翌朝純一は十分に眠った健康な体の好い心持で目を醒ました。只咽に痰が詰まっているようなので咳払を二つ三して見て風を引いたかなと思った。しかしそれは前晩に酒を飲んだ為めであったと見えて漱いをして顔を洗ってしまうと、さっぱりした。
机の前に据わって、いつの間にか火の入れてある火鉢に手を翳したとき、純一は忽ち何事をか思い出して、「あ、今日だったな」と心の中につぶやいた。丁度学校にいた頃、朝起きて何曜日だということを考えて、それと同時にその日の時間表を思い出したような工合である。
純一が思い出したのは、坂井の奥さんが箱根へ行く日だということであった。誘われた通りに、跡から行こうと、はっきり考えているのではない。それが何より先きに思い出されたのは、奥さんに軽い程度のsuggestionを受けているからである。一体夫人の言語や挙動にはsuggestifな処があって、夫人は半ば無意識にそれを利用して、寧ろ悪用して、人の意志を左右しようとする傾きがある。若し催眠術者になったら、大いに成功する人かも知れない。
坂井の奥さんが箱根へ行く日だと思った跡で、純一の写象は暗中の飛躍をして、妙な記憶を喚び起した。それは昨夜夜明け近くなって見た夢の事である。その夢を見掛けて、ちょいと驚いて目を醒まして、直ぐに又寐てしまったが、それからは余り長く寐たらしくはない。どうしても夜明け近くなってからである。
なんでも大村と一しょに旅行をしていて、どこかの茶店に休んでいた。大宮で休んだような、人のいない葭簀張りではない。茶を飲んで、まずい菓子麪包か何か食っている。季節は好く分からないが、目に映ずるものは暖い調子の色に飽いている。薄曇りのしている日の午後である。大村と何か話して笑っていると、外から「海嘯が来ます」と叫んだ女がある。自分が先きに起って往来に出て見た。
広い畑と畑との間を、真直に長く通っている街道である。左右には溝があって、その縁には榛の木のひょろひょろしたのが列をなしている。女の「あれ、あそこに」という方角を見たが、灰色の空の下に別に灰色の一線が劃せられているようなだけで、それが水だとはっきりは見分けられない。その癖純一の胸には劇しい恐怖が湧く。そこへ出て来た大村を顧みて、「山の近いのはどっちだろう」と問う。大村は黙っている。どっちを見ても、山らしい山は見えない。只水の来るという方角と反対の方角に、余り高くもない丘陵が見える。純一はそれを目掛けて駈け出した。広い広い畑を横に、足に任せて駈けるのである。
折々振り返って見るに、大村はやはり元の街道に動かずに立っている。女はいない。夢では人物の経済が自由に行われる。純一は女がいなくなったとも思わないから、なぜいないかと怪しみもしない。
忽ちscene[40]が改まった。場所の変化も夢では自由である。純一は水が踵に迫って来るのを感ずると共に、傍に立っている大きな木に攀じ登った。何の木か純一には分からないが広い緑色の葉の茂った木である。登り登って、扉のように開いている枝に手が届いた。身をその枝の上に撥ね上げて見ると、同じ枝の上に、自分より先きに避難している人がある。所々に白い反射のある緑の葉に埋もれて、長い髪も乱れ、袂も裾も乱れた女がいるのである。
黄いろい水がもう一面に漲って来た。その中に、この一本の木が離れ小島のように抜き出でている。滅びた世界に、新に生れて来たAdamとEvaとのように梢を掴む片手に身を支えながら、二人は遠慮なく近寄った。
純一は相触れんとするまでに迫まり近づいた、知らぬ女の顔の、忽ちおちゃらになったのを、少しも不思議とは思わない。馴馴しい表情と切れ切れの詞とが交わされるうちに、女はいつか坂井の奥さんになっている。純一が危い体を支えていようとする努力と、僅かに二人の間に存している距離を縮めようと思う慾望とに悩まされているうちに、女の顔はいつかお雪さんになっている。
純一がはっと思って、半醒覚の状態に復ったのはこの一刹那の事であった。誰やらの書いたものに、人は夢の中ではどんな禽獣のような行いをも敢てして恬然としているもので、それは道徳という約束の世間にまだ生じていない太古に復るAtavismeだと云うことがあった。これは随分思い切った推理である。しかしその是非はとにかく措いて、純一はそんなAtavismeには陥らなかった。或は夢が醒め際になっていて、醒めた意識の幾分が働いていたのかも知れない。
半醒覚の純一が体には慾望の火が燃えていた。そして踏み脱いでいた布団を、又領元まで引き寄せて、腮を埋めるようにして、又寐入る刹那には、朧げな意識の上に、見果てぬ夢の名残を惜む情が漂っていた。しかしそれからは、短い深い眠に入ったらしい。
純一が写象は、人間の思量の無碍の速度を以て、ほんの束の間に、長い夢を繰り返して見た。そして、それを繰り返して見ている間は、その輪廓や色彩のはっきりしていて、手で掴まれるように感ぜられるのに打たれて、ふとあんな工合に物が書かれたら好かろうと思った。そう思って、又繰り返して見ようとすると、もう輪廓は崩れ色彩は褪せてしまって、不自然な事やら不合理な事やらが、道の小石に足の躓くように、際立って感ぜられた。