伯爵の釵


「……太夫様……太夫様。」

 と紫玉は、宵闇よいやみの森の下道したみち真暗まっくらな大樹巨木のこずえを仰いだ。……思い掛けず空から呼掛けたように聞えたのである。

「ちょっとあかりを、……」

 玉野がぶら下げた料理屋の提灯ちょうちんを留めさせて、さしかわす枝を透かしつつ、――何事と問う玉江に、

「誰だか呼んだように思うんだがねえ。」

 と言う……お師匠さんが、樹の上をているから、

「まあ、そんなところから。」

「そうだねえ。」

 紫玉は、はじめて納得したらしく、瞳をそらす時、まげに手をって、釵に指を触れた。――指を触れた釵は鸚鵡おうむである。

「これが呼んだのかしら。」

 と微酔ほろよいの目元を花やかに莞爾にっこりすると、

「あら、お嬢様。」

可厭いやですよ。」

 と仰山に二人がおびえた。女弟子の驚いたのなぞは構わないが、読者をおびやかしては不可いけない。滝壷へ投沈めた同じ白金プラチナの釵が、その日のうちに再び紫玉の黒髪に戻った仔細しさいを言おう。

 池で、船の中へ鯉が飛込むと、弟子たちが手をつ、立騒ぐ声が響いて、最初は女中が小船で来た。……島へ渡した細綱を手繰って、立ちながら操るのだが、れたもので、あとを二押三押、屋形船が来ると、由を聞き、うおて、「まあ、」と目を[3]みはったきり、あわただしく引返した。が、もあらせず、今度は印半纏しるしばんてんた若いものに船をらせて、亭主らしい年配としごろ法体ほったいしたのがぎつけて、「これはこれは太夫様。」亭主も逸早いちはやくそれを知っていて、うやうやしく挨拶をした。浴衣の上だけれど、紋の着いた薄羽織をひっかけていたが、さて、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二尺三貫目はかかりましょう。」とて、……及び腰にのぞいて魂消たまげている若衆わかいしゅに目配せでうなずかせて、「かような大魚、しかも出世魚と申す鯉魚りぎょの、お船へ飛込みましたというは、類稀たぐいまれな不思議な祥瑞しょうずい。おめでとう存じまする、皆、太夫様の御人徳。続きましては、手前預りまする池なり、所持の屋形船。烏滸おこがましゅうござりますが、従って手前どもも、太夫様の福分、徳分、未曾有みぞうの御人気の、はや幾分かおこぼれを頂戴いたしたも同じ儀で、かような心嬉しい事はござりませぬ。なおかくの通りの旱魃かんばつ、市内はもとより近郷隣国、ただ炎の中にもだえまする時、希有けうの大魚の躍りましたは、甘露、法雨やがて、禽獣きんじゅう草木そうもくに到るまでも、雨に蘇生よみがえりまする前表かとも存じまする。三宝の利益りやく、四方の大慶。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝いに、この鯉魚こいさかなに、祝うて一献、心ばかりの粗酒を差上げとう存じまする。まず風情はなくとも、あの島影にお船をつなぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋の方へ移しましょう。」で、辞退も会釈もさせず、紋着もんつき法然頭ほうねんあたまは、もう屋形船の方へ腰を据えた。

 若衆に取寄せさせた、調度を控えて、島の柳にもやった頃は、そうでもない、みぎわ人立ひとだちを遮るためと、用意の紫の幕を垂れた。「神慮の鯉魚、等閑なおざりにはいたしますまい。略儀ながら不束ふつつかな田舎料理の庖丁をお目に掛けまする。」と、ひたりと直って真魚箸まなばしを構えた。

 ――釵は鯉の腹を光って出た。――竜宮へ往来した釵の玉の鸚鵡おうむである。

「太夫様――太夫様。」

 ものを言おうも知れない。――

 とばかりで、二声聞いたように思っただけで、何の気勢けはいもしない。

 風もささやかず、公園の暗夜やみよは寂しかった。

「太夫様。」

「太夫様。」

 うっかり釵を、またおさえて、

可厭いやだ、今度はお前さんたちかい。」

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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