「それが貴僧、前刻お話をしかけました、あの手毬の事なんです。」
「ああ、その手毬が、もう一度御覧なさりたいので。」
「いいえ、手毬の歌が聞きたいのです。」
と、うっとりと云った目の涼しさ。月の夢を見るようなれば、変った望み、と疑いの、胸に起る雲消えて、僧は一膝進めたのである。
「大空の雲を当てにいずことなく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿って、国々を歩行きますのも、詮ずる処、ある意味の手毬唄を……」
「手毬唄を。……いかがな次第でございます。」
「夢とも、現とも、幻とも……目に見えるようで、口には謂えぬ――そして、優しい、懐しい、あわれな、情のある、愛の籠った、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、悚然とする、胸を[26]掻※るような、あの、恍惚となるような、まあ例えて言えば、芳しい清らかな乳を含みながら、生れない前に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の――唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬れて、それを聞きたいと思いますんです。」
この数分時の言の中に、小次郎法師は、生れて以来、聞いただけの、風と水と、鐘の音、楽、あらゆる人の声、虫の音、木の葉の囁きまで、稲妻のごとく胸の裡に繰返し、なおかつ覚えただけの経文を、颯と金字紺泥に瞳に描いて試みたが、それかと思うのは更に分らぬ。
「して、その唄は、貴下お聞きになったことがございましょうか。」
「小児の時に、亡くなった母親が唄いましたことを、物心覚えた最後の記憶に留めただけで、どういうのか、その文句を忘れたんです。
年を取るに従うて、まるで貴僧、物語で見る切ない恋のように、その声、その唄が聞きたくッてなりません。
東京のある学校を卒業ますのを待かねて、故郷へ帰って、心当りの人に尋ねましたが、誰のを聞いても、どんなに尋ねても、それと思うのが分らんのです。
第一、母親の姉ですが、私の学資の世話をしてくれます、叔母がそれを知りません。
ト夢のように心着いたのは、同一町に三人あった、同一年ごろの娘です。
と、よく私を遊ばせながら、母も少かった、その娘たちと、毬も突き、追羽子もした事を現のように思出しましたから、それを捜せば、きっと誰か知っているだろう、と気の着いた夜半には、むっくりと起きて、嬉しさに雀躍をしたんですが、貴僧、その中の一人は、まだ母の存命の内に、雛祭の夜なくなりました。それは私も知っている――
一人は行方が知れない、と言います……
やっと一人、これは、県の学校の校長さんの処へ縁づいているという。まず可し、と早速訪ねて参りましたが、町はずれの侍町、小流があって板塀続きの、邸ごとに、むかし植えた紅梅が沢山あります。まだその古樹がちらほら残って、真盛りの、朧月夜の事でした。
今貴僧がここへいらっしゃる玄関前で、紫雲英の草を潜る兎を見たとおっしゃいました、」
「いや、肝心のお話の中へ、お交ぜ下すっては困ります。そうは見えましたものの、まさかかような処へ。あるいはその……猫であったかも知れません。」
「背後が直ぐ山ですから、ちょいちょい見えますそうです、兎でしょう。
が、似た事のありますものです――その時は小狗でした。鈴がついておりましたっけ。白垢の真白なのが、ころころと仰向けに手をじゃれながら足許を転がって行きます。夢のようにそのあとへついて、やがて門札を見ると指した家で。
まさか奥様に、とも言えませんから、主人に逢って、――意中を話しますと――
(夜中何事です。人を馬鹿にした。奥は病気だからお目には懸れません。)
と云って厭な顔をしました。夫人が評判の美人だけに、校長さんは大した嫉妬深いという事で。」









