Title: Maigo
Author: Izumi, Kyoka
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About the original source:
Title: Maigo
Title: Izumi Kyoka shusei 7
Author: Kyoka Izumi
Publisher: Tokyo : Chikuma Shobo , 1995
Publication Note: The copy-text is based on Iwanami`s Kyoka zenshu (Tokyo: Iwanami Shoten, 1940, vol.22).




迷子


 お孝が買物に出掛ける道だ。中里町から寺町へ行かうとする突當の交番に人だかりがして居るので通過ぎてから小戻をして、立停つて、少し離れた處で振返つて見た。

 ちやうど今雨が晴れたんだけれど、蛇の目の傘を半開にして、うつくしい顏をかくして立つて居る。足駄の緒が少し弛んで居るので、足許を氣にして、踏揃へて、袖の下へ風呂敷を入れて、胸をおさへて、顏だけ振向けて見て居るので。大方女の身でそんなもの見るのが氣恥かしいのであらう。

 ことの起原といふのは、醉漢でも、喧嘩でもない、意趣斬でも、竊盜でも、掏賊でもない。六ツばかりの可愛いのが迷兒になつた。

「母樣は何うした、うむ、母樣は、母樣は。」と、見張員が口早に尋ね出した。なきじやくりをしいしい、

「内に居るよ。」

 巡査は交番の戸に凭懸つて、

「お前一人で來たのか、うむ、一人なんか。」

 頷いた。仰向いて頷いた。其膝切しかないものが、突立つてる大の男の顏を見上げるのだもの。仰向いて見ざるを得ないので、然も、一寸位では眼が屆かない。頤をすくつて、身を反して、ふッさりとある髮が帶の結目に觸るまで、いたいけな顏を仰向けた。色の白い、うつくしい兒だけれど、左右とも眼を煩つて居る。細くあいた、瞳が赤くなつて、泣いたので睫毛が濡れてて、まばゆさうな、その容子ッたらない、可憐なんで、お孝は近づいた。

「一體何處の兒でございませう。方角も何も分らなくなつたんだよ。仕樣がないことね、ねえ、お前さん。」

 と長屋ものがいひ出すと、すぐ應じて、

「ちつとも此邊ぢやあ見掛けない兒ですからね、だつて、さう遠方から來るわけはなしさ、誰方か御存じぢやありませんか。」

 誰も知つたものは居ないらしい。

「え、お前、巾着でも着けてありやしないのかね。」

 と一人が踞つて、小さいのが腰を探つたがない。ぼろを着て居る、汚い衣服で、眼垢を、アノせつせと拭くらしい、兩方の袖がひかつてゐた。

「仕樣がないのね、何にもありやしないんですよ。」

 傍に居た肥つたかみさんが大きな聲で、

「馬鹿にしてるよ、こんな兒にお前さん、札をつけとかないつて奴があるもんか。うつかりだよ、眞個にさ。」

 とがむしやらなものいひで、叱りつけたから吃驚して、わツといつて泣き出した。何も叱りつけなくツたつてよささうなもんだけれど、蓋し敢てこの兒を叱つたのではない。可愛さの餘り其不注意なこの兒の親が、恐しくかみさんの癪にさはつたのだ。

「泣くなよ、困つたもんだ。泣くなつたら、可いか、泣いたつて仕樣がない。」

 また一層聲をあげて泣き出した。

 中に居た休息員は帳簿を閉ぢて、筆を片手に持つたまゝで、戸をあけて、

「何處か其處等へ連れて行つて見たらば何うだね。」

「まあ、もうちつと斯うやつとかう、いまに尋ねに來ようと思ふから。」

「それも左樣か。おい、泣かんでも可い、泣かないで、大人しくして居るとな、直ぐ母樣が連れに來るんぢや。」

 またアノ可愛いふりをして、頷いて、其まゝ泣きやんで、ベソを掻いて居る。

 風が吹くたびに、糖雨を吹きつけて、ぞつとするほど寒いので、がた/\ふるへるのを見ると、お孝は堪らなかつた。

 彌次馬なんざ、こんな不景氣な、張合のない處には寄着はしないので、むらがつてるものの多くは皆このあたりの廣場でもつて、びしよ/\雨だから凧を引摺つてた小兒等で。泣くのがおもしろいから「やい、泣いてらい!」なんて、景氣のいゝことをいつて見物して居る。

 子守がまた澤山寄つて居た。其中に年嵩な、上品なのがお守をして六つばかりの女の兒が着附萬端姫樣といはれる格で一人居た。その飼犬ではないらしいが、毛色の好い、耳の垂れた、すらつとしたのが、のつそり、うしろについてたが、皆で、がや/\いつて、迷兒にかゝりあつて、うつかりしてる隙に、房さりと結んでさげた其姫樣の帶を銜へたり、八ツ口をなめたりして、落着いた風でじやれてゐるのを、附添が、つと見つけて、びツくりして、叱! といつて追ひやつた。其は可い、其は可いけれど、犬だ。

 悠々と迷兒のうしろへいつて、震へて居るものを、肩の處ぺろりとなめた。のはうづに大きな犬なので、前足を突張つて立つたから、脊は小ぽけな、いぢけた、寒がりの、ぼろツ兒より高いので、いゝ氣になつて、垢染みた襟の處を赤い舌の長いので、ぺろりとなめて、分つたやうな、心得てゐるやうな顏で、澄した風で、も一つやつた。

 迷兒は悲さが充滿なので、そんなことには氣がつきやしないんだらう、巡査にすかされて、泣いちやあ母樣が來てくれないのとばかり思ひ込んだので、無理に堪へてうしろを振返つて見ようといふ元氣もないが、むず/\するので考へるやうに、小首をふつて、促す處ある如く、はれぼつたい眼で、巡査を見上げた。

 犬はまたなめた。其舌の鹽梅といつたらない、いやにべろ/\して頗るをかしいので、見物が一齊に笑つた。巡査も苦笑をして、

「おい。」とさういつた。

 お孝は堪らなかつた。かはいさうで/\かはいさうでならないのを、他に多勢見て居るものを、女の身で、とさう思つて、うつちやつては行きたくなし、さればツて見ても居られず、ほんとに何うしようかと思つて、はツ/\したんだから、此時もう堪らなくなつたんだ。

 いきなり前へ出て、顏を赤くして、

「私が、あの、さがしますから。」

 と、口の中でいふとすぐ抱いた。下駄の泥が帶にべつたりとついたのも構はないで、抱きあげて、引占めると、肩の處へかじりついた。

 ぐるツと取卷かれて恥しいので、アタフタし、駈け出したい位急足で踏出すと、おもいもの抱いた上に、落着かないからなりふりを失つた。

 穿物の緒が弛んで居たので踏返してばつたり横に轉ぶと姿が亂れる。

 皆で哄と笑つた。お孝は泣き出した。

明治三十年八月



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