「ねえお志野さん」
或る夜、房はしみじみと云った。
「――あなた……いつまで今の局にいる積り?」
志野は、罪のない訝しげな表情で房を見た。
「何故?――いきなり……」
「――いい加減にして国へお帰んなさいよ」
「おかしな人!」
志野は、小粒に揃った歯を出して快活に高笑いした。
「どうしたのよ一体――あなた帰りたくなったの?」
「そうじゃあないけど――いつまでいたって同じこっちゃあないの」
「そりゃあそう見たいだけど――変ね、どうしたのよ」
「帰らないんなら引越しましょうよ」
やっと、房の気持がほぼ推察され、志野は落着いた様子になった。
「私、妙な性分だから、あなたが何だか噂にとりまかれて、どっちつかずに貧弱な暮しをしてるのが切なくなって来たわ。――そろそろ本気に考えて、働くなら働く、お嫁にでも行くんならそうと、きっぱりした方が本当に身のためだと思ってよ」
「そうなのよ、そりゃあ私だって考えてるわ」
志野は素直に云った。
「全く私なんか半端で仕様がないのよ、局の給料なんぞ、五年勤めたって、安心して暮すだけはとれないものね――局ばかりじゃあないけどそりゃ。どこだってひどいのよ。この頃女一人が誰にもたよらず遣って行けるだけのものをちゃんとくれるとこなんてありゃしないけど――でも、どんなことしたって国へなんぞ帰るもんですか」
「何故よ」
「国へ帰って御覧なさい、私みたいな貧乏人の娘は、どんなことしたって浜人足の女房が関の山よ。その上、ひょっと、ね、いろんなことでも知れて御覧なさい、もう鼻も引かけられやしないわ。――そんなこと私いや! 東京にいりゃ、ものの分る人が多いし、世間が広いもの――私さえ心掛けをちゃんとしていりゃ、落着くにしろ、浜人足よりゃ増しな人が見つかるまいもんでもなくてよ。――私みたいに生みっぱなしにされた者は、仕合だって苦労して自分で見つけなけりゃならないんだもの――」
「それにはさ、猶まわりをさっぱりしとかなけりゃ――誰だって――」
志野は、うっとり考えていたが、独言のように呟きながら微笑んだ。
「……でも、もう少しだわ……」
「なにが?」
「――……」
志野は首をかしげ、憧れと楽しさとが心一杯という笑顔をした。
「――今にわかるわよ」
土曜日に、房は須田へ遊びに行った。上の娘が、セルロイドのキューピーに着せるものを縫えなどと甘え、房は九時近く帰って来た。店のタタキを入ると、いつになく琴の音がする。扉の外に、黒い鼻緒の男草履が一足脱いであった。房は、外から、
「ただ今」
と声をかけた。
「おかえんなさい」
艶々した志野の声が高く返事した。
「丁度よかったわ」
露台へ向って明いている窓枠に、和服の色白な男が腰かけていた。志野は琴をひかえて、室の真中に坐っている。
「あの――お房さん、さっき話した――この人、大垣さんての。もと局にやっぱり勤めてたんだけど、今会社なの」
「やあどうぞよろしく」
大垣は、重ねていた脚だけ下し、窓枠にかけたまま挨拶した。
「お噂はかねがねきいてました」
志野は、房に訊いた。
「どうだった須田さん面白かって? 丁度あなたとすれ違いよ、大垣さん来たの。ね、そうね」
「ああ。――丁度お出かけだってんでがっかりしていたところです。――どうです近頃は――面白い活動でも御覧でしたか」
志野が引受けて答えた。
「ちっとも行きゃしないわ」
「――じゃあいつか行きましょうか、みんなで。――今週何があるかしら――バレンチノ――荒鷲なんての素敵だったな」
志野が、自分の宝を自慢するように吹聴した。
「純吉さんたら、まるで活動通なのよ、外国俳優の名なんぞすっかり暗記してる位だわ。ね、そうでしょ」
大垣は少し得意そうに、
「いやあ」
と笑った。
「そんなじゃあないさ」
やがて、志野が訊いた。
「ね、お房さん、大垣さん、いくつに見える?」
「さあ――大人ぶっていらっしゃるわね、でもそんなにお志野さんと違わないんでしょう」
「ひゃあ、どうも辛辣だな。いくつに見えます」
「そうね、二十七? 八?――とにかく五以上でしょう」
「うまく当てたわね、七よ。私と四つ違い」
房は何となしひとりでに微笑が唇に浮ぶのを感じた。
大垣は十一時頃までいた。志野は、階子口まで送って戻ると、いきなり房に感想を求めた。
「ね一寸、どう? あの人」
「どうって――こないだうちよくあなた行ったの、あの人んところ?」
志野は、眼に輝きを遺したまま合点した。
「どう思う?」
「何として、どうかっていうの?」
「意地悪!」
二人笑った。
「ね、真面目にさ」
房は、志野がこの間、
「だって――もう、あれなんじゃあない? お互にすっかり定ってるんでしょ?」
志野は案外そうな顔をした。
「分る?――あなたに」
「いやあよ、あんな口利て誰だって……」
「本当?――私もう云っちゃおう! ね、私もう、直きあの人と結婚するのよ、多分」
「――……大丈夫なの、どんな人だか知らないけど」
「局だって皆いい、面白い人だって云ってたわ――そりゃ」
志野はほんの少し
「今はまだ月給だって少しだけど、どうせ私なんぞ、これから共稼ぎでやりあげる人でなくちゃ駄目だもん。――それにね、私ぜひあの人と結婚しなけりゃ困るのよ」
房は、不安を感じて、思わず志野を見た。
「ほらあの――こないだうるさく来た男ね、もと下で働いていたっていう。――若し大垣さんと一緒になれないと、私あの男と夫婦にならなけりゃならないかも知れないんですもの……」
「私、大垣さんとの方が先約だって云って頑張ってるのよ」
次に大垣の処へよって帰って来ると、志野は浮々房に囁いた。
「一寸! 純吉さんたら、あなた、活のいい果物みたいで好きだって云ってたわよ」
「まあ、いやだ」
志野は冗談とも本気ともとれる調子で警告した。
「あなた、あの人が好きにでもなったら、私絶交しちゃうわよ、よくて」
大垣も度々訪ねて来た。彼等は房のいることを忘れたように
「やあ、失敬失敬!」
などと、謝った。
「君も一つ対手をさがし給えよ、どうも、遠慮があって、僕等が困りますよ、ハハハハ」
「本当にそうだわ。ね、あの鈴木さんなんかどうかしら」
「そうさな」
「よかない? お房さん確かりした男らしい人がすきなんだわね、鈴木さん、弓が上手いんですって」
「やめて頂戴よ」
房は片腹痛く苦笑した。
「自分達の都合がわるいからって、無理やり弓の上手な人なんか見つけて来てくれなくたっていいわよ」
「どうも降参だね、お房さんに会っちゃ」
志野が、
「あああ」
と、白い拳で胸をたたきながら云った。
「余り笑ったんですっかり喉がからからんなっちゃった――何か飲みたい」
湯を沸しているうちに、志野は房が買って置いたココアの罐を見つけた。彼女は、露台の流し元から声をかけた。
「お房さん、何にもないから、一寸このココア貸して頂戴な」
志野は、甘い甘いココアを拵えて来た。
「ああ美味しい。どう、もう一杯欲しくない」
「うん、もう少し濃くして」
「あなたは――お房さん」
「もう沢山」
「ああ、こんなものがあった。これも出していい?」
志野は、房の返事を待たず、一つ二つ口に入れながら、房のとって置きの揚げ餅を大垣に接待した。