美人は更めて、
「貴僧、この事を、ただ貴僧の胸ばかりに、よくお留め遊ばして、おっしゃってはなりません。これは露ほども明かさずに、今の処、明さんを、よしなに慰めて上げて下さいまし。
日頃のお苦みに疲れてか、まあ、すやすやとよく寝て、」
と、するすると寄った、姿が崩れて、ハタと両手を畳につくと、麻の薫がはっとして、肩に萌黄の姿つめたく、薄紅が布目を透いて、
「明ちゃん……」
と崩るるごとく、片頬を横に接けんとしたが、屹と立退いて、袖を合せた。
僧を見る目に涙が宿って、
「それではお暇いたしましょう。稚い事を、貴僧にはお恥かしいが、明さんに一式のお愛相に、手毬をついて見せましょう、あの……」
と掛けた声の下。雪洞の真中を、蝶々のように衝と抜けて、切禿で兎の顔した、女の童が、袖に載せて捧げて来た。手毬を取って、美女は、掌の白きが中に、魔界はしかりや、紅梅の大いなる莟と掻撫でながら、袂のさきを白歯で含むと、ふりが、はらりと襷にかかる。
[31]※たけた笑、恍惚して、
「まあ、私ばかり極が悪い、皆さんも来ておつきでないか。」
蚊帳をはらはら取巻いたは、桔梗刈萱、美しや、萩女郎花、優しや、鈴虫、松虫の――声々に、
壁も襖も、もみじした、座敷はさながら手毬の錦――落ちた木の葉も、ぱらぱらと、行燈を繞って操る紅。中を縢って雪の散るのは、幾つとも知れぬ女の手と手。その手先が、心なしにちょいちょい触ると、僧の手首が自然はたはたと躍上った。
と衝と投げ上げて、トンと落して、高くついた。
待てよ。古郷の涅槃会には、膚に抱き、袂に捧げて、町方の娘たち、一人が三ツ二ツ手毬を携え、同じように着飾って、山寺へ来て突競を戯れる習慣がある。少い男は憚って、鐘撞堂から覗きつつその遊戯に見愡れたが……巨刹の黄昏に、大勢の娘の姿が、遥に壁に掛った、極彩色の涅槃の絵と、同一状に、一幅の中へ縮まった景色の時、本堂の背後、位牌堂の暗い畳廊下から、一人水際立った妖艶いのが、突きはせず、手鞠を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔場を隔てた几帳窓の前を通る、と見ると、もう誰の蔭になったか人数に紛れてしまった。それだ、この人は、いや、その時と寸分違わぬ――
と僧は心に――大方明も鐘撞堂から、この状を、今視めている夢であろう。何かの拍子に、その鐘が鳴ると目が覚めよう、と思う内……
身動ぎに、この美女の鬢の後れ毛、さらさらと頬に掛ると、その影やらん薄曇りに、目ぶちのあたりに寂しくなりぬ。
(笄落し小枕落し……)
と綾に取る、と根が揺らいで、さっと黒髪が肩に乱るる。
みだれし風采恥かしや、早これまでと思うらん。落した手毬を、女の童の、拾って抱くのも顧みず、よろよろと立かかった、蚊帳に姿を引寄せられ、褄のこぼれた立姿。
屋の棟熟と打仰いで、
「あれ、あれ、雲が乱るる。――花の中に、母君の胸が揺ぐ。おお、最惜しの御子に、乳飲まそうと思召すか。それとも、私が挙動に、心騒ぎのせらるるか。客僧方には見えまいが、地の底に棲むものは、昼も星の光を仰ぐ。御姿かたちは、よく見えても、かしこは天宮、ここは地獄、言といっては交わされない。
美しき夢見るお方、」
あれ、かしこに母君在ますぞや。愛惜の一念のみは、魔界の塵にも曇りはせねば、我が袖、鏡と御覧ぜよ。今、この瞳に宿れる雫は、母君の御情の露を取次ぎ参らする、乳の滴ぞ、と袂を傾け、差寄せて、差俯き、はらはらと落涙して、
「まあ、稚児の昔にかえって、乳を求めて、……あれ、目を覚す……」
さらば、さらば、御僧。この人夢の覚めぬ間に、と片手をついて、わかれの会釈。
ト玄関から、庭前かけて、わやわやざわざわ、物音、人声。
目を擦り、目を[32]※り、目を拭いいる客僧に立別れて、やがて静々――狗の顔した腰元が、ばたばたと前へ立ち、炎燃ゆ、と緋のちらめく袖口で音なく開けた――雨戸に鏤む星の首途。十四日の月の有明に、片頬を見せた風采は、薄雲の下に朝顔の莟の解けた風情して、うしろ髪、打揺ぎ、一たび蚊帳を振返る。
「やあ、」
と、蚊帳を払って、明が飜然と飛んで縋った。――
袂を支える旅僧と、押揉む二人の目の前へ、この時ずか、と顕われた偉人の姿、靄の中なる林のごとく、黄なる帷子、幕を蔽うて、廂へかけて仁王立、大音に、
「通るぞう。」
と一喝した。
「はっ、」
と云うと、奇異なのは、宵に宰八が一杯――汲んで来て、――縁の端近に置いた手桶が、ひょい、と倒斛斗に引くりかえると、ざぶりと水を溢しながら、アノ手でつかつかと歩行き出した。
その後を水が走って、早や東雲の雲白く、煙のような潦、庭の草を流るる中に、月が沈んで舟となり、舳を颯と乗上げて、白粉の花越しに、すらすらと漕いで通る。大魔の袖や帆となりけん、美女は船の几帳にかくれて、
最切めて懐しく聞ゆ、とすれば、樹立の茂に哄と風、木の葉、緑の瀬を早み……横雲が、あの、横雲が。
明治四十一(一九〇八)年一月








