二三
その夕方倉地がほこりにまぶれ汗にまぶれて紅葉坂をすたすたと登って帰って来るまでも葉子は旅館の閾をまたがずに桜の並み木の下などを徘徊して待っていた。さすがに十一月となると夕暮れを催した空は見る見る薄寒くなって風さえ吹き出している。一日の行楽に遊び疲れたらしい人の群れにまじってふきげんそうに顔をしかめた倉地は真向に坂の頂上を見つめながら近づいて来た。それを見やると葉子は一時に力を回復したようになって、すぐ跳り出して来るいたずら心のままに、一本の桜の木を楯に倉地をやり過ごしておいて、後ろから静かに近づいて手と手とが触れ合わんばかりに押しならんだ。倉地はさすがに不意をくってまじまじと寒さのために少し涙ぐんで見える大きな涼しい葉子の目を見やりながら、「どこからわいて出たんだ」といわんばかりの顔つきをした。一つ船の中に朝となく夜となく一緒になって寝起きしていたものを、きょう始めて半日の余も顔を見合わさずに過ごして来たのが思った以上に物さびしく、同時にこんな所で思いもかけず出あったが予想のほかに満足であったらしい倉地の顔つきを見て取ると、葉子は何もかも忘れてただうれしかった。そのまっ黒によごれた手をいきなり引っつかんで熱い口びるでかみしめて労ってやりたいほどだった。しかし思いのままに寄り添う事すらできない大道であるのをどうしよう。葉子はその切ない心を拗ねて見せるよりほかなかった。
「わたしもうあの宿屋には泊まりませんわ。人をばかにしているんですもの。あなたお帰りになるなら勝手にひとりでいらっしゃい」
「どうして……」
といいながら倉地は当惑したように往来に立ち止まってしげしげと葉子を見なおすようにした。
「これじゃ(といってほこりにまみれた両手をひろげ襟頸を抜き出すように延ばして見せて渋い顔をしながら)どこにも行けやせんわな」
「だからあなたはお帰りなさいましといってるじゃありませんか」
そう冒頭をして葉子は倉地と押し並んでそろそろ歩きながら、女将の仕打ちから、女中のふしだら[#「ふしだら」に傍点]まで尾鰭をつけて讒訴けて、早く双鶴館に移って行きたいとせがみにせがんだ。倉地は何か思案するらしくそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を見い見い耳を傾けていたが、やがて旅館に近くなったころもう一度立ち止まって、
「きょう双鶴館から電話で部屋の都合を知らしてよこす事になっていたがお前聞いたか……(葉子はそういいつけられながら今まですっかり[#「すっかり」に傍点]忘れていたのを思い出して、少しくてれたように首を振った)……ええわ、じゃ電報を打ってから先に行くがいい。わしは荷物をして今夜あとから行くで」
そういわれてみると葉子はまた一人だけ先に行くのがいやでもあった。といって荷物の始末には二人のうちどちらか一人居残らねばならない。
「どうせ二人一緒に汽車に乗るわけにも行くまい」
倉地がこういい足した時葉子は危うく、ではきょうの「報正新報」を見たかといおうとするところだったが、はっ[#「はっ」に傍点]と思い返して喉の所で抑えてしまった。
「なんだ」
倉地は見かけのわりに恐ろしいほど敏捷に働く心で、顔にも現わさない葉子の躊躇を見て取ったらしくこうなじるように尋ねたが、葉子がなんでもないと応えると、少しも拘泥せずに、それ以上問い詰めようとはしなかった。
どうしても旅館に帰るのがいやだったので、非常な物足らなさを感じながら、葉子はそのままそこから倉地に別れる事にした。倉地は力のこもった目で葉子をじっ[#「じっ」に傍点]と見てちょっとうなずくとあとをも見ないでどんどんと旅館のほうに濶歩して行った。葉子は残り惜しくその後ろ姿を見送っていたが、それになんという事もない軽い誇りを感じてかすかにほほえみながら、倉地が登って来た坂道を一人で降りて行った。
停車場に着いたころにはもう瓦斯の灯がそこらにともっていた。葉子は知った人にあうのを極端に恐れ避けながら、汽車の出るすぐ前まで停車場前の茶店の一間に隠れていて一等室に飛び乗った。だだっ広いその客車には外務省の夜会に行くらしい三人の外国人が銘々、デコルテーを着飾った婦人を介抱して乗っているだけだった。いつものとおりその人たちは不思議に人をひきつける葉子の姿に目をそばだてた。けれども葉子はもう左手の小指を器用に折り曲げて、左の鬢のほつれ毛を美しくかき上げるあの嬌態をして見せる気はなくなっていた。室のすみに腰かけて、手携げとパラソルとを膝に引きつけながら、たった一人その部屋の中にいるもののように鷹揚に構えていた。偶然顔を見合わせても、葉子は張りのあるその目を無邪気に(ほんとうにそれは罪を知らない十六七の乙女の目のように無邪気だった)大きく見開いて相手の視線をはにかみもせず迎えるばかりだった。先方の人たちの年齢がどのくらいで容貌がどんなふうだなどという事も葉子は少しも注意してはいなかった。その心の中にはただ倉地の姿ばかりがいろいろに描かれたり消されたりしていた。
列車が新橋に着くと葉子はしとやか[#「しとやか」に傍点]に車を出たが、ちょうどそこに、唐桟に角帯を締めた、箱丁とでもいえばいえそうな、気のきいた若い者が電報を片手に持って、目ざとく葉子に近づいた。それが双鶴館からの出迎えだった。
横浜にも増して見るものにつけて連想の群がり起こる光景、それから来る強い刺激……葉子は宿から回された人力車の上から銀座通りの夜のありさまを見やりながら、危うく幾度も泣き出そうとした。定子の住む同じ土地に帰って来たと思うだけでももう胸はわくわくした。愛子も貞世もどんな恐ろしい期待に震えながら自分の帰るのを待ちわびているだろう。あの叔父叔母がどんな激しい言葉で自分をこの二人の妹に描いて見せているか。構うものか。なんとでもいうがいい。自分はどうあっても二人を自分の手に取り戻してみせる。こうと思い定めた上は指もささせはしないから見ているがいい。……ふと人力車が尾張町のかどを左に曲がると暗い細い通りになった。葉子は目ざす旅館が近づいたのを知った。その旅館というのは、倉地が色ざたでなくひいきにしていた芸者がある財産家に落籍されて開いた店だというので、倉地からあらかじめかけ合っておいたのだった。人力車がその店に近づくに従って葉子はその女将というのにふとした懸念を持ち始めた。未知の女同志が出あう前に感ずる一種の軽い敵愾心が葉子の心をしばらくは余の事柄から切り放した。葉子は車の中で衣紋を気にしたり、束髪の形を直したりした。
昔の煉瓦建てをそのまま改造したと思われる漆喰塗りの頑丈な、角地面の一構えに来て、煌々と明るい入り口の前に車夫が梶棒を降ろすと、そこにはもう二三人の女の人たちが走り出て待ち構えていた。葉子は裾前をかばいながら車から降りて、そこに立ちならんだ人たちの中からすぐ女将を見分ける事ができた。背たけが思いきって低く、顔形も整ってはいないが、三十女らしく分別の備わった、きかん[#「きかん」に傍点]気らしい、垢ぬけのした人がそれに違いないと思った。葉子は思い設けた以上の好意をすぐその人に対して持つ事ができたので、ことさら快い親しみを持ち前の愛嬌に添えながら、挨拶をしようとすると、その人は事もなげにそれをさえぎって、
「いずれ御挨拶は後ほど、さぞお寒うございましてしょう。お二階へどうぞ」
といって自分から先に立った。居合わせた女中たちは目はし[#「はし」に傍点]をきかしていろいろと世話に立った。入り口の突き当たりの壁には大きなぼん[#「ぼん」に傍点]ぼん時計が一つかかっているだけでなんにもなかった。その右手の頑丈な踏み心地のいい階子段をのぼりつめると、他の部屋から廊下で切り放されて、十六畳と八畳と六畳との部屋が鍵形に続いていた。塵一つすえずにきちん[#「きちん」に傍点]と掃除が届いていて、三か所に置かれた鉄びんから立つ湯気で部屋の中は軟らかく暖まっていた。
「お座敷へと申すところですが、御気さくにこちらでおくつろぎくださいまし……三間ともとってはございますが」
そういいながら女将は長火鉢の置いてある六畳の間へと案内した。
そこにすわってひととおりの挨拶を言葉少なに済ますと、女将は葉子の心を知り抜いているように、女中を連れて階下に降りて行ってしまった。葉子はほんとうにしばらくなりとも一人になってみたかったのだった。軽い暖かさを感ずるままに重い縮緬の羽織を脱ぎ捨てて、ありたけの懐中物を帯の間から取り出して見ると、凝りがちな肩も、重苦しく感じた胸もすがすがしくなって、かなり強い疲れを一時に感じながら、猫板の上に肘を持たせて居ずまいをくずしてもたれかかった。古びを帯びた蘆屋釜から鳴りを立てて白く湯気の立つのも、きれいにかきならされた灰の中に、堅そうな桜炭の火が白い被衣の下でほんのり[#「ほんのり」に傍点]と赤らんでいるのも、精巧な用箪笥のはめ込まれた一間の壁に続いた器用な三尺床に、白菊をさした唐津焼きの釣り花活けがあるのも、かすかにたきこめられた沈香のにおいも、目のつんだ杉柾の天井板も、細っそりと磨きのかかった皮付きの柱も、葉子に取っては――重い、硬い、堅い船室からようやく解放されて来た葉子に取ってはなつかしくばかりながめられた。こここそは屈強の避難所だというように葉子はつくづくあたりを見回した。そして部屋のすみにある生漆を塗った桑の広蓋を引き寄せて、それに手携げや懐中物を入れ終わると、飽く事もなくその縁から底にかけての円味を持った微妙な手ざわりを愛で慈しんだ。
場所がらとてそこここからこの界隈に特有な楽器の声が聞こえて来た。天長節であるだけにきょうはことさらそれがにぎやかなのかもしれない。戸外にはぽくり[#「ぽくり」に傍点]やあずま下駄の音が少し冴えて絶えずしていた。着飾った芸者たちがみがき上げた顔をびりびりするような夜寒に惜しげもなく伝法にさらして、さすがに寒気に足を早めながら、招ばれた所に繰り出して行くその様子が、まざまざと履き物の音を聞いたばかりで葉子の想像には描かれるのだった。合い乗りらしい人力車のわだちの音も威勢よく響いて来た。葉子はもう一度これは屈強な避難所に来たものだと思った。この界隈では葉子は眦を反して人から見られる事はあるまい。
珍しくあっさり[#「あっさり」に傍点]した、魚の鮮しい夕食を済ますと葉子は風呂をつかって、思い存分髪を洗った。足しない船の中の淡水では洗っても洗ってもねち[#「ねち」に傍点]ねちと垢の取り切れなかったものが、さわれば手が切れるほどさば[#「さば」に傍点]さばと油が抜けて、葉子は頭の中まで軽くなるように思った。そこに女将も食事を終えて話相手になりに来た。
「たいへんお遅うございますこと、今夜のうちにお帰りになるでしょうか」
そう女将は葉子の思っている事を魁けにいった。「さあ」と葉子もはっきり[#「はっきり」に傍点]しない返事をしたが、小寒くなって来たので浴衣を着かえようとすると、そこに袖だたみにしてある自分の着物につくづく愛想が尽きてしまった。このへんの女中に対してもそんなしつっこい[#「しつっこい」に傍点]けばけばしい柄の着物は二度と着る気にはなれなかった。そうなると葉子はしゃにむにそれがたまらなくなって来るのだ。葉子はうんざり[#「うんざり」に傍点]した様子をして自分の着物から女将に目をやりながら、
「見てくださいこれを。この冬は米国にいるのだとばかり決めていたので、あんなものを作ってみたんですけれども、我慢にももう着ていられなくなりましたわ。後生。あなたの所に何かふだん着のあいたのでもないでしょうか」
「どうしてあなた。わたしはこれでござんすもの」
と女将は剽軽にも気軽くちゃん[#「ちゃん」に傍点]と立ち上がって自分の背たけの低さを見せた。そうして立ったままでしばらく考えていたが、踊りで仕込み抜いたような手つきではた[#「はた」に傍点]と膝の上をたたいて、
「ようございます。わたし一つ倉地さんをびっくら[#「びっくら」に傍点]さして上げますわ。わたしの妹分に当たるのに柄といい年格好といい、失礼ながらあなた様とそっくり[#「そっくり」に傍点]なのがいますから、それのを取り寄せてみましょう。あなた様は洗い髪でいらっしゃるなり……いかが、わたしがすっかり[#「すっかり」に傍点]仕立てて差し上げますわ」
この思い付きは葉子には強い誘惑だった。葉子は一も二もなく勇み立って承知した。
その晩十一時を過ぎたころに、まとめた荷物を人力車四台に積み乗せて、倉地が双鶴館に着いて来た。葉子は女将の入れ知恵でわざと玄関には出迎えなかった。葉子はいたずら者らしくひとり笑いをしながら立て膝をしてみたが、それには自分ながら気がひけたので、右足を左の腿の上に積み乗せるようにしてその足先をとんび[#「とんび」に傍点]にしてすわってみた。ちょうどそこにかなり酔ったらしい様子で、倉地が女将の案内も待たずにずしん[#「ずしん」に傍点]ずしんという足どりではいって来た。葉子と顔を見合わした瞬間には部屋を間違えたと思ったらしく、少しあわてて身を引こうとしたが、すぐ櫛巻きにして黒襟をかけたその女が葉子だったのに気が付くと、いつもの渋いように顔をくずして笑いながら、
「なんだばかをしくさって」
とほざくようにいって、長火鉢の向かい座にどっか[#「どっか」に傍点]とあぐらをかいた。ついて来た女将は立ったまましばらく二人を見くらべていたが、
「ようよう……変てこなお内裏雛様」
と陽気にかけ声をして笑いこけるようにぺちゃん[#「ぺちゃん」に傍点]とそこにすわり込んだ。三人は声を立てて笑った。
と、女将は急にまじめに返って倉地に向かい、
「こちらはきょうの報正新報を……」
といいかけるのを、葉子はすばやく目でさえぎった。女将はあぶない土端場で踏みとどまった。倉地は酔眼を女将に向けながら、
「何」
と尻上がりに問い返した。
「そう早耳を走らすとつんぼと間違えられますとさ」
と女将は事もなげに受け流した。三人はまた声を立てて笑った。
倉地と女将との間に一別以来のうわさ話がしばらくの間取りかわされてから、今度は倉地がまじめになった。そして葉子に向かってぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に、
「お前もう寝ろ」
といった。葉子は倉地と女将とをならべて一目見たばかりで、二人の間の潔白なのを見て取っていたし、自分が寝てあとの相談というても、今度の事件を上手にまとめようというについての相談だという事がのみ込めていたので、素直に立って座をはずした。
中の十畳を隔てた十六畳に二人の寝床は取ってあったが、二人の会話はおりおりかなりはっきり[#「はっきり」に傍点]もれて来た。葉子は別に疑いをかけるというのではなかったが、やはりじっ[#「じっ」に傍点]と耳を傾けないではいられなかった。
何かの話のついでに入用な事が起こったのだろう、倉地はしきりに身のまわりを探って、何かを取り出そうとしている様子だったが、「あいつの手携げに入れたかしらん」という声がしたので葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。あれには「報正新報」の切り抜きが入れてあるのだ。もう飛び出して行ってもおそいと思って葉子は断念していた。やがてはたして二人は切り抜きを見つけ出した様子だった。
「なんだあいつも知っとったのか」
思わず少し高くなった倉地の声がこう聞こえた。
「道理でさっき[#「さっき」に傍点]私がこの事をいいかけるとあの方が目で留めたんですよ。やはり先方でもあなたに知らせまいとして。いじらしいじゃありませんか」
そういう女将の声もした。そして二人はしばらく黙っていた。
葉子は寝床を出てその場に行こうかとも思った。しかし今夜は二人に任せておくほうがいいと思い返してふとんを耳までかぶった。そしてだいぶ夜がふけてから倉地が寝に来るまで快い安眠に前後を忘れていた。