるのを葉子は確かに見た。
それを見ると葉子は心からがっかり[#「がっかり」に傍点]してしまった。これで自分の一生はなんにもなくなったと思った。もういい……誤解されたままで、女王は今死んで行く……そう思うとさすがに一抹の哀愁がしみじみと胸をこそいで通った。葉子は涙を感じた。しかし涙は流れて出ないで、目の中が火のように熱くなったばかりだった。
またもひどい疼痛が襲い始めた、葉子は神の締め木にかけられて、自分のからだが見る見るやせて行くのを自分ながら感じた。人々が薄気味わるげに見守っているのにも気がついた。
それでもとうとうその夜も明け離れた。
葉子は精も根も尽き果てようとしているのを感じた。身を切るような痛みさえが時々は遠い事のように感じられ出したのを知った。もう仕残していた事はなかったかと働きの鈍った頭を懸命に働かして考えてみた。その時ふと[#「ふと」に傍点]定子の事が頭に浮かんだ。あの紙を焼いてしまっては木部と定子とがあう機会はないかもしれない。だれかに定子を頼んで……葉子はあわてふためきながらその人を考えた。
内田……そうだ内田に頼もう。葉子はその時不思議ななつかしさ[#「なつかしさ」に傍点]をもって内田の生涯を思いやった。あの偏頗で頑固で意地っぱりな内田の心の奥の奥に小さく潜んでいる澄みとおった魂が始めて見えるような心持ちがした。
葉子はつやに古藤を呼び寄せるように命じた。古藤の兵営にいるのはつやも知っているはずだ。古藤から内田にいってもらったら内田が来てくれないはずはあるまい、内田は古藤を愛しているから。
それから一時間苦しみ続けた後に、古藤の例の軍服姿は葉子の病室に現われた。葉子の依頼をようやく飲みこむと、古藤はいちずな顔に思い入った表情をたたえて、急いで座を立った。
葉子はだれにとも何にともなく息気を引き取る前に内田の来るのを祈った。
しかし小石川に住んでいる内田はなかなかやって来る様子も見せなかった。
「痛い痛い痛い……痛い」
葉子が前後を忘れわれを忘れて、魂をしぼり出すようにこううめく悲しげな叫び声は、大雨のあとの晴れやかな夏の朝の空気をかき乱して、惨ましく聞こえ続けた。
(後編 了)