葉子が米国に出発する九月二十五日はあすに迫った。二百二十日の荒れそこねたその年の天気は、いつまでたっても定まらないで、気違い日和ともいうべき照り降りの乱雑な空あいが続き通していた。
葉子はその朝暗いうちに床を離れて、蔵の陰になつた自分の小部屋にはいって、前々から片づけかけていた衣類の始末をし始めた。模様や縞の派手なのは片端からほどいて丸めて、次の妹の愛子にやるようにと片すみに重ねたが、その中には十三になる末の妹の貞世に着せても似合わしそうな大柄なものもあった。葉子は手早くそれをえり分けて見た。そして今度は船に持ち込む四季の晴れ着を、床の間の前にあるまっ黒に古ぼけたトランクの所まで持って行って、ふたをあけようとしたが、ふとそのふたのまん中に書いてあるY・Kという白文字を見て忙しく手を控えた。これはきのう古藤が油絵の具と画筆とを持って来て書いてくれたので、かわききらないテレビンの香がまだかすかに残っていた。古藤は、葉子・早月の頭文字Y・Sと書いてくれと折り入って葉子の頼んだのを笑いながら退けて、葉子・木村の頭文字Y・Kと書く前に、S・Kとある字をナイフの先で丁寧に削ったのだった。S・Kとは木村貞一のイニシャルで、そのトランクは木村の父が欧米を漫遊した時使ったものなのだ。その古い色を見ると、木村の父の太っ腹な鋭い性格と、波瀾の多い生涯の極印がすわっているように見えた。木村はそれを葉子の用にと残して行ったのだった。木村の面影はふと葉子の頭の中を抜けて通った。空想で木村を描く事は、木村と顔を見合わす時ほどの厭わしい思いを葉子に起こさせなかった。黒い髪の毛をぴったり[#「ぴったり」に傍点]ときれいに分けて、怜かしい中高の細面に、健康らしいばら色を帯びた容貌や、甘すぎるくらい人情におぼれやすい殉情的な性格は、葉子に一種のなつかしさをさえ感ぜしめた。しかし実際顔と顔とを向かい合わせると、二人は妙に会話さえはずまなくなるのだった。その怜かしいのがいやだった。柔和なのが気にさわった。殉情的なくせに恐ろしく勘定高いのがたまらなかった。青年らしく土俵ぎわまで踏み込んで事業を楽しむという父に似た性格さえこましゃくれて見えた。ことに東京生まれといってもいいくらい都慣れた言葉や身のこなしの間に、ふと東北の郷土の香いをかぎ出した時にはかんで捨てたいような反感に襲われた。葉子の心は今、おぼろげな回想から、実際膝つき合わせた時にいやだと思った印象に移って行った。そして手に持った晴れ着をトランクに入れるのを控えてしまった。長くなり始めた夜もそのころにはようやく白み始めて、蝋燭の黄色い焔が光の亡骸のように、ゆるぎもせずにともっていた。夜の間静まっていた西風が思い出したように障子にぶつかって、釘店の狭い通りを、河岸で仕出しをした若い者が、大きな掛け声でがらがらと車をひきながら通るのが聞こえ出した。葉子はきょう一日に目まぐるしいほどあるたくさんの用事をちょっと胸の中で数えて見て、大急ぎでそこらを片づけて、錠をおろすものには錠をおろし切って、雨戸を一枚繰って、そこからさし込む光で大きな手文庫からぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]つまった男文字の手紙を引き出すと風呂敷に包み込んだ。そしてそれをかかえて、手燭を吹き消しながら部屋を出ようとすると、廊下に叔母が突っ立っていた。
「もう起きたんですね……片づいたかい」
と挨拶してまだ何かいいたそうであった。両親を失ってからこの叔母夫婦と、六歳になる白痴の一人息子とが移って来て同居する事になったのだ。葉子の母が、どこか重々しくって男々しい風采をしていたのに引きかえ、叔母は髪の毛の薄い、どこまでも貧相に見える女だった。葉子の目はその帯しろ裸な、肉の薄い胸のあたりをちらっ[#「ちらっ」に傍点]とかすめた。
「おやお早うございます……あらかた片づきました」
といってそのまま二階に行こうとすると、叔母は爪にいっぱい垢のたまった両手をもやもやと胸の所でふりながら、さえぎるように立ちはだかって、
「あのお前さんが片づける時にと思っていたんだがね。あすのお見送りに私は着て行くものが無いんだよ。おかあさんのもので間に合うのは無いだろうかしらん。あすだけ借りればあとはちゃんと始末をして置くんだからちょっと見ておくれでないか」
葉子はまたかと思った。働きのない良人に連れ添って、十五年の間丸帯一つ買ってもらえなかった叔母の訓練のない弱い性格が、こうさもしくなるのをあわれまないでもなかったが、物怯じしながら、それでいて、欲にかかるとずうずうしい、人のすきばかりつけねらう仕打ちを見ると、虫唾が走るほど憎かった。しかしこんな思いをするのもきょうだけだと思って部屋の中に案内した。叔母は空々しく気の毒だとかすまないとかいい続けながら錠をおろした箪笥を一々あけさせて、いろいろと勝手に好みをいった末に、りゅう[#「りゅう」に傍点]とした一揃えを借る事にして、それから葉子の衣類までをとやかくいいながら去りがてにいじくり回した。台所からは、みそ汁の香いがして、白痴の子がだらしなく泣き続ける声と、叔父が叔母を呼び立てる声とが、すがすがしい朝の空気を濁すように聞こえて来た。葉子は叔母にいいかげんな返事をしながらその声に耳を傾けていた。そして早月家の最後の離散という事をしみじみと感じたのであった。電話はある銀行の重役をしている親類がいいかげんな口実を作って只持って行ってしまった。父の書斎道具や骨董品は蔵書と一緒に糶売りをされたが、売り上げ代はとうとう葉子の手にははいらなかった。住居は住居で、葉子の洋行後には、両親の死後何かに尽力したという親類の某が、二束三文で譲り受ける事に親族会議で決まってしまった。少しばかりある株券と地所とは愛子と貞世との教育費にあてる名儀で某々が保管する事になった。そんな勝手放題なまねをされるのを葉子は見向きもしないで黙っていた。もし葉子が素直な女だったら、かえって食い残しというほどの遺産はあてがわれていたに違いない。しかし親族会議では葉子を手におえない女だとして、他所に嫁入って行くのをいい事に、遺産の事にはいっさい関係させない相談をしたくらいは葉子はとうに感づいていた。自分の財産となればなるべきものを一部分だけあてがわれて、黙って引っ込んでいる葉子ではなかった。それかといって長女ではあるが、女の身として全財産に対する要求をする事の無益なのも知っていた。で「犬にやるつもりでいよう」と臍を堅めてかかったのだった。今、あとに残ったものは何がある。切り回しよく見かけを派手にしている割合に、不足がちな三人の姉妹の衣類諸道具が少しばかりあるだけだ。それを叔母は容赦もなくそこまで切り込んで来ているのだ。白紙のようなはかない寂しさと、「裸になるならきれいさっぱり[#「さっぱり」に傍点]裸になって見せよう」という火のような反抗心とが、むちゃくちゃに葉子の胸を冷やしたり焼いたりした。葉子はこんな心持ちになって、先ほどの手紙の包みをかかえて立ち上がりながら、うつむいて手ざわりのいい絹物をなで回している叔母を見おろした。
「それじゃわたしまだほかに用がありますししますから錠をおろさずにおきますよ。ごゆっくり御覧なさいまし。そこにかためてあるのはわたしが持って行くんですし、ここにあるのは愛と貞にやるのですから別になすっておいてください」
といい捨てて、ずんずん部屋を出た。往来には砂ほこりが立つらしく風が吹き始めていた。
二階に上がって見ると、父の書斎であった十六畳の隣の六畳に、愛子と貞世とが抱き合って眠っていた。葉子は自分の寝床を手早くたたみながら愛子を呼び起こした。愛子は驚いたように大きな美しい目を開くと半分夢中で飛び起きた。葉子はいきなり[#「いきなり」に傍点]厳重な調子で、
「あなたはあすからわたしの代わりをしないじゃならないんですよ。朝寝坊なんぞしていてどうするの。あなたがぐず[#「ぐず」に傍点]ぐずしていると貞ちゃんがかわいそうですよ。早く身じまいをして下のお掃除でもなさいまし」
とにらみつけた。愛子は羊のように柔和な目をまばゆそうにして、姉をぬすみ見ながら、着物を着かえて下に降りて行った。葉子はなんとなく性の合わないこの妹が、階子段を降りきったのを聞きすまして、そっと貞世のほうに近づいた。面ざしの葉子によく似た十三の少女は、汗じみた顔には下げ髪がねばり付いて、頬は熱でもあるように上気している。それを見ると葉子は骨肉のいとしさに思わずほほえませられて、その寝床にいざり寄って、その童女を羽がいに軽く抱きすくめた。そしてしみじみとその寝顔にながめ入った。貞世の軽い呼吸は軽く葉子の胸に伝わって来た。その呼吸が一つ伝わるたびに、葉子の心は妙にめいって行った。同じ胎を借りてこの世に生まれ出た二人の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、果ては寂しい、ただ寂しい涙がほろほろととめどなく流れ出るのだった。
一家の離散を知らぬ顔で、女の身そらをただひとり米国の果てまでさすらって行くのを葉子は格別なんとも思っていなかった。振り分け髪の時分から、飽くまで意地の強い目はしのきく性質を思うままに増長さして、ぐんぐんと世の中をわき目もふらず押し通して二十五になった今、こんな時にふと過去を振り返って見ると、いつのまにかあたりまえの女の生活をすりぬけて、たった一人見も知らぬ野ずえに立っているような思いをせずにはいられなかった。女学校や音楽学校で、葉子の強い個性に引きつけられて、理想の人ででもあるように近寄って来た少女たちは、葉子におど[#「おど」に傍点]おどしい同性の恋をささげながら、葉子に inspire されて、われ知らず大胆な奔放な振る舞いをするようになった。そのころ「国民文学」や「文学界」に旗挙げをして、新しい思想運動を興そうとした血気なロマンティックな青年たちに、歌の心を授けた女の多くは、おおかた葉子から血脈を引いた少女らであった。倫理学者や、教育家や、家庭の主権者などもそのころから猜疑の目を見張って少女国を監視し出した。葉子の多感な心は、自分でも知らない革命的ともいうべき衝動のためにあてもなく揺ぎ始めた。葉子は他人を笑いながら、そして自分をさげすみながら、まっ暗な大きな力に引きずられて、不思議な道に自覚なく迷い入って、しまいにはまっしぐらに走り出した。だれも葉子の行く道のしるべをする人もなく、他の正しい道を教えてくれる人もなかった。たまたま大きな声で呼び留める人があるかと思えば、裏表の見えすいたぺてん[#「ぺてん」に傍点]にかけて、昔のままの女であらせようとするものばかりだった。葉子はそのころからどこか外国に生まれていればよかったと思うようになった。あの自由らしく見える女の生活、男と立ち並んで自分を立てて行く事のできる女の生活……古い良心が自分の心をさいなむたびに、葉子は外国人の良心というものを見たく思った。葉子は心の奥底でひそかに芸者をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った。こんな心持ちで年を取って行く間に葉子はもちろんなんどもつまずいてころんだ。そしてひとりで膝の塵を払わなければならなかった。こんな生活を続けて二十五になった今、ふと今まで歩いて来た道を振り返って見ると、いっしょに葉子と走っていた少女たちは、とうの昔に尋常な女になり済ましていて、小さく見えるほど遠くのほうから、あわれむようなさげすむような顔つきをして、葉子の姿をながめていた。葉子はもと来た道に引き返す事はもうできなかった。できたところで引き返そうとする気はみじんもなかった。「勝手にするがいい」そう思って葉子はまたわけもなく不思議な暗い力に引っぱられた。こういうはめ[#「はめ」に傍点]になった今、米国にいようが日本にいようが少しばかりの財産があろうが無かろうが、そんな事は些細な話だった。境遇でも変わったら何か起こるかもしれない。元のままかもしれない。勝手になれ。葉子を心の底から動かしそうなものは一つも身近には見当たらなかった。
しかし一つあった。葉子の涙はただわけもなくほろほろと流れた。貞世は何事も知らずに罪なく眠りつづけていた。同じ胎を借りてこの世に生まれ出た二人の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、この子もやがては自分が通って来たような道を歩くのかと思うと、自分をあわれむとも妹をあわれむとも知れない切ない心に先だたれて、思わずぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と貞世を抱きしめながら物をいおうとした。しかし何をいい得ようぞ。喉もふさがってしまっていた。貞世は抱きしめられたので始めて大きく目を開いた。そしてしばらくの間、涙にぬれた姉の顔をまじまじとながめていたが、やがて黙ったまま小さい袖でその涙をぬぐい始めた。葉子の涙は新しくわき返った。貞世は痛ましそうに姉の涙をぬぐいつづけた。そしてしまいにはその袖を自分の顔に押しあてて何か言い言いしゃくり上げながら泣き出してしまった。