海に生くる人々


 船のエンジンはフルスピードをかけていたが、風と浪とで速力がまるで出なかった。未明に出帆しゅっぱんしたのに、夕方になってもまだ津軽つがる海峡沖を抜け切らなかった。

 その夜、高等船員側では室蘭へ引きかえそうかとの相談も行なわれたが、それは実行されるには至らなかった。

 水夫たちは、暴風雪がだんだん猛烈になって来るにつれて、その作業も平常とは趣をことにし初めた。船体は保険マーク以上に沈んでいるので、充分に抵抗的であって、波浪は一つも残らずデッキへと打ち上げた。そしてデッキは一面の海になってしまった。すくい込む水はなかなか小さな排水口から急には出て行かなかった。デッキには、ハッチの上を通るように、ライフライン(命綱)が張られた。いつデッキを通ろうと試みても、そこは外海と何ら異なるところはないからであった。

 浪はその山と山との間に船をはさんでしまう。その谷になった部分が船のヘッドから胴体へ進む時、次の山の部分がヘッドに打ちあたる。鉄製のわが万寿丸も、この苦悶くもんにはえかねて、断末魔の叫びをあげる。ミリミリ、ドタンーとうなる。その谷がやがて、ともへ行くと推進器は空中でから回りをする。推進器は、飛行機のプロペラーのように空中で回転する。凶暴なその船の太さほどの猛獣のようにほえる。特別装置のないどのたなからも、いろんなものが落ちる。ランプのカップからランプが踊り出る、舵機だきは非常にその効力を減じられる。速力は今ではもう推進器の空転の危険から、ほとんど三マイルぐらいに減じられて、ただ船首[2]を風の方向から転換しないようにのみすべての努力を尽くしていた。

 機関室の方も汽罐室きかんしつの方も、非常な困難があった。油差しは、動揺のために、機械と機械との狭い部分に入り込むのに、神秘的な注意を払った。火夫はその汽罐の前で、ショベルを持って、よろけまいとして骨を折った。

 汽罐室のま上のコック場では、コックが、いつも一度でく飯を五度ぐらいに分けて炊かねばならなかったし、お菜も同様な方法にしてなお、汁物は作るわけに行かなかった。

 コロッパス(石炭運び)は、石炭庫の中で、頭じゅうをこぶだらけにするのを、どうしても免れるわけには行かなかった。

 水夫らは、デッキを洗う波浪からダンブル内への浸水をまもるために、ハッチカバー(船艙せんそうのおおい)や、それを押えた金具や、またその上から厳重にロープを通して縛らねばならなかった。それは危険な作業であった。そしてこの危険な作業なしには、この船全体が危険から免れうる方法がなかった。あだかも意地の悪い馬がなれぬ乗り手にするように、船体は猛烈にその背を振った。そしてそのたびに柄杓ひしゃくが水をすくうように、デッキは波浪をすくい込んだ。ロープはぬれて、固くなって操作に非常な困難と遅滞とを招いた。しかしそれは成し遂げなければならない仕事であった。ハッチが水を飲むということは、文句なしに、簡単明瞭めいりょうに船体の沈没を意味するものであった。五人の水夫と、ボースンと、ストキと、大工との八人が総動員で、この仕事を遂げた。

 彼らはそのからだが、そのまま凍るような風の下に、メスのように光る、そして痛い波浪に刺された。そしてそれは、あまり動かない部分をカンカンに凍らせた。

 船体の危険と、船体と共にする自分自身の危険と、そして、てきめんに自分の凍えんとする肉体に対する危険とは、火事が中風ちゅうふうばあさんに、石臼いしうすを屋外までかかえ出させたほどの目ざましい、超人間的な活動を、水夫たちに与えた。そして、船首のハッチ二つは完全にその防備ができ上がった。

 まだ二つのハッチが船尾の方に残っていた。そして、時間は今夕食に迫っていた。水夫たちは、飢えを感じた。けれども、海も飢えを感じて、わが万寿丸をのもうとしているのであった。

 船は絶えずもがき、マストは絶えず悲鳴を上げ、リギンは絶えず恐怖に叫んだ。船首の船底は、波浪と決闘するように打ち合った。船尾ではプロペラーが、その手をくうに振り上げた。

 自然と人力とはその最大の力と、あらゆる知恵とをもって戦闘した。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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