Title: Onna kyaku
Author: Izumi, Kyoka
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About the original source:
Title: Onna kyaku
Title: Izumi Kyoka shusei 4
Author: Kyoka Izumi
Publisher: Tokyo : Chikuma Shobo , 1995
Publication Note: The copy-text is based on Iwanami`s Kyoka zenshu vol. 9 (Tokyo: Iwanami Shoten, 1942).




女客



「謹さん、お手紙、」

 と階子段から声を掛けて、二階の六畳へ上り切らず、欄干に白やかな手をかけて、顔を斜に覗きながら、背後向きに机に寄った当家の主人に、一枚を齎らした。

「憚り、」

 と身を横に、蔽うた燈を離れたので、玉ぼやを透かした薄あかりに、くっきり描き出された、上り口の半身は、雲の絶間の青柳見るよう、髪も容もすっきりした中年増。

 これはあるじの国許から、五ツになる男の児を伴うて、この度上京、しばらくここに逗留している、お民といって縁続き、一蒔絵師の女房である。

 階下で添乳をしていたらしい、色はくすんだが艶のある、藍と紺、縦縞の南部の袷、黒繻子の襟のなり、ふっくりとした乳房の線、幅細く寛いで、昼夜帯の暗いのに、緩く纏うた、縮緬の扱帯に蒼味のかかったは、月の影のさしたよう。

 燈火に対して、瞳清しゅう、鼻筋がすっと通り、口許の緊った、痩せぎすな、眉のきりりとした風采に、しどけない態度も目に立たず、繕わぬのが美しい。

「これは憚り、お使い柄恐入ります。」

 と主人は此方に手を伸ばすと、見得もなく、婦人は胸を、はらんばいになるまでに、ずッと出して差置くのを、畳をずらして受取って、火鉢の上でちょっと見たが、端書の用は直ぐに済んだ。

 机の上に差置いて、

「ほんとに御苦労様でした。」

「はいはい、これはまあ、御丁寧な、御挨拶痛み入りますこと。お勝手からこちらまで、随分遠方でござんすからねえ。」

「憚り様ね。」

「ちっとも憚り様なことはありやしません。謹さん、」

「何ね、」

「貴下、その(憚り様ね)を、端書を読む、つなぎに言ってるのね。ほほほほ。」

 謹さんも莞爾して、

「お話しなさい。」

「難有う、」

「さあ、こちらへ。」

「はい、誠にどうも難有う存じます、いいえ、どうぞもう、どうぞ、もう。」

「早速だ、おやおや。」

「大分丁寧でございましょう。」

「そんな皮肉を言わないで、坊やは?」

「寝ました。」

「母は?」

「行火で、」と云って、肱を曲げた、雪なす二の腕、担いだように寝て見せる。

「貴女にあまえているんでしょう。どうして、元気な人ですからね、今時行火をしたり、宵の内から転寝をするような人じゃないの。鉄は居ませんか。」

「女中さんは買物に、お汁の実を仕入れるのですって。それから私がお道楽、翌日は田舎料理を達引こうと思って、ついでにその分も。」

「じゃ階下は寂しいや、お話しなさい。」

 お民はそのまま、すらりと敷居へ、後手を弱腰に、引っかけの端をぎゅうと撫で、軽く衣紋を合わせながら、後姿の襟清く、振返って入ったあと、欄干の前なる障子を閉めた。

「ここが開いていちゃ寒いでしょう。」

「何だかぞくぞくするようね、悪い陽気だ。」

 と火鉢を前へ。

「開ッ放しておくからさ。」

「でもお民さん、貴女が居るのに、そこを閉めておくのは気になります。」

 時に燈に近う来た。瞼に颯と薄紅。





 坐ると炭取を引寄せて、火箸を取って俯向いたが、

「お礼に継いで上げましょうね。」

「どうぞ、願います。」

「まあ、人様のもので、義理をするんだよ、こんな呑気ッちゃありやしない。串戯はよして、謹さん、東京は炭が高いんですってね。」

 主人は大胡座で、落着澄まし、

「吝なことをお言いなさんな、お民さん、阿母は行火だというのに、押入には葛籠へ入って、まだ蚊帳があるという騒ぎだ。」

「何のそれが騒ぎなことがあるもんですか。またいつかのように、夏中蚊帳が無くっては、それこそお家は騒動ですよ。」

「騒動どころか没落だ。いや、弱りましたぜ、一夏は。

 何しろ、家の焼けた年でしょう。あの焼あとというものは、どういうわけだか、恐しく蚊が酷い。まだその騒ぎの無い内、当地で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、夥間と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年火事があったといって、何年にもない、大変な蚊でしたよ。けれども、それは何、少いもの同志だから、萌黄縅の鎧はなくても、夜一夜、戸外を歩行いていたって、それで事は済みました。

 内じゃ、年よりを抱えていましょう。夜が明けても、的はないのに、夜中一時二時までも、友達の許へ、苦い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、阿母さん、蚊が居ますかって聞くんです。

 自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」

 主人は火鉢にかざしながら、

「居ますかもないもんだ。

 ああ、ちっと居るようだの、と何でもないように、言われるんだけれども、なぜ阿母には居るだろうと、口惜いくらいでね。今に工面してやるから可い、蚊の畜生覚えていろと、無念骨髄でしたよ。まだそれよりか、毒虫のぶんぶん矢を射るような烈い中に、疲れて、すやすや、……傍に私の居るのを嬉しそうに、快よさそうに眠られる時は、なお堪らなくって泣きました。」

 聞く方が歎息して、

「だってねえ、よくそれで無事でしたね。」

 顔見られたのが不思議なほどの、懐かしそうな言であった。

「まさか、蚊に喰殺されたという話もない。そんな事より、恐るべきは兵糧でしたな。」

「そうだってねえ。今じゃ笑いばなしになったけれど。」

「余りそうでもありません。しかしまあ、お庇様、どうにか蚊帳もありますから。」

「ほんとに、どんなに辛かったろう、謹さん、貴下。」と優しい顔。

「何、私より阿母ですよ。」

「伯母さんにも聞きました。伯母さんはまた自分の身がかせになって、貴下が肩が抜けないし、そうかといって、修行中で、どう工面の成ろうわけはないのに、一ツ売り二つ売り、一日だてに、段々煙は細くなるし、もう二人が消えるばかりだから、世間体さえ構わないなら、身体一ツないものにして、貴下を自由にしてあげたい、としょっちゅうそう思っていらしったってね。お互に今聞いても、身ぶるいが出るじゃありませんか。」

 と顔を上げて目を合わせる、両人の手は左右から、思わず火鉢を圧えたのである。

「私はまた私で、何です、なまじ薄髯の生えた意気地のない兄哥がついているから起って、相応にどうにか遣繰って行かれるだろう、と思うから、食物の足りぬ阿母を、世間でも黙って見ている。いっそ伜がないものと極ったら、たよる処も何にもない。六十を越した人を、まさか見殺しにはしないだろう。

 やっちまおうかと、日に幾度考えたかね。

 民さんも知っていましょう、あの年は、城の濠で、大層投身者がありました。」

 同一年の、あいやけは、姉さんのような頷き方。

「ああ。」





「確か六七人もあったでしょう。」

 お民は聞いて、火鉢のふちに、算盤を弾くように、指を反らして、

「謹さん、もっとですよ。八月十日の新聞までに、八人だったわ。」

 と仰いで目を細うして言った。幼い時から、記憶の鋭い婦人である。

「じゃ、九人になる処だった。貴女の内へ遊びに行くと、いつも帰りが遅くなって、日が暮れちゃ、あの濠端を通ったんですがね、石垣が蒼く光って、真黒な水の上から、むらむらと白い煙が、こっちに這いかかって来るように見えるじゃありませんか。

 引込まれては大変だと、早足に歩行き出すと、何だかうしろから追い駈けるようだから、一心に遁げ出してさ、坂の上で振返ると、凄いような月で。

 ああ、春の末でした。

 あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。

 自分の影を、死神と間違えるんだもの、御覧なさい、生きている瀬はなかったんですよ。」

「心細いじゃありませんか、ねえ。」

 と寂しそうに打傾く、面に映って、頸をかけ、黒繻子の襟に障子の影、薄ら蒼く見えるまで、戸外は月の冴えたる気勢。カラカラと小刻に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。

「心細いのが通り越して、気が変になっていたんです。

 じゃ、そんな、気味の悪い、物凄い、死神のさそうような、厭な濠端を、何の、お民さん。通らずともの事だけれど、なぜかまた、わざとにも、そこを歩行いて、行過ぎてしまってから、まだ死なないでいるって事を、自分で確めて見たくてならんのでしたよ。

 危険千万。

 だって、今だから話すんだけれど、その蚊帳なしで、蚊が居るッていう始末でしょう。無いものは活計の代という訳で。

 内で熟としていたんじゃ、たとい曳くにしろ、車も曳けない理窟ですから、何がなし、戸外へ出て、足駄穿きで駈け歩行くしだらだけれど、さて出ようとすると、気になるから、上り框へ腰をかけて、片足履物をぶら下げながら、母さん、お米は? ッて聞くんです。」

「お米は? ッてね、謹さん。」

 と、お民はほろりとしたのである。あるじはあえて莞爾やかに、

「恐しいもんだ、その癖両に何升どこは、この節かえって覚えました。その頃は、まったくです、無い事は無いにしろ、幾許するか知らなかった。

 皆、親のお庇だね。

 その阿母が、そうやって、お米は? ッて尋ねると、晩まであるよ、とお言いなさる。

 翌日のが無いと言われるより、どんなに辛かったか知れません。お民さん。」

 と呼びかけて、もとより答を待つにあらず。

「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと坐りたかった。」

「まあ、貴下、大抵じゃなかったのねえ。」

 フトその時、火鉢のふちで指が触れた。右の腕はつけ元まで、二人は、はっと熱かったが、思わず言い合わせたかのごとく、鉄瓶に当って見た。左の手は、ひやりとした。

「謹さん、沸しましょうかね。」と軽くいう。

「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」

「お湯があるかしら。」

 と引っ立てて、蓋を取って、燈の方に傾けながら、

「貴下。ちょいと、その水差しを。お道具は揃ったけれど、何だかこの二階の工合が下宿のようじゃありませんか。」





「それでもね、」

 とあるじは若々しいものいいで、

「お民さんが来てから、何となく勝手が違って、ちょっと他所から帰って来ても、何だか自分の内のようじゃないんですよ。」

「あら、」

 とて清しい目を[1]※り、鉄瓶の下に両手を揃えて、真直に当りながら、

「そんな事を言うもんじゃありません。外へといっては、それこそ田舎の芝居一つ、めったに見に出た事もないのに、はるばる一人旅で逢いに来たんじゃありませんか、酷いよ、謹さんは。」

 と美しく打怨ずる。

「飛んだ事を、ははは。」

 とあるじも火に翳して、

「そんな気でいった、内らしくないではない、その下宿屋らしくないと言ったんですよ。」

「ですからね、早くおもらいなさいまし、悪いことはいいません。どんなに気がついても、しんせつでも、女中じゃ推切って、何かすることが出来ませんからね、どうしても手が届かないがちになるんです。伯母さんも、もう今じゃ、蚊帳よりお嫁が欲いんですよ。」

 あるじは、屹と頭を掉った。

「いいえ、よします。」

「なぜですね、謹さん。」と見上げた目に、あえて疑の色はなく、別に心あって映ったのであった。

「なぜというと議論になります。ただね、私は欲くないんです。

 こういえば、理窟もつけよう、またどうこうというけれどね、年よりのためにも他人の交らない方が気楽で可いかも知れません。お民さん、貴女がこうやって遊びに来てくれたって、知らない婦人が居ようより、阿母と私ばかりの方が、御馳走は届かないにした処で、水入らずで、気が置けなくって可いじゃありませんか。」

「だって、謹さん、私がこうして居いいために、一生貴方、奥さんを持たないでいられますか。それも、五年と十年と、このままで居たいたって、こちらに居られます身体じゃなし、もう二週間の上になったって、五日目ぐらいから、やいやい帰れって、言って来て、三度めに来た手紙なんぞの様子じゃ、良人の方の親類が、ああの、こうのって、面倒だから、それにつけても早々帰れじゃありませんか。また貴下を置いて、他に私の身についた縁者といってはないんですからね。どうせ帰れば近所近辺、一門一類が寄って集って、」

 と婀娜に唇の端を上げると、顰めた眉を掠めて落ちた、鬢の毛を、焦ったそうに、背へ投げて掻上げつつ、

「この髪を[2]※りたくなるような思いをさせられるに極ってるけれど、東京へ来たら、生意気らしい、気の大きくなった上、二寸切られるつもりになって、度胸を極めて、伯母さんには内証ですがね、これでも自分で呆れるほど、了簡が据っていますけれど、だってそうは御厄介になっても居られませんもの。」

「いつまでも居て下さいよ。もう、私は、女房なんぞ持とうより、貴女に遊んでいてもらう方が、どんなに可いから知れやしない。」

 と我儘らしく熱心に言った。

 お民は言を途切らしつ、鉄瓶はやや音に出づる。

「謹さん、」

「ええ、」

 お民は唾をのみ、

「ほんとうですか。」

「ほんとうですとも、まったくですよ。」

「ほんとうに、謹さん。」

「お民さんは、嘘だと思って。」

「じゃもういっそ。」

 と烈しく火箸を灰について、

「帰らないでおきましょうか。」





 我を忘れてお民は一気に、思い切っていいかけた、言の下に、あわれ水ならぬ灰にさえ、かず書くよりも果敢げに、しょんぼり肩を落したが、急に寂しい笑顔を上げた。

「ほほほほほ、その気で沢山御馳走をして下さいまし。お茶ばかりじゃ私は厭。」

 といううち涙さしぐみぬ。

「謹さん、」

 というも曇り声に、

「も、貴下、どうして、そんなに、優くいって下さるんですよ。こうした私じゃありませんか。」

「貴女でなくッて、お民さん、貴女は大恩人なんだもの。」

「ええ? 恩人ですって、私が。」

「貴女が、」

「まあ! 誰方のねえ?」

「私のですとも。」

「どうして、謹さん、私はこんなぞんざいだし、もう十七の年に、何にも知らないで児持になったんですもの。碌に小袖一つ仕立って上げた事はなく、貴下が一生の大切だった、そのお米のなかった時も、煙草も買ってあげないでさ。

 後で聞いて口惜くって、今でも怨んでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの御容子でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、窶れてないで、もっと顔色も可かったもの……」

「それです、それですよ、お民さん。その顔色の可かったのも、元気よく活々していたのだって、貴女、貴女の傍に居る時の他に、そうした事を見た事はありますまい。

 私はもう、影法師が死神に見えた時でも、貴女に逢えば、元気が出て、心が活々したんです。それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。

 ねえ。

 先刻もいう通り、私の死んでしまった方が阿母のために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。

 実際私は、貴女のために活きていたんだ。

 そして、お民さん。」

 あるじが落着いて静にいうのを、お民は激しく聞くのであろう、潔白なるその顔に、湧上るごとき血汐の色。

「切迫詰って、いざ、と首の座に押直る時には、たとい場処が離れていても、きっと貴女の姿が来て、私を助けてくれるッて事を、堅くね、心の底に、確に信仰していたんだね。

 まあ、お民さん許で夜更しして、じゃ、おやすみってお宅を出る。遅い時は寝衣のなりで、寒いのも厭わないで、貴女が自分で送って下さる。

 門を出ると、あの曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、暗の中まで見送ってくれたでしょう。小児が奥で泣いている時でも、雨が降っている時でも、ずッと背中まで外へ出して。

 私はまた、曲り角で、きっと、密と立停まって、しばらく経って、カタリと枢のおりるのを聞いたんです。

 その、帰り途に、濠端を通るんです。枢は下りて、貴女の寝た事は知りながら、今にも濠へ、飛込もうとして、この片足が崖をはずれる、背後でしっかりと引き留めて、何をするの、謹さん、と貴女がきっというと確に思った。

 ですから、死のうと思い、助かりたい、と考えながら、そんな、厭な、恐ろしい濠端を通ったのも、枢をおろして寝なすった、貴女が必ず助けてくれると、それを力にしたんです。お庇で活きていたんですもの、恩人でなくッてさ、貴女は命の親なんですよ。」

 とただ懐かしげに嬉しそうにいう顔を、じっと見る見る、ものをもいわず、お民ははらはらと、薄曇る燈の前に落涙した。

「お民さん、」

「謹さん、」

 とばかり歯をカチリと、堰きあえぬ涙を噛み留めつつ、

「口についていうようでおかしいんですが、私もやっぱり。貴下は、もう、今じゃこんなにおなりですから、私は要らなくなったでしょうが、私は今も、今だって、その時分から、何ですよ、同じなんです、謹さん。慾にも、我慢にも、厭で厭で、厭で厭で死にたくなる時がありますとね、そうすると、貴下が来て、お留めなさると思ってね、それを便りにしていますよ。

 まあ、同じようで不思議だから、これから別れて帰りましたら、私もまた、月夜にお濠端を歩行きましょう。そして貴下、謹さんのお姿が、そこへ出るのを見ましょうよ。」

 と差俯向いた肩が震えた。

 あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、

「飛んだ事を、串戯じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、譲(小児の名)さんをどうします。」

「だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあの児を拵えました。そんな、そんな児を構うものか。」

 とすねたように鋭くいったが、露を湛えた花片を、湯気やなぶると、笑を湛え、

「ようござんすよ。私はお濠を楽みにしますから。でも、こんなじゃ、私の影じゃ、凄い死神なら可いけれど、大方鼬にでも見えるでしょう。」

 と投げたように、片身を畳に、褄も乱れて崩折れた。

 あるじは、ひたと寄せて、押えるように、棄てた女の手を取って、

「お民さん。」

「…………」

「国へ、国へ帰しやしないから。」

「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」

「どうした、どうしたよ。」

 という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。

「煩いねえ!ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」

 とはらりと立って、脛白き、敷居際の立姿。やがてトントンと階下へ下りたが、泣き留まぬ譲を横抱きに、しばらくして品のいい、母親の形で座に返った。燈火の陰に胸の色、雪のごとく清らかに、譲はちゅうちゅうと乳を吸って、片手で縋って泣いじゃくる。

 あるじは、きちんと坐り直って、

「どうしたの、酷く怯えたようだっけ。」

「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」

 と頬に顔をかさぬれば、乳を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、

「鼬が、阿母さん。」

「ええ、」

 二人は顔を見合わせた。

 あるじは、居寄って顔を覗き、ことさらに打笑い、

「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう。」

 小児はなお含んだまま、いたいけに捻向いて、

「ううむ、内じゃないの。お濠ン許で、長い尻尾で、あの、目が光って、私、私を睨んで、恐かったの。」

 と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を埋めた。

 また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。

「おお、そうかい、夢なんですよ。」

「恐かったな、恐かったな、坊や。」

「恐かったね。」

 からからと格子が開いて、

「どうも、おそなわりました。」と勝手でいって、女中が帰る。

「さあ、御馳走だよ。」

 と衝と立ったが、早急だったのと、抱いた重量で、裳を前に、よろよろと、お民は、よろけながら段階子。

「謹さん。」

「…………」

「翌朝のお米は?」

 と艶麗に莞爾して、

「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でした。」

 と下を向いて高く言った。

 その時襖の開く音がして、

「おそなわりました、御新造様。」

 お民は答えず、ほと吐息。円髷艶やかに二三段、片頬を見せて、差覗いて、

「ここは閉めないで行きますよ。」

明治三十八(一九〇五)年六月



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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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