青年

     十四

 十二月は残り少なになった。前月の中頃から、四十日程の間雨が降ったのを記憶しない。純一は散歩もし飽きて、自然に内にいて本を読んでいる日が多くなる。二三日続くと、頭が重く、気分が悪くなって、食機が振わなくなる。そういう時には、三崎町の町屋が店をしまって、板戸を卸す頃から、急に思い立って、人気のない上野の山を、薩摩下駄をがら附かせて歩いたこともある。

 或るそういう晩の事であった。両大師の横を曲がって石燈籠の沢山並んでいる処を通って、ふと鶯坂の上に出た。丁度青森線の上りの終列車が丘の下を通る時であった。死せる都会のはずれに、吉原の電灯が幻のように、霧の海に漂っている。暫く立って眺めているうちに、公園で十一時の鐘が鳴った。巡査が一人根岸から上がって来て、純一を角灯で照して見て、暫く立ち留まって見ていて、お霊屋の方へ行った。

 純一の視線は根岸の人家の黒い屋根の上を辿っている。坂の両側の灌木と、お霊屋の背後の森とに遮られて、根岸の大部分は見えないのである。

 坂井夫人の家はどの辺だろうと、ふと思った。そして温い血の波が湧き立って、冷たくなっている耳や鼻や、手足の尖までも漲り渡るような心持がした。

 坂井夫人を尋ねてから、もう二十日ばかりになっている。純一は内に据わっていても、外を歩いていても、おりおり空想がその人の俤を想い浮べさせることがある。これまで対象のない係恋に襲われたことのあるに比べて見れば、この空想の戯れは度数も多く光彩も濃いので、純一はこれまで知らなかった苦痛を感ずるのである。

 身の周囲を立ち籠めている霧が、領や袖や口から潜り込むかと思うような晩であるのに、純一の肌は燃えている。恐ろしい「盲目なる策励」が理性の光を覆うて、純一にこんな事を思わせる。これから一走りにあの家へ行って、門のベルを鳴らして見たい。己がこの丘の上に立ってこう思っているように、あの奥さんもほの暗い電燈の下の白いcourte-pointeの中で、己を思っているのではあるまいか。

 純一は忽ち肌の粟立つのを感じた。そしてひどく刹那の妄想を慙じた。

 馬鹿な。己はどこまでおめでたい人間だろう。芝居で只一度逢って、只一度尋ねて行っただけの己ではないか。己が幾人かの中の一人に過ぎないということは、殆ど問うことを須たない。己の方で遠慮をしていれば、向うからは一枚の葉書もよこさない。二十日ばかりの長い間、己は待たない、待ちたくないと思いながら、意志に背いて便を待っていた。そしてそれが徒ら事であったではないか。純一は足元にあった小石を下駄で蹴飛ばした。石は灌木の間を穿って崖の下へ墜ちた。純一はステッキを揮って帰途に就いた。

     *     *     *

 純一が夜上野の山を歩いた翌日は、十二月二十二日であった。朝晴れていた空が、午後は薄曇になっている。読みさした雑誌を置いて、純一は締めた障子を見詰めてぼんやりしている。己はいつかラシイヌを読もうと思っていて、まだ少しも読まないと、ふと思ったのが縁になって、遮り留めようとしている人の俤が意地悪く念頭に浮かんで来る。「いつでも取り換えにいらっしゃいよ。そう申して置きますから、わたくしがいなかったら、ずんずん上がって取り換えていらっしゃって宜しゅうございます」と坂井の奥さんは云った。その権利をこちらではまだ一度も用に立てないでいるのである。葉書でも来はすまいかと、待ちたくないと戒めながら、心の底で待っていたが、あれは顛倒した考えであったかも知れない。おとずれはこちらからすべきである。それをせぬ間、向うで控えているのは、あの奥さんのつつましい、frivoleでないのを証拠立てているのではあるまいか。それともわざと縦って置いて、却って確実に、擒にしようとする手管かも知れない。若しそうなら、その手管がどうやら己の上に功を奏して来そうにも感ぜられる。遠慮深い人でないということは、もう経験していると云っても好い。どうしても器を傾けて飲ませずに、渇したときの一滴に咽を霑させる手段に違いない。純一はこんな事を思っているうちに、空想は次第に放縦になって来るのである。

 この時飛石を踏む静かな音がした。

「いらっしって」女の声である。

 純一ははっと思った。ちゃんと机の前に据わっているのだから、誰に障子を開けられても好いのであるが、思っていた事を気が咎めて、慌てて居住まいを直さなくてはならないように感じた。

「どなたです」と云って、内から障子を開けた。

 にっこり笑って立っているのはお雪さんである。きょうは廂髪の末を、三組のお下げにしている。長い、たっぷりある髪を編まれるだけ編んで、その尖の処に例のクリイム色のリボンを掛けている。黄いろい縞の銘撰の着物が、いつかじゅう着ていたのと、同じか違うか、純一には鑒別が出来ない。只羽織が真紫のお召であるので、いつかのとは違っているということが分かった。

「どうぞお掛けなさい。それとも寒いなら、お上がんなさいまし。お妹御さんが悪かったのですってね。もうお直りになったのですか」純一はお雪さんに物を言うとなると、これまで苦しいのを勉めて言うような感じがしてならなかったのであるが、きょうはなんだかその感じが薄らいだようである。全く無くなってしまいはしないが、薄らいだだけは確かなようである。

「よく御存じね。婆あやがお話ししたのでしょう。腎臓の方はどうせ急には直らないのだということですから、きのう退院して参りましたの。もう十日も前から婆あやにも安にも逢わないもんですから、わたくしはあなたがどっかへ越しておしまいなさりはしないかと思ってよ」こう云いながら、徐かに縁側に腰を掛けた。暫く来なかったので、少し遠慮をするらしく、いつかじゅうよりは行儀が好い。

「なぜそう思ったのです」

「なぜですか」と無意味に云ったが、暫くして「ただそう思ったの」と少しぞんざいに言い足した。

 雲の絶間から、傾き掛かった日がさして、四目垣の向うの檜の影を縁の上に落していたのが、雲が動いたので消えてしまった。

「わたくしこんな事をしていると、あなた風を引いておしまいなさるわ」細い指をちょいと縁に衝いて、立ちそうにする。

「這入ってお締めなさい」

「好くって」返事を待たずに千代田草履を脱ぎ棄てて這入った。

 障子はこの似つかわしい二人を狭い一間に押し籠めて、外界との縁を断ってしまった。しかしこういう事はこれが始めではない。今までも度々あって、その度毎に純一は胸を躍らせたのである。

「画があるでしょう。ちょいと拝見」

 純一と並んで据わって、机の上にあった西洋雑誌をひっくり返して見ている。

 お召の羽織の裾がしっとりしたjet de la draperieをなして、純一が素早く出して薦めた座布団の上に委積わって、その上へたっぷり一握みある濃い褐色のお下げが重げに垂れている。

 頬から、腮から、耳の下を頸に掛けて、障ったら、指に軽い抗抵をなして窪みそうな、※色[21]の肌の見えているのと、ペエジを翻す手の一つ一つの指の節に、抉ったような窪みの附いているのとの上を、純一の不安な目は往反している。

 風景画なんぞは、どんなに美しい色を出して製版してあっても、お雪さんの注意を惹かない。人物に対してでなくては興味を有せないのである。風景画の中の小さい点景人物を指して、「これはどうしているのでしょう」などと問う。そんな風で純一は画解きをさせられている。

 袖と袖と相触れる。何やらの化粧品の香に交って、健康な女の皮膚の※[22]がする。どの画かを見て突然「まあ、綺麗だこと」と云って、仰山に体をゆすった拍子に、腰のあたりが衝突して、純一は鈍い、弾力のある抵抗を感じた。

 それを感ずるや否や、純一は無意識に、殆ど反射的に坐を起って、大分遠くへ押し遣られていた火鉢の傍へ行って、火箸を手に取って、「あ、火が消えそうになった、少しおこしましょうね」と云った。

「わたくしそんなに寒かないわ」極めて穏かな調子である。なぜ純一が坐を移したか、少しも感ぜないと見える。

「こんなに大きな帽子があるでしょうか」と云うのを、火をいじりながら覗いて見れば、雑誌のしまいの方にある婦人服の広告であった。

「そんなのが流行だそうです。こっちへ来ている女にも、もうだいぶ大きいのを被ったのがありますよ」

 お雪さんは雑誌を見てしまった。そして両手で頬杖を衝いて、無遠慮に純一の顔を見ながら云った。

「わたくしあなたにお目に掛かったら、いろんな事をお話ししなくてはならないと思ったのですが、どうしたんでしょう、みんな忘れてしまってよ」

「病院のお話でしょう」

「ええ。それもあってよ」病院の話が始まった。お医者は一週間も二週間も先きの事を言っているのに、妹は這入った日から、毎日内へ帰ることばかし云っているのである。一日毎に新しく望を属して、一日毎にその望が空しくなるのである。それが可哀そうでならなかったと、お雪さんはさも深く感じたらしく話した。それから見舞に行って帰りそうにすると泣くので、とうとう寐入るまでいたことやら、妹がなぜ直ぐに馴染んだかと不思議に思った看護婦が、やはり長く附き合って見たら、一番好い人であったことやら、なんとか云う太ったお医者が廻診の時にお雪さんが居合わすと、きっと頬っぺたを衝っ衝いたことやら、純一はいろいろな事を聞せられた。

 話を聞きながら、純一はお雪さんの顔を見ている。譬えば微かな風が径尺の水盤の上を渡るように、この愛くるしい顔には、絶間なく小さい表情の波が立っている。お雪さんの遊びに来たことは、これまで何度だか知らないが、純一はいつもこの娘の顔を見るよりは、却ってこの娘に顔を見られていた。それがきょう始て向うの顔をつくづく見ているのである。

 そして純一はこう云うことに気が附いた。お雪さんは自分を見られることを意識しているということに気が附いた。それは当り前の事であるのに、純一の為めには、そう思った刹那に、大いなる発見をしたように感ぜられたのである。なぜかというに、この娘が人の見るに任す心持は、同時に人の為すに任す心持だと思ったからである。人の為すに任すと云っては、まだ十分でない、人の為すを待つ、人の為すを促すと云っても好さそうである。しかし我一歩を進めたら、彼一歩を迎えるだろうか。それとも一歩を退くだろうか。それとも守勢を取って踏み応えるであろうか。それは我には分からない。又多分彼にも分からないのであろう。とにかく彼には強い智識欲がある。それが彼をして待つような促すような態度に出でしむるのである。

 純一はこう思うと同時に、この娘を或る破砕し易い物、こわれ物、危殆なる物として、これに保護を加えなくてはならないように感じた。今の自分の位置にいるものが自分でなかったら、お雪さんの危いことは実に甚だしいと思ったのである。そしてお雪さんがこの間に這入った時から、自分の身の内に漂っていた、不安なような、衝動的なような感じが、払い尽されたように消え失せてしまった。

 火鉢の灰を掻きならしている純一が、こんな風に頓に感じた冷却は、不思議にもお雪さんに通じた。夢の中でする事が、抑制を受けない為めに、自在を得ているようなものである。そして素直な娘の事であるから、残惜しいという感じに継いで、すぐに諦めの感じが起る。

「またこん度遊びに来ましょうね」何か悪い事でもしたのをあやまるように云って、坐を立った。

「ええ。お出なさいよ」純一は償わずに置く負債があるような心持をして、常よりは優しい声で云って、重たげに揺らぐお下げの後姿を見送っていた。

 この日の夕方であった。純一は忙しげに支度をして初音町の家を出た。出る前にはなぜだか暫く鏡を見ていた。そして出る時手にラシイヌの文集を持っていた。

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Last Modified:Thursday, February 13, 2025
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