秋になると、暫くの間顔も見せなかった豊が、フラリとやって来て、東京へ行って商売をしたいから、金を呉れと、云い出した。
「何? どこさ行ぐ? どこさ行くだ?」
と、幾度も、幾度も訊きなおして、東京ということが自分の空耳でないのを知ると、イレンカトムは、ほんとにまごついてしまった。
あんなに遠い所、あんなに可恐え処、もう生きては戻るまいというようなことを一時に思いながら、彼は、息を殺したような声で、
「豊坊、お前、東京たあ如何な処だか知ってるかあ」
と、息子の顔を覗いた。
「如何な処って、お父。東京だって人間の住んでる処さな」
「戯談るでねえ!」
そう云った限り、イレンカトムは黙り込んでしまった。
胡坐を掻いた細い両脛の間に、体全体を落したように力のない様子をして、枝切れで燻る炉を折々弄っていた彼は、やや暫く経つと、フイと俯いていた首を上げて、
「やめるべし、な豊」
と云った。
肱枕で寝転びながら、プカプカ煙草を烟していた豊は、思わず吐きかけの煙を止めて父親の顔を見たほど、それほどイレンカトムの声は哀っぽかった。まるで半分泣いているような調子である。これには、さすがの豊もちょっと、哀を催したような眼付きをしたが、一つ身動きをすると、もうすっかりそんな陰気な心持を振り落して、前よりも一層陽気な、我儘な言調で、
「俺ら、止めねえよ。もうきめたむん!」
と云い放した。
「東京さ行って、何仕るだ?」
「商売よ」
「商売だて、数多あるむん、何仕るだ?」
「俺ら、知らねえよ。出来るものう仕るだろうさ! 何しろ俺あ行ぐときめただから」
「……」
「……」
「俺あ、金あねえ」
「無えっことあるもんで、お父。僅とばっかし大豆なんか生やしとくよら、この周囲の畑売っ払ったら、好えでねえけえ、
無えなんてこと、あるもんで!」
豊は、炉の中に自暴のように唾をはいた。
「売っ払うだてお父のこったむん、また、父親にすまねすまねで、オ、アラ、エホッ、コバン、だから(心底から売りたくない)俺あ売ってくれべえ。
ふんだら、祖父だてお父を引叱らしねえ。
な、よろしと、そうすべえと!」
息子の大胆な宣言に、動顛したイレンカトムが可いとも悪いとも云う間をあらせず、豊は外へ飛び出した。
口ばかりでなく、彼はもうほんとに今、父親の手で耕している家の周囲、二町半ばかりの畑地を売る決心をしてしまっていた。
彼はもう三月も前から、その畑を売れば八九百円の金は黙っていても入るから、それを持って或る女と一緒にT港に行って、暮してやろうという目算を立てていたのである。
東京へ行くつもりでも何でもない。けれども、それだけの畑地を、握ってはなさない親父の手から※[6]ぎ取る理由に、僅かの強味を加えるために、ただちょっと距離を遠くしたというだけのことなのである。
豊の心持で見れば、T港へ行った処で、どうせ永いことそこで辛棒して身を堅めようというのでもない。
もうかなり永い間同じ狭苦しい町で、同じような人間の顔ばかり見て、同じような道楽をして見たところで始まらない。
処が変れば、また違った面白い目にも会うだろう。
彼の行こうとする第一の動機はただこれ一つなのである。けれども、彼の心持は、単純にそれだけのことを遂行したのでは満足出来ない。
自分の大掛りな快楽を裏付けする何等かの苦痛、何等かの犠牲が捧げられなければ、気がすまない。
気の小さい仲間の者達の、羨望や嫉妬の真只中を、泣き付く父親を片手で振り払い、振り払い、片手に女を引立てて、畑地と引換えに引っ攫って来た金を鳴らしながら、悠然と闊歩してこそ、彼の生甲斐はある。
詰り、彼がイレンカトムの処へ行ったのは、相談ではない。宣告を下しに行ったようなものなのである。彼は、毎日愉快な美くしい顔をして、鼻歌を歌いながら、土地の買いてを探していた。
それは勿論、イレンカトムの持っている土地全部から見れば、二町の畑はそんなに大した部分ではない。
彼はもう年も取って、自分で耕作することはむしろ苦痛なのだから、人に貸すことなら、承知もしただろう。
けれども永久に手離してしまうことは堪らなかった。地の中から生え抜きになっている彼は、何よりも「地」が大切である。が仕方がない。「可愛い豊」のためになら、彼はそれも忍んだろう。しかし! 彼が東京等へ行くことだけは、そりゃあ決してならぬ! 決してならぬ!
自分は、もうこんなに年を取っている。いつ死ぬか解らない。その死目にでも会えないで、彼に譲るべき物を、あらいざらい、どこの馬の骨だか解らない和人[7]達にごちゃまかされたら、一体どう仕様というのだ。東京へだけは行ってくれるな!
豊が、こんなにして、生きているうちから、彼の土地を売ろうと云っているにも拘らず、自分が死ぬとき、彼に財産の譲れないことを恐れているのである。
自分が死ぬとき、財産を譲れないことになりはしまいかという心配に到達すると、イレンカトムの頭は、豊の性格を考えているだけの余裕はない。
彼がどんなに、無雑作な陽気な顔付で、有り限りの土地を売り払うかということは考えない。豊の心にとって、年中黙りこくり、真黒けで世話を焼かなければ薯一つ出さないような地面より、金色や銀色にピカピカと光り、チャラチャラとなり、陽気で賑やかで、その上強い権力を持っている者の方が、どんなに魅力があるかとは考えないのである。
イレンカトムは、泥棒だの人殺しの巣のような処に思える東京へ息子を遣るくらいなら、もっと早いうちに自分が死んででもいた方が、どんなに仕合わせであった[8]ろうとさえ思う。
彼は夜もおちおちとは眠らずに、家の守神を始め天地の神々に祷りを捧げ、新らしいイナオ(木幣)を捧げて、息子の霊に乗り移った悪魔があったら、追い出して下さることを願ったのである。