Author: Miyamoto, Yuriko
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About the original source:
Title: Miyamoto Yuriko zenshu dai sankan
Author: Yuriko Miyamoto
Publisher: Tokyo : Shin nihon shuppansha , 1979
Publication Note: The copy-text is based on Miyamoto Yuriko zenshu dai sankan (Tokyo: Kawade Shobo, 1952).
陽子が見つけて貰った貸間は、ふき子の家から大通りへ出て、三町ばかり離れていた。どこの海浜にでも、そこが少し有名な場所なら必ずつきものの、船頭の古手が別荘番の
従妹のふき子がその年は身体を損ね、冬じゅう鎌倉住居であった。二月の或る日、陽子は弟と見舞
「冬の鎌倉、いいわね」
「いいでしょ? いるとすきになるところよ、何だか落つくの」
庭に小松の繁茂した小高い砂丘をとり入れた、いかにも別荘らしい、家具の少ない棲居も陽子には快適そうに思われた。いくら拭いても、砂が入って来て艶の出ないという白っぽい、かさっとした縁側の日向で透きとおる日光を浴びているうちに陽子は、暫らくでもいい、自分もこのような自然の裡で暮したいと思うようになった。オゾーンに充ちた、松
「あああ、私も当分ここででも暮そうかしら」
「いいことよ、のびのびするわそりゃ」
「――部屋貸しをするところあるかしらこの近所に」
ふき子は、びっくりしたように、
「あら本気なの、陽ちゃん」
といった。
「本気になりそうだわ――ある? そんな家……もし本当にさがせば」
「そりゃあってよ、どこだって貸すわ、でも――もし来るんならそんなことしないだって、家へいらっしゃいよ」
「二三日ならいいけど」
「永くたっていいわ、私永いほど結構! ね? 本当に家へいらっしゃいよ、淋しくってまいるんだから」
「いやあね、まだ決りゃしないことよ何ぼ何でも――」
笑い話で、その時は帰ったが、陽子は思い切れず、到頭ふき子に手紙を出した。出入りの俥夫が知り合いで、その家を選定してくれたのであった。
陽子、弟の忠一、ふき子、三日ばかりして、どやどや下見に行った。大通りから一寸入った左側で、
「まだ新しいな」
「へえ、昨年新築致しましたんで、一夏お貸ししただけでございます。手前どもでは、よそのようにどんな方にでもお貸ししたくないもんですから……どうも御病人は、ねえあなた」
筒袖絆纏を着た六十ばかりの神さんが、四畳の方の敷居の外からそのような挨拶をした。陽子は南向きの出窓に腰かけて室内を眺めているふき子に小さい声で、
「プロフェッショナル・バアチャン」
と
陽子は最後に、
「
と念を押した。
「へえ、どうせ
「賄ともで
神さんは
「さあ」
と
「
忠一が、
「それはそうだろう」
といった。
「賄は別の方がいいさ、留守の時だってあるんだから」
「さよです」
「座敷代は、それじゃ源さんがいっていた通りですね」
一畳二円という事なのであった。
「へえ、夏場ですととてもそれでは何でございますが、只今のこってすから……」
彼等はそこを出てから、ぶらぶら歩いて紅葉屋へ紅茶をのみに行った。
「陽ちゃんも、いよいよここの御厄介になるようになっちゃったわね」
ふき子は、どこか亢奮した調子であった。
「――本当にね」
楽しいような、悲しいような心持が、先刻座敷を見ていた時から陽子の胸にあった。
「あの家案外よさそうでよかった。でも、御飯きっとひどいわ、家へいらっしゃいよ、ね」
大理石の
「何平気さ、うんと仕込んどきゃ、あと水一杯ですむよ」
廻すのを止め、一ヵ所を指さした。
「なあに」
覗いて見て、陽子は笑い出した。
「――
「なに? なに?」
ふき子が、従姉の胸の前へ頭を出して、忠一の手にある献立を見たがった。「サンドウィッチ」
すると、彼女は急に厳粛な眼つきをし、
「あら、ここの美味しいのよ」
と真顔でいった。彼等は、往来を見ながらそこの小さい店で紅茶とサンドウィッチを食べた。
陽子が、すっかり荷物を持って鎌倉へ立ったのは、雪が降った次の日であった。春らしい柔かい雪が細い別荘の裏通りを埋め、
「勝手に始末しても悪かろうと思って――私が持って行って上げましょう」
縞の着物を着、小柄で、顔など女のように肉のついた爺は、夜具包みや、本、食品などつめた木箱を、六畳の方へ運び入れてくれた。夫婦揃ったところを見ると、陽子は
始めての経験である間借りの生活に興味を覚えつつ、陽子は部屋を居心地よく
「御免下さい」
婆さんが襖をあけた。
「何にもありませんですがお仕度が出来ました、持って上ってようございますか」
陽子は気をとられていたので、いきなりぼんやりした。
「え?」
「御飯に致しましょうか」
「ああ。どうぞ」
婆さんは引かえして何か持って来た。相当空腹であったが、陽子は何だか婆さんが食事を運んで来る、それを見ておられなかった。一人ぼっちで、食事の時もその部屋を出られず、貧弱そうな食物を運んで貰う――異様に生活の縮小した感じで、陽子は落付きを失った。
「ここへ置きますから、どうぞ上って下さい」
「ええ、ありがと」
婆さんが出てから振返って見ると、朱塗りの丸盆の上に椀と飯茶碗と香物がのせられ、箱火鉢の傍の畳に
陽子はコーンビーフの罐を切りかけた、罐がかたく容易に開かない、木箱の上にのせたり畳の上に下したり、力を入れ己れの食いものの為に骨を折っているうちに陽子は悲しく自分が哀れで涙が出そうになって来た、家庭を失った人間の心の寂寥があたりの夜から迫って来た、陽子は手を止め、今にもふき子のところへ出かけそうになった。が、彼女は、自分を制して到頭罐をあけた。下宿している女学生の夕飯は皆この通りではないか、意気地なし! 三畳から婆さんが、
「いかがです
と声をかけてよこした。陽子は膳の飯を辛うじて流し込んだ。
庭へ廻ると、廊下の隅に吊るした
「!」
思わず一歩退いて、胸を
「陽ちゃんたら」
やっと聞える位の声であった。
「びっくりしたじゃないの。ああ、本当に誰かと思った、いやなひと!」
椅子の上から座布団を下し、縁側に並べた。
「どんな? 工合」
「ゆうべは閉口しちゃった、御飯の時」
「ほーら! いってたの、うちでも岡本さんと。今ごろ陽ちゃんきっとまいっていてよって。少しいい気味だ、うちへ来ない
「今晩から来てよ、あの婆さんなかなか要領がいい。いざとなったら何にもしてくれる気がないらしい」
ふき子は、
「岡本さん」
と、大きな声で呼んだ。
「はい」
「陽ちゃんがいらしたから紅茶入れて頂戴」
「はい」
「ああでしょ? だから私時々堪まらなくなっちゃうの、一日まるっきり口を利かないで御飯をたべることがよくあるのよ」
ふき子はお
「弱いんじゃない?」
「さあ……女中と喧嘩して私帰らしていただきますなんていうの」
岡本が、蒼白い平らな顔に髪を引束ねた姿で紅茶を運んで来た。彼女は、今日特別陰気で、唇をも動かさず口の中で、
「いらっしゃいまし」
と挨拶した。
「岡本さんも一緒に召し上れよ」
「はあ、私あちらでいただきますから」
陽子の部屋に比べると、海岸に近いだけふき子の家は明るく、
段々、陽子は自分の間借りの家でよりふき子のところで時間を潰すことが多くなった。風呂に入りに来たまま泊り、翌日夜になって、翻訳のしかけがある机の前に戻る。そんな日もあった。そこだけ椅子のあるふき子の居間で暮すのだが、彼等は何とまとまった話がある訳でもなかった。ふき子が緑色の籐椅子の中で余念なく細かい手芸をする、間に、
「この辺花なんか育たないのね、山から土を持って来たけれどやっぱり駄目だってよ」
などと話した。
「あ、一寸そこにアール・エ・デコラシオンがあるでしょう? これ、そんなかからとったのよ」
白リネンの小布を持ち上げて、縫かけの
妹の百代、下の悌、忠一、又従兄の篤介、陽子まで加ったのでふき子の居間は満員であった。
陽子の足許の畳の上へ
――静けさ明るさに溶けるように、
「う? う?」
軟かく鼻にかかった百代の声がした。十六の彼女は従兄の忠一の後に大きな元禄紬の片腕を廻し背中に頻りに何か書いた。
「ね? だから」
何々と書くのだろう。忠一はしかつめらしく結んだ口を押しひろげるようにして、うむ、うむ、合点している。篤介がひょいと活動雑誌から頭を
「餌がないのかしら」
ふき子が妹に訊いた。
「百代さん、あなたけさやってくれた?」
百代は聞えないのか返事しなかった。
「よし、僕が見てやる」
篤介が横とびに廊下へ出て行った。
「猫が通ったんだよ」
弾機をひねくりながら悌がもったいぶっていったのが、忽ち、
「何? え、今のなに」
と、機械をすて篤介のところへ立って行った。
「何するんだい、この糸」
「糸じゃないよ」
「糸だい」
「馬の
「ふーむ、本当? どこから持って来たの」
「抜いて来たのさ」
「――嘘いってら! 蹴るよ」
「馬の脚は横へは曲りませんよ。
ふき子が伸びをするように胸を反して椅子から立ちながら、
「みんな紅茶のみたくない?」
「賛成!」
忠一が悲痛らしく眉を
「何にしろ、
といった。
「全くさ」
大きな声で、廊下から篤介が怒鳴った。
「
「でも、本当に、海老なかったのかしら」
小さい声で、思い出したようにふき子がいったので陽子は体をゆすって笑い出した。
彼等は昨夜、二時過ぎまで起きて騒いでいた。十時過ぎ目をさますと、ふき子は、
「岡本さん、おひる、何にしましょう、海老のフライどう?」
話し声が、彼等のいるところまで響いた。
「フライ、フライ!」
悌が最も素直に一同の希望を代表して叫び、彼等は喜色満面で食卓についた。ところが、変な顔をして、ふき子が、
「これ――海老?」
といい出した。
「違うよ、こんな海老あるもんか」
「海老じゃないぞ」
「何だい」
口々の不平を泰然と岡本はちょいと意地悪そうに眉根をぴりりとさせながら、
「生憎海老が切れましたから蝦姑にいたしました」
と答えた。――忠一や篤介と岡本は仲が悪く、彼等は彼女がその部屋におるのに庭を見ながら、
「おい、うらなりだね」
「西瓜糖はとれないってさ」
などといった。無遠慮な口を、岡本はまるで聞えなかったように、
「忠一さま、お茶さし上げましょうか」
と、丁寧な声と眼差しとで手をさし出す。その蒼白い頬に浮かんでいる軽蔑を、陽子は苦しいほど感じて見ることがあった。……
紅茶を運んで来た岡本の後姿が見えなくなると男たちは声を揃えて、
「ワッハッハ」
と笑い出した。さすがに今度は、
「およしなさい」
ふき子にきつく
彼等は皆で海岸へ出た。海浜ホテルの前あたりには大分人影があるが、川から此方はからりとしていた。陽炎で広い浜辺が短くゆれている……。川ふちを、一匹黒い犬が
「あら、一寸こんな虫!」
陽子は、腹這いになっているふき子の目の下を覗いた。茶色の小さい
「ウワーイ」
悌が手脚を一緒くたに振廻してそのあとを追っかけた。けろりとして戻って来ながら、
「とてもすてきだよ」
忠一は篤介にいった。
「やって御覧、海が上の方に見えるよ」
「どーれ」
篤介は徐ろに帽子を耳の上まで引下げ、腕組みをし、重々しく転がって行った。悌が、横になると思うや否や気違いのようにその後を追っかけた。
「ウワーイ」
「ワーイ」
「ウワーイ」
波は細かい砂を打ってその歓声に合わせるようさしては退き、退いてはさし、轟いている。陽子は嬉しいような、何かに誘われるような高揚した心持になって来た。彼女は男たちから少し離れたところへ行って、確り両方の脚を着物の裾で巻きつけた。
「ワーイ」
目を
「さあ、こんどは一列横隊だ。いい? 一、二、三!」
砂を飛ばしてころがるとき、陽子の胸を若々しい歓ばしさと一緒に小さい鋭い悲しさが貫くのであった。転がれ、転がれ、わがからだ! 夫のいない世界まで。悲しみのない処まで!
「ウワーイ!」
犬ころのように、陽子は悌と並んだり、篤介とぶつかったりしながら、小さい悲しみの花火をあげつつ幾度も幾度も春の砂丘を転がり落ちた。