縷紅新草


「おばけの……蜻蛉?……おじさん。」

「何、そんなものの居よう筈はない。」

 とさも落着いたらしく、声を沈めた。その癖、たった今、思わず、「あ!」といったのは誰だろう。

 いま辻町は、蒼然として苔蒸した一基の石碑を片手で抱いて――いや、抱くなどというのは憚かろう――霜より冷くっても、千五百石の女※[10]の、石の躯ともいうべきものに手を添えているのである。ただし、その上に、沈んだ藤色のお米の羽織が袖をすんなりと墓のなりにかかった、が、織だか、地紋だか、影絵のように細い柳の葉に、菊らしいのを薄色に染出したのが、白い山土に敷乱れた、枯草の中に咲残った、一叢の嫁菜の花と、入交ぜに、空を蔽うた雑樹を洩れる日光に、幻の影を籠めた、墓はさながら、梢を落ちた、うらがなしい綺麗な錦紗の燈籠の、うつむき伏した風情がある。

 ここは、切立というほどではないが、巌組みの径が嶮しく、砕いた薬研の底を上る、涸れた滝の痕に似て、草土手の小高い処で、※々[11]と墓が並び、傾き、また倒れたのがある。

 上り切った卵塔の一劃、高い処に、裏山の峯を抽いて繁ったのが、例の高燈籠の大榎で、巌を縫って蟠った根に寄って、先祖代々とともに、お米のお母さんが、ぱっと目を開きそうに眠っている。そこも蔭で、薄暗い。

 それ、持参の昼提灯、土の下からさぞ、半間だと罵倒しようが、白く据って、ぼっと包んだ線香の煙が靡いて、裸蝋燭の灯が、静寂な風に、ちらちらする。

 榎を潜った彼方の崖は、すぐに、大傾斜の窪地になって、山の裙まで、寺の裏庭を取りまわして一谷一面の卵塔である。

 初路の墓は、お京のと相向って、やや斜下、左の草土手の処にあった。

 見たまえ――お米が外套を折畳みにして袖に取って、背後に立添った、前踞みに、辻町は手をその石碑にかけた羽織の、裏の媚かしい中へ、さし入れた。手首に冴えて淡藍が映える。片手には、頑丈な、錆の出た、木鋏を構えている。

 この大剪刀が、もし空の樹の枝へでも引掛っていたのだと、うっかり手にはしなかったろう。孟蘭盆の夜が更けて、燈籠が消えた時のように、羽織で包んだ初路の墓は、あわれにうつくしく、且つあたりを籠めて、陰々として、鬼気が籠るのであったから。

 鋏は落ちていた。これは、寺男の爺やまじりに、三人の日傭取が、ものに驚き、泡を食って、遁出すのに、投出したものであった。

 その次第はこうである。

 はじめ二人は、磴から、山門を入ると、広い山内、鐘楼なし。松を控えた墓地の入口の、鎖さない木戸に近く、八分出来という石の塚を視た。台石に特に意匠はない、つい通りの巌組一丈余りの上に、誂えの枠を置いた。が、あの、くるくると糸を廻す棒は見えぬ。くり抜いた跡はあるから、これには何か考案があるらしい。お米もそれはまだ知らなかった。枠の四つの柄は、その半面に対しても幸に鼎に似ない。鼎に似ると、烹るも烙くも、いずれ繊楚い人のために見る目も忍びないであろう処を、あたかも好、玉を捧ぐる白珊瑚の滑かなる枝に見えた。

「かえりに、ゆっくり拝見しよう。」

 その母親の展墓である。自分からは急がすのをためらった案内者が、

「道が悪いんですから、気をつけてね。」

 わあ、わっ、わっ、わっ、おう、ふうと、鼻呼吸を吹いた面を並べ、手を挙げ、胸を敲き、拳を振りなど、なだれを打ち、足ただらを踏んで、一時に四人、摺違いに木戸口へ、茶色になって湧いて出た。

 その声も跫音も、響くと、もろともに、落ちかかったばかりである。

 不意に打つかりそうなのを、軽く身を抜いて路を避けた、お米の顔に、鼻をまともに突向けた、先頭第一番の爺が、面も、脛も、一縮みの皺の中から、ニンガリと変に笑ったと思うと、

「出ただええ、幽霊だあ。」

 幽霊。

「おッさん、蛇、蝮?」

 お米は――幽霊と聞いたのに――ちょっと眉を顰めて、蛇、蝮を憂慮った。

「そんげえなもんじゃねえだア。」

 いかにも、そんげえなものには怯えまい、面魂、印半纏も交って、布子のどんつく、半股引、空脛が入乱れ、屈竟な日傭取が、早く、糸塚の前を摺抜けて、松の下に、ごしゃごしゃとかたまった中から、寺爺やの白い眉の、びくびくと動くが見えて、

「蜻蛉だあ。」

「幽霊蜻蛉ですだアい。」

 と、冬の麦稈帽を被った、若いのが声を掛けた。

「蜻蛉なら、幽霊だって。」

 お米は、莞爾して坂上りに、衣紋のやや乱れた、浅黄を雪に透く胸を、身繕いもせず、そのまま、見返りもしないで木戸を入った。

 巌は鋭い。踏上る径は嶮しい。が、お米の双の爪さきは、白い蝶々に、おじさんを載せて、高く導く。

「何だい、今のは、あれは。」

「久助って、寺爺やです。卵塔場で働いていて、休みのお茶のついでに、私をからかったんでしょう。子供だと思っている。おじさんがいらっしゃるのに、見さかいがない。馬鹿だよ。」

「若いお前さんと、一緒にからかわれたのは嬉しいがね、威かすにしても、寺で幽霊をいう奴があるものか。それも蜻蛉の幽霊。」

「蛇や、蝮でさえなければ、蜥蜴が化けたって、そんなに可恐いもんですか。」

「居るかい。」

「時々。」

「居るだろうな。」

「でも、この時節。」

「よし、私だって驚かない。しかし、何だろう、ああ、そうか。おはぐろとんぼ、黒とんぼ。また、何とかいったっけ。漆のような真黒な羽のひらひらする、繊く青い、たしか河原蜻蛉とも云ったと思うが、あの事じゃないかね。」

「黒いのは精霊蜻蛉ともいいますわ。幽霊だなんのって、あの爺い。」

 その時であった。

「ああ。」

 と、お米が声を立てると、

「酷いこと、墓を。」

 といった。声とともに、着た羽織をすっと脱いだ、が、紐をどう解いたか、袖をどう、手の菊へ通したか、それは知らない。花野を颯と靡かした、一筋の風が藤色に通るように、早く、その墓を包んだ。

 向う傾けに草へ倒して、ぐるぐる巻というよりは、がんじ搦みに、ひしと荒縄の汚いのを、無残にも。

「初路さんを、――初路さんを。」

 これが女※[12]の碑だったのである。

「茣蓙にも、蓆にも包まないで、まるで裸にして。」

 と気色ばみつつ、且つ恥じたように耳朶を紅くした。

 いうまじき事かも知れぬが、辻町の目にも咄嵯に印したのは同じである。台石から取って覆えした、持扱いの荒くれた爪摺れであろう、青々と苔の蒸したのが、ところどころ※[13]られて、日の隈幽に、石肌の浮いた影を膨らませ、影をまた凹ませて、残酷に搦めた、さながら白身の窶れた女を、反接緊縛したに異ならぬ。

 推察に難くない。いずれかの都合で、新しい糸塚のために、ここの位置を動かして持運ぼうとしたらしい。

 が、心ない仕業をどうする。――お米の羽織に、そうして、墓の姿を隠して好かった。花やかともいえよう、ものに激した挙動の、このしっとりした女房の人柄に似ない捷い仕種の思掛けなさを、辻町は怪しまず、さもありそうな事と思ったのは、お京の娘だからであった。こんな場に出逢っては、きっとおなじはからいをするに疑いない。そのかわり、娘と違い、落着いたもので、澄まして羽織を脱ぎ、背負揚を棄て、悠然と帯を巌に解いて、あらわな長襦袢ばかりになって、小袖ぐるみ墓に着せたに違いない。

 何、夏なら、炎天なら何とする?……と。そういう皮肉な読者には弱る、が、言わねば卑怯らしい、裸体になります、しからずんば、辻町が裸体にされよう。

 ――その墓へはまず詣でた――

 引返して来たのであった。

 辻町の何よりも早くここでしよう心は、立処に縄を切って棄てる事であった。瞬時といえども、人目に曝すに忍びない。行るとなれば手伝おう、お米の手を借りて解きほどきなどするのにも、二人の目さえ当てかねる。

 さしあたり、ことわりもしないで、他の労業を無にするという遠慮だが、その申訳と、渠等を納得させる手段は、酒と餅で、そんなに煩わしい事はない。手で招いても渋面の皺は伸びよう。また厨裡で心太を突くような跳梁権を獲得していた、檀越夫人の嫡女がここに居るのである。

 栗柿を剥く、庖丁、小刀、そんなものを借りるのに手間ひまはかからない。

 大剪刀が、あたかも蝙蝠の骨のように飛んでいた。

 取って構えて、ちと勝手は悪い。が、縄目は見る目に忍びないから、衣を掛けたこのまま、留南奇を燻く、絵で見た伏籠を念じながら、もろ手を、ずかと袖裏へ。驚破、ほんのりと、暖い。芬と薫った、石の肌の軟かさ。

 思わず、

「あ。」

 と声を立てたのであった。

「――おばけの蜻蛉、おじさん。」

「――何そんなものの居よう筈はない。」

 胸傍の小さな痣、この青い蘚、そのお米の乳のあたりへ鋏が響きそうだったからである。辻町は一礼し、墓に向って、屹といった。

「お嬢さん、私の仕業が悪かったら、手を、怪我をおさせなさい。」

 鋏は爽な音を立てた、ちちろも声せず、松風を切ったのである。

「やあ、塗師屋様、――ご新姐。」

 木戸から、寺男の皺面が、墓地下で口をあけて、もう喚き、冷めし草履の馴れたもので、これは磽※[14]たる径は踏まない。草土手を踏んで横ざまに、傍へ来た。

 続いて日傭取が、おなじく木戸口へ、肩を組合って低く出た。

「ごめんなせえましよ、お客様。……ご機嫌よくこうやってござらっしゃる処を見ると、間違えごともなかったの、何も、別条はなかっただね。」

「ところが、おっさん、少々別条があるんですよ。きみたちの仕事を、ちょっと無駄にしたぜ。一杯買おう、これです、ぶつぶつに縄を切払った。」

「はい、これは、はあ、いい事をさっせえて下さりました。」

「何だか、あべこべのような挨拶だな。」

「いんね、全くいい事をなさせえました。」

「いい事をなさいましたじゃないわ、おいたわしいじゃないの、女※[15]さんがさ。」

「ご新姐、それがね、いや、この、からげ縄、畜生。」

 そこで、踞んで、毛虫を踏潰したような爪さきへ近く、切れて落ちた、むすびめの節立った荒縄を手繰棄てに背後へ刎出しながら、きょろきょろと樹の空を見廻した。

 妙なもので、下木戸の日傭取たちも、申合せたように、揃って、踞んで、空を見る目が、皆動く。

「いい塩梅に、幽霊蜻蛉、消えただかな。」

「一体何だね、それは。」

「もの、それがでござりますよ、お客様、この、はい、石塔を動かすにつきましてだ。」

「いずれ、あの糸塚とかいうのについての事だろうが、何かね、掘返してお骨でも。」

「いや、それはなりましねえ。記念碑発起押っぽだての、帽子、靴、洋服、袴、髯の生えた、ご連中さ、そのつもりであったれど、寺の和尚様、承知さっしゃりましねえだ。ものこれ、三十年経ったとこそいえ、若い女※[16]が埋ってるだ。それに、久しい無縁墓だで、ことわりいう檀家もなしの、立合ってくれる人の見分もないで、と一論判あった上で、土には触らねえ事になったでがす。」

「そうあるべき処だよ。」

「ところで、はい、あのさ、石彫の大え糸枠の上へ、がっしりと、立派なお堂を据えて戸をあけたてしますだね、その中へこの……」

 お米は着流しのお太鼓で、まことに優に立っている。

「おお、成仏をさっしゃるずら、しおらしい、嫁菜の花のお羽織きて、霧は紫の雲のようだ、しなしなとしてや。」

 と、苔の生えたような手で撫でた。

「ああ、擽ったい。」

「何でがすい。」

 と、何も知らず、久助は墓の羽織を、もう一撫で。

「この石塔を斎き込むもくろみだ。その堂がもう出来て、切組みも済ましたで、持込んで寸法をきっちり合わす段が、はい、ここはこの通り足場が悪いと、山門内まで運ぶについて、今日さ、この運び手間だよ。肩がわりの念入りで、丸太棒で担ぎ出しますに。――丸太棒めら、丸太棒を押立てて、ごろうじませい、あすこにとぐろを巻いていますだ。あのさきへ矢羽根をつけると、掘立普請の斎が出るだね。へい、墓場の入口だ、地獄の門番……はて、飛んでもねえ、肉親のご新姐ござらっしゃる。」

 と、泥でまぶしそうに、口の端を拳でおさえて、

「――そのさ、担ぎ出しますに、石の直肌に縄を掛けるで、藁なり蓆なりの、花ものの草木を雪囲いにしますだね、あの骨法でなくば悪かんべいと、お客様の前だけんど、わし一応はいうたれども、丸太棒めら。あに、はい、墓さ苞入に及ぶもんか、手間障だ。また誰も見ていねえで、構いごとねえだ、と吐いての。

 和尚様は今日は留守なり、お納所、小僧も、総斎に出さしった。まず大事ねえでの。はい、ぐるぐるまきのがんじがらみ、や、このしょで、転がし出した。それさ、その形でがすよ。わしさ屈腰で、膝はだかって、面を突出す。奴等三方からかぶさりかかって、棒を突挿そうとしたと思わっせえまし。何と、この鼻の先、奴等の目の前へ、縄目へ浮いて、羽さ弾いて、赤蜻蛉が二つ出た。

 たった今や、それまでというものは、四人八ツの、団栗目に、糠虫一疋入らなんだに、かけた縄さ下から潜って石から湧いて出たはどうしたもんだね。やあやあ、しっしっ、吹くやら、払いますやら、静として赤蜻蛉が動かねえとなると、はい、時代違いで、何の気もねえ若い徒も、さてこの働きに掛ってみれば、記念碑糸塚の因縁さ、よく聞いて知ってるもんだで。

 ほれ、のろのろとこっちさ寄って来るだ。あの、さきへ立って、丸太棒をついた、その手拭をだらりと首へかけた、逞い男でがす。奴が、女※[17]の幽霊でねえか。出たッと、また髯どのが叫ぶと、蜻蛉がひらりと動くと、かっと二つ、灸のような炎が立つ。冷い火を汗に浴びると、うら山おろしの風さ真黒に、どっと来た、煙の中を、目が眩んで遁げたでござえますでの。………

 それでがすもの、ご新姐、お客様。」

「それじゃ、私たち差出た事は、叱言なしに済むんだね。」

「ほってもねえ、いい人扶けして下せえましたよ。時に、はい、和尚様帰って、逢わっせえても、万々沙汰なしに頼みますだ。」

 そこへ、丸太棒が、のっそり来た。

「おじい、もういいか、大丈夫かよ。」

「うむ、見せえ、大智識さ五十年の香染の袈裟より利益があっての、その、嫁菜の縮緬の裡で、幽霊はもう消滅だ。」

「幽霊も大袈裟だがよ、悪く、蜻蛉に祟られると、瘧を病むというから可恐えです。縄をかけたら、また祟って出やしねえかな。」

 と不精髯の布子が、ぶつぶついった。

「そういう口で、何で包むもの持って来ねえ。糸塚さ、女※[18]様、素で括ったお祟りだ、これ、敷松葉の数寄屋の庭の牡丹に雪囲いをすると思えさ。」

「よし、おれが行く。」

 と、冬の麦稈帽が出ようとする。

「ああ、ちょっと。」

 袖を開いて、お米が留めて、

「そのまま、その上からお結えなさいな。」

 不精髯が――どこか昔の提灯屋に似ていたが、

「このままでかね、勿体至極もねえ。」

「かまいませんわ。」

「構わねえたって、これ、縛るとなると。」

「うつくしいお方が、見てる前で、むざとなあ。」

 麦藁と、不精髯が目を見合って、半ば呟くがごとくにいう。

「いいんですよ、構いませんから。」

 この時、丸太棒が鉄のように見えた。ぶるぶると腕に力の漲った逞しいのが、

「よし、石も婉軟だろう。きれいなご新姐を抱くと思え。」

 というままに、頸の手拭が真額でピンと反ると、棒をハタと投げ、ずかと諸手を墓にかけた。袖の撓うを胸へ取った、前抱きにぬっと立ち、腰を張って土手を下りた。この方が掛り勝手がいいらしい。巌路へ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に動揺を加れて、大きな蟹が竜宮の女房を胸に抱いて逆落しの滝に乗るように、ずずずずずと下りて行く。

「えらいぞ、権太、怪我をするな。」

 と、髯が小走りに、土手の方から後へ下りる。

「俺だって、出来ねえ事はなかったい、遠慮をした、えい、誰に。」

 と、お米を見返って、ニヤリとして、麦藁が後に続いた。

「頓生菩提。……小川へ流すか、燃しますべい。」

 そういって久助が、掻き集めた縄の屑を、一束ねに握って腰を擡げた時は、三人はもう木戸を出て見えなかったのである。

「久……爺や、爺やさん、羽織はね。式台へほうり込んで置いて可いんですよ。」

 この羽織が、黒塗の華頭窓に掛っていて、その窓際の机に向って、お米は細りと坐っていた。冬の日は釣瓶おとしというより、梢の熟柿を礫に打って、もう暮れて、客殿の広い畳が皆暗い。

 こんなにも、清らかなものかと思う、お米の頸を差覗くようにしながら、盆に渋茶は出したが、火を置かぬ火鉢越しにかの机の上の提灯を視た。

(――この、提灯が出ないと、ご迷惑でも話が済まない――)

 信仰に頒布する、当山、本尊のお札を捧げた三宝を傍に、硯箱を控えて、硯の朱の方に筆を染めつつ、お米は提灯に瞳を凝らして、眉を描くように染めている。

「――きっと思いついた、初路さんの糸塚に手向けて帰ろう。赤蜻蛉――尾を銜えたのを是非頼む。塗師屋さんの内儀でも、女学校の出じゃないか。絵というと面倒だから図画で行くのさ。紅を引いて、二つならべれば、羽子の羽でもいい。胡蘿蔔を繊に松葉をさしても、形は似ます。指で挟んだ唐辛子でも構わない。――」

 と、たそがれの立籠めて一際漆のような板敷を、お米の白い足袋の伝う時、唆かして口説いた。北辰妙見菩薩を拝んで、客殿へ退く間であったが。

 水をたっぷりと注して、ちょっと口で吸って、莟の唇をぽッつり黒く、八枚の羽を薄墨で、しかし丹念にあしらった。瀬戸の水入が渋のついた鯉だったのは、誂えたようである。

「出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。」

「知らない、おっかさんにいいつけて叱らせてあげるから。」

「失礼。」

 と、茶碗が、また、赤絵だったので、思わず失言を詫びつつ、準藤原女史に介添してお掛け申す……羽織を取入れたが、窓あかりに、

「これは、大分うらに青苔がついた。悪いなあ。たたんで持つか。」

 と、持ったのに、それにお米が手を添えて、

「着ますわ。」

「きられるかい、墓のを、そのまま。」

「おかわいそうな方のですもの、これ、荵摺ですよ。」

 その優しさに、思わず胸がときめいて。

「肩をこっちへ。」

「まあ、おじさん。」

「おっかさんの名代だ、娘に着せるのに仔細ない。」

「はい、……どうぞ。」

 くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。

「私、こいしい、おっかさん。」

 前刻から――辻町は、演芸、映画、そんなものの楽屋に縁がある――ほんの少々だけれども、これは筋にして稼げると、潜に悪心の萌したのが、この時、色も、慾も何にもない、しみじみと、いとしくて涙ぐんだ。

「へい。お待遠でござりました。」

 片手に蝋燭を、ちらちら、片手に少しばかり火を入れた十能を持って、婆さんが庫裏から出た。

「糸塚さんへ置いて行きます、あとで気をつけて下さいましよ、烏が火を銜えるといいますから。」

 お米も、式台へもうかかった。

「へい、もう、刻限で、危気はござりましねえ、嘴太烏も、嘴細烏も、千羽ヶ淵の森へ行んで寝ました。」

 大城下は、目の下に、町の燈は、柳にともれ、川に流るる。磴を下へ、谷の暗いように下りた。場末の五燈はまだ来ない。

 あきない帰りの豆府屋が、ぶつかるように、ハタと留った時、

「あれ、蜻蛉が。」

 お米が膝をついて、手を合せた。

 あの墓石を寄せかけた、塚の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉が静と動いて、女の影が……二人見えた。

昭和十四(一九三九)年七月

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