『集団行進』をいただき、大変に興味ふかく、得るところも多く拝見しました。巻頭の序文によると、この集は最近一年間において短歌をつくる労働者作家が非常にふえたことを一つの特徴として示しているとのことです。
この一年と云えば私が不自由な拘禁生活を自身の深い経験の一つとして過した月日であり、その間に外では、短歌の形で自分たちの生活の感情を表現しようとする意志が勤労階級の中から高まって来た月日であったと考えると、私にとってはまことに意味深い示唆が与えられます。この一年間の私たちの生活というものは、歌人でない者にも何かの形でその心持をうたわずにはおれない思いをさせる程のものであったと云うことが出来ましょう。今日の現実は、風流なすさびと思われていた
これらの作品は、非常に複雑で熱い意欲をたくみに圧縮しつつ心を打つ力をもっていると思われますし、別な例では、
など、この前にある二首とともに、そこに集る労働者たちの若さ、肉体の動き、足音、身なり、声々まで想像され、よく生活的に描写されていると感じました。情景のまざまざととらえられ感情化されている作品として、「橋梁架設工事」「生活の脈動」「町工場」「シベッチャの山峡」「下水工事場」「三河島町風景」「無題」などの中に、いくつか印象のつよい作がありました。山田清三郎が獄中からよこす歌には(独房集)何とも云えぬ素直さ、鍛えられた土台の上に安々としている或るユーモアの境地があり、作品に独特なおもむきを与えているではありませんか。
ところで、この『集団行進』をよんでも思うことは、時事問題を芸術として扱うことの必要と同時についておこるその難しさです。ソヴェトの建設について「思想も統制」されることについて、私たちの日常生活は切れない影響をうけているのだから、それらは芸術化されなければならず、更にこういう主題こそ一層の形象化、具体性を必要とすると思われます。詩人の間に諷刺詩の制作の要求がおこっていることは、今日私たちが取りくんでいる社会情勢との関係で謂わば自然な人間的要求の一発露でしょう。詩のジャンルとして諷刺詩というものがあり得るとか、あり得ないとかいう論議より先に、私共は実際生活の場面で
山田あき、田中律子という二人の婦人の作品はそれぞれ注意をひき「
けれども、五十九人の作者、約七百余首の作品が収録されているというこの『集団行進』の中に婦人の作家はたった二人であること。これは、私達によろこびより寧ろ深刻な警告を与える事実であると思います。『主婦之友』、『婦人倶楽部』などの短歌欄に投稿している婦人の数に比べて、この二人という数は何百分の一に当るでしょうか。『集団行進』の中に辛うじて二人の
人間というものは自身の生きている現実からのがれ切れるものではありません。のがれ切れない以上、その現実に腰を据えてそれととり組み、そこに手がかりを見出し、ほんのちょっとでもこの現実をましな方に向けるような意志をもって生きて行く、それが生であり『集団行進』が人間のそのような喜び、悲しみ、憤りを盛っているからこそ、既成の所謂歌壇に対し特異な価値を主張し得るのであると信じます。
〔一九三六年七月〕